好きな男の人のタイプは強い人―― そんな風に思っている女の子は、いったいどれくらいいるんだろう。 なんのソースも出せないただの主観で語ることを許してもらえるなら、おそらく七割。もしくは八割。いいや九割を超える率で皆が思っているんじゃないかというのが私の考え。 それについて、きっと反論はあるだろう。強さなんか気にしていない。優しい人、面白い人、一緒にいてほっとする人……そういった資質のほうがずっと大事だという〈女〉《ひと》たちも、間違いなくたくさんいるに違いない。 それはいいし、否定できないことだと思う。優しさも面白さも安心感も、単に外見が格好いいということさえも、人が人を好きになるには重要なファクターだ。 だけど、ここで少し考え方を変えてみる。 どういう人を好むかではなく、どういう人を好まないか。 これもまた、いくらだって答えが出てくるだろうけど、まず一つ問わせてほしい。 ねえみんな、弱い人って有り? 人生は戦いだというフレーズに倣うなら、そこで生き、戦う力が自分より明らかに劣っている男の人を好きになる? 答えは〈否〉《ノー》。どれだけ時代が進み、どれだけ価値観が多様化しても、それだけは変わらない女の真実。 今は女が強い時代。君はとても強い女。ええそうね、言われて悪い気は確かに全然しないけど、だからといって自分が男性の役に取って代わろうなんて思わない。 私は女。女は女。強い人、頼りになる人、自分や子供を守ってくれる雄々しい男性を望んでいる。 それが本能。雌性の性、だから―― 私が〈女〉《そう》であるように、彼もまた〈男〉《そう》であるはずだという当たり前のことを、なぜ慮ることが出来なかったのか。 強い人が好きだと私は言う。簡単に、自分勝手に、女の頭と魂で、女の理屈を口にする。 ゆえに〈女〉《わたし》は分かっていない。〈男〉《かれ》がどれだけ強さに憧れ、それを渇望していたかを。 強さにかける男の人の想いは狂気だ。 女の身では到底理解できない域で、彼らは強いという称号を全身全霊求めている。弱い自分を殺したいほど恥じ、憎んでいる。 それが男の人というものだから、私は取り返しのつかない失言を悔いるのだ。 強い人が好きだなんて、なぜ私は言ったのだろう。 誰よりも強くなりたいと思っていたあの人に、強くあれだなんてよくもぬけぬけと、馬鹿――浅はかな。 そんなこと、彼にしてみればあなたは弱いと言われたも同然。事実私も、そうした認識をしていなかったなんて大嘘はつけない。 強い人が好き。強くなって。強くなければ男じゃない。 強さ、強さ、呪いにも似たその言葉。いいや、あれは間違いなく、あのとき呪いと化したのだ。 彼は変わる。強くなる。だけどそれと引き換えに、彼の素晴らしいところが消えていく。 優しさだったり、面白さだったり、ふと気の抜けた午後、陽だまりで笑って語り合えるような、暖かい幸せの色彩…… あらゆるものを犠牲にして、彼は唯一の望みに手を伸ばす。 それを前に、私はどんな反応をすればよかったのか。 笑って喜ぶなんて無理、出来ない。罪悪感と痛ましさに、胸が潰れそうだったから。 泣いて止めるなんて無理、出来ない。だって彼にそうさせたのは、他ならぬ私自身なのだから。 ひどい裏切りだと自分でも思う。強くなれと言っておいて、強くなろうとすれば悲しむなんて、矛盾しているし理屈が立たない。彼にしてみれば、いきなり梯子を外されたような騙まし討ちでしかないだろう。 だからきっと、それこそが厳然たる齟齬なのだ。 私は女で、彼は男。同じ人間でも、根本の質が異なる異性の違い。 〈男〉《かれ》の身を焦がす狂おしい飢餓の深さを、〈女〉《わたし》はどうしたって同等に感じることが出来ないから…… 強い男の人が好きだなんて、何があっても言ってはいけなかったのだ。 そう、今でも絶えず悔いている。 死にたいほどに。やり直せるなら命も要らないと思うほどに。 男の人では、どうしたって理解できないほど狂おしく……  そして今、尽きせぬ悔恨の渦に苛まれながら少女は夢から浮上した。  いいや、もしかしたら、すべてが夢なのかもしれない。 「――――――――」  初めに抱いた思いは困惑。なぜどうして、自分はいったい何処で何を――という現状の不理解。  次いで感じたのは、心よりも身体に訴える純粋な苦痛だった。 「ぁ、―――っ、……」  全身、何処がどうとは咄嗟に判断できないほど、身体中のいたるところが悲鳴の合唱をあげている。  身を焼く痛みの種類もまた、一つではない多様なものに溢れていた。  それは刺傷であり、裂傷であり、打撲傷であり火傷の痛み。骨の幾つかは間違いなく折れていて、喉からこみ上げてくる血の味が、〈内臓〉《なか》も無事ではないことを告げている。  平たく言えば満身創痍だ。今すぐ絶叫し、転げ回りたいほどの激痛に襲われながらも、身体はまったく思うとおりに動かない。  だが、その責め苦こそが呼び水となり、少女に現実を認識させた。 「あぁ…… 私、負けたんだ……」  自分は敗北したのだと、ここに答えを導き出す。  何に、とは言わない。それは彼女にとって自明のことであったから。  そんな己のことよりも、今は他のことが気になったのだ。 「みん、な…… みんな、どこ?」  自分は負けた。それは分かった。だが他は、と虚空に問う。  立ち上がれないから歩けない。呼ばわる声にも力は篭らず、〈首〉《こうべ》を巡らせ周囲を見回すことさえ出来ずにいる。  だからただ宙を見上げて、今にも〈解〉《ほつ》れそうな声を漏らすのが精一杯。  それで何かを探り当て、確認するなど普通は出来ない道理だろうが、不幸にもここでは違った。  神は幸福を容易に与えてはくれないが、悪魔は実に気前よく、自慢の商品を喜び勇んで持ってくるものなのだ。  目で確認できなくても耳は聴こえる。鼻も利く。音と匂いの二つがあれば、容易く理解できるほどここには破滅が溢れていた。  燃えている。何が? 言うまでもない。  そこかしこに散らばっている。何が? 同じく言うまでもない。 「っ――――」  生きているのは自分だけなのだと理解して、屍山血河に埋もれた少女は声なき絶叫をあげていた。  炎上する鋼鉄の暴力装置。彼女らが最後の戦場として臨んだ戦艦は、今や巨大な棺桶と化していた。  燃えているのは艦だけではない。彼方に見える陸地もまた、紅蓮の業火に包まれている。  海は愉悦にせせら笑う魔王の〈貌〉《かお》であるかのごとく、さらなる絶望を与えてやろうと不気味にうねり、鳴動している。  何一つ、何一つとしてここに希望的なものはない。終末を秒読みに控えた刹那的な凪の中、それを見届ける羽目となった少女の心胆はいかばかりか。  敗軍の将の一人とはいえ、その責を一身に負えるほど彼女は強い心の持ち主ではない。  本来なら草花を愛で、菓子を焼き、移ろう季節の中、小鳥のさえずりに淡く微笑む可憐な乙女だ。何処にでもいるただの少女だ。  それが戦場――しかも人智を超えた魔の域で、折れ砕ける瀬戸際に踏みとどまることが出来たのは、他ならぬ情の力あったればこそ。  友がいて、愛を抱き、それを守りたいと思えばこそ彼女は立つことが出来ていた。そうした想いを鎧うことで、絶望を撥ね退ける意志の光を守っていた。  しかし今は、それがない。ゆえに少女は立ち上がれない。  守るべきものに守られなければ、彼女は弱く、無力なのだ。  ――と、〈強〉《 、》〈く〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈状〉《 、》〈況〉《 、》〈を〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈種〉《 、》〈の〉《 、》〈■〉《 、》〈■〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈と〉《 、》、〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈し〉《 、》〈認〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  だから、むしろ、このまま順当に終わりを迎えるのが幸せであるなんて……  断じて考えては、 い け な い。 「〈Sancta Maria ora pro nobis〉《さんたまりや うらうらのーべす》  〈Sancta Dei Genitrix ora pro nobis〉《さんただーじんみちびし うらうらのーべす》」  なぜなら、彼女は知っているのだ。  正義大儀は粉砕され、外道鬼道が跋扈する今ならばこそ。  神は幸福を容易に与えてはくれないが、悪魔は実に気前よく、自慢の商品を喜び勇んで持ってくるに違いないと。 「〈Sancta Virgo virginum ora pro nobis〉《さんたびりごびりぜん うらうらのーべす》  〈Mater Christi ora pro nobis〉《まいてろきりすて うらうらのーべす》 〈Mater Divinae Gratiae ora pro nobis〉《まいてろににめがらっさ うらうらのーべす》」  ぽつ、ぽつと、見上げた虚空から降り注いでくるものがある。  それは黒く、粘った泥のようで、雨には違いないが水ではない。  大の字のまま動けない少女を濡らしていくその雫は、冷たくなく熱いのだ。まるで強酸性の劇薬でもあるかのように、瀕死の彼女を鞭打つがごとく焦がしていく。  天に穿たれた孔から滴る、これは地の底に溜まった毒の祝福。  血と精液と糞尿が、憎悪と怨嗟と苦痛によって混ぜ合わされた地獄の歓喜。  ここに美しく演出される絶望を前にして、欲情を隠せない畜生が垂れ流す腐臭にまみれた涎だった。 「〈Mater purissima ora pro nobis〉《まいてろぶりんしま うらうらのーべす》  〈Mater castissima ora pro nobis〉《まいてろかすてりんしま うらうらのーべす》」  そのおぞましさを、彼女は戦慄と共に感じていたから息を呑んだ。見上げた孔の向こう側へ、恥も外聞もなく懇願する。 「や、め、て……!」  絞り出す声は狂気に近いほど切迫していた。  やめて来ないで見せないで――お願いだからこのまま静かに終わらせて。  勝ったのはそちらでしょう。  だったらもういいじゃない。  これ以上いったい何を、ああ分かっているだけに恐ろしい。 「そんなに……」  黒い〈驟雨〉《しゅうう》に溺れていく中、懺悔にも似た声が漏れた。 「そんなに私が、憎いというの?」  ■■■■―――― 紡いだその名は、音を成さずに溶けていく。もう何処にもいない者の名は、ゆえに何の意味も発揮せず……  だからこそ、刹那。 「愛しているよ、水希」  少女、〈世良水希〉《せらみずき》のすべてを破壊する〈混沌〉《べんぼう》が口を開けた。  輝光を纏った一陣の疾風。  降り注ぐ毒と噴き上がる黒煙を切り裂いて、灼熱の炎をものともせず駆け抜ける背中がある。  それは雄々しく、泣きたくなるほど凛々しくて。 「立て、世良ァッ!  諦めるな、まだ終わってない!」  ただ一人、誰もが敗れ、朽ちていく闇の中で、この彼だけは折れていない。強靭な意志の光は今なお微塵も衰えず、押し寄せる絶望に真っ向対峙するその姿の、なんと輝かしいことだろう。  勇者、英雄、斯くあるべし。将たる漢であるのなら、どのような敗勢にあろうとも運命などには屈さない。  道を切り開く足がある。前を見据える〈眼〉《まなこ》がある。勝利を掴み取る手がある限り、断じて滅びなど〈肯〉《がえ》んじない。  最強の彼がいるのなら、まだ巻き返せる。終わりじゃない。ああそうだとも自分たちは勝つのだと――  〈危〉《 、》〈う〉《 、》〈く〉《 、》〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》、〈水〉《 、》〈希〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈悲〉《 、》〈嘆〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  炎上する戦艦の主砲が軋みをあげて旋回する。物理的には機能を失っているはずなのに、子供が玩具を無理矢理扱っているかのごとく、それは壊れながらも作動した。  照準は疾走する彼に向けて。射角の外に出ようとも、毒蛇のように砲身がしなり、曲がって追いかける。  常軌を逸した光景だが、この程度なんら驚くには値しない。この艦、いいやこの戦域は、丸ごと〈邯鄲〉《かんたん》に呑まれているのだ。ならばいかなる不条理でも、支配者の意志一つで実現するのが夢の理。  そう、これは世界を侵す〈悪い夢〉《ナイトメア》。発生源を潰さぬ限り、永劫覚めることはない。  もはや戯画的なほどに曲がりくねった戦艦主砲が、炎の轟哮を迸らせた。  この状態で暴発もせずに発射されたということは、対処に真っ当な理屈が通用しないことを意味している。たとえ山を盾にしようと、砲弾は幻のごとくすり抜けるに違いない。  すなわち、現実の手段で防ぐことは絶対不可能。  夢と相対するからには、己も夢にならねばならない。  だから今、彼はここに自らの〈理想〉《ユメ》を抜刀するのだ。  高速で編まれる神秘の〈御業〉《みわざ》は、水希がこれまで見た何よりも整然と淀みなく、この上なく静かでありながらも激しく熱いものだった。  鋼の理性と烈火の激情――彼を象徴する二つの属性は、心の燃焼を非常に高回転で行えることを証明している。他の者では理解も及ばぬ域の夢を思い描き、その巨大さに潰されないまま動かす器を持っているのだ。  今なお絶望を認めない彼の魂が有する熱量は、たかだか戦艦主砲の一撃ごとき、なんら恐れるものではない。  狂い咲く花のように、真っ向弾かれた砲弾が夜に木っ端と散華した。  のみならず主砲そのものが爆裂し、戦艦の上半分が綺麗さっぱり吹き飛ばされる。この事態を引き起こしたのが、まだ少年とも言える人物の片手一振りによるものだとは、まさしく夢と言うしかない。  だが、それは常人の目から見た話であって、水希には今の刹那にどういう攻防が成されたかが分かっていた。  まず敵手側――戦艦主砲という物質を意のままに操り、作り変えたのは〈創法〉《そうほう》の〈形〉《ぎょう》。  加え、もし弾くのではなく躱していれば、砲は標的を捉えるまで無限に追尾したに違いなく、そうした異常な射程距離を実現させたのは〈咒法〉《じゅほう》の〈射〉《しゃ》に他ならない。  つまり、“創る”と“飛ばす”という二つの夢を融合させた理が、今の攻撃を成している。  対して、それを迎撃した彼が用いたのは〈楯法〉《じゅんほう》の〈堅〉《けん》と〈戟法〉《げきほう》の〈剛〉《ごう》。  言うまでもなく生身の人間が火砲を弾くなど不可能だから、その不条理を実現するため、膂力と耐久力という両面で肉体を強化する夢を纏った。  さらに言えば、他者の夢を解体し、無効化する〈解法〉《かいほう》の〈崩〉《ほう》をも重ねた上で、完璧に弾き返してみせたのだ。  邯鄲という同じ法を用いた上で、ここに両者が紡いだ術理は二重複合と三重複合。より高度な芸を見せたのは水希と道を同じくする希望の彼――後者だが、それをもって現状が我軍に有利であるなどと、彼女はまったく思っていない。  低位の技に対処するため、高位の技が必要だったということは、すなわち両者の力に決定的な開きがあることを意味している。  なぜならば――  吹き飛ばされた主砲台座の上に立ち、こちらを見下ろすあの男は何の〈痛痒〉《つうよう》も受けていない。  鋼鉄すら沸騰する灼熱地獄の只中で、吹き荒れる熱波に大外套を翻しながら口元を弦月の形に歪めている。  笑っている。嗤っているのだ。  そんなものかと見下して、弱い弱いと己の強さを誇るように。  強ければすべてが手に入るとでも言うかのごとく。 「あぁ……」  強さ。強いとは何だろう。軋む身体の痛みも忘れ、呟いた水希の心を今度は呪いが責め苛む。  分かっているのは、ここでアレを止めない限りこの世が煉獄に叩き込まれるという絶望的な未来。  そして、それを避けるのは不可能だという情け容赦ない現実。  子供が習う算学にも等しいレベルの真理として、水希はその結末が見えている。  己が意を通すための力が強さだと言うのなら、その競り合いでアレに勝てる者はいない。そう確信することが出来るのだ。  それは想いの強固さ、熱の激しさという意味ではない。そうした面でもアレが度外れているのは確かだが、今なお折れていない我軍の将は、少なくとも気力の勝負で負けてなどはいないから。  彼ならば、いいや彼だけは、あの怪物と真っ向対峙できる領域に達しているのだ。格という意味でなら、決して劣っているわけではない。  だが、しかしだが、駄目なのだ。 「        」  雀蜂の大群を思わせる無機質で不吉な〈祝詞〉《オラショ》が、天の大孔を震わせる。  爛れて地に落ちる果実のように、そこから沸騰した悪夢が溢れ出ようとしているのが分かる。  〈位〉《くらい》は同じでありながら、それを止めることが出来ないという彼我の差は、相性などという一言で片付けられるものではない。  本来、相性とは表裏一体の関係で、どちらかが一方的に勝るという不平等なものではないのだ。  水は火を消す。だが火も水を蒸発させる。木の根は大地を抉って栄養を吸収するが、大地が枯れれば木も朽ちるという相剋こそが森羅万象。  甲乙つけ難いとは自然のもとに対等であることを指したもので、甲は必ず乙に勝つとか、そのような理屈は通らない。三竦みの喩えが世にあるように、どのような形でも常に均衡が取れている。  甲が甲として。水が水として。蛇が蛇であれた場合ならば問題ないのだ。  が――そうでなければどうなるか。 「嗤うかよ、俺の〈邯鄲〉《ユメ》が不純だと?」  たとえば、〈元〉《 、》〈々〉《 、》〈弱〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈者〉《 、》〈が〉《 、》〈無〉《 、》〈理〉《 、》〈に〉《 、》〈強〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈場〉《 、》〈合〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈か〉《 、》。 「あるべき型に嵌っていない。おまえはそう言うのかよ」  弱いのなら弱いまま。汚れているのなら汚れているまま。  自然であるということの意義。生まれ持った性や業を、良しと認めてやれない狭量で自分勝手な愚か者がすぐ身近にいたせいで、歪んでしまった水はもはや水ではない。  たとえそれが、素晴らしく魅力的で輝く変質であったとしても、人工的な清流よりは泥水のほうが力を持つ。  だから、勝負は見えているのだ。  勇気、友情、愛、思いやり、使命感――そうした善性と呼ばれる光に彼が依って立つ限り、アレは絶対に斃せない。  なぜなら、アレは…… 「もう、やめて……」  アレこそが、邯鄲最深層より引き上げた絶対正義。自身が有する〈本質〉《どろみず》を、〈生〉《き》のままに愛し、憎んでいるのだから。 「  ―― 、!」  爆轟する気炎と共に、最後の――そして結果の見えた闘争が幕を開けた。  〈戟法〉《げきほう》、〈楯法〉《じゅんほう》、〈咒法〉《じゅほう》、〈解法〉《かいほう》、〈創法〉《そうほう》――そして、彼らだけが持つ第六法。共に奥義をつくした〈邯鄲〉《ユメ》の激突は、現実を侵し、幻想を砕き、誰も介在できぬ域で絡み合いながら喰らい合う。  この時代、未だ発明されていない核の爆発さえ彼らにとっては既知のものだ。ゆえにそれを〈創形〉《そうぎょう》し、致死の高熱と放射能を撒き散らす〈創界〉《そうかい》を成すことすら造作もない。  そして、その破壊に耐える鎧を纏うこともまた、同様に。  音速を遙か超え、重力を振り切る〈迅〉《じん》の〈戟法〉《げきほう》。  咆哮は天地を走り、その衝撃が地球を数周してもなお止まらない〈散〉《さん》の〈咒法〉《じゅほう》。  それら〈超常〉《ユメ》の悉く、一瞬にしてすり抜け死角へ入る〈透〉《とう》の〈解法〉《かいほう》。  すべてが凄絶、かつ正確で、空が割れる様を幻視するほど烈火怒涛の攻防ながら、機械がパズルを組み上げているような寒々しさが同居している。  ああ、これを、この〈糜爛〉《びらん》した熱量をもって粛々と進んでいく現象をなんと言ったか。 「地獄の歯車」  そうだ、唯一無二の破滅へ転がっていく悪魔の筋書き。他のあらゆる可能性をすり潰し、自慢の商品を売りつけるために底なしの悪意で磨き上げられた鋼鉄だ。  そんなものは見たくない。見たくないから、無駄だと知りつつも水希は切に望むのだ。 「逃げてよ……」  自分が全部悪かった。  あなたは強い。あなたは強い。とても強いと分かっているから、お願いどうかもうやめて――  泣かせないと言ってくれた。  笑わせてやると言ってくれた。  だったら今こそ約束を、ここに履行してほしい。  自分が望むのはただそれだけ。  もうこれ以上こんなものを、一瞬だって見たくないのに。 「それは無理だよ」  そう、無理だと分かっている。  なぜなら道理は自分になくて、彼を責める資格などまったくなくて。 「そもそも、先に約束を破ったのは君のほうだったじゃないか」  すべての元凶はそこにある。それを誰より分かっているから、自分はこの〈混沌〉《べんぼう》に落ちたのだ。  天の大孔から滴る雫が、徐々に形を持ち始めた。  それは寒天のように滑らかでありながら、著しい不潔さを感じさせる鬱気を滲み出させている。  おそらくその内部には、ありとあらゆる汚物がはち切れんばかりに詰まっているからだろう。今も続いている戦いと、燃え上がる戦艦による炎の照り返しを受けてなお、暗色に染め抜かれた表面は一切の光沢を発していない。  孔から生じたこれもまた、形を持った暗黒なのだ。ぞわぞわと歌うように微細な振動を繰り返しながら起き上がっていくその様は、どこか耳元で飛び回る羽虫の不快さを連想させる。  いや、これは実際に、極小の何かが寄り集まった群れだった。その何かを定義するなら、昆虫に喩えるのがもっとも近い。  目に見えぬほど小さな蚊や蝿、蜂や百足、蜘蛛、ゴキブリといった、生理的嫌悪感を催す諸々で編み上げられた黒い霧。  その身を構成する粒子の一つ一つが汚らわしく、同じ世界に存在するのが誰であっても許せなくなるような影であり、邪悪なエネルギーそのものだった。 「あんめい、いえぞすまりあ」  今や人型を成した悪意の集合体は、天を抱くように両手を広げて祝福の聖句を口にした。  その面貌は煙状に揺らいでおり、漆黒の〈僧衣〉《カソツク》もろとも闇一色に染まっている。  ゆえに容姿は分からない。無貌と評すべき外見ながら、それでも笑っていることが分かるのは、爛れた光を放つ瞳が愉悦の色に濡れているから。  吊り上った口元が、すべてを嘲っているのだと告げているから。  総身から垂れ流される邪念の波動が、一秒も休まずあなたを愛していると謳いあげているからに他ならない。 「綺麗だ、水希。君はまったく美しい」  まるで何人もが輪唱しているようなぶれた声で、黒霧の男はそう言った。  血に塗れ、涙に濡れて、恐怖と嫌悪に引きつった水希の様を、美しいと。 「あちらのほうもじきに決する。君が思っている通り、勝負は見えていることだがね。  それを茶番とは言わないでくれよ。これでも演出には気を遣っているんだから、君がお気に召すように舞台を整えたと自負しているんだ。  なあ、実に麗しいユメだろう? ここにはすべてが満ちている」 「〈神野〉《しんの》……」  今にも小躍りしかねない浮かれた調子で話す男に、水希は知らず後ずさりして言葉を返した。これと対峙し、口を開いたというだけで、そこから何万もの昆虫が入り込んでくるような悪夢のイメージに襲われる。 「お願いだから、彼を助けて」 「私はいい。もういいから、せめて彼だけは見逃して。もともと、あなたの目当ては私でしょう? だったら、他は何の関係もないじゃない。  私が憎いなら、私だけを責めなさいよ。逃げないから、罰だというなら受けるから……だから、もう、これ以上は……」  音が聴こえる。キチキチと、それは蟻が顎を擦り合わせるような軋みの音。  空気が震える。わんわんと、それは蝿が飛び回っているような無数の振動。  怖い。汚い。おぞましい――にやにやと笑っている双眸のみが闇の中で唯一異彩を放っているが、そのコントラストは芋虫がのたくっているようにしか思えない。  今このときも覆い被さってくる膨大な魔の質量に潰されかけて、水希は耐え切れず喚いていた。 「なんとか言いなさいよ卑怯者! あんたなんか何処の何者でもないくせに!  私と彼の後悔につけ込んで、彼を騙るな! そんなんじゃない!  私の、好きな――あの人は!」  優しくて、頼りないかもしれないけど暖かくて。  強い男になりたいからと、そんな不自然に駆り立てたのは自分だから汚いのは自分。  何の落ち度もない彼を汚されるのは我慢がならない。 「君の尺度で、君にとって心地のいい〈都合〉《ユメ》を僕に求められても困るな水希。  彼はきっとこうだった。彼はこう思っていたに違いない。ああ、それが常に当たっていたら、世の中もっと単純に回るだろう。  そもそも、“僕ら”が擦れ違うことなどなかったはずじゃあないのかな」 「ッ―――」  その指摘に反論することは出来なかった。前提として自分たちに食い違いがあったからこそ、事態は最悪に向かったのだという現実がここにある。 「でも、たとえ彼が私を憎んでいるんだとしても……。  いいや、憎んでいるに違いないからこそ、私は……」 「おいおい。だからあのねえ水希」  なおも言い募ろうとする水希を制して、神野と呼ばれた異形は大袈裟に肩をすくめた。無貌を歪めて、嘲り笑うように言葉を続ける。 「それが誤りだっていうんだよ。誰が君を憎んでいるって?」 「何度も何度も言ってるだろう。僕は君を愛している」  満腔の邪念と、滴り落ちるような狂気を込めて。 「君はいつも、僕の気持ちに気付かないで無神経なことを言うんだねえ」  私は強い人が好きなのと、すべての発端となった愚かで呪わしい失言を……この化け物は褒め称えているかのように語ったのだ。 「なあ、今の僕は強いだろう? 愛してくれよ」 「―――ふざけるなァッ!」  怒号は血の色に染まっていた。憤死しかねない激昂が水希の身体を衝き動かし、怒りに任せて無手のまま殴りかかる。  だが、拳はなんの手応えもないまま対象を突き抜けて、身体ごとすり抜けるだけだった。霧か煙のような神野の身体に、あらゆる物理的な攻撃は意味を成さない。  同様に、何の打撃も受けていないはずの水希はしかし、甲板に倒れ込むと血混じりの反吐をはいて悶絶した。悪意の精髄を煮詰めた群れに頭から突っ込んだことで、死に値する憎悪と激痛が心身を焼いている。  振り返ってそれを見下ろし、溜息を吐く神野は困ったように――依然として笑いながら――水希へと手を伸ばした。 「ほら、大丈夫かな立てるかい? 急に走ったりして危ないだろう。人目憚らずそんなに吐いて、別にはしたないとは言わないけれど。  それ、友達じゃあなかったっけ? 友人の顔目掛けてげーげーやるっていうのはちょっと、さすがに僕から見てもどうなんだろうって思わないでもない」 「――――――」  不吉な言葉が耳を抉り、驚愕と共に目を見開く。涙で滲んだ視界が徐々に晴れていき、そこには水希がよく知る、顔、かお、が――― 「あ、あき―――」  勝気で、男勝りだけど実はすごく照れ性で、本当は仲間の誰より戦いなんか嫌っていた友達。  それでも逃げずに、最後まで付き合ってくれたとても真っ直ぐな女の子。  自分が吐いた血反吐に塗れて、斑模様となったその顔はもう笑わない。千切れ飛んだ生首の、虚ろな瞳を突き破りながら百足が這い出てくる様を直視して、水希は絶叫を放っていた。 「う、うぅ、うわあああああああああぁぁぁァァッ――――!」  他にも、他にも、駄目だ見るな耐えられない。皆がこうなっているだろうことは分かっていたが、視認するという行為の負荷が凄まじすぎる。割れて砕けて戻れなくなる。  いいや、むしろ壊れることが出来たなら、どんなに楽なことだろう。だが水希には分かっていたのだ。目の前にいる男がそれを決して許さないだろうということが。 「きひっ、ひひはは、あーはっはっはっはっはっは!」  笑い転げる無貌の闇を囲むように、空からばらばらとばらばらになったモノが落ちてくる。  雨は何のひねりもない赤色で、そんなものが降り注ぐならどんなことになっているかは自明の理というものだった。  地獄の歯車は奇など一切〈衒〉《てら》わない。誰もが簡単に思いつき、ゆえに誰もが忌避する〈最悪〉《ユメ》を、現実のものとして具現することにのみ特化している法なのだ。 「        」  〈混沌〉《べんぼう》が溢れる天の下、勝利の凱歌を謳うがごとく、楽園の夢を求めた男が播磨外道を吟じている。  水希が神野と対峙していたほんの数分。その間に世の命運を賭けた勝負は決した。  予想通り、順当に、何のひねりもない結末のみを晒しながら、ここに地獄の釜が開いている。  今度こそただ一人となった水希は膝をついて宙を見上げ、もはや祈るべき如何なることも許されないのだと悟っていた。 「さあ、待たせたねこれからだよ」  なぜなら、この悪魔がこれで終わらせるはずなどないのだから。  未来永劫、永遠に。終わらない。終わらない。終わらない悪夢の始まり。  がちがちと乱杭歯を噛み鳴らしながら、絶望に飢えた〈神野〉《じゅすへる》が告げる。  ひっそりと、腐肉を〈食〉《は》む蛆のように、愛の言葉を囁くのだ。 「君はこれで――――――」  その言葉。  自分自身、何よりも認めたくない心の闇を暴かれて、ついに水希の中で最後の砦が崩れ落ちる。 「――神野ぉぉォォォオッッ!」  噴きあがる〈嚇怒〉《かくど》の念は、いったい誰に対してか。  それすらもはや分からない。  ただ思うことは一つだけ。彼女の胸にある真実はいつだってその一つだけ。  強い男の人が好きだなんて、何があっても言ってはいけなかったのだ。  そう、今でも絶えず悔いている。  死にたいほどに。やり直せるなら命も要らないと思うほどに。  他の人では、どうしたって理解できないほど狂おしく……  追われている。俺の現状はその一言で表現できるものだった。  何から追われているのかは分からない。ただ得体の知れない不気味なものという印象で、未だ一度も接触はしていないから、特に危害を加えられたというわけでもなかった。  ではなぜ不気味と感じ、逃げているのかと言われれば、単に成り行きと答えるしかない。  とある道幅の狭いY字路で、左右どちらかを選ばなければいけなくなったから、向かって右側の道を進んだ。  特にたいした理由もなく。洒落た言い方をするのなら、人生の分岐点もそんなものであるように。  そして、結果がこの様だ。 「チッ―――しつこい奴」  追われている。俺の現状はそういうことだ。  右側の道にはマンホールがあり、その上を通り過ぎた瞬間に蓋が勢いよく跳ね上がった。そこから何かがやってくる気配を感じた俺は反射的に逃走し、どうやらとても執念深いそいつは諦めることなく追いかけてきて、今に至る。  それについては非常に鬱陶しくて堪らないが、不幸で最悪とまでは思っていない。全力疾走のマラソンに毒づきはするものの、今を悲観する気持ちはまったくなかった。  先ほど心の中で弄んだ、人生の分岐路云々という喩え……そういうものは二種に分けられると俺は常々思っている。  まず一つは無意識に選ぶもの。日々の諸々に埋もれていく些細な選択が、振り返ってみれば重大な意味を持っていたと、後になって気付く類。  道で大金を拾う未来や、交通事故に遭う未来を、事前に予測できる奴などいない。だからそういう不測の事態は、ただの気まぐれ程度で容易くズレるし、発生し得る。  俺が右の道を選んだことで追われているのと同様に。  そしてもう一つは、そういった積み重ねで起こった事態に、どう対応するかということだ。  大金を拾った場合、事故に遭った場合、進学、就職、結婚――その他なんでもいい。  これが今後の人生に、深い影響を与えるものだと理解している選択。  まだまだ社会的には小僧と言われる年齢だが、人が生きていくうえにはそうした二種類の分岐路が存在し、それが繋がったものだということくらいは分かっている。  つまり、運命ってやつは慈悲深いということだ。  結果の見えない選択に翻弄される場合は確かにあるし、それは人間の器量で抗えないものだろう。  だけど同時に、そうなったときは注釈つきで道を用意してくれるのだから。  あなたは今、とても大事な局面に立っています。ここで間違うと大変なので、よく考えて選んでください。  とまあ、こんな風にだ。  例外的な極論も当然あろうが、それはこの際置いておく。とにかく重要なのは、おおかたにおいて最終的には自分の器量が頼りということ。  だったらその機会に真摯でありたい。  無意識に選んでしまった道を嘆いて、あのときああしていればよかったとか、こんなことになるなんて思わなかったとか、どうしようもない泣き言を並べても事態は好転しないんだ。  過去は変えられないのだから、未来のために今を見る。  それが俺の信条で、ゆえに右の道を選んだことを悲観なんかしちゃいない。  まあ、この現状が人生云々を左右するほど重要なものかは知らないが。  少なくとも今、自分の器量で結果を選べる局面なのは確かだろう。 「はッ―――」  気合いと共に、俺は全力で走りながら、同じく全力で跳躍した。  高さは軽く15メートル。距離は直線にして50メートル以上跳んだだろう。街区を丸ごと一ブロック飛び越えて、アスファルトの上に着地する。  言うまでもなく、その行動は追跡者を撒くためなのだが、より正確な目的は少し違う。  俺は試した。〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈手〉《 、》〈で〉《 、》〈撒〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》〈を〉《 、》。  〈昨〉《 、》〈夜〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈振〉《 、》〈り〉《 、》〈切〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈今〉《 、》〈度〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》?  背後を仰ぎ見たそのときに、影のような塊が跳躍したのを視認した。それは俺が跳んだコースをそのままなぞり、こちらへ着地するべく落下してくる。 「くそッ……」  やはり、という思いはあったものの、予想が当たったからといって愉快な気分には必ずしもならないものだ。俺は舌打ちと共に前を向き、再度の逃走を開始する。  背後に響いた着地の音と、続いてアスファルトを駆ける音が耳に届いた。こちらも再び、俺を追いかける行動に移ったらしい。  まったくよく飽きもせず、男の尻なんか追えるものだ。よっぽど偏執的な〈性〉《さが》なんだろう。  先の一瞬、初めて見咎めた奴の姿は完全な影法師で、未だ性別どころか人間なのかさえ分かっていない。近くでしっかり見れば正体を割れるかもしれないが、その必要性はないと感じる。  なぜなら、影という印象を持ったときに直感したのだ。あれは俺の真似をしている。  俺の行動をそのままトレースしている存在だから、ぴったりついてきて離れない。  だったら、奴を撒くための手段は一つだ。  あれが真似できないことをやればいい。  走りながらイメージを固める。今度は単に身体能力で振り切ろうとか、手軽い方法で不精はしない。  より奇抜で、よりこの世界らしく、〈現〉《 、》〈実〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈有〉《 、》〈り〉《 、》〈得〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈夢〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈る〉《 、》。  さあ、真似られるなら真似てみろ。  俺が走り抜けたその後から、地面を突き破ってコンクリートの壁が出現した。それは追跡者の行く手を阻むように展開し、即席の袋小路を形成する。  無論、これは自然現象なんかじゃない。俺が意識してやったことだ。  ここではそういうことが可能だし、この芸は追跡者に対して初めて見せた。ゆえに妨害として非常に有効だろうと考える。  壁の高さは5メートル。幅は1メートルといったところ。先ほどのように飛び越えることは容易な障害物であるものの、こいつはおそらくそうしない。いいや、きっと出来ないはずだ。  俺の真似をする影法師なら、俺と同じ手段を用いない限り突破は不可能。  そう分析する。だから―― 「撒いた……か」  しばらく走って、追跡がないことを確認した俺は、減速して立ち止まると息を吐いた。  やれやれ、どうにか目的達成。昨夜に続いて、ゲームは俺の勝ちってわけだ。  まあ、明日はどうだか分からないが。 「たぶん、終わりじゃないよな、これ」  振り返って、ついさっき自分が創った防壁に目を向ける。今頃あの向こうでは、おそらく追跡者が俺の真似をしようと四苦八苦しているのだろう。  イメージによって俺がコンクリート塀という物質を具現化したのと同様に、奴もまたイメージによって物質を具現化しようとしているのだ。  壁にトンネルでも創造するか、それとも迂回するコースを創りあげるか、どちらにせよ奴がそれに成功したら、追いかけっこが再開する。  そして、同じ手は二度と効かない。  身体能力で撒いた昨夜の手が今夜は通用しなかったように、物質創造で撒いた今夜の手は明日から無効だろう。  ではさて、いったいどうするか。  まだ幾つか手は残しているが、この調子でいったらダルマになるのは俺のほうだ。根負けするようで癪だけど、まだ余裕があるうちに根本的な方針を見直したほうがいいかもしれない。  たとえば逃げるのではなく、迎撃するといったような……  思案は、しかし答えを出せない中途半端なところで遮られた。 「〈四四八〉《よしや》、〈四四八〉《よしや》ぁ――」  俺を呼ぶ声と共に、周囲の情景が霞み始める。それが、今夜の夢はここで終わりだということを告げていた。  そう、これは夢。  俺が子供の頃からずっと見続け、体感している、〈日常〉《ひる》とは異なるもう一つの世界だった。 「――四四八」 そして夢から出た俺は現実へ。二つの世界を跨ぐとき、意識的にはまったく変わっていないから、目が覚めるという表現は正しくない。 ある意味、俺は常に起きている。睡眠中に、自分は眠って夢を見ていると理解できている以上、精神は覚醒状態を維持しているということだ。 ゆえに変わるところを挙げるなら、当たり前だが〈現実〉《こっち》の俺は〈夢〉《あっち》のように破天荒な真似が出来ないということで、ただの学生に戻るのが俺にとっての――〈柊四四八〉《ひいらぎよしや》の目覚めと言えた。 その日常が、再び夢に入るまでの間、これからやはり再開される。 「お、やっと起きた?」 「さっきから呼んでんのに、よっぽどいい夢でも見てたわけ? ま、とにかくおはよ」 「……ああ、おはよう」 寝入る直前とまったく同じ、机に頬杖をついた姿勢のまま、起き抜け特有のかすれ声でそう返した。今が朝じゃないことくらいは確かめるまでもなく分かっていたが、それでも寝覚めのおはようは基本だし大事だろう。 「〈晶〉《あきら》、俺はどれだけ寝てた?」 「九十分。そういうリミットだっただろ。別に時計誤魔化したりはしてないよ」 「そうか。なら不正をしなかったことは褒めておく」 「そりゃどうせすぐバレるし。おまえそうなったらうるさいもん」 「さすがにね、あたしもいい加減学習してるよ。ほら」 と、幼なじみの〈真奈瀬晶〉《まなせあきら》は、俺の鼻先にプリントを突きつけた。 「おまえが作ったテスト、一応終わったから採点お願い」 「……分かった、けどちょっと待て。一息くらい入れさせろ」 言って、俺は眼鏡をずらすと、眉間を揉んで首を振った。いくら自分の眠りが少々特殊で、頭が寝ぼけることはないといっても、身体のほうはまったく別だ。生理現象として当たり前にある倦怠感までは拭えない。 「それで、その様子からすると少しは自信があるみたいだが?」 プリントを受け取り、内容に目を走らせる傍らで、机の上のマグカップを持つと冷えてしまったコーヒーを一口すすった。不味いが、お陰で胃から身体が現実に適応してくる。 ……この、なんとも嘆かわしい現実っていうやつに。 「まあね。あたしも結構、これは限界頑張ってみたんだけど」 「どうだよ? 柊講師の授業効果はあった感じ?」 「こら、晶」 低く呟き、顔を上げる。採点しろって、おまえこれな…… 「もう一度訊く。自信あるんだな?」 「ああ」 「頑張ったのも間違いない?」 「もちろん。なんだよ、はっきり言えよ」 「そうか、なるほど。これで自信があるとぬかすか貴様は……」 何から突っ込むべきか迷ってしまうが、とにかく採点以前の話だこれは。 猫みたいな目でこっちを見ている晶を睨み、俺は傲然と喝破する。 「解答欄が半分近く埋まってない! 終わったなんて言わんぞ、こんなの」 「何が限界頑張っただ。おまえ、俺を舐めてないか。やる気ないだろ」 「え、いや、そんなことはないって、うん……」 「あたしはちゃんと、あたしなりにさ……」 「言い訳無用!」 ばしっとプリントで机を叩くと、一転してこいつはしゅんとうなだれた。これで性根は真面目だから、非を咎められれば殊勝な態度で反省はするのだ。この素直さは、晶の良いところだと言えるだろう。 だが許さん。 同い年のクラスメートであるといっても、テスト勉強を手伝ってくれとこいつが頼んできた時点で、今の俺たちは生徒と教師の関係だ。ならばそこは、厳しく一線引かねばならない。 「分からないのはしょうがない。だが分からないから諦めるという怠慢が気に食わん」 「答えを書かないなんてのは論外だ。頑張ったって言うからには、せめて全部埋めてみせろ。話はまず、それからだ」 「うっ……じゃあ、答えたところは?」 「あ? そんなのはおまえ……」 ざっと再び目を通して、無慈悲に告げる。 「それもやっぱり半分くらいは間違ってるな」 「嘘ぉっ?」 「嘘じゃない、やり直し」 「うがあああ~~」 呻いて晶は崩れ落ちたが、生憎と悶絶したいのはこっちのほうだ。 学校が終わってからこいつの家に泊りがけ状態で教え続け、そろそろ分かったろうと仕上げのテストをやらせてみたらこの体たらく……俺のプライドを粉砕する趣味でもあるのか、この女は。 「さっき要点を教えたろう。俺のノート見ていいから、自分で考えながらやってみろ。この程度の問題は、それで充分解けるはずだ」 「と、解けなかったら?」 「処置なし。明日からの――というかもう今日か。とにかくテストは全滅だ。補講は覚悟するんだな」 「ちょっ、それじゃあ修学旅行いけないだろ!」 「だったら死ぬ気で勉強しろよ。限界絞れ。寝るな、喋るな」 「頑張ったって結果が出るとは限らんが、少なくとも結果を出した奴は頑張ってる」 「フォローは出来る限りしてやろう。だが最後は自分の器量だぞ、晶」 「~~~~~」 俺の言葉に、晶は頬を膨らませて恨めしげな顔をしていたが。 「あーもう、分かったよ鬼軍曹。やるよ、やればいいんだろっ」 やけっぱち気味にそう叫んで、再び机と向かい合った。 「そうだよ。やればいいんだよ」 と、俺は俺で叱咤するが、実のところ全滅とまではいかないだろうと思っている。 なんだかんだで最終的には、どうにか乗り切るのがいつもの晶だ。俺が教えているのにギリギリの綱渡りが常というのは業腹だが、落とすか落とさないかという話でならあまり心配していない。 問題は、晶よりも別の奴らだ。 「しゃーっ、きたコラァ! 行くぜヴァルハラァ!」 「私は総てを愛している!」 「涙を流して、このディエス・イレを讃えるがいいィ!」 「ほいっと」 「え、あ、ちょっと何それ。なんで避けんの!?」 「そこはそれェ、慣れとでも言いましょうかァ」 「イェツラー」 「ジークハイル・ヴィクトォォーリア!」 「うっ、おおおぉぉ! やばいやばいやばいやばい! マジちょっ、やめろよフルボッコじゃねえかレイプレイプ――おまえこらオレ黄金だぞっ!」 「そんな〈魂〉《うで》でハイドリヒ卿を騙るなんて、愛が足りないとしか言えないよ」 「アウフ・ヴィーターゼン」 「ぐわあああああっ!」 「ま、厳然な実力差とはこういうものです」 「ざっけんなァッ!」 「おまえがふざけるなァ!」 勉強そっちのけで格ゲーしている二人を怒鳴りつけ、おもむろにコンセントを抜いてやった。 「やんっ」 「ちょっ、いきなり何すんだよ」 「おまえらこそ何をやってる〈栄光〉《はるみつ》、〈歩美〉《あゆみ》」 「楽しいか? 楽しいんだな格ゲーが。いいだろう、だったら今すぐ表に出ろ。リアルファイトの時間だ馬鹿ども」 「俺がいったい誰のためにわざわざ付き合ってると思ってるんだ」 「……あの、四四八。それはそうとさ」 「あたしのゲーム機、あまり乱暴に扱わないでほしいんだけど」 「黙れ。おまえは勉強していろ。それとも今後、教えるときは全部英語で講義してほしいか」 「ごめんなさい」 と、割って入った晶を速攻で黙らせ、なにやらピーチク吼えてる奴らに目を向ける。 が―― 「もぉ~、駄目でしょ四四八くん、あっちゃんいじめたら」 「自分だって寝てたくせに、なあ?」 「ねえ」 「そうか。どうやら貴様ら、改めて立場を分からせないといけないらしいな」 微塵も反省の色が見えないあたり、ある種の大物感さえ漂っている。 間近に控えた修学旅行に先駆けて、今日の朝から始まる中間考査を無事に乗り切る自信がないと泣きついてきたのは晶だけじゃない。 〈大杉栄光〉《おおすぎはるみつ》、〈龍辺歩美〉《たつのべあゆみ》。何の因果かやはり幼なじみであるところのこいつらもまた、今は俺に教えを請う身だ。 にも関わらず、この弛緩しきった態度は何なのか。結局困るのは自分だろうに、まったく俺には理解しかねる。 「そもそもおまえたちは普段から真面目にやっていないから――」 「あー、あー、分かった。分かったから。おまえの言いたいことはよーく分かる。分かるんで。とにかくこれほら、さくっと見てくれ」 「四四八くんが作ったテスト、ちゃんとやったからわたしたちは遊んでたんだよ」 「なに?」 俺の言葉を遮るように、二人してプリントを突きつけてくる。 「本当にやったのか?」 「やったぜ。当たり前だろ。それくらいのケジメとメリハリはつけるに決まってんじゃんか」 「ちゃんと終わらせてるんだろうな?」 「あっちゃんみたいに分からないから諦めたりなんかしてないもん。しっかり全部答えてるんだからね」 「おいあゆ、そんなこと言ったらあたしが適当にやったみたいに聞こえるだろ」 「絡むな晶。おまえはおまえで、言ったように今は自分のことを頑張ってろ」 「……しかし、そうか。おまえらちゃんとやっていたのか」 「おうよ」 「完璧っ」 胸を張って答える二人を見て、俺は少なからず感動していた。 早く終わったからゲームをやっていいなんて理屈はないし、許可もしていないが、それでも俺が出したテストを真摯にやり遂げたというなら、そこはきちんと評価しなくてはいけないだろう。 そして同時に、こいつらのことを端から真面目にやっていないものだと断じていた、自分の傲慢な決め付けを恥じる。 「すまなかったな歩美、栄光。よく確かめもせずに怒ったりして……俺もまだまだ修行が足りない。許してくれ」 「いいっていいって。オレらもゲームなんかやってたんだから、ふざけてると思われても仕方ねーし」 「うん、ごめんね四四八くん。わたしたちにちゃんと教えなきゃいけないって、責任感じてたんだよね」 「そういう気持ち、分かってあげられなくて友達失格でした」 「おまえたち……」 「なあ、なんなんだよこのあたしだけのアウェー感」 ともかく。 こいつらがやるべきことをやったのなら、俺も自分の仕事をしなくてはいけない。それがこの場の教師であり、また友人でもある者の務めだろう。 「受け取ろう。見せてくれ」 言って、俺は二人から渡された用紙に目を通したのだ、が―― 「あれ? なんか今、ヘンな音しなかったか?」 「ビシ、とか、バキ、とか、硬いものが割れるみたいな音したよね?」 「四四八……?」 「ふ、ふ、ふふ、ふふふふふ……」 「お、おい、どしたよ。顔真っ青だぞおまえ」 「震えてるよ、寒いの? 風邪ひいちゃった?」 「……いや、違う。そうじゃない」 「ただ、少しな。答えてほしいことがあるんだ、栄光」 「おう、なんだ?」 「歴史問題その3……1904年に起こり、その結末は当時の世界的な常識を打ち崩したとも言っていい、大日本帝国が関わる出来事とは何か」 「あ、それ? バッカそんなの決まってんじゃん。なんでそんな分かりきったことを訊くんだって感じで、四四八にしちゃサービス問題だったよな」 「じゃあなんだよ?」 「当然、オレの曽祖父さんが生まれたことだよ」 「そうなのっ?」 「たぶん。いやつか、年代的にはそれくらいだと思うんだよね。その時分に起きたことでさ、かつ大日本帝国絡みっていやあ、そりゃあおまえそれしかないだろ。超歴史的大事件だぜ」 「後に世界の常識を破るっていうのは?」 「だ、か、らぁ――そんなのオレ様に決まってんじゃん。曽祖父さんが生まれたからこそぉ、すなわちオレもここにある。そう、後に世界を震撼させるこのオレ、大杉栄光に続く栄光の血脈!」 「認めろよ、そして歓喜し、恍惚の中で謳いあげることを許してやる。オレの名はァ――――」 くねくねと腰を回して踊りながら、奇怪なポージングを決めて絶叫する〈栄光〉《バカ》。 「EIKOU―――! イッツ・グレイテスト・シャイニィィング!オーイエース!」 「……ああ、うん」 視界の隅で、さっさと避難する晶を捉えられていたあたり、まだ俺は理性を保てていたんだろう。 「日露戦争だこの戯けがァッ!」 馬鹿か? 馬鹿なのか? ああ馬鹿だったよなこの馬鹿は! 「へぶっ、ちょっ――痛い痛い、苦しい四四八、首絞まってる絞まってる!」 「貴様の脳に酸素が必要だとでもぬかすのか! 笑わせるなよそんな現象が物理法則に認められているはずなどない!」 「あっちゃん、あっちゃん、止めよう。四四八くん本気だよ!」 「いや、その、さすがにこれはあたしも止める気が起きないっていうか……」 「まあ栄光がアホなのはもう諦めるとして、おまえのほうはどうだったんだよ、あゆ」 「え、わたし?」 「そう。四四八がここまでキレてんだから、おまえも相当なもんだったんじゃねーのって……ああ、これこれ。えーっと」 「……………」 「なあ、あゆ……」 「うん?」 「なんで答え繋げていったらZIPでくれみたいな〈麻呂〉《ハバキ》のアスキーアートになってんだよ」 「だって〈神座万象〉《しんざばんしょう》シリーズ好きなんだもん」 「それはテストと何の関係もねえだろうが!」 「つかおまえら助けろよォ!」 ……ちなみに。 神座万象シリーズというのは、さっきこいつらがやっていた格ゲーを含むコンテンツの総称で、それなりに人気を博しているものらしい。 晶も、歩美も、栄光も、ご多分に漏れずそのファンであるようだから、今後もたまにそっち系のネタが出てくるかもしれない。 だが、それ以上のものではまったくないので、知らなくても何の問題もないとだけ言っておく。 なぜなら俺は知らないし、興味も全然ないからな! 「あー、たく、マジ死にかけたわ」 いっそ死んでしまえばよかったのにと思ったが、いつまでも馬鹿なことをやっている時間はない。こいつらが最低限テストを乗り切ることが出来るように鍛えるという、責任が俺にはあるのだ。 「今度こそ終わったな?」 「一応」 「はーい」 「でもやっぱりオレの曽祖父さんは偉大だと思うんだけど違うのかよ」 「黙れ」 ばっさり戯言を切り捨てて、再度回収した用紙に目を通す。 各々、なんとか、本当に格好だけだが、俺の出した課題をクリアしたと言っていい状態にはなっていた。 部屋の時計をちらりと見やって、深々と溜息を吐きつつ終了を告げる。 「結構、よくやった三人とも。講義はここまでにしよう、ご苦労だったな」 「お疲れー」 「ほんとに疲れたよー」 「でも逆に目が冴えちゃって、眠れそうにないなこりゃ」 時刻はすでに午前四時へと近づいている。あと五時間ほどで本番のテストが始まることを考えれば多少でも眠ったほうがいいんだが、こいつらの頭だとそれですべてを忘れかねない。というかそもそも寝坊しかねない。 だからといって完徹で臨むというのもハイリスクであることに変わりはないが、そこは若さで初日くらいなんとかなるだろ。緊張が切れないようにしておくほうが今は大事だ。 そう思ったので、すぐ解散とはせず、しばらく雑談でもすることにした。俺が目の前にいれば、こいつらもダレ難いだろう。 「晶も歩美も眠くはないんだな?」 「まあね。今のところはって感じだけど」 「四四八くんは平気?」 「俺は少しだけだけど仮眠したしな」 「あー、そうそう。それなんだけどよ」 コーヒーを一口飲んで苦さに顔をしかめながら、栄光が俺に問いを投げた。 「さっきおまえ眠ってたじゃん。そんときも、やっぱりいつもの感じだったのか?」 「なんだっけ、ほら、親戚の夢がどうとかいう……」 「明晰夢だ」 「そうだ、それそれ。メイセキム」 こいつらは俺の特異体質――というほどじゃあないかもしれんが、とにかくそれを知っている。そこは伊達に十年以上の付き合いでもないわけで、今さら何かを隠すような仲じゃない。 「見たかって言われれば、ああ見たよ。確か前にも説明したが、見ない夜はまったくない」 「明晰夢っていうのは、有り体に言えば自分が夢を見ていると分かっている状態の夢だ。それ自体は珍しくないし、誰だって経験のあるものだろうが」 「四四八くんの場合、絶対それを見ちゃうんだよね?」 「そういうこと」 「普通はっていうか、あたしの場合なら、何ヶ月かに一・二回だけ、そういうことがあるかもしれないっていう程度だよ」 「まあ個人的には、ちょっと気持ち悪いねアレ。なんとなく損した気分になるってゆーかさ」 「ああ、分かる。全然眠った気がしねえから疲れるんだよな、明晰夢って」 「否定はできないな。もっとも、俺にとっては普通の眠りってやつのほうが分からないから、比べようもないんだが」 結局のところ、俺の体質とはそういうものだ。 眠っても、ああ自分はいま眠っているなと意識できているのだから、少なくとも頭のほうは眠っていない。学術的にも、そういう状態だと説明がなされている。 ゆえに寝た気がしないという栄光の意見はその通りで、損した気分になる感覚も理解はできる。だが言ったようにそうした眠りしか知らない俺は、もう少し別の感覚を持っていた。 「俺はそれほど苦にしてないぞ。むしろ有意義なことだと思ってる」 「考えてもみろ、一日は二十四時間ある中で、眠っているのは平均して八時間かそこらだろう。それを一生分計算したらどれくらいあると思う?」 実に人生の三分の一。それだけの膨大な時間を、普通の人間は眠りに費やしているわけだ。 「何もしないで、意識もなく、ただ休んでいるだけの時間がそれだけある。もったいないだろ。その間、何も実になるものはないんだぞ」 「まあ、休憩中なんだから、なんにもしないのは当たり前のことなんだけど」 「四四八くんらしい意見だねえ。怠けちゃってる時間が惜しいってことかな」 「わたしたちも夢は見るけど、毎日じゃないし。ほとんどはすぐ忘れちゃうから、寝てる間のことは何の実にもならないって言われれば、その通りかもだね」 「それもあるが、もっと単純な感覚かな」 苦笑しながら、歩美の言葉にかぶりを振る。 そう、これは極めて率直な、当たり前の損得感情。 俺は眠りに伴う意識の断絶を持ち得ないぶん、普通の奴らより長生きしているような気分を味わえるのだ。 「仮におまえらが八十まで生きたとしたら、睡眠時間はだいたい二十七年くらいだろう。つまり普通は、八十年生きたとしても、五十三年そこらしか認識できないってことになる」 「しかし俺が八十まで生きた場合は、丸ごと八十年が覚醒時間だ。これを他の奴らの感覚に照らしてみれば、百二十年生きたのと変わらない。まあ雑な計算と理屈だが、そう的外れでもないだろう」 「だから、もしこの体質がなくなるようなことがあったら、本音のところ俺は困る。それは寿命を奪い取られたような感覚で、まさに“損した気分”っていうわけさ」 「ほー、なるほど。確かにねえ」 「四四八くんはそういう感覚なわけなんだ」 「でもよお」 と、そこで栄光が半畳を入れてきた。晶と歩美は俺の意見にある種の納得をしたようだが、こいつは何か別の突っ込みがあるらしい。 「前にちらっと調べたことがあるんだけど、明晰夢ってやつ? それって目が覚める直前の、短い時間の間に見るらしいじゃん」 「ああ、そういう説があるな、実際」 「だろ? ていうか夢自体、そんな感じの浅い眠りのときに見るとか何とかいうのが定説でさ」 「つまり、何が言いたいんだよおまえ」 「だから、四四八だってその夢見てるのは起きる直前の数分かそこらで、実際はオレたちと同じように、何時間も意識飛ばしてんじゃねーのってこと」 「だったら八十年が百二十年とか、そういう理屈はおかしくね? そもそも夢の中って、時間の感覚があやふやじゃん。オレとかおまえ、夢の中で何ヶ月もハーレム城にこもってたことがざらにあるぜ?」 「いや、そりゃあくまで設定だから、実際に何ヶ月も体感したわけじゃあねえけどよ。基本、夢ってのはそういうもんだろ。なあ?」 「栄光くんのハーレム願望はともかくとして」 どうせそんなの現実には起こり得ないしと、ばっさり切りながら歩美が同意の頷きをする。 「それは確かに、言われてみればその通りだね。そのあたり、どうなのかな四四八くん」 「そうか、そういえばそこは詳しく話したことがなかったかな」 徹夜のための雑談が期せずしてそんな流れになってしまったが、まあ別にいいだろう。これもまた言った通り、こいつら相手に隠すようなことでもない。 せっかくだから順序立てて話そうと思い、整理するために少し間を置いてから口を開いた。 「まず明晰夢は起きる直前に見るというやつ、それは確かにそうかもしれない。俺も調べたことがあるんだが、基本的には途中で気付くものなんだろう? ああ、これは夢だと」 「あ、そうかも」 「うんうん」 「だな。だからもうメチャクチャやっちまえとお姉ちゃんの海に特攻したら、無念にもそこで目が覚めるっていう――」 「そこから導き出されるのは何か」 「聞けよっ!」 「身体に先んじて、頭が起きたから夢だと認識したっていうことだ。要は金縛りと似たようなもんだろう」 「だが俺は、途中で気付いたりしない。最初からこれは夢だと分かっている」 「つまり――」 俺と同じく、栄光をまったく無視して晶が応えた。 「四四八は絶対明晰夢を見るんじゃなくて、明晰夢“しか”見ないってこと?」 「さすがに自分が眠ってるときの脳波を調べたことはないけどな。たぶん凄く浅いラインで最初から最後までいってるんだろう」 必ず明晰夢を見るということと、明晰夢しか見ないということ。この微妙なニュアンスの違いは、実際分かりづらいだろう。俺にしても晶たちの感覚が実感として分からなかったから、今まで説明が不充分だったわけだし。 「一般的に、眠りっていうのは沈んでいくものなんだろう? 沈んで、浮かんで、また沈んで……レムとノンレムっていう波だよな」 「夢を見るのはレムのときで、浅いとき。その中でもさらに浅くなったとき、頭だけは覚醒した状態のときに明晰夢が発生する」 「だから、それは“気付く”ものなんだ。浮上する過程で、明晰夢の領域に上手く嵌ったら気付ける。これは夢だと」 「けど、最初からそこまでしか降りない奴には気付くも何もないだろう。ノンレムがなく、一から十まで常に明晰夢っていうわけさ。それが俺」 と言いながらも確証はないが、おそらくそういうことなんだろう思っている。 明晰夢というもの自体、脳の分野だからまだ謎は多く、完全に解明されているわけじゃない。だからここでは、あくまで自分の感覚だけを言っておく。 少なくとも、夢だと気付かない夢というものを見たことは、たとえ断片であろうと一度もない。 夢だと気付いてほっとする。がっかりする。ああよかったこれは夢だ。なんだ夢かよ残念だ。そんな感覚を俺はまったく知らないのだから。 「……そうなんだ。でもそれって、なんだか健康に悪そうだよ。大丈夫なの四四八くん?」 「歩美、今まで俺が体調を崩したことがあったか?」 「ない、ね。ずっと皆勤賞」 そこは幼なじみでずっと一緒にいたのだから、説明不要で分かっていることだろう。 「この体質ともいい加減に付き合いが長いんでもう慣れたよ。それで済む話なのかと言われても、それで済んでいるんだから大丈夫としか言えない」 「まあおまえみたいなのが他にもいるとか聞いたことないし、実際ぴんぴんしてるんだから、そういうもんなんだって思ってるよ」 「すっげえ丈夫だもんな、四四八は」 「そういうことだな。鍛えてるし、体調管理にも気を配ってる。だから心配は無用」 「ともかく、これで俺の眠りが根本からちょっと違うと分かったろう。そのことを裏付けるもう一つの理由として、さっき栄光が言った二つ目の突っ込みに対する答えがある」 夢は時間感覚があやふやで、現実の時間とは重ならないという一般論。 だが――俺に言わせればそういう感覚のほうが分からない。 「話してなかったが、俺が見る夢の長さは現実で眠ってる時間とほぼ同じだぞ。少なくとも、体感的にはそう捉えてる」 「マジで?」 「ああ、おまえみたいに〈一〉《 、》〈回〉《 、》〈の〉《 、》〈眠〉《 、》〈り〉《 、》〈で〉《 、》何ヶ月も設定上続いてる夢なんかは知らないな。そういうのはあれか、途中でシーンが飛んだりするのか?」 「あ? そりゃおまえ、うん……まあ、そうだな」 「マンガとかでよ、そして翌日だの、そして数年だの、そういうのあるじゃん。あんな感じだ」 「四四八は違うんだ?」 「違うな。さっきの仮眠は九十分くらいっておまえは言ったけど、俺が夢で逃げ回ってた時間もだいたいそんなものだったよ」 それこそ、俺の眠りがとても浅いところにある証明だと思っている。頭は覚醒しているから、現実の時間感覚をそのまま夢に持ち込んでいるんだろう。 実際、夢の中で時計を見ながら時間を計ったことさえある。結果、言わずもがな誤差はゼロに近かった。 だから、俺の八十年は百二十年で云々というのも、別に間違っているとは思わない。歩美が言うように健康面はそれでいいのかという不安も確かにあるので、そこは普通より意識しているし。 「とまあ、長くなったが俺の夢はそういうことだよ」 「――て、なんだおまえら、ヘンな顔して」 「え? いやちょっと、ついでに興味が湧いたっていうか」 「“逃げ回ってた”って、なんだよ四四八。面白そうじゃん、どんな夢見てたか、話してよ」 「むっ……」 ああ、これはちょっと、口が滑ったか。 逃げ回るなんていうのは確かに俺らしくない行為であって、だからこそこいつらはそこを面白がっている。 「あともう一つ、四四八くんちょっとヘンな言い方したよね。一回の眠りで何ヶ月分もの夢なんか見ないって」 「じゃあもしかして、何回にも分ければ見てるの?」 「うっ……」 そういえば、さっきはそんなことを言ったかな。 というか、それについてこいつらに話したことはなかったかな。 「なーなー、いいじゃん。親友だろー」 「ほら四四八、けちってないで話しなよ」 「わたしも知りたいなー、四四八くーん」 「…………」 鬱陶しいなこいつら。 面倒くさくなった俺は、ずばり端的に答えてやった。 「俺の夢は連続もしてるんだよ。そしてここ最近は、なんだかよく分からん気持ち悪い奴と追いかけっこをしてる章ってことだ」 「は?」 「それってつまり、連載マンガみたいな?」 「ていうより、毎日やってる深夜アニメ?」 「おまえそれを、ガキの頃から今までずっと?」 興味津々の態でぐいぐいくる三人から顔を背けて、俺は答えた。 「そうだが、悪いか」 「すげえええええええええっ!」 同時に爆発する大歓声。俺は耳を押さえて喚き返した。 「何がだ、いちいち騒ぐな。時間考えろ馬鹿ども!」 夢が連続してるからってどうだというんだ。それは俺にとってごく当たり前の自然なことで、凄いとか何とか言われるようなことじゃない。 「いーじゃん、いーじゃん、超ドラマチックじゃーん」 「汚い、汚いよ四四八くん。わたしが今まで、何回続きが見たいと思った夢を見たことか。そしてその都度、儚く夢破れたか」 「そりゃ悪い夢だときついだろうけどさ、やっぱ単純に羨ましいぞ。十年以上もずっと連続してる夢なんて、それもうB面的な人生じゃん」 「分かった四四八! おまえが昔っから異様に勉強できるのは、夢ん中でも勉強してるからだろう、この卑怯もん!」 否定はできない。最近の追いかけっこのように何かしらのストーリーがないときは、当たり前に勉強をしている。 「いつもわたしたちのことを小猿か何かみたいに見てるのは、年上気分だからなんだね、この老け顔っ!」 顔は関係ないだろうが、十数年分の睡眠時間を計算すれば、精神年齢が三・四年はこいつらより先行していることになるのは確定で。実際こいつらは小猿なわけで。 「この際おまえの夢人生を一から十まで全部話せよ。これは義務だわ」 「あたしら幼なじみとずっと一緒にやってきた裏側で、こっそり別のストーリー抱えてたってのがなんかムカつく」 「てゆーかやらしい」 「まったく油断も隙も無いエロ将軍だぜ。おまえのハーレム願望も相当だな、四四八」 「貴様と一緒にだけはされたくないわ」 だが、だからって、十数年分のストーリーをここで全部話すのなんて不可能だ。時間が掛かるし、さすがに記憶も怪しいし、何より今さら恥ずかしい。 そんなこんなで、たいしてドラマチックなことなどしちゃいないからどうでもいいだろと、言い返しかけたときだった。 「―――――――」 派手に大きな音と共に、部屋のドアが開け放たれる。何事かと、皆の視線が集中したその先には…… 「あ……」 「え……」 「な、なに……?」 なんだろう、これは。誰も咄嗟に言葉が出てこない。 「え、えぇっと……」 熊だ。熊がいる。 それもなんと言うか、最近流行りのご当地マスコットのようなデフォルメした風貌だが、そのデザインセンスは凶悪の一言につきた。 熊、には違いない。しかし、その巨大で丸いメロンパンのようなむくんだ顔は、幼い子供が見たらひきつけを起こしかねない怪しさに満ちていて、それが全体の半分を占めているというスタイルは、まるで動く生首さながらのクリーチャーだ。 さらに極めつけなのは、この熊、なぜか首から下が触手だった。しかもその一本一本が人の腕くらいの太さを持ち、ぬらぬらと不気味な光沢を放ちながらミミズのようにうねっている。 まるでクトゥルー。そう、熊クトゥルーだ。事実俺たちは四人とも、SAN値がガリガリと削られて動けない。 凍りついた時間の中、ようやくのことで口を開いたのは歩美だった。 「あ、あのぉ……」 「どちら様、ですか?」 「そばもん」 「そばもんっ!?」 名前か、それは!? 「そう、そばもん。僕はお蕎麦の妖精、そばもん」 「……いや、そりゃ確かに、晶ん家は蕎麦屋だけども」 「お勉強を頑張ってる子供たちに、お蕎麦を差し入れに来たのだそばもん。しっかり食べて、大きくなってほしいのだそばもん」 「語尾がそばもんなんだ……」 「まだキャラが固まってないんだろ」 熊クトゥルー、否、そばもんと名乗るクリーチャー、ではなく、着ぐるみは、ぐにゃぐにゃと怪しげな足取りでこっちにやってくる。正直なところ、気色悪いことこの上ない。 「か、可愛い……」 「どこがだよっ」 俺も歩美も栄光もコケかけたが、晶の美的感覚が控えめに言って少々独創的なのは、部屋にある怪しげなぬいぐるみの数々を見れば分かるだろう。こいつの琴線に触れた時点で、そばもんのデザインが狂気を孕んでいるのは明白な事実だった。 そして、悲しいことにもう一つ、明白な事実というのがあるわけで。 栄光は過去にピンク色の人食いパンダと格闘した夢を見たことがあるそうだが、これは紛れもない現実なので、そばもんには中の人がいる。 それが誰かは、非常に遣る瀬ないが分かりきっていることだった。 「……何をやってるんだよ、母さん」 俺が愛し、尊敬する母、柊恵理子以外には考えられない。 「そ、そばばっ」 「あ、焦ってる焦ってる」 「バレてないとでも思ったんすか、恵理子さん」 「ち、違うもん。僕はそばもんで、恵理子さんなんていう美しい女性ではないのだそばもん」 「それ、あたしん家のマスコットキャラにでもする気なんですか?」 「母さん、頼むからそれだけはやめてくれ。店が真剣に潰れかねない」 晶の家には昔から世話になっているというのに、恩を仇で返すような真似はできない。こんなものが店員として出てきた日には、早晩客足は絶えるだろう。 「超オッケー! それでいこうよ恵理子さん、じゃなくてそばもん! これで商売繁盛間違いなしっ!」 「そばっ、そうだよね! 可愛いよね? さすが晶ちゃん、よく分かってるそばもん」 「ないないないない」 「ねえ四四八くん……恵理子さん、あれ自分で作ったのかな?」 「そういえば最近、なにやら夜なべしてたような気がする」 頑張り屋で、行動派で、若くエネルギッシュな自慢の母だが、たまにというか頻繁に、いいや十中十は常人に理解できない方向へ飛んでいくので始末に負えない。 そしてまた困ったことに、晶はその奇怪なベクトルがツボなのだ。ゆえに俺が何とかしないと、二つの家庭が崩壊する。 責任重大すぎるだろう。 「なあ母さん、分かったから、今日は一緒に帰ってもう休もう。薬出すから、悪い夢は忘れたほうがいい」 外宇宙の電波を拾うのはそれくらいにして、と言って促すと、触手がじたじたと暴れだした。 「もーっ、なんでいっつもそんなこと言うのっ! そばもん必死に頑張ってるのにぃ!」 きしゃー、と目から怪光線を放って絶叫する。 おそらくは蕎麦に見立てているのだろう触手の束が、濡れたズタ袋みたいな音を立てつつ俺の身体に絡み付いてきた。どういう技術なんだこれは。 「だから母さん、いい加減に聞き分けて」 「母さんじゃないもん。そばもんだもん!」 「剛蔵さんだって賛成してくれたんだからね!」 「あの人は母さんが言うことならなんだって賛成する決まってるだろ」 蕎麦屋の店主であり、この人の雇い主でもある晶の親父さん。 彼はなんと言うか、誰が何処からどう見ても、俺の母さんに特別な感情を持っているようだから…… 「さあガキども、蕎麦持ってきたぞ。これでも食って精を出せ!」 「ほぎゅわっ」 「なっ、恵理子さん! も、ももも申し訳ない、決してわざと突き飛ばしたわけでは! おい晶、俺はいま手が離せない。代わりにおまえが恵理子さんを助け起こして差し上げろ!」 「ったく、決まらねえなあ、このタコ親父は……」 「ハゲって言うなああああっ!」 「言ってねえだろ! てめえがタコだからそばもんもタコなんだよ、事実として受け入れろ!」 「ばっ――ち、違う! そんなことはないですよね恵理子さんっ」 「よ、四四八ぁ~~、起こして、起こしてよぉ。そばもんは倒れたら起き上がれない生き物なのよ~~」 この鮮やかにきらめく毎日のほうが、夢より数段は無茶だった。 「それじゃあ、遅くまでお世話になりました」 「なりましたー」 そんなこんなで午前五時過ぎを回った頃、俺たちは晶の家を出て解散することになった。 「おう、じゃあ学校でな。テスト頑張ろうぜ」 「もはや運を天に任せるわ」 「大丈夫だよ、みんなで一緒に修学旅行いこうね」 えい、おー、と掛け声をかけている三人。俺は俺で、そばもんを着たまま帰ると言う母さんをどうにか説得したところだった。 「ねえ四四八、やっぱりそばもん着て帰っちゃ駄目?」 もとい、まだ完全には説得できていなかった。 「本当に頼むからやめてくれ。職務質問どころじゃないから」 「でも、行きは着たまま来たんだけどな。お店の宣伝になっていいと思うんだけど」 「はっはっはっ、いつも店のために尽力していただき、ありがたいことです。が、心配はいりませんよ恵理子さん、今でも充分に流行ってますから」 「そうですか。ならいいんですけど」 確かに、この人を従業員として雇いつつも真奈瀬家の家計を維持し、そのうえでしっかり給料を払っているというのは尋常じゃない。 俺は俺でアルバイトもしているが、母子二人でやっていくぶんにはなんとかなる程度の収入を得ている。 そういう意味で、この剛蔵さんには計り知れない恩があった。生まれた時から親は母さんしか知らない俺にとって、文字通り父親同然の人と言えるだろう。 それは晶も同じなようで、父子家庭のあいつは俺の母さんを母親同然に慕っている。色々問題もあるが趣味も合うようだし、真奈瀬家と柊家の繋がりはかなり深い。 だから、この状態で子供の俺たちが望むことといったら一つなんだが…… 「ねえ、ところで四四八、あなた達の修学旅行って、いつからどのくらいの間までだっけ?」 「二週間後から京都方面に一週間」 「ああ、そうそう。でもそうなると剛蔵さん、私たちはお互い寂しくなっちゃいますね。そんなに長い間、子供たちが傍にいないなんて初めてのことですし」 「は、いや、それは確かに。仰るとおりでありますなっ」 「ほんとに。ですから私たちはその間……」 「え、恵理子さん……何をいったい」 「い、いけません。子供たちの前で、そのような……」 今、剛蔵さんが何を考えているかは手に取るように分かるが、しかし。 「代わりに〈鎌倉〉《こっち》へやって来る修学旅行の子たちのため、お店を一緒に頑張りましょうね」 「あ……ああはい! 当然ですとも喜んでっ」 うむ。まあ。一ミリたりとも進展するわけがないだろうと、ハナから分かりきっていた。 「……自分らも一緒に旅行いこうくらい、言えよこのヘタレは」 「いやあ、無理だろ。だっておやっさん純情だし」 「恵理子さんの鈍さも半端じゃないからね」 「つくづく、情けない」 いかに二人ともヤモメ暮らしが長いとはいえ、仮にも一度は結婚を経験し、俺たちほどの子供がいる歳なのに、恋愛感覚は幼稚園児のようなレベルだ。 俺たちとしては、この恩ある愛すべき大人たちに是非とも幸せになってほしいところなんだが、そんな未来はまったく訪れそうにない。 救いは、今のままでも充分に幸せそうなことだけどな。それでもこんなことを願うのは、やはり余計なお節介というやつだろうか。 「ま、オレらはオレらで、目の前の試練に挑もうや」 「珍しくいいことを言うな。そのとおりだ」 「やば、あたしちょっと眠くなってきたわ。どうしよう」 「うーん。わたしは少し寝ちゃおうかなと思ってるけど……」 「あ、そうだ四四八くん、これ知ってる?」 何を思い出したのか、不意に歩美が手を叩いて話題を振ってきた。 「あのね、ちょっと前に千信館の眠り姫さまが目を覚ましたんだって」 「眠り姫?」 なんだそれは? 千信館は俺たちが通ってる学校だが、そんな呼称は聞いたことがない。 「え、そうなの? 知らんかったわ」 「へえ、だったら復学すればあたしたちと同学年か」 「いやいや、おまえらちょっと待て」 そんな当たり前のように会話をされても、俺はまったくついていけない。 「なんだよそれは。聞いたことないぞ」 「はあ、おまえ知らねえのかよ。結構有名な話だぜ」 呆れたように目を見開いて、大袈裟に驚く栄光。 だが知らないものは知らないので、知らんと答えるしか俺には出来ない。 「わたしたちが入学する前の二年生で、面識はないけど、そういう人がいるんだよ。ていうか、形式上はうちのクラスだし」 「出席簿に一つ空欄があるの、覚えてないか? それがその人の枠なんだよ」 未だ不得要領の俺に対し、二人が説明をしてくれた。 「事故とか自殺未遂とか病気とか、色々噂があって本当の原因は何なのか分からないんだけどね。とにかく二年前の二年生で、今までずっと眠り続けてた女の子がいるの」 「どういう事情にしろ、本人にとっちゃ堪ったもんじゃないだろうが、なんかこうドラマチックな尾ひれがついてるバージョンとかもあってだな。そういうのが好きな女子たちの間じゃ有名なんだよ」 「で、そいつが目を覚ましたと?」 「うん。だってこの前、ハナちゃん先生が職員室で話してたのをわたし聞いたし」 「当時の担当だったらしいからなあ、花恵さん。色々と思うところがあるんだろうさ」 「ふぅん」 初耳だったが、それはなんともコメントに困る話だな。 話によると無事復学すれば同じクラスになるようだし、そうなったら必ずひと悶着あるだろう。事情が事情なので周りも表面上は騒がないかもしれないが、腫れ物に触るような扱いになるのは間違いない。 その眠り姫とやらがどんな人物か分からないので、事態が予想し難いのも問題だ。何にしろ俺たちは、相応にデリケートな対応を求められることになるだろう。 「でもよ、姫さま扱いされるくらいなんだから絶対美人だよな? 美人に決まってんだよな? そんできっと、彼女はオレ様の栄光に欠かせない存在として、エイコーくんって優しく可憐に――」 「黙れ栄光」 「うるさいよ栄光くん」 「おまえこそ永遠に眠ってろよ栄光」 「ひでえっ」 だがまあ、こいつのひたすら前向きなところも見習うべき点ではあるか。 「仮にそいつが復学してくるにしても、テスト期間が終わってからだろう。まず俺たちは目の前の山を越えて、話は全部そこからだ」 「修学旅行には間に合うかなあ?」 「さあな。だがどうなるにせよ、その眠り姫さんがすんなりクラスに馴染めるよう、皆で出来る限りの協力をしよう。眠っていた間にどんな夢を見ていたかは知らないが、起きて損したなんて思わせないように」 「だな」 「へへ、四四八にしちゃあ人情くさいこと言うじゃんかよ」 「失礼な。俺は別に冷血漢なわけじゃないぞ」 「うん、知ってる。むしろすっごく優しいよね。厳しいけど」 「オレには鞭ばっかり振るってるような気がするんだけど」 「それはおまえがそういうことしかしないからだろ」 「そのとおりだな」 とまあとにかく、この場はそういうことでもう終わりだ。 未だ向こうで、剛蔵さんと噛み合わない会話をしている母さんに声をかける。 「帰ろう母さん。剛蔵さんも、お邪魔しました」 「はーい」 「おう、また晶に勉強を教えてやってくれよな四四八くん」 「うざいってもう、ほっとけよあたしのことは」 「じゃーねー」 「またすぐになー」 そうして三々五々、俺たちはそれぞれの家路についた。 その途中で―― 「ねえ四四八、さっきあなた達が話してたこと、お母さんちょっと聞こえてたんだけど」 「クラスに新しい友達が増えるんだったら、どんな難しい立場の子でもあなたが守ってあげなきゃ駄目よ」 「分かってる」 こういうときだけこの人は、とても真摯な佇まいを見せるから、俺は頭が上がらないし上げようとも思わない。 それをマザコンと言われようとも上等だ。母を愛さない男など男ではないと、いつでも力強く断言できる。 「心配要らないよ。少し親近感の湧く相手だから」 「あら、そうなの?」 そう。二年もの間ずっと眠っていたというその女には、妙に心惹かれるものがある。それは単に、特殊な眠りをする者同士という程度でしかないけれど。 「ふふーん、そうか。まあ頑張りなさい」 「それでこそ私の息子よ。お父さんにも見せたかったなあ」 ばしっと俺の背中を叩き、快活に笑う母さん。 この人は、俺と二人のときはいつもそんなことを言う。 親父、親父か……顔も知らないし何の感慨も抱いていない相手だが、母さんはまだ親父のことが好きなのかな。だとしたら剛蔵さんは哀れだな。 好きなのにもう逢えなくなってしまった関係と、好きなのに上手くいかないと分かってしまう関係。 そういうところはきっと大人も子供も関係なく、ままならないよな、色々と。 そんなことを考えながら、俺は夜明け前の街を歩いていた。 家に帰った俺はジャージに着替え、運動靴を履いてから再び外に出ると、軽くストレッチをして深呼吸する。 さて、それじゃあ今朝もまた。 「行くか」 呟いて、俺は日課の早朝ランニングを開始した。 鶴岡八幡宮の近所にある俺の家から、海沿いの134号線を通って江ノ島の手前まで行き、帰ってくる。 この往復十キロほどの道程を、毎朝走るようになってからすでに四年は経ったろうか。もっと短い距離ですませていたときのことも含めれば、ランニング自体は七年以上続けている。 今の自分ならおそらくフルマラソンでもいけるだろうが、本職でも三時間近くはかかる42.195キロを登校前にこなすというのは趣味の範疇を超えているので、この距離からさらに伸ばすようなつもりはない。 折り返し地点が分かり易く、距離としてもキリがよく、そして何より風景的にも綺麗なのでこのコースが気に入っていた。特に今日のような、秋口の晴れた朝ならなおさらに。 単に走ることも俺は好きだ。他の運動全般もそうなのだが、これは自分の身体だと実感できる行為は例外なく面白い。 文字通り生涯の相棒である自分自身を意志と信念で操縦し、上手くいかなければ鍛えて直す。かつては出来なかったことが可能となり、さらに楽々とこなせるようになっていく達成感は、老若男女の区別なく、誰もが好む喜びだろう。 中でも走ることに俺が拘るのは、実際に足を動かし距離を踏破することで、リアルに前進している感覚を味わえるからだ。そしてもちろん、金の掛からない手軽なものだという経済的な面もある。 サッカー、野球、テニス、バスケットボール、柔道、剣道、その他色々……どれも好きだし興味もあるが、それらは体育の授業でやる程度に留めていたし、部活にだって入っていない。 うちは貧乏、と言うほどのものではないけれど、それでもやはり一般家庭より余裕がないのは確かなわけで。自分のバイトもあるのだから出来るだけ時間の取られない安価な趣味にしておきたかった。母さんに苦労はかけられない。 たぶん親というものは皆同じだろうが、子供がやりたいと言えば大概のことはやらせてくれる。無理をして、自分の楽しみを我慢して、磨り減りながら笑って言うのだ。あんたが幸せになってくれるのが一番嬉しいと。 ありがたいことだし、それに甘えるのも親孝行の一つではあるんだろう。しかし俺には、どうもそういう真似が出来そうにない。だから今、走っている。 鍛えるために。早く一人前の男になれるよう心身を練磨して、母さんや晶や歩美、俺が大事な皆にとって自慢の存在であるために。 一言でいえば強くなりたい――それが俺のずっと持ち続けている願いだった。 この先の人生でどんな分岐路があったとしても、自分の器量で道を拓くことが出来るように。 困っている奴がいれば守り、そして救ってやれるように。 そういう思いと並列して、眠りが少々特殊な俺だからこそ、こうやって強健な身体を作っておくことは基本としても重要だった。健全な精神は健全な肉体に宿ると言うし、間違っても早死になんかしてたまるか。未来を明るくするための努力ならば惜しまない。 勉強もそう。身体を動かすことと同じく、頭を鍛えるのも面白い。そして、何より性に合ってると思うのは、それがとてもフェアだからだ。 スポーツの世界は、ある意味でアンフェアなところがあると思う。言わば選ばれた者の領域で、そこで戦っていくには抜きん出た才能がどうしても必要になるだろう。 無論、勉強に才能が必要ないなんて驕ったことは言わないが、努力の範疇で将来的な効果を一定規模得ることが出来るのは誰でも同じだ。 つまり、学生時代に成績を上げれば、俗な話だがいい大学にいい会社、そしていい給料という道が開ける。世間は不景気だ何だと随分前から言っているが、それでも知恵と知識と学歴があって困るようなことは何もない。選択肢の幅も広がるだろう。 そんなわけで今現在、俺が見据えている道は検事か警察、そのあたりだ。将来は法の世界で戦っていこうと考えている。 それが俺にとっての親孝行で、強さを得るための選択だった。その夢を叶えるにあたり、もっとも堅実的で自分に合ったやり方を選んでいる。 だから―― 「つぁ―――はあ、はあ……」 折り返し地点の浜辺まで来た俺は、そこで再びストレッチをしてからもう一つの日課を始めた。 それは夢の再現。〈夢〉《あっち》でやったアクションを、〈現実〉《こっち》でも出来る限りやってみること。 無論、50メートル以上もジャンプしたり、何もないところから壁を出現させるなんて真似はどう足掻いても不可能だが、単純なアクロバットならその限りじゃない。 夢の中でやったことは、俺のイメージによる現象だ。ならばその動きは俺の中に、やはりイメージとして残っている。 早い話、参考動画が頭にあるから、それを真似て身体に覚えさせるということだ。夢の中ほどスーパーマンにはなれないが、現実的な範囲で鍛えられはするだろう。 夢は夢だからと、何の糧にもしないんじゃ意味がないしもったいない。 こうやって実現できる幅を広げていれば、さらにイメージは増強されて夢の中での超人ぶりは加速する。そして再びそれを真似て、現実に適用するという相乗効果のレベルアップ。 そんな簡単な話でもないが、七年もやっているのだから効果は確実に出てきている。最初はただの逆立ちさえ出来なかったが、今では月面宙返りくらいなら問題なく―― 「よっ―――」 我ながら鮮やかに決め、砂浜に着地する。 足場がこれだから若干やり難いが、そのぶん失敗したときの危険も少ない。 まだ小さかった頃はここまで走ってこれなかったから、近所の公園でバク転をしてえらい目に遭ったものだ。 この海岸で訓練するようになって四年。年中いるサーファーの人たちとは、すでに結構な数で知り合いになっている。 彼らは俺のことを体操選手志望だと思っていたのでその誤解は解いたのだが、すべてを説明するのは面倒だし、変人だと思われるだけだからただの健康マニアということにしておいた。実際、それは嘘でもないし。 そんなわけで三十分ほど、ここで体操をやった後、来た道を帰るというのがいつもの流れになるんだが…… 「いや、もう少しやっておくか」 より正確に言うと、もう少し別のメニューを。 俺は深呼吸を一つすると、足を肩幅に開いて拳を上向きにしたまま腰溜めにし、前方に回転させながら突き出した。 「―――ふッ」 ちゃんと習ったわけでもないので経験者から見れば不恰好だろうが、空手の正拳突きというやつだ。 これまで体操ばかりやっていた学生がいきなり武道の型を始めたので、近くにいたサーファーのおっさんに冷やかされる。兄ちゃん、今度はカンフーかと。 少しばかり恥ずかしかったが、別にふざけてやっているわけじゃない。俺なりに考えがあってのことだ。 夢の中……俺を追いかけてくる謎の影への対処法。逃げて完全に撒くことはほぼ不可能だと分かってきたので、いよいよとなれば戦うことも想定しなくてはならない。 しょせん夢にすぎないからどうでもいいと、雑に考える思考を俺は持たない。晶が言ったように、あれはあれで俺の人生のB面だ。 ゆえに、今夜もあいつが追いかけてくるようなら考える。 そのためには付け焼刃だが、格闘の動きを身体に覚えさせたほうがいいだろう。いざというとき、無駄なくイメージできるように。 そう思ってそれからしばらく、俺は慣れない型を練習した。 お陰で家に帰ったとき、すぐさま出なければ遅刻するという状況だったのは誠に遺憾で、俺らしくない〈杜撰〉《ずさん》なスケジュール管理だったと反省している。 「ああぁ、四四八~~~、いってらっはい」 母さん、出際に一応起こしておいたが、はたして大丈夫だろうか。 仕事に遅刻しないで、かつちゃんとやれるかどうか心配だ。 まあ、心配な奴らは他にも数名いるわけなのだが…… 「お、おおぉぅ、おっつー」 「あー、いかん。どうにもこりゃいかん」 「目がしぱしぱするよ~」 なんとかこの通り、寝過ごして遅刻という事態だけは避けられたらしい。 もっとも、全員押せば倒れそうな感じなので、まともにテストができるかどうかは知らないけど。 「しっかりしろよ情けない。たかが一晩寝てないくらいでふらふらするな」 「むしろなんでおまえはそんなに余裕なんだよ」 「四四八さあ、まさかとは思うけど、今朝もアレやってきたの?」 「ランニングか? 当たり前だろ。継続は力なり、だ」 「鉄人だよね、実際……」 そういう風に言われるのも悪い気はしないが、別に自分が大層なことをやっているとも思ってないので、俺にはこいつらが貧弱に見えるだけだ。 「頼むから、無様なことにはならないでくれよ。おまえたちに教えた俺のメンツもかかってるんだからな」 「へいへい、ご期待に副えるよう頑張りますよ」 「だけど四四八くんはさあ、そのせいで自分の勉強をほとんどやってないと思うんだけど、大丈夫なの?」 「大丈夫だろ。四四八なら何もやってなくたって成績上位は逃さねーよ。寝ながら勉強もしてるようだし」 「今回もまた、学年一位は死守するつもりなんだろう? これまでずーっと取ってるもんな」 「さあ、どうだかな」 何が何でも一番を取らなければいけないなんて、病的に思っているわけじゃない。しかし、手を抜かずにやってきた結果がそういうことになっている以上、そこから落ちるのは怠けた証拠のようで嫌ではあった。 「俺よりずっと努力した奴に上を行かれるなら、それはそれで痛快だろうなとも思ってはいるがな」 「そういう奴と競い合って、高め合うライバル関係っていうのも理想的だろ」 と、そこまで言って、俺は一端言葉を切る。何か背筋がぞわっとしたからだ。 「どうした?」 「いや……」 やめよう、こういう話は。 「一番がどうとか言ってると、アレが来る」 言った瞬間、すでに手遅れだったと自覚した。 「うおっ」 「きゃっ」 「来ちゃったよ、おい……」 校門の前までやって来たとき、重苦しい排気音と甲高いブレーキ音を響かせて、俺たちの目の前に横付けしてきた車がある。 外国車のリムジン。そこから出てきたのはもはや確かめるまでもなく―― 「ごきげんよう、逃げずによくやって来たわね柊。その度胸だけは褒めてあげるわ。今日こそ決着をつけましょう」 「うーわー……」 「りんちゃん、今朝もまた一段と……」 「濃いんだよ、このインチキ鹿鳴館」 〈我堂鈴子〉《がどうりんこ》……クラスメートで、まあ見ての通りの、うむ、馬鹿だ。 「誰が馬鹿よっ!」 「まだ何も言ってないだろ」 「顔を見れば分かるのよ。私がどれだけあんたのことを考えて、夜も眠れず悶えていると思ってるの!」 「愛の告白かよ」 「ある意味そういうものだと思うけど」 「おまえ見て、馬鹿以外のどんな印象を抱けっていうんだ」 「なんですって?」 ぎらりとナイフのように目を細め、我堂が晶たちを一瞥する。 「あーら誰かと思えば、三匹の小猿たちじゃない。そろいもそろって飽きもせず、今日も柊の腰巾着ってわけ。進歩がないわね」 「りんちゃんも相変わらず、すごい車に乗ってくるよねえ」 「ぺたぺた触るんじゃないわよ庶民風情がっ! ていうか私の話を聞きなさいよ!」 「なあ栄光、我堂の家って〈極道〉《ヤクザ》だったかな?」 「うんにゃ、由緒正しい右翼だよ。ガチの国粋主義者系」 「あんなもんに敬われる天皇陛下も大変だな」 「とにかくっ」 「いつまでも私に勝てるなんて、調子に乗ってるんじゃないわよ柊! 今回こそあんたに勝つため、私がどれだけ血を吐くような努力をしたか思い知らせてあげるわ、覚悟しなさい!」 「そして、私が勝った暁には絶対約束を守りなさいよ!」 「ああ、うん。まあ、そうだな」 「な、なんなのその覇気のない受け答えはああっ!」 「私のライバルともあろう大和漢が、恥を知りなさい恥をおおっ!」 俺の対応がお気に召さないようで、身悶えしながら叫ぶ我堂。傍から見ればただの危ない奴なんだが、こんな光景はすでに日常のものなので、道行く生徒たちは誰一人として気にしてない。 「おい四四八、可哀想だろ。なんか言い返してやれよ」 「そんなことを言われてもな……」 こいつは濃くて熱すぎるので、どうしてもこういう対応になってしまう。 もう少し、こう、普通に来るなら、言ったように俺も競い合いは嫌いじゃないので気持ちよく乗れるんだが。 そして、我堂にそうするだけの格があればな。いや確かに、こいつはでかい態度に相応しく、文武とも千信館でトップクラスの地力を持っていると俺も認めてはいるけれど。 「ねえ四四八くん、りんちゃんとした約束ってなんなの?」 「あれ、なんだ歩美知らねーの? 一年の一学期でいきなり四四八に負けた我堂が、以来ことあるごとに吼えてるんだぜ」 「正直、あまりでかい声で言いまくってほしくはないんだけどな」 その約束というか、一方的な要求とは。 「聞いてるの? 私が勝ったら、あんたは私の奴隷になるのよっ!」 そういうことで、こいつには負けられない。もっとも、負けようがないが。 「あっはっはっは、このばーっか」 「な、な、な、言ったわねこのゴリラゴリラ! あんたみたいなガサツが服着て歩いてるような男女に、馬鹿呼ばわりされる覚えはないわよ!」 「じゃあてめえは大和撫子ってか、ジャパンってか? はッ」 「我堂はドリブルが上手いとか、せいぜい落ち要員だろうが。おもしろヨゴレの分際で」 「いや悪ぃ、おまえと比べちゃ世界の兄貴に失礼だわな。あっちは英雄。おまえは貧乳」 「早よ家帰って、旭日旗でも振ってろ。大日本帝国万歳っ」 「う、う、う、うぅぅ」 泣くなよ、我堂。そんな小学生の口喧嘩みたいな悪口で。 「あんたの父ちゃんハゲーっ!」 「行ってらっしゃいませ、お嬢様」 走り去っていく我堂の背に、護衛の人たちが礼をする。この人たちもこの人たちで、色々苦労してそうだが鉄のように揺るがないよな。そういうところは凄いと思う。 「うちの親父がハゲなのは事実なんだからあたしの悪口になんねえだろ」 「りんちゃんは嘘を言えない人なんだよ」 「毎度嵐のごとくだよな」 まったくもって同感だが、それでも家人の前で娘さんを泣かしてしまったわけだから俺としてはバツが悪く、護衛の人たちに頭を下げておくことにした。 「その、すみませんでした。別にいじめてるわけじゃないんですけど」 「はい、分かっております。お嬢様も、あれで本心は皆様との触れあいを楽しんでおられますから、今後とも変わらぬお付き合いをお願いします」 「ああ、それで柊様、よろしければこれを」 「は、なんでしょうか」 何かのチラシを手渡されたので、目を通してみれば、それは…… 「迷い猫……?」 「はい。ご近所の幼い女の子からお嬢様が依頼されたとかで、私どもは現在、こちらの猫を探しております。よって、何かお心当たりがありましたらご連絡を」 「それはまあ、はい……構いませんが」 「あのー、これ、せめて写真とかはなかったんですかね」 「この絵、その女の子が描いたんですか?」 「いえ、それは、何と申しますか……」 「まさか、我堂が?」 「はい。お嬢様はいたくそのお子さんに同情したらしく、なんとしても己が力になりたいと仰いまして……」 「なるほど」 その心がけは立派だが、しかしこれは、なあ、さすがに…… 色々言いたいことはあったものの、とりあえずここで口にするのはやめておいた。チラシを仕舞って、了解の意だけを伝えておく。 「分かりました。俺たちも出来る限り手伝ってみます。それじゃあ」 「ご協力感謝します。いってらっしゃいませ」 この通りチャイムも鳴ったので、今はそろそろ教室に移動しようと思う。 で…… 「ようやく来たわね。てっきり怖気づいて逃げたものかと思ったわ」 逃げたのはおまえだろ、とは誰も言わない。 早くも復活している我堂の変わり身はもはやいつものことなので、呆れと諦観を抱きつつも全員そこはスカっと無視する。 テスト前のざわついた教室の中で、クラスメートたちはそれぞれ最後の復習をしたり瞑想したり、あるいは諦めたのか机に突っ伏したりと色々していた。 「おまえらは何もしなくていいのか?」 「ああ。いま下手に教科書見ると、逆に頭が初期化されそうだわ」 「同じく、あたしも。ようやく自分なりに整理したところだから、ここで余計な情報入れたくない」 「わたしたちスペック低いもんねえ。だから少ない容量なりに頑張るのだよ」 「まったく、いかにもな負け犬の考え方ね。嘆かわしいったらありゃしない」 「我堂、構ってほしいならそう言えよ」 「誰がそんなこと言ったのよっ」 「あーもう、うるさい。分かったから、静かにしてろ」 「りんちゃんは最終チェックとかしないの? わたしたちと違って、容量大きいからできるでしょ?」 「柊がしてないから私もしない」 「四四八はしないのか?」 「いや、するよ。人事は尽くさないとな」 「え、するの? じゃあ私も――」 「だからばたばたするなっつったろーが」 そのとき、不意に教室の扉が開いて皆がそちらに目を向ける。現段階でクラスメートたちはいつもどおり揃っていたし、そうなれば先生が来たのかと思って注目したのは当然の反応だった。 しかし、現れたのは想像していた人物とまったく違った。 「――――――」 「げっ……」 「〈鳴滝〉《なるたき》……」 「うわ、久しぶりに見たよ」 そいつの登場で、さっきまでざわついていた教室は一気に水を打ったかのごとく静まり返った。 〈鳴滝淳士〉《なるたきあつし》。ほとんど登校してこない奴だから、俺もうっかりこいつのことを数え忘れていた。そこは他の奴らも同様だろう。 だがそれは、少なくとも大多数のクラスメートにとって、鳴滝の印象が薄いからというわけではない。むしろ逆だ。 「チッ……」 不機嫌げに顔をしかめて、さっさと自分の席に腰を下ろす鳴滝。そのまま目を閉じて無言のあいつを、皆が遠巻きに見守っている。 「びびったぁ~、相変わらずおっかねえよ。緊張感パねえ」 「そりゃ、あのガタイと顔だもんな」 「でも、さすがに試験の日は来るんだね。意外に真面目だったりするのかな」 要するに、鳴滝淳士は不良・問題児というレッテルを貼られている。そこは晶も似たようなものだが、こいつは単に口が悪いだけなので、同じクラスでしばらくすごせばすぐに誤解は解けるのだ。 しかし、鳴滝はそもそも登校回数が少ないのでどんな奴か分からない。加え、過去に何度か暴力沙汰を起こしている。 結果として悪評だけが広がっていき、まあこんな扱いなわけなのだ。俺としては、そこまで危険な奴だと思ってはいないんだけどな。 あいつはあいつで、周囲を拒絶しているようなところがあるから対処に困る。何か機会でもあればと思っているが、現状打つ手がないという感じだった。 「ふん、恥ずかしい奴ね。これ見よがしに粋がっちゃって」 「ばっ、おま、我堂――聞こえるだろ、しー、しー!」 「別にいいわよ。あんな奴に何が出来るっていうの。実は小心者に決まってるわ」 「へえ」 「何よ?」 「いや、おまえやけに鳴滝には厳しいな。誰彼構わず毒づくのはいつものことだけど」 「そうだねえ。なんだか鳴滝くんのこと知ってるみたい」 「そんなわけないでしょ。単にああいう人種が嫌いなだけよ」 「悪ぶるのが格好いいとか思ってるようで底が浅いわ。一人じゃなんにも出来ないくせに、群れるとすぐ調子に乗る。みっともないし見苦しい」 「はー、そう。なるほどねえ」 「だけど鈴子、ちょっといいか。その一人じゃ何も出来ないってやつだけど」 「それがどうしたのよ」 「いや、それってヤンキー批判するときはよく聞くタイプのフレーズだけどよ、実際に何が出来ないって言うんだよ」 「へ?」 「だから、まさか言葉どおり、箸の上げ下げとか着替えまで出来ないような赤ちゃん並の存在だって言ってるわけじゃないだろう。察するに喧嘩とか脅しとか、まあ色々と反社会的な行動のことなんだろうけど」 「そういうのなら、あいつらは一人だって充分やってると思うぞ。まあ、まったく威張ることじゃないし、群れればさらに大胆化するのも確かだけどさ」 「でもそれって、別にヤンキーだけの特殊な習性じゃないよなあ。一人じゃ難しいことをチーム組んでやって、可能行動枠を広げるってのは、哺乳類なら本能レベルでほとんどやってることじゃねーの?」 「だから、群れて気がでかくなるのがみっともないとか言いだしたら、歴史と社会の否定だぞおまえ。群れて悪事働くのが駄目なんであって、群れを好むこと自体は別にいいだろ。そうやって良くも悪くもブーストかけて、一人じゃ出来ないことをやっていくのが上手いから、人類繁栄してんだぜ」 「と、あたしは思うがどうなんだよ鈴子」 「うっ……」 珍しく晶が理屈っぽいことを言ったので、我堂はもとより俺も少なからず驚いていた。実際、一考に値する言い分ではある。 「う、うううるさいわね。らしくなく社会とかなんとか難しいこと言っちゃって」 「ヤンキーっぽいあんたがヤンキー無理矢理庇ってるみたいで説得力ないのよ」 「別にそんなんじゃねえよ。あたしだって暴走族とか嫌いだし、鎌倉がヤンキーの聖地みたいに言われるのすっげえ嫌だし」 「ただ、それと同じくらい筋の通らない言い分も嫌いなんだよ。批判するなら理路整然と完膚なきまでにやれってゆう……」 「今のが理路整然としていたかはともかく、確かに我堂もちょっと短絡ではあったな」 「その、ヤンキーが? 一人のときにやってるだろう小賢しい悪事を指して何も出来てないと言うんなら、俺たちも一人のときはたぶん何も出来てない。良い意味でも悪い意味でも、一人でやれることなんて誰も大差ないんだからな」 「そういうことなら賛成。わたしもみんながいなかったら、そもそもこの学校に入れてないし。今回のテストだって絶対に落としちゃう自信があるもん」 「千信館は、たくさんの信頼をみんなで築くっていうのが校訓なんだよ」 「だから何事も協力して頑張れってな。それに鳴滝、あいつはさすがアウトローだけあって群れてないし」 「ふんっ」 「拗ねんなよ、あたしがテストで勝ったら奴隷にしてやるから」 「あんたに私が勉強で負けるわけないでしょっ」 「やめとけ、晶。もうからかうな」 しかし、やれやれ。流れで妙な会話になってしまったが、お陰で最終チェックをしてる暇もなかったな。 「おーっす。おはようおまえら、席に着けえ」 「あ、ハナちゃん先生きた」 「おっしゃあ、マジ頼むわ偉大なるご先祖様」 「いいこと柊、私が勝ったら奴隷だからね」 「そういうこと言って勝った奴見たことないからやめとけって」 言いながら、皆が自分の出席番号に対応した席に着く。それを見届け、担任の〈芦角〉《あしずみ》先生はいつものようにやる気のない調子で口を開いた。 「あー、それではこれから、二学期の中間考査を始めます。各自全力で、日頃の成果を発揮すること」 「それと、間違ってもカンニングなんかしないように。そういうの見つけちゃったら、私が担任として責任を問われるから。忙しくなるの嫌だから」 「分かってるぅ、大杉ぃ」 「なんでオレだけ名指しなんすかっ!」 「自分の胸に手を当てて聞いてみよう」 教室中から失笑が起こったが、それでも緊張感は維持されている。俺はこういう、適度にピリピリとした空気が好きだった。 芦角先生はあんな感じで常に緩い佇まいだが、だからといって不正を見逃すような人でもない。それは皆分かっているから、威勢のいい連中でも彼女を舐めたりしないんだろう。 「んー、大丈夫かな。OKな感じ?」 「あー、でもなあ。やっぱり面倒くさいなあ。ねえ柊、おまえこっち来て、私の代わりに監視しててよ」 「…………」 前言撤回。何なんだこの人は。 「それだと、俺がテストをやれません」 「おまえなら余裕だろぉ。教卓使っていいからさぁ、頼むよぉ、よーよー」 「芦角先生っ! ふざけてないで早く始めてください!」 まったくだ。我堂に深く同意する。 「怖いなあ、我堂。女の子は笑ってるほうが可愛いんだぞ。モテるんだぞ」 「ああでも、おまえらジャリが恋愛とか無しな。そういうの見つけたらマジ退学だから。許さんから私」 「なんでこういうときだけトーン変わんだよあの人……」 「彼氏いない暦26年だからだよ」 「花恵さん、ほんとそろそろ……」 「あ、うんごめんごめん。そんじゃ始めるよー」 前の席から順にプリントを配っていき、全員に渡りきったところで時計を見ながら先生が告げる。 「3・2・1……」 チャイム。 「はいスタート。頑張れみんな」 そうして、修学旅行前の山である中間考査が始まった。 テスト問題その① 次の文を日本語に訳しなさい。 『Acta est Fabula』 テスト問題その② 次の単語を漢字にしなさい。 仏教における三毒――『とん・じ・ち』 テスト問題その③ 無量大数とはどれほどの数なのか答えよ。  テストの初日は、そうして大過なく終了した。  しかしその晩、予想通りというべきか、例の追跡者がまたしても現れる。  よって必然、定番の追いかけっこが始まった。  こいつは俺の真似をする影法師で、撒くにはこいつにとって未知の手段を用いるしかないというのが、すでに証明されている。そして現状、使用した手は運動神経強化と物質創造の計二つ。  長いし言い難いので、ここでは仮にアタックとクリエイトと呼んでおこう。それは夢ならではの超常能力で、イメージすれば何でも出来るという明晰夢の特権だ。  俺はその、ある意味で神のごとき力のことを、大別して五種にカテゴライズしていた。  すなわち、残った手はあと三つ。  これをすべて使い切る前に、追跡者を完全無力化せねばならない。  逃げに徹して撒くにしろ、戦って斃すにしろ。  俺の気持ちはすでに戦うという選択へ向かいつつあるのだが、同時に強く警戒もしていた。いきなり切った張ったに持ち込んでも、こいつがどういう反応をするのか読みづらい。  俺が戦うと決めれば応戦するのか、それとも逆に逃げ出すのか。  影という性質を考えれば、どちらも有り得るように思えてくる。前者はむしろ鏡だが、もう一人の自分という意味では同じことだ。  来るか逃げるか。  こちらの行動によって、あいつが取り得る行動も皮肉なことにこの二つ。  応戦してきた場合は、言うまでもなくリスクを覚悟しなければならないだろう。夢の出来事だからといって、楽観するのは危険と感じる。  なぜならここは、現実と変わらずリアルに見ている明晰夢。そこで重い傷を負ったら最後、心に何らかの影響が出たとしてもおかしくない。  対して向こうが逃げた場合、それはそれで厄介だ。一定以上に距離が縮まらないことを意味していて、追われたくないから追い続けるという、逆に面倒な事態を発生させる。  だから今、俺がまず見極めなければいけないのは奴の反応。それを確かめるために、初めて俺は踵を返して追跡者に向かっていった。  すると今、驚いたことにこいつは何か言葉を喋った。生憎と意味はまったく分からなかったが、少なくとも意思はあるという証明だろう。機械のように俺の真似をするだけの木偶じゃないっていうことだ。  加えて、待ちかねていたかのようなこの気配。  こいつは逃げない。向かってくる。  噴き上がった咆哮は凄まじく、俺の〈胆〉《ハラ》を震わせる。やはりまったく言語として聞き取れないが、こいつが激昂しているのは理解できた。  いや、それとも狂喜しているのか。  どちらにせよ、戦意は疑う余地もない。だったら俺も、覚悟を決めないといけないだろう。  〈夢〉《ここ》はイメージの世界だから臆せば終わりだ。力が出せないどころじゃなく、己が創りあげた負の妄想に自分自身が食われてしまう。  疑うな。勝利と成功を強く信じろ――すでに手は打ってある。  今まさに、俺たちが激突しようしている地点の直上。そこへ覆い被さるようなかたちで、ビルが横倒しに崩れてきた。  先ほど通り過ぎた際、アタックを用いて俺がこのビルを壊したのだ。無論、アタックはすでに一度見せているから、その行為自体が決め手とはならない。これはあくまで伏線だ。  狙ったのは、それが巻き起こす結果の出来事。  降り注ぐ何百トンもの鉄とコンクリートの雨霰。俺がそいつを避けない以上、こいつも避けない。するとどうなる。  もちろん、耐えるしかないわけだ。そして、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈手〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈見〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  ディフェンス――アタックとは対になる身体強化。丈夫さと治癒能力を爆発的に上げるという、第三の夢の形。 「さあ、我慢できるか?」  嘯いたそのときに、視界は瓦礫で埋め尽くされた。連続する轟音と共に、俺たち二人は生き埋めとなる。  そして…… 「終わった、か?」  ディフェンスの力によって瓦礫の山から無傷のまま這い出た俺は、今夜の終わりを実感していた。  ゆえに翌朝、俺はいつものように走っている。  ここ最近の悪夢であった影を撃退したことにより、少なからず気分はよかった。足取りも軽く浜辺までを走破して、やはりいつものように夢の再現を練習してから帰宅した。  中間考査の二日目は、そうしてこれも無事に終了。晶たちは死んだような顔をしていたが、あいつらが試期間中にゾンビの様相を呈するのはいつものことなので気にしない。  俺が気にするのは、その日の夜のことだった。  まったく予感していなかったわけじゃない。正直五分五分、いいや、七:三くらいでそうなるんじゃないかと思っていた。  影は再び現れる。  アタック、ディフェンス、クリエイトの三つをすでに使ったことで、影の厄介度は当たり前に上がっていた。もう直接的な手段じゃあ、こいつをどうにかすることは出来ない。  だから焦燥していく心の中で、しかし俺は、同時に奇妙な感覚に囚われていた。  自分でもまったく理解不能なんだが、なぜかこの鬱陶しくて堪らない影に対し、深く感謝するような。  申し訳ないと、詫びるような。  そんな気持ちが、なぜかある。原因は分からないまま、しかし気のせいではない確たるものとして胸にあった。  だからそうした心のまま、その夜を終わらせる。  マジック――離れたものに干渉し、イメージを飛ばす第四の夢。  単純に言えばサイコキネス、念力みたいな能力だ。歩美や栄光あたりなら、攻撃魔法とでも言うだろうか。  ともかくそのマジックで、再び影を撃退した。  しかし当然、これで終わりじゃないだろう。  残った手はあと一つ。それを使い切っても次があったらどうするか。  どうもこうもないだろう。ずっと眠らずにいるなんて不可能である以上、そうなったときはそうなったとき。力の限り悪戦するだけ。  今日は三日目、試験期間の最終日。  いつものように走りながら、俺は静かにその決意を固めていた。 テスト問題その④ 叙事詩、失楽園の著者を答えよ。 テスト問題その⑤ ナチスドイツの中核、五つのHにおいて、黄金の獣と呼ばれた者は誰か。 「はいそれまでー。よく頑張ったぞおまえら、ご苦労さまー」 チャイムが鳴り響く中、ついに中間考査の全日程が終了した。方々で、疲れと安堵の溜息が漏れている。 テスト用紙を回収した芦角先生が、手を叩いて皆に注目を促した。 「おーっし、聞いてる? 明日は休みだから、まあゆっくりしときなさい。そんで、休み明けはお待ちかねの結果発表だから」 「うげえ~~」 栄光を筆頭に、何人もが露骨に嫌そうな悲鳴を上げる。だが芦角先生は、それよりさらに嫌そうな顔だった。 「おまえらなあ、色々びびってるのは分かるけど、休み明けに発表するっていう事実の裏側を読んでくれよ。もう小さい子供じゃないんだから、それくらいできるだろう? いいかあ――」 「おまえら、生徒が、休んでるとき、私ら、教師は、採点中で、休み無し」 「は、バーカ」 「…………」 なぜラップ調なんだろう。それほど嫌だという意思表示なんだろうか。 「ねえ、でもハナちゃん先生の科目は体育だし、今回のテストに関係ないんじゃないの?」 「〈龍辺〉《たつのべ》、おまえ面倒くさい。今そういうの求めてないから。空気読んで、ほんと」 「えーー」 「なんか別件で呼び出されてんだろ、たぶん」 「とにかく、テストの結果が著しく悪かった奴は補講だからね。そうなると修学旅行に連れてくことは出来ないけど、そこは自業自得と思って諦めよう」 「そういうわけで、以上解散。ああそれから、休み明けはもう一個、ちょっとしたサプライズを用意したから楽しみにしてなさい」 「じゃーねー」 言いながら、退室していく芦角先生。何はともあれ、これでひと段落はついたわけだ。 「しゃーおらあァッ! これで自由だ、待ちに待ったぜェ」 「後は結果さえ問題なければ、修学旅行まで一直線だね」 「問題なければっていうのが問題だけどな」 「そうそう、わたしも気になってるところがあって、特に数学の三問目と六問目だけどさあ」 「なによ歩美、あんたあの程度の問題に自信が持てないの? 危険よ、それ」 「マジか? オレはそれどころじゃねえんだが……ああぁ、ちょっと待て。やばい予感がしてきたぞチクショ~」 それぞれ席から立ち上がり、テストの出来について恒例の議論を交わしている。特に栄光は自分でも危うい手応えだったようで、話すにつれ顔色が悪くなっていった。 「……大杉、前々から思ってたけど、あんた達どうやってこの学校に入れたのよ。〈千信館〉《ここ》の倍率、甘くないのよ」 「まさか裏金……なんて払えるような家じゃないわね。手の込んだカンニングでもしたのかしら」 「ばーか、するかよ。そんなことしなくても、あたしらにはチートがついてるからな」 「そうだよ。傍に四四八くんがいる限り、わたしたちは常になんとかなっちゃうのだ」 「へえ、なるほど。それはまた」 ちらりと流し目でこっちを見やり、含むように我堂が続ける。 「随分と信頼されてるようで、いいわね、柊」 「お陰さまでな。けど、こいつらが受かったことについては、別に俺が偉いわけじゃないぞ」 「当たり前でしょう。どれだけ優秀な教師がついてても、最終的にやるかやらないかは本人が決めることなんだから」 その切り口上には棘があったが、いつものことなので気にしない。つんつん尖った奴ではあるものの、棘に毒がないのがこいつの味だと思ってる。 「だから大杉、あんたもぶつぶつといつまでも青くなってるんじゃないわよ。実力で〈千信館〉《ここ》に入ったっていうんなら、自分を信じてどんと構えなさい」 「そうしないと柊も立場がないし、〈千信館〉《うち》の生徒として校訓に違えるってものでしょう」 和を重んじて協力し、その中で自負と自主性、責任感を育んでいく。我堂の言う通りそれが校訓なのだから、生徒はそうあるよう努力しなくてはならない。 まあ正論で、俺も同感ではあった。栄光もそれに頷く。 「お、おお……そうだよな。ありがとよ我堂、励ましてくれて」 「別にそんなつもりじゃないわよ。あんたは馬鹿明るいだけが取り柄なんだから、ウジウジしてると気持ち悪いの」 「そりゃそうだ。んじゃまあ、とにかくテストは終わったことだし、今日はぱーっと遊ぼうぜ」 「そうだね、今からみんなで打ち上げしようよ。わたし、あっちゃんの家でお蕎麦食べたいな」 「そんなのいつも食ってんだろう。せっかくなんだから、別のトコに行こうぜ」 「ていうか今、晶ん家いったらそばもんがいそうで躊躇するわ」 「はあ? なんだよそばもん可愛いだろっ」 「ない、それはない」 「ねえちょっと、そばもんって何よ?」 「あー、うん。何って言われても、何て言うか……」 困ったように言葉を濁らせ、俺のほうを見る歩美。だが心配するな、あれが甚だしく間違った物体であることは、俺も大いに認めている。 なので黙ったまま頷きを返すと、歩美もまた頷いてから我堂に言った。 「とりあえず、りんちゃんがあれ見たら、卒倒するかもしれないね」 「ほんとに? あの店はついに不衛生でバイオハザードでも発生したの?」 「ちょっと晶、別に貧相な蕎麦屋が一つ、自業自得で潰れるくらいどうでもいいけどね。そこから妙な噂が広まって、鎌倉の観光産業に打撃を与えるようなことがあったら許さないわよ」 「うるっせーよ鈴子! それを言うならおまえの家のほうが邪魔臭いっつか、なあ四四八、そばもん可愛いよな?」 「おまえとそばもんのセンスについては置いとくとして」 やや収拾がつかなくなってきた場を制すように首を振って、俺は言った。 「せっかくだが、俺は打ち上げに付き合えない。バイトがあるんでな」 「えー、そうなの?」 「テスト週間中はずっと休んでいたからな。修学旅行中も当然無理だし、今のうちに稼いでおかないと駄目なんだよ」 「ああ、そうか。そりゃしょうがないよなあ。おまえの場合は遊び金欲しさでやってるわけじゃないし」 生活していくだけなら母さんの収入でもどうにかなるんだが、俺の進学に掛かる費用は極力自分でどうにかしたいと思っていた。ゆえにこつこつバイトをして貯めている。 「分かった。でも、あんまり無理すんなよ。大丈夫だとは思うけど、おまえに何かあったら恵理子さんが責任感じるどころじゃないからな」 「言われるまでもないな、分かってる」 「確か駅裏のバーだったわね。あのへんは、たまにガラが悪いのも来るから気をつけなさい」 「なんだったら、うちの奴らを通わせましょうか。トラブル防止になるわよ」 「それは勘弁してくれ。強面に常駐されたら売り上げに響くだろ」 「じゃあ、またな」 苦笑しながら席を立つと、晶たちに軽く手を振って俺は教室を後にした。 そして、バイトも粗方終わった深夜のこと。 「――よっと」 閉店時間にはまだいくらか間があったが、今日は客もいないので後片付けをすることにした。ゴミを出し終えた俺は表に回って、看板の電源を切っておく。 普通、一バイトの判断で勝手に店を閉めていいわけもないんだが、ここの店長はかなりいい加減な人でほとんど顔を見せないし、いないときは俺の好きにやっていいと言われていたので問題はない。 むしろ、何もかも俺に丸投げという現状のほうが問題ではある。 お陰で時給は破格なのだが、客が多いときの忙しさは尋常じゃないし、何よりも非常に辞め難い空気が生じてしまった。 別に今すぐというわけではないけれど、少なくとも一年後には受験を控えてバイトどころじゃなくなるのは明白だろう。だがこの状態で俺が辞めたら、現実として店はまったく立ち行かなくなるのが目に見えている。 店長だって、あれで俺の倍以上は生きている大人なのだから、若造に心配されなくてもそのあたりはしっかり考えていると思いたいが…… 「そうは見えないから、困るんだよな」 「あの……」 「あ、すみません。今夜はもうお終いで――」 背後から声を掛けられた俺は振り向いて、同時に素で驚いた。 「いや、そういうんじゃなくて、その……」 「……鳴滝?」 「あ? ておまえ……柊か?」 意外なところで、意外な奴と出くわした。それは向こうも同じなようで、凝然と目を見開いたまま固まっている。 「なんで、おまえがこんなところに……」 「そりゃあ見たら分かるだろう。バイトだよ、ここのな」 「バイト? くそ、なんだそうかよ」 舌打ちして、鳴滝は踵を返す。俺はそれを呼び止めた。 「おい、ちょっと待て。何しに来たんだおまえ」 「何でもねえよ、忘れろ」 「もしかして、バイト志望か? だったら逃げなくていい」 「なに? なんつったおまえ」 「だからバイト志望かと」 「違ぇよ、誰が逃げてるって?」 再び踵を返し、睨みつけてくる鳴滝。俺は呆れて肩をすくめた。 「なんだそっちか。だったらおまえだよ。何を恥ずかしがってるんだ」 「街でクラスメートに会ったからって、何か不都合があるっていうのか? くだらないことを気にするなよ」 「もう一度言う。バイト志望か?」 「…………」 「そうなら来い。中で話そう」 顎を振って促すと、鳴滝はしばらく無言だったが、やがて小さく嘆息した。 「いや、いい。もう閉めるんだろ? 出直してくる」 「見たとこ今はおまえしかいないようだし、雇うかどうかの判断なんか出来ねえだろ」 「そんなことは気にするな。どうせここの店長はほとんど来ない」 「お陰で大変だし、仲間がほしいと思ってたところだ。おまえにその気があるなら歓迎するぞ」 「……いいのかよ?」 「悪い理由でも? ああ、けど鳴滝、おまえって進学志望か?」 もしそうなら、同学年のこいつは俺と同じ時期に辞める率が高いわけで、そうなるとこの店が抱えている問題の解決にはならない。 ゆえに俺としては、ちゃんと仕事を引き継いでくれる奴であることが大事なのだが、その辺りはどうなのか。 問いに、鳴滝は馬鹿馬鹿しそうな顔で鼻を鳴らした。 「おまえ、俺が大学なんぞに行くようなガラだと思うのかよ。勉強はもういいし、興味もねえ」 「どんな道に進んだって、勉強は一生していくものだぞ鳴滝」 「うるせえな、揚げ足とんな。とにかく、進学はしねえ」 「だからバイトって言うより、就職希望だ。学校は卒業するつもりだが、そのまま働けるようなところを探してる」 「じゃあどうしてわざわざここを選んだ?」 「おまえは面接官かよ」 「面接官だよ。人事も任されてるんでな」 今のところ、条件としては問題ない。あとはこいつの動機というか、人柄に関わる話だ。 基本、接客業というのは激務でストレスの溜まる仕事だし、そのうえ酒も出すのだから、短気な奴にはまず務まらない。 雇ったはいいが早晩逃げたり、客と揉めたりするようでは大いに困る。根性と忍耐。そしてこの仕事が本当に好きであること。そういう資質が重要だ。 「おまえとはクラスメートだけど、そんなに知った仲でもないからな。志望動機くらいは聞いておかないと判断が出来ないだろ」 「…………」 「会話を面倒くさがるようじゃあ駄目な仕事だというのは分かるよな?」 促すと、鳴滝は不承不承といった風に口を開いた。 「……分かった。誰にも言うよ、おまえ」 「俺が作った酒……飲ましてやりたい親父がいるんだよ」 と、まるで照れ隠しをするかのような横柄さで。しかし、その口振りとは裏腹に、内容は思いのほか純だった。 「それはおまえの親父さんか?」 「いいや、ただの近所のおっさんだ。けど、ガキの頃から世話になってるおっさんではある」 「それが結構な酒飲みでな。自分に息子がいねえもんだから、俺と飲むのが夢だなんだと事あるごとに言ってたんだが」 「ちっと前から、身体壊したらしくてな。もうあんまり飲めないらしい。だから、せめてよ……」 「毒にならねえよう気ぃつけて、旨い酒飲ませてやれる奴が必要なんじゃないかと思ったんだよ。そんでこの店、若い頃はよく通ったとか聞いてたもんだから……」 「あの親父、俺がそうしてやりゃあ喜ぶんじゃねえのかなって」 言いながら、鳴滝の顔は段々赤くなってくる。俺はそれが面白くて、思わず噴き出してしまっていた。 「ッ――、てめ、笑ってんじゃねえよ! ぶっ殺すぞ!」 「いや、悪い。そんなつもりはないんだ。許してくれ」 なんだこいつ、絵に描いたような強面のわりには、随分と優しいじゃないか。 うちのクラスじゃ俺は比較的こいつと口を利いていたほうだから、噂ほど悪い奴じゃないだろうとは思っていたが、どうしてなかなか、仁義の通った男らしい。 「そういうことなら文句はない。店長には俺が言っておくから、是非一緒に働いてくれ」 「……、マジか、けどいいのかよ?」 「またか。なんだよ、何が気になる?」 「俺は、その……自分で言うのもなんだが、威張れるような評判じゃねえ」 「それはまあ、確かにな」 上級生、他校生を相手に鳴滝が起こした喧嘩沙汰は、俺が知ってるだけでも結構ある。 「だけど聞く限り、それは正当防衛だったんだろう? おまえから売ったことは一度もない。違うか?」 「違わねえが……」 「だったらおまえの問題は、加減が下手なことと腕っ節が強すぎることだ。売られたら買うっていう姿勢は、同じ男としてむしろ潔いと思うぞ。もっとも、仕事中もそれじゃあ困るがな」 「そこらへんは自省しているようだし、謙虚に気を遣えるんだから大丈夫だろう。その親父さんが好きで、その人のためにこの仕事がしたいと思ってるんなら適性はある」 俺は正直、特にこの仕事が好きでこれじゃないと駄目だと思っていたわけじゃない。ただ時給がいいから選んだだけで、条件さえ合えば別のバイトでもよかったんだ。 その点、動機は弱いが忍耐でやってきた俺と、忍耐は怪しいが動機が確固としている鳴滝。バランス的には似たようなものだろう。 「見上げた殊勝な心がけだよ。たいしたものだ」 「…………」 「なんだよ、変な顔して」 思うところを正直に言って評価しただけなんだが、当の鳴滝は何とも言えない様子で俺を見ていた。 照れていると言うよりは、呆れて面食らっているような。 「おまえ、前々から思ってたけど妙な奴だな」 「は? 何がだ?」 「全っ然びびらねえ。おまえくらいだよ、俺にそんな偉そうな態度でものを言う奴は」 「同学年相手になぜ卑屈になる必要があるんだ」 「いや、そういう意味じゃなくてよ……ああ、もういい」 「とにかく、雇ってくれるってことでいいんだな?」 「ああ、問題ない。仕事については俺が教えるから心配するな。ただ言っておくが、厳しいぞ」 「おまえのスパルタは有名だから知ってるよ。俺としても、変に引かれるのは鬱陶しいからそれでいい」 「じゃあ――」 今日はこれで、と言おうとしたときだった。 「四四八ー、迎えに来たよー」 「なッ―――」 「ちょっ―――」 いきなり現れた触手、ではなくそばもんに、俺たち(特に鳴滝)は仰天した。 「あれ、こちらはお友達? はじめましてー、いつも四四八がお世話になっておりますー」 「え、いや、その……え?」 「あ、いけない。今の私はそばもん。お蕎麦の妖精、そばもん」 「ねえ、そこのカッコイイお兄さん、君はお蕎麦が好きかい? ううん。鎌倉に住んでて、お蕎麦が嫌いなわけはないよね」 「だったら一つ、耳寄りな情報を教えてあげる。小町通りの『きそば真奈瀬』は、蕎麦神さまに祝福された至高の蕎麦屋だったりするんだよ。なので今後はご贔屓に」 「あ、ちなみに蕎麦神さまっていうのはね、七色の蕎麦触手を持った全長五百メートルくらいの不定形生物で、その周りでは僕たちそばもんが絶えず蕎麦粉を振り撒きながら踊っているの」 「君のことは蕎麦神さまに報告しておくから、ちゃんとお店に行ってお布施をしないと呪われるよ。蕎麦神さまを怒らせたら、人間ごときはあっという間に一杯の掛け蕎麦と化して――」 「ちょっと、もういいから! ほんと勘弁して、そういうの!」 それはいったい、どこの邪神だ。どうして蕎麦屋の宣伝が邪宗の布教活動みたいになってるんだよ。 「だいたい、そばもん着て外歩かないでくれって言っただろ。晶の家を潰す気なのかよ。ほらもう、早く脱いで」 「あ、やんっ、ちょっとやめて! そんな強引に、むいちゃ、らめぇー」 抗議の声を一切無視して、魔性の者としか思えない着ぐるみを脱がしていく。過程で触手がぬちゃぬちゃと纏わりついたが、気にしてはいけない。 「もー、四四八は相変わらずユーモアが分からないんだから」 「そういうのなら分からなくていい。それに、迎えも要らないっていつも言ってるだろ」 「四四八が嫌でも、私はしたいの。いいじゃない、私から見たらあんたはいつでも――」 「あ、あの」 そこでようやく衝撃が解けたのか、半ば放置されていた鳴滝が口を開いた。 「もしかして、柊の妹さん……ですか?」 「は?」 「まあっ!」 呆れる俺と、目を輝かせる母さん。 ああ、まずい。これはとてもよろしくない流れになりそうだ。 「あらあら、まあまあまあ! いやだわそんな、妹さんですかーなんて」 「ねえちょっと四四八、このお上手なイケメン私に紹介しなさいよ。名前は? 歳は? どのへんに住んでるの? お姉さんか妹いる?」 「おばちゃんかよ……」 いや実際、おばちゃんなのだが…… 「鳴滝淳士。俺のクラスメートだよ」 「それで、こっちは俺の母さん。残念ながら妹じゃない」 「柊恵理子です。よろしくね、淳士くん」 「は、はあ……」 さすがの鳴滝も反応に困ったのだろう。気圧されたように頷くだけだ。 「こいつとは、今度から一緒にバイトすることになったんだ。そういうわけで、ちょっと話してた」 「鳴滝、さっきも言ったが店長には俺が話を通しておくから、休みが明けたら出てくれ。大丈夫か?」 「……ああ、シフトは毎日でも構わねえ。どうせやることもないしな」 「補講でやっぱり無理ですなんてのは勘弁だぞ」 「舐めんな。あんなもんに躓くかよ」 確かに。あまり登校してこないわりには、鳴滝がテストを落としたという記憶はない。勉強なんかはもう結構だと言っていたが、そのぶん余計に課題を詰まれたりするのが嫌なのだろう。 そう考えると、留年しないギリギリの出席日数を見極めて、最低限の我慢と労力で切り抜けているとも解釈できる。もしかしたら、意外に計画的でマメな奴なのかもしれない。 「じゃあ、またな」 「おう。それじゃあその、失礼します」 「はーい。これからも四四八のことをよろしくねー」 ぶんぶん手を振る母さんの元気さにやはり気圧されたような感じのまま、やや引きつった顔で鳴滝は去って行った。 それを見送り、母さんは楽しそうな様子で話し始める。 「ふふーん、いいね。あれはきっと、将来いい男になるよ」 「まあ、否定はしないよ」 まだ少し話しただけだが、今日新たに知った鳴滝の一面は微笑ましいものだった。あれはあれで、きっと真っ直ぐな奴なんだろう。外見その他の色んな要素で、誤解されやすい点は損しているが。 「ちょっと系統は違うけど、大枠じゃあ晶と似た感じかな」 「そうだね。私はああいうタイプに弱いんだよ。なんかこう、ぎゅってしたくなっちゃう」 「きっと、お父さんのことを思い出しちゃうからかな」 「…………」 「ん、どうしたの四四八?」 「いや、少しね」 母さんがふとしたときに親父のことを話題に乗せるのは珍しくないが、それは初耳だったのでちょっとばかり気になった。まあもっとも、俺が今まで特に訊かなかったせいでもあるんだけど。 もしかして、母さんは俺に親父のことを知ってほしいのかもしれない。正しくは、興味を持ってほしいのかも。 鳴滝は、世話になったという相手のことを奴なりに考えて、慮っていた。他人のそういう面を垣間見たせいか、自分は母さんのことをちゃんと見ていたのだろうかという疑問が僅かに生じている。 苦労させない。迷惑をかけない。自分のことは自分でする。そんな考え方に囚われすぎてはいなかったろうか。 甘えることによる親孝行ってやつはやはりどうにも苦手だが、それを理由にして母さんが何を望んでいるかはあまり考えていなかったかもしれない。 そう思った。だから…… 「親父はどんな人だったんだ?」 おそらく、いいや間違いなく、俺は初めてその問いを投げていた。 「え? どんな人って、それは、そうね。なんていうか、えっと……」 狼狽も露に言葉を濁す母さんは、しかし反面、どことなく嬉しそうだ。やはり本音は訊いてほしかったし、話したかったんだろう。 勘は外れてなかったと確信した俺は、続けて問う。 「鳴滝に似ていた?」 「う、ううん、どうだろ。そう言われると全然違うようにも思うけど」 「でも、ツッパってるところはちょっとだけ似てるかな。あと、背が大きいところ」 「四四八もどちらかといえば大きいほうなんだろうけど、お父さんはもっと……たぶん淳士くんより大きかったと思うよ。さすがに剛蔵さんほどじゃなかったけど」 「てことは190前後か……」 俺より10cmくらい高く、剛蔵さんより10cmくらい低い。日本人離れした体格なのは確かだが、バランスが悪いというわけでもない。欧米的な感覚で見れば、男の理想身長とも言えるラインだ。 それでツッパってた? だとしたらかなり威圧的で、ガラが悪く見えるんじゃないだろうか。 俺の考えを察したのか、母さんは苦笑する。 「不良だったってわけじゃないのよ。むしろ本の虫で、勉強家。そういうところは四四八に遺伝したのかな。私は頭良くないし」 「でも、凄くこう、我が強くてね。俺に寄るな。俺に構うな。俺は忙しい。俺はおまえらと違う。俺は俺様だ」 「とにかく万事、俺、俺、俺。そんな人」 「それは、また……」 ちょっと、いやかなり、人としてどうなんだそれ。ただの嫌な奴にしか思えないんだが。 「でも実は寂しがり屋で優しかったとか、そういう落ち?」 「ううん。あの人は私のことなんて、家政婦ほどにも見てなかったよ。何かうるさいのが傍にいて、追い払うのも面倒になったから好きにさせてた、みたいな?」 「少なくとも心じゃあ、誰も必要としてなかったかもしれない。嫌いな言葉は絆、協力、人は一人じゃ生きていけない」 「そういうのが常識みたいな社会の仕組みとか人の考え方を、本当に嫌ってたんだと思う。と言うより、憎んでたのかなあれは」 「四四八の学校、千信館始まって以来の大天才で大問題児。そういう人よ」 「同じ学校だったのかよ」 それもまた初耳で、同時に信じられない事実というやつだった。 なるほど確かに、親父の信条とやらは千信館の校訓に真っ向から喧嘩を売っているようなもので、大問題児だったというのも頷ける。なぜ入学なんかしたのだろう。 それに、そもそも。 「どうして、そんな……」 言ってしまえば、人格破綻者と母さんは一緒になったのか。 まだ未熟な俺には分からないが、結婚ってもっと互いに求め合った結果じゃないのか。少なくとも親父には、今のところそんな面がまったく見えない。 「聞くんじゃなかったって、思わないでよ」 だが母さんは仄かに笑って、俺を諭すように言葉を継ぐ。 あるいは、自分に言い聞かせているかのように。 「色んな人に反対されて、心配もされたけど、私は後悔してないよ。だって好きになっちゃったんだもん」 「聖十郎さんと出逢って、本当に良かったって今でも思ってる。こうして四四八にも会えたしね」 〈柊聖十郎〉《ひいらぎせいじゅうろう》――それが俺の父親で。 「……そうか、そういう名前なんだ」 俺は、自分でも驚くべきことだがこのとき初めて……俺のルーツである親父の名前を知ったのだった。 今夜の夢は決戦だと、覚悟していた日に初めて。 それはある種、運命的なものだったのかもしれない。  だから、ソレは一切の迷いなく追い続けた。  今夜が決戦であることを理解した上で覚悟を固め、ゆえに後退はないと決めている。  まるで、運命を信じるかのように。  そう、追って追って追い続けた。求めて探して見つけ出した。ならばこそ今、胸を焼くのは〈昏〉《くら》い歓喜。復讐者の悦びに他ならない。  それを浅ましいと思う心は何処にもなかった。なぜならこれこそ、自分が人である証。畜生ならば情に狂うことなどない。  圧倒的な敗北。絶望的な最悪。何をどうしようが覆せない地獄の歯車を叩きつけられ、なお足掻けるのは人だけだ。猿より先に進んだ身だから、尻尾はないし巻く術を知らない。  それを誇りに感じている。  ここに再起を――やり直しを望んでいるのだ。一度は〈邯鄲〉《かんたん》から転げ落ち、すべての力を失いながらも、雌伏のときを経て再び起つ。  未だ万象、地獄の歯車。そこから自分は脱け出せず、この選択も信念さえも、残らず手玉だというのは分かっている。  だが、しかしそれがどうした。重要なのは折れないことだ。屈さず、挑み続ける心の強さだ。  自分が走り、歯車が回る。外道が手を叩いて喝采する。  結構、好きに嗤っていろ。この歯車を止められないなら、回し続けることで壊してみせる。それが自分の、皆に対する贖罪で――  仲間と奉じた〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》と、〈千〉《スベテ》の〈信〉《イノリ》他ならないから。  そのために、まずは力を――奪った私の夢を返せ。 「!」  雄叫びは天地を走り、たぎる戦意を燃え上がらせる。ここに至るまでの度重なる接触で、力は段階的に戻っているのだ。  あと少し、もうあと少しで全盛時の自分を取り返せる。かつてまったく抗し得ず、赤子の手を捻るがごとく蹂躙された頃の自分に。  負けてマイナスにされた己が、ようやくゼロに戻るというだけ。その事実だけを見るならば、前進などとは言えないだろう。ただの振り出しで、初期化にすぎない。  そして、だからこそいいと感じる。  かつての〈全盛〉《それ》は終点だった。バッドエンドを迎えたときのステータスで、ゆえにそこから先の成長がない。  だが今は違う。これがスタート。すなわち強くてニューゲームだ。  ならば今度は、否、今度こそ、違う結末に辿り着けるはずだと信じている。  門扉を蹴破り、まろび出たそこは広く開けた校舎の前庭。動きやすく、視界はクリアで、隠れ場所も存在しない。  まさに誂え向きと言えるだろう。ここならどれだけ暴れようと気にしなくていい。小細工無用の決戦場で―― 「――!」  奴もまたやる気なのだと、痺れる武者震いの中で咆哮した。  〈影〉《やつ》がこの場へ現れた瞬間を狙った頭上からの奇襲は、即座に応戦されて不発に終わった。俺としてもこれで決まると虫がいいことを思っていたわけじゃないが、まったく効果を得られなかったことに少なからず驚愕する。 「……こいつッ」  昨夜よりもさらに速く、そして強い。回を重ねるごとに進化するのは分かっていたが、今夜のこいつは鬼気迫ったものを纏っていた。  夢でありながら死の危険を如実に感じてしまうほどに。 「何者なんだよ、おまえは」  思わず漏らした呟きは、便所に流される紙くずのように〈攪拌〉《かくはん》されて千切れ飛んだ。物理的な威力すら伴って肌を刺す妖風は、俺が始めて実感するもの。すなわち明確な殺意というやつに他ならない。  早い段階でクリエイトを見せたのは失敗だったか。今のこいつは、念ずるだけでその破壊衝動を具現化できるはずだろう。  ならば後手を踏むのは危険、だが――  あえて俺は先手を譲る。この状況で、即座にリスクとリターンを計算しきった自分自身の戦術思考に、心のどこかで驚きながら。 「!」  噴き上がった影の絶叫は文字通り爆轟し、無数の弾丸へと変化した。それは比喩でもなんでもなく、まさに銃弾を創造したのだ。  その数、間違いなく百発以上。そして銃撃は音速を超える。  元となった咆哮よりも、当たり前にこれは速い。  だが間一髪、俺はその弾幕から逃れていた。初手をある程度予測できていたことと、それを躱すべく身体能力の強化に全精力を注いでいたこと。  ゆえに結果は、奇跡でも幸運でもない必然だ。成るべくして成ったことで、俺の構想は一分の狂いもなく絵図どおりに嵌っている。  鏡と戦うような局面はもう終わった。クリエイトにクリエイトをぶつけたところで相殺にしかならないのだから、ここで採るべき正答はカウンター。  すなわち、この隙に一撃を加える。奴はそれに対応出来まい。  なぜなら、〈夢〉《 、》〈は〉《 、》〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈に〉《 、》〈一〉《 、》〈つ〉《 、》〈ず〉《 、》〈つ〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈使〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  間合いに入った俺の拳が、影の顔面あたりを撃ち抜いた。いいや、咄嗟にガードはしたのか。輪郭すらぼやけている相手だから即座に判断は出来ないが、だとしても問題ない。  今のこいつに、ディフェンスの夢を展開する余裕はなかったはずだ。銃弾創造というクリエイトにすべての容量を食われており、他は完全な丸裸。切り替えるには合わせてニ挙動が必要となり、最初からアタックで一挙動の俺には単純計算で届かない。  ごく当然な、算数の理屈。たとえ防御が間に合おうが、強化された俺の拳は止められない。  ――吹っ飛べ。  感覚としては、高速で走る車に撥ね飛ばされたようなものだろう。今の俺に生身で殴られた以上、間違いなくそれくらいの効果はある。  ここ数日、慣れないながらに現実でも荒事用の訓練をしていたことが功を奏した。たとえ夢でも、実地に暴力を振るったのはこれが初めてだったのだが、自分でも驚くほどアクションに違和感がなく、精神的な動揺もない。  まるで、俺は元々、そういう技術を〈身体〉《あたま》に染み込ませていたかのように。  奇妙な感慨は、しかし瞬時に消し去った。重要なのは、今がチャンスであるということ。  そしてチャンスなら、その機を逃すなという本能にも似た戦術思考。  人形のように吹っ飛ぶ影へ、俺は追撃を加えるべく再び踏み込む。  だが、それは突如として足元から現れた壁によって阻まれた。かつて俺がこいつを撒くためにやったのと同じ手を、影はこのタイミングで再現する。  跳ぶか避けるか、それともあるいは――  瞬間、対処に思考を割いた秒にも満たない停滞は、相手の二挙動目を許す決定的な隙となった。  壁を突き破って迫り来る反撃の拳。いきなり視界を塞がれたことに加え、見えないところから攻め込まれるという二重の驚愕が、俺の反応を無様なほど遅らせる。  結果、今度はこちらがまともに喰らった。ディフェンスに切り替える暇などなく、強化された拳を生身で受けたらどうなるかを自分の身で思い知る。 「ぐッ、ああァ―――」  吹き飛ばされ、もんどりうちながら、しかしなんとか滑るように着地を決めた。同時に、打たれた胸が痙攣し、喉から赤いものが込み上げてくる。  かなり深刻なダメージだった。正確には判断のしようもないが、胸骨が粉砕されたのかもしれない。呼吸がまったく出来なくなってる。  このままでまずい。  俺は即座にディフェンスへと切り替えて、負傷の治癒を優先した。夢で気絶するというのも表現としておかしいが、このままでは一瞬にして意識を失う。ゆえに正気を保って、かつ最低限動ける程度に身体を回復させねばならない。 「―――!」  しかし、そんな俺を嘲笑うかのごとく、再度の轟音が爆発した。影の絶叫が銃弾となり、死の風と化して襲い来る。 「なッ、馬鹿な――」  有り得ない。どうしてそんなことが出来る。俺の驚愕は頂点に達していた。  ダメージならば五分のはず。いいや、壁という障害物越しであったぶん、俺のほうが軽傷である可能性は高いだろう。  それでさえ、この様なのに。  最初の攻防で受けた負傷を、まずは互いに癒してから仕切り直し。その選択が当然だろうと判断したのは間違いなのか。 「づ、おおおおォォッ―――」  降り注ぐ銃弾の雨を躱す術はもはやない。今の俺に出来ることは、ただ治癒と頑強さを強化して、この暴威に耐えること。  削られながらも、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。気を抜けば最後、一瞬にして粉々にされる。  ジリ貧だと分かっていても、他の道は選べなかった。  ……いや、 本当にそうなのか? 「、!  、! !  、! ――」  少なくともこの影は、何を言っているのか皆目分からないこの影は…… 「、!」  今この一瞬に、すべてを懸けて立っているのに。 「―― !」  轟音。轟音。さらなる轟音の集中豪雨。絶えず具現化する凶弾の密度と精度は凄まじく、堪えて凌ぎ切るのは不可能だと理解する。  ことクリエイトに関する限り、こいつは俺の遙か上手だ。もとはこちらの真似をして技を覚えたような存在だが、ここにきて差異が――紛れもない個性の違いが生じている。  戦法一つとってみても、それが明白となるほどに。  骨を粉々に砕かれたことでそのまま戦闘続行は不可能だと思った俺と、同等以上の傷を負いながら意にも介していないこいつ。  常識的に考えれば正しいのは俺の方で、愚断を下したのは影の方。だが現在の状況は、俺が追い詰められる形となっている。  そこから導き出されるのは、戦いというものの不条理さ。高密度に因果の絡んだ極めて論理的な場でありながら、それを超越する現象もまた、当たり前に起こり得るのだ。  精神が肉体の限界を凌駕する。言葉にするなら、おそらくそういう概念になるのだろう。  たとえ致命傷や、人体の構造的に動けるはずがない状態に追い込まれても、意志の力でそれを破る。  倒れない。立ってみせる。死なない。生きる。まだ戦える。  己は必ず勝利する――  そうした想いを〈縁〉《よすが》にして、条理を捻じ曲げる克己心。怨念だろうが信念だろうが、それはまったく同じものだ。  すなわち覚悟。そこに差がある。  俺も覚悟なら固めていた。戦って、撃退して、勝利して、そのために成すべきことや、耐えるべきことを、自分なりに呑み込んでいた。  だが、それでは足りない。認識が甘かったのだ。  〈影〉《こいつ》はそのことをよく分かっている。  これは遊びなんかじゃないということ。  夢も現実も関係なく、少なくともこの場においては命を懸けた、まさに極限の場であることを。  形振り構って掴めるほど、勝利というものは安くない。 「だっ、たら……」  俺が採るべき道は何だ。  耐え続けることは不可能で。  他の手に移れば即殺で。  ゆえに打つ手はないと諦める?  馬鹿を言うなよそんなこと、認めるわけにはいかないだろう。 「ぐッ、あ、ああ……」  一歩、そしてまた一歩、削られながらも前に出る。前進すれば当然のように被るダメージは増大するが、ここは俺も意に介さない。  他ならぬ、〈影〉《こいつ》自身が教えてくれたことだろう。精神は肉体を凌駕する。  まして〈夢〉《ここ》は心の世界。ならば強固な想いは必ず条理を覆す。  今度は俺が、おまえの真似をして強くなった瞬間を見せてやるよ―― 「いッ、くぞォォォオッ!」  変革を告げる雄叫びと共に、俺は嵐の弾幕を突き破っていた。 「―――――――」  迸る銃弾の雨を意に介さず突進し、ついに間近へ迫ってきた“影”の圧力に瞠目する。自分の〈形〉《ぎょう》では奴の〈楯法〉《じゅんほう》を崩せないのか。  いいや違う。弱気になるな。そんなことはないと信じろ。  銃の間合いを逸した瞬間、即座に近接へと切り替えた。薙ぎ払った右手には、新たに〈創形〉《そうぎょう》した鋼の刃が握られている。  手応えあった。 「、!」  だが、間違いなく腹を断ち割ったはずの斬撃すら意に介さず、影は裏拳を放ってきた。それをまともに顔面へ喰らい、軽々と吹き飛ばされる。  予期せぬ反撃によって被弾したが、僥倖ではあっただろう。敵は楯法を使っていたから、今の攻撃にそこまで破滅的な威力はない。  最初に貰った一発のダメージは、依然として重く身体に残っている。ゆえに生身の拳でも倒されてしまったが、再び〈戟法〉《げきほう》で殴られるよりはマシな結果だ。相対的なダメージ量では、まだ間違いなく自分の方に余裕がある。  すなわち、回復の機を与えるのは愚策。ここで休んではいけない。 「。、。 、」  うるさい。うるさい。〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈言〉《 、》〈葉〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈意〉《 、》〈味〉《 、》〈が〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  雀蜂の羽音みたいなノイズまみれの音声は、ただただ不快で胸を焼く。神経を逆撫でする役にしか立っていない。  どうせ嘲笑。そして戯言。すべてを愚弄する蛆虫のような穢れたことしか言わないくせに。  たとえ意味は分からなくても、そうした言葉に決まっている。だから――  その口、今すぐ永遠に塞いでやるのだ。  剣閃は空を裂き、烈風となって吹き荒ぶ。速さだけなら勝っているのは己の方だと、絶対的な自負があった。  得物として具現化した白刃は、先ほどの弾雨と違って連続した創造を必要としない。一個の物質として形を持たせた時点でそれは独立した物であり、ゆえに〈形〉《ぎょう》を使い続けなければ消え去るといったことはないのだ。  よって、刀を握ったまま別の夢へと移行しても不都合はない。であれば、武器を手にした白兵戦でもっとも有効なのは戟法である。  中でも速攻を狙うなら、スピードに特化した〈迅〉《じん》しかない。  そしてそれは、得意とする夢だった。  速さにおいて、ここでは自分が勝ると確信していたのはそうした理屈。そしてそれを証明するべく、圧倒的手数によって戦局を掴んでいく。  自分と同じ戟法へと切り替える暇などは与えない。  敵は未だ、楯法のまま。  硬い上に再生するので崩しきるには時間が掛かるが、反撃を許さず攻め落とすのが最上策だと判断していた。  なのに―― 「くッ―――」  怒涛のごとく超速の攻めを続けながら、決定的な手応えを掴めない。しかも驚くべきことに、敵は楯法のままこちらの戟法に対応し始めている。  刺突を逸らし、横薙ぎを躱し、渾身の上段は刃の腹を弾いて防がれた。すなわち、素の技術で防御を成立させている。  無論、すべての攻撃を凌いでいるわけではないし、反撃にも移れていないが、それでも驚嘆すべき事態に変わりはない。剣対徒手ということも踏まえれば、異常と言っていいだろう。  だからこそ今、湧きあがる違和感を意識せずにはいられなかった。  おかしい――奴はこれほど白兵の達人だったか? そのような印象はついぞ持っていなかったので、この現状は奇妙すぎる。  そもそもの立ち位置が違うという、隔絶した実力差があったことは認めよう。ゆえに本来は不得手なことでも、こちらの得意分野を上回ってくる可能性はあるかもしれない。  そう考えれば辻褄は合う。業腹だが、理屈ではそうなるのだ。  しかし……ああ、なぜだろう。  自分の剣を防ぎ続けるこの武技が、どうしようもなく〈懐〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  知らず涙が溢れ出そうになってくるほど、胸の大事な部分を疼かせるのだ。  これは何? 何の呪い? どうしてそんな、有り得ない夢……  違う駄目だ気をしっかり持て。神様は簡単に希望なんか与えちゃくれない。  期待して、縋ったら、悪魔は喜び勇んで自慢の商品を持ってくる。  そんなのはもう、御免だから―― 「はああああァァッ!」  この一刀で終わらせるべく、残る全身全霊をつぎ込んだ。  あるいは……もしも万が一のことがあったとしても。  彼なら私よりずっと強いし、きっと大丈夫に違いないと。  愚かな期待を、胸のどこかに抱いたままで……  振り下ろされた一閃は過去最高の苛烈さで、俺はここに勝負の際を確信する。この攻防に対する結果が、そのまま勝者と敗者を分けるだろう。  そして、俺には策がある。起死回生となる決めの一手を、先ほどからずっと用意し、溜めていた。  とはいえ、それはあくまで最後の一発。正真正銘、ここで終わらせるためのものだから――  まずはこいつの乾坤一擲、これを躱さねば始まらない!  そう、完全に躱しきる。ここで僅かでも防御や回復に意識を割けば、次に繋げる初動が致命的に遅れてしまう。  ゆえに、今の俺はあらゆる意味で守りがない。  現実と同じ生身のままのスペックで、極限の強化が成されたこいつの斬撃を捌いてみせると誓っており―― 「おおおおォォッ!」  今ここに、一髪千鈞のタイミングでその離れ業を実現させた。 「――――――」  驚愕の気配が如実に伝わる。しかし俺は、自分の成したこの結果をまったく意外と思っていない。  際どかったのは確かだし、肝が凍ったのも否定はしないが、俺はやれると信じていた。  伊達に毎朝毎朝七年以上、馬鹿の一つ覚えみたいに身体を鍛えていたわけじゃないんだ。現実での身体能力に自信があるから、〈夢〉《ここ》でも成果が発揮されるのは至極当然のことだろう。  継続は力なり――特別な才能などなくたって、積み上げてきたものは力となる。努力は自分を裏切らない。 「さあ――」  だからこそ今、俺は決定的な隙を勝ち取った。  躱されたことに驚愕したこいつと、躱したことを当然と思っている俺。  その、僅か刹那ほどしかない意識の差が、今夜を終わらせる決め手の発動を可能とする。  第五番目、まだ見せていない最後の夢を―― 「終わりだ」  手首を掴んでこちらに引き寄せ、一気に“それ”を流し込む。  身体能力強化のアタック。  治癒と丈夫さ強化のディフェンス。  魔法、念力のような飛び道具のマジック。  物質創造を成すクリエイト。  そして、残る最後の一つは。 「―――、―――ッッ」  あらゆる夢を解析し、解体して壊す無効化能力。  俺はそれをキャンセルと呼んでいた。  こいつも夢である以上、これを喰らえば構造から崩されて消滅するのは避けられない。  勝利を確信した俺の前で、影の身体がバラバラと剥がれながら欠け落ちていく。今や墨くず同然の脆さとなったこいつを砕くのは容易であり、振り上げた拳をもって決着とすることに疑いはない。  はず、だったのだが―― 「――――――」  崩れた影のヴェールから、目の前に現れた姿を見て俺の思考は凍結した。  女? どうして? こいつは誰だ? いいやそもそも―― 「ひい、らぎ……くん?」  なぜ俺のことをそんな目で見る?  そんな、百年かけてようやく出逢った恋人か肉親でも見るかのような、喜びと懐かしさに溢れた目で。  救いに当惑するような迷子の顔で。 「うそ……夢だよ、こんなこと」  夢だ。嘘だ――まやかしなんだよ。何を呆けている柊四四八。こんな見え透いた手に引っ掛かって勝機を棒に振るなんて、愚かすぎるぞ冷静になれ。  そう強く自分自身を叱咤して、馬鹿かふざけるなと頭では思っているのに。 「おまえは……」  なぜかまったく、振り上げた拳を動かせない。俺の中の深い部分で、こいつは敵じゃないと誰より知っている自分がいるんだ。 「また、逢えた……ねえ、私は……」  何を言おうとしているのか。俺は何を言わせたいのか。  名前か? 素性か? ああ、それとも――  〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈強〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈俺〉《 、》〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈が〉《 、》〈言〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?  分からない。そして分からないまま……  この場で続きを知ることは出来なかった。 「え―――」 「あ―――」  共に固まっていた数秒間、しかし流れ続けていたキャンセルの力は影の外殻を完全に壊し去り、その下にあったものを容赦なく露出させた。  全身、一糸纏わぬ女の裸を…… 「あ、あ、あ、あ……」 「い、や違う――ちょっと待て!」  そんなつもりじゃなかったとか。  こんなの読めるわけがないだろうとか。  そもそもどうして俺は弁解などしてるんだとか。  諸々一切ワケが分からず混乱して、しかし情けないことに俺も男なので目だけは離せず――  ああもうちくしょう。なんだこれは空気読め! 「きゃああああああッ!」  絹を裂くような女の悲鳴が、今夜もっとも俺に衝撃を与えたものとなった。 「うおおおおおッ!」 叫びながら飛び起きて、現実への帰還を自覚する。しかし俺の心臓は、ばくばくと無様なほどに早鐘を打ちながら自身の動揺を告げていた。 「なんだよ、あれは……」 十年以上にも渡る明晰夢の経験で、今夜ほど奇妙な事態は初めてだった。理解がまったく追いつかない。 おそらく、夢の中で明確な“他者”を自覚したのはこれが初めてのことだろう。自分以外のものと接したことはこれまで何度もあったのだが、それはあくまでキャラクターだ。すべて妄想の産物に他ならない。 だがあれは、あの女は違うと分かる。どこがどうとは正確に言えないが、存在感がとても濃いのだ。現実で晶や栄光たちに接するときと、微塵も変わらない熱を感じた。 で、あるならば、俺の夢に何か変化が起こりつつある。まるでこれまでとは違う階層に入ったような。現実の人間と同じ夢を共有していたかのような。 もしそうなら、あの女は実在するということになり…… 「馬鹿な……」 何を突拍子もない考えを弄んでいるんだと、自分自身を罵倒した。確かに俺は少し特殊な体質で、普通ではないところも持っているが、それはそこまで荒唐無稽なものじゃない。 明晰夢も連続夢も、科学的に立証された現実の現象だ。しかし実在する他人と夢を共有して接触するなどということは、そうした一線を超えている。そこまでいけばオカルトファンタジーの領域で、俺の趣味ではまったくない。 少し不可解なことがあったからと、安易に超常を思い浮かべるのは思考的な怠慢だ。迷信に凝り固まっていた何百年前の人間でもあるまいに、文明人としてもっと頷ける解釈というものがあるだろう。 今夜、俺は夢でかなりの傷を負ったが、だからといって別に現実の身体は害されていない。精神的に疲弊したというだけで、物理の面では当たり前にこっちとあっちが隔絶されていることの証だろう。 だったら、すなわちあの女も、現実とは異なる夢の産物。かつてないほどリアルな存在感だったのは、それだけ俺のイメージが明確だったということで。 要するに、俺が真剣にああいう女を望んでいたとか、たぶんそういう…… 「栄光か、俺は」 まともに解釈していくと、なんとも情けない結論になってきたので落ち込んだ。それはまあ、俺だって年頃だし。別に木石なわけじゃないし。女とか恋愛とか興味がないわけじゃないというかむしろある。 あるが、それは認めるけど、しかし妄想で自分を慰めようと思っているわけじゃないと思いたい。きっと母さんが親父のことで惚気ていたから、そのあたりの影響だろう。 決して褒められた人格じゃなく、ゆえに周りから反対されていたという親父との結婚に踏み切った母さんの気持ち。好きになったんだからしかたないと言った心を俺なりに理解しようとした結果、ああいう形で夢に現れたんじゃないだろうか。 なんとなく、言い訳くさくも思えるが…… 「ああ、もういい」 吐き捨てて、俺は起き上がるとジャージに着替えた。何はともあれ、朝は日課をこなさなければならない。 朝焼けの中、いつものように134号線を走ることで、気持ちは徐々に落ち着いてきた。これも一種の条件反射というやつだろう。 気持ちが揺れたときは、普段どおりに日々の行動をこなせばいい。そうすることで平常な思考が復活し、諸々の対処がスムーズになる。 大袈裟に言えば常に自分を失わないこと。今回のトラブルは些か情けない系統ではあったものの、日頃からそうやって自己の操縦法を弁えていれば、本当に大事件が起きたときもなんとかやれるはずだと信じている。 夢の中の戦いを、まあ一応は勝利したと言えなくもない結末に落とせたのはそのお陰だ。 殺し合い、命懸け。夢でもリアルに感じた初体験の戦慄に晒されながらも、積み上げてきた自負によって勝負を制した。そこは誇っていいだろう。 この先、自分の人生で、現実に命を狙われるという展開があるかどうかはともかくとして。 極限状態を無事に凌いだという経験は無駄にならない。それを糧とし、前に進もう。こうやって今、走り続けているように。 そして、反省すべき点は課題として胸に留めておくべきだ。 「…………」 女の裸は、母さんのしか見たことがなかったんだから動揺するのはしかたない。次にそういう機会があれば、もっと堂々とできるように。 いや、それも何か違うような気がするが、ともかくあたふたするようじゃあ男として惨めだろう。 俺だってきっとそのうち、結婚して子供を作って、妻子のために働いて…… そういう人生を歩むはずだから、女に免疫がないとか言ってられない。 というかそもそも、まずは恋とかいうものをしなくてはならず、それってどういう感情なのか正直よく分からないんだよ。 晶や歩美はもはや兄弟みたいなもので。我堂は面白いヘンな生き物だという感じで。好きか嫌いかで言えば当然好きだが、だからといって抱きたいとか思うか、俺。 あいつらの裸を見たいとか、考えたことがあっただろうか。 想像するのに、凄まじく精神を抉られるような負荷を感じる。何かとても申し訳ない、馬鹿げた思考実験をしてしまったようだ。羞恥に頬が熱くなる。 実際、今日が休日で助かったかもしれない。このままあいつらに会っていたら、かなりみっともない挙動不審を晒してしまったんじゃないだろうか。 そう思い、苦笑を隠せず、こんなくだらないことをうだうだ考えている今日も変わらず平和だよと―― 目線を上げて、ピッチを早めようとした瞬間だった。 「――――――」 有り得ないものが、いま俺の横を通り過ぎたように見えたのは錯覚か? 同じ千信館のジャージを着て、同じようにこの道を走って、擦れ違った女の顔と、その雰囲気―― 長い髪の端が視界を流れる。 それに吸い込まれるように俺は思わず振り向いて……まさか、いいやそんなはずはない。しかしこれは間違いないと、相反する気持ちに翻弄されながら。 「おはよう。さっきはヘンなもの見せちゃって、ごめんね」 照れたように微笑むその女が、紛れもなく現実の存在なんだと知ったのだ。  制服に袖を通した感覚は久しぶりで、だけどまったく違和感はなくて、むしろある種の安心感さえ抱いたことに少なからず困惑した。  二年ぶりの実家も、迎えてくれた家族も、同様にどこかしっくりこないものを感じていた自分にとって、退院以来初めてぴたりと嵌ったものがそれだったのだ。  奇妙だな、とは思う。  家や肉親にいまいち馴染めなかったのは仕方ない。接するのにブランクがあるのだから当たり前のことで、長期の入院から復帰した身なら誰でもそんなものだろうと考えていた。  だから、彼らに関しては徐々に慣らしていけばいいだろう。向こうもそんな私を理解して、愛してくれているし、申し訳ないけどリハビリ期間ということで甘えさせてもらおうと思っている。  今の自分は浦島太郎だ。二年という時間感覚のズレを埋めるには、やはり相応の時間が要ると、そう考えていたのだが…… 「お帰り、世良。やっぱりおまえはその格好が似合ってるよ」 「ありがとうございます。〈芦角〉《あしずみ》先生もお変わりなく」  制服も、彼女も、そしてこの光景も……つまり学校という空間に属するすべては、私から見てリアリティに満ちた〈現実〉《いま》だった。  リハビリなど必要としない。とても落ち着く。まるで、〈千信館〉《ここ》だけが真実の世界であるかのように。  それほど母校愛に溢れた生徒でもなかったように思うのだが、なぜかそう感じてしまうのが奇妙だった。 「芦角先生ぃ? やめろよなー仰々しい。ハナちゃんでいいよ」 「そうですか。でも私なりに、再会の挨拶らしく雰囲気を出したかったんですけどね。  それに先生、確かそう呼ばれるのを嫌がっていたでしょう。今の子たちが真似をするようになったら悪いので、いい機会だから改めようかと」 「おまえらの代がつけたアダ名は、もう充分以上に広がっちゃって今さら払拭できないの。だからもう諦めた。  最近じゃあ気に入ってるのよ。よく考えればちゃん付けなんてこの先何年通用するか分からないんだし、言われるうちに言わせとけってね」  気風のよさと面倒くさがりなところが見事に同居したこの人らしいことを言い、芦角先生――もといハナちゃんは、私を顎で促した。 「んじゃま、そういうことでついといで。まずは校長室に行かないと。  その他諸々、忘れてることはないよねおまえ。教室の位置とか覚えてる?」 「はい、大丈夫です。忘れてません」  実家の階段が何段あったかさえ忘れていたような私だが、この学校に関することならすべて残らず覚えている。 「そりゃよかった。面倒がなくて私も助かる」 「もしおまえの記憶があやふやだったら、案内せにゃならんとこだし」 「仮にそうだったとしても、ハナちゃんはやらないでしょう。  誰か真面目な生徒を選んで、おまえがやれと丸投げするだけでは? よく私をそういう風に使ってたじゃないですか」 「おう。おまえはとても優秀だったよ。だから戻ってくれて先生嬉しい」  まるで、使える手下が増えて助かると言ってるような口振りだった。いや、事実そう言ってるんだろうな、この人は。  呆れ半分、苦笑を漏らしながら私は呟く。 「今の子たちも大変ですね」 「ばーか、大変なのはむしろ私で、これからはおまえもだ。何せ今の二年ども、二年前とは比べもんにならないくらい濃いんだぞ。  それでもひねた奴がいないのは救いだけどね。基本手強いのが多いから覚悟しとけよ。おまえのそういう……」 「なんですか?」  問うと、ハナちゃんは頭を掻きながら、言葉を選んでいるようだった。  そして続ける。 「今の子たちがどうとかいう、妙に姉さんぶった態度はやめるように。自分で自分は異分子ですって言ってるようなもんだからね。壁を作るよ」 「……それは」  言われて、なるほどと反省した。いくら普段からやる気のない人だといっても、そこはやっぱりちゃんとした先生なのだ、ハナちゃんは。 「確かに、そうですね」 「だよ。言われるほうもいい気はせんでしょ。上目線っぽいしね」 「そもそも年上が威張っていいのは、年取ってるぶん経験が豊富だからだ。その点、竜宮城帰りのおまえは年上であっても年上じゃない。  まあ、要はあまり構えるなっていうことで、もっとずばり言うならトラブルなよ。そうなると私が――」 「面倒だから。はい、分かりました。肝に銘じます。  それに、そういうことならきっと心配要りません」 「お、自信ある感じ?」 「ええ。なぜって言われても困りますけど」  この学校に関することである限り、私は即座に、無理なく馴染むことができるだろう。級友たちとの付き合いも含めて、それは確信できることだった。 「大丈夫ですよ。私は今とても嬉しいんです。  こうやって、またここに帰ってこれてよかった」  この日を待ち望み、夢にまで見た。比喩ではなく、本当に。  だから失敗はしない。万事上手くやってみせる。  今度こそ、今度こそ…… 「そっか。よし、じゃあ行くよ」 「はい」  笑顔で頷き、私は懐かしの学舎へと入っていった。 「あー、来たよ。来たぜ審判の時が~」 「う~~、覚悟しててもやっぱり緊張するよねー」 「今回ばかりは、マジで運命の分かれ道だからな」 「そういう低レベルのぼやきを間近で聞かすのやめてくれない? 素でテンション下がるんだけど」 不安と期待が入り混じった空気の中、ごった返す生徒たちの波を掻き分けるようにして俺たちは廊下を進む。目的は無論、貼り出されている中間考査の順位表を見ることだ。 晶が言うように、今回ばかりは今までと事情が異なる。学校側が定めた基準値を下回った者は、修学旅行に参加できなくなるのだから洒落にならない。誰だって、学生時代の最大イベントから弾かれたくはないだろう。 受験を控えた三年生や、まだ成績順位が群雄割拠の一年生も緊張しているのは同じだが、それでもやはり今回の二年生はプレッシャーが別格だ。ここに来るまで、真剣に神頼みしてる奴を見たのも一度や二度じゃない。 かく言う俺も、確実にこれまでよりは落ち着かない気分だった。自分が落とすことはないにしても、栄光たちの順位がとても気になる。こいつらの中から欠員が出たら修学旅行がつまらないし、勉強教えた俺の沽券にも関わるからな。 「まず目安とするのは二百番台か」 「まあこれまでの傾向から見て、足切りはその辺りよね。二年生230人中、下位の10パーセント前後」 「で、でもさ。さすがに20人以上もアウトってことはないんじゃないかな? そんなに大勢が修学旅行に行けないっていうのは、いくらなんでも……」 「今回は気合い入れた奴も多いだろうし……」 「先生らも温情っていうか手心っていうか……」 「どうかな。そんなに甘くないと思うぞ。うちの先生方は」 「晶が言うように、今回は頑張った奴が多いぶん多少は事情も変わるんだろうが」 「それでもライン切ったら駄目でしょう。みんながいつもより本気なぶん、努力が足りないと見られた奴はばっさりよ」 俺も我堂の意見に同意する。この状態で進歩が見られないような奴には、残念ながら同情の余地はない。 ともあれ、まずは順位を確認しないことには始まらないわけで。 「行くぞ」 俺たちはさらに人波を掻き分けていった。 そして…… 「うおっしゃあァ! 余裕だろこれ」 「わたしも、これならきっと大丈夫だよねっ!」 晶と歩美は、共に普段より20番近く順位を上げていた。確かにこれなら、どの面から見ても大丈夫と言っていいだろう。俺も胸を撫で下ろす。 「ちょっ、待て! オレはオレは――?」 そして、問題と言えばこいつなのだが…… 「ぐッ、がッ……な、なんだこれ! どう見れっちゅーねん」 「コメントしづらすぎだぞ、おまえ」 栄光の順位は悲しいまでに普段どおり。アウトなのかセーフなのか俄かに判断できないボーダーの上だった。 この辺りの成績は、その時々によってどっちにも転び得る。普段どおりという順位結果を、他の奴ら同様に努力したと見るべきか、それとも進歩がないと見るべきか…… 俺は前者で見てやりたいが、先生方がどう捉えるかはこの場で判断することが出来ない。 「点数だけならそこそこ上がってんだぜ」 「それは分かるが、まあ後は天命を待て。おまえはおまえなりに頑張ったよ栄光」 肩に手を置いて慰めつつ、俺もこいつの運命を祈っておいた。ここまできたらそれしかできない。 「そうだよ栄光くん。きっと大丈夫だから」 「これでもし切られたら、一緒に花恵さんのとこ行って直談判してやるよ」 「お、おまえら……」 麗しい友情に感動している栄光を横目に、俺はさりげなく鳴滝の順位も確認する。見れば90番台……やるなあいつ。そこは外見からも察することが出来るとおり、口だけじゃあないってことか。 さて、それじゃあ後は俺の順位だが、どんなもんか。 目線を上へ上へと上げていき、見つけた俺の名前が載っていたのは…… 「うっわすげえ――おまえパーフェクトじゃん!」 「なにこれ、オール満点? 狂気の沙汰なんだけど……」 「四四八くん……ほとんどわたしたちの相手ばかりしてたのに、どういうことなの。ほんとに同じ人間?」 「正直、引くわ」 「ここまでくると、もはや好感度なんか上がらねえな。例外があるとすれば、よっぽどの変態だけだろう」 「常人が絡もうって域を超えてるよ。嫌味にすらなってないし」 「……大きなお世話だ、馬鹿ども」 好き勝手言ってくれるが、取ってしまったものは仕方ないだろう。まあ狙ったし、俺としては満足だ。 こいつらだけじゃなく、他の奴らからも割りと真剣に引かれてるようだが、別にそんなことはいいんだよ。変態しか絡んでこないと言われたが、その変態には心当たりがある。 つまりほら、我堂とか? そういやあいつの順位はどうだったんだ? 「おい、我堂」 言って、俺はさっきから黙ってる奴に目を向ければ…… 「ひゅう、さっすがだねえ。いつもどおりって感じか?」 「ここはまさに磐石ってやつだよな」 「それだけに面白みがないというか」 「あー、分かるわ。あたしらからしたらもはや定番のことだもんな。ギャラリー白けてんぞ四四八」 「これで四四八くんすごーいとか言うの、今まで面識がなかった人だけなんじゃない?」 「つまり、転校生みたいなもんでもない限り、こんなのなんとも思わんと」 「……ほっとけよ、馬鹿ども」 別にテストで周囲の受けを狙ってるわけじゃない。つまらんと言われようが何だろうが、いい意味でいつもどおりなんだから俺としては満足だ。 それに、何も全員が白けてるわけでもないだろう。俺が変わらず一位なんだから、そこに絡んでくる奴が絶対一人はいるわけで。 そういえば、その自称ライバルはどこいった? 「おい、我堂」 言って、俺はさっきから黙ってる奴に目を向ければ…… 「お、やるねえ。やっぱここは予想通りの王者防衛っていうわけか」 「あー、でも、今回はちょっと厳しかったか」 「一番は一番だけど、点数の差がほとんどないね。ギリギリ辛勝って感じ」 「おまえがここまで詰められたの、実際のとこ初めてじゃねえかな」 「やっぱりわたしたちの相手ばかりしてたのが響いたんだね。ごめん」 「でも、なんかそういう四四八も悪くねえよ。やっぱ人間だよなあ、みたいな」 「あ、いや別に、からかってるわけじゃないんだぞ? 気ぃ悪くしたらごめんな。でもあたしはほんとに――」 「……ああ、分かってるよ晶」 順位だけは守ったものの、確かに普段より点数が下がっているし危なかった。言い訳をするつもりはないが、俺もまだまだ未熟だということだ。 「とりあえず、満足とは言えないまでも収穫はあったな。現時点の限界が多少は見えたし」 「おまえにも喜んでもらえたようだしな、晶」 「うっ、だ――だから、別にからかってるわけじゃねえんだってば。絡むなよ、もう!」 と、ぶつぶつ言ってる晶に苦笑しながら、そういえばと思う。 絡むとかなんとかいうことならば、真っ先に来そうな奴はどこいった? 「おい、我堂」 言って、俺はさっきから黙ってる奴に目を向ければ…… 「うそ、マジで?」 「あちゃー、こりゃまた、驚愕の事態というか……」 「わたしたちの代じゃあ、ある意味歴史的瞬間だよね」 「柊四四八、王者陥落」 「…………」 確かに、初めて一番を取り逃がした。正直、俺もショックではある。 「ま、まあ、なんだ。こういうこともあるよ、うん!」 「お、怒ってる四四八? さっきからモロ無表情だけど、おまえらのせいだとか、内心キレちゃってたりする?」 「そりゃそう言われたらオレらも反論できねえけど、それでもほら、三位だぞ? メダル取れる順位じゃん」 「あたしらじゃあ逆立ちしたってこんな順位取れないし」 「な?」 「な?」 「もー、うるさいよ二人とも。それじゃあからかってるのか慰めてるのか分かんないでしょ!」 「四四八くんの性格分かってるくせに。結果がどうだろうと、〈他人〉《ひと》のせいになんかするわけないじゃない」 「まあな」 これは完全に俺の落ち度だ。栄光たちを責める気は微塵もないし、ただただ己の不明を恥じる。 「ありがとな、歩美。気を遣ってくれて嬉しいよ」 「あ、うん。でも四四八くん、あんまり自分ばっかり責めないでね。やっぱり、わたしたちが重荷になったのは間違いないことなんだし」 「これからは、なるべく負担にならないよう頑張るから」 「ああ。俺も出直して頑張るよ」 ショックはショックだが、いつまでも引きずってはいられない。こいつらに責任を感じさせたままでは申し訳ないし、次はぶっちぎりで首位に返り咲いてやろう。 そう考えると、目標が出来たということで前向きな気分にはなれた。悔しさを忘れずに、この敗北を糧にしなくてはならない。 で、思ったんだが。 「そういえば、我堂はどうした?」 俺が首位陥落をしたとなれば、間違いなく騒ぐはずの奴がさっきから一言も喋らない。 何事かと、そちらに目を向けてみれば…… 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 誰もが皆、無言だった。俺も言葉が出てこない。 ないぞこんなの。有り得ない。俺の人生で、これは真に初めての経験だった。 「あっ――ちょっ、待てよ四四八! どこ行くんだ?」 「帰る。こんなことしてる場合じゃない」 というか、もはや修学旅行すらどうでもいい。先生に言って、特別の補講を組んでもらおう。自分で自分が許せない。 「待て――待て待て待て! 気持ちは分かる。よーく分かる。だから落ち着け、冷静になろうよ顔怖いって!」 「わたし四四八くんがいないと修学旅行つまんないよー!」 「五位で世界が終わったみたいなオーラ出してんじゃねえよ! 修行僧かおまえは!」 「この順位でそこまでキレられたら立場ない奴多すぎるだろっ」 「四四八くん、ほら、飴あげるよ? なんならあっちゃんのおっぱい揉んでいいよ?」 「揉むかっ!」 「嫌なの?」 「てかあたしの意思はねーのかよ!」 「揉ませてやれよ。それで四四八が立ち直るなら」 「もーめ。もーめ。もーめ。もーめ」 「だあああ! もう、分かったよ、ちっくしょおおおっ!」 「ほら、いいぞ四四八。どんとこい!」 「おまえらなあ……」 色々はてしなく間違ってるが、こいつらが動揺してるのは俺が動揺してるからで、つまり本をただせば言い訳無用で俺が悪い。 固唾を呑んでる皆の前で深呼吸し、どうにかこうにか気を静めることに成功する。 それで。 「晶、その、もういいから……胸突き出すな。しまっとけ」 「あたしの胸じゃ不服なのかよ。じゃあ、あゆのはどうだ?」 「え、わたしのはちっちゃいよ。そっち趣味なの?」 「だから、そんなんじゃないんだって」 「お、おまえまさか、オレのことを……」 「黙れ」「黙って」 「はぶっ」 ああ、うん。いい裏拳だ。コンマの誤差で俺の手が出るところだったよ。 「みっともないとこ見せて悪かったな。もう大丈夫だよ、心配要らない」 「正直かなりショックだが、自業自得だ。仕方ない。前向きに再起するよ」 「修学旅行は行くよね?」 「……それは、しかしな」 「言っただろ。この順位でそんなこと言われたら他の奴らは立場ねーんだって」 「いいじゃん。勉強なら旅行しながらでも出来るだろ。なんならあたしらも付き合うから」 「え、それマジで言ってる?」 「マジだよ。栄光くんはなんとも思わないの? これ絶対、わたしたちのせいでもあるんだよ」 「いや、別にそういう」 「いいからっ、四四八くんは黙ってて」 ばしっと切られ、二の句を継がせてもらえない。俺の反論を封じたまま、晶と歩美は話し続ける。 「四四八くんが自分のことにちゃんと専念できるように、わたしたちがもっと頑張らないといけないの。こんなことになった以上、それは確定事項なの」 「だから、四四八がどうしても旅行を蹴るって言うんなら、あたしらも蹴るよ。連帯責任」 「ね、栄光くん」 「おまえまさか、一人で逃げようとか思ってないよな?」 「お、おおぅ……そ、それは」 すまん栄光。俺が不甲斐ないばかりにおまえを追い込んでしまっている。 いいや、おまえだけじゃなく、晶も歩美もあれだけ旅行を楽しみにしていたっていうのに…… 「分かった。ああ、分かったよ。確かにおまえらの言うとおりだよな」 「オレたちゃ一蓮托生だ。そもそも四四八のお陰でこの学校に入れたんだから、筋は通さないといけねえ。付き合うよ」 「そうだ、よく言った栄光」 「それでこそだよ、栄光くん」 「よっしゃあ、じゃあそういうことで、今から一緒にハナちゃんのとこ行くか!」 「待て――待てよ分かったから。もういい」 こいつらにそこまで言わせて、なお通そうと思う我などなかった。これ以上、俺のプライドなどで迷惑はかけられない。 「おまえらの気持ちはよく分かったし、嬉しく思う。だからもう、そんなこと言うな。修学旅行は一緒に行こう」 「え、いいのか?」 「ああ。仲間を巻き込んでまで張るような意地じゃない。晶も言ったとおり、こんなことで騒いでたら大〈顰蹙〉《ひんしゅく》だしな」 再起のための努力は当然するが、それはあくまで皆と同じ条件でやるべきだろう。ただでさえ睡眠中まで勉強やってるような俺が、旅行も蹴って居残りなんてのはフェアじゃないにもほどがある。 悔しいなら、小細工なしの真っ向勝負でリベンジすべきだ。ここで俺が採るべき正しい道は、そういうことなんだろうと考える。 「四四八がそう言うんなら、あたしから言うことはないよ」 「もう甘えないようにするから、これからも一緒に頑張ろうね」 「そうだな。頑張ろう」 これはこれで、いい経験になるだろう。挫折と言ったらバチが当たるのかもしれないが、ただ漫然と勝つよりかは意味があることに思える。 そんなわけで気を取り直し、再度順位表に目を向けたのだが…… 「そういえば、我堂」 あいつは何位だ? 俺がこんな結果になった以上、当然一言どころじゃない文句があるはずなんだが、さっきから何も言ってこない。 不思議に思ったそのときに、妙な気配を感じて視線を移せば…… 「ふ、ふふ、ふふふ、ふふふふふふ……」 何かこう、そこには名状し難いどす黒いものを撒き散らしてる変なのがいた。 怒り? 絶望? 悲壮感? とにかくそういう負の諸々がない交ぜになって混沌とした、今すぐ丑の刻参りでも始めそうな雰囲気。 「お、おい、いったいどうしたよ?」 不審すぎる態度に皆が訝ったのは一瞬のこと、次の刹那にはその場の全員が事態を察した。 「あー、ちょっとみんな、あれ見てよ!」 「――――――」 「なっ……」 最、下位……? こいつが? そんな馬鹿な。 「い、やいや、ちょっと待て」 我堂の学力からして、それは絶対に有り得ない。ケアレスミスが多い奴なのでつまらないことから順位を落とすことは過去に何度もあったのだが、それでも10番以内は常にキープしていたはずだ。 しかもこいつ、今回は自信満々の様子だったし。俺に勝つため猛勉強したと言っていたし。真っ当に行けばこんなことは起こり得ないはずだろう。 「どうしてまた……」 何か先生側の手違いか? そう思いかけた矢先、しかし俺は気づいた。これはただの最下位じゃない。 「オール0点……」 「つーことは……」 そんなアクロバティックな点数を取るとすれば、可能性は一つしかなく―― 「ぶはぁっ! ちょ、ちょ、おま――最高だぜ鈴子! いいギャグ持ってんじゃんか、誰も敵わねーよ身体張りすぎだろ英雄かおまえはっ!」 「名前書かないで出すなんて、さすがに四四八も真似できねーっつーかしたくねーっつーか、とにかくうん、おめでとう!」 がしっと我堂の両肩に手を置いて、しみじみと晶が告げる。 「おまえ、究っ極に馬鹿だな」 「うぅ、ううううううるさいわねええェッ! なんなのよもおおおっ!」 なんなのって言われても馬鹿なのとしか言えないっていうか、凄い顔だなこいつ。そばもんに匹敵する狂気の相だろ。晶のハートを鷲掴みじゃないか。 「りんちゃん、普通にしてれば美人なのに……」 「我堂の顔芸もだんだん危険な領域に足を踏み入れてきたな」 「鈴子、鈴子、おまえは今最高に輝いてる。気を落とすなよ千信館のカリスマが泣いてちゃ駄目だろ? みんなおまえの味方だから」 「えぐ、えぐ……ほんとう?」 「ああ、そうだよ。ほら笑って」 「はいチェキ」 「―――ぶほぉっ」 「……おまえ、よくそんな呪われそうな形相の写メをコレクションになんかできるな」 「だって、だって、可愛いじゃん。馬鹿すぎて……ぶふふふふ」 「駄目だよ、あっちゃん、笑っちゃ……ぷぷぷ」 「何を、自信満々に、ポーズ決めてんだよ……」 パシャパシャパシャと、周囲を取り巻くすべての生徒がこの哀れな才媛を記憶に留めようとケータイのシャッターを切った。 それはかつてないほどの一体感で、皆が心から通じ合い、まさに我が校の掲げる千の信頼を体現した素晴らしい瞬間だったのかもしれない。 なぜなら、誰もが否応なく信じざるを得なかったからだ。我堂鈴子は残念すぎる、と。 「仕方ないな」 俺もそこはまったく同感だったので、和を重んじるべく自分のケータイを取り出し、カメラ機能を立ち上げるとピントを合わした。 そうそう、その顔。新世界の神でも目指してるみたいな笑顔。 実にこう、滅び行く者の哀愁が現れていて美しくはないが味があると認めるのも吝かではない。 「なあ我堂、ちょっとこっち向いてくれ」 「あ、うん。もっとほら、切ない感じに。いいよ、そのまま。はいチー」 ズ、とは言わせてもらえなかった。 「やっかましいのよパシャパシャパシャパシャ! お金取るわよこのクソ庶民どもがあァッ!」 「呪うわよ、マジ殺すわよ! うちの兵隊引っ張り出してぶっ潰すわよ右翼舐めんなあああっ!」 キレまくる。吼えまくる。だが悲しいかな、誰も全然びびっちゃいない。 「そんなこと言われてもな」 「りんちゃんとこの兵隊さんたちは、いま猫探しで忙しいんじゃないの?」 「うっ――、な、なぜそれを」 「この前、チラシもらったよ。近所の女の子に頼まれて、おまえが陣頭指揮してるとかなんとか」 「う、う、う……」 「だから凄んでも怖くないっていうか」 「りんちゃん、本当は優しいもんね」 まあそういうわけで、こいつの家が右翼だろうが極道だろうが、だからどうしたとしか思わない。 普段どれだけ尖ってようと、我堂がそういう奴だというのは全員が知っている。もっとも、こいつは恥ずかしがって絶対認めようとはしないけど。 そのへん、悪ぶって格好つける癖があるのは、鳴滝よりもむしろ我堂のほうなんだよな。 「しっかしおまえ、キレた絵心持ってるよな。あたしの部屋にも飾りたいから今度なんか描いてくれよ」 「な、画伯」 と晶が言ったのが駄目押しになり、ついに我堂の心が折れた。そこから先は、もはや定番になってる流れだろう。 「ほっといてよ馬鹿あああああっ!」 「あーあ、逃げちゃったよ」 「あっちゃん、好きだからっていつもいじめすぎるから」 「へ? いや最後のは結構本気で言ったんだけど……」 むしろおまえが言ったからこその結果だと俺は思うが。 「でもまあ、あいつ面白いじゃん。いじりたくなる気持ち、分かるだろ?」 「否定は出来ないな」 止めなきゃいけないとは思っちゃいるが、ついつい見過ごしてしまうし場合によっては乗ってしまう。その都度、やりすぎたかと反省はしてるのだけど。 「ま、そこらへんは大丈夫だろ。前に家の人らも言ってたけど、あれであいつ結構喜んでるみたいだし」 「本気で嫌なら、毎度絡んでこないだろ」 「そりゃそうだ」 「でもりんちゃん、テストのほうは大丈夫なのかな? あんなことになっちゃったんだし」 「どうかな。さすがにノーペナルティってわけじゃないだろうが、最悪のケースは免れるんじゃないか? あいつの場合、必要なのは補講じゃないからな」 「名前さえちゃんと書いてれば、間違いなく五番以内には入ったはずだよ。それくらいは答案見なくても分かる」 「つーことは、座禅とかそういうので手打ちかな。集中力を鍛えろっていう」 「あー、たぶんそれだ。ハナちゃんあれで、剣道超すげえし。道場でばしばしやられるんだろ」 「それを言うなら、りんちゃんだって薙刀はかなりの成績なんだけどね」 「武道やってるイコール、隙のない人格が形成されるとは限らないっていうことか」 芦角先生にしろ我堂にしろ、ベクトルは違うがエキセントリックな性格であることに変わりはない。そう考えると、戦いの道を究めようという人種が少々おかしいのは当たり前なのかもしれない。 むしろそういう奴らが集まるからこそ、心の修練ってやつが重視されるのかもしれないな。 と、そんなことを思いながらも、それは俺自身、少なからず心当たりのあることでもあった。 事実、前に見た夢の中では…… 「ほら四四八。もう用はすんだんだし、あたしらも教室行こうぜ」 「ああ、分かった」 促す晶に頷いて歩きながらも、俺は続けて考える。 さてこの後、ちょっとした事件が起きるのは分かっているんだが、どうしたものか。 やはり、色々説明しないといけないのかな。“あいつ”が上手く隠してくれるなら、何も問題はないのだけど。 正直、どうにも、そういうことはしてくれなさそうな気がするんだよ。 そして、その結果がこれから出る。 「はーいはい、みんな静かにー。話進まないでしょー、落ち着いてー」 「こういうのが面倒だから、事前にテスト明けはサプライズがあるよって言ったんじゃない。なのにいちいち驚くなよー」 「おまえら〈伏線〉《フラグ》見破る感覚鈍すぎ。そんなんじゃ苦労するぞー。この手の〈感性〉《はな》は磨いてないと、人生クソゲーなんだからなー。婚期逃がすぞ、悲しいんだぞー」 「ていうか騒ぎすぎなんだよクソ男子ども! きゃいきゃいきゃいきゃい猿かおまえら! 色めきだってんじゃねえよ十年早ぇ!」 ズガンと教卓に叩き落とされた拳骨の凄まじさに、クラスが一瞬にして静まり返った。 「ん、よろしい。それじゃあどうぞ」 促され、笑いを堪えるようにしながら前に出てきた奴は言うまでもなく…… 「はじめまして、世良水希といいます。わけあって二年間ほど休学していたのですが、このたび復学してまいりました」 「歳は二つほど上になりますが、私はずっと眠っていたので気持ちは二年生のままです。なので同級生として、皆さんどうか気楽に接してください。よろしくお願いします」 流れるようにそつなく挨拶を決めた女に、クラス中から感嘆の声が漏れた。心は同級生だと言っていたが、とてもそうは思えないのだろう。気持ちは分かる。 なぜならこいつも、精神の活動が普通の人間とは違っている奴だ。俺はそれを知っている。 「というわけだから、おまえら仲良くやるんだよ。世良は修学旅行にも参加するんで、色々フォローしてやるように」 「まあこいつは優等生だし、むしろおまえらのほうが教わることは多そうだけどね。特に大杉、おまえテストはギリだから。あと我堂、おまえは私を笑い死にさせる気か。これから旅行の日まで、毎朝道場掃除の罰則やれよ」 「ういーっす」 「……分かりました」 「でだ」 「まずはなんだ、世良も新しいクラスメートのことが知りたいだろうし、端から自己紹介でもいってみようか」 と、ある意味当然の流れになったわけだが。 「それなんですけど、いいですか?」 にこりと笑って、通称千信館の眠り姫サマはこちらを見る。それがあまりにあからさまだったんでクラスの奴らはざわめいて、俺はやっぱりかと宙を仰いだ。 「柊くんのことは知っているので、後のことは彼に聞きます。そのほうが、ハナちゃんも面倒がなくていいでしょう?」 「へ?」 「は?」 「なに?」 「どういう……」 黙れ。頼む。騒ぐなよ。俺の面倒は無視かおまえ。 「なんじゃそりゃああっ!」 しかし願いはむなしく、困ったことに予感は的中してしまったわけだ。 「あーそう。じゃあ柊、後は任せた。どうせ今日は答案返したら旅行の班決めとかのレクリエーションだから、テストの答えあわせも含めておまえが仕切れ。異議ないなー?」 「ありませーん」 「じゃあ、後よろしくぅ! いやー、使える奴がいてくれて助かるわー」 「ちょ、ま――芦角先生っ」 「ばいばーい」 颯爽と清々しく手を振って、風のように先生は去っていく。残された俺に待つ運命は、当然ただ一つだった。 「なあ四四八、どういうことかちょっと説明してもらおうか」 「なになに、いったいどうしちゃったの?」 「随分と秘密が多いようで、楽しそうね柊」 「えーっと、世良さん? なんかよく分からんけど、こっち来なよ」 「よーっしみんな集まれ、特に男子! ここに裏切りもんがいやがんぞォ」 「そーれやっちゃえー!」 号令一下、四方八方から席ごと馬鹿どもが寄ってくる。 俺はそれに囲まれて、怒涛のような質問攻めで、何からどこまで答えるべきか対処に困るのでうざったい! 「世良、おまえ俺に恨みでもあるのかよ」 「ごめん。でもあるかって言われればそりゃあるわよ。だって全部見られちゃったし」 「すごく、恥ずかしかったんだから」 「うおおおお、四四八てめえ表出ろォ!」 「あ、やばい。なんかあたしもムカついてきた」 「わたしの中の四四八くんが崩れていく」 「変態、変態っ、不潔だわっ!」 「うふ、あはは、あはははははは」 正直、こっちもいい加減に怒鳴りたくなる状況だったが、やけに無邪気な様子で笑い続ける世良のことが気になった。 それはあたかも、ずっと笑うのを忘れていたかのような。 百年かけてようやく思い出した幸せに涙するような……曇りないがどこか胸を刺す笑みだった。 「おはよう。さっきはヘンなもの見せちゃって、ごめんね」  あの日、“再会”した世良はそう言ってはにかんでいた。朗らかだが、やはりどこか胸を刺す独特の雰囲気を纏わせて。  その態度から、こいつが夢のあれと同一人物であることは間違いなく、他にどんな説明も付けられそうになかったから、俺は黙ったまま頷き返した。 「順応、早いね。何も疑ったりしてないの?」 「信じられなくても現実は現実だからな」 「聞きたいことは色々あるが、まずは名前を教えてくれ。俺は柊四四八」 「世良水希。柊くんって呼んでいい?」 「他に適当な呼び名はないだろ。いきなり下の名前で呼び合うような仲でもなし。世良でいいか?」 「うん。それでいい」  至極順当。つまり、現時点での関係を考慮すれば別段親しくもない同士として、味気ないぶっきらぼうな距離感をそのまま表したような呼称なのに、なぜか世良は嬉しそうだった。  まるで、そう呼び合うのがとても大事なことのように。  こいつが俺を見る不思議な目の光に、若干だけ気後れしたのを覚えている。 「晶の――ああ、友人から聞いたんだが、二年間ずっと眠っていて最近目覚めた千信館の学生っていうのはおまえでいいのか?」 「たぶんね。他に私と同じ境遇の人がいなければ。  柊くんは、今の二年生?」 「そうだが、敬語は使わないぞ。そっちが年上なのは分かってるが、そういう気分にはなれない。別にこれは、夢での諸々に腹を立ててるからってわけじゃなく」 「うん。これからは同級生だもんね。だから堅苦しいのは、私も嫌」 「何の因果か、事前に知り合ってしまったからには無視できない。こいつが一日も早く学校生活に馴染めるよう、俺が率先して壁を取っ払う役をやろう。  面倒だが、仕方ない。これも責任だ。義を見てせざるは勇なきなり」 「…………」 「みたいなこと考えてるんでしょ? 知ってるよ、柊くんがそういう人だっていうことは」 「何をまた……買い被るなよ」  持ち上げてもらって光栄だが、そこまで殊勝に考えているつもりはない。まあ、まったく外れているわけでもないのは認めるが。  たったあれだけの、しかも夢の中でというよく分からない状況での接触しかしていないのに、知った風なことを言われるのは少々居心地が悪かった。  つまり、ここで俺が抱いた世良の印象は、必ずしも良いというものじゃなかったのだが。 「ううん。誤魔化したって駄目だからね。柊くんは武士だもん」  明け透けに微笑むその顔に、俺は毒気を抜かれてしまった。 「だから、遠慮なく甘えさせてちょうだいね。頼りにしてるから、どうかよろしく」  ゆえにもういい。分かった。好きにしろと。頷いてしまったのは失敗だったのかもしれない。 なぜなら俺の現状が、それを端的に証明しているのだから。 「じゃあそういうわけで、修学旅行の班決めはクジ引きの結果こうなった。文句はないなおまえら」 「ありませーん」 まずは中間考査の答案返却。それに伴う答えあわせを二時限使って終わらせた俺は、引き続きレクリエーションの議長役を内心はともかくこなしていた。 ここまでで、早くも打ち解けている世良の様子に溜息が出る。 こいつ、こんなに余裕で皆の輪に入れるなら、俺をダシに使う必要などなかったろうに。 しかも、クジで決めたにも関わらず、班構成は狙ったようにいつものメンツだ。すなわち俺、晶、歩美、我堂、栄光、そして世良。 別に文句はないが、出来すぎてるようで気持ち悪くはあった。 「それなら、次は班ごとの自由行動に関する話だ。通例なら、各々コースを決めて研究課題を設けるという流れだが――」 「待って柊、ちょっといい?」 「なんだ我堂、言ってみろ」 「まだ一人、班が決まってない奴がいるでしょ。それはどうするの?」 「ん、ああ鳴滝か」 あの強面男は、今日もまたいつものように休んでいる。テストが明けたらバイトを始めてもらうから出て来いよと言っておいたのに、まったく先行き不安な話だ。 「いないものはしょうがないから勝手に決めよう。あいつはうちの班で引き取る」 「えーーっ」 「ちょっと、本気なの柊」 「本気だよ。あとおまえら、鳴滝にびびりすぎだ。あいつはそこまで危ない奴じゃないぞ」 「マジかよ、なんでそんなの四四八が分かんだよ」 「私は別に、あんなのにびびってなんかいないわよ。ただ、問題起こされたら困るってだけ」 「そりゃなあ、修学旅行で他校生と乱闘なんてのは定番だからな」 「〈秀真〉《ほつま》学園の修学旅行回でも竜胆姉さんがやってたよね」 「あ、それって神座万象シリーズ? 私もBDBOX持ってるよ」 「あー、うるさい。どうでもいい話をするな」 手を振って黙らせつつ、俺は議長の強権を発動した。 「これは決定事項だ。おまえらが鳴滝をどう思ってるかは分かったが、だからこそ他の班には任せられない。俺が責任持って監督する。それでいいだろ」 「でだ、さっきも言ったように続きは班ごとの研究課題だ。今から各自話し合い、方針が決まったら簡単に纏めて提出しろ。この場を先生に任された以上、可否は俺が出す。それで構わんな?」 えー、とか、うげー、とか声が上がったが、一切無視する。こいつらの好きにやらせたら、ろくなことにならないのは分かりきっているからだ。 「間違っても、魔界都市京都、中二病千年の歴史がどうだのとふざけたテーマを出してくるなよ。いいか歩美」 「ふえ、なんでわたしだけピンポイント?」 「そりゃおまえがそういうことを言いそうだからだろ」 「おまえは祇園の芸者文化に見られる維新志士たちの下半身事情とか言い出さないように気をつけろ栄光。俺はその手の冗談がすこぶる嫌いだ」 「おまえオレの心読めんのかよっ!」 「単純なんだよ、馬鹿」 「ほんと、下品ね」 「あのー、議長。柊四四八くんはどうしてこんなにつまらない奴なんだろうとか、そういうのも有りですか?」 「なに?」 挙手と共に、堂々とそう言ってのけた世良の態度で再びクラスはざわめいて、次にはやはり感嘆の声があがった。 「うお、言うねえ」 「凄いよ。姐御と呼ばせてほしいよ」 「そうだ、言え。言っちゃってくれ!」 「見所あるわね。いきなり柊に盾突くなんて」 こいつら……俺に面と向かって歯向かえる奴が非常に珍しく、また同時に頼もしいらしい。 結構。素晴らしいことだ。復学早々、人気者になるための手助けが出来て俺も嬉しいよ。 勢いを得た他の奴らも、一緒になってやんややんやとバッシングしてくるが、生憎とそんなもので折れる俺ではない。 共通の敵を持つことで団結力が育まれるなら大いにやれ。こちらは憎まれ役として君臨してやるのみだろう。 「それが京都に関係あるなら一考してやる。分かったら馬鹿話してないでさっさと掛かれ。少年老い易く学成り難し」 「時間舐めてると後悔するぞ――返事は!」 「イエッサー」 と叱り飛ばして、どうにかそれぞれ、四限終了までに研究課題の方針を決めることは成功した。 事情はどうあれ、任された責務を果たすのは当然なのだから妥協抜きで厳しくやったよ。それをつまらないと詰るなら、好きに言っていればいいと思う。 そして、結果を報告するべく俺は芦角先生を呼びに行き…… 「ほー、はー、なるほどなるほど。確かにまあ、各自よく出来てるけども」 「もちょっとこう、学生らしく砕けた感じのやつはないわけ? 学会に提出する論文作るんじゃないんだからさ」 「たとえば和スイーツの食べ歩きによる京文化の考察とかそういうの……」 「芦角先生」 「ひゃっ、あ、はい」 「いいのか悪いのかどっちですか?」 「え、うん。そりゃもちろん、オーケーよ? さすが柊、頼りになる教え子がいてくれて先生は嬉しいなあ」 「だ、そうだ。よかったなおまえたち」 振り返って、ほとんどが机に突っ伏しているクラスメートたちを慰労する。なんだかテストが終わったときよりも疲れきっている感じだが、まったく大袈裟な奴らだと思った。 「えーっと、みんなご苦労さま。――てなんだよおまえら、そんな目で私を見るなよ。私のせいか? 私のせいって言いたいのか? 違うもん、先生が悪いんじゃないもん。まさかこんなことになるなんて、思ってなかったことも……ないけれど」 「とにかくほら、面倒なことがさっさと片付けられてよかったじゃない。ちょうどキリよく、今日はこれでお終いだし」 「な?」 チャイムが鳴り響く中、やや引きつった顔で芦角先生が場を締める。 「旅行の日まで、明日からは通常通り授業だから。今日はみんな真っ直ぐ帰って早く寝ろ。そういうわけで、以上解散」 「起立、礼」 ありがとうございましたー、と投げやりな声が響いて本日の学校は終了した。帰宅に移る生徒の中から、芦角先生は世良を手招きして呼びつける。 「で、どうだった久しぶりの学校は?」 「ええ、まあ、色々と楽しいです」 「そか。じゃあ柊、引き続きこいつの世話は頼んだぞ。同じ班なんだからしっかりな」 「だけどおまえ、それにかこつけてストロベリったりしようとか思ってんならマジ許さんからそこんとこ肝に銘じて――」 「しませんよ」 ずばり一言で切り捨てて、俺は芦角先生を追い払った。 まったくこの人も、そんなに言うなら自分が恋人探しを頑張ればいいものを。まずは化粧とか、服装とか、色々改善すべきところがあるだろうに。 俺が呆れているのを察したのか、世良も困ったように笑っている。 「面倒くさがりだからね、ハナちゃんは」 「それのとばっちりを受けるのはいい迷惑だがな」 しかし少なくとも、世良の世話っていうやつはもう必要ないだろうなと思っていた。 「よーっし、そんじゃ一緒に帰ろうぜ」 「世良さんも、あたしの家に寄ってかない? 蕎麦屋なんだよね」 「美味しいよー」 「ありがとう。水希でいいよ」 「り……我堂さんは」 「鈴子でいいわ。晶の家の蕎麦はともかく、これからよろしくね」 「おまえは別に呼んでねーよ鈴子」 「なんですって!」 「あーもう、またりんちゃん泣いちゃうから、いじめたら駄目だって」 御覧の通り、すでに充分すぎるほど馴染んでいるのは明白だからな。 「はいお待たせー。今日は新顔さんもいるようなので、スペシャルメニューを用意したのだそばもん。どうか今後ともご贔屓に」 「は、はい……よろしく」 「…………」 「りんちゃん、りんちゃん、またヒロインにあるまじき顔になってる」 だが予想通りと言うか予想したくなかったと言うか、再びそばもん化してる母さんを前に、俺は蕎麦を味わうどころじゃなかった。 「こ、これがそばもん……?」 「そうだよ。可愛いだろ?」 「おまえはこの店内状況見てまだそんなこと言うんかよ晶」 「俺たち以外に、客がいない」 時刻はまだ昼食時で、きそば真奈瀬はかなり流行っていた店なのに、早くもこんなことになっている。これは真剣にどうにかしないと、洒落にならん事態になりそうだ。 「えーっと、水希ちゃん? これで顔は覚えたから、ちゃんとお布施をしないと蕎麦神さまに呪われるからね。蕎麦神さまっていうのは七色の触手を持った全長五百メートルくらいの――」 「いいから! もう分かったから! 頼むから母さん、普通にしてくれ」 「剛蔵さんも、ちょっと本気でちゃんとしてくださいよ。でないとこの店、冗談抜きで潰れちゃいますよ」 「や、うーむ。それはまあその、四四八くんの言うことも分かるんだが」 「なんだよ親父、そばもんが悪いっていうのかよ」 「剛蔵さん、私間違ってるの?」 「いや、そんなことはない。が、しかし、これはこれで難しい問題であるからして……」 「一ミリも難しくないですよお父さん」 「ほんとだよ」 こういうときの我堂は、言いにくいことをずばずば言ってくれるので頼もしい。強く言い返されるとすぐ半泣きになるのが難点だが、そこは俺が援護すれば大丈夫だ。 「そもそもそばもんってなんですか。パクリじゃないですか。ていうか熊なのかタコなのかはっきりしましょうよ。どっちにしても蕎麦となんの関係もないですけど」 「こんなんだったら、まだ大仏の格好してたほうがマシですよ。せめて最低限鎌倉っぽくはしてください。この街は観光客が多いんだから、無意味にキモくてエグい物体で地元の評判を下げられても困ります」 「柊のお母さんも、いい大人なんだから晶のタワケた趣味に同調なんかしてないで現実を見てください。その着ぐるみを被って以来、客足がどうなってるかくらい分かってるはずでしょう」 「だいたい、ボケが可愛いとか言われて許されるのは子供のときだけですよ。しかも経済絡んでるんだから、まったく洒落にならないですよ」 「そ、そばば……」 「てめえ鈴子、言いすぎだぞ。あたしと親父はともかく恵理子さんいじめてんじゃねえよ」 「鈴子ちゃん、いちいちごもっともなんだがもうちょっとソフトに頼む」 「ソフトタッチじゃ分かんないからこうなってるんでしょうが」 「で、でも、私はそばもん可愛いと思いますよっ」 「ほんとにっ」 「おまえは余計なことを言うなよ」 俺はそばもんの顔面を掴んで、世良の目の前に突きつけた。 「これの、どこが、可愛いと?」 「そ、そばばん♪」 母さんは母さんで、おそらく目一杯の愛嬌を示しているつもりなのだろう。ぬちゃぬちゃと湿った音を立てて、無数の触手を世良に纏わりつかせている。 「いやあ、なんか倒錯的な光景だよな」 「これなんてエロゲな感じだよね」 R何歳でも知ったこっちゃないが、要は世良の反応だろう。最初は引きつった顔で笑っていたが、触手に撫でられるたび、段々と顔面蒼白になっていき―― 「ご、ごめんなさい。無理です、許して!」 「そばばーん」 絶望の表情をするそばもんは、さらに絶望的に不気味だった。 「いいもん、いいもん、芸術家はいつも理解されないものなんだもん。私こんなんじゃへこたれないんだもん、ばかー!」 「あ、待ってください恵理子さん! その格好のまま外に出るのは――」 「追いかけてこいよ親父。あたしが店番しててやるから」 「す、すまん晶。あとは任せた!」 「恵理子さーーん!」 触手をばたつかせながら逃げていくそばもんと、だみ声で叫びながらそれを追いかける2メートル近い巨躯のマッチョ。 凄まじい光景だ。目撃した観光客の心臓を止めなきゃいいが。 「大丈夫かな?」 「まあ、後は剛蔵さんに任せよう。母さんも、あんなこと言ってるがそこまで空気が読めないわけじゃない。我堂が言うとおり店の状況くらい分かってるだろうし、今後は少し考えてくれるさ」 「っかし、そんなに駄目かねえ、そばもんは」 「ご、ごめんなさい。つい、我慢できなくて」 「いや、いいよ。適当に嘘つかれても困るしさ」 「ほんとお互い、親には苦労するわよね」 「まったくだ」 しみじみ頷くばかりで、言葉もない。 「それはそうと、せっかくだから蕎麦食べようぜ。伸びちまうよ」 「だね」 ほんと、味はいいんだから、妙なことさえしなければ常に大繁盛のはずなんだよ、この店は。 「でさあ、鈴子。おまえの親はなんかあったわけ?」 全員が蕎麦を食べ終わった頃、晶が思い出したようにそう言った。 「何って、何よ?」 「だから、さっき苦労するとか言ってたじゃん。そんでどうかしたのかなって」 「ああ、それね。うちのは父は知っての通り〈右翼〉《あれ》だから、存在自体が困りものなのはいつものことなんだけど、ちょっと体調崩しちゃってね」 「え、大丈夫なの?」 「どうかしら。若いときから大酒飲みだったらしいから、色々とガタがきちゃってるのは確かだけどね。別に今すぐどうこうってわけでもないわ」 「そっか。でもそりゃ心配だな」 言い方はつっけんどんだが、我堂も内心は気にしているのだろう。親の体調不良に何も思わないほど薄情な奴ではない。 心なしか、最近似た話を聞いたようにも感じるのだけど。 「見舞いとか、いるか?」 「いいわよ、そういうのは足りてるから。議員さんとかその他色々、家に出入りする奴が増えて鬱陶しいの」 「そんなことより水希――って、ああ、そう呼んじゃっていいのよね? 知り合ったばかりで我ながら馴れ馴れしいとは思うけど、なぜか他人行儀に接する気が起きないのよ、あんたには」 「うん、それでいいよ。みんなもそうして」 「分かったよ。あたしもなんでかそんな気分だし」 「水希ちゃん――みっちゃんが、きっとコミュ力高いからだね」 「オレは可愛い女子には常にフレンドリーだぜ」 「黙ってろ栄光。それで?」 「私が何かした?」 「ええ、それなんだけど」 蕎麦つゆを啜りながら、俺と世良を交互に見る我堂。いったい何を言うのかと思いきや―― 「あんた達、本当に何もないの?」 「なんだそりゃ」 また随分と抽象的な。いや、何を言いたいのかは不本意ながら分かるんだが。 「たまたま早朝マラソンで知り合ったから面識があった。ていうのは聞いたし嘘でもないんだろうけど、どうにも引っ掛かるのよね」 「なんかこう、もっとあるんじゃないの? 朝からあんたら、ちらちらアイコンタクトしてるのが気になるのよ。全部話しなさい」 「あー、それはだな……」 正直、そこを突っ込まれると困ってしまう。 俺がその辺りを話さなかったのは、話しても信じられないだろうと思ったからではない。 むしろ、こいつらは信じそうだから黙ってたんだよ。その後の展開が容易に想像出来てしまうもので。 「わたしも同感。絶対まだ何かあるよね」 「色恋沙汰ならスルーしようかと思ってたけど、見たとこそういう感じじゃないみたいだし、害がないなら話せよ四四八」 「おまえそんな秘密主義ってわけでもないだろ」 この状況じゃあ、黙り通すほうが難しそうだな。我堂が気づくくらいだから、さらに付き合いの長い晶たちの目は誤魔化せない。 栄光が言うように日頃隠し事をする性分じゃないから、慣れないことをしたせいでボロが出たらしい。そこらへんは俺の不明なので仕方ないかと観念しかけていたのだけど。 「私、柊くんと夢の中で会っちゃったのよね」 「は?」 俺が何か言うより早く、至極あっさりと世良が真相をバラしていた。 「うん、え、なに? ちょっとそれってどういうこと?」 「夢で会った?」 「四四八くんと、みっちゃんが?」 「うん。ね?」 「何が、ね、だ」 軽いなこいつ、そんな当たり前みたいな顔で話すことかよ。 「世良、おまえな、発言が軽率なんだよ。俺がこいつらに自分の体質を話してなかったらどうするんだ。ちんぷんかんぷんだろ」 「そこはちゃんと考えてるわよ。柊くんたちはなんでも話せる友達同士なんでしょ? だったら知らないはずはないって思ったし」 「私が軽率なんじゃなくて、柊くんが硬すぎるの。ちょっとした面白い事件なんだし、軽くネタにしちゃえばいいんだって」 「ちょっとした、ね」 しかも面白いときたか。いくら夢とはいえ、あそこで俺とおまえはそれなりに痛い思いもお互いにしたんだけどな。 「何かいけなかった?」 「いや、もういい。ここまできたらどうしようもないから、おまえが話せよ。正直、最初からこいつらには全部バレるだろうと思ってた」 「そう、じゃあ言っちゃうね。あれは皆が、テストを終えた日の夜のことで」 興味津々で聞き入っている晶たちに、世良が説明を開始した。俺がここ数日見続けていた追いかけっこの夢を、こいつも別の立場で見ていたこと。 すなわち追いかける側として同じ夢を共有しており、テスト終了の夜にとうとう接触した事実。 そこでのバトルについてはだいぶオブラートに包んでいたが、全体として要点を掴んだ上手い説明だったと思う。 それはいいが、やはり気になるのは世良の不思議な様子だった。 こいつ、妙に嬉しそうに話すんだよな。確かに少々特殊な体質の者同士、仲間に初めて出会ったのは俺としても感慨深いものがあったのは認めるけど、世良のはそういう種類の喜びではない気がする。 ではどんなと言われても困るんだが、なにか違和感が残るんだよ。もしかして、俺が今回のことをなるべく隠したいと思っていた本当の理由は、それが気になるからかもしれない。 上手く言えないが、晶たちに話して本当にいいのか、という躊躇い。不安というほどではなく、だけど小骨が引っ掛かっているような気持ちの悪さがどこかにある。 まあそんなことを思いつつも、今さらどうにもならんのだが。 止める気も起きないのだから、ひょっとして俺自身、本音は話したかったのかもしれない。だけどそうなると先の感情と矛盾するので意味が分からなくなり困ってしまう。 一言、不思議だ。そんな感じでもやつきながらも、ここは流れに任せるしかなく…… 「というわけなのよ」 結局、世良の説明が終わりきるまで俺はずっと黙っていた。 「マジで? すげえな。そんなことってあるのかよ」 「聞いたことがないような話ね。だけど嘘をつく理由がないし、信じるけど」 「四四八くん、今のは全部ほんとなんだよね?」 頷いて肯定する。そしてこの後に続く展開は、もはや分かりきっていた。 「ていうかだったらさ、あたしもその夢に入りたいんだけど」 「あ、オレも!」 「同じくっ」 「なんだか仲間はずれみたいで癪だから私も」 ほらな。 「おまえら、そう言うと思ったよ」 「だったら夢に入る方法教えて!」 ぐいぐいくる。ほんともう一斉にぐいぐいとこいつら。 「え、えっと、そんなこと言われても……」 「方法も何も分かるかよ。こっちだってどうしてそうなってるのか意味不明なんだぞ」 「なんだよショボいな、ケチケチすんなよ」 「四四八くんはきっとこれから、夢の中でみっちゃんとイチャイチャイチャイチャしたいんだよね」 「変態、破廉恥、むっつりスケベ」 「オレらはデートの邪魔だってか、けっ」 「言ってろ、馬鹿ども」 「ま、まあまあ、柊くんもそんな邪険にしなくたって」 取り成すように世良は言うが、しかしこんなのどうにもならない問題だろう。そもそも当の俺たちですら、再び夢を共有できるかは分からない。 それが証拠に昨夜の夢では会ってないし、実際は何の待ち合わせもしてなかったからすれ違っただけかもしれないが、現状であれが再現可能だという保証がないのは同じことだ。 なので俺は、もはや抗議は右から左に流すつもりだったのだけど、またしても世良がさらりと機先を制した。 「だったらみんな、こんなのどうかな? 柊くんの持ち物を何か一つ譲ってもらって、それを枕の下に敷いて寝るの」 「そうすればもしかして、夢が繋がるかもしれないねー、なんて」 「おい、何を」 馬鹿なことを言ってるんだと、しかし最後まで言わせてはもらえなかった。 「それだっ!」 四人全員が一丸となり、俺に飛び掛ってきやがった。 「ちょ、待ておまえら――ふざけるなよ何を勝手に!」 「よっしゃあ、ボールペンゲットぉ!」 「ハンカチ獲っちゃったもんねー」 「柊、眼鏡よこしなさいよ」 「やるかっ! あ、やめろ襟章獲るな!」 「野郎の袖ボタン……有り得ねえ、有り得ねえけど仕方ない!」 追い剥ぎかこいつら。何の躊躇もなく俺から色々奪い去っていきやがって! 「世良! おまえいい加減にしろよ、なんで俺がこんな目に――」 「ごめん。だけどここはとにかく、何かそれらしいこと言って切り抜けるしかなくない?」 「それはそうだが、だからっておまえ無責任な……」 アフリカかどこかの部族よろしく、人の持ち物をトロフィーのように掲げて勝利の舞を踊っている馬鹿四人。それを尻目にして、俺と世良は小声で話す。 まったく、何が悲しくてこんな目に遭わなければならないのか。 「なあ水希、これであたしらも同じ夢の中に入れるかな?」 「どうだろ。上手くいけばいいんだけどね」 「じゃあ上手くいったときのためにさ、集合場所とか決めとこうよ」 「そうだな。何処にする?」 「鶴岡八幡なんてどう? あそこなら広いし、少しくらい羽目外したって大丈夫じゃない?」 「あー、そうだよな。なんせ夢の中じゃ100メートルくらいジャンプできたりするんだろ? うわー、マジ試してえ」 「オレの風火輪だって火を噴くぜぇ!」 「ふうか……なに?」 「栄光くんが持ってるインラインスケートの名前だよ。見たことあるでしょ?」 「ああ、あのボロっちくてやかましい、そして下手糞な」 「うっせえよ! いいだろ別に、好きなんだからよ」 「それに下手じゃありませんー。大会にだって出てるんですー」 「でも一位じゃないんでしょ?」 「ほっとけよ! なんでそんな夢の無いこと言うんだおまえはっ」 という感じで、もはや完全に馬鹿どもは盛り上がってるから聞く耳持たない。あれやこれやと、夢に入れたら何をするかでハイテンション真っ只中だ。 「もう知らんぞ俺は……」 こんなくだらないことで試みが成功するわけもないんだが、そこはこいつらを焚きつけた世良に責任を取ってもらおう。俺のせいではまったくない。 「そんな顔してないで。別にいいじゃない、みんな楽しんでるんだし」 「柊くんだって、もしも上手くいったら面白いなと思うでしょ?」 「上手くいかなったときの対応を考えろよ。こいつらしつこいんだぞ」 「うん。でもそれはそれで楽しいかなって」 「私、ずっと眠ってたから、こういう風に騒ぐのが嬉しくて。柊くんは迷惑かもしれないけど、少し付き合ってくれてもいいじゃない」 「私の裸、見たんだし。それくらいの償いはしてもいいでしょ?」 「おまえな―――」 「あ、今なんか言った?」 「なんでもない。おまえらはそっちで遊んでろ」 危険なことを言ってんなよ世良。それはちょっと色々洒落にならないんだよ。 「内緒にしてあげるから、ね?」 「~~~~~」 ああくそ、どうにも振り回されっぱなしで忌々しいが仕方ない。 「分かったよ。しばらく遊びに付き合ってやる」 「その代わり、これで全部チャラだからな」 「うん、ありがと」 まったく、そんな顔で笑われると怒るのも馬鹿らしくなる。本当にやりにくい女だな、こいつは。 「お、どうしたみんな、やけに盛り上がってるじゃないか。面白いことでもあったのか?」 「なんだ、帰ってきたのか親父。まあ、そこんところは内緒だよ」 「そっちこそ、恵理子さんはどうなったのおじさん?」 「お、おう。それはだな……」 「四四八~、お母さんしばらくそばもんは休むから、改良するのに手を貸してよー」 「ああ、うん……改良って言うか、丸ごと変えたほうがいいと思うけど」 「マスコットなら私も考えますから、あまり早まらないでください」 「我堂、おまえのセンスもそれはそれでヤバイんじゃねえの? なんてったって、絵心あれだし」 「うるさいわねっ!」 「ふふ、あははははは」 笑って、怒って、呆れて疲れて……それはいつも通りに騒がしく、そして楽しい日常の中。 ともかく今日、そんなこんなで、俺たちは夢で落ち合うという少し非日常な約束をしたのだった。 だから、それはあくまで遊び。ネタとして盛り上がりはしても、誰も本気で信じてはいない洒落にすぎないものだった。 少なくとも俺はそうだし、晶たちだってそうだろう。ちょっとした希望を持ちつつ、わくわくしながら眠りにつきたい。それは楽しいことなので、ひとつ試しにやってみよう―― 夢、ロマン、罪のないそんな妄想。 結局のところ、そうしたものでしかなかったはず……だったのだが。 「おはよう。いや、なんて言えばいいんだろうね、こういうときって」 「お休みじゃないことだけは確かだな」 まずこうして、早々に世良と再会したことに俺は内心で驚いていた。 そのことからも、今回の夢はいつもと雰囲気が違うと感覚で理解している。 「時刻は昼だな。今までこんなことはなかったんだが」 「世良、おまえは今夜、どこで〈目〉《 、》〈覚〉《 、》〈め〉《 、》〈た〉《 、》?」 「家だよ。柊くんも?」 「ああ。眠ったらそのまま自室の布団で起きた。正直、初めて夢を見ないで朝を迎えたのかと思ったよ」 だが違う。これは夢だ。それが証拠に真昼の街中であるにも関わらず、俺たち以外の人がいない。 明晰夢という特性上、現実の時間が夜であることを自覚していたせいか、今までは夢の中も常に夜だった。 加え、夢に入った瞬間は街中なり学校なり、そうしたフィールドにいきなり放り込まれた状態で始まるのが普通だった。おそらく夢という異界に入った認識を俺が強く持っていたから、そんな風に分かりやすく現実からジャンプした演出があったのだろう。 だから今回のように、世界の継ぎ目が曖昧だったことは一度もない。それをとても奇妙に感じる。 「まるで、この夢に俺は慣れていないかのようだ。上手く言えないんだが、眠りの階層が変わったみたいな……」 未体験の領域に足を踏み入れているような違和感。そんなものを漠然と感じている。 夢の中の自室で起きて、そうした感覚に戸惑いながら、ともかく集合場所である八幡に行ってみようとした途中、このようにして世良と会い、話している。 現状を説明すればそういうことで、ゆえに俺はこいつがどう感じているのかを知りたかった。 「おまえはどう思う?」 「さあ? でも、階層が変わったっていうのは良い喩えかもしれないね。これまでは自分一人の夢だったけど、今はこうして、他の人とも共有できる夢になってる」 「だからもしかして、晶たちも入れちゃってるかもしれないよ。何だか雰囲気が変わったのは、そんな風に色んな人の〈世界観〉《ゆめ》が入り混じってるせいなのかも」 「分からないけど、確かめるためにもまずは八幡に行きましょうよ」 「……だな」 突き詰めればそうなるわけで、俺たちは目的地に続く並木道を歩いていった。 さて、いったいどうなることやら分からんが、予感は正直、あったのかもしれない。 「ふふ、ふふふふ、ふはははははははははは――――」 「ああ、なんたる甘美だ。胸を打つ。満天下に謳いあげよう、わたしは今――生きているっ!」 「……………」 「……………」 境内に入って早々、その中心で仁王立ちになり、何やら小芝居やってる奴が目に入った。 しかも、一人だけじゃない。 「生きる場所の何を飲み、何を喰らおうと足りぬ。だがそれでいい」 「オレたちは永遠になれない刹那だ。どれだけ憧れて求めても、幻想にはなれないんだよ」 「だからこそ、至高の芸と誇るなら魂を懸けろ」 「益荒男ならば愛してやる。我らの〈覇道〉《キズナ》を見せてやろう!」 「真に愛するなら壊せェッ!」 「うおおおおおおおおっ!」 ああ、うむ、その、うん…… 色々言いたいことはあるものの、ともかく黙れこの中二病ども。意味の分からない背筋の寒くなるような台詞を並べて悦に入ってるんじゃない。 「レスト・イン・ピィィィース!」 「おまえも乗っかって遊ぶな世良! 馬鹿かこの、恥ずかしいんだよ!」 「えー、四四八くんノリ悪ーい。別にいいじゃない中二病だって」 「そもそもここは中二空間だろ。雰囲気出して何がいけないんだよ」 「ほら四四八も、こっち来いよ。ポーズ決めてなんかやろうぜ」 「ていうか、本当に入れちゃったわね」 まさしく、どこから夢なのか分からなくなる状況だ。なぜこんなことが出来るのかは皆目見当もつかないが、起きてしまっているものは認めるしかない。 「……もういい。好きに遊んでろ。止めはしない」 溜息混じりにそう言って、俺はその場に腰を下ろした。どうせこいつら、今は何を言っても聞かないだろうし。 「やった、凄い。思い浮かべただけでケーキが出たよ!」 「おっしゃ、じゃあアレだ。キャビア出せキャビア!」 「任せろ。ふーーん、はっ!」 「ほんとに出たわね。どれどれ……まずっ」 「イメージが足りないのよ。食べたことないものを出しても、味は再現しようがないでしょう?」 「あー、なるほどぉ」 「そっか。言われてみりゃその通りってか、やっぱ夢だからっつっても万能じゃないんだな」 「梅干とキムチが混じったみたいなキャビア、初めて食べたわよ。あんたの舌の貧しさが知れるわね晶」 「うるっせえな。だったらおまえ満漢全席出せよ満漢全席」 「庶民が。それくらい造作もないわ。見てなさい」 とまあ、こんな調子でしばらくやれば、そのうち満足するだろう。この世界の勝手もある程度分かるだろうし、手間も省ける。 そう思って、ここは口出しをせず傍観することに決めた。 結果…… 「気は済んだか、おまえら」 だいたい三時間かそこら、飛んだり跳ねたり出したり消したりやっていた連中も今は休憩に入ったようなので、そろそろ講義に移ろうと思う。 別に頼まれたわけでもないんだが、こうなった以上は先人として教えられることは教えるべきだと思うので、皆に注目を促した。 「各人、もうだいたい分かったと思うが、夢だからって好き勝手やってると疲れる。どうだ、結構きついだろ」 「お、おう。なんかヘンな感じだけど相当くるな。頭も痛ぇし」 「どうもこう、無重力みたいな? 疲れてるのに重くなるんじゃなくて、むしろ重心掴めなくなるから動き難いっていうか」 「夢の中で喧嘩したらパンチがふにゃっとなることあるけど、あの感覚に似てるかもしんねえわ」 「そうだな。集中力が切れると動作が緩慢になるし、思考も鈍る」 「ここじゃあ基本はスーパーマンの真似事も出来るが、反面疲労が重くなると一気に現実よりも無力になる。だから慣れないうちは調子に乗ってぶん回すのはやめとけよ」 「走れないどころか立てなかったり、そもそもどうやったら立てるかすら忘れちゃうことがあるからね。まあ普通の夢はそういうものだから、燃料不足でこの世界とのリンクが切れかけてるって思えばいいよ」 「じゃあ疲れて動けなくなったら、ここにいられなくなって目が覚めちゃうの?」 「その通り。〈夢〉《こっち》で寝たら〈現実〉《むこう》で目覚める。分かりやすい逆さまだろ」 「だったら夢から覚めるには、毎度限界まで疲れないといけないわけ?」 「いいや。他にもあるし簡単な話だ。自力で目覚めればいいんだよ」 「自分はいま眠ってるんだと、俺もおまえらも理解しているだろう。だから起きようという意識で強制的にリンクを切る」 「夢を壊すって言うか崩すって言うか、とにかくこういうファンタジーを無効化する感覚だ。俺は単純にキャンセルって呼んでるけどな」 先日世良とやり合ったとき、決め手になったのもそのキャンセルだ。個人的には、一番有用な力だと思っている。 「色々試しておまえらもなんとなく分かってると思うが、〈夢〉《ここ》でやれる特殊なことはそんな風に種類分けができる。すなわち――」 運動能力強化のアタック。 体力強化のディフェンス。 遠距離干渉のマジック。 無効化のキャンセル。 物質創造のクリエイト。 それら五種、一つ一つを俺は説明していった。 「まあ今のは、便宜上俺が勝手にそう呼んでるだけだから真似しなくてもいいけどな」 「ふーん。でもわたしはそれでいいや。ゲームのコマンドみたいで覚えやすいし」 「みっちゃんは、何か違う呼び方してたりする?」 「え? う、ううん。私は特に決めてないから、柊くんのノリに統一するなら別にいいかなって」 「あ、でも、カテゴライズするなら厳密に言うと五種類じゃなくて十種類だからね」 「ん、そうだったか? 俺は八種類だと思ってたが」 だとしたら、世良には俺が見えてないものが見えるのかもしれない。そこについて興味が湧いた。 「アタックはパワータイプとスピードタイプだろ?」 「ディフェンスは丈夫さ重視と回復重視だよな」 「マジックは点と面? 精密射撃と全体爆破みたいな」 「他の二つは一種類だけみたいに思うけど、違うの水希?」 「うん。たとえば、えっと、クリエイト? だったらそうだね……」 頷くと、世良は空を指差してから続けて言った。 「天気とか時刻、そういう周りの環境を変えちゃう力があるよ。ただとても難しいから、お手本見せてって言われてもちょっと困るけど」 「ああ、なるほど。確かにそういうことも出来るはずよね。物質創造の対は環境創造か」 「後者が難しいってのも、そりゃそうだよな。干渉する規模が全然違うし」 「でもそれを知ってるってことは、みっちゃんならやろうと思えば出来るんだよね?」 「一応……だけど、凄く時間と手間をかけてほんの少ししか変化を起こせないから、出来るなんて威張って言えるようなものじゃないよ」 「四四八は出来ないのか?」 「どうだろうな。試したことがないから分からん」 だがクリエイトにかけては世良のほうがだいぶ上手だったのを思い出すに、こいつが難しいと言うなら今の俺にやれる可能性は低いだろう。 「それで、最後の一つは何なんだ?」 「あ、それだけど、柊くんはたぶん、ずっと〈夢〉《ここ》で他人を意識したことがなかったから知らなかったんだろうね」 「キャンセルのもう一つは、誤魔化しっていうか潜入っていうか……まあ、とにかくちょっと見てて」 言って、皆に注目を促す世良。全員の視線が集中したのを確認してからこいつは頷き―― 「へ?」 「うおっ」 「き、消えた……?」 「嘘、みっちゃん何処行っちゃったの?」 ぱっと、本当に俺たちの前から一瞬にして姿を消した。 「……いや、違うだろ。これはたぶん」 「そう。消えたんじゃなくて見えなくしただけ」 言葉どおり、姿は見えないが世良の声だけは聞こえてくる。 おそらく、本当は一歩も動いちゃいないんだろう。俺たちが世良を捉えていた認識の網をすり抜けたとでも言うべきか。その気になれば、声を聞こえなくさせることも出来るはずだ。 「どうかな、今のでだいたい分かった?」 「ああ。つまり透過っていうわけか」 再び見えるようになった世良は、俺の言葉に頷いた。 「そう。さっき柊くんは崩すとか壊すとか言ったけど、これは隠れるとかすり抜けるとか、そんな感じ。あとは逆に、見通すとかね」 「じゃあ壁抜けとか出来んの?」 「うん。でも気をつけないと、途中で失敗しちゃったら生き埋めになるから慣れないうちはやらないほうがいいよ。これの便利なところは、むしろ感覚だけを対象に通すやり方で……」 「たとえば歩美は、アタックが苦手だよね?」 「う、なんで分かるの? わたしも大ジャンプとかしたかったのに、あっちゃんやりんちゃんの半分も出来ないんだよ」 「それは仕方ないだろう。特にアタックとディフェンスは現実のスペックとリンクしやすい」 たとえばマジックなんかは完全に夢限定の感覚だが、運動神経や体力あたりは非常に生々しく現実の感覚を引きずってしまう。無論例外もあるだろうが、基本的にはそういうものだ。 その点歩美は、外見からも分かるとおり身体的には鈍臭い。男の俺に比べればもちろんのこと、女の中でも華奢で柔い部類に入る。 「平たく言えば、運動音痴な奴がアクロバットをイメージするのは難しいだろ。さっき世良も言ってたが、食ったことがない料理を出しても味は再現できない。それと同じだ」 「そうだね。だから人それぞれ、得手不得手が出てくるわけで……」 「なるほど。そこで見通すか」 世良の言わんとすることは理解できた。確かに俺は、つい最近まで〈夢〉《ここ》で他者を意識したことがなかったから、そういう感覚が抜けていたんだろう。 キャリア自体は俺のほうが上のはずだが、最初から〈他者〉《おれ》を認識し追いかけていた世良はその辺りの視野が広い。 あるいは、クリエイトと同様、キャンセルに関しても世良のほうが才能的に上なのかもしれない。 「確認していいか?」 問うと、世良は微笑みながら頷いた。 「いいよ。だけど変なところまで解析しないでね」 「するかよ」 馬鹿馬鹿しい突っ込みを一蹴しつつ、俺は世良に意識を傾けてその存在を見通しに掛かった。 結果は…… まあ、こうなるわけだ。レベル云々っていうのは、晶たち初心者が入ってきたことで新しく認識できるようになった技量差――あくまで観念的なものだが、全体としての熟練度と格差判定。 各項目ごとの数値は、つまるところ今後の成長率も含めた才能だ。どれだけその分野を極められるかという資質を表すもので、上限を10に設定している。 してみれば、やはり世良はキャンセルとクリエイトに長けていた。特に後者は、一種の天才と言っていいレベルだろう。現時点では熟練度が低いのでそこまで大それたことは出来ないが、研ぎあげれば将来的には凄まじい域に達する――という結果が出ている。 とはいえ、それも俺の見立てにすぎないことなので、必ずしも正確に当たっているとは限らないわけだが。 「これの精度はどれくらいのもんなんだ?」 「正直、そのへんは分からないよ。人を見る目っていうのにも、やっぱり個人差があるわけだし、逆に誤魔化すのが上手い人もいるだろうから」 「でも、相手がよっぽど格上でもない限り、そこそこ見極められるんじゃないのかな。あと、柊くんはそういう観察眼が優れてると思うよ」 「お互いに知ってる者同士だし、少なくとも私たちの間でなら、柊くんの見立ては外れないだろうなって考えてるけど」 「そうかな。だといいが」 晶や栄光たちなら確かに知らないことはないくらいの付き合いなのでその論にも頷けるが、世良に関してはしょせんまだ出会ったばかりだ。 ゆえにこいつをそこまで見極められるとは思わないんだが、当の本人がそう言う以上はそれでいいのかもしれない。別段、この見立ての精度が、今後重要な問題になるわけでもなし。 あくまでも遊び――だったら、このままゲーム感覚で楽しんでればいいだろう。とは思う。 「なあなあ、さっきから超置いてけぼりなんだけど、何を二人だけで納得してんだよ」 「話の流れから察すると、ステータスでも読み取ってるみたいだけど」 勘のいい我堂がそう言ったので、俺は黙ったまま頷いた。 「やっぱり、ほんとにそんなことまで分かるのっ?」 「まあその、一応は、ね」 「じゃあじゃあ、わたしのも解析してよっ」 「すっげえ気になる。むしろやり方教えてほしいわ」 「え、えっと、みんなそうは言うけど……」 詰め寄られ、困ったように俺を見る世良。気持ちは分かる。 これは実際、別の意味で少々危ないネタだろう。馬鹿にやり方を教えるとタチが悪いと言うか、むしろ馬鹿は悪用しかしないだろうと言うか…… 「なんだよ?」 そう、この馬鹿。俺と世良は共に栄光を見つめていた。 「とりあえず、確かめとくか」 「そうだね」 短いやり取りで阿吽の呼吸。俺たちは、きょとんとしている栄光に焦点を合わせ、その情報を読み取りに掛かった。 結果は…… 「…………」 「…………」 なんだこりゃあ。よりによって一番こいつがタチ悪いぞ、一点特化かよ。 「……ごめん、ちょっと大杉くんにだけは教えられない」 「な、なんでだよ! オレのステータスどうなってんの? なあ、なあ!」 「悪いが、その理由さえ口にできない。諦めろ」 こいつときたら、他の資質は軒並み平均以下のくせして、ことキャンセルに関してだけは化け物級だ。畏敬の念さえ覚えかねない域の才能を持っている。 これでこいつに自分の特性を理解させたら手に負えない。透明人間になるわ透視するわ、みんなの服を吹っ飛ばすわと好き勝手に暴れるだろう。 まだ初心者も初心者なので対処は出来るが、いつまでもそれが通用しはしないだろう。俺自身、キャンセルの力が一番有用だと思っているクチだから、栄光が覚醒したら最強になるような気さえしてくる。 今後こいつには気をつけよう。常に皆で牽制しつつ、その邪悪な才能が開花することなどないように。 なんとなく晶たちも察したのか、汚物を見るような目で栄光を睨んでいた。事実、女にとっては脅威でしかないだろう。 「ねえ柊くん、こうなった以上、他のみんなにはちゃんと教えて鍛えたほうがいいと思うよ。あれから身を守るためにも」 「そうだな」 未だにぎゃーぎゃー言ってる栄光を無視し、小声で作戦会議する。女の危機には手を貸すのが男というものだろう。 俺は全員に向き直り、努めてなんでもないようにこれからの方針を口にした。 「せっかくだから、おまえらに俺と世良が手分けして指導する。そろそろ疲労も回復したろうし、各種力の使い方を教えよう。異議はないな?」 「お、マジで? じゃあよろしく頼むわ」 「四四八くんスパルタだからなあ。でも、役に立ちそうだしお願いね」 「柊に教わるのは癪だけど、背に腹は変えられないわね」 「なあ、だからオレのステータス……」 「大杉くんは、うん、まあ、分かったから……」 「じゃあ割り当てを決めるぞ。まずは――」 晶に教える。歩美に教える。我堂に教える。世良と練習する。 「うおいっ、ちょい待て! なんでオレだけ華麗にスルーしてんだよ!」 「まだ何も言ってないが」 「目で分かんだよ! ちょっとさっきからなんなのこの扱い、いい加減グレるぞマジで!」 「柊くん、大杉くんには私がつくから。そっちは他のみんなの強化をお願い」 「いいのか?」 「うん、大丈夫。上手いこと誤魔化すし、出来るようなら今後エッチなことだけはやれないようにロックかける」 「気づかれないうちにさりげなくね。透過キャンセルは柊くんより私のほうが得意だし、そのほうが適任でしょ?」 「まあ、確かにそれはそうだな」 「おいー、何をこそこそ話してんだよー」 「なんでもない、それじゃあ話を戻すぞ。割り当ては――」 とりあえず、〈栄光〉《バカ》のことは世良に任せて、俺は女たちに護身の術を教えよう。さしあたって、まず誰から指導するかだが―― 「というわけで晶、最初におまえ自身の資質を教える」 順番を選んだ俺は晶を伴って移動すると、こいつの情報を読み取った。 何事も己の器を理解することから始まるのが基本なので、それを伝えねばならない。 これが晶のステータス。物質創造した携帯電話のモニターに各種数値を表示させ、それを当人に手渡した。 「う、おお、なるほど。あたしはさしずめ〈修道戦士〉《モンク》、みたいな?」 「その手のゲーム用語には疎いから分からんが、まあたぶんそんなもんだろう」 特筆すべきは圧倒的なディフェンス能力。丈夫な上に回復力もずば抜けており、さらにマジックもかなり高い。 アタックも平均値には達しているから、頑強さを武器に前線へ出ることも可能な魔法使いと言ったところか。なかなか個性が表れていると思う。 「おまえらしいよ。タフで大味で――」 だけど優しい。 みんなの壁になれる奴。たとえ自分が傷ついても、仲間を思って助けることが出来る資質だ。 俺がそんな感慨を抱いていると、晶はその評価が誤りではないと確信できるようなことを言った。 「なあ四四八、これ見る限りあたしのマジックは射撃よりも爆発って言うか、要は全体技のほうに向いてんだよな?」 「それで回復も高いってことは、おまえらが大怪我したときには一気に治したりも出来るんかな?」 「さあ、どうだろうな。原則、違う種類の夢を同時に使うなんてことは出来ないんだが」 自分の資質を見て即座に思い描いたのが皆の回復。そういう発想が出てくる時点で、晶の仲間思いなところは疑う余地もないだろう。 「けど、熟練すれば出来るようになるのかもしれない。俺だって、まだたいしたレベルじゃないからな。現状じゃ分からない上の領域ってやつもあるだろうさ」 「そうそう、それだよ。おまえのステータスが気になってたんだ、どうなってんの? あたしはこの通りキャンセル低いから、上手く読み取れないんだよね」 「俺か? まあ正直、面白みがまったくないと思うがな」 言って、俺は自己解析をすると、やはり携帯電話に表示させて晶に渡した。 「うわあ……」 それを見て、晶は感心しているのか呆れているのか分からないような声をあげた。 「こりゃまた、実におまえらしい感じだな。万能かよ」 「と言うより、むしろ器用貧乏ってやつじゃないか」 確かにすべての分野で平均値を超え、高レベルで安定はしているが、反面これだけは誰にも負けないという特化した武器がない。 ゆえに万能と言うよりは器用貧乏。天才ではなく秀才。そんな感じで…… 「我ながらつまらんとは思うが、気に入ってもいるよ。努力家の数値としては理想に近いな」 臨機応変。どのような局面にも対応できる。無駄なく、怠らず鍛えていけばそうなれると証明されたようで嬉しくはあった。 「なるほど、勇者のステータスだね。じゃあ隠された勇気資質はマックスっていうことで」 「だといいがな。ともかくそういうことで、これからおまえに見合った訓練をするけど、さっき自分でも言ってた通りキャンセル低いな」 「あー、それな。やっぱりあれか、栄光が問題なのか?」 予想通り晶も察していたようで、俺は深々と頷いた。 「あいつはキャンセルの怪物だ。ちょっとそこだけは洒落にならん」 「つまりこれはエロ馬鹿防止のためってわけね。だけどなあ……」 晶は首をかしげて唸りながら、向こうで世良に何かやられている栄光を見る。そして溜息を一つすると、俺のほうに視線を戻した。 「あたしはいいよ。そっちの才能ないの分かったし、あいつもあたしの裸なんかに興味はないだろ」 「しかしな、そうは言うが……」 「いいっていいって。あっちは水希が上手いことやってくれると思うし、気にしない方向で」 「それともなによ、四四八ってばそんなにあたしの裸が気になるわけ? つーか今もしかして、透視してたりすんの?」 「するか」 馬鹿なことを言ってんなと一蹴する。晶はけらけら笑っていた。 「はいはい、そりゃそう。分かってるよ。おまえはそういうとこ、ほんとガッチガチに硬いもんな」 「気ぃ遣ってくれて嬉しいけど、あたしはほんとに平気だよ。これは別に羞恥心がないとかいうわけでもないから心配するな」 「単に恥らうべき相手は選ぶっていうやつで……たとえばほら、犬の前で着替えしても平気だろ? それと同じで、あたしから見りゃ栄光なんかそんなもんだ」 「…………」 「なに、まだなんかあるの?」 「一応な」 「おまえの気持ちは分かったけど、他の男に見せたくないって思う奴がいるパターンも考えとけよ」 「へ?」 俺の指摘に、晶は一瞬呆けた様子で目を丸くすると、次いであからさまに狼狽えだした。 「え、ちょ、待って待って! それってどういう、意味……あれ? あれ?」 「どうも何も、そのままだろ。おまえに惚れてる奴からしたら、おまえの気持ちに関係なく穏やかじゃいられない。至極真っ当な意見のはずだが」 「だ、だから、そういうこと言うってことは何なのよっ? 四四八おまえ、まさか、いやいやちょい待て!」 「何をボケてるんだ。おまえこそ待て」 「いいか晶、おまえだっていつか好きな男が出来て結婚とかするんだろ。そういうときのために気をつけろって言ってるんだよ」 「おまえから見れば俺や栄光は確かに犬みたいなもんなんだろうが、おまえの彼氏や旦那からしたらそれで流すわけにもいかなくなる。異性友達の存在はそういうときが面倒だって、よく言うだろ」 あんまりあいつとベタベタするな。でもあいつは友達なんだって。うるさいムカつくんだよ。あーなんで分かってくれないの。みたいな修羅場は、男女どっちの立場でも起こり得るだろう。 幸か不幸かそういう経験はまだしてないが、理屈としてはよく分かる現象だし俺たちは全員そういう火種を潜在的に持っている。 犬という晶の喩えには苦笑が漏れるが、俺にしたってこいつらのことは兄弟くらいにしか思っていない。だから将来的に恋人が出来たとき、そういう文句を言われるかもしれないだろう。そこは晶もまったく同じだ。 「ということだから、今のうちに少し考えといたほうがいいと思うぞ。俺たちのせいでおまえが好きな男に振られたりしたら悪いからな」 「え、あ、ああ、うん……」 「今さら間合い変えるのは大変だし、線引こうって言ってるわけでもないけどな。要は相手の気持ちになって思いやりを持てるようになろうってことだ。分かったか?」 「お、おう」 頷き、しかし晶は何とも言えない目で俺を睨んできた。 「いやごめん。分かったけど四四八、とりあえず一発殴らせてくんない?」 「は、何言ってんだおまえ?」 「うるっせえな、あたしもよく分かんないけどムカつくんだよこの流れが!」 「なんだその理不尽な話は」 頬を膨らませて抗議してくる晶だったが、こいつ自身も分からない怒りの正体を俺が理解できるはずもないだろう。 呆れ返って見ていると、晶は地団駄踏みそうな勢いでどんどんヒートアップしていく。 「あーもう、なんか胸のあたりが痒い! 腹ん中がぐつぐつ煮えるわ。ちょっとほら、マジで四四八、顔貸して顔!」 「そんなこと言われてほいほい貸すかよ。だけど、そうだな」 「おまえ、アタックは本当にド平均だし、まずはそこから鍛えてみるか?」 「だからそういうクソ真面目で杓子定規なこと言ってんじゃねーんだよこの馬鹿メガネ!」 「失礼な。誰が馬鹿だ」 と言いながらも、俺はバックステップで距離をとった。 「逃げるなコラー!」 「じゃあ捕まえてみろよ」 事態は依然として不明だが、こうなってしまったからにはこれで行くしかないだろう。 実際、晶の運動能力は低くないので、それを考慮すればアタックの資質はもうちょっと高くてもいいはずだ。 にも関わらず平均値止まりなのは、こいつ自身が荒事向きの性格ではないからだと推察できる。言動は乱暴な奴だが、もともと晶は他人と争うのをあまり好まない性なんだ。 ゆえに今も、威勢のいい口とは裏腹に迫力はあまりなく、むしろノリとしては可愛らしい。 そんな俺の感想を口にしたら、本気で怒りそうだから言わないけど。 「ほら、ジャンプするぞ。ついて来い」 「上等だっての、そこ動くなおまえェ!」 本殿へ繋がる大階段をひとっ飛びした俺に晶も続く。こいつは殺陣に向いてないけど、スポーツは出来る奴だからアクロバット中心に鍛えていくか。 そんな感じで、追いかけっこの形を取りつつ最初の訓練を開始した。 「というわけで歩美、最初におまえ自身の資質を教える」 順番を選んだ俺は歩美を伴って移動すると、こいつの情報を読み取った。 何事も己の器を理解することから始まるのが基本なので、それを伝えねばならない。 これが歩美のステータス。物質創造した携帯電話のモニターに各種数値を表示させ、それを当人に手渡した。 「うわー、なんかわたしって、凄い偏ってない?」 「だな」 得手不得手の差が極度に出ている。落差で言えば栄光より尖った性能と言えるだろう。 しかしそれは、見方を変えれば職人的と言えなくもない。 「歩美は確かあれだよな、戦争ゲームみたいなやつが……」 「うん、FPSが得意だよ。これってやっぱりそれのせい?」 「たぶんな」 こいつはゲーム全般が気持ち悪いくらい凄腕だが、なかでもFPSってやつにかけては変態的な技量らしい。 前に晶から聞いたんだが、ネット通信でやる対戦では世界的にも上位の実力を持つランカーだとか。 「そういうところを踏まえて見れば、魔法使いって言うよりスナイパーか。射撃系に特化してるみたいだし」 「えへへ、そうだね。遠くからのヘッドショットで一発キルが狙撃手の醍醐味だと思うんだ」 「物騒な話だな、おい」 毎度のことで珍しくもないが、こいつのような小動物系の外見から、そういう言葉が出てくるギャップにはなかなか慣れない。 「しかしまあ、正直安心したよ。キャンセルも高いから対策が立てやすい」 「それは栄光くんのことだよね?」 「そう、あいつはおまえよりさらに高いけどな。それでもこれだけの地力があれば抵抗は出来るだろ。ブラインドっていうかジャミングっていうか」 「怪しい視線を感じたらすかさず〈煙幕〉《スモーク》、みたいな感じ? 分かってるよ基本だもんね」 「さっきの話と微妙に食い違うけど、実際は遠くから当てられる才能より、絶対に当てられる距離までバレずに近づくのが狙撃手にとっては重要な素養なんだよ」 「侵入、捜索、耐久、あとは離脱ね。そういうのを何日も単独でやったりするし、それだけ狙撃手の任務は軍の中でも異質なものと言えるわけで――」 「悪いが、そういう軍事ネタはよく知らん」 苦笑いしつつ手を振って、歩美の話をスルーした。 こいつに限らず、この手の特殊な趣味を持ってる奴は、好きな話題になると他人がまったく理解できない単語や常識を一方的に捲くし立ててくる傾向にあるから始末が悪い。 「けど、話が早くて助かるよ。だったらまず、そっち方面の訓練をしようか。試しに歩美、俺の情報を読み取ってみろ」 「いいの? わたし四四八くんを裸に剥いちゃうかもしれないよ」 「させないっての。俺だってキャンセルのスキルは低くないんだ。ガードかけるからすり抜けてみろ。変態の手口を自分で試せば対処法も見えてくる」 「オッケー、じゃあぐいぐいスキャンしちゃうからねー」 言って、歩美は本当に顔をぐいぐい近づけながら俺を見てきた。正直、目が爛々としてて怖いんだが…… 「う、お、おおお……」 「なんか、恥ずかしいなこれ……」 やばいところはガードかけてる。かけてるんだが、それでも公然と視姦されるのは気持ちのいいもんじゃない。 しかもこいつ、えらい本気だし。〈変態〉《はるみつ》の立場になりすぎだろ。軽くどころか真面目に引くぞ。 「ぐっ、あああ――駄目だあ、四四八くんガード堅すぎぃ!」 一分近く粘った挙句、ついに歩美はそう言って頭を抱えながら音をあげた。 「もう、なんなの? なんでそんなに貞操ガッチガチマンなの? 男の子なんだからもうちょっとオープンだっていいじゃない」 「俺に言わせりゃなんでおまえはそんなにマジなんだって話だよ」 映画なんかで見る軍人よろしく、ファックファック、サノバビッチとか言いながら歩美は不満を表している。おそらく、ゲームでこいつに虐殺されまくった外人たちもそんな反応をしてたんだろう。影響受けて変な言葉を覚えるなよ。 「それで、裸はともかく俺のステータスは読めたのか?」 「あ、うん。それは余裕」 「でもさあ四四八くん、いくらなんでもスリーサイズまで隠そうとするってどういうことなの? そこはお約束で許しておこうよ」 「むしろおまえがそこまで見ようとしてたことに開いた口が塞がらんわ。とにかくほら、読めたデータを見せてみろ」 今の俺は女の立場だったからそこまでガードするのは当然で、それは歩美にとってもプラスになるお手本だろうに、文句を言われるなんて意味が分からん。 そこらへんを理不尽に思いながらも、先ほど渡した携帯電話に歩美が俺のステータスを上書いてきたので受け取った。 「うん、まあこんなもんだな」 結果はこの通り、俺が自分で自分を解析したのとまったく同じものを歩美も出していた。そこはやはり幼なじみで、かつ高いキャンセル能力を持っているこいつならでは。見立てに誤りはないということだろう。 「凄い納得っていうか、四四八くんらしいよね。徹底した秀才タイプ」 「褒め言葉と受け取っとくよ」 俺の特性は、歩美や栄光のような尖ったタイプとはまったく逆だ。何か飛び抜けて優れたものはない代わりに、穴もまた存在しない。 秀才型とは言い得て妙で、俺は天才なんか持ち合わせないが努力で習熟できるレベルが高い。この数値は、そういうことを表している。 人によってはつまらないタイプと言いそうだが、俺にとっては誇らしいことだった。基本を重視する正統派という評価なのだから、日々の努力を信条としている身としては理想的と言っていいだろう。 「たぶんわたしたちって、みんなデコボコなのばっかりだからさ。その真ん中に四四八くんみたいなのがどっしり構えてると頼もしいよね。司令官みたいな」 「これって結構、隙のないフォーメーションだと思うんだ。そこらへん、きっと偶然じゃないよね」 「バランスの取れた関係だから仲良くなって、これからもずっとそういう風にいけるんだから」 「そうだな、だといい」 歩美も世良も栄光も、そしておそらく晶も我堂も、得意とする分野では俺のそれを超えている。さっきこいつは司令官と言っていたが、まあこちらから見ても頼れる仲間なのは間違いない。 だから足りないところを補ってやるのは俺の義務か。お陰で毎日、世話を焼かされてはいるけれど。 「栄光対策はこれでいいとして、次は何を訓練する? 正直、おまえのアタックとディフェンスについては焼け石に水だろう。ここまで落差が出てるなら、むしろ得意分野を伸ばしたほうがいいと思うが」 「マジックについては、使い方の勘についてもすでにおまえのほうが上じゃないかな。日頃ゲームばっかりやってるんだし、非現実感覚を操るのはお手の物だろ」 つまり、もはやこいつに教えられることはほとんどない。俺はそう考えるのだが、歩美は意外な質問を投げてきた。 「それなんだけど四四八くん、これって一度に一つずつしか使えないの?」 「たとえば二つ三つ、違う種類の力を重ね合わせたりは出来ないのかな?」 「さあ? もっと熟練すれば出来るようになるかもしれないが、生憎と保証はないぞ」 少なくとも現状、一番この中では進んでいる俺にだってそれは出来ない。異常な集中力を伴うから、結局半端な結果になるだけだ。 「なのに今からそういうことを考えるのは、二兎を追う者は一兎をも得ずの典型じゃないか?」 「でも二兎を得られるのは、二兎を追った人だけだとわたしは思うんだよね」 「そりゃそうだが、おまえらしいな」 即座の切り返しに苦笑する。屁理屈みたいな言い分だが、一面の真理は捉えているように思ったからだ。歩美には昔から、こういう風なところがある。 破天荒というわけではないものの、思考が柔軟なのだろう。勉強は苦手だが、地頭は良いという証かもしれない。 基本マイペースでのほほんとしているのも、裏を返せばメンタルの強さと言い換えられる。だから場合によっては、俺よりよほど頭が回るときもあると認めていた。 「何か試してみたいことでもあるのか?」 「うーん、実はこれって、常々ゲームしながら思ってたんだけどさ」 「敵は遮蔽物に隠れてるじゃない? わたしはそういうのを見つけるのも得意なんだけど、ポジションによってはどうしても狙えなくて歯痒いときが結構あるんだな、これが」 「なので、基本はずっと待ってるの。特に相手が強敵だと、向こうも迂闊なことはしないからね。隙が出来るまで、ほんとにもう何時間も耐久レース」 「微動だにせず?」 「そうだよ。ほとんど瞬きもしないままで。トイレに行きたくなってもひたすら我慢」 「そりゃまた、リアルな話だな」 とは言っても現実のスナイパーなど知らないから映画とかの受け売りになるが、そういう“待つ”素質ってやつが一番重要だと聞いたことはあった。 歩美はそれに照れ笑いする。 「ほんとのリアルだと、たぶん漏らしちゃっても気にしないで待つと思うよ。だからわたしのはしょせんお遊びで、趣味だけど……」 「そういうのが好きなんだ。こう、スコープ越しの世界に没頭するっていう感じ? ファンタジーに入り込むみたいな」 「敵とわたし、どっちが自分をより現実から切り離して待てるかの勝負。そんな削り合いっぽい駆け引きがいいんだけども、それとは逆に反則技を一発やっちゃいたいとも思うじゃない」 そこまで言われて、俺は歩美のやりたいことを理解した。 「つまりおまえは、弾丸の壁抜けをするのが夢なわけか」 「そうそう、どんな遮蔽物越しでも素通りして絶対命中! キャンセルと組み合わせれば、それが出来ると思わない?」 「確かに、理屈じゃそうなるな」 いま歩美は、明らかにそれを一緒に練習しようと言っている。そのこと自体は、別に吝かでもないんだが…… 「分かってると思うけど、ここでどれだけ練習しても現実に帰ればそんな力は使えないぞ。意味ないんじゃないか?」 「だからあ、こっちの世界でみんな一緒にサバゲーしようよ。それかクリエイトでゲーム機出してよ。わたしそっちの才能は凡なんだから」 「…………」 きらきらした目で乞う歩美に、俺は重苦しく返答した。 「ゲーム機は、世良に頼め。俺はFPSをやったことがないから創れない」 そして、夢サバゲーは絶対に御免こうむる。全員、残らずこいつに虐殺される様が容易に想像できるからだ。 ことゲームに関して、歩美に容赦は一切ない。格ゲー、落ちゲー、レース、音ゲー、シューティング――果ては将棋やトランプに至るまで、こいつと対戦してボロクソにぶっ殺される晶たちをこれまで嫌というほど俺は見てきた。 「ゲームは一人でやろうな、歩美。きっと世良なら、すごいAI組んだゲームを創ってくれるよ」 「そうかな。じゃあそこはみっちゃんに頼むとして、四四八くんはわたしと一緒に二つ同時スキルを練習しようよ」 「分かったよ」 本当に可能かどうかは分からないが、試しにここは二兎を追ってみるとしよう。俺の好みは堅実に歩いていくような努力だけど、たまには飛躍を目指してみるのも悪くない。 上機嫌の歩美を見てると、そう思った。 「というわけで我堂、最初におまえ自身の資質を教える」 順番を選んだ俺は我堂を伴って移動すると、こいつの情報を読み取った。 何事も己の器を理解することから始まるのが基本なので、それを伝えねばならない。 これが我堂のステータス。物質創造した携帯電話のモニターに各種数値を表示させ、それを当人に手渡した。 「ま、おまえは分かり易いな。あんまりゲームとかに詳しくない俺でも、簡単に喩えられそうだ」 「戦士タイプ……?」 「それもスピード重視。力はないけど手数で勝負っていう感じかな」 戦士タイプはだいたい二つに分けられる。硬いけど遅い重戦車と、速いけど脆い戦闘機。熊と豹って言い換えてもいいだろう。我堂はその典型的な後者だ。 こうなると釣り合い的にも重戦車が欲しくなるが、残る晶と歩美はそういう系統じゃない気がする。そこにフォーメーション的な欠落を感じて少しばかり残念だが、しょせんは遊びなので問題があるというほどではない。 「他にも私はクリエイトが高いのね。それも物質限定で、環境のほうはむしろ苦手か。アタックも落差があるし、こういうことって普通にあるの?」 「大枠では同じ括りの力でも、片方に極端な特化を見せるっていうのは現実でも珍しくないだろう。スプリンターがマラソンをやれるわけじゃないからな」 「裏も表も両方完璧なんてのは、言いたくないけど天才だ。実際、世良と栄光がそんな感じで正直軽く引いてるんだが、だからといって一面しか出来ない奴がそれに劣ってるとも思わない」 「むしろ、本当にプロフェッショナルな奴ほどそういうもんじゃないか? 偏ってるからこそ、より集中して極められる。職人っていうか、たぶん歩美あたりも似た感じだろ」 「それ、オタク的って言いたいわけ?」 皮肉っぽく我堂は笑うが、こいつはこいつで納得しているんだろう。少なくとも、不満があるという感じではなかった。 ゆえに俺も、笑って言う。 「薙刀やってるんだろ? 〈武道〉《そっち》の世界じゃこういうのはなんて言うんだ?」 「そんなの急に言われても分からないわよ。私は別に前時代的なノリで武道やってるわけじゃないんだから、剣禅一如とかには興味がないの」 「だけど、〈夢〉《ここ》じゃあ自分で武器を創れるっていうのはいい感じね。得物の良し悪しがどうのとか、そんな言い訳が通用しないのはフェアでいいわ」 「自分の意志そのものが強さになる。だったら私、なんだって真っ二つにしてみせる自信があるもの」 「おいおい、物騒なこと言ってるなよ」 我堂の台詞に、俺は呆れながら肩をすくめた。 「何もここで戦争しようってわけじゃないんだぞ」 「でもあんた、私に大杉対策を覚えさせたいんでしょ?」 「だからって、あいつをぶった斬れとは言ってないだろ。まったく……」 栄光の馬鹿はぶった斬るくらいでちょうどいいと思わないでもないが、そう言ったら我堂は本気でやりそうなので困る。一番感情の起伏が激しい奴だし、痴漢に容赦はしないだろう。 そう考えると、武器創造に長けた戦士タイプっていうのは恐ろしいな。現実だと我堂は弄られキャラだけど、夢の中じゃあまりからかわないように晶たちへも言っておこう。ほんとに怪我をするわけじゃないぶん、輪をかけて修羅場な展開になるかもしれない。 「せいぜい脅しをかけるくらいにしとけ。栄光は小心者だしアタックの資質も低いから、一度おまえのスペックを見せ付けてやれば大人しくなるよ」 「だけどあいつって、くだらないことにだけは無駄に勇気を振り絞るタイプじゃない? 男には引けないときあるんだよ、みたいな」 「あー、それは……」 否定できないところがなんとも辛い。 「だから一回くらい、真剣に怖い思いさせたほうがいいと私は思うわよ。どうせ夢なんだし、腕の一本とかなら別に構わないでしょ」 「なんならちょっと今からでも……」 「いやいやいや、待てって我堂。あっちのことは世良に任せろ」 栄光は、向こうで世良に何かやられている。具体的にどういうことをしているのかは不明だが、少なくとも我堂よりは穏便に済ましてくれるはずだろう。 「あいつがロックかけるって言ってたから、それを信じろ。あと顔、本気で怖いから」 「失礼ね、そばもんよりはマシでしょう」 「生憎と、いい勝負だ」 まったく、そんなんだから晶のツボに嵌って毎度弄り倒されるんだと自覚してほしい。 「おまえさ、普通にしてれば才色兼備で通るんだから、その穴だらけなキャラなんとかしろよ。色々台無しすぎるだろ」 「うるさいわね。私は別に穴なんかないし、パーフェクトだし」 「テストで名前書き忘れて最下位取った奴の言うことかよ」 「あ、あれは、わざとよ! そう、ハンデなのよ! まともにやったら絶対私が勝っちゃうしぃ」 「あんたのプライドがボロボロに崩れないよう、花を持たせてやったのよ。ほんとの点数だったら私は負けてないからね!」 「ほぅ……聞き捨てならないな、それは」 だが、まあいい。そこまで言うなら白黒はっきりさせてやろう。 「俺は自分の解答、全部覚えてるぞ。おまえはどうだ、言い合ってみるか?」 「望むところよ、やってやろうじゃないの」 「よーし、じゃあ数Ⅰからいくぞ。第一問――二次関数だったがあれの答えは?」 「T=2!」 「まあ、これくらい当たり前よね。じゃあ続けていくわよ――」 「上等だ、かかってこい」 と、最初の主旨からは完全に逸脱したが、そんな感じで答え合わせが延々と続いた。こうなると俺も負けず嫌いなので、引くわけにはいかない。 結果…… 「く、くおおお……」 「だからおまえ、顔が人外のものになってるって」 ここに、勝者と敗者が明確なかたちで表れていた。俺は眼鏡を押し上げつつトドメを刺す。 「前回よりは差が詰まったが、まだまだ俺のほうが上だ我堂。精進しろ」 「相変わらずケアレスミスも多いしな。今のままじゃあ、俺に勝利するのは夢のまた夢だ」 「あーもう! ムッカつくわねこの男はァ!」 「絶対、必ず今度こそ勝ってやるんだから覚悟しなさいよ! それで私に、ぐうの音も出ないほど跪かせてやるわ!」 奴隷だ下僕だと、青筋立てながら我堂は吼えまくっている。こいつの中では、勝利することで俺が奴隷になるのもはもはや決定事項であるらしい。 実際、あまりの剣幕に押されてそういうことになってはいるが、正確なところ俺は一度も承諾してなんかいないんだけどな。 「我堂、おまえさ、俺を奴隷にして何をさせたいんだよ?」 「は? そ、それはあんたその、そんなの決まってるでしょ」 「何が?」 「だ、だから、えっと……」 俺の問いに一転して言葉を詰まらせ、うにゃうにゃもじもじとやりだす我堂。相変わらず変わり身の激しい奴だ。 「おまえもしかして、何も考えてないのか?」 「考えてるわよ!」 「たとえばほら、一緒に登下校したり、休日は何処かに行ったり……」 「私の作ったご飯を食べたり、うちの父さんに挨拶したり……」 「え、ちょっと待て。それって奴隷か?」 「奴隷よ、じゃなかったら何なのよ!?」 「何なのって言われてもな……」 そういうことなら、別に珍しくもないと言うか。 「それが奴隷なら、俺はすでに晶や歩美の奴隷ってことになってしまうぞ」 「な――、あ、あんた、そんな……」 「いや、何を驚いてんだよ。おまえもしょっちゅう見てるだろ」 子供の頃から近所に住んでる幼なじみだから、当然お互いの親には挨拶してるし、登下校は一緒だし、休みの日には遊びに行くし、たまにだが料理を作ってもらうこともある。 「この前だって、家庭科の授業で作ったクッキーを歩美にもらったぞ」 「裏切り者っ!」 「だからなんでそうなる」 「い、いいわよ。だったら私はもっと凄いことさせるんだから。一緒に出かけたときは全額あんたが奢りなさい。私が作った料理は、どんなに不味くても常に美味しいって言いなさい」 「あと、肩揉みなさい。爪磨きなさい。私が眠るまで傍で子守唄を歌いなさい」 「つまり、おまえと一緒に寝ろと?」 「んな―――」 「……自分で言っといてなんだその反応は」 もういい。こいつの頭は奇っ怪すぎるのでまともに考えてると馬鹿を見る。どのみち俺は負けたりしないし、我堂がどんなに変態的な妄想をしていようと問題はないんだ。 「しかし、なんだな。今さらだが、おまえだけそういうことを言うってのはおかしいな」 「ど、どういうことよ?」 「だから、これは賭けだろう? 賭けならフェアじゃないとおかしいよな。今のままじゃあおまえにリスクがないんだよ」 「要するに、俺が勝った場合の条件をつけさせろ」 「ぐっ……」 呻いて、身を守るようにしながら後退る我堂。まるで強姦魔に追い詰められたような表情で心外だが、これは正式な契約を意味するもので、すなわち俺が負ければこいつの条件を呑むってことだ。 今まで曖昧で一方的だったものをしっかりした形に変えるのだから、悪いことじゃないだろう。 「心配するなよ。次からってことにしといてやる。俺から出す条件は――」 「じょ、条件は?」 固唾を呑んでる我堂に対し、俺はそれを口にした。 「おまえ、俺と一緒に毎朝走れ」 「へ?」 「聞こえなかったか? 俺と一緒に走れって言ってるんだよ。おまえは平常心が足りないからな、鍛えてやる」 我堂の地力が相当なものであることは真実で、俺もそれは認めている。なのにいつも情けないミスばかりをやらかすのは、こいつが精神面で脆いからだ。 「本番に弱いタイプなのは知ってるが、それで一生通すわけにもいかないだろう。気持ちにムラがあるところは栄光も一緒だけど、あいつは逆にここぞってときは強いからな。少しはそういうところを見習えよ」 「だからそのためのトレーニングだ。走るのはいいぞ、心が強くなる」 「おまえが次で俺に勝ったら、自力で克服したってことだからそれでいい。けど勝てなかったら、俺に従え」 「まあ、おまえ流に言うなら弟子になれって感じかな。それでどうだ?」 「え、あ……はい。――じゃなくて、分かった。いいわよ」 よほど呆気に取られたのか、思わず敬語を使ってから慌てて我堂は言い直す。俺は耐え切れず笑ってしまった。 「そういうところが弱点だって言ってるんだよ。これじゃあ次の勝負も見えたかな」 「う、うるさいわね。ほっときなさいよ」 「でも柊、何でなの?」 「何が?」 意味が分からず問い返すと、我堂は真面目な顔をして俺に言った。 「私を強くしてどうするの? 余裕のつもり? それとも、ほんとは奴隷になりたいの?」 「馬鹿、そんなことも分からんのかおまえは」 「ライバルなんだろ? だったら歯応えが欲しいんだよ。別に余裕かましてるわけじゃないし、おまえなら相応しいと思ってるから言ったんだ」 「う……」 「そんなわけで、期待してるから頑張れよ」 「あ、うん。分かった、わ」 頷く我堂。この場はこんな感じで収まるかと思ったのだが。 「――て、ちょっと待った。待ちなさい! そういや私、あんたのステータス見てないわ」 「あ、そうだったか。まあ隠さないから勝手に見ろよ」 「あんた私のキャンセルが低いの分かってるでしょ。見ようとしても上手く見えないのよ、見せなさい!」 「うるさいな、こいつ……」 さすがにそろそろ怒鳴られるのも嫌になってきたので、それ以上何も言わず従うことにした。 俺は自己解析をすると、結果を携帯電話に表示させて我堂に手渡す。 それを見て、こいつは一言。 「うわ、つまんない」 「ほっとけよ」 マジで大きなお世話だよ。これはこれで、俺は気に入ってるんだからな。 そして、その後。 「お疲れさま、柊くん」 「おまえもな、世良」 俺は三人の、世良は栄光の訓練ないし矯正を終え、一息ついたから合流した。 「他のみんなは、さすがに今度こそグロッキーだね」 「まあ、あいつらは今日が初めてだしこんなもんだろう」 俺と世良はまだ余裕があるものの、晶たちは残らず大の字でくたばっている。傍から見て、そろそろ感覚が夢から切れる――つまりは目覚める頃合だ。 「最初の遊びと合わせて、だいたい七時間くらい頑張ったし、睡眠時間としてもちょうどいい感じかな」 「あいつらにとったら少し早起きになるかもしれないけどな、たまにはいいだろ。――お?」 と、そこで、まずは歩美の身体がうっすらとぼやけながら、光となって消えていくのが目に入った。 「あっち、大杉くんも」 次いで鈴子、最後に晶。それほど差はなかったが、体力値が少ない順にこの世界とのリンクが切れていく。 言うまでもなく、これを客観的に見るのは初めてだったから、俺としても少なからず感嘆するものがあった。 「綺麗だね」 黙って頷く。正しい表現なのかは分からないが、素直に俺もそう思った。現象としては消失だけど、本質は覚醒なので儚い雰囲気はまったくない。 むしろ生き生きと消えていった。そんな印象を抱く眺めだ。 「朝に帰る、か。そういうものかな」 気づけば世良と二人きりになってしまった夢の中で、俺はぽつりとそう漏らした。今まで意識したことはなかったが、こっちの世界がひどく辺鄙なものに感じてしまう。先に帰った晶たちが、いっそ羨ましくさえあった。 そんな風に思うのも、やはり夢は夢だという証だろう。どれだけ好き勝手に超人めいた真似が出来るといっても、その万能感は本物じゃない。俺たちが属するべきは朝の世界で現実なんだと、今さらながらに実感する。 「うん、そうかもね」 世良はそんな俺の呟きを、静かに頷きながら肯定していた。相変わらず、あのよく分からない不思議な笑みを浮かべたままで。 俺はそれに、なんだかいたたまれないような気持ちになって…… 「俺たちも帰ろうか。ずっとここにいたってしょうがないだろ」 「え、あ……それはまあ、そうだけど」 「なんだ?」 慌てたような世良の声に振り返ってみれば、そこにはなんだか困った顔のこいつがいた。 いや、と言うより、まるで恨めしがっているような。 「どうした、俺に用でもあるのか?」 「そういうわけじゃ、ないけど……」 「柊くんこそ、急に逃げるみたいな態度とらなくたっていいじゃない」 「逃げる? 別にそんなつもりは」 「嘘だよ、逃げてた。柊くんは私と一緒にいるのが嫌なの?」 問いに、俺は何と返していいか分からなくなった。 それは確かに、二人きりになったとたん妙な空気があるのを自覚して、居心地が悪いと感じたのは認めるし、そのことを指して逃げたと言われれば反論は出来ないかもしれない。 だけど、だからって、嫌とかそういうわけじゃないんだよ。……ああ、俺も正直よく分からんのだ。 「ごめん。困らせちゃったね。気にしないで」 「えっと、私が言いたかったのはそんな重いことじゃなくて、せっかくだから少しお話しようっていうだけ」 「つまりお喋り、世間話。駄目かな?」 「…………」 まあ、そう言われれば断る理由も別になく。 「分かった」 頷いて、俺は再び腰を下ろした。世良はあからさまにほっとした様子だったが、そこは気づかなかったふりをしておく。 「で、何を話す?」 「え、うーん。そう言われても困るっていうか、柊くんは何かないの?」 「俺が?」 「そう、私に訊きたいこととか」 「実際、いっぱいあると思うんだけどな。柊くん、あれ以来何も私に言ってこないし」 「普通はもっとこう、色々問い詰めたりするもんじゃないの? たとえばおまえは何者だー、とか」 「漠然としすぎてて要領を得ないだろ、その質問」 だが言いたいことは分かる。俺だってこいつになんの疑問も感じていないわけじゃない。 いつから夢に入っていたとか。なぜ俺を追っていたとか。それでどうするつもりだったとか。色々あるにはあるんだが、それら残らずどうでもいいことのように思えるんだよ。 そして、そんな風に思ってしまう自分がまず分からないから、世良と向き合うのは居心地が悪く…… 平たく言うと、俺はこいつが少し苦手なわけだ。好きとか嫌いとかの話じゃなく、警戒してるというわけでもなく、強いて言うと単に困る。 こいつと絡めば、何かが動く。それは良くないようなことでもあり、待ち望んでいたようなことでもあり、そこを確かめたいような違うような…… 〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈駄〉《 、》〈目〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈う〉《 、》〈感〉《 、》〈覚〉《 、》、その正体が分からない。 結局、すべてはただの戸惑い。出会いが特殊すぎたから、頭が整理できていないだけかもしれないけど。 「柊くん、色々考えてるのは分かるんだけど、言ってくれないと伝わらないよ」 「頭がいいから、余計に複雑なことまで思っちゃうのかな。じゃあ一つ、凄く単純なことを訊くね」 言って、世良は俺の目を正面から覗き込むと。 「私、邪魔?」 一言。いきなりそんなことを。 「柊くんや晶たち、みんなの前に現れたらいけなかった?」 その問いは切実だった。まともに考えるなら随分飛躍した物言いで、痛い女だなと一蹴するような台詞なのに。 なぜか、そう斬って捨てることに俺は異様な抵抗感を覚えている。 だから俺は、真摯に答えた。自分でも驚くほどの強い声で。 「いいや。それだけはない」 「〈何〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈悔〉《 、》〈や〉《 、》〈む〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈世〉《 、》〈良〉《 、》。〈誰〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「――――――」 乗せられた、と言うべきだろうか。俺もまた、傍から見れば随分と飛躍した痛いことを言っていたが、それを大袈裟とは思っていない。 まったく不思議で、よく分からない気持ちになるから苦手なんだよこの女は。 「ありがとう」 そしてこいつ、今にも泣きそうな顔をしてるし。 やめてくれよなそういうの。苦手なんだよ勘弁してくれ。 「もういいだろいい加減。世間話に付き合ったんだからそろそろ帰るぞ」 「うん!」 正直、今度は逃げたと言われてもずばりその通りなノリだったんだが、世良は不満を漏らさずついてくる。 いや、ただ一つだけだが、条件をつける感じで。 「ねえ柊くん、私の質問に一つ答えてくれたんだから、そっちも私に一つだけ質問してよ。でないとフェアじゃないでしょう?」 「あー、分かった。分かったよ」 そんなことを言うものだから、俺は反射的にただ一つ。 あるいは、それこそもっとも重要なのかもしれない問いを投げた。 「おまえってさ、二年前にいったい何があったんだ?」 「恋の過ち」 と、世良は即座に―― 「あのときは、私もまだ若かったのよね」 静かだが、決して軽いわけではない裏があることを感じさせつつ返答した。 「恋、ね……」 それは色々大変だったことだろうが、若かったも何もないだろう。以来ずっと眠っていた身のくせに。 「あれ? あれあれ? もしかして柊くん、妬いたりしてる?」 「え――、い、え、……嘘、ほんと?」 「どうだろうな。質疑応答は一対一だろ。もう答える義務はない」 「ちょ、ずるーい!」 などと背に罵声を受けながら、俺は朝に帰って行った。 そんなわけあるかと呟いて、追い払うように手を振った。 「うわ。まあ、うん……柊くんはそういう奴だよ。硬すぎてぶつかった乙女が木っ端微塵に砕かれる系」 「砕けたほうがいいだろう。こっちで感覚が薄くなったら、現実に戻り易い」 「だからそういうこと言ってるんじゃなくてー! ちょっと聞いてるのー、この木石ー!」 などと背に罵声を受けながら、俺は朝に帰って行った。 「しっかしマジすげえよな。理屈全然分かんねーけど、オレもう起きてからずっとわくわくしっ放しでよ。まるでリアルネトゲみたいな」 「わたしもわたしも! なんかこう、世界の裏側見ちゃった感じ? ちょっと優越感持っちゃうよねー」 昼休み――朝からはしゃぎまくっているこいつらは、未だにこんな感じで夢のことを喜々と話題に乗せていた。 そこは俺も気持ち的には似たようなもので、十数年来の夢感覚に急激な変化が訪れたことを戸惑いながらも楽しんでいる。 ただ、あまり憚りなく大声で話すなよとは思うけど。 「嬉しいのは分かったから、少し落ち着けよ。傍から見たら怪しい奴だぞ」 「それでおまえら、重ねて訊くけど体調に異常はないな?」 「おう。この通り元気だぜ。少し寝不足みたいな感じはするけどな」 「そこは仕方ないでしょうね。実際、凄く浅い眠りだったのは確かだろうし、今は平気だけど毎日続けばきついかも」 「だからこそ、日頃鍛えておいたほうがいい。ここに十年選手がいるんだから、ちゃんと気をつけてれば大丈夫だっていう証明にはなってるだろ? まあ今後、おまえらも毎日夢へ入れるようになったらの話だが」 「もしそうなって、きついなー、て思ったら、柊くんのアイテムを持たないで眠ればいいよ。たぶん、それでどうにかなるんじゃないかな」 「そのあたりはまったく原理が不明だけどな。状況から見たらきっとそういうことになるんだろうな」 「ねー、ほんとになんでだろうね」 「オレはそういう謎についてはどうでもいいや。今はとにかく、飽きるまで毎晩あの世界に入りたいと思ってるぜ。でもそうなると、袖ボタンっていうのが失くしそうで危なっかしいから嫌なんだよ」 「そんなわけで四四八、もっとちゃんとしたアイテムくんねえ?」 「勝手に人からむしり取っといて文句を言うなよ。我慢しろ」 と、皆でわいわい話を続けていく。俺としてはこいつらがなぜ夢に入れたのかという不思議を突き詰めていきたかったが、現状どうしようもないので保留するしかない。 そこはこの先、新たな展開と共にヒントが増えるのを期待しよう。今はただ、栄光が言うように楽しむのが正しいスタイルなのだと感じる。 だから、ここで一つ提案をすることにした。 「俺のアイテムさえ持てば、おまえらも今後夢に入れると仮定して、何かやりたいことはあるか?」 「せっかくなんだ。昨晩みたいに漫然と遊ぶだけじゃつまらないだろう。もちろん、最初は慣れるためにも練習が必要だろうが、どうせならテーマを決めたほうが面白いし効率がいい」 「たとえば隠れんぼとか鬼ごっことか、ちょっとくらいレトロなもののほうがきっといいぞ。現実じゃあそんなことやってる歳でもないが、あっちなら手段の幅がぶっ飛んで広がるからな。新鮮かもしれない」 単に隠れるだけでも偽装や穏形の桁が変わり、それを見破る術も同様だ。なので、まだ小さかった頃、世の中がとても不思議に満ちていた時の感覚を味わえる気がする。 俺がそう言うと、皆も一様に乗ってきた。 「お、いいねえ。それあたしも賛成」 「だったら柊、みんなが眠る時間も事前に統一しておいたほうがよくない? 集合場所は昨日と同じ八幡でいいけど」 「えー、どうせならもっと凄いとこ設定しようぜ。日頃行けないような外国とか……ほら、万里の長城なんか修行場所的にロケーションぴったりじゃん」 「わたしはそれよりファンタジーがいいよ。剣と魔法の世界でホビットしばきながらドラゴン狩りたい」 「SFもいいよな。宇宙船の中で無重力空間とかよ」 「……ていうか、周りの環境を変えるのは難しいからそんな簡単に出来ないって言ったじゃない」 「まったくだ。おまえら人の話を聞いてろよ」 クリエイトの上級技である環境操作は易々成せる業じゃない。しかも現状、俺たちの中でそれが可能っぽいのは世良だけだ。 「あちゃー、そう言えばそうだったか。まあだったら鎌倉舞台でもいいけどさ、ちょっと夢がなくなるな」 「そうかしら、逆に面白いかもしれないわよ。落差をより感じやすいし」 「それで少し思ったんだけど、仮に鎌倉から出ようとしたらどうなるの? いきなりぱっと環境変えるのが難しいのは分かったけど、道なりに進んで行ったらどのみち別の場所に出るわけじゃない。その場合は?」 「それはきっと、主観によるんじゃないかな。正確に地理を把握してる限り、現実どおり道は続くと思うけど」 「この先がどうなってるか分かってない道だと、くるっと回ってフリダシに戻る、みたいな?」 「たぶん。頭でイメージできてる範囲しか、あの世界は広がってないよ」 「つまり箱庭的っていうわけか。言われてみれば、今までもそんな感じだった心当たりはあるな」 鎌倉で生まれ育った俺だが、それでも街の地理をすべて把握しているわけじゃない。通ったことがない道、入ったことがない空間は無数にある。 だからそういう場所に足を踏み入れたときは、現実の地理を無視して既知の場所にワープしてしまったものだ。駅近くの路地を抜けた先が、なぜか大仏の前だったなんてこともあるくらいで。 「けどそうなると、オレらが共有した夢の鎌倉は誰の主観なんだ? バラバラなのか、それとも……」 「四四八くん……なのかな?」 皆の視線が集中する。確かに、単一主観で構成されているとしたら、その可能性が高いかもしれない。 「じゃあその場合、たとえば柊は私の家に来たことがないんだから、私は夢で自分の家に帰れないのかしらね」 「いやでもおまえ、昨日は自分の部屋で目覚めてから八幡来たんだろ?」 「あ、そうか。だったら主観はバラバラかもしれないわね。人によって行ける所と行けない所がある、と」 「だったら隠れんぼは無理だね。わたしがここの女子トイレに隠れたら四四八くんには絶対見つけられないもん」 「おい歩美、なぜそこでオレを抜かす?」 「おまえは絶対裏でこっそり入ったことあんだろ」 「入ってねーし! マジ濡れ衣だし!」 「どうかしら。信用できないわ」 「ちょ、水希、なんか言ってくれよ!」 「ごめん、大杉くんはやってそうだと私も思った」 「ひでえ、ひでえよ、四四八~~」 「俺に助けを求めるな」 すべては日頃の行いが悪いとしか言いようがないので、俺は栄光の哀訴を突っぱねた。 「こいつが女子トイレを覗いたことがあるかどうか、そういう諸々や主観云々込み込みで、今はさっきも言ったように夢でやることの方針を決めよう。俺も考えるから、各人案を出すように」 「あと歩美、言っとくがサバゲーは無しだ」 「えー、なんでー?」 「いや、マジ有り得ないから。おまえとそんなことやったらぶっ殺される展開しか思い浮かばんし」 「ほんと、冗談じゃないからそれだけはやめて」 世良を除く全員、そこは苦い思い出がありすぎるから満場一致で却下する。 「え、ええっと、じゃあまず、簡単なところから集合時間を決めとこうよ。みんな、普段は何時くらいに寝てるの?」 「一時」 「二時」 「十二時」 「九時」 「九時ィ?」 見事に落ちがついたようで、突っ込みがハモった。 「な、なによ。なんなのその反応。九時に寝ちゃ悪いっていうの?」 「いや、別に悪くはねえけどさ……」 「りんちゃん、子供じゃないんだから」 「つーか、江戸時代の人間かおまえは」 「そこらへんの是非はともかく、問題は全員就寝時刻がバラバラすぎることだろう」 昨夜は初日ということでさほどのズレもなかったが、この様じゃあいずれ派手に食い違ってくるだろうと容易に想像できてしまう。 「私はだいたい十一時すぎくらいだけど、柊くんはどう?」 「俺も基本はそのあたりだから、揃えるならそこにしよう。歩美と栄光はもう少し早く寝ろ」 「我堂は、まあ、一人で待っててくれるんなら今のままでも構わんが……」 「いいわよ、分かったわよ。あんたらに合わせてあげる」 「まったく、夜更かしなんて不健康で不真面目な……」 と、我堂はなにやらぶつぶつ言ってるが、こういうことに関してはお互いに妥協点を探っていくしかない。 「生活習慣の差って、いざ直面するとびっくりするよね」 「こいつにとったら、それが普通なんだろうしな。不満もあるだろうが、集団行動なんだから仕方ない」 「それじゃあ以降、寝るのは十一時頃に統一ってことで――」 いいな、と言いかけて、しかし俺は問題に気づいた。 「どうした?」 「いや、すまん。自分で言っときながら肝心なことを忘れてたよ」 バイトがある日は十一時になんか寝たりしない。だいたい三時近くになるのが普通で、歩美よりも遅いんだった。今日は休みの日なので問題はないけど、これから先はどうするか。 困ったな、と思っていたとき。 「あ……」 「鳴滝……」 ある意味でタイミングがいいと言うべきか、こいつが重役出勤を決めてきた。 「悪いがおまえら、ちょっと待っててくれ」 「え?」 「おい、なんだよいきなり」 呆気に取られている皆を尻目に、俺は席を立って鳴滝の元へ歩いていく。それは確かに、こいつはクラスの腫れ物扱いだからびっくりもするだろうが、色々言わなきゃならないことがあるんだよ。 「柊……」 「よう、遅い登校だな。おまえ昨日、どうして休んだ?」 テストが明けたらバイトに入ってもらうから来いと言っていたにも関わらず、こいつはそれを聞かなかった。まずはそこについてはっきりさせなくてはいけない。 「約束したの忘れてたのか? それとも何か他に理由が?」 「すまねえ。覚えてたんだが、ちょっとな」 俺の問いに、鳴滝はバツ悪げな顔で謝罪する。どうやら単にサボったわけじゃないらしい。 「話しただろ? 例の親父……あれがちょっとやばくなってな。だから見舞いに行ってたんだよ」 「おまえに断りは入れたかったが、よく考えりゃ連絡先も知らねえしよ。そんなわけだ、悪ぃ」 「そうか、なら仕方ないな」 事情を聞いて納得する。それならメアド交換すらしてなかった俺の落ち度でもあるだろう。 「で、その親父さんは大丈夫なのか?」 「ああ、しぶといおっさんだから平気だよ。くだらねえ気ぃ回してないで、学校行けやって怒鳴られちまった」 「そりゃまた、気合いの入った人なんだな」 「つーかクソ真面目なんだよ。ガキが見たら震え上がっちまうような顔のくせして、いちいち細けえ」 「おまえのことが心配なんだろ。あまり言ってやるな」 でかい図体で拗ねたような態度を見せる鳴滝に、俺はおかしみを覚えていた。前も思ったが、こいつのこういうところは嫌いじゃない。 「しかし、おまえから見ても怖い顔っていうのはどういうことだよ」 「は、なんだそりゃ? おちょくってんのかおまえ」 「怒るなよ。こんな程度でムキになってたらバーテンなんかやれないぞ」 「まあとにかく、色々分かった。それで鳴滝、店は今日定休日だが、明日からは出られるよな?」 「ああ、問題ねえ」 「ならちゃんと来いよ。学校にも。修学旅行は同じ班にしといたからな」 教卓の上に置いてあった旅行のしおりを手に取って、ひらひらさせながら鳴滝に渡した。 「おまえ、なんだよこれ。俺はこんなもん行くなんて言ってねえぞ」 「行かないとも聞いてない。いいだろ別に、おまえの好きな親父さんだって、きっと行けって言うだろうさ」 「あとこれ、それから連絡先もな」 ポケットから取り出したバイト先の鍵を手渡し、次いで旅行のしおりに俺の携帯番号とメールアドレスを書いておいた。 鳴滝はそれと俺を交互に見ながら戸惑っている様子だったが、やがて舌打ちするとまとめて自分のポケットに仕舞う。 「……面倒くせえ。おまえうぜえよ、嫌いなタイプだ」 「そうか、残念だな。俺はおまえのことが気に入り始めてるみたいなんだが」 「だからてめえのそういうところが――」 「あのー」 「ちょっといいかな? 私、昨日から復学してきた奴なんだけど」 「世良、なんだよいきなり」 俺を押しのけるようにして、横からこいつが割って入った。腰を折られた形で戸惑っている鳴滝に、そのまま笑顔で話しかける。 「世良水希って言います。鳴滝くん、だよね? これからよろしく」 「あ……お、おう」 「無視していいぞ鳴滝。こいつはちょっと、いきなり間合いが近すぎて俺でも引くときがあるからな」 「うわ、ひどい。何よそれ。私が馴れ馴れしいって言ってるの?」 「そこは鳴滝の顔見て察せよ」 そもそもこのパターンは母さんのときに続いて二度目だし、むしろ俺自身がまたかよという感じだった。 鳴滝はどう見ても社交的ではないので、バイトが始まるまでにある程度の意思疎通ができるようになっておきたいと思っていたのに。 しかしまあ、この状況じゃあしょうがないよな。 「チャイムが鳴ったな。ここまでか」 席に戻りがてら、俺はもう一度鳴滝に声をかけた。 「そんなわけで、明日からな。サボるなよ」 「うるせえな、分かったって言ってんだろ」 こいつがしっかりバイトをやってくれるなら、俺のシフトも融通が利くようになるはずだ。就寝時刻に関することは、そうやって調整しよう。 どうしても夢に入るのが遅れるときは、世良に仕切りを任せるという方向で。 「四四八おまえ、鳴滝となんかあったのか?」 「まあな。あいつが俺のバイトに入ってきたんだよ」 「げ、マジか! 大丈夫かよ?」 「うーん、ある意味バーテンが似合いそうな感じではあるけど」 「平気よ。だって鳴滝くん、優しそうな感じだし」 「どこが?」 などと意見は色々あるようだが、ひとまず最低限の用はすませたのだから、あいつのことは置いておこう。 「どうした我堂、妙な顔して」 「なんでもないわよ。それより五時限目が始まるから、私語はやめて」 ここはこいつの言うとおり、学生らしくちゃんと授業をやらないとな。 そして放課後、俺たちは毎度のように晶の家で蕎麦を食いながら、夢でやることの方針について話し合った。 真面目なこと、馬鹿なこと、突拍子もないこと。 それぞれ面白そうで興味を惹き、試す価値があると思ったものは片っ端からメモに取ったが、そこから何か一つに絞ることは難しかった。 ゆえに日が暮れ、閉店時間が迫る頃まで時を費やした末に得られた物は、テーブルにうず高く積み上げられたメモ用紙の山という結果になり…… 「あーもー、分からーん!」 このように、俺たちは疲労困憊となっていた。 「おまえら我がまますぎるんだよ。なんだこれ、お菓子の城で美女百人による水着騎馬戦――だけどうちの一人は胸に爆弾仕込んだテロリストだから、制限時間以内に手段を駆使して偽乳見破るゲーム。優勝者には絶対服従で奴隷になれ――って意味分からんわ!」 全員の希望を片っ端から取り入れたら、そんな風に混沌としたものにならざるを得ない。 ちなみにお菓子の城は世良。 美女百人、栄光。 爆弾云々、歩美。 探知ゲーム、俺。 そして絶対服従、言わずもがな我堂だ。 「だいたいなんであたしの希望は毎回毎回はねられるんだよ、不公平だろ!」 「あっちゃんはそばもん関係から離れようとしないからだよ」 「おまえ、八幡のご神体を蕎麦神さまに変えようとか、さすがに罰当たりすぎるだろ」 「歴史ある神域をなんだと思ってるのよ。馬鹿じゃないの」 「うるっせーよ。おまえこそ馬鹿の一つ覚えみたいに奴隷奴隷言いやがって」 「だいたい水希だっておかしくね? お菓子の城って、環境弄るのは論外なんじゃなかったのかよ」 「これは単におっきい物を創るだけだから別にいいの。時間は確かにかかるけど、体育館くらいの規模なら大丈夫だし」 「オレと歩美は実に夢があっていいよなー?」 「ねー?」 「あんた達については平常運転すぎて何も言う気が起きないわよ」 「じゃあ四四八の、探知ゲームなんかしてもキャンセル強い奴の圧勝じゃんか。勝負として成立しねーよ」 「そんなことはないだろ。アタックを応用すれば聴力だって上げられるからタイマーを聴き取れるし、探知機そのものを創ってもいい。構造なんて複雑じゃなくても、磁石で結構どうにかなる。逆に周りの妨害だってやれないことはないんだからな」 「これはそんな風にして、それぞれ出来る範囲の手を尽くすという高度に洗練された駆け引きなんだよ。俺なりに皆の適性を考えた上で出した案だというのに何の不満が――」 「うん、まあそうだけど、さっきからずっとこんな感じだよね」 「……だな」 それぞれ主張が強すぎて、これというものに纏まらない。いま議論したことだって、山のようにある例の一つだ。 何とも言えない倦怠感が滲み出てきた場を見回して、嘆息した俺は浮かしかけていた腰を席に下ろした。 「しょうがない、少し休憩にしよう。晶、確かアイスあったよな?」 「分かった、ちょっと持ってくるわ。親父、親父ー?」 席を立ち、厨房に入っていく晶。しかし、すぐに困った顔をしながら戻ってきた。 「おっかしいな。いないぞ親父。もうあたしらしか客いないからってサボんなよな」 「見当たらないの? じゃあ恵理子さんは?」 「それも同じ。二人ともどっか行ってる。……て、あっ!」 「――まさか!」 そのとき俺たち全員は、間違いなくまったく同じことを思い浮かべた。 「マジか、マジかマジか? あのハゲついに決めるんか?」 「落ち着きなさい晶、ここで騒いだら台無しよ。まず何処にいるのか見つけないと」 「あの二人って、やっぱりそういう関係だったの?」 「剛蔵さんが一方的にお熱なんだよ。でも奥手だし、恵理子さんは抜けてるから全然進展しなくてさ」 「けどまったく脈無しってわけじゃないとオレは思ってるぜ。要はタイミングと、そのとき踏み込めるかっていう気合いだろ」 「それが今かもしれないって?」 「ならいいんだけどよ」 「しッ――」 店の外から気配を感じた俺は皆を黙らせ、ジェスチャーで意思疎通する。 (たぶん表にいる。ここから出るとバレるから、裏に回るぞ) (オーケー) 全員親指を立てて頷くと、店の裏口から出て表に回った。そして駐車場の陰に隠れながら覗いてみると…… 「で、ですから恵理子さん――自分としましては、その、何と申しますか」 「晶も、四四八くんも、立派に育ってくれましたし、そろそろ恵理子さんも、ご自分の人生というものをお考えになられてはどうかと、思いまして」 「私の、人生ですか? それはどういう……」 「え、ええ。つまり、新たにか、か、家族と言いますか……け、け、け……んを……」 「はい? なんでしょう?」 「その、結婚を――」 ずばり、まさに今、そこではクライマックスにあるところだった。俺含め、全員のテンションが跳ね上がる。 「すげえ、言ったぜ。男だよおやっさん!」 「結婚って、結婚って」 「ちょっと静かに、黙って見守るわよ」 「頑張って、剛蔵さん!」 「お、親父……」 「泣くな晶。今は祈ろう」 成功すると信じて、上手くいった暁には祝杯だ。 そう思いながら、固唾を呑む俺たちだったが。 「結婚……ですか? 誰と誰が?」 「へ? あ、あああ、そ、それはもちろん、晶と四四八くんがですよ!」 「まあ、素敵! あの二人、そういう関係になったんですかっ?」 「―――てなんじゃそりゃあああっ!?」 思わず叫んだ栄光を、俺たち全員で押さえ込む羽目になった。 「む、なんでしょうな。今なにか聞こえたような……」 「そうですね。気のせいかしら」 息を殺して隠れつつ、しかし叫びたいのは俺も同じだ。どうしてそんな流れになるんだよ。 「馬鹿か、馬鹿なのかあのハゲは。根性ないのもいい加減にしろっての!」 「なんであたしが、四四八とそんな……」 「あっちゃんが照れてどうするのよ」 「照れてねえしっ!」 「柊はどうなのよ」 「今はそんなこと言ってるときじゃないだろ」 「……うん、まあ、危うくコケかけるところだったし」 「ねえ、どうにかなんないかなあ四四八くん」 「そう言われてもな……俺たちに見守る以外の何が出来る」 だからこそ歯痒くて、やきもきしてしまうんだが、残念なことにここで効果的な手を考え付くほどの恋愛巧者は俺たちの中に一人もいない。 ゆえに眼前の二人へ駄目出しをする資格など本来有りはしないのだけど、それでも母さんたちには幸せになってほしいと思っているから、無視できないのが人情だった。 「も、が、手ぇ放せって、苦しいんだよ! ほら、恵理子さんがなんか言ってる」 「……どうやら、なんとかバレずにはすんだようだな」 だから再び、俺たちは気を揉みつつも聞き耳を立てることにした。 「けど、そうですね。四四八も晶ちゃんもそのうち結婚しちゃうわけですし、そうなると家族が増えて、私もお祖母ちゃんって言われる日が来ちゃうのかぁ……」 「なんだか恥ずかしいけど、想像してみると楽しいですね。確かにそろそろ、そういう新しい人生を考える時期なのかもしれないです」 「剛蔵さんはいつもそうやってみんなのことを考えてくれるから、私も頼もしいですよ」 「や、それはその、恐縮であります」 「ほんと、昔からお世話になりっぱなしですみません。覚えてますか、初めて会ったときのこと」 「はい。もちろんですとも、昨日のことのように」 「あれは新年の……そう、八幡宮の境内でしたな。隣校の女学生であった恵理子さんが、眼鏡を落としたと困っておられて」 「剛蔵さんが一緒に探してくれたんですよね。あのときはもう、本当にご迷惑をかけて」 「い、いえ。あれはむしろ、自分が礼を言いたいくらいです。何せこの面相ですから、それまで女性に怖がられず接していただいたことなどなかったもので……率直なところ、感激でありました」 「いやだわそんなこと、大袈裟ですよ」 などと二人は話している。どうにか軌道修正は出来たようで、俺も胸を撫で下ろした。あのままさっきの話を引っ張って、俺と晶の結婚がどうだのいうことになっても困る。そうなると母さん、暴走しかねないし。 だがそれはそうと、落とした眼鏡を一緒に探したのがきっかけとは…… 「初めて聞いた話だけど、出会いのエピソードとしてはなかなか気が利いている部類なのかな」 「剛蔵さんも感激したって言ってるしね」 「でもそれってさ、単にメガネしてなかったから親父の凶悪面が分かんなかっただけなんじゃねえの?」 「あっちゃん、それを言ったらお終いだよ」 「まあとにかく、また悪くない流れになってきたじゃん」 「確かに」 共通の過去を語って懐かしみ、そこから繋がる今へと話を持っていく……ベタと言えばベタだけど、いい感じだと俺も思うし続く展開を期待した。 「だけど結局、私の眼鏡は聖十郎さんに踏み潰されちゃって……」 「いやあ、あれは困っちゃったなあ」 「セージ……聖十郎はああいう男なので、今さらながら申し訳ない」 「うふふ、いいんですよそんなこと。だってあのとき、あの人があんまりにもあれだから、私が思わず笑っちゃったの覚えてるでしょう?」 「なんだこれは。俺の足元にくだらん物を置くんじゃない。ゴミはゴミ箱に捨てておけよ」 「――て、すごい自信満々。全然悪びれないどころかお説教始めちゃうんだもん。ちょっとインパクト強すぎちゃって」 「剛蔵さんは怒って喧嘩になっちゃいましたけど、それも含めて忘れられないです、ずっと」 「聖十郎さんのことでいつも心配してくれて、今もこうして助けてくれて、本当にありがとうございます」 「剛蔵さんだけは他の人たちが何を言ってもあの人の友達でいてくれたから、そのことも私は嬉しかったんですよ」 「それは、いえ……はい」 「自分にとって、聖十郎は今も変わらず友人です。なのであいつがいない間、恵理子さんと四四八くんの力になるのは当然のことであり……」 「つ、つまり、諸々礼などいらんということですよ! がっはっはっはっは!」 「…………」 「…………」 意外な方向へ転がっていった話を前に、今度は俺たちも何か言う気は起きなかった。 今はただ、剛蔵さんの空元気を見るのが辛すぎて、とっくに野次馬根性などは失せている。 「戻ろう」 「……だな」 一気に沈んでしまった皆を促し、俺たちは母さんたちに気づかれないよう、再び店内へと戻っていった。 まったく、これは同じ男として真剣に遣り切れないぞ。 「なんていうか、すまんな晶」 「ん、いや別に、四四八が謝ることじゃねえよ。てか恵理子さんだって悪かねえし」 「だけどおやっさん、悲しすぎんぜあれ」 「四四八くんのお父さんとは友達だったんだねえ」 「ああ、全然知らなかったけど」 我ながら本当に馬鹿みたいだが、そんなことすら今まで分かっていなかった。そういう背景があるのなら、あの二人の関係が遅々として進まないのも当然と言えるだろう。 剛蔵さんは義理堅い人だから、今がどうだろうと友人の女を口説くなんて無理な相談なのかもしれない。 「ねえ柊くん、それなんだけどちょっといい?」 「立ち入った話で悪いんだけど、ご両親はその、今どういう……」 「関係かって? そこはちょっと面倒なんだよ」 「離婚はしてないし、親父が死んだわけでもない。いや本当は何処かでくたばってるのかもしれないが、それも分からん」 「つまり……」 「そう、蒸発だ。俺が生まれる前に行方くらまして、そのままだってさ」 そして法的には、ここまで行方が知れない人間は死亡したということに出来るはずだ。母さんがそういう手続きをやっていればの話だが、そのへんがどうだろうと実情はシングルマザーのようなものだろう。 だから俺にとって、親父なんてものはいないと同じだ。そんな感じで今まではどうでもいい存在だったが、ここにきてその認識が変わりつつある。 「あんま人の親捕まえてどうこう言いたくねえけどよ。ちょっと腹立つな」 「気にするな栄光。俺も同感だ」 何のケジメもつけずにいなくなって、生きているのか死んでいるのかも分からない。実際はた迷惑な話だろう。 「うちのババアは他所の男と浮気して出てったきり、縁も完全に切れてるからどうでもいいんだけどな。変な言い方だけど、そこについては問題ないんだわ」 「けど恵理子さんはあれ、どう見てもまだ惚れてるよな」 「たぶんな。剛蔵さんもそれが分かってるから何も言えないんだろ」 どういう意味でも、親父の存在が母さんたちの間で呪いのようなものになっているのは事実だった。 柊聖十郎―― 「そこまで思うほどの価値がある奴なのかは知らないけどな」 「まあ、並の男じゃないのは確かよ」 「へ、なにりんちゃん、四四八くんのお父さんのこと知ってるの?」 不意を衝いた我堂の台詞に、俺たち全員が反応する。するとこいつは、逆に驚いたような顔をしていた。 「何よあんた達、本当に知らないの? 柊聖十郎っていえば、有名な学者じゃない。まあ、それが柊のお父さんだっていうのは、私も初耳だったけど」 「宗教学、社会心理学、考古学、民俗学……つまり文化人類学全般の分野で名を馳せた天才よ。中でも語学は異常な域で、私たちと変わらない歳の頃には二十ヶ国以上の言葉が話せたらしいわ。まるでシャンポリオンかシュリーマンね」 「ふわー、それはその、さすが四四八くんのお父さんって感じみたいな……」 「けど、相当な偏屈だったって噂も聞くわ。そのあたり、恵理子さんたちの話からしても本当みたいね。基本人嫌いで、フィールドワークに出たっきり行方不明」 「なるほどね。風来坊みたいなもんか」 今、みんなの中では俺の親父が色々イメージされているのだろう。そしてそれは、大枠においてほとんど同じもののはずだ。 すなわち、社会不適合者。頭は切れたのかもしれないが、人として大事なことは何も分かっていない馬鹿野郎。きっとそんなところで、おそらく実体もその印象から外れてはいない。 ゆえに複雑で、解せない気分だ。前も思ったが、なぜ母さんはそんな奴をまだ愛しているのだろう。いくら俺たちが子供だからといっても、そこはやはり釈然としないものがある。 「あのさ、あたしからちょっと提案があるんだけど」 「恵理子さんを夢の中に誘ってみるっていうのはどうかな?」 「え?」 「母さんを?」 夢の中に連れて行く? 訝る俺たちに晶は頷き、そのまま言葉を継いでいく。 「つまるところさ、恵理子さんの気持ちはずっと宙ぶらりんになってるんだよ。いきなり旦那が居なくなって、何処で何してるのかも分からないまま、だけど四四八を抱えて生活していかなきゃいけないから、ひとまず全部棚上げにして頑張ってきたんだよ、きっと」 「だから、そこについては時間が止まったままっていうか、一歩も進めないでいるんだと思う。そういうのって、堪んないだろ? 何らかのかたちで整理つけないと、どうしようもないじゃん」 「それで夢に?」 「ああ、あそこなら恵理子さんが望めば、四四八の親父を連れてくることだって出来るんじゃないか?」 「なるほど」 そこで俺も合点がいった。要するに、母さんの気持ちに決着をつけるための手助けをするということか。 「まあ結局のところただの夢だし、親父さんだって実物じゃないから気休めって言えば気休めだけどさ、それでも何かのきっかけにはなるだろう」 「少なくとも、母さんの時間ってやつを動かすことは出来るかもしれないな」 「うん。その結果、やっぱり恵理子さんは親父さんのことが忘れられなくて、うちのハゲが玉砕するのは確定ってことになってもさ……今みたいな煮え切らない状態でだらだらいくよりはマシだろうって」 「そう思うあたしはお節介かな? 間違ってると思うか?」 「いや、俺もおまえと同感だよ」 お節介なのは確かだろう。だけど余計なこととは思わない。 「母さんは今でも親父に逢いたがってる。そのために手助けできることがあるなら、してやりたい」 「四四八くんはお父さんに会いたいって思う?」 「どうかな。だけど母さんは俺に親父を会わせたがってるだろうと思うよ」 親父が居なくなったとき、俺はまだ生まれてさえいなかったから、母さんはそんな俺を守っていくために自分の気持ちを犠牲にした。追いかけたかったし捜したかったはずなのに、想いに蓋をして十何年もやってきたんだ。 だけど今の俺は、もうそこまで子供じゃない。立派な一人前になったとはまだ言えないが、母さんのためにやれることがある。 だったら、それでいいじゃないか。恩を返す手段があるならやるべきだ。 「オレも賛成だぜ。もともと夢でやることの主旨を決めようって話だったし、第一回目のテーマとしちゃ申し分ないだろ」 「うん、わたしもそう思う」 「あくまで恵理子さんが同意してくれたならね。私としても反論する理由は全然ないわ。水希はどう?」 「私も、そうだね。恵理子さんが望むなら」 「決まりだな」 そういうことで、今夜の方針は決定した。俺たちは夢に母さんを連れて行き、そこで親父と再会させる。 それで大人たちの三角関係がどう転ぶかは分からないが、きっと今より前向きな未来に進むきっかけになるはずだと、俺たちは信じていた。 これが運命の分岐路となるに違いないと、俺たちは理解した上でこの道を選択したんだ。 けどそれを実行するにあたり、些細な問題が一つあった。 俺は母さんに自分の夢を話したことが一度もない。 今までは余計な心配を掛けないようにという理由でそうしてきたが、そのことがここではちょっとしたネックだった。母さんにとってはすべてが初耳なのだから、荒唐無稽な戯言にしか聞こえないはずだろう。 だからまずは何も言わず夢に引き込み、論より証拠の状況を作ってから話をしようかとも思ったけど、そうなると母さんの意向を半ば以上無視することになるので気が進まない。 そして何より、夢へ入るにはお互いの了解と、入りたいという気持ちが必須であるように思えたのだ。何の確証もないことだが、そうに違いないと感じている。 よって、結局のところ打てる手は正攻法。眠る前に家の居間で、そうした諸々を俺は正直に母さんへ話した。 結果…… 「私が四四八の夢に?」 「うん。信じられないのは分かるけど、これは本当のことだし、ふざけてるわけじゃないんだよ。俺にはそういうことが出来るみたいだ」 「そのうえで決めてほしい。本音で、母さんがどうしたいか」 「そこでなら、聖十郎さんに逢えるってことを?」 「あくまでも母さんが思い描く夢だから、本物ってわけじゃないけどね」 俺の言葉に、母さんは当たり前だが驚いているようだった。しかし見方を変えればそれだけで、馬鹿げたことをと否定しているような感じはない。 つまり、信じたいということだろう。それは言うまでもなく、親父に逢いたいという気持ちの表れに違いなかった。 「で、でも、そんないきなり言われたって……ちょっと待ってよ、いやだなもう、お母さん恥ずかしくなっちゃうじゃない」 「四四八は別に、私のことなんて気にしなくていいんだから……」 「そこは俺の問題でもあるって言ったろ? 母さんがしっかりしてくれないと、俺もおちおち一人立ちが出来ない」 「俺だってもう、小さい子供じゃないんだから。母さんには自分のことを考えてもらいたいんだよ。そういうの、今まで全部後回しにしてきたんだろ? だからさ――」 「私は別に、四四八と暮らしていくことで何かを犠牲にしたなんて思ってないわよ」 「うん、だったら余計にさ」 素直に、やりたいことをやってくれればいいと思う。このことがそのきっかけになればいいと、俺は考えているんだよ。 そう告げると母さんは困ったような顔をして、だけど照れた感じでぼそぼそと呟いた。 「ほんとに、ほんとに聖十郎さんと逢えるのかな?」 「たぶんね、そこは母さんの気持ち次第」 「四四八は逢いたい?」 「俺は……」 正直、個人としてはあまり興味もないんだが。 「母さんが、俺と親父を会わせたがってるのは知ってるよ。だからそういう意味でなら会ってみたい」 「ずるい言い方だなあ、それ」 「ごめん、だけど本音だし。母さんは逢いたいんだろ?」 問いに、母さんは俯いて、小さい声だったがはっきりと…… 「うん。逢いたい」 まるで晶や歩美たち、同年代の女子学生みたいな初々しさで頬を染めながらそう言った。 恵理子さんは時間が止まっていると晶が言ったように、そうした少女のままである部分を恥ずかしそうに覗かせている。 息子の身としては甚だ不適切な表現なのかもしれないが、俺はそれを可愛いと思った。 ならばもう、後は流れに任せるのみだろう。 「分かった。じゃあ今夜一緒に夢へ入ろう。いいね母さん?」 「はい。よろしくお願いします」 そんな風に畏まって礼をされると照れてしまうが、喜んでる母さんを見ると俺も楽しい。 「よし、だったら俺の持ち物を何か一つ枕の下に敷いてくれるといいんだけど、何か希望はある?」 「あ、うん。それなんだけど四四八、二つお願いしてもいいかな?」 「お願い? 何だよ?」 「そ、それは、えっとね……」 俺の問いに、母さんは事によったらさっきよりも照れた感じでもじもじしながら言葉を濁す。いったい何を言うのかと思いきや―― 「今日だけその、一緒のお布団で寝てくれないかなー、なんて」 「…………」 「…………」 え? 「だ、だからぁ、昔みたいに一緒に寝ようよ。四四八の持ち物とかそんなんじゃなくて、お母さんは本体が欲しいの! いいでしょ別に、それだって問題はないと思うし」 「い、や、それは、まあ……」 ボールペンだのハンカチだの、そういう物でもリンクすることが出来たのだから、当の俺と一緒に寝るのがアウトなんてはずはない。曰く本体なのだから、そうするのがむしろ一番確実とさえ言える理屈だ。 しかし、なあ、だからといって正直ちょっと…… 「母さん、俺もう、そんな歳じゃないっていうか……」 「四四八が幾つになっても私から見たら子供だもん。お母さんの夢を叶えてくれるって言ったんだから、言葉に責任持ってよね」 「だから、ねーねー、いいでしょー。よーしーやー」 ぱたぱた手を振りながら駄々をこね始める母さんに、俺はとうとう音をあげた。 「分かったよ。だけど絶対誰にも言うなよ。ほんとにこれは内緒だからな」 「うん。じゃあほらほら、お布団敷くからそこ片付けて」 「は? もしかして〈居間〉《ここ》で寝るの?」 「そうだよ。せっかくだから、四四八が小さかったときと同じ気分を出したいの」 「あんたあの頃は、夜に一人でトイレ行くのが怖いって言うから、なるべく距離が近い〈居間〉《ここ》で寝るのが普通になってたじゃない」 「あーもう、そういうの勘弁してよ。本人も忘れてるようなこと、いちいちほじくり返さないでもいいだろ」 「だってぇ、お母さんからしたら昨日のことみたいなんだもん」 「それはそういうものかもしれないけどさ……」 まったく母親ってやつには敵わない。言い返すことの無駄を悟った俺は、大人しく布団を運んで居間で寝ることにした。 「いいんだろこれで」 「うふふ、そうだね。じゃあおやすみ」 そして母さんが電気を切り、俺たちは一緒に眠る。 というか、早く眠ってしまおう。でないとなんだか恥ずかしすぎる。 「…………」 「…………」 「…………」 「……ねえ四四八、好きな子とかいる?」 「寝ろよっ!」 「えー、でも気になるんだもーん」 修学旅行の夜かこれは。近々ほんとの修学旅行もあるんだが、たぶんこっちのほうが何倍もキツいシチュエーションだぞ。 「晶ちゃんに歩美ちゃんに鈴子ちゃんに水希ちゃん、あんな可愛い女の子たちが四人も近くにいるんだから、全然興味がないってわけはないでしょう?」 「なんとなくでもいいからさあ、今のところ誰をロックオンしてるのかお母さんにだけ教えてみようよ」 「…………」 「よーしーやー」 「俺は寝ました」 ゆえにノーコメントだ。何も答えない。背中を向けて無言の圧力を発する俺に、母さんは悪戯っぽく笑っていた。 「まったく、そういうところは聖十郎さんと同じだよね。ぶっきらぼうで、つれなくて」 「だけど四四八、覚えておいてね。あの人に似ちゃっても、あまりいいことはないんだよ」 「だからこの先、さっきみたいな質問を大事な人にされたときは、ちゃんと答えてあげられる男の子になってね。それが私からの、お願い二つ目」 「…………」 「じゃあ、今度こそおやすみなさい」 「……ああ、おやすみ」 親父が好きで、親父に逢いたくて、だけど親父には似るなと言う母さん。 その言い分は矛盾しているものだったが、本音なのだろうなと俺は思った。 だから一応、頭に入れておくとしよう。これから会うことになる親父を見極められるように。 心の中でそう呟いて、俺は眠りに入っていった。 そして夢―― 俺たちは、事前に集合場所として定めていた八幡宮で顔を合わせる。 前回入ったときは昼間の光景だったけど、今回は時刻が夕方になっていた。そういう違いはあったものの他の部分に変わりはなく、欠員もいない。 「ようこそ、いらっしゃい恵理子さん。気分はどんな感じ?」 「え、えっと、すごいねこれ。本当に夢なの?」 「そうですよー。わたしたち全員、本物だから、幻のキャラクターなんかじゃないのです」 「なんだったら、恵理子さんが知らない学校でのこととか語りましょうか? 私たちが架空じゃないっていう証拠になりそうなネタなら、いくつか用意できますよ」 「う、ううん。大丈夫だよ、疑ってるわけじゃないから。ちょっとびっくりしただけで」 「まあオレたちにしたって理屈とか全然分かってないから、そこんところはしゃーないっすね」 「ただ、これでもう、いよいよ確定っていうか、〈夢〉《ここ》に来るのは〈偶然〉《マグレ》じゃないって証明はされたけど」 「だな」 そのうえで、今後この世界についての理解を深めていくための始まり。最初のテーマとして、俺たちは母さんへのお節介を選んだ。 「四四八の親父さんと初めて会ったのが〈八幡〉《ここ》なんすよね?」 「え、なんでそんなこと知ってるの?」 「ま、まあ、それはいいじゃないですか。当時のこと、よかったら話してください」 「柊くんから説明はされてると思いますけど、ここは夢だから思ったことがその通りになります」 「だから旦那さんのことを思い浮かべれば、きっと逢えるよ恵理子さん」 「そういうこと。別に母さん自身の外見まで若かりし頃に巻き戻さなくてもいいけどな」 「あ、でもわたしそれ見たいかも」 「今でも充分若々しいと思うけどね」 などと皆から色々言われて、中心に立つ母さんは真っ赤な顔で縮こまっていた。外見はともかく、気持ちの面では過去に立ち返っているのだろう。その影響か、今は晶たちに囲まれてもさほどアンバランスな印象を感じない。 「で、どんな風に親父と逢ったの?」 「う、うん。あのときは、そうだね……」 ゆっくり境内を見回して、感慨深げに目を細める母さん。思い出を噛み締めるように歩き始めたその背中に、俺たち全員が続くかたちとなった。 「新年だったから季節は違うけど、こんな風に綺麗な夕焼けの日だったよ」 「だからお空を見ながら歩いてたんだけど、私ドジだから人とぶつかっちゃって、眼鏡を落として、そのまま参拝客に流される感じで揉みくちゃにされちゃって……」 眼鏡が何処にいったのか分からなくなってしまった。 そうして途方に暮れていたところへ剛蔵さんが現れて、一緒に探してくれたという展開を母さんは楽しそうに語っていく。 それは俺たちも立ち聞きしていたから既知の情報だったけど、今は臨場感がまったく違った。当時の情景、参拝客の賑わい、メガネメガネと有名な漫画みたいなネタをやってる母さんと、慌てながらその手助けをしている剛蔵さん…… すべてが、目には見えないがリアルに感じ取れていた。そこはやはり夢ならでは、母さんのイメージが周囲に影響を与えているせいなのだろう。環境創造とまではいかないが、そっちの才能があるのかもしれない。 今回、夢の中が夕方になっているのも、きっとそのあたりが原因だ。母さんの主観がとても強く反映されている証に違いない。 「そしてね――」 話しながら歩いていた母さんが立ち止まり、俺たちのほうへ振り返った。 場所は八幡宮の一角、源氏池を渡った先にある弁財天社。 「ここで私、聖十郎さんに逢ったの」 はにかむようにそう微笑んで、出逢いのエピソードを語り終えた。 眼鏡は踏み潰されたうえになぜか説教されてしまい、それに怒った剛蔵さんと親父が喧嘩を始めたというメチャクチャなものだけど、思い出ってやつはいつだって美しい。 少なくとも母さんがそれを愛しく思っているのは、今も周りを包む暖かい雰囲気が証明している。だから俺たちも、野暮なことは言わずにただ頷いた。 「素敵な話ですね」 「うん。恵理子さん、すごい可愛い」 「ありがとう。でもなんだか私、恥ずかしいな。もうおばさんなのに、若い子たちの前でこんなこと話しちゃって」 「いや、全然そんなことないっすよ。オレだって、恵理子さんならむしろ今からでもお願いしたいっていうか――」 「黙りなさい大杉」 「痛ぇっ! ちょ、我堂――足踏むな、足!」 「ぷっ、ばーか」 「ふふ、あははははは」 弁財天は嫉妬深い。ゆえにそれと縁を持ったカップルは上手くいかないという伝説が日本中にあるけれど、誰もそんなことは突っ込まなかった。 親父と母さんは、確かに一般的な見方をすれば上手くいった夫婦じゃない。それが弁財天の呪いか何かは知らないが、今この場においては関係ないと思っている。 なぜなら母さんは、とても楽しそうに笑っているから。ここは夢で、俺たちの世界で、現実のタタリやジンクスなんかが入り込める場所じゃない。 柊恵理子が思い描く夢の続きは、幸せなものであってほしい。 ここにいる俺たち全員、心底そう願い信じていたんだ。 きっとこの場は、より良い明日に繋がるはずだと疑いなく、純粋に。 「で、でもよお、改めて考えるとアレだよな。あの厳つい晶のおやっさんと真っ向喧嘩できるっていうのは凄くね? オレなんか、今でもデコぴん一発で吹っ飛ばされる自信があるぞ」 「何を情けないこと偉そうに言ってるのよ。だけどまあ、確かに言われてみればその通りね」 「ていうかわたし的には、剛蔵さんが喧嘩したっていうのがそもそも意外なんだよね。見た目はそりゃあ、北方バイキングみたいでまさに蛮族って感じだけどさ、中身はとても温厚じゃない」 「そこはまあ、ほら、色々あんだよ。分かるだろ」 たぶん剛蔵さんはその頃から母さんに惚れていたから、親父の態度が許せなかったんだろう。晶と同じで争いは嫌いな人だけど、怒るべきときに怒れないような根性無しではないはずだから。 そう考えると、やはり心情的には剛蔵さんの味方をしたい。俺や晶が生まれて、この今がある以上、出逢いの根本から親たちの関係を否定することは出来ないけど、せめてこれからはと考える。 「柊くんのお父さんは、やっぱりこう、腕っ節が強い感じで?」 「ど、どうかな。背は大きかったけどね」 「剛蔵さんよりは小さかったって言ってたよな」 「そうね、だいたいこれくらい?」 頭上で掌を振りながら、おおよその身長を示す母さん。前に俺が予想したのとほぼ同じ、190前後というラインだった。 「へー、でもそれだって充分すぎるほど大男だぜ。マッチョじゃなかったんすか?」 「そこまでは。でも華奢ってわけでもなかったから、バスケットボールの選手みたいな感じかな」 「じゃあ絞まった長身なわけですね。それはそれで迫力がありますよ」 「剛蔵さんはプロレスラー体型だけどね」 「そりゃあれと喧嘩できるんなら貧相なわけはないよな」 「でもインテリだったと」 皆の間で、次々親父のイメージが固められていく。 傍若無人で、高慢で、十数年前の若い頃から学者として名を馳せるほどの頭脳を持ち、なおかつ剛蔵さんと喧嘩が出来るほどの身体能力を有する。 「なんかそれ、誰かさんと似てんだけどな。嫌味かよっていうくらい万能みたいな」 「四四八くんがだいたいなんでも出来るのって、そういう血筋のせいなのかな」 「そこらへん、恵理子さんはどう思うの? 四四八と旦那さん、やっぱ似てる?」 「ううん。私はそう思わない」 だが母さんは、きっぱりそのイメージを否定した。 「似てるところは確かにあるよ。私は頭も悪いし運動もからっきしだから、そういうところは聖十郎さんの特徴が四四八にいってよかったと思う」 「だけどそれでも、やっぱり全然違うのよ。あの人の一番印象的だった部分だけは……」 寝入る前、親父に似るなと母さんは言った。似てもいいことはあまりないと。 一番印象的だったという部分とやら、もしかしたら母さんは、親父のそこを何よりも愛しているのかもしれない。かつ矛盾するが、俺がその属性を持たないよう願っている。 すべて推論にすぎないが、俺は瞬間的にそう確信した。 そんな親父は――いったいどんな男なのか。 「続きは、何?」 見守り、促す俺たちの前で、母さんはそれを言った。 夢見るような、俺でさえ初めて目と耳にする顔と声で。 「ただそこにいるだけで、すべてを不安にさせる人」 「とても怖い、近づいたら誰でもまともじゃいられなくなるような人なのよ」 そのとき、俺たちは砂利を踏みしめる音を聞いた。 「あ……」 「日が……」 次いで、夕日が急激に沈んでいく。これほどあからさまな環境操作を出来る奴などこの場に一人もいないのに、有無を言わせず辺りが夜へと塗り変わっていく光景は暴力的ですらあった。 その中で、一歩、また一歩……こちらへ近づいてくる足音。 それは疑いようもなく、この瞬間に母さんが思い浮かべた夢の具現に他ならなかった。 すなわち、そう―― 「柊、聖十郎……」 そいつが今、俺たちの前にその姿を現していた。 弁財天社へと続く橋の上、長身の男が無言のまま立っている。 外見から窺える年齢は、今の母さんとさほど変わらない。つまり俺の父親として自然な域の、失踪から十数年を経た姿としてそこに在った。 年輪を感じさせる男の威厳。隙の無い気配は凍結した鋼のようで、顔立ちは整っているが非人間的なほど温かみというものを感じない。 酷薄で、冷厳で、威圧的な容姿ながら、なぜか幽鬼のように不確かな存在感を滲ませている。 ここに居て、ここに居ないような。固体のようで、気体のような。 夢の〈幻影〉《ビジョン》という意味ではそれも当然なのかもしれないが、直感的に違うと分かる。 これがこの男の特徴なのだ。先ほど母さんが言っていたことは的を射ている。 〈す〉《 、》〈べ〉《 、》〈て〉《 、》〈を〉《 、》〈不〉《 、》〈安〉《 、》〈に〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈男〉《 、》。 〈近〉《 、》〈づ〉《 、》〈け〉《 、》〈ば〉《 、》〈ま〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈い〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈男〉《 、》。 奇怪なアンバランスさを秘めた偉丈夫。柊聖十郎はただそこにいるだけで、周りの世界へ破壊を促す不協和音に満ちている。まるで壊れたまま完成した存在だから、見る者に自分もそうあることが自然なのだと勘違いさせるような…… 健常であることの自負を、捻じ曲げる男。 その印象は他の奴らもおそらく似たようなものだったのだろう。誰も何も言えない状態で、しかしただ一人だけ例外がいた。 「聖十郎さん……」 硬直している俺たちの横をすり抜けつつ、橋の上で待つ男へと母さんが歩いていく。やはり一貫して無言の夫に、涙を流しながら両手を広げて…… 「逢いたかった、逢いたかったよ……」 「ねえ私、役に立ったかな? あなたの妻として、恥ずかしくない女になれたかな?」 「お願い、聖十郎さん……答えてよ……」 「母さ――」 俺は何を言おうとしたのか。分からないまま反射的に伸ばした手は空を切り、母さんは男の胸へと飛び込んで…… 「愛してる」 月光が照らす橋の上、二人は抱きしめ合っていた。 どちらも俺たちの存在など意に介さず、お互いのことしか見ていない。 抱擁は感動的で情熱的。少女のように泣く母さんはとても綺麗で、少し儚く、それを抱きとめる男は泰然自若と揺るがない。 絵画のような光景で、魅せられるほど切なくて、だけど何か、これは何処かが〈歪〉《ひず》んでいた。 決定的な意識の断絶。それが二人の間にあるような気がして、俺は―― 「駄目、いけない」 傍らで世良が漏らした呟きは、あるいは俺たち全員の心を代弁したものだったのかもしれない。 「恵理子……」 初めて男が口にした言葉は、とても愛する妻の名を呼んだものとは思えないほど凍てついた、まるで路傍の小虫を踏み潰すかのような響きだった。 「使えん女だ、おまえは」 「え……?」 瞬、間―― 影が、抱き合っていた二人ぶんのシルエットが、その片方だけばらばらと崩れ落ちる。 達磨落としさながらに、脚が、腰が、胴が、首が……母さんの全身がばらばらと、ばらばらと。 迸る鮮血を撒き散らし、八つ裂きとなった身体がゴミのように池の中へと落ちていった。 「ひっ――」 「嘘……」 なんだ、これは? 「俺の役に立ったかだと? 馬鹿め、話にならんわ」 「うッ、――ああああああぁぁぁァァッ!」 その絶叫が自分の喉から出たものだとは思えなかった。何処か遠くで獣が吼えているかのようで、まったく現実味が存在しない。 無意識の反射に近い動きで俺は母さんを拾おうと駆け寄ったが、すでにすべては池の底へと沈んでいた。 後に残ったのはただ二つ、橋の上に広がる血溜まりと―― 「おまえが四四八か。なるほど、甚だ出来が悪い」 「恵理子も屑を産んだものだな」 「貴様……!」 返り血ひとつ浴びないまま、傲然と俺を見下ろすこの男だけ。 「何を、何をして、何なんだよおまえはッ! なぜ、こんな、母さんは――おまえを、ずっと……!」 愛して、想って、俺をここまで育ててくれて。 だというのに、これはいったい何の仕打ちだ!? 「おまえにとって、母さんは……!」 「妻だが、何だ?」 「それで何を俺に言いたい? どうして阿呆のように吼えている? 皆目見当がつかんな小僧」 「妻ならば、〈夫〉《おれ》の役に立つのが務めだろう。それで任を果たせなければ、価値など微塵も存在しない。ただ不快なだけの糞袋にすぎん」 「それは〈息子〉《おまえ》も同じことだ。〈父親〉《おれ》の役に立たなければ、その存在に意味などない」 「おまえは俺のためだけに生まれ、生かされている。他の理由などまったくないのだ。もとは俺の一部にすぎない以上、至極当然の論理だろう」 「愚図の血が混じった頭では、そんなことも分からんのか?」 「…………ッ」 溢れ出る憤激で舌が上手く回らない。思考は沸騰して何の切り返しも浮かんでこないが、ただ一つだけ確信できることがあった。 この男は、狂っている。 最初から絶望的に、感性が常人のそれとはまったく違う異常者だ。人の姿形をしていても、その魂は極彩色に膿み腐れてまともな会話すら成立しない。 母さん、母さん――こんな男にいったい何を期待していた。こいつの何処に、人として愛すべき部分があると言うんだ。 ごめん、俺には分からないよ。そして一切、分かりたいとも思わない。 俺はただ、今単に―― 「許さんぞ貴様、殺してやる」 柊聖十郎というこの男が、目の前にいることを全身全霊認められない。 俺のすべてを懸けて排除してやる。 「いいだろう。おまえの有用性を見せてみろ」 「俺の期待に応えられるか、恵理子の名誉を挽回してみるがいい――息子よ」 「俺は――」 かつてなく凄絶に、滾る戦意をもって夢を纏い咆哮する。 「おまえに息子呼ばわりされる覚えはないッ!」 それは十年以上にも渡る積み重ねを、この場で一気に爆発させる激情の発露だった。 「四四八……」  激昂と同時に殴りかかり、逆鱗の気配だけを残して聖十郎共々境内の方へと吹っ飛んでいった幼なじみの名を晶は呼んだ。すべてがあまりに唐突な出来事すぎて、理解がまったく追いつかない。  これはいったい何なのだ。自分たちはついさっきまで和気藹々と笑っていて、そのまま楽しくいけると信じていたから、こんなことが起きるなんて欠片も夢想だにしていなかった。  そう、まるで悪い夢。理不尽すぎて荒唐無稽な嘘っぱち。だからお願い、早く覚めて。みんな夢だから大丈夫だって、一刻も早く安心したい。  でないと、今回のことを最初に言い出したのは自分だから、どれだけ四四八に詫びても詫びきれなくなる―― 「――あっちゃん!  しっかりして、気をちゃんと持つの!」  両肩を掴んで強く揺すってきた歩美の声で、ようやく晶は我に返った。 「あ、……あゆ?」 「そう、分かる? わたしだよ? 呆けてちゃ駄目っ!  みんなワケが分からないのは同じなんだから、今止まっちゃいけないの!」  そこで晶は、騒然となっている周囲に気づいた。 「大杉、そっちはどう! 見つかった!?」 「駄目だ、全然見あたらねえ! ちくしょう、なんだよ恵理子さんが何処にもいねえよ!」  バラされて池に落ちた恵理子の身体を、鈴子と栄光は必死に探し、拾おうとしていた。それは狂気に近いパニックゆえの行動だったが、当然今の二人にそんな己を省みる余裕はない。  この場において、多少なりとも冷静さを保っているのは歩美と、そしてもう一人。 「――みっちゃん!」  晶から手を離し、歩美は無言のまま微動だにしない水希の肩へ手を置いて振り向かせた。 「これは何? どういうことなの? 何が起きたの? ねえ、分かる?  夢だよね? 夢だから大丈夫だよね? 今頃恵理子さん、〈現実〉《あっち》で目を覚ましてるはずだよね? そうなんでしょ? 違うの、みっちゃん!」  そうだ、これは夢だから何が起こっても現実の大事とは直結しない。晶もそう信じたいし、実際に橋の上の血痕はすでに跡形もなく消えている。それこそ、〈夢〉《ここ》が非現実だという証明だろう。  だけど―― 「答えてよ、お願いだから……」  歩美はそう思っていない。虚構の世界に慣れ親しんでいる彼女だからこそ分かるのか、この現象が絵空事ではないのだと芯では理解しているようだった。  そして水希もまた、同様に。 「柊くんを追うわよ」  歩美の問いには何も答えず、その手を振り払うように踵を返して水希は言った。弁財天社から境内へ、惨劇の場となった橋を渡り向かおうとしている。 「だ、だけど、このままじゃ恵理子さんが……」 「今はそんなことを言ってる場合じゃない!」  鞭のような声だった。それで弾かれたのごとく皆は黙り、張り詰めた空気が場を支配する。  凄愴で、激烈な、日常からはかけ離れた裂帛の気勢。まるで戦争の現実を未熟者に叩き込む古兵のような態度だった。 「この場の優先順位を考えなさい。今、一番危険なのは誰!?」 「あなた達、柊くんを一人にしていいとでも思ってるの? 彼なら大丈夫だって? そんなことはない!  だから追って、助けるの。全部任せて、見捨てるわけになんかいかない!」 「もう嫌なのよ……絶対駄目」  最後の台詞だけは自分に言い聞かせるように呟いて、水希は再び歩きだす。そうなればもう、否応もなかった。 「……分かったよ」  最初は栄光が、そして歩美も無言で続き、鈴子も彼らの間で視線を往復させた後、晶に言った。 「行きましょう。確かに水希の言うとおりかもしれない。  今はまず、柊を助けることが大事だわ」  だから恵理子のことは捨てて行く。死が夢だろうが現実だろうが、もういない者のことに拘泥している場合ではない。  それは反論不可能で、残酷なほど容赦ない真理だったが、しかし晶はそう割り切ってしまうことが悔しくて、辛くて…… 「ちくしょう……!」  誰に毒づいているのかも分からないまま、ぐちゃぐちゃになった心で鈴子に続いた。  池にはもう、波紋すらない。恵理子がいた痕跡は消え失せたのだ。  その事実を割り切ることなんて絶対しないが、四四八までそうさせるわけにはいかないという思いは皆と等しく持っている。  ならば確かに、ここで立ち止まっていては駄目なのだと……千切れるほどに分かっていたのだ。  そして――  八幡宮の境内に戻ってきた晶たちは、目指す人物をそこで見つけることが出来なかった。 「いない……?」  いや、違うそうじゃない。彼らは間違いなくこの近くにいるはずだ。濃密な気配と気配のぶつかり合う衝撃が、音ではなく感覚として伝わってくる。 「――あっちだ」  それに引かれながら駆けつけた舞殿で、晶は吐き気を催すような違和感の嵐に襲われた。 「な、ん……」  何処がどうとは即座に言えない。だがここは何か、決定的に自分が知る八幡宮とは違っている。  四四八の姿は相変わらず見つからなくて、しかし不吉な気配はいや増すばかりで、何もまったく分からないけど頭が粉々になりそうなのだ。  違う、おかしい、狂っている――この八幡宮は異形の様だ。  〈無〉《 、》〈い〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈か〉《 、》〈有〉《 、》〈る〉《 、》。  いったい、どうして…… 「大銀杏が……嘘でしょ」  鶴岡八幡の象徴でもある大銀杏。樹齢千年を超えるとも言われ、鎌倉幕府の成立前からこの地にあった神木は、2010年に強風という自然の暴威で薙ぎ倒されたはずだろう。  この偉大な歴史の証人を朽ちさせるのは忍びないという理由のもと、試みられた再生計画は確かに一応成功した。しかしそれでも、外見は切り株状となっていたのをこの場の全員が知っている。事実さっきまではそうだったのだ。  なのに断じて、このような……天摩する威容として聳え立っていたなんてことはない。  だというのに、これは全体どうしたことだ。聖十郎の出現と同時、世界が夜へと塗り替えられたあのときに再生したのか。いいやそれとも――  〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈薙〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈倒〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈前〉《 、》〈の〉《 、》〈状〉《 、》〈態〉《 、》〈に〉《 、》〈戻〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?  ならば、その意味するところは? 「〈第四層〉《ギルガル》……やっぱり、そうか。ここはもう」  呆然とした水希の独白に反応する者は一人もなかった。そんなことに心を向けられる精神状態では誰もない。  なぜなら一つの異常に気づいてしまえば、連鎖的に次から次へと分かってしまう。毛虫を一匹見つければ瞬時にその十倍は見つけられるのとまったく同じで、おぞましい違和感というものは意思に関係なく心をこじ開け、無防備な部分を侵食しながら広がるのだ。  舞殿の塗装が違う。敷石の形が違う。階段の凹凸が記憶よりも激しいように感じるし、全体の印象が古めかしくありながら新しいのだ。  これは一年二年の差異ではない。まるで自分たちが生まれる遙か以前――  あたかも百年以上は時が巻き戻っているかのようで。 「いつの時代だよ、これ……」  戦慄に震える晶の声は、異形の神域を激震させる戦意の爆圧によって掻き消された。 ここに至るまでいったいどれだけの拳を振るったか、もはやそれすら分からないしどうでもいいことだった。 百発だろうが千発だろうが、たとえ腕が木っ端微塵に消え去ろうが一切まったく関係ない。眼前の男を必ず粉々にしてみせると強く心に誓っており、ゆえに躊躇は欠片もなかった。 俺はこいつが――柊聖十郎を許すことが死んでも出来ない。 だから走れ、燃えろ滾れ。細胞の一片までも狂奔し、こいつを殺すために俺の夢よ駆動しろ――! 拳の弾幕を瀑布のごとく、一撃ごとに岩をも砕く威力を乗せて叩き込む。 過去最高の速度と重さを刹那の単位で塗り替えながら、なおも俺の攻勢はその激しさを跳ね上げた。自分がつい数秒前とは次元の違う場所にいるという確信の中で攻め続け、進行形の進化を自覚してからすでに数分は経っている。 強化が加速されているのは単純な身体能力だけじゃなかった。戦術、戦法、戦いに用いる思考と技術も正比例して研ぎ上げられる。まるで俺が、もともとそういう修練を人生懸けて積み重ねてきたかのように。 〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈頃〉《 、》〈の〉《 、》〈己〉《 、》〈を〉《 、》〈取〉《 、》〈り〉《 、》〈戻〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈ご〉《 、》〈と〉《 、》〈く〉《 、》。 人体の構造、筋肉の強張り。目線、呼吸、無駄なく合理的な体捌きから繰り出す急所への攻撃と、それを連続させる反射にも等しい挙動の数々。 間違いなく今、俺は戦場の住人だった。あらゆる面で安穏な学生などと呼べる域ではないことを理解している。 しかし、それでも届かない。 一撃たりとも、この拳を聖十郎に当てられない。 「――――ヅッ」 奴は一貫して棒立ちだ。構えを取っていないどころか、指の一本すら動かしていない。 にも関わらず、俺の攻撃は悉く弾かれていた。まるでこの男の前面に、見えない壁でもあるかのように。 紙より薄く、だが山よりぶ厚い立場の断絶がそこにある。あたかも聖十郎の精神が、俺とはかけ離れていることを証明しているかのごとく。 ゆえに怒涛の中で直感した。俺と奴が異なる夢である以上、まずはその本質を見抜かなければ千年攻め続けても意味がない。 見ろ――抉れ透視しろ。奴を構成している悪夢の精髄、その何たるかを〈詳〉《つまび》らかにして白日のもとに晒すんだ! 〈過〉《 、》〈日〉《 、》〈に〉《 、》〈加〉《 、》〈速〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈心〉《 、》〈眼〉《 、》〈が〉《 、》、現代の価値観を超えてついにそれを見通した。 柊聖十郎――〈五常〉《ごしょう》・急ノ段ニシテ極メテ危険。 ソノ〈邯鄲〉《かんたん》ハ逆サ〈磔〉《はりつけ》ノ十字ヲ成シ、六凶ノ内ニオイテモ深度甚ダ猛悪ナリ。 現状ニオケル戦力差ハ歴然ユエニ、勝機皆無ト断定スル。 戟法・楯法・咒法・解法・創法――皆悉ク魔人ノ域ニテ、我ノ器ト比シテ計ル事ナド不可能デアルノガソノ証。 重ネテ断ズル。勝機皆無。 生存ヲ優先スルナラ逃走スルヨリ道ハ無シ。 ソノ成功確率スラ零ト見テ間違イ無キ程ト言ッテヨシ。 不可能。不可能。不可能。不可能。 勝機皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無皆無――――― 戦闘ノ続行ハ必敗ト死ヲ意味スル。 ―――ふざけるな! 勝てないだと? 負けるだと? 死ぬから逃げろ? 逃げてもまず失敗するだと? 戯言をほざくんじゃない! 「俺は――」 こいつを斃すと決めている。必ず死で〈贖〉《あがな》わせると誓っているから、退くことなんか有り得ないんだよ。 たとえ俺がどうなろうとも、我が身可愛さでこの決定を曲げて堪るか! 柊聖十郎―― 「貴様を許さんッ!」 渾身の力を込めた右拳が、そのときついに見えない障壁を突き破った。 かに見えた、しかし結果は…… 「やはり屑の腹から産まれれば屑か」 「これではとても、俺の血を引いていると思えんな」 俺の拳を無造作に掴み止め、こいつは侮蔑も露に嘆息していた。 さして力を込めているとも思えないのに、焼けた鉛を流し込まれているかのような激痛が全身を走り抜ける。 文字通り、俺はそのまま一歩も動くことが出来なくなった。 「なあおい、小僧。貴様本当に俺の子か?」 「恵理子は剛蔵の胤でも受けていたのではあるまいな。まるであの、つまらん能無しを思わせる惰弱さだよ」 「こんな様では、〈四四八〉《イエホーシュア》などと名乗れまい」 「―――――ッ」 今、こいつは何を言った? 母さんが? 何だって? 俺は自分が、貴様の息子だなどと欠片たりとも思っちゃいないが、それでも今の台詞は有り得ない。 一線なんかとうの昔に超えていたが、さらに限界を突破されるとは思わなかった。これほどの侮辱。信じられない暴言。 こいつはそこまで母さんたちの尊厳を踏みにじるのか。 「――貴様ァァッ!」 怒りで痛みを忘却し、空いた左手で殴りかかるが苦もなくそれは弾かれた。蹴りもやはり同様で、この至近距離だというのに何の打撃も与えられない。 こちらの動きに対応してくる以上、こいつも運動能力を強化しているのは間違いないが、それと同時に鉄壁の防御も行っている。 つまり最低でも二つ、聖十郎は夢を並列させているのだ。俺には不可能な芸を呼吸同然に行使している。 「この期に及んで序から這い上がることすら出来んとはな」 「よい。僅かでも期待をかけた俺が愚かだったのだろう。茶番の始末をつけるとするか」 「ごッ、はああァァッ!」 そのとき、下方から跳ね上がった拳に鳩尾を撃ち抜かれた。アタックに集中していた俺は耐え切れず身体ごと宙に浮くが、右手を掴まれているせいで吹っ飛ぶことも出来ない。 全身がばらばらになりかねない衝撃は、断じて単純な力だけのものじゃなかった。殴りながらキャンセルを使い、俺の存在ごと砕こうとしている。 そしてそのまま、奴は軽々と俺の身体を振り回し―― 「共に死ね。俺を失望させた報いを受けて貰おう」 木っ端屑のように投げ捨てる。敷石を砕きながら転げ飛び、舞殿に激突した俺の周囲には晶や栄光、皆がいた。 「馬、鹿やろう……何してる、逃げろ!」 このままでは一網打尽だ。こいつらまで巻き添えを食わせてはいけない。 「早く、聞けよ……呆けるなアホども!」 だというのに、俺の身体はまったく動かず、言葉さえまともに出せない。先の一撃で視界は眩み、内から崩れていくような感覚さえある。 立て、立て、立て、立て――! 夢なら俺の思い通りに無茶を起こせよこのくそったれ! 今こそ意志の力を示さないでいつやるんだ。そう魂から自分自身を叱咤しているにも関わらず…… 「どだい、夢は夢にすぎんか」 破滅の一撃が放たれる寸前、俺の身体はもはや痛みすら感じることも出来なかった。 「柊――」 「四四八くん!」  倒れた四四八の傍に駆け寄って助け起こそうとしたときには、すでにすべてが手遅れだった。 「どだい、夢は夢にすぎんか」  うっそりとそう呟いて、こちらに手をかざす聖十郎。そこに膨大な熱量が集約され、弾けようとしているのは誰の目にも明らかだった。  あれは火砲だ。念じるだけで生身から指向性の衝撃波を放つなどまさに夢だが、ここではそれが当たり前に実現する。  そして、聖十郎の技量は自分たちを遙かに上回っていると理解していた。  喰らえば跡形も残らない。 「――駄目」  どうするべきか。逃げても間に合わない。  ならば、と晶が咄嗟に選択したのは、自らが盾になること。  この場でもっとも守りに特化しているのが自分であり、ゆえにこうするしかもう手はない。確実に自分は死ぬが、もしかしたら他の皆は守れるかもしれないからと……  覚悟を突き抜けた反射の域でそう判断し、射線上へと立ち塞がったまさにそのとき。  神ならぬ者の手が、地の底から湧き上がった。 「〈Sancta Maria ora pro nobis〉《さんたまりあ うらうらのーべす》  〈Sancta Dei Genitrix ora pro nobis〉《さんただーじんみちびし うらうらのーべす》」  幾千万、億を超える虫が羽音を立てるような歌い声。  聞いているだけで苛立ちを煽るような、不快で神経を逆撫でする音だった。  そして何かが焦げるような硫黄の匂いが周囲一帯に充満していく。腐乱死体の腹を歓喜しながら這いずり回り、糞を貪る死出虫にも似た穢れの気配。  何かが、来る――それは結果的に聖十郎の動きを止めたが、晶たちの救いとなるものではないと分かっていた。 「まさか……」  強張り、掠れた水希の声は、しかし抑え難い興奮に爛れている。  ようやく、ようやく見つけたと。絶頂にも似た痺れに全身を震わせた。  輪唱する〈蝿声〉《さばえ》がそれに対し言っている。  希望を持ったな。縋ったな。楽しい、嬉しい。ああ素晴らしい日々――幸せの世界。  〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈強〉《 、》〈い〉《 、》〈彼〉《 、》〈が〉《 、》〈好〉《 、》〈き〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈今〉《 、》〈度〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈願〉《 、》〈い〉《 、》〈は〉《 、》〈叶〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈夢〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》。  であれば地獄の歯車は回転する。自慢の商品を手に携え、何処へだって速やかに参上しよう。  さあ、愛しい君よ。極上の〈混沌〉《べんぼう》を味わえ――  さらなる下層から時代を飛び越えて這い上がってきた悪夢の霧が、ここにその姿を現した。  晶も、鈴子も、歩美や栄光も同様に、それと対峙した瞬間、たったひとつの感情に支配された。  怖い―― 魂に刻まれた恐怖の中枢を〈鑢〉《やすり》で削られるような気がしてくる。  まるで〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈に〉《 、》〈殺〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》。  ありとあらゆる残虐の果て、芸術的なまでの悪意をもって蹂躙された瞬間を覚えている。  あれはそう、あれの名は…… 「無貌か……何の用だ。貴様を呼んだ覚えはないぞ」  顔無し。〈神野〉《じゅすへる》。〈黒い放射能〉《チェルノボーグ》……あれを知る者らは様々な名で呼び、あれも自身を無数の名で装飾していた。  しかしその実、芯となる概念はただ一つ。  すなわち破滅の導き手という共通項に他ならない。  魔王の銘を冠するあれは、破壊神という能動的な暴圧ではなかった。誘惑し、堕落を煽り、狂騒の中で絶望していく混沌の渦を演出する地獄の道化師。  誰の味方でもなく、誰を敵視しているわけでもない。すべてを嘲笑っているだけの愉快犯で、ゆえにもっとも危険極まる。  この夢界に起こる戦乱の中心で遊ぶ悪魔だ。 「セージ、セェェェジ、君はどうしてそうせっかちなんだい。蕾にすらなっていないものを前に、花じゃないから駄目だと諦めてどうするんだよ。  捨て鉢になってはいけないな。その悲観的なところが君の魅力なのは僕が誰より認めているけど、見切りが早すぎると演出家として泣いてしまうよ。  君の夢は、まだ終わっちゃいない」  優しく恋人を口説くように、無貌の闇が語りかける。氷塊を思わせる聖十郎の気配が、そこで僅かに揺らめいた。 「それで貴様、俺を止めに来たというのか。  要らぬ世話だな。盟は結んだが指図される謂れはない」 「確かにそれはそうだがね。しかし僕にも契約を履行する義務がある。  君に至高の絶望を与えてやると約束し、君も僕にそれを望んだ。途中下車なんか許さないよセージ。君の破滅は僕のものだ。  まさか怖くなったわけでもないだろう。君ほどの男がねえ」  挑発と言うには親愛の情がこもりすぎ、忠告と言うには悪臭がありすぎた。  まるで王侯が愛でる宮廷の皿に盛り付けられた糞便の山。この男が並べ立てる言葉には、そうした印象が付きまとう。 「ほざけよ。貴様の趣味がぬるすぎて眠気を催しただけのことだ。  そちらこそ、名折れとならぬようにせいぜい気張れ。俺の役に立つ限り、俺の道具となる名誉をくれてやろう。  貴様の飢えは、そうすることでしか満たされまい。己は〈使える〉《つよい》と、常に証明しなければ存在すら出来んのだろうが」 「ああ、もちろん――そのつもりだよ。きひひ、ひひはは、あははははは!」  けたたましい笑い声を響かせて、僧衣の悪魔が身をよじる。聖十郎はそれを鬱陶しげにしながらも、己の傍に立つことを咎めない。  そこから察せられる事実は一つ。彼らは同盟しているのだ。たとえどのような意図、異常な目的がその先にあったとしても、合意のもとに協調していることは間違いない。  ならば、この後に続く展開はいとも簡単に予想できる。 「さあ、それじゃあ――」 「この餓鬼ども、どう料理するのだ?」  事態は何も好転してない。むしろ輪をかけて劇的に、破滅の〈輪舞曲〉《ロンド》が〈指揮棒〉《タクト》を受けて走りだす。 「みんな、お願い――」  欲情に濡れた瞳と倣岸に凍った瞳。二対の眼差しを受け止めて、水希はぽつりと呟いた。  静かに、だがぞっとするほどの熱を込めて。 「ここから、一歩も動かないで」  刹那、彼女は一陣の〈颶風〉《ぐふう》と化した。 「――水希ッ!」  思わず叫んだ声は制止を促すものだったのか。やめろ行くなあれは自分たちじゃ斃せないと、〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈感〉《 、》〈情〉《 、》に衝き動かされて晶は手を伸ばしたが、それをすり抜け水希は走る。  同時に、周囲を半透明の壁が覆った。 「なッ――」  瞬時のうちに展開し、倒れた四四八も含めて皆を取り囲んだのは水晶を思わせる障壁だった。それがドーム状に形成され、晶たちを守ると同時に彼らをこの場へ閉じ込める。  手を出すな。そこにいろ。足手まといだ来るんじゃない。  突き放すように冷徹で、しかし切ないほどに皆を案じる心の形。現状、仲間の内で最高の物質創造力を有する水希が生んだこの壁は、残された晶たちに壊せるようなものではなかった。  ゆえに必然、彼らは何も出来ずに水希の孤剣を目撃することとなる。  勝機などあるはずもない、滑稽でさえある戦いを。 「――行くぞォォォォオッ!」  咆哮は憎悪に燃え、完全な殺意の色に染まっていた。先ほど聖十郎に対していた四四八と同等――いいやそれ以上かもしれない密度の憤怒。  普段の穏やかな少女然とした水希からは想像も出来なかった。彼女の中にこれほどの激情が潜んでいたなんて信じられない。晶はそう思ったし、他の者たちもそうだろう。  だが、当の水希にとってはどうなのか。どの世良水希が本当なのか。  あるいはこちらこそが本質で、普段の彼女こそ仮面にすぎなかったのかもしれない。  灼熱した刃のような烈風。限界値を遙かに超えた怒りで焼かれ、ぼろぼろに崩れそうな危うい剣だ。  何度も何度も、数え切れないほど割れて砕けて磨耗して、それでも戦おうとしているかのよう。すでに自滅の様相など飛び越えている。  まるで何かを償うみたいに。  もがき続けることしかもはや頭にないかのように。  水希は今、端的に纏めれば狂っているとしか思えなかった。  その狂気たるの根源へ、絶叫と共に斬りかかる。 「神野、明影ェェッ!」  絶望の腐臭を撒き散らす黒い神父へ、聖十郎など眼中にない。  諸悪はすべてここにあると、渾身こめた一撃が、神野を頭頂から真っ二つに断ち割っていた。  手応えは微塵もなく、霞を斬ったかのような虚無感だけを手に残して。 「弱い、なあ……」  水希の剣はこの男にまったく効かない。それは脅威のキャンセル性能による結果なのか。まるで悪意の塊である己を殺意で折伏することなど不可能だと、億万の蝿が言っているかのようだった。  あるいは、水希の怒りこそが自らの糧になると。  いずれにせよ、愛を感じる――たとえ微塵に刻まれようと、神野明影はそう謳いあげて狂喜するに違いない。 「百年経ってその程度かい? 弱い弱い弱いなあ! なんて愛しいんだ水希、ああ水希――僕の恋人よ。  変わらず綺麗な君に逢えて、実に僕はこう、いきり勃つじゃないか。きひははははははははは!」 「くッ――」  おぞましい哄笑を掻き消すべく、横薙ぎに払われた白刃は、しかし聖十郎に素手のまま止められた。 「察するに、これが生贄か? 貴様らの邯鄲に捧げられた結末の一つ。  ならば歯車は滞りなく回っていると、そう解釈していいのだな?」 「そうだよ――だが野暮だぞセージ、邪魔をしないでくれないか。これは僕のものなんだよ。  たとえ君でも、間男の真似は許さないからね」 「くだらん」  乱杭歯を剥いて息を荒くする神野の様は、まるで涎をたらしながら餌を求める病犬だ。見るも汚らしいその剣幕に、聖十郎は鼻を鳴らして首を振る。 「こんな雑魚に興味はない。貴様の好きにすればよかろうが。  演出家とやらの手並み、俺はしばし観察させてもらうとしよう」 「もっとも、それ次第で即刻同盟は破棄だがな」 「―――――ッ」  腕を返した聖十郎の一挙動で、水希は上空に投げ上げられた。武器を奪われなかったことは幸いだが、それにたいした意味があるのか。 「了解だ。それでは少し、今から〈掻〉《 、》〈き〉《 、》〈混〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈て〉《 、》〈み〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》」  〈戦闘〉《あそび》は続行。肥溜めではしゃぎ回るような神野は何かを狙っている。  その正体は分からないが、やらせていいわけがないのは明白だから水希に選択の余地はない。 「叩き潰してやる……!」  そして彼女自身、ここで退く気は毛頭なかった。  勝機も戦術も知ったことではない。あれを前にしてそんなことを打算する精神などは、とっくの昔に喰われているのだと言うかのように。 「叩き潰してやる――負けて堪るかァッ!」  悲鳴を思わせる絶叫は、まるで底なし沼に沈む断末魔のようだった。  連続する剣閃、剣閃。縦横に走る軌跡は一呼吸の内に数十撃の死風と化して神野明影に襲い掛かり、その悉くがまったく何の効果もなかった。  四四八と聖十郎の戦いとはまた違った意味で、しかし戦況は同じ様相を呈している。  すなわちどれだけ攻めようと有効打を与えられず、局面を打開する手段もない。にも関わらず硬直した思考が退却を認めず、闇雲に特攻を繰り返すだけ。  つまらない、無様で醜い悪足掻きだ。ゆえに聖十郎は茶番と断じて早々に終わらせたが、神野はそれを天上の恍惚であるかのように毒花めいた笑顔を浮かべて楽しんでいる。  違いはそこだけ。そしてその差は、水希にとって極悪な未来へと直結していた。  神野は水希を殺さない。彼女を見切って、廃棄したりは断じてしない。  ただ愛でる。弄ぶのだ。愚かで愛しいこの恋人を。  その憤激が美しい。その悲嘆が煌いている。血みどろの糞山でもがき続けるその不屈は――ああなんと麗しいことだろう!  永遠に、永劫に、回り続けろ逃がさない。君は〈永久〉《とわ》に僕のもの。  〈愛〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》!  滴る膿汁のような狂熱が異常な濃度で、片時も休まず神野の全身から放散されているのをこの場の全員が感じ取った。  それを隠す気がないのだから、誰にだって分かるだろう。神野の思考はだだ漏れしている放射能だ。内でぐつぐつとメルトダウンを繰り返し、世界を謳歌するように己が悪夢を垂れ流す。周囲のすべてを毒しながら。 「見せつけてくれ」  刻まれながらもっともっと乱れてくれと懇願する。  あるいは、自らが滾り立つものを見せつけたいのか。 「強くなった僕を愛してくれ」  今や隔絶したこの実力差こそ、二人の赤い糸だと言うかのごとく。  足場の敷石を突き破って現れた糞尿塗れの黒い槍が、水希の背から気管を走り、口蓋までを一気に斜めへ貫いた。 「がッ―――」  串刺しとなって宙に縫い止められた水希はしかし、物理的な傷を負ってはいなかった。傍から見れば絶命必至の惨状だが、いかなる魔業か血の一滴さえ流れていない。  抉るのは精神。犯すのは魂。肉体的なコミュニケーションなど即物的にありすぎて、己の愛を表現するのに適さない。  悦楽に飢えた神野の眼球は、芋虫のようにのたくりながら百万言を凌駕するほどそう言っている。 「君はどうして自分自身に嘘をつくんだ」  何もかも知っているぞと、腹の内側まで暴くように。 「仲間との再会が嬉しい? それを守りたいと願う? 力を合わせて僕たちの〈邯鄲〉《ユメ》を滅ぼし、希望に溢れた未来をその手に掴み取る? くはは――嘘嘘。ほんとは欠片もそんなことを思ってなんかいないくせに。  僕は全部見てるんだよ。たとえば君が、彼と再会した夜に何をしてたか」 「――――ゥッ」  そのとき初めて、水希の顔に恐怖が走った。内臓ごと口を貫く穢れた槍で言葉を紡ぐことは出来ないが、何を言おうとしているのかは容易に分かった。  やめて。知らない、言わないで。私はそんなこと思っていない。  全力の否定と懇願。だがそれは、悪魔を昂ぶらせる役にしか立っていない。 「君は股から淫汁を滴らせ、身悶えしながら一人で〈褥〉《しとね》に狂っていた。ああ柊くん柊くん、抱いて犯してメチャクチャにして――いいねえ。いいねえ、いいねえ……いいねえ!  妬けるなあ! きひゃはははははは――――無理をするなよ君に高潔な戦士の役なんか似合わない。強い男を飾りみたいに侍らせて、それが自分の価値なんだと股ぐら疼かせてりゃァいいんだよォォ!  なあ、それとも……」  不意に声の調子を落して、神野は水希の顔を覗き込んだ。その目と抑揚は虚無的で、先ほどまでの狂騒的な態度とは次元の違う深淵を覗かせていた。 「〈誰〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈傷〉《 、》〈つ〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?  〈本〉《 、》〈音〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈真〉《 、》〈実〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》?」 「違ッ―――」  そこがもう、限界だった。 「てめえ、いい加減にしろよこの変態野郎ッ!」  水晶の壁を殴りつけて、怒声をあげたのは晶だった。恐怖は依然として拭えないが、それがどうでもよくなるくらい猛烈に怒っている。 「べらべらべらべら、ワケ分かんねえんだよ日本語喋れ! あたしら放置して勝手に意味不明な話進めんな!  特に水希――おまえだよ!」  唐突に名を呼ばれ、びくりと串刺しのまま目を見開く水希。怯えた顔をしたクラスメートに、晶は短く、強く言った。 「気にすんな。あたしを巻き込め。  おまえ、やってることが中途半端なんだよ」  分からないことは無数にある。この現状、恵理子の生死。神野と聖十郎。水希の怒りとその言動から匂う数々。  断片的に知っているような感覚に囚われはするものの、今のところそれらはすべて不明点だ。先も言ったとおり、ワケが分からない。  だけど、分かってしまうことも等しくあるのだ。 「力になれるか分かんねえけど、手を貸すから助けさせろ」  水希は助けを求めていた。  ずっとずっと、それこそひょっとすれば出会う前から。  ならば、と晶は考える。自分は水希をどう思い、どうしたいのだろう。  不思議なことに、溢れる感情は掛け値なしの感謝だった。  よくぞ自分を頼ってくれた。そして心から思う、ありがとう。  〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈お〉《 、》〈陰〉《 、》〈で〉《 、》〈今〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。その恩に報いたい。  理屈を無視して湧きあがる、それが本音なのだと知ったのだから。 「そうだよみっちゃん、ここまで引っ張ってきて仲間外れにしないで」 「超おっかねえけど、ここで見捨てるのは超ダサすぎて有り得ねえよ」 「ていうかムカつくのよね。ちょっとくらい年上だからって姉さんづらしないでちょうだい」  晶に続き、皆もそれぞれ同じ気持ちであることを表明する。現状の不理解を飛び越えて、なお全員が水希の救済を選択したのだ。  まるでそれが、そもそも自分たちの使命だったと思い出したかのように。  誰も水希を迷惑だなんて思っちゃいない。  〈出〉《 、》〈逢〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈よ〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈欠〉《 、》〈片〉《 、》〈も〉《 、》〈考〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「み、んな……」  串刺しにされた水希の目から涙が一筋流れ落ちた。そして倒れる四四八もまた、無言のまま同意するように強く鼓動を響かせる。  次の刹那に起きたことは、そのどちらが行ったのだろう。分からないが…… 「ごめん、ありがとう……」  黒い槍も、水晶の壁も、まったく同時に砕かれて雲散霧消したのだった。 「――っしゃァ、今行く!」  〈磔〉《はりつけ》から解放された水希はその場に倒れ、それきり動かなくなっていた。状態が不安でならないが、死んだわけではないだろう。まずはともかく、彼女の身柄を確保しなくてはならない。  ゆえに駆け出そうとした晶たちは、しかし次の瞬間に停止せざるを得なくなった。 「え、なに……?」 「これは……」  極大の違和感が全方位から押し寄せてくる。それは初めて聖十郎が現れたときと同じ、この世界が変質していく前兆の現象だった。  いやむしろ、これまで半端だったものが今ようやく変わりきろうとしているかのように。 「危ねえ――ッ!」  同時、発生したのはまるで砲撃を受けたかのような爆発と火柱だった。  咄嗟に回避はしたものの、爆風に煽られて全員が吹き飛ばされる。共に倒れた水希と四四八の間で分断された形の晶たちは、その位置的な危険さよりも世界の変質に度肝を抜かれた。  轟く雷鳴と、大粒の〈雹〉《ひょう》が降りしきる嵐の夜。そして其処彼処に発生している火柱の照り返しは、その中で狂騒している無数の影を浮き彫りにし始めていた。  十や二十どころではない。数百、あるいは千以上――それだけの者たちが乱れ合っているこの様は、まるで…… 「どうやら、ちょうど誰かがやり合っている最中だったみたいだねえ」  まるで、戦場。徐々に厚みを持ち、実体を得ていく影は悉く武装して争っていた。その光景を見回しながら、おそらくこれを演出した神野が嗤う。 「運が悪い、それともいいのか? 比較的平和なこの〈第四層〉《ギルガル》で、まさかこんな瞬間を引くとはねえ」 「もういい、三文芝居はそこまでにしろ」  戯言は聞き飽きたと、聖十郎が割って入った。口調も台詞も鷹揚だが、一貫して不機嫌げな鉄面皮であった顔が、凄惨に笑っている。 「低俗な見世物だったが、貴様の手並みは見せてもらったぞ。〈入〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》?」 「ああ、セージ。これで再スタートは決定したよ。さあ、今度はいったい誰が最後まで残るかな。  僕か、君か、〈戦真館〉《せんしんかん》か? それとも〈空亡〉《くうぼう》? 〈神祇省〉《じんぎしょう》? いやいや〈辰宮〉《たつみや》のお嬢さんだって侮れない。〈鋼牙〉《こうが》の連中なんかどうだろう。  あんめい、いえぞすまりあ―――ああ、僕の〈恋人〉《まりあ》! 水希よ、君は素晴らしい。 再びこの〈混沌〉《べんぼう》を渇望してくれたことに心から礼を言う! 望ましい未来を目指して共に踊ろう、播磨外道だ!」  声高らかに謳う神野は、すでに場の混乱そのものへと目を向けていた。そこは聖十郎もまったく同じ。  戦が始まる。それにこれから身を投じると、全身で喜々と笑いながら褒め讃えていた。  つい先ほど、晶たちがそうであったように。  巻き込んでくれてありがとうと、水希に感謝を捧げているのだ。  そして今―― この場この時間軸で争っていた者たちが、ついにその姿を顕現させる。いいや、周囲が彼らと同じ位相に入ったのだ。  嵐を震撼させる圧と共に、轟雷もかくやという咆哮が迸った。それに伴い、無数の軍勢が荘厳とさえ思える蛮声を張り上げる。  〈万歳〉《ウラー》、〈万歳〉《ウラー》――響き渡る〈鬨の声〉《ウォークライ》。津波のような熱と戦意の斉唱は、彼らの王に対する忠誠であり恋歌だった。  その絶対的なカリスマ性、一糸乱れぬ統率力は人のそれより獣群の長を連想させる。神野と聖十郎に続く第三の勢力は、人外の将器と配下を有しているのだ。  それは戦車……なのだろうか。雷光にぎらぎらと輝く鋼鉄で組み上げられた装甲車両は、一見して玉座のようですらあった。  優美でありながら暴的。インペリアル・エッグを思わせる精緻な拵えは骨董品にさえ見えるものの、浴びた殺戮の数が尋常ではないことをむせ返る血の匂いが証明し、紛れもなく最新鋭の現役であると主張している。  その上で、馬車にも似た形態を取っているのだ。しかも車両を引いているのは馬じゃない。  狼、それも虎より巨大な――もはや怪物と形容するしかない双頭の黒狼が、地獄の番犬でもあるかのように口腔から炎を吐きながら魔性の双眸を黄金色に燃やしている。  絢爛暴虐。定義するならそうなるだろう戦の車輪だ。そしてその座に腰を下ろし、美と力を〈恣〉《ほしいまま》にしているのはやはりそうした印象の存在だった。  いや……“彼女”が放つ威光こそに、配下がそのまま染まっていると見るのが正しいだろう。 「誰かと思えばチェルノボーグ……貴様未だに小賢しく飛び回っておったのか、目障りな黒蝿が。  次に私と会ったときは、容赦せんと言っておいたはずだがな」  流れ落ちる〈白金〉《プラチナ》のような髪の下、絶世の美貌がこの戦場を睥睨していた。雪原のごとき純白の肌は戦火の中にあっても穢れ一つなく輝いて、雪の妖精めいた麗々しさをその〈顔〉《かんばせ》に湛えている。  しかしそれでありながら、発した言葉は尊大な男口調で柔さ甘さなど微塵もない。結晶化した吹雪を思わせる瞳も同様、零下に燃え、彼女が捕食者であることを何より雄弁に語っていた。 「キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワが問う。貴様、何故あって我と我が子らの〈聖餐〉《いくさば》にその穢れた足で踏み入った。  道化の戯言は愚弄と断じ、死を裁定するぞ。心して答えい」  瞬間、凄まじい魔力が華奢な肢体から〈横溢〉《おういつ》した。  口調は静かであったものの、そこから伝わる破壊の気配は黒狼の轟哮よりもなお激しい。外見からは想像もつかない超獣めいた迫力を前に、その余波に触れたというだけで地鳴りにも似た鳴動が起こる。  だが、女王の烈気に直撃されたはずの神野はしかし、涼風でも浴びるような様子で変わらず慇懃に笑っていた。 「牙の姫君が僕ごときを覚えていてくれたとは光栄だが」  しかし、刹那―― 「あ……?」  何か、視認できない凶風が走り抜けた。いいや、それは風ですらなかったのかもしれない。  猛り狂う嵐の中、一粒の雨にも雹にも触れないまま、何かが通ったという気流の乱れさえ起こさずに透明の閃光が駆けたのだ。質量がないのは無論のこと、外部からの干渉をあらゆる面で無効化した〈零〉《ゼロ》の奔流―― 「う、おぉ……痛い、痛いぞ、あはははははははは―――!」  ただ一つ、標的への攻撃のみは別にして。  暗殺という所業の極みとも言える一閃が、神野の首を音も無く刈り飛ばしていた。のみならず、まるで異界の毒物でも流し込まれたかのように内からその身が爆散する。  神野明影に物理は効かない。その印象が覆された瞬間だった。殺意の域を遙かに超えて研ぎ上げられた〈無謬〉《むびゅう》の業が、悪魔の霧に紛れもない痛打を浴びせた。  そして、それだけでは終わらない。  玉座にあるキーラ目掛けて、全方位から白刃の雨が降り注いだ。瞬前まで何も存在していなかったはずなのに、具現した百を超える剣の乱舞は決して幻などではない。一つ一つが鉄をも両断する凶気を帯びて、獣姫を鏖殺せんと槍衾にする。  それら二つの異常に対し、最後は朴訥ですらある拳撃だったが、ゆえにぬるいとは断じて言えない。  流麗かつ激烈、針の穴を通すような武術の冴えが聖十郎の障壁を容易く突破し、その長身を吹き飛ばす。  四四八と水希がどれだけ攻めても何の効果も発揮できなかった神野と聖十郎……そして彼らと同格であろうキーラに対し、一瞬にして追い込みをかけた技量は言うまでもなく凄まじい。さらに特筆すべきことは、その三つが共通して完全な不意討ちだったという事実。  強者同士が向かい合い、互いの意識が相手に集中する刹那の隙を狙ったのだ。そこに武人の心意気、正々堂々といった概念などは存在しない。  ただ、寒々しいまでのリアリズム。敵は殺せるときに殺すという、狩人の論理だけが展開していた。  ここは遊び場でも戦場でもない。我らにとっては単なる狩場。ゆえに効率的な仕事をするだけだと言うかのように。 「頭が派手に足りんのと違うか? 命要らんのならそう言えや」  粉塵立ち込める帳を見下ろし、舞殿の屋根に腰掛けているのは〈蜥蜴〉《トカゲ》を思わせる痩身の男だった。伝法な口調で悪罵を叩き、手にした〈煙管〉《キセル》を弄んでいる。  その佇まいは弛緩して、なんら威圧を感じさせない。だがこの場にあってまったく気負いがないという事実だけで、男が常人でないことは明白だろう。  糸のような目をさらに細めて、男は続けた。 「が、しぶとい。凌ぎおったか。やるのう」  同時に、銃火が百花繚乱と狂い咲いた。  耳を聾するその轟音に重なって、剣戟にも似た金属の調べが雷雨さながらに木霊する。キーラを槍衾にしていた刃の山が、一本も残らず砕かれたのだ。  のみならず、舞殿の屋根に在る男へ向けて凶弾の嵐は飛来する。しかしそれは、寸前でそこに壁でもあるかのように悉くが弾かれた。  いや、違う――壁ではない。  鬼がいる。  主を守るかのごとく、射線上に立ちはだかっている鬼面の女が存在した。身に寸鉄すら帯びていない丸腰で、ゆらゆらと陽炎のように朧な姿を結びながら、しかし見る者の呼吸ごと止めかねない妖気を全身から放っている。  先の銃撃を完全に打ち落としたのはこの鬼か。そうとしか思えなかったが、その手段が分からない。刹那にも満たない攻防は魔的すぎて、余人の理解を超えている。  そもそもの発端であった白刃の乱舞を成したのがコレだとすれば、同じ業をもって防いだのかもしれないが、しかしだとしたら剣は何処だ? 見えない。まったく目に映らない。  これではまるで―― 「暗器……〈霞刃〉《かすみば》か。なかなか面白い芸を使う」  吹き飛ばした剣の帳から姿を現したキーラは、その肢体どころか衣服の端にさえ一筋の傷も負ってなかった。美貌を愉悦の色に染め、変わらず倣岸な眼差しを鬼面の女に向けている。 「良い腕、そして良い兵だ。貴様、私の〈幕下〉《ばくか》に加わらんか? 〈神祇省〉《じんぎしょう》の小役人ごときに仕えて終わるのでは、あまりに惜しい。  どだいこの先どう転ぼうと、この国に未来などあるまいが。貴様らは地獄の釜を開いたのだよ」 「アレを呼び出した以上、もはや破滅は避けられん。それは分かっているはずだがな」  尊大な口調に混じったのは、意外なことに憐憫の情だった。キーラは今、確実に、敵対する者の未来を憂い、哀れんでいる。  だが、その不可解なやり取りに、ここで答えが与えられることはなかった。 「これだから女性はお喋りでいけない」  粉々に爆散したはずの神野が、再び像を結び復活していた。穢れた霧を纏った姿は依然変わらず、負傷の有無も分からない。  不死身なのか、この男は。 「それはトップシークレットだお姫様。おいそれと口に出していいことじゃないんだよ。  だが、たとえばそこの彼のように、愛想が無さすぎるのもつまらんがね」  雷光が閃いた一瞬、奇怪な何かが垣間見えた。  ボロ布、そして白い面。死神を思わせる不吉な凶影が闇に溶け込むかのごとくそこにいる。  神野は彼と言っていたが、男女の判別など外見からはまったく出来ない。肌の露出は一切なく、体格を測るシルエットすら見えないのだ。  これもまた、形を持たぬ影法師。神野が穢れで編まれた影だとすれば、こちらは無から編まれた影だった。何も言わず、何も感じず、ただ血を浴びるために駆動する殺人機械としか思えない。  姿を視認できたのはほんの刹那で、今や再び暗黒へと消えている。気配の残滓すら匂わせず、必殺を求めて存在ごと零へと還ったのだろう。  暗殺者はその挙動を決して誰にも掴ませない。 「やれやれ、面倒だねえ。どうするセージ」 「愚問だな」  しかし、そんな妖人に今このときも狙われているのが分かっていながら、彼らに怯えは皆無だった。むしろ面白がっているかのように、そろって唇を吊り上げる。 「〈神祇省〉《じんぎしょう》……鬼の子孫がどれほどのものか見せてもらおう」  嘯き、腕を振る聖十郎。先の攻撃を受け止めた影響で痺れているのか、確かめるように拳を握っては開き、含笑しながらゆっくりと手招く。 「さあ来い。学徒の端くれとして興味が尽きん。  千年を超えて練り上げた殺人術が、まさかこれしきではあるまいよ」  そこには三人目の鬼面がいた。長身の聖十郎に比べれば遙かに小柄な体格だが、滲み出る危険な気配はまったく劣るものではない。  その佇まいは完成している。まるで幾星霜も風雨に打たれ、ゆえに一切の無駄が消失した巌の如し。これ以上欠けも割れもしない〈鍛〉《 、》〈え〉《 、》〈終〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》が、引き絞られた矢のように激発の瞬間を待っている。  そう、彼らは待っているのだ。  見えぬ百刃を揮う女も、闇に溶けた暗黒の影も、そしてこの武威の極みも。  本質は凶器――意思を持たない。ゆえに号令を待っている。  誰の? それは言うまでもない。 「くく、くくくくく……。  言うのう。そろいもそろって身の程知らずが」  喉を震わし笑みこぼれている、この男こそ彼らの主。  煙管から立ち昇る紫煙が絡まり、螺旋となって、嵐の空を激震させる。そこから察せられる事実は一つ、すべてこの男が起こしているのだ。  雷雨も、雹も、暴風も、まさしく呼吸に等しい気軽さで。  場の環境を完全に掌握しているその技量は、脅威という言葉ごときで表せない。もしも彼が本気になったら、どれほどの魔界が具現するのか誰にも想像できないだろう。  自然現象とは異なる低気圧がより一層激しさを増していき、ただでさえ怪しい視界が〈攪拌〉《かくはん》されて煙っていく。それが暗殺者にとって絶好の環境であることは自明かつ瞭然だ。  無色無音の鬼たちが、如法暗夜の嵐に同化し、牙を研ぐ。  狩りを命ずる鷹匠のように、男は低く言い放った。 「殺せいや、〈怪士〉《あやかし》、〈夜叉〉《やしゃ》、〈泥眼〉《でいがん》――血祭りにあげい。  そんならは祟りじゃ。御国を害するダニよ、滅せい」  瞬間、ここに火蓋は切られた。 「――面白い」  不敵に指を軽く鳴らし、まず応じたのはキーラだった。いつ、何処から生じたのか、隊伍を成した兵の列が女王を守るかのように並んでいる。  その威圧、連携、鉄の結束――鋼で編まれた群狼の如し。  一分の隙もなく統率された〈鋼牙兵〉《ガンメタル・ハウンド》は、殺人芸において鬼の子孫に劣るものではないと言っている。 「〈帝国万歳〉《ウラー・インピェーリヤ》」  爆発する鬨の声が、人獣たちの戦意を如実に表していた。  瞬時に展開された中隊規模の軍勢が、嵐を引き裂く硝煙と共に夜叉面の女へ襲い掛かる。多勢に無勢どころではないが、それを卑怯と断じる者など誰もいない。  そして、事実その戦力は拮抗していた。  先と同じく、迫る銃弾の悉くが剣戟の音のみ残して弾かれる。女は変わらず無手のまま、しかし見えない何かを操っているのは間違いない。暗器とキーラは言っていたが、これはその範疇を超えている。  同時に、百五十名からなる中隊がいきなり四方へ散開した。瞬前まで彼らがいた足元から、何の前触れもなく剣の林が出現したのだ。間一髪で串刺しの運命を回避したかと思いきや、しかしそれだけでは終わらない。  次の刹那に剣林は砕け散ると、そのまま散開した兵たちを追尾する〈鏢〉《ひょう》と化した。狙いは恐ろしいまでに正確を極め、すべてが個々の標的へと唸りを上げて飛来する。  そしてそれは、再度轟いた銃火によって撃ち落された。例外は一つもなく、鋼の兵に負傷した者は一人もいない。まるで総員、まったく同じ力量と感性を有するかのように。  軍隊とは言うまでもなく衆である。そして徒党を組む以上、避けられないのは個人差だ。一つの目的に邁進する集団は可能な限りその差を減らすことに血道をあげるが、これは原則、ゼロにはならない。どれだけそこに近づけるかという命題が、永遠のものとして掲げられているのが現状だと言えるだろう。  単独よりもチームが強い。だが纏まりがなければ烏合の衆だ。よって連携を突き詰めるなら突出した個は不要になるが、必ず生まれるそうした格差で完全無欠の群れは出来ない。  これは生物にとって、避けられない〈宿痾〉《しゅくあ》だろう。進化は個性から生まれるゆえに、たとえ昆虫の世界であっても、和を乱す者は存在するのだ。  しかし今、ここにはお互い違う形で、それを克服した者らがいる。  全にして個。紛れもなく集団でありながら、ミリ単位のズレもなく均一化されている鋼牙兵。  個にして全。紛れもなく単独でありながら、武器庫もかくやという手数を有する夜叉の面。  まるで一つの生き物であるかのように、再び標的目掛けて兵が扇状に殺到する。それに夜叉は、無言のまま両袖を翻して応戦する構えを取った。  否――違う。  やおらその場で跳躍すると、大銀杏の幹を蹴り上げて一気に囲いを突破した。背後を取られた兵たちが振り向くよりもなお早く、夜叉はキーラへと肉薄する。  部隊に応戦してみせたのは、すべてこの隙を狙ったブラフでしかなかったのだろう。彼女の正体は暗殺者。まともに腕比べなどする気はないし興味も持たない。  ただ狩り、殺す。効率的に獲物を仕留めること以外は考えておらず、そのためにはどのような騙しも危険も顧みない。 「無粋な」  迫る鬼面を前にして、しかしキーラは笑っていた。端からこの手を読んでいたのか。もしくは絶対の自負ゆえか。 「だが、可愛いな。おいそれと私に触れられるとでも思っておるのか」  そのとき、玉座を引く双頭の黒狼が、魂すら凍らせる凶哮を放っていた。  一方で、怪士面と聖十郎の攻防は奇怪な様相を呈していた。  夜叉と〈鋼牙〉《キーラ》の戦いはとにかく派手だ。まるで舞踏会のように絢爛で、可燃性の竜巻めいた凶暴さを具現している。  しかしこちらは、一言でいうならその対極。  身体能力の強化のみに重きを置いた、徒手武術の応酬だった。武器は五体に限定され、速さと威力が魔性の域だという点を除けば至極真っ当。そこに超常の理が付随しているということはない。  朴訥で、外連味がなく、地味で純粋な技術戦でありながらも、しかし奇怪と評したのには訳がある。  まるで鏡と向かい合っているかのごとく、両者の動きは完全な線対称となっているのだ。しかも初めからそうであったわけではない。 「どうした、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈覚〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈ぞ〉《 、》。出し惜しみをするなよ殺し屋。  〈早〉《 、》〈く〉《 、》〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈役〉《 、》〈に〉《 、》〈立〉《 、》〈て〉《 、》」  初撃において、聖十郎は怪士の攻撃を捌ききれずに吹き飛んだ。しかし今は、一切の過不足なく不動の天秤となっている。  新たな技を目にするごと、即座にそれを模倣したのだ。その行いが単なる猿真似でないことは、現状を見れば瞭然だろう。  達人の業は浅くない。〈側〉《がわ》だけ真似ても、極意を解さねば張子の虎も同然だ。にも関わらず聖十郎は、些細な隙が死に直結する攻防の中で技の真髄ごと体得――いいや、盗んでいる。  十代で二十ヶ国以上の言葉を覚えたという天才学徒は、その貪欲な吸収力を武の方面にまで発揮するのか。  まるでこの世の万象は、すべて己の糧になるため存在していると言わんばかり。柊聖十郎と対する者は、あらゆる自負と誇りを奪われる。  それだけでも充分以上に剣呑な特性であり、誰もがこの男を危険だと断ずるだろう。しかし、そのことすらただの前座。まだ可愛げのある洒落でしかないかのような。  彼が有する恐ろしさの深奥は、まったく別の部分にあるかのような。  怪士の攻撃に巧妙なフェイントが混ざりだした。その技は初見ゆえに対応できず、こめかみに痛打を受けて聖十郎の長身が傾ぐ。端正な顔が血に染まる。  だが、それでもこの男は笑っている。 「ふふ、ふはははは……」  近づけば誰もが正気ではいられない――王冠のごとくその評を装飾している魔人の本領、あるいはここで開陳するのか。 「いいぞ、非常に優れている。〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈羨〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。  絞り出せよ。おまえは俺のために生まれたのだ」  何にせよ今、両者が死線に入ったことは間違いなかった。 「あぁ、セージ……やばいねえ、スイッチが入っちゃったか」  そして残るもう一つの局面は、ある意味でもっとも常軌を逸していた。 「まあ、それだけ相手が普通じゃないってことかな。君のように――」  言葉途中で、神野の口ごと顔面が吹き飛ばされた。しかも次の刹那には、胴に風穴が空いている。  だというのに、終わらない。 「痛いなあ」  首無し、穴あきの状態で、神野の腕が宙を薙いだ。同時に発生した羽音のような振動が衝撃となり石畳を粉砕するが、そこには誰も存在しない。 「また外した。見えないねえ」  嘆息するように嘯きながら、しかしそのときには再び五体復活している。  痛いと言うからには完全に無効化しているわけではないのか。戯れ言しか弄さない口からそこを判別することは不可能だったが、今のところ神野が敵手を補足できていないというのは確かだった。  泥眼面の死神は、先ほど一瞬だけ稲光に映ったきり、依然として何処にも見えない。その状態を維持したまま、すでに数十を超える猛撃を神野に叩き込んでいる。  つまり、状況は膠着だ。余人であればとうに細切れの肉塊と化しているだろう攻めを受け、なお健在である神野の異常は極まっているが、それと同じく影すら踏ませない泥眼の隠形も並ではない。  闇と闇の戦いは、そうした魔境となっていた。あえて優劣をつけるとすれば、攻撃されながらも平然としている神野のほうがやや有利か。泥眼にこの男を滅しきる手段がないのであれば、捕まえられた瞬間に勝負は決する。  だが、当の神野はそのように考えていないらしい。 「君のようなタイプは苦手だな。傷が見えない人間はつまらないよ。  これじゃあ僕は、力の半分も出せやしないね」  その間にも不可視の攻撃は続いていく。胸を、腹を、首を、眉間を――悉く急所に叩き込まれる一閃一閃。それに伴い、神野の霧は微かながらも揺らぎ始めているような。  もしや今、悪魔は窮地に陥っているのか。そうとも取れる状況ながら、しかし断言できないのは無貌に蠢く瞳の色。  変わらずすべてを嘲っている双眸が、爛れた愉悦を浮かべているからに他ならない。 「困ったなあ。どうしようかねえ。  助けてくれよ。なあ、弱い僕を……」  泣き言めいた台詞を口にしながら、不吉な気配だけは増していく。  深く、深く、純な少年の哀切であるかのように、狂おしい絶望を乗せて。 「ああぁ、僕のまりあ。愛してるよ、愛してくれ」  〈惡神之音〉《さばえ》がただ、地に満ち、零れ、覆うがごとく尽くしながら闇を侵し、埋めていくのだ。 「ふざけんなよ……」  それらの状況をすべて認識は出来ないながらも見せられて、晶たちは動けなかった。残らず理解の範疇を超えている。  展開しているのがただの殺し合いであったなら、あるいはここまで呆けることはなかったかもしれない。だがこれは違うのだ。この世界に相応しく、まさに悪夢としか思えない。  想いをもって超常を成すという理屈は分かっていても、普通の人間にここまで破天荒なイメージを実行することは出来ないだろう。なぜなら常人には枷がある。そんなことをやれるわけがないという常識が、夢に制限を掛けるのだ。  しかし、眼前の者たちにそれはない。こんなことは当たり前だと言うかのごとく、荒唐無稽を思い描き、実現している。  まるで彼らは、こちらのほうが現実だと信じ込んでいるかのように。  離れていても叩きつけられてくるその精神が恐ろしかった。自分たちの属する世界が、秒刻みで破壊されていく気分に陥り……  何が本当なのか分からなくなる。 「……ッ」  だが、ここでいつまでも放心するのが許されないのは分かっていた。まだ完全ではないものの、ようやく晶は衝撃から立ち直る。 「チャンスだ……」  そう、これは好機だ。いま争っている連中は、まったく自分たちを見ていない。それがとんでもない攻防である以上、他に目を向ける余裕はないはずだ。  ならば、この隙に仲間を助ける。眼前の修羅場に参加できるわけがないのは分かっていたから、撤退するためにもまずは全員が揃わないことには始まらない。  視線の先、地に伏した水希を見つめて、晶は呟く。 「あたしが今から拾ってくるから、おまえらは四四八を――」  と言いかけて、しかし続きを口にすることは出来なかった。 「――きゃっ」  目の前、鼻先を掠める形で、人の頭ほどもある雹が立て続けに落ちてきたのだ。敷石を砕いて地にめり込んだその威力にぞっとして、晶は反射的に宙を見上げる。 「じっとしとけ。死にたいんかおまえら」  そこには鬱陶しげな目でこちらを見下ろす鬼たちの主がいた。行動を読まれていたことに戦慄しながら、しかし同時に晶は気づく。 「おまえ、なんで……」  先の雹も、今の言葉も、その意図するところは警告だった。自分たちを殺す気ならばいとも容易くやれただろうに、なぜそうしなかったのか分からない。  まさか、こいつは味方なのか? そんな疑念を無視するように、男は欠伸を交えながら言葉を継ぐ。その態度は豪胆を通り越して、神経がどうかしているとしか思えない。 「人獣どもは手が多い。あっこで暴れとる中隊ごときが鋼牙の全軍とでも思っちょるんかボンクラが。まだそこらへんにうじゃうじゃおるし、おまえらごときを喰い殺すんはみやすいことよ。  分かったら、分際知って亀になっちょれ。戦真館のヒヨッコども。  ここは、この〈壇狩摩〉《だんかるま》様が守っちゃるけえ」  男――狩摩と名乗った者の台詞は二重三重の意味で驚愕だった。 「な、おまえ……あたしらのこと知ってるのか?」 「千信館って、そんなことまで……」 「有り得ない、何を言ってるの……」  そして、今ようやく気づいたことだが、男の〈身形〉《みなり》は明らかに異質だった。どう見ても現代日本人のものではない。  明治、大正、そのあたりの書生めいているとでも言うべきか。今もああした格好をする者がいないわけではないものの、伊達でやっている風にはとても見えない。単なる普段着として当たり前に着こなしているのが一目で分かる。  してみれば、先のセンシンカンという単語もどこか奇妙な感じだった。音はまったく同じだが、込められた意味において何か齟齬があるような。  それら、謎は数多あったが、もっとも不可解なのは最後の一言。 「オレらを、守るだ?」  縁もゆかりもない自分たちを、なぜこの男を庇護すると言うのだろうか。不明すぎて逆に警戒を強める晶たちとは裏腹に、狩摩は当然のことのように頷き返した。 「おお、辰宮のお嬢には俺も義理があるけえの。点数稼ぎがしたいんじゃ。  ちゅうわけで、おまえたちは運がええの。感謝しとけや」  と、やはりよく分からないことを言う。だがこの場で彼の理屈を吟味している暇はない。  現状、分かっているのは狩摩の余裕。神野とキーラと聖十郎を同時に相手取りながら、まったく危機感が見えないという一点だった。  その態度は単なる自惚れとも思えない。己は負けぬと、絶対の確信を持っているように見える。 「じゃあおまえは、ここであの連中を倒せるって言うのか?」 「はん?」  ゆえに、晶の問いは至極真っ当なものだったはずなのだが、しかし狩摩は虚を衝かれたかのごとく目を丸くし……  次いで、弾けるように笑いだした。 「くはっ――はは、はははははは!  あんならに、勝てるかって? ――ひひ、かかかか! こりゃええ、おまえ笑わすのう!」 「なッ――」  予想外の反応に、晶の中で驚くよりも怒りが勝った。今はふざけているような状況ではない。 「てめえ、何がおかしいんだよ! 自分で言ったことじゃねえか!」  殺せと、彼は配下に命じた。そして実際、晶たちが分かる範囲では互角の戦いを演じているし、狩摩は余裕を見せている。  ならば少なくとも、こいつは自分の勝利を信じているはず。他に導き出せる結論はない。  だというのに、なぜ笑う? まったく意味が分からない。  その気持ちは鈴子たちも同様で、なおも腹を抱えている男のことを全員で睨みつけた。それにようやく気づいたのか、狩摩は涙を拭いながら言葉を継ぐ。 「おお、そりゃあ殺す気よ。その気もなしにあんなら相手に喧嘩なんぞ売れるかいや。  じゃがのォ、出くわしゃその場で勝ったじゃ負けたじゃ、死んだじゃ死なせたじゃいうんは娑婆の理屈よ。〈邯鄲〉《ここ》の決まりはそがァに甘いもんじゃないことくらい、おまえらでも承知じゃろうが。〈幽雫〉《くらな》に教わらんかったんか?  特に〈神野〉《じゅすへる》――あんなは俺の〈技〉《ユメ》を知っちょるかもしれんけえの。鋼牙との小競り合いに茶々が入る可能性も一応想定はしちょったが、まさか逆十字まで連れて来るたァよいよたいぎィ話じゃし、纏めて条件に嵌めるんは難しいわ。  じゃけえおまえの問いに答えるんならこういうことじゃの。〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈で〉《 、》殺せるかっちゅうなら、そりゃ無理じゃ」  つまり、現状は手に余る。不明な言い回しだらけだったが要約すればそういうことで、しかし狩摩には相変わらず焦りや危機感がまったく見えない。それはどういうことなのか。  矛盾に当惑する晶たちへ、なおも彼は筋の通らないことを言った。 「じゃが言うといたろォ、笑うんは俺じゃ。  たとえ何がどんなんなろうと、俺の掌から出られる奴はおらんのんじゃ。覚えとけ」 「はあ?」 「でもあんた、これは予想外だったって……」 「さっきから言ってることが滅茶苦茶すぎるよ」 「どこがじゃボケぇ」  心外だとばかりに鼻を鳴らし、煙管の灰を落とす狩摩。俗を絵に描いたような振る舞いで、とても神算鬼謀の人物とは思えない。むしろ何も考えていないようでさえある。  そして、彼はそのことを肯定した。 「俺は反射神経の人間よ。先の読み合いなんぞは苦手じゃし興味もない。  萎えようが、そういうんは。漢の生き様としちぁあ、ふゥが悪いわ」 「じゃけえ大して考えん。臨機応変、その時々よ。おまえらみとォな凡人にゃあ俺はアホに見えるんじゃろうが、それでも負けたことがないんでの。  そしてこれからも、俺は負けん。もう一度言っちゃろう」  声にえぐみを効かせ、誇るように、狩摩は改めて宣言した。 「笑うんは俺じゃ。これはすでに決まっちょる。たとえ仏や天魔じゃろうと、壇狩摩の裏は絶対取れん。  分かったか、ヒヨッコども」 「…………」  自負と言うにはあまりにすぎる大言壮語は、もはや妄言にさえ分類できる。狩摩の主張にはまったく理というものがない。  だが晶たちは、このときそろって恐怖した。己を信じるという一点において、この男もまた正気じゃない。そしてそれは、夢において何より凶悪な力になるのではないのかと。  自身が思い描く理想の〈都合〉《おのれ》を疑わない。  度を越した楽観と言えばそれまでだが、体現するのにこれほど難しいこともないだろう。しかも彼は単純な力や強さを信じているわけではないのだ。 「具体的にどうなるかなんぞは知らんがの。それでも結果は都合のええところに収まるじゃろ。  俺が〈何〉《なん》かしてもせんでも、仮にうちの〈者〉《もん》らがここで皆殺しにあったとしても。 それは全部、俺のための伏線じゃ。そうなる以外、有り得んのよ」  もっと広く、最終的な、戦略としての優位性を信じている。  一言でいえば天運だろうか。己にはそういう〈加護〉《のろい》が憑いているとでも言うかのようだ。  ゆえに今、たとえば自身の勢力が壊滅しても狩摩は眉の一つも動かさないだろう。曰く辿り着く先で笑ってさえいれば問題なし。過程に興味はまったくないのだ。  点ではなく、面で見る。個より場を見て、場よりもさらに流れを見る。  配下を率いる将として、そういう資質は確かに必須のものだろう。だがここまで極端――と言うより放埓な指し手は存在するまい。狩摩はまるで、目隠しをしながら将棋を打っているかのようだ。  そして、その状態こそが勝利を約束する方程式。そう言っているし、事実勝ってきた背景もあるのだろう。  そんな男を前にして、平気でいろというのが無理な話だ。加え、そこからはもう一つ、恐ろしい事実が推察できる。 「晶、あんた分かってるわよね?」 「……ああ、さすがにそこまで馬鹿じゃねえよ」  過程は適当。局所的な結末には興味がない。  そこで飛車角取られようが意にも介さないと言うのなら…… 「こいつ、味方なんかじゃねえ」  守ってやると言ったさっきの言葉も、同じく何の意味もないことなのだ。  何せ盲打ち――並べた棋譜に一貫性など存在しないし、ほんの気紛れで百八十度立場を変えることも有り得る。  当たり前に狙われるよりも、ある意味こちらのほうが恐ろしかった。猛獣に擦り寄られて、馬鹿正直に安心する者はいないだろう。  理解が及ばず、分かり合えもしない存在が傍にいて、そいつは自分たちを一瞬で殺せる牙と爪を持っているのだ。下手に刺激をしたら最後だが、何が引き金になるのかも分からない。  そして、その予感は嫌な意味で当たってしまった。 「しかし、なんじゃの。おまえらなんかおかしゅうないか?」  誰よりもこの場で理屈を軽視しているはずの男が、晶たちの整合性を意味不明に訝っている。  その細い目は純粋な好奇心を湛えているようでいて、同時に無数の氷針を含んでいた。視線で穴だらけにされるような気分を味わい、内臓の色を吟味されている心地が爽快なわけもない。  痛くもない腹を探られる――まさにこの現状は晶たちにとってそれだった。  そう、分からない。〈何〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈か〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「ひっ――、きはは」  なぜ、どうして? なにがいったい? 湧きあがる困惑を抑えきることなど不可能で、ゆえにそれを看破したらしい狩摩は笑った。  血の通わない爬虫類の舌で全身を舐め上げられたような悪寒が走る。 「なるほど、なるほどなるほど――こりゃ困ったのォ、そう来たか!  いかんわ、遊びがすぎとるぞ。どうするんなら、これ――うはははは!」  銃火と黒狼の轟哮を潜り抜け、夜叉はついにキーラへ迫った。  聖十郎の手が虚空に沈み、そこから現れようとしている何かがひしりあげつつ叫喚した。  神野は目を閉じ、両手を広げ、殉教する聖人のように祈りを捧げたまま動かない。  今まさに、決定的な局面を迎えようとしているそれら三つが、残らずどうでもよくなった。目に入らない。それどころじゃない。  ただ、指が見えるのだ。  自分たちにとって運命の左右となる一手を盤上に置く、盲打ちの指が―― 「こりゃお嬢にどやされるのォ」  溜息交じりの呟きは、お気に入りの湯飲みを割ってしまったという程度に切実だった。  そう、〈彼〉《 、》〈は〉《 、》〈湯〉《 、》〈飲〉《 、》〈み〉《 、》〈を〉《 、》〈割〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「よいよ退屈させんで、この〈邯鄲〉《ユメ》は」  同時、鬼面の三人が一斉にその攻撃対象を変更した。それによってキーラたちは虚を衝かれ、残らず行動の拍子を外される。  興が乗ってきた戦いに没頭しかけた瞬間、敵手が残らず退いたのだから当然の反応だろう。神野などは道化よろしく、本当にこけかけたほどである。  あるいは――あの状況があと刹那でも続いていたら、鬼面衆は全滅していたのかもしれない。そして彼らは駒なのだから、己の意志で退くことなど絶対にない存在だ。  ゆえに狩摩――この展開は主の差配に他ならず、その当人はというとまったく部下の戦況を見ていなかった。にも関わらず神業めいたタイミング、ただの偶然では片付けられない。  誰も己の裏は取れぬと、豪語しただけはある。  たとえ行き当たりばったりの適当でも、彼には必ずこうした状況がついてくるのだ。  鮮やかすぎるその転進は、鬼面衆に徹底して我が存在しないという面もあるだろう。意を感じることが出来ないのだから行動の先読みなど不可能だし、挙句の果てには司令官まで何も考えていないとくる。  よって、そこから繋がる奇襲の効果は押して知るべし。如何に堂々とやったことでも、対象の理解をすり抜けていれば本質的には不意討ちだ。  唸りをあげて迫る暗殺者たちの凶風は、まさにそういう死、そのもの。 「四四八――」  〈狙〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈だ〉《 、》。首を刎ねられる前にそう認識することが出来たのは、もしかして奇跡だったのかもしれない。  それはいいのか? 悪いのか? 恐怖は麻痺して感じない。  ただ、反射的に口を衝いて出た名前はたったひとつで、意図は助けを求めるというものじゃなくて。  この状況にも関わらず、晶はそれが誇らしく、また悲しかった。 「ごめん」  母親を殺されて打ちのめされた友人に、なお縋りつくような恥知らずにならないでよかった。  極限の中、自分がそこまで卑しい人間ではないと知れたのは嬉しかったが、そこで終わってしまうとなればだいぶ寂しい。  むしろ助けてやりたかったのだけど。  普段世話になってるぶんを返そうと思ったのだけど。  すまない。役に立てなくて。  その思いは皆も同じで、〈前〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈気〉《 、》〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈を〉《 、》〈抱〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈気〉《 、》〈が〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》……  駄目だ――〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈有〉《 、》〈り〉《 、》〈得〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と、今になって思い直す。  たとえ無理でも、やれることをしなければ。  ここからせめて、四四八だけでも……  自分にとっての〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》。  求めた〈強さ〉《ユメ》はなんだったろうかと、思いを馳せて……  そうだ、有り得ないにもほどがある。どんな理不尽や最悪にもせめて納得だけはしていたいから、やれることはやらねばならない。  俺は死んだ――傍からはそう見られていても不思議じゃないし、あるいは本当に死んでいるのかもしれないが、そんなことは関係なかった。  実際ぴくりとも動けないし、身体の感覚もまったくないけど、意識だけは鮮明で俺は現状を捉えていたから――  晶、歩美、栄光、我堂、そして世良は、ああ――ちくしょう。このままだと間違いなく全滅するぞ。もう瞬間の猶予もない。  だから、分岐路は今だ。ここでの選択、やれるかやれないかが以降のすべてを決定する。ならば自分の器量で道を拓かなくてはならないし、それが俺の信条でもあったはずだ。  ならば、動け。思っているだけでは意味なんかない、形にしろ。  ずっと倒れていた俺だからこそ、気づいた事実が存在するんだ。まるで無策というわけじゃない。  怖がっているのは認めるし、逃げ出したいとも思っているが。  それより遙かに強い域で、俺はただ怒っていた。  何よりも、自分自身に。  母さんのこと、そして父親、聖十郎――奴に対する怒りは消せないし消す気もないが、それに支配されてまんまと窮地に追いやられた自分の不甲斐なさが許せない。  俺は柊恵理子の息子であり、晶たちの仲間であり、皆にとっての誇りでありたい。ずっと、これから、何があっても。  だったらここで、こんな様になっている俺にそんな資格はないだろう。暴走して仲間を巻き込み、助けることも出来ないなんて終わっている。  それは柊四四八の在り方じゃない。 「強くなりたいんだ」  ずっとそう思いながら生きてきた。  どんなときも願ってきた。  強さ、力を、何よりも欲した理由はきっと、凄く単純なことで……  思い出せ、それを。なぜ俺は強くなりたい?  どうして? 何のために? 問いを根源まで突き詰めれば、そもそもの動機はたった一つ。 「ねえ、私邪魔かな?」  ここに時系列は無視される。  出逢いがいつで、〈現状〉《いま》が何処で、順序がどうだのは関係ない。  身体が動く。傷が癒える。それは自分自身だけの力じゃなく、立ってくれと願われているのが強く感じられたから。  そうだ、俺は――いや俺たちは―― 「私に逢わないほうが良かったって、思ってる?」  〈二〉《 、》〈度〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈言〉《 、》〈わ〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》。  〈皆〉《 、》〈で〉《 、》〈強〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈胸〉《 、》〈に〉《 、》〈誓〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》―――! 「ふはっ――」 「―――ぬ?」 「ほぉ……」 「ひひ……」  予想通り。予想外。どちらでもない。どちらでもある。  それを目にした者らの反応は実に様々でばらばらだったが、ひとつだけ共通点が存在していた。  喜んでいる。その理由もまた、様々で…… 「……おい、晶。おまえまさか、いま俺だけ逃げろとか思ってたんじゃないだろうな」 跳ね起きると同時に飛び入って盾となり、三つの猛撃で串刺しにされながらも俺は笑った。 「え? い、や、あたしは……」 「つれないこと言うなよ。要らん気を遣うな。俺がこうすることくらい分かってるだろうに、この馬鹿」 そのどれをとっても、紛れもない致命傷。俺は俺で防御と回復に全神経を集中してるが、それでも一人で耐え切れる域の破壊じゃなかった。にも関わらず、今このときも負傷は片端から再生していく。 「だが、助かったよ。ありがとうな……おまえのお陰だ」 晶が俺を癒している。だからこそ死なずにすんだし、そもそも立ち上がることが出来たんだ。 そのことを深く感謝し、これを無駄にしないためにもやることは一つだけ。 「後は俺に……」 身体を抉る拳と刃を、引き抜きながら全力で叫んだ。 「任せろ――行けェッ!」 世良を助けろ――そう続けた瞬間に、鬼面の影が連続で迫ってきた。三対一だが、退けば当然そこで終わってしまうだろう。 「ぐぅゥッ……!」 しかし、見えない。速さは俺のレベルを遙か数段超えているし、どいつも気配を消している。さらに感情さえ読めないこいつらはまるで機械だ。陽動や挑発は一切効かない。 だからとにかく、無様だろうが派手に動いて、俺という的を物理的に大きくすることでしか晶たちへの追撃を防ぐ手は見当たらなかった。分かりきったその結果として、再度全身を〈鱠〉《なます》状に抉られる。 「ッ……は―――」 だけどまだ、まだ大丈夫だ。晶の回復効果は続行してるし、俺自身の守りもそこに上乗せされている。二人の力を合わせた盾は、かろうじてだが死に触れる寸前で留まることを許していた。 けど、こんなものがいつまでも続くわけがない。すぐにも破られてしまうだろうことは分かっている。 「何してるんだ、行け!」 「でも――」 そう、分かってるんだ。ここで晶が離れたら、回復効果が一気に落ちるということを。 そしてそんな理屈と関係無しに、どう見てもやばい俺を放置して行けるほど、こいつら頭が良くないんだよ。 まったく、馬鹿ども、手のかかる――それだけに、ああ、いい奴らなんだ殴りたいほど。 だから俺は大丈夫だと、いつも通り見せてやらなきゃ駄目なんだろ、分かったよ。 じゃあ見せてやる。見て安心したらさっさと行けよ、少し待ってろ! 怪士面の拳を受け止めた腕がへし折れた。 夜叉面の刃を弾こうとした手が串刺しにされた。 泥眼面はその姿さえ視認できず、ゆえにあらゆる対処がまったく不可能。 だから自分に何が足りないのかは分かっていた。そもそも丸腰だという時点で話にならない。 武装が要る。このジリ貧すぎる状況を動かすには、得物が必要不可欠なんだ。 しかし、それは、いったいどんな? 剣か? 銃か? 槍か? 弓か? あるいは何だ? 何がある? 先に挙げたどれ一つとして、まったく頭にピンとこない。当たり前だろう、俺はそんな物を手にしたことなんかないんだから。 武装が要るのは絶対だが、使えない物を持つことに意味はない。むしろ逆に自殺行為だ。生兵法は死を招く。 〈鬼面衆〉《こいつら》はそれぞれ、その道における達人だ。ゆえに対抗するのなら、俺も同じく、極めた何かを…… そんな物が、俺にあるか? だが無ければ死ぬぞ。俺だけじゃなく全員残らず―― 連続する鬼面衆の猛攻はさらに激しさを増していく。俺はそれについていくため、いつしか〈丈〉《 、》〈夫〉《 、》〈さ〉《 、》〈と〉《 、》〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈能〉《 、》〈力〉《 、》〈を〉《 、》〈同〉《 、》〈時〉《 、》〈に〉《 、》〈強〉《 、》〈化〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈戦〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 しかし、三つ同時は流石に無理だ。武装を具現する一瞬だけは攻めと守りのどちらかを切らなければならず、その隙がでかいことは言うまでもない。 だから得物の選択は、二重の意味で一発勝負。やり直しは効かないだろう。 必要なのは、何より俺の気性に合った武器。 使い勝手の良さは前提だが、奴らと切り結べる強度を得るなら質と気持ちのシンクロが重要になる。 ゆえに求める機能として、威力や必殺性など論外だった。分かりやすい暴力性や禍々しさは俺の性根にそぐわないし、何よりこの状況に相応しくない。 盾としても使える物、護身に通じるそんな器械を。 怒りに任せて聖十郎に立ち向かい、まったく相手にならなかったのはその辺りを読み違えたからだ。自分にとっての強さというやつ、今度こそ間違えずに見極めろ。 大事なもの、忘れちゃいけない心構えは―― 「命を……握っているような」 その重さを、掴んで放さないと誓える形はただ一つ。 記憶が、奔流が、願いが、誇りが、数多駆け巡り〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》が弾ける刹那―― 怪士が迫る。夜叉が切り込む。泥眼が背後から俺の首に一閃を放ち、死を感じるがしかし同時に、今この手が―― 「つッ、おおおおォォッ!」 それを、掴み取っていた。  逆巻く剣風と衝撃が竜巻のように回転し、耳を聾する金属音が轟き渡った。  絶命必至の一瞬、身を竦ませる死の嵐が踊った直後に、だが帳の向こうから現れた彼は健在で…… 「ぁ……」  そうだ、あいつは必ず応えてくれる。いつだって、いつだってそうだったから知っているんだ、ずっと前から。  自分はこいつのこういうところを知っているから信じてる。  だから分かってる。四四八は負けない。  負けないんだ、〈今〉《 、》〈度〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》―― 「……そういうわけだ。ほら、安心したか?」  余裕はまったく無いはずなのに、不敵な調子で投げかけてくる言葉が熱い。  まったく世話の焼ける馬鹿どもだと、いつもの偉そうな態度が何より晶は嬉しかった。  彼がどんな男なのかは、その手の物が何より雄弁に証明している。 「〈旋棍〉《トンファー》……」  黒光りする二つの鋼……硬く武骨な代物だけど伝わってくるのは安心感だ。守るべき者にも不安を与えてしまうような、危険過剰な凶器じゃない。  そして無論、だからと言って敵にも甘いわけはなかった。まるで法の番人であるかのように、厳格な鉄槌としてあの一撃は悪を砕く。  見た目からは想像も出来ないほどあれは重い。強度を高めるという意味だけじゃなく、四四八の正義、四四八の信念、そして命が乗っているから想像を絶して重いのだ。  取り落とせばそれらを零す。何が大事かを常に感じ続けるため、彼が重さに拘っていることを知っている。知っている。  こいつはそういう男だから―― 「改めて言うぞ。世良を助けろ、そして退く。  手筈は任せるから、おまえらでなんとかしろ!」  甘えや諦めを許してくれないスパルタだけど、出来ないことを押し付けてくるような奴じゃない。  やれると、信頼されているんだ自分たちは。 「行くわよ、晶」 「あっちゃん、早く!」 「四四八がああなったら心配なんか要らねえって」  だから追手の危険など考えない。四四八が絶対に防いでくれる。  そう信じたからこそ、晶は自分たちがやるべきことだけに意識を集中させられた。  離れる瞬間、四四八を抱いているような回復の夢を切ることが、少し残念ではあったけど。  まあ仕方ない。これが最後じゃないのだからと、踵を返して走り出した。 そして同時に、百の白刃が晶たちの背に向けて放たれた。 しかし、そんなことは許さない。俺は瞬時に射線上へと入り込み、刃の雨を悉く打ち落とす。 「やらせんぞ、舐めるな」 手に創形した旋棍は、その隅々まで神経が張り巡らされているかのように、俺の意思通り回転する。 今こそ強く確信した。やはり俺は〈旋棍〉《これ》の術理を知っている。 鬼面衆の攻撃すら弾けるほどに、人生懸けて修練を積んだ頃の〈自分〉《ユメ》が重なるんだ。 「軽いぞ夜叉面、小枝かと思った」 共に創形した武器同士、生半可な気持ちで編んだ得物だったら受けも弾きも出来ないまま両断されていただろうが、そんな結果にならなかったのはそういうことだ。当たり前の結果と言える。 これは俺と仲間の命そのもの。易々断たれるわけにはいかない。 同時に踏み込んできた怪士面が、地を這うような動きでこちらの股間を潰しに来る。そこに手抜きは当然なく、紛れもない殺法だったが俺は気づいた。これは囮だ。 こいつらにはまともに戦り合うという思考がない。常に疑え、全体を見ろ―― 「やらせんと、言っただろォ!」 下から迫る拳を足の裏で受け止めて、その威力を利用した俺は空中に飛んでいた。のみならず、手の旋棍を持ち替えて闇の中へと突きを出す。 握りの部分をフックのように使用して、そこに在る奴を絡め取るために。 これは〈旋棍〉《こいつ》の基本的な使い方の一つだ。知っている。慣れている。 俺の〈記憶〉《ユメ》が覚えている。 「そこだァッ!」 目に映らず、気配すらない泥眼面――俺が怪士へ対処する隙に晶たちを追おうとしていた死神は、あるいは驚愕、したのだろうか。 だったら仮面の奥で目を剥くがいい。必ず不意を衝くと分かっている奴の穏形など、逆に言えば分かりやすいんだよ。 空中で捉えた影を引き寄せると、そのまま足元の怪士目掛けて俺は渾身の力で叩き付けた。 同時に砕け散る石畳。舞い上がった瓦礫の一つを、さらに俺は弾き飛ばす。 狙いは舞殿。意図は挑発。そこにいる男へ向けて。 「相手なら俺がしてやる。くだらん真似をするんじゃない」 「ひっ――はは、ひゃははははは!」 飛来した瓦礫を受け止めて、男は愉快げに笑っていた。 何も考えていない瞳。だが千年先まで己の優位を確信している憑かれた心で。 「ええのォ、おまえ。流石は逆十字の倅っちゅうことか。なるほどこりゃあ侮れん。俺としても誇らしいでよ」 「じゃが、じゃけえこそ知りたいのォ……おまえの〈邯鄲〉《ユメ》は危ういけえ、邪魔臭ォなるかもしれんじゃろ」 今、この局面を乗り切ることに限定すれば、もっとも危険なのはこの男だと理解できる。 許し難いのは聖十郎だが、奴は俺を何かに利用するつもりなのが分かっていたから、現状積極的な脅威ではない。個人的感情を抜きにすれば放置で構わない存在だ。 それは神野とやらもまた同じ。あれはむしろ狂言回しで、場を演出しつつ眺めるのが好きなだけだ。ある意味、楽しませている限りは観客に徹するだろう。 そしてもう一人の女はまだ読めないところがあるものの、俺たちとの関わりが一番薄いのは間違いない。眼中にないはずとまでは言い切れないが、少なくとも明確な敵意をこちらに向けてはいなかった。 ゆえに残るはこいつ一人。 「よいよこんなァたいぎィのォ――手間ァかかる方にばっか転がりおって」 「やれんでよ面白すぎるじゃろうがいやァ! 〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》は何処行ったんなら」 戦術単位の方針なんか存在しない。臨機応変と言えば聞こえはいいが、無差別の出鱈目こそが地力で劣っている俺たちには一番怖い悪夢だろう。 「何を言ってるのか分からんが、生憎と〈千信館〉《うち》の校訓はおまえみたいな奴のことまで信じろなんて言っちゃいないな」 「くはははははは―――かばちゃァ一端か、黄色い嘴で吼えおって」 再び嵐が渦を巻く。轟々と鬼の笑い声に呼応して、視界が闇に呑まれていく。 その中で、明確に俺の芯へ突き立つ殺意。 だが信じるな――これさえ騙しである可能性を一瞬たりとも忘れてはいけない。 「好きにせいや。どォないとなりゃええ」 「こんとなことになっちょるんはおまえら自身のせいじゃけのォ、そりゃあつまりこういうことじゃ。祟りが憑いちょる」 狂騒に熱を帯びた台詞の中、最後の一言だけ凍りつくような静けさを纏っていた。 ――来る。 「聞けや鬼面ども、こんなァ〈可〉《 、》〈愛〉《 、》〈い〉《 、》〈後〉《 、》〈輩〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》。戦真館を継いじょらんなら〈殺〉《と》ったれい!」 「〈神野〉《じゅすへる》、人獣、逆十字――貴様らよう見とれよ、俺らの〈廬生〉《ろせい》がどの程度のもんかのォ」 瞬間、足元から凶風が跳ね上がった。 視認などまったく不可能なまま強襲してきた速攻は、おそらく泥眼だったのだろう。それでもなんとか対応することが出来たのは、先の攻防でこいつが一切ダメージを負っていないと薄々予想していたからだ。 石畳が粉砕されるほど地面に思い切り叩きつけ、その手応えも感じていたが、正直あまりにも鮮やかすぎた。まるでそう見せかけただけのように、演出が綺麗に決まりすぎてたんだよ。 ゆえにあれは、偽りの会心というやつに酔わせる心理誘導。未熟者を狩る手際としては、悪辣なまでに的確で容赦がない。 普通なら、まんまと騙されていたところだ。しかし今の俺は自分の不甲斐なさを知っている。上手くいかないのが当たり前だと思っているし、事実として母さんは―― 立て続けに連続する夜叉と怪士の猛攻も、虚実見抜いて悉くを弾き返した。 強くなりたいと願うのは、自分が弱いと深く知っているからに他ならない。そこに油断や慢心などあるはずもなく、だからこそ俺に隙はなかった。 不意など絶対に討たせない。ここで採るべき俺の役目はただの壁だ。色気を出すな、勝てると思うな。 晶たちを守りきれればそれでいい。 断じて俺の仲間に触れさせはしない。 引き付けて、引き離してやる。そしてもちろんそのためには、俺が餌として魅力的でなければならないだろう。 こんな程度の戦術は向こうも当然読んでるだろうが、それが分かった上でも乗らざるを得ない状況を作る。そのことこそが、目下最重要の課題だった。 少なくとも一度、奴らの顔色を変えてやらねばならない。 可能ならば鬼面の三人だけではなく、この場の全員を巻き込んで。 やれるか? いいや、やるんだよ――手にある重さを裏切るな。 「行くぞ」 だから俺は、ここで初めて自ら攻勢に移っていた。 三対一の状況下で、いつまでも凌げる自信はまったくない。ゆえに事態を動かすなら誰か一人を標的に絞るべきで、俺が選んだのは夜叉面の女だった。 その選択は、もしかしたら愚断なのかもしれない。しかし俺は俺なりに考えた末でこうしたんだ。理由はもちろん、幾つかある。 多勢に無勢なら弱い奴から狩るのが基本。強者は強いわけだから当たり前に難敵で、簡単には斃せない以上こちらの隙もでかくなる。そしてそこに入ってくる横槍は、たとえ弱い奴のものだろうと無視出来ない。 だからそれじゃあ破綻するし、意味がなくなるという論法は馬鹿馬鹿しいほど常識だ。 しかしそれを踏まえてみるに、こいつらはそういうばらつきがまったく見えない。タイプは個々で全然違うが、一見して分かる格差などはここまでのところ皆無だった。 よって、そこからなお選ぶとなれば戦法から見る相性だ。俺はその結果として夜叉を第一に攻めると決めた。 理由その一。少なくともこいつの姿は視認できる。泥眼のように捕捉のため全神経を傾けて、なお勘に頼るしかない相手よりは狙いとして定めやすい。 理由そのニ。こいつと俺は得意な間合いが違っている。徒手格闘の怪士とはそうした空間が噛み合いすぎて、誘導するのが極めて困難。 単純に言えば近接同士、距離を開けるということがほぼないのだ。俺が退いて誘う真似は慣れない自殺行為だし、同様に怪士も滅多なことでは退いたりするまい。 追う。迫る。それが俺たちの本領だから、そうした同士がぶつかれば必然として大した移動が発生しない。そうなると晶たちから遠ざけることが出来ない本末転倒になってしまう。 さらに言えば実のところ、移動に拘る理由はもう一つあるのだが―― とにかく、以上の諸々により狙うのは夜叉だ。 こいつは始終、中間から遠距離の間合いで攻めている。その必殺圏を維持するためにも、俺が迫れば退くはずで―― そう、このように立ち回る場所を誘導することが出来なくもない。 何もない空間から突然生じ、あらゆる角度から襲い来る白刃は確かに危険だ。肝が凍る。だがその剣林を掻い潜って行かないことには、俺の描いた絵図は完成しない。 そして、もっとも意味がある理由その三。 機関銃のように夜叉が撃ちまくっている限り、他の二人は容易にそこへ踏み込めなくなる。 怪士、泥眼、質は違うが共に脅威の体術を駆使する二人で、こいつらに接近を許したら洒落じゃすまない。 だが、的である俺が刃の弾幕に囲まれていればどうなるか。無論達人ならばそこをすり抜けても来るだろうが、危険な障害物を避けながらなら速度は落ちるしルートも読める。 それで万全と言えないのは百も承知だ。言うのは簡単だが俺の理屈が離れ業なのは自覚してるし、そもそも夜叉の攻撃を凌ぐことからしてハードルが高すぎる。 だけど、やるんだよ。刹那で編み上げた作戦は穴だらけかもしれないし、傍から見れば甚だ間違っているかもしれない。 しかしこのとき、俺が考え付く限りにおいてこれが一番確率の高い手だと思った。他が軒並み千分の一以下で、最後に残った百分の一へ縋っただけなのだとしても。 それが最善と信じるなら賭けてやる。世良と初めて対したとき、あいつがやってみせたように。 固定観念を捨てるんだ。当たり前のことをやってるだけじゃあ、無茶は無茶のままで終わってしまう――! 「――――――」 連続する斬撃、刺突――吹き荒ぶ死の風はまさに嵐の様相。都合どれだけいったか分かりもしない状況下で、しかし初めて夜叉の態度に変化が見えた。 驚愕と言うには細すぎるし、怒りと言うには熱が足りない。そもそも面で表情すら見えないのだから、正確に心理を測ることなど不可能に近いのは分かっている。 だがそれでも、これは気のせいじゃないと思った。なぜなら俺は、今そうなって然るべきことをやっている。 刃を縫って踏み込んできた怪士の一撃が〈脾腹〉《ひばら》に刺さった。悶絶必至の衝撃だったが、〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈耐〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。 同時に頭上から落ちてきた泥眼の一閃は、先の攻撃で延髄を晒してしまったのが分かっていたからこそ〈高〉《 、》〈速〉《 、》〈の〉《 、》〈反〉《 、》〈射〉《 、》〈で〉《 、》〈対〉《 、》〈処〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》。 今このときも間断ない刃の乱舞は言うまでもなく、〈先〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈幾〉《 、》〈つ〉《 、》〈か〉《 、》〈喰〉《 、》〈ら〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈も〉《 、》〈急〉《 、》〈所〉《 、》〈に〉《 、》〈迫〉《 、》〈る〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈弾〉《 、》〈く〉《 、》〈動〉《 、》〈き〉《 、》〈は〉《 、》〈止〉《 、》〈ま〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 つまり、こうだ。 「差が詰まってきてるぞ、殺し屋ども」 今は晶の助けが存在しない。ほんの少し前までは、二人分の守りを合わせても死は秒読みという状態だったにも関わらず、このとき俺は真に一人の力でこいつらの猛攻に対処していた。 〈戟法〉《アタック》と〈楯法〉《ディフェンス》の同時展開――先ほど覚えたばかりの複合夢は、真髄として百の力を五十ずつに分けるものじゃないんだと確信した。 むしろ掛け算。片方があからさまに不得手な力でマイナスにでもならない限り、組み合わせることで効果は飛躍的に跳ね上がる。 そして俺には、そういうばらつきが存在しない。全十種、すべてにおいて差異無く使いこなせるのだから、誰より精密に組み合わせられる。 その際、きっと上昇率は、他を凌駕するに違いなく―― それは多少の実力差くらい埋められるのだと理解した。ゆえに―― 「何度も言うぞ――」 やれる、やれないじゃない。 「――やるんだよ!」 全身の爆発力を脚のバネに集中し、俺は一気に間合いを詰めた。 それに退く夜叉――逃がさない! 些細な被弾は意に介さず、渾身込めて旋棍を揮う。 そしてインパクトの瞬間に切り替えろ。こいつも当然、二つ同時くらいはこなすに違いないはずだから、単なる攻撃一本じゃあ絶対足りない。 崩せ、奴の防御をキャンセルしながら叩き込むんだ。 極限まで精密に、微塵のずれも発生させず、まったく同規模の剛と崩を重ねて打ち込む。必ず効果はあるに違いない。 だから喰らえ。これが今の俺に可能な全身全霊。 「はああああァァッ!」 振り絞った叫びと共に放たれた一撃は鬼面に届き、今度こそ偽りではない会心の手応えを俺の総身に伝えていた。 「――今だ、あゆ、鈴子!」  四四八の有言実行が成されたとき、すでに役割分担を決めていた晶たちの行動は迅速だった。精神的支柱の復活を目にしたことで、もはや何の躊躇も感じていない。 「行くよ、りんちゃん!」 「ええ、手加減したら怒るわよ!」  倒れた水希までは、目算で二十メートル前後。ここから先は危険な連中の脇をすり抜ける必要があったから、全員で行くよりは俊足の者に連れ帰ってもらうべきで、その役は一番速い鈴子にこそ相応しい。  彼女なら、たとえ往復でも他の者らの片道分を凌駕する。それくらいのことは可能だと、すでに前夜の夢で知っていた。  しかし問題は、人ひとりを抱えて走るには馬力が足りないかもしれないこと。だからそこを、歩美のサポートで埋めるのだ。 「行っけええェッ――!」  鈴子の背に手を置いて、放った気合いとまったく同時に歩美は彼女を飛ばしていた。つまり、これは弾丸代わり。荒業がすぎるのは確かだが、上手くすれば行きで消費する分の体力をゼロに出来る。 「ッ―――、ヅゥゥゥッ」  鈴子は打たれ強い性質ではない。ゆえに強制されたロケットスタートはかなり効いたが、不満も泣き言も吐かなかった。狙撃にかけては異様な精度を誇る歩美なら、必ず目当ての場所へ運んでくれると信じている。 「――水希ッ」  そして見事狙い通り、測ったような正確さでそこに滑り込んだ鈴子は、しかしそのとき―― 「―――――ッ」  背後から圧し掛かるおぞましい悪寒を覚えて、振り向こうとする反射行動を克己心の総動員により抑え込んだ。  そこに理屈があったわけではない。だが絶対駄目だと思ったのだ。  今夜、もっとも偉大な快挙を成したのが誰かと言えば、それはこのときの鈴子だったのかもしれない。 「大事に扱ってくれよ。僕の愛する人なんだ。  また逢おうねえ。んふふふはははははははは――」  うなじに腐った息が掛かる。触れ合うほどの近い距離で、悪魔が涎を垂らしながら嗤っている。  どんな顔で? どんな目で? 見れば発狂していただろう。  そう確信できるほど、煮えたぎるどす黒い感情がその声にはこもっていた。 「くッ、ああああァァァッ―――!」  だから鈴子は、纏わりつく瘴気を引き千切るようにして水希を抱えながら駆け出した。  ある意味、行きとはまた違った形で背中を押されたのは間違いなく、そうした面では助けられたと言えるのかもしれない。  火事場のそれどころではない勢いで駆ける鈴子は、事実として帰路のほうが速かった。まるで歌にもある通り、帰りは怖いと言うかのように。  そして、それは当たっていた。 「勇敢な娘だな。だがこのままというのも面白くなかろう。  どれ、少し踊ってみせてくれ」  駆け去る背に向け、鋼の牙を率いる女王が戯れたいと言っていた。それは彼女にとって確かに遊びなのだろうが、魔獣の洒落を小鼠に凌げと言うならあまりに苛烈。冗談ではすまない。 「ロムルス――つれない女に恋歌の一つも贈ってやれ」  キーラの乗騎である双頭の黒狼、その左側にある首がまるで大砲のごとき吼え声を放っていた。  行くな、行かないでくれ。振り向いて、傍にいて、逃がさない。  恋歌と称した喩えさながら、しかし愛は破滅的な威力をもって石畳を粉砕しながら鈴子へ迫る。  その衝撃波は無論音速。いかに全力で駆けようとも、到底振り切れるようなものではない。 「―――――ッ」  迫る。迫る。逃げられない。獣の愛に捕まるとは、すなわち喰い殺される末路であって、呑み込まれれば死の一文字だ。  鈴子が絶命を感じた瞬間、だがそこに晶が立ちはだかった。 「舐めんな、来いよォ!」  この手の追撃も当然予想はしていたから、そのときは自分が盾になると彼女は最初から決めていた。取り柄と言えば丈夫であることしかないし、役立てる手は他にない。  そうした覚悟を決めていたぶん、事前に晶は動けていた。ゆえに射線上へ入ることだけ見れば成功したが、真の問題はそこにない。  果たして、これに耐えられるか。鈴子と水希を守れるほどに、威力を減殺できるだろうか。  正直、自信はまったくない。だがやらなければならないことで、それは可能かどうかの話じゃなく―― 「――やるんだよ!」  四四八とまったく同じ気持ちを護符のように抱いて叫び、同時に破壊の恋歌が直撃と共に爆発した。  轟き渡る地響きにも似た振動と、舞い上がり周囲を覆う噴煙の帳。それに巻かれてむせながら、晶は自分がまだ生きていることを理解した。 「え、え……あれ?」  おかしい。どうしてだ有り得ない。徐々に晴れていく視界の中、あちこち痛みだしたので無傷でないことは確かなようだが、それにしたって軽すぎる。  少なくとも五体満足なのは間違いなく、せいぜいがきつい打撲と擦り傷や切り傷といったところ。  こんな程度で済むはずがないというのに、いったいどうして?  疑問は、目の前で帳が晴れると同時に氷解した。 「おい、なんだこりゃあ。意味分かんねえぞ。  誰か説明してくれんだろうな。いったい何がどうなってんのか」  その声、その顔、共に見知った人物のもので……同時に予想もしていなかった意外すぎる登場で。 「な、鳴滝ィ?」 「淳士――!」  晶と鈴子は、そろって頓狂な声をあげていた。 「おお、やっぱ鈴子おまえだったか。何やってんだよ、馬鹿面して。  またしょうもねえこと始めたってのか? ちったァ懲りろよ、この阿呆」 「な、な、な、な―― う、ううるさいわね! あんたに何が分かるってのよ! この不良、DQN、野蛮、猿!  だいたい馴れ馴れしく話しかけてんじゃないわよ。私の半径十メートル以内に近づくなって言ってるでしょ! 恥ずかしいのよ、あんたみたいな暴力馬鹿は!」 「い、や――まあ、なんだおい」  いきなり始まった寸劇に当惑しながら、ともかく彼のお陰で助かったのだと理解する。  そこで冷静になって顧みれば、確かに有り得る話ではあったのだ。 「そうか……あのときバイトのキー」  鳴滝淳士もまた同じく、四四八の持ち物を受け取っていた。それなら彼がこの世界にいても不思議はなく、どうやら鈴子とは知己のようだし助けてくれたのもそれゆえだろう。  もともとリアルでも腕っ節の強い男だ。自分たちには致命的でも、こいつなら防げたという結果も納得は出来る。  もっとも、流石に平気というわけじゃなかったようだが。 「たく、ほんとなっちゃいねえなおまえはよ。うるせえわりには礼の一つも言いやがらん。  怪我人捕まえて好き勝手ぬかしやがるぜ」 「あ―――」  そこで鈴子も気づいたらしい。彼の腕が血塗れになっているという事実を。  それは素人目にも重症で、骨ごとズタズタになっているかもしれないという有様だった。にも関わらず声に苦痛の色が見えないのは驚きで、だからこそ鈴子も理解が遅れたのだろう。 「すまん鳴滝、助かった」 「あんたそれ、まさかさっきの……」 「おお、殴りつけてやったんだよ。何せ暴力馬鹿なんでな」 「う、それは……ごめんって――悪かったわよ!」  とにかく、思わぬ救援のお陰で九死に一生を得たのだから、その幸運を無駄にしてはいけないだろう。 「あっちゃん、早くこっちに!」 「分かった。鳴滝、悪ぃけど――」 「ああ、やべえことになってんだろ? それくらいは見りゃ分かる。  説明は後だな。フケるぞ、鈴子」 「あんたに言われなくても分かってるし!」  そうして、未だ目を覚まさない水希を抱えたまま合流を果たした。  この後の目的は総撤退にある以上、もっともキャンセルに強い者がここで中核にならねばならない。  それが誰かは言うまでもなく。 「おまえらオレから離れんなよ。気合いで穴空けてみせっから、成功したら一気に逃げんぞ!」 「頼む栄光、だけど――」 「四四八くん……」  まだ一人、何よりこの場の皆のために、矢面に立っている彼が戻らない。  決定的な隙というやつ、それを生むにはまだ足りないのか?  もう一押し、あと少し――  責任感の塊で、真面目を絵に描いたような彼だからこそ、半端な仕事はしないだろう。  だけどその見極めを誤れば、全部終わってしまう気がする。 「早く……」  だけどお願い、無茶はしないで。  もはやそう祈るしか出来なかった。  そんな様子を悪夢たちが見守っている。  嘲り――  見下し――  フラスコの中を観察する研究者のように冷たい熱を孕みながら。 「さぁて」  皆が彼の選択を待っていた。  あたかもそれが、すべての運命を決定する分岐路であるかのように。  次なる彼の行動からは――誰一人として目が離せない。 振り抜いた渾身の一撃が狙い過たず夜叉を捉えた。それは偽りない会心の手応えとして俺にも伝わる。今度ばかりは見せかけじゃない。 「―――――ァァ」 初めて漏らしたこいつの苦鳴こそがその証だ。ぐらつきながらたたらを踏む夜叉の鬼面には亀裂が走り、その下にある素顔が露出しかけている。 ならば今、俺が採るべき道は何だ? ここでどうするべきだと思う? 今、もっとも優先すべき選択は―― 色気を出すな。勝てると思うな。常に疑え、全体を見ろ―― こいつら相手に真っ当な戦いが出来ると錯覚すれば死に繋がる。 鬼面衆と切り結んでからずっと今このときまで、一瞬たりとも休まずに俺は自分自身へそう言い聞かせていた。 ゆえにここでも、その方針は変わらない。 釣られて堪るか。こいつら油断を誘うためなら、本当に腕の一本くらいは余裕で差し出すはずだろう。 あるいは、命そのものさえ。 たかが一発決まったくらいで、色めき立つほど〈素人〉《うぶ》じゃないんだ。 食いつかんぞ、舐めるんじゃない。 「おおおおおぉぉォッ」 ゆえに手の旋棍を回転させ、俺が打ったのは夜叉じゃなく地面だった。 いいや、正確には奴らの主が創界しているこの環境――その真芯を。 「気づいてないとでも思ったか」 砕け散った瓦礫の奥、旋棍が貫いた先には何もない。だが俺の目には見えていた。ここが陣の中核だということを。 これまで移動に拘った最大の理由は他でもない、立ち回りながらこれの場所を特定するため。 最初にぶっ倒れていた俺だからこそ――奴らが出現する前から地面に触れていた俺だからこそ、環境変化の発生源を感覚的に察していたんだ。 〈天候〉《うえ》を操りながら種は〈地面〉《した》だという逆さまは、なるほど普通なら気づかなかったに違いない。 だけど結果的にはこうして見切った。 そして当然、伊達でこんなことをやったわけじゃない。 地面にキャンセルを打ち込んだ瞬間、降り注ぐ雨も雹も砕け散って霧と化した。同時に、俺たちの存在自体がここからズレ始めているのを感じ取る。 栄光……流石にたいしたもんだ。お膳立てさえ整えれば一発とはな、恐れ入ったよ。 そのとき、一際激しい拍手が一つ。それが合図であったかのように、鬼面衆が掻き消えていく。 楽しげに喉を震わせている笑い声と共に。 「よいよ、こんなは切れる餓鬼じゃの。理屈呑み込むんが早いわ、ほんまに」 「まあ、他にも色々見破る種はあったしのォ……運もええわ」 それはまったくその通りで、否定はしない。 「一番のヒントは世良だ」 意識を失ったはずのあいつが、ずっと消えずにいたということ。 〈夢〉《こっち》で眠れば〈現実〉《あっち》で目覚める。それが決まりのはずなのに、世良はこちらに居続けた。 ならばつまり、そこには妨害があったということ。逃がさんと網を張ってる奴がいて、そいつを破らなければどうしようもない。 その理屈に気づかなければ、きっと最後まで空回っていた。蜘蛛の巣に絡め取られているのも知らず、無意味にもがいていただろう。 こいつの力は並じゃない。たとえ片手間のような遊びで張った陣であっても、その創界を俺一人、栄光一人のキャンセルでは破れなかったろう。 だから脱出には完璧なタイミングを必要としたわけで、 「要するに、俺たち全員の力を合わせた結果だよ」 千信館の学生らしく、そういうことだ。 「あるいは……まあええ。おまえ見所あるわ、見逃しちゃろう」 「こうなるんが俺にとって都合がよかったっちゅうことじゃろうしの」 「何を偉そうに――」 負け惜しみを言っている、と言いかけたそのときだった。 「なあ、じゃけえ今後は、あんま調子ん乗って無茶すんなや」 「俺はおまえらに優しいほうじゃぞ」 今や境界の壁となっているはずの霧を易々と壊し、突き抜けて、こいつの手が俺の頭に置かれていた。 そして優しく、本当に優しく……子供が取るに足らない成果を示したことすら褒めるように撫でながら。 「精進せえ。おまえそんとに正義ぶっちょるとお嬢に会ったら破滅するでよ」 「女は怖い。怖いけえのォ……そこんところは知っちょるんじゃないか?うははははははははは」 「――――ッ」 込みあがる恐怖に腕を振り払うより一瞬早く、奴は手を引くと身を翻して霧の中へと消えていく。鬼哭のような笑い声だけを残響させて…… 「くそ……」 まだ、まるで本気じゃないってことか。今、あいつにその気があったら、頭を握り潰されていたかもしれない。それくらいは容易くやれると、壊れ物を扱うような力加減からも理解できた。 諸々、先のことも考えればまったく安堵できる状況じゃないのは嫌になるほど分かっているが。 「――四四八!」 今はただ、こいつらと今夜を凌いだ意味をしっかり胸に受け止めよう。 「大丈夫? 怪我してない?」 「水希も一応、見た感じは平気そうじゃあるんだけど」 「……ああ、俺のことは心配要らない。世良もたぶん大丈夫だ」 「それよりも鳴滝、正直悪かったな。巻き込んでしまったみたいだ」 「そのへんのことは後で聞く。つーか今は、そんなことより手がすげえ痛ぇ。これどうにかなんねえのかよ」 「たぶん、目ぇ覚ましゃあ大丈夫だとは思うけどよ」 「恵理子さんは……」 「…………」 そこについては、誰も二の句が継げられない。起きてみなければ分からないことで、だけど起きるのが怖いとも感じていて…… ただ、再び濃さを取り戻しだした霧の向こう。そこにいる男から俺は目を離すことが出来なかった。 柊、聖十郎―― 「恵理子を屑と言ったのは撤回しよう」 「どうしてなかなか、役に立つ道具ではあったようだな」 「―――――ッ」 こいつは、本当にいったいどこまで……! 「セージ、セェェェジ、君は実に素直じゃないな。嬉しいならもっと言葉を選ぼうよ」 「なあ君、これでも彼は、胸焦がしながら期待してるんだから誤解するなよ」 「愛しい息子よ、俺を救え――救ってくれって。ひひひ、あははは、はーっはっはっはっはっは!」 掻き毟るような笑い声を響かせて、聖十郎と共に神野もまた去っていく。もう一人の女は俺たちに言うことなど何もないのか、とうに姿を消していた。 「ああ、強くなりたい。なりたいなあ。ねえ僕は強い? 強いだろう?」 「強くなったんだから愛してくれ。約束したじゃないか、もう二度とあんなことは言われたくない」 「〈Sancta Maria ora pro nobis〉《さんたまりあ うらうらのーべす》」 「〈Sancta Dei Genitrix ora pro nobis〉《さんただーじんみちびし うらうらのーべす》」 「おおぉぅ、あんめい――ぐろおおりああああす」 羽音のような〈聖歌〉《ノロイ》はずっと、それこそ目覚めるときまでずっと離れず、俺たち全員の耳にこびりついて残っていた。 まるでもう何度も何度も、人生最後の瞬間にその邪悪な声で祝福されてきたかのように。 そのことだけは、どうしても忘れられない〈記憶〉《ユメ》となって、腐臭を放ちながら存在したんだ。 …………… …………… …………… そして―― 「――――――」 現実に戻った俺は飛び起きる。 それと同時にすぐ傍らへと目を向け、だけど―― 「母さん……」 俺の呼びかけにこの人は応えてくれない。 見た目は傷なんか一つもなく、表情は幸せそうですらあって、本当に長年求めた夢を見ているような感じなのに…… 冷たいんだよ。動かないんだよ。話さないんだよ。目を開かないんだよ。 いつもいつもどんなときも、命も同然のように肌身離さず身につけていた左手薬指のリングだけが、白く冴え冴えと輝くだけ。 これが契約なのだと言わんばかりに。 愛した男との絆を信じて、ずっと想いを守り続けてきた結果がこれかよ? ふざけてる――こんなのは夢だろうが。有り得ないぞ冗談じゃない。 この指輪さえなかったら、こんなことにはならなかったのか? 俺が生まれて、色々あって、今日という日が来なければよかったのか? 出逢いは――あの男と初めて接した瞬間に、母さんの人生は壊されてしまったのか? あいつのことを嬉しそうに語っていた声が、今も耳に残っている。 近づけば誰もが正気ではいられない―― じゃあ母さんは狂っていたのか? 狂っているから幸せそうにしているのか? 死、んで……いいや殺されて。道具と言われて捨てられて。 何が幸せ? 何が夢? 何が愛しい? 分からない―― あの男に身を捧げる価値というもの、まったく俺には理解できない。 「ああ、母さん、だからなのか……」 「あいつに、似るなって言ったのは……」 自分のような者を、俺に作ってほしくなかったのか。あるいは、奴の道具とやらになってほしくなかったのか。 それとも、単に好きな男のもっとも愛すべき部分だけは、唯一無二であってほしいと思っていた、とか…… 「違うよね」 違うはずだと分かっていても、それに対する否定も肯定も返ってこない。 当たり前だ。死んでいる。死んだ人の気持ちは分からないから、俺の疑問に答えは永久返ってこない。 「母さん、酷いだろ。俺、困るよ」 乾いた声はひび割れて、我がことながら何の感情も窺えない。 泣き喚いて叫びたいのに、なぜか涙は一滴だって出てこない。 俺があいつの息子で、血を引いてるから、やっぱりちょっとおかしいのか? あの男に近づけば危ないって言うのなら、遺伝子レベルで接触している俺が一番やばいだろう。 「……ああ、くそッ」 馬鹿馬鹿しく女々しい自虐に恥を覚える。 これまで父を知ろうとしなかった。母さんの気持ちを考えようとしなかった。 そんな様で軽々しく親孝行などと口にして、二人を逢わせたから今がある。 自業自得という言葉を思い浮かべないためだけに、俺は何を酔ってるんだ。 そしてそんな風に考えながらも、さて葬式の準備はどうしようかとやめろやめろやめろやめろ―― 「死んじゃったんだな、母さん」 ワケの分からない思考を消して白紙にするため、俺はただ目の前の事実のみをありのまま口にしていた。 何よりも今は、それを受け止めるべきだと思ったから―― 「死んだ。母さんは死んだ」 夜明けが迫る黎明の中、ずっとずっとそう呟いていた。 きっともうすぐ、晶あたりが駆けつけてくるだろうから、そのときはどんな顔でなんて言うのがいいだろうなんて―― やめろやめろ、そんな冷静さは気持ち悪いし、あいつらを不安にさせるだけだと分かっているから…… 「やめてくれ」 都合よく斃せるとまでは思わない。だが、ここで撤退するにはまだ衝撃の度合いが足りなかった。 ゆえに、夜叉の素顔を曝してやる。こいつの正体など知ったことではないが、それでも隠されていたものを明かしてやれば、この場の皆に少なくない動揺を与えることが出来るはず。 無事にこの悪夢から脱出するため、それは必須のことだと思ったんだ。 成功させるチャンスは今しかない。 だから俺は、さらにもう一歩踏み込んで、刹那―― なぜか、心臓を鷲掴みにされたような悪寒を覚えた。 「―――ク」 亀裂の入った仮面の奥から漏れ聞こえたのは、失笑だったのだろうか。 あるいは呆れ、もしくは侮蔑。何にしろ陰にこもった、失望を意味する類であったように俺は感じた。 そして、そう思ったときにはすでにすべてが遅かった。 「あ―――」 ズレていく。俺の視界が斜めに傾ぎながら滑り始め、棚から落ちるように地面へ転がる。 転倒したわけじゃない。事実として俺の脚が、未だに大地を踏みしめ立っているのをちゃんとこの目が捉えている。 ただ、左肩から右脇腹にかけて斜線が走り、そこから上が存在しない。 首と右肩だけになった俺が、地面に転がっているのだから。 「愚カ者メ……」 紅く染まっていく視界の中、夜叉の言葉が俺の鼓膜を震わせた。その両手には依然として、何の得物も握られていない。 だが、確かにあった。こいつはこの間合いにおいて、必殺となる霞刃を持っているのだ。 近接に持ち込めばこちらの土俵と思い込んだのは完全な早計。これまで中・遠距離の攻撃に限定していたのは、近間こそが安全圏だと勘違いした獲物が、間抜けにも踏み込んでくる瞬間を狙い打つため。 確実に敵の息の根を止めるためなら、わざと一撃喰らうことなど何でもない。腕や脚の一本二本、いいや自らの命さえこいつは眉一つ動かさずに差し出すだろう。 殺し屋、隠密、鬼の子孫……その戦慄を読み違えたのが俺の敗因。 「戦真館ノ面汚シガ」 もはや完全な死に体となった俺にさえ、まったく油断なく容赦もない。夢の一片まで砕いてやると言わんばかりに、トドメの一撃が落ちてくる。 「四四八――!」 悲痛に叫ぶ晶たちに詫びることも出来ないまま、頭蓋を割って脳にめり込む刃の冷たさが、人生最後に俺が感じたものとなった。  そこは深海の底に沈んだような空間だった。  重く、暗く、冷たく、静か。華やかさや温かみは徹底して存在せず、正常な世界から切り離された特殊な様相を呈している。  一見すれば冥府や地下墓所、そのように表現するほうが正しいようにも思えるが、にも関わらず海の底を思わせるのには訳があった。  ここには生ある者が存在する。よって死者の国では断じてなく、ある種の前向きな営みが行われているのは間違いない。  ただし、それが常人のものとは趣をまったく異にするという事実があるから、ここは海の底なのだ。  深海魚は異形である。  日の光を浴びて生きる者には、その姿と習性が奇怪でグロテスクな異次元の仕様に見える。  だが、彼らにとってそれは至極真っ当で、自らの生き場に適応した美しくも無駄のないカタチなのだ。  ゆえに――今ここで交わされる遣り取りは異形の営み。  深海魚たちに相応しい、異界の日常ということになる。  暗黒の中、燭台に灯った光が闇を僅かに和らげた。しかしその火は冷光で、熱をまったく感じさせない。  水中で燃える炎などないのだから、それは当たり前のことなのだろう。  揺らめく灯りがそこに在る者たちを浮き彫りにしたことも、あるいは当人たちにとってどうでもいいことなのかもしれない。  顔など見なくても話は出来る。いいやそもそも、我らに〈貌〉《かお》は存在しないとでも言うかのように。  彼らは燭台を前に向かい合っていながらも、互いの目をまるで見てはいなかった。  光を必要としないゆえに視力を持たず、代わりに研ぎ澄まされた異形の感覚で闇に生きる、深海魚さながらに…… 「セージ、君は事態をどう見ている?」  常どおり親しげな、だが同時に嬲っているような嘲笑の気配を滲ませて、そう問いかけたのは神野明影。  燭台の火に照らされながらも、その顔貌には変わらず奈落が渦巻いている。  癖の強い金髪に生じた明暗は、まるで毒蛾の鱗粉であるかのように不浄な煌きを瞬かせていた。 「率直なところを述べてほしいね。頭のいい君のことだ、色々考えているのは分かっているけど、それで自己完結されちゃあ堪らない」 「そうだな。たとえば点数で答えてくれよ。君の見立てで、今の状況は何点くらいになるんだい?  百点基準だ。同志の満足度っていうやつを、僕としても知っておきたい。  セージ、問うよ。君はどう採点する?」 「50点」  即答したその声は、この場に相応しく陰鬱に沈んでいた。仮に凍った岩が話したとしても、もういくらか愛想のようなものがあっただろう。  そのまま感情を交えずに、柊聖十郎は短く続ける。 「つまり可も無く不可も無くだ。満足はしていないが、失望というほどでもない。 そしてそれは、俺にとってもっともつまらんことでもある」 「手厳しいねえ」  演出家を自称する悪魔にとって、それは耳に痛い評価だったのかもしれない。おどけたように宙を仰いで、歯を剥きながら笑っている。  聖十郎はそんな神野を完璧に無視したまま、やはり端的に問い返した。 「貴様の採点はどれほどだ?」 「60点――まあ甘く見ても70点だね」 「つまり僕に言わせれば、ギリギリ及第ということになる。もっとも、点数に差異はあっても、印象としては君とまったく同じだよ。  一言でいえば、つまらんね」  だからこそこの場を設けた。神野は言外にそう言っている。  彼ら――個々の最終的な目的はともかく、現時点においては同盟している者同士、共に事態をつまらぬと見ているのなら、それを動かさねばならないだろう、と。  彼らにとって面白いと思えるような方向に。それが余人にとってどのようなものになるかは別として。  聖十郎が口を開いた。 「鋼牙については問題ない。あれはあれで甘くもないが、俺の立場としては放置で構わんと思っている。  少なくとも当面は、邪魔になることもないだろう。問題は神祇省だが……」 「あそこはちょっと読めないからねえ。まあ、分からない奴についてあれこれ考えるのは時間の無駄だよ。そもそも当の本人にさえ、自分の手が分かっちゃいないはずだから」 「貴様でも、あの盲打ちは苦手か、無貌」 「興味が持てないっていうことを、そういう風に表現できるならそうなんだろうね。あれには傷らしい傷がないし、人としておかしいよ。  ああ、なんて言うんだったかな。僕の性分を彼らの基準に照らした場合」 「〈第八等廃神〉《だいはちとうはいしん》・〈蝿声厭魅〉《さばえのえんみ》――つまり祟りの最上級だ。〈菅公〉《かんこう》や〈崇徳院〉《すとくいん》ですらあの連中の基準では五等・六等。光栄に思うがいい。貴様は〈御霊〉《ごりょう》として利用することすら出来ぬモノと見られている」 「じゃあ僕は、〈八百万〉《サセコ》からも相手にされない奴ってことかい?」 「少し違うな。誰とでも寝る女ではなく、使える男を選んで股に呑み込む女だ。別にこの国の専売ではない。魔道、宗教など多分に狡すからい〈女〉《イデア》に過ぎん。やっていることは何処も同じよ。  たとえ悪魔、怨霊や禍津神であろうと力があれば祀り上げて使ってやるとな。先の二柱然り、牛頭天皇、将門、早良親王……数えあげれば切りがない」 「だが貴様は、明確にそこから例外視されている。文字通り、煮ても焼いても食えんとな。  いや、正確には貴様ともう一人だが」 「あまり一緒にされたくはないねえ」  そのもう一人とやらを知っているのか。神野は珍しく嫌そうな態度で嘆息した。宗教学、民俗学に通じている聖十郎の言葉には、学者特有の突き放した響きがあったせいかもしれない。  しかし、すぐにいつもの嘲笑的な気配を纏って、話を続ける。 「僕は人を愛しているんだ。この高尚な精神活動を、ただ左に回ってるだけの機械じみた化け物と同じに見られたくはないよ」 「つまり貴様はこう言うわけか。共に左道でも、己には確固たる意志が存在していると」 「もちろん。見れば分かるだろう」 「例えば、あの娘に対して?」 「それと、君にだ」  燭台の炎が一際揺れる。聖十郎の顔を舐めあげるように明滅する輝きは、今の会話で爛れ落ちた神野の欲情が油となっているかのようだった。  獣脂にも似た生臭い匂いが周囲を包み、その中を含み笑いが流れていく。耳元で飛び回る虻の鬱陶しさを思わせる、それは不快でいやらしいものだった。  聖十郎は何も言わない。  ただ、便所の側溝でも眺めているかのように眉間の縦じわを深くするだけ。  神野の双眸が、抑えきれぬ愉悦によって三日月を描きあげた。 「セージ、君は素敵だ。愛しているよ。僕がもっとも好む〈闇〉《キズ》を持っている。  いや、この場合は病みと言うべきなのかな。どちらでもいいがね。  神祇省が言うところの〈廃神〉《タタリ》である僕は、君のような人間らしい人間のことが何よりも好ましい。それこそ、僕に対する極上の供物だよ」 「……つまり貴様は、俺を凡俗だと言っているわけか」 「凡俗の何が悪いんだい。万人に一人の特殊さとやらで何が出来る。  普遍であるとは、不変だっていうことさ。珍しいだけのものを讃えるなんて軽薄だよ。その新鮮さとやらいうやつで一時的に目立つかもしれんがね。しょせんはただの幻惑さ。そのうち皆、気づいて飽きる」 「人をして共感できるというのは大事だよ。もともと君はそこに特化した人種だと僕は思うし、まあつまりそんなわけでだ」  脱線していた話の趣旨をそろそろ戻そう。神野はそう肩をすくめて、続く言葉を口にした。 「今後、面白くしていくためには、君の協力が不可欠だと言いたいんだよ」 「君の息子は中々のタマだけど、どのみち彼ら、今のままじゃあいくらも保たんよ。僕らと違って、洒落の通じない奴もいるからね」 「…………」 「不本意かい? だが、あの子達がいま崖っぷちにいることくらいは分かるだろう。少しは父親らしいこともしてやりなよ」 「〈辰宮〉《たつみや》、〈空亡〉《くうぼう》」 「そうだよ、セージ」  我が意を得たりと言うかのように、神野は口角を吊り上げた。 「僕らの大事なあの子達が早々喰われて消えないように、危険な奴らにゃ釘を刺しとかなきゃいけないだろう。手を貸してくれ。  いくら僕でも、〈夢〉《カナン》の二大勢力を相手に一人で立ち回るのはきついからね。  物語ってのにはセージ、主役がいきなりとんでもないのとは当たらないように調整する裏方が必要なんだよ」 「それも、演出」 「そうだよ。つまらないかい?」 「ああ、つまらんな」  岩を抉るような低い声。ここにきて、聖十郎の態度に初めて感情の色が混ざった。  それは憤怒――のようでありながら、もっと根が深く病的な何か。  一瞬だけ垣間見せたどす黒さは、しかし次の刹那には消えていた。聖十郎の鉄面皮には、凍るような怜悧さ以外、いかなるものも浮かんではいない。 「つまらん。つまらんがしかし、理屈だな。だが俺は、こうも思う」 「人間の真価とは、到底敵わぬものを前にした時でしか測れぬと。誤解するなよ。何も立ち向かわなければ駄目だと言っているわけではない。  膝を屈し、服従するのも選択の一つだ。貴様のように」  そこで二人の視線が宙でぶつかり、言い知れぬ重圧が周囲を覆った。今、聖十郎が吐いた台詞は、ある種の一線を越えたものだったのかもしれない。 「一つ聞かせろ、神野明影。〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈貴〉《 、》〈様〉《 、》〈の〉《 、》〈主〉《 、》〈の〉《 、》〈意〉《 、》〈向〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?  〈貴〉《 、》〈様〉《 、》〈の〉《 、》〈主〉《 、》〈人〉《 、》〈が〉《 、》、〈斯〉《 、》〈く〉《 、》〈計〉《 、》〈ら〉《 、》〈え〉《 、》〈と〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?」 「…… 違うよ」  それは、即答とは言いかねる間を挟んでいた。この悪魔にとって急所を突いた問いだったからそうなったのか、あるいはあえてそう見せただけなのか。  変わらずにやついている無貌から、その点を推察することは出来ない。  だが少なくとも聖十郎は、それで納得をしたらしい。頷く代わりに席を立ち、踵を返して歩きだす。 「何処へ、セージ?」 「愚問。父親らしいことをしにいくのだ。貴様は貴様の役を果たせ。  裏方は裏方らしくな。せいぜい客を飽きさせぬようにすることだ。  俺もまた、貴様が役に立つ限りは利用してやる」 「それは恐悦、ありがたいねえ」  おどけた揶揄を取り合わず、そのまま聖十郎は闇の奥へと消えていく。残された神野は一人、なんとも嬉しそうな様子で苦笑していた。 「まったく、素直じゃないんだから。  ああ、しかし、それは僕もか。――くははっ」  そして同時に、燭台の火が消える。真に闇となった空間は、ただねっとりとした深淵だけを残して静寂に返っていた。  ここに深海魚はもういない。ならばそれは、虚無の宇宙と言っても差し支え無いのかもしれなかった。  今夜もまた、眠れぬ夜を過ごしている。 「………はぁ」  机に向かった姿勢のまま、何度目になるか分からない溜息を晶は漏らした。指で無意味にペンを回しながら、開いたノートを見下ろしている。  別に勉強をしていたわけではない。日記を書いているのでも、マンガを描いているのでもなかった。あまり用を成していないボールペンは、たまに思い出したような頻度で似たような文章を綴るのみだ。 「バカやろう……」  どうして、なんで、最悪だよ、ふざけるな……ともかくそうした類の諸々。つまり一言でいえば愚痴である。  それらを口にも出すし、文字にもする。あまり有意義な行為とは思えないし、そこは晶も自覚していたが、そうせずにはいられなかった。  あの日、悪夢から覚めてすでに三日が経っている。いや正確に言うと、まったく覚めてはいないのだ。この現実にまで影響を及ぼす出来事として、拭えない傷を当事者たちに残している。  柊恵理子は死亡した。あの朝、目覚めると同時に飛び起きて、寝間着のまま顔も洗わず柊家へ駆け込んだ晶が目にしたのは、そうした現実に他ならなかった。  泣いたと思う。怒り狂ったと思う。そして潰されそうな自責の念に襲われた。なぜなら、恵理子を夢の世界に誘ったのは晶の発案だったのだから。  どうしてこんなワケの分からないことが起こるという疑問はともかく、目の前の光景が強烈すぎて、他の如何なることも出来なかったのだ。  それは遅れてやって来た歩美や栄光も似たようなもので、電話してきた鈴子と淳士も同じだった。誰もが皆、突然の理不尽に混乱を隠せなかった。  例外は唯一、四四八のみ。  どうしてあいつは、あんな風だったんだろう。晶はそのことを考える。  あの日から今まで、つまり恵理子の死に直面してから以降のすべて……  人が一人死んだときに身内が成さねばならないことは無数にある。それら悉くを、四四八は一切の遅滞も見せずに一人で完璧にこなしてみせた。涙を止められない晶たちを気遣い、慰めるという行為すら交えたうえでだ。  それはまったく四四八らしい、毅然とした立派な態度だったと言えるだろう。自分の動揺に周りを巻き込むことを良しとしない男らしい優しさは、誰もが持てるものではない。  四四八だから出来る。自分たちには出来ない。そう断言できるからこそ、いつも通りだった彼の態度が悲しいのだ。  葬儀の際、一部心ない連中が言っていたことがある。  どうしてあいつは、あんな平気な顔をしてるんだろうね。冷たい奴だ。  その戯言が耳に入った瞬間、晶は沸騰しかけたが、歩美たちに止められた。  そこで我慢するのが人として正しいのかは分からなかったが、止められたこと自体には感謝している。  なぜならあのまま暴れていたら、他ならぬ四四八自身に止められていただろうから。母親の葬儀の最中に、喧嘩の仲裁なんかさせていいわけがない。  いや、正確に言うと、自分はいつも通りの四四八なんか見たくないのだ。優秀だとか立派だとか、今そんなのはいい。  泣いてほしかった。怒ってほしかった。責めてほしかったのだ。  そんな、四四八らしくない四四八こそを晶は見せてほしかった。  取り乱して然るべきことが起きたのだから、ペースが狂うことこそ正常だろうに、そうなっていないのは決してあいつが冷血だからというわけじゃない。  四四八は単に、悲しすぎて感情が麻痺しているのだと晶は思う。もしくは諸般の手続きに忙殺されることで、悲しみから目を逸らそうとしているのか。  いずれにしろ、〈生〉《なま》の四四八は奥に引っ込んでいるような状態だろう。そう思う根拠は、これまで共に過ごしてきた幼なじみとしての十数年間で充分すぎる。 「全部、あたしらが頼りないから……だよな」  つまり、そういうことなのだ。  自分たちは四四八をフォローできるような存在じゃないと痛感してしまうのが何よりつらい。  勉強面やその他日常の些細なことで彼に手間をかけさせていたこれまでとは訳が違う。こういうときこそ力になれないで何の友達、何の仲間か。  とは思うのだが、実際に何の役にも立てなかったのは事実なので、晶は自己嫌悪に陥っている。  夢でのあれはなんだったのだろう。そしてこれから、何がどうなっていくのだろう。不明なことが多すぎて、何をすべきか分からない。  こんなうじうじしたのは良くないと思っているけど、発起するのに最初の一歩をどう踏み出すべきなのか、行動の指針となるものが見えなかった。  現状、やっていることと言えば愚痴を除いてただ一つ。  眠らないこと。それしかない。  恵理子が死んだあの朝に、四四八が自分たちに命じたのだ。  しばらく眠るな。ただ、そう一言。  言われなくてもそのつもりだった。四四八はこれまで、眠る暇などないくらいに忙しかったろうし、彼がそういう状況なのに自分だけゆっくり休もうなんて気には到底なれないから当たり前だ。しかしそれとは別の意味で、眠りを禁じているのには理由がある。  またあの夢に入ってしまうのを防ぐこと。少なくとも何かがはっきりするまでは迂闊な真似を控えるべきだと、他ならぬ四四八がそう言っている以上、それに異を唱えることなど出来はしない。  だけど、しばらくっていつまでだ? 体力に自信のある晶でも、完徹三日目ともなればさすがにそろそろ限界が近い。おそらく、明日以降は不可能だろう。他の皆もきっとそうだ。  この三日間で、四四八は何かの答えを見つけることが出来たのか? いいやそれとも……  そもそも自分たちを関わらせないようにしたうえで、決着は一人でつけようと思っている、なんてことは…… 「くそ……」  手のボールペンを握り締める。四四八から貰った夢の世界への通行許可証。これこそ自分たちが仲間であると示す証なんだと思いたい。  全部自分たちを脇へ追いやるための方便で、今頃四四八はただ一人、夢の中で血を流しているなんてことはない。……はずだ。  そこまで友達甲斐のない奴だと思いたくはないし、そこまで自分たちが役立たずだと思われているのだとしたら悲しすぎる。  だから晶は四四八を信じて眠らない。まさか抜け駆けなんて無しだろうと思って、いるけど……しかし本音はどうなのか。  まさか、そんなもっともらしい理屈を盾にして、単に自分はビビっているだけじゃないのか。  眠って、恵理子のようになるのが怖いから避けているだけなのでは? 「違う……!」  違う。違う――そんなことは断じてない。だけど、だからって眠るのは、四四八の方針を違えることで……ああもう、いつまで頼ってるんだ情けない! 「晶、ちょっといいか?」 「えっ――、ぁ、な、なに?」  不意に響いたノックの音とその声に、晶は上体を跳ね起こした。 「いや、まだ眠ってないのかと思ってな。蕎麦持ってきたんだ。食べるか?」 「あ……、その、ありがとう」  入れよ、と晶は言って、ドア向こうにいる父親を促した。巨体を窮屈そうに折り曲げて、部屋に剛蔵が入ってくる。 「ここに置くぞ」 「……うん」  湯気を立てている蕎麦に親子そろって目を落とし、そこから先が続かない。何を話していいか分からないのだ。まったく、自分は本当に駄目だなと晶は思う。 「きついのは分かってるが、食べたほうがいい。それから睡眠もな。隈、できてるぞ」 「分かってるよ。どうせ酷い顔してんだろ、あたし」 「いいや、晶は美人だし、可愛いぞ。さすがは俺の娘だと」 「鏡で自分の顔見て言えよ、タコ親父」  それは力ない苦笑だったが、冗談めいたものを口に出来たことでいくらか心が軽くなった。晶はそのことに感謝する。  この父親は父親で、相当堪えているはずなのだ。何せ恵理子にぞっこんだったわけなのだし。  決定的な現場を見ていないからといって、それが心的負担を軽くするとは必ずしも限らない。事の因果関係を欠片も知らない剛蔵にしてみれば、混乱度合いはむしろ自分たちより酷いかもしれないのだ。  蚊帳の外――そんな状況で好きな女を喪った以上、胸には計り知れないものがきっと渦巻いているだろう。  にも関わらず気遣いを示してくれた剛蔵の親心が嬉しくて、そして同時に可哀想で、晶はこのごつい男を慰めたくなった。  それとも、そうすることで自分が慰められたいのか。  いずれにせよ、口を衝いて出た言葉に、剛蔵をからかう意図はまったくなかった。 「なあ、恵理子さんのことが好きだった?  あたしはさ、親父と恵理子さんが一緒になっちゃえばいいのにって思ってたんだよ」  自分だけじゃない。四四八も、歩美も、栄光も、この煮え切らない大人たちを好いていた面々は、残らずそう思っていた。 「どうなの?」 「それは……」  いきなりのことに、剛蔵はあからさまな様子で狼狽えている。誤魔化せるとでも思っているのか、何のことだともごもご抗弁していたが、じっと見つめてくる晶の瞳に観念したらしく、やがて小さな溜息をつくと、頷いた。 「……ああ、まあ、うむ。そうだな。  好き、だったよ。若い頃から」 「やっぱり」 「なんで気づいた?」 「バレてないとでも思ったのかよ。見え見えだって」 「そうか。それはまた、情けないが仕方ない。俺はどうも昔から、そういうことが駄目でなあ。  でも、恵理子さんは気づいてなかっただろ」 「それは良いのか悪いのか分かんねえけど、そんな感じだったな」 「ああ、あの人はセージ……聖十郎だけを見ていたから」 「いや、すまん。話が飛んだな。聖十郎っていうのは……」 「知ってるよ。四四八の親父だろ」  そう、知っている。実際会って、この目で見た。  柊聖十郎――四四八の父親で、恵理子の夫で、剛蔵の友人であり〈恋敵〉《ライバル》であり、そして自分たちにとっては仇の名だ。  いかなる理由があろうとも、絶対に許してはならない男としてその存在を記憶している。 「知っていたのか。どうして?」 「まあ、うん。色々あってさ。それで親父、よかったら教えてくれよ」 「どんな奴だったんだ、柊聖十郎って」  あんな男を愛していた恵理子の気持ちが分からない。そして同じく、友人だっという剛蔵の気持ちも分からない。  だからこれはその謎を解くためと、一連の事象に多少なりとも触れさせることで、剛蔵を慰めるため。  夢で恵理子を殺したのが聖十郎だなんて馬鹿げたことを言うわけにはいかないが、これからの自分たちがどうしていくかを決めるうえで、剛蔵の話を重要な判断材料の一つにしたいと思ったのだ。  気休めと言えば気休めだし、剛蔵にとってはワケが分からないだけだろう。だけどそれでも、今の晶が父親にしてやれることはそれしかなかった。 「どんな奴、か。一言でいえば、怖い奴だな」  そんな娘の気持ちは当然分かっていないだろうが、それでも剛蔵は答えてくれた。  怖い奴……死ぬ前の恵理子が評していたのと似たようなことを、苦く笑いながら淡々と。 「俺はあいつが、心底気に入らなかったよ。恵理子さんのことを踏まえれば、単なる嫉妬なのかもしれんがな。それを差し引いても、虫が好かない奴だったと言うしかない。  結局俺は、恵理子さんが心配で、彼女を泣かせないようにするためだけに、あいつの友人をやっていたのかもしれない」 「ダサいね」 「ああ、ダサい。そしてさらに情けないのは、聖十郎が俺のことなど眼中にないと分かっていたことだな」 「でも、どうであれ友達だったんだろ?」 「あいつはそういうものをまったく必要としていなかったよ」  自嘲するように頭を撫でで、剛蔵は話を続ける。当時を思い出しているのだろうか、その目はどこか遠くを見ていた。 「そのぶん、妙に放っておけない奴でもあってな」 「どうしてこいつは、こんなに嫌な奴なんだ。いったい何をどうすれば、こんな性格になれるんだ。気になって気になって、俺は仕方なかったよ。  何か理由があるはずだ。ないといけない。そしてたぶん、恵理子さんはそこに気づいているからこそ……て風にな。随分と付きまとった気がする」 「それは、祝福したかったから?」 「どうかな。そんな殊勝なものじゃなかった気がする。単に悔しかっただけじゃないかな」  柊聖十郎の内面に、恵理子が惚れるに足る何かがあるはずだと信じていた。それはすなわち、剛蔵も聖十郎を好きになりたかったからなのだろう。  悔しかっただけだと言っているが、そこには惚れた女と友人の幸せを願う気持ちが確かにあったのだと晶は思う。 「じゃあ、その結果は?」  その何かは、見つかったのか? 「ああ、俺なりに分かりはしたよ。納得もした。あいつの傍に立つだけで、なぜあれほどすべてが怖くなったのか」  近づけば誰もが正気じゃいられない――柊聖十郎という男の本質、その原因。 「要約すると、あいつは俺たちが羨ましいんだ」 「え?」  期待した答えは、予想外に意味不明で、晶は思わず鸚鵡返した。 「羨ましい?」 「そう。聖十郎は俺なんかよりもずっとずっと嫉妬していた。憎んでいると言ってもいいぐらいだ。  〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈共〉《 、》〈感〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。そのことが何よりも怖かったんだよ。あいつの気持ちがよく分かって、何と言うかな、試される」 「だから放っておけなくなるんだな。恵理子さんを責められやしないよ。未だに俺だってそうなんだから。  〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈の〉《 、》〈役〉《 、》〈に〉《 、》〈立〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》、とな。おかしいと思うか?」 「い、や……あたしは、その……」  剛蔵が言っていることは抽象的すぎて、即座に理解できるようなものではない。煙に巻いたわけでもないのだろうが、謎は返って深まるばかりだ。  ただ、分かっているのは、柊聖十郎に対する剛蔵の気持ち。恐怖と友情の混交というのは甚だ不可解であるものの、それが答えだと言うなら疑うことは出来なかった。恵理子に通じる部分もある。  しかし、自分たちを羨ましがっているとはどういうことか。それはむしろ、こちらの台詞というやつだろうに。  頭脳、肉体、すべてにおいて凡人を圧倒している柊聖十郎。そんな男が自分たちに嫉妬しているなんて感情に、共感できるとは思えないんだが……  役に立ちたい……それは自分も四四八に対して持ってる心で、非難されるような感情ではないはずだけど、ここでは呪いのように聞こえてしまう。 「親父が役に立ちたいと思うのは、どういう面で?」 「分からん。それをずっと探しているのかもしれんな、俺は。  だが、今さらながらこうも思うよ。もっと早く答えを出していれば、こんなことにはならなかったのかもしれないと。  そしてだからこそ、今は聖十郎に会いたいよ。やはり放ってはおけん奴だしな」 「…………」 「どうした晶、顔が怖いぞ」 「え? いや別に、なんでもないって」  剛蔵が真相を知り、聖十郎とまみえる瞬間というのを想像して、晶は背筋が寒くなった。それがどのようなものになったところで、修羅場どころではすまないはずだ。  彼らの間で、少なからず緩衝材的な役を果たしていた恵理子はいない。ゆえにその結果として転がる先を恐怖する。  駄目だ。嫌だ。やはり何と言われようと、剛蔵をこの件にこれ以上関わらせてはいけない。死んでほしくないし、さらに恐ろしいのは彼が向こう側に回ることで……  有り得ないとは思っているが、聖十郎の毒素とでも言うべきものの影響を、剛蔵は恵理子と同じく受けている。ならば最悪を避けるためにも、この話はもう終わりだ。 「そ、それよりさ、何だかんだで親父も結構、青春みたいなことしてたんだな。 ずっと恵理子さんに惚れてたくせに、ちゃっかりババアと結婚してるし、やるじゃんよ」 「う、いや、それは、その……」  話題を変えるために茶化した調子で言う晶に、再び剛蔵は狼狽えた。実際、意外さの度合いで言えば、この純朴男がそんな立ち回りをしてみせたことも相当なものだろう。 「母さんには、確かに迷惑をかけた。おまえの立場からしたら思うところも当たり前にあるだろうが、あまり恨まないでやってくれ。悪いのは俺だから」  理由はどうあれ、外に男を作ってさっさと出て行った女のことを庇うあたり、人がいいと言うしかない。晶としても今さら母親のことなど興味は無かった。真奈瀬剛蔵の娘として育ったことに満足している。 「ま、女の扱いが上手くないのは知ってるよ。聞く限り親父たちの青春はほんと駄目駄目だけど、それが悪いことばかりだったってわけじゃないし」  全部が間違いだったとは、何より晶自身が思いたくない。 「そうだな。お陰で俺はおまえに会えたし、おまえは四四八くんに会えた。これは素敵なことだろう」 「うん、そう思ってるよ」 「だったら、変なところで俺には似ないでくれよ、晶」 「えっ?」  と呆ける晶に、剛蔵は意趣返しのつもりなのかにやりと笑った。 「男の扱いが上手くないとか、自分の子供に言われないようにな。四四八くんが心配なんだろう?  俺の出る幕なんかないほど彼は立派にこなしてたが、だからといって平気なわけじゃないはずだ。きっと無理をしている」  だから力になってやれと付け足して。 「会いに行けよ。何を話すべきか頭で纏まるのを待っていたら、だいたいは手遅れになる。経験者からの忠告だ」 「親父……」 「ただその前に、蕎麦を食え。そんな景気の悪い顔で会いに行ったら、四四八くんも幻滅だ」 「なっ――」  四四八に会いにいく――そのことを意識した瞬間にそう言われ、晶は自分でもよく分からないまま一気に顔が熱くなった。 「ちょ、おい待てや! さっきあたしはいつも可愛いって言ってたろうがよ」 「残念ながら俺の娘だ。顔の面ではすまんことをしたと思っている」 「うるっせえな。あたしは髪の毛ふっさふさだし、一緒にすんなよこのハゲ、ハゲ!」 「ハゲって言うなァ! それは、それだけは言っちゃ駄目っていう約束だろうが……うぅ、うおぉ、おおおおおおおおお!」 「あーもう、泣くなよ。でかい図体で鬱陶しい」  などと悪態をつきながらも、迷いが晴れているのを晶は感じた。  そうだ、自分たちが仲間として共にあるのは素敵な現実で幸せなこと。悪い夢ばかり考えていないで、それを第一に思えばいいのだ。遠慮なんかする必要はない。  四四八に会おう。そしてお互いの考えとか、格好つけずに話し合おう。  話してくれなきゃ怒鳴りつけるくらいの勢いで、それくらいしても壊れないから仲間なんだ。 「晶、なあ晶、俺の毛根は本当に全滅してるとおまえは思うか?」 「知らねーよ」  パチン、と見事な光沢を放つ父の頭を叩きながら、晶は剛蔵に深い感謝を捧げていた。  黙々と、精密機械のようなそつの無さでキーを操作し続ける。それと同時に、野生の獣もかくやというほど鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が、殺気とでも言うべきものを過たずに察知して反撃する。  たとえ画面越しだからといって、気配がデジタルに消臭されるわけではないのだ。ネットワークで繋がっている世界ならでは、歪であっても必ずソレは存在している。人の感覚が電気信号にすぎないことを鑑みれば、むしろよりダイレクトに感じられるとさえ言っていい。  そして無論、ならNPCには鼻が利かないのかと言われれば、そんなことは有り得なかった。彼らは人に創られたものだから製作者の〈意図〉《センス》が匂うし、どれだけ高度になったといっても結局のところプログラム。行動パターンは人が操作するものより遙かに狭い。楽に読める。  ゆえに、そうしたコツを完璧に掴んでいる彼女にとって、負ける要素は微塵も無かった。少なくともこの電脳の世界において、同程度の勘と操作技術を持っている者でなければ、まったく相手になりはしない。  そうした敵は、全世界で同時接続者数が二百万を超えたことさえあるというこのゲームでも、これまで五人もいなかった。今も実質たった一人で、二十人からの対戦相手を残らず血祭りにあげたところである。  こんなことはいつも通り。勝負に没頭しているときの歩美は、あらゆる意味で隙が無い。あえて難点を挙げるとすれば、ゲームに集中しすぎて現実への対応がおろそかになるということなのだが。 「おい歩美――歩美、コラ」  新手の戦闘ヘリを苦もなく撃墜したところで、インカムから響く声に気がついた。我に返った歩美は素の調子に戻って言う。 「ごめん、なんだっけ栄光くん」 「いや別に、なんだってわけじゃないけどよ……」  大人気FPS『デッド・ゾーン』……その世界ランク三位のプレイヤーで、“カラミティ・ジェーン”だの“ブラッディ・マリー”だのと物騒な異名で呼ばれている凄腕とは思えないのんびりした声だった。歩美にぶちのめされた者の中には、現役の軍人たちさえ掃いて捨てるほどいるというのに、もはや冗談のようなギャップと言える。 「一人でぽんぽん先進むなよ。一応ほら、チームなんだからオレたちは」 「ああ、うん。そうだったね。じゃあ栄光くんの二時方向、ルート確保お願いしていい? 〈伏撃〉《アンブッシュ》臭いから気をつけて」 「おう、任せとけ。ばっちり道作ってやっからよ」 「――て、うおおお! 歩美歩美、やばい助けてー!」 「あん、もう。だから言ったのに」  予想通り待ち伏せしていた敵兵から集中砲火を受けている栄光に呆れつつ、歩美はその援護――と言うより敵の殲滅に取りかかった。火線の流れやそのタイミングを見る限り、相手は上手く連携しながら遮蔽物を盾に素早く移動を繰り返している。明らかに素人ではない。  だが、歩美にはあまり関係のないことだった。  制圧射撃の担当がバトンタッチする瞬間を読み、半身だけ姿を覗かせた敵兵を一発で仕留める。大きさは米粒ほどもない的だったが、その頭を正確に撃ち抜いた。  この程度の距離ならば、わざわざスコープを覗くまでもない。勘と反射で、たぶん目を瞑っても当てられる。  それで、敵チームが動揺する気配を感じ取った。今の一発が単なる偶然のラッキーパンチでないことを悟ったのだろう。やはり中々に優秀な相手らしい。  インカムの設定を変えてあちらの会話を傍受すれば、お決まりのファッキンシットに続いて〈疫病神〉《カラミティ》が来たと英語で喚きあっている。アメリカの軍人さんかなと歩美は思い、対米兵用の決まり文句を口にした。 「ヤンキー・ゴーホーム」  〈ぶち殺してやるぜ〉《キック・ユア・アス》――呑気な声で綴られるそれは、だが死の宣告に他ならない。“血塗れ”の異名どおり、敵兵を片っ端から薙ぎ倒していく歩美に容赦はまったくなかった。いかにゲームであるとはいえ、外見からは想像も出来ないバイオレンスを実にクールな調子でこなしていく。  仮想現実への適応。自分の本質を何処か遠くに置いたまま、他人事のように銃爪を引き続けるという特性は、そう言ってよければ才能だった。事実、そうしたメンタルを手に入れるため、世界中の兵士たちが厳しい訓練を行っている。  それを当たり前に持っているということは、控えめに言っても只事ではないだろう。  生まれた国や時代が違えば、かなり爽やかな人生を送る羽目となったかもしれない。そこには無論、戦場以外何も知らない生き方というのも含まれている。  つまり歩美は、良くも悪くもストレスに呑まれないための処方をナチュラルに知っているのだ。  ゆえに、あの事件を経た今も、仲間内で一番平常心を保っているのは間違いなく彼女だった。 「あ、ごめん。またやっちゃった」 「……いや、うん。もうええわ。頼りになるよおまえはほんとに」  再び敵勢力を一人で殲滅した歩美に対し、疲れた声で栄光は言った。完全なおこぼれのボーナスでちゃっかり装備を整えながら、幼なじみと合流する。 「この状況、オレにとっちゃおまえはむしろ福の神だしな。もういいから、気にせずガンガンやっちゃってくれよ。この程度のステージは楽勝だろ」 「そうだね。全部こんな簡単だったらいいのに」  まさに〈死の空間〉《デッドゾーン》を具現したことで、自分たち以外は誰もいなくなったフィールドを睥睨しながら歩美は呟く。ここに新たな敵がやって来るまで、戦場は小休止に入っていた。 「……まあ、四四八は、あれで結構複雑だからな。事情も事情だし。  おまえだって、あいつの心境は分かるだろ」 「うん。今はとにかく、気の済むようにさせてあげるのがいいと思うよ。我に返ったとき、四四八くんが一人ぼっちで寂しい気持ちにならないよう、わたしたちが気をつけてれば。  まあ、あっちゃんあたりは、そろそろ焦れて突撃かけそうな気がするけども。そうなったらなったで四四八くんのケアは任せるよ」 「いいのか? 晶に点数持ってかれるぜ」 「今さらそんな関係じゃないもん、わたしたち」  栄光の台詞を笑って流し、歩美は弾薬の整理をする。自分たちはもはや兄弟みたいなもので、男女の色恋とかいう枠の理屈には嵌らない。  だから四四八のフォロー役を競い合うとか、そういうのはどうでもいいのだ。栄光だって、そこは分かっているだろう。先の言葉は洒落にすぎない。 「役割分担しないとね。チームの基本だよ栄光くん。  わたしたちはわたしたちで、やることや考えることがあるじゃない」  つまり、あの夢の謎を少しでも解くこと。歩美はこの三日で自分が試してみたことを、ごく簡単な調子で口にした。 「わたし、眠ってみたんだよね」 「はっ?」 「だから、寝たの。またあそこに入れるかどうか、確かめたかったから」  驚愕している栄光を無視して、歩美は続ける。眠るなという四四八の命令を完全無視したことについて、まったく恐縮していない。  夢で恵理子がどうなったかということを踏まえれば、度胸がいいなんて一言では片付けられない真似だろう。 「おま、おまえなあ……なんかあったらどうすんだよ」 「お説教なら後で聞くよ。どのみちはっきりさせなきゃいけなかったことでしょ。違う?」 「そりゃまあ、そうだが……」  夢界に入る条件の特定。それは実際、最優先に近いことだ。こればかりは推論だけで通すわけにはいかない。  栄光も理屈としては同感らしく、呆れながらも先を促してきた。 「で、結果は?」 「無理。入れない。四四八くんのアイテム持ってるときと持ってないとき、両方試してみたんだけどね」 「そりゃつまり、四四八が眠ってないからっていうことか」 「たぶん。ううん、きっとそうだよ。サーバーが動いてないからログインできない。〈認証〉《パス》の有無も、関係なくなってるんじゃないのかな」 「てことは逆に言うと、今後四四八と同じ時間に眠れば問答無用っていうことか。オレらはもう、登録されちまってると」 「そう思うよ。そこも次で試すけど」  次――すなわち明晩以降。いくら四四八でもそろそろ徹夜は限界のはずだから、そのときをもって完全に条件を特定する。歩美はそう言っていた。 「ずっと眠らないなんて不可能だもんね。だから少なくとも、四四八くんはもう逃げられないよ。逃げる気もないだろうけど」 「わたしたちにしたって、そこはほとんど同じようなものだと思う。この先ずっと、四四八くんと眠るタイミングをずらしていくなんて不可能だよ」 「ずらす気もないしな」 「うん。そんなことに頭使いたくない」  たとえば地球の裏側にでも引っ越せば、時差のせいで相当ずらすことはできるだろう。だがそれにしたって完璧じゃない。  となれば、残る可能性はあと一つ。四四八が死ぬことだけだろう。曰くサーバーがクラッシュすれば、夢界と歩美たちのリンクは切れる。かもしれない。  が、そんなことを考慮するのは論外だ。 「オレはおまえらも知ってる通りビビリだし、切った張ったなんてガラじゃねえよ。正直怖い。  けど、だからってケツまくるっつーのはもっとねえ。そこはあんとき言った通り、今も気持ちは変わってない。  恵理子さんには世話になったし、四四八にも……ああ、オレだって許せねえんだよ」 「分かってる。栄光くんは臆病なんかじゃないよ。知ってるもん」  調子がよくて色々軽くて、腰が引け気味なところがあるのは確かだけど、それでも彼は勇気を知ってる。  とても友達思いだから、仲間のために本気で怒れる男の子だ。怖いからって逃げたりしない。 「だから今は、攻略法を考えようよ。絶対に近いうち、わたしたちはまたあそこに行くことになっちゃう」  未だ新手が現れない電脳の戦場を見つめながら、歩美は言った。そう、これと同じで次の戦いはすぐ始まるのだ。今は瞬間的な凪でしかない。 「栄光くん、開戦前にしなきゃいけないことは何?」 「敵情把握、地理把握。自軍戦力はもう知ってる」 「そうだね。それでわたし、考えてみたんだけど」  歩美は、この三日の間に組み立てていた仮説を口にした。 「前に栄光くんも言ってたけど、あの世界って〈ゲーム〉《これ》と同じような理屈じゃないかな」 「要はオンラインっていうことか?」 「うん。だって四四八くんのお父さん、あれはどう考えたって〈架空〉《NPC》じゃないよ。気配、濃すぎる」  聖十郎だけではなく、神野、狩摩、キーラも同じだ。歩美流に言うならば、プレイヤーそのものとしか思えない。  無論、四四八を筆頭にした歩美たちもまた然り。夢にログインした生の人間。理屈はこのFPSと変わらない。  違いは、あの世界が完全なファンタジーではないということ。なぜなら、恵理子がそうだったように…… 「あそこで死んじゃうと本当に危ないっていうのは、精神的なことで説明がつくんだと思う。ほら、よく言うじゃない。強い催眠術にかかったりすると、幻の火に触れても火傷しちゃうとか、そういうの」 「ああ、オレもそれは考えたわ。なんせ夢って言ってもあのリアルさだからな。マジに心臓止まってもおかしくない。  その手のことが回避不能で起きるくらい、心の深いところまで降りた先にあるのがあの夢なのかもしんねえわ。前に四四八が言ってたんだけど、階層が変わったとか」 「それって、どういうこと?」 「だから、四四八はこれまで十年以上、ずっと一人でやってきたわけじゃん? つまりオフラインだったんだろ?  でもここ数日でオレたちが入ってくるようになって、状況がオンラインになった。その時点でもう、世界観は変わってんだよ」 「これまでより深いところに降りた」 「そういうこと。そんであんときは、たぶんもっと……」  夢での死が現実を侵すほど深いステージに降りてしまった。あのとき、聖十郎が出現した瞬間、世界が変わったような違和感に襲われたことを歩美は忘れていない。あれが〈死線〉《デッドゾーン》を踏み越えた証だったのだ。 「栄光くんなら知ってるよね。アカシックレコードとか、分かる?」 「うん? ああ、そりゃ知ってるけど、それが?」  唐突な話題転換に訝しむ栄光。アカシックレコード。  もともとそれはマニアックな単語なのだが、今や日本の若者ならたいていの者は知っているだろう。ゲームやマンガでは、いわゆる手垢のついたというやつだ。 「普遍的無意識、こっちのほうがいいのかな。とにかく、古今東西の人間が共有している心の海。  ねえ、それってオンラインゲームみたいじゃない」 「あ……」  つまり、歩美の仮説とはそれだった。あの世界は夢の深層にある普遍無意識。誰もが共有しているものだから、進入口が個々の夢でも降りていけばそこに繋がる。 「ずっと不思議に思ってたんだよ。四四八くんのお父さんはともかくとして、他の人たち……特にあの、壇狩摩だっけ? あれはどう見たって、時代設定が違うもん」  まず間違いなく、明治か大正あたりの人間だ。彼がNPCではないという仮定を前提にするのなら、時代を超えて接触したことになる。  であれば、普遍無意識などというトンデモを持ち出さないと説明がつかない。 と言うか、そうすればすんなり説明がついてしまう。 「夢の深いところは普遍無意識の海に繋がってる」 「そこは古今東西、全人類が参加できるオンラインゲーム」  インカムから、栄光が息を呑む音が聴こえてきた。正直歩美も、自分で言っておきながら背筋が寒くなっている。  以前、初めて夢界に入った翌日、世界の裏側を知ったみたいで気分がいいと浮かれていたことを思い出した。今はまったく、そんな気分にはなれない。  一介の学生が知るべきではない事実に触れてしまった感覚。いや無論、まだ仮説にすぎないし、細かいところを挙げていけば突っ込みどころは沢山ある。  たとえば、単純にフィールドだ。古今東西全人類なんて大風呂敷を広げたわりには、単なる日本の一地方にすぎないところがしょっぱいし、登場人物も百年程度の範囲というのが世界の狭さを露呈している。  だが、たとえ限定的なものであっても、充分に常軌を逸した事態なのは間違いない。笑い飛ばせ、というのは無理な話だ。 「百年前か……」  あのときの八幡宮を思い出す。あれは異形の光景で、大銀杏が再生していたことを筆頭に、他にも時代が巻き戻ったかのような部分が随所にあった。  明治、ないし大正期。その時代がどのようなものだったかを歩美は教科書やマンガの知識でしか知らないが、なぜか強烈に惹き付けられるものがある。  それは恐怖と、そして郷愁に近いものかもしれない。様々な分野で題材にされている時代だし、馴染みが深いのは確かだろう。良くも悪くも、濃い世の中だったということだ。  なぜならその短い期間、半世紀にも満たない間で、日本は日清、日露、世界大戦と立て続けに空前の戦を経験している。  激動。一言でいえばそんな世で、狂気とさえ表現できるかもしれない。世界という舞台に無数の国家が躍り出て、皆例外なく燃え上がった時代。  大正ロマンなんて言葉があるけど、それはきっと血と炎で出来ている。現代の価値観では想像も出来ない思想の数々が、世を席巻していたのだろう。その片鱗は、あの狩摩からも感じ取れた。  現代のそれとは一線を画する異界の精神。さっきは百年程度なんて思ったが、実際は百年違えば別の惑星も同然だ。文明、文化、技術、諸々……それくらいの変化が近代には起きている。  だから歩美は、そのことに思いを馳せて…… 「おい――ちょっとおい、聞いてるか?」 「え? あ――、ごめん。なに?」  先ほどから呼びかけていたらしい栄光を無視していたことに気がついた。歩美は謝りながら、幼なじみを促す。 「いや、だからよ。オンゲーなのは確定ってした場合、あいつらいったい何を競ってんだと思ってさ。ゲームなら勝ち負けあんだろ、その条件は?」 「それは……」  そこを言われると歩美としても困ってしまう。彼らは実際に争っていたけれど、なぜそんなことをしているのかはまったくもって分からないのだ。  それでもあえて予想を立てるとするのなら…… 「仮定に仮定を重ねることになっちゃうけど、より深い座を競ってるのかも」 「はい?」 「だから、階層があるって言ったじゃない。その天辺取りだよ」  そこまで言って思ったが、意外に的を射てるのかもしれない。歩美はちょっと待ってと言ったあと、自分の考えを整理する。 「だってさ、普遍無意識だよ? アカシックレコードだよ? その一番深いところって言ったら栄光くん、全知全能神の座じゃない。  なんかこう、悪い奴らが目の色変えて競い合うのに相応しいって感じがしない?」 「……おまえな、色んなもんに毒されすぎだ。もっと真面目に考えろよ。現実でそこまでぶっ飛ばすとギャグにしか見えん」 「そうかなあ……」  歩美としてはなかなか鋭いことを言ったつもりだったのだが、生憎と栄光は不賛成のようだ。それはまあ、確かに神様がどうとかいう話になると一気に胡散臭くなるけれど。 「でも、連中がゼロサムゲームをやってる臭いってのは同意だぜ。見るからにバトルロイヤルだったしな」 「うん。そこは確率高いと思うんだよ」  ゼロ〈和〉《サム》――つまり、勝者は一人(あるいは一軍)のみということだ。一つしかない椅子を巡って、複数の勢力がぶつかり合う。  そこでは時に、同盟を組むことも重要だろう。神野と聖十郎がそうだったように、利用できるものは利用する強かさが求められる。  騙し合い、裏切り、抜け駆け、何でも有り。ゼロサムゲームはサバイバルだ。この先おそらく自分たちも、そこに絡んでいくのだろう。あの連中を相手にして、命の懸かったサバイバルを。  やれるか? いいや、やらねばならない。現実的にも気持ち的にも、逃げは有り得ないと栄光同様決めている。分からないことは多くても、方針そのものは明確なのだ。  これがどんなゲームでも、皆で力を合わせてクリアする。それしかない。  ただ、とそこで歩美の思考は立ち止まった。皆という括りの中に含まれている特定の人物が、心の中で小骨のように引っ掛かっていたのだ。  そしてそれは、栄光も同じだったらしい。その人物のことを口にする。 「水希……あいつ、何なんだろうな」 「一応、元気してるっていうのは知ってるけどね」  無論、栄光はそんなことを言っているのではない。世良水希という人物に対する不思議についてだ。 「おかしいよね」 「ああ、よく分からん」 「ほんとに」 「どうして」  なぜ自分たちは、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈に〉《 、》〈何〉《 、》〈の〉《 、》〈不〉《 、》〈審〉《 、》〈も〉《 、》〈持〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》。  冷静、かつ客観的に考えれば、あのクラスメートは怪しすぎる。少し状況を整理するだけで、誰もがこう思うはずだろう。  全部、〈元〉《 、》〈凶〉《 、》〈は〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》。  だというのに、歩美たちは今も水希を頭から信じていた。つまり彼女に関する不思議とは、水希の秘密そのものではなく、ワケの分からない奴をワケの分からないまま受け入れている自分たちの心境。  そしてそれは、きっと全員同じだろうとなぜか確信できてしまうこと。  さらに、極めつけになるが言ってしまうと、そんな気持ちであることが誇らしく思える事実。  まったく。本当にまったく、何だこれは。 「ふふ。でもさ、わたしあのとき、ほんとに凄いスカっとしたんだ」 「ああ、晶のあれだろ? オレもだよ」  その瞬間のことを思い出し、歩美と栄光は声をそろえた。 「気にすんな。あたしを巻き込め」  そう、自分たちは彼女によって巻き込まれたのだ。巻き込まれるのを望んだのだ。  死ぬかもしれない状況に。それを一切悔やんでいない。  むしろよくやったと。待ってましたと。  気にするな。ありがとう。  これが自分たちの成すべきことだと信じるように。  誓いを守れる喜びに奮えるかのごとく。 「なんかむしろ、ごめんねって言いたくなっちゃったりしてるんだ、わたし」 「なんだ、おまえもかよ。オレもこう、申し訳ねえって頭下げたい感じなんだよ」  恵理子のことを考えれば、意味不明な喜びなど感じている場合じゃないのは分かっている。だけどそれとは別次元で、奮い立っている自分がいるのだ。  きっとそこは、四四八も同じなんじゃないかと二人は思う。  だからまあ、ここから立て直して反撃開始だ。謎も仇も込み込みで、しっかり片をつけてやる。  明日、と言うかもう今日は休日だし、意思統一を図るためにも―― 「日が高くなったら、皆に連絡とって集まろう」 「だな。おっと、おいでなすったぜ」 「栄光くん、十時方向」 「分かってるって―― うおお、ちょ、待て! 助けろ歩美ー!」 「あん、もう。ほんとに下手くそなんだから」  などと言いながら、例によって歩美の破壊的な腕前が電脳の戦場を制圧していく。  空は、徐々に白み始めていた。 「たく、なんで私が休みの日にわざわざこんなことをせにゃならんのよ」  キャラに合った、しかも大いに同意できる愚痴をこぼしながら廊下をとぼとぼ歩く通称ハナちゃん(二十六歳独身)の背に、容赦のない叱咤が飛ぶ。 「早く、早くしてください芦角先生! そんなちんたら歩いてないで、ほら、早く! 日が暮れちゃうじゃないですか!」 「あーもう、こんなジャリの相手なんかしてないでデート行きたーい!」 「彼氏なんかいないの知ってますけど」 「うるせーよ!」  休日の早朝から家に突撃され叩き起こされ、挙句の果てには学校まで引っ張ってこられた身としては、彼女ならずとも怒鳴りたくなるだろう。だが当の加害者であるところの鈴子はというと、鼻息荒くふんぞり返って早く早くと急かすだけだ。まったく、これっぽっちも遠慮というものがない。 「だいたい、調べ物があるから資料室の鍵開けろとかおまえ、そんなのネットでぱぱっとやれよー。なんで今時アナログなんだよ、お嬢様はよー」 「それはもう言ったでしょう。調べたいのが〈千信館〉《うち》のことなんだから仕方ないじゃないですか。いい大人がグチグチ言ってんじゃないですよ」 「だったらわざわざ今日じゃなくてもよー」 「思い当たったのが昨夜だったんです!」 「じゃあ明日でいいじゃん」 「それじゃあ間に合わないんです!」 「なんで?」 「私眠たいんです! 寝てないんです!」 「ワケ分かんねーよ。つか私の眠りを返せよ、もー!」  ひとくさり喚いた後で、花恵は鈴子の傍らに目を向けた。そこにいる者へ向け、同情のこもった声で言う。 「おまえも大変だね、鳴滝。事情全然分かんないけど、私と同じでこの残念お嬢に引っ張りまわされてるんだろ?」 「……ええ、まあ、そっすね」 「なー、冗談じゃないよねー。てところで、今さらながらこれはどういう組み合わせなん?  まさかおまえら、寝てないってことは、一緒に夜を明かしたとかオイコラちょい待てこんにゃろう――」 「芦角先生! タワケたこと抜かしてると私ブチキレますよ」 「もうキレてんじゃん。怖いよー」  そんな凸凹にもほどがあるトリオだったが、歩いているのだから当たり前に目的地へは辿り着く。花恵は資料室の鍵を開けると、ひらひら手を振って鈴子に言った。 「んじゃ、あとは好きにしろな。私、保健室で寝てっから、用が済んだら起こしてね」 「はい、ありがとうございます。ほら、淳士」 「……ありがとうございます」 「うんうん、じゃーねー」  と去って行った背を見送ると、鈴子は淳士に向き直った。 「さあ、やるわよ」 「おまえ、やっぱマジなんだな」 「ここまで来て何言ってんのよ、当たり前じゃない。――ほら」  言って、バシっと背を叩く。淳士は露骨に嫌そうな顔だったが、反抗など許さないと鈴子が続ける。 「あんた、約束破ったんだからね。今日一日で勘弁してやるから、私の奴隷になりなさい」 「人前でおまえに話しかけんなっていうやつか? ありゃ仕方ねえだろ、非常事態だ」 「だからって、ノーカンになんかしないわよ。お陰で私のイメージ最悪じゃないの」 「おまえに今さら気にする体裁なんかあんのかよ」 「なんですって?」 「なんでもねーよ」  宙を見上げてぼやく淳士に、鈴子は威圧するような声で言った。 「私とあんたが実は幼なじみでしたなんて、周りに知られたら恥になるのよ、空気読みなさいよね」 「先生に見せちまったのはいいのかよ」 「この際あの人は仕方ないわ。面倒くさがりなんだから、つまらないこと吹聴するようなタイプでもないし。  とにかく、淳士」  鈴子は部屋の中央で仁王立ちし、彼女の理屈では本日奴隷であるところの幼なじみへ、ご主人様の命令を下した。 「例の一件であんたも巻き込まれちゃったんだから、もう一匹狼気取ってる場合じゃないのよ。曲がりなりにも千信館の学生なら、協力して役に立ちなさい。返事は?」 「…………」 「淳士、あんたまさか本気で嫌がってるわけじゃないでしょうね。状況分かってんの? 説明したでしょ。  あんたは馬鹿で野蛮で恥ずかしい奴だけど、卑怯な臆病者じゃないと思ってるんだから失望だけはさせないで」  言いつつ、睨みつけてくる鈴子の気勢に、淳士は嘆息しながら呟いた。 「分かってんよ。柊には借りもある。  ただ、おまえの剣幕が鬱陶しいだけだ」 「うるさいわね。一言多いのよ」  などと悪態で返しながらも、鈴子は心の中でほっとしていた。  そうだ、そうでなくてはならない。図らずも混沌とした状況に向かわなくてはならなくなった自分たち七人だが、その事態に正体不明の納得をしているのが自分だけだなんて有り得ないと思っている。  それがただの思いこみではない根拠として、少なくとも淳士については理屈を立てることが出来るのだ。  四四八の持ち物を持って眠ると、同じ夢の世界に入る――冷静になって考えれば、条件がこれだけだなんて有り得ない。なぜならその程度のこと、十年以上も期間があれば必ず何度か偶発的に起こっているはずなのだ。  晶、 歩美、 栄光、 そして恵理子…… 最低でもこの四人は、これまでに件の条件を必ず無意識にこなしている。付き合いが長ければ物の貸し借りなんて日常だし、それが本やCDなら枕元に置いて眠ってしまうのが普通だろう。事実、鈴子は淳士から借りた物をそう扱ったことが何度もある。  他にもまあ、たとえば四四八に惚れている女の子がいたとして、彼の持ち物をこっそり持ち去り、抱いて眠るなんてことがあったかもしれない。つまり、シチュエーションとしてはまったく珍しくないものなのだ。  にも関わらず、同じ夢に入れるようになったのはつい最近。  そのときが初めて。  ならばそこには、見えないもう一つの条件が高確率で存在している。  だから結論――あの世界に入るには、認識と了解が必要なのだ。つまり四四八の秘密を知っていて、かつ入りたいと思いながら眠らなければならない。  まあ、水希の登場で多少事情が変わったというのもあるだろうが、そこはきっと間違いない。  とするならば…… 「……なんだよ?」  〈淳士〉《こいつ》は完全なイレギュラーだ。四四八の持ち物を受け取りはしたが、認識と了解があったとは思えない。  最近この二人はバイトが同じということで距離が近くなっていたけど、そんなことを話し合うほど一気に仲良くなったわけでもないだろう。  四四八は確かに、あれで親しい者にはなんでも話してくれるのだが、それは訊かれたら答えるというだけで、自分からべらべら語るタイプじゃない。  そしてそれは、淳士も同じだ。わざわざ詮索してくるタイプじゃないし、仮に何かの間違いで事情を知っても、じゃあ俺も夢に入りたいなんてノリのいいことは考えないだろう。キャラじゃないにもほどがある。 「なんでもないわよ。ちょっとシナリオの整合性的なことを考えてただけ」 「はあ、なんだそりゃ?」 「だからなんでもないって言ってるでしょ。あんたみたいな〈馬鹿〉《ブルーカラー》は余計なこと考えないで、労働だけしてればいいの」  そのうえで鈴子は思う。これは自説の破綻を意味するものじゃないのだと。  鳴滝淳士は絶対に、本人も意識していない領域で条件をクリアしている。  修学旅行の班が七人同じであったように、これは偶然のようで必然的なことなのだ。巻き込まれたという表現さえ、本質を突き詰めればきっと適当じゃないだろう。  この事態に抱いている奇妙な納得。成るべくして成ったという感慨。  そこを解明することはまだ出来ないが、鈴子は強く確信している。これは全員共通の感覚なのだと。  だから淳士を引っ張ってきた。断らないだろうと思っていたし、そして事実そうだったし、だからまあその、ほっとしている。  この感覚に頼って行動するのが、間違いではないのだと思えるから。 「じゃあそういうわけで、あんたはそっちの端から整理お願い。上のほうにある重そうなやつとか降ろして並べて。ここ四・五十年のやつならふっ飛ばしていいから、とにかく古いの優先で」 「……分かったよ。百年ぐらい前のがいいんだろ。辰宮だっけ?」 「そう、〈千信館〉《うち》の創立者。そいつについて調べたいの」  学園の過去――それこそ最近の卒業アルバムや文集から、遙か昔にあった校舎の改修工事記録にいたるまで、この資料室にはありとあらゆる母校の歴史が積まれている。  その量は見ての通り膨大で、重ねた時間を表すように目が回りそうな情報量だが、何が何でも見つけねばならない。鈴子は舞い上がる埃にむせながら、淳士が並べていく資料にひとつひとつ目を通していった。 「けどおまえ、よくそんな奴のこと知ってたな。普通、誰も興味なんか持たねえぞ。〈千信館〉《うち》の受験に出たわけでもなし」 「生憎、あんたらとは育ちが違うのよ」  違う。違う。これも違う。ハズレを片っ端から放りつつ鈴子は言った。すでに彼女の傍らには、投げ捨てられた資料が山となっている。 「家柄ね、地元の名士と会わされることは多いのよ。この歳で見合いのお誘いとかね、アホかっていうのよ」 「そりゃ恐れを知らん奴らだな。おやっさんからたまに聞いちゃいたが、そいつらたいした度胸だわ」 「やかましいわね。とにかくそういう付き合いの中で、話題に出たことがあったのよ」 「千信館の創立者が?」 「そう。貴族院男爵家、辰宮――」  そしてその名は、つい最近にも聞いたのだ。 「あのとき、〈狩摩〉《あいつ》は確かに言ったわ。辰宮のお嬢に義理がある。  私たちに、おまえら千信館だろうって…… いいえ、もしかしたら戦真館って言ったのかもね。ほらここ、昔はこういう字だったようだから」  だいたい六十年前。その辺りまで資料の年代を遡ったところで、母校の名前は表記が変わった。  千の信頼を育むではなく、戦の真を教えるものへと。  音はまったく同じだが、その意味するところは全然違う。 「もともと軍学校だったってのは聞いたことがあるな」 「ええ、それが当時の、つまり本来の姿だったわけね」  戦真館学園。あの男が言っていたのはきっとそちらだ。ゆえに辰宮の名も必ずそこに繋がっているはず。 「その貴族だか何だかの家は、もう続いてないのかよ」 「ないわね。というか、情報が拾えない。さっき先生にも言われたけど、一応ネットで調べるくらいはもうしてるのよ」  今は便利な世の中だ。確度についてはピンキリだけど、だいたいのことは検索をかけるだけですぐに出てくる。  なのに貴族院辰宮家、これについてはまったくヒットしなかった。千信館で調べても、そこに創立者の情報は明記されていない。 「おかしな話よ。今時ド田舎の辺鄙な学校でも創立者の名前くらい簡単に出てくるし、ひたすらニッチ業界の木っ端みたいな作家でも、万単位でヒットするのが当たり前って世の中なのにね」 「私たちの地元であるところの鎌倉ってさ、結構メジャーよね淳士。存在知らない奴なんて、日本にいないレベルでしょ」 「まあそりゃ実際、そうかもな」 「絶対よ。かもじゃない」  再び資料を放りながら、語気も荒く鈴子は続けた。 「そのうえで千信館は、街の歴史を象徴しているひとつなのよ。それを創立した男爵家……出てこないわけがないじゃない。おかしいわ」  まるでそんなものなど存在しないかのように。  ただの勘違いや聞き間違いだったかもしれない可能性など、鈴子は一切認めていない。淳士もそこを突っ込む気はないようだ。  彼女はいざというときに抜けているし、つまらないミスもよくするが、今回に限ってはそうじゃないと思っているらしい。淳士自身も、鈴子同様に説明できない確信があるのかもしれない。 「こういうこと言うといきなり胡散臭くなるけどよ、なんかの陰謀っつーか、そんなのは考えてるか?」 「たとえば国が検閲かけてたりとか? どうかしらね。さすがにそこまでいくと誇大妄想じみてるから、やめときましょう。要は〈資料室〉《ここ》で見つければいいわけだし」 「じゃあ、おまえの夢がそいつに言わせたっていうことは? その場で、辰宮の知識があったのはおまえだけだろ?」 「淳士、あんた本気で言ってる?」  きっ、と強く睨まれて、淳士は肩をすくめてみせた。 「一応の話だ。前提の確認。キレんなよ、馬鹿」 「有り得ないわね。次言ったらぶっ飛ばすわよ」 「分かった分かった。……まったく、どっちが野蛮だよ」  と淳士は言うが、鈴子が怒るのも当たり前のことだろう。  彼女の知識が辰宮の名を夢に出した――つまりそれは、狩摩が鈴子の生み出したキャラクターである可能性を示唆している。あれだけのデタラメ、皆が危険に陥った状況を、鈴子が意識無意識に関わらず演出したんじゃないのかと。  それは確かに、そんなことを言われたらふざけるなという話になる。 「あいつら、架空の存在なんかじゃ絶対にないわ。あんた、無駄に喧嘩だけはしてるんだから、そういうの分かるでしょ。存在感とか、オーラとか」  武道を齧っている鈴子もまた、そういう感覚は持っていた。と言うか、あれだけ派手に圧力をかけられれば、奴らが本物か偽物かなんて馬鹿でも分かる。 「悪かったって。機嫌直せよ。ただそうなると、あいつら何者なんだっていうのが、俺には説明つかなくてな」 「同じ生の人間でも、生まれた時代の違う連中がどうして夢じゃ会えるんだって話だよ」 「そこは歩美あたりにでも聞きなさい」 「はん?」 「だから、仮説はあるけど、そのまま私の口から説明するのは恥ずかしいのよ。なんかこう、いかにもあの子や大杉あたりが考えそうな系統で」 「ますます分からん」 「とにかく、今のままじゃ戯言だから、私は少しでも証拠がほしいの。ほら、手が止まってるわよ奴隷――きりきり働きなさい!」 「ったく、人使いの荒い……」  そうして、その後は二人とも口を噤み、黙々と作業に入った。  一時間、二時間、三時間……時はどんどん経っていったが、如何せん量が量なので目的のものはまだ見つからない。  やがて時刻は正午を過ぎ、昼食も摂らずにやってきたが、三時に差しかかろうというあたりでついに鈴子が爆発した。 「あー、もう! なんでよ、いい加減に出てきなさいよォ!」  絶叫と共にそこらで埃が舞い上がる。今や、資料室は凄まじい様相を呈していた。 「淳士、あんたもしかして、わざと私にハズレばっかり渡してんじゃないでしょうね!」 「んな器用なことするか阿呆! 八つ当たってんじゃねえよ、くそったれ」  そして淳士も、かなり限界に近づいている。もともと細かいことが苦手な性分なのだから、むしろよくここまで耐えたと言うべきかもしれない。  幼なじみで、遠慮のない関係ということもあるのだろう。二人はそのまま、ひとしきりお互いに罵り合って、それも疲れて、どちらからともなく散乱した資料の山へと埋もれるように腰を下ろした。 「うぅ、げほっ……何よこれ、髪ばさばさ。口の中、粉っぽい。紅茶欲しい」 「俺に淹れろとか言うなよ、残念お嬢」 「ハナから期待してないわよ、ヘボ奴隷」  と、もはや悪態にも力がない。にも関わらず、再びのろのろと資料を手に取る鈴子を見ながら、淳士は言った。 「……おまえさ、なんでそんなマジなんだよ」  意地っ張りなのは知ってるが、と付け足して問う。なんとも言えない恨みがましいような目で睨んでくる鈴子は、無言のままだ。 「柊のお袋さんには、俺も一度だけ会ったよ。おまえらみたいに世話になったってわけじゃねえけど……まあその、面白い人だった。仇を討ちたいって気持ちは分かる」 「それに、なんだかな。たぶんおまえもそうなんだろうが、このよく分かんねえ状況に燃えるもんがある。やらなきゃよって、どっかで自分が言ってんだよ。だろ?」 「……うん」  舞う埃のせいで浮き彫りになった陽光の中、鈴子は小さく頷いた。だからこうやって懲りずに調べているんだと目で告げる。  しかし、淳士はそれだけで納得しなかったらしい。 「けどよ、そこまでなら俺とおまえの動機に大差はねえんだよ」 「勘違いすんなよ。もう面倒だからやめようっつってるわけじゃねえ。ここまで来たら気のすむまで付き合ってやる。  ただ、今んところ明らかに俺より気合い入ってるおまえに何があんのか気になるんだよ。俺とは違う、おまえだけの動機ってやつだ。教えろよ」 「…………」 「鈴子、それくらいしてもバチ当たんねえだろ。見ろこの様」 「……たい」 「は?」 「柊に、勝ちたいの」  絞り出すように漏らした声は、恥ずかしさや悔しさや、その他複雑な諸々に染まっていた。鈴子は泣いているのか怒っているのか、分からないような調子で続ける。 「あいつ、腹立つのよ。イラっとくるのよ。目の上のたんこぶなのよ。  いつもいつもほんとにもう、いつかギャフンと言わせたいのよ」 「そんなあいつがさ、今ヘコんでるわけじゃない? カッコつけちゃって、平気そうな顔してたけど、絶対内心はこう、ぐちゃぐちゃっとしてるに違いないのよ。 だから、これってチャンスじゃない。あいつがチンタラしてる間に、私が決定的な仕事をするの。それで見せ付けるのよ、どうだこの野郎って」  参りましたとか、ありがとうございますとか、とにかくなんかそんな言葉を引き出してやりたい。そのうえで一発お決まりの台詞をかますのだ。 「奴隷になりなさいって言うの」  なんて快感。想像するだけで胸がすく。そのためならば我堂鈴子は、どんな苦労も努力も惜しまないと。 「分かった?」 「お、おぅ……」  ビシっと指差しながらそう言われ、些か引き気味に淳士は応えた。そのまま鈴子から目を逸らし、独り言のように小さく呟く。 「……柊の野郎もえらいもんに目ぇつけられたな」 「は? 何か言った?」 「なんでもねーよ」  と、そのときだった。 「――うおっ」 「きゃっ――」  不意に傍らの書棚が音を立てて倒れてきた。間一髪下敷きにこそならなかったものの、室内の混沌具合はさらに酷いこととなる。 「あーもう、あんたがワケ分かんない突っ込み入れてくるから!」 「なんだそりゃ、言いがかりだろ! やめろ、くそ――ボケこら」  手近な資料を投げまくりながら怒鳴る鈴子に、負けじと淳士も怒鳴り返して、しかし顔面にぶつけられた重い一撃でいよいよキレかけ、だが同時に―― 「なっ――ちょ、待て鈴子。おまえこれ、おい!」 「え……?」  ただならぬ淳士の様子に鈴子は振り上げていた手を降ろし、傍まで寄って指差す先を見てみれば、そこには探し続けていた情報があった。 「これよっ!」  千信館――いや、戦真館学園創立当初の記録資料。百年以上の時を経て茶色く変色したその紙上に、目当ての名前が記されている。 「辰宮、麗一郎……」  それが、この母校を生んだ人物。やはり彼は実在したのだ。静かな興奮に手が震える。 「名前だけは分かっけど、すげえ読みにくいぞこれ。なんて書いてんだ?」 「待ちなさい。ちょっと目を通すから」  古いものなので単純に印刷が怪しいというのも当然あるが、それと同時に昔の文章は今と趣がだいぶ違う。旧字が乱れ飛んでいるし、表現も有り体に言って小難しいから読み解くのにコツがいるのだ。  相応の国語力と、言葉に対するセンス、適性……まあ、明治くらいのものならそこまで大仰なレベルではないけれど、雑な輩には頭痛を催すだけになるのは間違いない。  早々に諦めた淳士を尻目に、鈴子は注意深くその内容を読み取っていった。 「分かるか?」 「ええ。これによると、明治三十六年に辰宮麗一郎が戦真館を創ったとある。ほらここ、当時の教官やら校舎やら、写真載ってるでしょう」 「ほんとだ。けどなんでこのくらいの時代の奴って、おっさんはどいつも気合いの入ったヒゲ生やしてんだ?」 「当時の風俗っていうか、流行りでしょ。私たちの格好だって、百年経ったら同じようなこと言われるわよ」  どうでもいい突っ込みをいなしながら、鈴子はページをめくって説明を続ける。重要なのは、むしろここから。 「だけどその僅か二年後、戦真館は一度焼失したらしいわね。原因は不明」 「不明? なんでだよ、おかしいだろ」 「そんなこと言われても分からないわよ。ただ、事故としか書かれてない。  どうして、どんなことがあったのか、まったく説明されてないわ。ついでに言うと、辰宮麗一郎はこのとき亡くなったみたい」 「……それ、怪しすぎるだろ」 「そうね、加えて時期が怖い。明治三十六年から二年後っていえば、日露戦争の真っ只中よ」  とはいえ、日露戦争の舞台になったのは朝鮮半島や満州だ。ゆえに当時の鎌倉で軍規模戦闘があったなどということは有り得ないし、テロがあったなんて話も聞かない。  よって、おそらく無関係。だとは思うが、ひとつ気になることが鈴子にはあったのだ。  今でも背に、その恐怖を鮮明に覚えている。  キーラ……確かそう言ったか。  あの女、あれはもしかして、ロシア人ではないのか?  名前、言葉の端々に覗いた単語。軍服、装備、装飾、その他……すべてがあの女の所属を表していたように思う。仮にこの推察が当たっていたなら、それが意味することとはいったい…… 「――鈴子」 「おい、なに呆けてんだよ。続きは?」 「え、あ……そうね。ごめんなさい」  肘で小突かれ、我に返った鈴子は気を切り替える。確かに不気味な符合だが、ここでどれだけ考えても答えなんか出ないことだ。ならばとりあえず脇に置いて、自分の胸に仕舞っておこうと考える。 「とにかくそういうことで、しばらく戦真館の歴史は幕となったの。でも当然、今がある以上は再建したわけで」  焼失から十年後、今度は世界大戦に先駆けて〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》は復活する。  言わばその二代目こそが、正しい意味で自分たちの大師父になるのだろう。  一度死んだ戦真館を立て直した存在。今に繋がる百年の歴史を生んだ大元。 「それが、辰宮百合香……麗一郎の孫娘」  辰宮のお嬢――その言葉が頭の中で反響し、指の先から冷たくなっていくような感覚を鈴子は覚えた。鼓動がどんどん早くなっていくのを自覚する。 「ざっと目を通したのはここまでだから、これから先はまだ分からない。  正直、怖くなってきたわ。このページをめくったら、もう後戻りは出来ない気がする」  だが、自分が求めているのはまさにそういう情報だ。後戻りも何も、そんな逃げ腰気分は毛頭ない。  淳士と目を合わせて共に頷き、鈴子は勢いよくページをめくった。そして同時に驚愕する。 「なッ――」  正直、ある程度は予想していたし覚悟もしていた。そういう意味では特に驚くべきことではないのかもしれない。  しかし、実際こうして目にすると、否応無く汗が噴き出る。  なぜなら今、このときをもち、これまで推論でしかなかったことに確かな裏付けが成されたのだから。 「壇、狩摩……」  紛れもなく当時の、実在した歴史上人物として、あの男がここにいる。写真に写ったその顔、この笑み、まさか見間違えるはずもない。 「ガチじゃねえか。名前もズバリだぜ……」  そう、これによって確定だ。夢で遭遇したあの連中は、疑いなく生の人間。時代を飛び越えてこちらとあちらが繋がっている。 「こいつ、なんで偉そうに関係者みたいなツラして載ってんだよ」 「……どうも、戦真館の再建にあたって、辰宮百合香が呼び寄せたようね。地相学、風水ってやつかしら。あんただって知ってるでしょ? それの権威だって」 「ああ、確か京都だの東京だのがそういう設計に基づいてるとか、一時期ブームになったあれだろ? けど鎌倉には関係ねえじゃん」 「馬鹿ね、あんた小学生からやり直しなさい。平安時代の次は鎌倉幕府よ。これがどういう変化か分かってるの?」 「武士政権の樹立だろ」 「そう、日本史上の大きな括り、転換期。当然、幕府のお偉いさんたちもそれは意識してるから、気合いは滅茶苦茶入ってる」 「史上初めて、恐れ多くも天皇陛下を脇に追いやらせていただくわけよ。まあ正しく言うと清盛あたりからそういう流れになってるけど、それをはっきり形にするんだから半端は出来ない。  そういう大事なことするときに、本拠を適当に定めるわけないでしょうが。京を手本にしつつ京に負けない、最高の吉地ってやつを選んでるのよ。それが鎌倉。  そういう格で言うんなら、東京なんかより〈鎌倉〉《ここ》のほうが数段上よ。だから〈狩摩〉《こいつ》を呼び寄せて、怪しげな腕揮ってもらう価値も理屈も充分あるわけ」 「なるほどね。納得したわ」  などと淳士に説明する傍らで、鈴子は狩摩が実在した事実と、それがもたらす事柄を考えていた。  就学前の小さな子供や、日本に興味の無い外国人は織田信長の夢など見ない。だって知らないのだから、未知の歴史上人物などを夢に登場させられるわけがないだろう。  それと同じで、狩摩も自分たちにとっては未知の歴史上人物だった。にも関わらず夢に出てきたということは、あれが本物だという決定的な証拠になる。 「いや、だけど……」  そういえば、聖十郎はどうなのだ? あの男は天才と名を馳せた学者だから、狩摩のことをあらかじめ知っていたとしても不思議はない。  であれば、本物は自分たちの他に聖十郎だけで、残る悪夢はすべて彼が生んだものという解釈は成り立つか? しかし、それじゃあ―― 「通らない、わよね。だってあいつら、争ってたし。そんな夢、意味が分からないもの」  やはり、これはこういうことか。普遍的無意識がどうだのという、歩美好みの結論で……  指を噛みながら苛立たしく膝を揺すり、だが鈴子の頭は依然高速で回転していた。そして瞬間、恐るべき可能性へと思い至る。 「歴史が変わるかもしれない」  狩摩が、神野が、そしてキーラが……加えて他にも辰宮百合香やその他色々、百年前の人物たちとこの先夢でまみえるとしよう。そして彼ら相手に争うとしよう。するとどうなる?  斃す――つまり殺すとか、そこまでいかなくても彼らの行動、運命の一端を違えさせてしまった場合、歴史の流れに歪みが生じる。  辰宮麗一郎を死なせなかったら? 辰宮百合香を死なせたら? 戦真館はどうなって、この千信館はどうなるの? そして今の自分たちは何処に行く?  まさか、しかし、それでも、これは―― 「――っ、~~~、――ゥゥ」  筆舌に尽くし難い恐怖が足先から這い上がってくるのを鈴子は感じた。冗談じゃない、こんなこと、洒落になってなさすぎる。 「……行きましょう、淳士。これ以上私たちだけで考えてても仕方ないし、とにかく収穫はあったから」  資料を閉じ、持ち帰るために鞄へ仕舞ってから鈴子は言った。今日ここで得た情報をもとに、皆で話し合わねばならない。 「柊のとこへ行くのか? 俺がついてってもいいって?」 「ええ、言ったでしょ。あんたはもう一匹狼気取ってる場合じゃないの」 「ただし、あいつらの前じゃあまり馴れ馴れしく話しかけないでよね。絶対晶あたりが鬱陶しいからかいかたしてくるんだから」 「たく、面倒くせえな。分かったよ」 「おーい、おまえらー、いつまでやってんだよいい加減にしろよーって」  タイミングが良いのか悪いのか、ちょうど様子を見に来た花恵が戸を開けて、部屋の惨状を前にした瞬間、絶叫した。 「なんじゃこりゃああああ!」 「おま、おま、おまえらちょっと、散らかしすぎだろどうすんのこれ? ていうか私、どうなんの? メッチャうるさいんだぞウチのジジイ連中はァ」 「お世話になりました芦角先生。それじゃあごきげんよう――行くわよ淳士」 「え、あ、おう」 「ておいコラ待て待て逃げんな我堂ォォォッ!」  潰されたカエルのような悲鳴をあげる担任をすり抜けて、華麗に廊下へ出た鈴子は一気に走る。仲間に早く伝えなくてはならないことがあったから、面倒この上ない片付けなどに付き合ってはいられない。  そしてそのとき、胸ポケットの携帯電話に着信が来た。 「――もしもし、歩美? うん、そう。ええ、分かった。これから行くわ、待ってなさい」  もう徹夜は限界だ。今晩までに今後の準備や心構えを、出来る最善に整えなければならない。 「お、おぉ、うあぁ、ああああああ……」  一方、たった一人残された資料室で、哀れな体育教師は嗚咽のような呻きを漏らしていた。 「なんで? どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ……彼氏とかさあ、じゃなくてもいいからさあ、こういうときに助けてくれるイケメン、どっかにいないのかよ」  無論、そんなものが都合よく現れるわけがないのは分かっている。しばらくぷるぷる震えたあと、花恵は開き直って怒号した。 「あーもう、知るかー! 私のせいじゃないもんねー!  我堂が悪い、鳴滝が悪い。私なんにも知らないもーん! 見えない見えない、さようならー!」  自棄っぱちにそう叫んで、勢いよく戸を閉めると去って行った。その拍子に、再び資料室では本棚が倒れ、惨状はさらに混沌となっていく。  ゆえに、そのとき現れたある変化は、誰の目にも入らなかった。  千信館学園資料室。創立当初の面影を依然残したこの空間に、時代を超えた過去からのメッセージが届いたことを。  まだ誰も気づいていない。  そして当の本人も、〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈書〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 その電話が掛かってきたのは、そろそろ日も沈もうかというときだった。 「世良か?」 出るなり俺はそう言った。それに電話の向こうから、微かに驚いたような気配が伝わる。 『よく、分かったね。どうして?』 「知らない番号だったからな。他に心当たりがなかっただけだ」 『そっか。そうだよね、ごめん』 「なんで謝る」 『だって……』 続く言葉を待つ間、俺は部屋の窓を開けて夕焼けの空を眺めていた。そのまま三十秒くらい経ったのだが、世良は何も言ってこない。 三十秒と言うとたいしたこともないようだが、会話の間としては少々どころではない長さだろう。さらに三十秒経って沈黙が一分に達したとき、さすがに俺も焦れてきた。 「世良、あのな……」 『ごめんなさい!』 「だから、なんで謝る」 と言いながら、馬鹿か俺はと思っていた。こいつの言いたいことは分かっているし、分かっていながら俺は何を言っている――いや、言わせようとしているのか。 まったく。 「すまん。意地が悪かったな。言い方を変える」 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈悔〉《 、》〈む〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈世〉《 、》〈良〉《 、》。そこは前にも言ったろう? 俺の気持ちは変わってないよ」 『柊くん……』 「だいたい俺は、おまえに文句を言えるような身分じゃない」 母さんのことや、俺も含めた他の奴らに対して世良が自責の念を抱いているのは分かっていた。論理的に因果関係があると証明できるものはないが、タイミング的には世良が発端となって一連の出来事が展開したようにしか見えないし、こいつもそのことを否定しない。 ゆえに巻き込んだ。迷惑をかけた。私に会わないほうがよかったでしょう? 邪魔に思ってるよね、ごめんなさいと言いたいわけだ。しかしそれを言うのなら、俺にもかなり似たような部分がある。 『私、柊くんは今、怒ってなくちゃ駄目なように思う』 『そんな風に、大人な対応してるときじゃないよ。逆に不安になる……て、ごめん。私が言うことじゃないよね、最低』 『結局私、柊くんに嫌われて楽になりたいだけなのかも。だけど……』 「世良、まあ聞けよ」 とりあえずこちらの話をさせてほしい。人には話すことでヒートアップしていくタイプもいれば、その逆もいる。 見る限り、世良は前者で俺は後者だ。なら形として、まずは聞き役となってもらったほうがありがたい。 「お互い理解し合えるように。ここで妙な誤解をしないためにも」 「大事な話だ。聞いてくれよ」 『…………』 その沈黙を肯定と受け取って、俺は話し始めることにした。母さんが死んでからこの今まで、考えていたことの諸々を。 「俺の態度が、まあなんだ。おまえや晶たちを逆に不安がらせてるのは分かってる。別に強がって格好つけてるつもりはないんだけどな、どうにも感情が麻痺気味で、面白味の無い対応しか出来ないんだよ。涙も出ない」 「それについては申し訳ないと思ってるし、俺としても自己嫌悪だ。正直、泣きたいと思ってるよ。泣くところを見てほしいとまでは思わんが」 そういう感情麻痺パターンは、当たり前とは言わないまでも、たまに聞く類の話だ。悲しすぎると心が固まるっていうこと自体、一般でも決して珍しいケースじゃない。 そんな分析――と言うより言い訳探しか。それをやって女々しくも理屈付けようとしてるのは、やはり不安があるからで、強く否定したいことがあるからに他ならない。 「あいつの息子だから俺はこんなに冷徹なのかって、気を抜くと考えそうになるんだよ。だから反対材料をどんどん探そうとすればするほど、理屈っぽくなって頭が冷える。悪循環だな、情けないよ」 「ていうわけだから、結構裏側はぐちゃっとなってる。裏の裏は表みたいな話だが、見かけほど超然としてるわけじゃない」 「……て思いたいから、そのへんは慮ってくれ。遺族の立場で我がままをひとつ言わせてもらえば、そういうこと」 『うん、分かるよ……』 世良の短い言葉には、奇妙な重さがこもっていた。もしかしたらこいつもまた、俺と同じく身近な誰かを理不尽に奪われたことがあるのかもしれない。 そんなことを思いながらも、俺は続ける。 「でだ、おまえに対するあれこれだけど、そこは言ったように俺も〈他人〉《ひと》のことは言えないんだよ」 「あの朝、眠るなって皆に言った。俺も実際、あれ以来眠ってない。だけどこんなのはその場しのぎにもならないことで、いつまでも続くわけがないのは分かりきってる」 「ずっと眠らないなんて不可能だからな。体力には自信があるほうだけど、本音を言うともう限界だ。こうして話でもしてなきゃ落ちそうだよ」 「それに俺は、そもそも逃げようなんて思っちゃいない。これから今すぐにでも、母さんの仇を討ちに行きたいと思っている」 怒れとさっき世良は言ったが、言われなくても俺は充分怒っているんだ。麻痺しているのは悲しみだけで、柊聖十郎を逃がす気などない。 「だけど、これは俺の私怨だ。おまえたちに八つ当たりしたくないってのと同じ理屈で、俺の怒りに巻き込みたくないと思ってる」 「そう、思ってるだけなんだよ。おまえと一緒で」 『柊くん……』 強く、俺はそう言っていた。自分の中に渦巻いている正体不明の複雑な感情。それを解きたいと願っているのに、まったくままならないこの状況を呪うように。 そして、同時に湧き上がってくる別の気持ちが、俺の口にこう言わせるんだ。 「待ってました。よくぞやってくれた。そんな風にも、おまえに思う。俺は嬉しいんだよ、世良。こんなときに」 「やばいことになってるから、命に関わる事態だから、仲間をそれに絡ませない。これは俺の事情だからと、全部一人で抱え込む。俺はそういうのがやりたいのに」 そういうのが普通なのだと考える。結果的に可能かどうかは別にして、そう考える姿勢こそが男にとって重要だ。 何より、たとえ俺が死んでも、それであいつらは悪夢から解放されるはずなのだから。 「痩せ我慢こそ道だろうってな。女は違うのかもしれないが」 『ううん、そんなことない。誰だってきっと同じ』 「だよな。すまん。別に今のは女性差別というわけじゃなく」 『いいから、それで?』 「ああ、それで、俺はそういうのがやりたいんだよ。だから眠るなと皆に言った」 「けど、そんな指示に意味はない。体裁だけさ、気遣ってるようなポーズを取りたかっただけだ」 「本当に一人でやるつもりなら、今日までの間に俺だけは眠るべきだったんだ。三日そこらで何が出来たかはかなり怪しい話だが、一人で片をつけるなら普通はそこに賭けようとする」 葬式その他の手続きで忙しく、眠る間もないなんてのは理由にならない。そんなものは放り出して、誰にも気づかれないホテルか何処かでひたすら眠り続ければいい。 仇討ちこそが鎮魂だ。速やかに終わらせることこそ友情だ。そのためには些細な不義理など気にしない。優先順位は瞭然としている。 「でもしなかった。晶たちにしてみれば、ここで蚊帳の外にするほうが裏切りだって言うだろうし、あいつらはそういう奴だと知っているから、それを慮ったっていう気持ちも確かにある」 「けど、違うんだよ。優先順位だ。あいつらを死なせてしまうくらいなら、いっそ嫌われたほうがずっといい」 怒ってくれ、嫌ってくれとさっき世良が言ったように。 「……そう思ってるんだよ、今でも。思ってるだけでな」 知らず熱くなっていた語気を抑え、嘆息するように俺は言った。 まったく、俺も充分以上に話しながら熱くなる人種じゃないかよ。自分を分析する目がなさすぎて、呆れ返るより他にない。 「なのに結果はこの様だ。もう否応無しに巻き込んでる」 いや、俺の本心は巻き込みたいのだ。心が異様な歯車のように回り続ける。 「そうするべきで、しないといけない。そんな気持ちも、同時にある」 「そしてたぶん、そっちのほうが強いんだろうな。こんなことになってる以上は」 これが例えば、一人で戦うことの恐怖や、そんな理不尽に対する怒り。せこい保身をもとにした感情だったら、こんなに迷わなかったかもしれない。 俺だけ怖い目に遭うのは嫌だから、おまえら付き合ってくれよと泣きつくような……ダサくてズルイけど分かりやすい気持ちだったら、むしろ開き直って甘えただろう。 もしくは、そんな自分に激怒して、一人で立ち向かうことが出来たように思える。 しかし、甚だ面倒なことに、源泉となっているのは喜びなんだ。この状況を誇らしいとさえ思うような。 言うなれば、そう、使命感。 仲間を騙し討ちするような、誰がどう見ても下種な真似に、高潔な大儀でも見出しているような俺という人間が分からなくなる。 「だから世良、俺はおまえに偉そうなことを言える身分じゃないんだよ」 この説明不可能な支離滅裂。自分で制御できない情動は、きっとこいつも同じなのだろうと思うから。 「理解して、くれたか? 俺の気持ちはそんなところだ」 結びを告げる俺の言葉に、世良は小さく頷く気配を伝わせて。 『……分かったよ。やっぱり柊くんは柊くんだね』 そんな、意味の分からない感じで納得していた。 『ねえ、強いってどういうことかな。どうして強くなりたいって思うのかな』 『凄く単純なことのようにも思えるし、色々入り混じった複雑なものにも思える。誰でも納得しちゃうような一言がある気もするし、誰のどんな主張も完璧じゃないって風にも感じるの』 『だから、柊くんはどう思う? 答え、あるかな?』 「俺は……」 問われ、見事に言い詰まった。いきなり脈絡もない話題というせいも当然あったが、世良の静かな口調から伝わる重さに、気圧されかけたというのが実情。 強さの真実? それを求める理由? ああ確かに、俺もそういうことはよく考えていたけれど。 こいつに言われるとなぜか胸を掴まれたような気分になる。事実、俺は胸に手を置いて、心臓の音を意識しながら答えを返した。 「……俺にとって大事な人たちのため、そいつらが誇れる俺であるために。そんな風に考えていた。……いや、いるよ」 母さんにとって自慢の息子であるために。晶たちにとって頼れる仲間であるために。 そしてもちろん、世良にとっても…… 『じゃあもしも、柊くんの好きな人がそんなことやめてって言ったら、やめてくれるの?』 「それは……相手と状況によるよ」 その切り返しは予想していた。むしろ当然の突っ込みと言えるだろう。 自分のためと他人のため。どちらも当たり前にあるわけだから、バランスを求められると難しい。 よって、そこを纏めるとすればこうだと思う。俺は部屋の本棚を一瞥しながら言葉を継いだ。 「必要なのは思いやり、かな。仁ってやつだよ」 『仁?』 「ああ、好きな言葉なんだ。他にも、そうだな……」 そこに収められてる一冊は、それこそ表紙もページもボロボロになるくらい子供の頃から読みまくっている。 「義とか礼とか、智とか忠とか、他にも信とか」 『孝とか悌?』 「そうそう」 『里見八犬伝?』 「イグザクトリー」 英語の教師みたいな調子でそう言ったのは、少し恥ずかしかったからだ。世良はそれに笑って言う。 『好きなんだ』 「ああ、前世から繋がる義兄弟設定とか燃えるよな。映画はもう、何回も観てるよ。当然本も」 そういうわけで受け売りになってしまうが、俺にとっての強さというのはそれだった。 「大事なこと八つ。それを忘れず、守り抜く意志と勇気。覚悟」 人を思いやり、正義を胸に、規範を重んじながらも視野を狭めず、属する世界のため献身を捧げ、他者にも己にも嘘をつかない。目上を敬い仲間を大事にし続けること。 それが仁義礼智忠信孝悌。俺の解釈ではそういうことで。 『そうすれば、〈如是畜生発菩提心〉《にょぜちくしょうほつぼだいしん》?』 「詳しいな。普通、そこまで知ってる奴はあんまりいないぞ」 『私も、本は好きだから』 如是畜生――つまり八つの強さをもって事に臨めば、たとえケダモノであっても菩提心に至る。不可能だって可能になるということだ。 「……まあ、今のところ実践できてるとは口が裂けても言えないけどな」 『私もそうだよ。答えを形に出せなかったから……』 こんなことになって、と世良は呟き。 『私に足りないのは、その八つの中でなんだったのかな。色々足りない気がするけど』 『今でも分からないよ。でも、ねえ柊くん』 『恥知らずな言い分だけど、私も凄く嬉しいの。ごめんなさい、みんなに逢えてよかった』 「…………」 それは泣くような笑い声。きっと今、世良はあの笑みを浮かべているに違いないと、俺は根拠もなく確信していた。 出会って以来、ふとしたときに見せていた印象的な顔。まるで百年ぶりの幸せに戸惑い、懺悔しながらも礼を言うような…… 『あのね、私、柊くんが……』 胸に置いた手の中で、一際高く跳ね上がった心臓の音は、しかしそのとき―― 「ぁ―――」 不意に鳴ったチャイムの音で掻き消され、驚いた俺は反射的に携帯の通話を切ってしまった。 「くっ、馬鹿か。何してるんだ俺は」 どうしよう、掛け直すか? 自分の迂闊さに呆れながらそんなことを考えている間にも、来客を告げるチャイムは鳴り続けている。 「あぁもう! しょうがない」 まずはこっちに対処しようと玄関まで行き、はいなんですかとドアを開ければ、そこにいたのはよく見知った顔だった。 「晶……」 「うす。蕎麦持ってきたから、食え」 と、なにやら仏頂面でずいと蕎麦を突き出してくる。 「……いや、別に出前を頼んだ覚えはないが」 「いいから、細かいこと言ってんなよ。上がるぞ、お邪魔します」 「あ、おい――」 こちらの言い分には耳を貸さず、晶は勝手知ったるなんとやらで上がりこむと居間にどかっと腰を下ろした。 「ほら蕎麦、早く食おうぜ。あたし腹減っちゃった」 「……おまえが食いたいだけなのかよ」 「腹減ってねえの?」 「そんなことはないが……」 「ならいいじゃん。まずは腹ごしらえ。基本だろ、な?」 にかっと笑って、晶はちゃぶ台をバンバン叩く。俺はそれに溜息をつき、何はともあれここは言いなりになったほうが賢明かなと思った。 実際こうなってみると、電話の件はこいつに邪魔されたような助けられたような、どっちとも言えない感じで複雑な心境だけど。 「いただきまーす。って、ほらおい。ちゃんと手ぇ合わせて」 「……おばちゃんかよ」 ただ、蕎麦は変わらず旨かった。剛蔵さんの手並みは落ちてない。 そこは本当に相変わらずで、俺は彼に許されているような気がしたんだ。 父親がいればあんな人であってほしい。もう叶わないそんなことを思わずにはいられないが、暖かい蕎麦のお陰か突き刺すような痛みは感じなかった。 そして、食後―― 「あ、いいよ四四八は座っとけ。片付けあたしがやるからさ」 晶はてきぱきと食器をまとめ、流しに持っていくと慣れた調子で洗い始める。 こいつは基本かなり雑だが、育ちのせいもあってこういうことだけはだいぶ板についていた。歩美も決して家事が出来ないわけじゃないものの、気の利き具合とかまで比べれば晶の独走状態に近い。 我堂はよく知らないが、あれはたぶん駄目だろどう見ても。世良はどうかな。結構そつなくこなしそうだが、こなしてるだけって感じがしないでもない。 「ん? なんだよじっと見て。裸エプロンなんかしてやんねーぞ」 「馬鹿なこと言ってるなよ。あと、おい、何してんだおまえ」 「いや、全然散らかってないなと思ってさ。おまえもうちょっと隙見せろよ。つまんねーぞこれ。片付けてるってよりは何もしてないって感じだけどさ」 言いながら、台所を離れた晶は俺の部屋の方へと歩いていく。 「どっかそのへんにおまえの好きな八犬伝のエロ同人とか置いてねーの?」 「あるかそんなもの。いいから座れ」 「昔はさ、よく一緒にごっこ遊びしたよな。あゆんちにでかい数珠があったから、それバラして仁義礼智とか油性マジックで書き込んでよ。そりゃ怒られるっつー話じゃん?」 「あと、なんだっけ。村雨丸? うちの業務用冷凍庫で氷の剣作ったあと、それで栄光ぶん殴ったらあいつ大泣きしちゃってさ。いやあれはすまんことしたと反省してて」 「おい、晶――」 「あたし、信乃が好きだったんだよ。孝の犬士ね。四四八は親兵衛、仁の犬士で……そろえば八犬伝のダブルヒーロー」 「ああいうの、またやってみたいなって……思うよな」 「座れよ」 低く、短くそう言うと、晶はびくりと震えて俺を見た。 「分かったから。おまえの言いたいことは察したからさ。無理するなよ、普通でいい」 「普通じゃないときに普通を装ってるのはおかしいぞ、晶」 「おまえに言われたくないよ……馬鹿」 目を逸らしてから拗ねるように、ぼそっと晶はそう言った。そしてともかく、言われた通り腰を下ろす。 依然、悪態は続いていたけど。 「馬鹿、ばーか。偉そうに説教すんな。ちょっとおまえの真似しただけだよ。どうだムカつくだろ、馬鹿」 「……そこは耳が痛いけどな。生憎と無理してるってわけでもないんだよ。普通にこんな調子だから、これでいいのかよって我ながら困ってる」 苦く自嘲しながらも、さっき世良に対して語ったのと同じようなことを、今度は晶に説明した。俺の態度で色々不安がらせているのは分かっていたけど、上手く回せないでいる現状を、隠さず。 俺は何かを偽ったり、まして兄弟同然のこいつらを軽く扱うような真似などしたくない。先の八犬伝に照らして言えば信と悌で、まあそういうことだ。 何をもってこいつらを大事にしているかっていうのは見解が分かれるところだろうけど、そのへんに自信が持てなくなっているのもさっき話した通り仁に関係する問題で、そこが不完全だからに違いない。 昔、と言うか今でも俺は親兵衛が好きで、自分の中でのヒーローと言えば彼なんだが、現状まったく足元にも及んでいないのを痛感している。 晶はそれを不機嫌そうな顔で聞いていたが、聞き終わると大きな溜息をついて頷いた。 「そんなこと言ったらあたしだって同じようなもんだよ」 と、こいつもまた、世良に対する俺と同じような反応で。 「おまえはあんとき、ぶっ倒れてたから知らないかもしんないけど、水希に直で言っちゃったんだぜ。あたしを巻き込めって」 「栄光たちもそれに乗ってくれたけど、考えてみりゃ同調圧力かけたような罪悪感があるよ。あたしがあんなこと言ったから、逃げるタイミング無くしちゃったかもしれないなって」 「あいつらはそんなことを思うような奴らじゃあ……」 「分かってる。だからおまえと同じなんだよ。分かってるけど、やっちゃった感があるっていうかさ」 「ああ、うん。白状するよ。あたしもなんか嬉しいんだ。こんなことになってるってのに」 「実を言うと、もっと前からそんな気がしてたんだよね。水希と初めて会ったとき、何かが始まりそうな予感がさ」 「……そうだったのかよ。女の勘っていうやつか?」 そもそもの出会いが普通じゃなかった俺とは違い、こいつと世良の始まり方は別にどうということもないケースだった。 にも関わらずそんなことを思っていたとは知らなかったので俺は驚き、素直な気持ちでそう言ったんだが、なぜか晶は露骨に嫌そうな顔をする。 「気持ち悪いこと言うなよ。女の勘なんておまえあれ、下種の勘ぐりと同じ意味だぞ」 「基本的にネガいことばっか考えてるから、たまたまそういうことになったときだけ的中してるように見えるだけさ。普段は外れてることのほうが圧倒的に多いんだし、だから信憑性なんか全然ないね」 「それが証拠に、ハッピーなケースで女の勘ってやつが発動したとこ、おまえ見たことないだろうがよ」 「……さあ、いや、どうだろうな」 そんな唾でも吐くような調子で言われると、まるでこいつが自分は女じゃないと主張してるようにも聞こえるんだが、ともかく言いたいことは理解した。 「つまり、晶はこう言うんだな。世良と出会って以降のことは、必ずしもネガティブじゃない」 「そう思ってるよ……おまえの前で言うのは無神経だし、恵理子さんを夢に誘ったのはあたしだから、ふざけたこと言ってるって自覚はあるけど」 「でもさ、あたしらが一緒にいるのって悪いことか? みんなのために頑張るのを誇らしいって思うのは間違ってるか? それ死亡フラグかよ? 違うだろ? な?」 「…………」 「だから四四八、つれなくすんなよ。こんなんじゃ本当に嫌なままで終わっちゃうじゃん。あたしが〈女の勘〉《ゲスパー》かましたみたいにしないでくれよ」 「巻き込んだり、込まれたんじゃない。望んだんだ、あたしらが」 「だいたい、仲間を頼らないなんて〈千信館〉《うち》の校訓に反するだろ」 「これは絶対、不吉なことなんかじゃない」 強くそう告げる晶を見て、俺は一度目を閉じると様々なことを顧みて…… 再び目を開いてから、この幼なじみを真っ直ぐ見据えつつ口を開いた。 「……だな。おまえ、いいこと言うよ」 もはやおそらく、俺のアイテムを持っていようがいまいが関係ない。実際に人死にが出るほど深い層に入った以上、簡単に抜ける道は閉ざされただろうと容易に分かる。 その状況で、こいつらを関わらせないまま片をつける唯一の可能性は俺が自ら潰してしまった。ゆえに形だけを見て言えば、すでに否応なんか無くなっている。 「このままじゃ本当に嫌なままで終わってしまう、か。確かに、ああ、その通りだよ」 だから、大事なのは心の問題。この現状を作り出した不思議な気持ち、俺だけじゃなく皆が共有している使命感にも似た昂ぶりを、どこまで信じるかということだ。 「おまえらと妙な感じにすれ違ったまま話進めて、たとえ結果がどうなろうがそりゃ苦いよな。校訓に反する」 「これが悪い気持ちであるわけがない。おまえも、他の奴らもそう言ってくれるなら」 「ああ、そうだよ」 それを信じて、行くしかないんだ。ここでこの懊悩にケリを着けよう。 「また一緒に、ごっこ遊びするか――犬塚信乃」 「おう、頼りにしてるぜ――犬江親兵衛」 お互い、微妙に照れが入った感じに笑いながら頷き合う。無論、今度のこれはごっこじゃすまないことくらい分かっているが、いい意味で遊びに向かうような強く明るい気持ちが欲しかった。 かつて、俺たちが八犬伝のごっこをするとき、母さんは常に伏姫の役だったのを思い出す。 あの人は当時の俺たち以上にある意味子供だったので、こっちの要望なんか聞いちゃくれず、かなりエキセントリックな伏姫だったが楽しかった。 その思い出は今も胸にあり、忘れていない。畜生の伴侶となり命を落とした姫のため、犬士はやらなきゃいけないんだよ。 「世良、鳴滝を入れて俺たち七人――」 「八犬士には一人足りないけど、まあそんな上手くは嵌んないよな。要はそれに負けないくらい結束してりゃあいいってことで」 「と、そういえばさ、四四八は鳴滝と鈴子のあれってどう思う?」 「たぶん、あいつら幼なじみか何かじゃないのか? 今になって思い返すと、心当たりがあるんだよ」 「あ、やっぱり? あたしもそうじゃないかと思ってたんだよ。いいネタできたわ、弄ってやろ」 「おい、ほどほどにしとけよ。だいたいとばっちり来るのは俺なんだからな」 というようなことを話しながら、諸々一段落したときに、晶はよっしゃそれじゃあとよく分からない気合いを入れて、俺の正面に座り直した。 ちょっと、どうしたのか分からずに、俺がぽかんと見ていると。 「ほら四四八、カモン」 おもむろに両手を広げ、意味不明なジェスチャーをしてきた。 「は……?」 何をやっているんだろう。と言うか、何をしたいんだろうこいつは。 「色々、これから一緒にやっていかなきゃいけないだろ? だからその前に、おまえが気にしてるところは全部無くしちゃおうぜ。泣けないのがつらいって言ってたじゃん」 「それは、言ったが……」 嫌な予感に上体を引いた俺の前で、晶はいい笑顔を浮かべつつ言い放った。 「胸貸してやるから泣いちゃえよ。遠慮すんな、秘密にしてやる」 「泣けないかもなんて心配すんな。意地でもあたしが泣かせてやるから」 「な? ほら、 おい――ちょっ、逃げんなよ!」 「いや逃げるだろっ」 いきなり何言ってんだこいつは。 座ったまま素早く後退る俺に対し、それを捕まえようと晶がぐいぐい迫ってくる。傍から見ればかなり馬鹿な光景ではないだろうか。 「お、お、おまえなあ! そこでそういう反応するか普通? どう考えてもここはありがとうって流れだろうが! 恥ずかしがってんじゃねえよガキ!」 「うるさいぞ、そんなんじゃない。だいたいおまえこそ、顔真っ赤だろうが」 「おまえが妙な反応するから釣られちゃったんだよ! ――ああもう、なんだこれ、あったまきた。絶対逃がさねえからな、そこ動くな!」 「絶対嫌だ」 もはや理屈は関係なく、ここで頷くのは何かに負けたような気がする。 だが当然と言うべきか、晶はそんな俺に俄然闘志を燃やしたらしい。 「はいはい上等。もうあたしキレちゃったもんね。ふっふっふ……」 「――いくぞオラぁッ!」 まさに襲い掛かるという形相で、がばりとこいつが迫ってきたそのときに―― 「…………」 「……分かった」 いい加減付き合いも長いので、晶がこうなったら何を言っても無駄だというのは分かっている。 それに、まあ本音を言えば、俺としても決して迷惑な話ではなかったし、こいつの気遣いが嬉しくもあったから。 「お、おう。ま、任せとけ」 だから、もう、そのままがばっとやってくれよ。何を一転してしおらしくなってんだよこいつは。 「……そういう態度やめろ。胸が痒くなる」 「う、うるせえな。もとはおまえのせいだって言ってんだろ」 「……本当に泣けるかどうかは分からないぞ」 「だから……泣かしてやるって言ってんじゃん」 そんな感じで、お互いぼそぼそと話しながら、まるで立ち合いでもするかのように正座の姿勢で向かい合い…… 「……じゃあ、頼む」 「……う、うん。いくよ」 まさに今、その瞬間が訪れようとしていたときだった。 「四四八ー、いるかー!」 「――な」 「げっ――」 凄く凡庸な表現で申し訳ないが、世界は綺麗に凍りついた。 「そ、そんな、嘘だよ……まさかあっちゃんがここまで出来る子だったなんて、わたし舐めてた」 「す、すまん四四八。別に邪魔するつもりはなくてだな、これは単にまったく予想外だったっつーか、つまりその……」 「き、き、き、き……」 「……はっきり喋れよ、鈴子」 よりによって、おまえら、ちくしょう仲良いな。 「き、汚い! 不潔よ――変態、変態! 今すぐそばもんになって死ねっ!」 「そばもん馬鹿にしてんじゃねえよ鈴子てめえっ!」 「つかおまえら来るなら来るでチャイム鳴らせよっ!」 怒号と悲鳴が響きあい、近所迷惑甚だしい状況だったが、それはこの家でしばらくぶりに生じた活気に他ならず…… 遺影の中の母さんが、俺は笑っているように感じたんだ。 そして、その後は雪崩れ込むように宴会めいた流れになった。 栄光が持ち込んだ酒が悪かったんだと思う。 とりあえず当初の誤解を解いたあとは各人の気持ちを確認したり、それぞれの推理や情報について話し合ったりしていたんだが、段々とノリが怪しくなって正体をなくす奴が増えてきたのは間違いなく酒のせいだ。 たとえば歩美、こいつがここまでの間にしっかり眠っていたという事実を聞いたときは皆が呆れ、突っ走りすぎだと注意も当然したのだけど。 「うるさーい、四四八くんにそんなの言われる筋合いありませーん。だいたいこれって大事なことでしょー。 文句あんのー、ねえあんのー、きゃははは」 ……まあ確かに、条件の特定を推論だけに任せないというのは重要で、反論は難しかったが、笑いながらばしばし叩いてくる歩美は果てしなく鬱陶しかった。 それに、ウザいと言えば我堂も相当いっている。 「ねえ、ほら柊、土下座して? 鈴子様最高ですって跪いて? 私偉いでしょ? ねえ、凄いでしょ? 奴隷になりますって言ってよねええええええ」 ……笑ってるのか泣いてるのかどっちなんだよこいつは。 千信館と戦真館、二つの成り立ちとその歴史。そこから見えてくる様々なことは得難い情報に違いなく、確かに我堂の手柄だろうし感謝もしてるが、鳴滝の迷惑も考えてやれよ。 「ちょっと淳士、そんな隅でちびちびやってないでこっち来なさい!お酌よお酌っ」 「おまえこいつらの前じゃ馴れ馴れしくするなって言ったろうがよ」 「あぁ~ん柊ぃ~~、あいつあんなことばっかり言って、いっつも私を困らせるのよぉ~。こんな奴が幼なじみで苦労してるのに私ぃ~~」 生憎と、俺含む全員が思っていた。苦労しているのは絶対に鳴滝だと。 「ここに水希もいれば文句ないんだけどなぁ……ちくしょう、そういやまだケー番すら交換してねえ」 そうなのか? 訊けば全員ともそうだったらしく、この場に誘いたくても出来なかったというのは分かったが、それなら世良はどうして俺の番号を知っていたのか。 もしかして、情報源は芦角先生? いやしかし、あの人は俺の番号を知っていたかな。ちょっと記憶がはっきりしない。 「あたしさあ、水希にもう一回言いたいんだよ、気にすんなって」 「そりゃ確かに、そんな一言ですぱっと解決すりゃ世話ねえってことぐらい分かってるよ。四四八だって悩んでたんだし、水希はもっと複雑だろ」 「けど、なんとかしてやりたいんだよ。あいつの気持ちを軽くする魔法の一発、なんかねえの?」 誰にともなくしみじみ呟く晶の言葉に、その場の全員が無言のまま頷いていた。 曰く魔法の一発、それは存在しないのかと。 「じゃあさ、こんなのはどうだ?」 「まだそんなに水希のこと知ってるってわけじゃねえけど、あいつたぶん面倒くさい性格してるからさ。許すとか気にしないとか、そういうことをどれだけ言っても意味がないと思うんだよ」 「あ、それわたしも同感。逆に追い詰めちゃいそうな気がするよね」 「そう、だからさ。これでチャラだっていうのを分からせるために、なんかやってもらおうぜ」 「つまり罰ゲームってこと?」 「でも軽い遊びみたいなことやらせたって、水希の罪悪感は消えねえぞ」 そして、本当に過酷でも本末転倒というやつだ。案としては中々いいが、落しどころが難しい。 「その顔見る限り、自信ありそうだけどよ」 「ああ、あるぜ」 皆を見回し、微笑む栄光。こいつが提唱する魔法の一発とは何なのか。 誰もが息を呑んで耳を傾け―― 「こう言うんだよ。悪いと思ってんならパンツ見せろ」 「おまえ黙ってろ!」 「痛ぇ――ちょっ、何すんだよっ!」 まったく、たとえ一瞬でもこいつに期待した俺が馬鹿だった。 悲鳴をあげる栄光は、晶と我堂からガチでボコられているが清々しいほど助ける気にならない。 「えへへ、でもいいよねこういうの。久しぶりで、ほっとする」 「ねえ四四八くん、そうだよね?」 「ああ、同感だよ」 微笑む歩美は、すでに目がとろんとして落ちかけていた。こいつは完徹を続けてきたわけじゃないとはいえ、やはり酔っ払えば眠くなるのが当たり前だ。他の連中にいたってはそれどころじゃないだろう。 だから俺は努めて優しく、不要な心配をさせないためにも前向きな調子で言葉を継いだ。 「おまえら、今日はもう眠れ。世良のことは俺に任せろ。心当たりがある」 「……そうなの?」 「多少な。だから気にせず休んでくれよ。俺はもう一晩くらい眠らなくても大丈夫だ、鍛えてるからな」 本音を言うとかなりきついが、弱音なんか吐いてられない。再びあの世界へ行く前に、たったひとつでもやり残した半端があってはならないと思っている。 「おまえのお陰で夢に入る条件は確定したんだ。ありがとう歩美、助かったよ。あとは俺を信じてくれ」 「うん、じゃあ、みっちゃんをよろしく」 言って歩美は、そして他の連中も、次々眠りに落ちていった。俺はそのまま、皆の寝顔を眺めながら、改めて思う。 こいつらにとって、ゆっくり眠れるのはこれが最後かもしれない。だからこそ俺は責任を持ち、こいつらの信頼に応えなければならないんだと。 「ありがとう」 「おまえらにとって、誇れる俺であるよう頑張るよ」 そうしてゆっくり立ち上がった俺は、意識を叩き起こすために風呂で冷たい水を浴びた。皆を起こさないように注意しながら着替えを整え、家を出た頃には微かに夜も白みかけてる。 あれ以来、日課も怠っていたわけだし、ここらで鈍った身体にも喝を入れよう。健全な精神を健全な肉体に宿らせるため―― 「行くか」 呟き、俺は黎明の鎌倉を走り始めた。 母さん……俺はやっぱり、今でもあなたが何を考えていたのか分からない。その価値観を想像するということさえも、未熟な俺には出来ないんだ。 愛する男から道具のように扱われ、挙句の果てに切り捨てられ、なお母さんは満足なのかな? あいつの役に立ちたいのかな? それにそもそも、役に立つとはどういうことだ? あのとき、聖十郎の胸に飛び込んだ母さんは、自分が役に立ったかと訊いていたよね。あいつに相応しい女というものになることが、そんなに大事なことだったのかな。 俺の出来不出来――奴は話にならんと言っていたけど、母さんは俺をどう思っていたんだろう。自慢だと言ってくれれば嬉しいし、だからこそ俺と奴を引き合わせたかった。そう思っていいのかな。 だとするならば母さん、俺は期待に応えるよ。屑を産んだ役立たずなどと、二度とあの男に言わせはしない。 それは、それだけは――あなたの愛というものが、仮にどれだけ愚かしく、破滅に満ちて、壊れていたのだとしても無意味だったなんて言わせて堪るか。 俺は生きている。あなたが産んで、育ててくれたから、今ここに生きている。 役に立つか、立たないか、それが何を意味するのか生き抜いて見極めよう。 だから母さん、俺は誓うよ。 必ずまたもう一度、柊聖十郎に逢わせてやる。 そんなことは望んでないのかもしれないけど、俺が母さんに出来ることはそれだけみたいだ。 だからそっちで待っていてほしい。俺があいつを、母さんのところへ送ってやるから。 そしてそこで夫婦二人、今度こそ弁財天になど引き裂かれないよう幸せに。 天国、地獄の意味など知らない。まったくそんなものには興味がない。ただあれほど愛を捧げた母さんなら、何がどうなろうとあいつに逢えると信じている。 如是畜生発菩提心――俺があの畜生に引導を渡すから、その果てにどうか安らぎを得てほしい。死んだくらいであれが改心するとは思えないが、少なくとも思い知らせてやるつもりだよ。 俺は屑じゃない。母さんの息子だからこそ、柊聖十郎を超える男なのだと証明してやる。 そして無論それだけじゃなく、あの男が身を投じている状況、背景、因果そのもの――俺の内に渦巻く正体不明の感情が、何を発端としているのかもすべて残らず解明しよう。 あの夢が何であるのか。どうして俺に、俺たちに、これは開かれ回るのか。 突き止めるよ、絶対に。 それでいいよね? 恥ずかしい選択なんかしてないよね? 俺には頼もしい仲間がいて、そいつらも俺に同意をしてくれたから。 母さん、母さん――ああ、ちくしょう! 俺は、今、ようやくはっきりとあなたがいないという事実を、受け止めて―― やるべきことに確固たる覚悟をもって向かい合うことが出来たからこそ―― 「うおおおおおおおおおおォォッ―――!」 浜辺に辿り着いた俺は、ただ全力で咆哮した。何度も、何度も、喉が破れても構わないと思うほど強く、心から。 「はッ、……ぁ、っ、つ………」 文字通りすべてを絞り出すほど叫んだせいで、俺の中で〈澱〉《おり》のように溜まっていたものが目から頬を伝って流れ落ち…… 「はい、ハンカチ」 やっと俺は、ここに泣くことが出来たんだ。 「急に電話切って、ひどいよ」 「…、……っ……すまん、色々あってな。ていうか、その……」 まだ暴れている呼吸を何とか整え、傍らの世良から顔ごと目を逸らして言う。 「今は、あんまり見ないでくれよ。恥ずかしいだろ」 「駄目、罰だよ柊くん。私ずっとここで、一晩中寒い中待ってたんだから」 「柊くんは、きっとここに来るって信じてたし」 まあ、それは確かにそうだろう。こいつと俺の接点と言えばここが一番分かりやすいし、基本というやつだから。 ゆえに俺もここを目指して来たわけで、結果としてビンゴだったが、同時に弱みも握られてしまった気がする。 だけど、それも別にいいか。 「罰、ね……ならしょうがない」 俺は再び世良のほうへと向き直り、渡されたハンカチを手に取って堂々と涙を拭った。 「けど世良、おまえの罰はどうするんだ?」 「え……?」 「色々、悔やんでることがあるんだろう? それについて、おまえの中にある罪悪感だよ」 「晶も、歩美も、我堂も、栄光も――そして鳴滝、当然この俺だって、おまえに怒ったりなんかしちゃいない。けどそんなことをいくら言っても、おまえは納得しないだろ。性格面倒くさそうだしな」 「う、それは……」 自分のことは棚にあげながら俺は続ける。一転して余所余所しく、小さくなってしまった世良を励ますために。 「そんな話を皆でしててな。正直なところ、もうこれ以上何かあるたびに謝られるのは嫌だから、罰一個でチャラにしてやろうってことになったんだよ。それが妥当な落しどころっていうことで」 「わ、分かった。なに……?」 運動直後の高揚と、ようやく泣けたという安心感と解放感と、そして首尾よくこいつを見つけ、何と言うかドキリとする顔で見てくるから俺は思わず―― 「パンツ見せろ。それでチャラだ」 「へ……?」 「だからパンツ」 「パンツ、私の?」 「そう、おまえの」 「み、見せるの?」 「うん」 「…………」 「…………」 ……どうしよう。 いや冗談だよ。笑えないけど。さっきの栄光がどういう目に遭ったかを考慮して、こいつもきっと怒るだろうと思ったから、それで辛気臭いノリが払拭されたらいいなと俺は思ったんだよ。間違ってるか? 「あ、ああああああ、だけど、それは、やっぱり、でも……」 「恥ずかしい、けど、罰だもんね。わ、分かった、見せるよ。見てて、ね?」 間違ってたようだ。やはり諸事情あって俺の頭は軽くバグっていたらしい。 真っ赤な顔で上目遣いにこっちを見つつ、屈辱に耐えながらも悲壮な決意を固めようと努力している世良の様子はまずいな本気でどうしよう。 「本気にするなよ、冗談に決まってるだろ!」 張り詰める危険な緊張感に耐え切れず、俺は両手を突き出して世良を止めた。 「え、でも……?」 「いいの、いいんだよ。おまえもこんな戯言に乗ってくるな、馬鹿か!」 「な――なによそれ、なんで私が怒られなきゃいけないのよ!」 「おまえ馬鹿正直すぎるんだよ。そんなんだから色々面倒なことになってるんだ、気づけ!」 「お、大きなお世話よ! 私、柊くんのことクソ真面目な奴だと思ってたけど、実は変態だったんだね、最低!」 「だから冗談だって言っただろうが!」 「真面目な人はそもそもそんな冗談言いませんー!」 「だとォ!」 「何よっ!」 「四四八ァ――!」 まあ、俺も男だし、女に恥を掻かせてはいけないと思う。 世良は勇気を振り絞って臨むようだから、ここは黙って見守るのが男の優しさではないだろうか。 よって、俺は無言のままその瞬間を待つことにした。 「…………」 「…………」 「…………」 「い、いくよっ!」 よし来い! 「四四八ァ――!」 「――は?」 「えっ?」 唐突に名を呼ばれ、振り返ってみれば、そこには…… 「おま、おまえ……足、速すぎ。死ぬかと思った、マジで……」 「うっ、げ、おえっぷ……やばい、やばいわ淳士、背中さすって」 「吐くなよ、頼むから……」 「おまえら……」 どうしてここに? 後を追って来たにしても早すぎるぞ。時間的に、俺が家を出た直後から行動しなければこのタイミングでは来れないはずだ。 「まさか、寝たふりしてたのか?」 「お、おう……まあ、そんな感じ。ちょっとしたイタズラだったけど、高くついたわ」 「わ、私は別に、そんなの興味なかったけどね。……巻き添えで、起こされただけだし。いい迷惑だわ」 「おまえ柊が着替えてるときガン見してたじゃねえかよ」 「うるっさいわね! そんなこと―― うおっぷ」 ああ、うむ。なるほど、流れは分かった。それで今ここにいる三人は、俺の走るペースについてこれた面子というわけだ。 かなりきつそうな晶、死にかけてる我堂、まったく平気な顔の鳴滝……三人の中でも差は出ているようだけど。 「それで、歩美と栄光は?」 「さあ、途中で死んでんじゃねえかな。あいつらヒョロすぎんだよ」 「栄光はともかく、歩美は女子だろ。無茶言ってやるな」 「それって私らが、なんかおかしいみたいじゃない。ムカつくわね……」 「あ、来た来た。おーい、こっちだこっちー!」 見れば、溶けたナメクジかゾンビのような足取りでやってくる二つの影。まあ、あいつらにしちゃよく頑張ったよ。 「つ、疲れたよ~~。鳴滝くん、おんぶしてって言ったのに……」 「この、体育会系連中ども……か弱いオレらを、ちっとは思いやれっちゅー話だよ」 「風火輪持ってないときゃ、走らないようにしてんだ、こっちは……」 「ぷっ」 「ははっ」 「甘ったれてんじゃないわよ、馬鹿」 そしてお互い、俺たちは顔を見合わせて笑い始めた。朝の浜辺で、屈託無く心から。 その輪に一人だけ入れないまま、少しだけ離れた微妙なところで所在無さげにしている奴のことを、もちろん誰も忘れちゃいない。 「ほら来いよ水希っ」 「みっちゃん、待ってたよ」 「てか、なんでそんな遠慮してんの?」 「おどおどしてる奴は嫌いよ、水希」 「ま、俺もつるむのはあんま好きじゃねえから気持ちは分かるが」 それぞれから好きなことを次々言われ、世良は助けを求めるように俺を見る。 だが、諦めろ。助けんぞ。 「観念しろ」 「柊くん、みんな……」 伸ばした俺の手と、全員の顔を交互に見つめて、戸惑うような間も一瞬。 「分かったよ。観念する」 たぶん、俺はこのとき初めて、何も混じっていないまっさらな世良の笑顔を目にしたんだ。 「そういうわけだ。おまえら覚悟はいいんだろうな」 「しつこい」 「当然っ」 「今さら言うなよ」 「訓示みたいなものでしょ、黙って聞きなさいよ」 「…………」 「鳴滝くん……ほんとに黙ってると逆に変だよ」 俺たちは輪になって手を重ねると、これから先を共に行くため、ここで心を一つにする。 「今後一生、悪い夢を見るなんて冗談じゃない。もちろん、悪い夢を見ながら死ぬことも」 いつか何処かで、前にもこんなことがあったかもしれない。そんな風に今思うのは、気のせいだろうか。 「だから戦うぞ。戦って夢から覚めよう。これは俺たち全員が望んだことだ」 「巻き込んだんでも、巻き込まれたんでもない!」 強いってどういうこと? なぜ強さを求めるの? その答えをこれから俺たちで形にするんだ。 二度と間違えないように。誰もこの瞬間を後悔したりしないように。 「またこの朝に帰る――いいなッ!」 「了解っ!」 「全員でだ――」 「当たり前!」 「千信館の学生らしく――行くぞォ!」 掛け声と共に上げられた手の向こう、輝く朝日が俺たち全員を包んでいた。 「しゃあッ! よし、ああぁぁ――やべえ眠ーい!」 「どうしよう、四四八くん。決めたはいいけど、もう真剣に倒れそうだよ」 「おまえはオレらよりだいぶマシだろうがよ、我慢しろ」 「だけど柊、ほんとにやばいわ。ここで寝ちゃうわけにもいかないし、せめて家に帰るまではなんとかしないと……」 「鈴子、おまえんとこの車何台か出してくれよ。それで送ってもらおうぜ」 「あ、そうね。その手があったわ……ちょっと待ってて」 「頼む我堂。それからおまえら、夢で集合するのは八幡だ。気をつけろよ」 「あんなことがあった後だし、たぶん今度は、何処で目覚めることになるか分からん」 「時代が百年前になってたら、そのとき俺たちの家なんかないんだからな」 と、ここで一旦別れる前に、最低限の注意喚起をしていたのだが…… 「ねえみんな、ちょっといい?」 手を挙げて世良が注目を促したので、こいつからも何かあるのかと皆がそちらに目を向けた。 「あ、あのね、ひとつ訊きたいことがあるんだけど」 「やっぱり私、みんなにパンツ見せないと駄目かな?」 … … … ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 寝ぼけてんのかこの馬鹿女。 「てめえコラ何やってんだ栄光ゥゥッ!」 「いや、知らねえって! なんでオレが怒られんだよォ!」 すまん。実にすまん栄光。誤解は後で解いておくから、ひとまずここは眠らせてくれ。 夢に入るという意味の重さを考えれば、ひどく軽い気持ちでそう思えるのが贅沢で、嬉しくて…… これこそ皆を頼もしく感じていることの証なんだと、俺は思った。  その廊下は深い荘厳さに包まれていた。  磨き上げられた白からなる大理石の床には染み一つ無く、中央に敷かれた緋色の絨毯が視覚効果によってこの空間の広大さを強調している。  いや、実際に広いのだ。伽藍とさえ言っていい。  横幅だけを見ても一般の民家であれば丸ごと入ってしまうだろうし、吹き抜けの天井から降り注ぐ照明は満天の星空めいて、壁に施された銀装飾を絢爛ながらも華美に走らず煌かせている。  このような意匠の建築、計算された神聖さを醸し出す物が何であるかは理解に易い。  貴族――それも並ではない。連綿と紡がれた蒼の薔薇は伝説に達し、〈半神〉《デミゴッド》の域にまで届こうという旧き血筋の居城だった。 「〈Sancta Maria ora pro nobis〉《さんたまりあ うらうらのーべす》  〈Sancta Dei Genitrix ora pro nobis〉《さんただーじんみちびし うらうらのーべす》」  その聖性――何者にも絶対不可侵であるべき〈薔薇の城〉《ブルーブラッド》を黒い放射能が蹂躙している。堕とし、穢すことこそ我がすべてだと誇るように、億の〈蝿声〉《さばえ》を引き連れて罪の塊が破滅の悦楽を謳いあげる。  その侵攻は貴婦人をエスコートするように紳士的な静けさで、しかしどんな強姦魔をも上回る無恥と暴食の権化だった。  絨毯が腐った。銀装飾が溶け崩れた。それがただ歩くだけで床と壁面に亀裂が走り、そこから汚らわしい黄ばんだ粘液がじくじくと滲み出ていく。  そうして塗り替えられた新たな意匠は、一言でいえば便所だった。民衆を照覧すべき〈御稜威〉《みいつ》として貴き威光を演出されていた空間が、一瞬にして糞尿のこびりついた便器のごとく穢れていくのだ。冒涜もここまでくれば神業的と言うしかない。  事実、その男は伴天連の僧衣に身を包んでいた。聖像画を逆さにすることでパロディ化する騙し絵のような不遜さがあるものの、己は敬虔な信徒であると主張していることは間違いない。  曰く〈廃神〉《タタリ》――神野明影である。 「〈Mater Christi ora pro nobis〉《まいてろきりすて うらうらのーべす》 〈Mater Divinae Gratiae ora pro nobis〉《まいてろににめがらっさ うらうらのーべす》」  わんわんと羽音のように木霊する〈祈祷〉《オラショ》の奔流。それは明らかにキリスト教の聖歌ながら、異形に歪められている。  その意味を即座に見抜ける者は一定数いるだろうが、何も分からぬほうが明らかに幸せだろう。不快な思いを大部分せずにすむ。  特に、日本人であるならば。  そこからこれが発生した因果を推察することできてしまう。その奥にある腐臭を伴った暗黒の歴史、国の恥部とも言うべき〈糜爛〉《びらん》した泥沼は、まさしく祟り以外の何ものでもないのだから。  そぞろ歩く神野の足は無人の野を行くがごとし。  事実として彼がこの館を訪れてから、このときまで迎撃の類は皆無だった。  旅団級の戦力は楽に収容できるだろう大邸宅でありながら、衛兵どころか使用人の一人すら見当たらない。  かといって罠が設置されていたかと言えばそれもなく、門扉は施錠すらされてなかった。防備の面で見れば明らかに論外であり、恐れをなした家人たちが総出で逃げ出したのかと嘲笑されても仕方ない。  だが、違うのだ。敵の本拠において雑兵が現れないという状況には、もう一つの可能性がある。  すなわち、そこに立ち塞がる半端ではない者。居城を守るに相応しい、絶対の強者が待ち受けているという展開である。 「……ん?」  それを証明するかのように、神野の足が歩みを止めた。いや正確に言うと、先だって止められたものがあるから悪魔の侵攻は止まったのだ。  停止させられたのは他でもない、この館を蹂躙していた穢れそのもの。壁も床も装飾も、腐り果てていくのが止められたのみならず――  一瞬にして、再度神聖な荘厳さに満ちた空間へと塗り替えられた。 「へえ……」  無論、ただそれだけで神野の力が敗退したというわけではない。穢れはこの男が常態で垂れ流しているものにすぎず、言わば無意識の現象なのだから込められた強さも程度が知れよう。  だがそれだけに、裏を返せば呼吸を止められたに等しい圧迫を神野に与えたのは間違いなかった。普段当たり前にやっていることを反転させられるという事実には、そのくらいの意味がある。 「こりゃ驚いた。まさか君が出てくるとは思わなかったよ」  今、再び絢爛さを取り戻した廊下の中央、家令服に身を包んだ若者が玲瓏と立っている。  息を呑むほどに整った容姿の青年だ。眉目の秀麗さは言うまでもなく、姿勢の正しさ、凛烈な気配、すべてが研がれ、極まっている。  まるでこの若者自体が、貴人に仕える芸術品であるかのように。 「自慢の飛車角はどうしたんだい? てっきり僕は、お出迎えがあるならそっちだろうと思っていたんだけど」 「ああ、つまりこういうことかな? 〈玉〉《あるじ》を守るのは〈金将〉《このえ》の仕事。  いや光栄だよ〈幽雫〉《くらな》くん。戦真館初代筆頭の伝説――堪能させてもらおうか」  そして瞬間、音も無く火蓋は切られた。  閉じられていた若者の目が開いていく。それは神野をして意識に霞が掛かっていくのを自覚するほど凄艶で、抜き放たれた〈鋭剣〉《サーベル》の輝きすら消し去ってしまうほど戦慄を喚起する光だった。  なぜならその眼差しは妖霊星のごとく濡れ、断言して正気の人間が持つものではない。人が有して然るべき一部を欠落させた者特有の、かつ獣では絶対に有り得ない陶酔という熱を帯びている。  彼は恋をしているのだ。身を焼くほどに焦がれた主君へ忠を尽くすこと以外、己に価値など認めていないかのように。  その総身は美しく、高性能で、芸術的殺戮器械へと流れるように組み変わる。立ち塞がる麗貌の騎士を前にして、汚矮と醜悪の無貌である悪魔は嗤った。 「怖いねえ、流石は辰宮――」  自身に向けられる瞳の向こう、青年を恋獄に駆り立てている存在へと、呪うような声で告げる。 「罪な〈女〉《ひと》だよ。強くなければ男じゃないとあなたも言うかい」 「うふ、ふははは、あはははははははははは―――!」  爆発する哄笑は、毒蜘蛛の大群となって空間を覆い尽くした。再々度の塗り替えを起こすべく、穢れの奔流が若者へと襲い掛かる。  だが、舞い落ちる絹の〈一片〉《ひとひら》を幻視した瞬間に、標的たる美身は跡形も無く消えていた。数十万に達する蜘蛛の知覚とその糸による網をすり抜けるなど不可能であり、まさしく消失したとしか思えない。  予想外の空振りに目を剥いてたたらを踏む神野の挙動は、状況の異常さを無視すれば滑稽であり、笑いを誘う無様さであったろう。ある意味道化の面目躍如とも言えるのだろうが、それに対する客の反応は容赦がなかった。  背後から神野を貫いた鋭剣が、胸を突き破りその切っ先を覗かせている。如何なる絶技による体捌きか、背中合わせに立つ若者は毒蜘蛛の一匹たりとて踏んでいない。  刃はそのまま回転し、また黒の家令服も円を描く。胸を抉った鋭剣は心臓を潰すと同時に肺を断ち、肋骨を割りながら脇腹へと抜けていた。  振り返る挙動が止めに連結している呵責なき殺法であり、そこには一分の無駄すら見当たらない。高度に練られた技術を指して舞うようなという比喩があるが、これはその手の装飾さえ入り込む余地がないものだった。  まるで本でも閉じるように。すなわちどこまでも当たり前の日常行為にしか見えぬ。実情の凄惨さと比較すれば、見る者の常識を崩壊させ得る落差と言えよう。  だが、〈常識〉《ふつう》を無視しているのは言うまでもなく彼だけではない。  ここは悪夢。数多の価値観が乱れあう恐怖と不条理の国なのだから。  神野明影はその肉体に実体がない。霧のような粒子であり、放射能のような穢れであり、虫の集合体めいた罪と悪意の塊なのだ。  これまで誰がどのように攻撃しようと明確な打撃を与えることが出来なかったように、騎士の斬撃も当たり前にいなしている。神野は胸を裂かれた瞬間にばらけ、人型を失い、また固まって、渦巻く蛾の群れとなり狂乱の舞を踊っていた。  そこから降り注ぐ極彩色の鱗粉は、星屑のイルミネーションに見えぬこともない。しかし、それが館の神聖さを嘲っているものであるのは容易に分かる。 「くらなくんはまぞ。おじょうさまのあしのうらをなめるのがすき」  折り重なって輪唱する蛾の羽音がそう言っている。ように聞こるのだ。 「おまえはじぶんでちんぽをこすることもできないこしぬけ。きれいなのはみためだけで、なかみはくさったせいえきしかつまってない」  低劣な揶揄であり、見え見えの挑発だ。子供の口喧嘩にも劣る稚拙で下卑た雑言は、しかしそれだけに対象の精神を否応無く掻き毟る。殺し合いの最中に飛ばすものとしては、ある意味で非常に有効と言えるだろう。  もっとも、当の神野に心理戦などしているつもりはおそらく微塵も存在しない。  ただ、好きなのだ。趣味なのだ。人間ならば誰もが持っているだろう触れられたくない聖域に、土足で踏み込み糞をなすりつけるという背徳が。  そして、だからこそ、悪魔の囁きは過剰に下劣な言い回しを取っていても、本質から的外れということだけは決してない。 「くさい。くさい。おまえはくさい。ゆりか。ゆりか。ああおじょうさま、ふんでください。うふふふ、ひぃっひっひっひ――きひはははははははは!」  地に毒蜘蛛。宙に毒蛾。鱗粉は無論のこと、触れただけで肌に火脹れを発生させる。もし僅かでも吸い込めば、肺がぐずぐずに溶け崩れよう。  迫り来るおぞましい軍団を前にして、美しい若者は恐怖するのか。激昂するのか。  否、どちらでもない。彼の表情は依然として艶めく陶酔に濡れたまま、その黒瞳は主への忠誠だけを湛えている。  これはこれで狂気の所業だ。眼前の汚濁と対峙していながらも、その実まったく相手を見ていないことになる。先の挑発とて例外なく、耳に入っていないのだろう。  天井から脈絡も無く百万の芋虫が墜落してきた。そのすべてが接地と同時にひしゃげて潰れ、汚らしい黄色や緑の体液を磨かれた床にぶちまける。  攻撃としてはまったく何の意味も無く、ただの嫌がらせとしか思えない。女なら誰でも疼きを覚えるだろう若者の麗貌を、どうにかして歪ませたいという神野流の拘りであろうか。  しかし、それら連続する悪意と嘲笑の驟雨の中、館の家令は一匹の毒蜘蛛、一匹の芋虫、一欠片の鱗粉にすら未だ触れていなかった。密度的には回避不可能な絨毯爆撃であるというのに、悉くを躱している。  一見、それは神祇省の鬼面衆、泥眼の体術に通ずるものがあるようで、明らかにまったく別種のものだった。自己存在を零化して、障害物や敵の警戒網を透り抜けているわけではない。  言うなれば何かの歩法、移動の意味概念を操作しているかのような。  瞬間移動のようでもあり、だがそうだと断言できない奇妙な“遅さ”が付随している。  ゆえに彼を攻める者はその正確な位置を測りかね、守る際は受けのタイミングを狂わされるのだ。  とはいえ、前述の通り神野に真っ当な攻撃は通用しない。唸りをあげて放たれた鋭剣の一撃は渦の中心を貫いたが、これまでがそうだったように効果は甚だ怪しかった。痛い痛いと羽音が輪唱するものの、抑揚は相変わらず嗤い続けている。  その嘲りを掻き消すように、連続して空を裂く斬撃の疾風――結果はすべて同じだったが、若者の攻勢は止まらない。むしろ輪をかけて回転率をあげていく。  細身の外見からは想像もつかない体力を有するようで、いっかな勢いは衰えないが、ここにも奇妙な違和感が付随していた。怒涛と言っていい攻め込みながらも、そこに激流という印象がなぜか見当たらないのである。  むしろ冷えて、淡々とした、患者を診る医者のような。  そう、喩えるならまるで触診。彼は闇雲に攻め続けているわけではなく、神野の急所に該当する何かを探っている。  あるいは、〈急〉《 、》〈所〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈創〉《 、》〈り〉《 、》〈出〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》。  神野の不死性――その防御力は確かに脅威の代物だが、現象自体は透過型の〈解法〉《キャンセル》を応用したものと見て間違いない。  であれば、突破するには破壊型の〈解法〉《キャンセル》をぶつけるのが一番手っ取り早いものの、それは言い換えれば単純な力勝負だ。明快ではある反面、地力で上回らなければ絶対に通用しない。  そうした事実を踏まえて見るに、神野と解法の分野で競うのはおそらく無駄と言えるだろう。ここまでの流れがそれを証明しているし、そもそも敵の土俵で真っ向勝負という選択自体、賢い者のすることではない。  よって、求められるのは別角度からのアプローチだ。その一つに条件付けというものが存在する。  夢界におけるすべての事象は術者の精神強度、すなわちどれほど強くその夢を想っているかによって決定されるため、この前提においては言った通り、格の上下がそのまま勝敗を分けてしまう。  〈夢〉《こころ》のぶつかり合いとしてそれは至極当然だし、現実にも適応される真理に近いものであろうが、しかし何事もそうであるように陥穽が存在するのだ。  すなわち、それこそが条件付け。  〈特〉《 、》〈定〉《 、》〈の〉《 、》〈手〉《 、》〈順〉《 、》〈を〉《 、》〈踏〉《 、》〈む〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》、〈他〉《 、》〈者〉《 、》〈に〉《 、》〈協〉《 、》〈力〉《 、》〈を〉《 、》〈強〉《 、》〈制〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。  その手順とは、無論のこと自由勝手にいくらでも決められるというものではなく、せいぜい一人に一つか二つ。しかも術者の人生を象徴するような、強い拘りや哲学を体現したものでなくてはならない。  ゆえに戦闘という、極限の否定と奪い合いをしている中で成立させるのは至難だが、決めたときの見返りは凄まじい。  たとえば、右腕が無い戦士がいたとする。彼は自己から欠落した“右”という概念に狂的な執着を持っており、戦いになれば敵の右側しか狙わない。そうした枷を自分自身に掛けている。  それはもちろん、そのまま考えれば当たり前に欠点だろう。戦いの自由度を自ら制限しているのだから、愚かしい真似に違いない。  だが、そうした者を前にして、敵はいったいどう思い、どう対処するか。  おそらく、こう考えるのではないだろうか。こいつは右だけを狙っている。つまり左は狙わない。  そのとき、両者の間で合意が成されることとなるのだ。  〈左〉《 、》〈は〉《 、》〈不〉《 、》〈要〉《 、》〈と〉《 、》。  瞬間、敵は自らの左半身を根こそぎ喪失してしまうか、よくても機能不全に陥るだろう。これは隻腕の戦士のみの力で成したことではない。  誰よりも敵自らが、左は要らないと思ったからこそ発動する言わば共同技なのだ。ゆえに抗うことはまず不可能。己でやったことであり、さらに相手の力もそこに上乗せされている。一人で跳ね返すことなど出来ない道理だ。  協力の強制――  それは想いがそのまま形となる夢ならばこその発想転換と言えるだろう。  敵の力を減じたり、己の力を上昇させたり、そのどちらでもない何かを自分の器では成せない域で実現させる。  法則はハイリスク・ハイリターン。条件が難しければ難しいほど効果はでかく、決定的だ。  先の例に倣うなら、右腕が無い戦士は当然そこが死角なわけだから、敵はむしろ己の左側にこそ重きを置く可能性が多分にあり、そうなると左を軽視させるという条件は成立しない。  だから、それをさせないことが肝になる。気づかれず、自然な流れで、誘導しつつ合意を得ること。  今、神野に対して若者がやっているのは、おそらくそれに相違あるまい。  〈弱〉《 、》〈点〉《 、》〈が〉《 、》〈無〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈弱〉《 、》〈点〉《 、》〈を〉《 、》〈生〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈ら〉《 、》〈う〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  流動する罪と穢れと昆虫の渦である神野に向けて、機銃もかくやという連続突きが放たれる。依然として効果はゼロだが、まったく無視して五撃、十撃、二十、三十――四十、そして五十に達した瞬間のこと。 「あんめい、まりあ――ぐろおおォりああァァす」  初めて神野が、自ら攻撃らしい攻撃に打って出た。渦巻く毒蛾の大群が、鎌のような軌跡を描いて若者の側背を強襲する。  刹那――  館に響き渡ったのは、火花散る剣戟の調べだった。それは取りも直さず物体同士が衝突した事実を示し、すなわち若者が神野に触れたという証明に他ならない。 「――お見事」  同時に、あらゆる毒虫が音を立てながら引いていき、ここまでの戦闘で穢れきった邸内の不浄を残らず吸い込みつつ再び人型へと立ち戻った。若者と向かい合う形を取って、神野はにこやかに笑みを浮かべる。 「無礼を許してもらいたい、幽雫くん。少し試す必要があったんでね。  だが、どうやら無駄だったうえに僕が恥を晒しただけみたいだ。お手上げだよ、降参させてくれたまえ」  言いながら、その通りに両手を上げて無抵抗の意を示す神野の無貌は、頬が僅かに裂けていた。それは即座に消えていくが、経過を見る限り楯法の回復効果に間違いない。仮に解法で無効化していれば、人型を取ったときに傷など残っていなかったはずだ。  やはり若者は、神野に一太刀入れている。だからこそこの男はそれを讃え、降参だと言っているのだろう。 「そこでお願いなんだけどね、君のご主人様に会わせちゃもらえないものだろうか。折り入って相談があるんだよ。  なに、警戒はしなくていい。君の力はよく分かったから、馬鹿な真似はしないと誓うよ。  さあ、どうかな幽雫くん」  その呼びかけに対し、幽雫という青年はどう応じるのか。  数秒、沈黙を守った後。 「……笑わせる」  まったく面白くもなさそうにそう言った。  両者が会敵して以降、それが初めて発した彼の言葉だったのだが、そこに特別な感情は皆無と言っていいほど見受けられない。容姿を裏切らない美声ではあったものの、石が話しているような響きがある。 「貴様が誓うとは、いったい何にだ。己を神仏の僕だとでも?」 「ああ、ならばこう言おうか。使い魔風情が戯言を抜かすなよ」  下げていた鋭剣が再び上がる。そして同時に、声音は感情の色を帯びた。  まさしく刃の切れ味で武装した、冴える断罪の煌きを。 「我が主に目通り願うと言うのなら、貴様ごときでは役者が足りん――  ここに今すぐ、〈甘粕〉《あまかす》を連れて来い」 「ふはっ――」  その名を叩き付けられた瞬間に、神野の無貌が蠕動した。  うねくる回虫めいた細い筋が、痙攣しながらこめかみに浮かび上がる。  怒っているのか、いいやそれとも…… 「駄目だよ、全然笑えんねえ。君らごときが集まって、あの人に何か言えるとでも思ってるのかい。  僕の主を連れて来いとは、大きく出たなあ。うふ、うふふふふふ……」  羽音が、無数の〈犇〉《ひし》めき合いが、徐々に激しさを増していく。  最初は微細な振動でしかなかったそれは、やがて屋敷を震撼させる爆音となり、轟々と荒れ狂う凶虫たちの乱舞となった。  弾け迸る神野の咆哮。  顎を咬み合わせる〈鍬形〉《クワガタ》のような声で悪魔が謳う。 「駄目だ駄目だ――まったく話にならないよ。期待はずれだなァその程度か。  もういいや、潰してしまおう。君ら何にも分かっちゃいないね!」 「ほざけよ黒蝿。私が貴様を通すと思うか」  これまでの数倍はあろう邪気を正面から叩き込まれ、だが若者は微塵たりとも怯んでいない。むしろ口元に微かな笑みさえ浮かべながら、真っ向迎撃する気概を見せる。  先の攻防で彼は神野の防御を破った。成果は掠り傷程度のものだが、効果が未だ持続中ならこれから先は紛うことなき死闘となる。  神野も無論、まだ本領の一端たりとも見せておるまい。今このときも膨れ上がり続ける邪念の波濤が、地獄の悪意に底など無いことを証明している。  すなわち双方、これより本気の第二局面。もはや遊びは存在しない。  その幕が切って落とされようとした、まさに寸前―― 「――〈宗冬〉《むねふゆ》」  両者の間に、幽玄麗々とした声が届いた。 「おやめなさい。それ以上の戦闘は禁じます」  その人物の姿は見えない。館全体が話しているかのようであり、奇妙に現実味を欠いた感の、だが絶対の強制力を持つ声だった。事実、宗冬と呼ばれた若者は動きを止め、即座に戦意を解いている。 「鬼天狗殿、あなたもです。矛を治めていただけませんか。ご相談とやら、聞きましょう。  宗冬は彼をお通しするように。ですが誤解してはなりませんよ。おまえを信じていないというわけではありません。  ただ、勝敗に関わらず、その彼を相手にして無事に済むとも思えぬだけ。おまえの身に何かあれば、誰がわたくしを守るのですか」 「…………」 「事を荒立てる気がないと言うなら、ここは丸く治めるべきでしょう。さあ、もう一度言いますよ。彼をお通しするのです」 「御意に。お嬢様」  頷いて剣を納め、脇に退いた幽雫宗冬――辰宮家の筆頭家令は、その立場に相応しい完璧な礼をもって“客”を迎えた。 「ご無礼致しました、お客人。どうぞこちらへ」  先ほどまでとは百八十度態度を変えた物腰に、一片の無理も我慢も見受けられない。心底から歓迎しているように感じるし、事実その通りなのだろう。  もはや機械的を通り越した恐るべき職業倫理と忠誠心。それに神野は頷いて、珍しく揶揄ではない賞賛を口にした。 「従者の鑑だね、素晴らしい。いや、こちらこそ失礼したよ。謹んでお言葉に甘えさせてもらおうか」 「では――」  半歩遅れて傍に立ち、道順を示してくれる若者に、神野は大人しく従った。まるで敬意を表するように、今度は如何なる穢れも振り撒かない。  そうして訪れた廊下の終点。青壇の扉の前で宗冬は立ち止まると、恭しくノックを行う。 「どうぞ」 「神野明影様――御命に従いお連れ致しました」  扉を開け、主の間へと入った宗冬は半直角の礼をしてからそう言った。 「神野明影です。不躾な訪問に応じてくださり、真に恐悦と感じ入るばかり」 「ようこそおいでくださいました。当辰宮家の娘、百合香でございます」  ここに今、本来敵対しているはずの勢力同士が邂逅を果たした。その意味するところと結末がどう転ぶのかは、まだ分からない。 「さて、まずは何かさしあげましょうか。紅茶でよろしい? それともお酒?」 「僕はあなたと同じ物を」 「でしたら紅茶ですわね。宗冬、お願い」 「畏まりました」  紙のような薄い磁器へ湯気の立つ琥珀色の液体が注がれると、二人の前へ静かに置かれる。百合香と神野はそれを手に持ってから共に微笑み、ゆっくりと喉に流した。 「うぅん、旨い」 「それは何より。ですが紅茶に関しては宗冬より慣れた者がおりまして、生憎と今は席を外しているのが残念ですわ。当家のもてなしを最高の形でお見せできず、申し訳なく思っております。  よろしければまた後日、改めて席を設けたいのですがいかがでしょう?」 「いやいや、本を質せばいきなりやって来たこちらが悪い。そこまで気を遣っていただくと、逆に居心地が悪くなってしまいそうだよ。  しかし、まあ、これ以上の味と言われれば興味をそそるのもまた事実だね。なら機会を見つけて、そのときにということで」 「ええ、わたくしも楽しみにしておきます」  そしてそのまま、二人は何でもない世間話にしばらく興じた。そこだけ取って見る限り、仲の良い友人同士の会話としか思えない。  辰宮百合香――まだ少女と言ってよい若さだが、血筋と育ちにより醸成されたのだろう気品と風格はすでに威厳すら放っていた。表情と抑揚はやや欠けるものの、柔らかい物腰に棘めいたものは一切なく、その手の攻撃的な諸々を吸い込むような佇まいを見せている。  神野明影を前にして、まったくの平常さを保っているというだけでも充分以上に普通ではない。それはこの男が“遊び”をやっていないからというのも当然あるが、そもそも彼が行儀よくしていること自体がおかしいのだ。  まるで辰宮百合香には、己の悪意が効かないと弁えているかのような。  いやしかし、有効無効に関係なく、他者を抉るのが神野の趣味であるはずなのだが……どうにも不可思議と言うしかない。  そんな奇妙さを残しながらも談笑は続き、百合香が一杯、神野が三杯を飲み干したところで話はようやく本題に入った。 「あなたは本当にお変わりないようですね鬼天狗殿。少々わたくしとしては口惜しくあります」 「それはご期待に副えず申し訳ない。だけど辰宮さん――」 「百合香とお呼びくださいませ」 「じゃあ百合香さん。出来れば僕も、名前で呼んでほしいところなんだが」 「あなたにとってはそのようなこと、さして意味の無いものでしょう。わたくしにとって鬼は鬼、〈外道〉《てんぐ》は〈外道〉《てんぐ》にございます。  此度はまた、どのような悪戯で掻き回してくださるのか。興趣つきせずではありますけれど。  さていったい、ご相談とは如何様な悪趣味で?」 「なに、至極単純なお願いだよ」  座っている椅子には上質な詰め物がたっぷりと施されている。その感触を味わうように背もたれへ身を預け、神野は気軽い調子でそれを言った。 「あなたとあなたの一党に、この〈第六層〉《ギベオン》からご退去頂きたいというだけでね」 「あら、それはまた」  神野の放言に百合香は上品な驚きを示しただけだが、傍の宗冬は一瞬殺気に近いものを浮き上がらせた。当然だろう。そのお願いとやらは、本拠を捨てろと言っているに等しい。 「困りましたね。ご要望に応じるとなれば、わたくしどもは相当の不自由をすることになってしまいます」 「もちろん、その点は承知だよ。〈五層〉《ガザ》や〈四層〉《ギルガル》で小競り合いをしているだけの僕らと違い、あなたは実質、〈六層〉《ここ》を支配しているわけだからね。しかし、そこは曲げてお願いしたい。  まさか気づいてないとは言わないはずだ。つい先日、〈夢〉《カナン》に戦真館の子達が入ってきたことを」 「それは柊殿のご子息ですか?」 「そう、あなたやそこの幽雫くんからしてみれば、彼らは我が子のようなもののはずだよ」  百合香は戦真館の生みの親であり、宗冬はそこの第一期筆頭である。確かに神野が言う通り、彼らから見れば四四八たちは遠く離れた子弟同然、しかも未だ目すら開いていない雛鳥と言っていい。 「無論、そこについては否定しません」 「だったら話は早いじゃないか」 「今のままじゃあ、彼らはいくらも保ちやしない。早晩倒れてしまうと僕は思うよ。誰かが保護してやらないとね。  そして、守るだけじゃなく育てあげることも重用だ。その二つが出来るのは、立場の面でも力の面でもあなただけだし、こんなことになってる以上はそもそも義務だと思うんだよね。  なあ、違うかな百合香さん」 「なるほど、お話はよく分かりました。筋を通せとあなたは仰る」  微かに面白がっているような響きを声に乗せて、百合香は小首を傾げてみせた。年齢相応の少女らしい仕草だが、神野に向けた眼差しは、結婚詐欺師を見る高級遊女のそれに近い。 「筋目云々の話になれば、それこそ柊殿の領分であろうと思いますが、まあよいでしょう。世には役に立たぬ親もいるもの。  しかしわたくしはともかくとして、なぜあなたが戦真館の子弟にお心を配るのです? むしろ抹殺せねばならぬのが〈廃神〉《タタリ》の〈立場〉《つとめ》というものでしょう。そこがどうにも解せません。  もしやわたくしの知らぬ間に、甘粕大尉殿は趣旨変えなされた……ということかしら?」 「あなたはセージと同じようなことを言うんだねえ」  馬鹿馬鹿しそうにかぶりを振ると、神野は大仰に嘆いてみせた。そのまま白磁のカップを手に取ろうとして、意地汚いように感じ照れたのか、バツ悪げに笑って続ける。 「今後何回、その手の質問をされることになるのか分かったもんじゃないからね。ここであなたを代表ということにしつつ言っておくよ。頼むから忘れないでくれたまえ。  〈悪魔〉《じゅすへる》ってのは、そもそもそういうものなんだよ」 「…………」 「つまり僭越ながら言わせてもらうと、もっと勉強してくれないかな。僕の教義は異形だから分かり難いのもしょうがないけど、ちゃんと調べれば見当ぐらいはつくはずだよ」  もったいぶった言い回しは、実質何も答えていないに等しい。だが百合香は思うところがあるらしく、数秒沈思した後で頷いた。 「そうですか。ならば努力致しましょう。大尉殿にその旨よろしく。  もっともわたくしが見る限り、あなたは〈教義〉《それ》以外の理由もお持ちのようですけれど」 「バレたか。流石だね、女の勘っていうやつかな」  むしろよくぞ見抜いてくれたと言わんばかりに、神野は胸を張って堂々とその内を宣言した。 「そう、僕は恋してるんだよ」 「恋?」 「どうしても欲しい女性がいるのさ」  そんなとぼけた返答に、百合香は目を丸くする。だが、次には笑いを堪える声と表情になっていた。 「それはそれは、さぞ成就させたいことでしょうね」 「もちろん。あなたと同じだ、百合香さん」 「お相手の女性が不憫に思えてなりませんが」 「そこもあなたと同じだよ百合香さん」  そうして、ついに百合香は屈託無く笑いだした。名前が示している通り、花が香るような仕草で喉を震わす。  それは万人を和ませるだろう可愛らしさで、神野と逆の属性だったが、等しく“匂う”類の笑みであることに違いはない。 「まったく、痛いところを衝いてくる方。そのようなことを言われますと、わたくしも断るに断れません」 「そうかい。それはありがたいな。だったら――」 「逸らずに。わたくしは考慮すると言っているのです」  勢い込む神野を微苦笑しながら手で制し、百合香は緩く顎を振った。傍らの宗冬が再び両者の間を立ち回って紅茶を注ぎ、無駄のないその所作を満足げに見届けた令嬢は、香りを楽しむように一口啜ってから止めた話を再開する。 「あなたが〈杜撰〉《ずさん》な仕事をなさるとは思いませんので、一方的な話ではなかろうと信じております。が、お互いの立場というものもありますので、確認をせねばなりません。  この宗冬然り、わたくしの家人たちに納得してもらう必要がありますからね。そこはよろしい?」 「ああ、確かにそりゃそうだ。いやまったく、気が回らずに申し訳ないね」 「よいのです。柊殿のご子息であれば、当方にとって得難い戦力。言われずとも座視するつもりはありませんし。  彼らが、そう、あなた流に言えば〈第四層〉《ギルガル》へ入ったのなら、援護をせねばならないでしょう。〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈以〉《 、》〈上〉《 、》、これは仰る通りわたくしの義務です。  が、たとえばこの宗冬なりを派遣して済ますというのは駄目なのですか?」 「残念だけどね。ちょっときついよ。別に〈幽雫〉《かれ》の実力に文句をつけたいわけじゃなく」 「なるほど、狩摩殿ですね?」 「ご明察。鋼牙の姫様を警戒するのは、〈五層〉《ガザ》に入ってからでいい」  宗冬だけを四層に差し向けた場合も辰宮家の戦力は半減するが、それでも本拠を丸ごと空にするよりは随分とマシだろう。ゆえに百合香は、確認のためその提案をしたのだが、神野は無理だと肩をすくめる。  理由が物理的な実力に関わる不足でないと言うなら、政治的な面と見て間違いあるまい。  要は貫目、そういう話だ。狩摩を抑えるには百合香の立場が必要ということ。 「だから、まずは〈四層〉《ギルガル》だ。彼ら、どうも〈狩摩〉《あれ》に目を着けられちゃったみたいなんでね。あなたが直接行ってシメてくれなきゃ、何してくるか読めないんだよ。ま、本人も分かっちゃいないんだろうけど」 「確かに、狩摩殿は難しい方ですが、あれはあれで戦真館を愛していらっしゃるはずですよ。ゆえに彼のもとへわたくしが赴き、話が通ればそれまでのこと。即座に〈六層〉《ここ》へ戻ります。この点は譲れません」 「分かった。いいよ。出来るのならね」  まるでそんなことは不可能だと言っているかのようだった。百合香に六層を退去しろという神野の要請は、彼女が四層へ行ったが最後、戻るに戻れなくなることを前提に話している。  よって百合香は、戻ってこれた場合はすべて無しだと言っているのだ。真っ当に考えて、言い分に理があるのは彼女のほうだろう。 壇狩摩は戦真館と縁を持っているのだから、協調する率は低くない。  少なくとも百合香はそのように考えているし、神野も狩摩に対するカウンターは彼女だと認めているからこんな話を持ちかけたはずである。  時に四四八らを利するように動くことも〈悪魔〉《じゅすへる》の本分―― 先ほど嘯いたその台詞がそもそも嘘で、百合香が六層を空けた瞬間に占拠するのが真の目的という見方もあるにはあるが、そんな見え透いた手は常識以前だ。神野明影ともあろう者が選ぶ演出とは思えない。  加え、だからといってその危険を潰さずにおくほど辰宮の令嬢は甘くない。  それは即座に証明された。 「よく分かりました。ではこちらから言うことは一つ。  あなたが何を考えていらっしゃるかは存じませんが、あなたのお話にそのまま乗るのが危険だということはよく知っています。ゆえに条件を設けさせていただきたい」 「だろうね。なんだい?」 「〈百鬼空亡〉《なきりくうぼう》を止めてもらいます」  そのとき、両者の間に初めて緊張の火花が走った。言われた神野は無論のこと、百合香も先ほどまでの柔和な雰囲気が消えている。  百鬼空亡――少なくとも彼らにとって、その名が爆弾であったことは間違いない。 「わたくしが本来、七層の住人であることは今さら言うまでもないでしょう。それが現在、〈六層〉《ここ》に居を構えている理由は明々白々」 「〈七層〉《ハツォル》は奴が支配しているから、だね」 「そう。あなたと同じ第八等指定の廃神ですよ。〈裏勾陳〉《うらこうちん》、というのでしたか?  あの邪龍に背を向けて〈六層〉《ここ》を離れられるほど、わたくしは大胆になれません。よって、あなたと柊殿には腹背の守りを買ってもらいます」  正面から神野を見据え、命ずるように、百合香は女帝の倣岸さで言い放った。 「今すぐ七層へと赴いて、百鬼空亡を止めること。これが絶対条件です。その履行が成されたのを確認し次第、わたくしは四層へと向かいましょう。  誓文の類は不要です。あれと対峙したが最後、背を向けられなくなるのはあなた方とて同じでしょうからね」  むしろ諸共に斃れればいい――その意を明快に示しながら告げる百合香に、神野は俯き、目を伏せて、 「了解……よく心得たよ」  無貌に亀裂を走らせるがごとく、耳まで口を裂けさせ嗤っていた。  同刻――と言えば語弊が生じる別の〈層〉《じだい》で、柊聖十郎はまさにその存在と対峙しようという瞬間を迎えていた。  場所は鶴岡八幡宮。彼の息子とその仲間たちにとってはあらゆる意味で忘れられないだろう因縁の地であり、行動の起点とも定めている神域は、しかし既知のいかなる時とも様相を異にしていた。  現代でも、〈四層〉《ギルガル》でもなく、〈五層〉《ガザ》でも〈六層〉《ギベオン》でも有り得ない。〈七層〉《ハツォル》と神野が言った〈層〉《じだい》であり、地図上の座標は同じであっても存在する時間軸がズレている。  実質上の最深層……彼ら夢界で争っている者たちが、例外なくそう認識している禁断の地こそがそこだった。  妖風吹き荒れる境内に、一人立つ聖十郎。表情は険しく緊張を孕み、彼をして余裕を失いせしめる禍々しさが一帯を覆い尽くしながら沸騰している。  それがどれだけ致命的な意味を持つのか、この天才学徒は誤解していない。  そこらの忌地とは訳が違う。場所が場所、冗談ではないのだ。  なぜなら八幡とは応神天皇。すなわち皇室の祖霊であり、〈天照〉《アマテラス》の流れを汲む紛れもない神道上の貴種格だ。加え武門の守護神でもあるのだから、強いうえに甘い霊威ではないことになる。  その神域が乗っ取られ、呪詛と凶気に汚染され尽くすという事態が尋常なはずもないだろう。しかもここは〈鶴岡〉《つるがおか》、全国一万を超える八幡宮の中にあっても、三本の指に入る重霊地であるにも関わらずこの様なのだ。  それら事実をもってして、現状を量るのは絶望的なほど明快すぎる。  この地を占拠した存在が、武神すらも逃げ出すほどの〈廃神〉《タタリ》であるという証だった。 「出て来い、〈百鬼空亡〉《なきりくうぼう》」  そして、これが〈七層〉《ここ》にいるからこそ、誰一人として第八層へ行くことが出来ていない。  今ここに、その〈禍〉《わざわい》が顕れる。  激痛に絶叫する空間の境を喰い破りながら出現したのは、狂った龍の瞳だった。見るだけで心身を凍りつかせ、脳を引き千切る猛悪の眼光たるや凄まじく、破滅と殺戮に反転した死の太陽を思わせる。  病み爛れて膿み、腐臭を放ち、なお衰えぬどころか膨れ上がり続ける霊力に限界はまるで見えない。  さながら超新星爆発の前兆そのもの、この地で規格外の〈大災害〉《カタストロフ》が起こることはもはや決定済みだと語っている。  今、聖十郎の前に現れたのが、全体の一欠片にしかすぎないことが何よりの証明だろう。たった眼球一つだけでも、あまりにでかい。巨大すぎる。  八幡宮の本殿すら押し潰さんとしている邪龍の瞳は、漏れ出た空亡の〈邯鄲〉《ユメ》が映し出す影にすぎないものなのだ。  無尽蔵とも言える力がすべて溢れ、凝縮し、形を成して動き出した際の脅威は人の想像を何桁規模で絶しているのか、見当すらつけられない。  ゆえに、これを斃すことは誰にも不可能。  この場の聖十郎は言うまでもなく、狩摩、キーラ、百合香も含め、同じ八等指定を受けた神野でさえ、百鬼空亡は打倒できない。質が違う。  なぜなら、神野明影は〈悪魔〉《じゅすへる》だ。仏道に言う天狗や〈魔羅〉《マーラ》、言わば外道堕天使の類である。  よって、彼の仕事は本質的に道化と誘惑の狂言回し。人の魂を魔道に引きずり、神に背を向けさせる工作こそが本領だと言っていい。  〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈教〉《 、》〈義〉《 、》〈を〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈に〉《 、》〈課〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》、こと戦闘力の面においては必ずしも高くなかった。常人と比べられるものでは無論ないが、上位廃神という括りの中ではむしろ脆弱。いや正確に言うと、神野にとって戦いはただの遊びだ。彼の価値観はその勝敗になど興味がない。  しかし、空亡は違う。  これは完全、純粋な破壊神。単純な強さが手に負えぬからこそ、文字通り空をも亡ぼす〈廃神〉《タタリ》として最危険視されているのだ。 「甘粕……やはり貴様、狂っているよ。  こんなものを呼び出して、今さら〈楽園〉《ぱらいぞ》も何もあるまい」  暴れ狂う瘴気の只中、誰にともなく聖十郎は嘆いていた。そんな彼の面前で、空亡の名が持つもう一つの意味が明らかになる。  すなわち〈百鬼〉《なきり》――百の鬼だ。 「大江の山に来てみれば、酒呑童子がかしらにて」 「青鬼赤鬼集まって、舞えよ歌えの大騒ぎ」  ぶすぶすと音を立て、空間に無数の穴が空いていく。一片一メートルほどからなる正六角形が次から次へと、おぞましいほど正確無比な幾何学模様を描きながら生じていくのだ。  まるで蜂の巣や蓮の種子と同じ類の、血の気が引く生理的嫌悪感の集合体。  そしてそれらと同じ属性を持っているなら、これがただの穴ではないことくらい誰にでも分かる。  蛆が出てきた。百足が出てきた。蛇が、蜘蛛が、白骨が……その他正体不明の臓物めいたモノたちが、身を震わせて暴れながら六角形から這い出してくる。  虫の軍団ならばまず神野を連想するが、これは明らかに種類の統一性がまったくなかった。  ひたすら不浄で、ただ不気味。人間種に対して害しか成さぬ異形の群れだということしか分からない。  つまり、すべてが〈廃神〉《タタリ》なのだ。霊力の密度や強度は空亡の足元にすら及ばないが、それでもこの一匹だけで、並の人間には致命的となるに違いない。  たとえ聖十郎ほどの男でも、これだけの異形を相手取れば危険という二字が明滅する。 「凶将陣……百鬼夜行か」  空亡の魔気に当てられ、常世から這い出してくる〈妖〉《アヤカシ》どもの大軍勢――だが、六勢力最大最強と目されるこの魔群の恐ろしさは、数や個々の強さだけに頼る単純なものでは決してない。  その不浄さと人に対する怨念以外、一見して何の類似もない彼ら凶将たちには、実のところもう一つだけ共通点が存在していた。  皆、暴れている。喚いている。後ろを気にし、焦り、慌て、全身全霊を振り絞りながら逃げているのだ。  恐怖――その背に負った絶望的すぎる死への恐れ。それこそが何より凄まじい共通点であり爆発力。凶将たちは空亡から逃れることしか考えていない。  ようやく這い出ることに成功した大百足が、弾丸の速度で聖十郎に突進した。しかしそれは、意図して彼を攻撃しようとしたわけではない。  ただ空亡から逃げるため、障害物など目に入らず全力疾走しただけなのだ。  ゆえに聖十郎は腕を振り払って大百足を弾き飛ばしたが、恐慌した妖の突撃が甘いはずもないだろう。大きく仰け反ってたたらを踏む。  そして、それだけでは終わらない。  百足の次は大蛇だった。  次は腐乱した山犬だった。  白骨化した馬が〈嘶〉《いなな》き、首のない武者が吼え、際限なく連続する怒涛の嵐が聖十郎を呑み込んでいく。  どんな大津波や火砕流より、この百鬼夜行は危険だろう。恐怖に狂った魔物たちが、脇目も振らずに押し寄せてくる様を想像してみるがいい。  凶将たちの意思はどうあれ、それが空亡の敵を叩き潰す決死の切り込み隊となっていることに変わりはない。 「驚き惑う鬼どもを、一人残さず斬り殺し」 「酒呑童子の首を取り、めでたく都に帰りけり」  そんな、見方を変えれば哀れを誘う光景にすら、邪龍は何の感慨も抱かなかった。闇から数百数千の手を伸ばし、逃げ惑う凶将たちを片っ端から捕まえていく。  そうして引き裂き、喰らい、ばら撒く。  ただそれだけ。  何の意味もない。  殺したいから殺す。  魔性の血泥に埋もれた八幡宮で、百鬼空亡の哄笑が轟き渡った。 「――図に乗るなよ、化け物風情が」  しかし、〈雲霞〉《うんか》のごとく押し寄せる凶将の波を吹き飛ばし、再度姿を現した聖十郎は微塵も怯んでいなかった。遙か見上げる邪龍の威容を、むしろ見下すかのように喝破する。 「力だけしか能がないか。まったく羨ましいとは思わんな。俺の言葉すら理解できまい。  それが貴様の弱点だ」  そのとき、聖十郎の手元から、驚くべきものが出現した。  輝く燐光に包まれて生じたそれは、紛れもなく彼の妻――柊恵理子に他ならない。自ら殺した己の女を、切り札でもあるかのように携えている。 「貴様のような自我も知性もない輩に俺の夢は通じんが、だからこそ通る別のやり方も存在する。  しょせん〈勾陳〉《こうちん》――規模が度外れているというだけで、本質は自然現象と変わらんのだろう。ならば利用すればいいだけだ、風と同じよ」  恵理子は死者だ。もういない。現実においては骨となり、その魂もここにはないと分かっている。  ゆえにこれは聖十郎が創造した木偶であり、人形でしかないことは自明だというのに、なぜだろう。 「しばらく大人しくしていてもらおうか。貴様に出張ってこられると、俺の都合が狂うからな」  あまりにも生々しくて、グロテスクなほど真に迫る。技術が高いから精巧だという理屈など、遙かに超越した域でこれは恵理子だ。そうとしか見えない。  だが、だからといって何なのだ。これが天工細工すら上回る至高の作品だったとして、あるいは本当に恵理子自身であったとして、この状況に対する駒としては意味不明にずれている。  空亡に実力で対抗することが不可能なのは、聖十郎とて承知のはずだ。ゆえに別のアプローチを、知能がないという性質を自然現象に見立てたうえで、利用すると言った結果がこれなのか。 「恵理子、起きろ」  亡妻に向けたその声は、この男のものとは思えないほど優しく慈愛に満ちていた。 「おまえが必要だ。俺の役に立つがいい」  しかし、次の瞬間に起きたことは、空亡の暴虐すら霞むほど人の道を踏み外していたと言えるだろう。 「はい、あなた……喜んで」  夢見るような声が流れて、そして同時に――  まったく何の躊躇いもなく、聖十郎は恵理子を空亡に差し出したのだ。 「女、女だ」 「乳をくれ、尻をくれ」 「旨そげな〈腸〉《はら》をくれろ」 「その指わいにくりゃしゃんせ」 「わいに血をくれええええェェェッ!」  瑞々しく、美しく、生気に溢れた女の裸身に空亡は狂喜する。凶将どもを放り出すと、異界の臓物臭に塗れた手が恵理子に向けて殺到した。 「ひっ―――、ギ――ィ」  そうして腕をもぎ千切る。  両目を潰して抉り取る。  舌を引き抜き鼻を削ぎ、乳房を握り潰して喰らい始める。 「あ゛、あ゛あ゛ァ、―――ギぁ、あああァァッ」  恵理子の――本物にしか見えない――人形が絶叫した。そのことからも彼女が痛覚を有しているのは明白であり、ならばどれほどの地獄を味わっているかは想像するに難くない。  いや、違う。想像することは不可能だった。  なぜなら彼女は、機能停止をしないのだから。 「は――、あぁ……んっ、ふぅ……!」  顎を縦に裂いた手が口腔内に進入し、内臓の一つ一つを潰しだしてもこの恵理子は〈死な〉《こわれ》ない。致命傷をすでに百以上受けながらも、歪な生命活動は止まらなかった。むしろ破壊された端から再生していく。 「痛い? 痛いィ? 苦しい? 悲しいィ?」 「愛しい? 憎いィ?」 「辛い? 悔しいィ?」 「痛い痛い痛い痛いィィィ――キャァァァァ、ぎゃぎゃぎゃはァ――!」  ゆえに死なない。そして際限なく蹂躙される。飽きさせない玩具に空亡はなお狂喜し、笑い転げながら奇妙な殺戮に酔い痴れた。  そして恵理子も、人間なら物理的に体感できない域の苦痛に叫んでいるが、そこに混じる法悦の陶酔を隠さなかった。まるで役に立てるのが嬉しいとでも言うかのように、この大苦悶を許容している。 「そうだ死ぬなよ。耐えろ恵理子。俺を失望させるような真似は許さん」  それを見守る聖十郎には、反面なんの感情も見受けられない。実験観察する科学者さながら、試薬を垂らすように妻が奮い立つだろう言葉を紡ぐだけだ。 「おまえが踏み堪えている限り、〈空亡〉《それ》はそこから動かない。せいぜい楽しませてやるといい。女の仕事だ。いや、母のか?  〈空亡〉《そいつ》はおまえに飽きたが最後、即座に四四八を殺しに行くぞ」  言葉に嘘はないのかもしれないが、少なくともこの男に夫や父としての情など欠片もないのは確かだろう。 「愛を見せろよ。俺の役に立ち、息子を守れ」  四四八と彼の仲間たちがこの光景を目にしたら、激怒のあまり気が狂っていたかもしれない。  彼らがどれほど恵理子を偲び、傷つきながらも覚悟を固め、前に進むため団結したのか。  それを嘲笑うどころか一瞥すらせず、屑籠に放るがごときこの暴挙。鬼畜と言ってもまだ足りない。  そもそも何より救いがないのは、聖十郎が楽しんですらいないことだ。彼にとっては当たり前のことを当たり前にやっただけで、むしろ仕事の面倒さが不満であると言わんばかりの、人として破綻した倣岸さだけが滲み出ている。 「あなた、あな、た……聖十郎、さん……四四八……」  終わらない虐殺の中、か細く漏れた妻の声すらもはや耳には入っていない。  この凄惨な役目が終わるまで、いったい恵理子は何度殺されなければいけないのか、逆十字と呼ばれた男にとってそんなことはどうでもいいのだ。  今も轟き続ける空亡の哄笑に鬱陶しそうな顔を作り、破滅の災害が起こる前夜の〈七層〉《じだい》で、ただ短く呟くだけ。 「早く来い四四八……俺はおまえが羨ましい」 「ああ、僕も同感だよセージ」  辰宮邸を後にした無貌の悪魔も、やはり同じように呟いていた。 「僕は彼らの中に入りたかった。入りたかったのになあ……うふふふふふ。  仲間はずれで置いていかれるのは嫌だったんだよ。だから僕は、僕はさあ」  理解不能で奇怪な妄念を垂れ流しながら、その目は夢の階層を突き破って遙か上を見上げていた。  今、そこに彼の愛しい少女を含む七人が入って来たことを正確に感知して、視線はそのまま、〈七層〉《した》へと告げる。 「待ってなよ、セージ。すぐに行く。  まあしばらくは、君の嫁さんを肴にしながら一緒に酒でも飲もうじゃない。彼女も見ててほしいだろうし、やっぱり空亡は危ないからねえ。迂闊に背中は見せられないよ。  しばらくは……そう、しばらくはね」  この日、第六層は空となり、第七層には神野と空亡、そして聖十郎が拘束されることとなった。  よって、まず舞台となるのは四層、五層――初代戦真館の創立と、その崩壊にまつわる歴史。  時は明治、世情は日露の戦争只中。  火種は満ち満ち、燃え上がるのは止められない。 「さあ始まりだよ――楽しんでいこうか!」 「行くぞォ――!」 「……で、なんなら」  不機嫌と言うほどではないものの、明らかに面倒臭がってはいるだろう胡乱な声が低く流れた。 「俺がこれを打っちょるときは話しかけんなァ言うとろうが。おまえら、そん程度のこともよう守れんのか。  やれんのォ、まったくたいぎィ話じゃわい」  パチリと、叱るような音を立てて駒を指す。盤上は常人に理解できない複雑怪奇な混沌と化していた。  将棋、ではある。だがマス目と駒の総数が通常の三倍近く存在し、ルールが果たしてどうなっているのか分からない。  お馴染みの金銀飛車角などは存在するが、それに加えて銅鉄石将、豹、虎、狼に、獅子や麒麟や象や牛……多彩にすぎるバリエーションは、どう見ても一般的な将棋のものと違っていた。  それもそのはず。これは大将棋と呼ばれるもので、鎌倉時代に指されていたらしい、ということしか分からない〈古〉《いにしえ》の遊戯なのだ。現代では無論のこと、彼の時代であってもこれを指せる者はほぼいないと言っていい。  ゆえにそもそも、この男がルールを理解しているのか一見して判別できないところがあった。鹿爪らしく気取っているが、出鱈目にやっている可能性も多分に有り得る。何せ、大将棋という枠すらも確実に飛び越えているのだから。 「ちゃっちゃと答えい。おまえら俺の言うこと聞かんくせして、こういうときだけ殊勝ぶるなや。  なんぞあったんじゃろうがいや」  ぼやきながら打たれた一手は、あろうことか碁石だった。しかもそれで、相手方の陣にある〈僧正〉《ビショップ》を弾き飛ばす。もはや何をやっているのか見当もつかない。  打つのか指すのか、そのような括りに彼は自分を置いていないのだろう。  他者からも己からも、何かの定義に嵌められることを憎悪しているようにすら見える。  だいたいからして、先ほどからぐだぐだと漏らしている愚痴は誰に対してなのだろうか、それすらまったく不明だった。ここには彼以外、誰もいない。  話しかけるなと言っていたが、音は奇怪な棋譜が組まれるときしかしていないのだ。  パチリ、パチリと、ワケの分からない混沌で遊びながら、男は何やら頷いていた。蜥蜴のような顔に苦笑が浮かぶ。 「ほぉ、そうかい。まあそりゃそうじゃいのォ、お通しせい」  盤面から顔をあげて――神祇省の頭領、壇狩摩は、客を迎えるべく両手を広げた。 「用件は分かっちょるよ、お嬢。まあ座りんさいや。  あんたァ、相変わらず綺麗じゃのォ」 「あなたも、お変わりないですね狩摩殿。懐かしいと言う気になれぬのは、致し方ないことでありますが」  それを受けて辰宮百合香は行儀よく、だが氷の瞳で狩摩を見返す。彼女がここに来ざるを得なくなった理由の大元は、間違いなく彼にあるのだ。  ゆえに単刀直入、言葉を飾らず令嬢は尋ねた。 「いったい何がありました。いえ、何をなされたのですか、あなたは」 「ひひっ――」  いやらしく、そして含むように鬼の子孫は肩をすくめる。敬意と降参の意は示しながらも、投了するのはおまえの方だと言うかのごとく。 「会ってみりゃあ分かるわお嬢。まずはそこから―― 俺に何か言いたいなら、そっちが先じゃあないですかのォ」  そのとき混沌の遊戯へ亀裂が走り、盤は真っ二つに割れていたのだ。 集合場所として定めていた八幡宮には、全員問題なく揃うことが出来ていた。 「とりあえず、最初の不安はなんとかなったな。無事でよかった」 「うん、途中で四四八くんに会えてほっとしたよ」 「まあ、あたしらは家も近いしな」 「それでも正直、初めはかなりびびったけどよ。オレなんか森だぜ、森」 安堵と興奮から、皆口々に〈夢〉《ここ》へ入った際の状況を語り合う。栄光なんかはまだいいほうで、一番エキセントリックだったのは鳴滝だ。 「俺、空中だぞ。冗談じゃねえ」 「細かいこと言ってんじゃないわよ。私の馬小屋よりはマシでしょ」 「いや、それはねえ」 「同感だな」 「りんちゃんは、まだ自分の家だったんだからいいじゃない。部屋の位置に問題があっただけで」 「うるさいわね。なんで私が、起きて早々馬糞に囲まれてなきゃいけないのよ。ああもう、腹立つわ。現実に帰ったら絶対部屋の位置変えてやるから」 「水希、あんたはどうだったの?」 「え、うん。私は普通に道端とか、そんな感じ」 「……それが普通っていうのも難儀な話だけどな」 「まあ海の中だの土の中だのって奴がいなくてよかったよ」 そういう色々纏めた結果、全員一致で一つの結論はすでに出ていた。 「やっぱり、現代じゃなかったな」 夢に入った際、目覚めは現実で寝入った場所と同じ座標になってしまう。これが絶対に確定なのかはまだ不明だが、前回に続きそうなのだから有力な説ではあるだろう。そして、だからこそこういうことになっている。 今回、俺たちが目覚めた場所に自宅なんかまったくなかった。例外は我堂で、こいつは名家だったからなのだが、それでも間取りはまったく違っていたらしい。中には鳴滝のように、地形ごと変わっていたという奴もいるほどで。 つまりこれは、事前に予測していた通り時代設定の変化を意味している。おそらく百年くらいの昔だろうと当たりはつけているのだが、正確な年数はまだ不明のままだ。 そういう意味でも、八幡宮を集合場所に定めたのは一応正解だったと言えるだろう。前回のことからして警戒は怠れなかったが、それでも軽く八百年前から不動の建物という性質は非常に便利だ。もちろん他に候補はいくつもあったが、立地や確実性を考慮すればそうならざるを得ない。 まあ今になって思えば、だからこそ伏撃される可能性も桁違いだったわけだけど、ここは結果良しと割り切っておこう。今回でこの〈世界〉《じだい》を調べれば、以降の集合場所もきちんと選べる。 「色々、際どい指示で悪かった。今後はもうちょっと考えるよ」 「いや、いいって。あたしら全員、寝不足すぎて頭回んなくなっちゃってたし、あの状況で代案も何もねえだろ」 「でもやっぱり、そう考えると毎日ちゃんと寝ないと危ないよね。警戒感まで薄くなっちゃうし」 「きっちり寝てたおまえが言うなよ……」 とにかく、ここはそういうことだ。安全を確保するためにも調べなければならないことは無数にある。 「まずは地理よね。他にも集合場所に使えそうな旧い建物はいくつかあるけど、目抜き通りにある〈八幡〉《ここ》と違って道筋が入り組んでるから、変化を把握してないと迷いかねない」 「そんな風に誰かがはぐれちゃったときが一番危ないと思うもの」 「だな。そこで提案があるんだが、最初に千信館を探そう。……いや、この場合は戦真館か」 指を立てて皆を促す。我堂が持ってきた情報によれば、今はちょうど戦真館が出来たばかりという率が高い。 「今日、俺たちは現実的に言うと学校サボって朝っぱから寝てるわけだし、せめて夢の中じゃあ登校しよう」 「今の俺たちの状況には、色々と母校が絡んでるようだからな。取っ掛かりを掴むためにもそこからいきたい。異議はあるか?」 「ないわね。私も断然同意。あんたらだってそうでしょう?」 我堂の問いに全員が頷く。俺はそれを確認してから、続く言葉を口にした。 「そういうわけだ世良、そろそろ頼む」 「……うん、分かってるよ」 水を向けた俺に頷き、世良が一歩前に出た。そう、ここらではっきりさせるべきことはさせなきゃいけない。 「俺は……ていうか、全員だが、おまえに何か問い詰めて吊るし上げたいあげたいわけじゃない。むしろそんなことはどうでもいいと思ってたからこれまで何も訊かなかったし、その気持ち自体は今も変わっていないんだ」 おまえが悔むことなんか何もない――そう何度か言ったように。 なぜどうでもいいと感じているのか。なぜ皆、ほぼ無条件にこいつを信じ、この状況に向かっているのか。それについての覚悟は出来てる。 「これが悪い気持ちのわけがないって信じてるからな。別に説明しろって意味じゃなく、おまえ一人によく分からない秘密を押し付けておくのが不健全に感じるだけだ」 「まあ晶に言わせれば、助けさせろっていうやつで」 「それ言うなよ。恥ずかしくなっちゃうだろ」 「ううん、私嬉しかったよ。だからありがとう、ちゃんと話すね」 「だけどみんな、もう少し待って。その前に確認しなきゃいけないことがあるの」 「それは何? いつまで?」 「勘違いしないでよ、別に急かしてるわけじゃない。ただ何かの契機があるっていうなら、それを教えてほしいのよ。危ないことなの?」 「大丈夫。私の思った通りならほんとにすぐだし、危なくないから」 そこで世良は言葉を切ると、周囲を見回す。釣られて俺たちもそうしたのだが、何があるのか分からない。 だが―― 「あっ――ねえみんな、ちょっとあれ見て!」 叫んだ歩美の指差すほうを皆で追い、次いで全員が驚愕した。 いや、世良だけはやっぱりという感じに頷いていた、その異常とは…… 「ほ――なんだねいきなり、若い娘さんが大きな声を出して」 ある意味俺たち以上に驚いていると思しき袴姿の老人は、境内を掃除中の宮司さんだった。彼は目を丸くしてこっちを見ている。 「す、すごい。反応までしたよ」 「ちょっと黙れ歩美。余計なことを言うな」 とにかく行くぞと促して、俺たちは宮司さんもとへ向かう。危険はないと言った世良の言葉を信じちゃいるが、背に流れる嫌な汗は止められなかった。 「おいおい、どうしたんだね血相変えて。私が何かしたのかね?」 「……い、いえ、その、すみません。別にどうしたというわけじゃないんですが」 「あなたは、ここの宮司さんですよね?」 「そうだが。それが何か?」 きょとんとした顔で俺たちを見てくる老人は、正直何とも言いがたい感じだった。それは彼が架空のようでも本物のようでもあるということで…… 「柊、〈透視〉《キャンセル》かければ分かるんじゃ……」 「もうやってる。見えないんだよ」 ガードされてるというわけじゃなく、簡単に見通せる。その結果、何も情報が出てこないということで、そこだけ見れば彼は架空のキャラクターめいていたが、そのわりには反応や雰囲気が生々しい。 だいいち、ほんのついさっきまでこの夢には俺たち以外人っ子一人いなかったのに、いきなり出現した宮司さんをどう定義すればいいと言うのか。 そんな風に困惑している間にも、どんどん状況は進行していく。 「げ、見ろよ四四八」 「人が増えてる……」 「マジかよ……」 気づけばあっちにもそっちにも、ぽつぽつ人影が増えていき、あっという間に周囲は参拝客だらけとなった。服装が現代のものと違う点を除けば、それはまったく日常的な光景で、ここが夢であることをうっかり忘れてしまいかねない。 「世良、これが?」 「うん。ちょっと私に任せて」 言いつつ、宮司さんの前に出た世良はにっこり微笑んでお辞儀をすると、皆が訊きたくても訊けなかったことを代弁してくれた。 「いきなりで申し訳ないんですが、今が何年なのか教えていただけないでしょうか。その、元号で」 「ん、なんだねそんなの、三十七年に決まっとるじゃないか。今の若い者はその程度のことも知らんのかね」 「三十七年……」 「つまり、明治か」 しかもそれは、戦真館が生まれた直後の年だった。 「いかんなあ、そんなことでは国の未来が不安になるぞ。だいたいなんだね君たちは、そろいもそろって妙な格好をしおってからに」 「特にほれ、そこ、若い娘が脚など出して歩くんじゃない。まったく恥ずかしくないのかね、いったい何を考えておる」 「え、いや、その、これは……すみません」 「……お爺ちゃん、古いよ」 「だから歩美、余計なことを言うな」 「なんだ、何か言ったかね?」 「いいえ、なんでもありません。お手数かけました」 「ちゃす、ありがとございまっす」 「おい、こら、なんだその言い草は。待ちなさい――おいっ」 これ以上絡まれてると面倒なことになりそうだったので、俺たちは礼もそこそこに退散した。 「おわー、びっくりしたー。なにあれ、普通あんなんで怒りだすか? オレら赤の他人だぜ? 遠慮とかねえの?」 「そういう時代っていうか、むしろあれが普通だろ。身近に似たようなおっさんいるから、俺にとっちゃ特に驚くほどでもねえ」 「余計なこと言ってんじゃないわよ淳士。……だけどまあ、確かにそうね。ミニスカはともかくとして」 「よその子供を普通に叱れもしない世の中のほうが異常なのよ。基本的人権だの人それぞれだの、良いものには違いないけど蔓延りすぎるのは問題だわ。道徳が曖昧になって恥を知らなくなるし、民度が落ちる」 「義務は果たさねえのに権利だけはっていうやつか。確かにいるな。あたしも偉そうなこと言えねえけど」 「もう雷オヤジみたいなのって、滅多なことじゃ見ないもんねえ。さっきのとか、現代でやったら一発セクハラもんでしょ」 「女子校生にスカート丈を注意する事案が発生、とかな」 「とにかく、ここはああいうノリがまだ生きてるってことだ」 明治三十七年、百十年ほど前の日本。 とても些細なことだったが、相応にカルチャーショックを受けるだけの差異は感じた。特に現代っ子を地でいっている歩美や栄光には衝撃だったことだろう。 実際今も、周りからじろじろと見られているし。 「止まってると目立つから移動しよう。言ったように戦真館を探す。時代も判明したわけだし、空振る心配はなくなった」 「世良、話は道すがらしてくれ」 「分かった」 そうして俺たちは、夢の中と言うよりタイムスリップのような気分を味わいながら、過去の鎌倉を散策することにした。 「さっきのお爺さんや今もそのへんを歩いている人たちが、私たちと同じ立場なのかキャラクターなのかは分からない」 「でも、街がこういう状況になったってことは、間違いなく第四層に入ってるってこと。そのあたりは、しっかりと覚えてる」 八幡から続く並木道を歩きながら、世良は静かに話しだした。 覚えている。そう、覚えていると。 「ねえそれって、みっちゃんは前にもここに来たってこと? たとえばほら、わたしたちと会う前はずっと眠ってたって聞くし、そのときとか」 「それは、えっとね……」 「ちょっと待ちなさい歩美。ここでいちいち突っ込んでたら話が全然進まないわ。まず水希の好きなように喋ってもらいましょう」 「質問はその後にまとめてする。いいわよね、柊?」 「ああ、俺もそう言おうと思ってた」 「腰を折ってすまん世良。いいから気にせず続けてくれ」 「うん。じゃあ、そもそも最初から凄い突っ込まれそうなんだけど」 困ったように笑いながら、世良は言葉を継いでいった。上手く説明できるか不安そうな様子だったが、もうこれまでのようにおどおどした感じはない。 俺たちとしてはそれだけで充分だったから、あとは黙って聞いてやるだけだ。 「前にも来たかって言われれば、来たことはあるよ。だけど、それがいつなのか分からない。二年間眠ってたときの夢なのかなって思ったこともあるけど、たぶん違うようにも思うんだ」 「だってそのとき、私は今と同じでみんなと一緒だったんだから」 「…………」 沈黙は、言うまでもなくかなりの割合で驚きの念が含まれていた。そこは俺も例外じゃない。 だけど反面、奇妙な納得もしていたんだ。ああやっぱりなと素直に受け止めてしまうような、そういう気持ち。 俺たちは、前にもこうして一緒にいた。それを馬鹿馬鹿しいと笑う気にはまったくなれない。事実、思い当たる節があるのは全員同じなんだろう。 「自分でも、そのへんの時系列がよく分からないの。ほら、なんかこう前世とか? 柊くんの好きな八犬伝……」 「あんな感じで、実は私たち明治か大正の戦真館にも通ってて、百年後にまた千信館で出会ったとか、そういうのだったら分かりやすいし、ドラマチックだと思うんだけどね」 「でも違うんだ。私は前に、現代でみんなと会ってる。そして、こんな風に夢の中のここに来てる」 「分かるかな。繰り返してるんだよ」 それは、つまり……と、全員が思い浮かべた一つの単語を読んだように、世良は静かに頷いた。 「ループ……ていうのかな。こういうのって」 そういうことになってしまう。時間の流れが何処かで円になっているという袋小路。これもまた、一種のタイムスリップだ。 「ワケが分からないよね。信じられなくてもしょうがないし、私だって何かの間違いだと思いたいけど、ほんとなんだよ。みんなのこと、覚えてる」 「でも、逆に言うとそれだけなの。記憶にあるのはみんなを含めた何人かと、他の固有名詞、設定……」 「前の私たち……とりあえずそう言うけど、そのとき具体的に何をやったかっていうのは覚えてない。まったく同じ展開に沿ってるのか、微妙に違うのか、全然変わってるのか、それが分からないのよ」 「だからごめん。ちゃんと私が覚えてたら、恵理子さんはあんなことにならなかったかもしれないのにって……ううん、言い訳にならないよね。だって少なくとも、私が覚えてる範囲でも〈夢〉《ここ》が危ないのは知っていたもの」 「危ない奴らがいることを知ってた」 しかし、それでも俺たちをこの夢へと導く流れに世良は抗えなかったんだろう。そこは全員似たような感覚を持っているので理解できる。 こいつがそのことについて、とても複雑な心境と戦っていたのは想像に難くない。俺たちと会ったことに喜んで、だけど同時に恐怖して、いけないと思っているのに止められない。当初の世良が、どこか不思議にアンバランスだったのはそのせいだ。 やらなければいけない。いや正確に言うと、やり直したい何かがあった。きっとそうではないかと予想する。 そして、それは当たっていた。 「さっき、展開を覚えてないって言ったけど、ひとつだけ例外があるの。それだけはどうしても忘れられないこと」 「前に私たちは、この事件の中で……」 下を向いて唇を噛み、震えるほどに拳を握りながら世良は真実を吐き出した。 「全員、神野明影たちに殺された」 俺たちの夢の終わりは、そういう敗北だったのだと。 「残ったのは私だけ……私だけだったの」 俺も、晶も、歩美も、我堂も、そして栄光と鳴滝も……残らず殺されたのだと世良は言う。 それにショックを受けなかったと言えば嘘になるが、正直そんな自分のことより世良のほうが気になった。全員死んだ後に一人残され、こいつが何を思ったのか……その心情は母さんを喪った今なら全部と言わないまでも理解できる。 遣り切れない慙愧……それしかないんだ。 「その後、私はどうやってそこを切り抜けたのか分からない。逃げたのかもしれないし、逃がしてもらったのかもしれない。ただ、私が勝ったんじゃないってことだけは分かる」 「そして気がついたら、病院だった。ついこの前のね、つまり眠りから目を覚ましたの」 「私は初め、それが巻き戻ったんだって分かってなかった。日付けとか、親や看護士さんの話とか、気づく要素はいっぱいあったはずなんだけどね……そういうの、全然頭に入らなくて」 「まだ終わってない。私は生きてる。だから一人になってもやらなきゃいけないって……」 時間の流れが円ではなく、当たり前に直線なんだと誤解したまま、こいつは。 「また、柊くんに逢ったの。ごめん……」 俺と“再会”し、これがループなんだと気がついた。 柊くん、また逢えた、夢だ嘘だよと、信じられない様子で当惑しつつ、しかし抑えきれない喜びに溢れていたあの日の世良を覚えている。 だから断言していいはずだ。こいつは嘘など言っていない。 まして誇大妄想でも。でなくば出会う前から俺を知っていたという事実に説明がつかない。 「……なんで謝んだよ」 そこで、ついに耐え切れなくなったのか栄光が口を開いた。こいつにしては珍しく、声に明確な怒りがこもっている。 「なんだそれ、おまえ全然悪かねえだろ。なに謝ってんだよ、ふざけんなよ」 「だって……!」 「だってじゃねえ!」 怒声に、世良はびくりと震えて黙り込むが、誰も栄光を止めようとはしなかった。なぜなら俺も含む全員が、このとき間違いなく同じことを思っていると感じたから。 「つまりあれだろ、要はこういうことだよな。おまえオレらが、気楽に馬鹿みてえに役立たねえでくたばった後、こんな風に思ったわけだ。やり直したいって」 「それでループは自分がやったんだと思ってんだろ。自分のせいで、またオレたちを死なせることになるかもしれないって、この馬鹿――どうでもいいんだよそんなことは!」 「仮に水希が巻き戻しをやったんだとして、それに何か問題あんのか? オレらおまえのお陰で、いま生きてることになるんだぜ。だからむしろ恩人なんだよ、こっちからすりゃあ」 「なのに、おまえは、グチグチと……ああもう歩美、あと任せた!」 髪を掻き毟りながらそう喚いて、栄光は拗ねたようにそっぽを向く。振られた歩美は苦笑して、世良の肩を優しく叩いた。 「うん、まあ、わたしも栄光くんと同じ気持ちだよ。ごめんねみっちゃん、ありがとう」 「また会えて、嬉しいよ」 「実感、あんまりねえんだけどな」 照れ笑いしつつ晶も続いた。ゆっくり世良に近づくと、しかし一転、いきなり後ろから羽交い絞めを決めて―― 「えっ、ちょ――なに?」 「まったく心当たりがないわけでもない。だから信じるし、おまえも信じろ。あたしは何があっても水希の味方だっ」 「ほら鈴子、おまえも一発やってやれ!」 「そうね」 我堂は頷き、身動き取れないままもがいてる世良の腹に、強くはないが結構的確なポイントでパンチを入れた。 「ぼふっ――」 「今のはくだらないことで謝った罰。感謝しなさいよ、スカートめくられるよりはマシでしょう」 「ほら淳士、あんたも何ぼっとしてるの」 「う、あ……鳴滝くん、お手柔らかに」 立ち塞がるごつい男を前にして、口をぱくぱく言わせながら世良は顔面蒼白になっている。だが鳴滝は、呆れたように溜息をひとつ零すだけだ。 「そこの暴力女どもと一緒にすんな。俺は人を殴るのが好きなわけじゃねえ」 「ましてダチならな。だいたい俺があんなヒョウタンみたいな奴らに負けるわけねえし、おまえが責任感じるようなことじゃねえ」 「てなわけだ。おら真奈瀬、いい加減に放してやれよ」 「おー、カッコいいねえ、このヤンキーは」 「ていうかあんたに暴力云々言われたくないのよ」 「いや、オレが知る限り、晶と我堂のほうが何倍も戦闘民族だし」 「栄光くん、小さいときにあっちゃんから村雨丸で頭割られたもんね」 「そうだよっ! おまえあれ、ハゲんなってんだからな。どうしてくれんだよ」 「男が古い話でごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ」 「その通りね。でしょう柊」 村雨丸の件や、晶と我堂が戦闘民族扱いで珍しく連帯していることについてはともかく、世良に関してなら同感だ。 古いこと。過ぎたことはもういい。 「大事なのは今と、そしてこれからだからな」 「世良、おまえも少しは楽になったか? もう後出しは無しで頼むぞ」 「あとおまえらも、これは責任重大だからな。気をつけろよ」 「もし今後、誰かが死ぬようなことになったら、世良がまた面倒くさいことを言い出すのが目に見える。正直、堪ったもんじゃない」 「そりゃそうだ」 「うん、分かってるよ」 「柊くん、みんなも……」 なんとも言えない顔で俺たちを見回し、探るような声で世良が呟く。 「私、そんなに面倒くさいかな?」 「うん、すげえ面倒くさい」 そして一斉に、微塵のずれもなく、俺たちは異口同音に返答した。 「ひ、ひどっ――そんな言わなくたっていいじゃない!」 「普通は、だって、何も感じないほうがおかしいでしょっ! 私はほら、だから、責任感が強いのよ!」 「うわ、自分で言っちゃったよ、こいつ」 「う、うるさいな。晶はいつもみたいに、鈴子をからかってればいいのよ!」 「ちょっと待ちなさいよ。なんで私が出てくるのよ。ていうか別に、このゴリラから遊ばれてなんかないし。むしろこっちが構ってやってるんだし」 「はぁ~ん、なんだってぇ?」 「みっちゃん、わたしはー?」 「歩美はゲームで外人相手にファックファック言われてなさい!」 「じゃあオレ、オレなにっ?」 「黙ってて大杉くん」 「ひでえっ――ちょ、怒んなよ。さっきは怒鳴って悪かったってー」 などと喧々囂々。その様を眺めながら、傍に来た鳴滝が困惑気味に呟いた。 「おい、なんだこれ。どうすんだよ。さっきまで真面目な話をしてたんじゃねえのか?」 「まあそうなんだが、いつものことだ。居心地悪いか?」 「……別に、そういうわけじゃねえけどよ。絡みづれえな」 「同感だ」 きっと俺たち二人は、ずっとこういう役回りなんだろうなと思ってしまうのが可笑しかった。 してみれば、最初から妙に親近感を覚えたもんな。〈鳴滝〉《こいつ》には。 「しばらく見てよう。そのうち飽きるか」 「こっちに絡んで来るかすんだろ?」 「ちょっと柊くん、なに自分だけ関係ないみたいな顔してるのっ!」 「淳士――あんたスカしてんじゃないわよ、そこ正座しなさいっ!」 「なんでだよ」 とにかく、世良の告白というやつはそんな感じで、最後は笑いの中に納まったのだ。 「さっきの話でいくつか気になることがある」 並木道を抜け海沿いを歩きながら、最初の方針通り世良への質問を開始した。この辺りの景色も相当様変わりしていたが、海という不動の存在だけは俺の知るものと同じだなと、妙な安心感を覚えつつ。 「ループを疑うわけじゃないが理屈が分からない。仮に世良の気持ちがその現象を起こしたんだということにしても、それじゃあ簡単すぎるだろう」 「ああ別にこれは、おまえの気持ちが安いって言ってるわけじゃないぞ」 「うん、分かってるよ。当然の疑問だと思う」 「夢の中で色々やれるのはともかく、現実の私たちはただの一般人だもんね。魔法使いでも、超能力者でもない」 「そういうことだ」 つまり、ループなんて超常現象が、現実世界にまで通じているという事実。現状、一番の異常事態は間違いなくそれだろう。 「でも、他に説明のつけられようがないから、私は――」 「思い当たる節はないんだな?」 「……うん」 「ならいい。この話は保留だ」 「ちょっと柊」 言って話題を切り替えようとしていた俺に、我堂が横から突っ込んできた。 「あんたその口振り、何か見当がついてるの?」 「一応な」 「うそ、マジで?」 「ねえ、だったらどういうことなの? もしかして四四八くんにも記憶があったり?」 「いや、ただの推理だよ。ここまでの情報を組み合わせて、論理的に考察するとっていうやつだ。相応に自信はあるけど、確証はない」 「だからまだ言えない」 「んだそれ、ケチくせえな。もったいぶるなよ」 「いや、しょうがねえって鳴滝。事が事だし、四四八も慎重になってんだろ」 「悪いがそういうことだ。今は説を固めてる最中だから、しばらく待ってくれ」 「とりあえず、世良に心当たりがないって分かっただけでも収穫だしな。それで俺は思うんだが……」 「なに?」 「おまえの記憶、〈抜〉《 、》〈け〉《 、》〈が〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈よ〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》?」 俺たちのことは覚えてる。神野たちのことも覚えてる。その他種々の設定も記憶してるし、敗北という結末まで覚えている。 なのに、その過程が分からない。有り得るだろうか、そんなことが。 「水希が誤魔化してるって言いたいわけじゃないんだよな?」 「ああ、意識無意識に関係なく、こいつがそういうことをしてるとは思ってない。意味が分からんからな」 なぜなら、世良の記憶欠落には悪意を感じる。強烈に感情を動かすだろう部分だけはピンポイントで残し、それより大事であるかもしれない全体の流れを眩ましているんだ。 さっき自分で言っていた通り、過程に関するこいつの記憶が機能していたら、母さんは死ななかったかもしれないのだから。 しかし、それは成されなかった。まるで世良を苦しめるために必要な演出だとでも言わんばかりに…… 「このことについて俺の感想を言うとだな、世良は手玉に取られている」 「匂うんだよ。下種な思惑っていうやつが」 そして、だったら元凶の予想はつく。 「おまえ、心当たりがあるだろう?」 問いに、世良はなんとも嫌そうな顔をして黙り込んだが、さほど間を置かずに頷いた。 「つまり、神野が私の記憶を弄ったってこと?」 「その可能性が高いと思う。前に俺たちを殺したのがあいつだって言うならなおさら」 「動機は分からんが、おまえに嫌がらせがしたいんじゃないか。それで楽しんでるような感じがする。あいつとの間に何があった?」 「それは……」 「言いにくいことなのか?」 「て言うより、説明が難しいの」 滲み出る嫌悪感に表情を歪ませながら、同時に世良は困惑しているようだった。そのへんは俺よりも、同じ女同士ということで晶たちのほうが理解は早かったらしい。 「察するに、要はあれだろ。ストーカーみたいなもんっていうか」 「なんだかよく分からないまま気持ち悪いのに付き纏われてるって感じかしら? あんたの様子見る限り、どうもそんな印象だけど」 「だったら理由なんかあってないようなもんだよね。訊かれたって答えられないし、四四八くんもそのくらいは汲んであげなきゃ」 「なら申し訳ないが、そういうことか世良?」 「だいたいは……うん、煮え切らない答えで悪いけど、私があいつに何かしたわけじゃない、とは思う」 「だけど、私に絡んで何がしたいのかっていうのは少し分かるよ。たぶん、思い知らせたいんじゃないのかなって」 何を、という皆の問いに答える形で、世良はそれを口にした。 「優しさとか思いやりとか、誰かが好きとかとにかくそういう、善意で括られるような気持ち諸々、そんな良い物で敷き詰められた道でも、最悪に向かうときがある」 「さっき鈴子が言ってたじゃない? 基本的人権とかは良い物だけど、それが蔓延りすぎると良くない面も出てくるって、その手のことと似てるのかな。動機が清いからって、結果も綺麗なものになるとは限らないみたいな」 「むしろ反比例することのほうが多いんだぞって、そういう歯車を思い知らせてやるってあいつは言いたいんだと思う。たとえば……」 「俺たちの感情がそうであることを証明してやるっていうわけか」 一度死んだという俺たち。それでもここに再会を果たし、やり直しに臨むという気概、覚悟、仲間意識と思いやり…… この気持ちが悪いものであるわけがないと皆が自負したうえでここにいるが、その結末は最悪に繋がるのだと思い知らせる。神野の目的がそれだとしたら、随分悪趣味な話だろう。 「俺たちは何度も何度も殺され続ける。それで世良がへこみまくる。そういう演出がしたいわけか。だいぶ舐めた話だな」 「だよ、甘く見んなって言いたいわ」 「ほんと、馬鹿みたい。そんな根暗で、恥ずかしくならないのかしらね」 「うん、だからみっちゃん、気にしないでいいよ」 「分かってる。ありがとう」 言いつつも、やはり世良は何処かしら不安げだ。そこはやはり、トラウマというやつもあるだろうから簡単な話じゃないんだろう。 「さっきも言ったが、俺らがしっかりするしかないなこれは。今はともかく、出来ることから精一杯やってくしかない」 「じゃあちょっとさ、気ぃ切り替える意味も兼ねて一ついいか?」 「なんだよ。またパンツがどうとか言い出したらぶっ飛ばすぞおまえ」 「馬鹿、違うって。何でそう、おまえらすぐにオレをアホ扱いするんだよ」 それは日頃の行いが悪いからとしか言いようがないんだが、とりあえず何かあるなら言ってみろと促してみる。 すると栄光は、傍の鳴滝を窺いながらにやりと笑った。 「なんだ、俺がどうかしたか?」 「んー、別に。ただオレらの中で一人だけ、まだステータスが謎に包まれてる奴がいるなと思ってよ」 「あっ、そういえばそうだった。鳴滝くん鳴滝くん、ちょっとそのまま、うお、おおぅ……こ、これは、うひょー」 「……おい、なんだその目は。ちょ、こら、やめろって――近ぇんだよ龍辺」 「腹筋ご馳走様ですっ!」 「はあっ? なに言ってんだてめっ、おい柊――なんとかしろこれ!」 「……歩美、頼むからやめてくれ。栄光と同レベルか、おまえは」 「あんた馬鹿なことやってんじゃないわよ!」 「痛っ、なによりんちゃん、殴らなくたっていいじゃない」 「いや、今のはおまえが悪いわ」 などと不埒なことをやってる歩美をともかく引き剥がし、不得要領ながらも気味悪がっている鳴滝に簡単な説明をした。 「まあ、なんだ。〈夢〉《ここ》じゃあ相手のステータスを〈透視〉《スキャン》することが出来るんだよ。それでおまえのだけがまだ不明だったからっていう話でな」 「そうそう。だから今後のためにも、仲間の情報はしっかり把握しといたほうがいいわけじゃん? 今、歩美がやってたのはそういうことだよ」 「マジか? けど、さっきはどうもこう、なんか違ぇ感じだったぞ」 「みっちゃんみっちゃん、鳴滝くんってやっぱりすごいよ。あのごつごつ感、鋼のよーな筋肉、見た? 見た?」 「え、その、いや、まだだけど……そんなに凄いの?」 「別格だって。見ちゃえ見ちゃえ」 「わ、分かった」 「やっぱ違ぇだろ、なにやってんだてめえらっ!」 「あんたまで一緒になってんじゃないわよ水希!」 「あーもう、鬱陶しいな大概にしろよ。いいから四四八、おまえがさっさとスキャンしてやれ!」 確かに埒が明かないので、鳴滝のステータスは俺が読み取ることにした。 結果は―― 以前と同じく、ケータイの液晶に表示させた数値はそういうものになっていた。 「おー、こりゃまたなんていうか、らしいなおい」 「鈴子とは、ある意味真逆って感じよね」 「さしずめ重戦車ってやつか」 強くて硬いが、重くて遅い。典型的なパワータイプで、まさに格闘主体というバランスだ。 「不器用を絵に描いたようなステータスね。戦車なんて上等なものじゃないわ、鈍牛よ」 「うるせえな。おまえにごちゃごちゃ言われる覚えはねえよ」 「でもま、これはこれで頼もしいじゃん。前に出てがつがつやっても平気そうな奴は、今まで四四八しかいなかったもんな」 「そうだね、これで上手くフォーメーションが組めた感じ」 前衛担当の鳴滝。ヒット&アウェイの世良と我堂。補助担当の晶と栄光に、後衛の歩美。そして状況に合わせすべてを行える俺…… 確かにチームのバランスとして、上手く調整が取れていると思う。まるでそのために示し合わせたかのようなフォーメーションになっていた。 こうした符合も、ひょっとしたらただの偶然じゃないのかもしれないな。今そんな風に考えているのは、きっと俺だけじゃないだろう。 「うーん、でもこうなってくると、やっぱりわたしと栄光くんだけ貧弱すぎるのが痛いかなあ。どうしてもそこが不安になってきちゃうよ」 「あんたらはそろってキャンセルが高いんだから、それでなんとかなるんじゃない? むしろ私と淳士にそっちの才能が無いことのほうが問題よ。攻防に補正が効かないわけなんだから」 「そう考えると、やっぱりそれなり以上に動けてキャンセルも高い柊と水希が一番優秀ってことになるのかしらね。悔しいけど、私たちは自分の欠点を弁えつつ補い合っていくしかないでしょう」 「へえ、おまえにしちゃ随分殊勝なこと言うんだな」 「失礼ね。私は真面目に考えてるだけよ。根拠のない自信で物言っていい状況じゃないんだから」 それは確かにその通りなので、皆が我堂に同意する。ネガティブになりすぎないためにも明るいノリは大事だが、それは現状を甘く見ていいという意味じゃない。気負いと真剣が違うように、楽観するのと前向きでいることはまったく別だ。 「まあステータスの得手不得手については個性みたいなもんだからしょうがないとしてもよ。切った張ったの〈技術〉《テク》についてはやっぱ訓練が要るだろう。歩美はそれが言いたかったんじゃねえか? 実際オレも不安だしよ」 「我堂は薙刀やってるし、鳴滝は喧嘩慣れしてるし、水希もまあ、前に見た感じアクションは出来るわけじゃん? あと四四八も、なんか知んねえけどトンファーぶんぶん振っちゃってさ」 「ああ、あれ、凄かったよね。何処で覚えたの四四八くん?」 「それは……俺もよく分からん。世良に言わせれば、前のときの記憶ってやつかもな。自然と身体が動いたんだよ」 「そうなんか。ともかくおまえらについてはそんな感じで、とりあえずバトルはこなせるみたいだからいいけどよ、オレと歩美はそのへんが怪しいんだよ。だから怖ぇ」 「あっちゃんは運動神経がいいからまだマシだけど、わたしと栄光くんはやっぱりこう、最低限の護身術みたいなのを覚えないといけないんじゃないのかな」 「なるほど、確かにそりゃそうだな。あたしも含めて、そのあたりを適当にしとくわけにはいかないか」 「どうだよ水希、あたしらも四四八みたいに、そういう昔の記憶みたいなのが出てくると思うか? ていうか、前のあたしらはなんかそういう練習してたのか?」 「それは……ごめん。分からないよ、覚えてないの」 「ほんと駄目だね。こういうときこそ役に立たないといけないのに」 「いや、いいよ。覚えてないもんはしょうがない。けど、だったらどうするかな」 「何にしろ、土壇場で都合よく目覚めるみたいなのを期待するわけにはいかないわよね。たとえ付け焼刃でも、訓練は必要か」 「そのへん、淳士からは何かないの? 喧嘩のコツとか、出来るだけ簡単に覚えられるようなやつ」 話を振られ、鳴滝は少し考え込むようにしていたが、すぐに首を横に振った。 「ねえよ、そんな都合のいいもんは」 「一昔前の格闘ブームとかでそれ系のマンガも増えたから勘違いしてる奴が多いけどよ、素人がぽっと試して上手く嵌るような技なんかねえ」 「金蹴り、目潰し、それから指取り、あとはちょっとした関節とかか? 胸倉掴まれたらこうやってこうしてとかいうやつ、全部忘れろ、まず決まらねえ」 「みんなやったし、やられたことがあるから分かる。ありゃあたぶん高等技術だ、出来やしねえよ」 「え、そうなんか? じゃあほら、掌低とかはどうなんだよ? あっちのほうがパンチより強烈だとか、よく言うじゃん」 「それこそ戯言だ。まったくなんの意味もねえな」 「嘘っ? だってこう、なんかもっともらしい理屈つきで説明してたよ?」 「どんなだ? おおかたあれだろ、パンチは拳を痛めるだの、顎に掌低決めたら一発で意識がどうだの、そういうやつだろ。その時点で技術的なこと言ってるってのが丸分かりじゃねえか。素人がやってもただの張り手にしかなんねえよ」 「俺は理屈なんか知らねえが、実体験から言うとだな、掌低で手首折った奴がいるのを見たことあるぜ。実際食らったこともあるが、たいして効きゃあしなかったしな」 「つまり生兵法が怪我のもとなのはなんでも同じっていうことか」 「そういうこと。だいたい俺は前から気に入らなかったんだが、勉強やスポーツなら努力が大事ってのが当たり前の風潮なのに、喧嘩だきゃあ一発裏技があるみたいな考え、おかしいだろ。何事も場数踏まなきゃ通用しねえよ」 「それに、〈夢〉《ここ》で相手にしなきゃいけない奴らは筋金入りの本職なんだぞ。んな甘い話が通るわけねえじゃねえか」 「まあ、確かにそれはそうだが」 鳴滝の意見は身も蓋もなさすぎて、栄光たちは露骨に気落ちしてしまった。いくらそれが真実でも、このまま盛大に駄目出ししたままというわけにもいかないだろう。 そもそもそういう話になってしまえば、我堂の道場稽古や鳴滝の街頭喧嘩だって、実戦でどこまで役に立つか知れたものじゃないんだから。 「技術的なことはともかく、気持ち的なコツはないのか? 単にびびらないようにするだけでも、〈夢〉《ここ》じゃあ無意味でもないと思うが」 「つまり喧嘩度胸のつけ方か? そういうのも結局は場数だと思うけどよ」 鳴滝も自分の発言で場が落ちてしまったことを少なからず感じていたようで、こいつなりにフォローをしようと再び考え込んでいる。 そうして出した結論は、至極単純明快だった。 「俺から言えることがあるとすれば一つだけだな。手加減すんな」 「へっ?」 「いや、でもそれって当たり前だろ。命かかってんだし、遊びじゃないことくらいオレらだって分かってるぜ」 「ならいいが、俺に言わせりゃ疑問だぜ。分かったつもりになってるだけじゃねえのかよってな」 「ああ、誤解すんなよ。別におまえらを馬鹿にしてるわけじゃねえ。ただ、なんつうか、こう……」 「自分の良心を甘く見るなって話か」 「そうだ、それ。人殴るってのは結構なストレスなんだぜ。鼻血塗れの顔面に思い切りかますとか、そんな簡単に出来やしねえよ。普通はつい躊躇する」 「仮に空手だのなんだのやってても、いざガチになってやれるかどうかは別の話だ。試合じゃないからルールも無いのに、ルール守っちまうっていうかな」 「そこらで喧嘩が強ぇとか言われてる奴の大半は、そういう容赦をまったくしねえっていうだけだ。単純な話だが、それが結構でかい差なんだよ」 「ああ、それ、なんとなく分かるわ。いくら頭にきてても、無意識にどっかセーブかけてるよな。急所は狙わなかったり」 「やりすぎるとポリに捕まるからって理由も、そこにゃ当然あるけどな。それを差し引いても馬鹿になんねえんだぜ、甘さってやつは」 培った道徳、優しさ、つまりそういうものだろう。一般には美徳とされる感性だが、修羅場じゃ一転して枷になる。鳴滝の言ってることは理解できた。 「でもそれだってよ、結局は場数踏んで慣れていくしかないんじゃねえか?」 「基本は確かにそうだけどな、でも例外はいるんだぜ」 「最初っから、その手の躊躇がまったくない奴っていうかな。俺に言わせりゃどっか壊れてる連中だが、意外にそう少なくもねえ」 「そんでそういう奴ほど、外見や普段の態度はあまり関係ねえんだよ。むしろ日頃粋がってる奴のほうがいざとなったら甘かったりする」 「あんたがそうだったわけ?」 「俺はおまえに言ってんだよ。肝心なとこでポカる定番みたいなタチじゃねえか」 「とにかく要はそういうことで、大杉たちが生まれつき甘さのない人種だったらどうにかなるんじゃねえかと思う。威張れる才能じゃまったくねえが、今はそれに期待してろ」 「仮に駄目でも、常に意識はしてるんだな。土壇場でイモ引かねえように」 「……そうか。おう、まあ、分かったよ」 「でもオレはなあ、そういうのとマジ縁遠い気がすんだよなあ」 「特にこう、武器とかさ。明らかにガラじゃねえし。得意なのっていやスケートくらいだもんよ」 「あたしも、なんかそう言われると自信ねえな」 そこは俺も同感だった。別にこいつらが根性無しという意味じゃなく、晶や栄光が人一倍優しい奴らだということを幼なじみとして知っている。 まあステータスの特性上、補助や回復がメインのタイプだから、非情さよりもその優しさが大事なんだと言ってやりたい気持ちはあるけど。 「そこいくと、歩美は結構大丈夫かもしんねえな。ゲームじゃマジ容赦ねえし、普段からあまりおたついたりもしないしよ」 「そうかな。だといいんだけど、そんな風に言われるのもなんか複雑だね」 「結局、出来るだけ鍛えておくに越したことはないって話だな。現実でも、これからはおまえら全員俺と一緒に毎朝走れよ」 「うげぇ、マジかよ。でも愚痴ってるような場合じゃねえしな」 「いっそのこと、これから行く戦真館に入学でも出来ればいいんだけどね。軍学校だし、鍛えてもらいたいところだわ」 「そうだね。本当に、そう出来ればいいんだけど」 戦真館学園……百十年前の母校に再入学という荒唐無稽な話だが、それが叶えば確かに問題の多くを解決できる気がする。 「けど、やっぱり色々無理があるな。身元の証明からしてそもそも駄目だが、そこをクリアできても教官が架空のキャラクターじゃ意味がない」 「俺たちにとってここは夢だし、夢ならではの戦い方を教わるなら、向こうもそういう意識がないと話にならん」 つまり、俺たちと同じ立場を持つ生の人間が相手じゃないと、何かを教わることは出来ない。それは実質、無理だってことだ 神野、狩摩、聖十郎……あの連中に教えを請うことなんて不可能なんだから。 「あのね、みんな、それなんだけど……」 と、世良が何事が言いかけていたときだった。 「おい、あれ――見ろよあそこ!」 不意にあがった晶の大声が全員の意識を持っていく。指差す先を目で追えば、そこには…… 「あれ、校舎だよな? ほら、あの木の向こうに見えるやつ」 「ほんとだ。なんか見覚えのある形!」 迷わないように海岸沿いを歩きながら探していたのが、どうやら功を奏したらしい。遠目に見える建造物は確かに見慣れた母校の面影を有していて、かつ位置的にも間違いないと思われる。 周囲の街並みは全然違うが、山の形は変わっていない。現実の記憶と重ね合わせても、ぴたりと嵌る光景だった。 「あれが戦真館……」 「行こう。世良、話は後だ」 「うん」 全員、何か理屈ではなく沸き立つものを感じるのか、すでに駆け出している晶たちの背を追うかたちで、俺たちはその場所へと向かって行った。 「うおっ、やっぱりそうだぜ。この校門、変わってねえ」 「でも、凄い新しいわね。それが当たり前なんだけど、変な感じ」 まさにその通りで、古い時代だからこそ新しく見えるという目の前の光景に、俺たちは奇妙な感慨を抱かずにはいられなかった。 「戦真館學園……〈墨痕淋漓〉《ぼっこんりんり》だな」 俺たちが知る千信館の看板も結構雰囲気のあるものだったが、こっちはさらに仰々しい。有り体に言って、迫力が違う。 軍学校、大日本帝国、日露戦争の直下……現代のようにチャラついたノリはまったくないし、許されない空間なんだろう。問答無用で圧倒されるものがある。 しかしまあ、何はともあれ、これで目的地には到着したわけなんだが…… 「で、どうすんだこれから」 「とりあえず、入ってみるか。ここでこうしてても仕方ないしな」 「でも大丈夫かなあ……いきなり怖いお兄さんたちに囲まれたりしない? おのれ何者だ、怪しい奴めー、とか言われて」 「そりゃ時代劇だろ」 「けどたいして変わんねえと思うぜ。なんつっても軍隊養成してるとこなんだし。さっきの宮司さんを思い返すに、RPGの町人相手みたいにゃいかねえだろ」 「どうかしらね。確かに正面から堂々とっていうのは気後れするけど」 そういう不安も当然分かるが、下手に不法侵入を試みてバレたときのほうが面倒なことになると俺は思う。 「門衛でもいてくれれば話は早かったんだがな。なんだったらおまえら、ここで待っててもいいぞ。俺が一人で行ってくる」 「そのほうが目立たないし、中の奴らを刺激する率も低いだろ。それにたとえ何かあっても、俺一人なら逃げられるかもしれない」 現状、この中で一番戦術的な自由度が高いのは俺なんだから、そうした意味でも身軽な方がいいだろう。まさか無いとは思うが、最悪の展開になっても全滅は避けられるわけだし。 「いや、でもよお、おまえだけに任せるっていうのはねえ話じゃん」 「ならどうする? ここでぐだぐだやってるのも充分怪しいし、時間の無駄だぞ」 「大丈夫。私も柊くんについていくから」 「へ?」 「水希?」 目を丸くする皆の前で、俺の横に並んだ世良が微笑みながらそう言った。 「心配しないで。一応これが、今の最強タッグなんだから」 「平気だよ。信じて、ね?」 「それはまあ、そうなんだろうけど……」 「おまえはいいのか、柊?」 問われ、俺は肩をすくめる。確かに多少驚いたが、世良の言う通りこの組み合わせが最良なのは事実だろう。 「世良がこう言うんだ、きっと根拠もあるんだろう。だからおまえら、心配するなよ」 「さっき何か言いかけてたしな。世良も、それと関係あるなら軽く説明してやってくれ」 「分かった。そんなに確証のあることでもないんだけど……」 頷き、世良は先ほど中断された話を再開しようとする。 だがそれは、再び思わぬ事態で中断されることとなった。 「え……?」 「な……」 不意に背後で、重い音と共に戦真館の門が開いたのだ。驚いた俺たちは咄嗟に飛び退いて身構えたが、続く展開はそれ以上の衝撃と戸惑いを皆に与えることとなる。 「お待ちしておりました、柊四四八様。並びにその御学友の皆様」 「貴族院辰宮男爵家令嬢、百合香様より、同志の方々をお迎えするよう仰せつかって参りました。〈伊藤野枝〉《いとうのえ》と申します」 「まずはともかく、こうしてお会いできた光栄に感謝を。そして――」 現れた俺たちと同じくらいの歳の子は、皆を見回しにこりと笑って礼をした。 「戦真館へようこそ」 「は……?」 「え、えぇ?」 その予想外すぎる展開を前に、俺たちは大口を開けてぽかんとしていた。 「辰宮? 辰宮って言ったの今?」 「しかもそこの命令だと?」 「か、可愛ぇええええ!」 「おまえ黙ってろ!」 栄光の馬鹿はともかく、にこにこしながらこっちを見ているこの子は何だ? 「やっぱり……百合香さんが動いてるのね?」 困惑している俺たちの中でただ一人、世良だけは何かを得心しているようだった。 「はい、あなたは世良様でいらっしゃいますね。お初にお目にかかります」 「本来なら〈幽雫〉《くらな》がお迎えに上がるところでしたが、こちらにも事情がありまして、このような形とならざるを得なかったこと、お許しください」 「得体の知れぬ奴とお思いでしょうが、私は紛れもなく百合香様の従者です。鋼牙や廃神の眷属に戦真館を名乗れぬのはご存知でしょう?」 「そして神祇省も……今は皆様に手を出せません。我が主が壇狩摩を封じましたので、どうかご安心くださいませ」 「分かったわ。だけど野枝さん? 少し待って。柊くんたちにも説明しないといけないから。覚えているのは私だけなの」 「はい。一目見てそのようなことだろうと察しました。どうぞ私のことはお気になさらず」 言って、野枝という子は慎ましく身を引いた。それを見届け、世良が俺たちのほうへ向き直る。 「ごめんね、順番が狂っちゃったけどそういうことなの。彼女は百合香さん……戦真館を生んだ人の使いみたい」 「だから味方になってくれると思う」 正直、俺たちにとっては思いも寄らぬ流れだったが、そこから話は早かった。 「すげー、オレ馬車なんかに乗るの初めてだよ」 「まるで自分がお姫様にでもなっちゃったような気がするよねー」 俺たち七人、そして野枝さんも入れた八人が乗り込んでもたっぷり余裕のある馬車の中で、皆は興奮しつつはしゃいでいた。気持ちは分かる。 今朝方、家に帰る際、我堂のリムジンに乗せてもらったばかりだが、それとはまた違う意味で高級馬車というのは新鮮だった。実際、これの持ち主は本物のお姫様みたいだし、歩美の感想も当然と言えるだろう。 辰宮百合香――横浜に居を構えているという彼女の館に向かう道中、戦真館を出て三十分も経つ頃には、この展開を訝る気持ちなどすっかり俺たちの中から消えていたんだ。 「じゃあ水希、前のときも辰宮家と私たちは同盟関係だったということなのね?」 「うん、だいたいの勢力相関みたいなのを覚えてるの。みんなの他に私が記憶してるのは、神野明影、壇狩摩、キーラ・グルジェワ、そして百合香さんと、あとは彼らの部下っていうか、そういう人たちとの関係を少しだけ」 「柊くんのお父さんについては、私も知らなかったんだけど」 「それは言わなくても分かる」 世良が聖十郎のことを知っていたら、流石に母さんを奴に逢わせようなんて案に賛成などしなかったはずだ。そこについて責任を求めるのは筋違いでしかない。 「あいつが今回初めてのイレギュラーなのか、それともおまえの記憶が弄られた結果なのかは追々分かってくるだろう。今はそれよりも目先のことだ」 「辰宮家が友好的だっていうのを疑う気はない。俺たちからすれば大先輩だし、向こうにとっては遠い子弟ってことになるんだからな」 世良の言うことは信じているし、まだ未熟な俺たちを辰宮家が回りくどく嵌めようとする必要など見当たらない。 加え、そういう理屈の他にも感覚的なものがある。 使いとして現れた野枝さんの態度はもとより、この馬車の中に漂う雰囲気がとても優しく、俺たちを包んでいるような安心感を与えてくれるんだ。まるで揺り籠の中めいた、とでも言うべきか。 言葉にするのは難しいが、この空気を体験して辰宮家を警戒するのは無理な話のように思える。だいたいからして、今の俺たちにはほとんど選択の余地など無い。 まだ数多ある謎の解明。これから先やっていくための地盤作り。そうした面でも、力と知識のある同盟者は願ったり叶ったりというものだろう。右も左も分からないまま、俺たちだけで進めていくほうが遙かに危険なのだから。 まず戦真館に行けば何かが分かるに違いない。そんな風に直感して動いたのも、こういう展開をどこかで予想していたせいかもしれず、だとしたら流れに乗るのを恐れている場合じゃないと思う。要は虎穴に入らずんばというやつだ。 まあ、なんだかんだ言いつつも、結局のところ一番でかい理由としては、辰宮百合香への興味という一言なんだが。 会いたい。知りたい。どんな人だ。話がしたい。その気持ちは今このときもどんどん強くなっていく。 冷静になって顧みれば、俺の性格からして奇妙な類の衝動だったが、それもあまり気にならなかった。そしてそういうところは、他の奴らも同じらしい。 「どんな人なんだ? その、百合香さんって」 「歳は私たちと同じくらいで、綺麗な人だったよ。今時の感覚で言うと信じられないくらい丁寧な物腰で、ほんとに深窓の令嬢って感じ」 「凄い大きなお屋敷に住んでて、召使が何人もいて、なのにそういうのがとても自然で……ああいう人が貴族っていうんだなって、会えばみんなもきっと分かるよ」 「はい。百合香様はとてもお美しい御方です。加え私のような者にも細やかなお心遣いをしてくださる方ですので、あまり緊張なさらずとも大丈夫かと」 「まあ、家令頭の幽雫は少々、硬いところもありますので馴染み難いかもしれませんが……それも生真面目ゆえのことだと思っていただければよろしいかと」 「えっと、その、カレーってなに?」 「執事みたいなものだよ、あっちゃん。要はセバスチャンってこと」 「その、幽雫さん? 水希は知ってるの?」 「一応、そうだね。凄いしゅっとしててハンサムだけど、野枝さんが言う通りとても折り目正しい人だから、特に歩美は変な絡みかたしちゃ駄目だよ」 「えー、なんでわたしだけ注意されるのー?」 「そりゃおまえがイケメンによからぬ妄想抱きがちだからだろ」 「そんなの栄光くんに言われたくないし。さっきからデレデレ鼻の下伸ばしちゃってさ」 「ばっかおまえ、人聞き悪いこと言ってんなよ。オレはほら、あれだよ。おまえらみたいのに囲まれて野枝さんが困ってんじゃないかと思ってだな」 「……あ、隣いいすか? いつでも盾になりますよってか、その服かっこ可愛いっすね」 「あんたはそこで正座してなさい、大杉」 「おまえな、分かってんのか。野枝さんあたしらの大先輩だぞ」 「同感だな。少しは敬意を持て馬鹿が。現代の恥を晒すな」 と、変な方向に浮かれている栄光を諌めたのだが、こいつはまったく聞いちゃいない。 「いやあ、なんかこう、ほんと大和撫子って感じっすよね。二十一世紀のゆとりどもからは失われた気品を感じると言いますか、僕のような繊細な心の持ち主には、野枝さんが砂漠のオアシスのように映るのですよ」 「その佇まい、楚々とした笑顔、それでいながら漂う凛々しさ……ああ、最高っす。これって戦真館の制服なんですよね? マジ似合ってますよ」 「ありがとうございます。大杉様は面白い方ですね」 「駄目だこりゃ……」 全員、呆れ返ってこれ以上突っ込む気も起きない。こいつが美人に弱いのはいつものことだが、野枝さんに対する食いつきは軽く引いてしまうレベルだ。 まあ確かに、今時の女子にはない雰囲気が魅力だというのは俺も分からんではないのだが…… 「鳴滝、さっきからずっと黙ってるが、どうかしたのか?」 「なんでもねえよ、ほっといてくれ」 気分を変えるべく話を振ってみたのだが、こいつはこいつで少し妙な感じだった。無愛想なのはいつものことだが、今はどこか張り詰めたような気配がある。 緊張? いらつき? よく分からないが、なんだか落ち着きがないのは確かなようだ。 「何か思うことがあるならちゃんと話せよ?」 「分かってる。ほんとになんでもねえから、気にすんな」 ぶっきらぼうにそう返し、窓の外へと目を向けたまま再び鳴滝は黙り込む。依然としてその態度は変だったが、ここでこれ以上の会話は拒絶している風だったので俺もとりあえずは引くことにした。 「あ、野枝さん。あれ、あの建物なんすか?」 「あれはイギリスの大使館ですね。この辺りからは異国の方の居住区も近いので、ああいった建物が増えてきます。たとえばあちらに見えますのは……」 そんな中、延々と続く栄光のハイテンションは正直なところうざかったが、律儀で丁寧な野枝さんの対応が上手く相殺してくれたので、自然と観光案内のような雰囲気になっていた。 それをBGM代わりに馬車は進み、やがて俺たちは目的の地へ到着を果たす。 「どっひゃー、凄いよ。何これー!」 馬車が乗り入れた庭に降り立った俺たちの目の前には、呆気に取られるような大豪邸がそびえ立っていた。 圧倒されるその外観は、単にでかいというだけじゃなく、精緻な拘りによって計算された一種の芸術品だというのが素人目にも容易く分かった。庭の草花一つ取っても、無意味に配置されている物はおそらく微塵も存在しない。 そのうえで、これがただの容れ物にすぎないと理解できるのだから半端じゃなかった。つまり真に価値があるのはここに住まう人間自身で、館が帯びている風格は主に染められたものだということ。 俗に衣装負けという言葉があるが、並の人間がこんなところに住んでも家に負けるだけだろう。だけどこれは違うと分かる。館が主人に跪いているからこそ、目の回るような金が掛かっていると感じながらも成金のような下品さがない。 貴族……なるほど、確かにそうだ。現代じゃ想像もつかないが、この時代の日本にはこういうものが存在したらしい。 「こりゃ、とんでもないな。鈴子んちも大概だと思ってたけど、これに比べりゃ犬小屋だぜ」 「……うるさいわね。でも、反論できないわ。悔しいけど」 「野枝さんって、この家のメイドみたいなことやってんの?」 「まあ、そのようなものです。さあ、どうぞこちらへ。案内させていただきます」 促す野枝さんに従って、庶民丸出しのおっかなびっくりという態で俺たちは歩きだす。前庭だけでも学校の運動場が三つは軽く入るだろう規模なので、広すぎる空間に所在無くなってしまうのは仕方ない。 そんなわけで玄関に辿り着くまでも結構時間が掛かったのだが、重厚な扉を前にまたしても引いている俺たちに微笑みつつ、野枝さんは完璧な礼と共に邸内へ〈誘〉《いざな》ってくれた。 「ようこそおいでくださいました、お客様。当辰宮家使用人一同、皆様を歓迎させていただきます」 そして、まあ、うむ……こういう展開もしっかり予想はしていたのだが、実際に経験するとやはり面食らってしまうものだな。 これまた笑ってしまうほど広い玄関ホールで、両脇に軽く五十人は並んだメイドさんたちが一斉に頭をさげて俺たちを迎えている。日頃はハーレムだ何だとほざいている栄光ですら、口をぱくぱくさせるだけで何も言えない。 何せ、一歩間違えればギャグでしかない状況なのに、彼女らの態度はまったく自然なのだから。こちらとしても反射的に謝ってしまいそうになるのを抑えるので精一杯だ。 そうしたメイドの海の中央から、音もなくモーゼのように現れたのは、黒い燕尾服めいた格好に身を包んだ若い男性だった。 「柊四四八様とお見受けします。私は幽雫宗冬、辰宮家の家令頭を務める軽輩にございます。どうか以後、お見知りおきを」 静かに頭を下げ、まろやかに微笑んだ彼と向かい合った俺は、正直言って何もかも嫌になりそうな気分だった。あまり他人の容姿を気にする性分ではなかったのだが、これはちょっと美形すぎる。 加え、たったこれだけの接触でも分かってしまうほど隙のない立ち居振る舞い。軽輩などと言っていたが、謙遜も甚だしい。男としての完成度は、だいぶ負けていると自覚せざるを得ない相手だ。 仕方ないこととはいえ、晶たち女どもはそろってぽかんとしているし。現代の執事喫茶にでも務めれば、一日で伝説になるんじゃないかな、この人は。 「こちらこそ、お招きいただいて光栄です。不思議な縁ですが、戦真館の子弟としてあなた方にお会いできたことを、理屈はともかく嬉しく思っています」 「なにぶん、礼儀を知らない若輩なので不調法もあるかと思いますが、我々としてもまだ不明なことが多数ありますので、どうかその点はご寛恕ください。こちらの世良にいくらか聞いてはいるのですが……」 「ええ、ならばこそ、私どもの主もこの場を設けることにしたのです。皆様の疑問、お気持ちは重々承知しておりますので、ご安心ください」 「ではこれより先、この幽雫が案内を務めさせていただきます。野枝、ご苦労だったね。さがってよい」 「はい。ではよろしくお願い致します。皆様も、また後でお会いしましょう」 そして数分後、俺たちは磨き上げられた大理石の床の上、〈踝〉《くるぶし》まで埋まりそうな絨毯を歩きながらこの館の主の間へと向かっていた。 のんびり一休みしてからという状況でもなかったので展開は速かったが、別に急き立てられているという印象は感じない。広大な屋敷のため、寄り道をせずとも相応に“間”を演出できるせいだろう。 この絢爛豪華さには依然として慣れないが、少なくとも場違いで居心地が悪いという感覚は無くなっていた。ある種の名所旧跡めぐりをしている気分、と言えば分かるだろうか。今は素直に感嘆しながら邸内を進んでいる。 そういう、こちらの緊張を上手く和らげてくれたのも、エスコート役が優秀なお陰だろう。家令頭の幽雫さんは、確かに野枝さんほど親密に接してくれるわけではないものの、そのぶん貴顕の侍従として洗練された感がある。 一言でいえばビジネスライクだが、それが徹底されているのでこちらも距離感を定めやすい。礼則の教本通りであろう応対に最低限の愛想を混ぜた物腰は、懐柔しようという気配を一切感じさせないため、逆に安心できるのだ。 事実、あまりに自然な振る舞いだったので、彼が有するあからさまな異常を今の今まで俺は気づかなかったというほどであり…… 「これが気になりますか、柊様」 目敏い、どころか、俺の半歩後ろへ並びながら道順を示していた彼に、こちらの顔など見えはしないだろうにも関わらず幽雫さんはそう言った。これまで一切の音を出さなかった腰元が、初めて存在を主張するようにカチャリと鳴る。 「ええ、まあ、とても似合っていたもので」 「お褒めに預かり恐縮です。無礼にあたるのは承知しているのですが、癖でしてね、お許しください」 そこにあるのは古風な拵えの〈鋭剣〉《サーベル》で、つまり彼は最初から武装していたことになるのだ。自分で言っているようにそれはたぶん有り得ない無礼だろうが、悪びれた風はまったくなく、俺も何か文句をつけるつもりはなかった。似合っていると言ったのは嘘じゃない。 帯剣した家令という出で立ちが、この人物を表現するに当たり、他は有り得ないと思えるほど嵌っている。 「え、あ――ほんとだ。全然あたし気づかなかったよ」 「今まで音もしなかったもんねえ」 それは他の奴らも同じなようで、むしろ感心しているようだった。我堂なんかは性格的に文句をつけてもよさそうなところだったが、まったく別のことを唸るように呟くだけだ。 「相当、使えるみたいですね。私たちなんかじゃ想像もつかないほど」 「さて、どうでしょうか。他に能がないと言えばそういうことになりますが」 「幽雫さんは、戦真館の第一期筆頭生だったはずよ」 「マジで? じゃあ明治版の四四八みたいなもんなのかよ」 「〈千信館〉《うち》の来期総代選挙はまだ始まってないし、そもそも俺は立候補するなんて言ってないぞ」 「でも、どうせ四四八くんでしょ。りんちゃんも出馬しそうな気がするけど」 「当たり前よ。修学旅行明けには始まるし、絶対負けないから覚悟してなさいよ、柊」 「いや、つーかそれよりよ」 歩美が要らないことを言ったのでムキになり始めた我堂を制し、晶が首を傾げて疑問を呈す。 「だとしたら、時代設定ずれてない? 今は明治三十七年だろ? だったら幽雫さんは現役の学生じゃないとおかしいのに、どう見てもあたしらより十こくらい上な感じじゃん」 「私は、と言うより、主も、先ほどの野枝も、本来この〈層〉《じだい》に身を置く立場ではありませんからね。皆様がそうであるように、過去の夢へ入っているというだけです」 「それについては世良様、まだご説明をされておられない?」 「あ、それはその、すみません。私そういうの、なんだか分からなくなっちゃってて」 「覚えてることもあるんですけど、細かいことは、正直……」 「なるほど、それは失礼しました。ではそのことも含めて、主が疑問に答えてくれるでしょう。不自由をかけて申し訳ありませんが、もうじきですので、どうかご辛抱を」 「それならその前に一つだけ、伺ってよろしいですか幽雫さん」 参りましょうと再び俺たちを促していた美形の家令に、我堂がそう言って問いを投げた。 「今が初代戦真館の時代だというのは分かりましたが、あなたの主人は二代目の百合香さんなんですよね。ということなら本来ここにいるべき人、この時代の御当主はいったいどちらに?」 「辰宮麗一郎氏は、ここにいらっしゃらないのですか?」 「はい」 それに短く、冷徹なほど端的に彼は頷く。 「我々がこの邯鄲に身を投じた際、すでにお館様は身罷られておりました。その時点で儚くなられていた方を法に取りこむことは出来ません」 「未来は変えられますが、原則として過去は不変。そういうことです」 「それはどういう――」 「ですので、そこを我が主がお答えします。私ごときが言えることはその程度。さあ、参りましょう」 「あ、ですが――」 再び言い募ろうとする我堂の肩を俺は押さえて、首を振った。 「やめとけ。ここで彼を問い詰めても仕方ない」 「もっと詳しい人が全部教えてくれるって言うんだから、それを待とう。すぐだって言ってるしな」 「そうだぜ鈴子、気持ちは分かっけど、先走んなよ」 「……あんたに言われると腹立つわね。だけどまあ、分かったわよ」 「みっちゃんも、早くもやもやしたのはっきりさせたいもんね」 「ええ、ほんとに。まずは百合香さんに会ってからよ」 「現状の理解を完璧にしたうえで今後の方針を明確にする。基本だからな」 「すげえ美人だって話だもんな。早く会いたいぜ」 「おまえはほんと、そればっかかよ」 などと言いつつ、ともかく辰宮百合香に会わないことには話が前に進まないので、俺たちは引き続き幽雫さんの案内を黙って受けることにした。言った通り、別に彼らを不審に思っているわけではないのでそうすることに抵抗はない。 ただ、強いて言うなら一つだけ。 「…………」 この館に入って以降、さらに黙り込んでしまったこいつのことが、どうにも気になるということだった。 「柊四四八様、並びに御学友の皆様をお連れしました」 だがそれも、こうして目的地に辿り着いた瞬間に泡のごとく消えていく。 話に聞いてはいたものの、その人物が発する空気に直接触れ、何かを怪しむというのはまったく無理な相談としか言えなかったのだ。 「ようこそおいでくださいました。わたくしが当辰宮家を預かる百合香でございます」 「さあ皆様、どうかご遠慮なさらずに、そちらへお座りくださいませ」 俺含め、全員呆けてしまうしかない。一応面識があるはずの世良さえも、彼女と面を合わせた瞬間に魂を抜かれたような顔をしていた。 傍から見れば間抜け極まりない有様で、自己弁護するのもみっともないが、そうなって仕方ないだけのものがある。辰宮百合香は、それほどまでに綺麗だった。 目鼻立ちが整っているというだけじゃなく――そこだけ見てもモデルが自殺しそうな域なのだが――この女性は何処か明らかに違っている。 育ちか、教養か、それとも人格、もしくはまったく別の何かだろうか。あるいはすべてと言っていいかもしれない。とにかく〈匂〉《 、》〈う〉《 、》。月を見上げるスッポンのような気分にさせられる。 彼女を前に、よからぬことを思える奴は人間じゃないだろうと思えるほどに。 「なんだよこの美形地獄は……」 腰が沈み込むような感触の椅子に腰を下ろす際、ぼそり晶がそう呟いた。まったく俺も同じことを言ってやりたい。 伊藤野枝、幽雫宗冬、辰宮百合香……今回出会った人物たちは、その順番ごとにより強く、こちらを情けない気分にさせてくれる。 もちろん彼らのせいじゃないんだが、百年前の日本人はかくも美しかったのだと叩きつけられているかのようで、色々恥ずかしくなってくるのだ。なまじ戦真館という繋がりがあるものだから、そうした気持ちは如何ともし難い。 そんなこちらの心情はきっと向こうも察しているに違いないが、あえて何も言わず微笑みだけを湛えている。 まあ実際、俺たちは彼女から見れば曾孫以下の世代になるので格差があるのは当然だろう。いくら年齢的には変わりがなくても、生きた時代の濃さが違う。 だからそこを今から教えてもらわねばならないわけで、失望されないためにも毅然としていなくてはならない。 「さて皆さん、まずは何かさしあげたいところですが……いけませんね宗冬、野枝を連れてこなかったのですか」 「申し訳ありませんお嬢様。あれには今後の手続きを任せましたので」 「そこは〈花恵〉《かえ》に一任しているはずでしょう。またおまえは、わたくしの意向を無視しましたね、まったく」 「まさか、先日のことを根に持っているのですか?」 「いいえ、決してそのような」 やんわりと優しげな声で家令に何事か苦言を呈していた彼女は、俺たちのほうへ目を向けるとすまなさそうに頭を下げた。 「皆さん、お許しください。野枝が淹れる紅茶は最高に美味しいので、是非とも味わっていただきたかったのですが、この宗冬が気の利かぬことをいたしました。以前、別の客人を迎えた際、おまえの紅茶は味が落ちると評したことを根に持っているのでしょう」 「なんとも子供じみた意地に付き合せて申し訳ありませんが、これも一興と宗冬の再挑戦を受けていただけないものでしょうか」 「は、いえ……それはもちろん。お気になさらず」 「よかった。では宗冬、名誉挽回の機会ですよ。彼らに粗相のないように」 「御意に、お嬢様」 そうして彼は言われるまま準備に入り――やがて俺たちと主人の前に湯気の立つ紅茶を注いだカップを運んできてくれた。 「うわ、凄い良い匂い」 「ほんとだ。我堂、これ何か分かるか?」 「……訊かないで。悔しくなるから」 確かに、立ち昇る湯気から漂う芳しい香りは濃厚かつ清涼で、そっちに詳しくない俺でもかなりの高級品と腕なのが理解できる。 歩美などはすでに涎を垂らしている始末で、紅茶を前に涎を垂らすというのは相当レアな反応だろうから、味も押して知るべしというやつだろう。 「ではいただきましょうか、皆さんもどうぞ」 「はいっ」 そうして皆一様に、紙のような薄さのカップを口につけて熱い液体を喉に流し、次いで同時に感嘆した。 「うっま」 「おかわり、おかわりお願いしますっ」 「ていうかこれ、夢だよな。どういう原理なの、クリエイト?」 「まあ、うん、そういうことはあまり考えないで、素直に味わおうよ」 「……なんで泣いてるんだ、我堂」 「ほっといてよっ」 そんな俺たちの反応を前にして、幽雫さんは無表情だが静かに目礼してくれた。きっとまんざらでもないのだろう。 だが、当のご主人様の方はといえば、辛辣なもので。 「宗冬、温度が若干高めですよ。これでは香気が飛んでしまいます。まだまだですね」 彼のリベンジ云々については、客が誰だろうとこの人の反応が一番問題なのではないかと思った。 「心得ました、精進いたします」 「皆様も、未熟な私の手並みに付き合せてしまいまして、申し訳ありません」 「いやいや、マジそんなことないですって幽雫さん」 「うん、ほんとに滅茶苦茶美味しいですよ」 「同感です。あまり謙遜しないでください」 「ねえ。私たちの舌にはとんでもない贅沢でしたし」 と口々にフォローする女たちには俺もまったく同じ気持ちだが、相手が相手なので妙な絵づらを連想してしまう。 「何かホストに群がってる田舎娘みたいだよな、こいつら」 「言うな栄光、しょうがない」 そしてついでに言おう。おまえが言うな。 「どうやら皆さん、固さも取れたようですね。そうした意味では、宗冬の紅茶も役に立ったということでしょうか」 「では改めまして、もう一度ご挨拶を。わたくし、辰宮百合香と申します」 「ぁ―――」 そこにきて、俺たちは自分が名乗り返していないことにようやく気づいた。 どうやらすでに、とんでもない不調法をやらかしていたらしい。慌てて頭を下げると、全員恥ずかしさに顔を赤くしながら名を名乗った。 「柊四四八です。重ね重ね、みっともない真似を晒してすみません」 「いやほんと、恥ずかしいっす。こういうときは四四八に倣う癖が無意識についてるもんで、真奈瀬晶です」 「あっちゃん、人のせいにしちゃ駄目でしょ。確かに四四八くんまでこんなになっちゃうのは珍しいけど……あ、わたし龍辺歩美です」 「大杉栄光。できればエイコーって呼んでください。マジ不覚っした」 「我堂鈴子です。今さらながら、お会いできて光栄に思っています」 「お久しぶり、と言っていいんでしょうか。覚えていらっしゃいますよね百合香さん、世良水希です」 「はいもちろん。その辺りについてもこれから語らせていただきましょう。それで、そちらは……」 未だ一人だけ何も言わない奴に目を向けて、この柔和な令嬢は困ったように苦笑した。まるで、ああまたかと懐かしがっているみたいに。 しっとりとした優しい声で、彼女は促す。 「あなたのお名前をお聞かせください。百合香に教えてほしく思います」 「…………」 「ちょっと淳士、あんたいい加減にしなさいよ」 傍の我堂に叱責されてようやく鳴滝は顔を上げると、あからさまに嫌々という態度を示しながら吐き捨てた。 「……鳴滝淳士。これでいいだろ」 「あんた――ほんと何を一人でさっきから」 「構いません。ええ、鈴子さん、よいのです」 「淳士さん、今後はそう呼んでもよろしいかしら?」 「勝手にしろよ、知ったこっちゃねえ」 横柄を通り越したその態度に俺たちは焦ったが、当の百合香さんは嬉しそうに頷くだけで、気分を害している風ではなかった。 が、この主人に仕える筆頭家令は違ったらしい。片眼鏡の奥で、一瞬だけ幽雫さんの目が怜悧に細まったのを俺は見た。 それは刃で首筋を撫でられたような感覚となって届いたが、他の連中は気づかなかったらしく、すでに彼も無表情に戻っている。 まったくひやりとする遣り取りだったが、この場は話を進めるのが先決だろう。鳴滝については後で対処するとして、百合香さんにはこのまま本題に入ってもらうことにする。 「では、まず何から話しましょうか」 静かに皆を見回してから、音もなく立ち上がった彼女は、窓の外を見ながら呟いた。 「早く理解を得るためには、結論から語るという手法もありますが、それはある程度の前知識があってこそ可能なもの。ゆえにここでは、一度原点に立ち返ってから話させていだきます」 「そのため長くなりますし、回りくどくもなるでしょう。もしかしたら余計に分かりづらくなることさえ……それでも皆さん、よろしいでしょうか」 「ええ、構いません」 むしろそうしてくれたほうが有り難い。そもそもの発端から話してくれるのなら、無知な俺たちも妙な早とちりをせずにすむ。 皆でそう促すと、百合香さんはこちらへ向き直り、小さく頷いてから話し始めた。 遠大で、複雑怪奇な、この夢の物語を訥々と。 「事の起こりは維新にまで遡ります。これは今さら語るまでもないでしょうが、倒幕による大政奉還で我が国は大きく様変わりをいたしました」 「この洋装、洋館などが分かりやすい例ですね。既存の体制が崩壊したわけですから、新たな価値観、それを統御するための制度が生まれます」 「鎌倉の幕より七百年続いた武士政権の終わり……ここで皆さんに伺いますが、鎌倉殿がもっとも力を入れた政策がなんであるかお分かりでしょうか?」 唐突にそう問われ、一瞬戸惑いつつも考える。話の流れからして、それが明治維新まである種続行したものであろうことは分かっていたから…… 「守護地頭の設置。つまり、公家や皇室の荘園を押さえて武士の権益を確保するということですか?」 「そうですね。確かにそれがもっとも重要なこと。あくまで物理的な面においては」 「しかし、わたくしが言っているのは観念的なことです。価値観の誘導と言えばよいでしょうか。先に仰られたこととはまた別の意味で、天皇陛下の御威光を薄めるための便法ですよ」 そこまで言われ、理解した。 「仏教の推進」 「その通り。八幡神などは典型的な神仏習合の産物であり、鎌倉は仏教の都です。そしてそれは徳川の世まで変わりません。東照大権現も理屈は同じ。源氏の八幡太郎様に倣う神君家康公というわけですね」 「細々とした例外はありますが、雑把に言えばこのように、神道の形骸化や仏門への取り込みに尽力しているというのが武士政権――と言うより反皇室の特徴です。東照、などという名が実に分かりやすいでしょう。この理由は説明せずともよろしいですよね?」 無言で頷く。確かにあまり目立つ方面のことではないが、事実として疑いようのないものだろう。 この日本で権勢を揮うには、天皇陛下の存在感がでかいと困る。そして陛下は、言わば神道版のローマ法王みたいなものなので、仏教を推進したり、己の一族を祀り上げて〈皇祖〉《アマテラス》を空気にするのは当時の権力者たちにとって都合がいい。 してみれば、鎌倉以前にも仏門に入った天皇が何人もいるように、そういう神仏習合は早くから表れていたんだろう。神道が弾圧されたわけじゃないが、それは皇族が滅ぼされたわけじゃないのと同じように、上手く民の現実認識からその有り難味を奪ったということだ。 神社は詣でるし神輿も担ぐが、瞬間的に祈るときは念仏であって祝詞ではない――というように。 それは分かったが、しかしそのことと今の事態に何の関係があるのだろう? 「そこで維新の話に戻しますが、武士政権が終わった以上、陛下の御威光を復活させねばなりません。ゆえに今度は逆の現象が起こります」 「皆さんは、神仏分離令をご存知ですか? その結果、どのようなことが起こったのかも」 「廃仏毀釈運動ですね」 今度は我堂が返答した。晶たちはそろってちんぷんかんぷんな顔をしてたが、後になってあれこれ説明させられるのも面倒なので、しっかり聞いておいてもらいたい。実際、日本人なら常識的に知ってほしいレベルの話だ。 「仏教伝来からの神仏習合で曖昧になった神と仏の境をしっかり分ける。つまり明治政府が推進する神道の存在感を確固たるものにしようとした結果、民間では仏教の弾圧めいたことが起こった」 「そして多くの寺院や仏具・仏像が損壊され、僧侶は還俗し、神社からも仏教縁の品々が消えていった、と」 それらがもし残っていれば国の重要文化財、あるいは世界遺産にすらなっていた物もあっただろう。にも関わらず消えたのだ。 背景として、江戸時代まで時の権力者に保護されていた仏教勢力が調子に乗っていたというのもあるだろう。そうしたことに対する民衆の不満が爆発したわけで、仕方のない面もあるかもしれないが愚行であったことに変わりはない。 明治政府にそこまでする意図はなかったというのが通説だが、実際はどうだったか怪しいと思う。何せ壊すというのは面白い。創るよりも簡単だし、分かりやすく何かをやり遂げたという気分にもなれるのだから。 「そうですね、愚かな真似です。そしてあまりにも性急な変革……だからこそ、そこに歪みが生じるのは回避できません」 「壊され、燃やされ、廃棄された神仏たち……人の勝手で掌を返された彼らは危険なものへと変じました。我々はこれを廃神、祟りと呼んでいます」 「へっ?」 そこでいきなり、頓狂な声を歩美があげた。他の奴らも反応は似たようなもので、俺もまた例外じゃない。 これまで歴史の授業的な話をしていたのに、いきなりオカルトっぽくなったのだから当然だろう。彼女はその祟りとやらを、実在するもののように語っている。 「皆さんが仰りたいことは分かります。ですがふざけているわけではないのですよ」 「祟りがどうのと言い出せば、何を胡乱なことをと思うでしょうが、これは本当の話なのです」 「えっと、じゃあつまり、それは四谷怪談みたいな感じで? うらめしや~みたいな?」 「皆さんは、霊や神仏の存在を信じませんか?」 問われ、返答に窮してしまう。確かに俺たちの現状も充分以上に奇々怪々だが、だからといってそこまで行くとやはり困惑してしまう。 だが百合香さんは、面白そうに頷いて言葉を継いだ。 「もちろん、わたくしもまったく信じておりません」 「はい?」 「……その、つまりどういうことでしょう?」 「要は何処か高いところにいる御方が我々を創造し給い、その運命を司っているなど有り得ないという話ですよ」 「人の世に絡む以上、それは人が生み出した事象なのです。神仏とて例外ではありません。発明品です」 「じゃあ、あなたはその祟りもそういうものだと? 超常的な何かじゃなく、たとえば科学的に説明がつけられるというような……」 「はい。仮によく出来た物語があるとしましょうか。それに登場する人物はとても生き生きと魅力的で、ゆえに多くの読者から指示されます。その逆でも構いませんが、ともかくそうした経験は皆さんにもあるでしょう」 「本を質せば誰かが書いた架空の人物にすぎないと分かっていても、彼ないし彼女に本気で恋をしたり怒ったり、共感したり憧れたりというような」 「どうですか?」 それはもちろん、当然ある。俺にとっては八犬伝がまさにそうだし、歩美たちにはゲームやマンガのキャラがそうだろう。誰でもそうした存在は胸の中に、現実だ幻想だという野暮は抜きに一度は持ったことがあるはずだ。 しかし、それが…… 「いや――そうか」 ここで俺は理解した。これまでの話がどう繋がっていくのか、瞬時に組み立てられていく。 事前に皆で推理していたことは大枠で外れていない。そして俺の考えも。 「どうやら四四八さんは察したようですね。その通りです」 「神仏、悪霊、祟り、すべて、物語の登場人物と変わりません。そしてそれは架空だからと馬鹿に出来るものではないのです。多くの人が想う以上、その共通した意識の中に間違いなく存在している」 マンガのキャラだろうがキリスト教の天使だろうが、それを想う心は等しく信仰。そこに貴賎も無ければ良い悪いも無い。 皆が共有する〈象徴〉《イコン》が生まれる心の海。 「普遍的無意識」 「そう。わたくしたちにとっては、近頃異国の先生が提唱なされた先進的かつ画期的な概念で、非常に新鮮な話題です。その反応を見る限り、皆さんにとっても相応に一般的な考えではあるようですね」 「俗に心霊、超常現象と言われる諸々は、それを信じる者たちによる集団的な〈狂騒〉《ヒステリー》と解釈されておりますが、これは夢の無い枯れ尾花という意味ではありません。信じているからこそ起こったことで、ならば〈彼ら〉《タタリ》は実在します。心の中に」 「廃仏毀釈も典型的な〈狂騒〉《ヒステリー》にあたりますから、流れは必然的なものなのですよ。怯え、罪悪感、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈祟〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「そして夢と現実の境は曖昧になっていく……」 「重ねて言いますが、これは馬鹿に出来ない力です。人心を大いに乱し、時に社会を転覆させることすらあるほどの」 「そして強い力ならば、それを上手く利用しようと考える者が出るのもまた必然。時勢もありますからね、〈廃神〉《タタリ》を戦術として使うための業が編み出されました」 一拍置いて皆を見回し、彼女はひっそりとその名を告げた。 「号して〈邯鄲〉《かんたん》の夢……唐代の故事に端を発し、我が国でも能などの分野で知られていた仙術の類ですが、四四八さんはご存知で?」 「確か……えっと、待ってください」 授業で習ったわけじゃないが、故事として聞いたことがある。文学にも似たような話があった気がするのでネタが混在しているが、俺はなんとか思い出そうと試みて…… 「邯鄲は、中国の古い都ですよね。そこで色々と現実に嘆いていた男が、仙人から自分の人生をシミュレート……仮想体験する夢を見せられて、栄枯盛衰の虚しさを悟るというような」 「は? おいそれって……」 驚く栄光。そう、それは俺たちが体験しているこの夢と非常に似ている。 百合香さんが微笑んだ。 「その通り。今わたくしたちは、邯鄲の夢にいます」 「故事としての教訓は四四八さんが仰ったように栄枯盛衰の儚さ、結局どのように生きたところで苦労はするのだという話ですが、申しました通り我々が体験しているのは戦術利用されたものです」 「夢という進入経路から普遍無意識の海に触れ、そこにある〈廃神〉《タタリ》を始めとした人の荒ぶる空想の力を手中にする」 「邯鄲法の詳細はまた後に話しますが、ともかくその真髄となる最終目的はひとつです」 それはここに来る前、まだ確証がないから明言できないと皆に言ったことであり、多くの謎に関わる答えだった。 今、彼女によって俺の推理が外れていないと証明されたわけだから、もはや口にすることを躊躇わない。この夢に身を投じている連中が何を目指しているのか、ようやく判明したことになる。 すなわち―― 「〈夢〉《ここ》で使える力のすべてを、現実の世界に持ち出すこと」 おそらく〈前〉《 、》〈の〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》、世良は何らかの結果としてそれを成してしまったのだ。きっとループの秘密はそこにある。 そして壇狩摩が、神野明影が、柊聖十郎が、加えたぶん百合香さんも、求めているのはその一点。想いがそのまま力になるという〈超常〉《ユメ》の現実獲得に他ならない。 「そうです。だから我々は争っている。愚かなことをと思うのでしょうが、そういう時勢なのですよ」 「看過できぬことがあまりに多く、止めねばならぬことが無数にあります」 「お分かりいただけましたでしょうか。これが現状を構成するそもそもの発端。すべての因です」 しめやかにそう告げた百合香さんは、何処となく悲しげに自嘲しているようだった。彼女自身、不本意な気持ちを多分に持っているのかもしれない。 そこを理解できたからこそ、なおこの話は詰めていく必要があるだろう。根本が分かったことで、より具体的となった疑問はまだまだあるのだ。 それは全員同じだったらしく、次から次へと質問が飛び始めた。 「じゃあ百合香さん、それにあたしらが関わっちゃってる理由を教えてよ。聞く限り、全然繋がりが無いように思うんだけど」 「それは先に述べた邯鄲の真髄に関わる話です」 「この夢は故事の通り、歴史の仮想体験を主としています。ここでは戦真館の誕生から百年ほど先までを設定しており、我々の行動でどのような未来が生じるかを模索するというのがまず一点」 「そうした流れの中で、〈廬生〉《ろせい》――故事の登場人物ですが――彼のように悟るのが目的なのです。人の意志というものが何処に向かっていくのかを」 「そうすることで、夢の力を現実に持ち出せる?」 「はい。なぜならそれこそ皆が共有する無意識の海。〈ど〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈未〉《 、》〈来〉《 、》〈に〉《 、》〈向〉《 、》〈か〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈想〉《 、》〈い〉《 、》〈を〉《 、》〈表〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》」 「言わば人類という種の願望……それに触れ、理解することでその力を引き出せる。理屈としてはそうなりますね。無論容易いことではないですが、不可能ではありません」 「皆さんは、それによって導き出された未来の一形態を体現しているお立場です。ああ、こういうものを何と言えばよいのでしょうか」 「パラレルワールド? 平行世界とか」 歩美の言葉は俺たちにとって実に理解しやすいものだったが、百年前の人間である百合香さんにはそうでもなかったらしい。彼女は一瞬目を丸くしたものの、しかし呑み込みは早かったようで、すぐに微笑みと頷きを返してくれた。 「なるほど、良い表現ですね。平行世界……なるほど、そうです」 「ああ、これだけでも、皆さんの未来が高度に纏まったものであるのがよく分かりますよ。どなたも知識が大変豊富で、高い教育を当たり前に受けているというのが感じられますから」 「いや、そんな風に褒められるの初めてなんで、照れるんすけど」 「あんたは例外でしょ」 などという突っ込みはともかく、まあ確かに百合香さんの言う通りかもしれない。文明開化したと言っても、まだまだこの時代は不自由・不平等が溢れている。彼女のような特権階級でもない限り、一般の女子供が受けられる教育など知れたものだったはずだろう。 当時の世界基準からすれば日本人の識字率等は桁違いだったらしいが、それでも現代のような情報化社会と比べられるものじゃなかったのは間違いない。 「とにかくそうした次第でして、皆さんは我々から見た可能性の形なのです。無論これは、あなた方が実在しないなどという意味ではありません。平行世界とは、そういうものでしょう?」 「はい、それは分かります」 そのうえで不明なのは、こちらから邯鄲とやらにアクセスしてここにいるということだ。聞く限りその術は百合香さんの時代に行使されたものであり、俺たちが属する世界はそこから導き出された可能性未来の一つでしかない。 つまり、向こうから接触してくるならまだしも、俺たちからこの世界に触れるというのは方向性がおかしい。あべこべだ。 いや、しかしそんなことを思いながらも、本音のところで俺は分かっていたのだろう。なぜなら俺たち以外にも、そのあべこべを体現している奴がいる。 だから自分で言わねばならない。顔を上げて、俺は続けた。 「つまり柊聖十郎、あいつが何かをやったんですね?」 「…………」 「思うに、あいつはあいつで邯鄲の夢を実践した。そしてここに侵入してきたんでしょう。ろくでもないことを狙って」 学者として卓越していたという聖十郎。俺が生まれる前に失踪して、消息不明となった父親。そこに何があったのかは今ならある程度予想がつく。 おそらく文献でも読み漁り、この時代にあった争いの詳細を知ったのだ。 そして奴も参戦した。動機はよく分からんが、聖十郎も祟りの力を欲したのだろう。そうとしか思えない。 「違いますか?」 問いに、百合香さんは無言のまま、複雑な光を目に湛えてこちらを見ていた。 嘆くような、哀れむような、そしてなぜか詫びるような……どこか諦観にも似た気配を滲ませて。 「そうですね。大方、あなたの仰る通りです」 「じゃあ、あたしらがここにいるのは、四四八の親父に引っ張り込まれたってことですか? どうして?」 「彼は、皆さんを使っておそらく何かをしたいのでしょう。それをわたくしから申し上げることは出来ません。未だ、掴めていませんから」 「ただ、明確なこととして、柊聖十郎という御仁は危険です。よりによって神野明影と手を組む時点で、我々とは相容れません」 短くそう言い、百合香さんは目を伏せた。神野明影が甚だ邪悪で、立場も一線を画しているというのは俺たちでも理解できることだから、その評価に異を唱えるつもりはない。 ただし、続く言葉は少なからず衝撃だったが。 「なぜなら、あれは人ではない」 「あれこそが〈廃神〉《タタリ》というものなのですよ。人の心が生み出した影です」 「え、ならあいつって、人間じゃないんですか?」 「言われてみれば、むしろなんで人間だと思ってたんだって外見よね……」 まったく我堂の言う通りで、俺たちは呆けると共にあっさり納得してしまった。中でも世良は特にそうで、呆れの溜息さえ吐いている。 「そう、よね。そうに決まってる。あれが人間だなんて、有り得ないもの」 「ええ、ですがある意味で、人間そのものと言ってもよいのですよ。多くの者が夢に描いたからこそ発生した、物語の登場人物なのですからね」 「あの悪辣さも、卑劣さも、〈悪魔〉《じゅすへる》斯くあるべしと求められた結果にすぎない。彼の出自は、おそらく隠れ切支丹の教義における天魔……確か堕天使というのでしたか? それであろうと思っています」 「切支丹は徳川の時代に弾圧されていましたから、司直の手を逃れるため、教えや神像を仏教的に偽造しました。彼が本来の基督教と似て非なる異形となって顕現しているのはそのためでしょう」 「たとえば、マリア観音みたいなやつですか?」 「そのようなものがあったそうですね。ならばもう、お分かりでしょう」 「それも廃仏毀釈の対象になった?」 「そういうことです」 なるほど、これで奴のことはだいたい分かった。もともと明治維新後にキリスト教の禁制は解かれたから、隠れと呼ばれる多くの人々は教会に復帰したはずであり、そうした意味でも神野は打ち捨てられた〈悪魔〉《キャラ》だったのだ。 それが廃仏毀釈によって追い討ちをかけられたから、なおのこと〈逸〉《はぐ》れて堕ちる。祟りと成り得る素養は嫌になるほど持っていたというわけだろう。 何よりも悪魔らしい悪魔。人が求め、想像する、斯くあるべき悪魔の姿。 陳腐だの不謹慎だの、馬鹿にすることなんか出来やしない。およそあらゆる物語には悪役が登場し、その邪さと禍々しさを読者が強く求めるのは否定できないことなのだから。 神野が有するジョーカーとしての完成度は半端じゃない。それと手を組んでいる聖十郎もまた等しく。 「この邯鄲には、あのような呪わしい存在が多数渦巻いています。彼らを現実に出してよいはずがないのは分かりきっていることでしょう」 「ゆえにわたくしは、それを阻止する側の立場です。神野明影を始めとする廃神の眷属たちは、外に出て思うさま人の世に邪悪を揮いたいと渇望している。なぜならそのことが存在意義、求められた役ですからね」 「よって彼らは囁きます。力になろう、連れて行け、おまえの願いを叶えてやると。柊聖十郎殿は、その誘惑に染まっておられるのでしょう。看過できません」 「だからあなたは俺たちを?」 「そう。これについては率直に申しあげます。皆さんを守り、育てる代わりに、我々の同志として共に立ってもらうのが目的だと」 「遠く離れた我が戦真館の同胞に、辰宮百合香が願います。ここに跋扈する廃神の眷属と、それに魅せられた者どもの駆逐に協力していただきたい」 「なぜなら我々の首尾如何で、あなた方が属する未来も可能性が消滅するやもしれぬのです。加えてこの邯鄲から解放されることを望むなら、彼ら祟りを排除せぬ限り悪夢が覚めることはありません」 「図らずも得てしまった〈超常〉《ユメ》を捨て去ることも同様に……」 ちらりと、痛ましげな目で世良を見やり。 「いかがです。四四八さん、皆さん」 凛と清冽な気勢をもってそう問うてきた百合香さんに、俺たちが返すべき言葉は決まっていた。 どのみち否応のない話。ならば答えは一つだろう。 「それはむしろ、こちらからお願いしたいことですよ」 「あたしらもう退けないんだから、全然損な話じゃねえし」 「百合香さん、ゆりちゃんって呼んでいいですか?」 「いやあんた、流石にそれはやめときなさいよ。ああ、もちろん私も、柊たちに同意です。ほら、淳士」 「うるせえな、勝手にしろよ」 「野枝さんと一緒の学校に通わせてくれるんっしょ? だったら否応もないっすわ」 皆が口々にそう言って、最後に世良が締め括った。 「よろしくお願いします、百合香さん」 短いながらも深く、傍から見ても分かる万感の思いを込めながら。 それを受けて、戦真館の親である令嬢は、名前の通り花が綻ぶような笑顔を見せた。 「ありがとう、あなた方はわたくしの誇りです」 「今日はこのまま、どうか当家に御逗留ください。明日から戦真館へ通えるよう、手続きは済ませておきます」 「あ、そりゃ嬉しいけど百合香さん、あたしらここで寝たら現実に帰っちゃうんだけど」 「それに、またこっち来るときは実家と同じ位置に飛んじゃうから、色々面倒なんだよね」 「ていうか今気づいたんだけど、私たち修学旅行の夜とかどうなるの?」 そんな疑問と戸惑いに、やはり百合香さんは笑って答える。 「ああ、そのことですか。まったく問題ありません」 「戦真館には寮がありますから、そこで寝起きするという意識を強くお持ちください。そうすれば、夢に入る際はそこに飛べるはずでしょう」 「加え、邯鄲の夢は本来一夜で一生を経験するような代物です。この第四層にまで入った以上、現実の時間感覚は適応されませんし、辰宮の邸内や戦真館では、ただ眠ったくらいで覚めることなどありませんよ。何せわたくしの創界ですからね」 「もちろん、皆さんが今すぐ帰りたいと仰るなら丁重にお送りいたしますが」 いかがします、と悪戯っぽく問われたので苦笑した。これで結構、人の悪いところもあるらしい。試しているのか、俺たちを。 「同盟した身ですからね。ご厄介になりますよ」 ここで帰るなどと言ったら如何にも彼女を信用していないようで格好がつかないし、そもそも残ったほうが利は多い。 「まだまだ聞きたいことは山ほどある。これからは時間感覚が現実と違うっていうなら幸いだ。こっちも腰をすえて話に付き合いますよ」 「そうですか、嬉しいです。わたくしもまだまだ話し足りませんし」 「あの、四四八……あたしはそろそろ頭パンクしそうな感じなんだけど」 「オレも」 「わたしも」 「じゃあ、あんたらはとっとと部屋出て、そこらで好きに遊んでなさいよ。私と柊と水希がいれば、問題はまったくないから。ねえ?」 「うん、そうかもね」 笑いを堪えるように世良が頷く。それに晶たちがぶーぶー言いだし、ここまで知らされてもいつも通りのこいつらが頼もしく、俺も可笑しくなってきた。 「お嬢様、先ほどから喋り通しでございますし、やはり一旦、ここはご休憩となされたほうがよろしいかと存じますが」 「野枝の紅茶があるならそれで構いませんわよ、宗冬」 「ぶはっ」 「あはは、いま幽雫さんピキってなった」 「ふふ、あははははははは」 そうして―― 結局、野枝さんが呼ばれることはなかったのだが、それでも十二分に旨い幽雫さんの紅茶を飲みながら、日が落ちるまで話は続いた。 俺たちはありとあらゆることを質問し、それに百合香さんは丁寧に答え、内容だけ見ればとても笑える話じゃないというのに、楽しい時間だったのを覚えている。 そう、楽しい。そのことだけが、強い記憶となって俺の中に残ったのだ。 「これでよろしかったのですか、お嬢様」  四四八らをそれぞれ宛がった部屋に送り届けたあと、忠実な辰宮の家令は主人に対してそう問うた。 「ええ、腹立たしくも残念なことですが、鬼天狗殿に言われた通りとなってしまいましたね。これではここを離れられません。  会えば分かる、か。まったく、狩摩殿もやってくれたものですよ」  どこか拗ねたように言いながらも、百合香の顔には自嘲の色が浮かんでいる。そのまま控えめな溜息混じりに、己の所見を纏めてみせた。 「しかし、あるいはこれが正しいのかもしれません。彼らを見てそう思いました。  あくまで〈廬生〉《ろせい》に倣うのならそういうこと。分かってはいたのですがね、わたくしは甘いのでしょうか。指導者としての素質が無いのかもしれませんね」 「おそれながら申し上げます。盲打ちは何も考えておらぬだけにありますれば、あれと比して恥じ入ることなどありません。  私も、そして他の者らも、お嬢様を信じております。よって何処までもお供することに疑問は無く、この気持ちをただ汲んでいただければと願うのみです」 「そうね。宗冬、ありがとう」  騎士の忠誠に、百合香はただ頷きだけを返していた。それは奇妙に寂しげで、ある種の落胆に近い憂色を滲ませた所作だったが、なぜのそのような態度なのかは分からない。  しかし再び顔をあげ、話題を変えたときには一転して弾むような響きが口調に乗る。 「それはそうと、淳士さんにはどうも“効き”が悪いですね。これは少々、我々にとって不都合を生むやもしれぬのですが、どうしましょう。  ねえ宗冬、おまえはこの問題をどのように捉えていますの?」 「彼は……」  問われた忠僕は、感情の篭らぬ声で返答した。 「甚だ、寡黙な男でしょう。ゆえに要らぬことを吹聴するとは思えませぬし、またその言葉を持たぬのでは、と」 「つまり、放置で構わない?」 「お嬢様がそう仰るなら」 「殺したほうがいいと思う?」 「お嬢様がそう仰るなら」 「つまらない男ね、宗冬は」 「お嬢様がそう仰るなら」  鸚鵡のごとき返答の連続に、百合香は鼻で笑い髪の毛を掻きあげた。清楚な令嬢であるだけに、そのような仕草をすると異様なほど妖艶さが匂う。  鼻では嗅げぬ香気で煙る部屋の中、主の声を待つ幽雫宗冬は従者の鑑と評されるべき直立不動を保っていたが、それは同時に木偶めいていると言うべきかもしれない。 「まあ、よいでしょう。まずは彼らに、この四層を突破してもらうのが先決です。  確かここの条件は、お爺様の愚行でしたね。宗冬、おまえにとっては苦い思い出なのでしょうけど、我々はその再現に立ち会わねばなりません。  狩摩殿にも協力してもらいますが、ともかく五層に入ればその瞬間に、鋼牙の強襲も有り得ます。努々油断はせぬように」  言い置いてから、すっと家令に流し目を向け、百合香はからかうように笑窪を浮かべた。 「おまえが学生だった頃と同じように、全滅などされては困りますよ?  負けたままでおられぬのなら、紅茶の腕などよりその再挑戦にこそ拘りなさい。まあ、もっとも――」  本音は分かっているのですと、蔑みも露に付け足して。 「おまえは、辰宮を恨んでいるのでしょうけどね」  その指摘に、彼が返す言葉は決まっていた。 「お嬢様が、そう仰るなら」 夜遅く――というのも妙な表現だが、ともかくそうなっている状況で、俺は少し困った事態に直面していた。 「……眠れん」 呻いて、ベッドから身を起こす。宛がわれた客間は俺の家が丸ごと入ってお釣りが来る広さだし、家具や調度品も嫌になるほど高級なのが分かるので落ち着かないのも当然あるが、理由はそれだけじゃない。 夢の中でさらに眠るということに慣れていないだけであり、加えて言うとここ最近、覚醒に強い執着を持っていたので少し眠り方を忘れかけてる。 体力の限界で落下するように〈夢〉《ここ》へ入った結果として、どうにもそういう、困ったことになっていた。あれこれ考える性分が、きっと災いしているんだろう。 たぶん栄光あたりなら、これまで睡眠不足だったぶん夢の中でも寝まくるぜと、今頃高いびきに違いない。あいつを羨ましがることなんか滅多にないが、ここではそういう気分だった。どうにも所在無く、色々持て余してしまう。 本格的に邯鄲へ入った以上、こちらの時間感覚は現実に適応されないと百合香さんは言っていたし、だったらどれだけこっちにいようが問題はないんだが、それでもやはり、微妙に焦るな。 現実の千信館に遅刻する心配はないにしても、夢の戦真館は翌朝始まる。今後はそういう生活になるのだし、だったら奇妙でも適応しなくちゃならないだろう。そこは分かっているのだが…… こっちでも睡眠不足で体力が落ちたりするのかなとか、こっちで寝過ごすというのはどういう状況なのだろうとか、くだらないと言えばくだらないことを考えてしまうので目が冴える。眠れない。 「ああ、くそ」 どうする。この長い夜を乗り切るには。 正直、失礼に当たるかもしれないがしょうがない。誰かに見咎められたら謝ればよかろうと割り切って、俺はこの辰宮邸を探検してみることにした。 与えられていた部屋着を脱ぎ、制服に着替えて廊下に出る。人気の無い洋館は静まり返り、広大なぶん少しばかり寒かった。 奇しくも、こっちの日付けは現実と同じ十月とのことらしいが、それも今後はずれていくことだろう。流石にいきなり、一回の眠りで何ヶ月も夢を体験しようとまでは思わないが、まずは試しに一週間ほどこっちにいようということで、皆と話はまとまっている。 こちらにいる一般人らしき人々は、曰く本物であって本物でないそうだ。普遍無意識に漂う彼らの〈心〉《きおく》を投影したものであるとか、つまりよくできた録画みたいなものらしい。 だから極論、死んでも死ぬわけではないエキストラだが、それでも人形じゃない以上、神社の一件みたいなトラブルが頻繁に起きると面倒なのは事実だろう。こっちにいる間はこっちに馴染む必要がある。 そういうことで、戦真館では野枝さんのサポートを受けつつやっていかなければならないんだが、こんなことじゃあ少々先行き不安だな。 「……と、待てよ」 そこまで考え、奇妙な違和感が脳裏を過ぎった。しかし追おうとすればそれはすり抜けていくようで、微かな立ち眩みに頭を押さえる。 なんだこれは? いや、そもそも何かが…… 「あ、柊」 だがその戸惑いは、同じく館の探検をしていたらしい我堂に会ったことで嘘のように消えていった。俺は頭を振って意識をはっきりさせると、目の前できょとんとしているこいつと向かい合う。 もう、先の感覚は残滓すら感じられない。 「我堂……なんだよおまえもか」 「おまえもって、何よ。私はトイレなんかじゃないわよ」 「いや、俺もそうだし。眠れなくてな、探検中だ。おまえは違うのか?」 「違うわよ。私は単に……その、なんだっけ?」 「は?」 何を言ってるんだこいつは。大丈夫か? 「確か何処かに用があったはずなんだけど……ああもう、あんたの顔見たら忘れちゃったじゃない。どうしてくれるのよ」 「八つ当たりかよ。勘弁してくれ」 意味不明な理由で怒ってる我堂の相手をしてやれるような時間じゃない。周りの迷惑になるだけなので、障らぬ神に祟りなしと退散することにした。 「まあ何か分からんが、おまえはおまえの用事を頑張って思い出せ。じゃあな」 「ちょ、待ちなさいってば」 「なんだよ?」 行こうとしていたのに肩を掴まれたので振り返ると、こいつはなぜか偉そうにふんぞり返っていやがった。 「せっかくだから、あんたの探検ってやつに付き合ってあげるわ。感謝しなさい」 「…………」 「まったく、見かけによらず幼稚なことしてるんだから。そんな奴にうろうろさせたら何しでかすか分からないし、お目付け役が必要でしょ」 「だいたい一人で探検とか、発想が寂しすぎて寒いのよ。どうせあれでしょ、ほんとは誰かと行きたいんでしょ。いい、いい。言わなくても分かってるから」 「…………」 「そういうわけで、ありがたくも私が付き合ってあげるって言ってるのよ。まあこっちも暇じゃないんだけどね。しょうがないし?」 「さあほら柊、感謝しなさい。跪きなさい。鈴子様最高です、是非とも奴隷にしてくださいと心の底から――」 「じゃあな」 「て、聞きなさいよォ!」 そんなこんなで困ったことに、妙な同伴者がついてくる羽目となってしまった。 それについての問題は、今までこいつを喚かせずに扱えた試しがまったくないということで、この静かな夜には甚だ不適切だろうという事実だった。 ……まあ、こいつといれば暗くなることだけはないはずなので、そこは確かに感謝するべきなのかもしれないけどな。 「それにしても、ほんとに大した広さの館よねえ」 俺たち用に宛がわれた別棟だけでも五十人は楽に寝起きできる規模があるので、館の全域を回っているとうっかり迷子になりかねない。 そういう次第で、俺たちはしばらく歩き回ったあと、中庭へと降りていた。この辰宮邸はダイヤモンドみたいな形に各棟が配置されているようなので、ここからなら一応全域が見渡せる。 とはいえ…… 「この位置、なんていうか、巨人に囲まれてるみたいな感じになるけどな」 「でも、不思議と圧迫感は薄くない? 配置の妙かしらね、他にも色々あるんだろうけど、〈中庭〉《ここ》の雰囲気、私は好きよ」 言いながら、我堂は花壇や噴水などの趣向についてなにやらぶつぶつ納得していた。そこはやはりお嬢様ということで、俺よりも価値が具体的に分かるらしい。 「おまえの家に行ったことはないが、ここと比べてどんな感じだ?」 「あんたね、嫌味ったらしいのよ。晶が言ってたでしょ、犬小屋だって」 「あいつは口が悪いからな。こういうときはあんまり信用できないんだよ」 特におまえ絡みは、と内心付け足す。我堂を評するときの晶は煽りたがる癖があるし。 「だいたいおまえの家が犬小屋なら、俺の家は何なんだよ。積み木か何かか?」 「そうね、そりゃここと比べれば一般家屋なんてレ○ブロックでしょ」 「おまえな……」 「でも、私は気に入ってるわよ。柊んとこのレ○ブロック」 「晶のとこも、歩美のとこも、大杉や水希の家は知らないけど、たぶんみんないい感じのレ○ブロックよ」 「だから、大事にしたいわよね。私たちが当たり前に生きてる未来」 「……だな」 こいつにしては穏やかな調子で殊勝なことを言ったので、俺は静かに同意した。 歴史が変わるかもしれない。我堂はそのことを危惧していたし、実際その可能性があると言われた今となっては、現実に対する見方も変わってこようというものだ。 ならば、と俺は考える。 「少し、〈夢〉《こっち》のことと関係ない話をするか」 今までどうとも思ってなかった現実というやつが、どれだけ自分たちの中で大きかったかを感じるためにも。 「あら、柊にしてはセンチなことを言い出すのね。まさかもうホームシックにでもなったのかしら?」 「どうかな。だが今後は全員分からんぞ。何せ〈夢〉《こっち》ですごすことのほうが多くなるんだからな」 「確かに、何だか気持ちが老け込んじゃいそうな気もするわね。修学旅行まであと一週間だけど、そこにいくまで十年くらい眠る羽目になったら困っちゃうわ」 「それは流石に大袈裟だろうが、まあ近いことにはなるだろうな」 何せ俺たちは、さし当たって強くなるために戦真館で特訓しなくてはならない。それ用の教官殿も用意してくれるという話なので、ほいほい朝に帰るわけにもいかなくなる。 邯鄲の夢。だからこそだ。 「〈夢〉《こっち》でどれだけきついことがあったとしても、〈現実〉《あっち》じゃ当たり前に学生の生活がしたいと思う。ある意味どっちでも〈学生〉《そう》なんだが、戦の真は軍隊養成所なわけだしな」 「そうね。千の信頼じゃ普通に修学旅行を楽しみたいし、それが終われば総代選挙が始まるし」 「おまえ、ほんとに出馬するつもりなのかよ」 「当たり前でしょ。私以外の何処に適任者がいるっていうのよ」 自信満々に言ってくれる。面白い。 そんな風に言われたら、俺も黙っていられなくなるじゃないか。 「いいだろう、じゃあ勝負しようか。俺も出るからな」 「あら本気? 恥をかくわよ」 「おまえは誰に言ってるんだ。というかおまえ、俺に勝ったことがあったかよ」 「これから勝つのよ」 ふふん、と余裕っぽく鼻で笑いながら、我堂は俺の胸を軽く小突いた。 そのまま、正面から目を見て言う。 「だから柊、あんたが逃げたら私は絶対許さない。修学旅行に一緒に行って、選挙で戦って私に負けるの。それがあんたの運命なのよ。決まってることなの」 「そして奴隷になるってオチか? おまえの中じゃあ」 「そうよ、だから――」 そこでふっと目を逸らし、小さい声でこいつは呟く。 「死ぬんじゃ、ないわよ」 「……おまえもな」 と、なんだか照れてしまったので、俺まで目を逸らしてしまい、我堂がどんな顔をしているのかは分からない。 だけど誓いは受け止めた。 言われなくても死なないし、死なせもしないということを。 うだうだ悩んだところで他に選択は無い。いくら歓迎されているといっても、深夜勝手にうろつき回るなんてのは失礼だし、やるべきじゃないことだ。 ここは無理をしてでも大人しく眠ろう。それが無難。 そう思って、再び布団を被ったんだが…… 「ねえ四四八くーん、起きてるー?」 「トイレが何処か分かんなくなっちゃったから、教えてよー」 「…………」 どうしてこいつは、ノックも無しにいきなり入ってくるんだよ。 眠そうな声でむにゃむにゃ言いながらやってきた歩美は、まったく遠慮せずにベッドの傍まで歩いてくると、当たり前のように俺の布団を引っ剥がした。 「あ、やっぱり起きてた」 「そりゃ起きるわっ!」 叫んで、言葉どおり跳ね起きつつ歩美を睨む。もはや俺が寝てようが起きてようが関係ないだろ、この絡み方は。 「トイレって、なんで俺なんだよ。晶んとこでも行けよっ」 「だって、あっちゃんは寝起き悪いから怖いんだもん。四四八くんだって知ってるでしょ」 「じゃあ我堂は? 世良は?」 「りんちゃんはお部屋にいなかったし、みっちゃんは鍵かけてたから入れなかったの」 「なら栄光――は無いな、流石に」 「うん。鳴滝くんは無愛想だから無言で追い出されそうだし」 「そういうわけで、わたしをトイレに連れて行くのは四四八くんしかいないのだっ」 「のだ、じゃないだろ……」 だがもう、何か色々と疲れてきた。毎度のことだが、ほややんとしているこいつを見ると毒気が抜かれる。 「だいたい、おまえなあ……」 「うん? どうかした?」 口には出さず、心の中でしみじみ思う。夜遅く、男の寝室に恐れ気も無く入ってくるっていうのはどうなんだよ。 そりゃあ俺たちは今さら何もないような腐れ縁の幼なじみだが、それだけにこいつの将来が心配になってしまう。こんなノリを基準に考えて悪い男に引っ掛からなければいいが。 「……ちょっと、待ってろ。着替えるから、むこう向いててくれ」 「いいよ別に、早くしようよ漏れるからぁ~」 「女がみっともないこと言ってるな、馬鹿っ」 股間を押さえてぴょんぴょん跳ねてる歩美に枕をぶつけて無理矢理むこうを向かせると、与えられた部屋着を脱いで制服に着替えた。トイレまでは結構遠かった気がするので、そうしないと寒すぎる。 「待たせたな、行くぞ」 「ところで四四八くんの腹筋もなかなかいい仕事してるよね」 「おまえ見てたのかよ!」 誰かこのセクハラいチビを何とかしてくれ。 最近、切実にそう思うことが多くなってきた気がするよ。 「ふぉ~、はー、ほっとするわー」 「黙ってやれよ、頼むから……」 その後、無事トイレまで送ってやったからお役御免かと思ったのだが、帰り道で迷いそうだと言われたのでこんな風に待たされている。 何をやっているんだろうか、俺は。 「音聴かないでよ、えっち」 「くだらんことを言ってないで早く終わらせろ。こっちは寒いんだよ」 「ねえ、ところでこれって、現実だとおねしょになったらどうしようか」 「うるさい――て、くしゅんっ」 どうでもいい突っ込みに大声を出したらくしゃみも出た。館が広すぎるせいもあるんだろうが、予想通りだいぶ冷え込む。 奇しくも、こっちの日付けは現実と同じ十月とのことらしいが、それも今後はずれていくことだろう。流石にいきなり、一回の眠りで何ヶ月も夢を体験しようとまでは思わないが、まずは試しに一週間ほどこっちにいようということで、皆と話はまとまっている。 こちらにいる一般人らしき人々は、曰く本物であって本物でないそうだ。普遍無意識に漂う彼らの〈心〉《きおく》を投影したものであるとか、つまりよくできた録画みたいなものらしい。 だから極論、死んでも死ぬわけではないエキストラだが、それでも人形じゃない以上、神社の一件みたいなトラブルが頻繁に起きると面倒なのは事実だろう。こっちにいる間はこっちに馴染む必要がある。 そういうことで、戦真館では野枝さんのサポートを受けつつやっていかなければならないんだが、こんなことじゃあ少々先行き不安だな。 「……と、待てよ」 そこまで考え、奇妙な違和感が脳裏を過ぎった。しかし追おうとすればそれはすり抜けていくようで、微かな立ち眩みに頭を押さえる。 なんだこれは? いや、そもそも何かが…… 「お待たせー、てあれ、どうしたの四四八くん?」 「……別に、大丈夫だ。なんでもない」 だがその戸惑いは、用を足した歩美と再び顔をあわせた瞬間、嘘のように消えていった。俺は頭を振って意識をはっきりさせると、目の前できょとんとしているこいつと向かい合う。 もう、先の感覚は残滓すら感じられない。 「終わったなら戻るぞ。それでもうさっさと寝ろ」 「はーい」 そうして俺たちは来た道を戻り、再び宛がわれた部屋に帰って―― 「さて」 「寝るか」 「なんでおまえもついてくるんだよっ」 「いや、だってお約束かなと思ったし」 「いいからおまえはさっさと帰れ」 「あん、もう。分かったって。そんなムキになんないでよぉ」 のらりくらりとしてる歩美の背中を押して、半ば強引に部屋から追い出す。 まったく…… 「ほんと、昔っからマイペースな奴」 「あ、四四八くん」 「なんだよっ?」 再びドアを開けて顔をのぞかせるこいつに、脊髄反射で切り返せば―― 「あんまり色々先のことまで考えないで、その場その場を見ていこうよ」 「ね? だから明日に備えてしっかり眠る。わたしたちは大丈夫だって」 「…………」 「ああ、分かってる。悪いな、心配かけて」 どうやら、不安を読まれていたらしい。それもひとえに、歩美がいい意味で余裕をもっているからだろう。 そのへん、見かけによらず豪胆だよな、こいつって。 「なんなら子守唄いっちゃう? ぴったりの曲があるよ」 「ちゃんちゃんちゃんちゃん、ちゃんちゃんちゃんちゃん、じゃーん、じゃじゃーん、じゃじゃんじゃんじゃんじゃん、じゃーん、じゃじゃーん、じゃじゃんじゃんじゃんじゃん、じゃーん」 「おやすみ」 「リアルがぁ、ひび割れていくぅ! 目眩のなかぁ、何が見えたぁ! 君の奏でぇるウータは死へのイーンビテーイショーン!」 そのまま歩美はドアの向こうで、むしろ血沸き肉踊る系統の歌を丸ごと一曲、アカペラで歌っていた。 眠らせる気があるのかよ、この馬鹿は…… 「うるせえええええっ!」 「あんた何時だと思ってんのよ!」 「回りだすぅ! 終わりの見えない鈍い! 痛みとォ――」 「共にまァーくゥーがーあがーっていくー!」 「でぇんでんでぇんでんでんでん、でぇんでんでぇんでんでんでん、でぇんでんでぇんでんでんでん、でぇんでんでぇんでんでんでん」 「じゃーん!」 「――殺すぞ」 「水希も乗っかってんじゃねえよ!」 「…………」 知らない。知らない。俺のせいじゃ断じてない。 とにかく眠ろう。そうしないと真剣に不味いような気がしてきたよ、色々と。 そして翌朝―― 横浜の辰宮邸から再び馬車に乗った俺たちは、戦真館の前に降り立つ。 気分は正直、高揚していた。それはもちろん、これから今までとはまったく違う生活が始まるので――というのもあるんだが、むしろそこに伴う即物的なことのほうが強く影響を与えている。 すなわち、まさに一目瞭然。 「ふはははははは――さあどうだ四四八くん、目ん玉かっ開いてわたしの凛々しさに震えるがいい!」 「憎い。このあまりに決まったオレ自身の渋さが憎い。さながら混沌の地平に舞い降りた一輪の黒薔薇」 「おお、まあ、典型的な馬子にも衣装ってやつだわな」 「あんたは〈特攻服〉《とっぷく》背負ったレディースにしか見えないけどね」 「うるっせえんだよ、てめえこそインチキ臭い馬術部にしか見えねえっつーの」 「なんですってっ!」 つまり全員、こういうことで衣装替えをしたわけだ。この時代に相応しい、戦真館学園の制服に。 それでこいつら、朝からずっとこんな調子ではしゃぎ続けている。ガキ丸出しだ。 「でもほんと、みんな凄い似合ってるよ。柊くんもね」 「……まあ、要は軍服みたいなもんだしな。そういうやつは誰が着ても似合うように作られてるって聞いたことがあるし」 「だけど気に入ってるでしょ?」 「それは、確かに否定できない」 実際、この制服に袖を通した瞬間、何とも言いがたい興奮が湧き上がった。 これだ、これなんだよと、内からもう一人の自分が吼えるように。他の奴らもそこは同じなのかもしれない。 「おまえはどうだ、鳴滝?」 「ああ、嫌いじゃねえよ。学ランってのは黒だろうって、常々思ってたからな」 「へー、そうなんだ。だから鳴滝くんって、いつも〈千信館〉《トラスト》の学ラン着てなかったんだね」 「じゃあなんでそもそも入学したんだって話だな」 「ほっとけよ。だいたいなんだ、そのトラストっていうのは」 「うん? だって千信館と戦真館、音が同じだから混乱するじゃない。なので便宜上分けてみました。〈信頼〉《トラスト》と〈真実〉《トゥルース》」 「……いや、おう、そりゃ別にいいけどよ」 「そっちでも何か似た感じになっちゃってるわね」 「とにかく」 いつものことだが、埒が明かないので半ば強引に場を締めた。 「そういうことはもういいだろ。遊びに来たわけじゃないんだから、気持ち切り替えろよ」 「そうだね。野枝さん、お願いします」 「はい。それでは皆さん、参りましょう」 そうして、俺たちは開かれた戦真館の門を潜った。 その先に待つだろう諸々を覚悟して、だけど悲壮なものじゃなく、強く明るい気持ちを胸に、帰るべき未来を想って。 だけど―― 「ようこそ、よく来たなクソガキども。私がこれから、てめえらヒヨッコを鷹に変えてやる教官様だ」 「芦角〈花恵〉《かえ》という――どいつもこいつも生っちろい顔しやがって、血の小便絞り尽くしてやっから覚悟しろよな!」 「はっ?」 「なんで?」 「嘘……でしょ?」 続くこの展開があまりにも衝撃的すぎて、一気に色んなものが吹っ飛んだ。 アシズミ、カエさん? 「うおおおい、もしかしてハナちゃんのご先祖様かよおおォ!」 「ああん、てめえコラァ! 誰がハナちゃんだ、馴れ馴れしいんだよブッ殺すぞォ!」 「あっ、痛い――ちょ、やめ、マジ痛いから! 勘弁、助けてェー!」 「やばい、ほんとに殺されちゃうって――柊くん!」 「お、おう、分かった!」 などと、その制裁は確かに洒落になっておらず、現代っ子の俺たちから見ればドン引き具合も凄まじく。 「まあ、これくらいはいつものことです」 「マジでっ?」 「うわ、もう帰りてえ……」 「淳士、ちょっと、あんたも止めに行きなさい!」 「すげえ嫌だわ……」 初日から、いきなりこんな風に血を見る感じで、俺たちの〈真実〉《トゥルース》ってやつが始まったんだ。  あれからわたしは、夢日記というものをつけることにした。  最初は一週間、その次は二週間、そして一ヶ月、二ヶ月と……一回の眠りで夢にいる時間はだんだんと増えていき、今では合計で半年を越えるくらいの間、邯鄲を経験していると思う。 「おらァ、てめえらぶったるんでじゃねえぞォ! 走れ走れ走れェ!」  その間、敵襲みたいなものはまったくなかった。こっちのハナちゃん先生は四四八くんも青くなるくらいのスパルタで、死ぬかと思うことは何度もあったけど、とにかく恵理子さんのときみたいなことは一度も起こらなかったのだ。 「そんな様じゃあ、ここから一歩でも出た瞬間におっ死ぬぞォ!」  なぜなら戦真館の敷地内は、百合香さんの創界(環境クリエイトの正式名称らしい)が効いているので、外部からの侵入はそうそう出来ないようになっている。  だからそのぶんわたしたちも、自分の意思でここから出ることができない決まりだ。現実に帰りたいときは、のっちゃん(野枝ちゃんをそう呼ぶことにした)に言伝を頼んで、百合香さんの創界を一時解いてもらう必要がある。  わたしたちがこっちに滞在する時間を段々と延ばしているのは、そういうことが原因だった。頻繁に百合香さんの手を煩わすのは気が引けるし、何より保護されている立場というのが恥ずかしくて、嫌だったから、少しでも早く強くなりたい。  それに、こっちでの日々は必ずしも厳しいことばかりじゃなかったし。  戦真館での寮生活。女子寮なんてものはなかったからトイレもお風呂も男の子たちと共同だし、当たり前だけどテレビもネットもないから色々不自由はあるけれど、それでもみんなと一緒に生活するのはとても楽しい。長い合宿をしている気分だ。  同じ釜の飯を食うとか、昔からの言葉にはやっぱりちゃんとした意味がある。四四八くんや栄光くん、そしてあっちゃんのことなら以前から何でも知ってるとわたしは思っていたけれど、こうなってみて初めて知る一面というものがたくさん出てきた。  たとえばあっちゃんは、お風呂で必ず脚から洗う癖があるとか。栄光くんはとても歯磨きに時間をかけるとか。四四八くんは未だに髭剃りをほとんど必要としていないとか。  ほんとに九時ごろで眠っちゃうりんちゃん。凄い大喰らいのみっちゃん。しょっちゅう筋トレしてる鳴滝くん……そしてのっちゃんは、あれで結構肉食系だったからびっくりした。  ある夜、わたしたち女子だけで恋バナ的なものをしていたとき、幽雫さんも含めた身近な男子四人の中で誰が一番いいかという話になったんだけど、そのときのっちゃんは実にさらりと言ったのだ。もちろん全員欲しいですって。  ちょっと、それはどうだろう。こういうところは真面目なあっちゃんなんて絶句してたし、りんちゃんも「へー、やるじゃない」とか言ってたわりには顔が引きつっていた。なぜか妙に感心しながら目を輝かせてたみっちゃんにいたっては、将来が心配になってしまう。年上なんだからしっかりしてほしい。  わたしは、まあその、正直言ってまだそういうのがよく分からない。セクハラーとか四四八くんたちに何回か言われたけど、あれ冗談だから。本気でやってると思わないでほしいのだ。  別に誰が好きとか、そういう面倒そうなことをしなくたって、わたしたちは今の関係が充分いい感じだと思うんだけど、みんなはそのへん違うのかな?  あっちゃんやりんちゃんあたりは、たぶん自覚してないんだろうけど、そういうところが分かりやすくなってきたように思う。だから少し、わたしは焦り始めているのかもしれない。  なんとなく嫌だなーって思う気持ち。このままじゃあ近いうち、今の関係が崩れてしまうように感じる不安。その中でわたしは置いてけぼりをくっちゃいそうな……上手く言えないけど、そわそわするんだ。  これでみっちゃんもそういう方向に動き出したら、いったいどうなっちゃうんだろう。わたしも何かしら変わらなければいけなくなるんだろうか。  なんて、そんなことを悩んでいるわたしはたぶんずれていると思う。そういう状況じゃないことくらい分かってるから、これは誰にも話せない。四四八くんに相談したら、きっとお説教をされるはずだ。  でもそのときは、いやだいぶキミのせいだよと言い返してやりたいんだけど、それは言っちゃ駄目なんだよね。だから日記の中だけで愚痴ることにする。  おいこら四四八、おまえあっちゃんとりんちゃんにロックオンされかけてるぞ。気づけ――いやでも、気づくな。みたいな?  ……あれ、なんだかちょっとよく分からなくなってきたぞ。わたしは何が言いたいんだろう?  ああ、もういいや面倒くさい。とにかくそんな感じでわたしたちは、邯鄲の半年を過ごしたのだ。今じゃあ結構、みんな逞しくなったんだぜ。  現実じゃあ、ほんの五日しか経っていないわけだけど。  ここはちょっと、今でも感覚が混乱しがち。  だからそのぶん、夢と現実をきっぱり分けようという暗黙の了解が出来ていた。具体的に言うと、起きてるときは邯鄲の話を一切しない。  〈千信館〉《トラスト》の学生であるときは、その立場を目一杯楽しもう。〈戦真館〉《トゥルース》でいるときのほうが今じゃ圧倒的に長いんだから、合間合間の短い日常を一瞬でも逃さないように。  これが自分たちの守るべき未来なんだと、強く実感するために。  修学旅行を明後日に控えた今、そのことを自分自身に言い聞かせつつ、わたしは朝に帰ったのだ。 チャイムの音と共に、本日の授業は滞りなく終わりを迎えた。これで実質、一日の半分以上は過ぎてしまったことになる。 そう考えると早い。とてつもなく短いと思う。貴重な千信館での時間を深く噛み締めていたかったのだが、楽しい時はあっという間に過ぎ去るという腹の立つ現象が、まったく容赦をしてくれない。 でもたぶんクラスメートの大半は、逆にとても長く感じていたんじゃないかと思う。なぜなら修学旅行が目前だから、つまらない授業なんか早く終われと思っていたに違いなかった。 ゆえにそうなると、彼らの中では時間感覚が長くなる。まったく羨ましい話だな、分けてくれよと思っちゃいるが―― 「おーい柊ー、ちょっといいかー?」 「はい、なんでありますか――、……いや、なんでしょう、芦角先生」 反射的に立ち上がり、直立不動で敬礼までしかけたが、その寸前でなんとか抑えた。そんな俺を見て晶たちは苦笑していたが、仕方ないだろ。戦真館の半年で叩き込まれた習慣というものがある。 加え、ただでさえ相手が相手だ。カエとハナエの違いはあっても、外見上まったく同一人物にしか見えないし。遺伝子濃すぎなんだよ、芦角の家系は。 「おう、ちょっとしたお願いがあってさー。悪いんだけど聞いてくんない?」 そんな俺の心情を当然ながら欠片も知らない先生は、〈花恵〉《かえ》教官殿と似ても似つかぬ緩い調子で言ってきた。 「実は私、旅行の撮影班やっててさー。機材取りに行かなきゃいけないんだけど、忘れちゃってたんだよねー」 「だもんで、おまえ代わりに行ってくれよ。〈小町〉《こまち》んとこのカメラ屋だから、家も近いし場所分かるだろ」 「カメラ……ですか?」 ここで普段なら、なぜ俺なんですかと抗議の一つもするところだが、今は別にいいかという気分だった。木刀でぶっ叩かれながら営庭を走り回っていた日々に比べれば、修学旅行関係の他愛ないお使いも悪くない。 「いいですよ。でも撮影の機材となると、さすがに一人じゃきついですね」 「ん。だから誰か、もう一人連れてけよ。人選は任せるから」 「それなら四四八、あたしが付き合うよ。あそこのおっちゃんとは顔見知りだしさ」 「馬鹿ね、あんたみたいなのにカメラ持たせたらどうなるか知れたもんじゃないでしょ。柊、しょうがないから私が付き合ってあげるわ。感謝しなさい」 「またこの二人はほんとにもう……」 「まあその、どうする柊くん? 私は別に構わないけど」 なんて言われても、俺としてはカメラ機材のような重い物を運ぶなら男と行きたかったわけなんだが。 「あ、悪ぃ四四八。オレはこれから、鳴滝と用があっから」 「なに、そうなのか?」 「大杉が俺のバイクを見てえんだとよ。そんなわけで、こっちもパスだ」 「そうなんだよ。鳴滝のバイク、ハーレーだっていうじゃんか。くぅ~、渋いよなあ。やっぱ車輪ついてるもんは全部男のロマンだぜ。オレもいつか絶対乗っちゃる」 「ばーか、おまえのガタイじゃ振り回されっぞ。やめとけやめとけ」 と、こっちはこっちで盛り上がっている。以前は鳴滝をあからさまに怖がっていた栄光だが、今ではすっかりこの通りなわけで、それは喜ばしい変化だから水を差すわけにもいかないだろう。 「いいから早く決めろよ柊ー。言っとくけど女何人も連れてくようなハーレム展開、私は絶対許さんからな」 「……いや、でも待てよ。だからって二人きりっつーのはもっといかんのじゃないだろうか」 どうやら、うだうだやってると面倒なことになりそうだ。さっさと決めよう。 さて、誰に付き合ってもらうか。 「晶、来い。一緒に行こう」 「よっしゃ、じゃあまたなおまえら」 夢でも現実でも、一番体力のある女は晶なのだから迷うまでもない。これがもっとも自然なチームというものだろう。 そういうわけで晶を連れ、俺はお使いに出ることにした。 「でさあ、昼休みにあたしら偶然見ちゃったんだけど、北棟んとこの渡り廊下あるじゃん? あそこで長瀬の奴が告白とかしてやんの。相手はちょっと名前分かんねえけど、同じ二年の子」 「それで結果なんだけど、なんか上手くいっちゃったみたいでさ。あたしびっくりしちゃったよ。長瀬のガッツポーズとか初めて見たし」 カメラ屋へ向かう道中、商店街を歩きながら晶はそんなことを話していた。 「そうか。それはおめでとうだな」 「ほんとだよ。しかしあの長瀬がねえ」 ちなみに、長瀬くんというのは隣のクラスに在籍する二年生で、直接的な関わりは無いものの、俺たちにとってはある種お馴染みの人物だった。 学業成績不動の二位と言えば分かるだろうか。つまり基本、俺のすぐ後ろにぴたりとつけている男で、我堂のように突っかかってきたことは一度も無いが、不思議な存在感を持っている。 端的に言えば、二次元オタク。勉強以外にもそれ系の知識と人脈が凄まじいらしく、堂々とクラスでアニメ雑誌などを読んでいるそうだが、周囲への対応が実にクールで紳士的なため、女子からの評判は特に悪くもない。 むしろ二次元専門という認識に加え、小柄な体格も効いているせいか、曰く安心とかで女友達のほうが多いくらいだ。栄光のような男には永遠に与えられないだろう、草食王子という称号すら持っている。 もっとも俺に言わせると、長瀬が食っていたのは草じゃなく、デジタルの肉だろうって話なんだが。 とにかくそんな彼が生身の女子に恋をして、告白し、勝利と共にガッツポーズをするというのは確かにたいした事件だろう。 「草食王子も年貢の納めどきか」 「これも修学旅行の魔力なんかねえ。でもそうなると、心配だわな。花恵さん、あれマジで旅行中にイチャこいてる奴取り締まる気だぜ」 「確か目に余る奴は強制送還するって言ってたな」 「問題はその基準があの人のサジ加減ってことなんだけど」 「そこはだいたい想像もつくだろう」 おそらく消灯後の密会とか、その辺りだと推察できる。そしてそれは、修学旅行中のカップルにとって神聖な定番行事なのだろうから、危険を顧みず成就させようと燃え上がるロミオとジュリエットが後を絶たない。 現状、他人事に過ぎない身としては、彼らの武運を祈ることしかできないが、これはこれで情けなくなる話だな。 「俺にゃ関係ないって顔してるな四四八」 「ああ。威張れることじゃないんだろうが、事実そうなんだからしょうがないだろう。おまえだって」 「そりゃなあ。だってあたしら、もう半年も一つ屋根の下でやってたわけだし。今さらなあ」 「でも、〈現実〉《こっち》で周りの奴ら見てるとさ。同じように浮かれたくもなってくるよ。……いや、もう浮かれてんのかもしんない、あたし」 「やっぱこう、これは別腹、みたいな? 分かるだろ?」 「まあ、な」 家を離れて友人たちと寝食を共にする。そこだけ見れば、確かに戦真館でもう半年も経験していることなのだから、特に目新しいものじゃない。 だが、それはそれというやつだ。 「こっちは純粋に遊びだからな。身の危険もないし、気分も変わるさ」 少なくとも起きてる限りは。 「ごく普通の楽しい思い出を築けそうだし、期待もするよな。当たり前だろ」 「そうそう。京都ってのがベタだけど、あたし行ったことないし、四四八もそうだろ?」 「隣の〈鎌女〉《かまじょ》はグアム行くらしいけど、あたしは国内でよかったと思ってるよ。なんかこう、愛国心? てほどでもないんだけど、最近は自分が日本人だっていうのを意識するようになったっていうか……」 「気持ちは分かる。俺もだよ」 「だろっ」 にっと笑って喜ぶ晶。実際、俺たちの視野は以前と比べて少し違ったものになってきていた。 別に戦真館で軍国主義を叩き込まれて洗脳されたというわけじゃないが、現在と過去、そして未来を意識せざるを得ない状況だから、そこに存在する心のリレー、受け継いでいく流れというものを考えずにはいられない。 昔の人は何を思い、何を次の世代に託そうとしていたのか。それを受け取った俺たちはどう消化し、どう次に渡さなければいけないのか。 端的に纏めれば気風、文化と言っていいかもしれない。そして無論、そういうものは国ごとの歴史背景や民族性が深く絡んでくるわけだから、否応無く日本人である自分というやつを考えるわけで。 「いきなり世界がどうだのという規模で捉えられるほど、俺たちは世間を知ってるわけじゃないからな」 「いや、それを言うなら国の単位だって全然だし」 もっと小さな、友人、家族という括りの中でも分からないことだらけだ。 そして、だからこそ以前よりもそこを考えるようになっている。母さんの件があるから、なおさらに。 平たく言うと、俺たちは少し大人になろうとしているのだろう。自分の生活を構成している周りの人たちから何を受け取り、何を返せるかということをちゃんと考えるようになってきた。そういうことだ。 「おう、晶ちゃん、四四八くんとデートかい? 羨ましいねえ」 「ばっ、ちょ――何言ってんだよ、そんなんじゃねえってば」 「晶ちゃーん、これ持ってきなさいよ。お店に飾ったらどう?」 「あ、ども。じゃあ、遠慮なくいただきまーす」 そんなことを俺が考えている間に、晶は四方から顔馴染みの人たちに声をかけられていた。そこは同じ商店街仲間、剛蔵さんの人柄もあってこういう光景は昔から日常茶飯事だ。 「いや、でも、こりゃやばいかな。いつもの調子で貰ってると機材運べなくなっちゃうかも」 「そのときは一旦おまえの家に寄ればいいだろ。せっかくなんだ、気にするなよ」 「悪ぃ、けど、今日はまたいつにも増して激しいっつか」 「晶ちゃーん」 「あー、はいはい。何よ、なになにー?」 すでに両手が塞がりかけている晶だったが、それでも嬉しそうに呼ばれた方へ駆けていった。 自分を構成する周りとの付き合い方……そういう面では、俺よりよっぽどこいつのほうが、ずっと前から真摯に向き合っていたのかもしれないな。 そんなことを今さらながら、俺は感慨深く思っていた。 「まったくもう、あの土産屋のおっさんも無駄に気合い入りすぎっていうか、嬉しいんだけどこっちも責任持てねえっていうか」 「何を貰った?」 戻ってきた晶は、一見して荷物が増えている感じじゃなかったので訊いたのだが、こいつは笑って首を振る。 「いや別に、たいしたことじゃないからスルーしてくれ。それよりさっさとお使いの目的を果たそうぜ。もたもたしてると、あたし雪だるまみたいになっちゃうよ」 「ならそうするが、しかしこの辺の店はほんとに昔から繋がり濃いよな」 「んー、そうかな。何処だって似たようなもんだろうとあたしは思うけど」 「ま、これからもずっと付き合ってくわけだしな。そこはお互い、持ちつ持たれつってやつだよ」 からっと断言する晶に迷いは見えない。つまりこいつは、将来もこの地域に根ざしながら生きていくと決めているんだろう。 「確か四四八は、警察になりたいんだったよな?」 「そうも思ってたけど、色々考えて検事に決めたよ」 こっちの考えていることを察したらしく、晶がそういう話題を振ってきたので俺も答えた。 そう、俺の将来は法の番人。そんな存在になると決めている。 「検事かあ……似合うだろうけど、怖そうだよなあ。おまえのそういう姿想像すると」 「こう、容赦なく悪モン叩き潰してそうな感じ? 弁護士よりは確かにそっちが向いてると思うよ」 「何か引っ掛かる言いかただが、否定はしない。俺もそう思う」 「善良な一般市民を守るためにも、失敗が許される仕事じゃないから高いハードル越えなきゃならんし、精進するよ」 「じゃあやっぱり、まずは最高学府狙いってことか?」 「当然な。だから俺は卒業したら上京する」 「と言っても、〈鎌倉〉《ここ》からならそんなに離れてるわけでもないが、それでも頻繁に帰ってくるのは無理だろうな」 言うまでもなく司法試験は難関だ。相応の自信はあるが、手抜きが出来るわけでもないし抜いてはいけない。俺がそう言うと晶は笑った。 「大丈夫、おまえなら受かるって。まあ、たまにでいいから、勉強に疲れたら帰ってこいよ。蕎麦おごっちゃるから」 「そうしてくれるとありがたい」 帰るべき故郷がずっと変わらずあるというのはいいものだ。歩美や栄光、他の奴らが将来どんな道に進むのかは知らないが、この先十年二十年経っても今まで通り、集まるときは晶の家だったら幸せだと思う。 そんな光景を思い浮かべて、だからこそ、少し気になったわけなんだが…… 「なあ晶、おまえはあの店に残るつもりなんだよな?」 「ああ。そうだけど、それが?」 「いや……」 きそば真奈瀬がずっと続いていくためには後継者が要るわけで、すなわち真奈瀬家も続かなくてはならないわけで。 「おまえ、婿養子とか貰う気あるのか?」 「へっ?」 至極当然の疑問を投げたんだが、晶は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。 そして次には、弾けたように笑いだす。 「あっはっはっは、なーに言っちゃってんだよ馬鹿だなあ。あんな店継いでくれる物好きいるわけねーじゃんよ。しかもおまえ、漏れなくついてくるのあたしだぜ?」 「そんなん、あたしが男だったらマジごめんだわ。頼まれても即逃げるって」 「しかし、それじゃあ……」 「うん、だからあたしが二代目継ぐ。婿養子なんかいらねーよ」 清々と言い切る晶は、だが次には自嘲するような調子で続けた。 「て言っても、決めたの最近なんだよね。手伝い程度ならガキの頃からしてたけど、修行は全然だったわけだし」 「うちのハゲはそんなのまったく言わないからさ。どうせおまえは好きに生きろとか、無言の親父風吹かせたいんだろうけど、いちいち決まんないタイプじゃん? 本音は伝わってくるわけよ」 「継いでほしいって?」 「そう。だから卒業したら修行に入るわ。当てになんない婿志望が現れるのを待ってるよりは、そっちのほうが堅実だろ?」 「あんなごつい山賊みたいなハゲが打ってる蕎麦よりは、あたしがやったほうが流行りそうな気が正直しない?」 「腕が追いつけば、そうかもな」 あと、こいつの妙なそばもん趣味が前面にさえ出なければ。 「ということで、きそば真奈瀬は少なくとも二代目までなら安泰なわけ。そこから先は分かんねえけど」 「ははっ、なあ四四八、こんなところで朝から晩まで蕎麦打ってるような女がさ、結婚とかできっかな?」 「なあ、やっぱり?」 下手な気休めは言えそうになかったので、俺は思ったままを口にした。 「だいたい、蕎麦打ってるから出会いがどうとかいう以前に、おまえはそっち系のスキルが無いからな。まずはそこからどうにかしろよ」 「うるせえなあ。そんなの言われなくても分かってるっての。それにそういうのはおまえだって同じじゃんかよ」 まったく否定できないが、いま俺のことはどうでもいいと思う。 とはいえ、さっきまで世代間のリレーがどうのと考えていたことを顧みると、少々情けなくなってきたのは事実だった。 「なんかさ、ちょっと壮大な話になるけど、今のあたしらが生まれるまで、原始時代から何千っていう連綿としたバトンタッチが続いてきたわけじゃん?」 「それがこう、自分の代で終わるかもしんないって風に考えると、凄い罪を犯してるよーな気になんない?」 「……確かに」 「未来がどうだの、天下を論じる資格なんてそもそも独りもんにゃあねーよみたいな」 「まずはてめえの頭の蝿を追ってろよみたいな」 「もうすぐ修学旅行なのになあ……」 「…………」 言うなよ。釣られて俺まで陰惨な気分になってきただろうが、いったいどうしてくれるんだ。 「晶、〈現実〉《こっち》にいる間は景気の悪いことを言わないって決まりだろう。この話は止めだ止め」 「うん、分かった……」 などと頷きながらも、相変わらずどよんとしているこいつを前に、俺もいい加減この空気が耐えられそうになかったから―― 「分かった。じゃあこうしよう。本当にどうしようもなかったときは、俺がおまえを貰ってやる」 「へあっ?」 つい、そう言ってしまった瞬間、晶は頓狂な声をあげつつバネ仕掛けのように顔をあげた。 「へ? へ? なに四四八、いまなんてった?」 「だから、その……ああもう、何度も言わせるなっ」 「俺が貰ってやるって言ってるんだよ。ただし、ほんとにどうしようもなかったときだけの話だからな」 「三十――いや三十五、四十……はないな流石に。とにかくそれくらいの歳のとき、お互い相手がいなかったら結婚しよう。おまえが嫌じゃなければだが」 「あ、うん……その、はい……」 「あたしは、まあ、そりゃ……いやじゃない、です……けど」 「はっきり喋れよ!」 「申し訳ありません、光栄であります!」 踵を打ち合わせて叫ぶように言った晶に、むしろ俺のほうが気圧されかけた。そんな力強く言われると、なんだその、びびるだろ。 たぶん反射的に戦真館の軍隊調で答えてしまったこいつは、慌てて姿勢を普通に戻すと、顔を真っ赤にしながら探るように言ってきた。 「……なあ、それで、四四八は嫌じゃないのか?」 「……嫌だったらそもそもこんなことは言わないだろ」 「とは思うが、たぶん……」 「はっきり喋れよ!」 「申し訳ありません、望むところであります!」 もはや俺もヤケクソ半分、投げるように敬礼しながら叫び返した。 いったい何事かと周りの人たちがこっちを見てるが、そんなものより今は晶一人の目のほうが怖い。 洒落じゃすまないぞと言っているような、他にも色々入り混じった目で俺の顔を睨みつつ…… しかし次の瞬間、ふっとそれは優しく緩んだ。 「うん、分かったよ。覚えとく」 「三十歳? 三十五歳? まあとにかくそれくらいのときなんだね。こういう約束も考えようによっちゃ面白いかもしんないや」 「だってそんとき独りだったら、ほんとにおまえと結婚しなきゃいけないもんな。それまでにちゃんと相手探そうって気もわいてくるよ」 「オーケー、忘れないからな。頑張ってこうぜ」 「……おう」 口調は普段どおりだが、上機嫌に見えなくもない晶の後に続きながら、だいぶ大胆なことを言ったかなと思っていた。 けど、別に失言だったとは思っていない。 何せ〈現実〉《こっち》でのモットーは〈信頼〉《トラスト》だ。相手はもちろん、自分を騙すようなことはしない。 「ほら、早く花恵さんのお使い済ませちゃおうぜ」 「分かったよ」 ただ、そうなると一つだけ。 夢のほうを〈真実〉《トゥルース》と呼んでいる現状は、まったく皮肉と言うしかなかった。 「え、マジで?」 「ああ、大学で知り合った奴らを連れて来てやるよ。その中から物色しろ」 「自分で言うのもなんだが、将来有望な連中の率はきっと高いし、俺もおまえを妙な男に引き合わせたりはしないから安心しろ」 「お、おう……その、まあ、サンキュ」 「なんだ? 何か気に食わないか?」 「い、いや別に、そんなことはないって、うん」 と言いながらも、晶は心なしか困ったような、気落ちしてる感じだった。 それは自信がないということだろうか。そこまで悲観的にならなくても、こいつはこれでいい女だから大丈夫だと思うんだけどな。 どうにも妙な感じになった雰囲気を払拭するため、俺は話題を変えることにした。 「でもなんだかんだで、おまえもしっかり考えてたんだな。決めたのは最近だって言ってたけど、きっかけは何だったんだ?」 「は? そりゃあおまえ、そんなの、決まってるじゃん」 「……?」 しかし晶は、どういうわけかさらに大人しくなっていく。そしてそのまま、ぽつりと言った。 「恵理子さんのことがあったからだよ」 「あたしは親父と恵理子さんがくっつけばいいと思ってたし、それであたしらに弟でもできたらさ、そいつに継いでほしかったわけで……」 「つってもそれは、自分が丸投げしたかったって意味じゃなくて……なんていうか、あの二人の家庭が見たかったんだよ。うちの店がそういうのになればいいなって、夢だったから」 「でも、それはもう無理になっちゃったし……」 「…………」 「だったら、せめて店は潰したくないじゃんか。恵理子さんがずっと働いてた〈店〉《とこ》なんだぜ」 「だから――」 「晶」 呼ぶと、こいつはびくりと震えて、それから見る間に慌てだした。 「あ、あ、その、すまん。なんかあたし、勝手なことべらべら言って。おまえの気持ちとか、いや、マジ悪い!」 「気にするな。そういうことを言ってるんじゃない」 晶の肩に手を置いて、ゆっくり首を横に振った。なぜならこいつの夢ってやつは、俺も考えていたことなのだから。 そう、まったく、謝られるような話じゃ全然ない。 「むしろ俺は嬉しいよ。おまえが今も、母さんのことをそんなに思ってくれてることが」 「だからほら、情けない顔するな」 言って、俺は晶の額を指で弾いた。 「痛っ――ちょ、なにすんだよ」 「今のは約束破った罰だ。〈現実〉《こっち》にいる間は景気の悪いことを言わないって決まりだろう」 「あっ……」 正しくは暗黙の了解だが、だからこそ守るべきノリだと俺は思っている。 「そういうわけで、ほら笑え。これは指揮官命令だ」 「命令っておまえ……」 呟き、晶は困惑気味に、だが拗ねた様子で俺を見上げる。 「……普通こういうときは、気の利いたギャグとか言うのが出来る男ってやつじゃねえの?」 「おまえ、俺にそういうセンスを期待してるのか?」 「してない」 そこまで言って、互いに顔を見合わせた俺たちは笑いだした。 そう、ここにいる限り暗いのは要らない。変な話だが、この現実でこそ夢を大事にしたいんだよ。 「あーもう、分かった分かった。はいはい仰せに従いますよ、隊長殿」 「真奈瀬晶は、〈現実〉《トラスト》にいる限り以後一切ネガらないと誓うでありますっ」 「よろしい。では初期の方針通り、教官殿から賜った任務を果たすべく邁進する。行くぞ」 「了解」 そうして俺たちは、久しぶりになる〈現実〉《トラスト》の一日を終えたのだった。 日が暮れ、夜になれば戦真館での日々が始まる。 夢のほうを〈真実〉《トゥルース》と呼んでいる現状は、そう考えるとまったく皮肉と言うしかなかった。 「歩美、来い。一緒に行こう」 「へ、わたし? なんで、いいの?」 なにやらびっくりしているが、正味なところ女の体力なんて誰を選ぼうがさほど変わらん。 確かにこいつはその中でもだいぶあれだが、なんとなく元気がなさそうに見えたので気になったのだ。つまりお使いの相棒と言うよりも、悩みがあるなら聞いてやろうという考えで歩美を選んだ。 「来るのか? 来ないのか?」 「い、や……分かった。行くよ」 そういうわけで歩美を連れ、俺はお使いに出ることにした。 「ねえ四四八くん、ほんとに大丈夫なの?」 「まあなんとか。見かけよりは平気だよ」 その後、受け取った機材を持って千信館に戻る道中、何度目になるか分からない歩美の問いに笑って答えた。 かさばる物が多いから持ちにくいのは確かだが、重さだけで言えば音をあげるというほどでもない。 「でもさあ、なんかこれでいいのかなって思っちゃうし……」 だが、ごてごて担いでる俺に比べ手ぶら同然の歩美はバツが悪いらしく、所在なさげにしていたのでそっちのフォローをすることにした。 「分かった。じゃあジュースおごってくれよ。それで少し休憩しよう」 「あ、うん――ちょっと待っててっ」 言うと、歩美はぱっと笑って身を翻し、近くの自販機まで走っていく。戻ってくるのを待つ間、俺は機材を降ろして防波堤にもたれつつ、サーファーの人たちを眺めながらさてどうしたものかと考えていた。 やはり歩美は、少しばかり元気がない。いつもは自分だけ楽して悪いとか殊勝なことは考えず、ころころ笑ってるような奴なのに。 体調が悪いという風には見えないが、ほんとにどうしたというんだろう。 なんというか、遠慮している? まるでこの状況そのものに困っているとでもいうような。 理由は分からんが、俺と一緒にいるのが居心地悪いのか? だとしたらショックだな。嫌われるようなことをした覚えはないのだけど…… 「はい、お待たせ四四八くん」 加え、持ってきたのはなぜかコーンポタージュだし。俺、ジュースって言ったよな? 嫌がらせか? 「……おう、ありがとう」 色々考えたがやはり見当もつかないので、ともかくコーンポタージュを飲みながら正攻法でいくことにした。 「なあ歩美、おまえ何か俺に言いたいことがあるんじゃないのか」 「へあ? な、なんで?」 「なんでも何も、あからさまにおかしいし」 「わ、わたしはいつもおかしいでしょ」 「それはまったくその通りだが、自分で言ってるのがそもそも変だ」 普段は良くも悪くもマイペースなこいつが、ぎくしゃくしてるというのは軽く異常事態入ってる。 「心当たりはないけど、俺が何かしたのならはっきり言えよ。それが分からないと謝ることも出来ないだろ」 「いったい何を遠慮してるんだ。俺らはそういう仲じゃないはずだぞ」 言うと、歩美は一瞬詰まって、それからなんとも言えないジト目で俺を睨んできた。 いや、そんな恨みがましい殺気飛ばされても困るんだけど、ほんとにどうしろっていうんだこいつは。 「じゃあ四四八くん、わたしを誘ったのってそういう理由なの?」 「ああ。何か元気なさそうだったし、悩みがあるなら聞こうかと思ってな」 と言い切る前に、盛大な溜息が被さってきた。 「はあああ~~~」 「おい、なんだよその反応は」 「いいよ別に。なんでもないの。四四八くんって実は結構馬鹿だよね」 「なに、ちょっと待て。聞き捨てならんぞそれは」 「だいたいさあ」 俺の言葉をさえぎるようにそう言って、だけど顔を背けながら歩美は続けた。 「そういう仲って、どういう仲なの」 「四四八くん、ずっと誰も変わらないって思ってるの?」 「え……?」 なんだそれは? ちょっと、かなり予想の埒外にあることを言われたので、俺はぽかんとしてしまった。 「ほら分かってない。だから馬鹿なの、四四八くんは」 「まあ、いいんだけどね。わたしも人のこと言えないし、今のままで何が悪いんだって思ってるし」 「ていうかそもそも、単なる考えすぎかもしんないし。確証ないから」 「ごめん、忘れて。なんかわたし、面倒くさいこと言っちゃったよ。キャラじゃないよね、びっくりしたでしょ」 「…………」 苦笑して謝る歩美に、俺は何と返すべきが即座に言葉が出てこなかった。 しかし、頭の中まで完全に止まっていたわけじゃない。全力で回転、とは言えないまでも、こいつの言わんとすることがまったく分からないほどボケてはいないつもりだ。 なので、言葉が出てこない代わりとして、行動に移した。もたれていた防波堤から背を起こし、歩美の頭の上に軽く手を置く。 「え、ちょ、なに?」 「いや、その、うん……」 こいつは背が低いから、位置的にとても撫でやすいところに頭がある。指の間を流れるやたら柔らかい髪の感触が妙な気分で、少し恥ずかしくなってきたが気にしないでいこう。 ここで俺まで狼狽えたら、ちょっとみっともない話だろうと思ったから。 「心配するなよ」 「たとえ何かが変わっても、それはきっと悪い変化じゃないと思う」 「四四八くん……」 こいつ本当に分かってるのか? 俺を見上げる歩美の目は、驚きの中にもそういう疑問をあからさまに覗かせていたので、わざと顔をしかめてみせた。 心外だな、みくびるなよと言うように、ぶっきらぼうな調子で続ける。 「言っとくが、俺は馬鹿じゃないぞ」 「鈍いのはその通りかもしれないが、問題出されて解けないなんてことはない」 「まして、おまえが考えてる程度のことならなおさらだ」 「むっ」 すると今度は、こいつが心外だという顔をする。 「じゃあ四四八くん、ほんとにちゃんと分かってるんだね?」 「ああ。といっても、意識したのはたった今だが」 「なら、どうしていく気?」 「知らん。なるようになるだろ」 「だいたいこんなの、戦略立ててどうのこうのってほうがおかしいだろ」 ともすれば無責任な言い草だが、本音なのだから仕方ない。 それでも今、言えることがあるとすればたった一つだけだろう。ようやく編めたその言葉を口にする。 「歩美は友達思いだな」 「おまえがそういうのを気にしてるっていうのは覚えとくよ」 「え、わ――ちょっとガシガシしないで、ハゲる、ハゲるー!」 そこまで強くしているつもりはないが、多少乱暴に頭を撫でてから手を離した。 頬を膨らませながら髪を直している歩美を見るに、やっぱりこいつもれっきとした女子だということだろう。俺や栄光、鳴滝のような男どもとは違う。 女の子らしい不安や気の回しかたってやつを不意に見せられて驚いたのは確かだが、それを面倒くさいとは思わない。 むしろ、まあ、なんだ。可愛いだろう、そういうところは。 「〈千信館〉《トラスト》にいる間は、精一杯学生らしく楽しむ。そういう方針だっただろう」 「だからおまえも楽しめよ。いかにも学生らしい悩みなんだから、悲観してちゃもったいない」 俺だってそういうのに興味がないわけでは全然ないし、こんなときにNG扱いされる男の態度というやつもマンガの知識程度でなら知っていたから、ちゃんと言葉にしようと思う。 そういえば母さんもそんなことを言っていたし、これはそこまでの案件じゃあまだないんだが、似た系統なのは確かなはずだ。女の相手をするときは、何事もはっきり口にして伝えねばならない。 俺がこいつの言ってることを誤解していないと理解させるためにも、それは必要なことだと考える。 「もしもこの先、俺たちの間でカップルができたとしても、それで何かが壊れるなんてことはない」 「最悪、三角だの四角だのになったとしてもだ。おまえ、あいつらを信じてないのか?」 「それは、別に……そんなことないけど」 「じゃあ大丈夫だろ。だから楽しめ」 仮に俺と栄光が、同時に世良なり晶なり歩美なり我堂なりに惚れたとしよう。いわゆる恋敵というやつだが、だからって栄光を出し抜いたり貶めたり、険悪になる展開というのは有り得ない。そこはあいつだって同じだろう。 そんな程度の仲じゃないんだよ俺たちは。たとえ色恋が入ったことで少し状況が変わっても、そこだけは絶対に変わらないと確信している。 「おまえはまだそういうのが分からないって言ってたから、たとえば幽雫さんとかに惚れてるってわけでもないんだろうが」 「は、なんで幽雫さんなの?」 「いや、だって格好いいだろ、あの人は」 あくまでたとえとして一番いい男度が高い人を挙げただけなのに、そんなムキになられても困る。 それにそもそも、例として俺たちを挙げるのは凄い自意識過剰な気がするし。 「とにかくそんな感じで、他の晶たちが好いた惚れたの言いだしてもだな、別に嫌なことにはならんだろ」 「そりゃあ場合によったら傷つくこともあるだろうが、それも含めて楽しめよ。俺ならそうする」 「彼女いない暦イコール年齢の人が、そんな男前発言しても……」 「うるさいぞ。要は始まってもいないうちに気構えで負けてるんじゃないってことだ」 「重く考えるなよ、いいじゃないか。毎日に彩りが出るかもしれない」 「何せ、修学旅行も近いんだからな」 それに――不吉な連想をしかねないから言わないが、戦真館は命懸けだ。恋でもしなけりゃやってられないかもしれないだろう。 そして、だからこそこれまでとは違う関係が生まれるのも自然なんじゃないのかと。 そんな風に、今は思う。歩美と話しているうちに、そうじゃないかという気になってきた。 とはいえ実情は歩美と同じで、俺もまだそういう気持ちがよく分かっていないんだが。 「俺の言ってることは、やっぱり呑気な楽観か? その手のことに疎いから、甘く考えてるだけだろうって?」 問うと、歩美は困ったように唸っていたが、やがて首を横に振った。 「……ううん、それを言うならわたしだって同じだもん。確かに大袈裟すぎてたのかもしんないね」 「四四八くんみたいな考え方はしてなかったよ。そうだね、楽しめばいいんだよね。よく考えたらいい娯楽だし、わたし恋愛ゲームも得意だし」 「エロゲーも、乙女ゲーも、BLも……うん大丈夫、いっぱいやってるから何でも来いだよっ」 「いや、ちょっと待て。おまえのその自信は根拠がだいぶ間違ってる気がする」 と突っ込むが、もはやこいつは聞いちゃいない。頭の中でカップリングのパターンでも考えてるのか、あれがこうでこうなったらうひょー、とかぶつぶつ言ってる。 だが、しかしまあいいか。楽しめと言ったのは俺だし、こいつも普段どおりに戻ったし、なら文句をつける筋じゃないだろう。 「けど、そうなるとあれだな。ちょっと疑問があるんだが」 「うん? なになに?」 そもそもの発端として、こいつがそういうことを悩みだしたということは、だ。 「おまえは、何かしら兆候を感じ取ったっていうことだよな」 「つまり現在、俺らの中の誰かが誰かを好きくさいと……」 だとするならば、それはいったい? 「誰なんだ?」 「教えませーん」 ぴょんと跳ねるように飛びのいて、手をヒラヒラさせつつ舌を出す。何かとても腹の立つ仕草だった。 「それ教えたらわたしの楽しみが減っちゃうじゃない。だから四四八くんは自分でちゃんと考えようねー、馬鹿じゃないなら分かるでしょー?」 「楽しめよ(キリッ」 「俺ならそうする(クイッ」 俺の真似をしてるつもりなのか、眼鏡を押し上げるふりまでしながらこの野郎。 「毎日に彩りが出るかもしれない(ドヤァ」 「よーし分かった。おまえこれ半分持て」 元気が出たのは結構だが、黙って遊ばれてやるつもりは毛頭ないのでそう言った。 「のんのんのん、分かってないなあ」 「わたし、女の子だもん」 「とりあえずこの三脚を」 「――てうおおおおっ」 軽く投げたそれをキャッチした瞬間に、歩美は速攻で潰れてしまった。 一応、寸前で助けたから怪我はさせてないし、機材も壊しちゃいないけど。 しかし、ほんとひょろいよねこいつ。 「もー、何するの四四八くん! 最低だよ、男子の風上にも置けないよ!」 「レディとして扱うのはレディに限ると偉い人が言ってたんだよ」 「ほら、行くぞ――休憩終わり」 「あん、もうっ! ちょっと待ってよ。わたし怒らせたら怖いんだからねー」 「後ろから撃たれたくなかったらもっと優しくしてよ隊長ー」 などと物騒なことを言いながらついてくる歩美を適当にあしらいつつ、だがなるほどなと思っていた。 こいつは後衛で、常に全員の背中を見てる。だから他の奴らじゃ気づかないことも目に入るのだろう。それは重要な資質で、特技と言っていいのかもしれない。 もともとボケてるようで鋭い奴でもあったから、そこは頷ける話だった。このたび気づいたことというのは、少々意外な系統で驚いたけど。 「そんな仲って、どんな仲、ね」 兄弟、仲間、それだけじゃ足りなくなる日がいずれくるのかもしれない。すでにその片鱗が、出るところには出始めてるらしいし。 悪い変化じゃない。今そう思っているのは事実だから、そうなってもそう言えるようにしたいと思う。 「歩美はさあ――」 「ん、どうかした?」 「……いや」 言いかけて、やっぱりやめようと思い直した。 「なんでもない。気にするな」 「えー、なにそれ。気になるじゃないよー」 「いいんだよ。ほんとにたいしたことじゃないから」 というのは、実のところ嘘なのかもしれない。 ただなんとなく、訊くのが怖くなったのだ。こいつが誰かに惚れるとしたら、それはどんな奴なんだろうと考えたら、少し。 大概長い付き合いだし、なんだかんだで俺も結構、今の関係が崩れることに恐れがあるのかもしれないな。先に偉そうなことを言った手前、こんな様じゃあ格好もつかないが。 「まあとにかく、そういうことだ」 「意味分かんない。一人で勝手に完結してるし」 そこは信頼ということで流してほしい。真実は夢の中。 おかしな話だが、今や俺たちにとって、〈戦真館〉《あちら》のほうが現実めいてきているのは確かだった。 そう、あくまでたとえばの話だが。 「今のところ、おまえが選ぶとしたら誰なんだ?」 「へあ?」 問いに、鳩が豆鉄砲を地でいく様子をこいつは見せる。それはまったく考えてもいなかったということなんだろうか。分からないが…… 「ふふ、いひひ……なんで四四八くん、そんなこと訊いちゃうの?」 次の瞬間、なにやらいやらしい笑みを浮かべながら肘で俺を小突いてきた。 「なんでって、そりゃ、単純な興味っていうか」 「知ってどうするつもりなのー?」 「どうもせん。ただ、その……なんだおまえ、鬱陶しいなっ」 鼠をいたぶる猫みたいに、すなわち己の圧倒的優位を確信したかのような態度が妙にこう、腹たった。 「こんなの世間話だろ、いちいちワケの分からん突っ込み入れるな」 「じゃあさあ、わたし別に答えなくてもいいんだよねー?」 「そりゃあ、な……実際どうでもいい類のことだし」 言って、俺が歩くペースを速めようとした矢先―― 「栄光くん」 「はあっ?」 「ていうのはさすがにないよねえ。あははっ、四四八くんすっごい顔、焦ってる?」 「…………」 この野郎。 「鳴滝くん――の腹筋は最高だしー。幽雫さん――はわたし史上最高のイケメンだけどー」 オーケー、分かった。受けて立とう。喧嘩売ってるんだな、上等だ。 「あー、晶は胸がでかくていいよなー」 「はっ? ちょ――、なんなのそれっ」 「我堂は相手してると面白いしなー。世良は一番まともだし」 「百合香さんは美人でお淑やかで金持ちだし。迷うよなー、みんないいよなー。それに――」 「の、の、のっちゃんはあれですっごい超肉食系なんだよ。ぱくっとやられちゃうよ」 「そうなのか? そりゃいいこと聞いた」 「どういう意味よっ! あーもう分かった。そういうことならわたしも容赦しないもんね」 言いながら、なにやらこいつは取り出して。 『あー、晶は胸がでかくていいよなー』 『我堂は相手してると面白いしなー。世良は一番まともだし』 『百合香さんは美人でお淑やかで金持ちだし。迷うよなー、みんないいよなー。それに――』 …… …… …… …… …… 「どうだこんにゃろう」 「おまえなに録音してんだよっ!」 ICレコーダー持ち歩いてるとかどういうことだよ。離婚調停で揉めてる夫婦か! 「これ、あっちゃんたちに聴かせてやるんだから」 「すみませんでしたっ」 「あぁ~ん、聞こえまちぇんね~」 ほんと、真剣にこの野郎…… 「それ、いくらで売ってくださるでしょうか」 「そんなこと言われましてもぉ、これはとっても貴重な記録ですしぃ、四四八くんがこんなことを言うなんて普通は有り得ないわけですからぁ」 「相応に勉強してくださらないとぉ、こちらといたしましても簡単にはぁ、――て、ああっ!」 一瞬の隙をついて、俺は歩美からICレコーダーを引っ手繰った。 「形勢逆転」 「ちょ、ちょ、やめて駄目だよ消さないで――それ大事なんだよ、メモリーなんだよぉ!」 「思い出録りたいなら内緒でやってるなよ、馬鹿」 「だ、だって、そうしないと自然な日常にならないんだもん!」 それは確かにその通りで、妙に納得してしまう持論だったが、やってることは盗撮みたいなものだろうが。 「返して、返してよー! このカール・クラフト、第六天波旬っ!」 ぐるぐるパンチしながら喚いてる歩美が何を言っているのかは不明だったが、とりあえずこいつの中で最大級の侮蔑語を投げているというのは理解できた。 まったく。 「分かった。分かったよ、返してやる。けどさっきのだけは消しとくぞ。そこは譲れん」 「うっ、うぅ、せっかくすごいレアな台詞が録れたのに……」 「あと、一応このことは他の奴らに言わないでやるけど、俺が知ってるってことは忘れるなよ。だからあんまり犯罪スレスレの真似はするな」 「分かったよーだ。ふーん」 と歩美は拗ねてしまったが、実際どうかと思う話だろう、これは。 今後は少し弁えてくれることを祈りつつ、消すところだけは消したうえでICレコーダーは返してやった。 「さあ、行こう。もたもたしてたから遅くなった」 「どうせわたしはちっぱいだもん」 「まだそんなこと言ってるのかよ」 「だって四四八くん、冗談でもああいうこと言う以上、見てるとこは見てるわけでしょ?」 ぶすっとしながら睨んでくる歩美に、俺は呆れながら答えてやった。 「ああ見てるよ。けどそれがどうした」 「見てるからこそ、おまえのいいところも知ってる。たとえば――」 そう、たとえば――今まさに思っていることなんだが。 「可愛いよ、おまえは」 「へっ?」 まあ、だいぶ変人入ってるのは確かだけどさ。 「そういうこと」 「え、や――ちょっとちょっともう一回、今の録音できなかった!」 「自然なのがいいんだろ? ならリテイクはなしだ」 「ケチらないでよ、もー!」 そんな喚き声をバックにしながら、空を見上げる。日はもう暮れかけていた。 つまり、今日の〈千信館〉《トラスト》はこれで終わり。夜になれば〈戦真館〉《トゥルース》が始まる。 夢のほうを真実と言っている現状は、そう考えると甚だ皮肉なものだった。 「我堂、来い。一緒に行こう」 「当然の結果ね。あんたにしては的確な判断よ、柊」 「減らず口叩いてるなよ」 誰を選ぶかというよりも、選ばなかったのは誰かという面で見た場合、一番面倒そうなのがこいつだったので我堂を選んだ。この反応を見る限り、判断は正しかったと思う。 「それじゃあ皆さん、ごきげんよう。私はこれから―――てちょっと柊、一人ですたすた行くんじゃないわよ!」 そういうわけで我堂を連れ、俺はお使いに出ることにした。 ……は、いいんだが。 「ぐっ、は……、ぬぬ、ちょっと……」 「休憩するか?」 「平気よっ」 目当ての機材を無事受け取り、帰る段になったんだが、少し大変なことになっている。いや、こいつの顔の話じゃなくて。 「あんたに情けをかけられる覚えはないわ。これくらい私は全然へっちゃらなんだから――」 「て、ああっ」 気炎をあげて叫んだ拍子に、派手な音を立てて機材が落ちた。こういう状況を見越して割れ物は持たせなかったが、とにかく問題とはこのことだ。 「休憩する。反論は聞かない」 「それから少し待ってろ。何か買ってきてやる」 「う、うぅ、余計なことを」 「強がるなよ、希望はあるか?」 「……お茶でいい」 「分かった。貸しだぞ」 言って、俺は近くの自販機に行くとお茶を買い、それを我堂にくれてやった。まったく、いつものことと言えばそれまでだが、つまらん意地を張る奴だよ。 常識的に考えて、俺と同じ量の荷物を持つのは無理に決まってる話だろうに。 「……ありがと」 なんとも悔しそうな様子でそう言う我堂に、俺は手を振って気にするなとジェスチャーで返すだけに留めておいた。経験上、下手なことを言えば余計面倒な事態になるだけだと分かっている。 なので特に何も言わず、我堂が落ち着くまでぼんやり海を眺めていた。ここらは年中サーファーが頑張ってるので、その挙動を追ってるだけでもさほど退屈はしない。 「よし、じゃあ行きましょう」 「いや待てよ。俺が疲れた。もう少し休ませろ」 「せっかくなんだ、そんな急がなくてもいいだろう。ちょっとくらいのんびりしてもいいんじゃないか?」 「え、あ……まあ、あんたが言うなら、しょうがないわね」 「じゃあ、せっかくだから付き合ってあげるわよ」 「そりゃ助かる。ありがとな」 こうしてさくさく返せるあたり、俺もだいぶ我堂の扱いに慣れてきたらしい。そもそもの発端として機材の運び方をトラブっているのだから偉そうなことは言えないが、それでも進歩はしてるだろう。 こいつは単純と言えば単純だが、その割には細かいから適当に応えているとすぐに気づく。だから以前はよくそこに食いつかれていたんだけど、最近じゃあそれほどでもない。戦真館で半年も寝食を共にした結果、コツは覚えた。 俺が(我堂の相手で)疲れているのも(我堂が大人しくなって)助かると思っているのも紛れもない事実なので、そこに突っ込みが入る余地はない。あとはこいつの頭で変換されているだろうことを気にしなければいいだけだ。 たとえばさっき言った“せっかく”とは、せっかくの千信館的日常なんだからという意味で言ったんだが、こいつはきっとこんな風に受け取っているだろう。 私のお供ができる光栄にようやく柊も気づいたのね、とかなんとか。 うむ、実に我堂だ。微塵の疑いもなくそう思っているはずだと確信できる。人生楽しいだろうな、こいつ。 「ねえ、なにさっきから黙ってるのよ。そんなに疲れてるの?」 「ん、別にそういうわけじゃない。ちょっと考えごとをしててな」 「へえ、どんな? 悩みでもあるなら言ってみなさいよ」 と言われても、まさかそのまま口にするわけにはいかない。 そこで俺は少し考え、ちょうどいい話題を思い出したのでそれを言った。 「おまえが探してるっていう迷い猫、あれどうなったのかと思ってな」 「もう随分昔の話みたいに感じるが、忘れてるわけじゃないんだろ?」 「ああ、それね。当たり前じゃない」 愚問だと言わんばかりに胸をそらし、ぱさっと髪の毛を掻きあげながら我堂は自信満々に鼻を鳴らした。 「言ってなかったけど、もう見つけたわよ。昨日――て言うのも今じゃ変な感じだけど、まあとにかくそういうこと」 「なに、ほんとか?」 「嘘言ってどうするのよ。ていうかあんた、いったい何を驚いてるのよ」 「だっておまえ……いや、うん、ともかくそりゃよかったな」 まさかあの絵で見つけられるとはまったく思っていなかった。いったいどんな手を使ったんだろう。 まさか人海戦術で鎌倉中の猫を捕まえ、そこから虱潰しにしたんじゃないよな。有り得そうな話に思えてくるのが正直なところ怖かったので、そのへんについては深く突っ込まないことにした。 「それで、依頼人の女の子は喜んでたか?」 「ええ。大きくなったらお姉ちゃんの組に入るとか言っちゃってね。なんか色々誤解されてるみたいなんだけど、可愛いから別にいいかなって」 「うちの父さんも喜んでたし。……て、ああ、その」 「気にするな。親父さんは大事にしろよ」 孝行したいときに親はなし。まったくその通りなわけで、こいつらには俺の分も家族と仲良くやってほしいから、それについて妙な気を遣われたくもない。 「鳴滝が言うには凄い厳つい人みたいだが、実際のとこどうなんだ?」 「あいつは言うことが大袈裟なのよ。全然そんなことないし、あんなのただのおっさんだし」 「なんだったら実物見る? 今度遊びに来なさいよ」 「百合香さんのとこと比べられたら敵わないけど、一応現代の常識的には豪邸の部類だから、みんな来ても全然平気よ」 「ああでも、ちゃんと挨拶とか、そういうのだけは気をつけてよね。あんたは大丈夫だろうけど、大杉とか歩美とか心配だわ。うちの父さん、そこは結構うるさいから」 「分かった。しっかり言っとこう」 とはいえ、栄光たちだって別に礼儀知らずというわけじゃない。ノリは軽いし敬語もまともに話せない連中なのは確かだが、そのぶん気持ち的な面はしっかりしている――と思う。 それに、鳴滝が罷り通っているんだから大丈夫なはずだろう。まさかあいつが、我堂の親父さんと接するときだけ優等生になっているとは思えないし。 「しかし、今度っていつだ? 旅行明けくらい?」 「うーん、まあそうなるのかしらね。こう考えるとすっごい先の話みたいになるけど」 「そこはそれ、いいんじゃない? 旅行の後にも楽しみなイベントが待ってるって考えたら、あんたのつまらない日常にも張りが出るでしょ」 「言ってくれるな」 だが、俺の日常がどうかはともかく、楽しそうなイベントであることは確かだった。この現実では、そういう日々が先まで続くんだと思えるのはいいことだろう。 叶え、実現させたい未来の目標の一つ。ちょっと前ならこういう考えは持てなかったかもしれないが、今はそれを大袈裟とも思わない。我堂だって、そういう意味を含めたうえで言ったはずだ。 もっともこいつのことだから、素で有り難く思え庶民――と考えている可能性も多分にありはするのだけど。 「オーケー、楽しみにしとく。せいぜい部屋の掃除でも頑張ってろ」 「ま、正直なところ俺からしたら、目前の修学旅行のほうが気になってるけどな」 「あらそう? ガキっぽいわねえ」 「気取るなよ。おまえは楽しみじゃないのか?」 「別にそんなことはないけど、あんたらと朝から晩まで一緒にいるのは〈戦真館〉《あっち》で慣れちゃったからね。京都にも行ったことはあるし」 「どうせなら、私は九州に行きたかったわよ。関東住まいにとったらそっちのほうが珍しいし、晶の馬鹿にもご当地ゆるキャラの真髄ってやつを教えられるでしょう。ほら、熊本の。あれ本気で可愛いじゃない」 「ああ、あれか。人気者になりすぎて、もはや本業を忘れてるような域にあるって話だよな。このへんの店にもなぜかぬいぐるみが置いてるし」 「けどそういえば、おまえ神奈川県の公式キャラってなんだったか覚えてるか?」 「……さあ、言われてみると記憶にないわね。そばもんじゃないことだけは確かだけど」 などと益体もない話をしている間に結構時間も経っていた。そろそろ戻らなければならないだろう。 しかしそうなると、改めてこいつの負けず嫌いなところが問題だった。これまで通り機材を持たせていると日が暮れるし、かといって俺が多めに持つと絶対怒るし。 「さて、それじゃあ今度こそ行きましょうか」 ここはいったいどうするべきか。多少でも我堂の扱いに慣れたと自負している以上、上手く回したいところだ。 俺が採るべき選択は…… 深く考えている暇は無い。俺は即断でそう決めると、降ろしている機材の三分の二を一気に担いだ。 「あっ、ちょ――あんたなに勝手なことしてるのよっ」 「うるさいぞ。あのままおまえに持たせてるといつまで掛かるか分からないだろ」 「意地張るのもいいが、それも時と場合にしてくれ。でないと周りに迷惑が掛かる」 「出来ないことを出来るって言われても困るんだよ。分かるだろ」 「うっ……」 それで我堂は黙り込んだが、その落ち込んだ顔を前に、俺は少し自己嫌悪の気持ちが湧きはじめていた。 「行くぞ」 「……うん」 それを振り切るようにして歩きだす。ああくそ、まったくなんともスマートじゃない。失敗したと痛感している。 言ったこと自体は正論だし、本音だったが、別に我堂を言い負かしたかったわけじゃない。機材運びの効率という点のみで見れば問題は解決したと言えるけど、その結果として場が落ちてしまったら話にならないだろう。 かといって、たとえばレディファースト的なノリを持ち出したとしても上手くいったとは思えないし、むしろ余計にトラブルだけだと感じるし。 難しいな、本当に。まだまだこいつと上手く付き合っていくことが出来ていない。 そもそも一人の人間に対し、扱うだの回すだのと考えている時点で随分驕っているだろう。そこからして俺は我堂をちゃんと見ていないという証なのかもしれない。 「あのさ柊、その、ごめんね」 「ああ、俺も言いすぎた」 結局そんな、気まずさをさらに重くするようなことしか言えなかった。ここでたとえば栄光のように、寒いギャグでも口に出来たら少しは空気も変わるのだろうか。でも俺にそんなことは出来ないしな。 その後は互いに無言で歩き続け、お使いそのものは滞りなく終わったけど、気分は残念な感じだった。 貴重な千信館での一日……それを締める出来事としては、議論の余地無く駄目駄目だったと言えるだろう。 反省だ。以後、こういうことはないようにしないといけない。 「よっと、……ぐ、ぐぉ、平気平気、全然へっちゃら」 「おう。頼んだぞ」 結局俺は何もせず、これまで通りいくことにした。それは別に、考えるのが面倒になったからというわけじゃない。 「まあ、のんびり行こう」 多少時間が掛かって日が暮れようが、致命的な問題が発生したりはしないんだ。なら我堂のやりたいようにやらせてやればいいわけで、重視すべきは場の空気だと考えただけ。 たとえば機材を引っ手繰って迷惑だから引っ込んでろと言うようなのは、それでこいつが大人しくなったとしても楽しい流れじゃ絶対ない。選択としては悪手だろう。 今、俺たちがいるのは千信館。命がどうのという局面じゃない以上、少しくらい非効率でもいいじゃないか。そういう無駄っぽいことも楽しく思える、そんな贅沢をわざわざ潰すことなんかない。 「ふ、ふふ……なによ柊、歩くの遅いわよ。疲れたの?」 「いや、おまえよりは疲れてないと思うけど」 「なに言ってるのよ、私はほんとになんでもないし。なんだったら学校までダッシュしたっていいんだから」 「おい無茶するなよ、危ないぞ」 「だから大丈夫だって言ってるじゃない」 我堂もこんな感じで機嫌がいいし、俺の選択は間違ってなかったんだと思える。 そのうえで楽しいままいきたいから、こいつに怪我なんかさせるわけにはいかない。 「俺も言ったはずだぞ、のんびり行こう。別に急ぐ必要もないんだから」 「先生には文句を言われるかもしれないが、そもそもあの人が自分の仕事を忘れてたのが原因なんだし、気にするなよ。ほっとけほっとけ」 「でも――」 「なんだ、いつも通り九時には寝たいのか? けど今はまだ六時だぞ。あとちょっとくらい掛かっても大丈夫だろ」 「ご飯食べる時間とか、お風呂入る時間とかあるじゃない。そう考えたらもうあんまり時間はないのよ」 「それを言われたらそうなんだろうが……」 お嬢様らしく規則正しいことを言う。そういう杓子定規なところは俺も似たような面があるので理解できるが、今は自分の中の優先順位が少し変わっているので、また別の見解を持っていた。 毎日の生活習慣を多少乱しても優先してみたいことはある。そのへん、我堂はどうなのかなと思ったので、俺は素直に訊いてみた。 「おまえさ、そんなに早く帰りたいか?」 「え?」 「だから、さっさとこの場を終わらせたいのかって言ってるんだよ」 ちょっとしたお使いイベント。些細な、日常のどうでもいいことと言えばその通りだが、だからこそ結構楽しいこのときを。 「惜しいと思わないか? 俺は思ってるぞ。おまえはどうだ?」 「早々に畳んでしまうのはもったいないって感じないか?」 「それは……」 俺の問いに、我堂は最初ぽかんとしてたが、次の瞬間こっちが驚くほど勢いよく真っ赤になった。 「ばっ、馬鹿――あんたいったい、いきなり何言ってるのよっ」 「そんな突然、駄目よちょっと、見ないで――ああもう、重ったいわねえ!」 叫んで機材を放り出すと、顔の前でぱたぱた手を振りつつ我堂は一気に後退した。 その慌てぶりがあまりにも凄かったので、俺もまた気づいてしまう。確かにさっきの台詞は誤解されても仕方ない。 「ちがっ――ちょっと待て。早まるな我堂、今のはそんな意味じゃなく」 「じゃ、じゃあなんなのよっ? あんた何考えてあんなこと言ったのよっ」 「私と、そんな、一秒でも長く一緒にいたいなんて……」 「おい待てコラ、勝手に脳内変換するなおまえ」 「なら違うって言うのっ?」 「……そう言われると、違わないのかもしれんが」 「この変態っ」 「うるさいぞ」 「色情魔っ」 「やかましい」 「そばもんの眷属っ」 「それはどう意味なんだよ」 「ちょっとこっち来ないで犯されるー!」 「やばいことでかい声で叫ぶな馬鹿っ」 面倒くさいなこのお嬢様は。前々から思ってたけど、いちいちこういうときの反応が潔癖すぎて引くんだよ。 身を抱くようにしながら俺を睨んでいる我堂に対し、深い溜息を吐きつつ両手をあげて、ともかく自分の無害さをアピールした。 「その、落ち着け。確かにさっきのは変な言い方で悪かった。反省してるから、そんな目で見るなよ」 「俺が言ったのは、せっかく平和でのんびり出来る時間なんだしっていう意味で、別に一緒にいるのがおまえだからどうこうってことじゃなく……」 「はあっ、そうなの?」 「なんで怒るんだよ」 もう本当にワケが分からん。だったらどう言えばいいっていうんだ。 「それならあんた、ここにいるのが水希や晶や歩美でも同じこと言ったっていうのね」 はいそうですと頷いたら、鬼畜外道と罵られそうな雰囲気だ。なので俺は考え、考え…… 考えたけど、答えなんか出るか馬鹿。 「知らんっ」 「ちょっ、あんた何自信満々に言ってるのよっ」 「うるさい、そうなってみなけりゃ分からんことに答えなんか出せるかよ」 「おまえが俺にどう言ってほしいのかもうさっぱり見えてこない。それともあれか、また例によって奴隷になりますって言えばいいのか?」 「当たり前じゃない」 「当たり前なのかよ」 そして、そんなことを俺が素で言うと思っているのかこいつは。 いや、思ってるんだろうな、我堂だし。 「まったく、あんたには幽雫さんの爪の垢でも煎じて飲ませたいわよ」 「はあ? じゃあおまえの奴隷候補は幽雫さんにしてりゃいいだろ。俺に絡むな」 「それは、だって……ちょっとねえ、なんなの、何怒ってるのよ」 「怒ってない。ほら行くぞ」 「あ、待って。コラ待ちなさいって、どうしたのよいきなりー!」 俺だってよく分からん。だが幽雫さんがどうとか言われた瞬間に、なぜかカチンときたんだよ。 「のんびりしたいんじゃなかったのー?」 「おまえは急ぎたいんだろうが」 我ながらぶっきらぼうに返しつつも、いやまさかなと思っていた。 そんな、嫉妬だなんて有り得るはずがないだろうと否定しつつも、そう解釈すればさっき我堂が意味不明に怒っていた理由もなんとなく想像がつくものであり…… じゃあ、つまりどういうことなんだと考えると、見えてくる答えが私的に斜め上すぎて…… 「だから待てって、言ってるのに、きゃあっ」 「――おい我堂、大丈夫か」 だが、背後で転んだ音がした瞬間、それらごちゃごちゃした思考は一気に吹っ飛ぶ。 「へ、平気……うん、なんでもないから」 「馬鹿、大人しくしてろ。おまえこれ、足捻ってるんじゃないか。見せてみろ」 「で、でも……」 「いいからほら、靴脱げって」 「あ……」 そこで、俺は自分が何をしていたかようやく気づいた。 「……この、変態」 「…………」 「色情魔」 「……すまん」 「そばもんの眷属」 「それはまあ、そうかもな」 母さんの息子だから眷属と言えば眷属だけど、いったいどういう罵倒なのかは相変わらず意味不明だった。 怪我をさせてしまった罪悪感やらなにやらでまともに我堂の顔を見れなかったが、だからといって剥き出しの足に視線を集中するのもどうかという話で困ってしまう。 「……とりあえず、犯したりする気はないから悲鳴とかあげないでくれよ」 「うん、分かってる……いたっ」 「ちょっと酷いな。タクシー呼ぶか」 「いや、それは駄目」 立ち上がろうとした俺の襟を我堂は掴んで、ぐいと引き寄せてきた。それで正面から目と目が合う。 「ねえ柊、おんぶしなさい」 「は?」 「罰よ。まさか断ったりしないでしょうね」 「…………」 意地悪げに、だが何処となくか弱い調子で言われ、考える。 確かにこれは俺のせいだし、落とし前をつけろ言うならそうするが、機材全部にプラス我堂も担ぐというのはかなりきついな。 いやしかし、だからこそ罰なのか。しょうがない。 「……分かった。けど乗り心地は保障しないぞ」 「そこは我慢してあげるわよ。感謝しなさい」 「畏まりましたよ、お嬢様っ」 言って、俺は機材を持ったまま我堂をおんぶし、立ち上がった。 「違うでしょ、ご主人様よ」 「生憎、まだそこまで言う気にはなれない」 というか、真剣に重すぎる。気を抜くと一気に倒れかねないので、あまり突っ込みは入れないでほしい。 「重いの?」 「全然、余裕だ馬鹿」 とても重いですなんて素直に言ったら、間違いなく怒るだろう。女だし。 それくらいのことは俺だって分かるんだよ。 「い、くぞっ」 「よーし、じゃあ気合い入れて行きなさい」 「言われなくても……」 気合い入れてないと無理なんだよ。だから俺は一歩一歩慎重に、だけど奇妙な愉快さを感じながら歩きだした。 まあ、いいトレーニングにはなるだろう。しかしこのまま、無事に千信館まで辿り着けたとして、芦角先生に見られたら何を言われるか分かったもんじゃないザマだな。 そんな俺の不安を読んだように、背から我堂が言ってきた。 「学校についた瞬間放り出したりしたら、許さないからね」 「おまえ、旅行いけなくなってもいいのかよ。あの先生、それくらい言い出しかねんぞ」 「別にいいわよ、言ったでしょ。あんたらと朝から晩まで一緒にいることくらい、もう珍しくないし。慣れちゃったし」 「だから今は、こっちのほうが新鮮でいいわ」 そうして静かに、強く力を込めて我堂が俺の背にしがみつく。ちょっと首が絞まったが、あえて何も言わないことにした。 この展開は言い訳無用で俺の落ち度だし反省してるが、新鮮だと思っているのは同感だし。 楽しいとも、感じているのだから。 「世良、来い。一緒に行こう」 「うん、分かった」 とりあえず、一番無難そうなところで世良を選んだ。他の連中はなんかこう、色々濃いし。普通にいきたいんだよ、普通にな。 「じゃあみんな、また後でねー」 そういうわけで世良を連れ、俺はお使いに出ることにした。 「そろそろこの辺も修学旅行生が増えてきたよね」 商店街を歩きながら周りを見回し、そんなことを世良が呟く。確かにそこらでは色んな制服の学生たちが溢れていて、土産物屋なんかはごった返している有様だ。 「まあ、六月と十月の定番的な光景ではあるよな。俺たちが行く京都だってそうだろうし、他にも大分、熊本、長崎の九州地区と、あとは広島……他には何処かあったかな」 「北海道とか沖縄とか? 神戸なんかも入るかも。それから東京――はなんか違うか」 「あそこは時期に関係なく人だらけだしな」 「うん。でも東京を除外したって、観光地だらけなのは間違いないよね。日本海側がちょっと寂しい気もするけど」 「あっちのほうはなんていうか、渋いんだろ」 酒と魚が旨いとか、強いて言うならそんなイメージの地方なので、修学旅行の舞台としては華やかさが足りないのかもしれない。なのでむしろ大人に好かれる町みたいな。 「たとえば新潟とか、そういう感じじゃないか?」 「そうだね。言われてみると、若造お断りな雰囲気があるかも」 実態がどうなのかは知らないので、新潟人に聞かれたら文句の一つも言われそうだが、とにかく印象としてはそんな感じだ。ニーズが違うと言えばいいだろう。別に山陰や北陸地方が辺鄙だと思っているわけじゃない。 「しかし、なんだな。別に鬱陶しいとか言うわけじゃないが、それでもやっぱり騒々しいな、六月期に比べればまだマシだけど」 「〈六月〉《あっち》は客層が小中学生メインになるからね。でも私は、どっちかっていうとそのほうが好きだよ。可愛いじゃない」 「それは否定しないが……なんだよ世良、おまえもしかして、弟か妹がいるのか?」 「え、なんで?」 「いや、なんとなくそんな風に感じたから。どうなんだ?」 「ああ、うん。それは……」 何か答え難いことなのか、世良は歯切れ悪く言葉を濁しながら苦笑する。 「そうだね。別に隠してたわけじゃないんだけど……弟が」 「いるのか?」 「というより、いたのよ。うん、そんな感じ」 「て、やだなあもう。困った顔しないでってば」 言いつつ、世良は叩いてくるものの、俺は咄嗟にどう返していいか分からなかった。知らなかったこととはいえ、無神経な質問をしてしまったらしい。 「それは、すまん」 「だから、いいんだって。気にしないでよ。柊くんだって変な気の遣われ方するのは嫌でしょう」 「そりゃあ笑ってする話じゃないけど、思い出すたび暗くなりたくはないじゃない」 「私の弟は、まあその、いたんだけど、亡くなってます」 「……そうか」 変に気を遣われたくないというのは確かに俺もよく分かることなので、それ以上は何も言わず頷くだけに留めておいた。 気にするなと言うなら気にしないが、だからといって死因とか、人となりとか、つまり弟との思い出について質問するのは不粋すぎる話だろう。ゆえに俺は話題を変えようと試みる。 「それでねえ、弟は凄く私に懐いてたんだけどさ」 だが意外にも――あるいは当然なのか――世良にそんなつもりはないようだった。 「小さい頃から身体が弱くて、食事とかも色々不自由してた子だったのよ。だから心配になるじゃない? それでよく構ってたら、お姉ちゃんお姉ちゃんって……正直困ることもあったけど、可愛かったな」 「兄弟って、どこもある程度似たようなものなんだろうけど、やっぱり下が真似したがるのね。習い事とか、僕もやるんだって」 「でも、言ったように身体の弱い子だったから、出来ないことのほうが多くって……そういうとき、凄く悔しそうな顔をしてたの、忘れられない」 「やっぱりそこは男の子だから、プライドっていうのも強いんだろうね。私はそれに、どうしてやればよかったのかなって、今でも思うよ」 そう自嘲気味に話す世良は、周りの修学旅行生を感慨深げに眺めていた。それは弟と重ねているのかもしれず、なら彼が生きていた場合、俺たちと同年代だったのかもしれず。 その予想は、的中していた。 「あの子、柊くんたちと同い年だったんだよね」 「もしかしたら、今頃クラスメートだったかもしれないんだ」 「てことは……」 「うん、千信館に入るんだって言ってたよ。私がいたから」 「だけどそれは叶わなかったわけで」 つまり、そこまで保たなかったということか。病弱だったというし、でも仕方ない運命だと割り切るなんて遺族の立場では不可能だろう。俺もそうだから、よく分かる。 なんとも遣り切れない話だった。なまじ共感できるせいで、結構重く胸にくる。 「柊くんたちの世代はみんな濃くて面白いから、残念だなってよく思うよ。あの子、会わせたかったな」 と、そこまで言って、世良ははっとしたように首を振った。 「あっ――ああ、ごめんなさい。なんかしんみり語っちゃったね。うざかったでしょ?」 「別にそんなことはない。あと、うざいとか言うな。弟さんに悪いだろ」 「え、うん。それは、そうだね……すみません」 「……まったく」 俺に謝ってもしょうがない話だが、そもそも俺が仏頂面で冷たい言い方をしたからそうなっているんだろう。自分のこういうところは性格だけど、短所なので改めないといけないな。 だから気分を変えるため、話題を前向きなものへとシフトすることにした。 「しかし、なんていうかだな、不適切な表現かもしれないが嬉しかったよ。話してくれて」 「世良はどうも、溜め込むところがあるからな」 「そうかな?」 「そうだよ。どの口で言ってるんだおまえ」 「色々と、一人でうだうだ考えてドツボに嵌る典型だろう。毎度ろくなことにならないんだから、早くそのへんを自覚しろよ」 「むっ、ちょっと柊くん、それって言いすぎじゃない?」 「悪いが全然そうは思わん」 なぜならこの話を聞いて、一つ確信したことがある。世良は一種の駄目姉貴というやつに違いないと。 「おまえは姉さんぶっても器量が追いつかないみたいな感じだよ」 「で、でも、そんなこと言うなら柊くんにだって似たようなところがあるじゃない」 「いつの話だ。その手の葛藤ならもうだいぶ前に乗り越えたぞ。晶にがつんと言われたしな」 「あ、そうだよそれ、私聞いてるんだからね。お説教されちゃったんでしょ、かっこわる~い」 「そこは否定しないが、いつも誰かに説教されてるような奴から言われたくはないな」 「ひどっ、私を大杉くんみたいに言わないでよね」 「むしろおまえこそ栄光にひどいだろ」 あいつが食らってるのは説教というより突っ込みっていうか、お約束の鉄拳制裁やスルーみたいな、そんなんだろう。 「とにかく、俺が言いたいのは安心したっていうことだ。その調子でもっとぽんぽん、なんでも話してくれればいい」 「さっきは話題が話題だったし、こっちから根掘り葉掘りはしなかったけど、それは聞きたくないって拒絶してたわけじゃない。おまえが話すならちゃんと聞くよ、これからも、なんだって」 「そういうわけだから、世良の悪い癖が少しは治ってるようで良かったよ。この半年で成長したんだな、褒めてやる」 畳み掛けるようにそう言うと、世良はびっくりした様子でぽかんとしながら、 「あ、その……はい」 「それは、どうも。ありがとう」 礼をして、次になにやら、呆れたように溜息をついた。 「……ていうかさ、柊くんってほんっと偉そうだよね。年下のくせに」 「今さらかよ。だいたいそのへんについては、最初に了解を得たはずだが」 「分かってる。分かってるけどやっぱり思うの、生意気だっ」 「あれだよ、ほら、悌の心が足りないんじゃないの? お兄さんやお姉さんには黙って従いなさいっていうでしょ」 「それは現代の価値観にそぐわない。もとの儒教ネタ通りに解釈してるとおかしなことになってくるから、今風のアレンジは必須なんだよ」 「悌についてなら、俺には兄弟がいないからおまえらを当て嵌めて考えてる。当然上も下もないから、言いたいことは何でも言うさ」 「凄い都合のいい俺様八犬士だよ……」 「うるさいな。百合香さんや幽雫さんには敬意を払ってるんだからそれでいいだろ。先生にだって、どっちにも」 「だいたいおまえ、元ネタ通りに徹底してたら孝とか忠とか大変だぞ。親の決めた結婚相手には諾々と従えとか、国のために喜んで死ねとか、そんなの今どき通るかよ」 「それは、確かに、そうだけどさ……」 口ごもる世良に駄目押しを入れるべく、俺は眼鏡を押し上げつつ言い放った。 「よって俺は間違ってない」 ずばりそう決めてやると、ぷるぷる震えていた世良が爆発した。 「あーもうっ、なんなの腹立つなー!」 「理屈っぽい、理屈っぽい、これだから男子と口喧嘩するのって嫌なのよ。おまえの感情どこにあるんだって話じゃない、ばーかばーか! 気取り屋メガネ、モテないくせにー!」 「最後の一言はこの件とまったくなんの関係もない」 「そのメガネきらっと光らせるような言い方がすっごいもう腹立つのよー!」 むきー、と地団駄踏む勢いで喚いている世良の様子は、とても年上には見えなかった。 が、こんな風に遠慮なく自分を出せるようになったのはいいことだろう。似合わない年長者面で一歩引かれてるよりは随分マシだ。 世良はどっちかっていうと弄られキャラだし、少なくとも纏め役というタイプじゃないんだから。 きっとこいつの弟も、そのへん苦労したんだろう。俺はそう思ったので…… 「なあ、俺たちって七人だよな」 「は、なんなのいきなり? 話飛びすぎて私ついてけないんですけどっ」 「なんか適当なこと言って誤魔化そうとしてるんでしょ。だいたい柊くんはそうやってね――」 「うるさい、ちょっと黙れ。喋らせろ」 「むががっ」 やかましいので顔面ごと口を押さえて静かにさせると、いま思っていることを言葉にした。 「おまえの弟を俺たちの八人目にしよう」 「前に晶と話したんだよ。聞いてるんだろう? 八犬伝のことだ」 「子供の頃、俺たちの伏姫は母さんだったから、この件に片がつくまで仁義八行の犬士になるって」 「けど、俺たちは七人だしな。そんな上手く嵌らないのは当然だろうと思ってたが、それでもやっぱり惜しいなって気持ちはあったんだよ。だから」 そう、だから――俺は世良の目を見て言う。 「おまえの弟を入れればちょうど八人だ。どう思う?」 言って、押さえていた手を放すと、世良は信じられないものを見るような顔で放心していた。 そんな大袈裟なことを言ったつもりもないんだが、少なくともこいつにとって、俺の提案は完全に予想の外だったらしい。 「同級生になる予定だったって言ってただろう」 「俺たちに会わせたかったって言ってたし、そいつは千信館に入って、世良と一緒にいたかったんだろう?」 だったら、それを叶えてやりたい。たとえ形式上だけのものでも、そうすることに意味はあると考える。 他ならぬ母さんを亡くした俺だからこそ、これは至極当たり前の発想だった。 「駄目か? どうだよお姉ちゃん」 問うと、世良はぱちぱちと何度か目を瞬かせたあと、何かを噛み締めるように頷いた。 「……ありがとう。嬉しいよ」 「そんな風に考えてくれるなんて、思ってもなかったから……あの子も喜んでくれるかな」 「だといい。そこはおまえがどういうお姉ちゃんだったかに関わってくる話だけど」 「そう言われると、自信ないなあ……私、器量が追いついてない感じなんでしょ?」 さっきのことを根に持っているのか、少し恨めしげな調子で言ってくる世良に苦笑を浮かべて、俺は返した。 「だからこそだよ。仁義八行で自分が一番大事に思ってるものを磨けばいい。俺もそうしてる」 「柊くんは仁?」 「だな。晶は孝がいいって言ってたよ。あいつ、信乃が好きだし」 「そうなんだ。でも私から見たら、晶は義って感じなんだけど」 「そのへんはまあ、色々見方もあるだろうが、結局のところノリだからな。たとえばほら、我堂は礼か?」 「歩美は智? あれで結構鋭いし」 「ああ、そうかもしれない。じゃあ栄光や鳴滝は――」 そして以後、そんな風に、俺たちは誰がどれに対応するかということを笑いながら話し合った。 それは他愛ないと言えば他愛ないごっこ遊びの延長だけど、俺には大事なことのように思えたんだよ。 「おまえの弟はなんだと思う?」 なのでその締めとして、第八番目の犬士について俺が問うと、世良は迷いなく即答した。 「信、だと思う。千信館の校訓、〈信頼〉《トラスト》」 「きっとあの子は、誰よりもそれを求めてたはずだから」 千信館への入学を望み、願い叶わず儚くなったという世良の弟……だからこそ背負うべきは信の一文字に違いないと。 こいつは確信をもってそう言うので、俺は…… 「そうだな。きっとそうなんだろう」 「うん、絶対っ」 同意して、満足げに微笑む世良に頷いていた。 こいつの中にある真実がそう見立てたなら、それを否定する理由は無い。 「じゃあ、さっさとお使いをすませようか」 「だね。のんびりしてると日が暮れちゃうよ」 束の間の千信館、平和な日常は今日のところこれで終わりだ。 夜になり、夢に入れば、再び戦の真が待っている。 「いや、信はおまえだろ」 俺は俺で、思っていることをそのまま正直に言っていた。 「え、そうかな?」 「少なくとも俺が感じてる限りは」 世良の弟評価にケチをつけたいわけじゃないが、やっぱり信といえばこいつだと思う。 千信館と戦真館がそうであるように、信と真は切り離せない。本当のこと、真実――それがあるからこそ信じることに意味が生まれるんじゃないかと考えるんだよ。 「おまえは最初、謎だらけだったしな」 「だからさっきみたいに、色々明かしてくれるようになるのが俺たちにとっては大事だし、嬉しいって言ったろ」 「信じて頼る。そのことに一番しっくりくるのが誰かっていえば――」 「私なの?」 「そう。なわけで、今後も忘れるなよ駄目姉さん」 「きゃっ」 ばしっと背中を叩いて俺は笑った。そうだよ、こいつはすぐに妙な気を遣うから。 「変に溜め込まないで、何かあったらすぐ頼れ。俺たち、そこまで不甲斐なくもないだろう」 私に会わないほうがよかったかなんて、二度と言わせたくないしそんな状況に追い込んではいけない。 「もう、ちょっと手加減してよ。今の結構痛かったんだからね」 「だいたい柊くん、私のことすっごい駄目な奴みたいに言ってるけど、まずそっちこそ信じてほしいって話だよ」 「そりゃ悪かったな。だったら頼もしいとこ見せてくれよ」 「おーし、言ったな。じゃあこれから運ぶ機材、私が柊くんよりいっぱい持ってあげるわよ。なんてったってお姉さんだし?」 「おまえは我堂か。そういうくだらんことはどうでもよくてな」 呆れ返る俺をよそに、すでに世良は元気よく駆け出していた。 「ほら、何してるの。行くよー、日が暮れちゃうってー!」 ぶんぶん手を振りながら叫ぶ世良に、まあいいかと俺も続く。 束の間の千信館、平和な日常は今日のところこれで終わりだ。 夜になり、夢に入れば、再び戦の真が待っているから…… 「分かったよ」 今は素直に、もう少しだけ、この瞬間を楽しもうと俺は思った。  そのとき、彼は独りだった。  影となり、闇となり、いつ如何なるときも傍を離れぬはずの従者は不在。本来有り得ないことであり、驚愕の事態とさえ言っていい。だが当の本人はいたって何も気にしておらず、むしろ清々とした晴れやかさすら周囲に向けて発散していた。  有り体に、異常である。なぜなら彼がこのように無防備となっているのは、自身の意思によるものではないのだから。  引き剥がされた。取り上げられた。強制的な武装解除。ゆえに丸裸というのが正しい彼の現状であり、にも関わらず一切怯えや不満が見えない。  まして、それに付け加えること四面楚歌。誰も彼を信用せず、敵意の重囲下にある別勢力の本拠において、なお不敵な薄笑いを控えない。  まるで憑かれたように。  周囲から向けられる不審の嵐に、たった一人の自負をもって対抗している。  己は勝つ。己は嗤う。誰も己の〈都合〉《りそう》を超えられない。  そう信じている男――壇狩摩であった。 「おう、幽雫ァ、おまえ相変わらず〈渋〉《しっぶ》いのお。こんとな紅茶客に出すなや。舌が貧しゅうなるじゃろが。  野枝は何処に行ったんなら。おまえよりはあんなのほうが俺ァ正味好きじゃがのォ」  まさに傲岸不遜。  そう形容するしかない態度で、狩摩はきつい揶揄を飛ばす。  辰宮邸の一室で足を投げ出すように椅子へ座り、口に銜えたカップを上下させながら〈飄〉《ひょう》げる様は、まるで己がここの主だと言っているかのようだった。 「なんじゃ、だんまりかい。よいよ堅物じゃのォ、人生楽しいか?  大事な話があるゥゆうけえ、俺がわざわざ出向いてやったっちゅうのにまったく……」 「あなたの現状は、自業自得というものだと思いますよ、狩摩殿」  扉を開けて現れた館の主人にやんわり刺され、狩摩は口角を吊り上げた。 「おう、待っちょったでお嬢。またえらいもったいつけてくれたけえ、俺ァ眠とうなるとこじゃったでよ」 「それは申し訳ありません。ですがもとはといえば、あなたが指定の刻限より半日も早くいらっしゃったのが原因でしょう。お陰でこちらは大変でした。嫌がらせですか?」 「んにゃんにゃ、そんとなことするかいや。俺は単に、早くあんたと会いたかったっちゅうだけじゃけえ。そもそもええ女を待たしちゃならんと思っちょるんよ」 「そうですか。であればなおのこと先のご不満は通りませんね。――宗冬」  右から左へ流すように狩摩の言葉を一蹴し、百合香は泰然と不動を守ったままの家令へ告げた。 「ご苦労でした、下がりなさい。あとは狩摩殿とわたくしの二人だけで構いません」 「御意に、お嬢様。狩摩様も、どうぞごゆっくり」 「言われんでものォ幽雫。まあ心配しんさんな。今もくらくらきちょるけえ、お嬢を独り占めできるんなら硬ォなるんは下だけじゃ。――へははっ」  好色さを隠しもせず下卑た調子で笑う狩摩に、宗冬は何も言わず去っていった。その背を目で追い、向き直った百合香は諌めるように溜息を漏らす。 「あまり、あれをからかわないでいただけませんか。知っての通り、冗談の通じぬところがあります」 「俺はいたって本気じゃがのォ……まあええわ、邪魔もおらんようなったところで、本題といくかい」 「あなたは話が早くて助かります。そのご様子ならば察しもついているのでしょうが」 「小僧どもの四層突破に協力せえと?」 「その通りです」  頷き、百合香は狩摩の対面へと腰を下ろした。そして目を見る。相手の如何なる心理も見逃さぬと言うように。 「家の者らはあなたの一手に意味など求めるなと言いますが、わたくしは考えます。そういう立場と、性分ですから。  盲打ちゆえに負けぬという狩摩殿の自負について、わたくしは一定の信頼をしているのですよ。あなたがやったことならば、まさか裏目だけで終わることなどあるまいと」 「つまり、俺を許すっちゅうことかいや」 「ええ。お痛は見逃して差し上げます」  にっこりと柔らかだが、同時に大上段からの物言いだった。しかし嫌味は感じさせない。彼女の人徳なのだろうか、不遜な狩摩が苦笑を漏らしてしまうほど、それは自然な態度だった。  神野明影の要請で六層を退去し、この四層に居を構えてからまだ幾らも経っていない。にも関わらず、すでに己の領域を確固たるものとしている令嬢は、儚げな外見を大いに裏切る力を持っているのだ。  年齢的には狩摩のほうが上のはずだが、やんちゃな弟を窘めるように微笑む百合香は、そのまま続ける。 「もっとも、あくまで〈廬生〉《ろせい》に倣ったということだけ見ればの話ですがね。危険ですし、わたくしの立場も少々面倒にはなりましたけど」 「それでもある種、柊殿への牽制となったのは確かでしょう。大局的に見るならば、なるほどこれでよかったのかもしれぬと今はそう思っています。  よって不問といたしましょう。神祇省の壇狩摩殿――あなたとの友誼を、辰宮はまだ忘れぬつもりです」 「まだ、かい。ならあれじゃのォ、次から勝手働きは許さんと」 「そこまでは申しません。言ったはずですよ、わたくしはあなたの自負をある程度なら信じていると」 「好意的に解釈して、わたくしが察せられる範疇ならば以後も目を瞑りましょう。その中には無論、再び彼らを襲うことも含まれますし、なんとなればこのわたくしを討つことさえも…… ですが、どうあっても理解の及ばぬ手であったときは別ですよ。あなたと争うのはよほどの覚悟が必要でしょうが、是非もありません。どだいこの邯鄲は血塗れですから。 如何です?」 「ええじゃろう」  短く、狩摩は即答した。 「あんたは頭がええけえのォ、俺の手に理屈をつけてくれるんなら手間が省ける。何より俺自身が自分で何をやっちょるんか分かってええわい。下のモンらは、あれで結構かばちたれじゃけ。  こっちとしても、あんたとぶつかるんはたいぎそうじゃし避けたいところじゃ。少なくとも、今はそう思っちょるよ」 「ならば、彼らの四層突破に協力してくださいますか?」 「ええよ。俺に〈物部〉《もののべ》の代役をやれっちゅう話じゃろうが。もともとそういう手筈じゃったのは忘れちょらんけえ」  百合香に理解が出来る範囲でなら奔放な行動を看過する――そうした合意が成されたうえで、かつ彼女の指示に従えとは契約外のようにも思えるが、しかし狩摩は逆らわなかった。  あるいは、その協力中とやらの状態でさらに遊ぶ気なのかもしれない。  そこは百合香も察しているはずだろうが、何も言わなかったのはすでに釘を刺したゆえか。  喩えるなら暴れ馬だ。御し切れぬし手綱も効かぬが、足は速いので真っ直ぐ走ってくれれば役に立つ。  あらぬ行動をしたときの危険と処理の手間よりも、上手くいったときの見返りが数段でかい。要はそういうことなのだろうが、そんな綱渡りをしなければならない時点で、百合香は追い詰められているようにも見える。  が、それは当の馬である狩摩が否定した。 「しかし、あんたはよいよ人が悪いのう。娑婆ならともかく、〈邯鄲〉《ここ》じゃあ面と向かって逆らえんことくらい承知じゃろうに。惚れた弱みっちゅうやつじゃ」 「そう言ってくださるのは光栄ですが、世の男性はあなたのような方ばかりではありませんよ。中には芯のある本物もおられます」 「ほぉ、ならあれかい。お嬢の手管が通じん奴でもおったんけ。そんなはえらい奇特なタマじゃの。〈石部金吉金兜〉《いしべきんきちかねかぶと》か?」 「どうでしょうかね。ですがわたくしは嬉しいですよ。あなた流に言うならば硬くなる――そんなところかと」 「おお怖っ、これじゃけ女はやれんでよ」  おどけたように仰け反る狩摩に、百合香は意地悪く笑って言った。 「わたくしを馬鹿にしていらっしゃいますの? そんな言葉で調子に乗るほど底が浅くはありません。  女は怖い――なるほどよく聞く言葉ですし、なにやら褒められているようにも感じますので、ある種の優越感に浸る者もいるでしょう。愚かなこと、その実侮蔑されているというのも気付かずに」 「ここで男性方が言う怖いとは、畏怖や畏敬ではありません。強いて言うなら忌避・嫌悪の類。つまり虎や獅子に対する怖さではなく、百足や蜘蛛に対する怖さです。もっと正直に、気持ち悪いと言い換えてはどうですか。  その気になれば容易く踏み潰せる程度のものだが、靴が汚れるし感触が不気味なので触れたくないと。そう仰ってくださる方のほうが、わたくしはよほど好感が持てますよ」 「はあ、そうかい。あんた今さらじゃがヒネとるのう。これも時代のせいか知らんが、そんとにイキっちょってもええことないでよ。  だいたいお嬢の言う通りじゃったとしても、女ァゆう連中が虎になりたがっとるとも思えんし……まあええわ」  百合香の偏った意見に呆れ返った様子の狩摩だったが、言葉通りどうでもいいことだと手を振って話題を戻した。 「四層突破の条件は、初代戦真館の崩壊じゃったの。分かった、派手に〈創界〉《つく》っちゃる。 幽雫にゃ酷なことじゃろうが、そこはしょうがない話よ」 「ええ。我々とは違い、四四八さんはそれを経験せぬ限り一切先に進めません。だいぶあなたのせいですがね。こうなった以上は宗冬も含め、付き合うしかないでしょう。彼は盧生なのですから。 ただ……」  と僅かだけ憂色を滲ませつつ、百合香は首を傾げてみせた。 「五層突破の条件についてのみ、少々疑問があるのです。何が、と言われても困るのですが」 「なんじゃ、あんたもかい。実を言うと俺もでの。  露助どもの撤退……〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈と〉《 、》〈記〉《 、》〈憶〉《 、》〈は〉《 、》〈し〉《 、》〈ち〉《 、》〈ょ〉《 、》〈る〉《 、》〈し〉《 、》、〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈け〉《 、》〈え〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈鋼〉《 、》〈牙〉《 、》〈は〉《 、》〈五〉《 、》〈層〉《 、》〈に〉《 、》〈拘〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ょ〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈あ〉《 、》〈ゆ〉《 、》〈う〉《 、》〈て〉《 、》〈聞〉《 、》〈く〉《 、》〈が〉《 、》」 「彼女の目的は盧生になること」 「つまり逆十字と同じじゃの。ちゅうことはじゃ……」  数秒、二人は見つめ合い、次いでどちらからともなく笑いだした。 「くくっ、いやいや、後は任せた。俺はうだうだ考えてもええことないし、動くときは反射神経じゃと決めちょるけえ。  ただ、荒れそうじゃっちゅうんだけはよう分かるわ。ことによると五層に入った瞬間こそが――」 「はい、もっとも危険なのかもしれませんね。まだ蓋を開けてみなければ分かりませんが」 「六層は二代目戦真館、七層は甘粕と……まあ、小僧どもには順繰りやってもらおうじゃない。〈何〉《 、》〈周〉《 、》〈掛〉《 、》〈か〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈か〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈ん〉《 、》〈が〉《 、》、急かしたところで八層にゃあ届かんわ」 「俺らがこんとなことを話しちょるんも含めての」  〈蜥蜴〉《トカゲ》のように冷たく笑って、狩摩はおもむろに立ち上がった。 「さて、そんじゃあそろそろええかいの。用が済んだんならもう帰るで。  お嬢、俺のボンクラどもを返してつかいや」 「〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈返〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈ま〉《 、》〈す〉《 、》〈よ〉《 、》」  そのとき、室内に烈風が巻き起こった。  竜巻を数倍する速度で何かが走る。それはまったく目に映らないが、荒れ狂いながら絡まる風は都合三種類から成っていた。  そして、にも関わらず室内の調度品は微塵も動かぬ。大岩さえ舞い上げて粉砕するだろう暴威であるのは轟風からも明白なのに、椅子の一つどころかレースの〈紗幕〉《カーテン》すら小揺るぎもしていない。  しかしその奇怪な乱舞は、突如鉈で叩き切られたかのごとく消失した。 「おふざけがすぎます、狩摩殿」  再び嘘のように静寂を取り戻した部屋の中、まったく平常通りな調子で百合香が呟く。彼女の首元、皮一枚隔てたところに、無から生じたとしか思えぬ白刃が突きつけられているということのみが、唯一異常の残滓だった。  が、それも溶けるように消えていき…… 「ええじゃないの。単なる茶目じゃけ」  なんら悪びれずに言った狩摩は、笑いを取れなかった芸人のように肩をすくめて退場に移った。 「まったく、あなたは見せたがりなところだけが心配です。  あまり力を誇示しても、いいことなどありませんよ。基本、軽く見られるように立ち回るほうが遙かに賢いのだと学んでください。  危険と周囲に認識されては、動き難いし面倒も増えるだけだと、誰より知っているでしょうに」 「ふははっ、耳痛いのォ、じゃがそりゃ無理でよ」 「はったり、こけおどし、要は見栄じゃ。張らんで何のための男なんなら、目立ってなんぼよ。この屋敷を見ィ―― これも〈権威〉《そう》じゃないんかいのう。威風を下品じゃあ言うんはお嬢、結局んところ能無しどもの負け惜しみじゃろうが。妬み嫉みよ。   〈自分〉《ワレ》が前によう出られんけえゆうてのォ……目立たん有能なんぞ俺ゃ信じんし、認めんし、そこはあんたも本音のところじゃ同じやろうけえ」  開いた扉から出て、閉める間際、狩摩は抉るような声で言った。 「幽雫の阿呆によう言うたりィや」  そうして、甲高い笑い声をあげながら去っていく。その残響が消えてから、百合香はぽつりと呟いた。 「まあ、それはそうかもしれませんね」  紅茶がほしい。だが野枝はいないのだと思い出して、宗冬を呼ぶのも嫌だったからここは我慢することにした。  そう、今はまだ。  抑えるべき時だと分かっているから、耐えればいいのだ。これまで通りに。 「のっちゃーーんっ」 そして再びの戦真館。一日の休養を終えて戻った夢の中に、黄色い声が木霊する。 「会いたかったよー! ふにふにふにふに、ふにふにふにふに」 それを場違いと思うべきか相応しいと思うべきかは、正直未だによく分からない。だが、これがいつも通りの光景なのは確かだった。 「……ええ、はい。分かりましたから歩美さん、あんまり纏わりつかないでください。気持ち悪いです」 「ああ、そのちくっとくる言い方、やっぱりのっちゃんだ、のっちゃんだよー! 今日もいい匂いするねっ、すーはーすーはー、くんかくんか」 「いい加減、殴り飛ばしますよ」 「遠慮すんな野枝、思いっきりいけ」 「あんたも毎度鬱陶しいことやってんじゃないわよ」 「あん、ちょ――なんなのりんちゃん、邪魔しないでよー」 などと喚きながら引き剥がされる歩美はもはや定番行事になっているので、今さら何か言う気も起きない。この半年で変わったことがあるとすれば、それは〈野枝〉《かのじょ》が地を出すようになったという事実だろう。 「野枝も相変わらず大変ね」 「まったくです。同性に懐かれても全然嬉しくないんですが」 「やめろっていつも言ってるんだけどな。聞かないんだよ、こいつ」 柊様なんて呼ばれ続けることに寒気を禁じ得なかったので、もっと砕けてくれとお願いしてから相応に時間は掛かったが、今じゃこんな感じになっている。それに伴い、俺たちも彼女と気安く接するようになっていた。 歩美は気安すぎるんで問題だけども。 あと、問題は無いといえば無いんだが、栄光とか…… 「いやあ、野枝さん、今日もまたお綺麗で、はい。歩美の馬鹿には僕からきつく言っときますんで、どうか機嫌直してください」 「おまえのノリも充分以上に気持ち悪ぃよ」 まさに、俺も鳴滝と同意見だ。〈栄光〉《こいつ》だけはいつまでも経っても、初期の態度のまま変わらない。野枝本人は気にしてないようだから放置してるが、傍から見てると引くんだよ。 「ありがとうございます、栄光さん。頼りにしていますからね」 「それで四四八さん、話は変わりますが……」 「うん、どうかしたか?」 「はい。今回は少々、これまでとは異なる課業と申しますか、皆さんにとっても特別な区切りになるかと思いますので、そのことについて報告を……」 「したいと、思い、百合香様からも言われておりますので、聞いていただきたいのですが、その……」 ああ、うむ。なにやら大事な話のようだが、歯切れ悪い理由はよく分かる。さっきから野枝の背後へ隠れるようにして、ちらちらこっちを覗いている人影が俺も気になってしょうがない。 これもまた、〈戦真館〉《こっち》の定番行事じゃあるんだけど。 「モテモテだな、野枝」 「面目ありません。ほんとにもう、どうしてこう女ばかり次から次へと……」 「ああほら、鬱陶しいです――出てきなさい〈百〉《もも》っ!」 「ひゃあっ! 」 わりと容赦ない勢いで頭を掴まれ、強引に引きずり出された女の子の慌てぶりを見て苦笑する。俺たちに囲まれて雀のようにぷるぷる震えているその様は、いつものことだが面白い。 本人、いたって真剣なので笑ったら悪いんだが、もはやちょっとした癒し系になっている彼女。 「お、おは、おはようございます皆さんっ」 「おはよう〈穂積〉《ほづみ》。元気そうだな」 「は、はい! 今日も私は元気でありますっ」 鉄棒でも飲んだように背筋を伸ばし、ばしっと踵を打ち合わせる態度はまるで上官に対するものだったが、もちろん俺たちの関係はそんなんじゃない。 〈穂積百〉《ほづみもも》――彼女はこの戦真館におけるクラスメートだ。 「いえーい、もっちゃーん!」 「あひっ、な、なんでありますか歩美さん。私に何か至らぬところでもあったのでしょうか。あの、なぜ抱きついてくるのでありますかー!」 叫びながら揉みくちゃにされている。歩美からいいようにされるレベルで穂積が華奢だというのもあるんだが、それ以前に気弱な彼女は拒絶というものを知らないのだろう。 なんというか、身近な女の大半に思っていることだけど、こいつの将来が不安になってくる眺めだな。 「柊くん、いま失礼なこと考えてたでしょ」 「なんでだよ、決めつけるな」 「だって、そんな風にメガネくい、とかやってるときはいつもだいたいそうじゃないの。癖なんだから、バレバレよ」 「まあなんでもいいけど、百も大概慣れろちゅー話だよな」 「ねえ淳士、あれ小うるさいから止めてきてよ」 「なんで俺が……」 「仕方ないですね。ほら百、歩美さん、皆に迷惑ですよ。それとはしたないからやめなさい」 「あ、だったら僕も手伝うっすわ。オラおまえら、野枝さんの手ぇ煩わせてんじゃねえよ馬鹿たれが」 「ひ、ひぃ、申し訳ありません。私が駄目なばかりにご不快な思いをさせてしまい、なんとお詫びすればよろしいのでしょうかー!」 「ちょっと栄光くん、もっちゃんいじめたら駄目でしょっ」 「いいから黙りなさい。三秒待ちます。二、一」 「すみませんでしたぁ!」 とまあ、ばたばたやってるのを横目にしながら俺たちは肩をすくめ、ともかく場が治まるのを待つことにした。 それで。 「ど、どうも、毎度お騒がせいたしました。改めて、皆さんおはようございます」 律儀な穂積は再び踵を打ち合わせ、別にいいっていうのに一人一人挨拶していく。 こいつは百合香さんの部下じゃなく、〈邯鄲〉《ここ》じゃあいわゆるエキストラなんだが、こんな風に面白い奴なんで普通に仲良くなっていた。 どう見ても軍学校にいるようなタイプじゃないものの、そこは色々あるようで、聞いた話じゃ結構な家柄なんだとか。 歴史は非常に古いそうだが、とっくに零落しているので今は貧乏。だから再興のために跡継ぎを鍛えるべく、問答無用で戦真館に叩き込まれた。本人、虫も殺せないような性分なのに。 そんな感じの、一言でいえば苦労人。でもめげずに頑張っている健気な奴。 それが、穂積という同級生の背景だった。 「まったくあんたは、いつもいつもキョドってんじゃないわよ。毎日顔見るようになってから、どれだけ経ったと思ってるの」 「それは、はい、誠に申し訳ありません。ですが私のような者から見まして、皆さんは眩しく映ると言いますか……」 「いえ、それすら畏れ多いことだと弁えてはいるのですけど、湧きあがる憧憬の気持ちを抑えることが未熟ゆえに如何ともし難く、私は……」 「だから、そういうのやめなさいって言ってるの。ああ、ほら、服に埃ついてる。髪もばさばさじゃない。まったく手間が掛かるわねえ」 「はひっ、そんな、特科の鈴子さんにそのようなことをしていただくわけにはぁ! お見苦しいのでしたら自分でやりますのでぇ!」 「うるさい。黙って大人しくしてるの」 「こ、心得ました。恐縮であります!」 まったくリラックスという言葉を知らない穂積に対し、そんな彼女をフォローするのは意外にも我堂が一番多かった。奴隷云々が口癖の奴だからこそ、自分を慕ってくる者には甘いということかもしれない。 もっとも、単にバツが悪いからってことも充分以上に有り得るんだが。 「なあ、いつものことだけど罪悪感湧いてくるよな」 「そうはいっても、今さらしょうがないだろう」 この世界において完全な異分子である俺たちが戦真館の一員としてやっていくため、百合香さんは特科生という肩書きを与えてくれた。 つまり他とは立場も課業もまったく異なる特別扱い。機密性の高いことをやっているからという名目で、穂積たち一般生徒は俺たちの訓練内容すらまったく知らない。 確かにそういう扱いにでもしてくれない限りどうしようもなかったろうが、それはすなわち、周りからとんでもないエリートのように見られるということで、だからこんなことになっている。 要するに、すべては嘘。穂積の気持ちも単なる誤解でしかないわけだ。でもそのことを話したりは出来ないので、結構胃が痛くなる。 「実力で特別扱いならまだしもなあ……こういうのはやっぱきついわ」 「四四八、おまえなんか現実でエリートなぶん、余計にそう思うだろ」 「だから鈴子も、百に対してはあんななのかもしれないね」 「わたしは全然気にしてないけど」 「いやおまえは少し慎めよ」 ということで、各人色々思うところもあるわけだが。 「で、伊藤。さっきの続きは何なんだよ」 「おまえ何か言いかけてたろ。そりゃあ特科絡みの話か?」 「はい。なにやらばたばたしてしまいましたが、そういうことです。皆さんは本日――」 「よーし、そろってるなおまえら。そのまま聞けェ」 現れた教官殿の一声で、皆が同時に私語をやめた。のみならず、直立不動の姿勢を取る。 そのまま聞けとは言うものの、軍隊でいう“そのまま”とはだらけた格好なんて意味じゃない。だから舐めた緩みを見せていると、容赦なく鉄拳が飛んでくる。 そんな俺たちを見回しつつ頷いて、花恵教官は意地悪く笑った。〈芦角先生〉《ハナちゃん》とは似ても似つかぬ凄みを全身から滲ませつつ―― そして告げる。 「特科七名、今すぐ営庭まで駆け足! 他の者らは自習――復唱!」 「はッ、特科七名、今すぐ営庭まで駆け、命令を待ちます、教官殿!」 「よろしい、行けッ!」 「了解であります!」 肉食獣のような教官殿に叫び返して、俺たちは一斉に教室を出た。 間際、野枝が目配せですみませんと言っているのが目に入ったが、さっと頷くだけに留めておく。駆けろと言われた以上、立ち止まってはいられない。 さて、いったい何があるのか不明だが、どうやらこれからハードなことになるようだ。 全員、それだけは確信している。もしかしたら、今回は訓練じゃすまないかもしれないということを。 その後、俺たち以外に誰もいない営庭で整列し、空を見上げるようにしながら直立して待つこと数分……やってきた人物を見咎めて、全員が眉を〈顰〉《ひそ》めた。 一人は花恵教官。それはいい。だがもう一人は…… 「休め」 ざ、と内心の戸惑いはともかく身体は動いた。この半年で叩き込まれた習慣は、もはや反射の域に入っている。 それを見届け、問題の人物は満足げに頷くと…… 「結構。皆、見違えましたね。〈戦真館〉《ここ》で顔をあわせるのは初めてですが、逞しくなられた」 「花恵は教え下手なので心配だったのですが、すべては皆さんの努力によらしむるものでしょう」 幽雫さん……なぜ彼がここにいるのか。本人も言った通りこれまでこんなことはなかったはずなのに。 無論、接触自体は何度かしている。百合香さんは話好きなのか定期的に俺たちを招き、歓談の場を設けてくれるので、そのたびにこの人とも会っていた。 しかし、それは裏を返せば辰宮の邸内以外で顔をあわせていないということ。家令頭の彼は、あの屋敷から一歩も出ない。より正確に言うと、百合香さんの傍から離れない。 そういうものだと、俺は思っていたのだが…… 「おい幽雫、いきなりさらっと私を下げるな。苦労したのはこっちなんだぞ、ちょっとは労え」 「馬鹿を言うなよ。おまえはお嬢様の命をただ果たしたにすぎん。それは当たり前のことで、ゆえに私から何か言う必要はない」 「それともおまえ、偉業と誇るほどのことをしたのか?」 「さてねえ」 「原石を磨いたのか、単に〈鍍金〉《メッキ》を施したのか」 「そりゃあすぐに分かるだろ」 会話する二人の前で、俺たちは一言も発さなかった。それは発言の許可が出ていないからというのも当然あるが、実際は背に走るものがあったからだ。 焼け付くような緊張感。まるでこれから、命懸けの何かが始まるとでもいうかのように。 俺たちの心情を読み取ったのか。ちらりと花恵教官はこちらを見て、唇の端を吊り上げた。 「よしおまえら、注目しろ。今からこの堅物が話をする」 「説明無しのままでもいいんだが、そこは私の親心だ。感謝しとけよ。返事は?」 「はッ、ありがたくあります!」 再度空を見上げて和する俺たちに苦笑しながら、幽雫さんが前に出た。緩く手を振り、楽にしろと目で促す。 「ではそういうことで、聞いてもらいましょう。皆さん、私の前でそのように畏まる必要はありません」 「まあ〈戦真館〉《ここ》の流儀で言うのなら、たった今あなた方に対する指導権を花恵より受け取りましたので、ここでは立場上、私が教官の代わりです」 「その私がよいと言うのですから、気にすることはありません。花恵が怖い顔をしていますが、今の彼女に皆さんを叱責する権利は無い。お分かりですね?」 「はッ――、いえ、はい……もちろん」 「よろしい。大いによろしいですな。それでは一つ、今日は皆さんに試験を課したいと思っています」 「試験……ですか? いったい……」 当然の疑問に対し、返ってきた答えは単純明快。 幽雫さんはにこやかに、花でも愛でるような調子で言い放った。 「私と戦ってもらいます」 「――――――」 その瞬間、一気に全員の心と身体が強張った。 「おや、それほど意外ですかね。多少鈍くとも、ここまでの流れで予想はつきそうなものですが」 「まさか私に、紅茶の手解きなどを期待していたわけでもないでしょう」 冗談のつもりなのかもしれないが、まったくもって笑えない。俺たちは皆、一言も返すことが出来なかった。 幽雫宗冬。辰宮家の家令頭にして、戦真館の初代筆頭でもある彼と戦う――それは確かに、そういう展開を読んでいなかったわけじゃないが、正直言ってあまり想像したくはなかったのだ。 彼に対し、大枠で抱いている気持ちは好意だし、世話にもなっている相手だからそんなことはという気持ちも確かにある。だが本音のところを述べてしまえば、単にこの人が怖いのだ。 なぜなら分かる。〈戦真館〉《こっち》で鍛えられた半年間で、彼の力量がいくらか読めるようになっている。 そして結論――尋常じゃない。ただ微笑しているだけのこの人から、格の違いというものが伝わってくるのだ。 「言っとくが、おまえら甘いことを考えるなよ。こいつに比べたら、私がどれだけ優しかったかっつうのを墓の下で噛み締めたいなら話は別だが」 「墓って、だけど……!」 「あぁん? 何寝ぼけてやがる。訓練でも人は死ぬんだぜ」 「娑婆じゃあ〈訓練〉《それ》で死なすのは恥だって言う奴もいるけどな。〈邯鄲〉《ここ》でそんなもんは通らねえよ」 「役に立たねえならさっさと殺して、夢から覚ましてやるのがせめてもの慈悲だ。そうすりゃ〈邯鄲〉《ここ》から抜けられるだろう」 「……ッ」 身も蓋も無いその理屈に、反論することは出来なかった。これから戦っていく力が無いなら、死ぬことでしかこの悪夢からは抜けられない。 「どうやら本気……みたいよね」 「うん……だけど、どうして今?」 「もちろん、皆さんに四層突破をしていただくため」 「すでに申し上げたはずですが、この邯鄲は八つの階層より成っています。その制覇によって夢の現実獲得が可能となり、また〈魘〉《うな》される夜も二度となくなる」 「そして、外に出してしまった夢を回収することも……」 「そう。〈夢〉《 、》〈を〉《 、》〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈出〉《 、》〈さ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈選〉《 、》〈択〉《 、》も許される。あくまで真っ当な人として、見知った日常へ帰ることも」 「だがどちらにせよ、それは邯鄲を制覇せぬ限り叶わない」 よって、各階層の突破は必須のこと。神野や聖十郎ら、危険な存在を排除するのと並行し、第八層へ至らねばならない。 そう聞いているし、それは分かる。そしてその条件は確か―― 「それぞれの層における歴史の分岐点を体験し、そこでの選択に勝ち残る」 「平たく言えば、すべてが修羅場なので死なぬように切り抜けなければならないのですよ」 死ねば文字通りのゲームオーバー。そしてなんとか生き残っても、〈ど〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈選〉《 、》〈択〉《 、》〈の〉《 、》〈末〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈で〉《 、》〈後〉《 、》〈の〉《 、》〈展〉《 、》〈開〉《 、》〈が〉《 、》〈ガ〉《 、》〈ラ〉《 、》〈リ〉《 、》〈と〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈る〉《 、》。 邯鄲の夢。盧生のように。〈もしも〉《イフ》の歴史というやつだ。 ゆえに各層の突破条件も一定しない。どんな分岐点が発生するかはそのときにならなければ詳細不明。 確定なのは必ず修羅場になるらしいということで、だから今俺たちを鍛えるのか。つまり〈分岐点〉《それ》が近いのか。 もしくは、これこそが四層突破の瞬間だとでも? 答えは、即座に与えられた。 「初代戦真館の崩壊……それがこの四層を締め括る戦場です」 「五層以降は展開次第で変わりますが、〈第四層〉《ここ》だけは常に不変。すべての始まりですからね」 「よって私が、あの混沌に皆さんが耐えられるかを試しましょう。見極めの役としては、適任であると自負しています」 「なぜなら――」 ふ、と一瞬だけ自嘲するように淡く笑い、幽雫さんは短く告げた。 「かつて、現実におけるあのときに、生き残ったのはこの私だけなのですよ」 「――――ッ、……ゥ」 そのとき、不意に正体不明の目眩が俺を襲った。痛みの類はまったくないが、意識が落下するような酩酊感に苛まれて視界がぐにゃぐにゃと歪み始める。 見れば、それは他の奴らも同様だった。そう、〈み〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈は〉《 、》〈気〉《 、》〈づ〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 何かがおかしい。変なのだ。どんな馬鹿でも疑問に思うレベルのことが確かにあって、分かっているのに、なぜかまったく気にならない。 世良も、我堂も、晶も、歩美も……そして栄光、皆そうだ。いいや、しかし一人だけ、鳴滝……なんだ、おまえはだけど…… 地面が四方から起き上がってくるような気分の中、ただ訥々と綴られる幽雫さんの声が歪みながら響いてくる。 それに含まれた香りは、紅茶? いいや違うぞ――なんだろう分からない。 「あの日、〈戦真館〉《ここ》では、学生たちを実験に試作型の邯鄲が試みられました」 「強壮な露西亜との戦……その後にも予想される世界的なうねり……誰もが力を欲していました。国はもちろん、純粋ゆえに愚かだった少年たちも、大勢が」 「だから志願しましたよ。せぬ者はいなかったでしょう。当然競争率は大変なものでしたが……まあ私は、当時の筆頭でしたからね。選ばれましたし、誇らしかった。まったく嬉しかったですよ、あのときは」 「まだ学生であったにも関わらず、随分な数の貴顕から激励の御言葉をいただいて、拝顔の栄にも浴しましたが……結局はそれだけです。もはや誰も生きていない」 「術者本人。我々被験者。教官各位。そして選に漏れながらも応援してくれた戦真館の仲間たち……その他思惑は様々だったことでしょうが、ともかく列席したお偉方や〈記者〉《プレス》も残らず一纏めにして――」 鼻で笑い、そこで彼は過去を踏み潰すような声を落とした。 「私以外、皆死んだのです」 「あれがもう一度、〈邯鄲〉《ここ》で再現されようとしている」 「四層突破の条件としてね」 「―――――――」 そうして唐突、視界は一気に立ち戻った。それと同時に、頭の中で蠢いていたワケの分からないものは綺麗さっぱり消えている。 当惑さえ覚えるほどに爽やかな気分だった。今の今まで、自分が何を惑っていたのか不明になるほど。 いや、実際に忘れている。もうそんなものはいい。 「つまり……」 だから俺は気を切り替えて、目の前にあることだけを意識し、言った。 「今、俺たちが、当時のあなたくらいでなければ全然話にならないと?」 「そういうことです」 よくできましたと頷く美形が綻んで、結花したかのような妖しさを見せる。 それが――再び俺たちの経験する命懸け。訓練の名を借りた死闘の幕開けを告げる合図だった。 「――おらァッ!」 もっとも速く攻撃に移ったのは鳴滝だった。決してスピードに恵まれているわけではないこいつにとって意外なその速攻は、おそらく完全な初動の差。すなわちこの場の誰よりも前から戦闘準備を完成していたということになる。 喧嘩の場数か、生来の性分か、前に自分で言っていた甘さのようなものは欠片も見えない。顔見知りである幽雫さんに一切の容赦もなく拳を振り上げて打ちかかる。 ならば俺も続くべきだろう。一瞬のうちに即決し、両手に旋棍を創形し終えると鳴滝の後に続いた。先手必勝に〈否〉《いや》ない。 幽雫さんは手加減などして戦える相手じゃないと直感している。 「おおおおォッ!」 胸に残った躊躇、恐れ、今このときは不要と断じたそれらすべてを吹き飛ばすため、俺は雄叫びをあげて吶喊した。期せずしてだが、結果としてタイミングは完璧に近い連携となっている。 共に全力で打ち込んだ俺と鳴滝の攻撃は、狙い過たず標的を捉えていた。そう、紛れもなく二つの攻めは命中したのだ。 「結構。戦度胸に不安は持っていないようだ」 にも関わらず、目の前の幽雫さんに効いてる様子は微塵も見えない。平然と笑ったまま、しかもまったく後退していなかった。踏ん張るでもなく、当たり前に立っているだけですべての衝撃を受け止めている。 まるで地面に根でも張っているかのようだった。事実として俺が感じた手応えは、不動の大木に激突したかと錯覚するほど重厚、かつ堅牢で―― 「さて、ならば、後はそれに見合う実の有無」 「威勢がいいだけでは空回りするだけですので……」 「なッ……」 「馬鹿な……!」 彼は力など込めていない。誰が見てもそう言うだろうゆったりとした動作で腰の鋭剣に手をかけて、抜き始め、俺と鳴滝はただそれだけでじりじりと押されだす。 駄目だ、抜かせるなと全力で押し返すが話にならない。まさに空転するタイヤさながら、足は虚しく砂煙をあげるだけで後ろへ下がる。止められない。 「そこを試すとしましょうか」 そしてそのまま、抜刀と同時に俺と鳴滝は吹き飛ばされた。 信じられない。パワーの面じゃ仲間内のツートップである俺たちが、真っ向からの力比べでこうまで子供扱いされるとは考えてもいなかった。いくら〈邯鄲〉《ここ》が夢とはいえ、あまりの非現実に驚愕する。 なぜならタフさやパワーに関することは、現実のスペックと正比例しやすいはずだ。自分の肉体というもっともリアルなものに対し、実情とかけ離れた幻想を抱くのは難しい。俺たち全員がそうだから分かる。 ゆえに幽雫さんは重戦車に非ず。速いかもしれないが力強いタイプではないだろうと、その外見から思っていた。女と見紛うほど美形の優男に、まさか二人掛かりで押し負けるなんて予想の埒外に決まっている。 「づゥッ……」 だが、なんだろうと結果は結果だ。いつまでも驚いてはいられない。弾かれた俺たちは滑るように着地を決め、当然の追撃に対応すべく即座に防御の構えに入った。 しかし、驚愕はまだ連続する。あるいは、単に俺たちの読みが甘すぎるだけなのか。 迅雷一閃、まさにそう表現するしかない速度で黒い家令服は矢と化した。高速疾走する重戦車、しかもそれが攻め込んだ先は俺たちじゃない。 「えっ……?」 歩美――俺たちの中で一番脆いところを真っ先に狙っている。 多勢を相手にする際の常識戦術。それを迷いなく採るとはすなわち、彼に容赦がないということ。 本気で潰す。殺す気だ。今から俺が追いかけても届かない。 「くッ、そがァ――鈴子ォ!」 「分かってる!」 だから俺と同じ思考で、鳴滝は我堂に頼った。位置的にも歩美とすぐ隣同士、一番速いあいつなら抱えて退くことが出来るはず。 歩美は必ず守らなくてはならない。それは仲間意識も当然あるが、戦術上の絶対判断。 ここでいきなり一人欠けたら〈士気崩壊〉《モラルブレイク》は避けられなくなり、連鎖で間違いなく全滅する。 「世良ァ!」 「うん、任せて!」 追わせない。食い止める。後退に移った我堂と歩美を守るため、世良が壁を展開した。堅固な物質創造で追撃の阻止を図る。 だがそれすらも―― まったく、何の意味も無かった。鋭剣の一振りで水晶の壁は木っ端微塵に砕かれる。 「――嘘」 光を乱反射する数多の欠片を突っ切って、なお歩美へ迫る黒い疾風は止まらない。狙い定めた獲物を徹底して狩るスタイルは、まるで猟犬そのものだ。 怜悧冷徹、研ぎ澄まされた狩猟本能で疾駆するドーベルマン。ここでの幽雫宗冬は、まさにそういうものだった。 俺や鳴滝はもちろんのこと、すでに世良も、晶と栄光も追いつけない。 そして我堂も、歩美を抱えたままでは逃げられなかった。距離が瞬く間に詰まっていく。 「うッ、ああああァァ!」 「――鈴子!」 「――歩美!」 その悲鳴ごと引き裂くようにして走る猟犬。今こそ獲物の首元に喰いつかんとする麗貌には、失笑に近い落胆が刻まれていた。 「どうやら、打つ手無しですか」 戦闘開始からほんの数秒。たったそれだけで俺たちは見るも無残に追い詰められ、成す術も無く―― このままあっけなく歩美を失う? そして敗北? いいや違うぞ、そんなことは―― 「――四四八くん、早くあれを!」 そうだよ、断じて有り得ない。今、誰よりも危険な立場に立ってる歩美が、一番冷静に事態を見ていた。俺も無論忘れちゃいない。 戦真館ですごしたこの半年、何を知り、何を覚えた。もう俺たちはあの頃と、母さんを目の前で死なせてしまったときとは違う。 打つ手無しだなんて笑わせるな。まだやれることは残っている。 いいや、むしろこれからが本番なんだと奮い立ち、俺は―― 「仁義八行、如是畜生発菩提心」 ここに、叩き込まれた戦の真を発現させた。 紡いだ言葉も、組んだ印も、単なるこけおどしじゃ有り得ない。この局面で何の効果も無い無駄なことをするわけがなく、れっきとした理由があった。 真なる意味での霊や神仏など居はしないが、人が思い描いたゆえに発生した物語の登場人物である彼らなら、普遍の無意識に住んでいるのだと知ったから。 そこには廃神、祟りと呼ばれる魔性も含まれてはいるものの、当然まったく反対の、輝く者たちも存在する。 ゆえに、それへ助力を請うのだ。俺はあなたの信者であり、あなたを生んだ親であり、あなたを夢に見た者だからすなわち同一。 願う祈りの源泉を知り、その背景をもとに夢を組む。これがすべてに通じる基本思考で、大前提となる心構えに他ならない。 よって自らの憧れを口に出すことは極めて重要。やるかやらないかで結果に雲泥の開きが出る。 高度な夢を組む際ならば、なおさらに。 想いをただの絵空事にしないためにも。 「〈詠段〉《えいだん》、〈顕象〉《けんしょう》――」 今、俺たちの成長を、ここで大先輩に見せてやろう。 「〈形〉《ぎょう》して散ぜッ! 行くぞおまえらァ!」 噴き上がる夢の奔流は〈咒法〉《マジック》と〈創法〉《クリエイト》の同時展開。序詠破急終の五段からなる戦術利用された邯鄲で、それは第二段目の階となる奇跡だった。 「来た来たァ――りんちゃん、もう大丈夫だよ、離れて!」 「分かった!」 迫る鋭剣の切っ先が届く寸前、我堂は歩美を思い切り投げ捨てた。スピードが乗った投擲は小柄な体躯を宙に飛ばし、瞬間的だが再度追う者と追われる者の距離が開く。 そして、今の歩美ならそれだけでも充分だった。 「真っ直ぐ突っ込んでくるなんて狙い易すぎ!」 錐揉みながら吹っ飛ぶ空中という状態にも関わらず、まったく問題ないと言わんばかりだ。事実、本当にそうなのだろう。射撃に関することならば、歩美の右に出る者はいない。 俺が創形し、こいつの手元に飛ばした〈狙撃旋条銃〉《スナイパーライフル》で、今やその技量は十二分に発揮できる。戦闘開始をするにあたり、もっとも最初にやらねばならないことはこれだった。 創法の適性が高い世良や我堂、そして肉弾を主とする鳴滝には必要ないが、歩美と晶と栄光には武器を渡してやらねば始まらない。それを可能とするのは俺だけだ。 なぜなら咒法と創法を高いレベルで融合させ、かつこいつらの資質を見誤らないという二つの条件が必須だから。そうなればもう議論の余地なく、俺しかいないって話だろう。 「〈ぶっ飛ばしてやるぜ〉《キック・ユア・アァース》!」 おそらくいつもゲームで言っている下品なスラングを口にして、同時に装填された歩美の〈弾丸〉《ユメ》が銃口から轟音と共に放たれた。 その数、実にこの刹那で十発以上。狙撃銃の規格を完全に無視しているが、何も不思議なことはない。 そもそも〈創形〉《つく》った俺自身に銃の知識などたいして無いから、現実的にどうだというイメージの枷が無く適当なのだ。拘ったのは歩美に相応しい物ってことと、それをこいつに喜んでもらおうという気持ちのみ。 要はプレゼントと変わらない。渡す側の目が節穴じゃない限り、〈物〉《ブツ》は受け取る側の手に持たれたときこそ最高の光を発する。 ゆえにこのとき、マシンガンもかくやの勢いで連続した銃弾は驚異的な威力をもたらした。これまで誰も防げなかった幽雫さんの迫撃を相殺し、動きを停止させてしまうほどに。 それはもちろん、咒法一本で成せる芸当じゃないだろう。歩美は先の銃撃にこいつがもっとも得意とする組み合わせ――解法の崩をも重ねていたのだ。今や俺以外の全員も、詠の段に達している。 まだ戦士としてのスタートラインに立っただけだが、それでも半年前から進歩無しとは言わせない。 だからこそ、俺たちがこの隙を見逃すなんてことも有り得なかった。 「悪ぃ、幽雫さん。こうなりゃあたしも本気で行くわ」 「これでも一応、スパルタには慣れてっからさ」 晶を中心に旋回し、一瞬で伸びた白い帯が幽雫さんを雁字搦めに縛り上げた。のみならず、宙から落ちる歩美をキャッチし、体力面に不安のあるあいつを地面との激突から救出する。 俺がイメージしたのは漠然とした鎧という概念だったが、晶の手に渡った瞬間、それはこういうものに変じるのだ。 おそらくは包帯。しかも鋼のように強靭な――治療と防御を一挙に兼ねた守りの利器だ。そして攻撃に使用すれば、一転岩をも締め潰す拘束具と化す。 晶の楯法適性はかなり高い。武装に宿らせたその力が帯の強靭さを増幅させている以上、たとえ幽雫さんでも容易く解けはしないだろう。今や全員、初撃のときとは気持ちが違う。 「けど、やっぱ半端ないわ。凄ぇ力だ……そんなに保たねえ」 「――オラおまえら、ぼさっとすんなよ。畳んじまえ!」 「――了解!」 叱咤に応えて、世良と我堂が攻め込んだ。どちらもすでに武器の創形を終えており、そこに強力な意志を込めている。 剣と薙刀――両サイドから迫る二つの白刃が同時に幽雫さんへ叩き込まれた。そこに甘さは当然無い。 死なせてしまったらどうしようとか、そんな躊躇はこいつらもまた超越している。相手の力量を認めているからこその全力だ。 「なるほど」 そして対する彼はというと、こちらの期待にある意味で完全に応えてくれた。 「悪くない。だが惜しい」 力任せに千切るのは手間が掛かると踏んだのか、その場で彼は猛回転し、晶の拘束から逃れ出ていた。絞める方向は複雑に絡み合っていたはずなのに、いったいどういう体術なのか、針の穴でも通すように綻びをついて突破する。 そして回転は衝撃となり、世良と我堂を喧嘩独楽さながらに弾き飛ばした。 「――きゃっ」 「つゥッ――」 そのまま体勢を崩した二人に向けて、唸りをあげる刃風が空を切り裂きながら飛来する。 「甘いよ!」 だが、こちらもそれを凌ぎ返した。我堂に向かった一撃は歩美が空中で撃ち落とし、そして世良には、言うまでもない。 「舐めすぎっしょ、幽雫さん」 栄光がその強力な〈解法〉《キャンセル》で、文字通り無効化していた。 「〈咒法〉《マジック》あんまり得意じゃないでしょ。オレには見えてんで、脅しにも使えねえっすよ」 こいつの装備は、一言でいえばブースターだ。〈解法〉《キャンセル》以外が軒並み低い栄光は、原則そのままじゃあ敵の攻撃を避けられないし当てられない。 だから俺が重視したのは機動力。鎧が似合うタイプじゃないし、もともとこいつの資質ならば触れただけでも必倒に近いはずだ。派手な武器は必要ない。 よって、求められるのは移動を助けるブースター。ローラーブレードめいたその靴は、栄光の力で重力を無効化しながら縦横無尽の高速機動を可能にする。 こいつは風火輪なんて呼んじゃいるが、それはそれで問題なかった。その名が栄光の〈憧れ〉《ユメ》だというなら、描いた通りの力を発揮するに違いなく―― 「――受け取れ」 俺は俺で、先ほどから組んでいた夢を再び飛ばすだけだ。 今度は咒法と解法の同時展開。もちろんそれは、仲間の夢を壊すためにやったんじゃない。むしろその逆。 我堂、晶、そして鳴滝――解法の資質が低い奴らを支援する目的でやっている。 歩美流に言うならステータスアップ呪文か。装備を創って渡すほど単純にはいかないので複雑だし、基になってる俺と同等までキャンセル性能を上げることは出来ないが、それでも効果は確実に出る。 皆の要として、こいつらが十全に力を発揮できるよう束ねるのが俺の役目だ。半年の訓練で自然とそういう立場を任されたし、それは全員が認めてくれた。 ならば、その期待を裏切るわけにはいかないだろう。 初動において下手は打ったが、ともかくなんとか立て直した。これでこちらの準備は万全。 「さあ――」 「やりますか、幽雫さん」 ここから先、もう俺たちに不備は無い。かかって来いと、全員そろって構えを取る。 「だっはっは! おいおい幽雫、なんか言われてんぞ。どうすんだよ」 「ガキんちょ相手に本気出しちゃうかあ? でないと少し危ないんじゃねえの?」 「私は最初から、手抜きなどしていないが」 「まあ、おまえの顔も立ったようで何よりだ。もしもあのまま終わっていたら、指導不足として罰を与えていたところだよ」 「ぐッ、あのなあ……」 煽りを鼻で笑うように切り返されて、花恵教官の顔が歪む。何度か口を開閉させて言い返そうとしたようだが、無理だと悟ったのか俺たちに八つ当たりのような激を飛ばした。 「おまえら、私のメンツを潰すんじゃねえぞ。このクソ色男泣かしてやれ!」 「ちっとくらい上手くいったからってのぼせんなよ。特に大杉、てめえ見えてるって言ったよな」 「だったらより正確に教えてやる、こいつの〈五常〉《ごしょう》は急の段――」 つまり、今の俺たちより二段階も格上ということになる。これまで朧げに見えていた脅威の力量を断定され、全員に緊張が走った。 「力だけなら鋼牙や盲打ちと同格だ。隙見せたら一瞬でぶっ殺されっぞ――気張っていけッ!」 「はッ、ご指導ありがたくあります、教官殿!」 今この場において彼女は俺たちへの指導権を持たないということだったが、叩き込まれた習慣はなかなか抜けない。気持ちは逸らさず、和して叫ぶように礼を言う。 実際、教官殿の気持ちはどうあれ、その忠告はありがたかった。 「まったく、花恵は思いのほか甘くていけない」 「実戦でそんな情報を易々得られるわけがないというのに」 幽雫宗冬は鋼牙や盲打ち、つまり聖十郎も含めたあの連中と同格だという。それを事前に心得ているかいないかでは大違いだ。 これから先をやってくためにも、ここでどの程度彼と戦えるかが明確な試金石になると確信を得た。否が応にも気持ちは高まるというものだろう。 「だがこうなったからには仕方ないか。教官の代わりとして、皆さんにも少しらしいことをしてあげましょう」 「〈五常楽〉《ごしょうらく》――すなわち邯鄲の位については花恵から詳細を聞いていますね。そは〈序〉《じょ》・〈詠〉《えい》・〈破〉《は》・〈急〉《きゅう》・〈終〉《つい》から成る全五段」 「序段は初心者。一度に一つの夢しか使えない」 それは初期の俺たちを指している。普段どおりの柔らかな口調で講義を始めた幽雫さんだが、だからといってこれを好機と攻め込むことは出来なかった。隙は欠片も存在しない。 今このときもゆらゆらと上下する剣先は鎌首をもたげた蛇のようで、迂闊な真似をすれば即座に貫かれると理解できる。ならばこそ見極めろ。 彼が動くその刹那か、あるいは崩すきっかけとなる瞬間を。 目を逸らすな。全神経を集中して見ろ。俺たちもまた見られている。 「詠段は今の皆さん。二つの夢を重ねることが可能となり、戦術の幅は格段に広がる。また組み合わせが上手ければ、相乗効果で威力は倍増」 「先ほどの立ち回りを見る限り、そこに問題は無いようだ。皆、実によく弁えているし度胸もいい。〈兵〉《つわもの》と評して構わぬ出来ですね。私も先達として鼻が高い」 「だが――」 く、と僅かに首を傾げて彼は言った。 「にも関わらず、破段に届かぬのはまだ覚悟が足りぬせいかな。そこまで研がれているのなら、気持ち次第で容易く達せるはずなのに」 「とはいえ、まあ、慎重になるのも理解できる。何せ選び間違えれば事ですからね。やり直しは効かない」 「己だけの夢を創る作業というのは、そんなものだ」 その言葉に反論することは出来なかった。事実、未だ俺たちの誰も破段に上がれていない理由はそこにあるのかもしれない。 それは言わば、固有能力の創造。自分だけの夢を見極め、展開することに他ならないから。 「まだ幼い皆さんに、己が何者であるかを確信しろとは、なるほど難しいことかもしれない。ですが反面、子供だからこそ簡単だという見方もある」 「その点、あなた方は後者でしょう。自己の信仰対象を知りもしない〈様〉《ザマ》であったら、先の一合で終わっていた」 「となれば、そもそもこのような情報など与えられぬほうがよかったかな。これは花恵の落ち度ですね。下手に知ってしまったせいで、迷いが生じているのでしょう。自覚はせずとも、無意識のうちに」 「しかしなんにせよ、破段を極めねば急段には上がれませんし」 そこから先は、言われずとも分かっていた。 「敵の破段に対抗することも出来ない」 「そういうことです。ではいったい?」 そのとき、幽雫さんの剣先から僅かだけ気が薄れた。誘いである可能性は多分にあったが、それでも隙には変わりない。 破段に抗し得ないならどうするかと言われれば、ここでの答えは決まっている。阿吽の呼吸で、全員が俺の意図を察していた。 「そもそも使わせなきゃいいんでしょ!」 生じた隙の一点を衝いて、歩美の銃が火を噴いた。そう、今の俺たちが採るべき〈戦法〉《みち》は、彼の破段発動を防ぐこと。 現状、準備万端整った俺たちは、裏を返せばもう底が無い。ゆえに再びペースを取られたらさっきのような立て直しは出来ないし、何より彼がさせないだろう。だから後手に回るのは二重の意味で危険すぎる。 たとえそれが誘いであっても、先手先手で押し切るのみだ。 「行くぞ鳴滝、もう一度だ!」 歩美の援護射撃を受けながら、再度俺たち二人で切り込んだ。もとより前衛役はこのコンビだと決まっている。 連続する銃撃の悉くを幽雫さんは弾いているが、七人からの波状攻撃をすべて凌ぐのは並大抵のことじゃない。休まず重ねていく限り、必ず勝機は掴めるはずだ。 そして間合いに入った瞬間、同時に拳と旋棍が放たれる。だがそれは空を切った。 しかし見失いはしない。即座に気づく。 「上か――」 「世良、我堂ッ!」 「分かってる!」 宙に逃げた幽雫さんを追撃すべく、二人も跳躍に入っていた。 そのタイミング自体は同じだったが、戟法性能とリーチの差により、僅かだけ我堂が速い。 「はああァッ!」 裂帛の気合いと共に、旋風のような一閃が放たれた。長物特有の遠心力を利用した薙刀の斬撃は、女が使っても現実と同じく必殺の威力を発揮する。速度に特化し剛を得手としない我堂にとって、これほど適した得物はないだろう。 ゆえに受け止めた幽雫さんも、空中という悪条件が重なって威力を殺しきれず身体が流れた。そこへ狙い済ましたように世良が続く。 こちらは我堂と対照的に、モーションを極度に抑えた刺突だった。それだけに速い――届くか、いいや。 それは有り得ないと分かっていた。物理的には不可能な挙動で宙を滑走した幽雫さんが、世良の刺突を回避する。 そう、ここまで完璧読み通り。 「オレが出来る程度のこと、あんたにやれないはずはないっしょ」 重力無効化による飛翔能力――そういう芸当を可能にする〈栄光〉《こいつ》が身内にいたからこそ、この展開は想定できた。ならば後は、罠の口を閉じるのみ。 再び宙を走った晶の帯が幽雫さんを捕らえていた。そこに背後から渾身の解法を練った栄光が迫る。 「――柊、肩貸せ」 加え、鳴滝も後に続いた。おそらく最初の攻防について腹に据えかねるものがあったのだろう。借りを返すべく俺の肩を踏み台にして跳躍する。 「いっくぜええェッ!」 「吹っ飛べ」 結果、二つの必殺をまともに受けた幽雫さんは、轟音と共に弾け飛んで地面に落ちた。 土煙が舞い上がる帳に向けて、さらに駄目押しが炸裂する。 十発、二十発、三十発――絶え間なく続く歩美の銃撃に重なる形で、俺もまた全身を捻るように力を溜めた。 この好機を逃さない。ここで一気に決めてやる。 「――食らえェェッ!」 振り抜いた旋棍が衝撃波を発生させ、的を捉えた瞬間に爆発さながらの破壊と大音響を発生させた。 放った戟法と咒法の同時技は無論のことまったく同規模の強さで組まれており、ゆえに威力も押して知るべし。断じて甘くないと自負している。 「……どうだ」 やったか? 疲労に息を荒くしながら帳の向こうを凝視する。 今の連携が俺たちの全力だ。現状、あれを超える攻めは出来ない。 相応に感じた手応えを信じるなら、これで勝利ということになるはずなんだが、首尾はいったい…… 「出て、こないわね」 「もしかして、やりすぎちゃった?」 そのとき、だった。 「え……」 不意に、横の我堂が血を吐いた。続いて世良も、そして栄光と鳴滝も。 「なに、これ……」 「おい、嘘だろ」 「ざけんな、ちくしょう……」 ばたばたと四人が倒れる。正体不明の異変を前に戦慄した俺の耳へ、恐ろしいほど普段どおりの、つまり優しげな声が響いてきた。 「まだ現実の感覚が忘れられないようですね。見えているものに囚われすぎだ」 「神祇省と戦ったことがあると聞きましたよ。彼らの何を見ていたのですか」 徐々に晴れていく視界の中、現れた彼には依然として一つの負傷も見当たらず、ゆえに苦痛も怒りも窺えないのは当然で…… 「いけませんね。これでは駄目だ」 それがこそが、全力を振り絞ったこちらにとっては一番信じられない異常だった。 「どうして……」 なぜだ。攻めは完璧だったはずなのに、そこまで実力差があるというのか。 それとも彼は、俺が気づかない間に破段へ移行していたとでも? 「聞いていますか? 私がやったのは神祇省の真似事ですよ。つまり不意討ち、騙し討ち、目晦まし」 「その即興芸にこうまで簡単に嵌るとは情けない。これが本家のものだったなら死んでましたよ。もう一度言いましょうか、見えているものに囚われすぎだ」 「すなわち逆に言うならば、見えないものを見ていないまま」 「―――――ッ」 そうか、そこでようやく理解した。彼は破段など使っていない。 いま本人が言ったように、あくまで夜叉や泥眼の真似だったんだ。敵が認識している自分の位置を実際とはズラしたり、死角から見えない刃を飛ばしたり、そういうことで説明がつく。 会心の手応えはすべて偽り。その実、俺たちの攻撃は一度もクリーンヒットしていない。 だからそうとは知らず彼に接近した世良たちは、ワケも分からないままやられてしまい、この有様となっている。 あの脅威を忘れてなどいなかったのに、幽雫さんとはまったく別個に考えていたから一切対応できなかった。栄光が出来ることなら彼も出来ると、他ならぬ俺が思っていたにも関わらず。 あのときの鬼面衆とて破段を使ってはいなかったろう。ならばあれは基本技にすぎず、程度の差はあれやろうと思えば誰でも出来る。 要はそういうことだというのに…… 「結構。私の教官ぶりも少しは板についたようだ。理解の早い生徒殿で助かりますよ。そこはあなたの長所ですね」 「それで、さてどうします?」 慇懃に尋ねてくる彼と向き合い、俺は数秒沈思して…… 「晶、早く世良たちを癒してくれ。今ならまだ、間に合うだろう」 「え、あ……、分かった」 やはり俺と同じく愕然としていたらしい晶を促し、負傷者の救護を優先させた。目の前の相手から意識と視線は切らないが、それでも伸びてきた帯に世良たちが包まれたのを端で捉え、ひとまず胸を撫でおろす。 後は、正直背筋が凍りそうな話だが…… 「歩美、おまえは下がってろ。援護はもういい」 「そんな、だけどそれじゃあ……」 「これから先は、俺一人でやる」 「ほう?」 つまり、俺の決断はそういうことだ。別に自棄を起こしたわけじゃない。 「おまえなら分かるだろ。誰かを守りながらじゃこの人とは戦えない」 努めて感情を交えずに、冷淡な口調で事実だけを告げる。 俺と歩美のコンビで戦うということになれば、幽雫さんが誰から狙うかは明白すぎる話だろう。そしてそうなった場合、自分一人じゃどうにも出来ない。 歩美は後衛として重要な戦力だが、それだけに絶対守らなければならない奴だ。こいつに手を出させないための壁が複数枚あってこそ、初めてその力は機能する。 だから今のように、格上相手に俺しかいない状態では問題外。こんな言い方はしたくないが、足手まといになりかねないから一人のほうがマシだし正しい。 「分かってくれるな? 任せてくれ」 振り向かずに言った俺を、歩美はしばらく無言で見つめていたようだったが。 「……分かったよ。でもね、四四八くん」 「おまえに全部やらせるつもりはねえからな。こっちが終わったらすぐ行くから、それまで耐えてろよ、分かったなっ?」 「……ああ、単にこれが、ここでのチームワークっていうだけだ」 一人で何もかも背負おうなんて思っちゃいない。その手の云々はとっくの昔に乗り越えた。 それに、強いて言うならもう一つ、この教官代行殿に思うこともあるわけで。 「じゃあ、続きといきますか」 「ふむ……どうやら降る気はない?」 「降って許してくれるとは思えないので」 腰を落とし、構えを取って言葉を継ぐ。 「後はまあ、さっき出した俺たちの答えがあなたは気に入らなかったようだから」 「ならば私の求める答えが分かると?」 「ええ、一応は」 現状、破段に抗し得ないならどうするかという問題に対し、俺たちが出した答えは使わせないというものだった。 が、その戦法をもとに攻めた結果がこうなった以上、見方を変える必要がある。 「これでも優等生で通ってるんで、出された問題を解けないままっていうのは嫌なんですよ」 「それに大事なことを忘れていた。テストのコツは、問題作成者の意図を読むのが重要だって」 「なるほど、つまり?」 つまり――この場の彼は教官で、その役に徹しようとしているのだから、第一目的は俺たちを鍛え、育てること。 だったら答えは一つだろう。 「俺もここで破段に上がる」 せっかくご丁寧にも誘導してくれるというのだ。それがたとえ剃刀の上を行くような綱渡りでも、進まないわけにはいかないだろう。 そういうわけで―― 「ご教授願います、教官殿」 呟き、俺は全力で地を蹴っていた。 「よろしい。ならばこちらも、生徒殿の期待に応えましょう」 「ただし、教えるというわけではありませんがね」 瞬く間に間合いが詰まり、幽雫さんの鋭剣が持ち上がる。指導と言っても彼の教育が殺人的なのは見ての通りだ。仲間のフォローが存在しない状態で向かい合えば、危険はこれまでの比にならない。 しかし、あるいはそんなときだからこそと言えるのかもしれなかった。 「私が施すのはギリギリの追い込みだ。頭を空にしてさしあげましょう」 迫る鋭剣。眉間に向かって伸びる鋼の切っ先を、顔面串刺しにされる寸前で回避した。 そしてそれに被さる形で、クロスカウンター気味の一撃を嫌味なほどの美形に放つ。トレードマークの片眼鏡ごと、こめかみを陥没させる勢いで叩き込んだ。 「迷い、揺らぎ、無意識の不審……これでいいのか。己の心を、どのような形で夢に成すのが正しいのか」 「それら懊悩、すべて叩き出してあげましょう。なに、その点は保証しますよ」 だけど、こちらの攻めは当たり前に防がれた。鋭剣の柄を回して絡め取るように俺の攻撃を封じつつ、幽雫さんは凄艶に笑う。 彼に付きまとう猟犬のイメージ。獲物を前に牙を剥く様そのものだった。 「死線上では誰もがそうなる。ならねば死ぬ」 「どちらにせよ、何も考えられなくなるのは確かですから」 「―――――ッ」 肩口を通り過ぎていた刃が首を薙ぐ一閃となって払われた。咄嗟の反応でその場にしゃがみ、間一髪の回避を決めるが無論それだけでは終わらない。 先の挙動で絡め取った旋棍ごと、関節技を決めるように鋭剣が戻ってきた。今さら武器を手放そうが間に合わないし、そんな選択をしようものなら心が負けると直感する。 だから、空いてる片方の手で迎撃した。火花が飛び散り、焦げ臭い匂いが鼻を衝く。 これで俺の両手は塞がったが、幽雫さんは依然右しか使っていない。しかし左を使う気配はまったく見えず、ハンデのつもりなのだろうか。分からないがどうでもいい。 俺が自由に出来るのは両脚のみ。だがここで蹴りというのは当たり前すぎる。すなわち読まれる。 ならばどうするか。答えは考えるより先に出た。 その場で跳躍。脚は使うが、目的は攻めじゃない。この不自由すぎる状態を打開するための移動が優先。固定された両手を支点に宙返りの要領で跳んだなら、捻じりで拘束が外れるし幽雫さんの背後も取れる。 「ほぉ、いいですね。反応が速くなった」 しかし彼は、俺とまったく同じ行動に移っていた。それによって両手は自由になったものの、空中で逆さまに背中合わせという奇妙な体勢が生まれてしまう。 触れ合う背を伝わって走るのは凄まじい悪寒―― 躱せッ! おそらく脇下を通って放たれた刺突を危ういところで回避した。だけど無理矢理身を捻って成した反動として、無様なほど姿勢が崩れる。 そこを当然のように衝いてくる黒い猟犬。振り向き様の遠心力を乗せた蹴りが、まともに俺の鳩尾を貫いていた。 「ぐッ、がァ――!」 弾き飛ばされ、受身も取れないまま地面に盛大な激突を決めてしまう。白兵の常識として戟法と楯法を同時展開していなかったら、今ので終わっていたかもしれない。なんとか意識は繋いでいるが、それでも受けたダメージは半端じゃなかった。 「く、そ……」 立ち上がりながら呻きを漏らす。何をやっても一手先を行かれるような状態だ。どうすればいい。 「そう悲観することでもありませんよ。言ったように、今のはなかなか悪くなかった」 「先の状態で、並の者なら反射的に蹴りを出す。そして少し慣れた者でも、不自由はお互い様と割り切ってやはり同じ選択をしたでしょう。だが何にせよ、結果を見ても分かる通りそんな手は決まらない」 「であれば、さらに出来る者の場合はどうしていたか。おそらく咒法の一撃でしょうね。特に散を使われていたら、私も多少の手傷は負っていたかもしれません」 「が……」 そこで彼は言葉を切る。ああ、続きは俺も分かっていた。 と言うより、今になってようやく自分の選択に理屈を付けられたって感じだけど…… 「そんなことをしていたら、戟法か楯法のどちらかが切れる」 すなわち、返しの一撃で即死は確定だっただろう。 「素晴らしい」 そんな俺の返答を、心底賞賛するように幽雫さんは拍手で迎えた。馬鹿にされている気分だったが、おそらく他意はないのだろう。伝わってくるのは素直な念で、そこに〈衒〉《てら》いや〈諧謔〉《かいぎゃく》は感じられない。 「あなたが選ぶなら、だいぶ甘めに見てもそのあたりがいいところだろうと私は思っていたのですがね。いや申し訳ない。侮っていました」 「ゆえに気落ちせずいきましょうか。悪くないですよ、まだまだこれから」 「もっと私を感心させてくれるのでしょう?」 「はッ……」 胃が潰れそうな激痛の中、奇妙な可笑しさを感じるまま不敵に笑って構え直した。 まったく、たいしたスパルタだよ。こっちはほぼ半殺しみたいなものだというのに、まだメニューは山ほどあるらしい。確かに花恵教官が可愛く見える。 しかし俺も、ことスパルタに関してなら一家言持っていた。 出来もしないことをやらせようとする指導者はいない。彼の、教官としての良識を信じるならそういうことで…… 「じゃあ、行きます」 俺はここで破段に達せる。要らない思考が残らず吹っ飛ぶまで走ってやろう。 「そう、その意気ですよ」 死線を潜らなければ駄目だと言うなら潜ってやるさ。初めてじゃない。 両手に伝わる武器の重さだけを心に抱いて、俺は透明な気持ちのまま修羅場に身を投じていた。  再開した戦いを前に、晶は焦りを禁じ得なかった。水希たちの回復は未だ完全に終わっておらず、これはこれで絶対に手を抜けないことだから放り出すわけにもいかない。  だが、四四八をこのままにしていていいのか? 見る限り、先ほどからどんどん追い詰められていくだけに感じる。 「あゆ……おまえどう思う?」  だから、思わず傍らの友人に問いを投げていたのだが、それに対する返答はたった一言。 「大丈夫だよ」  そんな簡単すぎる代物で、だけど断定には力が籠もっているようにも晶は感じて。 「根拠は?」 「分からない。勘」  またしても、答えはそんなものだった。流石に顔をしかめる晶の様子に気づいたのか、歩美は弁解するように補足を始めた。 「えっとね、つまり、見ててもはらはらしないっていうか、むしろやっぱり四四八くんだね、みたいな」 「おまえは何を言ってんだよ」 「もう、だから分かんないって言ったのに。だいたいあっちゃんはどう思ってるのよ。わたしより目がいいんだからちゃんと見えてるんでしょ」 「どうって、そりゃ……」  視力を始めとする感覚強化は戟法の領分で、確かに晶はその点歩美より優れている。  もっとも、このFPS狂いの幼なじみはスコープ越しに見たときだけ鷹も裸足で逃げ出すレベルになるのだが、とにかく今はそういうことだ。 「あたしには、ジリ貧にしか見えねえよ」  あらゆる局面において宗冬が一手先んじているように感じるし、事実その通りなのだろう。  つまり、積み上げた経験による技量差が歴然なのだ。そしてそれは、一朝一夕で覆せるものじゃない。他ならぬ四四八自身がそこを重視する秀才だからなおさらに。  率直なところ、甚だ相性が悪いと思う。格下の身であの家令頭を攻略するなら、求められるのは器用さやバランス感覚よりもっと別の…… 「むしろ、栄光とか鳴滝とか……そっちのほうがいいのかもしんない。だってそうだろ」  技術的に劣っているなら、多少荒削りでもこれだけは誰にも負けないという得意分野で攻めるべきでは? ここで必要なのは一点に特化した爆発力。  晶はそう考えるし、その理屈に則れば適任なのは先の二人だ。  でも彼らは今、この様だし。  残った四四八はそういうタイプじゃないのだし。  たとえ全般的に優秀でも、突出した何かがない限り幽雫宗冬は崩せない。  現状を見る限りそんな感じで、ゆえに晶は苦い思いを抱きながらもそう分析したのだが、歩美はそれでも自分の勘とやらを取り下げなかった。 「うん、あっちゃんの言う通りだと思うよ。でもわたしは心配してない。  だって、四四八くんがそこに気づいてないはずないんだもの」  それは、確かにそうだろう。彼は確かに自負が強くて、時に尊大と言えるくらいの男だが、だからこそ己の長所短所をよく知っている。以前、自らを器用貧乏と評したことがあるほどなのだ、気づいていないはずはない。 「そのうえでね、任せろって言ったんだもん。だからあっちゃん、大丈夫だよ」 「ていうか、そうじゃなかったらわたし許さないんだから」  そう言って、少し拗ねたように歩美は口を尖らせる。晶は状況も一瞬忘れて、思わず苦笑してしまった。 「なんだおまえ、要はさっきつれなくされたのを根に持ってるだけかよ」 「違うもん。違わないけど……とにかくそうなの。あっちゃんもその心配性なとこなんとかしたら? でないと胃が無くなっちゃうよ。おっぱいしかない女ですか」 「おまえの発破はたまに意味が分かんねえんだけど……」  しかし、言われてみればその通りかもしれない。おっぱい云々では無論なく、四四八が任せろと言うならここは信じるべきなのだろう。  以前、〈女の勘〉《ゲスパー》がどうだということについて話したときを思い出す。自分がそんなものを発動させてしまったみたいになるのは嫌だから、置いて行くなよと四四八に言った。  嫌な予感通り嫌なままで終わるのは冗談じゃない。彼もそれに同意して、一緒に今までこの半年間をやってきたんだ。  ならば必ず、期待に応えてくれるはずだろう。 「あたしはちょっと、母ちゃん気質なのかもしんねえな。恵理子さんと馬があったのはそのせいかも。   四四八からしたら、そのへん鬱陶しかったりするんかな。水希とはまた違う意味で、面倒くさい奴と思われてそうな気がするよ」  だがそういった瞬間に、歩美は露骨なまでの嫌そうな顔で晶を見てきた。 「なんだよ?」 「なんでもないです。ほんと面倒くさい奴だなって思っただけ」 「は? おまえちょっとそれ酷くない?」 「うるさいな、もう。面倒くさくない奴はわたしだけなんだよ」  何を不機嫌になっているのかまったくもって分からなかったが、とにかく胸の不安は薄れてきた。その点だけは歩美に感謝してもいいだろう。 「だいたい、男の子なんてみんなマザコンだし。おっぱい祭りだし。そのへん分かってないくせにそばもん信者は……」  未だなにやらぶつぶつ言っている歩美の傍ら、倒れていた面子がこのときようやく目を覚ました。 「うっ、ツ……」 「あ、鳴滝くん!」 「さすが、おまえは丈夫だな。 けどまだじっとしとけよ、大怪我だったんだから」 「真奈瀬……? くそが、そうかよあの野郎――」 「だぁー、からちょい待て。動くなっつってんだろ馬鹿っ」  いきり立つ淳士を必死に押さえつけてると、他の面々も順に目を覚ましてきた。 「晶か、悪ぃ……不覚ったよ、すまねえ」 「ごめん、借りが出来ちゃったね」 「それで……いま状況は?」  鈴子の問いに、晶は何も言わず目で示した。瞬間、皆の血相が変わる。 「なッ――、おい、放せよ真奈瀬! 柊の野郎一人じゃねえか!」 「行かないと!」 「大杉、もう動けるでしょっ?」 「おお、なんとか。こうしちゃいられねえ」 「うるさーーーーいっ!」  だが立ち上がりかけた面々を、歩美の大声が再び押さえつけていた。 「四四八くんが任せろって言ったの。だから黙って見てなさい。隊長命令」 「けどよ――」 「いきなり戦闘不能になった人たちの意見なんて通りません。文句ある?」  あまり迫力のあるトーンではなかったが、言葉の内容自体は辛辣だったので全員が口ごもった。歩美はまだ何か言い足りないようだったが、なんとかそれを宥めつつ晶が横から割って入る。 「まあ、なんだ。実際おまえらはまだ完全じゃねえし、今行っても逆に危ないから落ち着けよ。   あたしも最初は、おまえらが起きたらすぐ助けに行くつもりだったけど」  ついでに言うと、さっきから威張り倒している歩美も間違いなくそんな感じだったけど。 「少し、見てみたくなったんだ。それは大事なことだと思う」 「助けに行くより?」 「ああ、なんとなくだけど」  これから起きることを目に焼き付けるのが一番大事だと感じるのだ。 「だって、あいつはあいつで鬼教官だし。あたしはしょっちゅうしごかれてたから、これもそうじゃないかなってさ」  つまり、何かを教えてくれる。自分たちにとって重要な、これから先をやっていくために必須なものの、お手本を。 「だから見てよう。みんなで、目ぇ逸らさずに」  言いながらも固唾を呑む晶の視線は、いよいよ激しさを増していく渦中へと注がれていた。  他の皆もそれに倣って、無言のままそちらを見やる。  戦況はまだ変わらない。四四八は依然ピンチのまま。  だけど、このまま終わらないと信じているのだ。 「――はああああァッ!」  連続する攻勢を捌き、いなし、隙を見つけるごと呵責なく切り込んで、時に弾き合う刃と旋棍の衝突はすでに五十合を超えていた。  流れはここまで終始一貫、宗冬の優勢で続いている。彼は未だ一切の被弾もなく、その身に掠り傷一つ負っていない。  対して四四八は、満身創痍だ。致命傷やそれに類する重傷だけは避けているが、鋭剣で抉られた刺傷と切創にくまなく全身彩られ、〈怖気〉《おぞけ》を震う有様となっている。  これが夢であれ現実であれ、もはや血の温かみなど感じまい。彼は今、凍てつく酷寒の吹雪を体験していることだろう。  にも関わらず、止まらない。愚直なまでのひたむきさで、攻める攻める、攻め続ける。  それしか手がないのだから。  たとえ効かないと分かっていても、自分に出来ることを積み重ねていくしかないのだ。  不器用と言っていい。愚行とさえ表現できるのかもしれない。  そんな様を見るにつけ、情け容赦なく追い詰めながらも宗冬は思っていた。  ああ、まるで――過去の己を見ているようだと。  自分もこうした感じだった。似ているのだ、胸が痛む。自嘲してしまいたくなるほどに。  如何に世代が違っても、この手の人種は必ず生まれるものらしい。  ある種、極めつけの無能者。何でも出来る代わりに何も出来ないという滑稽な生き物が。  戦真館の筆頭を継ぐ者にとって、それは遺伝病なのかもしれなかった。  才能が無い。武器が無い。無双と誇るべき何かがその身に宿らない。  そして何よりいけないのは、自覚までしていることだ。  知能さえもが半端に賢しいものだから、己の限界を見てしまう。根拠の無い自信など抱き方すら知らなくて、それを持つ者に羨望の気持ちを感じただろう。なんて幸せな奴らなのだと、嫌味ではなく、心から。  ゆえに、この少年は袋小路だ。宗冬はそう決め付けている。  自分たちのような人種は、狂おしい挫折の経験を回避できない。  すべてにおいて優秀で、穴らしい穴がないから何だと言うのか。  万能という称号は頂点を極めたときのみ冠せられるものであり、そこまで行かなければただの無能だ。格上相手に抗し得る手段を持たない。  まして、駆け出しならばなおさらに、赤子の手をひねるようなものだろう。  かつて自分が、すべてを失ったときと同じく。  彼は今、もっとも危険なその時期にある。 「がッ……!」  迫る旋棍を首の動きだけで躱し、伸びた腕に合わせた鋭剣が肘から先を斬り飛ばした。  激痛に四四八の身体が大きく揺らぐ。それは過去最大、どうしようもないほど決定的な隙だった。 「終わりですね」  返す刃が宙に蒼い奇跡を描き、首を薙ぎ斬るまでの一刹那、宗冬はこれこそ後輩に与える慈悲なのだと心から信じていた。  彼は自分を遥かに超えて、得手不得手の無さが徹底している。  これほど精密に、微塵のずれもなくすべての能力が等しい者を、これまで目にしたことがない。  有り体に、異常でさえあった。そしてだからこそ、破滅は避けられないと断定している。  幽雫宗冬は己を無能と思っているが、それと並行して他者が己より格別優れているとも考えてはいないのだ。これを両立できる者はそういないが、あるいはそんな面こそが、彼らのような人種が持つ唯一の才能なのかもしれない。  ゆえに分かるだろう、と刹那の中で問いかける。  足りないのだ、自分たちは。  すべてを極め、王になれると狂信できるほど強い自負を有していれば、そもこのような、誇りの定まらぬ無様な資質など持って生まれるわけがない。  だからもしも――この危険な時期を乗り切って先に進めるとしたならば、〈縁〉《よすが》になるのはただ怨念。執念であり妄執なのだ。  自分がそうであるように。  生死を超え理性を超えて、肉体的にも精神的にも血みどろに染まりながら、あらゆる感覚を逸脱して呪うために邁進する。  後輩がそんな道に落ちるのを見るのは忍びない。  よって慈悲だ。もう眠れ。どのみち何もかも手遅れなのだ。それを見ずともよいように。  自分がそのようなことを考えている事実に、微かな驚きと嘲りの気持ちを抱きつつ―― 今、幽雫宗冬の鋭剣が、必殺の気と共に薙ぎ払われた。 「―――なにッ」  それは終幕を確信した一撃。だからこそ続く事態は驚愕どころのものではなかった。自分の鋭剣が虚しく空を切っている。  躱せるはずがない。生きているはずがない。彼の性能では不可能なことで、それこそ〈別〉《 、》〈人〉《 、》〈に〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈凌〉《 、》〈げ〉《 、》〈る〉《 、》〈わ〉《 、》〈け〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  では、いったい何がどうしたことで…… 「―――――ッ」  当惑に心を奪われたその一瞬、常識外の速度をもって彼の後輩が懐に踏み込んできた。  有り得ない。いくら虚を衝かれたとはいえ、そこにつけ込めるほどの隙ではなかった。少なくとも、先ほどまでより倍近くは速くなければ――  だが、そうした異常事態の中にあっても、宗冬の技巧は反応する。下からかち上がった一撃が顎を捉える寸前で、仰け反りつつ回避を成功させていた。心とは別の次元で即座に次の手が組み立てられる。  四四八は今、片腕が無い。つまり攻撃の連続性が著しく失われている。ならば〈畢竟〉《ひっきょう》、無防備だが、間合いが近すぎてこちらも剣を振るのが難しい。不可能ではないが、どういう理屈か速度が増している相手には通じないだろう。  ならば、と反射に等しい挙動で肩の当身を鳩尾にぶち込んだ。  しかし、ここでまたしても宗冬は驚愕する。  今度は悪い意味ではない。いや、もしかしたらそうなのか。〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈か〉《 、》〈く〉《 、》〈四〉《 、》〈四〉《 、》〈八〉《 、》〈は〉《 、》〈軽〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈た〉《 、》。木っ端のように吹っ飛ぶ姿は、自ら後ろに飛んだというわけでもなく、単純に呆れ返るほど脆かったがゆえ。  戟法の迅は異様なほど増していたのに、戟法の剛と楯法の堅が信じられないほど下がっている。  どういうことだ。ますます理解が及ばない。単に組み合わせを変えたなどという域を超えているし、もはや劣化の範疇だ。  そもそも剛と迅は共に戟法。四四八の性質上、同系統の力にここまで開きが出るのは有り得ないはずだろう。  これがまだ、迅の上昇だけだったなら話は別だ。  戦いの最中に飛躍的な成長を見せること自体は、そう珍しいことでもないから分かる。先の速度進化率はそれでも凄まじすぎるものだったが、そのことだけならまだ納得できなくもなかったのに。  長所が生まれたのと連動して、短所までもが発生している。  〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈引〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈足〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》。  そんなことが有り得るのか?  少なくとも、これまで聞いたこともない。  先ほど脳裏を掠めた印象どおり、これでは完全な別人だろう。分からない。分からないがしかし、弱点があるならそこを攻めるのが常道ではある。  想定よりも距離が開きすぎてしまったので、再び間を詰めなければならないだろう。あの速さで逃げ回られては面倒だ。  吹き飛ぶ四四八を追う形で、宗冬は疾風と化していた。当然、欠落している左腕の側から迫ることも忘れない。  だというのに、なぜか四四八の左腕は再生していた。楯法の活――しかも腕一本を瞬きの内に編み上げるほど、それは桁外れの治癒性能。  復活したその腕をもって、四四八が放ったのは射の咒法だった。  これも強烈。  段違いの威力になっていると粟立つ肌が警戒警報を喚き散らす。 「ぐッ、ぬゥ―――」  ゆえに一髪千鈞、躱せたのは宗冬をして奇跡を感じるほどの僥倖だった。  対して四四八はどうなのか。余裕か、それとも消耗なのか、未だ同じ場所に留まっている。  ならば攻めろ。  あれほどの飛び道具を持っているなら、離れているのはなお危ない。  一足飛びに迫った宗冬は、ついに剣の間合いへ侵入した。同時に放たれた一閃が、心臓を串刺しにするべく唸りをあげる。  命中か否か、いや正確には効くか否か。おそらく否だろうと宗冬は感じていたので、続く十数手までが頭の中に完成していた。  右か左か、退くか飛ぶか。それともあるいは、回復力を頼みにあえて受け、こちらの拘束を図るだろうか。  どれでもいい。どれでも対処してみせる。そう確信していたため、次の結果は慮外でしかなく――  いいや。これまで都合、四度も連続した驚愕の主を前にして、まだそんなことを考えている宗冬が甘いのかもしれない。  事実、やはり自分は愚物だなと、このときのことを思い出して長らく彼は自嘲することになる。  鋭剣の切っ先は、突如出現した水晶の壁によって防がれていた。  創法の形――しかもその精度ときたら、やはりこれまでの四四八とは比較にならない。 「なん、だと……?」  同時、宗冬の真横からめくれあがるように迫ってきた岩盤に対処できたのは、ある種彼の敗北を意味していた。 「ぐぅゥッ――」  咄嗟に鋭剣を手放しガードを固め、まともに喰らうことだけは避けたものの、このとき宗冬は己に課していた決まりを破った。紛れもなく一つの敗北と言えるだろう。  ここでは詠段までしか使わない。彼はそう決めていたのだ。  教官の代わりとして、この男なりに己を律していたのだろうし、他にも理由はあったかもしれない。が、とにかくそうすると決めていた。  にも関わらず、いま宗冬は戟法、楯法、解法という三つの夢を一度に使った。それは急段に属する技であり、無論のこと己で定めたルールの範疇を逸脱している。しかし、そうしなければ危なかった。  解法の透をもち、不可解に変化を続ける四四八の性能を確認すること。結果として今の彼が咒法と創法に特化しているという事実に気づかなければ、先の一撃を凌げなかったに違いない。  死にはしないが――  ああ、死にはしないが、直撃を受けていたならきっと自分は……  その間にも続く四四八の猛攻。今度は戟法と解法にのみ特化している。他は完全に捨てているような丸裸だが、これはこれで手に負えなかった。何せ速い。そして強い。  轟風に千切られるようなうねりの中、漏れ聞こえてくる呟きは何なのだろう。おそらく今の四四八はそれすら意識していない。  死線上で走るため、あらゆる不純物を頭の中から払ったのだ。  そう仕向けたのは宗冬であり、見事応えたのは四四八であり、すなわちここに結果が出ている。 「それがあなたの破段ですか……恐ろしいな、たちが悪い」  まるで別人と感じたことは間違いじゃなかったが、正確でもなかった。  彼は現状における自分自身の総合力を、任意で好きに振り分けている。  全十種ある夢についての才能が、すべて十点中の七点。それが四四八の基礎性能で、すなわち総合七十点だが、そこさえ満たせばどのような変化も自由自在。  ゆえにある一点が上がれば別の一点が下がったのだ。その時々、異なる〈憧れ〉《つよさ》を使い分けているかのように。  それは邯鄲戦術の基本かつ王道……どの夢をどう使うかという選択に類似していながらも、まったく異形のものだった。  使用する夢を選ぶのではなく、得意分野にする夢を選んでいる。  そのパターンは何種ある? 数は? そして法則性は?  読めれば対処も可能だろうが、裏を返せば読めない限りどうにも出来ない。  些か以上に変則だが、これも一種の万能と言えるのではないだろうか。  もしかしたなら、項目ごとの限界は十点満点が基準という常識すら、瞬間的に超えるのかもしれない。  なぜなら彼は、そう彼は奴と同じで……  ここが天井であるという決まりを押し付けられる側ではなく、創る側の特権を有す。  彼の呟き、と言うより祈りを聞き取り、分析すれば、そこが判明するかもしれない。  だが、今のところそういう気にはなれなかった。  なるほど、自分とは違うのか。誇らしくも羨ましくもあり、寂しくもあるそんな感慨が、宗冬の心に満ちていたから。  これは〈や〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》。ではさて、自分はどうしようかと、かつて見失った戦の真へ思いを馳せる。 「仁義八行、如是畜生発菩提心」  だからこそ、次の一撃はどうにも防げそうになかった。 「破段、顕象――」  そして、それが迫ってくる。  ゆっくり、ゆっくりと死神のように。  あのときにも似た、邯鄲の夢の中で…… 「――――――」 その瞬間、飛んでいた俺の意識は戻っていた。知覚したのは無防備を晒した幽雫さんと、そこにトドメを叩き込もうとしている自分自身。 まともに入る。そう直感して、俺は―― この人相手に加減などは絶対出来ない。だから俺は、そのまま旋棍を振り抜くと、幽雫さんに渾身の力で一撃叩き込んでいた。 が―― 「え……?」 いったい何だ、いま感じたとても奇妙な手応えは。 命中自体は間違いなくしていたし、それを疑ってはいないものの、何か途轍もない違和感が…… 「ああ……」 俺の旋棍を受けたことで仰け反っていた幽雫さんが、姿勢はそのままぐるりと首だけこちらに戻した。 マネキンのような、それは不可思議な挙動。いや、おかしいのは彼なのか? これはむしろ―― と、思考はそこで凍りつき…… 「申し訳ない。やってしまいましたよ」 眉間を穿ち、後頭部まで貫いた鋭剣の一閃が俺の脳を止めていた。 もう何も考えられない。 「つい、ね。あなたがあまりに素晴らしかったものですから」 何も、何も、一切が…… 串刺しにされ吊り上げられた身体は力を失い、俺は暗い底へと落ちていった。 「なぜ……ですか?」 寸止めしたときの強風で跳ね上がった前髪が戻り、威力の残響も完全に消え去ったあと、不思議そうに俺を見ながら幽雫さんはそう言った。 「勝負でしょう。ならば容赦は無用のはずだ。手を止めた理由が分かりませんね」 「これが逆の立場なら、私はそんなことをしていませんよ」 確かに、この人ならそうだろう。まったく何の躊躇も無く、俺の首を刎ね飛ばしていたに違いない。 それは分かる。分かるがしかし…… 「まだあなたには、色々鍛えてもらいたいので」 甘いと言えば甘いのだろうが、調子に乗って情けをかけたわけじゃない。むしろその逆。 俺たちには足りないものが山ほどあるんだ。そう自覚しているからこその選択であり、だからここで、この人を失うわけにはいかない。 「今日はお世話になりました。感謝いたします、教官殿」 腰を折って頭を下げ、素直な気持ちを口にした。かなり怖かったし痛かったのは確かだが、その結果として今があるのだから感謝の心に偽りはない。 それに、なんだかんだでだいぶ手加減してくれたのも、なんとなくだが分かっていたし。ならばこれは当然の行いだろう。 目上を敬う。世話になった人ならなおさらに。悌の心というやつだ。 「はあ、その、これはなんと申しますか……」 そんな俺を、幽雫さんはぽかんとしながら見つめていたようだったが。 「いや、結構。参りましたよ、頭を上げてください。私の負けです」 「しかしあなたは、なんとも生真面目な人ですね。まったく今どき珍しい……ふふ、はははははは」 百年近く昔の人間に古臭いみたいに言われるのは複雑だったが、これも色男の特権か。邪気の無い爽やかな笑いに俺まで可笑しくなってきた。 「あっはっはっは! どーだ幽雫、思い知ったか。やっぱ私は凄ぇだろ。ほら褒めろ褒めろ」 「なぜ?」 「はあ?」 「私が認めたのは四四八さんであって、おまえは何の関係もないだろう」 「ああんっ? おまえほんっと可愛くねえなあ! いいかよく聞け、そもそもこいつら鍛えたのは私でなあ――」 「四四八くーん!」 怒号爆発寸前の花恵教官だったのだが、そこはお約束というか当然の流れが待っていた。 「よかったぁ~~、わたしすっごい心配してたんだからねっ」 「おまえさっきと言ってることが違うじゃんかよ」 「もう、うるさいな。それはそれなの! あっちゃんだっておっぱいばくばくいわせてたくせにっ」 「おまえはあたしの胸に何か文句でもあんのかよ……」 いや、うん、そりゃあるんだろう。それを意識してないあたり晶は大概あれだけど。 「まあとにかく、ほっとしたよ。怪我大丈夫か?」 「ああ、なんとかな。こっちこそ、心配かけて悪かった」 「まったくよ。次からこういうことは無しにしてもらいたいわね」 「もとはと言えば、私たちがすぐやられちゃったのが悪いんだけどね」 「そりゃそうだけどよ、でもさっきの四四八は凄かったよな。マジ震えたもん、オレ」 「柊、今すぐやりかた教えろ」 「だー、かー、らー、よー」 先ほどから完全放置されてる人が俺はかなり気になっていて、案の定彼女は怒り心頭だった。 「てめえら勝手に盛り上がってんじゃねえ! つーか誰が口利いていいっつった! 総員気を付けッ!」 「ひあっ」 「も、申し訳ありませんでした、教官殿っ」 ばしっと全員その場で踵を打ち合わせ、空を見上げるように背筋を伸ばした。 わりと、いや洒落にならないほど全身が痛い。今は正直、ちょっと休ませてほしいのだけど。 「花恵、意地の悪い真似はやめておけよ。そんなことをしても嫌われるだけだぞ」 「うっせえな。〈教官〉《わたしら》は嫌われるのが商売だろうが。だいたいそれを言うならおまえだって、すでに相当なもんだろうぜ」 「ふむ……そこは否定できないだろうが」 言いつつ、幽雫さんは俺たちに向き直ると柔らかに手を振った。 「皆さん、どうか楽にしてください。先も言いましたが、今の教官は私ですので。花恵は気にしなくても構いませんよ」 「は、はあ……」 「……………」 全員、その言葉には従うものの、やはり警戒感は拭えないようだった。特に栄光なんかは、おっかなびっくりという様子をまったく隠せていない。 そんなこちらを見回して、幽雫さんは苦笑する。 「別に無理をして私に慣れろと言っているわけでもありませんから、そう困った顔をなさらずに」 「ですが、これだけは言っておきましょう。先の試験、皆さんは合格です」 「え、つまりそれって、あたしらもっすか?」 「はい」 「すぐやられちゃったのに?」 「ええ」 「どうして……なんです?」 向けられる疑問に対して、返ってきたのは至極短い答えだった。 「今、生きているからですよ」 「過程はどうあれ、そういう結果になったのですから私も野暮は言いません。最初にした説明を覚えていますか?」 「四層突破の条件について?」 「そうです」 初代戦真館が崩壊したという事件。現実でそのときの当事者だったらしい幽雫さんは、自分以外誰も生き残らなかったと言っていた。 つまり、この結果がすべてだということか。四層突破に際して再現されるその修羅場に生き残れるかどうかを試した。そして今、俺たちは誰一人として欠けていない。 ならばよし、と。構わないと。 「すぐにそのときがやってきます。こちらの時間感覚にして、もう一月もありません」 「―――――」 一月……たったそれだけなのか。俺を含む全員に、無言の緊張が走ったのを自覚した。 「ゆえに四四八さん、大変なのはこれからですよ。破段に達したとはいえ、まだ極めていない。自在に使えるようになってください」 「そして他の皆さんも、彼を手本にして研鑽を怠らぬように」 確かに、幽雫さんの言う通りだろう。俺はさっき、自分が何をやっていたのかあまり記憶していない。 そういう精神状態に自らを追い込んだのだから当然だが、弊害として感覚がまだ朧だ。このままじゃいけないと思っている。 あと一月足らず……それでどこまで行けるのかは分からないが、やるしかない話だろう。 「なんでしたら、今すぐもう一度始めますか? 私は別に構いませんが」 「いっ――え、いやその、それはちょっと……」 「あたしも……さすがにそればっかりは……」 「チッ、なんだ情けねえ」 「言うなよ鳴滝、俺だって今は無理だ」 こいつ以外は完全な及び腰だし、ここは体力回復が優先だろう。急がなくてはならないが、焦っては駄目だ。 「幽雫さん、ひとまず今日はご勘弁ください。また後日、こちらからお願いしますので」 そして出来れば、もう幾らかソフトタッチにもしてほしい。そんな全員(鳴滝以外)の副音声を察したのか、優しく幽雫さんは頷いてくれた。 正直、あんまり信用はできないけど。 「ならばこれで、本日の課業は終了です。今後、私に用があるときは野枝に言ってください。では――」 「ありがとうございました」 再度そう言って頭を下げ、幽雫さんを見送った。 「あ、こら待て幽雫。あたしも行くって、ちょっとおい! 待てってほんと、おまえとは一回じっくり腹割ってだなあ――」 「それからおまえらも、私に感謝すんの忘れんなよー!」 などと叫びながら、花恵教官殿も去っていく。その後、頭を上げた俺たちは、顔を見合わせ思わず笑った。 「別に感謝してないわけじゃないんだけどな」 「ねー、あれで結構、実は寂しがり屋だったりするのかな」 「そりゃ分かんねえけど、まあとにかくさ、これからどうする?」 晶の言葉に、全員が一転して考え込む顔になった。問いそのものは漠然としていたが、何のことを言っているのかはよく分かる。 「日程のことなら、オレは正直修学旅行前に四層突破を終わらせてえよ。やっぱ気兼ねなく楽しみたいじゃん」 「私も賛成、そうしようよ。鈴子は?」 「どうかしらね、なんだかそれって凄く縁起の悪い選択みたいに感じるけど」 「わたしもー。死亡フラグ立ててるみたい」 「鳴滝はどう思う?」 「知らん。俺はどっちでもいい」 「じゃあ、晶は?」 「あたしは、そうだな。どっちかっていや栄光と水希に近いかも」 つまり旅行が先派は二名。後派は三名。無効が一名というわけか。そのうえで考えるんだが…… 「俺はやっぱり先派だな。これでも縁起は担ぐほうだし」 「ありゃりゃ、じゃあばっくり割れちゃったね。どうしようか」 「あんたが適当な答え出すから悪いのよ淳士。この際はっきり決めなさい」 「うるせえな。ほんとにどっちでもいいんだからしょうがねえだろ」 という感じで、意見は簡単にまとまらない。状況的にも、普通に議論ができる気分じゃないんだろう。 「じゃあこれについてはもう少し話し合うか。とにかく今は寮に帰ろう。疲れたよ」 「だな」 皆で頷き、そのまま帰路につく中で、不意に晶がぽつりと言った。 「なあ、ちょっと思ったんだけど、あたしの武器……つうかほら、装備あるじゃん?」 「帯か?」 「ああ、帯な」 「帯がどうした?」 と返したら、なぜかこいつは微妙に嫌そうな顔をしていた。 「その帯帯おびおび言うのやめてくんない? なんかすっげえまんまじゃん。めっちゃ有り難味ない感じじゃん」 「だいたいここじゃあ、夢を持つってのが大事なんだろ? だったらもっとそれっぽい、あたしだけのこう、魂を象徴するような名前を考えようぜ」 「あっちゃんの?」 「魂?」 「て言われると……」 次の瞬間、皆が一斉に同じことを口にした。 「そばもんの触手?」 「なっ―――」 いや、そんな驚かれても。だって他に考えられないし。 「やだやだやーだ、あたしは絶っ対そんなのやーだ!」 「やだっておまえ、実際そばもん大好きじゃんかよ」 「それとこれとは別なんだよ。だいたいなんで装備の名前で受け狙わなきゃいけねえんだ馬鹿!」 「じゃあ何がいいんだよ」 「そ、そりゃあその、たとえば、そうだな……」 一転、晶はもじもじしながら上目遣いで皆を見る。 そして、探るように一言いった。 「羽衣……とか?」 … … … ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… おい、誰か何か言ってくれよ。 「――ぶふぉっ!」 「はごっ……!」 「――っ、……、~~~っっ」 「死んだ」 転げまわる者、ぶっ倒れる者、酸欠状態で苦しんでる者、あたりは阿鼻叫喚だった。 「ちょっ、なんだよ、何がいけねえんだよ! あたしが羽衣まとっちゃ悪いってのかよっ!」 「駄目、やめて晶、ほんとごめん、想像させないで」 「隊長、栄光くんが息してないでありますっ」 「おい鈴子、おまえも大丈夫か。すげえ顔になってるぞ」 「なんだよもう、なんなんだよ! まともなのは四四八と鳴滝だけなのかよ!」 いや、申し訳ないが鳴滝もあれ笑ってるぞ。さっきから肩がぴくぴく震えてるし。 だが流石にこれは可哀想な気もしたので、フォローを入れておくことにした。 「気にするな晶、分かったよ。これからおまえの装備名は〈触手〉《はごろも》だ」 「お、おう、てちょい待て! 今の絶対なんか違うぞ、妙なニュアンス含んでただろ、四四八てめえ」 「気のせいだっ」 力強く断言する。そうしないと俺まで笑い転げそうだった。 「あー、もう! 言うんじゃなかったー! 帯でいいよもう、おびおびおび!」 「はごろも○ーズっ!」 「また村雨丸食らわせんぞこの野郎っ!」 そうして追いかけっこが始まった。今日は真剣な修羅場を経験したにも関わらず、どいつもこいつも元気がいい。 その様を見るにつけ、きっと大丈夫だよなと俺は確信を抱いていた。 事が修学旅行の前になろうが後になろうが、こいつらとなら問題ない。 だからこの先、誰かが欠けたりするなんてことは、絶対に有り得ないと思ったんだ。  深海に潜る。  これはそうした行為だと認識しており、比喩が大袈裟とも思わない。  事実として、常人ではこの空間に三分と耐えることが出来ないだろう。周囲に漂う魔素の濃さは凄まじく、超水圧さながらの障害となってこの地を異界たらしめている。  だがそれでも、予想よりは侵入が容易かった。その理由は二つある。  一つは単純に彼女の強さ。進化を続ける実力で押し通ったということ。  そしてもう一つは、主の不在。ここが今現在、深海魚のいないもぬけの空だからということだった。 「……拍子抜けだな。どうやら奴ら、本当に失せたらしい」  無人の砦に自身の靴音だけを響かせて、そう漏らしたのはキーラ・グルジェワ。照明は残らず落とされ、無骨な鉄枠が剥き出しとなっている通路内は不気味さを通り越した有様だったが、臆した風は欠片も見えない。家主がいないのなら貰い受けると言わんばかりに、奥へ奥へと歩を進める。  彼女が率いる鋼牙の部隊は表で待機を命じていた。なんとなればここの破壊を命じてもよかったのだが、その前に確かめたいことがある。だから今、こうして一人、深海に潜っているのだ。  戦艦伊吹――この〈五層〉《じだい》、未だ建造中であるこれこそが神野明影の本拠だった。彼と聖十郎が七層へ行って以来、放置されていた根城だが、だからこそ捨て置くことなどできはしない。これが後の歴史を大きく左右するものであると、キーラはよく知っている。  なぜなら、後世に記録として残っている伊吹とこれはまったくの別物だ。むしろ名前以外に同じ点など皆無とさえ言っていい。  悪夢の精髄で編み上げられ、異形と化したまさに魔城……ここにはかつて、邯鄲を制覇した男の秘密が隠されている。  ゆえ、この機を逃さずそれを手に入れようとしているのだ。キーラが欲する夢のためにも、そこを避けては通れない。  艦内は迷宮めいた入り組みを見せていたが、迷うことは有り得なかった。  不吉さ、不浄さ、それらが匂う方へと進んでいけば問題なく、彼女はその手の感覚が他を圧倒して研がれている。人獣などという、外見の可憐さを大いに裏切る異名を持つのも伊達ではない。  よって今、辿り着いた最深部を前にしたときも、躊躇の心は一切なかった。眼前の水密扉は巨人の使用を想定しているのかと思うほど巨大だったが、十トンはあるだろうそれを片手で難なく押し開く。 「――――――」  だが、開けたその光景を前にしたとき、流石のキーラも瞬間言葉を失った。 「これ、は……」  聖堂……一言でいえばそうだったが、既知の如何なるものとも違っている。それは喩えるなら調律された混沌だった。  彼女にとって馴染みの深い正教会の意匠と似てはいる。すなわち基督教の係累であることは間違いないと思えるが、全体として戯画的な印象と雑多な原色が百花繚乱と咲き乱れているステンドグラスは、まるで密教の曼荼羅だ。  端的に、毒々しい。東西の宗教様式は個別に見るならそれぞれ神聖なものだろうが、目の前のこれは狂気としか思えない。  融合などという表現で片付けられるものではなかった。これは根本として偽装であり、すなわちどちらからもあえて外しているため本質がズレている。  そして、そのことすらも長い年月の果てに忘れられて変質した畸形なのだ。  自然界でも間々ある現象。生きるため、天敵から逃れることを目的に別種のものへと成りすまし、結果として原形が不明になった蝙蝠だった。今さらどちらにも戻れない。  しかし無論、それだけなら恥ずべきことではないだろう。  すべては戦い。その勝利としての結果。一種の進化とさえ言えるだろうし、讃えられるべき偉業ですらあるかもしれない。  だが、これは違うのだ。強烈に悪意が匂う。まるでそこに殉じた人々の教義と信仰を嘲り笑っているかのような…… 「下種めが……」  知らず、キーラは舌打ちしていた。この国の歴史に対し通り一編の知識しか持たない彼女だが、これが涜神を目的としたものであると感覚的に察したのだ。 「カクレ、と言ったか。凄惨だな。それだけに怨恨も骨髄に達している。  笑えんな。まったく皮肉極まりない」  隠れ切支丹教義における悪魔崇拝の祭壇。今、目の前にあるのは間違いなくそれだった。皮肉と言ったのは、西洋文化圏に属する自分たちの価値観が、ある種の歪みを孕んでいると認めたからに他ならない。  つまり、善悪二元論。絶対の正義に匹敵する悪という概念だ。  元来日本人は、そういう価値観を種族的に持っていない。島国ゆえの特性か、異民族との争いがほぼ無かったため、外の脅威というものをあまり分かっていないところがある。少なくとも、大陸国家ほどでないことだけは確かだろう。  だから唯一神というものも知らない。〈夷狄〉《いてき》と戦う際に旗頭とするべき真理や正義、己の〈神〉《ユメ》こそ至高であると狂信せねば民族ごと滅ぼされるほどの危機を経験していないのだ。  乱暴な要約ではあるものの、日本という国が侵略と無縁に近かったのは間違いない事実だろう。  過去の戦は基本内乱。それはそれで悲劇だが、根本は同胞同士の争いゆえに殲滅戦が発生し難い。実権を失った皇族などが生かされていた点から見ても、そこは明白と言えるはずだ。このような国は甚だ希少。  神は〈八百万〉《あまた》あるもので、その中には疫病神すら含まれる。要は思想的に大らかということ。  しかし、日本人が素朴で長閑な民族かと言われれば、それも違う。ある意味非常に陰湿で、ドロドロしており、極端から極端に走るような面があるとキーラは見ていた。  おそらく、単一民族の国だからだろう。細かいところは知らないが、そう断言して構わない期間が歴史の大部分を占めているので、いわゆる暗黙の了解というやつが無数にあり、ことさら主張をしなくても大半のことが罷り通る。  思想背景を大方共有しているため、互いに察し合うことを主とした社会。ゆえに一旦軋轢が生じれば、どこまでもこじれるのだ。  議論が出来ない。主張が出来ない。なぜ分かってくれないのか分からない。  そして怨じる。極端に走る。他国の者では理解できない激しさで。  輸入された善悪二元論は、そうした民族性のもと畸形と化し、本家を上回る呪詛の塊を発生させた。それがこれだ。  悪魔崇拝というもの自体は本国でも見聞きしたが、どこかパロディ的で稚拙だった。悪というエネルギーに単純な憧れを投影しているだけのような、言うなれば思春期特有の流行病で、彼らのサバトは洒落やファッションの域を超えていない。  たとえ生贄として人間の命などを捧げていようが、それは格好だけなのだ。  極大の恨み、怒り、身も心も血みどろになりながら呪い続ける執念。悪魔と〈一体化〉《シンクロ》し、創りあげるほどの憎悪と妄執――狂気のエーテルが足りていない。  それを持っている者がいるとすれば、この国のカクレと呼ばれる存在こそが相応しいのではないかとキーラは思い…… 「まあ、よい」  吐き捨てるように呟いて、異形の聖堂に足を踏み入れた。不快な気分は消えていないが、いつまでもそんなものを楽しんでいる暇はない。  何か手がかりはないだろうか。自分がこの邯鄲を制覇するために役立ちそうな情報は……  虫頭の地蔵が居並ぶ十字架の下、祭壇の前までやってきたキーラは、曼荼羅模様のステンドグラスを見上げていた。  二十六聖人の殉教、島原の乱……他にも数多ある弾圧の歴史が描かれているその中に、刹那奇妙なものを発見し……  同時に聴こえた背後からの靴音が、弾けたようにキーラを振り返らせていた。 「……何者か」  誰何は低く、闇に呑まれて消えていく。近づいてくる者の正体は不明だったが、神野や聖十郎ということは有り得まい。奴らは空亡と対峙しており、取って返すなど不可能だと分かっている。  ならば辰宮か、神祇省か。自分と同じく、彼らがこの機を逃さずここを調べようとするのは自然だし、予想していた展開でもある。  が、そのために布陣していた鋼牙の兵どもはどうしたのだ。仮に全滅したとしても、自分がそれに気づかないなど有り得ないはず。  まさか、いやしかし――疑念は際限なく螺旋していき、ついにその存在が聖堂に現れた瞬間、キーラの双眸に抑えきれない動揺が走った。 「貴様……」  そして納得。次いで覚悟。天罰を前にした子羊さながら、これはしょうがないと諦観にも似た思いを抱いている。  それは本能レベルの、抗い難い情動だった。  瞬時にして礼拝堂に灯が点る。  なぜこの男がここにいるのか。  どうして自分に接触したのか。  その結果として何がどうなり、どう崩れるのか、残らずすべて興味が無い。  ただ、今、己が何を成すべきかだけは分かっている。  そう、切実に。誰よりも。  他の選択など有り得ないのだ。 「甘粕……!」  軋るような声と共に爪が伸びる。牙が尖る。  吹雪のごとき女王の魔眼が、絶対零度に燃えていく。  ここに炸裂せんとする人獣の殺意を前にして、男は緩く笑っていた。  目深に被った軍帽を押し上げて、大外套を翻し、伊達男でも気取るように。 「遊ぼうか、キーラ。おまえには期待している」 「父上の名誉を挽回してみろ。あれは、そう――」  実に、と手にした何かを弄びながら。 「興醒めさせる男だった。俺が求める〈世界〉《ユメ》には要らんぞ」  指で弾いた血塗れの徽章が落ちるより速く、キーラは轟風と化していた。  聖堂のステンドグラスを粉砕する絶叫と共に。 「―――甘粕ゥゥッ!」  降り注ぐ曼荼羅の欠片はすべて真紅。  煌きながら、真紅一色に染まっていたのだ。 「はいはい、ほら、おまえら早く並べって。仲いいのは分かったから、手間かけさせんなっての」 「了解でありまーす」 「ばっちりイケメンに撮ってくっさいよ、マジで」 「無茶言ってんな、こいつ」 「でもこれ、もしかしたら卒アルとかに載るかもしれないし。そう考えるとやっぱり変な写り方はしたくないよね」 「世良、おまえいらんことを言うな。こいつらそれを意識して妙なことをやりかねんだろ」 「大杉、あんたせっかくだから飛び降りなさいよ。清水の舞台なんだし」 「飛ばねーよ」 「鳴滝くん、ぶん投げちゃえ」 「投げねーよ」 「だーかーらー、ちゃっちゃと並べって言ってんだろーが」 「すみません。ほらおまえら、ちゃんとしろ。人目もあるんだし、恥ずかしい真似だけは絶対するなよ」 「おい水希、ちょっとな、耳貸せ」 「うん、なになに?」 「おいそこ、聞いてるか?」 「ああぁ、だいじょぶだいじょぶ。オッケーよ」 「お願いしまーす。ハナちゃん先生」 「いつでもどうぞ」 「おーし、そんじゃ行くぞー。 はいチーズ」 「あー、きたきた。ほら、昼間の写真、いま花恵さんが送ってきたよ。ぶはっ、見ろってこの四四八の顔」 「あははっ、すっごい驚いてる。このあと本気で怒ってたもんね」 「なー。メガネ取ったくらいでムキになんなっつーんだよな」 「ていうより、頭ぐしゃぐしゃやったことのほうじゃない? 私はこんな風に、前髪おろしてる柊くんのがいいと思うんだけどな。鈴子はどう?」 「私はそれより、あんたのポーズが気になるわよ歩美。なんなのこれ?」 「そんなの決まってるじゃない。〈玖錠降神流〉《くじょうこうじんりゅう》だよ」 「悪いけど、私の目にはインチキくさいカンフーにしか見えないわ」 「栄光も栄光で、馬鹿だよなこいつ。ガイアの囁きでも聞いてんのか?」 「それを言うなら、私はむしろここでこそ鈴子に顔芸をやってほしかったんだけど」 「ねー。りんちゃんと鳴滝くんはまともすぎてつまんないよ。もっとアグレッシブに攻めなきゃ駄目だって」 「大きなお世話よ。とにかく」  皆で囲んでいたスマホの画面から目を上げて、鈴子は先ほどまで続けていた話に戻した。 「結局何なのよ歩美。あんたの言う大事な相談って」 「まあどうせ、こいつのことだからろくなもんじゃないだろうけど」 「あー、失敬だなあっちゃんは。これは正真正銘、超重大なミッションなんだってば」 「ミッション?」  全員、嫌な予感を覚えつつ、なにやら小鼻を広げてふんぞり返っている歩美を見る。  修学旅行初日の夜。風呂もあがってあとは就寝までの短い自由時間となった段で、よく分からないがこんなことになっていた。  邯鄲の四層突破は旅行の前か後かという論争は、結局白黒つかなかったので中を取るかたちになっている。つまりこの初日だけは先行するという形式だ。  すなわち裏を返してしまえば、本日の眠りをもって四層突破に挑戦することになり、そこで失敗すれば旅先で死体となってしまうわけなのだが、そのへんについて不安を感じている者はいない。  正確には空元気も幾分混じってはいるものの、自分たちは大丈夫だと信じているから不吉なことはあえて思考から外していた。  ゆえに歩美の話というのも、夢関連のネタではないだろう。もとよりこの現実にいるときは、邯鄲の話をしないというのが暗黙の了解でもあるのだから。  ではさて、いったい何だというのか。すでに布団も敷かれている部屋の中で車座になっている晶たちを見回しつつ、歩美はずばり端的にそれを言った。 「今から四四八くんたちのお風呂を覗きに行こう」 「はっ?」 「なっ……」 「覗くって……」  全員、絶句。まさにろくでもないものだった。 「アホかあああっ!」 「なんでよりによって男子の風呂覗きなのよっ」 「だって修学旅行のお約束じゃない」 「それはそうかもしれないけど、誰得なのよ」 「わたし得っ!」  力強く断言する。目眩がするような展開だった。 「待て、落ち着け。おまえは今、冷静さを失っている。いいか、よーく考えろ。そんなことが許されるとでも思ってんのか」 「苦情が怖くて14歳がやってられるかっちゅー話ですよ」 「あんたワケ分かんないこと言ってんじゃないわよ」 「じゃあ、ほんとにみんな興味ないの?」 「そ、それは……」 「悩んでんじゃねえよ水希っ」 「だって、そう言われたら、やっぱり、その……」 「はい一人こっち来ましたー、二対二ですよー」  水希のジャージの袖を掴んで、自分の陣営に引っ張り込む歩美。こうなってしまうと、対抗勢力として晶と鈴子のコンビというのは甚だ頼りない。  犬と猿が同盟を組むというのも無理な話で、歩美も当然のようにそこをついてきた。 「だいたいさー、りんちゃんは悔しくないの? 女子的に」 「な、何がよ」 「もうわたしたちのお風呂は終わっちゃったわけじゃない? つまり真っ当な展開のチャンスはあったのに潰しちゃったわけじゃない?  あの男子どもがっ、草食どもがっ、舐めてんのかなんで覗きに来ないんだよ馬鹿にしてんのかぁー!  ちゅーことですよ」 「た、確かに……」 「いやおまえ納得すんなよっ」  こんな意味分かんない論法に。  覗きなんてしない男のほうがいいに決まってるはずだろうに。 「だいたいおまえ、人様に見せられるような身体してねーだろ」 「はああっ、なんですってこのゴリラ!」 「おっしゃあ、きついの一発入りましたぁ! それそれやっちゃえー、ゴートゥーイン・グラズヘーイム。行くぜヴァルハラー」 「行くぜ〈男湯〉《ヴァルハラ》ー」 「黙ってろよてめえらこの馬鹿」  とにかく、このトチ狂ったとしか思えないサバトをなんとかして止めなくてはならない。それが己の使命だと晶は思っているものの、悲しいかなどうしていいか分からなかった。 「つまり歩美、あんたはこう言ってるわけね。舐めた男どもには恥をかかせて、お灸をすえてやる必要があると。  むしろそれによって男子のなんたるかを教えてやらなければならないと」 「そうなの。これは女の意地をかけた崇高な戦いなのよ。りんちゃんならきっと分かってくれるとわたし思ってたっ」 「ええ、お陰で目が覚めたわ。とても大事なことを思い出した気がする」 「なんでだよ、意味分かんねえよ。頭大丈夫かよ、こいつ……」 「腹筋、胸筋、上腕、お尻……それから、それから、うわっ、どうしよう私。いけないわ、そんな」  痴女軍団かよ! でかい声でそう喚きたかった。 「もしかしたら、あたしらの気づいてないところでちゃっかり覗いてたかもしんねえじゃん」 「ないね。それはない。だってその手のポイントに監視カメラ仕掛けといたし。あとで脅迫してやろうと思ってたのに、まさか栄光くんまで来ないなんて、絶対四四八くんが止めたに決まってるんだよまったく」 「あたしはおまえが怖ぇよ。てか、それで空振ったからっつー帳尻あわせが本音かよ」  結局のところ、連中の弱みを握りたいだけじゃないか。そう突っ込む晶の肩に手を置いて、歩美は諭すように言ってきた。 「あっちゃん、男女の仲は奇麗事だけじゃ駄目なんだよ。大人にならなきゃ」 「その通りね。これは戦いよ」 「そもそも、仮に覗いてたんだとしたら余計に覗き返したいよね」  駄目だもう。どうしようが止められそうにない。せめて、自分だけは最後まで反対したというのをどこかに記録しておきたいのだが、そのへん誰か証言してくれないかな。 「けどまあ、そこまで言うならあっちゃんは来なくていいよ。無理強いはしないし」 「へっ?」 「だからぁ、嫌なんでしょ? だったらここで待ってればいいじゃない。わたしたちは行ってくるから」 「い、や、でも、それは……」 「あれえ? あれあれえ? どうしたのかなー? もしかして、一緒に来たいのかなー?」 「いいわよ歩美、こんなのほっときましょう。負け犬に用は無いわ」 「急がないと、お風呂の時間終わっちゃうしね」 「ああそうだった。こうしちゃいられないの巻でござるよにんにん」  などと、凄まじくわざとらしい調子で忍者の真似をしながら立ち上がった歩美は、ぶん殴りたくなるような顔で見下してきた。 「しょせんそのおっぱいは飾りですか」 「…………」 「まったく、威勢がいいのは口だけのようね」 「…………」 「今どきギャップ萌えとか古いのよ……てごめん、さすがに私はそこまでの顔芸できない」  口々、次々、好き勝手なことを…… 「さーてそんじゃあ、いっちゃいますかぁ! ファッキン・レッツゴー・ピーピングトーム!」 「オーライ、イエス・マム!」 「ちょっと待てやああっ!」  ワケの分からない掛け声で盛り上がってる連中の胸倉掴んで怒号した。なんで寄ってたかってボロクソ言われなきゃいけないんだよ。 「いーよ、分かったよ。あたしもついてく。それでいいだろ」 「別についてきてくれとは言ってませんしぃ」 「うっせえんだよあゆ。おまえらだけに行かせたらろくでもないことになるの分かりきってんだろうが。  こんなの花恵さんに見つかったら速攻強制送還なんだぞ。やめる気ないなら、あたしが傍で監視する。あと、こういうのも無しだっ」  言って晶は、歩美からデジカメを奪い取った。 「あー、ちょ、なにするんだよー!」 「おまえファインダーとか、スコープとか、とにかくそんなの越しに覗いたら我忘れて別の宇宙に行っちまうだろうが。死亡フラグにしか見えねえんだよ。物的証拠にもなるし」  だから盗撮は絶対NG。取り上げたデジカメを掲げる晶に、歩美は喚きながらぐるぐるパンチしてきた。 「なんだよー、なんであっちゃんはいっつもそうやって肝心なときにいい子ぶるんだよー! この処女、処女処女処女っ、触手マニアのくせに! 狂い咲くそばもんの処女!」 「意味分かんねえよ。だいたい処女に処女処女言われたくないわ。おまえらも全員処女だろが」 「ふっ、それはどうかな」 「あんたつまんない見栄はってんじゃないわよ」 「てめえは妙なときだけキャラ暴走させんのやめろや水希」 「ねー返して、返してよー!」 「あーもう、うるっさいわねえ!」 「ていうかなんでハナからハッタリ扱いなのよ! 失礼でしょ!」 「だーコラァ! なに騒いでんだジャリどもがあ!」  すぱーん、と襖を開けて現れた担任に一同の視線が集中して、数秒沈黙が流れたあと。 「あ、二十六年ものの処女がきた」 「ばっ、おま――」 「ちょっと、なに余計なこと言って……」 「ご、ごきげんよぅ~、ハナちゃん。いい夜ですねぇ……」 「ふ、ふふ、ふふふ、ふ……」  ああ、こりゃやばい。全員瞬時にそう察して、続く行動は早かった。 「てめえらそこに正座しろォ――ておい待て、逃げんなぁ!」 「すみませんでしたぁ!」 「おー、うわやっべ、マジ間一髪だったわ今の」  噴火の直前に蜘蛛の子散らしてどうにか難は逃れたものの、まだ胸の動悸は治まらない。  しばらく経ってなんとか落ち着きを取り戻した晶は、そこでようやく自分が一人きりになっていると気がついた。 「あいつら何処に行ったんだ……つーか、ここ何処だよ」  廊下を突っ切ってロビーから中庭に降りたあたりまでは覚えているが、その後どこをどう逃げたのか思い出せない。  見たとこホテル裏手の雑木林みたいだが、これからどうするべきだろう。今すぐ部屋に戻ったら花恵に捕まりかねないし、かといってここにこうしてても仕方ないし。  いやでも、そういえばこのすぐ近くが露天風呂だったような気が…… 「べ、別にあたしは覗きとかそんなんしねーし。興味ねーし」  だけど、歩美たちを放っておくわけにもいかないし。もしものことを考えて、確認はしとかないといけないよな、たぶん。  誰に言い訳しているのか、自分でもよく分からないままぶつぶつと呟きながら、晶は露天風呂の裏までやって来ていた。  そこで彼女が目にしたものは…… 「しゃあっ、きたきたキター! そろってますよ、桃源郷ですよ、腹筋祭りですよ、万歳日本サムライジャパーン」 「ちょ、歩美、いいから私にもそれ貸しなさい。あと、声大きいから」 「暴れないで二人とも。落ちちゃう、落ちちゃうってっ」 「…………」  晶の頭上、木によじ登って枝にしがみつきながら、双眼鏡を回しあいつつ盛り上がっている残念な奴らが三人いた。見れば連中の身体は、ほぼ露天風呂の敷地内上空にすら侵入している。  そこまで近づけば双眼鏡なんかいらないだろうに、気分か? それともより拡大で見たいという変態根性の成せる業か? 「おい、なんだよこれ。マジでやってんのかよこいつら……」  そして三人が三人とも、晶の存在にまったく気づいていなかった。ゆさゆさと不自然に揺れまくっている木の上で、なにやら品評会めいたものすら始めている。 「すげー、鳴滝くんの後背筋。なにあれ、鬼の顔とか出そうだよ」 「ていうより、お尻が……(ゴクリ」 「あんな奴のことはどうでもいいでしょ。だいたいあんたら筋肉筋肉って、品がないのよ。他にも見るべきところはあるでしょう」 「たとえば?」 「たとえば、ほら、鎖骨とか? 私はごつごつしたのより、もっとしゅっとした綺麗な感じのやつがいいわ。   ええっと、そうね。あそこに長瀬がいるじゃない。あいつなんかイケてると思う」 「草食王子は彼女できちゃったからそんな目で見ちゃ駄目だよりんちゃん」 「うん、でもこの状況で言ってもねえ」 「とにかく鈴子は、ああいう長瀬くんみたいな中性的なのがいいわけね」 「だって、あんまり男臭が強いと乱暴な感じがして嫌じゃない。だからスマートなほうが私の好みよ」 「じゃあ栄光くんは? 華奢っぽいし、あそこでなんか踊ってるから丸見えじゃん」 「うわぁ……」 「……あれはただの馬鹿でしょう。粗末なもん振り回して何してるのよ、悲しくなってくるわ」  おう、まあ、どっちも楽しそうで何よりだ。  と思えないのはなぜだろう。だんだん腹が立ってきた。 「あ、見て見てみんな、四四八くん登場っ」 「えっ……」  そしてその名が出た瞬間に、晶のよく分からないもやもやはさらに激しくなっていく。 「ファーック、なんでタオル巻いてんだよ空気読めよー!」 「あいつ、裸の付き合いも出来ないの? 幻滅だわ」 「ほら、ちょっと大杉くん、そこ全力で突っ込んで。普段のウザいノリを発揮するなら今しかないでしょっ、これ重要だからっ」 「でないと激おこプンプン丸! ムカ着火ファイヤー!」 「インフェルノいかないの?」 「そこまでいったら覗きどころじゃなくなっちゃうし、そうならないように念を飛ばすんだよ、みんなで!」 「了解、任せて」 「たまには役に立ちなさい、大杉」  そして頭上から、禍々しいオーラが迸り出したのを晶は感じた。それに比例するかのように、胸のむかむかも上昇の一途。 「いったー! そうだ栄光くん、信じてたぞ。君はそういう奴だっ」 「早く、早く、早く、早く――」 「その鬱陶しい布切れ取っ払いなさい」  理屈とか、体裁とか、小難しいことは残らず無視して、現状を端的にまとめるとこうだ。 「そーれご開・帳っ」  インフェルノすら飛び越えた域にいったのは、むしろ晶だったという事実。 「てめえらいい加減にしやがれ、この痴女軍団がっ!」 「えっ」 「きゃあっ」  力任せに蹴り上げた木の幹は、予想外の振動を上まで伝えてしまったらしく、とんでもない事態を引き起こした。 「うひゃあっ」  ざっぱーん、と、盛大な飛沫を撒き散らす音と共に、三人は露天風呂に墜落した。 「あっ……」  やばい、まずい。そんなつもりじゃなかったのに、どうんだよこれ取り返しがつかないぞ。  などと慌てたところで、もう手遅れだった。 「なかなか面白いところからやってくるな、おまえたち。いい度胸だ。  遊びたかったんならそう言えよ。歓迎してやる」 「あ、あ、あわわわわ……」 「ち、違うのよ柊、誤解しないで。これには、そう、深いわけがあって」 「ぜ、ぜぜぜ全部あっちゃんがやれって命令してきたんだよぉ!」 「あたしのせいにしてんじゃねえよ、あゆてめえ!」  聞き捨てならない台詞にまたしても着火して、柵を蹴り倒した晶は盛大に自爆した。 「きゃあ、ちょっとなんなのこの女子たち! ハレンチすぎるわ、もうお嫁にいけない!」 「きめえよ、大杉。てかなんでおまえ嬉しそうなんだよ」  叫ぶ者、逃げ回る者、なぜか全開で仁王立ちしている者、曰く〈男湯〉《ヴァルハラ》は阿鼻叫喚だった。  そして、まあその、こんなときでも目を皿のようにして男どもの裸体をガン見している歩美たちは何か甚だ間違っていると思う。  だがそれ以上に―― 「武士の情けだ。先生にだけは黙っててやる。ただし――」 「た、ただし?」  ビキビキとこめかみに血管を浮き上がらせて、凍ったマグマのような声で告げる四四八は過去最高に怖かった。  周囲に青白いオーラすら見える。マジで。 「それ相応の報復は覚悟しろよ―― さっさと消えろォ! 」 「失礼しましたぁ!」  夢での超常もかくやという勢いで津波のようなお湯を飛ばされ、再度全身ずぶ濡れになりながら這う這うの体で退散したのだ。 「うん、でも、悔い無しって感じだよね」 「おまえちっとは反省しろよっ」  帰り際、何かをやり遂げたような顔で悦に入っている歩美たちとは違い、晶はかなり不安だった。  四四八は甘くない。やると言ったらやる。そんなあいつが言った報復とはどんなものかと気が気じゃなくて…… 「今夜はいい夢見れそうかも」 「そうね。ばっちり目に焼き付けたし」  せめて自分だけでも警戒してなきゃいけないよなと、晶は思った。 「そういうわけで、今から報復に移る。おまえら異論はないだろうな」 「おうよ、当然っ」 「まあ、内容にもよるが」 「ヘタレたことを言ってるな鳴滝。このまま黙ってろって言うのか、男が廃るぞ」 我ながら軋るような声でそう言った。風呂での一件を思い返すだに腹が立つ。 昨今は女の男化が激しいだの、男の軟弱化が深刻だのと言われちゃいたが、正直自分には関係ないことだと思っていた。なのにまさか、それが身近な問題にまでなっていたとは、甚だ遺憾極まりない。 「俺は自分が男に生まれたことを誇りに思っている。これまでもこれからも、男らしく生きていくつもりだし、生まれ変わっても男でいたい」 「だから世間で言われてる草食だの何だのいう戯言は、しょせん他人事だとな、どこかで楽観してたんだよ」 「だが、それは間違っていたようだ!」 俺たち以外、同じく風呂を覗かれた他の男連中の反応は、まさに愕然とするものだった。 怒るでも、燃えるでもなく、困ったなーとにやにやへらへらするばかり。そんな風にふにゃついた態度だから、女どもが調子に乗る。 俺たちまでそんなもんだと誤解される。冗談じゃない話だ。 「男の怖さってやつを教えてやらなければいけないだろう。あいつら、しょせん俺たちにたいした真似はできないと高を括っているからあんな真似をしてきたんだ。舐められてるんだよ、要するに」 「分かってるのか、鳴滝。おまえ、男じゃないのか。漢を売って生きる気はないのかっ」 「お、いや……それは、まあ、確かにそうだな」 「おまえの言いたいことは分かるけどよ」 「だからそもそもオレらが覗いときゃよかったんだよ。なのに四四八が止めっから」 「そこについては、今さらながら後悔してるよ。別に連中の裸なんぞはどうでもいいが、示威の一種としてやっておくべきだったかもしれん」 「ここにきて、ようやく気づいた。どうも女というやつは、優しさと弱さの区別もつかん馬鹿が多いものらしい」 「甘くすればつけあがる。そういう生き物なんだと理解した」 「そーそー、修学旅行の風呂覗きなんて、要は野郎同士の連帯感を育むためのお遊びみたいなもんなんだからよ。別にそこまで裸が見たいわけでもねーっていう」 「そうやって適度に女ども突っついてさ、四四八が言う示威行動ってやつ? 繰り返してこそ男のなんたるかを女も理解すると思うんだよオレは」 「やっぱ昔っからのお約束にはそれ相応の意味があるぜ」 「おまえの言う通りだ栄光。確かにそういうものなんだろう」 「おまえはガチでスケベ根性が先走ってるだけだろ大杉」 「だとしてもだ、何にしろこのままってわけにはいかないだろう。違うかっ」 「男の誇りを取り戻せ鳴滝。これは尊厳をかけた戦いだ!」 ずばり指を突きつけて喝破する。それにこいつは、目を白黒させながら探るように言ってきた。 「……なあ柊、おまえもしかして、実は結構馬鹿なのか?」 「失敬なことを抜かすな。まだ分かってないのか貴様は!」 「それでも帝国軍人かっ!」 「んなわきゃねえだろ! てめえら二人とも戦の真のノリで喋んな。反射で直立不動しそうになんだろっ」 「ああもう、とにかく言いたいことは分かったから、その報復行動ってのは何なんだよ。おまえのことだからしっかりプラン立ててんだろ、さっさと言えよ」 「いいだろう。それなら言うが、心して聞け。実に単純明快だ」 食いついてくる栄光と訝しげに目を眇める鳴滝を交互に見やって、俺は言った。 「今から女どもの部屋に強襲をかける」 「つまり夜這いだ、覚悟して行け」 「よばっ……!」 「うおおおおっ!」 狼狽と歓喜。二人の反応は割れていたが、共に驚愕しているという点では同じだった。 「すげえぞ四四八、よく言ったそれでこそ男だぜェ!」 「ちょ、ちょ、待て待て待て! おまえマジで言ってんのか柊、キャラぶっ壊れすぎだろ!」 「別にぶっ壊れてはいない。言ったろう、俺は男に生まれたことを誇りに思っている」 「ゆえに男としての本能を行使するのみだ。事ここに至って躊躇いはない」 「で、でもよ、いくらなんでもそりゃおまえ……」 「心配するな。何も本気で行為に及ぼうとは言っていない」 「は、そうなの?」 「当たり前だ。レイプまでいったら男じゃなくもはや雄だろ。その一線は人として守る」 「だが、あの女どもにはそう思わせるくらいでちょうどいい。つまり覗きよりもう一歩踏み込んだ示威。脅しだと気づかせないほど真に迫った行動だ。それで男の怖さを分からせてやる」 「なるほど。そんできゃーきゃー言わせてやると」 「びびらせるだけびびらせて、ぷるぷる震えてる奴らの前でバーカ本気にしてんじゃねえよメス豚が、て決めるんだろ? うん、それはそれで爽快だわな」 「おまえは理解が早くて助かるぞ栄光。まあ概略はそんなところだ」 「でもよ、万に一つも向こうが覚悟決めちゃったらどうすんの? 分かった、来てぇ……みたいになっちゃったら」 「おまえ、この状況で俺たちとあいつらの間にそんな展開が具現すると思うか?」 「そりゃ、まあ、どう捉えていいか分かんねえけど有り得んわな。でも仮にだよ。もしもの話」 「そのときも対処は同じだ。何を本気にしてるんだ馬鹿めと切り捨てる。プライドをずたずたにしてやれ」 「あとで殺されねえかな……」 「そんなことを恐れていてどうする! だから舐められるんだ、毅然としろ」 「わ、分かった。おう、ばしっと決めるぜ」 「おまえはどうだ、鳴滝」 「いや、その……」 問うと、未だにこいつは煮えない感じではっきりしない。まったくでかい図体をして情けない奴だ。 「そもそもどうやって奴らのとこに行くんだよ。ここも女どもの部屋ん前も、先生が寝ずの番で立ちはだかってんだろ。〈現実〉《こっち》じゃ俺たち、透明人間なんかにゃなれねえぞ」 「それなら問題ない。俺がその程度のことを考慮しないとでも思ったか」 言って俺は、ジャージのポケットから紙を取り出し、それを広げる。 「見ろ」 「こ、これは……!」 「この旅館の見取り図だ。戦に先駆けて地理を把握するのは基本だろ」 「おまえどうやってこんなもん手に入れたんだよっ」 「俺がこの旅行における生徒間の総班長を任せられているって忘れたのか。馬鹿な真似をする奴が出ないよう、監視と対処に必要だからって名目で貰ってきた。まあ日頃の行いだな」 「職権濫用全開じゃねえか」 「今、その手のことを議論する気はまったくない。とにかく見ろ、これによるとここからここ」 ざっ、と俺は図の一点を指でなぞる。それに栄光たちは呻きを漏らした。 「天井裏か……」 「そう、ここが完全な盲点だ。便所の上から天井裏に上がれる。そこを通ってこの部屋を出たあと、階段脇にある用具室に下りよう」 「そこから気づかれないように上階に行き、再び用具室から天井裏へ。そのまま奴らの部屋に侵入を果たす」 「窓からそのまま上に行く手もないじゃないが、向こうの窓が開いてなければ終了だし、落ちれば死ぬしでリスキーすぎる。よってこのルートしかない。質問は?」 「ない。うん、これで行こうや、燃えてきたぜ」 「おまえはまだ何かあるか鳴滝」 「じゃあ、その、根本的なところを訊くけどよ……」 まさに恐る恐るといった感じで、こいつは問いを投げてきた。 「結局その夜這い紛いは、誰が誰にって割り当てなんだよ」 「むっ……」 言われ、俺も言い詰まった。そこは完全に思考から欠落していたのを今さらながら自覚する。 「誰が誰にって言われても……」 これはあくまで示威行動であって本番じゃないし、つまり真剣にいたすわけではないからそこはどうでもいいと言うか、いやでもしかし…… 「なあおい、どうすんだよ。答えろよ柊」 「おまえは希望があるのか、鳴滝」 「は? おま、そん、俺はどうでもいいだろ。じゃあ大杉、てめえはどうだよ」 「オレ? いや、そうだな、う~~ん」 「早く言えよ」 「ちょ、急かすなようっせえな。もう、なんだよこれ、なんか恥ずかしくなってきたぞ」 「いいか? 言っとくが、別に誰を選んだからって、それはオレがそいつのことを好きとかいうわけじゃなくてだな」 「たとえば、そうな……あーもう分からん! とにかくオレが言えるのは一つっきゃねえよ。晶だけは勘弁してくれ」 「あいつにゃ夢でもリアルでも腕っ節で勝てる気がしねえし、トラウマだってあんだからさ」 「……まあ昔、村雨丸で頭割られたしな」 「だよ。だいたいそれを言うなら人数だって合わねえじゃん。オレら三人で、向こうは四人だぞ。そこどうすんだよ」 「それについては、鳴滝が二人を相手にするしかないんじゃないか?」 「なんでだよっ?」 「おまえが一番ごつくて強いからに決まってるだろ。女の二人くらい余裕で組み敷けるはずじゃないのか」 「それは、でもおまえ……」 「出来るの? 出来ねえの?」 「まさかその筋肉は飾りだなんて言わないよな」 「て、てめえら……」 震えるように言いながら、鳴滝の目が据わっていく。ここにきて、ようやくこいつもその気になってきたらしい。 それで俺も、このツッパリを煽るならこういう方面でいくべきなんだなと理解した。 「腕の見せ所だぞ。失望させるな」 「だぁー、分かったやってやんよ! だけど柊、俺も鈴子だきゃあ御免だからな! ギャグでもなんでも、あいつにんな真似すんのはぞっとする」 「それで、肝心のおまえはどうすんだよ。さっさと答えろ」 「四四八の聞いてからオレも決めるわ」 「じゃあ、そうだな……」 実際、これは形だけでも決めておかねばならないことなので考える。俺がいくとすればいったい誰か。 考え、考え…… 「よしっ、じゃあ四四八はそれな。オレも決めたわ」 「鳴滝は残りの二人だ。異論はないな?」 「しつけえよ。決まったんならさっさと行こうぜ」 「おう。けどその前に、もう一個だけ大事なことを決めとこうぜ」 「なんだ?」 まだ何かあるのかと促したら、こいつはまた例によってアホなことを言いだした。 「仮にも夜這いなんだからよ。女どもの耳元で囁く甘い台詞を考えようぜ」 「こう、ぞくぞくするような殺し文句っていうやつをよ」 「て、なんだよおまえら、なんでそんな白けきった顔してんだよ!」 「だって、なあ?」 「そんなもんに拘るのはおまえだけだ」 と一刀両断したのだが、こいつは思いのほかしつこかった。 「あのなあ、ちょっとよく考えろよ。趣旨は舐めた女どもをびびらせてやることだろうが。だったらこっちも、よりマジっぽく攻めなきゃ向こうだって引っかかんねえよ」 「おまえらガラじゃねえとか言うけどよ。だからこそ威力でけえと思わねえか? 四四八や鳴滝が〈低〉《ひっく》い声でよ、なんかそれっぽいこといったらギャップ効果は抜群だろ。違うかよ?」 「そう言われると……」 「確かに、そういうもんかもしんねえが……」 こいつに論で押されることなどほぼないのだが、これは珍しく一考に値する言い分だった。なので俺も素直に認める。 「分かった栄光、おまえの言うことももっともだ。今から各自、その殺し文句ってやつを考えよう。ただし時間はないから、急いでいくぞ」 「鳴滝、おまえもそれで構わんな?」 「……ああ。けどあんま期待すんなよ」 そうして数分、皆で頭ひねりつつ考えて…… 「よし、俺はだいたい纏まった」 「俺もだ。一応」 「じゃあ、いっちょここで練習しようか」 「はあ、なんでだよっ?」 「なんでも何も、慣れない台詞なんだから土壇場で噛んだりしたら台無しだろうが。ここで恥ずかしがってるようじゃ話にならねえぞ」 「ぐっ、それは……」 「悔しいが、正論だな。いいだろう、俺からいく」 「おっし、待ってましたっ」 「マジかよ、柊……」 期待と不安に満ちた視線を受けつつ、俺は軽く目を閉じて選んだ女の顔を思い浮かべる。 いや別に、だからどうだってわけじゃないんだが、ここじゃ男の前で言ってるというのを意識したらトチりそうなんで、これは必要な儀式なんだよ、他意はない。 断じて、たぶん。 とにかく、そんなこんなで俺が編んだ殺し文句は以下の通り。 「騒ぐなよ、馬鹿。俺だけを見ろ」 「そして、覚悟が決まったら目を閉じろ。静かに、眠るようにだ。心配するな」 「その間に全部終わる。俺に任せて、いい夢を見ろよ。おまえは――綺麗だ」 「…………」 「…………」 「……どうだ?」 「かっけえええ! なんだ四四八、おまえずりーぞ。マジ万能じゃねえかそっち方面でも隙無しかよ!」 「冗談抜きで背筋がざわざわしてきたわ」 まあ、うむ。今になって凄まじい照れが襲ってきたが、おかしくないようで何よりだ。しょせんは男からの評価なので不安も残るが、今の調子でいけばきっとなんとかなるだろう。 「じゃあ次、鳴滝いってみよう」 「期待してるぞ、おまえの殺し文句を聞かせてくれ」 「……分かった。ちょっと待ってろ」 言うと、鳴滝は深呼吸して気息を整えると、一転目に力を込めて俺たちを見た。 そして続ける。 「熱いな、おまえは。あんなことしてくっから、俺も火が入っちまったよ。どうしてくれる」 「なあ、全部おまえが悪いんだぜ? 分かってんのかよ、責任取れ」 「嫌がったって、聞かねえぞ。全部自業自得――なんだからな」 「…………」 「…………」 「……で、どんなだ?」 「渋いっ! イカしてるぜ鳴滝。そのワイルドっぽく見せながら、同時に懇願してるような口調が最高っ!」 「なかなか頭脳派なノリだったな。そんな風に言われたら、女も簡単には断れないだろう。風呂事件のことを蒸し返して、追い詰める心理誘導も憎い」 「おう、まあ、そこまで考えたわけでもねえけどよ。おかしくねえんならよかったわ」 鳴滝もまんざらではなさそうだ。これであとは栄光一人。 言いだしっぺなんだから、相応のものを期待しよう。 「さあ、聞かせろよ栄光」 「おまえ流の決め台詞をよ」 「任せろ、いいかあ? まずはこうっ!」 言って栄光は、いきなりその場で正座した。 「ほんとは全裸でやるんだけどな。ここで脱ぐわけにもいかねえからそういうもんだと思ってくれ」 「とにかくこうやって、枕元に全裸正座を決めてだな。厳かに告げるんだよ」 「今宵、あなたを抱くために、我は千の山を越えて参りました。いざ尋常に、夜の立ち合いを所望いたす」 「この閨という一つの宇宙で、あなたという海に溺れてみたい」 「ヌキヌキポン」 「…………」 「…………」 「な、な? どうだよイケてんだろ?」 「さあ、行こうか」 「だな」 「ちょ、待てよおまえら! なんでオレだけスルーなんだよ!」 「うるせえ! てめえのそれ、どっかで聞いたことがあるんだよ。俺が女だったら間違いなくブチ殺してるわ!」 「全裸正座の時点で嫌な予感はしていたが……」 まあ栄光だ。しょうがない。いつまでもくだらない小芝居をやってないで、さっさと行動に移るとしよう。 「そんな駄目かよ。ヌキヌキポンって決め台詞」 「論外だ」 そして…… 「この真下、てことでいいんだよな」 「ああ、間違いない。俺を信じろ」 その後、作戦通りに天井裏を通って目的の場所まで到達した。暗闇なので鳴滝と栄光はまだ確証を持てないようだが、俺の感覚は絶対だと告げている。 ここで実は別の部屋でしたなんて凡ミスをやらかすほど、俺の詰めは甘くない。事前に入手した見取り図通り、この下にこそ奴らがいると分かっていた。 まあ正確には、その部屋の便所に下りるわけなんだが、土壇場まで隠密行動が要求されるのだからそっちのほうが都合はいい。 いきなり寝間の天井から俺たちが現れたら、その場で大騒ぎされかねない。 「分かってるな、二人とも。間違っても悲鳴なんかあげさせるなよ」 「外にゃハナちゃんがスタンバってるはずだもんな」 「そういうことだ。便所に下りたら、足音殺して部屋に入る。そしてあいつらの枕元にまで辿り着いたら、まず全力で口をふさげ。多少暴れるだろうが、手加減するな。びびらせろ」 「了解、任せろ」 「鳴滝は二人相手だから大仕事だが、頼むぞ」 「心配すんな。女二人押さえ込むくらいわけねえよ。寝てる位置にもよるが」 「そのへんは状況見て臨機応変にいこうぜ。なんだったら狙う相手を変えればいいし。結局はマジに襲うわけでもねえんだからさ」 「そういうことだな」 しつこいようだが、しょせんは示威。男を舐めたら怖いというのを教えてやるのが目的だ。そういう意味では、あいつらのためと言えなくもない。 この先、今の調子で舐め腐ったノリを続けていたら、将来やばい男に出会ったとき洒落じゃすまんぞというのを理解させる。それが俺たちの務めであり、要するに友情だ。感謝してほしいとさえ思う。 こっちはこっちでバレたら強制送還というリスクを背負っているのだから、非難される覚えはまったくない。そもそも仕掛けてきたのは向こうが先だ。 「しっかし、どんな反応するかねえ、あいつら」 「大いに慌ててくれなきゃ甲斐もないがな」 「鈴子ならおおかた想像はつくぜ。どうせあいつはこんな感じだろ」 「なんなの、なんなの破廉恥、変態!  そんな、私が何をしたっていうのよ。 許して、お願い、駄目よ ――あぁんっ」 「とかな。日頃偉そうなわりには雑魚いから、あいつ」 「ぶはっ、確かにな。言いそうだぜ、違いねえ」 鳴滝のシミュレーションがリアルに想像できてしまったので、俺もまた苦笑を漏らす。 「まあ、晶も似た感じだろうな。根が純なところはあいつが一番だし」 「ご、ごめんって!  あたしが悪かったから、落ち着いて。うん、落ち着こうよ。 待った待った待っタンマー!  マジでちょっと、ごめんなさあああい! 」 「てな風になるだろ、高確率で」 「それも想像しやすいな」 「けどそうなると、読みづれえのは歩美だよな。あいつ、意外にどんと構えたりしそうじゃね?」 「ふっふっふ…… 面白いじゃない、かかっておいで。 お手並み拝見してあげるよ、カモーン」 「とか言われたらどうすんだよいったい」 「そうならないよう、本気で脅すんだよ。あいつは鋭いから、一番注意しなきゃならん」 「物理的にゃあ一番ヒョロいし、そこはなんとかなるんじゃねえかな」 「ああ。そうなるとあとは世良か」 正直、俺にとってはそこが一番読みづらいとこでもあった。晶や我堂と同類のような気もするし、歩美のノリに近いようにも思えてくる。 これまでの日常、あいつはどっちの方向にも片鱗を見せているので、俄かに判別しづらいところがあった。 その気持ちは、栄光たちにも通じたらしい。 「もしかしてさ、まだ一回も見せてない素の部分があったりして、それが出てくるなんてことはねえよな」 「たとえば?」 「そうだな、こう……まるでゴミでも見るような感じで」 「汚い。 馬鹿じゃないのあなた達。 目障りだから、さっさと消えてくれる?」 「とか……」 「…………」 「…………」 怖っ! 「あはは、ないよな。ないない。まさかあのみっちゃんに限ってそんなことはなあ……」 「おまえ心臓に悪い想像してんじゃねえよっ」 「まったくだ。ふざけるな」 とにかく、始める前からうだうだ言っててもしょうがない。そろそろ行動に移してしまおう。 暗闇の中、気配だけで目配せを交わした俺たちは共に頷く。 「行くぞ」 「おっしゃ」 「作戦開始だ」 そうして足元の蓋を剥ぎ、全員猫のように便所へ降り立ったその瞬間―― 「え……?」 おい待て、なんだよこのタイミング。まるで狙い済ましたように便所のドアが開いて晶が―― 「ちょっ――」 あまりに突然のことすぎて、口を押さえるのも間に合わなかった。 「うぎゃあああああっ!」 「は、なに?」 「どうしたのあっちゃん!」 「ネズミでもいたっ?」 狭い個室に轟き渡る大絶叫。その残響も消えない間に、冗談ごとじゃない怒号も聞こえてきた。 「オラぁ、騒いでんじゃねえっつったろうがジャリどもがぁ!」 「やべえ、ずらかるぞ鳴滝!」 「分かった!」 「な、おい待ておまえら。置いてくな!」 「うぎゃああ、うぎゃああああ!」 「おい、縋りつくな、逃げられないだろ!」 ていうかおまえ、びびりすぎだ。俺たちが化け物にでも見えたのか? 身動き取れない俺を残し、栄光たちは再び天井裏に逃げ込んで脱兎のように去っていく。かなり深刻な状況だった。 どうする俺。どうやって切り抜ける? 「~~~~~」 逡巡、コンマ一秒以下。まずはこいつを正気に戻さなければどうにもならんと即座に決めた。 「晶、おい晶、しっかりしろ!」 「へ? あ……四四八? なんで?」 「なんでもあるか。なに喚いてんだよおまえは」 「だって、顔が」 「あ?」 言われて気づいた。天井裏なんかを通ってきたものだから、顔のみならず全身真っ黒になっていたんだ。便所に入った瞬間そんな奴と対面すれば、なるほどパニクっても仕方ない。 が、今は実際それどころじゃなく―― 「おい世良、どうかしたのか? 開けるぞー」 「あ、はい。ちょっと待ってくださいねー」 「だああ、待て待て。それは洒落にならん」 晶の手が解けたことで俺も天井裏にエスケープしようとしたのだが、なぜか蓋が持ち上がらない。慌てた栄光たちが乱暴に逃げたから、何かつっかえてしまったみたいだ。 「くっ、嘘だろ。どうすんだよこれ」 「だから四四八、おまえはいったい何してんだよ?」 「何っておまえ、それはつまり……」 こうしている間にも、事態はどんどん悪化していく。もはや一刻の猶予もない。 くそったれ、潮時だ。俺はそう観念して、その場で晶に頭を下げた。 「すまん、説明は後でする。今はとにかく匿ってくれ。お願いだ」 「晶、頼む」 「…………」 その沈黙は何を意味しているのだろうか、判断する暇もなく―― 「あれー、なんで四四八くんがここにいるの?」 「はあ? ちょっとあんた、これはどういう」 「なんだ、〈便所〉《そこ》に何かあるのか? おいこら、なに鍵かけてんだよ。そんなことしたってキーはこっちに」 ガチャガチャとノブを回す音が響く。いよいよ絶体絶命かと思った矢先のことだった。 「四四八、おまえこっち来いっ」 「え、うお――」 予想外に強い力で引っ張られ、そのままワケも分からずもみくちゃにされる感じで再び視界は真っ暗になった。 そして一瞬の静寂。結果…… 「なんだよ、なんもないじゃんか。おまえら何をばたばたとやってんだよ。時間考えろ、時間」 「あ、あはは……はいぃ、すみません~」 「その、ちょっとネズミでもいたのかなーって気がしたもので」 「まあ、ある意味、いたんですけどね。ネズミ」 「は、マジかよ? それでおい、真奈瀬はどうした?」 「ああ、あっちゃんなら……」 「もう寝ちゃってる、みたいですけど……」 「そうなのか、我堂?」 「はい、たぶん……」 そのとき俺はようやく気づいた。今、自分が置かれている現状を。 「真奈瀬ぇ、おい真奈瀬ー? ほんとに寝てんのかー、おーい」 「…………」 「…………」 どうやら俺は、晶の布団の中に引っ張り込まれてしまったらしい。暗くてはっきりとは見えないが、それでも完全な闇じゃないんで薄っすらと分かる。 目の前にあるのは、その、なんだ。 「近い、晶。おい、近いって」 「うるさい黙れ、喋んな馬鹿。息が掛かる。くすぐったい」 どうしてこいつは、ジャージの下にTシャツ一枚着てないんだよ。 さっきのどたばたで半脱ぎになった上着の下、ブラジャー越しの胸が鼻先一センチもないところにある状況は、いくら俺でも冷静さを保つのが困難すぎる眺めだった。 近すぎて逆に分からない部分もあるにはあるが、こいつの動悸やら体臭やらがダイレクトに伝わってくる。 匿ってくれとは確かに言ったが、いくらなんでもマズすぎるだろこれは。 「んー、なんだ? なんかこれ、布団の盛り上がり方がおかしくない? 真奈瀬、こんなデブってないだろ」 「やばっ」 「ちょっ、おま――」 待て、やめろ。胸に押し付けるな。息が出来ん。 「あー、そんなことないですよハナちゃん先生。あっちゃん、あれですっごい着やせするタイプだから、脱ぐとこう、どばーんと出るんだよね。お腹もお尻も」 「嘘、ほんとに?」 「ですです。もはやあれはトドと言ってもいいくらい。だらしない我がままボディの持ち主なのです」 「そうか。それはまあその、大変だな……」 「色々つらいこともあるだろうが、強く生きろよ真奈瀬」 「ほっとけやああっ、毎度毎度あゆ、あんにゃろう。絶対シメる、いや殺す」 落ち着け晶、あれでも一応、庇ってくれようとしてるんだろ。 「て、さっきからボソボソ声が聞こえんだけど。何これ、寝言? でもところどころ妙にトーンが低いっていうか、まるで男の声みたいな……」 「あ、あああ、それはですね。晶は寝言になると、口調だけじゃなくてトーンも男っぽくなるっていう」 「もはや異形のものみたいな設定になってきたわね。まあそれもそうか、そばもんの眷属だし」 「ひゃんっ」 「は?」 「あぁん?」 「ちょ、なに今の」 「こいつら、まさか……」 「舐めた、舐めた。四四八、いま舐めただろバカー」 「不可抗力だ、息が出来ないんだからしょがないだろ――他意はない」 「ほんとに? ほんとにほんとに?」 「神に誓って」 「そばもんに誓って?」 「そんなもんに誓うか馬鹿」 「そばもんは恵理子さんだろ――や、また。あン」 「だから、おい、押し付けんなって」 身をくねらせてよじる晶に詫びたい気持ちは当然あったが、しかし俺はそれ以上に、布団の向こうから伝わってくるドス黒い殺気のようなもののほうが気になっていた。 「ハナちゃん先生、そんなわけなのでそろそろお引取りください。わたしたちも眠いんです」 「お、おう。ならそうするけど、真奈瀬の奴は大丈夫なのか? なんかさっきから、苦しそうな感じなんだけど」 「気のせいです。ええ、まったく問題ないですからあとは私たちに任せてください」 「じっくりたっぷり、それはもうちゃぁんと介抱しますから。はい」 「う、うん。分かった。でもおまえたち、目が笑ってないんだけど……」 「早く出てってください!」 「すみませんでしたぁ!」 「…………」 「…………」 「…………」 「あのさ……」 「なんだ?」 「これ……助かったんだ……よな?」 「どうかな」 ただ今は、この布団から出るのがとてつもなく怖い。 なのでこのまま、すべて有耶無耶にしたいというのは虫が良すぎる話だろうか。 「よ~し~や~く~ん」 「ちょっと晶ァッ!」 「しっっっかり説明してもらいましょうか」 いやほんと、出たくないんだよ。切実に。 「おのれらいつまでニャンニャンしとるかぁ!」 しかしその願い虚しく、勢いよく布団は引っ剥がされてしまった。 「な、晶――あんたその格好、やっぱり」 「ばっ、違うって。これはそんなんじゃなくてだな――」 「ああぁ、もう駄目。無理無理。私何も信じられない」 「四四八ー、生きてるかー? 助けに来たぞー」 「てなんじゃこりゃああああっ!」 「馬鹿野郎、大杉――声でけえって」 「だから騒ぐなって何回言えば分かんだよおまえらァ!」 「あっ」 「げっ」 「あーあ」 終わったな。下手をすれば修学旅行そのものが。 「ふ、ふ、ふふ……そうかそうか、なるほどねえ……これは先生、一本取られちゃった感じかなあ」 「あの、ハナちゃん? 申し開きは……」 「問答無用! おまえら今すぐ廊下に出ろォ!」 「ですよねー」 そうして、俺達の計画は見事大失敗に終わったわけだ。 誠心誠意謝り倒して、なんとか強制送還だけは許してもらえたわけだけど。 代わりに午前二時過ぎまで、七人そろって廊下に正座をさせられた。それは凄まじく恥ずかしいうえに情けなかったが…… 「ふ、でもさ」 「この後のことを考えると、こんな感じにドタバタして今日が終わるっていうのも、まあ良くない?」 「確かに、見方を変えればな。いい思い出になるかもしれない」 これから俺たちは、邯鄲の四層突破に挑戦する。そのことを踏まえるなら、なるほど晶の言う通り、こんな落ちも有りだろう。 「あと四四八、結局何しにあたしらの部屋に来たのか、ちゃんと説明はしてもらうからな」 「……分かったよ」 次に目が覚めたとき、その話が出来ればいいと思う。 だから今日はひとまず終わり。気を切り替えて戦の真に臨もうと言葉を交わして、晶と別れた。 「はい……?」 おい待て、なんだよこのタイミング。まるで狙い済ましたように便所のドアが開いて歩美が―― 「ちょっ――」 あまりに突然のことすぎて、咄嗟に対処が出来なかった。しかしこいつは、瞬間悪魔のような笑みを浮かべて俺の袖を掴み、引っ張る。 「うお――」 意外な力で個室から洗面所へ引っ張り出されたのと同時、歩美は素早くドアを閉めて俺と栄光たちを分断した。 その早業に呆気となったのも束の間、小さい身体のどこからそんなと思えるような絶叫が迸った。 「きゃああああああああああっ!」 正直、俺は呆然として声もなかった。歩美の行動ロジックがまるで理解できなくて、ただドア向こうの栄光たちが慌てて逃げ出す音は聞こえていたから、自分が極めてやばい状況なのは分かっている。 だから疑問はともかく、俺も逃げなくてはならない。歩美に掴まれてる腕を振り解いて、速攻天井裏にエスケープしろ。その論法に辿り着くまで、おそらく二秒程度かかったろう。 遅い、ということはないと思う。予想外のアクシデントと、そこから理解不能な流れに直面して、気持ちを立て直す速度としてはむしろ迅速な部類に入るはずだ。 しかし、それもこの場においては意味がなかった。なぜなら俺の二秒間より遥かに速く、歩美は次の手に移っていたから。 「天井裏から男子たちがああああああっ!」 「―――――ッ」 やられた。これで逃走経路は潰されたも同然。栄光たちは袋のネズミとなるだろうし、俺もまた同様だ。ここからどこにも移動できない。 だけど、やはりなぜなんだ? どうして俺だけこの洗面所に拘束する? どちらも進退窮まっているのは同じだが、その微妙な扱いの差が理解できない。 いったい、こいつは何を狙い、考えて…… 「ちょっと歩美、それほんとなの?」 「うん――ここはいいから、ハナちゃん先生に知らせてきてっ」 「おまえはなんともねえのかよ?」 「うん、大丈夫。男子たちは逃げたから、追っかけて捕まえないと」 「早く、ほらみっちゃんも!」 「分かったっ」 洗面所のドア越しにそう指示を出して、歩美は晶たちを実質追っ払ってしまった。そこでようやく理解する。 「ふふ、ふ、ふふふふふ……」 いや、完全に理解したというわけじゃないんだが、とにかく何か、邪悪な計画に取り込まれてしまったというのは直感したんだ。 「あ、歩美、落ち着け。まず話し合おう」 怖いんだよおまえ! 不気味な邪神像みたいな顔でにじり寄ってくるな、鳥肌立つわ! 「話し合いなんて聞きませーん。捕虜は古来、どう扱っても構わないっていうのが戦場の決まりなんでーす」 「う、嘘つけ――確かジュネーブ条約とかいうのがあっただろ」 「は? わたし国連とか嫌いだし。あんなの大日本帝国の敵だし、敵」 「とにかく今、四四八くんの運命はわたしが握ってるんだからね。逆らったりしたら許さないよ」 「くッ……」 なんたる不覚。とんでもない屈辱だ。こいつら舐めた女を誅してやろうと思って来たのに、まさか捕虜として囲われる羽目になるとは考えなかった。 しかもこいつ、虐待する気満々でいやがるし。冗談じゃないぞ、さすがにプライドが許さない。 「栄光たちは……」 「知らないもーん。どうとでもなっちゃえばいいんじゃなーい? もしかしたら逃げ切れるかもしんないけど、そこは別に興味もないしぃ」 「わたしは四四八くんをいたぶれるんならそれでいいやー」 「てなわけで、まずはそうだなー。跪いてわたしの足にチューしなさい」 「おまえは我堂かっ!」 「失敬だな。りんちゃんにここまでのことは言えないよ。あれで幼稚なんだから」 「あっちゃんもそう。みっちゃんだってまだそんな感じじゃないし、わたしだから言えるんだよ」 「ねえ、そこ分かってる四四八くん?」 「…………」 その含むような言い方が気にはなったが、なんであれそんな命令は到底聞けない。ここで皮肉にも冷静さを取り戻した俺は、嘆息を一つすると正面から歩美を見た。 「な、なんだよぉ……」 「別に。ただおまえ、墓穴を掘ったな」 「へ?」 そこから、俺の行動は速かった。 「ひあっ、ちょ――」 「騒ぐなよ、馬鹿。俺を見ろ」 歩美の身体をドアに押し付けて動きを封じ、至近距離から低く言う。図らずも二人きりの状況をこいつが作ってくれたのだから、こちらとしては当初の目的どおりに動くだけだ。好都合と言える。 先生に見つからないまま逃げるという望みがほぼ潰えたのは痛恨だが、だからこそ俺も開き直った。どうせバレるなら、せめてやることをやっていかないと帳尻が合わないだろう。 「おまえ、ちょっとは考えろよな。俺が何しにここへ来たのか、分からないのか?」 「な、何って、言われても……」 歩美は華奢だ。簡単に押さえ込める。今だってさほど力を込めているわけじゃないのに、こいつはぴくりとも動けない。そういうところ、自覚してほしいと思う。 「お風呂の仕返しで……脅かしに来たんじゃ、ないの?」 「違うな。おまえを襲いに来たんだよ」 「襲うって……」 「ちゃんと言わないと分からないのか?」 あえて意地悪げに笑って言うと、歩美の目に僅かながらも怯えが走った。 正直、俺も罪悪感が疼いたが、ここで怯んではいけない。さっきの流れで確信したんだ。こいつはちょっと、悪ノリがすぎるよ。 変なところで頭が回るし度胸もあるし、加えて周りにいるのが俺たちみたいな安全パイばかりだから、色々危うい。心配になる。 俺たち相手だから罷り通っているようなことを、勘違いして他の奴らにもやったらどうなる? 洒落ですませてくれるなんて保証はないぞ。 こんな細っこい身体でおまえ、この通り抵抗なんか出来ないだろうが。 「う、嘘だぁ……四四八くんがそんなこと、するはずないもん」 「だいたい、よりによってわたしなんかに……」 「おまえは俺の、何を知ってるつもりなんだよ」 「歩美、もう一度言うぞ。ちゃんと俺を見ろ」 「うっ……」 額をつき合わせるような体勢で、さらに低くそう言った。なんだか俺も、よく分からない気分になってきている。 恥ずかしいのか、申し訳ないのか、面白いのか分からない。ただ何と言うか、鼓動が早くてうるさかった。 鎮まれよと思っているのに、それは加速の一途を辿って…… 困るな、まったく。歩美に聞かれてしまうだろうが。 「四四八くん、すごいドキドキしてるよ……」 「……ああ。だからその、分かるだろ」 「興奮、してんだよ。俺は」 「…………」 「おまえはどうなんだ?」 と、俺の手が動いたところで、歩美の身体がびくりと震えた。反射でこちらも止まってしまう。 それを見て、歩美はなんだか泣きそうな顔になってしまった。 「あ、ご、ごめん……今のは別に、そんなわけじゃなくて」 「驚いたっていうか、あの、その、わたし……」 「…………」 潮時、だろうか。これ以上やると、本当に泣かせてしまいそうな気がする。 それに、どうも俺自身、このまま引っ張るのは別の意味でもやばいような気がしてきて…… 迷っている俺の顔を、しかし歩美は怒っていると取ったらしい。慌ててかぶりを振りながら言う。 「ごめん、許して。四四八くんが嫌いなんじゃないの」 「だけど、わたし――こんなの、やだっ」 「―――――」 その懇願めいた拒絶の声で、俺の中に芽生えかけていた荒い気持ちが一気に失せた。 お互い硬直したように動かないまま、たっぷり十秒くらいは見詰め合って…… 「……あの、四四八くん?」 「……分かれば、いいんだよ」 「へ?」 一転、きょとんとする歩美を無視してそこから離れ、俺は一メートルほど距離を開けると深い息を吐いていた。 ……なんだろう。展開的には狙い通りなはずだというのに、言い知れぬもやもやが胸に残る。 残念? ショック? いやいや馬鹿な、違うだろう。とにかく笑えよ。でないと歩美が訝しむ。 「……どうだよ、怖いもんだろう。男に無理矢理迫られるっていうのは」 「おまえ、特にそういうのが分かってなさそうだったから、ちょっと教えてやったんだよ。なかなか迫真の演技だったろ?」 「えっ、あ、――ああ、なんだそうだったんだね。びっくりしちゃった」 「四四八くん、すっごいプレッシャーかけてくるから、わたしてっきり……あは、あははは」 「ははは、は……」 俺も歩美も、なんだか笑いが微妙な感じに引きつっていた。ちょっと目が合わせられない。 あくまでこいつをびびらす演技だったって、それは嘘じゃないんだが、なぜか負け惜しみでも述べてるような気分になってみっともなかった。 ちくしょう。やっぱり慣れないことはするもんじゃないっていう戒めだろうか、これは。 「おいあゆー、なんだまだそこいんのかー?」 「へあっ――う、うん。なに?」 「おー、例の天井裏から来た男子? 逃げ切ったってさ。捕まんなかったみたいよ」 「なわけで、今から先生らが男子連中の部屋、片っ端から当たって誰か欠けてないか調べるってさ。おまえはズバリ見てねーの?」 「いや、うん……それは一瞬だったし、分かんない。かも」 「ふーん。まあどうせ栄光とかそこらへんだと思うけどなあ。一応後で、おまえも花恵さんから事情聴取とかされっかもよ。災難だったな」 ドア越しに聞こえる晶の声が、かなり重大なことを言っていた。なら俺も、今のうちに戻らないと危ないってことになる。 無言で目配せしてくる歩美に頷き、俺は再び天井裏へと向かうことにした。 「で、それはそうとやけに長い洗顔だな。何してんだよ、入っていいか?」 「あー、駄目だよ。駄目駄目。ちょっとすっごいパックしてるし、恥ずかしいから立ち入り禁止」 「はー、そうかよ。あたしはそんなの滅多にしねえし、よく分かんねえけど大変なんだな。頑張れよ」 「うん、おやすみー」 「はいよ、おやすみ。また夢でなー」 そうして晶の気配は去り、ほっとしたところで俺もここを去ることにする。 だがその間際に、歩美が俺を呼び止めて、 「あのね、四四八くん」 「心配してくれるのは嬉しいけど、そんなの全然無用だから」 「わたし、四四八くんにしか変なことしないもん。それくらいの常識は持ってます」 「…………」 「だから安心してね。おやすみなさい」 「おう……」 それは、素直に喜んでいいのだろうか。要するに俺だけ特別に舐められてるってことのように思えるんだが。 「まあ、いいか」 旅行初日の締め括りとしては、なかなか面白い事件だった。 これから俺たちは、邯鄲の四層突破に挑戦するんだ。そのことを踏まえるなら、こんな落ちも悪くないと思う。 だから今日はひとまず終わり。気を切り替えて戦の真に臨もうと言葉を交わして、歩美と別れた。 「なっ……」 おい待て、なんだよこのタイミング。まるで狙い済ましたように便所のドアが開いて我堂が―― 「くっ――」 あまりに突然のことすぎて、考えるより先に身体が動いた。 「―――ぐへぁっ」 「………あ」 「おま、おい、なにやってんだよ四四八っ」 「えらい鮮やかなワン・ツー・スリーだったな……鈴子、白目むいてんぞ」 「すまん……つい、叩き込まれた戦の真が……」 「反射ってのは怖ぇな……」 「けど、これはこれで趣旨通りって言えなくも……ねえかな?」 「どうだろう……」 全員、何とも言えない居た堪れなさを覚えながら、足元に崩れ落ちた我堂を見下ろす。男の怖さを教えてやるという以前に、これは男としてやっちゃいけないことじゃないのか。 「なんか、冷めちまったな」 「同じく、罪悪感がすげえわ」 俺もギリギリと胃が痛い。何といっても直接手を下したのは自分だし。 「こうなったからには仕方ない。おまえたちは部屋に戻れよ」 「四四八はどうすんだ?」 「俺は残って、我堂の介抱をするよ」 「けどおまえ、そうなったら……」 「最悪、強制送還されるかもな。でも俺が悪いんだし、責任は取らないといかんだろ」 「心配するな。おまえらのことは言わないから」 「そんなの気にしてんじゃねえんだよ。つか、おまえが残んならオレも残るぜ。水臭いこと言うなよな」 「ほんとだぜ。これでおまえが強制送還なんてことになったら、俺らも後味悪いじゃねえか」 「馬鹿を言うな。何も三人そろって危ない橋を渡ることはない。実際、おまえらは何もしてないんだから、これで巻き添え食わせたら俺のほうこそ後味が悪くなる」 「だがまあ、その気持ちは嬉しかったよ。それで充分だから、もう行け」 「でもよお……」 「じゃあ俺が強制送還されそうになったら、署名嘆願でもしてくれよ。頼りにしてるから、頼む」 「……分かった、任せとけ。行くぞ大杉」 「おう……でも四四八、ほんとに丸く治められそうだったらそうしろよ?」 「ああ、そこは我堂次第だな……」 正直、どうかな。こいつは杓子定規な正義馬鹿っぽいところがあるから、簡単に許しちゃくれないだろうとは思うけど。 「そこは祈っててくれ」 手を振って栄光たちを見送ると、俺は改めて昏倒している我堂へと目を落とした。 「さて、どうしたもんか」 晶たちを呼ぶ前に、まずはしっかりこいつに謝らないといけないよな。そのためには目を覚まさせないといけない。 俺は我堂の上体を起こして洗面台の横に座らせると、両肩に手を置いて軽く揺すってみた。 「おい、我堂。おい」 「う、う~~ん」 するとこいつは呻きながらも、やがて薄ぼんやりと目をあけて…… 「あ、あれ……柊?」 「ああ、無事なようでよかったよ。それですまん。本当に申し訳なく思ってるから、詫びはおまえの気がすむように……」 と、最後まで口にすることは出来なかった。 「ああぁ、柊だぁ~~」 「は、ちょ、待てよ――なんだおい」 いきなり我堂は、俺の首に抱きついてきた。そのまま後ろに押し倒される。 「んー、やっと捕まえた。もう逃がさないわよー」 「い、や――逃げない。逃げないから手を離せ、どうしたんだおまえ」 もしかして、強く頭を打ったのだろうか。目覚めた我堂は明らかに正気じゃなかった。 「なによあんた、ご主人様に逆らう気ぃ? 態度悪いのよ奴隷のくせにー」 「ほら、命令よ。私の頭を撫で撫でしなさいぃ~」 「今はそんな場合じゃあ……」 「うるさーい、早くやるのー!」 抱きついたままぐりぐり俺の肩に顔を擦りつけつつ、駄々っ子のように我堂が喚く。軽い幼児退行でも起こしてるみたいで、まったく聞き分けというものがなかった。 なのでひとまず、ここは言う通りにして落ち着かせるのが賢明だろう。俺は言われるがまま、ともかく我堂の頭を撫でることにした。 「うふふ、そうよ。やっと私の偉大さに気づいたようね。ほら返事は?」 「……そうですね、お嬢様」 「あんたは馬鹿で鈍くて使えない、駄目な奴隷のくせにいつも生意気なんだから……分かってるの? 反省しなさい」 「……そうですね、お嬢様」 「ああ、でも、あんたいい匂いするわね。そこだけは褒めてあげるわ。くんくん」 「……光栄です、お嬢様」 便所で何を言ってるんだろう、こいつは。 ていうか、いつまで続くんだろう、これは。 「本気で言ってるのぉ?」 「はい、もちろん」 「じゃあねえ、柊ぃ……あんた今から、私の素晴らしいところを十個連続で言いなさい。いくわよー」 「な、今から?」 「そうよ。迷うことなんか何もないでしょー」 駄目なところなら五十個くらい瞬時に言える自信はあるけど。 「さん、はい」 「っ……」 仕方ない。ここで我堂の機嫌を損ねては駄目なので、ともかくチャレンジするしかなかった。 「成績が優秀でいらっしゃいます」 「よーし」 「運動も得意でいらっしゃいます」 「当然っ」 「髪が大変お綺麗で」 「そりゃ手入れしてるもん」 「お育ちもよく」 「奴隷の質は悪いけどね」 「意外と面倒見がよく遊ばされ」 「意外とは何よっ」 「スリムでスタイルもおよろしい」 「きゃー、スケベー!」 首絞めるなよ。嬉しそうに言いやがって。まな板と表現しなかったことに感謝してほしいところだ。 「で、ほら続きは?」 「続きは……」 今、何個言ったっけ? 「なによ、まだいくらでもあるでしょ!」 あるのか? ここまでだって、だいぶ甘めなことを言ってきたような気がするんだが。 「えぇっと、その……なかなかお茶目な失敗も多く」 「は、それ馬鹿にしてんの?」 「いえ……そこがとても可愛らしいと」 「じゃあ、次は?」 「非常に独創的な絵心を有しておられ」 「素晴らしく多彩な表情さえお持ちです」 もはや皮肉でしかなくなってきたが、それでも我堂はそうでしょうそうでしょうと満足げに頷いている。 まあ、この残念なところを面白いと思っているのは確かなので、嘘を言っているわけじゃないけど。 「だったら最後、十個目はなに?」 「それは……」 間を置きつつ考える。美人ですとかいう簡単なもので切り抜けてもよかったが、先に顔芸を褒めたので意味的に被るだろう。 なら、ここで言えることは一つしかない。我堂を構成する基本要素として当たり前に捉えすぎていたから今まで咄嗟に出てこなかったが、こいつを褒めるなら十人が十人言うだろう確実なものがあったのだ。 「とても、負けず嫌いでいらっしゃいます」 変に気取って格好つけて、競争から逃げるような奴が多い昨今、どれだけ負けても恥をかいてもまったく折れない。 二番じゃ駄目なんですかなんて戯言は、一切聞く耳持たないその矜持。 「勇気がある。そう思って、一目置いてるよ。嘘じゃない」 飽くなき野心。上昇志向。そうしたものをいつも前面に出せるって性質を、他にどんな言葉で表現できるというのだろうか。 それは間違いなく、我堂が持つ最大の長所だと認めていた。 「ということで、どうですかお嬢様」 「うっ……」 するとこいつは、一転居心地悪そうに言葉を濁して。 「あんたに言われても、嬉しくないのよ。嫌味くさい」 「だいたい、そんな風に思ってるなら、もっとノリに付き合ってくれてもいいんじゃないの……って」 瞬間、人間の顔から血の気が引いて、次に沸騰するという現象を俺は初めて目撃した。 「なっ、な――、ちょっとあんた、こんなところで何してるのよォ!」 「なにって、おまえ――ようやく目が覚めたのかっ?」 「はあ? なんなのワケ分かんないわね! いいからさっさと説明しなさい!」 「いやうるせえ。するから、少し黙ってろおまえっ」 「ねえ鈴子ー、トイレ長いけど、大丈夫?」 「あっ」 「うぇ……」 このとき世良が見ただろう光景。便所で寝転がって抱き合っているクラスメート二人。 もはやあらゆる弁解は不可能だった。 「お邪魔しましたぁ!」 「なっ、違うの! 待って水希!」 「おい、行くな世良!」 「なんだなんだ、どうかしたのか?」 「りんちゃん、また一人でそばもん体操でもしてたの?」 「人聞き悪いこと言ってんじゃないわよっ! なんなのそばもん体操って!」 「おら、おまえらうるさいぞ。消灯過ぎてんだからさっさと寝ろー」 「て何やってんだコラァ!」 「ははははは……」 矢継ぎ早の展開が怒涛過ぎて、俺は乾いた笑いしか出てこなかった。 「違うんです! これは違うんですって芦角先生っ!」 「やかましい、このハレンチどもが! 今すぐ廊下に出ろ、問答無用っ!」 我堂に謝るつもりだったが、逆にえらい迷惑をかけてしまった。俺はともかく、こいつが罰を食らうのだけは止めなくてはと思っちゃいるけど…… 「人が女一人で寝酒してるときに、随分調子づいてるよなあ、このジャリどもはよお」 私怨丸出しのうえに酒も入っているらしい先生には、何を言っても意味なんかなさそうだった。 それで…… 「どうして、どうして私がこんな目に……」 屈辱に震えながら唇を噛み締めている我堂の愚痴が、さっきからひっきりなしに聞こえてくる。 どうにか強制送還だけは免れたものの、罰としてこのように廊下で正座。完全な晒しもの状態だった。 「聞いてるの? 全部あんたが悪いんだからねっ」 「それは、確かにその通りだから返す言葉もない」 「この落とし前、いったいどうつけてくれるのよっ」 「だから明日一日奴隷になるって言ってるだろうが」 「そんなんじゃ全然足りないわよ」 「じゃあどうすりゃお気に召すんだよ」 「旅行中、いいや卒業まで――ううん、この際一生よ。当たり前でしょ馬鹿っ」 「無茶言ってるな、一生とか無理だろ」 「なんでよっ?」 「なんでって、おまえ……俺には俺の人生ってもんが」 「あんたね、女を傷物にしといて虫のいいこと言ってんじゃないわよ」 などと、涙声で鼻をすすりながらそんなことを言っているが、こいつの頭がアレなのは俺と関係ない次元で仕様じゃないのか。 いや当然、申し訳ないことをしたと反省はしてるけど、さすがにそこまでの域で責任を問われると俺も困る。 「ちょっと、なんとか言いなさいよ」 「じゃあ言うけどな、一生っておまえ、分かってるのか?」 「俺におまえと結婚しろってことかよ、それは」 「ば、違っ――、そんなんじゃ、なくて……」 「ならなんだよ?」 「それは、つまり……ああもう、やかましいわねえ!」 「あんた態度でかいのよ。なんでこの状況で私に偉そうな口きけちゃうわけ、信じらんない!」 「だっておまえが突っ込みどころ満載だから……」 「いちいち口答えしてんじゃないわよっ」 「おまえらうるさいって言ってるだろうがっ、反省してんのかコラ!」 「すみませんでしたっ」 さっきから、ずっとこんなやり取りの繰り返しだ。目の前が芦角先生の部屋なので、騒いでいるとすぐ雷を落とされる。 「おーし、分かればいいんだよ。私は寝るんだから手間取らせんな、まったく」 「それからもう一度言っとくけど、監視がないからってバックレたらマジに強制送還すっからな。分かったか?」 「……はい」 「心得てます……」 そういうわけで、どのみち朝までこの様だ。先生が起きてきたとき、ここにいなかったらもちろん、だらけた格好を晒していても家に送り返される。 これではさすがに、晶や栄光たちが助けてくれるという展開も期待できない。 「うぅ、ほんと最悪……どうすんのよこれ」 「だいたい今夜は、こんなことしてる場合じゃないっていうのに……」 「まあ、な……」 この修学旅行初日をもって邯鄲の四層突破に挑戦する。皆でそう示し合わせていた以上、これでは問題が生じてしまう。 「こうなったら、なんとかこの状態で寝るしかないだろ。一睡もするなとまでは言われてないし、正座さえ崩さなければ……」 「無茶言ってるわね、あんた」 「けどやるしかないだろ。我堂、ケータイ持ってきてるか?」 「あるけど」 「なら晶たちにメールしてくれ。予定通りに実行するって」 「きついけど、俺とおまえならなんとかなるだろ」 我堂はお嬢様よろしく色々習い事をやっているので、足が痺れたなんて言う奴じゃない。俺もその辺りは大丈夫だから、やってやれないことはないはずだ。 ケータイを操作して先の文面を一斉送信した我堂は、溜息を漏らしながらうなだれていた。もはや怒る元気もないらしい。 「正座は慣れてるけど、そのまま眠るなんて初めてよ。そんな作法ないし」 「ていうかそもそも、悔しいやら恥ずかしいやらでそれどころじゃないんだけど、私」 「先に言っとくが、子守唄なんか歌わないぞ」 「期待してないわよ。……だけど、そうね」 「あんた、本当に少しは反省してるんだったら、とりあえずこの場で一個、私の命令を聞きなさいよ」 なんだ、と促すと、我堂は少しだけ逡巡したような間を持たせて。 「肩、貸しなさい。それで今夜のところは許してあげる」 「今夜のところは、ね」 「文句あるの?」 「いや」 まあ、その程度ならお安い御用だ。まさか本気で一生云々言っているわけでもないだろう。たぶん。 かなり怪しいけど。 「いいぞ。たいした枕じゃないが、好きに使ってくれ」 「あんたも、なんだったらもたれていいわよ」 「なんだ、優しいな。どういう風の吹き回しだ?」 「そっちが崩れて、連帯責任とか言われたら嫌だっていうだけの話よ」 口の減らないお嬢様に苦笑して、ありがたく好意を受け取ることにした。 とはいえ、本当にもたれかかったりはしない。一応、その程度のレディファースト的な精神は持っている。 こいつがそういうのを好まないというのも承知だけど。 だからむしろ、これは男の側のプライド的な話だろうな。 「あー、硬い。ごつごつ。ほんっと粗悪な枕ねえ」 「そりゃ悪かったな」 「ええ、最悪よ。だから柊」 「この枕、他の誰かに使わせんじゃないわよ」 「…………」 「そんなの、その誰かに悪すぎて……ご主人様的に許せない、もの」 「命令、だからね」 命令は今夜一個だけという話だったはずなのだが、突っ込みを返す前に我堂は眠ってしまったようだ。ごちゃごちゃ文句を言ってたわりには、子供のように寝つきがいい。 さすがは九時に眠ってしまう習慣の女。垂直落下過ぎて、ある意味羨ましくなってしまう。 「俺も、寝るか」 そして夢でまた会おう。今回の眠りは命に関わる修羅場が待っていると分かっていながら、ひどく楽な調子で眠気を受け入れることができた。 これもひとえに、横の我堂がまったく不安を見せずに眠ったからかな。ともあれ旅行初日の締め括りとしては、決して悪くない落ちだろう。 だから今日はひとまず終わり。気を切り替えて戦の真に臨もうと伝えつつ、我堂を追って俺も眠り入っていった。 「あれ……?」 おい待て、なんだよこのタイミング。まるで狙い済ましたように便所のドアが開いて世良が―― 「ちょっ――」 あまりに突然のことすぎて、咄嗟の対処が間に合わなかった。 「あはははは、どうしちゃったの三人とも。顔真っ黒だよ、おっかし~!」 「え、あ……」 「――うおォ」 言われて俺たちは互いの顔を見、えらいことになっていると気づいて焦った。 「はい、ハンカチ。そんなんなっちゃって、天井裏を通ってきたの? 凄いね、私びっくりしちゃった」 「お、いや……おう」 「ほらほら、早く出ておいでよ。歓迎するから、ねえ晶ー、鈴子ー」 「な、待て。こら――」 「おい、ちょっと、どうすんだよこれ」 「めっちゃ普通に受け入れられちまったじゃねえか」 ともかく顔(だけじゃなかったが)の汚れを落としながら、予想外の事態に困惑しつつも打開策を考える。 「こうなったらしょうがない。当座は世良に合わしていこう。そして隙を見計らい実行する」 不意を衝くのは逃したが、こうして無事に侵入は出来たんだから計画破綻というほどでもない。 「前向きにいこう。いいな?」 「……分かった」 「おし。余裕こいて狼招き入れちまったと、後悔させてやればいいんだな」 「そういうことだ」 「ねえ、なにをぶつぶつ話してるの?」 「なんでもない」 「てか世良、おまえ全然驚かねえのな」 「いや、驚いたって。けど、これも想定内って言うか、修学旅行のお約束じゃない。だから嬉しいよ」 「そんなもんなの?」 「うん。それで勇者を歓迎するのは女子の義務だし。よーし今夜は盛り上がっていこー!」 そのままスキップでもしかねない世良の態度は、年上の余裕か、それとも逆にガキっぽいのか、俄かに判別しづらいところがあった。 「うおっ、おまえらマジに来たんかよ。いや、来そうな気がしてたけど」 「よりによって凄いところから来るんだねえ」 「窓から来たら叩き落してやろうかと思ってたのに」 そんな感じで釈然としないものは色々あるが、ひとまずここは牙を隠しつつチャンスを待とう。まだ夜は長い。 「それより水希、おまえトイレじゃなかったっけ?」 「あ、いっけない。ちょっと男子、早く出てー!」 「お、おお……すまん」 でもなんか、上手く毒気を抜かれたような気もするな。 そして、それから三十分くらい経ったろうか。 「ほら淳士、早く私の肩を揉みなさい」 「栄光ぅ、おまえ飲みもんくらい持って来いよ。気が利かねえなあ」 「ねえ四四八くーん。一緒にスーパー神座大戦やろうよ、波旬使っていいからさー」 うむ。まあ、いつも通りの見慣れた日常展開ではある。 と納得しかけて、俺は激しくかぶりを振った。 「いや違うだろっ」 なんだこれは。ふざけるな。こんなものが日常だと? 俺の感覚はそこまでおかしくなっていたのか。 これじゃあ俺たち、まるで女どもの小間使いじゃないか。 「どうした四四八、いきなり拳握り締めちゃって」 「トイレ行きたいの?」 「違うわっ」 「ちょっと、大声出さないでよ。先生にバレたらやばいんだからね」 「まあまあ、鈴子も柊くんもカリカリしないで。それよりみんな、これなーんだ」 「へ?」 少し席を外していた世良が戻ってきたとき、その手に掲げ持っている物を見て全員の目が点になった。 「ワインじゃねえかっ」 「あんた、なんでそんなの持ってるのよ?」 「こんなこともあろうかと、昼間こっそり買っといたんだよね。まだまだあるし、ちょうどいいからここで開けちゃお」 「よっしゃ栄光、そこの湯飲み持って来い」 「いいよね、柊くん」 「そりゃ、別に構わんが……」 いよいよもって、こいつらのペースに持っていかれてる気がしてならない。 だが、酒が入るならチャンスでもあるか。俺は即座に栄光たちとアイコンタクトを取った。 (こいつら、潰すぞ) (了解、任せとけ) (マジで俺らのこと舐めすぎだろ) まったくだ。この女ども、今さらながら危機感というものが全然なくて呆れ果てる。 晶も歩美もそして我堂も、今まで何度か一緒に飲んだことがあるから分かるが、そろって特に強くもない。対してこっちは、伊達にバーテンしてるわけじゃないんで自信があった。飲んだフリで誤魔化すテクとか、そういうのだって知っている。 鳴滝は見た目どおりのウワバミ。栄光だって遊び慣れてるから決して弱い部類じゃない。 よって、これは完全に女たちの墓穴だろう。そのへん思い知らせてやろうじゃないか。 唯一、不確定要素があるとすれば…… 「はい柊くん、一杯どうぞ」 〈世良〉《こいつ》とだけはまだ飲んだことがないから分からん。まさか俺や鳴滝を凌ぐなんてことはなかろうと思っちゃいるが、自ら酒を持ってきたところから考慮するに、意外と侮れないかもしれない。 「うん、どうかした?」 「なんでもない。酌、ありがとな」 ただまあ、酒が入ってさらに傍若無人と化していく晶たちとは対照的に、こういうことをしてくれる世良は女子力高いなと思った。 「おまえ、なんか慣れた感じだけど、もしかしてそういうバイトとかしてた? ガールズバーとか」 「え? いやいやそんなことないって。そう見えるの?」 「なんとも言えない。けどそうだったとしても不思議はないって感じじゃある」 「そうかなあ。でも柊くん、そういう女の子たちに偏見はない風だね」 「そりゃあな。俺だって似たようなバイトだし」 「あ、そう言えばそうだったね。鳴滝くんも同じなんでしょ?」 「まだ一回しか一緒にやってないけどな。最近それどころじゃなかったし」 加えて、〈現実〉《こっち》の感覚で言えば、まだほとんど日も経っていない。 鳴滝が俺のバイト先に現れてから、もう随分経ったような気もするけど、実際は二週間程度前の話なんだ。 母さんのことがあってからも…… 「柊くん?」 「ああ、すまん。それでバイトのことは少し遠い感覚になってるけど、ああいう場所の雰囲気は嫌いじゃないよ。おまえはどうだ?」 「私も、そうだね。働けるかどうかは置いといて、お客としてなら同感だよ。わいわい騒ぐのは楽しいし、逆にしっとりするのも悪くないし」 「結局はそれって、癒しだもんね。だから好き」 「確かにな」 頷き、俺は苦笑して。 「じゃあほら、俺からも注いでやるよ」 「あ、ごちっす。プロにやってもらえるなんて光栄っす」 「だから、ただのバイトだって言ってるだろうが」 そんなこんな注いだり注がれたりしてる間に、なんだか俺と世良のサシ飲みみたいになってきた。 無論、目の前じゃ晶たちもあれこれやっているんだが、それを肴に二人で飲んでる気分に近い。 それでこいつ、やっぱり結構酒が強いし。俺に合わせたハイペースで煽っているのに、今のところまったく顔色すら変わってなかった。 そこが少しばかり癪と言えば癪で、可愛くないと思うような感心するような、複雑なところではある。 「ちょっと熱いかな。ねえ柊くん、窓際行こうよ」 「ん」 俺も少し蒸してきたので、世良に従って窓辺へと移動した。流れてくる夜風が心地いい。 「うふふ」 「なんだよ?」 「いや、ちょっと今、私面白いこと考えちゃった」 「これって結構、役得なのかなーって」 「役得?」 意味が分からなかったので問い返すと、世良は頷いて頬を掻いた。 「ほら私って、半端にループの記憶があるじゃない? そこらへんの理屈とか、原因とか、色々考えると笑い事じゃないんだけど……みんなにも言われた通り、これも悪いことばかりじゃないよねって」 「私、何回もこの修学旅行を経験してるんだなって、思ったの」 「…………」 「それで前にも、この夜、柊くんとこうしてたような気がする」 「覚えてるのか?」 「分からない。でも絶対そうだと思っちゃった。て言ったら信じる?」 にこっと笑ってそう問う世良に、俺は少し圧されてしまった。 残念ながらこっちはそのへん覚えてないし、この夜はこの夜限りのものって認識しかなかったけど、世良はそういう風に感じていたのか。 だったら、まあ…… 「おまえがそう言うんなら、そうなのかもな」 「あー、なんなのそのずるい言い方。ていうか柊くんはさ、結構そういうことするよね。相手に答えを投げちゃうみたいな」 「そうか? 別に意識しちゃいなかったが」 「しなさいよ。あまりよくないからね、そういうの。特に女の子相手には」 ずいと詰め寄るように説教してくる。だがそう言われれば、母さんにも同じような感じでずるいと注意された覚えがあった。 「分かった。了解。気をつけるよ」 「よろしい。柊くんのそういうところがちゃんと直るか。ずっと私が見てるからね」 「この先、何ループしてもか?」 「うん。それもなんだか楽しそう」 「なんて言うのは、不謹慎かな?」 「ま、今日くらいは別にいいだろ」 修学旅行初日の夜。楽しいんだから何回だって体験したいというのは自然な気持ちだ。変に真面目ぶった野暮は言わない。 「俺もそう思うよ」 「つまり、具体的には?」 「ああ、つまり」 酔っちゃいないが、酒も入っているからするりと恥ずかしい台詞も出る。 加え、世良と話してる間にこの場の趣旨がグラついてきたのも、少々遺憾ではあったから。 「おまえと飲んで話すのは楽しい。だから前にもこうしてたかもしれないって、信じるよ」 「次もあれば、またこうだったらいいよなって俺は思う」 まっすぐ目を見てそう言うと、ついに世良の顔色に変化が起きた。 「お、おう……なら、よかった。かも」 それはささやかなものだったが、戦果と言えるものには変わりない。襲って脅してという初志に比べれば甘すぎるが、一撃入れたのは確かなのでよしとしよう。 「いやー、もー、なんか熱いね。ほんと……」 わざとらしくぱたぱた手を振りながら、世良は顔を背けるように窓の外へと身を乗り出す。 だが、そのときだった。 「あっ!」 「は?」 ムードも吹っ飛ぶ濁点つきみたいな叫びをあげて、バネ仕掛けのように窓際から身を引く世良。いったい何事かと思いきや…… 「こらー、そこー、なに夜更かししてんだ。とっくに消灯過ぎてんだぞー!」 「うげっ」 「ちょ、まさか今の声、ハナちゃんかよ!」 「なんで、どうしてバレちゃったの?」 「ご、ごめん! さっき窓から顔出したら、ハナちゃんもそうしてて」 「目が合っちゃった?」 「マジかよ、酒はっ?」 「そ、それはたぶん大丈夫。だけど――」 「おまえら、なんかやってんじゃないだろうなー! ちょっと待ってろ、今行くからー」 「―――――ッ」 「やっべええええッ!」 一転、室内は大パニックに陥った。 「クソが、ずらかんぞ大杉っ」 「酒っ、早くおい酒、隠せって!」 「あばばばばばばばば」 「みっちゃん、四四八くん、ほらこれ持って」 「何よ歩美、こんな空き瓶渡されたってどうすれば――」 「おい、まさかおまえっ」 「こうなりゃもうこれっきゃないでしょ!」 「ふざけんなバカ、殺す気かァ!」 悲鳴と怒号が響きあう中、俺と世良は無理矢理窓の外へと押し出され、そのまま無慈悲にも閉め出された。 結果…… 「――ぐはっ」 「うぎぎぎぎぎぎ……」 地上六階の高みに二人して宙吊り状態。リアルに死を感じるスタント実演する羽目になった。 「ちょ、やめて柊くん……それ駄目だから! 手を離して、いやー!」 「無茶言うな、死んじまうだろ!」 酒の空き瓶を残らず渡された俺は手が塞がって、なんとか片手だけ自由にした頃には窓のサッシを掴み損ねた。 なので落下する途中、藁にも縋る心地で掴んだのは世良のジャージのズボンだった。それについて悪いとか、不可抗力だとか、謝罪・弁解する余裕は残念ながら一切ない! いや、強いて言うなら歩美が悪い。あいつ、本気で絶対許さん! 「あああ、見ないで! ずっちゃう! 見ないでってばー!」 「くっ、こら、やめろ蹴るな! 足ばたつかせるじゃない、落ちるだろ!」 「だって、だって……!」 「こっちは今、おまえのパンツなんか心底どうでもいいんだよ阿呆っ!」 「はああっ? なんなのその言い草! しっかり見てんじゃないのよォ!」 「目に入るものはしょうがないだろ、俺のせいじゃない!」 「とにかくそんなことよりも、なんとかして耐えることを考えろ。おまえが落ちたら俺も落ちる!」 「ああ、もう駄目……お母さーん!」 「弱音を吐くなァ!」 しかし実際、女の細腕で二人分の体重を支え続けるのは無理すぎる話だろう。俺は俺で世良の負担を軽減しようと壁に足を掛けて踏ん張るが、それでも効果のほどは甚だ怪しい。 ちくしょう、なんだこのファイト一発みたいな展開は。これが夢なら百メートルの高さから落ちても平気だっていうのに。 「なんだぁ、おまえら。世良がいただろ。あいつ何処いった?」 「―――――」 だがそんなこっちの修羅場を他所に、あっちはあっちで面倒な状況になってるみたいだ。つまり先生が納得して帰るまで、誰も助けに来ちゃくれない。 「あ、ああ、あのですね。水希はちょっと、お腹壊しちゃいまして。今トイレに」 「は、そうなの? おい世良、平気かー?」 「あん、なんだおまえ、風邪引いてんのか? 声が変だぞ」 「ちょっと何がどうなってるのよー!」 「たぶん栄光あたりが便所にこもって、おまえの声真似でもしてんだろ。そんなことより、今はこっちだ!」 先生がどれくらいで帰ってくれるか分からないが、少なくとも世良はあと一分だって保ちそうにない。ここでなんらかの手段を講じる必要がある。 考えろ、考えろ、たとえば―― 「そうだっ!」 「ひゃあっ、だから引っ張らないでって言ったのに! もう、やだやだエッチ馬鹿へんたーい!」 「痛ぇ、くそ――蹴るなよ聞け、名案がある!」 「えっ?」 「この下、俺らの部屋なんだよ!」 追い詰められすぎて忘れていた。事前に入手した見取り図で旅館の部屋配置は記憶してるし、そのことに間違いはない。 だから、ここで俺たちの部屋に飛び移る。危険なスタントに変わりはないが、それしかもう打つ手はなかった。 「いいなっ?」 「わ、分かったっ」 「よし、じゃあ始めるぞ」 世良に概略を呑み込ませた俺は、足を伸ばして下階の窓をなんとか開けようと試みる。鍵は掛けてなかったはずだから、これでどうにかなるはずだ。 「もう少し、もう……少し」 「ぐぎぎぎぎぎ……」 二人とも、目一杯身体を伸ばさなければ下の部屋には届かないので、ここが一番きついところだ。 しかし、どうにか、今やっと…… 「開いたっ!」 作業の成功を確信し、同時に俺は世良のジャージから手を離した。 「――うおっ」 一瞬の浮遊感を覚えた後、短い落下を経て下階のサッシを見事掴む。片手だけのアクションなので体重を受け止めた際の衝撃は相当だったが、なんとかそこは耐えきった。これまで伊達に鍛えてきたわけじゃない。 「柊くん、大丈夫?」 「どうにか! ……任せろ、ここまでくればもう楽勝だ」 そのまま懸垂の要領で、俺は自分の身体を引っ張りあげる。上体がサッシの高さを越えたところで、転がるように部屋の中へ飛び込むことに成功した。 「――ぷはぁ」 やったぞ、狙い通り上手くいった。しかし今は、一息ついてる場合じゃない。 俺は即座に起き上がって、窓から顔を出すと世良に言った。 「いいぞ、おまえも飛び降りろ。心配するな、絶対受け止めてやる」 「わ、分かった。お願い!」 「すーはー、すーはー」 「やるの、やるのよ水希。あなたは出来る子、きっと平気」 言いながらも、やはり覚悟がいるようで、世良はしばらく深呼吸しながら精神集中しているようだった。 「…………」 それで、まあその……こっちは助かったし間も空いたしで、なんだか冷静になってきたが、ちょっと凄い眺めだな。 「ズボンあげろよ、おまえ……」 「え、なに? なにか言った?」 「なんでもない」 これは別に、せっかくだからもうちょっと見ていようなんてわけじゃなく、ここで要らんことを言ったら世良の集中が乱れるだろうし、そうなると危険だからという判断をしただけなんだよ。 それが本音で、断じて他意はない。たぶん。 「いくよっ!」 そういうわけで気合一閃。パンツ、もとい世良が宙を舞い、俺はそれを受け止めて…… 「――ッ、おらァ!」 「きゃあっ!」 踏ん張る力でそのまま仰け反り、世良を無事に室内へと投げ込んだ。ソファの上を狙ったし、怪我もきっとしてないだろう。 「はあ、はあ、はあ……」 「いたたたた……」 そうして、互いに汗だくとなった顔を見合わせる。これだけ水分放出したら、仮にアルコール検査をされても大丈夫だろう、なんてズレたことを頭のどこかで思いつつ。 「ふっ、はは」 「あははっ」 俺たちは、声をそろえて笑っていた。いやまったく、下手な絶叫マシーンよりよっぽど寿命が縮まったよ。 「なんていうか、まあ……お疲れ」 「そうだね、うん……柊くんも」 後はほとぼり冷めるまで、ここで待っていればいいだろう。きっとそのうち栄光たちが戻ってくるから、安全を確認したあとで世良を帰せばいい話だ。 「天井裏の道順は教えてやるから。なんなら送ってやってもいいぞ」 「じゃあそうしてくれると有り難いけど、でもなあ……せっかくお風呂入ったのに、真っ黒けになるのはちょっと嫌かも」 「だったらまた窓伝いに行くか? 下から上げてやるから、晶たちに引っ張り上げてもらえよ」 「うー、それはもっと嫌。二度とあんなのやりたくないもん」 「じゃあ我慢しろよ。――ところで」 「なに?」 ぼちぼち言わねばならないだろう。俺は努めて冷静に紳士っぽく、眼鏡を押し上げつつそれを告げた。 「いい加減にズボンあげろよ」 「へ――」 「もうおまえのパンツは充分見たから、そろそろ仕舞え」 「うぎゃあああああっ!」 そういえば。 こいつに科す罰ゲームが、パンツ見せろの刑だったのを思い出す。あれは結局有耶無耶になったから、これで帳尻が合ったと思えばいいんじゃないかな。伏線回収みたいな感じで。 「ああああ~、ゴムが馬鹿になっちゃってるよぉ……柊くんが情け容赦なく引っ張るから」 「文句があるなら歩美に言えよ。悪いのは俺じゃない」 「それはそうかもしれないけどさぁ……」 いずれにせよ、旅行初日の締め括りとしては、なかなか面白い事件だった。 これから俺たちは、邯鄲の四層突破に挑戦するんだ。そのことを踏まえるなら、こんな落ちも悪くないと思う。 だから今日はひとまず終わり。気を切り替えて戦の真に臨もうと言葉を交わして、世良と別れた。  その日は、彼女にとっても特別なものだった。  極めて優秀な生徒数人だけが許され、臨む、特別な訓練。  ゆえに、せいぜい下の上ほどでしかない成績の穂積百には、それがどんなものであるのかさえ知らされていなかったが、だからといって自分には関係ないと無関心でいられるような性格ではないし、空気でもない。  同じ戦真館の学生として、栄誉ある任に就いた者たちを誇らしいと思う。彼らにとっては、自分など何でもないその他大勢にすぎないだろうが、それでも憧れを抱いてしまうのは止められないことだ。その点は他の、選から漏れた大多数の者たちにとっても同じだろう。  自分たちの代表を応援したい。そういう気持ちのもと、本日の戦真館は祭りのように沸き返っていた。軍や政府の有力者、ならびに新聞記者等が数多訪れているという点からも、いつもとは違う昂揚感が場を包んでいる。  だから、日頃は引っ込み思案な彼女をしても、心なしか足取りが弾んでいた。出来れば事が始まる前に、特科の人たちと直接会って話したい。  迷惑がられるかもしれないが、それでもそうしたいと思っていたのだ。 「……え?」  しかし、教室に向かうべく廊下を歩いていたとき、とある人物を見咎めて百は思わず立ち止まった。 「野枝さん……?」  級友であるその少女とここで顔を合わせることは、別におかしなことじゃない。百が不審に思ったのは、彼女と話しているもう一人の人物だ。 「……誰?」  分からない。と言うより、その姿をなぜか認識できないのだ。  そこに誰かがいるというのは確実で、間違いないことなのに、容姿はおろか性別まで判断できない。  黒い陽炎のようなものが揺れている。百の目にはそう映るだけで……  ぞくりとした。見てはいけないものを見てしまったような恐怖を覚える。  いいや正確には、思い出したくないものがそこにあると言うべきだろうか。  自分は、そうだ。 「――――ぁ」  それは小さな、とてもか細いものだったが紛れもなく悲鳴だった。  逃げろ。逃げて。自分はここにいちゃいけない。  知らず小刻みに震えながらも動けない百の前に、気づけば黒い何者かはやってきていた。  そして一言。 「今日は被れよ」  何かヨクワカラナイコトを告げると、去って行った。同時に、膝から百は崩れ落ちる。  すれ違い様、軽く肩に手を置かれた感覚は優しいものだったけど、致命的な毒を流し込まれたような気がしていた。事実、その部分がじくじくと熱をもって疼く。痛い。  自分自身を抱くように蹲ってしまった百だったが、そのまま意識を失うということはなかった。さっき触れられたのと同じ部分に、今度はまったく違う手が置かれたのを感じたのだ。 「平気ですか、百」 「あ、野枝……さん?」  覗きこんでくるその目を見て、言い知れぬ悪寒は潮のように引いていった。百は瞬きを繰り返して首を振り、どうにか愛想笑いをこしらえることに成功する。 「は、はい。その、すみませんでした……みっともないところをお見せして。  それで、あの、今のはいったい……」 「眠たいですね。そろそろ始まります」  だが、野枝は百の疑問にまったく答えてくれなかった。機械的に感じるほど冷めた動作で彼女を起こし、ただ淡々と意味不明なことを告げるだけだ。 「あなたも覚悟をしておきなさい。いつまでもおとぼけは通用しません。  でないと今日、死にますよ」 「―――――」  そうして踵を返し、来た道を戻っていく。野枝が向かう廊下の先から、さらに三人、連れ立って現れた者たちがいた。 「おう野枝、おまえは今日、どっちにつくの? まさか静観なんてことはないよなあ?」 「そのあたりは如何とも。私の意思だけで決められることではありませんから、花恵さん。  ただ、四四八さんたちにはあまり絡まないつもりです。下手に関わると何が起こるか分かりませんので」 「そりゃそうだ」  言って、鼻で笑う教官は見知った人物。だが、にやついた態度ながらも身にまとう緊迫感は、これまで目にしたことがないものだった。  まるでこれから戦場に向かうかのような空気はそのまま、しかし口調だけは軽いノリで、花恵は連れの片方に声を掛ける。 「落ち着けよ幽雫。んな鉄面皮装っても、キレかけてんの丸分かりだぜ。  しょうがねえとは思うけど、ちっとは抑えてくんねえかな。傍にいるのがおっかなくって敵わんわ」 「ならば今日が終わるまで、俺が見えないところに引っ込んでいろよ。もとより親しい関係でもない」 「せいぜい馬脚を現さないようにするんだな。場合によっては……分かるだろう。そこはおまえも同じだ、野枝」 「はい。胸に留めておきましょう」 「たく、言葉遣いまで昔の調子に戻りやがったか。こりゃいよいよ洒落が利かなくなってきたなあ」 「皆、もうそのへんにしておきなさい」  話の内容自体は分からないが、険悪になりかけた場を制するように主人と思しき女性が窘める。初対面の人物だったが、本日招かれた貴顕の一人であろうことは明白だった。容姿も立ち居振る舞いも庶民のものでは有り得ない。  ひっそりと、だがどこか意地悪く目を細めてから、彼女は三人の従者に命を下す。 「野枝は自由に。あなたの裁量に任せます。この場においては特にわたくしを気遣う必要などありません。  花恵は四四八さんたちを見てあげなさい。手を貸せとは言いませんが、ともかく目を離さぬように。分かりますね?  そして宗冬……」  間違いなくこの場でもっとも張り詰めている若者へ、令嬢は手を差し出すと微笑んだ。 「おまえはわたくしの傍を動かぬように。ええ、一歩も離れてはなりません」 「…………」 「どうしたのです? 返事は、宗冬」 「……畏まりました、お嬢様」  言って彼女の手を取ると、若者は恭しく拝礼した。その挙措自体は非の打ち所がない召使いとしてのものだったが、百の目には拘束されて暴れ狂う猛獣のように見えてしまう。  何かがおかしい。この人たちは何なのだろう。知っているような気がしてしまうのが恐ろしくて、人形のように立ち尽くすことしか出来なかった。 「それでは、物部殿に頑張ってもらいましょうか。お手並み拝見というところですね。  とにもかくにもまずは見物。お祖父様の名代を務めねばなりません。学長室は何処だったかしら?」 「こちらです、お嬢様」 「ああ、そう。ならば頼みましたよ、野枝、花恵、宗冬。わたくしをがっかりなどさせぬように」 「はいはい、了解」 「努力はさせていただきます」 「よろしい。では共に、過ぎた歴史を儚むといたしましょうか」  渦巻く花の嵐のような、ある種の凄艶さを湛えながら令嬢は去って行った。彼らが見えなくなった後で、百はようやく落ち着きを取り戻す。 「………はぁ」  今の今まで、ほぼ呼吸さえ忘れていた。胸を押さえて荒い動悸を鎮めつつ、いったい何事なのだろうかと考える。  が、それは答えの出ないことだ。特別な日である今日このときは、やはり特別な人のために存在しているはずだから、自分のような端役に事態を見通すことは出来ない。  いつもそう納得していた。そしてこれからもそうだろう。そこについて悔しさや寂しさは当然あるが、同時に安心もしているのだ。凡人が凡人らしく生きる限り、人生に理解不能な荒波は起こり得ないと信じている。  だからこそ、自分に出来るのは特別な人たちを応援することだけであり、領分の外にあるものを欲してはいけない。弁えるというのは大事なことだ。  深呼吸して自身に言い聞かせつつ、先のあれこれは忘れてしまおうと百は決めた。 「ちょっとあんた、なにやってるの?」 「ひゃあっ」 「うおっ、なんだよいきなり。でかい声出すなよ」 「ごめんね、驚かせちゃった? どうかしたの?」 「あ……」  不意に背後から肩を叩かれ、弾けるようにして振り返れば、そこには“特別な人たち”がそろっていた。 「す、すみません。突然だったもので、つい……」 「毎度お見苦しい真似をしてしまい、恥ずかしいです。それで、その、皆さんおはようございます」 「ええ、おはよう」 「おう。何もないならいいんだけど、本当に大丈夫か百?」 「ちょっと顔色悪いわよ」 「そ、そうですか? でも別に、平気ですよ。皆さんから心配されるようなことはありません。  それにそもそも、今日は私なんかのことよりも、ずっと大事な催しがあるじゃないですか。参加されるって聞きましたよ」 「ああ、それね。確かにその通りなんだけど、今さらじたばたしても仕方ないって感じだし」 「そうそう。だから気負わないで平常心。これまでやれることはやってきたんだから、あとはなるようになるよ」 「な、なるほど。さすがです」  外野にすぎない今の立場でも自分は結構ぎりぎりなのに、彼らは本当に普段どおりのままだった。  やはり特科生は一味違う。そういうところ、凄いなあと羨望の目を向ける百に対し、晶たちは困ったように苦笑していた。  彼らはいつもこうやって、自分が褒めるとバツが悪いような顔をする。初めはそれが不思議だったが、今ではなんとなく分かってきた。きっとこの人たちは、目の前の凡人に気を遣っているのだろう。  謙遜も過ぎれば嫌味とは言うけれど、居丈高に見下してくる人たちだったら仲良くなんかなれなかった。だから百は、こんな風に飾らない彼らの態度により一層の憧れを抱くのだ。 「私、断然応援します。頑張ってください」 「オッケーもっちゃん、任せなさい」 「ま、覚悟はとっくに決まってるから、心配無用よ」 「おーい、おまえら何してんだよ。行くぞー」 「あ、いけない。それじゃあ百、私たちはそろそろだから」 「いっちょバシっと決めてくっから、エール頼むぜ」 「はいっ」  そうして彼らは踵を返すが、一人だけその場に残っている者がいた。彼はじっと無言のまま、きょとんとしている百を見下ろし、やがて一言。 「伊藤を見たか?」 「え?」  淳士はそれだけ口にして、再びしばしの無言を挟むと、溜息を吐くように言葉を継いだ。 「教官でもいい。それと執事みてえな奴を見なかったか? 連中が何処にいるのか知りたい」 「穂積、おまえは知ってるはずじゃねえのか」 「…………」  なぜ、彼はそんなことを訊くのだろう。問いの意味は分からなかったが、知っているのかと言われれば知っているので、百は答えた。 「学長室に、と言っていました。綺麗な、身分の高そうな女性を伴われてそちらに…… あの、それが何か?」 「ちッ、やっぱりかよ。道理で匂う」  だが淳士は顔をしかめて鼻を鳴らすと、百の問いには答えず踵を返した。 「あ、あの、鳴滝さん?」 「なんでもねえ。おまえには関係ないことだ、忘れろ」 「とにかく穂積、今日は大人しくしてろよな。でないとおまえ、どうなっても知らねえぞ」 「どうって……」  それは先ほど、野枝に言われたこととだぶる。いったい何が起きるというのだろう。  確かに熾烈な訓練ともなれば遊びじゃないのは分かっているが、自分はしょせん外野なのに……  達観していた風の晶たちとは違い、淳士は神経質になっているのだろうか。だとしたら元気付けたいと思い、百は励ましを口にした。 「だ、大丈夫ですよ。私は皆さんを信じてますし、四四八さんもいらっしゃるんですから」 「どうかな。これについちゃ柊の野郎も当てにできねえ。他も全員、酔ってやがるからな。  いや、それともおかしいのは俺か? ちくしょう、何がまともなのかもう分からねえよ」  吐き捨てるように言いながら、淳士はその場を去って行く。最後にもう一度、残された百に念を押して。 「油断するなよ。俺らもやべえが、周りもやべえ。出来れば今すぐ〈戦真館〉《ここ》から出ろ。 つっても、そりゃあ無理なのか。……くそ、いっそのこと実はおまえが」  私が、何だ? 疑問に答えは与えられず、今度こそ百は一人きりになってしまった。呆ける彼女の身のうちで、あのヨクワカラナイ声が木霊する。 「今日は被れよ」  何を? 誰が? 私が? どうして?  謎は渦巻いて膨れ上がり、津波となって穂積百という少女を消し去ろうとしているかのようだった。  ここに一つの歴史を紐解く。  古代において、およそあらゆる国家は祭政一致――政治と祭祀が繋がっていた。それは我が国も例外ではなく、神事をもって国体を護持をせんとするのなら、それ専用の機関が生まれるのは自然の成り行きと言えるだろう。  かくして誕生した〈神祇官〉《カンヅカサ》。その存在は確認できる範囲でも飛鳥の時代にまで遡り、相応の地位に就いていたとされている。少なくとも、軽い扱いでなかったことだけは確かだろう。  だが、それも長くは続かない。  すでに当時から仏教は伝来していたうえに、陰陽寮の発足。武士の台頭による戦乱の世の幕開け……  目まぐるしく移り変わる天下の中、旧時代の勢力が立場を守り続けるのは不可能に近い。頂点である皇室さえも、ただの飾り物に堕した時期が数百年に渡り続いたのだ。神祇の凋落は、その誕生と同じく必然だったと分析できる。  むしろどのような形であれ、千年以上も存続したことを評価すべきだ。もはやある種の文化財。国の歴史を象徴する機関の一つと断言して構わない。  と、褒めそやすのは、しょせん外野の理屈にすぎないだろう。当事者である神祇官たちは、長年の不遇に鬱屈した思いを抱えていたし、当たり前の心情として返り咲きを熱望していた。その時を待っていたのだ。  そして維新。時代は変わる。鎌倉より七百年続いた武士の世は終わりを告げ、再び彼らが日の光を浴びる好機がやってきた。  新たな国家の形を創りあげようとする明治政府は、彼らを神祇省として復興させ、そのシステムに取り込んだ。職掌は古代からの祭祀に加え、もっとも重要なものとして宣教――つまり、一般国民への布教である。  新日本の在り方を〈遍〉《あまね》く知らしめ、すべての民に国家神道の何たるかを理解させつつ、天皇陛下の〈赤子〉《せきし》として自覚を促すための啓発事業。言うまでもなく大仕事であり、ゆえに成せば大功となることに疑いの余地はない。  そう、あくまで成せれば。やりおおせればの話である。  平安時代にはすでに用を成さなくなっていたとまで言われている神祇省に、その力は失われていた。国民への宣教どころか、身内である省内ですら意見の統一が取れなかったとされている。  悪名高き廃物毀釈も、そうした食い違いによって生じた面が少なからずあるだろう。結果として神祇省は、三日天下にもならぬ短期間で廃止となった。  新時代の祭政一致は、天皇親祭として陛下御自らが行うべしと決定され、ここに神祇復興の夢は潰えてしまった。〈今日〉《こんにち》存在する宮内庁は、彼ら神祇省の残骸を漁った屍肉喰い……口さがない言い方をすれば、禿鷹のようなものかもしれない。  少なくとも、神祇省側はそのように捉えていた。彼らに力がなかったのは事実だし、失態があったのも事実だろう。だが心情として、梯子を外されたような絶望を感じたことは想像に難くない。  ゆえに残党たちは渇望する。怨念にも等しい域で再起を願う。そのためならば、たとえどのような左道にすら手を染めてみせると狂わんばかりに……  その最右翼、当時解体された直後の神祇省において、もっとも危険かつ野心的だった男の名を、〈物部黄泉〉《もののべこうせん》といった。 「つまり諸君らは、栄えある陛下の〈赤子〉《せきし》であり、これより訪れる未曾有の国難に立ち向かう神兵としての誉れを授かった精鋭である。まったくもって羨ましい。 我輩もまた、報国にかける意気のほどは人後に落ちぬつもりである。ゆえに我らは同志として、〈今日〉《こんにち》この場で顔を合わせた。これは必然であり、まさに陛下の〈大御心〉《おおみこころ》だと信ずる思いに迷いはない。  よってここに断言しよう。これより諸君らは歴史となるのだ!」  語気荒く、熱を込めて演説する壇上の男は、芝居がかった仕草で両腕を振りながら、眼前に整列している戦真館の全学生を睥睨していた。そこには百の姿もある。  正直、奇妙な心地だった。男の言っていることが分からないわけではない。  むしろ聞き飽きた類の主張であり、そういう意味では馴染み深いものでさえある。  だが百は、この手の皇国史観的な国粋主義が、血の通った現実とはどうにもズレた、別次元の思想のように感じるのだ。  なぜなら彼女は知っている。軍人を志す者の大半が、要は食うに困ったからその道を選んだにすぎないのだということを。  報国だ愛国だと自ら口にし、本気で思っている者も少なくないが、それもほとんどが後付けだということを。  この戦真館に在籍する学生たちにも、家を継げない厄介者だから放り込まれた次男・三男が多数いるのを知っている。百とて、多少事情は違うが似たようなものだ。自ら望んで神兵とやらになりたがったわけではない。  つまり自分たちははみ出し者で、本来要らない者ではないのか。それを認めるのが嫌だから、華美な修飾を纏おうとするのではないか。  そう思うのだが、無論こんなことは誰にも言えない。懲罰どころの不敬ではないし、親にも迷惑が掛かってしまう。それくらいの分別はあったから、劣等生の評価に片足を突っ込みながらも、今までやってこれたのだ。  でも、とそこで考える。ちらりと、彼らの姿を目で追ってしまう。  特科生七名……この場で百と同じく整列し、微動だにせず直立している彼らの背は、何か他の学生たちとは違うように感じるのだ。  この人たちなら、自分の気持ちを伝えても笑ったり怒ったりはしないかもしれない。根拠はまったくないけれど、百はそう思っている。いや、信じているのか。  だがいずれにせよ、今はそんなことを言っているときじゃなかった。壇上では相変わらず、物部黄泉という男が仰々しい演説を続けている。 「なぜならこの国は、八百万の神祇によって守護されている。これは決して、子供騙しの空言ではない。現実だ。  諸君らは知らぬだろうが、すでに結果として出ているのだよ。遠く満州の戦地において、〈神祇〉《かれら》は露西亜と戦っている」  そこで、ざわりと気配が動いた。声を出した者はいなかったが、学生たちの間に動揺が走ったのは間違いない。当然だろう。  神が出兵し、戦っている。そのようなことをいきなり言われて、驚くなと言うのが無理な話だ。細波のように広がる当惑を見下ろしながら、物部黄泉は薄く笑ったようだった。  よう、と表現したのは、百には物部の容姿がよく分からなかったからに他ならない。遠くて見にくいという意味ではなく、その姿に霞が掛かっているように見えるからだ。  まるで先ほど、廊下ですれ違った何者かと同じように。  いやもしかしたら、あのときの影こそが物部黄泉だったのかもしれない。  だとしたら、ではなぜ?  どうして自分にはあの人が見えないのだろう。 「神祇を現界させる〈咒〉《しゅ》は、その修得が容易ではない。苛烈を極める。まずもって、術の形に組み上げるということからが困難どころではないからだ。  そう、これまでは我輩をして、まだ完成しきれていなかったのだよ。せいぜいが多少気の利く〈式神〉《シキ》といった程度にすぎん。それでも効果はあったがね」  航空戦闘機を造りたかったが、その設計が不完全なのでライフルしか作れなかった。これではパイロットを育てる以前の問題だが、ともかくライフルでも使えはした。物部黄泉はそう喩えながら、異常な話を続けていく。 「〈不死〉《しなず》の軍兵――そのようなモノが日本軍には混じっていると、〈露西亜〉《あちら》は恐れているらしい。曰く、どれだけ撃っても倒れぬ日本兵が稀にいる。まるで亡霊と戦っているかのようだ。  とな。これは修羅場の前線にありがちな〈妄想〉《ヒステリー》ではないぞ。いや、ある意味では〈狂気〉《ヒステリー》かな。それを形にしてやったのだから。  戦果は上々。実際は驚かせてやった程度のものだが、初めの一歩としては悪くない。何事も経験、そして反省と改良だ」  半ば呆気に取られている生徒たちに、そこで物部黄泉は断言した。 「本日、ここに我輩は、見事戦闘機を設計した。諸君らには、その栄えある騎手として是非乗りこなしてもらいたい。  我が邯鄲を、その夢を、断固掴み取り戻って来い――これぞ紛れもない報国、嘘偽りない神兵たるの本懐である!」 「特科生、前へッ!」 「はッ!」  走る緊張。張り詰める空気。空は今にも崩れそうなくらいに歪んでいる。  そんな中、言われた通り前へ出た四四八たち特科生に、物部黄泉は身をかがめて目線を合わし…… 「どうか死んでくれるなよ。我輩の名誉と復権が賭かっている。  つまらんじゃろうが。夢に喰われて消えるなんぞは」  何か、致命的におかしなことが起こっているとその場の全員が自覚したが、すべてはもう遅かった。 「結局あれは狙い通りだったのか。それとも単に、物部殿が甘かったのか」  歪み始める異空の下、常通りあまり好みではない宗冬の紅茶を啜りながら、辰宮百合香は謳うように呟いていた。 「最初期の邯鄲は、なるほど露西亜に脅威を与えた。彼の仰る通り、実情は驚かせたという程度でも、企画の〈宣伝〉《プレゼン》としては決して悪くありません」 「もっと潤沢な資金があれば、もっと周囲の理解があれば、もっともっと実験が出来る。より改良し、強壮な効果を見込める。  と、軍部に売り込み実現させた、物部殿の執念は天晴れでしょうね。復権にかける千数百年来の野望……それを低俗と切って捨てられるほど、わたくしも高尚な人間ではありませんし。  彼はきっと彼なりに、これが最善手だと信じたのでしょう。報国の心とやら、嘘ではなかったろうと思います。  そう、それが、たとえ多くの若者たちをモルモットにする選択であったとしても…… わたくしに責めることは出来ないでしょう。ねえ、その権利を持つ者は、今や当事者だったおまえしかいないのですから」  宗冬、と笑いかける令嬢に、家令はただ重い沈黙で応えていた。その黒瞳には光がなく、窓の外で渦巻く赤い嵐雲から顔を背けるように立っている。  嫌なものを見たくないのか。見れば抑えが利かなくなると思っているのか。  今、戦真館の営庭で、二百人を超す生徒たちがばたばたと倒れ始めていることを彼は知っているのだろう。過去に見て、体験したことなのだから。  これより始まるのは外道の宴。畜生でなければ乗り越えられない悪夢の時がやってくる。 「きりやれんず きりすてれんず きりやれんず――あんめいぞぉ ぐろおりあぁぁす!  さんたまりあ うらうらのーべす さんただーじんみちびし うらうらのーべす」  邯鄲とは、普遍無意識の奥にある神魔の概念を現実に引きずり出す法である。それは確かに〈妄想〉《ヒステリー》で、要は思い込みにすぎないが、しかし枯れ尾花では有り得ない。  なぜならすべての人間が、等しく“そこ”に繋がっているのだから。  空を飛ぶという〈希望〉《ヒステリー》。  山を砕くという〈願望〉《ヒステリー》。  人知を超えた神魔在るべしという、絶対普遍の〈信仰心〉《ゴッドリー》。  全人類が共有する〈祈り〉《ユメ》だからこそ、妄想の火は妄想のまま終わらない。  現実に焼き、焦がし、蹂躙する。 「わたくしが思う。あの美男子はわたくしのことを愛していると。  愛しているからわたくしのことを信じてくれる。疑いなど微塵も抱かず、何でも言いなり。都合よく踊ってくれる理想の〈人形〉《ラマン》。  で、あったらいいなと思うのは、無論わたくしの勝手な妄想。彼には彼の人生があり、好悪がある。〈違〉《 、》〈う〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈わ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈し〉《 、》〈の〉《 、》〈妄〉《 、》〈想〉《 、》〈通〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈動〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「でも、彼の妄想もそうだとしたら?」  邯鄲を通じ、普遍の無意識を掴み取れば、そこに彼我の差は消滅する。  妄想の愛を真実だと信じきるのだ。剣を、爆弾を、神の炎さえも子羊のごとく従順に。 「まあ要するに、洗脳ですわね。在ると思い込ませる強制力さえ有していれば、現実の物理的に存在しているかどうかなど関係ない。  架空の〈剣〉《アイ》でも、人は刺せる」  それこそが邯鄲の夢。まさしく〈超常〉《ユメ》を成就させる術に他ならない。 「ああ、確かに物部殿。あなたは間違っていませんよ。それが実現した暁には、大日本帝国は無敵でしょう。  百万の軍勢を相手にしても、一瞬にして吹き飛ばせる。彼らにとっての神でも出して、裁きを信じさせればいいのですからね」  言って、百合香は窓の外に視線を移した。あるいは世界大戦を見据えていたからこそ、彼はこのような邯鄲を設定したのかもしれないと呟きながら。 「万事ニ叶イ給ウ 天地創リ給イテ 御親でうすノ御一人児 ぜず・きりすとヲ信ジ奉ル。 ソノ御子 すべりさんとノゴキトクヲモチ宿サレ給イテ びるぜんまりあヨリ産マレ給ウ。 ぽんせりやぴりやとガ〈苛責〉《かしゃく》ヲ受ケクライ くろすニ架ケラレ死シ給イテ 三日目ニ蘇リ給ウ」  朗々と響く祝詞は日本語だが、しかし日本のものでは有り得なかった。世界最大の戦闘宗教――神の名の下に数多の虐殺を繰り返してきた“アレ”であることが明白だった。  そして、そうでありながら、純正とも言いがたい。  一言、異形の祈りそのもの。  日本の風土、歴史、価値観によって改変された似て非なる神の〈詩〉《ウタ》。  これもまた八百万の一柱にすぎぬという物部流の諧謔だろうか。いいや、そんな可愛いものではないだろう。 「肉親ニ蘇ルベキコト 終ワリナキ命ハ真ニ信ジ奉ル。 あんめいぞぉ いえぞすまりあ」  匂うのは怨念。どうしようもないほどの絶望。蜘蛛の糸に群がる無限規模の亡者のごとく、救いを求める念の深さは凄惨すぎる。 「アー 参ロヤナァ 参ロヤナァ パライゾノ寺ニゾ参ロヤナァ  アー 参ロヤナァ 参ロヤナァ 先ワナ助カル道デアルゾヤナァ」  すべては、西欧列強を叩き潰さんと欲するため――その夢を成就させるもっとも効果的な武器として、物部黄泉はコレに白羽の矢を立てたのだ。 「きりやれんず きりすてれんず きりやれんず――おおおぉぉ、あんめい ぐろおおりああああぁぁす!」  一際激しい絶叫と共に、内から物部の身体が爆発した。彼の中にある悪夢が溢れ出すかのように、血みどろの霧がこの戦真館を呑み込んでいく。  かつて現実におけるこの時は、幽雫宗冬ただ一人を残して全員が死亡した。  全学生、全教官、全貴賓、〈記者〉《プレス》はもちろん、術者本人である物部さえもが喰われて消えた。  彼の術はこの時まだ未完であり、ゆえに御しきれぬ悪夢が暴走した末の大惨禍。そうした意味では、失敗以外の何ものでもない。  だが、と百合香は思う。  先ほど呟いていた通り、結局これは物部の未熟さと浅薄さが巻き起こした、彼にとっても予想外の出来事なのか。それとも、自らの血肉すら贄とした狙い通りの殉教なのか。  今となっては確かめる術もない。しょせん、この場のこれはただの再現。フェイクと言うほど甘くもないが、真実は永遠に失われている。  この儀式を起こすにあたり、当時は入念を極めて設置されたと聞く陣や祭壇、被験者となった数人を入眠させるための聖櫃めいた棺等々、数多に用意された小道具や手順の類は、今回まったく無視されている。  重要なのは何が起こったかということで、細かな演出まで懲りだすのはこの再現に己が創界を被せた人物には無駄な労力なのだろう。百合香はそれに苦笑しつつも、とりあえず協力者を労っておいた。 「まあ、見事なお手並みです狩摩殿。あなたが演じる物部殿も、なかなか趣がありましたよ」 「それで、自らの〈外叔〉《おじ》様を駒にした過去を振り返って見て如何です? わたくし思うに、彼はあなたの掌だったのではないですか?」  鎌掛けに笑い声が返ってきたように感じるが、気のせいかもしれない。ともかく今は、この状況を最後まで見届けるのみだ。  傍で変わらず無言のまま、しかしおぞましい記憶に蒼白となっている宗冬をちらりと見やって、百合香は淡々と呟いた。 「今、征ってアマレクを討ち、そのすべてを滅ぼし尽くせ。決して許すな。男も女も乳飲み子も、牛も羊も〈駱駝〉《らくだ》も〈驢馬〉《ろば》も―― 殺せ殺せ殺せ。洞穴を開けて殺せ殺せ殺せ。引きずり出して皆殺しにしろ」  最後の一言、そこだけ艶然と愛でるように。 「イェホーシュア」  彼女が目を覚ましたとき、世界は異形の様相を呈していた。 「え……?」  視界を覆いつくす赤い霧。粘度を持つほど纏わりついて煙るそれが、百に事態の認識を困難なものとさせている。尋常でないことだけは理解できるが、具体的なことは何一つとして分からなかった。 「なん、です……これは」  戦真館の営庭――ではあるだろう。位置的にも、つい先ほどまで立っていた場所とほぼ同じであると察せられる。  だがしかし、これはいったい? 何が起きたというのだろうか。落下にも似た一瞬の、しかし抗えない強烈な眠気と共に意識を失い、目覚めてみればこの有様だ。刹那のうちに世界が塗り変わったとしか思えない。  まるで夢。そう、夢だ。自分は何か悪い夢を見ているのだと、百はふらつきながらも歩き始め……  不意に傍らからぶち撒けられた生ぬるい液体を全身で浴び、声にならない絶叫を放っていた。 「いィ―――!」  むせ返る臓物臭。糞小便血の熱さ。そして、なぜ今まで気づかなかったか分からないほど、耳を〈聾〉《ろう》する狂騒の嵐。  そこはすでに戦場だった。いや、そのような表現では不適切な混沌そのもの、秩序も何もない戯画的なまでの出鱈目だ。  なぜなら戦場にも掟はある。命を下す者、受ける者、倒すべき者、守るべき者、殺し合いという極北を効率的に行うため、知性と理性が何よりも要求されると教え込まれた。  なのにこれは、何だというのか。まるで引っ繰り返したぐちゃぐちゃだ。子供が描き殴った絵よりも判別できず、現実感が存在しない。  殺し、殺され、犯し、犯され、敵も味方もここにはなかった。自分とそれ以外という最小単位の識別すらないかのように、ひたすら自らの身体を損壊し続けている者までいる。  皆、死すべし。殺すべし。この場にルールを一つ見出すとするならば、ただそれだけしかないかのようだ。そしてそのたった一つが、他のあらゆる価値観を叩き潰すほど重すぎる。  なぜならこのとき、百もまた、気づかぬうちに自分の髪の毛を何百本も毟っていたから。  目玉を抉り取ってその弾力に酔い痴れたい。  舌を噛み千切って溢れる血の味を堪能したい。  腹を引き裂けばどんな臓物が出てくるだろう。  見たい。見たい。今すぐに。誰のものでも構わないから殺せ殺せ男も女も乳飲み子も―― 「いやァ――!」  その一撃を躱せたのはまったくの偶然だった。恐怖に身をすくめた瞬間に頭上を鉄棒が薙ぎ払い、空振った凶器が襲撃者とは別の男子生徒の頭を木っ端微塵に粉砕している。  飛び散る血と脳漿を浴びながら振り返れば、見知った顔の級友が悪魔のように笑っていた。頭皮の一部がこびりついた鉄棒を掲げ持ち、一切の躊躇なく振り下ろしてくる。  今度は自分の意思で回避した。しかし二撃目、三撃目が来る。このままここにいては危ない。 「助けて……!」  だから百は逃げ出した。もつれる脚を無理矢理動かし、血泥と化した営庭に何度も頭から突っ込みながら、実際には十メートルも駆けてなかったのかもしれないが、永遠にさえ感じるほど逃げて逃げて逃げ続けた。  混沌は続く。この悪夢に出口はない。押し寄せる絶望感に心が狂気へと傾いていくのを自覚する。 「ああああああああぁぁぁァァッ!」  そのとき、百は何者かに強く肩を掴まれて―― 「しっかりしなさい! 私よ、分かる?」  強引に振り向かされ、至近距離で合った目には強い理性の光が宿っていた。それに百は、はっとして我に返る。 「あ、ぁ……鈴子、さん?」 「そう。どうやらあんたはまともみたいね。安心した――て言える状況でもないけれど」  苦々しげに舌打ちしながら周囲を見回し、鈴子は吐き捨てるように言葉を継いだ。 「不覚だわ。まさかこうくるとは思わなかった。全員危ないっていうのは聞いてたはずなのに、我ながらどうかしてる。  おまけにこの霧……冗談じゃないわ。柊たちともはぐれちゃったし」 「そうなん、ですか……?」 「ええ。でもあいつらなら大丈夫でしょ。確かに面倒なことになったけど、それぞれなんとかするはずよ。今はとにかく、あんたを捕まえられてよかったわ。 何がなんだか分からないでしょうけど、私が守ってあげるから安心して。気をちゃんと持つのよ、いい?」  と笑う鈴子の顔は微かだが引きつっていて、さらによく見れば肩が小刻みに震えていて…… 「鈴子さんでも、怖いんですね」  それがこんな状況にも関わらず嬉しくて、自分でもよく分からないまま笑ってしまった。その反応に、鈴子は顔を真っ赤にして怒る。 「ばっ、あんた、何言ってるのよ勘違いしないでっ!  私は別に怖がってなんかないし、余裕だし、全然こんなのへっひゃらだから――」 「噛んでます」 「うるさいわねっ」 「震えてますし」 「あんたの勘違いに怒ってんのよっ」  地団駄踏んで喚いたあと、突っ込みから逃げるように目を逸らしてから鈴子は言った。 「ああもう、そんなことはどうでもいいから、とにかくここは一旦退くわよ。どこか安全なところを探さないと」 「ほら百、行くわよ。ぼっとしてんじゃないのっ」 「はいっ」  この混沌の中、自分を探してくれたというのが嬉しくて。  そっぽを向きながら手を差し出してくる、彼女の彼女らしさが可愛くて。  ほんとにもう、我慢できない。 今すぐ食ベテシマイタイホド――  身体が、意思とは無関係に――あるいはとても正直に――駆動した。 「……え?」  今、自分は、何を思い、何をした? 「も、百……」  間一髪、目玉を抉られかけながらも、咄嗟の反応で躱しきった鈴子の表情は戦慄に強張っている。当たり前だろう。  あと刹那でも身を退くのが遅れていたら、間違いなく両の眼球は串刺しとなっていた。空洞となった眼窩から血を迸らせて絶叫する鈴子の姿が、百の脳裏に去来して氾濫して駆け巡ってドロドロになって―― 「冗談、よね? あんたにしちゃあ素早くて驚いたけど、そんなの私に当たるわけがないんだから……」  気遣い代わりに虚勢を張るその様が、もう愛しくて溜まらない。  青い顔で、唇を噛んで、とても優秀な特科生が私なんかを恐れているのが愉快で愉快で股が濡れる。  熱泥のようにたぎり始める下腹部の疼きは抗いがたく、あの綺麗な手首を千切り取って突っ込みたい。そしてお返しにぶち込んでやりたい。  何を? 何って、それはもちろん―― 「――――――」  そのイメージが浮かんだ瞬間、百は弾けるように跳び退っていた。 「私、違う……」  私は、誰? 「――百ッ」  やめてお願い近寄らないで。忘れていたいの思い出したくないの。  私が実は、もうとっくに○○○○だなんて―― 「いやあああああああぁぁァッ!」  髪を振り乱して叫びながら、百はそこから逃げ出していた。  いいや、本当に逃げたいのは封印していた真実から。だけどそれは容赦なく、割れた卵の殻から腐った中身が溢れるように百の頭を侵していく。  そうだ。そもそも穂積百という少女などいない。ここは過去の再現にすぎず、現実の歴史において生き残ったのは幽雫宗冬しかいないのだから、本当の穂積百が自分であるはずもないだろう。  だって私は、己が〈その他大勢〉《エキストラ》じゃないと知っている。  彼らは単なる記録の投影。この時代、こういう人がいて、こういう容姿と性格を持ち、こういう風に生き、死んだ。普遍無意識にあるその記録を、邯鄲の夢が再生しているだけのこと。どれだけリアルであったとしても、本質的には活動写真と変わらない。  ゆえに今まで自分のものだと思っていた人格も私にとっては単なる〈仮面〉《フェイク》だ。かつてこの日に最期を迎えた、穂積百の記憶を借りていただけにすぎない。 「今日は被れよ」  そう言われた。物部黄泉。いいや違う、そうじゃない。  〈彼〉《 、》〈の〉《 、》〈仮〉《 、》〈面〉《 、》〈を〉《 、》〈被〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈私〉《 、》〈の〉《 、》〈主〉《 、》〈に〉《 、》〈言〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  ゆえに命令は簡易な形。長い付き合いの主従だから、言葉を尽くして語らなくてもたった一言で意図は通じる。  正しくは“被れ”じゃなく、“被りなおせ”だ。  気弱で鈍臭い穂積百。優しく善良な穂積百。戦真館の一学生として、平凡に生きて死んだ穂積百はもう要らない。  その仮面を剥げ。新しい仮面を被れ。かつてこの混沌に巻き込まれ、狂乱の果てに惨死した穂積百の怨念を。  夜叉の〈面〉《きおく》を―― 「う、うぅ、うああああああぁぁッ!」  内から身体が裏返るような叫びの中、押し寄せる狂気の激流が穂積百という少女の記憶を塗り潰していった。 「百……」  血霧の中、走り去っていく級友の背を呆然と見送っていた鈴子だったが、ここでようやく我に返った。 「いけない。とにかくあの子を追わなきゃ」  自分自身へ言い聞かせるように呟いて、彼女もまた駆け始める。周囲では相変わらず、口にするのも憚れるような事態が展開しているのだが、それは意識して心の中から閉め出した。  襲って来る者も少なくないが、動きはゾンビのように緩慢だ。そんなものに捕まる鈴子ではない。 「くッ……」  だから自分が直面している危険度だけを見るならば、それほど切迫しているわけでもなかった。しかし鈴子は、今どうしようもなく焦燥している。怒っていると言ってもいい。  何よりも己自身に。我ながら信じられないくらい頭が回ってなかった事実に対して。 「冗談じゃないわよ、大杉じゃあるまいし」  この夢において、自分たちや辰宮家の面々、それに神野や狩摩、聖十郎らを除くすべての一般人は、その時代における彼らの意識を投影したものにすぎないと聞いていた。  そして今日、明治三十八年の春、現実の歴史において戦真館に存在した者たちは、幽雫宗冬ただ一人を残して全滅したと聞いていた。  他ならぬ、宗冬自身の口からそう聞いていたはずだ。  なのになぜ、今の今までそこに意識を割かなかった。これが過去の再現だと言うのなら、百を含めた他の者らがどんな目に遭うかは分かりきっていたはずだろうに。  彼らは今日、死に絶えると、分かっていたはずなのに。  信じられない。吐き気を催すほどの愚鈍さだ。うっかりなんて域を遥かに超え、自分の脳に障害でもあるのかと本気で疑ってしまうほど。 「どうして……!」  百歩譲って、自分一人だけの馬鹿さ加減ならまだ分かる。迂闊な栄光、大雑把な晶でも、まあ有り得ないことではないかもしれない。  だが、あれで結構聡い歩美や、この世界について自分たちより詳しい水希、そして何より、あの柊四四八までもがこんなことに気づかなかったなんて悪い夢だ。まともに考えれば天地が引っ繰り返っても有り得ない。  それともあるいは、分かっていたうえで無視していたのか? 今日、大量の人死にが発生するのは歴史の必然。すでに起こった過去の出来事なのだから変えられないと、達観していただけなのか?  違う。そんなことは絶対無いと断言できる。  たとえどれだけ無駄な努力であろうとも、目の前の大惨禍をスルーできる奴など自分の仲間には一人もいない。  どうにかして、なんとしてでも、たった一人でもいいから救おうとするはずだ。  今、自分が百を追い続けているように。  それこそが、自分たちにとっての〈千信〉《トラスト》で〈戦真〉《トゥルース》。ドライな達観で運命を諦められるほど大人じゃない。そんな〈打算〉《シニカル》、大嫌いだ。  だというのに、この状況。酩酊していたかのような間抜けぶり。  それが鈴子は許せない。許せないから今、走っている。  冷静に考えれば四四八たちとの合流を優先し、改めて方針を話し合うべきだろう。だがそれは駄目だ。何と言われようとも、今優先すべきは百のこと。  あの子を死なせない。すでに死んでいる人間の記憶を投影しただけの存在だなんて、理屈じゃ分かっているが知ったことか。絶対助ける。 「だって……!」  だってそうじゃなければ、自分たちの未来を守るなんて口が裂けても言えないだろう。 「―――――」  混沌の営庭を突っ切り、校舎内に入った鈴子は、ここでようやく足を止めた。別に疲労で走れなくなったわけではない。  この廊下の奥、血霧に煙る向こう側は、営庭の惨状よりさらに禍々しいことになっていると直感的に察したからだ。  ゆえに気を落ち着かせて一歩一歩、歩を進めながら鈴子は暴れる動悸を鎮めていく。  取り乱すな。即応しろ。何が起こっても最善手を瞬時に選べ。  これから先、いつも仲間たちから揶揄されている詰めの甘さなんて一回たりとも許されない。 「……そもそも、この四層突破の条件とはなんなのか」  手持ちの情報を整理するべく、鈴子は知らず呟いていた。 「生き残る。確かにそれはそうだけど、具体的にはいつまでなの? この状況はどうしたら終わるの?」  やはり酔ってる。こんな当たり前の疑問すら、今まで湧いてこなかった。その屈辱に歯軋りしながら、口調だけは淡々としたまま独白を続けていく。 「生き残ったのは幽雫さんだけ。なるほど結果を見る限り、どれだけ酷い話だろうと終わりはあるってことになる。  幽雫さんはこれをどうやって切り抜けたの? 一定時間やり過ごせば勝手に終わるの? いいや、もっと当たり前に考えなさいよ、鈴子」  そんなぬるい条件を、あの人が試練だなんて言うはずもない。そもそも幽雫宗冬は、この事件に深い嫌悪と憎悪を抱いていたように見える。  それは物部黄泉とやらいう輩に対する怒りじゃなく、もっと暗く破滅的な何か…… 〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》、自分自身に対する絶望で、恥の概念。 「つまり――」  辿り着いた自分の教室。扉の前で立ち止まった鈴子は、意を決してそれを開けた。 「ああ…… ごめんなさい、鈴子さん。はしたないところをお見せして」  覚悟はしていた。予想はしていた。何か酷いものを見るだろうなと、鈴子は戸を開ける前から分かっていた。  でも、だからってこんなこと―― 「も、百、あんた……」 「ちょっと待っててくださいね。まだ散らかったままなので。  それとも、よければ、鈴子さんも〈め〉《 、》〈し〉《 、》〈あ〉《 、》〈が〉《 、》〈り〉《 、》〈ま〉《 、》〈す〉《 、》?」  天井を染め上げるほどぶち撒けられた血液も、足の踏み場もないほど散らばっている肉片も、事ここにいたっては些細なものだ。まだ見れる。  人が死んでいるという事実以上のものではない。戦争じゃなくても事故やその他で、普通に有り得る結果だろう。  だけどこれは、そういう一線を明らかに越えていた。人間じゃない、鬼畜の所業。 「た、食べて……あんた、それ、食べて……」 「美味しいですよ? 特にほら、頭と性器なんかは最高に」  満面の笑みで犠牲者の顔面を齧りながら謳う百の鬼相に、だが鈴子は気付いてしまった。  今、自分がどうにかしてショックを受けたがっていることに。  あれ、おかしいぞ。〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「ぐッゥ―――」  それを自覚した瞬間、突き上げるような吐き気が鈴子を襲った。  違う。違う。違う。違う―― 私は傷ついている、取り乱している。直視できないし悪夢を怖いと感じている。  どれに? 誰が? 〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈の〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈い〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈何〉《 、》?  胃が裏返って破裂しそうな灼熱の中、しかし鈴子は、同時に冷めた思考で幽雫宗冬を羨ましいと感じていた。  彼のトラウマ。やってしまったこと。この悪夢の突破条件。  〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈苦〉《 、》〈し〉《 、》〈め〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈ね〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈羨〉《 、》〈望〉《 、》〈が〉《 、》〈抑〉《 、》〈え〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「ああもう、鈴子さんったら、そんなに涎を垂らしちゃって。お腹が空いてたんですね、可愛い。  ほんとに私、食べちゃいたいです」  手の生首を放り投げて、立ち上がった百が近づいてくる。迫る食人の鬼を前に、鈴子はある経典の一節を思い出していた。  いや、その言葉が何処からか、頭の中に割れ鐘のごとく響くのだ。  これは我が血であり、肉である。  取って飲み、食べるがいい。すべては罪の赦しであり、契約である。  それを悪意と怨念で〈戯画化〉《カリカチュア》した異形の教義。まるで稚拙な、だけど最悪に冒涜的な悪魔崇拝の祭壇そのもの。 「ねえ、食べちゃっていいですか? ねえ? ねえ? ねえええええええ!」  飛び掛ってくる百の姿は、虜に迫る奇怪な蜘蛛のようだった。獣性ですらない炎に燃えるその瞳は、まさしく肉食昆虫が持つ人には理解不能な万華鏡となっている。  神野明影――あの男が持つ奈落めいた混沌のように。 「私は――」  どうする? どうしたらいい? 自問しながら、しかし答えは見えていた。  かつて幽雫宗冬がそうしたように。  自分以外を皆殺しにして喰わなければ、この〈第四層〉《ギルガル》は超えられないのだ。  でもそれはきっと、自分にとっては凄く、そんな―― 「くそッ――」 異界化したかのように変質した営庭を駆けながら、俺は自分自身の馬鹿さ加減に毒づいていた。 騒ぎのどさくさで晶たちと〈逸〉《はぐ》れてしまったのは痛恨だが、そんなことより何倍も洒落にならない失敗を犯している。 「なぜ俺は、気づかなかったッ」 この夢において、俺たちや辰宮家の面々、それに神野や狩摩、聖十郎らを除くすべての一般人は、その時代における彼らの意識を投影したものにすぎないと聞いていた。 そして今日、明治三十八年の春、現実の歴史において戦真館に存在した者たちは、幽雫宗冬ただ一人を残して全滅したと聞いていた。 他ならぬ、幽雫さん自身の口からそう聞いていたはずだ。 なのになぜ、今の今までそこに意識を割かなかった。これが過去の再現だと言うのなら、他の奴らがどんな目に遭うかは分かりきっていたはずだろうに。 彼らは今日、死に絶えると、分かっていたはずなのに。 「穂積……!」 他にも、他にも、この邯鄲ですごした七ヶ月の間、同じ釜の飯を食った数多の顔と名前が頭をよぎる。彼らはとっくの昔に死んでいて、俺たちが相手にしていたのは、その生前における記録映像みたいなものだと分かっていても割り切れない。 否、割り切ってはいけない。 俺の仲間の誰一人として、そんな小利口さを持っている奴などいないんだ。そして当然、この俺だって。 人間、捨ててはいけない青さってやつが必ずある。これはそういう類のものだと、一片の疑いもなく信じている。 だから走れ。救える奴を救え。無理でも無駄でも、やるんだよ。他の奴らだってきっとそうしているはずだから。 なぜ酔っていたかのように間抜けな見落としをしていたのか、そんなことは今どうでもいい。まずはこのふざけた事態を、自分の流儀で乗り切ること。 大事なのはただ、その一点。 「俺は、しないぞ……!」 四層突破の条件が、自分以外の皆殺しだというのはこの状況になって即座に気づいた。遅すぎるが、気づいたからにはそんなものに乗って堪るか。 俺たちは未来を、百年先にある自分たちの世界を守るために戦っている。ならば進歩を見せねばならない。 幽雫さんと同じ轍を踏むようじゃあ、望ましい先がどうだの口が裂けても言えないだろう。 まだ正気を保ってる奴を探しに探して、営庭を駆け抜け校舎に入り、廊下を突っ切っきりつつ片っ端から教室の戸を開けていき―― 「誰か、いないか――!」 足を踏み入れた自分たちの教室で、俺を待ち受けていたのは吐き気を催す非日常の塊だった。 「ああ、なんだ四四八じゃん」 天井を染め上げるほどぶち撒けられた血液も、足の踏み場もないほど散らばっている肉片も、事ここにいたっては些細なものだ。まだ見れる。 人が死んでいるという事実以上のものではない。戦争じゃなくても事故やその他で、普通に有り得る結果だろう。 だけどこれは、そういう一線を明らかに越えていた。人間じゃない、鬼畜の所業。 「晶、おまえ、それ、食べて……」 「うん。これで結構いけんだぜ。おまえもどうだ? 〈内臓〉《はら》とか旨いぜ」 満面の笑みで犠牲者の臓物を齧りながら謳う晶に、突き上げるような嘔吐感が俺を襲った。 「ぐゥッ―――」 「なんだよおい。なんなんだよその反応。せっかくあたしがおまえのために用意したのに、要らないって言うのかよ」 「ショックだなあ。傷つくぜ。なあ、だったら四四八、代わりにさ――」 肩を震わせて笑いながら、一歩一歩晶が近づく。 俺はこいつを、どうしたらいいのか咄嗟に判断できなくて…… 「おまえの肉を喰わせろよおォォッ!」 飛び掛ってくる晶に、手もなく押し倒されていた。 首元に迫る牙。万華鏡のような複眼。 虫のようだと、大事な女の変貌に心が張り裂ける音を聞いて…… 「ああ、なんだ四四八くんじゃない」 天井を染め上げるほどぶち撒けられた血液も、足の踏み場もないほど散らばっている肉片も、事ここにいたっては些細なものだ。まだ見れる。 人が死んでいるという事実以上のものではない。戦争じゃなくても事故やその他で、普通に有り得る結果だろう。 だけどこれは、そういう一線を明らかに越えていた。人間じゃない、鬼畜の所業。 「歩美、おまえ、それ、食べて……」 「うん。これで結構美味しいんだよ。一緒にどう? わたしはおっぱいが好きなんだけどね、大きくなるような気がするし」 満面の笑みで犠牲者の乳首を噛み千切りながら謳う歩美に、突き上げるような嘔吐感が俺を襲った。 「ぐゥッ―――」 「うわ、なんなの。なんでそんな反応なの。せっかくわたしが四四八くんのために用意したのに、要らないって言っちゃうの?」 「ショックだなあ。傷ついちゃうよ。ねえ、だったら四四八くん、代わりにさあ――」 肩を震わせて笑いながら、一歩一歩歩美が近づく。 俺はこいつを、どうしたらいいのか咄嗟に判断できなくて…… 「四四八くんを食べさせてよおォォッ!」 飛び掛ってくる歩美に、手もなく押し倒されていた。 首元に迫る牙。万華鏡のような複眼。 虫のようだと、大事な女の変貌に心が張り裂ける音を聞いて…… 「ああ、なんだ柊じゃない」 天井を染め上げるほどぶち撒けられた血液も、足の踏み場もないほど散らばっている肉片も、事ここにいたっては些細なものだ。まだ見れる。 人が死んでいるという事実以上のものではない。戦争じゃなくても事故やその他で、普通に有り得る結果だろう。 だけどこれは、そういう一線を明らかに越えていた。人間じゃない、鬼畜の所業。 「我堂、おまえ、それ、食べて……」 「うん。これで結構いけるのよ。あんたもどう? 目とかいいわよ。なんだっけほら、DHAが豊富みたいな」 満面の笑みで犠牲者の眼球をしゃぶりながら謳う我堂に、突き上げるような嘔吐感が俺を襲った。 「ぐゥッ―――」 「ちょっとなんなの。どうしてそんな反応なのよ。せっかく私があんたのために、慣れない料理までしたっていうのに、要らないって言うつもり?」 「ショックだわ。許せないわね。だったら柊、落とし前に――」 肩を震わせて笑いながら、一歩一歩我堂が近づく。 俺はこいつを、どうしたらいいのか咄嗟に判断できなくて…… 「あんたの肉を喰わせなさいよおォォッ!」 飛び掛ってくる我堂に、手もなく押し倒されていた。 首元に迫る牙。万華鏡のような複眼。 虫のようだと、大事な女の変貌に心が張り裂ける音を聞いて…… 「ああ、なんだ柊くんじゃない」 天井を染め上げるほどぶち撒けられた血液も、足の踏み場もないほど散らばっている肉片も、事ここにいたっては些細なものだ。まだ見れる。 人が死んでいるという事実以上のものではない。戦争じゃなくても事故やその他で、普通に有り得る結果だろう。 だけどこれは、そういう一線を明らかに越えていた。人間じゃない、鬼畜の所業。 「世良、おまえ、それ、食べて……」 「うん。これでなかなか美味しいの。柊くんもお一つどう? 脳味噌なんか意外とスイーツ」 満面の笑みで犠牲者の脳漿を啜りながら謳う世良に、突き上げるような嘔吐感が俺を襲った。 「ぐゥッ―――」 「えー、なんなの。ちょっとその反応ひどくない? 近頃は男の子だって、甘い物くらい食べられないと駄目なんだからね」 「ショックだなあ。傷ついちゃうよ。ねえ、だったら柊くん、代わりにさ――」 肩を震わせて笑いながら、一歩一歩世良が近づく。 俺はこいつを、どうしたらいいのか咄嗟に判断できなくて…… 「柊くんを食べさせてよおォォッ!」 飛び掛ってくる世良に、手もなく押し倒されていた。 首元に迫る牙。万華鏡のような複眼。 虫のようだと、大事な女の変貌に心が張り裂ける音を聞いて…… 「―――――――」 今、俺がこいつに言うべきことは…… そうだ、俺は今こそ悟った。 自分の望み。やるべきこと。柊四四八という人間が持つ本質を。 首筋に喰らい付いた女が何よりも愛しくて、思い切り抱きしめた。全身の骨をバラバラにするほどきつく、強く、俺の愛を伝えたかったから手加減なしに応えたんだ。 そのカタルシスに魂が奮える。もっともっと、際限なく俺の大好きな奴らを愛してやりたい。 「ああ……」 見上げた空には祝福が満ちていた。そう、俺こそは皆殺しのイェホーシュア。 男も女も乳飲み子も、牛も羊も駱駝も〈驢馬〉《ろば》も――殺せ殺せ殺せ。洞穴を開けて殺せ殺せ殺せ。引きずり出して皆殺しにしろ。 待っていろおまえたち、差別はしないぞ。今すぐ〈壊〉《アイ》してやるからな。 天啓を受けた使徒さながら、俺は一片の疑いも無く行動を開始する。誰一人として逃がさない。 そう、誰一人としてだ。 この物語はヨシュアの死をもって完結する。すべての眷属を屠ったあとで、俺が俺を抱きしめよう。 どこかで獣の声が聞こえた。笑いながら仲間たちを殺戮し、泣きながらその屍を喰らい尽くしてギルガルを制覇する〈獣〉《おれ》。 ここに今、福音の時が訪れたのだ。 頚動脈を噛み千切られる苦痛にも俺は悲鳴をあげなかった。圧し掛かってくる身体を押し返そうとする反射行動を、全力で抑え込んだ。 特に理由があったわけじゃない。 ただ、この真っ赤に染まる視界の中、あらゆる意味で逃げては駄目だと思ったのだ。 たとえば迎撃して殺し返す。 たとえば無抵抗のまま殺される。 どちらも逃げだ。何の解決にもなっちゃいない。 論理的な判断なんてとても出来ない。具体的にどうすべきかなんて分からない。 目の前の状況に対するショックは、俺の精神的な許容量を超えている。ゆえにあれこれ考えていられる余裕はゼロで、単に呆けているだけと言ってしまえばその通りなんだろう。 「でも……」 たとえそうでも、俺は…… 「大丈夫だ」 ごりごりと音が聞こえる。首から頬、そして耳を齧り取られる感覚が、骨を伝って脳に響く。 生きたまま貪られる経験なんてそうそう出来る奴はいないし、また貪る経験だって同じだろう。 だから何を基準や根拠にして大丈夫なんて言っているのか、自分でも意味不明だが、それでも断言したいんだ。 「問題ない」 ないさ、そうだろう? こんなもので終わるわけがない。 「〈過去〉《これまで》とは、違うんだ」 俺に自覚はほとんどないが、以前の俺たちは世良を残して全滅したと聞いている。 だからあいつは迷って、悩んで、傷ついて……それでも俺たちに再会できたのが嬉しいと言ってくれた。 そしてまた俺たちも、安心しろと請け負った。 もう、前みたいなことにはならない。俺たちの気持ちが悪い結果に向かうなんてあって堪るか。それを証明するんだろう。 だったら今、ここで過去の再現を演じるなんて断固拒否だ。そんなものは誰が何と言おうと正答じゃない。 「幽雫さん……俺たちは、あなたと違う。やりませんよ、絶対に」 それは彼を責めるという意味じゃなく、先達に対する俺流の悌心。 そしてこの場に必要な強さとは何なのか、自己に問うた末に見出した仁心。 たとえかつてのこの日、あの人が自分の仲間を皆殺しにして生き残ったのだとしても。 〈第四層〉《ギルガル》を突破する手段はそれしかないのだとしても。 幽雫宗冬に対する敬意の心は揺るがない。だからこそ違う答えを出してみせる。 俺たちは進んだのだと、そうしてみせることが後輩の義務だろう。 違わないよな? ああ、違わないとも。 「だって、俺たちは、千信館」 戦の真は非情だろうし、かつてはそれが唯一の正答だったかもしれない。 だけど、今は違うんだよ。戦真館は千信館へ――流れ、移り、未来を紡ぐ。 「〈未来〉《それ》を守るのが、俺たちの意志」 だから安易な模範解答になど飛びつかない。そもそもそんな真似はカンニングだろう。議論の余地なく、やっちゃいけないことなんだよ。 「なあ、そうじゃないか?」 自らを貪る女を優しく抱きしめ、だけど声音には力を込めて、俺は言った。 「それが、俺たちの〈千信〉《トラスト》だから」 その宣言はまったく同時に、今すべての仲間たちが口にしたのだと確信した。 刹那―― 「あっ……」 「身体が……」 「嘘、怪我が消えていくよ」 「つまり〈幻〉《ユメ》……だったわけ?」 「分かんねえけど……」 「クリアした……てことでいいんだな?」 世界が変わる。血霧が失せる。俺と同じく皆がこの選択をして、結果〈第四層〉《ギルガル》の山を越えたのだと理解した。 「そうだ、これが今の正しい答えだ」 ただ信じること。逃げず諦めず、自分たちの気持ちが地獄の歯車に巻かれることなど、断固有り得んと疑わない心。 「でないと悪夢は終わらない。そうだよな、おまえら」 流石は自慢の馬鹿共だと、誇らしく胸を張った。これから先もこいつらとならどんな悪い夢だろうと越えられる。そう言い切ることに迷いはない。 「俺たちの、勝ちだ!」 〈第五層〉《ガザ》へと移り変わっていく世界の中、全員が握った拳に力を込めて、未来の勝利を信じていた。 「―――馬鹿な」  その結末を見せつけられて、幽雫宗冬は瞠目していた。有り得ない、こんなこと。茶番にもほどがある。  行動だけを見るならば、彼らは何もしていない。あの状況で何もしないというのを選択するのがどれだけ困難かは分かっているが、それで道が開けるとでも? ふざけた話だ、そんなものは子供の〈理想〉《たわごと》でしかないだろう。 「確かに、甘ったるい話ですわね。まったく趣味ではありません」 「彼らがどう堕ちるのか……わたくしはそれが楽しみだったのですが」  言って、百合香はちらりと宗冬を見る。この家令と同じ選択をされては困るが、だからといってこれは少々以上に拍子抜けだ。辛い料理を食べていたのに、途中で蜂蜜をぶち撒けられたような気分になる。 「それに、そもそも歴史の分岐という面から見ても筋が通っていない。現実にあのような目にあったとき、何もしなければ助かるとでも? 有り得ない話ですよ」 「現実において致命傷は消えたりしないし、襲撃者もまた消えはしない。夢だから罷り通った非日常を、未来へ繋がる選択だとは認められませんよ。破綻しています。  正直申しまして、失望を禁じ得ません。無論あなたに対してです、狩摩殿」  深く嘆息するように、百合香は声を落としていた。言葉通り、そこにはあからさまな失望の念が滲んでいる。  だが、それに応える者は正反対に陽気だった。 「そうかいのう。確かに臭い落ちじゃったのは否めんが、俺はどうして気に入っちょるよ。そがァに目くじら立てんでもええじゃない。  あんたァ、俺がなんぞ弄ったせいじゃ言いたいみとォなが、そりゃあ下種の勘繰りよ。こっちはなんもしとらんっちゅうに」 「誓って、ですか?」 「応とも。だいたいこの邯鄲は俺が絵図描いたもんじゃなかろうが。設定したのは“あいつ”じゃし、なら必然“あいつ”の趣味よ。なんともやりそうなことじゃないか?  好きじゃけえのォ、あれは愛じゃ勇気じゃいう青いもんが。それを守ろういうんが奴の〈理想〉《ぱらいぞ》――なら小僧どもは資格ありじゃ、ちゅーて俺は思うが」 「…………」 「納得いかんかい、お嬢? じゃったらどうする?」  距離を隔てた思念だけの、互いに顔を合わせない会話の中に、狩摩は満腔の稚気と、抉るような殺意を込めて言葉を継いだ。 「ここで俺と〈戦〉《や》ってみるか? そういう話じゃったもんのォ、俺の手が理解できんようになったら敵同士じゃあゆうて」 「どうするんなら。遊びたいんならこっちは別に構わんでよ。なあ、幽雫ァ」 「待ちなさい」  百合香の静止は、今にも抜刀しようとする宗冬を抑えるためのものだった。そのまま小さな溜息をついて、やれやれと令嬢は首を振った。 「分かりました。あなたの仰ることももっともです。非礼をお許しください、狩摩殿。 確かにあの御仁の好みではありそうです。そしてだからこそ、四四八さんたちに賭けてみようとしたのはわたくし。道理が立たないのはこちらのほうでしたわね」 「ただし」  椅子の背もたれに身を預けつつ一拍置いて、刺すように百合香は続けた。 「あなたはこれで終わりと思っていますの?」 「んなわきゃあるかい」  問いに、返事は即答だった。並外れた空間支配を成す身として、超絶した視力を四四八たちに注ぎながら、狩摩は嗤う。 「見とけやお嬢、甘粕っちゅう男を舐めたら死ぬで。  あれは気に入った奴にこそ、洒落にならん真似をする輩じゃ」  勇気が見たい。愛が見たい。その輝きに誰よりも何よりも魅せられている者だからこそ。 「試練、試練の〈釣瓶〉《つるべ》撃ちよ」  言って狩摩は、何かを予言するかのように〈煙管〉《キセル》の煙を虚空に吐いた。  そのとき彼女はぼんやりと、立って空を見上げていた。  故郷の冬を彩る景色。舞い落ちる雪の白さがひらひらと世界を覆う。  肌を刺す寒風も、今このときは愛おしい。特に熱を持った頬、いや眼球が、冬の白さに冷却されてほっと一息つきたくなる塩梅だ。 「ああ、いい気持ち……」  だから彼女は両手を広げ、この世界を歓迎した。雪原に一人立つ軍装の少女は幻想的で、麗しく映えるがゆえにどこか人間離れした風情を伴う。  そして実際、彼女はただの人間と言い難い面を二つほど持っていた。  まず一つは、この雪原との親和性。なるほど絵画にしたくなるほどの光景だが、原則人と大自然は相容れない。人の手が入っていない領域だからこそ美しいという見方があり、それはすなわち人が入り込めない場所であることを意味している。  酷寒の吹雪舞う世界になど、住めと言われて喜ぶ人間はそういないだろう。いたとしても、その存在は自然を侵す。人の営みが侵入すれば、ある種の生臭さが生じてしまうのは避けられない。  だからここに馴染むという時点で、少女はまず常人と言えない。  これが一つ。  そしてもう一つは、単純な外見的特徴。彼女の眼だ。  少女の双眸は、小さな顔に不釣合いなほど大きかった。それでいて深く切れ上がり、野性的なまでの幼さと理性的な老練さが見事な域で混交している。  一言、魅力的な眼と讃えていいだろう。だが少女の眼が持つ異常性はそこにない。 「ああ、痛い……」  降り積もる雪片が、少女の眼に触れたとたん消えるのだ。融けたのではない。蒸発している。 「痛い、痛いのお父様……眼が熱いの、もっと冷やして」  懇願に応えるかのごとく、吹雪は激しさを増していく。気温は零下四十度以下。吹き荒ぶ猛風による冷却効果を考慮すれば、体感温度は言語を絶する域に達しているはず。このまま微動だにせず立ちつくしていれば、数分と待たずに氷像と化すのは絶対と言える状況だ。  しかし、少女は凍らない。その双眸から漏れる熱が、北極圏の寒波すら真夏のうだるような熱気に変えている。 「痛い。熱い。ああ、我慢できない」  短い瞑目。実にここまで、一度たりとも瞬きをしていなかった少女が再び眼を開いたとき、その瞳は燃える黄金色に染まっていた。 「熱いのよ」  轟、と人ならざる何かが吼えた。それは獣のようであり、少女の内なる叫びのようでもある何か。  雪が〈蒸発〉《うせ》る。大地が焦げる。木々が燃え上がり空が染まる。少女が軽い癇癪を起こしただけで、シベリアは灼熱の海と化していた。  人では有り得ない、魔獣の眼光。〈魔術師〉《グルジエフ》の血脈より生じた規格外の神秘が咆哮する。  夢に入る前から彼女はこれを持っていた。今、周囲を焼き焦がす熱波など、本質からかけ離れた副産物にもならぬ塵にすぎない。  ゲオルギィの邪視は獣を統べる。猛り狂う魔力が眼球神経を駆け巡り、破断した毛細血管が涙のような血を噴かせた。  それが―― 「気持ちいい」  彼女の眼痛を一時的にでも和らげる効果を発揮したのは必然か、偶然か。 「気持ちいい。もっと血を、血を浴びさせて!」  主の願いに臣下が応えた。幾十、幾百、幾千も――大地を埋め尽くす群狼たちが、彼らの女王のため斉唱する。  行こう、行こう、戦場へ。引き裂き貪り殺し尽くせ。 「そうだ、狩りだ」  狩りをしよう。私はそのためにこの邯鄲へ入ったのだと、今こそ目的を思い出し―― 「行くぞ我が子ら、私に続けェ――〈帝国万歳〉《ウラー・インピェーリヤ》ッ!」  血に飢えた魔獣の群れが、〈第五層〉《ガザ》を引き裂きながら進軍を開始した。 「おおおおおおおォォォッ!」  そして、接触は秒も待たずに果たされる。紙のドアでも切り破るかのごとく、焼けた雪原から戦真館の上空に姿を現したキーラが放った轟哮は、まるで大地震でもあるかのように校舎を揺るがし、粉砕した。  その出陣はこの場にいる者たちにとって紛れもなく唐突なものだったが、まったくの慮外かと言えばそうでもない。 「来やがったな、鋼牙ァッ!」  刹那の乱れもなく即応し、迎撃に出た者がいたことこそがその証。  だが、それがこの獣姫に通用するかと言われれば、まったく別の話である。 「下がれ下郎がァッ!」  一瞬、そして一撃のもと、キーラが放った腕の一振りで花恵は胴から真っ二つに両断され、その上半身と下半身を彼女の乗騎である双頭の黒狼がそれぞれギロチンのような〈顎門〉《アギト》で喰らい尽くしていた。  神速の進軍。電光石火の攻勢。軍事的にはたとえ陳腐な形容だとしても、それを成した者が魔性の怪物ならば話は別だ。 「なるほど、これが?」 「じゃろうがいや。俺の言った通りになったろ?」  これより第ニ幕、いいや本当の戦が始まる。 「なん、だと……」  修羅場は夢だが、〈嘘〉《ユメ》ではない。猛る獣姫とその鋼牙に屠られれば、現実にも死が待っている。 「キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ参上! 行くぞ戦真館の小童ども、貴様ら明日の朝日はないと思えッ!」  雄叫びをあげる機甲獣化聯隊が、雪崩を打って校舎内へと殺到していく。  圧倒的なまでの数の暴力。戦力比は単純計算で四百倍以上。  敵わない。かつ逃げられない。  これに立ち向かう勇気の輝きを見せてくれと、胸を高鳴らせている男の匂いを察知して、幽雫宗冬は吐き捨てるように舌打ちしていた。 「くッそがぁ――やるしかねえのか」 「――っ、でも、こんないきなりじゃあ」 四層突破を果たした安堵も束の間、突如として強襲してきた鋼牙の軍勢を前にして、俺たちは半ばパニックとなっていた。 離れ離れ、この校舎内で個々にバラバラとなっている仲間の動揺が如実に伝わる。数で負けているうえにまだ未熟な俺たちがこんな状態では、敵にとって鴨でしかないのは明白だ。 「まず、全員の合流を優先しないと……!」 集まるなら何処だ? 営庭は広すぎて寡兵には絶望的すぎるうえ、おそらくすでに鋼牙が陣を敷いている。 なら校舎を盾に、もっとも堅そうな区画を陣地として立ち回るしかない。即座にそう判断した。 「学長室だ――そこで落ち合う。おまえら誰も死ぬんじゃないぞ!」 大音声で放った指示を、創形した各々の武器と共に遠隔の仲間たちへ一斉通達。ここまで派手に叫んでしまえば、敵にも筒抜けになってしまうが是非もない。 まずは俺たちの意思統一が成されなければ勝負にすらならないのだから。 「分かったッ」 「よし、行くぞォ!」 返事を受け取り、すかさず俺は行動に移る。だが教室から出ようとした瞬間に、無数の氷針がうなじを襲った。 「つッ、おおおおォ!」 咄嗟に身を退いて伏せなければ、今ので蜂の巣となっていたことだろう。ズタズタに引き裂かれた戸の向こうから、鋼牙の人獣どもが侵入してくる。 「六人、いや七人か」 分隊規模の編制による捜索、および各個撃破。苛立たしいほど屋内戦のセオリー通りだ。そこに遊びはなく、容赦もない。 つまり本気ということだろう。 「聯隊まるごとで来られるよりは確かにマシだが……」 これでは騒ぎのどさくさに隙を衝くことも出来やしない。七対一というだけでも充分すぎる脅威だし、もたもたしていたら第二・第三の隊がやってくる。 だから俺は手に創形した旋棍を構え、こちらを射抜く七つの銃口と向かい合った。 恐れるな。びびれば死ぬぞ。加減をするな余裕が通じる相手じゃない。 「どけえェッ!」 爆ぜるマズルフラッシュの閃光に、俺は意を決し飛び込んでいった。 「づッ、らあァ―――」  時を同じくして、戦真館の各場所では等しく戦闘が始まっていた。  淳士のもとに現れた鋼牙兵も、また分隊。ここまでなんとか戦いを成立させられてはいるものの、明らかに押されている。 「くそったれ、ちょろちょろするんじゃねえよてめえら!」  機動力が低いうえに飛び道具を一切持たない淳士にとって、この相手は甚だ相性が悪かった。イヌ科の狩猟獣に共通するヒット&アウェイのチーム戦術を前に、すべての拳は空を切っている。  一撃当てれば吹き飛ばす自信はあるものの、これでは何の意味もない。群狼に囲まれた鈍牛さながら、着々と確実に削られていく。  いかに耐久性の高い淳士でも、すでに十発以上の弾丸を浴びているのだ。回復援護が期待できないこの状況下では、完全に手玉と言っていいだろう。 「何か、ちくしょう――何かねえのか」  この沼に嵌った状況を突き崩す何か。きっかけとなる一発がほしい。  こんなじれったく、うざい喧嘩でやられるなんて、まったく好みじゃないし冗談じゃなかった。  そして、それは他の者たちにしても同じこと。戦況は悉く、戦真館の劣勢へと向かっている。  未だノーダメージの栄光だが、要は逃げ回っているだけだった。彼は今、ここにきて、以前淳士に言われたことを痛いほど感じている。 「やっぱり、オレは……駄目だ出来ねえ」  自分の甘さを軽く見るな。強い奴とは手加減しない奴のこと。それが喧嘩のコツだと教わったが、そういう才能が己にないと自覚せざるを得ない。  無論、栄光とて精一杯やっている。自分が死んでも殺したくないなどという聖人君子ではないのだから、加減はしてない――つもりだった。 「くっそォ!」  しかし、攻めは悉く空を切るのだ。重力キャンセルによって空間を三次元的に駆け回れる栄光にとって、鋼牙兵の攻撃は脅威であっても絶望的ではない。  少なくともこれまで何度か、必殺を確信した瞬間があったというのに結果を出すことが出来ずにいる。  あと一歩、いいやあるいは半歩以下、ここぞというときに踏め込めないでいる証だ。もはやそれは無意識で、反射に近いものだから分かっていても修正できない。大杉栄光のこれまでが、七ヶ月の訓練では覆せないほど重いのだという至極真っ当な必然だった。  時と場所さえ違っていれば、誇るべきことだろう。彼は争いを嫌っていて、平和な世界に生きた常識を愛しているから根本のところで捨てられない。  人としては正しいこと。絶対的に間違ってはいない資質。  だがこのとき栄光は、それを泣き喚きたいほど恥じていた。 「ダセぇ、ちくしょう、許せねえ……!  どうしてオレは、いつもこんな……!」  要するに臆病なだけだろう。一歩踏み込んで反撃される危険にびびってるから届かないんだ。  幽雫宗冬との訓練は、なんのかんの言っても信頼している相手だからそれっぽくやれただけ。鋼牙のような百パーセントの敵を前に、萎縮している部分があるのは否めない。  だから、それが許せなかった。怖いのは他の仲間たちも同じなはずで、殺し合いに慣れてないのも同様だ。にも関わらずこんな醜態を晒しているのは、絶対に自分だけだろうと分かってしまう。  こんな様じゃあ、あいつらの仲間だなんて胸を張れない。それは嫌だ。耐えられないから―― 「男だろ、気合い入れろォォ!」  自分自身を奮い立たせるための蛮声は、だが皮肉にも刹那の硬直を生んでしまった。これもまた、不慣れなゆえの過失だろう。  そして、狩りのエキスパートである鋼牙はそこを逃さない。  連続する銃撃が回避不可能な弾幕となって栄光を襲う。間一髪の対応で透過キャンセルを展開し、銃弾の何割かはすり抜けたが無傷ではすまなかった。撃ち落とされて机をなぎ倒しながら床に転がる。 「ぐッ……」  そこへ畳み掛けるように迫り来る鋼牙兵。絶体絶命となったが、しかし―― 「そうか、これなら――」  この瞬間に栄光は、起死回生となる戦法を閃いていた。  上手くいくかどうかは分からない。だけどこれしか手はないのだと、死線の上で決意し、行動に移っていた。 「鈴子、右ッ!」 「分かってるわよ、指図しないで!」  一方、こちらの二人も別の事情で窮地にある。偶然にも初期の居場所が近距離同士であったため、合流を果たせた晶と鈴子だったのだが、連携が思うように上手くいかない。  二人は犬猿の仲同士。だから食い違っているというわけでもなかった。確かによく衝突はするものの、それは気が置けない間柄である証。別に嫌い合っているわけではないし、むしろ仲がいいからこそじゃれ合いが尽きぬ関係だと言っていい。  だが、ここではそういう“対等さ”が二人の枷となっている。  晶にしろ鈴子にしろ、自分がなんとかしようという意思が強すぎた。相方を気遣うあまり、矢面に立つことを競い合っている。これでは互いに、十全の力を発揮できない。 「くッ、あ――」 「おい馬鹿、だから突っ込むなって言ってんだろうが!」 「うるさいわね、衛生がしゃしゃり出てんじゃないわよゴリラ!」 「はああッ? やかましいんだよヒョロいくせに!」 「あたしが――」 「私が――」  どちらもそう言って譲らない。〈四四八〉《しきかん》不在の弊害がもろに出ていた。  指示を出す者と受ける者、上下が徹底していなければ何事も空回る。まして命の懸った場面、いかなる洒落も許されない戦場ならばなおのことだ。  反面、彼ら鋼牙の部隊は、そこを寒々しいほど具現している。女王であるキーラを絶対の上に置き、その手足となる一人一人には個というものが存在しない。まったく同じ感性、力量、思考さえも統一しているかのようだ。  功名心に逸る者も、仲間を気遣う者もいなかった。命令を実行するという面において、どれだけ群れようとも一個体。そこに揺らぎは微塵もなく、半端な連携で突き崩すのは困難どころか不可能に近い。  十四本腕、七丁の突撃銃を持つ一つの生物。ここにおいて、晶と鈴子が対峙しているのはそういう存在なのだから。 「あッぶねえ――!」  武装の羽衣で自分たちの周囲を多い、銃弾の雨を叩き落す。晶も状況のやばさは分かっていたが、立て直すための手が分からない。このままジリ貧を続けていても、待っているのは敗北と死だ。 「どうすれば……」  もたもたしている時間はないのに。焦燥だけがいや増していく。 「ああもう、晶ッ!」  だから、鈴子はここでの思考を放棄した。こちらの守りを突き破ろうと連続する銃撃に負けないくらい大声で叫ぶ。 「じゃんけんするわよ!」 「はあっ?」 「負けた奴が勝ったほうの言うこと聞くの!」 「なッ――」  滅茶苦茶だが、確かにそれしかないかもしれない。なんでもいいからこの状況を動かすためには―― 「いくわよ、じゃんけん――」 「わ、たっ、ちょっと待てっ」  釣られて羽衣の守りが緩んだ瞬間、そこに七つの銃剣が切り込んできた。  そして同時に、じゃんけんの結果も出る。  勝敗は…… 戦闘開始から、ここまでおそらく時間にして十数秒。一瞬と言えば一瞬だが、俺にとってはその百倍に等しい意味と重さを持っていた。 銃弾を掻い潜り、銃剣を躱しながら放った旋棍が敵の頭部をヘルメットごと陥没させる。圧で爆発したらしい眼球がゴーグルの内側にへばりつくコントラストを、俺は細波一つ立てない心で見届けていた。 これで都合、斃した兵は四人となる。つまり四回の殺人をこなした十数秒ということだ。 その事実に対するあれこれも、捨ててはいけない青さだろうから忘れないし受け止めるが、今は心の揺れを楽しんでいいときじゃない。 ゆえに現状、この十数秒を俺が特別に感じているのは完全に別のこと。 「はああああァァッ!」 磨き、研ぎあげられる己の技術。嘘偽りない敵と切り結ぶ命の取り合い、そこに生じる火花の炸裂を感じていたんだ。 鋼牙の兵隊は確かに脅威で、甘くない。だが今の俺なら分隊程度は難なく蹴散らせるのだと理解した。 幽雫さんとの、訓練とは言えない域の経験を経て、俺の破段は確実に完成しつつあると分かる。その結果として今があるんだ。 「戦の真、まずその一。兵は統制が取れているほど強い」 「百の力量を持つ英雄がいる隊よりも、五十の力量で均一化されている側のほうが部隊戦闘では勝利する」 座学で教わった軍事常識を呟きながら、無駄なく次の行動へ移るための構えを取る。 先の理屈に照らす限り、鋼牙は紛れもなく後者のタイプだ。曲がりなりにも戦真館でそうした価値観を知った以上、それは見事と讃えたくなる領域だが、穴がないというわけでもない。 「しかしそれは、個々の鍛錬を疎かにしていいという意味に非ず」 「なぜならば――」 後退する鋼牙兵へ、俺はその倍以上の追い足で踏み込んだ。 「戦の真、そのニ――」 「条件が同じなら、優れている者が必ず勝つ!」 これで五人目。胴に叩き込んだ一撃は内臓ごと背骨を撃砕し、重装の兵隊をボロ屑のように吹き飛ばした。 そう、至極当たり前な、算数レベルの常識。 戦闘の肝が統制にあるのなら、五十で均一化されている部隊より七十で均一化されているほうが強い。 こいつら鋼牙兵は、個々の力量で見るならしょせん五十だ。さらに言うなら得手不得手の個性もないから、戦術に幅もない。 だが俺は、必要に応じて別人になれる。速い俺、強い俺、堅い俺もいれば柳のような俺もいる。 遠近両方、得意とする間合いも自由自在。七人相手に七種類以上の自分を使い分けることなど造作もない。 そして個性は別々ながら、その力量は等しく七十。どの俺も俺なのだからそれは当然の事実だし、意思疎通においては語るまでもないだろう。 「つまり、ここで俺の負けは有り得ない」 残るは二人。教室の柱を創形して操り杭に変え、その片方を串刺しにした。 そして最後、もう一人には―― 「戦の真、その三」 「戦う以上、殺し殺されることを覚悟しろ」 迫る銃弾ごと呑み込み焼き尽くす咒法の射で、一気に片をつけていた。 「…………」 全員、断末魔すらあげなかった鋼牙兵の死を刹那だけ顧みて、しかし振り切るように踵を返すと、俺は再度仲間に告げる。 「誰も死ぬなよ。早く修学旅行の続きをしよう」 俺たちは、今夜も朝に帰るんだ。 「当たり前だよ、四四八くん!」  その激励に応えるかたちで、歩美の放った銃弾が校舎内を駆け巡る。狙撃兵の任務は第一に捜索、潜入――敵を必殺できる位置まで気づかれずに入り込むことなのだから、彼女はそれを極めて忠実に守っていた。 「――龍辺?」  もっとも近くにいた淳士の位置を察知して、同時に彼の劣勢を理解した歩美のサポートは完璧だった。幾何学的に折れ曲がりながら飛来した銃弾が、絶妙のタイミングで鋼牙兵の頭を容赦なく吹き飛ばしている。 「やったあっ!」  しかも、二人を一纏めにして。  流石に三人目まで成功するほど虫が良くはなかったが、それで十二分に事足りた。淳士が求めてやまなかったきっかけとなる一発が、ここに具現したのだから。 「おら、何処見てやがる!」  ゆえに瞬く間、さらに二人を淳士が屠る。奇襲に動揺するような精神を彼ら鋼牙兵は持っていないが、スナイパーに狙われながら戦うとなれば戦法を大きく変える必要があり、そこに隙が生じてしまうのは避けられない。  そして、一度掴んだペースを手放すほど淳士と歩美は甘くなかった。お互い事情は違うものの、共に戦い慣れている二人である。 「たく、借りが出来たな」 「明日の自由行動で、何かおごってね鳴滝くん」  軽口を叩く余裕も復活。こうなれば後は消化試合だ。 「私の勝ちよ、従いなさい晶!」 「くッ――、ちくしょう分かったよ!」  じゃんけんの結果を認識するより一瞬早く、鋼牙兵の銃剣が鈴子と晶を抉るタイミングで切り込んでいたことに彼女ら二人は気づいていない。そして、それが不可視の何かに弾かれていたことも。  だが、ここではそのことが幸運に働いた。異常事態に気づいていないままだからこそ、続く行動は速やかに果たされる。 「はあああァッ!」  晶の羽衣を鎧代わりにして急所を守り、鋼牙の分隊へ飛び込む鈴子。防御が甘い彼女にとって、このサポートは必須だからこそ絶対の効果を発揮した。  一人、二人、そして三人。速度に乗った薙刀の斬撃で瞬く間に切り伏せる。回避に意識を割く必要がなくなった鈴子の速さは、完全に鋼牙兵を圧倒していた。物の数ではない。  そう、不自然なほど簡単すぎて…… 「……?」  不本意ながらも後方にさがった身だからこそ、晶はそれに気づいていた。気のせいかもしれないが、敵の動きが緩慢なのだ。まるで網にかかった虫のように…… 「終わり――! どうよ晶、私にかかればこんなもんよ」  だが当の鈴子は、まったくそこに意識が向いていないようだ。最後の鋼牙兵を切り倒し、どんなもんだと満面の笑みで振り返る。  その無邪気なまでの振る舞いに呆れ半分、晶もまあいいかと疑問を脇に追いやった。勝ちは勝ちだし、自分でも確証のない突っ込みを入れて、鈴子にケチをつけるつもりもない。 「へいへい。いやご立派ご立派」  だからそう溜息をついて、鈴子の傍に歩み寄るも、そこに広がる惨状を目にした晶は流石に眉を曇らせた。 「なに? どうしたよのあんた」 「ん、いや……分かっちゃいたけど、やっぱきついなって」  二人の足元には、七人からの死体が転がっている。女の武器というイメージが強い薙刀だが、その威力は強烈だ。胴ごと両断されている者も一人や二人ではない。 「これも戦の真ってやつなんだよな。殺らなきゃ殺られる。仕方ないって話だわ……うん」  言いながらも、晶は死体から目を逸らしていた。夢とは思えない血の生々しさと、立ち上る臭気に胃が痙攣しかけている。 「まあいいさ。早く四四八と合流しよう。行こうぜ鈴子」 「え、あっ……そうね」  促され、鈴子はぎくしゃくと頷いた。晶の顔と鋼牙の死体を交互に見やって、微かに頬を引きつらせている。  それに晶は言及せず、そりゃそうだよなと内心思った。直接手を下したのは鈴子だし、ショックは自分の比じゃないだろう。  そう考えると、さっきの呟きは失敗だった。そんなつもりはなかったのだが、咎めるような含みを持たせてしまったかもしれない。 「よしっ、そんじゃ続けてばんばん行こうぜ!」 「たっ――、ちょっと叩かないでよねゴリラっ」  だから快活に笑い飛ばして、血の海となった教室を後にした。こんなことを経験したら、もう今まで通りには戻れないかもしれない。  そんな恐怖を、いいや違う大丈夫だと強く信じることで抑えながら。  迫る銃弾、そのすべてを解析する。速度、ベクトル、そして威力を解いて白日に晒せ。  何事も分からないから怖いのだ。脅威の正体が何であるかを極限まで解明すれば、当たれば必死の銃弾だろうと恐れるに値しない。  そう、少なくとも自分だけは信じ込め―― 「づッ、らあああァッ」  結果、弾幕に自ら飛び込んだ栄光は、その悉くを透過することに成功した。他の追随を許さないほどキャンセルに特化した彼にとっても、ここまで完璧に攻撃の無効化を成功させたのは初めての経験。  無論、相当な綱渡りだったことは自覚している。自他共に認める臆病な栄光だから、僅かでも恐怖が勝っていれば死のイメージに負けていたことだろう。  だが、ここでは恥の気持ちのほうが強かった。怖くないなんて口が裂けても言えないが、仲間の足手まといになることはそれ以上に耐えられない。  ゆえに彼の戦法とはこういうことだ。完璧な透過キャンセルを展開すれば、一直線で間合いに入れる。  そこでトドメの一発を。 「食らえェェッ!」  透と崩のキャンセル二種を同時展開。  守りは透に、攻めは崩に。  もともと同系統の力であるこの二つを、一度に使うことについて制約はない。ここまで高出力のまま使用するのは初めてだが、自分の資質ならやれないはずはないだろう。  栄光自身、そう信じて疑わなかった。彼の仲間とてそう思うに違いない。  だというのに―― 「え……?」  鋼牙兵に喰らわせた蹴撃から、破壊のキャンセルは流れなかった。いったいどういう理屈なのか、特に難しいはずもない技を失敗している。  なぜ?  だが、そんな彼の驚愕を他所に、獲物が懐に飛び込んできた好機を鋼の群狼たちは逃さない。予想外の失敗に透過のキャンセルまで揺らぎ始めた栄光に、必殺必死の牙が迫る。 「うわっ――」  駄目だ、やられた。そう直感し目を閉じるまでの一刹那、視界に闇色の旋風が飛び込んできた。  風は踊るように教室内を駆け巡り、それに巻かれた鋼牙兵は片端から血煙と化していく。圧倒的なまでの瞬殺で、悪夢のような殺戮劇。  そして何より凄まじいのは、そこまで派手な暴威を撒き散らしておきながら、加害者の姿が一切目に見えないことだ。呆気に取られていたとはいえ、栄光の解析眼をして捉えられないというのは尋常なレベルの穏形じゃない。  だからこそ、と言うべきだろうか。いま自らを救った風の正体が何なのか、栄光は理解した。 「で、泥眼……?」  神祇省・鬼面衆。暗殺を極めた鬼の業に他ならない。 「…………」  その呼びかけに応えるかのごとく、鋼牙の分隊を全滅させた泥眼が影のように浮かび上がった。  血の海に沈んだ教室で、死神めいた静けさをまとい、そこだけ白く映える面の奥から、何かを吟味するように栄光を見据えている。 「……情ケナイ」  そして、そうひっそりと。 「アナタ、モウヤメナサイ。向イテナイカラ」 「―――――ッ」  呟くと、再び旋風と化し、掻き消えていた。 「なッ、ちょっ――おい待てよ!」  すべてが一瞬のことすぎて理解がまったく追いつかないまま、栄光は立ち上がって吼えていた。  なぜ自分の攻めは失敗したのか。なぜ自分を泥眼が助けたのか。なぜ殺さないまま消えたのか。  謎は諸々、多数あったが、そんなあれこれよりも今、気になるのは―― 「おまえ――」  残された死神の声。  初めて聞いたはずのそれを、覚えがあると思ったのは気のせいなのか。 「おい、ふざけんな! オレはやめねえ、やめねえからな!」  無性に湧き上がってくる苛立ちのまま、地団駄踏んで栄光は怒鳴った。  向いてない? ああ分かってる。だけどだからってケツ捲くれるか。 「オレは雑魚くても、卑怯もんじゃねえ! 分かったか、クソ! 自分だけ助かりゃいいなんて、思っちゃいねえんだよバッキャロウ!」  悔しくて泣きそうになる。だけどそれを振り切って、栄光はこの戦いを続けるべく教室を後にした。 そうして駆けつけた学長室前、そこにはすでに何人かがそろっていた。 「歩美、鳴滝――無事だったか」 「おう。まあ、俺はこいつのお陰でな」 「ふふーん、そうだよ。わたしのスーパーサポート、四四八くんにも見せたかったな」 などと歩美は、小鼻を広げて反り返っている。どうやらこいつ、精神的にもまったく堪えていないようだ。本当に平気というわけでもないんだろうが、そういういつも通りのマイペースさがこの状況では頼もしい。 「そうか。それは残念だったが……」 「四四八、あゆ――」 「淳士も、どうやら平気みたいね」 一拍遅れてきた晶と我堂に、俺たちはそろって頷く。これであとは二人だが。 「あ、栄光くんだ。何してんのよ、早くこっちー!」 見れば、階段のところから栄光がやって来ていた。心なしか足取りの重い感じがしたので、俺は眉をひそめて問いかける。 「どうした栄光、怪我でもしたのか?」 「……いや別に、そういうこっちゃねえ。気にしないでくれよ」 「つってもおまえ、大丈夫かよ」 「顔真っ青じゃない。どこか悪いならやせ我慢してないで言いなさいよ」 「栄光、ちょっとこっち来い。診てやるから」 「だァー、からもーっ! なんでもねえって言ってんだろ! しつこいんだよおまえら!」 何が気に障ったのか、栄光は不貞腐れたようにそっぽを向く。一瞬微妙な空気が流れたが、俺は気を切り替えて頷いた。 「分かった。おまえがそう言うんならいい。本当に平気なんだな?」 「ああ。なんだったら脱ごうか? 見てろよおまえら」 「やめろ馬鹿、分かったからそのショボい腹筋引っ込めろ」 今ここにいる全員、この状況がある以上、人を殺してきたというのが互いに分かる。だからそこをほじくり返すような真似は避けるべきだ。虚勢でも、張れるなら張ったほうがいい。 栄光も話したいことがあるなら話すだろうし、そのときちゃんと、皆で聞いてやればいいだけだ。 「で、あとは水希だけだけど、まだなの?」 「みたいだな。あいつなら大丈夫だろうとは思うが」 「このまま待ってる間ぼーっとしててもしょうがないだろ。ここで迎え撃つなら陣地線って言うんだったか? 作んねえと」 「そりゃそうなんだがな……」 言って鳴滝は、忌々しそうに顎をしゃくった。 「ふざけたことに、入れねえ」 「なに?」 俺のみならず、皆が目を見開いた。いや、鳴滝と一緒に一番乗りを決めていた歩美も、そこは知っていたらしい。 「どういうことか分かんないけど、開かないんだよね。ドア」 「――どけ」 学長室のドアに飛びつき、ノブに手をかけると思い切り回して引く。だが確かに、ガチャガチャ音が鳴るだけでびくともしない。 「嘘だろ……」 「ぶっ壊せないのか?」 「淳士、試したんでしょ?」 「当たり前だろ。何発も全力でぶん殴ったわ」 「あんまり派手にやっちゃったら防御拠点的にもどうなのって話になっちゃうけど、このままじゃ危ないもんね。だから色々やったんだけども」 「開かない?」 無言の肯定に、重い沈黙が場に流れた。 「ちょっ、なんだよそれ冗談じゃねえぞ! 開けろ、おい開けやがれ!」 「大杉、あんたキャンセルぶつけてみてよ」 「分かった。どいてろ」 その後も、代わる代わる思いつく限りのことをやってみたが、ドアは一向に開かない。全員に段々と焦りの色が見えてきた。 「くそッ――」 どうする? これから別の拠点を見繕うのは大変だぞ。相変わらず現れない世良のことも気にかかる。 「ちくしょう、甘かった。こんなことなら先に手を打っとくべきだったぜ、あのクソ女ッ」 「は? なんだよ鳴滝、おまえそれどういう意味で――」 「それは……」 しかし、それ以上議論する暇は俺たちに与えられなかった。 「うわ、来たよっ」 「やべえッ!」 廊下の向こう側から、再び鋼牙兵が隊列を組み迫ってくる。その数は、ざっと見ても中隊規模。さっきまでの分隊とは言うまでもなく桁が違う。 いくら狭い廊下で一度に掛かられることがないと言っても、ろくな防御体制も出来てないまま袋のネズミはやばすぎる。 「さがれおまえらァ!」 だから俺は咄嗟に壁を創形し、放たれた銃弾の雨を弾き返した。とはいえ、こんなものがいつまでも続くわけがないのは分かっている。 くそったれ、決断のときだ。指揮官なら責任を取らねばならない。 「今から下に穴を創るから、そこに飛び込め。上手くいけば逃げられるかもしれない」 百合香さんの創界である戦真館に俺の創形で干渉するには限度がある。ゆえにこっちの都合で変えられる地形など知れたものだが、こうなったからには限界振り絞ってでもやるしかない。 「でも、それじゃあ水希は――」 「ここで俺が待つ。おまえらだけ先に行け」 「そんな、けど……」 「おい、ふざけんなよ柊てめえ!」 「黙れ! 命令だよ逆らうな!」 鳴滝の怒号に叫び返しながら、同時に俺は思っていた。 命令という一言で無茶を通すのは無能の証。ゆえにそんな将校には死んでもなるな。 戦の真、その四だったか五だったか。 別に俺とて死ぬ気はないが、誰かがリスクを背負わなければこの局面はどうにもならない。 「だから――」 行けと、続きを口にすることは出来なかった。 「神よ、ツァーリを護り給え。  栄光のうちに君臨し、恐怖で敵に君臨せよ!」 瞬間、俺たちの足元から、廊下が一気に爆発した。 「なッ――」 火山の噴火と見紛う威力に、成す術もなく全員が吹き飛ばされる。天地上下の方向すら見失って錐揉みながら、気づけば俺は受身も取れず何処かに叩きつけられていた。 「ぐッ、は……」 揺らぐ視界を何とか固定し、見回すと、そこは開けた戦真館の営庭で…… 「よく来た。待つのは退屈だったのでね。少々強引だが呼んでみたのだよ、歓迎しよう」 すでに一分の隙もなく、この場に陣を敷いた機甲獣化聯隊の全軍と、群狼たちの中心で玉座の高みからこちらを見下ろしている鋼牙の女王。 キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。 「く、そ……」 一拍遅れて、俺の後にどさどさと、晶や栄光たちも降ってくるのを背で感じる。全員、爆発の規模に反してさほどの負傷ではないようだったが、それで安堵できる状況じゃなかった。 たったこれだけの人数で、聯隊に完全包囲された今、どうしろという。わざわざ嬲り殺すために出力を抑えてこの場に呼んだのは分かったが、そもそもこの女はなぜ俺たちを襲ったんだ。 脈絡がない。唐突すぎる。事実初めて会ったとき、こいつは俺たちに特別興味も示さず引いたというのに。 なぜ今、いったいどうしたことで…… 「戦場で考えてはならんことが一つある。それはなぜと問うことだ」 「理由? 教えると思うかね? 知って何かが変わるとでも? いいやそもそも、そんなものがあると思うか?」 「くだらん。くだらん。すべては死ぬか生きるかだ。人間は臭い。無意味に事象を複雑化させ、〈衒学〉《げんがく》を気取るくせに芯は呆れ返るほど稚拙とくる」 「獣のほうが数等増しで信を置けるよ。だからこそ――」 そのとき俺は、自分の骨が軋み上げる音を聴いた。 「私の子らを屠った貴様らが許せない」 「皆殺しだ。欠片も残さず引き裂いてくれるわ!」 それまで浮かべていた余裕の冷笑は掻き消えて、憤怒に染まった魔獣の瞳が俺を射抜いた。女王の怒気に呼応して、鋼牙の全軍もその怒りを爆発させる。 同胞を殺した人間が許せない。下種で汚い人間のくせに、人間のくせに、人間のくせに、人間のくせに―― 先に仕掛けてきたのはどちらのほうで、戦争ならば死は必然だという理屈などは完全無視だ。なぜならこいつら、少なくとも本人たちは自分が人間だと思っちゃいない。 そこに、致命的なズレを感じた。 「我が子らと貴様らの命が等価だなどと思うなよ。苦しみ苦しみ、苦しみ抜いて死ぬがいい!」 自分のものは大事だが、他人のものは取るに足らない。彼我の間に横たわる感情的な格差からくるダブルスタンダード。 それ自体は、まったく珍しいものじゃない。むしろ極めて自然な考え方だ。俺にだってそういうところは必ずある。 だが―― 「ふざけるな」 俺は、何の恥もなくせいせいとそれを言い切るこいつが許せなかった。 「何様だ、おまえら」 狼なんて高尚なものじゃない。自分たちは人間以上であるかのように抜かしているが、俺から言わせれば最悪の貴族的発想そのもので、人間の中でも一等腐った屑理論だ。 「俺が一番納得している戦の真を教えてやるよ」 「我も人。彼も人」 それを弁えたうえで戦い、殺せ。敵を血の通わない下等な何かと見下げることで、殺しがもたらす意味を投げるな。そんなものは卑怯者がやることである。 士道不覚悟。〈男子〉《サムライ》に非ず。その責任を放棄したときにこそ、己が畜生以下の何かに堕ちると―― 「そう教わったぞ。正直、身につまされたからしっかり胸に刻んでいる」 古臭く、前時代的で、効率的に戦い続けていくためには明らかに足枷となるだろう思想信条。事実俺たちの生きる未来には、ゲーム感覚で戦争をやれるように訓練するシステムだってあるらしい。 だけど、それじゃあ駄目だと俺は思うんだよ。 「柊聖十郎が許せない。神野明影が許せない。そしておまえが許せない」 だから戦うことを選んだし、結果殺し殺されるだろう。だが忘れるな、奴らも人であることを。 なぜと問うな? 理由はない? ああ、そりゃないだろうな。怒りながらも相手を見ていないような輩には。 俺たちは確かに鋼牙の兵隊を殺したが、その事実を忘れちゃいない。虫でも叩き潰したような気軽い気持ちで、三歩歩けば忘れてしまう〈便利さ〉《コンビニ》なんて大嫌いだ。 「来いよ、おまえみたいな奴には負けられない」 「そうよ――」 立ち上がって宣言した俺に応える形で、世良が頭上から降ってきた。そのまま鮮やかに着地を決めて、凛と決める。 「主張が小物なのよキーラ・グルジェワ。全然負ける気なんかしない!」 「……まあ、確かにそうだよな」 「激しく同感」 「みっちゃん、遅刻しといていいとこ取りってどういうことなの」 「あと柊、あんたもよ」 「もう命令だなんだ言っても聞かねえからな」 「……この、馬鹿どもが」 誰か一人でも生き残る可能性を優先すべきという先の選択を間違ってるとは今も思わないが、反発を強権でしか抑えられなかったのは仁の不足なんだろう。 そして、今は〈命令〉《それ》も通じないときた。ならば別の形で前に進もう。そこに仁義八行があるなら道は拓ける。 俺たちの気持ちが最悪に繋がることなど有り得ないと証明するには、むしろ絶好の機会だと思え。 「小虫が。気味の悪い奴らだ」 そんな俺たちを見下ろす瞳に魔性が燃える。鋼牙全軍、三千もの部隊を従えた敵を前に―― 「死ね」 「行くぞおまえら、腹を括れェッ!」 今、戦の火蓋が切り落とされた。 これは絶望的なものじゃない。そう信じるんだよ、疑うな。 「ほう、ほう。なんともこりゃしっちゃかめっちゃかなザマじゃのう」  営庭での戦闘開始を見下ろしつつ、壇狩摩は嘆息するようにぼやいていた。 「鋼牙が小物か。そりゃ確かにその通りじゃが、小物を舐めちゃあいかんぞ坊主。昔から大物ゆうんが幅きかすんは、常に話の中だけじゃ。現実のそういう奴らは、いつも真っ先に墓の下よ。  小物じゃけえこそ、むしろ怖い。憎まれっ子世にはばかるっちゅうてのォ、心根のくだらんもんがアホほど力を持っちょるほうが、やばさは洒落にならんと思わんか?」  神野明影、柊聖十郎などがその典型だ。加えて言うなら狩摩も百合香も、決して大人物とは言い難い。  心は汚く、利己的で、正道を嗤い、捻じ曲がっている。  善悪問わず、ある種の美質に嵌っている者は魅力的だろうが不自由だ。そしてそれは、すなわち負けに繋がるものだと狩摩は経験から決め付けていた。  ルール無視。誇りは持たない。恥知らず。他者から嘲罵され、石を投げられるような言動に何の抵抗も持たないこと。かつ、その非道にも拘らないこと。  気まぐれに善行めいたことをしてもみる。そんな己に酔ってみる。鈴子や栄光たちに鬼面衆の救援を差し向けたことのように、一貫していないからこそ隙もないのだ。  一言でいえば卑しい。その点はキーラも、あれはあれで相当なものだというのを狩摩はよく知っていた。 「癇性で、単純な、我の足元もよう見ん馬鹿女。小僧ごときに言い返されて、切れる程度の器しかない。  けどのォ、それでも鋼牙は強いで。おまえらじゃあ勝てん。  前に忠告したろうが。そんとに正義ぶっちょると破滅するゥゆうて」  英雄的な気質は自慰だ。脆く危うく、そして儚い。そんな世知辛い現実だから、誰もが勇者を夢想するのだ。 「甘粕、おまえのようにのォ」  呟き、狩摩は目を細めた。 「鋼牙に何をやったんじゃ? この騒ぎをどうケリつける? いくらなんでも展開が滅茶苦茶じゃろうが。おまえは何を狙っちょるんじゃ?」  言いながらも、しかしすぐ諦めたように鼻で笑い…… 「まあ、ええわい。あれこれ考えるんは性に合わんし、見届けよう。  じゃけど、のォ……」  振り返らず、背後に浮かぶ鬼面の影たちへ、盲打ちは何事かを命じていた。 「さて、何やら困ったことになりましたわね」  一方、学長室に在る百合香は、まったくどうでもいいような調子で変わらず紅茶を啜っていた。  花恵が瞬殺されたことも、四四八たちを匿わずに閉め出したことも、一切気にしていないようだ。いくらか平静を取り戻したらしき宗冬を相手に、世間話にしか思えぬノリで会話している。 「すべては五層突破の条件なのです。もとから不明瞭であったそこに、先の四層突破がおかしな形になりましたからより一層見えなくなった」 「甘粕大尉殿はそれを掴んでいらっしゃる? そのためにこの流れを演出した? どうでしょうね宗冬。おまえの意見を聞かせなさい」 「私からは、如何とも。 ただ……」 「ただ?」 「彼もまた盧生――ならば、人生において外せない出来事など、いくらもなかろうと愚考します」 「なるほど」  頷き、そして僅かな沈黙を挟んだ後、令嬢は花が綻ぶように微笑した。 「お手柄です、宗冬。五層において何が重要な意味を持つのか、どうやら見えてきましたよ」  その絶え間ない破壊と暴虐と殺戮の中、僅かに生じた一つの変化を二人の鬼畜は見逃さなかった。 「ぃ――、ギ、あああァッ」  空亡に殺され続けている恵理子の様子が、これまでとは微妙に異なる。飽きがくるほど眺めていた情景だけに、彼らならずとも違和感を察知することは出来るだろう。 「いいねえ。これぞ神秘ってやつだ。まったく女性には敵わんよ」 「芸のない台詞だな。しかも女が自ら抜かす類の戯言だ」  が、その原因まで読み取ったのは間違いなくこの二人ならではのものだった。 「僕は女流作家が好きなんだけどねえ。それしか能がないんだから、過大に賛美しようとするとこなんて可愛いじゃないか」 「貴様の嗜好などに興味はない。しかし、何にせよ」  今こそ、ここに何かが起こる。  その事実を確信し、悪魔の笑みは深くなった。 「づゥゥ、らああァァッ!」 終わらない。切りがない。無限に錯覚するほど連続する銃火砲声、剣林弾雨のただ中で、しかしまだ俺たちは立っていた。 立って戦い、戦い続ける。 「陣を崩すなァ! 絶対引くなよ、呑み込まれるぞォ!」 「分かってるッ!」 戦力比は冗談にもならず、この状況で生き残れると思うほうがどうかしている。だが、だからって、やぶれかぶれになるなんてのは論外だ。 こんなときだからこそ、採れる最善を常に意識し、選ばねばならない。ゆえに戦術は単純明快。何があろうと晶を死守する。 現状、曲がりなりにも俺たちが立っていられる理由はそれだ。晶の回復効果が途絶えたら、おそらく一分も保ちやしない。 組んだ円陣の中心は晶。そこから全員の防御も兼ねた羽衣をドーム状に展開させ、あとは俺たちがこの結界を断固維持すべく奮戦する。 壁に適しているのは俺と鳴滝しかいなかったが、二人だけでどうにかできる敵の人数規模じゃない。歩美は例外にして世良や我堂、栄光にも、前線に立って貰わねばならなかったがそれはそれだ。俺のスパルタは知ってるだろう。 やれると信じているんだからやってみせろよ。志願しといて泣き入れるなんて根性無しはいないと知ってる。 「おら来いやァ! 全然効かねえぞ犬っころが!」 この場の誰よりも被弾して血に染まりながら、なお不屈に吼える鳴滝も。 「烏合の衆が何千集まっても怖くないのよ!」 無謬の統制を誇る人獣たちに、あえて烏合と喝破することで自らを奮い立たせている我堂も。 「負けない……! 絶対みんなで帰るんだから!」 世良の台詞は、紛れもなく全員の気持ちを代弁していて―― 「諦めっかよォ、まだ終わんねえぞォ!」 誰一人、気持ちで折れてる奴はいない。きついのは俺たち前衛の五人だけじゃないと知ってるからだ。 「ぐッ、ああああああ! そんなもんかよ、超余裕だっての!」 際限ない楯法の連続使用で、外傷こそないものの晶の疲労は凄まじい域にあるはずだ。にも関わらず覇気を絞って踏ん張っている。 「危ないりんちゃん、わたしに任せてっ!」 そこは歩美も同様だ。要所におけるこいつの援護がなかったら、とっくに崩されていただろう。それを成すため常に全体へ目を配り、すり減らしている神経のほどは計り知れない。 七人、残らず極限状態。一瞬の緩みが即全滅に直結すると理解しながら、未だ崖っぷちの均衡は保たれていた。この戦闘が始まってどれくらいの時が経ったのか、すでに誰も分かっちゃいない。 数秒か? 数分か? まさか数時間なんてことはないだろうが、気持ち的には一昼夜以上を超えている。 だけどそんなことは関係ないんだ。何人斃したかもまるで分からないこの状況、押し寄せる鋼牙兵が依然尽きないという事実だけが意味を持つ。 そして少なくとも俺だけは、他の奴らよりいくらか先を見て動こう。それが出来なくて何の指揮官、何の特科生総代だ。 「――うらああァッ!」 迫る鋼牙の銃弾ごと、扇状に拡散させた咒法の一撃で刹那だけ連中を押し返し、素早く戦況を確認する。 (……まだ不可能か?) 何もこのまま、敵を全滅させるまで戦い抜けると思っているほど、狂気じみたデタミネーションは持っていない。そんなものは勇気を通り越した無謀そのもの、無責任以外の何ものでもないのだから。 しかし、敵側にはそう思わせる必要が存在した。俺たちがこの修羅場に没頭し、いずれ成す術もなくすり潰されていく蟻なのだと、勘違いしてもらわねば決まらない一策。 こちらが有する起死回生の一札を、条件が整うまでは絶対悟らせてはいけないんだ。 (栄光……これはおまえが頼りなんだぞ) 視線も向けず、ただ心の中でそう呟く。こいつの驚異的なキャンセル性能を駆使すれば、この場からの転進が成功するかもしれない。 無論、馬鹿正直にやったところで駄目だろう。俺も当然手伝うが、戦闘中の状況下で易々逃げられるわけがない。 そこにはきっかけが必要だ。鋼の結束を誇る人獣どもが、まさしく烏合となる一瞬を作ること。 つまりはキーラ、奴を斃すか、極めて近い一撃を食らわす必要が存在した。ゆえに歩美の力も借りねばならない。 まずはキングを狙える道を生み出し、そのうえで攻撃。しかる後に撤退という三段階の作戦だ。何の打ち合わせもしていないし、現状最初の条件すら果たせていないが、何としてでも成してみせる。 そのために核となる栄光を前線に出し、こいつを失う危険を冒してまで蛮勇を演出してきた。嵌ってもらわないと甲斐がなさすぎる話だろう。 「どうしたこの露助ども、びびってないでかかって来いッ!」 「効きやしないんだよ、おまえたちの牙なんかはなァッ!」 怒声一喝。大音声の挑発が効いたのか、さらに攻勢は激しく、重く、激流となり密度を上げる。この津波にも似た嵐の隙間、キーラに届く刹那の一点を絶対に逃してはならない。 歩美なら、すでに察しているはずだと確信していた。こいつは聡いし、修羅場における豪胆さは俺以上のところがあるからきっと問題ないだろう。 だが、栄光はどうも本気で切れてるらしく、さっきから危なっかしすぎるから不安が残った。僅かなタイミングのズレも許されない作戦である以上、そこも何とかする必要がある。 もちろん、俺が何らかの指示を出したとキーラに気取られるリスクは避けねばならないことだから…… 「――鳴滝、おまえに頼みがある」 「あァ?」 間断ない攻防の中で決を下し、極限まで声を絞りつつ適役を選んだ。 「栄光の頭を冷やしてくれ」 「―――――」 こいつ自身、俺の低い声に驚いたのか。咄嗟に呆けるような間が空いたが、それも瞬き程度ですぐ調子を合わせてくる。 「……どういうことだ?」 「詳しく説明してる暇はない。とにかく伝えろ、〈栄光〉《あいつ》におまえが頼りだと」 「何で俺が?」 「おまえが一番、どうも酔ってないからだ」 「…………」 母さんが死んでからこの邯鄲に入って以降、俺たちは何か微妙におかしかった。その正体は未だ漠として掴めないが、違和感を自覚できるようになった今なら分かる。 この鳴滝だけは、そこから外れていたことを。 「だから頼む。おまえしかいない」 「……分かった」 短く頷き。共に納得。 が、そのやり取りが果たされたのとまったく同時―― 「――やめいッ!」 「―――――」 まったくこちらの予想外に、眼前の状況は一変していた。 「もうよい。引くのだ我が子らよ。これ以上、傷つく必要はない」 「大儀であった。総員、休めい」 「なっ……」 一斉に打ち鳴らされる軍靴の音。女王の命令通り鋼牙兵は、捧げ〈銃〉《つつ》の状態になって戦闘を停止する。 そしてそのまま、十戒よろしく俺たちの前へ道を開き…… 「さて、困ったな戦真館。このまま続けてもお互いに痛いだけだ」 「どのみちすり潰されるのはそちらだが、私の子らも十分の一ほどは亡くなりかねん。それでは割が合わんだろう」 「何を……」 こいつは言っているんだ。まさか自軍の消耗を厭うからもうやめるとでも? 不明だが、ともかくこれはチャンスだった。キーラが何を考えているにせよ、こいつは今、俺たちに無防備な姿を晒している。 やるなら今――歩美が無言で狙いを定める気配を背後で感じ…… すべては、そこから一瞬の出来事だった。 「私が自ら相手をしてやる」 風が――いいや禍々しく名状しがたい力の波が、俺たちの間を通り抜けた感覚。 「え……?」 それと同時に、水風船が破裂するような音が響いた。 「これで回復役はもういない」 「なッ―――」 「あ、晶ァッ!」 「ふふふ、ふはははははははははは――――」 そして双頭の黒狼が、キーラの座している戦車を引きずりながら動きだす。 馬鹿な、今いったい何をやった? あいつは指一本動かしておらず、〈咒法〉《マジック》を発動させた気配さえも皆無だった。 にも関わらず、強固な防御力を持つ晶が一撃で潰されただとッ? 駆け寄って助け起こそうとしている世良たちの前で、俺の幼なじみは上半身のみが血溜りに転がっている。つまり下半身が消滅したんだ。 ふざけるなよ、冗談じゃない。あんなもの、どうしようもない致命傷でしかないだろうが! 「轢き潰せ、ロムルス・レムス――汚らわしい血だ、一滴も残すな」 「柊、来るぞッ!」 「ちィッ――!」 それはまさしく、神話の怪物を彷彿させる魔獣の突撃そのものだった。 「ぐおおおおおォォッ!」 黒い流星と化した双狼の疾走が、晶を〈轍〉《わだち》にかけて消し去らんと迫り来る。その進路上に入って防ぎとめようとした俺と鳴滝は、薄紙一枚の役にも立つことが出来なかった。 「がッ――」 「――きゃあっ!」 だが幸いにも俺たち全員、瀕死の晶も含めて踏み潰される最悪だけは免れた。常軌を逸しすぎている双狼の突進力で、そうなる前に吹き飛ばされてしまった結果だろう。 ゆえに晶以外は、まだそこまで深刻な負傷じゃない。しかし、戦車が走り抜けた先の光景を前にして、一人残らずその場に凍り付かされた。 「……嘘、でしょ」 「校舎が……」 戦真館が、縦から真っ二つに割れている。巨人の〈斧鉞〉《マサカリ》でも受けたかのように、衝突面が大地ごと抉れて消し飛び、無くなっていた。 「軽すぎるぞ貴様ら、加減が難しいではないか」 加え、続く光景はさらに戯画的な悪夢そのもの。それは眼球神経を突き破り、精神の許容を超える衝撃となって俺たちを襲った。 「愛する〈学舎〉《まなびや》を墓標にするか?」 割れた校舎の片方を、キーラが片手で持ち上げながら歩いてくる。 「馬鹿な……!」 なんという荒唐無稽。あれの重さがどれくらいあるかなんて知りたくもない。 もはや怪力などという域ではなかった。歩美にも劣る華奢な体躯であの所業。出鱈目すぎるにもほどがある――! 「そら、受け止めてみせろ」 そしてゆっくり、ゆっくりと。 小山のような塊を俺たちに向かって投げよこし…… 「さがってろ、おまえらァッ!」 飛び出した栄光を静止するのが遅れたことに、俺は理屈を飛び越えてミスを悟った。 「ぐっ、あああああ!」 校舎の半分を丸ごと消し去ろうと気張る栄光。こいつのキャンセル性能でそれがやれるか、やれないか、問題はそこじゃない。 この流れは手玉だと、本能レベルで直感したんだ。 「やめろ栄光、俺と代われェ!」 叫び、割って入ろうと地を蹴ったときにはもはや手遅れ。 「戦の真がどうとか言ったな」 「であれば私流のやつも言ってやろう。逃げの算段などを立てている者に勝利はない――どんなときもだ」 「がはっ――」 いつの間にか栄光の背後にキーラが立ち、そのまま無造作に突き出した貫手で胴を抉り抜いていた。噴き出る血潮で銀髪を濡らしながら、凄惨に笑う様はまさに人獣。 「これで二人目。もう逃げられん」 次いで、落ちてくる校舎を拳の一発で粉砕する。俺に向けられたその瞳は、黄金に瞬きながら嗜虐の炎に燃えていた。 「気づいていないとでも思ったのか? 段取りが以前会ったときと同じではないか」 「隙を見つけ、一撃与え、動揺を生んだ後に機を衝き逃走。優等生だな、つまらんぞ。教条通りのことなど誰もが知っている」 「辰宮の売女は正道の脆さも教えんのか? あれほど腐った屑はそうおるまいになあ」 降り注ぐ大小無数の瓦礫の中、キーラの嘲りは俺の矜持を踏み潰していた。栄光までもが倒れた今、確かに奴の言う通り逃げることもままならない。 「では三人目を誰にするか……」 「―――ッ」 しかし、このまま好きなようにやらせるわけにだけはいかなかった。 「俺だ、行くぞォ!」 だから全力を込めて飛び込んだのだが、振るった旋棍は一切の手応えも伝えず空を切る。 「生憎だが貴様は後だ」 「言ったはずだぞ、苦しみ抜いて死ね」 「あぐゥッ――」 「いやァ、歩美ィ!」 「ちくしょう――、このクソ餓鬼がァ!」 「待って淳士、私も行く!」 再び、晶を排除した謎の力で、歩美が握り潰されるようにひしゃげてしまった。それに激昂した鳴滝と我堂、そして当然俺と世良も連続する。 「許せない……!」 「こちらの台詞だ。人間ごときが情を語るな」 「黙れよ貴様ァッ!」 拳、旋棍、薙刀、剣撃――矢継ぎ早に繰り出す攻めの総数は瀑布のごとく、限界を超えて回転率を上げ続けるが届かない。 こちらの技は何一つ、キーラの髪の毛一本にすら掠らない。 規格外の速さ。まったく動いていないとしか思えないのに、一発も当てられない理由は他に考えられなかった。目で追えないほど速く、吐き気を催すほど理不尽に、存在する時間軸が違いすぎる。 なんだこのふざけ具合は、四対一の白兵だぞ!? 幽雫さんとの訓練や鋼牙兵との実戦を経て、俺たちの技術は格段に向上しているという自負があるのに滑稽なほど通じない。 単に速度差だけなら捕まえられる。どれだけ離されていようが捉えてみせる。なのにすべてが空を切るだと!? 「ははは、ははははははははは―――!」 もはや疑う余地はない。こいつは白兵戦闘の化け物だ。怪力乱神が天すら穿つ無双の才能――そんな存在が桁外れの戟法性能を有し、挙句正体不明の飛び道具まで備えている。 何処に、いったい、どうやって、衝け入る穴を見つけろというんだ! 「のろい。鈍い。欠伸が出る。ああ、まったくなっていない」 「たとえば、貴様だ」 「―――――ッ」 鳴滝の右ストレートを躱しざま、閃光にしか見えないクロスカウンターが炸裂した。 「ぐはァッ――」 「踏み込みの重心が悪く、前傾すぎだ。狙い打ってくれと言っているようにしか見えん」 「そして、貴様も」 今度は我堂の放った横薙ぎに縦方向から蹴りを合わせ、薙刀をへし折ったばかりか右腕右脚を轢断したかのように切り飛ばしていた。 「つうううッ──!」 「遠心力に頼りすぎだな。振りがでかいぞ、支点を狙われればこの有様だ」 「共にこうしたほうがいい」 そして追い討ちとなる右ストレートと回し蹴り。それは手本を見せやると言わんばかりに速く、鋭く、隙が無く――鳴滝たちを庇おうとする俺と世良の反応など容易く追い越し、吹き飛ぶ二人に致命打を与えていた。 「そして貴様ら」 残った俺たちに対し、口角を吊り上げ鋼の牙を覗かせつつこいつは告げる。 「何を考えているか分かるぞ。当てさえすれば――そうだな。よろしい」 「許そうではないか、当ててみろ」 「はああああァッ!」 千載一遇。勝機があるとすればここしかない。ゆえに全身全霊、渾身の夢を込めて世良と共に打ちかかった。 「――――――」 結果命中。間違いなく骨ごと潰し、あるいは切り裂き、その手応えが偽りではない証として噴水のような血が迸る。 だというのに、ああ――まだこれ以上の悪夢があるのか。 「効かんなあ。その程度かよイェホーシュア」 「殺せ殺せ。男も女も乳飲み子も……なあ誰を殺すというのだ、こんな様で」 「やはり貴様など、しょせんは逆十字の道具だな」 傷が―― 頭蓋を叩き割って脳を吹き飛ばし、胴を両断して内臓が噴きこぼれるほどの致命傷が、瞬く刹那に復元していく。雪のようなその肌には、すでに染みの一つすら見当たらない。 「そんな……」 受ける心的ダメージとして、まったく効かないほうがまだよかった。こいつの鎧を突破すればなんとかなると、たとえ気が遠くなるような作業でも希望を持つことは出来たはず。 だがこれは、そんな気休めすら許してくれない。 「不死身か、貴様……」 効いているのに斃せないという、脳や心臓を破壊されても復活する魔的なまでの楯法性能。晶のそれを遥か上回るその絶技は、癒しという神聖な夢ですらグロテスクなものへと変えていた。 「別にその手の胡乱なものに興味は無いがね」 「貴様の絶望した顔が見れて、まあ溜飲はさがったよ」 そして、〈三度〉《みたび》のアレが来る。原理不明の圧壊能力――俺と世良の身体は雑巾でも絞るように捻り折られた。 「があああああああッ!」 「きゃああああああッ!」 「ふふふ、はははは、ははははははははは―――!」 血に染まり暗転していく意識の中、人獣の高笑いが鼓膜を抉り、脳を揺する。 俺は死ぬのか? だけど、どうして―― 「――――――」 今、このように、心臓は不思議な鼓動を刻み始めているのだろう。 これではまるで……そう、まるで…… 「ひい、らぎ、くん……?」 俺という人間が、実はこの瞬間まで…… 「あっ、がッ―――、ああああああァッ!  よ、しや、よしや、四四八ァァァッ!」  絶叫する恵理子――の人形なのか本物なのか。判別は相変わらず不可能だったが、ともかくその苦しみ方はこれまでの非ではなかった。空亡に破壊され続けた地獄すら、これに比べれば何の意味もないと言うかのように。 「ははは、凄いね。見なよセージ。彼女、君のことなんかこれっぽっちも眼中に無いよ。正直妬けるんじゃないのかい?」 「ほざいていろ。貴様は委細承知のうえなのだろうが」 「まあねえ」  泡を吹きながら痙攣している恵理子の狂態をしげしげと眺めつつ、神野は闇色の無貌を一撫でしてから言葉を継いだ。 「君が奪った彼女の愛だろ? だいぶでかい範囲で奪っちゃったから、友愛・自己愛・恋愛・母性と一塊の聖女様さ。いや実際、僕も恐れ入ってはいるんだよ」 「ただそこんところを踏まえたうえで、どうも一番強いのが母性っぽいっていう事実は、君をどういう心境にさせているのか気になってね」 「どうもこうもない。使える道具だった、それだけだ」 「じゃあ褒めてやるかい?」 「なぜ道具を褒めねばならん。そんなことより――」 「ああ、頃合だね」  二人が見つめるその先で、恵理子の肢体は徐々に薄まり、厚みを無くし始めている。  そして…… 「四四八、四四八……わたしの、赤ちゃん……」  今、陽炎のように揺らぎながら。完全に掻き消えていった。  曰く聖女が去った後、そこにはただ悪魔たちだけが残されている。 「さぁて、行こうか」 「甚だしく退屈だった。茶番の埋め合わせをしてもらわねばな」  下劣、悪辣、傲岸、理不尽――無恥にして鬼怪畜生にも劣る毒塗れの精神を引きずりながら、〈混沌〉《べんぼう》と逆十字が立ち上がる。 「やはりですか。これはもう、どう転んでも穏やかにはすみませんね」  百合香もまた、深く嘆息してから重い腰を上げ始め。 「はぁん、こりゃこりゃ。まったく神秘じゃのう、アホらしいでよ」  狩摩は憮然とそうぼやき、高みから身を躍らせると戦真館の営庭へ降り立った。  加え、当然それだけでは終わらない。 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ――」  愛に繋がれていた暴悪の邪龍が解き放たれ、身をくねらせて悶えながら。 「六算祓エヤ滅・滅・滅・滅・亡・亡・亡ォォォ!」  ここに、その凶気を撒き散らしつつ動きだす。 「これは……!」 なんだ、俺の身体が消えていく。今このときも点滅を繰り返している全身は、その都度確実に薄まって……いいや、それとも縮まって、いる? 「よし、や……」 「よしやくん……」 「柊……」 「あんた、いったい……」 「どうし、たん、だよ……」 我が身に起こった現象は不可解すぎて、何もかもが分からなかった。死に瀕している晶たちまで、自分のことより俺の異常に目を奪われている。 「恵理子さん、お願い……柊くんを、助けてあげて」 「――――――」 だがその名前、母さんのことを意識した瞬間に、理屈抜きで謎は解けた。確信を得たと言っていい。 「そうか、これは……」 消えているんじゃなく、還っているんだ。まだこの世に俺が産まれる以前、母さんの腹の中にいた頃へと。 それがどうしてこんなとき、こんな風に起こるかなんて欠片たりとも説明できない。しかし間違いないと言い切れる。 なぜなら、俺自身も覚えがあるのだ。それは誰だって同じかもしれない。 「四四八、四四八……わたしの赤ちゃん。大事な子」 母親の中で抱かれていた海の記憶。その温もり、安らぎ、懐かしさ……誤解が入り込む余地は無かった。 俺は今、確として、産まれる前へと戻っている。 「…………」 だけど、それ自体はこの場において、まったく意味を成さないものだった。原因がなんだろうと動けないことに変わりはなく、秒瞬の後に落とされるだろう〈止〉《とど》めの一撃に抗し得る手段は無い。 にも関わらず、それはいつまでも俺の上に落ちなかった。代わりに降ってきたのは呆然としたキーラの声で。 「なんだと……」 その呟きに釣られる形で頭上を仰ぎ見た俺たちは、等しく言葉を失った。 「かーごめかーごめ」 「かーごのなーかのとーりーは」 「いーつ」 「いーつ」 「でーあーう」 「よーあーけーのーばーんーに」 「つーるとかーめがすーべった」 「うしろのしょうめんだーあれ」 嵐雲渦巻く鉛の空が、縦にばっくりと割れていく。そのスリットはぬめぬめと照り光り、まるで女陰めいた卑猥さを晒しながら開かれ、固定し、〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈下〉《 、》〈ろ〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 「目……?」 宙に描かれ出現した、巨大極まりない怪物の瞳。その威容から撒き散らされる波動は病み爛れて膿み、腐臭を放ち、あれが祟りと呪いに満ち満ちたモノだと告げている。 「〈百鬼〉《なきり》、〈空亡〉《くうぼう》……!」 そして暴虐は、鉈でも叩き落したかのような血塗れの狂笑から始まった。 「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ」 「きゃァァきゃっきゃっきゃっきゃァァァ―――!」 空から隕石のごとく降ってきたのは、優に百を超えるだろう腐敗した腕だった。そのどれもが車を鷲掴みに出来るほどの巨大さで、青黒く変色した肌は激突と同時にひしゃげると、粘った腐汁を悪臭と共に飛び散らす。 凄惨、反吐を催す光景だった。なぜならたったそれだけで、鋼牙の兵隊は半分以上が圧殺されてしまったのだから。 「ぐッ、ァァ――舐めるな卑しい化け物風情があァッ!」 しかし、流石にキーラは格が違った。叩き落された巨腕を真っ向から受け止め、押し返し、激昂と共に咆哮する。 「捻り潰してやるぞ。貴様も、そして甘粕も――」 「跪けェい、下郎ォォッ!」 そのとき、天の空亡とやらに放たれたのは紛れもなくアレだった。俺たちを瞬時に潰した謎の攻撃――しかもここでの威力は先ほどまでの比ではない。 全身全霊、遊びなし。キーラの本気を最大出力で叩き込んだ必殺だ。爆轟する破壊の力による反作用で、本人を中心に大地がクレーターのごとく陥没する。 「旨そげな夢をくれろ」 「その目をわいにくりゃしゃんせ」 だが、空亡にはまったく何の効果もなかった。一瞬だけ瞳の周囲が揺らいだかのように見えた後…… 「滅・滅・滅・滅」 「亡・亡・亡ォォォ!」 キーラが放ったその力を、何倍にもして送り返した。 「があああああァァッ!」 雪の妖精めいた肢体が潰れる。捻れ、ひしゃげて千切られて、ボロ屑さながらに踏みにじられた。もしも俺たちがあれを受けたら、十回以上は殺されていたに違いない。 「ぐっ、ォ……おおォ」 そんな暴威に直撃されて、なお生きているというのは幸か不幸か。いいや、確実に不幸だろう。 キーラの度外れた回復力が、こいつに斃れることを許さない。どんな生物であれ死は免れない域の圧壊を受けながらも、まだ意識を保っている。そして復元が始まっている。 ただしその再生も、目に見えて緩慢だった。負傷の規模がでかすぎるのか、それとも加害者の質に関係することなのか、不明だったがどちらにせよ結果は同じだ。 「痛い? 痛いィ? 苦しい? 悲しいィ?」 キーラは勝てない。なまじ即死を避けられるだけの強さを持ったことが災いして、このまま嬲り殺しにされるだろう。 「なッ――、やめろおまえたち! 行くな退けェ!」 そんな主を護るためか、双頭の黒狼が空亡に挑みかかるも、結果は火を見るより明らかだった。 「辛い? 悔しいィ?」 「愛しい? 憎いィ?」 「痛い痛い痛い痛いィィィ――キャァァァァ、ぎゃぎゃぎゃはァ――!」 そして、再度落ちてくる腐乱した巨腕の嵐。否、それだけじゃない。 大百足が、山犬が、白骨化した馬が大蛇が――次から次へと火砕流のように、キーラと鋼牙兵と黒狼目掛けて連続する。 辺りは地獄絵図と化した。あれほどの脅威を誇った鋼の軍勢が瞬く間に蹂躙されていく様はもちろん、巨腕は味方であるはずの百鬼夜行すら躊躇なく握り潰しているからだ。 「おのれ、おのれおのれおのれおのれェェ―――!」 終わらない虐殺の中、孤軍奮闘するキーラもまた、一寸刻み五分刻みにされていく。 目玉を抉られ舌を抜かれ、耳を毟られ手足は末端から千切られる。 巨腕から逃げ惑う百鬼夜行は、少しでも強固な場所に身を隠そうとしているのか、キーラの全身、穴という穴に殺到して内部に潜り込み始めていた。 目に、耳に、鼻に、口に……陰門、肛門は言うまでもなく、その他ありとあらゆる傷口を押し広げて犯し、姦し、侵し、抉る。 空亡にとって、俺たち死に掛けの存在などはどうでもいいのか。これだけ破壊を続けながらこちらは例外的に無視されていたが、それを喜ぶことは出来なかった。 「がッ、は……貴様、許さん! 許さんぞおおォッ!」 なぜなら黒狼も、鋼牙兵も――部下を片端から虐殺されて、自身も絶望的な状況ながら怒りに吼えるキーラの姿が痛かったのだ。 俺たちの窮状はこの女によって成されたものだし、これ以上なく敵ではあったが、その悲憤には否応なく共感せざるを得ない。 そして何より、この空亡という奴は危険すぎた。たとえ何かの奇跡があって、ここを切り抜けられたとしても―― 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ――」 「六算祓エヤ滅・滅・滅・滅」 「亡・亡・亡」 こいつが存在する限り、希望は何処にも有りなどしない。 百鬼空亡――これに対抗するためには、すべてのしがらみを度外視してでも全勢力が手を組む以外ないと分かる。 いや、それでも果たして抗し得るのか。 我も人。彼も人。その括りに空亡だけは当て嵌まらない。戦の真が通じない。 これは天災――ただ度外れた暴悪で、人知の及ばぬ何かなのだ。 「ああ、なんだか見ない間にばばっちくなっちゃったねえ」 「宴もたけなわ、というところかな」 「――――――ッ」 知らず、いつの間にか現れていた仇敵に、だが俺たちは何をすることも出来ず。 「まったく、やってくれたものですねお二人とも。痛恨ですわ」 「そりゃあもう、しゃあなかろうで。それよりこれ、どうするんなら」 百合香さんも、壇狩摩も……少なくとも俺にとっては期せずして、すべての勢力がそろうという状況が具現したにも関わらず。 「まん・まんぜろく・まんざらく」 「四方のヒクミを結ぶトコロは、〈気枯地〉《ケカレチ》にてミソギに〈不良〉《ふさ》はず」 「がああああああッ―――!」 つい先ほど思い浮かべた、全勢力による同盟締結……そんなものは無意味なのだと理解した。 空亡が強すぎるから。神野や聖十郎が邪悪すぎるから。理由はそんなことじゃない。 「あんめいぞォ、ぐろおりあす……ようこそ僕らの夢に。我が主よ」 〈止〉《とど》めとなった空亡の一撃で塵になるまで粉砕され、分解していくキーラの全身。風に巻かれる灰のように渦巻くそのただ中から、若い軍装の男が現れる。 こいつは―― そう、すべての元凶はこの男で…… 「セージ、おまえの息子は面白い」 「百合香、それに狩摩も〈邯鄲〉《こちら》で会うのは初めてかな」 そもそもこの世界における相関図を、俺は何を根拠にして決め付けていた? 自分の目で見て、耳で聞き、頭で考えていたのだろうか? 違う――俺たちは今の今まで、何一つとして真実になんか触れていない。 「お変わりないようですね、甘粕大尉」 「それより、俺ゃァ帰ってええかいのう」 誰も、彼も、残らずみんな……同盟も対立も等しく茶番だ。 事象の中心には、いついかなるときもこの男。他はすべてこいつの周りを回っている〈衛星〉《はやく》でしかなかったのだと理解した。 「そう言うな狩摩、興が削げる」 「それに、なあ、まずは型通りというものがあるだろう」 「がっ、ァ……」 男に襟を掴まれて、そのまま宙に吊り上げられる。身体は依然として産まれる前へと戻りつつあり、抵抗は一切出来なかった。 「さあ誰がやる? 志願を募ろう。俺が許す」 「この聖餐を干すのは誰か――」 「無論、俺だ」 その意味不明な問いかけに、応じて一歩前に出たのは聖十郎。 奴はそのまま、俺のすぐ傍までやって来ると…… 「忘れるな。おまえは俺のために生まれたのだということを」 口を開き、歯を剥いて、それを首筋へと突き立てた。 「ぎッ、あ、があああああァッ!」 「よし、や……!」 生きながら血を啜られる〈怖気〉《おぞけ》と痛みに絶叫しながら、今度こそ意識が白く、薄れていく。 残ったのはただ、無力感。 「俺の夢は、俺のものだ」 結局何も出来ずに沈むという、耐え難い恥辱の念――それだけだった。 「ならしゃあないのう」 その意味不明な問いかけに、応じて一歩前に出たのは壇狩摩。 奴はそのまま、俺のすぐ傍までやって来ると…… 「せいぜい気張れや。おまえはもう逃げられんのじゃけ」 口を開き、歯を剥いて、それを首筋へと突き立てた。 「ぎッ、あ、があああああァッ!」 「よしや、くん……!」 生きながら血を啜られる〈怖気〉《おぞけ》と痛みに絶叫しながら、今度こそ意識が白く、薄れていく。 残ったのはただ、無力感。 「言うたじゃろうが。俺はおまえに優しいほうじゃと」 結局何も出来ずに沈むという、耐え難い恥辱の念――それだけだった。 「では、わたくしが」 その意味不明な問いかけに、応じて一歩前に出たのは百合香さん。 彼女はそのまま、俺のすぐ傍までやって来ると…… 「いずれちゃんと話しましょう。まあもっとも……」 口を開き、歯を剥いて、それを首筋へと突き立てた。 「ぎッ、あ、があああああァッ!」 「ひい、らぎ……!」 生きながら血を啜られる〈怖気〉《おぞけ》と痛みに絶叫しながら、今度こそ意識が白く、薄れていく。 残ったのはただ、無力感。 「あなたが再び立てたらですがね」 結局何も出来ずに沈むという、耐え難い恥辱の念――それだけだった。 「そういうことなら、僕に任せてくれませんかね」 その意味不明な問いかけに、応じて一歩前に出たのは神野明影。 奴はそのまま、俺のすぐ傍までやって来たが素通りして…… 「何せ僕にとって大事なのは、彼より彼女のほうなんで」 「え……?」 地に伏す世良を抱きあげて口を開き、歯を剥いて、それを首筋へと突き立てた。 「ぎッ、あ、きゃあああああァッ!」 「世良……!」 生きながら血を啜られる〈怖気〉《おぞけ》と痛みに絶叫する世良を見て、今度こそ意識が白く、薄れていく。 残ったのはただ、無力感。 「ああぁ、僕のまりあ。愛してるよ、愛してくれ」 結局何も出来ずに沈むという、耐え難い恥辱の念――それだけだった。  私は自分の生まれ育った家庭が苦手だった。  それについて、理由があると言えばあるし、ないと言えばない。他所より多少複雑な家だったことは確かだけど、だからといって特別おかしいというほどでもなかったから。  私のお母さんはいわゆる後妻で、私はその連れ子だった。つまり、お父さんとは血が繋がってなかったということで、その後に弟や妹が産まれることもなかったから、血縁という絆を一家で共有することは最後まで出来なかったと思う。 本当に、それだけのこと。言ったように普通とは違うけど、大袈裟に考えるほどのことじゃない、よくある話。  お父さんから嫌われたり、何かをされたりなんてこともなかった。娘として可愛がってくれたし、過度に甘やかされたりもしていない。だから事情を知らない人から見れば、ごく当たり前の家だっただろう。言わなければ誰にも分からないし、よって教える必要もない。  あるいは、それが問題だったのかもと今では思う。家庭の事情なんて吹聴するのは行儀が悪く、自分自身、何が不満だというわけでもなかったから、誰にもこのことは言わなかった。  隠していたわけじゃない。だけど、結果的にそうなってしまったのは事実なわけで…… まるでうちは恥ずかしい家だと、そんな空気が家族の中で生まれてしまったように思う。  嘘もつき続ければ真実になるとか、ある意味前向きな言葉があるけれど、それとは似て非なる感じで、家族全員が周りに真実を話すタイミングを逸してしまった。  恵理子さんのお父さんは素敵な人ね。娘さんは可愛らしいね。旦那さんと目元がそっくり。 など、など、など、色々。  ありがとうございます。そうですか。ええ、よく言われるんです。  私もお父さんもお母さんも、嘘をついてなんかいないけれど、日に日に誤解は積み重なって、いや違うんですよと言える状況ではなくなってしまった。  疲れる。とても。凄く困る。  対外的には明るく振舞い続けている反面で、家の中は徐々に暗く、居たたまれない空気が満ちていった。  共犯者たち。というのが近い表現なのだろう。本来抱く必要のない罪悪感とか、羞恥とか、誰かがそれに耐え切れず、本当のことを話すんじゃないかという恐れとか…… 互いに牽制し、見張りあっているような日が続き、いつしか私は家族が苦手になっていた。  特にお母さんは追い詰められていたようで、とても子供を欲しがっていた。それが叶えば一発逆転。自分たちは紛うことなき、誰に恥じることもない本当の家族になれると。  理屈は分かるし、気持ちも分かる。だけどそのとき、もうそこそこの歳になっていた私としては、今さら親のそういうところは見たくないし、お母さんにしてもとうに適齢期をすぎている。  だから現実的にかなり望み薄なことであったし、通俗的にもその歳で子供を作るなんて外聞が悪い。家の恥が増える。  そんな風に思って、家族からより距離を置くようになったのは自己嫌悪だけど、事実として嫌なのだからどうしようもないものだった。  私は真っ当な家族というものに憧れている。  お母さんに出来ないなら、私がそれを作るべきだ。 そうすれば、この本当に些細なことでおかしくなってしまった自分の家を、生まれ変わらせることが出来るはず。  元来、愛すべき人たちである両親に。そんな彼らを疎ましく思うようになってしまったことの罪滅ぼしに。  私がどうにかする。してみせる。  そんな風に思っていたとき、私は彼と出逢ったのだ。  柊聖十郎……彼は劇的な男性だった。  お世辞にも人格者とは言えない、むしろ最悪の犯罪者ですら恐れをなすような危険人物。  分かっている。知っているし感じられる。私みたいな特別どうということもない女から見ても、彼は即座に見抜けるほど破綻した人間だった。  近寄るべきではないし、関わってはいけない。アレは私が求める真っ当という概念からは、冗談にもならないほどかけ離れている。  だけど。 ああ、だけど、それでも私は…… 「おまえが必要だ。俺の役に立つがいい」  彼の役に立ちたいと強く思った。  この、涙が出るほど終わっている男の人を、無視することが出来なかった。  だって、この人はそうしないと崩れてしまう。傲慢で、強欲で、たった一人のまま全世界とも戦えるような自負の男性でありながら、砂の城のように儚く脆い。 彼を知りながら無視するという行いは、〈真〉《 、》〈っ〉《 、》〈当〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈願〉《 、》〈う〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈不〉《 、》〈可〉《 、》〈能〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  愛されてはいない。分かっている。  必要だと言われた。でも無二じゃない。  彼にとって唯一なのは自分だけで、他はすべて皆同じだ。柊聖十郎という男性は、すべてを欲しているからこそすべて同じにしか見ていない。  道具。自分が存在するための糧。  服や食べ物とまったく同じで、なくてはならないものであるがゆえに特別など一つも無い。そこに感謝、敬意など下賜するべきものじゃないのだ。  〈己〉《おれ》が貪り、〈己〉《おれ》に使われるためだけに用意されているものなのだから、ただ権利を行使するのみ。何が悪い?  それが、柊聖十郎という男性の人生における基本則。  まるで神様のような人だ。牛や豚は〈俺〉《ヒト》に食べられるため生まれたのだから、それは当たり前のことであって自明の理。そう信じ込んでいる彼の前ではどんな道徳も上滑りする。  だから彼が、そのとき〈女〉《わたし》に求めたことに言葉以上の意味はない。 「俺の子を産め、恵理子」  意味はないと分かっている。分かっているからこそ私には意地があり、愛があり、情があって拘りがあり…… 家族が欲しいという願いがあって。 「はい。あなた、喜んで」  それが、一つの闘いになった。私はあなたの妻となる。  あなたの子を産み、役に立つ。  そして、私の子供がきっとあなたを……  彼と交わり、精を受け取り、代わりに奪われたのはそんな私。  愚かさとか、醜さとか、悔しさとか浅はかさとか……あるいは愛と一括りに出来るような柊恵理子。そうした部分。  彼の手元にある恵理子は、ゆえに愛しか知らなくて……愛の擬人化だからきっと狂気の女だろう。  なぜあんな男を愛していると、百万回問われたところで答えは同じ。  だって好きなんだもの。それしか言わない。それしかないから。  〈交〉《 、》〈換〉《 、》〈の〉《 、》〈タ〉《 、》〈イ〉《 、》〈ミ〉《 、》〈ン〉《 、》〈グ〉《 、》〈自〉《 、》〈体〉《 、》〈は〉《 、》、〈き〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈少〉《 、》〈し〉《 、》〈後〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈け〉《 、》〈ど〉《 、》。  本当の意味で奪われたのはこのとき。この悪夢の発端となった今この〈時代〉《とき》。  四四八、四四八……私の赤ちゃん、愛しい子。  迷惑をかけてごめんなさい。私の意地に巻き込んでしまってごめんなさい。  だけどこれだけは信じてほしい。私はあなたを愛しています。  愛という概念を自分の中から奪われた今も、そのことだけは強く言える。だってそれは、きっと無限に湧いてくるものだから。  〈聖十郎〉《あのひと》はそのことを分かっていないの。  人の気持ちも魂も、盗んで利用し、使い捨てられる道具としか見ていない。  だから、あなたが教えてあげて。  心は、物なんかじゃないってことを。  それが私の〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》。  武運を祈ります、愛しい四四八。 黒色の澱が、身体中の至るところに絡み付いている── その重苦しさはまるで、見えない鎖で磔にされているかのようだった。 〈意〉《、》〈識〉《、》〈を〉《、》〈失〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》という、俺にしてみれば有り得ない状況からそれは来ているのだと半覚醒の状態で気付く。 生まれてこのかた、眠りに落ちると同時に明晰夢の世界へと〈誘〉《いざな》われていたのだ。すなわち俺の人生は、いつ如何なるときでも意識を手放したことなどない。 睡眠というのは世界を切り替えるスイッチでしかなかったはずだ。現実と夢はあたかもメビウスの輪のように表裏一体の存在だった。少なくとも、昨日までは。 それが今、こうしてすべての事象から断絶されている。 これが死なのか? ──いや、違う。 強烈に覚えているのは、〈首〉《、》〈筋〉《、》〈に〉《、》〈何〉《、》〈か〉《、》〈禍〉《、》〈々〉《、》〈し〉《、》〈い〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》〈が〉《、》〈差〉《、》〈し〉《、》〈込〉《、》〈ま〉《、》〈れ〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈く〉《、》〈感〉《、》〈覚〉《、》で…… 「ッ、──────」 俺は跳ねるように自らの上半身を起こし、胡乱な意識のまま周囲を確認した。 するとなんのことはない、見慣れた自室の光景があるばかり……その当たり前の現実感は、俺にさっさと目を覚ませと冷静に諭してくるかのようだ。 つまり、ここは現実の世界ということか? 部屋にはカーテン越しの陽光が差し込んでおり、早鐘のような鼓動を刻んでいる己とのギャップに、どうしてここにいるのかという基本的なことすらも分からなくなってくる。 いや待て、と俺は思考を遡らせた。そもそも今、どうして無事に生きてるんだ? 俺たちをいとも容易く半壊状態へと追いやった、圧倒的という形容ですら生温いキーラの武威を思い出す。 多少なれども勝負に持ち込めると思っていた自分たちは、鋼牙の女王にとって滑稽な道化としか映っていなかったことだろう。 何もかもが届かない。通用しない──繰り出す撃は空を切り、たとえ剛撃が頭蓋を捉えたところで僅か一瞬で復元される。 仲間たちは次々に血を流し、一人また一人と倒れていった。俺も例外ではなく地に伏し、泥と屈辱を舐めさせられる。 あまりの力量差はやがて諦念を呼び起こし、それは徐々に心を腐食していった。まるで勝機も何も見えず、ただ踏み躙られていくだけの処刑に等しい。 そして、それをも軽々と上回った怪物の暴虐無尽。 空を引き裂いて現れたのは、もはや凶的としか形容できない瞳。視線が合えば正気すら保てなくなる存在の名は〈百鬼〉《なきり》〈空亡〉《くうぼう》。 キーラすらをも玩具か何かの如く容易く蹂躙するその姿もはや災禍そのものであり、あまりの隔絶に危機感を抱くことすらままならない。 加えて、夜闇に溶けゆくように淡く明滅する俺の身体── 無論のこと理解など及ぼうはずもなく。そして、現れた柊聖十郎に吊し上げられた俺は、〈首〉《、》〈筋〉《、》〈に〉《、》〈食〉《、》〈い〉《、》〈付〉《、》〈か〉《、》〈れ〉《、》〈吸〉《、》〈血〉《、》〈さ〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》。 以降は意識が失われ、一切の記憶が残っていない。 考えを巡らせなくちゃならないのは事実だが、あまりに荒唐無稽な戦いの幕切れにどこから手を付けていいのか分からない。 加えてまったく不明なのは、俺が今まさにこうしているという状況そのもの。ああ、〈ど〉《、》〈う〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈こ〉《、》〈こ〉《、》〈に〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》? 「修学旅行は、一体どうなった……?」 自らの記憶を辿るように独りごちる。そう、眠りに落ちたその日、俺たちは京都の地を訪れていたはずだ この頃は邯鄲で過ごした時間が長くなってこそいたものの、修学旅行の初日を皆で終えたことは間違いなく。 〈千信館〉《トラスト》で迎える最大の行事。京都の市街を皆で散策し、その夜にはろくでもない騒動もあったよな。 いずれの思い出も、ずっと昔の出来事であるように感じられる。 現在は自室にいて、ここに至るまでの経緯は一切記憶に残っていない。そもそも夢の世界をあんな風に、放り出されたかのごとく抜けたこと自体、初めてのことだった。 ゆえに委細思い出せない。ああくそ、これが寝惚けているというやつなのか? 現状確認できるのは、俺がこうして無事なことくらいだ。完全な絶命を迎える前に上手いこと意識を失い、〈現実〉《こっち》に戻れたということかもしれないが、それはあまりに楽観な気がする。 柊聖十郎──憎むべき怨敵によって首筋に歯を突き立てられてからの顛末は何も頭に残っていない。この状況で確かなことを推量によって求めるのは、いささか無理があるというものだろう。 「忘れるな。おまえは俺のために生まれたのだということを」 最後にあいつから言われた言葉が鮮明に蘇る。 向こうの世界、〈戦真館〉《トゥルース》はあの後どうなってしまったのか。化け物どもに暴虐の限りを尽くされた学舎は無残なまでに崩壊し、早晩の復旧など到底不可能な傷跡を負ったかもしれない。 ならば初代戦真館の崩壊という、ある意味歴史どおりの流れになったわけだが、それでも母校を守れなかったという悔恨の思いが、血塗られた記憶とともに胸の内を満たしていく。 現状は俺が一人こうして意識を取り戻したに過ぎない。それにしたところで偶然の要素が重なっていないとは言い切れず、だとしたら…… そこで俺は考えを止める。ここで根拠のない推測だけを重ねていたところで事実を得られることはないだろうから。 今すべきなのは、そう── 仲間たちの安否を確認すること。先入観に囚われたまま時を過ごし、大切なものを見失うわけにはいかない。 そう思ったとき、ちょうどケータイが鳴り始めた。見れば着信は晶から。一つ大きく息を吸って、俺は通話ボタンに手を掛ける。 「もしもし、俺だ」 「うわっ、やっと出た! んだよ四四八、心配させんなよな──」 「あたしが何回電話掛けたと思ってんだよー。いやもうめっちゃ心配したわ。おまえに何かあったんじゃないかって思ってさ」 「まあでも良かったわ。今まで寝てたのか? 身体とか大丈夫か?」 「お、おう……」 通話が繋がるなり畳み掛けてくるかのような晶の問い掛けに、俺は思わず一歩引いてしまう。 というか、寝起きの頭に響く。こいつは起きてからしばらく経っているんだろうなと見当を付けていると── 「どした、反応悪いな。実は調子悪いとかじゃないだろうな。なんだったらあたし今から行こうか?」 「心配したぜ、なかなか電話に出ないから。まだ目が覚めてないだけだろうなとは思っちゃいたけど、それでもめっちゃリダイヤルしたわ」 「ああ、起きたのはついさっきだよ」 「すまないな、心配掛けた」 晶の声を聞きながら、その変化のなさに俺は安堵する。ああ、こいつの性格はこんなときでも変わっていない。 自分のことよりも、まず他人を心配する。仲間が第一っていう奴なんだよ、昔から。 とりあえず、俺とこいつの無事は確認できた──そこまで考えたところで。 「他の奴らも無事だったよ。電話でだけど、確認しといた」 「四四八が今起きて、これで七人全員勢揃いだ」 「……ありがとな、晶」 口に出すよりも早く、俺の懸念を察したようだ。これが阿吽の呼吸というものだろうか、付き合いが長いもの伊達じゃないとはいえ、思わず舌を巻く。 「しっかし、まったくどうなってんだよ。今の状況っていうのは──」 「ってか修学旅行中だったよな、確か」 「ああ、間違いない」 「俺たちが夢に入る前、現実世界では京都にいたはず。それが気が付いてみれば鎌倉の街へと戻ってきている……」 「マジで意味分かんねえ……頭パンクしちまいそうだっつうの」 そう、ある意味でそれこそが最大の疑問点。 目覚めたときは、寝る前と変わらぬ場所にいる……それはわざわざ確認するまでもなく当たり前のことで、邯鄲でいくら場所を移動しようが、現実の身体がそれに対応して動くわけでもない。 そうなれば考えられる可能性として、〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈の〉《 、》〈側〉《 、》〈が〉《 、》〈動〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。つまり…… 「──なあ、四四八」 そう考えていた矢先、晶がその身に何かが起こったかのような、どこか浮かない声で訊いてきた。 「おまえの周りってさ、今何か変なことって起こってないか?」 「ああ、特に変わったところはない……それが、どうかしたのか」 俺は逆にそう問い返す。電話越しの幼なじみは、どこか焦りのようなものを声に滲ませていると感じたから。 少しの間があって──晶は自分の頭を整理しつつといった様子で言葉を継いだ。 「今の状況でこういうつまんないこと気にしちまうのも、我ながらどうかと思うけどよ……」 「親父が、家にいないんだよ」 「どこにも姿が見えないんだ。メッセージみたいなのもないし、どこ行ったかのかさっぱり分からない」 「剛蔵さんが──?」 今訊いた言葉を、俺はそう反芻するように呟く。 どういうことだ、というのがまず浮かんだ感想だ。過保護とまではいかないが、娘に対しての愛情を行動の端々に滲ませている剛蔵さんが、晶に何も言わず家を空けるなんて考え難い。 しかし、そんな彼の姿が見えないと言う。何か、急ぎの用事でもあったのだろうか。 それとも、もしや…… 思いながら窓の外に目を向けると、そこには道行く人たちがいる。この世界の日常であり、当たり前の光景。 だが、それが本当に当たり前なのかはまだ分からない。 曖昧模糊とした今でこそ必要とされているのは、現状に対する正しい認識だ。 「晶、まずは落ち着こう。おまえだけじゃなくて無論俺もだが……」 「大丈夫か?」 「……おう、どうにか。ありがとな四四八」 「いったんこれから皆で会おう。そうしないと、きっと何も見えてこない」 「他の奴らにも、変わったことがないかを尋ねなきゃいけないからな」 言いつつ、通話を切った俺はケータイに表示される日付を確かめ、静かに愕然とした。 〈今〉《 、》〈日〉《 、》〈は〉《 、》〈修〉《 、》〈学〉《 、》〈旅〉《 、》〈行〉《 、》〈初〉《 、》〈日〉《 、》〈の〉《 、》〈翌〉《 、》〈日〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》……これが故障でないのなら、その意味するところをしかし俺は、まだどうしても認めたくなかった。 俺は栄光と鳴滝。晶は歩美、我堂と世良に。 それぞれ携帯で連絡を取り合って…… ほどなく、いつもの並木道に七人全員が集まった。 晶から一応のところ聞いてはいたが、いずれも見た感じ元気そうではある。ああ、まずはそれを喜ぼう。 あの血塗れた闘いの後だ。気分は決して明るくなどなりようがないものの、皆でこんなふうに話せることこそが僥倖と言えるのだから。 「よかったよねぇ、ほんと。誰も欠けることなくここに集まれて」 「まったくだわ。オレ、起きたとき正直意味分かんなかったもん。これってどうなってんだって」 「今までは夢の世界とこっち、繋がってると思ってただろ? ならあんなボロクソにされちまったら、もうダメなわけでよ……」 「だな」 「普通に意味分かんねえ……その辺の法則みてえなのが変わったとかか?」 「百歩譲って──っていうのも変だけど、私たちが生きてることは認めるにしてもさ、目が覚めたのが京都じゃないのは不思議だよね」 そう口を開いたのは世良で、こいつの過去の記憶に照らし合わせてみても現状のような事態には覚えがないのだろう。狐に摘まれたかのような、何も知らない顔をしている。 「そうだよ水希、おまえの言う通りだぜ」 「そもそもオレら修学旅行中だったのによ、朝起きたらいきなり鎌倉に戻ってるとか、んなのちょっと反則だよなー」 「あーあ。初京都だったってのに、まだ清水くらいしか行ってねえぞ。なんて言うか損した気分だわー」 「今はそういう場合じゃないでしょ、大杉」 「こんなときに観光名所の話? まったく、どれだけ呑気なのよあんたは」 「んー……でもりんちゃん。わたしも正直に言えば、美味しいものとかもっと食べたかったなぁ」 「おみやげも結局何も買えなかったし。八つ橋とか楽しみにしてたのにぃ」 「なー! だろだろっ?」 「京都なんてあんま行ける場所でもねえんだもんよー。ま、お嬢様はどうだか知りませんけどぉ」 「青筋浮いてんぞ、鈴子」 「まあ、みやげもの云々はともかくだ」 日常の与太話に回帰しかかった流れを、いったんまとめて俺は言う。 「世良の言う通り、目覚めたのが京都ではなく各々の自宅だというのは確かに解せないところだ」 「推測だけならそれこそいくらでも考えられるが、ここで着目するべきは全員が同じように鎌倉で目覚めているということだと俺は思う」 「それもまた、何かしら邯鄲の法則の影響下なんじゃないか……ってことかな?」 「ああ。とはいえ、まだようやく思い付いた程度だがな」 こいつらは、まだ気付いていないのだろうか? もしくは俺と同じく、認めたくないから確かなことが分かるまで口にしたくないのだろうか。 夢の世界そのものから影響があった──それが意味する現状との相関を。 「まあでも、その辺りのことは一旦保留かしらね。柊の言う通り、推論以外の何も出しようがないし」 「そうね。分かったことが出てきたら、その都度みんなに報告していくっていう風にした方がいいかも」 「……えっと、ごめん。ちょっといいかな、聞きたいことがあるんだけどよ」 ここまで沈黙していた晶が、進んでいく話に割り込むような形で口を開いた。 その表情は何か気掛かりのあるような雰囲気で、こいつが普段浮かべる類のものじゃない。 「みんな、目が覚めたときになんて言うのかな、おかしいなって思うことはなかったか? 家族とか、周囲の人たちとかさ」 「ん? いや別に」 「ここに来るまで、特にそういうのはなかったな。俺たちくらいだ、変なのは」 「晶、何かあったの?」 「ああ……実はよ、その……」 剛蔵さんの姿が家のどこにも見えないのだと、晶はそう一同に説明をした。 ここで何かしらのヒントが出てくれればと思ってみるも、返ってきたのはいずれも俺と同じような状況。 「うちの親はいたわね。普段と比べて特に変わった様子もなかったわ、気付かなかっただけかもしれないけど」 「わたしんちも、そういうのはなかったなぁ」 「同じくだわ」 「私の家も、大丈夫」 「うちもだな」 そして分かったのは、他の皆にはさしたる変化もなかったという事実。 すなわち、現状一目で分かる異変としては剛蔵さんの不在だけということになる。この場を行き交う通行人にしてもいたって普通であり、今のところ現実世界に対する引っ掛かりはないに等しい。 「ああ、まあ親父が勝手にどっか行ってるだけかもしれねえし、わざわざ気にすることでもなかったかもな」 「うち、あんまそういうことってないから、ちょっと考えすぎちまってさ。ごめんみんな、忘れてくれ」 「いや、謝ることじゃねえよ。そもそもこんな状況だし、心配するのは当然のことだろ」 「まあ晶の言う通り、どっかコンビニにでも出掛けてる程度だったら一安心なんだがな」 「別に不思議なことでもねえだろ。あんま気にすんなよ、真奈瀬」 口々に皆はそう晶に告げている──が、俺は胸騒ぎを覚えてしまう。 「あー、よし。決めたっ」 「親父も用事の一つや二つあったんだろ。一応、蕎麦屋を切り盛りしてる商売人なわけでよ、毎日暇してるわけでもないだろうし」 「それに、まだあたしたちが起きて少ししか経ってないんだ。ちょっと姿が見えないからって、騒ぐのも神経質過ぎるだろ?」 「でも……」 「ありがとな、水希。でも、もう大丈夫」 「そもそも親父もいい大人だしな。こうして心配するとかいうのも、考えてみれば筋が違うわ」 話すその口調ほど吹っ切れているかは分からないが、晶は気丈にそう言った。 ただでさえ読めない現状を抱えているこのタイミングでの、剛蔵さんの行方不明……聞くまでもなく心配だろう。だが、晶は俺たちとの真相究明を優先してくれている。 いつだってこいつはそうで、自分のことは後回し。こんなときまで、おまえって奴は。 「でも、ほんとに大丈夫? こう見えて、あっちゃんは剛蔵さん大好きっ子だしなぁ」 「離れてて平気? 泣いたりしない?」 「なッ、ちょ──あゆ、おまえなぁ。人をファザコンみたいに言うなよっ」 「晶、涙目になってるわよ。寂しい気持ちは分かるけど、ここはぐっと堪えなさい。ハンカチ使う?」 「泣いてないし!」 なんのかんの、いつもの空気に戻る俺たち。 ああ、ナイスフォローだ二人とも。こういうときには、空元気であろうが声を出していくことが必要だろうから。 極力周囲の状況に目を配って、もし何かあったなら剛蔵さんのことに注力する。手なんて抜かない、誓ってもいいさ。だから、それで許してくれよな晶。 「一つ、気になることがある」 そしてそう思ったからこそ、俺はずっと考えていたことを口にすることにした。晶が気丈に振舞っている以上、一人で抱えていてもしょうがない。 確度がどうこうと理屈をつけて話さないでいることは、こいつらに対する不実だろうと気付いたから。 「戦真館の校舎での戦いに俺たちは負けた。どういう見方をしたところで、これは間違いのない事実だよな」 「……ああ、そうだな」 「ぐうの音も出ないほどにね」 あの惨劇を思い出しているのだろう、皆の表情に影が宿る。 俺たちは戦真館で課されてきた教導を、それなりの達成度でこなしてきたはずだ。しかし、圧倒的な暴威の前にはそのような温いものなど一切通用せず。 手もなくただ捻られたという事実のもたらす苦さが、今この場に漂う空気を重いものに変えていた。 「俺が意識を失ったその後のことを、覚えてる奴はいるか?」 出鼻を挫かれ、すべての武技が届かずに……そして次々と倒れ行く仲間たち。 何もかもがまったくの無力。夢の世界に潜り始めるようになって、もっとも悲惨な戦いの結末と言えるだろう。 そして、俺の問いに返事はない。 「……覚えていないか。まあ、そうだよな。俺も記憶が曖昧だ」 「ならば当然、あいつらを斃した奴なんていないってことだな」 「そりゃそうでしょう。あの状況からの逆転ができる奴なんて、私たちの中にいやしないわ。悔しいけど」 「ああ、あの場は俺たちの負けだ。そして、だからこその疑問というものがある」 「戦真館のあった時代……〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈後〉《 、》〈の〉《 、》〈歴〉《 、》〈史〉《 、》〈が〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》」 「それって、どういう……」 「思い出してみろ、あのときの光景を」 そう言って、俺は視線を上げると皆へ向き直る。屈辱から逃げることなく、これからの未来へと繋げていくために。 「学舎は崩壊してるんだよ。跡形もなくな」 「戦真館はあいつらの手に落ちたはずなんだ。それからいったいどうなったのかという疑問だよ」 「あ──」 思い当たったのだろう、世良が小さく声を漏らす。そう、それこそが目下最大の問題だった。 空を引き裂き現れた百鬼空亡に、徹底的に破壊され尽くした戦真館。 そこから先が問題なんだ。〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈百〉《 、》〈合〉《 、》〈香〉《 、》〈さ〉《 、》〈ん〉《 、》〈が〉《 、》〈殺〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈ら〉《 、》〈戦〉《 、》〈真〉《 、》〈館〉《 、》〈の〉《 、》〈歴〉《 、》〈史〉《 、》〈が〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈か〉《 、》〈ね〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 よって懸念されるのは、この現代における〈千信館〉《トラスト》が存在していないという事態であり、そのことを皆に伝えた。 筋道を立てて考えれば、その可能性こそもっとも強く有り得るわけで、イコール俺たちの修学旅行が無かったことのようになっているのも説明がついてしまう。 しかし俺は、本当にそんなことがあるのかという猜疑心をどうしても晴らすことができない。この世界が一見何も変わっていないだけになおさらだ。 「それに……」 俺はそっと自らの首筋に触れた。あのときの感覚が生々しく蘇ってくる。 「……俺は柊聖十郎に食い付かれ、生きながらにして体内の血液を吸われた」 「っ、マジかよ……」 「それって、吸血鬼みたいに?」 「ああ。あの行為がどう俺の身体に作用するかっていうのも、気になるところではあるが……」 「まあこれは自分事だな、一旦置いておこう」 全員の視線が俺に集まる。現状把握がてらの報告で、過度に心配させるつもりじゃなかったんだがな。 今のところ後遺症などは感じられない。あの男がわざわざ吸血という行為をとったのだ、意味がなかったなどとは思えないし、当然気にもなる。 しかし、これも考えた所でどうせ結論のでないこと。リアルに吸血鬼などというわけでもない以上は、過度に気にしたところで仕方がない。 「とは言え、油断しちゃだめだよ柊くん」 「何もないなんてことは、正直考えられない……脅かしたりするつもりじゃないけど」 「ああ、分かってる」 「俺も無理はしないさ。一人で我慢を続けていたら、おまえたちに累が及ばないとも限らないからな」 指揮官的な立ち位置にいる俺を失うことで、このメンバーの戦闘時における統率は大きく乱れてしまうことだろう。ゆえに仲間を思うならばこそ、自分は最後まで立っていなくてはならない。 そして……これはまだ推測の域を出ないが、夢の世界に戻れば何かが掴めるかもしれない。 むしろ現実にずっといたところで新たなヒントが転がってくることなどほとんどなく、それなりの覚悟を決めて動き出すしかないだろう。 二つの世界の因果がまだ把握できてない今、万事を過度に気にしても始まらないだろうから。 そして、俺たちにできることは…… 「まずは〈千信館〉《トラスト》に行ってみよう。いいか、みんな」 「おうっ!」 そうして俺たちは、どう見ても日常そのものの並木道を歩きながら千信館へと向かっていった。 辿り着いたそこには、だが予想に反してと言うべきか、俺たちの学舎が存在していた。 それについて栄光たちは露骨に安堵の吐息を漏らしていたし、俺にしても同じ気持ちだ。 しかし、なんだろうか。具体的に何がとは言えないが、どうも違和感があるような…… 「それじゃ、手分けして校舎内を見て回ることにしよう」 思いながらも、俺はそうみんなに指示を出す。もしも異変を察知したら近くにいる仲間と合流するようにと付け加えながら。 夢の世界に棲む者たちがここにいるわけはなく、取り越し苦労だとは思うが念には念をというやつだ。 そして…… 俺、晶、我堂の三人は教室へと入る。 ここも特に変化はなし。チャイムまであと数分、思い思いにそれぞれが過ごすいつもの風景。 そう、表面上はいたって普通に見えるのだが…… なんだろう、やはり上手く言えないが僅かな違和感を覚える。こっちが穿った見方をし過ぎているからか? 晶も同じことを思っていたのか、俺にそっと耳打ちしてくる。 「なんつうか……いや、ちょっと自信ないけどよ。どっか変じゃね、この教室の雰囲気」 「微妙にいつもと違うっつうか、どこがと言われたら困るけどさ」 「なんで困るのよ。おかしいって思ってるんでしょ?」 「ちゃんと言葉で説明してくれなくちゃ分からないわ。どういうことなの?」 小声で合わせる我堂はと言えば、それほど妙なものを感じていないらしい。俺たちの会話に怪訝そうな表情を浮かべている。 俺はどちらかと言えば晶の側だが、立ち位置としては非常に消極的と言わざるを得ない。何かが普段と違っているような気もするが、いざ説明を求められると言葉に窮してしまうのだ。 つまりはさしたる確証がなく、自ら発言するほどの事態ではないという判断。 晶自身もそこまで強い違和感を覚えているわけではないらしく、頭を抱えてしばらく唸っていたが、思い付いたように教室の一角を指差して言う。 「たとえばほら、見てみろってあいつ」 「片倉ってさ、普段はわりとノリが軽いっつうか、お調子者みたいなキャラしてるじゃん。栄光みたいなさ」 確かにそうだなと晶の言葉に首肯する。クラスメイトの片倉は見た目も性格も端的に表すなら今風の男子で、口にしている冗談がよく上滑っているのを見る。栄光みたいなというのは言い得て妙だ。 両者の違いは、片倉の方は多少の自重というものを知っているため栄光ほどの弄られキャラにはなり辛いというところだろうか。 実際のところ、この二人はそこそこ気も合うようで、たまにつるんでいる姿を見掛けることもある。 「なのによ……」 そう晶に視線で促されて見てみると── 片倉はおもむろに机の中から参考書を取り出して、誰に言われるともなく大人しく予習を始めたのだ。 それ自体は感心なことだろうが、要はそこがおかしいと言いたいのだろう。 「ほら。変っつうか、いつもとはちょっと様子が違うだろ?」 「片倉ってあんなことする奴だったか? 授業中でもないのに自習とか真面目かよ。そもそも成績だって悪かったはずなのに」 「あのさ。そもそも私思うんだけど、それって何も問題ないわよね」 「いいことじゃない、真面目に勉強してるのは。そりゃ普段とは少し印象違ってるかもしれないけど、これまでの学生生活を悔い改めたのかもしれないし」 「新しい一歩を踏み出すのに遅いなんてことはないわ。あいつが今私たちが気にしなきゃいけない相手だとは、ちょっと思えないのよね」 「う、ま、まあ、言われてみればそうだけどよ……」 言葉に詰まる晶。まあ我堂の言うことは正論で、片倉の行い自体には何も問題などない。それを変だという言葉で片付けるのもいささか忍びないというものだ。 ほら、あの姿勢。見事に背筋が伸びているそれは、なかなか出来るものではない。自己向上の意欲に溢れているのがここからでも見て取れるようだ。 そして、なんとはなしに眺めていた俺は、あることに気付いた。 姿勢がいいのは片倉だけじゃなく、この教室にいる全員だということを。 「……我堂。ここ一ヶ月くらい、テストの予定なんてものはないよな」 「ええ、しばらくないわね。っていうか、こないだ終わらせたばかりじゃない。もう忘れたの?」 「大して間を置かずにまたあったら、さすがにみんな保たないわよ。まあ、私は汚名返上のいい機会になるから嬉しいけれども」 そう、そんな予定はないはずだ。にもかかわらず、教室全体に漂うこの集中。緊張。 これがおかしいことなのかどうかはさて置き、普段とは明らかに違っていることを確信する。俺の知っているクラスメイトたちは、生憎とこんなに堅物揃いじゃないのだから。 そして…… 「おい柊、あいつ──」 「長瀬くん……だよね。なんでうちの教室にいるの?」 教室に入ってきた歩美に言われて気付く。俺の斜め前の席に座って黙々とノートの確認をしているのは、クラスが違うはずの長瀬だ。 友人に会いに来ている風でもなく、ごく自然に授業の予習をしているようなその横顔。どうしてこいつは、無関係であるはずの学級にいるんだよ。 「おい、これって……」 「なんだか空気がおかしいね。しかも、誰一人としてそれを疑問に思ってない」 「まるで、以前からこうだったみたいに──」 よく見れば、長瀬の他にも他クラスだったはずの奴らが教室内には点在していた。そのいずれも真面目に教科書なりノートなりを開いて席に着いている。どこか緊張感を漂わせているその様子は、まるで余裕のない劣等生のようだ。 ここに至って、俺たちは異変が明確なものだと気付かされる。明らかに何かがずれていた。 今いる場所は紛れもなく現実の世界であり、夢の発動など無論のこと不可能だ。ゆえに彼らが何者かに操られているだとか、そういう荒唐無稽な推論は成立しない。 ならば、やはりあの戦いで戦真館と共に歴史も崩壊し、それに伴って未来が一部変わってしまったのか? 微妙に面子の変わったクラスに、全員が等しく醸し出している緊張した雰囲気。その意味するところはなんだ? 互いに顔を見合わせ、この空間に言いしれない不気味さを感じていると、それを裂くように勢いよくドアが開いた。 「──立ち歩いている者がいるな。今が授業の何分前だと思っている」 「時間丁度に席に着く、その考えからして既に間違っているとなぜ気付かない。チャイムはあくまで私たち教官が教室を訪れる時刻であり、貴様らが堕落していられる猶予などではない」 「いいか、次はないと思え」 芦角先生が来て、教室に入ってくるなり厳しい声音でそう告げる。 「っ、おい四四八──」 「どういうことだ……?」 俺や隣の席にいる晶、栄光たちも含めて困惑が走る。先生がその身に纏っているのはいつものジャージではなく、戦真館の教導服だった。 現代においては知る由もないこの格好をなぜ芦角先生が──そう考えを巡らせるも咄嗟には判断がつかない。 まず考えたのは〈花恵〉《かえ》教官がそのまま俺たちの時代へ訪れたというものだが、それは推論にしてもあまりに荒唐無稽なものだろう。 言うなればタイムスリップであり、邯鄲において行使できる力が現実に影響しているということになってしまう。それは夢の世界における最深部に到達せねば成し得ないもの。 俺たちが意識を失ったのは第四層からの五層であり、そこから何をどうやったところで一足飛びに第八層まで踏破するなどということは不可能だ。 そして、もしも目の前の人物が教官であるならば、俺たちを見てなんの反応も示さないということはないはず。 先生は視線すらもこちらに向けてくることのないままで、言うならば日常の振る舞いを見せている。それは取りも直さず、彼女が花恵教官ではないことの証左ではないか。 だがしかし、異変が起こっていることに間違いはなく、それは服装に加えて先程の物言いにも理由がある。 俺たちを前にして目の前で語られた言葉は、普段万事にルーズなこの先生が展開する類の論旨ではなかったから。 そもそものことを言えば、チャイムは先生の言うような役割のものではないし、生徒たちにしても冗談混じりに何か返してもいいはずだ。 しかし注意を受けたクラスメイトは大人しく退散する。まるで何かに怯えるような……口を引き結び緊張した面持ちで。 他の連中はといえば全員背筋を伸ばし、胸を反らすように直立した。ここは合わせたほうがいいとほぼ反射的に直感し、俺たちも続いて立ち上がる。 「起立──礼ッ」 張りのあるその声に全員揃って深々と頭を下げ、機械のように着席。 一種異様な光景だ。横目で一連の流れを窺いながら俺はそう感じる。どの生徒も鬼気迫る雰囲気を纏っていた。 そして── 「貴様らが弛むのはまあ勝手だが、それによって御国が迷惑を被る結果となるのが分からないか」 「知っててそのように振る舞っているのならば不敬罪。知らずにやっているというのなら、一度目だけは教導してやろう」 「二度目であれば腹を切れ。介錯だけはしてやるさ」 もはや疑う余地などなく、明らかに彼女は俺たちの知っている芦角先生ではなかった。 その口調、纏った雰囲気は〈戦真館〉《トゥルース》における緊張を孕んだ空気と酷似している。 「おい、あれってさ……花恵さんてか、教官ぽくね?」 「確かに」 やはり同じ感想を持った晶の耳打ちに、俺は頷く。 目の前にいるのは、先生というよりもまるで花恵教官。俺たちに〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》を叩き込んでくれた恩師に近い。 が、しかしそれとも違う──威圧的な言動を先に立たせるというやり方は、微妙な差異ではあるものの花恵教官の振る舞いからも外れていた。傍にいた俺たちだからこそ、はっきりと分かる。 教官と比べてもどこか険があるのだ。まるで彼女の特徴であるその気安さを、身体中のどこからも排除してしまったかのように。 そして考えれば考えるほど、芦角先生という人物像からは遠ざかっていく……眼前の彼女はいったい如何なる存在なんだ? 今この教室を包む空気というものは有り体に言えば軍隊の醸し出すそれであり、現代の学生にはおよそ似つかわしいものではない。 なのになぜ、クラスの生徒たちは誰も疑問に思わない。そもそもどうしてこんな風になってしまったんだよおまえたち。 ホームルームの時間を使って、先生は終わることなく訓辞を述べている。その内容はなんと言うか、この現代には非常にそぐわないもので── 「今現在がどのような時勢というのかは、貴様らとて知らないわけではないだろう。そう、欧米列強との剣が峰であり、激戦の最中に他ならない」 「すなわちそれは、学徒である貴様らもいずれ御国のために出征するということを意味している。ここで学ぶのもひとえにそのため、守るべきものの刃となるためだ」 「日常生活ごときで醜態を晒すようならば、言うまでもなく到底戦場では役立たずだ。いいか、己を高めて敵を狩れ。決して後ろは見せるんじゃない」 「一人でも多くの首級を上げて、我らが同胞の力となれ!」 ……それはアジテーションにも似た論調であり、異様さを感じさせはするものの周囲の誰も異を唱えることなく黙って聞いている。 事ここに至って、もはや異常を通り越した状況なのは明白だった。先生の発言内容が正しかろうがそうでなかろうが、俺たちが知っている二十一世紀はそんな演説がまかり通る世の中じゃなかったのだから。 だいたい、今が戦争の最中とはどういうことだ。これが邯鄲での戦いによる影響だとでも? 戦真館という局所的な歴史変更のみならず、全世界的にそれは波及しているというのか? 言ってしまえば、たかが辰宮百合香の安危や俺たちごときの行動一つで、いきなりこんな変化が起こるなど受け入れられるわけがないし、到底納得などできはしない。 だがそのとき、目の前で誰かの身体が小さく揺らぎ、俺は反射的にそちらへ視線を向けていた。 俺の斜め前にいる長瀬が、どこか体調悪そうに肩を喘がせている。そういえばこの男子生徒、元々身体があまり強くなかったことを思い出す。 貧血なのだろうか、今や長瀬は上体が傾いで船を漕いでいるような状態だった。それは体調のことであって仕方なく、一刻も早く休ませてやるべきだろう。 しかし分かってしまう。この雰囲気の中でそれはおそらくまずい── 「おい長瀬ッ、貴様何をやっている」 「──起立だ。早くしろ」 懸念された事態が的中する。不動の姿勢を保つことのできなくなった長瀬は芦角先生にそれを見咎められ、叱責を浴びていた。 「誰がボサッとしていいと言った、急がんかッ!」 轟雷のごとき声に教室の空気は更なる緊張を帯びる。長瀬は抗議をすることもなく椅子から立ち上がって、直立不動の姿勢を取った。 そして他方、そんな長瀬を一切慮ることなく氷の視線を向けて先生は続ける。 「貴様はそれでも未来の軍人か。御国の力となる学徒か」 「ふざけるなよ反吐が出る。たかが私の話くらいまともに聞けない虚弱が、将来何の役に立てるというのだ」 「ただ存在するだけの兵士がどれだけ部隊の士気を下げるか、知らないわけでもないだろう。今の貴様はまさにそれだよ長瀬」 「つまりは腐敗した存在に過ぎん。このままここに置いていては、周囲をもまた腐らせる」 「ッ、先生っ──」 「柊四四八、発言の許可を願いますッ」 たまりかねて俺は立ち上がった。口調が〈戦真館〉《トゥルース》でのものになってしまったのは、今のこの雰囲気に引っ張られたからだろう。 一瞬鼻白んだような表情を浮かべてこちらを見る芦角先生。しかし即時に糾弾しないということは、発言自体は許可されたのだろう。俺は長瀬を庇うように一歩前に出て口を開いた。 「長瀬は元々体調が弱いと聞いています。時にふらついてしまうことくらい、仕方がないのではないでしょうか。どうか、寛大な措置をお願いします」 「この場での失態をこいつは糧とし、努々忘れることなくきっと一端の男となることでしょう。先生にはそれを見守っていただければと……」 「そうだよ花恵さん。そんな体調悪い奴を責めるみたいなのってあんまりだぜ」 「なんていうか、そんなの全然らしくないだろ。いつもはもっと──」 「誰が貴様の発言まで許可した真奈瀬ェ!」 「──仲間のために立ち上がったという、その一点のみに免じて今回だけは許してやる。だが貴様の話を聞く気はない、着席しろ」 「──っ」 有無を言わせぬその迫力に、抗議をした晶の方が気圧されて一歩後ずさってしまう。俺は視線でここは合わせておけと合図を送った。 不承不承ながら晶が座って、それを睥睨するかのように芦角先生は言い放った。 「いいか真奈瀬、甘ったれるな」 「これから貴様らが臨むのは真の戦場であり、その先に続いているのはこの国始まって以来の未曾有の危機だ。そこで力となれない者を同士だと認めることはただの馴れ合いに過ぎず、言ってしまえば時間の無駄だ」 「体調だのなんだの温いことを言っている余裕がどこにある。敵に周囲を囲まれた窮地において、そんな馬鹿げた言い訳が通ると思うか?」 「むしろ、紛い物を戦地へと送り出すことこそ御国に対する背信行為に他ならない──」 「ゆえに長瀬はここで死ぬ。生かしておいたところで、このような雑魚は何者にもなれはしないだろうからな」 背筋の凍る眼差しでそう言って、先生は腰に帯びている剣に手を掛けた。 俺は息を飲む。その怜悧な視線は疑いの余地なく本気のものだ。 そして俺たちがそれ以上に驚いたのは、長瀬自身が先生の言葉に従い覚悟を決めたような表情を浮かべたことだ。 無言で頭を垂れて、自分を殺すと言い放った相手にその身を晒す。これもまた冗談などとは思えない所作で、どういうことだか分からないが馬鹿げているとだけは言い切れる。 まるで介錯を待つかのような長瀬の態。それに芦角先生は一歩近付き、そして…… 「ちょっと、いい加減にしてくださいッ」 「殺すとか雑魚とか、本気で言ってるんですか。なんで、そんな──」 音を立てて椅子から立ち上がったのは我堂。こいつも感情を抑えきれなくなったのか、捲し立てるように抗議する。 普段は目上の人間に対する常識を弁えているが、熱くなれば引かない奴なのだ。我堂はなおも収まりがつかない様子をその声音に表わしながら続ける。 「やめてください本当に。いつもの冗談にしたって、こんなの全然笑えません」 「ただでさえ、先生には聞きたい事がたくさんあるんです。ふざけるのはここまででお願いします……!」 そう、今までの不安を吐き出すように言い切った。 周囲のクラスメイトたちは相変わらず静観していて、俺はそれが何よりも不気味に思えた。どうしてこれほどの不条理を看過できるんだよ、そんなの有り得ないだろう。 芦角先生はその剣幕に目を丸くしていたが、やがて腰の剣から手を外して我堂の方を向く。表情からは少し険しさが薄れたような気がしたが…… そのまま、穏やかな笑みを浮かべて言う。 「──ああ、悪かったな我堂」 「確かに私も少し反省すべきだわ、笑えない冗談ってのはその通り、おまえの言うことはごもっともだよ」 「先生……」 いつも傍で見ていたような先生の口調に、ほっとする様子を見せた我堂。全身に張り詰めていた緊張が弛緩していく。 だが……待て、やめろ。俺の本能がそう告げている。 芦角先生は、いや、教官も──そんな吊り上がった笑みは浮かべない! 「甘かったよ、本当に」 「おまえみたいな反乱分子は、生かしておくだけで害悪ですらある。私の受け持つ学級には不必要だよ」 瞬間、耳を〈劈〉《つんざ》く轟音が聞こえ── 「え……? ッ、あ……」 一筋の鮮血を宙に舞わせて、我堂がその場に崩れ落ちた。 「おい鈴子ッ!」「なんてことを……!」 眼前の許せない不条理と禍々しさに、俺と晶は同時に立ち上がった。 己の教え子を拳銃で、しかも胸元を的確に狙っている。それが意味しているのは威嚇などではない本気の殺意に他ならず。 「何を慌ててるんだ。柊、真奈瀬──」 芦角先生は醒めた目で俺たちを見遣りながら口にする。 「戦士に非ぬ愚か者を一人、始末してやっただけだろうが。そのゴミ、早いところ片付けておけよ」 「ッ、貴様……!」 驚き、当惑──それらを軽々上回る感情が、俺の思考を爆発的に塗り潰した。 言うに事欠いて廃棄物扱いとはどういうことだ。今までどうにか堪えていたが、仲間を貶められ、傷付けられたこの怒りはとても抑えられそうもない。 俺の気勢を鼻白んだように先生は受けとめ、そして忌々しそうに険を浮かべて告げる。 「調子に乗っちまったか、柊──」 「おまえは優等だったが仕方ないな、反逆罪を適応する」 「どういうことだッ」 「粛清だよ。加えて連帯責任だ。柊、真奈瀬、及びこいつらに与する連中纏めて死刑台に送らせてもらう」 言い終わると同時、これまで不動を守ってきたクラスメイトたちが機敏に立ち上がる──まるで上官命令を受けた一兵卒のように。 教室の全方位から向けられるのは殺意の込もった視線だ。話す余地も、一刻の猶予もない。俺は仲間たちに叫んだ。 「みんな集まれ、我堂を守るぞォッ!」 「なあ、ど、どうしたんだよおまえら……マジかよ、なあおい」 「だめだよ栄光くん、そいつらには通じないっ! 早く集まるの!」 「チィッ……!」 「取り押さえろ!」 未だ状況に対する混乱状態にある俺たちに、先生の号令に合わせて飛び掛かってくるクラスの連中。 無論のこと拳を振るうわけにもいかず、どころかまともに取り合っていては数の暴力ですぐに詰んでしまう。そして、ここでの判断が遅れればそれだけ全滅の危険性は増すだろう。 「柊くんっ」 「逃げるぞ、続けェ!」 伸びてくる手をすんでのところで躱し、俺たちは廊下へと駆け出ていた。我堂を俺と栄光で抱え、世良が道の先を行く。〈殿〉《しんがり》は鳴滝がその腕力で押し留めてくれている。 「くそ、どうなってやがるッ本当によ……!」 「いいぞ鳴滝、来いッ!」 進路の安全を確認して声を張る。いったん開けたところに出てしまえばこのまま逃げ切れるはずだ。 共に机を並べていた仲間たちがこうして襲ってくる光景はまさに悪夢であり、とても現実の出来事とは思えない。 我堂の呼吸は徐々に弱くなってきている。とにかく全速でここを出て、追手からの距離を稼ぐ。その後はその後だ。 「逃がすな追えェ!」 恩師の声が響き、俺は拳を握り込む。どうなっていると言うんだこの世界はッ! 我堂を抱えたまま俺たちは逃走する。最後尾を守っていた鳴滝は負担も大きいだろうが、このままなんとか行けるだろう。 ……その際、俺はある異変に気付いた。いいや正確には、最初に感じた違和感の正体を。 正門に記されている母校の名前が、〈千信館〉《トラスト》でも〈戦真館〉《トゥルース》でもなかったのだ。 そこにあったのは〈戦〉《、》〈信〉《、》〈館〉《、》。 どういうことだ? 〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》を奉じる世界ではないというのか。 戦を信じ、尊ぶ世界……そんなことを頭に思いながら、俺たちはただ全力で逃げ続けた。 俺たちのいるこの世界は、何かが決定的に変わってしまった……それは間違いないだろう。 教室を包むあの空気に、芦角先生の変貌。元の姿を失ってしまったのが母校だけとはとても思えず。 我堂が負った銃傷は言うまでもなく心配だったが、安易に病院に駆け込むのは危険だと判断する。芦角先生の手がすでに回っているかもしれないし、そうでなくともこの世界における公的機関を信用することはもはや出来ない。 警察に行くのも同じ理由で駄目だろう。しかし悠長にしていられる時間などなく、気ばかりが焦る。 そんな中、俺たちが行き先として選んだのは…… 「それじゃ、よろしくお願いします」 我堂の自宅へと向かい、家長である親父さんへと俺は深々と頭を下げた。 何らかの変容を遂げてしまったこの世界で、現状信用できる相手というものは極端に少ない。そんな中、俺たちが駆け込んだのはここだった。 当たり前の話として家族であれば娘を救うことに否応もないし、我堂本人も家に変化はなかったと言っていた。 そしてその通り、幸いにも我堂の家族はみな正常で、こうしてみると変わってしまった事など何もないのではないかという気にもなるが…… 無論のこと、撃たれてしまった我堂の命を救わなければたとえ逃げおおせても意味などなく、そこでこの家に古くから根付く右翼系の伝手はどうだと提案したのが鳴滝だった。 事情を抱えた人間が掛かる非合法の医師というものがこの世界にはあり、それを俺たちは頼っているというわけだ。 正門で家人に取り次いでくれたのも鳴滝であり、この家という場所に慣れているのが行動の随所から窺える。 そして、そのまま一旦匿ってもらっているという流れだった。こんな不躾な訪問にも関わらず親父さんは話の分かる人で、それだけ我堂が両親から大切にされているというのが伝わってくる。 お茶まで出されていささか恐縮しながらも客間を見回す。流石に立派な建物で、俺たちが全員こうしていてもまだスペースに相当な余裕がある。 テレビなども点いており、気は落ち着かないながらも俺は視線を遣る。映し出されているのは普段たいしてチャンネルを合わせることもないニュース番組だ。 情報を集めなければならないという状況も手伝って、画面に俺は集中する。この世界が改変されたのだとしたら、それは何処だ? リモコンを手に何局かチャンネルを回してみて、俺は思わず絶句した。 「なんなんだ、こりゃあよ……」 「有り得ねえだろ、マジで」 我堂の容態を告げに来る鳴滝を待っている間に理解できたのは、俺たちのいる現代はこれまでとまったく違うものになっていたということ。 画面に映っていたのはどこも戦地。比喩ではない、銃火が今まさにこの時もカメラの向こう側では飛び交っている。 荒廃した市街地、爆風、雲一つない青空を我が物顔で横切る戦闘機…… それはまったく現実味のない光景で、俺は視線を注ぎながらもしばし言葉を失ってしまう。 命の遣り取り。それは夢の中で幾度も実感したが、あれはあくまで俺たちにとって異世界での出来事。だが今は違う。ここは帰るべき場所であり、その世界が酷く歪で血生臭いものに変わり果てたという現実。 「しかも、これってさ──」 「うん、邯鄲の時代と少しかぶってるね」 「あたしたちのいた第四層の、あの後っぽいよな……」 あの時代から現代まで、遡ることおよそ百年の歴史がある。 その間、日本は近隣諸国を制圧し、やがて先の大戦で敗北を喫した。そこから数十年、直接の経験こそしてはいないものの祖国の歴史は誰でも知っている。 ただ過去に起こった事実として受け止めているその認識を、眼前の光景はいとも容易く破壊していた。 アナウンサー曰く、現在の日本軍は中国を制圧…… 東アジア一帯を手中に収め、欧米列強との戦いに備えて国力を高めているらしい。 告げられる現実はまるで過去の焼き直し。そう、世界を二つに分けた世界大戦の続きを見ているような。 当時のような状況であり、なおかつ平和的解決が成されていない。うえに科学力、すなわち兵装は現在のもの。すべてが緩やかに、そして劇的に狂っている。 「起こり得たかもしれない、もしもの未来ってところか」 どうやら本当に歴史が変わってしまったらしい。突き付けられたこの現実を前に俺は拳を握り込む。 あのときの敗北がおそらくは史実の捩子を外してしまったのだろう。起こったこと自体は小さな歪みだったのかもしれないが、その波紋は大きく。 いわゆるバタフライエフェクトというやつなのか、結果としてこうなった。目の前の悪質極まる、冗談めいた混沌の世界に。 「おい、ってことは──」 「あたしたちのいた現代って、まさかなくなっちまったのかよ?」 「マジか──くそッ、最悪じゃねえかそんなのよぉ」 雰囲気は重い。ああそうだろう、自分たちの敗北という結果がこの事態を招いたのだ。 敵との実力は確かに隔絶していたし、敗北は必然だったのかもしれない。しかしだからといって割り切れるものじゃない。 守れなかった、つまりはそういうことなのだ。すべてではないが現状の一端は間違いなく俺たちが担っており、それが心を締めつける。 画面は変わり、学徒たちを戦場に動員するまでを纏めたドキュメンタリーが流れ出す。年端もいかない少年が兵士となるまでの数十日に密着するという、俺たちから見れば悪い冗談を見せられているような番組構成だ。 「これって──」 「うん、ハナちゃん先生がさっき言ってたやつだね」 そう、思い出す。 教室で起こった、まるで戦時中のような非道。しかしそれは、この世界の住人にとって違和感を覚えるものでなく、しごく当然のことだったのだ。 ここは紛れもない戦下で、芦角先生は教官だった。夢なんかじゃなく現実に。 「なあ……やっぱもう元の花恵さんは戻ってこねえのかよ」 「言うな晶。仕方がない」 「事実を受け止めて、俺たちだけでも変わらずいるんだ。振り返るな、前を向け」 「ああ、ごめんな四四八。弱音なんか吐いて」 「でも……でもよぉっ」 芦角先生。陽気で、フランクで、しかし決して大事なことは怠けずにその根は真面目。 俺たちは恩師を失ったというのか、しかも別れすら告げられず。 立場として皆に自制を促しているが、俺とて己を抑え続ける自信はなかった。いつ理性の軛から獣性が解き放たれてしまうのかも分からない。 そこに…… 「鳴滝っ──」 「おい、あいつは……我堂はどうなったんだよ。まさか……」 「ちっとは落ち着け、大杉」 そう宥めるように告げて、鳴滝は俺たちに向き直る。 その所作は若干の安堵を滲ませており── 「鈴子は助かった。弾丸が上手いこと身体を貫通してたのがよかったらしい」 「時間は掛かるが、しばらく安静にしてれば治るってよ。後遺症もないみてえだ」 「よ、かったぁ──」 「うん。本当に良かったよ……」 我堂が一命を取り留めた……それは俺たちを取り巻く状況からすればほんの小さな幸運であるかもしれないが、他のどんな戦果よりも大きなものだ。 仲間のため、目の前の理不尽を見逃せず立ち上がる。そういう熱い奴なんだよ、あいつは。 それがあんな事故みたいなもので命を失うなんて、どう考えても有り得ないことだろう。認められないにも程がある。 皆も一様に喜んでおり、俺たちの間に安堵の感情が広がっていく。 ただ…… 「ということは、この状況下で我堂はもう──」 「ああ、動くのも何もかも禁止だ。さもなくば命の保証はできねえとよ」 「当然、戦うだなんてとんでもねえな」 俺の言いたいことを目敏く察した鳴滝が告げる内容──それは、我堂の戦線離脱。 銃撃をその胸に受けたのだ。傷が軽いものなんかであるはずがない。身体を動かさずここにいるのは、それが命を繋ぐための最低条件だから。 意識不明の重態でも夢に入れるかは未経験なので不明だが、仮に可能だったとしても同じだろう。なにせ〈戟法〉《アタック》や〈楯法〉《ディフェンス》は現実のスペックに引っ張られる。我堂自身も、そういうタイプだ。 よってあいつが夢に入っても、現実どおり重症患者である率が高い。ならば現実の傷が癒えてない状態で、いくら俺や晶が夢の我堂を癒しても無駄だろう。 ここにきて仲間の離脱は戦力的に痛いし、胸にはまるで寒々しい穴が空いてしまったかのようだ。しかし無論のこと、この状況であいつの命以上に優先すべきものなんてない。 残った俺たちが、すべての力を尽くすんだ、我堂の分まで。心の底からそう誓う。 「んで、話の続きだが」 「こっちは良くない報せだ。おまえらもテレビやらでなんとなく分かったと思うが──」 そう、画面に視線を遣りながら言う。 「おやっさんにも聞いたんだがよ、どうも今は戦争中らしい。世界中を巻き込んだ大規模のドンパチだとよ」 「んで、一般人への締め付けも厳しくなってるらしくてよ……」 「お上……この国の意向に少しでも逆らおうものなら、反逆罪みてえなのが適用されるらしい」 「即逮捕、粛正、銃殺……なんでもアリアリだとよ。教官に楯突いた俺たちはきっとアウトだろうな」 「って、いうことは……」 「つまり、マジに殺しに掛かってるってわけだ。馬鹿げてるとは思うが、それが真実なんだとよ」 その口から告げられたのは、大筋でそうなるだろうなと予測していた事態。 戦争、弾圧、そして制圧……矢継ぎ早の、眩暈のするような展開だった。 東亜連合対欧米。規模の違いは明白だが、先ほどの報道ではそれを伝えているチャンネルは一つとしてなかった。 伏せている? 事実は? 何も、それすら把握できず、ただ混乱に放られていくだけ。 そして今や、この身すらも安全ではなく── 「どうやら外はお巡りが見回ってるらしくてよ、ここにも俺らが隠れていないか聞きに来たらしい」 「怪我してる奴の実家だからな、まあ潰しに来るのは当然だろう」 「それで、なんて……?」 「んなガキどもは知らねえってよ。貸し作っちまったな」 「おまえらも、後で礼言っとけよ。おやっさん見た目ほど恐くねえから、んなビビんなくてもいいぜ」 こういうところも知った上で、鳴滝は我堂家を勧めてくれたのだろう。こいつにも貸しだな、これは。 見れば外には赤色灯らしきものが時折見え、まだ警官は近くにいるようだ。それはつまり。 「迂闊に外出はしないほうがいいな。まだ警戒は解かれているわけがないし、捕縛されるのが関の山だ」 「そういうこったな。ここで大人しくしておくしかねえだろう」 「でもよ、もう結構いい時間だし……オレらなんか匿って、親父さんただでさえ大変じゃん」 「いつ踏み込まれるかもって危険もあるわけだし、このまま迷惑を掛け続けるわけには……」 「いても構わねえってよ。つか、俺が頼んだんだが」 「いつか必ず借りは返す──そういう条件付きでな」 そして、鳴滝は外を一瞬だけ見て言った。 「選択の余地なんざねえ。お巡りに連行されたくなきゃ、ほとぼりが冷めるまで俺たちはここに籠もってるのが一番だろうな」 結局、俺たちはご厚意に甘えることにした。 実の娘が重篤な状態なのに、学友というだけで国家権力からも匿ってくれるその度量には本当に頭が下がる思いだ。同時に、我堂がどれだけこの家で愛されているかに触れたような気がする。 現状の確認を済ませた後は各々解散し、客間に案内されて寝支度を済ませる。不安はもちろん尽きないが、すべては再び夢に入ってから。まず俺たちにできることと言えば、それしかないだろう。 そして── 「あ……」 「おう、風呂空いたぞ」 「そ、そっか」 入浴をすませて部屋に戻っている途中に、晶と縁側でばったり会う。 上目遣いでこちらに視線を向けてくる晶は、現在の環境にいささか参っているみたいだ。 「なあ」 「ん?」 「おまえ、体調は大丈夫か? 会ったときから、ずっと元気がないっていうか」 「もし何かあったらすぐに言うんだぞ。こんな状況だからって、無理して身体を壊したりしたら元も子もないんだから」 心配になって、俺はそう告げる。 ずっと思っていたが、どうも今の晶には普段の覇気というものがない。言うなれば萎れている花のような印象だ。 視線一つを取ってみてもどうにも俯き加減であり、俺を見詰めるその表情にも力は失われている。 世界が変わって、我堂がこんなことになって、意気消沈しているのも当然だろう。しかしだからこそ、ここで放っておけなどしない。 しばらく晶は何か言い淀んでいたものの、どこか観念したように肩の力を抜いて口を開いた。 「何かあったらって言うけどな、その逆なんだよ」 「何もできなかったから、それをずっと後悔してる。自分で自分が許せないんだ」 そう言って、再びその視線を逸らす。 まるで、あの日の屈辱を再び見詰めているかのように。 「ごめんな四四八、本当に」 「どういうことだ? おまえが謝ることなんて何もないだろう」 「う……だから、その……」 「……あたしってさ、あのとき最初にやられたじゃん?」 「攻撃を防ぐことも、反応すらできずにさ……そのせいで回復役がいなくなって」 「みんなを、あんな目に……」 思い出すのは鋼牙の首領であるキーラ・グルジェワとの戦いだ。 勝負が始まるその前に、晶は一撃を喰らって戦線離脱状態となった。そうした意味では、こいつの言う通り力になれなかったと言えるだろう。 しかし、裏返しせばそれだけ警戒されていたことの証。だから晶が恥じることなどないと思う。 「それを言うなら、責任は俺たちにだって等しくあるだろう」 「誰か一人の問題ってわけじゃない。むしろおまえを回復に据えると決めていながら、満足にそれをさせてやれなかった俺こそ責められるべきだろう」 「四四八……」 「守ってやるなんて大きなことを言うつもりはないが、それにしても情けないよ。晶を取り巻くような布陣を組んでいながら、みすみす攻撃を通してしまった自分に腹が立つ」 「フォローなんかじゃないぞ。おまえに、歩美、栄光……みんな狙われて、目の前で倒れていった。苛立ったよ、自分の無力に」 「……だから、あんまり気にするな」 「………………」 そう、責は俺にこそある。 戦いの布陣を割り振ったのは俺で、それは戦力を十全に行使・運用できるという計算に基づくもの。 しかし甘かった。通じなかった。ならば、咎められるのはやはり俺であって晶じゃないだろう。指揮を執るとは、すなわちそういう事である。 それに……こうして幼なじみが悩んでいるのを見て、良い気分にはまったくなれない。 いつも快活で明るい晶。だがそれは、繊細さの裏返しだということを知っているから。 こいつの機微に疎くあれるほど、短い付き合いでもないんだしな。 晶は顔を上げて俺を見る。その目は未だ晴れておらず── 「ありがとな、四四八──でも、やっぱあたしは自分が許せない」 「みんなを癒せるのはあたしの役目で、それを分かってるはずなのに力が足りない。そういうのって、やっぱり無しだろう?」 「今回助かったのは、ただラッキーなだけだったし……」 「──────」 「もう、今後はやらせない」 「絶対にだよ。ここに誓うさ。だから……もう一回だけ、あたしを信じてくれないか?」 俺を見据える瞳に浮かんでいるのは覚悟の色。 皆の信頼を感じているからこそ、責任が自身を苛んでいるのだろう。想いに応えようともがくその姿は見ていて痛々しい。 決してそれは間違っていないし、責任感によって促される成長もあるだろう。同じ轍は二度と踏まない、その意気によって現在の自分を飛躍的に伸ばす奴は幾らでもいる。 しかし、俺がいま言いたいのはそういうことじゃなく…… 「分かった。おまえの決意は受け取るよ」 「だけどな晶、自分を追い込むようなこと言うな。おまえに何かあったら……そう考えるだけで、俺はもう耐え難いんだから」 「え……」 そう言って、俺は回顧する。 晶が半身を砕かれ、血溜まりの中に倒れ伏したあのときに感じた気持ちを── 「──おまえがあのとき倒れて、正直動揺したよ」 「戦場での自分の役割だって分かっているさ。俺がただ戸惑ってなどいられない」 「だけど、あの時だけは混乱した。そして立て直しが利かないままにやられた」 「おまえが無事かって、それだけがずっと気になってたんだ」 「ああ……駄目だな、指揮官失格だ。軍隊なら更迭ものだろう、こんな……」 「すまない、忘れてくれ。次からはもっと上手くやってみせる」 告げたのは、偽らざる本心。 倒れた晶に心乱し、その動揺のまま蹂躙された。そう、あのときの俺は正気なんてどこかに行っちまってたんだよ。 大丈夫か、どうなるんだ、さまざまな感情が入り交じる。正直あんな思いはもう二度と経験したくない。 こいつを喪うなんて、とても耐えられそうにないから。 「は、ははっ……びっくりさせんなよ、なんだよそりゃ……」 「そんなの、あたしと同じじゃん……」 晶は一瞬視線を逸らし── そして、再び俺に戻して口を開く。 「いの一番にやられてさ、だけど意識は朦朧と残ってて──」 「そんな中で見えたんだよ。おまえが首筋に喰い付かれてるのを。やめろって思ったよ。飛び出そうとも思った。でも、身体が動かなかった」 「四四八がやられるなんて、自分のことよりも辛い……」 「ガマンできなかったんだよ、少しだって」 「晶……」 確認し合ったのは同じ気持ち。 仲間を思い合う絆の再確認、いやそれとも違うのか? なんというか、今のは互いが特別だと告げ合ってしまったようで照れてしまう。これじゃあまるで、俺たちは…… ──己の事より、そして他の何よりも優先したい相手がいる。 それは家族に対する情に少し似ていると思う。幼い頃からこいつとは一緒に過ごしてきたわけだし、それはそれで然もありなんと言えるかもしれない。 いかん、改めて意識するとなかなか気恥ずかしいぞこれは。 視線を向けると晶も俺と同じ心持ちなのか、まるで上気したかのようにその顔を染めている。 「恋人、みたいじゃないか」 「は、ぁっ──?」 晶は思わず頓狂な声を上げる。自分で口にしておきながら、俺も意外な心持ちだった。 己の身の安全なんかよりも、何より優先したい相手。 それはもはや、恋人同士の抱く情に限りなく接近しているのではないだろうか。 こいつを守りたい。悲しませたくないし、明日も二人で共に在りたい。 そして目の前の晶はと言えば、俺の言葉に耳まで赤くなっていた。 まるで子供が照れ隠しをするかのように、うーと唸るようにして言う。 「あーもう、顔赤くすんなよな。自分から言っておいてよぉ」 「うるさいな、おまえこそだろう」 「だいたい平気なのかよ、あんなことされたってのに」 「吸血鬼モノとかでよく見るけど、変なことになってないか? 日の光が苦しかったりとかさ」 「生憎とそういうのは平気だよ」 「正直言って、まだよく分からないんだ。体感としては普通の調子なんだがな」 そう、あれは明らかに特殊な行為。 「忘れるな。おまえは俺のために生まれたのだということを」 吸血の間際、柊聖十郎が言っていたことを思い出す。 しかし現状で異変がないのは事実であり、懸念こそ幾らも残っているが、それらの確認はしようがない。 「様子見、ってことでいいのかな。今のところは」 「ああ」 「多少気持ちは悪いが仕方ない。己の未熟さだと思って受け入れるよ」 「何かあったら言えよ」 「あたしにできる事だったら、なんでもしてやるから」 そう胸を張るように言って、真剣な表情で見上げてくる晶。 思わず息が詰まってしまう。そんな近くで意気込まれるのも、なんだかな。 互いの距離が思いのほか近くなってしまったことに、晶も気付いたのか一歩下がる。ああ、なんだよこの空気は。 らしくないなと思考を弄び、遠くに視線を遣って回想する。 「修学旅行も、うやむやの内に終わってしまったな」 「さんざんなこともあったけど、こうしてみると意外と寂しいよ」 「だよなー、ったくよー」 「あんなに頑張って試験パスしたっていうのに、結果がこれっていうのは報われないよなぁ」 「試験を頑張れたことというのは自分の為になるんだ、意味なくなんてないぞ」 「はいよ、分かってるって。けどさー」 「まあ、気持ちは分かるがな」 一頻り四方山の話をし、そして── 「とんでもない事もあったけど、お互いに生きててよかった」 「これからの俺たちにあるのはただ挽回だ。ああ、このまま済ませない」 俺たちのせいで改変された世界。しかし裏を返せば、再び改変し直すのも可能ということだろう。 ならばこそ、世界を元に戻さなくてはならない。 夢と現実。どちらも戦場に変わり果てている。 しかし俺には、掛け替えのない仲間たちがいるのだから。 「まずは、多少強引にでもともかく眠ってしまおう」 「夢で、栄光たちにも伝えなきゃな」 「あっちの世界で頑張れば、現実の世界が元に戻るかもしれないってことか」 ああ、と俺は力強く頷く。 そうすれば行方が知れないという剛蔵さんも、そして他の奴らの家族も、この危険な世界から救うことが出来るはず。 それは夢にも似た儚い希望かもしれない。しかし── こいつといれば信じられる。そう強く感じながら、俺は逆襲への思いを馳せるのだった。  そして同刻──  鶴岡八幡の象徴でもある大銀杏。夜の闇に浮き上がる威容として聳え立っていたそれは、時折吹き抜ける風に枝葉を微かにざわめかせる。  弁財天社へと続く橋の上、長身の男が一人きり立っていた。  その存在は曖昧模糊としたものであり、はたして人間なのかどうかも分からない。  幽鬼の類だと言われればそれを信じる手合いもいるだろう。何を馬鹿なと一笑に伏せるのは、彼と直接触れ合ったことのない者だけだ。  何者とも協和せず己のみで完結している存在であり、単独で全世界とも対峙できそうな自負と凶兆を放ちながら、同時に指で押せば崩れてしまいかねない危うさをも内包している。  何もかもが不確かで、それは今彼の立っている位置さえも……ゆらゆらと、現世と夢をどちらにも留まることなくたゆたっている。  そして、柊聖十郎は醒めた目で独りごちた。 「まったく手間だな、馬鹿馬鹿しい。  見せてみろ四四八。貴様の夢というものを、この俺に──」  それは何かを渇望しているような──しかしやはり、彼の関心は己にしか向いていない。  ゆえに聖十郎の求めるすべては自己のため。  他はすべて道具であれ。  俺の役に立てばいいのだ、失望させるんじゃない──  かつて妻に向けたものと同じ視線を、逆十字の男は夜闇の向こうに透かす息子へと注いでいた。  子どもっぽい見た目に反して、意外と侮れない奴── 自分で言うのもどうかと思うけど、わたしの仲間内での立ち位置はおおむねそんなところだろう。  背もちっちゃくて運動音痴。一見頼りないけれど、いざというときには度胸が据わってるとか。 面白そうなことしか考えていないように見えて、意外に勘は鋭いだとか。 わたしは別に普通にしているつもりだけど、みんなにそう思われてることは伝わってくるし、実際面と向かって言われたこともある。  まあ、栄光くんやあっちゃんに比べれば、確かにそうかもしれないけど。  幼なじみの中でも四四八くんは別として、あの二人はなにをやっても大騒ぎだから。 ちょっとしたことでもすぐに慌てて、戸惑って。それで本気で熱くなったりして……  別に自分だけ引いた位置にいるつもりもないし、醒めているわけでもない。ただ、自然とわたしは、そんな二人を後ろの方から見ていることが多い気がする。 一緒になってはしゃいではいるけど、それはもちろん楽しいんだけど、心の底だけは奇妙に落ち着いてるっていうか。  まるで、みんなのいる世界と自分との間を隔てる、なにか目には見えない膜のようなものがあるような……  笑っている〈龍辺歩美〉《わたし》の横に、本当の〈わ〉《、》〈た〉《、》〈し〉《、》がいて物事を冷静に俯瞰している。 例えるならそれは、ゲームや漫画を見ているような感覚というのが近いのかもしれない。  ページの中で、画面の向こうで──どんなに絶体絶命の窮地が訪れていたって、そんなのはしょせん作り事。わたしに直接影響するわけじゃない。 仮想の銃口を突きつけられたところで、本気でやばいって焦る人なんていないわけで。  現実に起こっている出来事なのに、どこか〈向〉《、》〈こ〉《、》〈う〉《、》〈側〉《、》でのフィクションに思えてしまうのだ。 〈こ〉《、》〈ち〉《、》〈ら〉《、》には影響しないという、根拠のない絶対的な感覚でしか物事を捉えられていない。 なら、度胸が据わってるのなんて当たり前というものだろう。だって、どうせ大丈夫なんだから。  ゆとりっぽい? あはは、そうかもね。  そして、それは日常だけじゃなく。 戦真館で体験した、どの出来事でもやはり同じで──  あのときも。  あのときも。  ──あのときだって、きっとそう。  一歩間違ったら怪我じゃ済まない戦いに足を踏み入れていながら、やはりわたしはそのすべてにリアリティを感じることができずにいる。 自分でもマジかよおいって思うけど、本当のこと。 これは〈夢〉《ユメ》だからとか、そういうレベルじゃなくてね。  要するに、あらゆるものから現実感が欠けているのだ。 一歩引いた俯瞰の視点……そう言えば聞こえはいいかもしれないけれど、別に自分から望んでそうなったわけでもないし。  正直、どこか欠陥人間なんじゃないかって思ってしまうこともある。  でも。 ゲームや漫画でも泣いたり笑ったりすることがあるように、これまでわたしが示してきた喜怒哀楽は本物だ。それは絶対に嘘なんかじゃない。 だけど、自分が物事の当事者だっていう意識だけは、どうしても持つことができないでいる。 龍辺歩美というゲームキャラクターを、画面の向こうから操作しているような……例えて言うならそんな感覚だろうか。  わたしにとっての現実。 それは、スコープで見る光景にどこか似ている。  FPSで照準を覗けば、途端にわたしはその〈虚構〉《せかい》に没頭する。たとえ自分の周りに銃弾の雨が降り注ごうと、目に映る標的にしか集中しない。 すべてのことを頭の中からきれいに追い出して、〈お遊び〉《ゲーム》に入り込む集中力……それだけは、昔から異常に鋭く研がれているから。  わたしは狙撃対象を観察し、引き金ひとつで命を奪うプレイヤー。 それは仮想の空間でも、夢の中でも、きっと現実でだって同じこと。  そういった調子なので、これまですべての出来事において、どこかふわふわとしたまま接し続けている。  ああ、だけど──  今までは、そんな自分のことを気にしてなんていなかった。 しかし、〈戦真館〉《トゥルース》で過ごした後で思うのだ。みんなの相対してきた問題と、わたしは正しく向き合えているのかと。  殺されてしまう恐怖。 そして、自分が誰かを殺すという恐怖。  他にも、いろんなストレスをみんなはあの世界で乗り越えてきた。 わたしだって、もちろんそうだろう。重ねた体験は同じなのだから。だけど、きっと〈本〉《、》〈質〉《、》までは変わっていない。 敵をこの手にかけることすらも、おそらくは一種の〈非現実〉《ファンタジー》として消費しているだけなのだから。  引き金を引いた。相手は死んだ。それはわたしにとって、これまでゲームの中で何万回と繰り返してきた単調な行為に他ならず。  あのときだって、別に特別な感慨があったわけじゃない。 ただ、いつもの延長線上というだけだったのだから。  だからこそ思う── 本当のわたしは、恐怖となにも向き合えていないのではないか。 実はとても臆病な、戦場に立つことすら耐えられない人間なんじゃないか。  別にそれでも構わない、これまではそう思っていた。形はどうあれ、わたしだって多少なりとも仲間の力にはなれていてるはず。なら、そう卑下することもない。 しかし、今では一つの疑念がどうしても頭から離れない。  四四八くんは言っていた。戦う以上、殺し殺されることを覚悟しろと。  そして、みんなはそれに応えた。それぞれ多少の違いこそあっても、今までの自分を超えたんだ。 だけどわたしはそうじゃない。普段通りに〈敵〉《、》〈を〉《、》〈撃〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》だけであって、四四八くんの言葉も実際のところではきっと届いていない──  だからこそ、自分の胸に問いかけてしまう。  こんな、〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》に向き合えていないわたしなんかが。 本当に、みんなの仲間に相応しいのか。  このまま──傍に居続けても、許されるのだろうかということを。 ──閉じた瞼の向こうに感じるのは、薄柔らかい太陽の光。 おそらくは窓を隔てた先から、車の通行音が耳に届く。誰かの談笑している声が微かに聞こえた。血塗られた戦場の空気など微塵も感じさせることのない、現代日本の平和の気配。 そして、俺のすぐ傍には〈誰〉《、》〈か〉《、》〈が〉《、》〈い〉《、》〈て〉《、》…… 「ッ、ハァッ──」 ほとんど反射的ともいえる勢いをもって、俺はその場に跳ね起きた。 着ている衣服は背中から滲む汗でへばりつき、悪い夢でも見たかのように呼吸は乱れている。ああ、それはそうだろう。 なぜなら──意識を失い倒れたあのときに、俺は絶命を感じたのだから。 単純に生き延びたことを楽観するわけにもいかないだろう。いくつかの希望的観測を重ねたとしても、我ながらなぜ命を拾ったのか理解できなかった。 夢の世界で不意打ちをしかけてきた鋼牙との乱戦、そしてキーラと相対した記憶が鮮明に蘇る。 暴威と化した獣の女王に、錬磨を重ねてきたつもりだった俺たちの武技はなに一つとして届かなかった。おいそれと通用するなど思っていたわけではないが、こちらの想定よりも彼我の隔たりは遙かに大きく。 ほとんど次元が違うとすら言っていいほどの力量差。蟻が何匹群れたところで狼に敵う道理はない。成す術の見当たらないままに仲間たちが致命の傷を負わされていき、そして…… 思い出すだけで本能的に怖気の走る、さらなる〈怪〉《、》〈物〉《、》の出現。 黒雲を割き出現した禍々しい瞳。覗かれただけで発狂してしまいそうな不吉の権化に、キーラすらも敢えなく蹂躙されてしまう。 潰され、腐り、抉られ、滅する。忌まわしい哄笑を暗空に響かせながらキーラを嬲るその様はまさしく戦場における陵辱劇であり、あまりの隔絶に危機感を抱くことすらままならない。 さらには、点滅するように消えゆく俺の身体。そのまま襟を掴まれ、宙に吊り上げられながらの壇狩摩による吸血行為…… 以降は意識が失われ、一切の記憶が残っていない。考えを巡らせなくてはならないのは事実だろうが、あまりに荒唐無稽な出来事にどこから手を付けていいのかすらも分からなかった。 今回の顛末には不明瞭なところが多くある。俺自身が未だなにも把握していないに等しいのだから、必然として客観的な判断など下せるはずもない。現状の材料では筋道立てた理解など不可能だ。 しかし、どの可能性を考えてみたところで、やはり生きていることが信じられない。あれは容赦という概念の存在する局面でも、見逃してくれるような相手でもないのだから。 覚醒の倦怠感もあいまって頭が回らない。喉の渇きを強く覚えながら、額を伝う汗を手の甲で拭っていると── 「おぅ。ようやく起きたか柊」 「どうした──悪い夢でも見てたのか? なんかすごい顔してんぞおまえ」 「芦角、先生……」 すぐ後ろにいた先生が目を丸くして、様子を観察するように俺を見ていた。勢い込んで跳ね起きたことで、どうやら驚かせてしまったらしい。 まず最初に思ったのは、目の前のこの人は〈ど〉《、》〈っ〉《、》〈ち〉《、》なんだということ。すなわち、今俺のいる場所は〈戦真館〉《トゥルース》か、〈千信館〉《トラスト》なのかという疑問だ。 して見ればすぐに気づく。芦角先生の衣服、そして纏っている雰囲気……なによりも現代そのものの佇まいを見せているこの部屋自体が、とても明治や大正時代のそれとはほど遠い。 「ああ、ここは鎌倉の病院だよ。もうとっくに京都じゃない」 「まあ、あんだけ寝続けてたんだ。いくらおまえでも、起きてすぐに状況が把握できなくたって無理はないさ」 普段とは異なる俺の様子に気づいたのだろう、芦角先生は気遣うように短く説明してくれた。 ああ、そうだ──思い出す。四層突破の夢に入る前、〈現実〉《こっち》における俺たちの記憶を。 みんなで訪れた修学旅行。〈千信館〉《トラスト》の学生として迎える最大の行事。 昼間は京都の市街を巡り、初日の宿ではろくでもない騒動もあった。邯鄲において苛烈な戦闘を経験したというのもあって、そのどれもがずっと昔の出来事のように感じられる。 だが、ここは鎌倉だと先生は言った。すなわち、眠りに落ちたときとまったく違う場所で今こうして目覚めたということになる。 無論、そんなのはこれまで連続した夢を見続けてきた人生でも初めての経験だ。寝ている間にどんな経緯で移動させられたことになるのか…… だいたいにして、修学旅行はあれから一体どうなった? なぜ、京都でそのまま朝に戻らない? 「先生、俺はッ」 「落ち着け、柊。今詳しく説明してやっから」 噛んで含めるように口にする芦角先生。その彼女らしからぬ相手を慮る所作に、何かが〈こ〉《、》〈ち〉《、》〈ら〉《、》で起こったのだと分かる。 この場所が京都でない理由、それは── 「まず掻い摘んで言うとだな、おまえは修学旅行の夜に普通に寝た。そして一週間、起きることなくそのままだったんだ」 「翌朝になって声をかけても、顔を叩いてもなにしたって眉一つ動かしやしない……柊だけじゃなく、おまえと一緒の班の奴らもさ」 「七人、揃いも揃ってだよ。んなもん見たらさ、さすがの私もびびるだろ? 責任問題ってレベルじゃないよ」 そのときのことを思い出したのか、憂うように眉を顰めて先生は言う。口調こそ冗談めかしているものの、少し伏せた目はまったく笑っていない。 班の連中も俺と同じ状況に置かれていたというのはすんなり得心がいく。つまりは〈戦真館〉《トゥルース》での出来事が影響したということで、これはもう確定として扱っても良いだろう。 血塗られた記憶が蘇る。 鋼の軍勢を統べるキーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ……手もなく蹂躙された無力感は、現実の朝に戻ったからといって易々消えるものじゃない。悔恨の炎が胸の内を焦がし、知らずのうちに拳を握り込んだ。 あいつはいま、いったいどのような状況下に置かれているのだろう。俺たちの見た通り、跡形もなく〈更〉《、》〈な〉《、》〈る〉《、》〈怪〉《、》〈物〉《、》に消滅させられてしまったのか。それとも── 「おい、どうした──大丈夫か?」 「すみません。続けてください」 心配をしてくれる先生に、小さく頭を下げて詫びる。そう、まずは詳細を聞くのが先決だろう。 視線で続きを促すと、芦角先生は頷いて再び口を開いた。 「んで、どうやったって生徒が起きないもんだから、当然パニックになってな。おまえたちを〈京都〉《むこう》の病院に搬送して、検査してもらったんだ」 「いろいろたらい回しにされたよ。なにせ、複数人がまったく同じ症状なんだ。関係ないわけがないだろ?」 「それで、検査結果は……」 「見事なまでに異常なし」 「脳波も普通、特に病気も見当たらず、ウィルス周りも全部シロ。どいつも健康体そのもので、ぴんぴんしてなきゃおかしいってよ」 「〈た〉《、》〈だ〉《、》〈寝〉《、》〈て〉《、》〈る〉《、》、それ以外に説明のしようがないそうだ」 「………………」 「もちろん、目が覚めない理由ってのも分からない。検査させてみれば出てくるのはないない尽くしで、まあ現代医学も大したことねぇなって正直私は思ったよ」 医療の範疇で俺たちが常人となんら変わらないというのはその通りで、問題を探し出そうとしても当然原因は見えず、いたずらに時間だけを消費する……などという展開に陥ったであろうことは想像に難くない。 とはいえ、これはあくまで事象の裏側を知っている俺の見解だ。芦角先生はそのようなことを察する由もなく、診断が出るまで付き添ってくれていたということになる。 迷惑をかけてしまったな。彼女が神経を擦り減らしながら待たされていた時間は、相当なものだっただろう。 「そういうわけで、今朝がたおまえら七人とも鎌倉に搬送してきたんだよ。寝てるだけだって言うんだから手続き的にも問題なし」 「あ、入院にあたって柊の保証人には私がなっといた。問題ないよな?」 「ええ、ありがとうございます」 今の俺には両親がいない。入院する本人である俺の意思確認が今回のようにできない場合、じゃあ誰が許可を出すのかといえばやはり担任の教師ということになるのだろう。 「何から何かまで、すいません」 「いいんだよ、生徒がそんなこと気にすんな」 「おまえは私のクラスの中でも、屈指の優等生だったからなぁ。まあ、これまでの分のお礼ってなところだ」 そう冗談っぽく纏める先生に、俺は口元を緩ませる。 感謝を正面から受け止めてくれた上に、場の空気まで軽くするその返しはさすが人生経験が違うといったところか。普段はだらしない印象を醸し出しているものの、やはりいざというときにこの人は大人なのだ。 「話を続けるけど、鎌倉に戻ってきても大して容態は変わらなくてな。今日はいったん帰るかなーって思ってたときに、おまえが飛び起きたっていう寸法さ」 「これがあの日から数えて、まるまる一週間で起こったことだよ」 「一週間──」 さっきも聞いたが、改めてその長さに愕然とする。俺を含む七人が昏睡にも等しい状態で過ごすこととなった原因は未だ見えない。 そもそも〈戦真館〉《トゥルース》側の因果・法則については、現在進行形の手探りだというのが正直なところだった。短くもない期間を訪れていて慣れは当然あるものの、その全容を解明したとはとてもじゃないが言い難い。 そして〈現実〉《こちら》で目を覚まさないと聞いて真っ先に思い浮かんだのは、千信館の眠り姫と称されて二年もの間休学していた世良のこと。 今の俺たちとあいつで考えを詰めていけば、ヒントの尻尾くらいに至ることが可能ではないだろうか。 大前提として世良の無事というファクターはあるが、今はそれを信じることにして…… まず現在、こちらで俺たちがどういう状況に置かれていたかというのは把握した。俺は先生に再度深々と頭を下げる。 「お手数を……そして、なによりもご心配をおかけしました。芦角先生」 「本当にありがとうございます」 二年前の世良のことがあったとはいえ、今度は複数の生徒が修学旅行中に目を覚まさなかったのだ。 しかも、再び自分の担当している生徒たち。芦角先生にのしかかった心労は、想像するに余りある。どうしようもできないこととはいえ、きっと責任だって感じているだろう。 彼女はそういう人だから。普段の飄々とした振る舞いの奧に隠された誠実な人柄、そして真摯な対応は今の話し口からも充分に感じ取ることができた。 よく見ると、その目の下には隈がうっすらと浮いている。先生が対応しなくてはならないのは俺たちだけでなく、各人の保護者や周囲の人間も含まれる。先の見えない状況はやはりそれなりに堪えたのだろう。 「改まるよなぁ、おまえも」 「さっきも言ったけど、こういうことってのはやって当たり前なんだよ。私は教師なんだし」 「おまえらの健やかな学園生活を見届ける、そういう仕事なの。感謝するなら普段の素行でよろしく頼む」 「ま、柊は問題ないけどな」 手をひらひらとさせながら、そうぶっきらぼうに彼女は笑い。 「……でも、正直目が覚めてよかったよ」 「どうしても、世良のことが頭を過ぎっちまってね。今回もあいつは眠り続けた一員なわけだし」 ああ、俺ですら至るその考えだ。当時も世良の担任だった芦角先生が、意識をしないわけがない。 数ヶ月、下手をすれば数年間は目を覚ますことがない可能性も心のどこかでは覚悟していたのかもしれず、いま俺に見せている安堵は本物なんだろう。 「こうして柊が起きたってことは、他の連中もそろそろなのかね? だったらいいんだけどなぁ」 「もし歩けるようならさ、あいつらの病室に行ってやってくれ。見舞いっていうのも変な話だけど」 「おまえに声かけられたら、なんていうか連中そのまま起きてきそうじゃん?」 軽口混じりのその言葉から、他のみんながまだ目覚めていないのが知らされる。 そう、まだ全員の命が助かったなどと油断することはできない。誰の顔も未だ確認しておらず、俺が一人こうして意識を取り戻したに過ぎないのだから。 「んじゃ、医者のセンセイがたにおまえが起きたって報告してくるわ」 「あー、学園のほうにも連絡せにゃならんな。ちっと時間かかるかも……おい柊。私ちょっとここ空けるけど大丈夫か?」 「はい。清々しい気分とまではいきませんが、怠いのなんのというのはありません」 「そっか。なら悪いけど行ってくるから。なにかあったらナースコールすんだぞ、そこの枕元のボタンで」 「言っとくけど、ナースのお姉ちゃん呼んでいかがわしいことするのは禁止な。私がいないからって羽目外すなよ」 「いくら病人だからって、そういうとこで特別扱いしねえから」 「いりませんよ、そんなもん……」 栄光じゃあるまいし。 ひとしきり俺にちょっかいを出していた芦角先生は、じゃっと片手を上げて病室を出て行った。 最後のやりとりは、彼女流の励ましといったところだろうか。俺は一つ息を吐いて、いつの間にか強張っていた肩の力を抜く。 担任の仕事だとかは別にして、俺たちのせいで先生にはこの一週間多忙を背負わせてしまったことは事実。借りが出来てしまったかもしれないな。 これからの学園生活で、少しずつでも返していければと思う。それがきっと、俺たちの在るべき報い方なんだろう。 そして──やはりどうしても思い出されてしまうのは、姿形がまったく一緒な〈戦真館〉《トゥルース》での教官のこと。 向こうの世界は現在どうなっているのか。ここでは知る由もないが想像くらいならすることができる。 曲がりなりにも〈あ〉《、》〈い〉《、》〈つ〉《、》〈ら〉《、》と相対してみて、分かった事実もあったから。 各々が自らの野望の下に、あるいは信念を抱いて、あるいは野放図に…… 行動理念はそのいずれにせよ、六つの勢力はそれぞれの判断で動いているのだと思い込んでいた。しかし、そこからして大きな間違いだったのだ。 あの場に集った連中の様子から窺えたのは連帯する者同士の気安さ。すなわち、ある種の結託に近い面を持ち合わせていたということだ。 どのような関係性なのかまでは読めないが、一定の了解状態があったことは間違いない。予想すらしていなかった事態ではあるものの、考えてみれば至るべき推察ではあっただろう。 それは互いを利し合っているだけなのかもしれないし、生きるための最善として選んでいるのかもしれない。あるいは俺たちと同じく、信の通った仲間なのか……ああ分からないことだらけだ。 中でも、百合香さんの真意が俺たちの側になかったというのは特大の誤算だった。学長室の扉が開かなかったというのも、おそらくは彼女の策謀の内だったということだろう。 何故、という思いは強い。夢の中に入ってからこれまで、短くもない時間を共に過ごしてきたから。正直こうしている今でも狐に摘まれているような感がある。 いや、そうじゃなく……〈ど〉《、》〈う〉《、》〈に〉《、》〈も〉《、》〈煙〉《、》〈い〉《、》と言うべきか? まだ俺はなにか間抜けな見落としをしているんじゃないかと焦燥する。引っかかりがあるような気はしているものの、その出所は未だ分からず思考は纏まらない。 「ああ、くそッ」 苛立ちを乗せた呻きを吐き出して、頭を振って気を切り替えた。 夢と現実の相関すらも正しく解明できてない現状、ここで一人愚考を重ねていても良いことなどないだろう。 先入観に囚われて行動することの危うさなら、嫌というほど経験してきたのだから。 それならば先生の言うとおりみんなの病室に行き、声の一つでもかけてくるほうが建設的な姿勢というものだ。なによりも、俺自身が早く仲間の顔を見たかった。 数日分の〈鈍〉《なま》りのようなものこそ感じるが、幸いにも身体は特に問題なく動く。掌を適当に動かして俺が調子を確認していると── 「おお! 起きていたのか四四八くんッ」 「剛蔵さん……」 「いやぁ、良かった──修学旅行先で意識不明になったって聞いて、俺はもう生きた心地がしなかったよ。ほんっとうに心配した」 心底安心したように俺の傍まで歩み寄ってきて、剛蔵さんは口を開く。 「しかも、晶も……みんな揃って目が覚めねぇっていうじゃねえか。俺はもう、いてもたってもいられなくなって京都まで飛んでいったんだよ」 「寝てるだけだ、最悪の事態じゃねえ。そう医者の先生が言ってたとはいえ、気になるのが当たり前ってもんだろう。四四八くんは昔から、その、俺の息子同然なんだから」 「もしなにかあったら、恵理子さんにも顔向けできやしない」 「──────」 「で、なんの力にもなれやしないんだが……こうして病院に通って、少しでも良くなるのを待ってたってわけだ」 「なにはともあれ、目が覚めてくれてよかったよ。身体の方は大丈夫か? どこかおかしなところがあったら言うといい」 「もし腹が減ったってんなら、俺が家で蕎麦打って持って来てやるよ。へへっ、出前ってなもんだ」 こうして顔を合わせると伝わってくるのは、剛蔵さんの本気の思い。まだ幼いころから俺に気をかけてくれた熱い情だった。 この人は一本気な性格なのだ。充分に知っているつもりだったが、真っ正面からこうして向けられると感謝の念しか湧いてこない。 病院に来てくれている間のお店はどうしていたのか、聞こうと思ったが止めておく。それは余りにも野暮に過ぎるというものだろう。そんな確認や気遣いなど、きっと剛蔵さんの思いにそぐわない。 だから、俺は出来る限りの気持ちを伝える。 「ありがとうございました、剛蔵さん」 「俺はもう大丈夫です、心配をおかけしました──このご恩、一生忘れません」 「そ、そんな気にすんなって四四八くん! 俺は、君が元気でいてくれればそれでいいんだからよぉ」 厳つい顔を赤く染めながら照れる剛蔵さん。この人の善性というものは、本当に一緒にいて眩しいくらいだ。 「ようやく晶も目を覚ましたし、他のみんなもそのうち起きてくれるだろ。全員揃えばひとまずは安心ってところだな」 「晶、意識が戻ったんですか?」 ああ、と力強く応える剛蔵さんに、今度は俺が深く安堵する番だった。目覚めてから今までずっと張り詰めていた緊張の糸が、一瞬弛緩してしまうほどだ。 あいつらは死んでなどいないし、俺と同じく眠りに落ちているだけ……大丈夫だろうといくら自分に言い聞かせても、それはあくまでこちらの勝手な推測。意識を取り戻したと聞くと言い様のないほどにほっとする。 よかった、本当に。 「そうだ、心配してくださってるみんなに連絡しなきゃな。芦角先生はここにはいらっしゃらないのかい?」 「あ、先ほど出ていきました。病院の先生に俺が目覚めたのを報告するとかで」 「じゃあ、俺もそっちに行くか。また後でな、四四八くん」 芦角先生の後を追う形で、慌ただしく部屋を出ていく剛蔵さん。 その足音を聞きながら、遠く思い出したのは── あのときも剛蔵さんは辛かっただろう。幸せになってほしかった二人なのに、母さんは戻ってこなかった。 柊聖十郎……あの男に憎しみのすべてを擦りつけるのは簡単だ。無論、直接の原因ではあるだろう。しかしだからといって、俺になんの責がないなどとは口が裂けても言えやしない。 大切な人を、時間を、場所を。誰も傷つけることなく、どれをも守れるようになるために。 もう、誰一人として奪わせたくないんだよ。絶対に。 「はい、どうぞ」 「四四八……」 遠慮がちにドアが開き、そこには晶が立っていた。 思わず視線で晶の全身を確認するが、キーラに吹き飛ばされた下半身も健在だった。肉体の損傷は目が覚めたときには引き継がれないと知っているが、まずは胸を撫で下ろす。 ずっと眠っていたためか多少体力が戻っていない感じこそ受けるものの、晶はおおむね健康そうだった。こうして歩いたりする程度なら、今でもなんら問題ないらしい。 「親父とおまえの話してる声が、廊下にいるときに聞こえてさ」 「──生きててくれたんだな。心配したぜ」 「それはこっちの台詞だよ」 「おまえのほうこそ大丈夫なのか、晶」 眉を顰めて俺は尋ねる。こいつの負った傷は俺のものなどとは比べものにならない、まさしく致命のそれだったはず。 腰から下を労わるように軽く手を当てて、晶はあの惨事を思い出すようにして口を開いた。 「自分でも不思議だけど、なんとかな。ご覧の通りこうして生きてるよ」 「……悪い、あんなに早くリタイアしちまって」 「できるだけ粘ってさ、おまえらの盾くらいにはなってやろうかって考えてたんだけど……うまくいかないもんだよな」 「不意打ち食らって一番最初に退場するとか、ははっ、めっちゃカッコ悪いなあたし」 「気にするな。キーラの実力は、正直言って俺たちの想像を遥かに超えていた」 「あの場の誰が刃向かえたわけでもない。もし責任があるとするなら、それは全員で負うべきものだろう」 消沈してしまった晶を励ますようにそう言って、意識を失う直前に目撃した凄惨極まる光景を回想する。 「あたしたちがこうして無事だってことは、他のみんなも生きてるんだよな」 「ああ。芦角先生もそう言っていた」 と、そのとき…… 「よ、四四八……晶……」 ドアの開く音がして、入ってきたのは栄光だった。 俺と晶が並んでいるのを見て、目を丸くしたまま打ち震えている。ああ、その気持ちは良く分かる。 俺も、三人目の帰還者と再会が叶って嬉しいよ。あのときの栄光も、俺のすぐ傍で見るに耐えないような深手を負っていたはずだ。 「いや、大丈夫だったかよおまえら! でもよかった、二人とも生きててよ」 「病室に入るときはノックくらいしろよな、栄光」 「ほんっとマナー知らないんだな、おまえって奴は。あのな、そんなこっちゃこれから先いかんぞマジで」 「いきなり説教っ!?」 冷ややかな目で繰り出された晶の突っ込みに、その場で崩れ落ちる栄光。大方こいつも俺たちの話し声を聞きつけて来たというところだろう。 「ノックもなにも、女の子の着替えとかならともかく、ここ四四八の部屋じゃねえか。野郎じゃん。だったら、少々見られたって気にすることなんかあるもんかよ。なあ?」 「確認もなしにいきなり入られると、正直俺は不快だが」 「ひどっ!!」 「──まあ、こっち来て座れよ」 そう言って晶は部屋にあったパイプ椅子を自分の隣に置いて栄光を招き入れる。 「身体の調子は大丈夫か、栄光」 「ああ、まあどうにかな。さっきそこで剛蔵さんに会って話聞いたら、一週間ずっと寝てたっていうだろ。驚いたぜ」 「けど、言われてみれば確かにってとこもあるんだよな。怠いっつうか、身体の節々が痛いっつうか」 「それよりも、ひょっとしてオレらの修学旅行ってあれで終わりなのかよ!?」 そう言って栄光は頭を抱えつつ悶えている。 まあ、気持ちは分からんでもない。なにせ学生生活最大のイベントと言っても過言ではないのだから。 しかもこいつらは、俺に指導を頼んでまで直前のテストに臨んでいたのだ。こんな形で呆気なく幕引きとあっては、さぞかし不完全燃焼なことだろう。 もちろん俺も、そこは同感なわけで。 「ああ、マジで参るぜ。分かってくれるか四四八」 「もし、京都での最終日とかに勇気を振り絞ってオレに告白しようって女子がいたとしたらさ、その子は思いを告げるチャンスを不可抗力で逃してしまったってことだろ?」 「いるかぁ? そんな物好きがうちのクラスに」 「物好きでもなんでも、いたかもしれねえだろ……あ、いかん、想像したらちょっと本当に悔しくなってきた」 「なあ、四四八はどう思う。クラスの誰がオレに気があるのかな?」 「それだけ元気なら、まあ差し当たっての心配はいらないな」 呆れ混じりに俺がそう言うと、ようやく栄光の表情にリラックスしたような笑みが戻った。それは微かなものかもしれないが、確かな変化で── 晶もそうだが、だいたいこいつらは他人に気を遣うことが日常となっている節がある。たまに悪ふざけが過ぎることもあるが、概ねいい奴らなんだよ。 〈戦真館〉《トゥルース》での長い時間を共に過ごし改めて分かったが、栄光は紛れもなく俺たちのムードメーカーだ。不安という名の闇を照らす灯火であるこいつに、そうそうへこたれてもらうわけにもいかない。 それを知ってか知らずか、栄光は俺を向いていつになく真摯な表情で言う。 「おやっさん、ほんと嬉しそうだったぜ。晶の──オレたちの目が覚めてさ」 「なんていうか、今さらな決意かもしんねえけどよ」 「頑張ろうぜ。ほらあれだ、四四八が前に言ってたろ」 「この朝に帰ろう。いや、帰り続けよう。これからもずっと、一人だって欠けることなく」 その宣誓にも似た言葉に俺は強く頷く。ああ、おまえの言う通りだ栄光。 今まで世話になり通しの、剛蔵さんへの恩返しだってまだなのだから。借りだけ作っておいて勝手に死ぬわけにはいかないだろう。 互いの意志を確認し合う俺たち三人は、やがて開いたドアの外にさらなる誰かが佇んでいることに気づいた。 「顔が揃ってるわね、私も混ぜなさい」 次に来たのは我堂で、ああ、本格的に全員集まってきたな。 ここは病院だし、そろそろ声の大きさに多少注意して話す必要があるだろう。栄光に我堂とただでさえ騒がしい奴らが揃ったことだしな。 「なによ柊、じっと見て。言いたいことでもあるの?」 「いや、なんでもない。そんなところで立ってないで入ってこいよ」 「ふんっ」 「全員こうして生き残ってるのは救いだけど……これから考えなくちゃいけないことは多いわね」 「だからこそ、落ち込んでる暇はないのよ。特に大杉、あんたは元気だけが取り柄なんだから」 「己の分をわきまえて、せいぜい明るくしてなさい。行き過ぎがなければ大目に見てあげるから」 「来るなりなんつう言われようだよ……」 「ふーん。鈴子にしてはなかなかいいこと言うじゃねえの」 「まあ、あたしはおまえのテンションがいつも通りでよかったと思うわ。メンタル豆腐だもんなぁ本当」 「あんだけ派手にやられた後だし、涙目でプルプル震えてたらどうしようかと思ったわ」 「なっ、なんですって!」 「あんまり煽るなよ晶、ここは病院なんだから」 だが実際、この状況下で覇気まで失ってはいられない。希望がどうにも見えないぶん、モチベーションを昂ぶらせるフォローくらいは万端といきたいところだ。 気持ちが折れてしまったなら、存在していたかもしれない可能性すらもその瞬間に摘まれてしまいそうだから。 しかし、こいつも意外と打たれ強いなと我堂を見ながら俺は思う。 鋼牙の兵士を己の手にかけて、七人で集まったときもそうだった。皆が少なからず動揺を抱える中、我堂は予想以上に心を乱していなかった。 晶の言う通りこれまでどうもメンタルの弱い印象があったけど、意外に土壇場で踏ん張りの利くタイプなのかもしれない。 「それより柊、あんたの身体はどうなのよ」 「その、〈あ〉《、》〈ん〉《、》〈な〉《、》〈風〉《、》〈に〉《、》なってたのに……今はもう、大丈夫だっていうの?」 晶と栄光の表情が変わり、緊張が走る気配が伝わってくる。こんな風にして、聞き辛いことを避けずに言えるのも我堂ならではの特徴だ。 俺の異変──戦闘の最中に身体が突如点滅めいた濃薄を始め、そのまま夜闇に消えてしまうかのようだった。 深く考える暇も未だ訪れていなかったが、こうして指摘された今なら分かる。実のところ俺は無意識のうちに、厄介なことを後回しにしていたんだろう。 まるで霧が消えるように、人体が雲散するだなんてあまりにも世の法則の埒外すぎる。それは俺たちの戦っていたのが夢の中だというのを鑑みても同じこと。 あまりに理解不能すぎて、すべての材料が出揃うまで考察を避けておきたい気持ち……そうした心の動きがどこかにあったことは否定できない。 しかし、あのときの俺には確信めいた実感があったんだ。己の身に起こった事象の説明をするんじゃない、〈す〉《、》〈で〉《、》〈に〉《、》〈理〉《、》〈解〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》〈ん〉《、》〈だ〉《、》と。 そう。消えているんじゃなく、還っている── まるで、まだこの世に産まれる以前、母の腹の中にいた頃へと。 感じたのは、抱かれているようなその温もり、安らぎ、懐かしさ……当然ながら理屈で解せるものじゃないし説明も不可能。 しかし、だからと言って逃げては駄目なんだ。自分に起こった現実から目を背けるなど、戦真館の学生としてまったくもって不適格。特科生総代として気合いを入れ直さなければならないだろう。 己を信じ、真実を追究する。その姿勢すらも失ってしまったならば、あの男になど到底届くはずがない。 自戒を胸に俺が首を横に振ると、我堂は察したように一歩引いた。今はまだ己の〈真〉《マコト》に到達していないのかもしれない。だが、いつかきっと。 「……で? あんたはいつまで、そこで聞き耳立ててるのかしら」 「気を遣ってるのかもしれないけど、却って落ち着かないわ。さっさと入ってきなさいよ」 「──────」 我堂が声をかけ、入室してきたのは鳴滝。どうやら話の途中に加わるべきか迷っていたようだ。 そのまま壁に寄りかかって、鳴滝は室内の全員を険のない視線で見回した。 「おおかた偶然なんだろうが、全員助かったようだな。どいつもこいつも悪運が強ぇこった」 「だな。俺もそう思う」 「誰もあの連中をぶちのめしたりはしてないんだよな?」 当然にして返事はない。あと二人ほどここにはいないが、そのどちらに聞いても同じ回答だろう。 今回の全員生存は、これまでの戦いのように狙って起こした戦果ではなく単なる幸運。まさに命拾いと言える。 「ちっ、あの連中ふざけやがって──」 「どいつもこいつも、一体何者なんだっつうんだよ。くそっ」 無論俺たちだって、相当の苦戦を予想はしていた。現にあの場で選んだ行動は逃げの一手に他ならない。 しかしそれすらも許されず、軽々と打ち砕かれる。文字通り桁違いの戦闘力を見せつけられた今となってはすべてが甘かったと言わざるを得ない。 そして、すべてはおそらくあの男に帰結する。 素性はまったく明かされず、姿が一瞬見えただけに過ぎない。しかしあのとき、各勢力の頭目たちの様子で理解できた。 醸し出されていたのは、伺いを立てるような雰囲気。 百合香さん、神野、聖十郎、キーラ、狩摩……すべてはあの男の基準で回っているのだと確信できる。 洞察が甘いと言われればそれまでだが、これまで盲信していた前提を覆されてしばし全員が沈黙した。 「問題は、これからどうするのかだね」 凛とした声でそう言って、俺たちの前に姿を現したのは世良だった。 「水希……」 「あいつらとの力の差、思ってた以上だったよね。正直、もう一回戦えって言われたら──私は恐いよ」 「今だって、思い出しただけでも身体が震えてるくらいだし」 「だけど……いいえ、だからこそ考えることだけは止めちゃ駄目」 「もともと敵わない私たちが、それすらも捨てたらすべてが終わってしまうから」 「だから、頑張らなきゃ。勇気出してさ」 その表情は蒼白で、世良が強がっているのは見えていた。それくらいに彼我の差は遠大な開きをもって存在している。 だけど、それでも。俺たちは誰一人欠けることなく揃っているし、命だってどういうわけだか助かっている。 他ならぬ自分たちのことだ、今こうしていられるのがただの僥倖だなんて分かっているさ。しかしな、逃げてちゃいけないんだよ。 〈戦真館〉《トゥルース》で学んできたこと、それを証明するためにも。 「ああ、おまえの言う通りだ世良」 「だけど具体的な話は、ここに全員が揃ってからにしよう。いいだろ?」 「うん、そうだね」 「歩美なぁ、後で自分だけハブにされたって知ったらうるさそうだしな」 「あの子を外すなんて、そんなわけないのにね。っていうか、歩美の意見を真っ先に聞きたいくらいだわ」 そう、全員で決めなきゃ意味がないんだ。 ただでさえ力で劣る俺たちは、せめて結束くらい見せてやらなくては僅かな勝機すら見えてこないだろう。 だから早く起きてこい歩美。いつもの調子で、その冷静な目で、俺たちを後方から支えてくれよ。 ──そして、待つことしばらく。 「来ないな、龍辺」 「そう、だな……」 「まあまだ寝てるのかもしんないしな。別にこの部屋に集まるって、示し合わせたわけでもないし」 残る最後の一人である歩美は一向に姿を見せる気配がない。このままでは、芦角先生や剛蔵さんがそろそろ帰ってくるだろう。 「──柊くん」 「ああ」 直接口には出さなかったが、嫌な予感を覚える。まるで胸の内を、脂で滑った手で無遠慮に撫で回されているかのような。 みんながこうして次々と目覚め、集まった。そのためもう大丈夫だと思い込んでいたが、七人が等しく目覚めるなどという都合の良い保証はどこにもありはしない。 言ってしまえば、こっちが勝手に思い込んでいるだけ。そんな甘い考えで、ついこの間痛い目に遭ったばかりだろう。 夢の世界の状況を百合香さんに一通り聞かされておきながら、第四層の突破条件に疑問を欠片も抱かなかったこと……思い返しても致命のしくじりだ。 浅薄な過ちを幾度も繰り返すなんて論外だろう。見ると、他の仲間たちも考えることは同じようだった。ああ、その結論に至るよなそりゃ。 「行ってみようぜ、歩美の病室へ」 返事は確認するまでもない。俺たちは全員が立ち上がって病室を出る。少しの齟齬だろうがなんだろうが、見落として後悔するのなんてもう絶対に御免だから。 廊下で擦れ違った看護師さんに、見舞いということで歩美の部屋を尋ねる。原因不明の昏睡状態に陥っている学生たち、ということで話はすぐに通り、教えてもらって先を急ぐ。 病室はすぐ近くにあった。俺はドアをノックする。返事はない。 心臓の鼓動が早くなっているのを感じる。俺は世良と無言で頷き合い、ドアを開いた。 病室に入って、目の前に飛び込んできた光景は…… 「歩美──」 自分でも驚くほど力のない声が、思わず漏れ出てしまう。 歩美は瞳を閉じたままだった。胸元が微かに上下しているのを見る限り、深い眠りについている。 最悪の事態でなかったことに身体の力が半ば抜けたが、歩美は俺の声にも周りの様子にも気づくことなく、ただ規則的に浅い呼吸を繰り返している。 今すぐにでも肩を揺すり、起こしてしまいたい。だがきっと、そうしたところで目覚めはしないのだろう。 簡単に瞼を開いてくれるようならば、俺たちは全員そろって病院に運び込まれたりなどしていない。おそらくこれは睡眠という形を取った、現実世界との断絶なのだから。 いつどのように起きるか分からない、そういうことなんだろう。二年もの間、ただ眠り続けた世良のように。 「──────」 静かに眠る歩美の姿にかつての自分を思ったのか、世良が小さく息を飲むのが伝わってきた。 まずは命があることを喜ぶべきで、ああそれは分かってる。 目を覚ますのを穏やかに待てばいいのかもしれない。だが、俺たちの行き来している戦場には保証などというものは何もない。どうしたって不安は募るんだよ。 普段賑やかな歩美が一言も発することなく静かで、反応もなくて……それはどこか、戯画的なイメージを否応なしに掻き立てられてしまう。 「なぁ……これ、声とか掛けても平気だよな」 「おい、歩美。そろそろ起きろよ」 「ほら、みんなこうして集まってんだぜ? おまえもう充分注目されてんぞ、あんまりもったいぶるなよな」 「大杉、やめなさい」 「っ、だってよぉ……」 我堂に諫められ、弱々しく唇を噛む栄光。 気がついたら身体が動いていたんだろう。その気持ちはよく分かる。俺も今、まったく同じ感情を抱いているのだから。 「誰か知らないか、〈戦真館〉《トゥルース》での戦いの顛末を」 「こいつがあのとき、どうなったのかを──」 返事は誰からも戻ってこない。俺は壇狩摩に歯を深々と首筋に突き立てられて吸血された。そして、それ以降の記憶は一切が途絶えている。 修羅場の中で、何があってもおかしくない状況だった。そのせいでろくでもない予感ばかりが頭の中を〈過〉《よ》ぎるんだよ。 「くそッ」 知らずのうちに俺は険しく呟く。みんなの倒れたその後で、いったいなにがあったんだ── 「歩美……」 名前を呼ぶも、返ってくるのは変わらず沈黙。 歩美はただ眠っている。その静謐を湛えた表情は、俺たちの呼びかけに応えることがなかった。  そして同刻――と言うには些か以上の語弊があるそのときに。  まるで砂城が、たった一つの足蹴で脆くも崩されるかのごとく……彼らの〈学舎〉《まなびや》はいとも容易く粉砕され、転がった無数の死体が炎に燃やされていた。  女王を喪った獣たちが無謀な特攻を繰り返しては、まるで風前に灯された蝋燭のように次々とその命を消していく。  酷く粗末に、彼らは何の価値も有していないかのように、生きている者の首が生きたまま刎ねられていく光景。  血の赤が、火の朱が、夜闇に落ちた一帯を禍々しく照らす──  炙られた肉の刺激臭が鼻を突く。  悲鳴、怒号、自棄、そして断末魔……飛び交うあらゆる大音声は、次の瞬間には永遠に途絶えてしまう。  物言わぬ骸は積み重なり、更なる暴力にただ蹂躙されるのを待つばかり。  狂乱渦巻く中で歩美が見たものは、我らが戴く指揮官の〈頽〉《くずお》れる姿だった。  四四八の首筋に深々と突き刺さるのは壇狩摩の牙。  生きながらにして血を啜られる怖気と苦悶、そして脳を焼き切るかのような衝撃に彼が限界を迎えるのも遠くはなかった。  意識を失った四四八を、まるで塵か何かのように狩摩は無造作に打ち棄てる。それはすでに用済みだと言わんばかりの所作で。  柊聖十郎、辰宮、神野にそして──  吸血行為を悠々と終えた狩摩を、周囲の者はどこか遠巻きに眺めている。まるで彼らにとって興味深い実験結果が発表されるのを黙して待っているかのように。  それを睥睨し、神祇の筆頭は口端を歪めて低く嗤った。 「ま、悪ぅ思いんさんな。最近は裏方みとうなことばっかやりよって、ええ加減に俺も退屈しちょったところよ。 こがァなもんは早い者勝ち……〈俺〉《、》〈に〉《、》〈一〉《、》〈旦〉《、》、〈預〉《、》〈け〉《、》〈て〉《、》〈も〉《、》〈ろ〉《、》〈う〉《、》〈て〉《、》〈も〉《、》〈え〉《、》〈え〉《、》〈じ〉《、》〈ゃ〉《、》〈ろ〉《、》〈う〉《、》?」 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ――  六算祓エヤ滅・滅・滅・滅――  亡・亡・亡」  戦況の変化など委細〈拘〉《かかずら》うことなく、空亡は未だその凶暴を無尽に炸裂させている。  幾多もの大百足、山犬、大蛇……天から墜ちる百鬼夜行が徹底してこの場のすべてを惨滅する。空も陸もなく埋め尽くす腐臭塗れの怪物を、ただ一言で形容するなら災厄だ。  破壊し、潰し、溶かし、殺す。  数千もの死体は事切れてなおその尊厳を愚弄され、次の瞬間にはいずれも余さず滅尽する。燃え盛る炎はあたかも大蛇の舌の如くにうねり、校舎は容易く呑み込まれてその姿を灰へと変えていく。  戦真館はもはや廃墟と呼ぶことすら生温い有り様、さながら真の地獄絵図へと化していた。  すでに壊滅状態にあった特科生七名も、もはや一人として言葉も発さず身動きもない。  先刻まで限界を超えたところで戦っていたが、彼らの指揮官が地に伏したところでその精神を支える糸も切れたのだろう。  それぞれが深刻な身体欠損を負っている。直接手を下されずとも、総員このまま息絶えていくのは必定であった。 「み、んな……あぁ……」  絶望そのものが具現した光景の中、歩美にも限界は訪れている。意識を完全に喪失するのが数分早いか遅いかの違いで、辛うじて今は保っているという程度だ。  身を僅かに起こすことも、這うことすらもできはしない。  骨の髄まで思い知らされたのは圧倒的な実力差。  何度戦いをやり直せたとしても、自分たちが勝利できるイメージを描くことはできなかった。彼我の差はそれほどまでに遠大で、死に瀕する仲間たちの姿がそれを如実に表わしている。 「くハッ──」 「おう、なんちゅうザマぁ晒しちょるんじゃおまえら。雁首だきゃあ揃えといて、獣の姫さんがちぃと本気になったらそれかいや。 あがァな露骨な逃げが通らんのは当たり前ゆうもんよ。そんで仕舞いにゃ〈わ〉《、》〈や〉《、》になっての徒手空拳、はァ勝てるわけなかろうが。 まあここで温く死ねるっちゅうんなら、まだええ方かもしれんがのォ」  軽薄な調子で言葉を投げかける狩摩には、それだけの余裕と己の力に対する無謬の自負が窺える。  やがて求める物を得たりの表情で、自らの掌へと視線を移した。  四四八の血液を取り込んだのを契機に、内なる能力の一端が胎動する。  それはまるで、喜びにも似た鼓動。  深海の底に沈み眠っていた古の海竜が、再び力を取り戻して今ゆっくりと浮上したかのような──  歩美にその背を向けたまま、誰に語るともなく狩摩は冷笑を浮かべて独りごちる。 「裏を掻こうちゅうて思うとるうちは三流、それを見抜いてようやく二流。  どがァに駒を動かそうが結果綺麗に収まるんが、この壇狩摩の一流よ」  その言葉に歩美が抱いた印象は、以前に夢の八幡宮で感じたものと同じ。  豪放磊落を通り越してもはや無謀であり、出鱈目をぶっているようにしか聞こえない。  しかしそんな狩摩が六勢力の一角であることを鑑みれば、逆説的に持論の揺るがぬ正当性が裏づけられていると言えはしないか。  結果的にという但し書きこそ必要だが、それはとても強固な理論。  立っている者、そして倒れ伏す者──  戦場の人間にはこのいずれしか存在せず、正当性を有するのがどちらであるかは説明するまでもない自明のことだろう。 「そこで寝たままおとなしゅう見とけや、ヒヨッコどもがァ!  俺に言われんでも、どうせそれしかできゃせんじゃろうけどのォ」  皮肉と侮蔑を込めた言動とは裏腹に、狩摩に歩美たちの命を奪うという様子は窺えない。  彼の関心そのものがもはや戦真館には存在しないのだ。まるで、自らが手を下すにも値しない些事であると示すかのように。  そしてその事実にこそ、歩美は戦慄を覚えてしまう。  自分たちのこれまで積んできた修練など、しょせんごっこ遊びに過ぎなかったのか。  現に今、目の前にいる誰一人ににも〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》は届かない。  何ヶ月にも渡る夢での日々を思い出しながら、この世の常識では理解不能な明滅を繰り返している四四八に歩美は震える手を伸ばした。 「四四八、くん……」  ゆらりと狩摩は身を逸らし天を仰ぐ。それはまるで、己の力を確認する儀式めいた挙動。  未だ周囲には何の変化も顕れていない。しかし歩美がこのとき覚えていたのは〈既〉《、》〈知〉《、》〈感〉《、》で、それは夢界に初めて入った際のそれと同じだった。  新たな世界に足を踏み入れた感覚。  これまで自分の立っていた場所に異なる世界が現れ、通用していたはずの一切が過去のものへと変容していく。  例えるならば〈上〉《、》〈書〉《、》〈き〉《、》〈を〉《、》〈さ〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》。直感的ではあったが、それを確と認識する。  壇狩摩を創造主、すなわち頂点とする異相の世界。そこに強制的に捩じ込まれたかのような──  その深度。理の改変。時刻や天候を変えるなどという域では有り得ない。  今まで体験した何よりも凄まじい、これが本物の創界だ。  それは紛れもなく、この男が有する奥義なのだと理解する。  衰えることを知らない暴虐は、形あるものすべてを無に還す。  腐臭を放つ幾本もの腕が上空から絶え間なく降り注ぎ、手当たり次第に地上のすべてを圧壊させる。  かつては人間だった〈死体〉《モノ》や、主を失った鋼牙たちの怨嗟と絶望が戦真館には渦巻いており、それすらもおそらくは塵となるまで蹂躙されてしまうのだろう。百鬼空亡の手によって。 「はァン……われの遣り口は稚拙よのぉ。ただ壊しやげるなんちゅうんは、力のあるモンなら誰でもできようがぃや。 格が違う言うんなら、少しゃそれらしゅう振る舞うてみい。 ええわ。この俺が、きっちりカタぁ〈嵌〉《、》〈め〉《、》〈込〉《、》〈ん〉《、》〈で〉《、》教えちゃる」  狩摩は変わらず酷薄な薄笑いを頬に張りつかせたまま、その言動は傲岸不遜。  跋扈する悪鬼羅刹どもに向かって、宣戦布告の一歩を踏み出すのだった。  殺せ。殺せ。手当たり次第にすべてのものを、跡形もなく蹂躙せよ──  百鬼空亡は〈飢〉《かつ》えている。それは思考でなく破壊の本能。邪龍が触れるものはその端から存在自体が滅相され、砕け散りながら腐って落ちる。  抵抗など許されず、防御も逃亡すらも一切が無意味。破壊の権化を前にしてあまねく反抗は無駄と知れ。  ただひたすらに滅し続ける。何もかもが失われるまで。 「かっは、こりゃえらいことになっとるのう。 阿呆が力だけ持って大はしゃぎいうて、目出度い頭しよるでほんま」  狩摩は煙管を燻らせながら、嘲笑にも似た口端の歪みを隠そうともせず眼前の怪物に向けている。  その身に纏う空気はこれまでのものとは異なる濃度を漂わせていて、気づいた者たちは一様に反応を見せた。  百合香は薄笑み、聖十郎は呆れたように嘆息して、神野は通常と変わらない。  各人各様の意を晒すのは、これもまたあらかじめ用意されていた脚本なのか。それとも―― 「あんたらもちぃと余裕が過ぎるのォ。こがぁなもんは、待ちゃあええっちゅうもんじゃないのはよお知っとろうが。 手番は俺に転がってきて、しかも持ち駒にゃあイカサマまで混じっとるゆう始末…… 今からカバチ垂れようがもう遅いで。この場でしっかり、遊ばしてもらうけぇの」  一同に対するその物言いには、隠しきれない稚気が滲んでいた。  挑発、打算、そのどちらでもなく、ただ己の昂ぶりのままに放言する。物事の後先など壇狩摩には関心の埒外であり、それは今この場ですらまた同じ。  徹頭徹尾一貫している。最後に勝利を掴むのは己である。それが絶対の理だと心底信じて疑わない。 「対局始めじゃ。先手はあんたらに譲っちゃる。 少しゃあ俺を楽しませてくれよ」  三日月型に歪曲した口元から、戦闘開始の合図が告げられる。  同時、漆黒の夜空に幾筋かの光芒が奔った。 「――――――」 「これは……」 「わたくしをご指名とは、ええ、やはりと言うべきでしょうね」  創造されていく狩摩の世界。上空に瞬く軌跡はまるで何かの形状を描いているようであり、それは例えるならば将棋の盤面のようにも見受けられる。  九×九で均等に区切られた、夢界とは異なる理を掲げたこれぞ盲打ちのテリトリー。 「〈嵌〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》ようじゃのぉ。さて、誰がどの駒になっちょるやら―― なんや、大方綺麗に配置されとるわ」  場の異変に呼応するように、何人かの周囲で空間が変容をきたした。  百合香、宗冬、聖十郎、神野、そして空亡。  彼らに表立って攻撃意志が向けられたわけでも、また精神に干渉してきたというわけでもない。各々にはこれまでと同じく、邯鄲の夢を六分する力が存在する。  だがしかし、狩摩の笑みは依然消えない。 「どがァな配置になりよったかは俺の知ったことじゃありゃせんけどの、取ったゆうのは分かりよるで。 ――と、そっちは辰宮のお嬢が〈大〉《、》〈将〉《、》か。くはっ、ええで似合うとるのぅ。 なら精々負けんように、隅の方で小そうなっちょれや」 「貴様――」 「よいのです、宗冬」  鋭剣に手をかけた宗冬をやんわりと制し、百合香は嬉しそうに微笑みを浮かべた。それはまったくこの場にそぐわないもので、醸し出される違和感にはどこか薄寒さすら感じられる。  整った顔立ちに浮かぶのは誘惑の相。さあ、おまえの世界を見せてみろと狩摩を促すかのように。 「すなわち〈対〉《、》〈局〉《、》ということですか。これは面白い趣向ですこと。 あいにく将棋の心得はさほどありませんが、つつしんでお受けいたしましょう」 「おぅ、出てきちゃれや」  呼ぶ声にどこからともなく現れる三つの鬼面……〈怪士〉《あやかし》。〈夜叉〉《やしゃ》、そして〈泥眼〉《でいがん》。 己が主に禁縛され、まさしく駒と化した暗殺鬼たち。  百合香は僅かに形の良い眉を顰め、狩摩はそれを愉快げに見下す。 「鬼面衆、おまえらも混ざれぇ。この盤上で誰が威張りを効かせてええんか、よォ教えちゃれ。 特に幽雫……あいつは鼻っ柱強そうじゃし、きちっと凹ましちゃらんとの」  命の狩り取りを生業とする殺人者たちは各々対応する属性を得て、今こそ最前線に投入される。 「んじゃ、まあ御託はそろそろ終わりよ。 一局、〈打〉《ぶ》ってみちゃろうかいのォ!」  己が享楽にただ駆られただけのその咆哮は、果たして嘘か深謀か。  夢界の趨勢をも左右する対局の火蓋は、今切って落とされた。  号砲にも似た狩摩の声と拍子を合わせるかのように、唸りを増したのは空亡の攻撃。  腐敗の波動を撒き散らし、凶将陣ごと叩き潰しながら打ち下ろされるその〈腕〉《かいな》の衝撃は、苛烈にして酸鼻を極める絶望の権化に他ならない。 「く、ッ……!」  砲弾めいた轟撃を前に宗冬は舌打ちし、己が全神経を回避に総動員させる。  身体の真横を掠めた呪詛の波動、そのすべてが大地に撃ち込まれて周囲一帯が絶大無比の衝撃に震撼した。  もはやそれは攻撃という枠組みなどを超越した破壊劇。  迎撃は不可能。呼吸を計った要撃などさらに不可能。  絶望に沈め、ただ逃げ惑え、そして哀れに轢き潰れろ──百鬼空亡が哄笑高らかに謳い上げる血塗れたメッセージがそこには存在する。 「う、おおおおォォッ────!!」  死を迸らせながら凶嵐の如くに荒れ狂う空亡、その側腕部に宗冬のすべてを懸けた一撃を叩き込み、辛うじて攻撃軌道を逸らすことに成功する。  彼ほどの熟達をもってしたところで、ようやく望めるのは僅かな一時凌ぎに過ぎず。  この状況を端的に表わすならば、ああ、勝負の俎上にすら至れていない。 「……ふざけた真似をするものだな、神祇省風情が」  肩で息を吐きながら、滾る怒気を今や隠そうともせずに宗冬は毒づいた。  彼の感情の矛先は、〈突〉《、》〈如〉《、》〈と〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈己〉《、》〈を〉《、》〈狙〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》〈打〉《、》〈ち〉《、》〈下〉《、》〈ろ〉《、》〈し〉《、》〈を〉《、》〈繰〉《、》〈り〉《、》〈返〉《、》〈す〉《、》〈百〉《、》〈鬼〉《、》〈空〉《、》〈亡〉《、》の後ろにある。  すなわち、なぜ怪物の敵意はこちらに集中しているのかという点だ。  空の裂け目から地上を睨めつける空亡の感情には、僅かな変化すらもたらされていない。その攻撃の切り替えを正しく表わすなら、指向性が付与されたと言うべきか。  これまでの無差別破壊から、辰宮に狙いを定めた一点攻撃へと変質している。ゆえに護衛である宗冬は、主を守るため苛烈の撃に晒されていた。  腕が、腕が、腕が、腕が──  ぐるりと空亡の周囲に顕現し、その悉くが百合香を狙って墜落してくる。 「宗冬」 「──御意のままに」  まるで巨大砲弾にも似た威力の拳を決死で逸らし、また或いは正面から受け止めた。  当然のように宗冬の身体はひしゃげ潰れるも、即時に楯法の活を展開して自己再生。再び百合香を守護する盾となる。  綱渡りなどと評するのも憚られる無謀な回復──ほとんど〈致〉《、》〈命〉《、》〈の〉《、》〈一〉《、》〈撃〉《、》〈を〉《、》〈喰〉《、》〈ら〉《、》〈い〉《、》〈な〉《、》〈が〉《、》〈ら〉《、》〈も〉《、》〈治〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》という離れ業だ。  言うなれば、絶命すると同時に復活している。難事といったものではないその凌ぎ合いは、この男が並みの使い手でないことを如実に表わしていた。 「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃキャァァァァ、ぎゃぎゃぎゃはァ――!」  怨嗟の狂笑を周囲に響かせ、空亡は絶望の破壊を撒き散らす。その勢いはまさに怒濤で、すべての形あるものが粉砕されて無に帰る。  戦真館が――そして世界が軋み、罅割れ、成す術もなく崩壊していく。惨滅し尽くすのは徹底的に何もかもで、後には塵一つとして残さない。  割けた大地が闇を覗かせ、営庭に転がされていた死体が人と獣の別なく呑み込まれ、冥府の底へと落ちていく。どこか戯画的にすら映る眼前の様子は、まるで彼らの魂までもが暗黒に吸い寄せられていくかのようだ。 「〈こ〉《、》〈っ〉《、》〈ち〉《、》〈側〉《、》〈に〉《、》〈置〉《、》〈い〉《、》〈ち〉《、》〈ょ〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》これかい、バケモンが。 こがァなモン、いつまでも放置できゃあせんわ。はァええ加減仕留めにゃワヤなりょうるで」  聞いているだけでも精神に変調を来すであろう忌声と共に、暴虐の蹂躙を続ける空亡。  指向性という名の枷を〈嵌〉《、》〈め〉《、》〈ら〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》百鬼夜行の主が吼えるたび、この世界を支える根底そのものが軋んでいるかのような重い振動が周囲一帯に拡散する。  存在自体が祟りに裏返っているのだ──空亡を構成している概念として破壊の他は何一つとして介在し得ない。  辛うじて立ちはだかる宗冬は、まだ剣を交えて幾らも経っていないにも関わらず既に満身創痍を通り越した様相だ。加えて未だに自身の攻撃手番は回ってこず、ただ圧倒的に攻められている。  何度その身に龍の一撃を貰おうとも、死のたびごとに蘇る。だがそれが果たしていつまで続くのか。 「はァ、ありゃあ〈桂〉《、》っちゅうとこかのぉ。またあのデカブツに似合いもせん難儀な駒よ。 案の定、〈空亡〉《あいつ》はなんも分かっとらん。せっかくの百鬼夜行も台なしよのぉ、ひひっ」  自身のみが解し得る私的言語を用いて、狩摩は戦況の感想を述べた。  しかしその内容は現実と奇妙な符合があり、すなわち空亡は持てる力の一部しか行使していないように見える。  その攻撃は一本調子で、ほとんど天より撃ち下ろされる腕撃しか放っていなければ軌道もいずれは読めるというもの。  ならばなぜ宗冬が押し込まれているのかと言えば、その殴打があまりに迅く、剛烈の威力を有しているからに他ならない。  衝撃の度合いは、たとえ躱したところで周囲に壊滅的とも言える地揺れが引き起こされてしまうほど。あまりに常識の埒外だと言わざるを得ぬだろう。  防御側の反応よりも先に眼前に迫っている激拳が轟風の速度をもって幾百発と繰り出されれば、たとえ防げる理屈が立っていたとてそう容易くはいかず、ましてや反撃など及ばない。  限定的な攻撃手段にしてこの戦況優位、空亡と宗冬の両者にはそれだけの差が厳然と横たわっていた。 「ぼちぼち捻り潰しちゃれや、空亡よぉ。 このままチンタラやりよったら、おまえハァそりゃ評判倒れじゃろうがいや!」  狩摩の言に呼応し、落とされる拳撃は俄然苛烈さを増し始めた。宗冬の胴が無残にも破裂し、引き千切られ四散する。  そして、命を賭した家令に守られながらも百合香は表情一つ変えることなく、どころか得心したように頷いていた。  百鬼空亡は現状、壇狩摩の支配下にあるのだと。 「本当、あのお方は碌でもないことばかり──」  絶望的な光景の象徴であった空亡を、その掌中に収めた狩摩。  彼の能力は六陣営の中でも一際異端であり、嵌ってしまえばいかにもがいても抜けることは叶わない。  知ってはいたものの、これほどまでに悪辣とは。  この〈層〉《じだい》における空亡は前震にもならぬ半端以下の存在だが、それでも龍の神威であることに変わりはない。その力を駒に変えた手管のほどは、なるほど地相風水に通じた咒の達人――狩摩の面目躍如と言えるだろう。  だがそれでもこの創界はいきすぎだ。こんなものを展開するには相当の手順を踏まなければならないはずで、協力強制が必須の要素でなくてはならない。  しかし現状、百合香も含め他の者らも、狩摩の条件に知らず乗ってしまったという風には思えなかった。この面子を同時に嵌めることなどは、策や運の類で成せるような真似ではない。  つまり〈盧生〉《かれ》か――百合香はすでに消えてしまった四四八がいた場所へと視線を送り、それからもう一人の軍服を流し見る。  先の吸血行為により、〈狩〉《 、》〈摩〉《 、》〈の〉《 、》〈接〉《 、》〈続〉《 、》〈が〉《 、》〈深〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。ゆえに今この場に限って、条件を無視した急段の顕象を行っている。  それはすなわち、盧生とその眷属が〈邯鄲〉《ユメ》を制覇することでどれほどの力を得られるかという証明であり……  ああ、不愉快だ。いっそ何もかも引っ繰り返して、このまま屋敷に帰ってしまいたいと百合香は思った。  自分が四四八を吸血していたらどうなっていたか……その想像が苛立ちと共に、仄暗い期待感を疼かせる。  あるいは、〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈が〉《 、》。  ともあれ、現状こうなった以上、狩摩の盤面で踊るしかない。  いいや、それとも掌か?  ひとたび堕としてしまえば例外なく逃げられない。釈迦の掌を出られぬ孫悟空のように。 「ッ、ァ──ぐ、ウゥッ……!」  一方、百合香の護衛である宗冬の消耗は、もはや言語で表現できる域ではなかった。  常軌を逸した空亡の破壊力に相対しては、当然一撃で死亡する。己の魂魄が壊滅する前に辛うじて楯法を挟んで再生を繰り返すものの、そのような戦い方が幾らも保とうはずがない。  自己そのものを食い潰すような立ち回りではあるが、なにせ眼前の怪物は僅かも隙を見せることなく迫り来る。  つまりは攻撃のための余力など残せず、消耗しきったらその時点で一巻の終わりだ。 「慣れとりゃせんじゃろうのォ。おまえみとうな甘ちゃんが、相手の腹ん中で戦うんいうんは。 邪魔〈者〉《モン》飲み込むんは辰宮の十八番じゃろうが、こがあな状況いうんはどうなァ。 はっ。お上品な連中は、将棋なんか慣れとりゃせんか」  まさに高みの見物といった態で嘯く狩摩。  宗冬は空亡の成すがままに嬲られながらも、そのたびごとに蘇ってくる。  恐るべき不屈の精神力と評せるのかもしれないが、攻守交代の訪れる予兆は毛ほどにもなく、このままではただいたずらに追い詰められていくのは明らかだ。  宗冬に守護され、未だ一撃たりとてその身に受けてはいないものの窮地の続いている百合香は、甚だ不愉快そうな感情をその表情に浮かべている。  置かれた状況、その他諸々。彼女の心理は屈折しすぎて、本人にさえよく分かっていない。  辰宮の令嬢とその従者が置かれた盤面を、まるで面白い見世物のように見遣りながら。  狩摩は煙管の煙を大きく吸い込みながら嗤っていた。  そして──  一方の神野は、鬼面衆を相手にまさしく蜂の巣となっていた。  奔り抜ける影法師に動きを封じられ、全方位から同時に降り注ぐ白刃の雨をすべてまともに受けている。  相変わらず負傷の程度は知れないが、確かに言えるのは以前の手合わせと違ってその動きに冴えがない。  正確無比の連携を見せる暗殺者とは対照的に、神野の挙動は泥に浸かったかのような緩慢さを晒していた。  顔面を抉られ胴を吹き飛ばされてこそいるものの、この男の常としてその影響は外面に表れることがない。 「お、ほ、おおォ……? これはまた、随分と趣味の悪い──  なるほど、君たちの主がご所望なのは〈将棋〉《おあそび》ってわけか。いいね、レトロな感じで悪くない。 それじゃまあ、退屈凌ぎといこうか」  宣して動いた先には泥眼が既に待ち構えており、神野は深い笑みを浮き上がらせてその白面を覗き込む。  まるで、この〈悪魔〉《じゅすへる》が次にどう蠢くかという未来そのものを、〈泥眼〉《あちら》は委細読み切っているかのような冴え……  無論山勘などでは有り得ず、さりとてそう簡単に予測されるような真似もしていない。  そこまで至ったところで、再び神野は身体を貫かれた。深く、迅く、何より冷徹な手際。  臓腑を隅まで抉られながらにして思う。ああ、まったく僕は弱いなあと。  両者の明暗は、時が経つほどにそのコントラストを鮮明に染め上げていく。  徹底した泥眼の先読みを前に、神野はもはや軽口を叩く余裕すら与えられない。一歩踏み出せば先回られ、手を動かせば骨ごと粉砕される。  何らかの幻視能力を宿しているとしか思われないその光景。呵責のない撃滅に、ただ木の葉のごとく舞うばかり。  加えて、〈神〉《、》〈野〉《、》〈の〉《、》〈身〉《、》〈体〉《、》〈は〉《、》〈動〉《、》〈か〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》。  すべてを封じられているわけではないが、特定の挙動を強いられているような不具合が己の内に巣食っている。  見えない操り糸か? まるで泥眼の意のままに、我が身を誘導されているような被虐感を覚える。  いいや違う、これは── 「ああ……なるほど、そういうことか。 〈コ〉《、》〈レ〉《、》で最後に勝つって言うんなら、そりゃ心底〈性質〉《タチ》が悪い。 性格出てるよねぇ、本当に」  どこか愚痴にも似た言葉が終わらないうちに、もう何度目になるか分からない猛撃がその心臓に撃ち込まれるのだった。  そして窮地はこちらも同じ。  聖十郎もまた、その能力を十全に行使できない状態に陥っている。  激烈極まる拳撃に合わせたはずの障壁が〈発〉《、》〈生〉《、》〈す〉《、》〈る〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》〈す〉《、》〈ら〉《、》〈な〉《、》〈く〉《、》、次の瞬間には手痛いでは済まない直撃を喰らっていた。  数メートルほど吹き飛ばされ、蹌踉めきながらも事態を確認する聖十郎。  己の〈力〉《ユメ》が具現できない、まるで身体の奧にある回路が断線したかのようだ。  いや、おそらくは塗り替えられたのだろう。釈迦の掌に相応しい猿として。 「最弱だか何かに成り代わらされた、とでも言ったところか。まったくもってつまらんことを」  呟いた言葉に違わず、現在の聖十郎は極端に視界の狭窄した状態に置かれていた。  〈正〉《、》〈面〉《、》〈の〉《、》〈ご〉《、》〈く〉《、》〈僅〉《、》〈か〉《、》〈な〉《、》〈範〉《、》〈囲〉《、》〈し〉《、》〈か〉《、》〈認〉《、》〈識〉《、》〈で〉《、》〈き〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》。己が身体能力に何がしかの制限を強制的に掛けられているのだ。  ならば狩摩の能力は相手そのものに直接作用する類の〈邯鄲〉《ユメ》ということになり、現在この場が奴の盤上であることに疑いの余地は残されていない。  濃密な死の気配を纏った拳の雨霰が、唸りを上げて襲い来る。  普段の聖十郎であれば己が能力のもとに充分な対応はできただろうし、少なくとも感知は容易だったはず。  しかし現在は彼の〈正〉《、》〈面〉《、》〈に〉《、》〈の〉《、》〈み〉《、》〈し〉《、》〈か〉《、》〈す〉《、》〈べ〉《、》〈て〉《、》〈の〉《、》〈反〉《、》〈応〉《、》〈は〉《、》〈働〉《、》〈か〉《、》〈ず〉《、》、ゆえに側部を狙った豪腕には抗し得ず──  鈍い破砕音と同時、幾発もの拳撃が炸裂して聖十郎はそのまま螺旋を描くようにして吹き飛ばされる。  血飛沫が舞い上がり、加えてその極めて重篤な負傷箇所には〈も〉《、》〈う〉《、》〈一〉《、》〈つ〉《、》〈の〉《、》〈異〉《、》〈変〉《、》が浮かび上がった。  傷口の周囲にある皮膚からは、およそ生気と呼べるものが著しく失われているのだ。  人体は破損をすれば他箇所がそれを補わんと活発な脈動を見せるものであり、このようなあたかも萎れてしまう現象など聞いたことがない。  もちろん、博覧強記を誇る聖十郎も例外ではなく……  それゆえ、頭の回転は急速に速度を上げていく。己が肉体に突如起こった未知を追求するために。  外見的な特徴としては非常に馴染みがある現象だ。肌に乗っているはずの瑞々しさがほぼ枯れており、見窄らしい皺がそこらに寄っている。  すなわち──老化。  どういうことだと自問するも、立ち上がろうとする聖十郎に対して当然のごとく眼前の怪士は畳み掛けてくる。思索は後回しとなり、応戦の構えを取らざるを得ない。  が、負傷箇所は思うに任せずだらしなく弛緩している。まるで、そこから自らの力が〈徐〉《、》〈々〉《、》〈に〉《、》〈抜〉《、》〈け〉《、》〈落〉《、》〈ち〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》〈か〉《、》〈の〉《、》〈よ〉《、》〈う〉《、》〈に〉《、》。  必定、戦況は不利の度合いを増していく──  変わらず高みの見物を決め込んでいるのは壇狩摩。  怪士と聖十郎の戦いを睥睨しながら、愉悦を笑みに乗せて呟いた。 「ハッ──よりにもよって〈歩〉《、》ゥとはのォ、笑わしょる。 成りもできなんだら、怪士の前じゃてんで話になりゃせんわ。ほれ、いけ好かんそのツラ、ええ加減ザマァのォなっちょるで」  対する鬼面の三人は、〈こ〉《、》〈の〉《、》〈盤〉《、》〈面〉《、》での立ち回りに熟達している。  そこから想起するのは将棋駒の連携だ。各々が互いの長所を掛け合い、短所を巧みに隠しながら十重二十重に折り連なってくる。  降り注ぐ刃の面攻撃に生じる隙には、視認不可能の疾風を合わせ。  連撃が不可能と見るや、至近距離から剛拳を叩き込み。  たとえ距離を取られたとしても、そこには死刃による追撃が待ち構える。  いずれも手堅い戦の定石。互いの不足を相互に補完しあった立ち回り。  それゆえ片手落ちの状態などでは決して抗し得るものではない。  加えて見られる両陣営の差は連動性にある。  嵩に掛かる鬼面衆はさながら一つの生物のように無駄がなく、なおかつその戦況判断は無謬とも言える確度を見せている。  ずれがない。誤りもない。個々の意志を持った人間同士の挙動とは信じ難い高度な流撃布陣は、まるで何者かが後ろで糸を操っているかのような印象すら与えてくる。  迅雷の速度でありながら高度に繋がる拳刃の雨霰に、いまや聖十郎はただ打たれるだけの存在にも等しい状態と化していた。  あれら殺人者たちは間違いなく、この理が何かを知っている。完璧過ぎる動きが何よりも雄弁にその事実を物語っていた。  かたやこちらは、見えない縄にいつの間にか縛されたような不自由さで……  好機と見たか、遠距離からの斬殺に特化していた夜叉が聖十郎の懐に飛び込み、一気呵成の撃を成す。  視界の斜角より飛来するその挙動は視認の敵わぬ颶風であり、反応することすらもままならない。  両腕に凶刃を閃かせての連撃を、しかし聖十郎は続け様に躱してのけた。それはひとえに過去重ねた経験の成せる業であり、肉体反射のみで成し得た回避は理屈の届かぬ域にある。  二つの斬撃を無効化し、訪れるはずの手番を迎えるべく聖十郎は拳を握り込む。 が、さらにしかし──  三、四、五、六刃が続け様で眼前に閃いた。  〈六〉《 、》〈本〉《 、》〈腕〉《 、》――残像の類では断じてなく、まさしく物理的に腕が生え、“成り”を決めて増えたのだ。  一瞬の隙すら晒すことなく放たれたそれらの必殺が、聖十郎の全身を〈鱠〉《なます》のように抉り抜く。 「──予想外だね、ああ奮闘を見せてくれるじゃないか、神祇の走狗の君たちは。 この場の理と合一した今、なかなか見るべきものはある。認めてあげよう面白いぞ。 なぁ、どうだいセージ。いっそのこと…… 僕たちも手に手を取って、この窮地を乗り越えてみせるかい? なんてね」  瞬間、周囲の空間が白銀の輝きに瞬いて。  音もなく、神野の肉体を無数の刃が貫いていた。 「──フザケルナヨ、虚ケガ」  これまで一貫して沈黙を貫いてきた泥眼が、鬼面の下から声を発する。  どこか硬質な、金属が軋み立てるような呟き……それは、こうして暗殺者と相対しても未だ道化がかった取り回しを続ける神野への怒憤が口にさせたものなのか。 「ああ……?」  それに、神野はにたりと嗤った。腐りきった糞尿が滴り落ちていくような、たとえ泥眼であろうと生理的嫌悪感に怖気が走り抜ける笑み。  ただの諧謔ではない。悪魔はここに、〈泥眼〉《あいて》の〈裏〉《キズ》を看破したのだ。 「君、今なんて言った……? 〈人〉《、》〈の〉《、》〈心〉《、》〈の〉《、》〈中〉《、》〈を〉《、》〈覗〉《、》〈い〉《、》〈て〉《、》〈お〉《、》〈い〉《、》〈て〉《、》、いけしゃあしゃあとふざけている」  なぜなら、ここに有名な格言が一つ。  闇を覗くとき、闇もまたこちらのことを覗いている。  泥眼は神野明影というタタリを読んだ。ゆえに同じく、読み返されてしまったのだ。その能力、人生と背景に至る悉くを。 「うひ、ひひひ……」  そのうえで神野は思った。なんだよこいつ、僕の好みじゃないか。  〈な〉《 、》〈に〉《 、》〈せ〉《 、》〈水〉《 、》〈希〉《 、》〈と〉《 、》〈同〉《 、》〈類〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。  我が〈内界〉《べんぼう》にある“アレ”を見て、堪らず切れてしまったあたり可愛らしくて仕方ない。  これまで鬼面衆が徹底して無我のように見えていたのは、狩摩の禁縛があったからに他ならない。古来、面を被る行為とは変身を意味し、まったくの別人になることと同義なのだから。  本当の鬼面衆は、〈人生〉《キズ》を持たない駒に非ず。むしろ全員、目も当てられぬほど傷だらけの子羊だ。  常態では兵士として使い物にならない者ばかりだからこそ狩摩に拾われ、あのように望みと正反対のことをやらされているのだろう。  私を削ぎ落として盤面の駒と化すためだけに。  〈怪士〉《かれ》も、〈夜叉〉《かのじょ》も、そして〈泥眼〉《こいつ》も。  その皮肉が神野は愉快で、今すぐ抱きしめたくなってくる。  ゆえに、男の怖さを見せてやろうかという、自らの存在核に等しい妄執が顔を出しかけ…… 「痛い目見なきゃ分からないんなら、僕が教えてやろうかい?」  愛してやろう。犯してやろう。君の価値を認めてやるよ任せてくれと無限の蠅声が顎をこすり合わせながら唸り始めた。  が、それもたった一瞬のことで。 「なんてね。いや、本当くだらないよねこの勝負ってさぁ。 馬鹿馬鹿しいよ。あー、負け負け。僕らの負けってことでいいよもう。   どうせ、〈こ〉《、》〈こ〉《、》じゃ勝てないし?」  張り詰めた緊張は今やどこにも窺うことができず、匙を投げたように神野は肩を竦めていた。  何せ、〈ル〉《 、》〈ー〉《 、》〈ル〉《 、》〈は〉《 、》〈先〉《 、》〈着〉《 、》〈優〉《 、》〈先〉《 、》。悪魔はその契約に対し、何よりも真摯でなくてはならない。  君は〈僕〉《かれ》の好みすぎるからこそ浮気は出来ない。  遊ぶなら当面の契約を果たしてからだ。  そう呟きながら、己が主へと窺いたてるように視線を移した。  魔人・甘粕――夢の先駆者であり王者である男は薄く笑み、眼前の状況に理解と愛を示していた。  狩摩を頂点とした絶対の法がこの場を雁字搦めに支配しても、そこに彼だけは嵌らない。  次元が違うのだ。完成した盧生は眷属に許可を出すだけの立場である。  ゆえに今も、甘粕は万事鷹揚に許している。  ああ、いいぞ見届けよう――おまえの好きに晒すがいいと。 「それでは、後は〈任〉《、》〈せ〉《、》〈た〉《、》〈ぞ〉《、》」  短く告げる男の声に、狩摩は飄々とした仮面を崩すことなく返した。  それは余計な力みなど微塵も感じさせることのない、恐れも不安も抱かない泰然自若の態で。 「なぁ、こいつらは俺がどう扱おうがええんかいの? 後んなってあれこれ言うんは無しにしといてくれぇの」 「構わんさ。むしろ望むようにやればいい。 それが、我らの唯一抱いた目的へと繋がるのだから」 「空亡」  そして彼は、次に〈空亡〉《さいがい》の名を呼んだ。  この怪物と言葉を交わす……それは冗談としか思われない光景だった。死そのものとすら言える暴虐を目の当たりにした後では、直視することすら憚られたとしても不思議ではない。  しかし――男の声に対し、空亡はその獰猛を鎮める。  俄に信じられない反応だったが、それは単純な主従の関係とも言い難い。  〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈己〉《 、》〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈に〉《 、》〈言〉《 、》〈い〉《 、》〈聞〉《 、》〈か〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》。  そして言い切れる。これこそ、怖気を催す邯鄲の真実に他ならないと。 「今日の収穫は、獣の姫君だけで充分だ。 ここで焦れる事もないだろう。再び〈見〉《まみ》えるそのときまで、退くぞ」  身を翻し、男は闇の中へと消えていく。  後を追うように空亡もその巨体を空に溶かして……残された戦場には、喪失感にも似た静寂が漂っていた。  瀕死の有り様であった宗冬は、楯法の過剰な使用ですっかり消耗しきっている。  肩で息をしながらも、燃え盛る怒りは未だその身を震わせていた。  そんな宗冬には一向構わず、百合香はたおやかに口を開く。 「正直なところ、面白くはない展開ですが仕方ありませんね。   あまり四四八さんたちをぞんざいに扱わないようにお願いします」 「ハッ、正直あんたにだけは言われたァないのお。  黙って見ちょれ。まあ、これからは舞台の袖からじゃけどの」  そして聖十郎は、事態に一切の興味をなくしたように溜め息を吐いた。 「くだらんな、とんだ茶番だ。 この場は貴様に譲ってやってもいいが、ならばその力量を余すところなく見せてみろ。 まさか、これだけなどという底の浅さではあるまいな?」 「そりゃ、これからのお楽しみ言うもんよ。〈初手〉《ハナ》から自分の手ぇ全部晒け出す将棋打ちなんざ、おるわけなかろうが。 悪いようにはしやせんけぇ、安心して待っとれや」 「行くぞ」 「えええぇ? もう飽きちゃったのかいセージ、〈彼〉《、》〈ら〉《、》の行く末を最後まで見届けないなんて」 「馬鹿馬鹿しい。早く来い」  聖十郎に応える神野は、普段と委細同じく道化のまま。  何度も滅され、殺されたのだ。ダメージは確かに通っている。実際、傷は数え切れないほどに負っているだろう。  しかし、その振る舞いはまったくの素面。捩子の外れたような物言いは、彼の通常となんら変わるところがない。  そして当然、四四八の身を僅かにも案ずることなく聖十郎はこの場から姿を消す。神野も追随して闇にその身を同化させた。  盤上の駒はそのほとんどが退場し、学舎には燃える炎の音だけが響く。  そして──狩摩はおもむろに振り返った。 「悪いのォ、長いこと放っちょいて」  すべてを見抜くかのような光を宿した、鋭利な視線の先──  そこには、小さく震える歩美の姿があった。  動かぬ身体で一部始終を見届けた歩美。  極大の暴威が吹き荒れ、攪拌し……そして、わけの分からぬうちに消えた。  〈戦真館〉《トゥルース》の一員として、自分が今成すべきことは何か。たとえ手足をもがれたとて、ただこうして寝ているだけでいいはずがない。  勝利を諦めずに昂じるべきなのかもしれないし、或いは友の無念を胸に抱いて奮するべきなのかもしれない。  しかし──  これだけの屈辱に塗れ、凄惨な戦闘が目の前で起こっても、歩美の胸に去来しているのはそのどちらでもなく。  自分がこれから死にゆくという実感すらも湧いてこない。  悪魔どもの饗宴はどこまでも現実感に欠け。  倒れて消えた仲間たちの姿すらも、よくできた嘘のように思えてしまう。  まるですべてが、自分を担いでいるかのような。  映画か何かを見ているような──  その事実こそが歩美にとって、ああ、どんな恐怖よりも薄ら寒い。  〈実〉《、》〈感〉《、》〈が〉《、》〈湧〉《、》〈か〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》。  こうして立ち上がることすらできないほどの傷を負っているのに……  まるで全部が、隅から隅までどこもかしこも作りごとめいていて。  ここではない〈向〉《、》〈こ〉《、》〈う〉《、》〈側〉《、》の出来事のように捉えてしまう。  歩美の心にすべての事象は届かない。  なにもかもフィクションだと言ってしまえば、それで納得してしまうかのように。  ふざけるな、馬鹿を言うな。瞼を固く閉じて歩美は己を叱咤する。  一部始終を見ていたがゆえの着眼もあった。  狩摩の能力。その全容は未だ掴めていないものの、〈邯鄲〉《ユメ》の系統としての〈当〉《、》〈た〉《、》〈り〉《、》はついた。  場にいる誰をも己の世界に嵌めてしまうその能力は、あの男に相応しい荒唐無稽なものだろう。  そして同時に悟る。  戦真館で狩摩と曲がりなりにも勝負をしようとすれば、その責を担えるのは自分しかいないのだと。  ゆっくりと、芝居がかった足取りで接近してくる狩摩。  歩美がなにかを察したことに、こちらも目敏く気づいたのか。  狩摩の相に浮かぶのは、あくまでも愉悦を求める薄ら笑い。  歩美を嘲弄するかのようにその目を覗き込んで口を開く。 「山勘の張り方は玄人裸足じゃのお。おまえさん、ええ博奕打ちになれるで。 どうよ、俺といっぺん指してみるか。 〈い〉《、》〈つ〉《、》〈ま〉《、》〈で〉《、》〈も〉《、》〈生〉《、》〈き〉《、》〈と〉《、》〈る〉《、》〈実〉《、》〈感〉《、》〈が〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈ま〉《、》〈ま〉《、》〈言〉《、》〈う〉《、》〈ん〉《、》〈も〉《、》、〈味〉《 、》〈気〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈も〉《 、》〈ん〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》?」  悪寒が背を伝う。  近くに寄られたからじゃない。狩摩の口にしたそれが、自分の真実に触れていたから。そんなの、これまで誰も気づかなかったことなのに……  この男は徹底的に面白がっている。  歩美の内実を抉り取るように、更なる煽り文句を継いだ。 「薄布越しに世界を見よるようじゃ、ええ女にゃなれやせんで。相手と顔突き合わせんでなにが楽しい言うんな。 そがァなんは無意味よ。さっさとやめたほうがええ」  射抜くような目に見透かされ、歩美は抑えようもない屈辱を覚える。  おまえがわたしを語るな。知ったようなことを言うな。  憤懣と共に狩摩を睨み返すと同時──  〈気〉《、》〈づ〉《、》〈い〉《、》〈て〉《、》〈し〉《、》〈ま〉《、》〈う〉《、》。  この男を討たんとするとき、己の取り得る唯一の手段。付随するリスク。  浮上してきた可能性と、その矢面に自分が立つという未来に歩美はほとんど初めてと言っていい恐怖を覚えた。  どうあっても、スコープの世界から出る覚悟が必要なのだ。しかしそれが意味するものは…… 「なんや、もう気づいたんか。ほんま敏いのうおまえ。  仕組みが理解できた言うのは、ああそりゃ大したもんよ。けどの、肝心要の一手を指すのができるんか?   打つ駒が何かいうんも、おおかた察しがついちょるんじゃろう──」 「う、ああああァァァ──────ッ!!」  僅か残っていた力を振り絞っての咆哮。  あくまで可笑しそうな表情を崩さない狩摩に、歩美はほぼ反射的に己の〈銃〉《ユメ》を取り出していた。  引き金に指をかけ、間を置かずの近距離射撃。こっちに来るな、わたしたちの世界を壊すな!  そのとき、銃弾は有り得ない軌道を見せた。じぐざぐの蛇行というだけのものじゃない。これは〈空〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈飛〉《 、》〈び〉《 、》〈越〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  本来進むはずだった道から突如として消失し、まったく異なる角度から出現してはまた消え、現れるの繰り返し。  すなわち、弾丸のテレポート。無論のこと、それはこれまでの歩美に可能だった夢の限界を超えている。 「―――――」  本人にとっても予想外のことだったが、これは必然とも言えるのだろう。  歩美は今、初めて恐怖を理解した。その原因がどうであれ、結果が無様なパニックとはいえ、ある種の殻を破ったことに変わりはない。  だからこその進化。歩美固有の夢である空間跳躍という破段の顕象。  期せずして放たれた必殺は、射手である歩美にさえ読めない軌道で狩摩に迫るが、しかし――  まるで蝿でも叩き落すかのように、盲打ちは片手でそれを弾き飛ばした。  そう、まさしく見もしないまま。おそらくは完全な勘だけで。  この男は、いったいどれほどの天運を有しているのか。すべてが適当なままのくせに、依然として隙は欠片も存在しない。  慄く歩美に視線を向けて、狩摩は素気なく告げていた。 「──今度がありゃあ、もちっと狙えるようになっとれェ。これじゃ勝負にもなりゃせんで。 まあ、精々頑張れや」  狩摩がその姿を消した跡も、歩美の胸には忸怩たる思いが残っていた。  気安く言うな。ふざけないで。あなたとわたしを一緒にするな──  いや、きっと違う。ふざけてるのは自分なのだろう。  目の前で起こってることすら自覚できない、ただの白痴に等しいのだから。  そして──  誰もいなくなっても、歩美の身体から震えが止まることはなかった。  するりと、薙刀が獲物の身体を切り分けた。  ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。  骨と肉を掻き分けて、血の飛沫を振り払い、反撃を掻い潜ってさらに一閃。  その度に勝利が増えて、死体は積み上げられる山になって……  そして程なく決着した頃、歪んでいる仲間の顔に私ははたと気づいてしまった。  足元には、腑分けられた敗者の骸。  湧き上がった感情は、純然たる達成感。  自らが振りまいた死の河を踏みしめて。  こんな赤黒い肉片を、さっきまで漫然と踏みしめていたことを自覚したから。  私は、静かに愕然とした。  そう、この手で彼らを殺したのよ。  それは敵だったからだし、殺さなければ死んでいたからでもあって、いわゆる避けられない理由があるからこその結果だけど。この場合、問題なのは動機でも、まして正当性の有無でもない。  殺人を行なう側の心情。つまり私自身が、彼らを斬り伏せる瞬間にいったい何を思ったのか。  血を反芻して思い悩んだ? 嬉々と暴力に陶酔した? そうね、それならまだよかった。  真実はもっと冷たく、味も色もない次元──そう、私は〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  当たり前のように切り殺すことができたから、いま虚無感に苛まれている。  良心の呵責や、殺人に伴う罪悪感。死体を直視したことによる嫌悪感だとか、その他いろいろ。  およそ殺人行為に付き纏う負の情動を、一切感じられなかったこと。今もこうして悩んでいるのが、倫理的な理屈にひっかかるからだけだということ。それが鉄槌のような衝撃と共に、私の心胆を打ちのめしている。  晶は顔を歪めていたのに。目を背けたいという生理に抗い、歯を食いしばって、白ずむほどに拳を握りながら、死と向かい合っていたというのに。  それが、いわゆる戦士の反応。普通の感性を持つ人が、覚悟をもって立とうとしている行動だって、よく分かる。  だから、より浮き彫りになってしまうの。私の反応、その歪さが。  それに、〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》も喝破していた。  我も人。彼も人。だからこそ、生じる痛みを忘れてはならない……  戦場において自分たちは対等であり、厳然たる心構えを持っているからこそ戦えて、立ち向かうことが出来るのだと。  それを忘れてしまったら、まさに獣同士の喰らい合いだ。  傲慢を振りかざすだけの非人獣。殺し合いを正当化するつもりなんて微塵もないけど、深淵に呑まれないためには戦場での理念がいる。  畜生を喰らうため、畜生に堕ちてはならないから。  凄惨な所業の中だからこそ、人の正道を譲ってはならない。  最低限の敬意と、尊厳を互いに守らなければならない。  命のやり取りにおいて、いっそ不合理とも言える信条をこそ、誇りと宣する雄々しい気概。  すなわちそれこそ戦の真で……ええ、そこについては同感だわ。一も二もなく頷ける。  あいつはそこを間違えないし、仲間たちも深く胸に刻んでいる。私だって当然、同じ。否定する道理はどこにもない。  奪うものの価値を知らずに、相手の生を軽んじれば、それはそのまま、自分の志を蔑ろにしているのと変わらないもの。  生きること。殺すこと。勝つということ。奪うこと。すべては一つに繋がっているって。  そう……分かっていて。うん。  分かっているのよ、そんなことは。  今さら、誰に説法されるまでもなく知っているの。  知っている、はずなのに。  家柄上、仲間内でその手の概念にもっとも触れて育ったのは、この私。そこに確たる自負も持っていたのに、ねえどうして? 痛まないのよ。感じない。  〈鱠〉《なます》切りになった胴体を見ても、足元にぶちまけられた脳漿を見下ろしても、心には〈細波〉《さざなみ》ひとつ起こらなかった。凄惨な死骸だなって、たったそれだけ。  四層突破の際に修羅場を見せられ、恐れはしたけど今思えば……あれもどこかズレていたのか。  いざ戦いに直面すれば、すべて忘れて勝った勝ったと、流血を踏みしめながらこの上なく醜悪にはしゃいでいたのよ……我堂鈴子は。  何よそれ、ありえないじゃない。殺したのよ、奪ったのよ?  敵とはいえ多くの命を確かに絶ったはずなのに、込み上げるものがまるで無いのよ。それどころか、現実感すらどこか希薄で……  肉を断つ感触をどれだけ思い返してみても、吐き気一つ催さない。  同じことを今すぐやれと言われれば、おそらくより上手く出来てしまうでしょうね。そんな確信だけがある。  当たり前のように戦って、当たり前のように殺して、当たり前の自分を貫く。なんて異常なメンタルなんだろう。  まるでリアリティの欠如した漫画のようで、自覚するほどに恐ろしくなって仕方がないの。  不思議な力を手にした学生が、次の瞬間にはなんの葛藤もなく敵を殺して大勝利。そんな作り物めいた不感症を連想して、それが震えるほどに恐ろしい。  だから、こう思ったの。私はまだ〈現〉《 、》〈実〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》って。  この夢はやっぱり〈仮想〉《バーチャル》で、自分は不思議な力を手にしたメイキング済みの〈登場人物〉《キャラクター》。その手の唾棄すべき認識が、心のどこかに巣食っているんじゃないのだろうか。  それとも、あるいは自分に酔ってる?  戦う者の義務と使命。仲間に、絆。力を合わせて朝に帰る。  それが綺麗な目標だから、共に目指すという〈展開〉《いま》を心地いいと感じているのは嘘じゃない。だから無感で手を下せるの? 仕方がないって言い訳したまま。  それを勇気と勘違いして。さも高尚ぶりたいと思う気持ちが、殺人の痛みを麻痺させてるっていうのなら──  それが真実かは分からないけど、充分ありえる話だわ。だってここは〈邯鄲〉《ユメ》の中。  深層心理を反映するならこれ以上の舞台はないもの。潜在していた甘えが顔を覗かせる確率は、現実より遥かに高いはずだから。  そして……それだけに私は悔しい。仲間に顔向けできないことが、何より胸を疼かせる。  手のかかる大馬鹿ばかりで、私がいないと何も出来ない連中だけど、大切な部分だけは絶対に違えないのを知っているのよ。こんな覚悟の欠けている人間が、混ざっていいはずないじゃない。  何が仁義八行、相応しくない。資格がないのよ、こんな様じゃあ。  自分で自分が許せない。だから、ねえ……  なにか言いなさいよ、柊。今回だけはあんたに諭されてあげるから。  いつもみたいに偉そうな言葉を吐いて、私を安心させてよ、ねえ。  あんたがこんな私を知って、それでも仲間だと言ってくれたら……きっと全部大丈夫。私は自信を取り戻せる。  この夢が覚めたら──  相談に乗ってよ。いえ、乗りなさい。だって奴隷は主人の悩みに応えるものだし。そうでしょう?  柊、だから私は、あんたに逢いたい。  そして、浮上するようにまどろみから覚めていく。  形容しがたい虚脱感と無力感を抜け、驚くほど静かに私は現実へと帰還した。 「──っ、ぁ」  瞼を開いて感じたのは、まず痛みに対する違和感だった。  夢の中で受けた致命傷とそれに伴う激痛。覚醒後の今となっても、それらが意識の端にこびりついているのがよく分かる。  身体を蝕む幻痛は催眠下に受けた焼き〈鏝〉《ごて》だったが、それにいつまでも引っ張られるわけにもいかない。精神力で振り払えば、やがて残ったのは正座したまま眠っていたという違和感だけ。  凝り固まった関節をほぐしながら、ぎこちなく周囲を見渡す。 「朝……? ここは、旅館の廊下で……」  夢に入ったときと何も変わらない。  当たり前だが、もはやここに敵はいなかった。少なくとも自分は生きている。こうして帰ってこられた以上、窮地は脱したと見ていいだろう。  そのはずなのだが…… 「いったいどういうことなのよ?」  もっとも、納得がいくかどうかは別の話だ。  ああよかった、助かった。私はまだ生きている……と呑気に喜んでいられる状況ではない。  むしろ渦巻く感情は持て余すほどの大きな困惑となっていた。容赦なく叩き潰された記憶を反芻すればするほどに、違和感が細菌のように思考の内で増殖していく。  どうしても生き延びられた理由が分からない。  絶望以外のいかなる要素が、あの場に存在していただろうか。  希望に通じる輝きが、一つでも残っていたと言えるのか。  断言しよう──そんなものはない。  あらゆる救済は打ち砕かれた。それは邪龍と、謎の男の出現でより決定的となっている。  〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》〈勝〉《 、》〈て〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  〈逃〉《 、》〈げ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈思〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  何も知らないはずなのに、強烈に理解させられた。策や立ち回りだの戦の趨勢、一切合財関係なく、あれは出会った時点で詰む類だと。  ゆえに、怪物を想起したのと連動して、意識に浮かぶのは彼のこと。  最後に見た光景の中、首筋に喰らいつかれていたのは間違いない。血の気が引き、そして危ぶむ。隣にいる四四八はまだ生きているのだろうか、と。 「──そうだわ、柊ッ」  視線の先には、正座したまま瞳を閉じている姿がある。  その様はまるでよくできた彫刻のようだった。  背筋を伸ばして微動だにしない。やはり死んでいるのかと思ったが、しかし。 「………………」 「なんだ、驚かせないでよ……」  耳を凝らせば小さく聞こえた吐息に、ほっと胸をなでおろす。  よく見てみると呼吸のたびに胸も上下へ動いていた。ああ要するに、この男はただ眠りこけているだけらしい。  そう気づいたら、なんだろう? こう。 「無性に腹立ってくるわね、こいつ……」  綺麗な寝顔をしているだけに許せない。  ねえ誰か、この手にマジックペンを寄こしなさい。  廊下に響き渡るようなため息がこぼれた。ほっとしたような、苛立ったような。いささか理不尽ではあるが、身を案じてやった慈悲を返せと言いたくなるのも仕方ないのだ。  頬でもつねって起こしてやろうかと思ったものの、しかしそこまで本気で怒っているわけでもない。  あえて言うなら、愚痴を二、三呟く程度。だから僅かな葛藤のもと、渋々と優しく起こしてやることにした。 「ほら、いつまで眠りこけてるのよ。大杉じゃないんだから」  肩を揺すってみてもまるで無反応。快適な夢の中、ゆらゆらと首が左右に動くだけだ。  強情な。案外、手のかかる男ね。そう思いつつ、ほんの僅かに力を強める。  そう、ほんの僅か── 「え?」  ちょぴり肩を強く押しただけで、四四八は廊下へ身を横たえた。 「冗談、でしょう?」  呆然としたのは数秒にも満たない時間だった、気がする。  頭がうまく回らない。  絞り出した声は擦り切れていた。  これは、どうして、いったい何が? 分からない。 「柊……起きなさい、聞こえてるなら今すぐに。   殴るわよ? 本気でいくわよ? 悪趣味な演技はやめて返事の一つもしてみなさいよ!   ちょっと、ねえっ! 嘘でしょ、ねえってば……!」  脈はある。呼吸も依然、一定のリズムを刻んでいる。  なのに彼は、応えない。こちらの呼びかけが届かない。  悪いと思いながら皮膚を千切れんばかりにひねってみる。耳元で鼓膜を揺るがすほど叫んでみる。  けれど、結果は変わらず無反応。応急で思いつく限りの方法を試したが、どの感覚に訴えようとも目覚める気配がまるでなかった。  不自然なまでに、彼の意識だけが深く深く沈んだまま。  まるで今この時も、心だけをどこかに抜き取られてしまったようで。 「まさか……」  その原因に思い当たるのは一つだけ。  辰宮百合香。これはやはり、彼女の行いが原因なのか?  吸血の目的がその印象を違えないというのなら、流れる血潮ごと四四八は精神を吸い尽くされたことになる。  けれどそれが真であるか、確かめる術はこの時代のどこにもない。  そして向き合うにはもう一度夢の中へ入るしかなく、なのに彼はこんな状態で、となればそもそもあの場にもう一度行けるのか──いいや行って何ができるのか。  わからない。わからない。わからない。わからない。  加速し続ける思考回路は絡まりながら錯綜している。ただ今は、震えるほどに不安だった。  彼がこのまま永遠に起きないのではという想像が、どうしようもなく恐ろしかった。まさか、そんなことは絶対ないと信じているけど…… 「んあぁ、うっさいなあ」  気だるい口調と共に教員用の部屋から出てきた芦角先生。寝ぼけまなこを擦りながら、事態を認識して目を細めた。 「おいおい、朝っぱらから不純異性交遊かー? 寝てる男をさわさわしてよー。最近の若いやつはちょっとリビドー強すぎだろ。   って、お? ど、どうしたんだよ我堂、そんなマジっぽい目をして」 「芦角先生……」  震えそうな声を、かき集めた気力で平静に装う。 「柊が、目を覚ましません」  告げたとき、自分はいったいどんな顔をしていただろうか。  ここに鏡がなくてよかったな、なんて回らないはずの頭で考えていた。  そう、やはり私はどこかで舐めていたんだろう。  恐ろしい夢を切り抜ければ安全だと、朝に帰れば安全圏だと、どうして盲信していたのよ。  なにもかもが不確実なあの世界では、それこそ何が起こっても不思議じゃないというのに。  その短慮。甘い見通し。楽観のツケを強く噛み締めながら、遅すぎる自戒を胸の内に刻んだ。  ──あいつは、今も目覚めない。  事情を説明してから、まず引率の教員たちが集められた。  修学旅行中に受け持ちの生徒が謎の昏睡……そんな紙面を飾りそうな事態を前に、当然彼らは責任者として慎重な対応を開始する。  他の生徒には待機を命じて、結果、本日の行動日程は一時間ほど後にずれこむことになった。教育現場への風当たりが強い昨今、今頃どうすべきかと話し合いが続けられているのだろう。  素人の処置など危険だ。病院に連絡を。残る班員はどうするか。修学旅行そのものを続行するなら、などなど。  事情を知らぬとしても、彼らは大人として義務を果たそうと動いている。自分の知識と常識の範囲で、出来る限り対応しようとするのは立派なことだ。それを指して無知であると言うつもりなど鈴子らにはない。  いや、正確にはそこに対して何かを思う心の余裕などなかったのだ。  何が柊四四八の身に起こったのか。そのおおよそを推察できてしまうだけに、後悔が鎖となって纏わりつく。 「柊くん……」 「ちっ、……」  悲痛に顔を歪めながら、誰も意味のある言葉を発せられない。  これからのことを相談すべき状況だと分かっているが、共有している自己嫌悪が口を重く閉ざしてしまう。  こうならないために修練を積み重ねてきたはずなのに、蓋を開けてみればどうだ。あの辛くも誇らしい七ヶ月は、とどのつまり無駄だった。  敗けた、そして失った。  完膚なきまでに、それがすべて。他には一切何もない。  ならば今さら何を言えというのだろう。  自分たちはよく頑張ったよ、精一杯やった、努力したのはみんな知ってる……そんな恥知らずな慰めを言えとでも?  傷の舐め合いをしろというのか。馬鹿を言え。  それだけがこの場の全員が共有している最後の矜持だ。きつく握り拳を震わせながら、全身全霊でもなお足りなかったという残酷な事実を受け止める。  命を懸けていた。誰もが必死だった。だから責めもしなければ責任を押し付けることもないのだ。戦真館の絆は変わらず健在で……  むしろ、逆にこう思う。〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈せ〉《 、》〈い〉《 、》〈で〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》と。 「──オレのせいだ」  硬直していた空気を動かしたのは、栄光の声。  罪を告白するかのように、血を吐くような重さがそこにはあった。 「ちくしょう、そうだよ、ビビッてたんだ……!  全部、オレ、空回りだったじゃねえか。あと一歩がどうしても踏み込めなくて、ずっと、それっぽく見せかけてただけで……」  相手を認めて、その上で戦いながら、命を奪うことから目を逸らさない。大切なことだと思えるだけに、それを果たせなかった事実が、彼の胸を苛んでいる。 「おまえらはすげえよ、かっけえよ! ちゃんとやらなきゃいけないことが出来ていたのに」  自分だけがあの場で怖気づいていた。けど、それはいったい何に対して?  倫理を捨てられなかったことか。無様に晒した醜態か。戦闘へ貢献出なかったことなのか、それとも、それとも──分からない。  答えは茫洋と定まらぬまま。ただ煮えたぎる恥の感情だけが、やり場なく栄光を責めたてている。 「戦うことからも、勝つことからも…… オレ、何にも向き合えてねえ……ッ」 「だったら、あたしだってそうだ」  そして、晶もまた同調する。回復役を担っていたというだけに、仲間が傷つく場面をもっとも正確に把握していたのは彼女だから。 「役割分担だって言っちまえばそうだけど、直接手を汚すことはなかったんだ。台風が通り過ぎるのを利口に待ってたみたいでさ。  卑怯だよな、そういうの。最後の一押し、全部みんなに押し付けてよ。  だから、きっとあれだけじゃ駄目だったんだ。前に出るべき瞬間があったはずで、あたしはそいつを見極めるべきだったから」 「違えよ、ありゃオレが……!」 「いいや、あたしが――」 「はいはーい、うっざいのでそろそろストーップ」  ぱん、と一際大きな音が、そこで場の空気を変える。  歩美が鬱陶しいと言わんばかりに睨みを利かせ、負のループに陥りかけた二人を見ながら嘆息していた。 「じゃあもう、ネガってる二人にさっくり言うけどさあ。   ぶっちゃけると全員ダメダメ。誰がどう悪かったなんて話じゃないし、そういう次元の問題じゃないから、これもうやめよ?   てゆーか、蟻の集団が狼に負けたの反省しても不毛だって。そりゃ蹴散らされちゃうよ、うん」 「うわぁ、ざっくばらん……」 「あゆ、おまえなあ」 「だって事実だもん。違う?」  と、素面で問われれば二人の言葉は詰まってしまう。一刀両断な物言いだったが、それは揺るがぬ結論だった。  要するに自力の不足へと帰結するのだ、この惨めな敗北は。  たとえば仮に、栄光が獅子奮迅の活躍をしていたとしよう。それで戦況が好転するほど楽な戦場であったとしよう。それならば、これほど打ちのめされてはいなかった。  この場の六人、邯鄲においていずれも詠段。序詠破急終の五段においては下から数えるべき弱卒であり、敵はいずれ最低でも破段に達する練達ばかりだ。蟻の力が倍になろうが、真っ向から太刀打ちできるわけがない。  強くなることにおいて近道はなく、積み重ねた経験に磨き抜かれた才こそが勝負を決する。  死に物狂いで鍛えたけれど、相手はそれより強かった。  ならばそれを受け止めて、その上でどうしようかと歩美は言っている。 「なのでこの話題は今から禁止にしまーす。ほら、みんなも早く切り替えよ。ていうか、ここはお通夜かっての。  だいたい、四四八くんはまだ生きてるんだよ?」 「……だな」  だからまだ希望はある。たとえそれが不確かな幻でも、結果はまだ出ていないし、自分たちはすべてを把握してもいない。  必要なのは下を向くことではなく、これから歩き出して知るべきだろう。そう意思を統一できた。 「だからほれ、おまえも湿気たツラすんな」 「のわっ、いッて! ああもう、わーったよ」  気合代わりに叩かれた肩をさすりながら、栄光の口元に浮かべた笑みが自嘲から決意へ変わる。 「わりぃ……泣き言はやめだ、次は絶対ヘタレねえから。  絶対に」 「うん、じゃあそうなると、柊くんが目覚めなくなったことの原因だけど」 「十中八九、アレだよな」  全員、顔を見合わせて頷く。その見解に関しては、議論以前の段階ですでに一致しているものだ。  血と喪失に喘ぎながらも、ここにいる全員は最後の光景を目にしている。キーラの蹂躙、百鬼空亡という天災の出現、そして急転する事態を支配した謎の男と、辰宮百合香の吸血行為……  とりわけ最後の現象には不吉なものが感じられる。まず血を吸うという行いそのものが、他者を喰らうというメタファーを多分に含んでいるものだ。  四四八に起こった事態との因果関係を考えれば、特にあれが一際〈臭〉《 、》〈い〉《 、》。今も彼が目覚めないのは、百合香の所業と推察する。 「他にも分からないことだらけなんだよね。あの目玉モンスターとかもそうなんだけど…… 特にほら、最後に出てきたあの軍服」  そして、何より異彩を放っていた一人の男。  言葉に上がった瞬間、誰ともなく唾を飲んだ。灼光じみた存在感が、忘れがたく瞳と記憶に焼き付いている。  一目見て全員分かった。あれは駄目だ、敵わないと。  空亡は確かに桁が違っていた。自分たちが手も足も出なかったキーラを蹂躙した暴力は、今思い出しても震えが来る。  だけどあの男には、また違う意味で〈届〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と感じていた。まるで一人だけ、まったく違う世界観の中にいるかのようで……  相手になるとかならないとか、そういう次元に存在してない。上手い表現が見つからないが、あれは一種の、自分たちにとって理想像なのではないかと思えてしまい、だからこそ―― 「あいつ、絶対にラスボスだよ」  どういうことか、全員が〈奴〉《 、》〈を〉《 、》〈斃〉《 、》〈す〉《 、》〈と〉《 、》〈誓〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。こうなるのを待ち望んでいたという確信。摩訶不思議な衝動を疑いもなく信じている。  ゆえに皆、誰からともなく頷いた。これについては四四八もおそらく同感だろう。  今世に生を受けたその時から、討つと定めていたような。  形容しがたい使命感が湧き上がっていた。現状では到底不可能と分かっていながら、それでも意志が微塵も揺るがない。  その決意はいったいどこから出ているのか? 理屈をつけるというのなら、やはり以前のループにあるのだろうが…… 「心当たりは……あるような、ないような。ごめんね」  視線の集中した先で水希が困ったように俯く。責めているわけではないが、これで手がかりは完全に途絶えてしまった。  いやそれ以前に、自分たちが共有している情報は真に信じられるものなのだろうか。こうなると今まで見聞きしたすべてが怪しい。もはや自力で分離できないほどに真贋混じり合っている。  最後の光景を見る限り、勢力間の対立など本当にあったのだろうか。  どの連中も見せかけの敵対でお茶を濁し、裏では粛々と喜劇を整えていたと言われた方がまだ理解が及んでしまう。  ならばそれはどういう意図で? なぜ、不覚ながらも〈最弱勢力〉《じぶんたち》を陥れた? それだけの手間を踏む価値があるというなら、それこそ最初の夢で成していれば容易いものを。 「だ~ッ、もう、わっかんねえ! 誰がどこの何者で、どれがどいつと争ってんだよ!」  未来はまるで、真っ暗闇の夜道のごとく。このままの状況が致命的にまずいと分かっていながら、軌道修正できる希望が見つからない。  自分たちは、運命という名の濁流に飲み込まれる哀れな苗木だ。確かな真実へ根付かなければ、芽吹く前に潰えてしまう。  せめて明確な指針が欲しいと思った。この壁を超えるべきだという、向かうべき〈方向性〉《ベクトル》を。 「──淳士。あんたはどうなのよ?」  そこで、初めて鈴子が口を開いた。  あんたは何か知っているはずだと、確信のもと、静かに幼なじみへ問いかける。 「あれから私、ずっと考えていたんだけど…… おかしいでしょう? こんな疑問、どれもこれも今更なのよ」  例に出すなら、柊聖十郎と神野明影がどうして手を組んだのかについて。  百合香は答えた、柊聖十郎殿は廃神の誘惑に染まっておられるのでしょうと。そう、〈き〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈だ〉《 、》と、それが真実であるかもしれないと言ったのだ。  馬鹿馬鹿しい、何だそれは、推論じゃないか。なのに自分たちはあっさりその不確かな解を信じ込み、そのあげくがご覧の有様。  本当にそうなのかと、そんな初歩的な疑問すら一度もかけた覚えがない。答えが返ってくるか否かではなく、そうなのだと鵜呑みにしたなんて何が何でも盲目過ぎる。 「初めて顔を合わせてから七ヶ月……〈訊〉《き》けるタイミングはいつでもあったわ。なのに私も、あろうことかあの柊まで、辰宮を無条件に信じていたのよ。それも夢という無意識の中で。おかしいじゃない。   信じると言えば聞こえはいいけど、ここまでいくと思考放棄だわ。猫にまたたびじゃないんだから。  それが自明の理であるみたいに、差しのべられた手を掴んだのよ。  まるでそう、百合香さんのペットか何かにでもなったみたいに。   懐かなかったのは、あんただけ」  淳士だけはあの令嬢を、どういう理由か忌避し、遠ざけていた。もしそれが、無意識の警鐘であったのなら。 「私たちの中でたった一人、あんただけは当たり前レベルの警戒心を維持してたんだわ……なんか、すっごく腹立つけど。   まさかとは思うけど、脳筋になると頭もカチカチになるのかしら?」 「馬鹿こけ、こっちもようやく実感が湧いてきたとこなんだよ。   柊も言ってたが、こりゃマジだな。どうやら俺は〈ま〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》らしい」  自分自身を嘲笑うような、あるいは悔やむような。口端を歪ませながら漏れた吐息はまさに安堵のそれだった。  仲間も気づく。確かにそうだ、淳士だけが百合香に対して心の防御を敷いていた。腑に落ちないという彼の顔を、思い返せば幾度も見ている。  それがどういうことか……詳細を語る前に、戸を開ける音が響いた。 「よっ。おまえら、全員いるな?」  普段より若干固い声色は、微かな苛立ちが乗っている。花恵がぐるりとその場の全員を見渡した。 「ハナちゃん」 「もしかして、あれから何か進展あったの?」 「あー、まず落ち着け落ち着け。   どうもこうも、ありゃお手上げだよ。あいつは変わらず眠り王子だ」 「念のために聞くけどさ、ああなった心当たり、ある?」 「……それは、えっと」  ある──としても、言えるはずもなく。  押し黙る姿を否定と捉えたらしく、大きなため息が零れ落ちる。 「そっかあ……なら速攻入院コースだけど、そうなると困ったことがあんだよなあ」 「病気自体じゃなくて、手続きの話になんだけど…… 学業機関で起きた怪我や病気は、基本、災害って扱いになるわけ。専門のスポーツ関係法人センターで一括受け持ってて、そこに登録してるんだよ。  で、校内で大きな病気や怪我に見舞われると、保護者とそこの自治体が治療費もろもろ負担すんの」 「だから普通に風邪ひきましたーとか、骨折りましたーなら、さらっと処理してOKなんだけど。   問題なのは、柊の眠りが〈一〉《 、》〈過〉《 、》〈性〉《 、》なのかどうかってことでなぁ……」  がしがしと頭をかきながら、花恵はそれが厄介な点だと言っている。鷹揚ではあるが薄情ではない彼女をして躊躇させているものが、水希にはよく分かった。少し前まで自分がそうであったから。 「植物状態と見なした場合、治る時期が不明だから……ですか?」 「そうなる」 「風邪や骨折なら完治するタイミングが予想できるだろ? けどさすがに、これから先ずっと寝たきりが続くようなら話は変わる。   世良のように血縁が保護者ならいいんだよ、双方納得の処置だろうしな。けど、親御さんのいなくなった柊には……ほら」  保険が効いているとはいえ、治療費が0になるわけではない。まして病人の維持や介護はなおのこと。  そして一度助けたのなら、助ける側にも責任が発生する。それが法であり、義務というものだろう。  その諸々を受け止めるのは、この場合、保護者の欄に記載した者を指す。 「言い訳っぽく聞こえるかもしれんが、こりゃ薄情だとかそういうことじゃねーからな? 一人分の人生をしょい込むってのは、当たり前だけど重いんだ。  そして医者も商売でやってる以上、善意の奉仕ってわけにもいかない。だから当然、取るものは取る。   下手すりゃこの先、私が生涯あいつの介護や医療費負担する可能性だってあるんだぜ? そうなったら、もう教師と生徒の関係じゃないだろそれ」 「かといって、ほっぽり出すのも論外だしさ……生徒見捨てて保身に走るほど腐っちゃいないつもりだし」 「よく分かんねえんだけど、一度決めたらずっとそのままになんの? なんかそれっぽい口ぶりなんだけど」 「んにゃ、双方の合意があればその限りじゃないね。   けどほら、言い換えれば誰かが言い出さない限り、ずっとそのままってことじゃんよ」  だから当然、そこで躊躇はしてしまう。他人の人生を無償で背負うような底抜けのお人よしならともかく、花恵は立派な社会人だ。世のしがらみや世間体の重要さ、安易な行動に伴う社会の怖さもよく知っている。  このまま仮に四四八が目覚めず、保護者として行動したとしよう。そして美談扱いされたとしても、それはいずれ必ず両者の足枷になる。互いにとってもよくないことだ。  無論、順当に考えた上で真奈瀬家預かりになったとしても本質的には同じだろう。  情に厚い剛蔵が四四八の窮状を耳にすれば、一も二もなく受け持つことは目に見えている。だがそれは預かり先を変えただけで、付随するデメリットはそう変わらない。  あれでいて鈍くはないから、下手に気づかれれば連鎖で恵理子のこともバレかねない。それは駄目だ、なんとしても。  ならばどうする? 誰も咄嗟に思いつかない。 「ま、とりあえず、これでも教師だかんね。まずは名前書いとくから。   おまえらも難しいとは思うけど、気持ちはちゃんと切り替えとけよ。後で柊に聞かせてやるぶん、思い出作っとくとかね」 「いえ、その必要はありません」  そこに待ったをかけた声。 「柊はこちらで引き取ります。搬送先を病院から我堂の屋敷にしてください」  畳み掛けるように鈴子は用件を告げながら、素早くスマホを取り出した。  自分を除いて呆気に取られている皆を尻目に、自宅へ連絡。有無を言わせぬ早業でさっさと車の手配を済ませて。 「はい、これで話は通しました。   半日もすれば送迎できますから、先生は引率に戻っても大丈夫ですよ」  にっこりと笑顔。これで解決、と言わんばかりの態度に思わず唸り声が上がった。 「はあ……いやいや、ちょっと、えぇー……?   そういう義理人情は買うけどさ、友達の安否に自分の親を巻き込むってのもどうかと思うぞ。私は」 「おい、鈴子」 「うっさいわね。いいから黙って任せなさいよ、スカポンタンども」  声を潜めて打ち合わせる。そりゃ最善じゃないかもしれないけれど、今はこうするしかないだろうと目で語った。 「色々都合が悪いでしょ。それに、おかしな結果でも出たらどうすんの?」  今回の昏睡には夢が深く関わっている。なので精密検査などでも受けてしまえば、異常反応を示す可能性も十二分に存在するのだ。  それが医学界での画期的な臨床結果と取り沙汰されれば、どうなるか。  兎にも角にも、公に晒されることは何としても避けねばならないと全員が納得した。多少強引でも、ここは押し通すしかないだろう。 「けどそうなると、おまえら修学旅行どうすんの?」 「それはもちろん」 「ま、こうなるよなぁ……とほほだぜ」 「湯豆腐、楽しみにしてたのにぃ……」 「リーダーがいないとあっちゃ、しょうがねえか」 「呑気に楽しめるとも思えねえしな」 「そゆこと、そゆこと」  苦笑を浮かべながら、形だけの愚痴を零しつつ立ち上がった。  それぞれの荷物や衣服を、示し合わせたようにせっせとバッグへ詰めていく。そして荷造りを終えてから、潔く並んで一言。頭を下げた。 「早退させてもらいますっ」  さあ、負けたままではいられない。取り戻すのはここからだ。  貴族院辰宮男爵邸。その内装は変わらず荘厳さに包まれていた。  白磁の大理石からなる床は埃一つなく磨き抜かれ、豪華絢爛な意匠も依然、かつてと等しく煌きを降り注いでいる。  貴族の庭に変化はない。蒼の薔薇は咲き誇る。尊い血筋の居城は〈第四層〉《ギルガル》から〈第七層〉《ハツォル》に領域を移した後でも、不可侵の神聖さを保ち続けていた。  そう、行き過ぎた静謐に人の気配すら伽藍と言えよう。  この屋敷は今、構造物として完全な調和がとれていた。住人がいないゆえの空虚な秩序。生物さえ拒むほどの静けさは、むしろ廃墟に近いものを連想させてやまないだろう。  時の止まった祭壇のように美しく、ならばこそ〈生〉《なま》の空気が抜け落ちている。  原因はそのまま、辰宮に属していた人物が極端に減少したからである。戦真館と、他にも幾人。生じた穴が暖かみを奪ったが、それは反面、孤高を強める効果もある。等価交換だというように、息を呑むような怜悧さが屋敷全体から滲み出ていた。  そして、その純潔性を担う源泉──百合香は主の間に腰掛け、紅茶のカップを傾けていた。  くつろいでいる。優雅に、淑やかに。朝露を纏う瑞々しい萌木のように微笑んでいた。これで小鳥と戯れでもすれば令嬢ではなく、姫君とでもいうようにその表情はほころんでいる。  今の彼女が、かつてないほど上機嫌なのは語るに及ばす。それは率直に言うなら陶酔の域に達したものであり、より詳細に評するならば浮かれていると表現するのが妥当だった。  唇が陶器に触れ、紅茶が舌先を潤す。吐息には品の良い艶やかさが蔦となって絡みつき、花の香を部屋へと散らした。  同時、景色が淡く色づいたのは単なる目の錯覚だろうか。傍に控える宗冬は黙して語らず、主に語り掛けられるまで不動のままだ。 「味気ない。いつになったらおまえは上達するのかしら」 「申し訳ございません」  家臣への言葉には毒が含まれていたものの、それすら悦に濡れていた。ボタンをわざと掛け違えたような白々しさが混在していて、とろけるような喜びが微細に散りばめられている。  それは眩暈を催す百合の魔性。意識を溶かす少女の愉悦。性別を超えて万人を狂わせかねない魅力があった。  そこに儚さと危うさを感じたからか、従者は珍しく進言する。  すべては、このか弱い主のために。 「よろしかったのでしょうか、お嬢様」 「そう思うのなら、自分が矢面に立てばよかったでしょうに。流れに身を任せた浮き木が何を忠告するというのやら。一切、すべて遅すぎます。  戦というものを本質的にわたくしは知りません。習っていようが学んでいようが、経験の前には及ばぬこと。そんな小娘の判断に甘んじていたのなら、斯くある今は当然かと」 「さぞ歯痒かったことでしょうね。ではおまえの懸念を指折り数えてみましょうか」  白魚のごとき指先が優雅にくねる。一つ、二つと、艶やかに言葉を紡ぎながら百合香は自身の現状を語り始めた。 「わたくしの行動に戦真館はご立腹。確実に不信感を持たれているはずですね、よって二度の懐柔は通じない。  神祇省との盟約も決裂し、家人と〈廬生〉《ろせい》は奪われた。  ああ、邪龍の解放もありましたわね。逆十字から解放された〈廃神〉《タタリ》は、今もこの〈第七層〉《ハツォル》で蠢いている」 「辰宮に残っているのは荒事に向かぬ主と、朴訥な家令が一人。実質的な戦力は後者だけ…… ああ、絶望的とはこのことですわね。  絵に描いたような四面楚歌。困ったわ、さてどうしましょう」  くすくす、と花が咲くようにほころぶ口元。自分の唇に指を当てて微笑む姿は可憐だが、しかし語った内容からは徹底してズレた反応である。  戦真館の面々にとってはまさに慮外の事態だろうが、四四八に手を出した結果として百合香は何かを得た代償に、数多くのものを支払っていた。端的に表現するなら、味方のいない孤立無縁の状況に置かれている。  ここは〈夢界〉《カナン》における最前線、激戦区たる魔の〈七層〉《ハツォル》。  神野との契約によって一時的に〈四層〉《ギルガル》に昇ってはいたものの、辰宮にとって本来の庭はこちらである。言わば古巣への帰還に該当するが、それは決して安泰とイコールで繋がっているわけではない。  むしろその逆、先ほど己が述べたように命を脅かす存在で満ち溢れている有様なのだ。  ここに戦真館まで参戦するのを加味すれば、どれほどの混沌を描き出すというのだろうか。  魑魅魍魎、人外魔道が渦巻くことは定められており、しかもその中で彼女に味方するものさえ存在しないという始末。なのに聖餐を飲み干したがために放置は決してありえない。  必ず、最悪のタタリが彼女を喰らい尽くしにやって来る。 「これではわたくしたち、成す術もなく殺されてしまいますね」  だというのに、なぜだろう。理解していながら百合香の態度はまるで夢見る乙女のようだ。  死を口ずさむ姿はさながら小鳥と戯れる白雪姫。それが歪に見えるのは、瞳の中に解析不能の齟齬が垣間見えるからだろう。  真実を知りながら喜々として毒林檎を齧ろうとする〈悲劇〉《ヒロイン》、誰がそこに共感できる。  確実なことは、彼女がこの事態を歓迎しているということだ。それだけは紛れもなく真実であり、ならばこそ部屋の中には温度差が生じている。 「………………」  傍に控える宗冬は終始無言。  主がそう思うならば是非も無し。破滅的な袋小路を所望ならば、身命かけて仕えるのみ。態度が雄弁に物語っている。  そして、彼は同時に冷静な視点で思考を動かしてもいた。  濃密な逃れえぬ死の気配を背筋と肌に感じていながら、それをおくびにも出さず彫像のような表情の下で考えている。  遭遇は必定だ。魔の饗宴は避けられない。必ず起こるという仕組みになっている以上逃れられず、彼も彼女も彼らも奴らも、敵味方や人非人の区別なく、いずれここで朽ち果てるだろう。  〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈階〉《 、》〈層〉《 、》〈は〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  しかし、それでもと彼は考える。  たとえ必ず訪れる破滅であっても、己は家令だ。彼女を守り抜かなければならない。  この少女を死なせぬためにはどうするべきか。何をもってすれば可能となるか。幽雫宗冬というつまらない男のすべてを対価に、あらゆる状況を想定して〈仮想状況〉《シミュレーション》を頭の中で重ね続けている。 「諦めの悪いこと」  主の揶揄に返事はなかった。潔くさえ感じるほどの頑迷さで、男は嘲弄の響きを受け止める。内なる思考回路は一糸狂いなく稼働中。 「ねえ、宗冬。おまえはわたくしを守れますか?」 「誓って」 「誰であろうと?」 「如何なる者でも」 「信じられないわ。おまえはとても弱いから。  負け続けてきた男のいったい何を頼りにするというの? だから耳障りの良い言葉ばかり達者になる」  それこそがつまらないのに。そう言わんばかりの冷めた目線を投げかけて、百合香は近寄れと無言で命じた。  そしてそのまま、跪いた宗冬を覗き込むように睥睨する。  頬を撫でる仕草には熱と呼ばれるものが一切ない。令嬢と家令の恋、などという甘さは微塵も感じられず、凍えるような空虚さだけがそこにあった。割れたガラスの断面をなぞるように、顎の輪郭へと細い指が滑っていく。 「綺麗ね」  ゆえに、それが一等の落胆である。  こんな優男が自分を守る? そんなこと、とてもとても。 「線の細い、まるで手弱女。絹でも編んでいるのがお似合いよ。  そう言うと、殿方はいつもこう仰る。  中身を見てくれ。俺は強い。実は、本当は、隠していたけど、こんな〈姿〉《なり》をしていてもと……なんて女々しい。  立派な外殻を得られないのに、内側だけは凄いのだと。守るものがあれば自分は無敵なのだという幻想に浸るのよね。可愛いわ、罪深いほど」 「それなら安心させてごらんなさい。吹けば折れそうなその痩身で、おまえの何を信じられるというのでしょうか。  わたくしは男らしい人が好き。厳つい顔に、巌のような強く逞しい〈体躯〉《カラダ》。そこに目上の者へも屈さぬ気概を見せつけられたら、それはもう。  守るとは、すなわち“壁”であることだから。  雄を感じさせてくれる御方こそ、恋の第一条件というものでしょう? 見目麗しい男なんて、〈愛玩動物〉《ペット》か〈お人形〉《ドール》と変わらない」 「もっとも、後の時代にはそちらの方が受けるようだけれど…… ああ、生まれる時さえ間違えたのね。おまえは、どこまでも間の悪いこと」  それは優しく、優しく、染みこんで内から溶かす失望の〈言葉〉《どく》。  百合香は欠片も宗冬に期待をしていない。声色だけは慈悲深いというのに、その内面はどこまでも上滑りしていた。  撫でる指先は愛憎の〈鑢〉《やすり》であり、触れるたびに相手の矜持と意気をこそぎ落としていく。  心底、この美しく華奢な男を憐れんでいた。それが何よりも彼を傷つけることだと知りながら。  ここにいる者は報われない。  徹頭徹尾、互いを削いでいくだけである。  夢見ているものがすれ違っていた。  ゆえに満たされるものは何もなく、退廃的な自傷だけが充満している。 「かわいそうな宗冬……」  彼を見たものは口を揃えて理想の執事と言うだろう。  それは彼女にとって、とてもとてもくだらないこと。つまらないのだ。 「生き残って、奪われて、今度は何を失うつもり?」  運命に捧げ尽くした文無しは、さらなる対価を要求されている。  この壊れた、救えぬ〈百合〉《あるじ》を守り抜くために、彼はこれから先、幾つの限界を突破して、幾つの壁を打ち破らねばならぬのだろうか。  女は求めている、強い男を。それに応えるだけの想像を絶する熱情を。  命さえ投げ出すほどに、狂おしく希求しているのだ。  ゆえに―― 「構いません」  幽雫宗冬という男は答えた。いつものように、微塵の澱みもなく。 「お嬢様をお守りできるというならば、私という対価など安いもの」  絶対不変の理として、理想の従者は事実だけを口にする。  それが完璧であったから、彼は皮肉にも間違えた。  これまでと同じように、これからもずっと、間違えてしまったのだ。 「──── そう」  束の間、軋んだような音が響いた。  歯と歯が小さく擦れた音と共に、百合香から表情がそっと抜け落ちる。崩れない微笑を口元に浮かべるその姿の、なんと雅なことだろう。  それほどまでに今の彼女は美しかった。まさに精巧な美術品、血の通う人間だとは思えない。  生き人形だけが持つ妖しい魅力は、魅入られれば冥府に誘われるかのようだ。 そこだけ朱に濡れた唇が、艶かしく、たおやかに動く。 「……紅茶、冷めてしまいましたわね」  ティーカップに口付け、何気なく呟いた…… と思った瞬間、その手首がゆっくりと傾けられる。  透明な紅色が、重力に従い、零れ落ちていく。  それは百合香の足先を濡らし、しとやかな爪先を湿らせた。  倒錯した色香を放ちながら、熟した肉に糖蜜を振りまくように、素肌を滴る茶葉の香り。 「守る、守る、あなただけは、命を懸けて。率直に言いましょう、信じられません。  首肯するだけの案山子なら間に合っています。勝てもせず、実績もなく、それでも未だに大言壮語を吐くのなら。  この場で誓えるか見せてごらんなさい」 「さあ──」  そして──つい、と自然な所作で足を突き出し。 「舐めなさい」  茶香に彩られたそれを、口先で味わえ。  その屈辱をもって、おまえの忠誠の程を見せてちょうだい。  告げられた命を前にして、忠僕はやはり感情の篭らぬ声で返答した。 「かしこまりました、お嬢様」  戸惑う暇など、一瞬たりとてあろうはずもない。  彼が返す言葉は、すでに決まっているのだから。  足の甲を、指先を、熱いものが這っていく。  それは鋼鉄の理性か、はたまた百合香に対する忠誠の成せる業なのか、あるいは主を異性と見てさえいないのか……もしくはそのいずれでもなく。  鼻では嗅げぬ香気で煙る部屋の中、宗冬は粛々と主の言葉を実行した。それは機械のような従順さであり、呼気の乱れさえ見られない。  ただ黙したまま、粗相の跡を舌先で消していく。  なぜそうまでするのだろう? 理由は一つ、そう命じられたから。  彼の中では、それですべての説明がついている。 「──犬ね」  その有様を眺めながら、百合香の中にかつてない憂いと失意が落ちてくる。 「わたくしの言葉なら、どんなことにも応えてしまう。  従者の鏡ね、誇らしいわ。自死すら頷くのかと思うと、胸が張り裂けてしまいそうなほど」 「自分を置き去りにしたのはどこでしょうか。四層に帰り、あの炎から見つけ出してくるといいんだわ。きっと臓腑の海で寛いでいるはずだから。  次に鬼天狗殿と出会った時は、私から是非、協力を頼んであげましょう。どうかこの犬に、人の誇りを取り戻させていただけませんかと。  慈悲深い悪魔なら、畜生さえも導いてくれるはず。そうでしょう?」  すでに罵倒の体裁を整えることすらしておらず、言葉は容赦なく従者へと浴びせられていく。それでも彼が行為を止めずにいるのは、停止の言葉がないからだろう。家令は黙して、すべての恥辱を受け止めている。  逆にやめろと一声下したならば、即座に口を離している。その事実に、百合香は初めて絶望を隠せない表情を湛えた。  深く腰掛けた背もたれに体重を預け、天蓋を仰ぐ。  光り輝く富、財宝。半神の域に達する貴顕の血筋と、それに相応しき絶世の美貌…… 「しょせんはこんなもの……」  いかな不条理にも付き従う忠節の騎士がいる。栄華に満ちた辰宮の家がある。叶わぬ結果はなく、恵まれていたというなら間違いなくそうだろう。だからこそ、彼女は誰よりも渇いている。  自分の世界を塗り替えてくれる景色が欲しい。思いも寄らぬものに出会った感動が欲しい。春に息吹く新芽のように、それが足らないのだと百合香は強く思っているのに。  いつも、誰も、何者も。辰宮百合香をバラバラにしてはくれないのだ。  その中身を、見ようとさえしてくれぬのだ。  期待して。 期待して期待して。 期待して、期待して期待して期待して期待して期待して期待して──結果いつもこの手に残るのはガラクタばかり。失意に落胆、裏切られた憂鬱だった。  ああ、どうしてこの愚図は、小娘一人躾ける気概もないのだろう。  ねえ誰か、もっと強く、情熱的に百合香を〈犯〉《コワ》して。犬や案山子の相手はもうたくさんなの。 「わたくしの欲しいものは、いつも手に入らない」  だから、ならばいっそ── 「誰も彼も、みんな死んでしまえばいいのに」  空虚でありながら、何よりも重い情念が大気に混じる。未だ律儀に舌を使っている忠犬へと、百合香は思い立ったように問いかけた。 「答えなさい、宗冬。  わたくしが死んだら、おまえも死ぬのね?」  そして、言葉に出してふと気づく。なぜ訊く必要性があったのだろうと。  答えなど決まっている。彼の返答はいつだって一つきり。ならば、より深く絶望すると分かっていながら、そう問いかけずにいられなかった真意はいったい何なのか?  自らの意思がはっきりせず、明確な答えが出てこない。  しかしそれが形になる前、答えはやはりこう返ってきた。 「お嬢様がそう仰るなら」 「ふふ、ふふふふふふ…… うふふふふふ、あはははははははは」  その言葉を聞いて、力なく髪を掻きあげながら少女は嗤った。しゃくりあげるように痙攣する喉……  本当に、自分は何を期待したのか。もう耐えられない。 「あははははははははは、アハハハハハハハハハ……」  全部が全部おかしかった。  ああ、やっぱり、みんな死んでしまえばいいのに。  悪魔よ、どうか〈世界〉《スベテ》に破滅をください。  自分にとっての〈楽園〉《ぱらいぞ》など、もはやそこにしか存在しない。 「そして── 急ぎ鎌倉に帰ってきた私たちは、ひとまず解散。  まだ昂ぶっているものがあったから、頭を冷やす意味も兼ねてそれぞれ自宅に戻ったわ。  各自それぞれ心構えを整えたり、考えをまとめてから深夜十二時にもう一度ここに集合。  あんたを預かることになった、私の家に集まる予定よ」  語りかけに応えはない。眼下に横たわる彼は未だ眠りの中にいて、心を夢に囚われている。  どれだけ刺激を与えても起きない姿は事態の深刻さに反して、あまりに穏やかなものだった。花畑にでも寝かせておけば、それはもう絵になる光景になるだろう。それがいけない。  綺麗な御伽噺じみているから、永遠に覚めない眠りだと思ってしまう。  いやそもそも、本当に彼はまだ生きているのだろうか?  夢の不条理は、呼吸をする死体すら作れるのかもしれなくて、その度に込み上げる不安を誰もが無言のまま押し潰した。  まだ取り戻せる、大丈夫だと、いったい何度暗示のように言い聞かせたか分からない。  それもこれも、この生意気な男のせいだ。 「手間のかかる奴……私のライバルなら、もっとしゃんとしなさいよ。  ていうか、男の癖になんなのよこれ。普通逆でしょ、眠り王子なんかが流行ると思っているのかしら。どこに需要があるっていうのよ」  起きていると理屈臭くてうるさいのに、眠っていれば物足りなさが癪に障ってしまうだなんて。それに── 「こっちが相談したいときに限って、何も言わなくなってしまう」  おかげで今も抱えるしかない。どうしてか、自分に秘められた問題は、彼にだけしか打ち明けようという気がしない。 「柊、あんた本当に厄介だわ」  だから、その歯痒さに思わず魔が差したのだろう。そっと近寄って彼の前髪へと手を伸ばす。  指の間を柔らかな髪質がすべっていき、そのまま熱を確かめるように額へ手の平をそっと押し乗せた。  これでも起きない。心が乱されるのはこちらだけ。そ知らぬ顔をしていることが悔しくて、寝顔をより覗き込んでみる。  吐息が触れ合うほど近く、近く……  それでもまだ彼が起きる予兆はない。  きっとこのまま額と額を合わせても、吐息が混じるほど接近しても、まるで時を止められたかのように、ずっと…… 「まつげ、長いのね……」  そんな意味のない言葉を呟いたことで、思わず気の迷いが生じたのだろう。  彼が真実、御伽噺の眠り姫だというのなら。 「……貸し一つ、なんだから」  目覚めさせる〈役〉《 、》〈割〉《 、》を誰にも奪われたくない、だなんて血迷ってしまったのだ。  そして、自らも瞳を閉じて── 「…………あ」 「──、────」  ──寸前、空気が凍結した。  恐れ戦け。ここに今、〈無間大紅蓮地獄〉《トキノトマッタセカイ》が降誕する。 「寝汗くらいは拭いてやろうかしら」  せめて寝苦しくないようにと、布巾を手にして襟元を少し広げた。  首から覗く肌は思ったより日に焼けておらず、白い。しかし決して不健康なものではなく、健康ゆえのきめ細かさを感じた。 「な、なんか鎖骨って色気感じるわね……んんっ」  いけない。何か、こう、変な邪念が非常に邪魔だ。  とにかくさっさと済ませなければ、などと言い訳がましく口にしながら、恐る恐る服をはだけさせようとして── 「…………あ」 「──、────」  ──瞬間、空気が凍結した。  恐れ戦け。ここに今、〈無間大紅蓮地獄〉《トキノトマッタセカイ》が降誕する。  時よ止まれ、時よ止まれ。この刹那を永遠に──などとはいかず。  冷や汗をかきながらこちらをチラチラと眺めている淳士。まるで見てはならぬものを見たかのように、青褪めながら後ずさっている。  ああ、そう……心配だから早めに来たのね。三十分前行動とは律儀だわぁ、思いやり深いのね鳴滝くんは。やあん、なんて似合わないのかしらこの不良がクソこら──  なんてフリーズした頭でつらつらと考えているこちらを見て、顔を引きつらせる闖入者。  心底、恐れ戦くような〈顔〉《ツラ》をして、ようやく搾り出した一言は。 「うわ……おまっ、やめてやれよなそういうの。  引くわ」  瞬間、ぷちん、と何かのブチ切れる音を聞いた。  よし── 〈殺〉《ヤ》ろう。 Let's、滅尽滅相である。 「だあぁぁ───らっしゃぁぁああああッッ!?」 「うぉわッ、待てコラァ! いきなり手刀で目ぇ狙うやつがあるかッ」 「そんなもんは序の口なのよこんちくしょうがァァッ!」  踏み込み、抜き打ち、矢の如く放たれた爪の刺突を止められる。真剣白刃取りの体勢を維持したまま、ギリギリとそのまま押し込んだ。 「殺す、絶対に殺す! 私の名誉と平穏のために、あんたもここで永遠に眠らせて……ぬぎぎぎぎ!」 「だから、おまえ、こんな力どこから……つうか落ち着けッ」 「安心なさい、ちゃんと葬式代はうちが払ってあげるから。うちの組にかかれば、不幸な事故の一つや二つお手の物だっつうのよ! 右翼舐めんなオラァッ!  ふ、ふふ……コンクリ浸けで相模湾に沈むがいいわ、淳士ィィッ!」 「ガチじゃねえかよこの馬鹿……!」  そして、束の間の〈閑話休題〉《なんやかんや》。  仁義なき攻防劇に十数分。さらにそれが終わってから数分後。 「ぜえ……ぜえ……ぜえ……」 「はあ……はあ……はあ……」  不毛な全力活動を終え、荒い息を吐き出しながら畳の上に腰を下ろす二人の姿があった。 「分かった、忘れる……金輪際さっき見たことは口にしねえ。   胸に秘めて墓まで持っていくから……とりあえず、落ち着け。つうか無駄に疲れたんだよ休ませろ」 「ぜえ……ま、待ちなさい。血判状と〈杯〉《さかずき》、持ってくるから」 「信用ゼロじゃねえか」  と、これ以上疲れるのは御免なのでお互いに追及はやめておく。思い出すと顔から火が出るような記憶など、深呼吸して忘れておいた。  さて、空白の時間など知らぬ存ぜぬ。建設的にいくとしよう。 「……で、なんであんたは早めにやって来たのよ。おおかた柊のことではあるんでしょうけど」 「まあ、それもあるが、まず例の件についておまえと相談したくてな。   考えまとめるとは言ったものの、俺一人じゃたぶん穴だらけになると思ってよ。上手く言葉に出来る気もしねえ」 「だから事前に、多少気づいてる風だったおまえと軽く考察したかったんだが……その、なんだ」 「ここ数分の記憶がないのよね。そうでしょう? ああ不思議だわぁ」  そういうことにしたので、それ以上突っ込まずに淳士も流す。  兎にも角にもそういうことだ。彼は状況の歪さに気づきはしていたが、そこから導き出すものをより正確にしたかった。  ……時計を見れば残り数分で他のメンバーも来るあたり、せっかくの時間も潰れてしまったようだけど。  四四八は先ほどの騒動でも目覚めることなく、微かな寝息を立てるがままだ。和室の中央に横たえられ、このまま永遠に眠っていそうにも……あるいは何事もなく起き上がりそうにも思える。  つまり何も事態は変わっていないということ。望まない現状維持がゆっくりと焦燥感を募らせていく。 「こうして見てっと、安らかなもんじゃねえか。近くて遠いとはこのことだな」 「きっと、このままじゃ良くも悪くもならないんでしょうね」  時間経過による復調の望みは薄い。ではさて、どうするべきなのか──  そろってため息を吐きながら、二人が顔を見合わせた瞬間。  息を吐き切るという、人が心身とも無防備になるタイミングを狙い済ましていたかのように、それはいきなり現れた。 「笑えん。まったくなんという体たらくだ。  毒婦に囚われてその様か、頭に限らず女の趣味まで屑だとは。おまえ、どこまで俺の失望を買えば気が済む。  あれの血が混じるとそこまで劣化するものなのか」 「────、ッ!?」  一気に鼓膜を突き破り、頭蓋骨の奥にまで侵入した不快感が背筋を貫く。  前触れなく、庭先に出現した幽鬼のような存在感。  開け放った障子から勢いよく飛び出せば――声の主は、やはり不吉を纏いながら軒先に佇んでいた。 「柊、聖十郎……ッ」 「どうやって……いや、そうじゃねえ」  再会……いいや違う、これが本当の意味での初邂逅だ。  なぜならここは自分たちの〈現〉《 、》〈実〉《 、》。こうして同じ時代と地平を共有して、顔を合わせるとは思わなかった。理屈としてこういう展開もあり得たはずだが、それがまさか、このタイミングでなど。  心構えは当然できてなどいない。だが──やれるか? 事態を飲み込めてきた淳士が静かに拳を握りしめる。  そう、見方を変えればこの状況は窮地の反面、好機でもあるのだ。  重ねて言うが、ここは同じく現実である。順当に筋肉量と鍛錬の数がものをいう以上、この場で殴り倒せる確率はそう低くない。  少なくとも、邯鄲の夢において開いていた絶望的な力の差は消えている。当たり前に、摂理として、喧嘩の上手い奴が勝つだろう。まさに千載一遇のチャンスを前にしていると言っていい。  ならば…… 「待ちなさい」  一か八か、踏み込もうとした淳士を凛とした声が止めていた。視線鋭く聖十郎を見据えたまま、早鐘を打つ心臓を抑える鈴子。  冷静に、という自己暗示を繰り返し重ねながら、続く言葉を搾り出す。 「呑まれてんじゃないわよ。備えの一つや二つ、この男がしてこないと思ってるの? 不意打ち食らった時点で先手打たれてると思いなさい」 「それに、こいつ──」  まったく、敵意を感じない。気を急き、駆り立てる気分にさせてくる負の佇まいは健在だが、それはこの男の常態だ。  特別なことをしているわけでは決してなく、色眼鏡を抜きに見れば、単にこちらが勝手に警戒して色めき立っているに過ぎないのだろう。  そして、気になることもできた。先の口ぶりは、何か意味のあることを指している。 「それで……我が家にいったいどういうご用件でしょうか? 息子さんのお見舞いだというのなら、事前にアポを取ってくれるとありがたいのですけど。保護者の証明もしてほしいところだし。  見ての通り柊は就寝中なの。毒婦だの何だのと、寝たきりの血縁相手に、賢そうな顔で嫌味を言うのがご趣味なのかしら?  要は自分にだけ分かる言葉、ぺらぺら吐いてんじゃないっていうのよ。ワケのわからない罵倒なんて、こちとら全然痛くないわ」 「小娘にも分かるように、噛み砕いてご教授してごらんなさいよ。天才様」  挑発を前に、聖十郎の視線がようやく鈴子のそれと重なった。  足元を這う蟻の行列にようやく気付いたとでもいうような表情は、苛立ちなど微塵も感じていない。いや、こちらを認識さえしていなかったのだろう。  そのまま、聖十郎は一度目を伏せ、 「この際か、太源が愚図なら付属した〈端末〉《おまえ》でも構わん」  ただひたすら、億劫そうに息を吐いた。 「〈四四八〉《それ》に起こっている事態はな、蒙昧な辰宮の娘と接続が強化されたというだけの結果にすぎん。ゆえにさっさと同調を切れ、さもなくば〈第七層〉《ハツォル》で死ぬぞ。 あの女は〈傾城〉《けいせい》だ。近づく者に破滅をもらたす蟻地獄よ。  二度手間など許さん。効率的に〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》を磨け。より早く俺へ献上するために」  その程度は出来るだろう、と何の期待もしていない態度で睥睨する聖十郎。それは犬に世の成り立ちを説くような口振りであり、何の期待もこもっていない。  しかしそれより、今は伝えられた内容こそが衝撃だった。この男は、なんと言った? 「接続の強化……? 同調しているから目覚めないって」 「その目は節穴か? その場面を見たであろうが。  器自体は神祇省の手にあるが、接続先の〈童話〉《もうそう》に誘われたなら同じこと。つまり自閉を強制されている。  話にならん。失笑ものだ。なんとも、腐った女ならでは。初志と役目を忘れた迷走ぶりではないか。無貌なら喝采している展開だぞ」 「ゆえに、おまえたちは今後、〈百合香〉《あれ》に引かれて〈七層〉《ハツォル》へ落ちる。辰宮本来の領域にして、邯鄲を構成する中でも最大の激戦区へ。  何せあの場は百鬼空亡、邪龍の巣でもあるのだから。〈人〉《 、》〈形〉《 、》で遊ぶのにも飽きた頃、新たな玩具を求めていようよ」  その〈人〉《 、》〈形〉《 、》という単語には、なぜか引っかかるものを覚えたが……  詳しくは分からないとしても、徐々に話の輪郭は見えてきた。やはり四四八の意識不明には、辰宮百合香が深く関わっているらしい。  他にも、その事実に引っ張られて、自分たちはハツォルという更なる佳境に直面するということ。そしてあの怪物、空亡との激突は避けられないということ。聖十郎の言葉を信じるのなら、そんな絶望的な未来が待っていることになるのは間違いなく……だからこそ分からない。 「てめえ結局、何が言いたいんだよ」  よく分からないことをつらつらと。忠告? この男が? するのならばどういう意図で、そしてなぜ適切な説明をしないのか。 「私、さっきも言ったでしょう。頭がいいというのなら、相手が理解できるように話しなさいよ」 「なぜだ? どうして俺がそのような徒労を積まねばらん。総じて無駄だ。  おまえたちは、ただ黙して遂行すればいい。夢を重ねて終へ至り、この〈夢界〉《カナン》を早く抜けろ。業腹だが、奴もそれを待ち望んでいる。  甘ったるい蜂蜜のような展望を形にして、せいぜい喜ばせてやればいい。  逆に言えば、そうせぬ限り奴はおまえたちを無価値と断じて切るのだろうが……」 「奴……?」 「先駆者だ。もっとも、あれは単独で成し遂げたがな。俺やおまえたちのように、群体構造をしてはいない」  返答は輪をかけて理解不能なものだったが、初めて明確に感じ取れたものがある。それは上を睨みつけるような苛立ちだ。  この男にもそんな隔意を抱く相手がいるのか。舌打ちを残して、憎悪の染みた聖十郎の声が大気を打つ。 「だからこそ、出来上がったのが付け焼刃の急造品では話にならん。励み、応えろ。熱して押し上げるがいい。そのために、俺は今回投資に回ってやったのだ」 「投資……ねえ。奪われたの間違いなんじゃないの?  私たちを煽りに来たのも、要は自分じゃ無理だから取り戻してくれってことかしら?」  それを、聖十郎は嘲笑して。 「そんな必要がどこある。〈す〉《 、》〈で〉《 、》〈に〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈得〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  あるいはこれからだとしても、俯瞰で見れば結果は変わらん。手に入るのは定まっている。  分かるか? 無駄な手間を踏むなと言っているのだ。聖餐が巡る以上、同じ過程を重ねるのは愚の骨頂というものだろう」 「よって、励めよ愚図ども。夢の回廊を廻すがいい。  ただ、〈一〉《 、》〈刻〉《 、》〈も〉《 、》〈早〉《 、》〈く〉《 、》〈目〉《 、》〈を〉《 、》〈覚〉《 、》〈ま〉《 、》〈せ〉《 、》」  ──そして、この夢を突破しろ、と。  ぞっとする程の深い熱を孕ませて、聖十郎は口角を上げた。  恣意的な語り掛けの裏に何が含まれているのか見て取れず、彼に関して言えばより分からないことがまた増えていく。  決定的におかしい。その執着は矛盾している。それほど求めているものがあるのなら、その事象に対してもっとなりふり構わないはずなのだ。  なのにこの口ぶりはいったい何だ? もう自分は関わらないとでも言っているようではないか。  いわゆる、ここ一時にかける必死さが見当たらない。  考え方が一期一会をしていないのだ。まるで時系列が前後デタラメであるかのように。  泰然自若というには異質であり、傲岸な立ち居振る舞いは常の通りであるのだが、不明に揺るぎが無さすぎる。辻褄が合っていないために、一つの目的を目指しているようにすら見えなかった。  言動は違和感だらけ。事態はともかく、柊聖十郎という人物はよりその造形を歪ませていく。  しかし、それよりも。 「ふざけんじゃねえぞ……」  淳士はもう我慢の限界だった。仲間からこいつの情報を聞いて警戒していたたつもりだったが、それでも、まだ考えが甘かったと痛感している。  この男はどうしようもない。徹底的に屑なのだ。その性根を正すことや、まして許すことなど、到底出来そうにないと分かってしまう。  だから―― 「てめえ、それでも人の親かッ!」 「物分かりの悪い」  そして──勢いよく振りぬいた拳が届く、寸前に。 「子であればこそ、俺の役に立つのが道理だろう」  まるでコマ落ちのように、最初から存在していなかったかの如く、柊聖十郎は消え去っていた。 「な、ッ……!?」  ありえない光景を前に、渾身の一撃は空を切った。あれほど燃え盛っていたはずの怒りは、驚愕のあまり瞬く間に鎮火する。  周囲を見渡しても、そこに存在するのは夜気ばかり。スーツ姿の長身は、最初からどこにもいなかったかのように跡形もない。  高速で動いた? 絶対違う。遠目から見ていた限りおかしな動きはどこにもなかった。  ならば〈瞬間移動〉《テレポート》か? あるいは最初から幻を映していたのか、そのどちらにしても常軌を逸しているのは間違いなく、それはつまり、〈邯鄲〉《ユメ》を現実まで持ち込めたことを意味する。 「なら、どうして? 私たちに関わる必要なんて、もうないのに」  目的は達しているはず。悪夢の召喚は自由自在だ。自分たちなんて放っておけばいいのに。わざわざ役に立てというなら、それは何に?  混迷が深まっていく中、確かなことは一つだけ。  ──あの男と今後、出会うことは決してない。  自分でも不可解なことに、そのことだけは納得ができていた。  謎は謎のまま。心の奥底で、奇妙な確信として飲み込めたのだ。  それから、程なく集まった仲間を前に事の顛末を告げる。  聖十郎の訪問に、浴びせられた言葉の数々、そして最後の消失など。  ひとしきり説明した後、それぞれが揃って表情を歪めていた。 「あの外道親父……!」 「その代わり、分かったことも、分からないことも増えたよね。信頼性についてはちょっと疑問だけど」 「信用しづらいのは同感よ。ただ、石ころを騙す必要どこにあるって感じだったわね」 「目に浮かぶようだぜ、くそっ」  深く刻まれた痛みの記憶は、思い返すだけで過去の傷を疼かせる。  だがいつまでも、消えた相手を気にしていても始まらない。それも事実。 「とにかく、こういう時は一から考え直そうよ」 「ま、四四八もテスト勉強のとき、まず基礎の基礎からやらせるもんな」  となると、適任は一人だろう。  曰く、例外的に酔っていなかったという淳士。全員がその言葉を待っていた。  そして訥々と、彼の目からはいかに見えていたかが語られ始める。 「まず、最初の違和感は屋敷に向かっている馬車の中からだったわな。  俺以外が妙に浮かれ始めてよ、辰宮百合香を褒め始める。きっと好きになれるはず、いい人だから、そうに違いないって具合によ。伊藤から人となりを聞いてるだけで警戒心を捨てていったな。  正直、そりゃそうだろうと思ったぜ。使用人なんだから雇主を悪く言う方がありえねえ。常識的に考えて、下の者が良いようにアピールすんのは当然だろうが」 「とは思ったものの、あまりにあの場じゃ、おまえらの態度が自然でよ。あん頃は、まだそんな親しかったわけでもねえし、俺も普段よりは少し遠慮したわけだ」 「でもそれにしちゃあ、おまえ結構へそ曲げてなかったか? あれ、でも特になんか暴れてたわけでもないし……んー?」 「普通っていうには固いけど、特にひどいってほどじゃ、なかったかも……」 「ただ、それだけでもすげえ違和感あったんだよな。あん時の鳴滝の態度はよ」 「まあな。俺がちょいと警戒しただけで大罪人みたいなノリだったぜ。そうなると、当然こっちも空気を読む」 「今思えばそれもまずかったわけだな。あの女と対面したら、後はもう完璧アウトだ、たぶん型に嵌っちまったんだろう。   後はもう、気づいてる通りガタガタだな」 「柊の糞親父が何かしら企んでて、俺らはそれに巻き込まれた。夢から力を持ち出すのが最終目的、そして神野明影は〈廃神〉《タタリガミ》……ああそれで?  じゃあ、あいつら辰宮は何なんだ?  狩摩って男は? 怪士は、泥眼は、夜叉は? キーラってガキは?   いったいそれぞれ何の目的で、そしてどうやって夢の中に入ってるんだ? 相関図がはっきりしねえよ」 「悪い夢が現実を侵さないように止めるのが使命だとか、あの女は殊勝なことを言ってたがよ。それがあいつの本音だって保障はどこにある?  あの女自身がタタリとやらに憑かれてるって可能性は有り得ねえのか? それにそもそも―― どうして俺らは、この夢のドンパチにやる気満々で臨んだのか。一番でけえその謎が、結局ひとつも明かされてねえ。  世良が言うようにループがあって、もう何度か繰り返してるんだとしてもの話だ。これは、そういうもんじゃねえだろう」  淳士の言葉に、皆が押し黙って胸に手を当て、考える。  恵理子が死んで、だけど皆で立ち上がり、再びこの朝に帰ると誓ったあの日のことを思い出す。  あれは、あの瞬間に皆が感じていたのは、誇らしいまでの使命感だ。原因不明で、説明不可能で、だけどこれが悪い気持ちのわけがないと、信じた心は今もある。  そして、その正体は依然として分からない。抜けられない悪夢のループから、なんとかして脱しようなんていう、ある種悲壮感を伴う気持ちでは断じてないのだ。 「にも関わらず、そこらへんを探ろうっていう発想を誰一人として持ちやがらん。あの柊までもな。辰宮の話を聞いて、謎は全部明かされた。あとは生きて帰るだけだ――なんてノリになってたんだよ。  実際、分からねえことはまだゴロゴロあったってのに」 「……確かに、それはそうだよね。  百合香さんが言うように、四四八くんのお父さんがわたしたちにとっての元凶なら、柊聖十郎って人に対して、もっとやるべきことがあったはずなのに」 「百合香さんに言われるまま、戦の真で訓練、訓練の七ヶ月かよ……」 「言われてみると、すげえ馬鹿じゃねえかあたしたち」 「ほんとに、どうしておかしいと思わなかったんだろう……」 「そういうこった」 「こんな風にあっちの説明は断片的、返す質問も穴だらけ。なのにそれでもとんとん拍子に話が進む。調子が狂うぜ、いつもしかめ面は俺一人だ。  冤罪くらう側の気分が身に染みて分かったわ……ありゃきついぜ、自分が信じられなくなってくる」 「ちょっと分かるかも、そういうの」  正常か、異常か。いつだってそれを決めるのは多数派と少数派の違いでしかない。正誤の意見は大多数に押し潰される。  その挙句がこれだった。各々が深くその時の自分を悔いている。 「改めて思うと、なんかRPGの王様みたい」 「あー、分かるわ。魔王を倒せとか命じるくせに、剣とはした金だけ渡して説明もなしにほっぽりだすのな。   とりあえずこうしろ、次のレベルまで鍛えとけーって。いやあんた、期待してんのか鉄砲玉にしたいのかどっちなんだよっつう感じ」 「うん、常識的に考えると王様は勇者に国を挙げてすごい支援とかするはずでしょ。便利な交通手段に、身分証明に、あと旅のためのお金とか。   でもゲームシステムの都合上、手厚く援護しちゃうわけにもいかないよね? だから製作者側の都合で、細かいところはちぐはぐなまま押し付けるの。なんか、それと似てる気がする」 「〈あたし達〉《プレイヤー》を冒険させるために、うまく煙に巻いたとか?」 「なら百合香さんの目的は、彼女にとって都合のいいシナリオまで私たちを誘導すること? それは何を求めてなのかな」 「分からないわ。けど、それにまんまと乗せられたのね」  お膳立てされた状況を、おかしいと思うことさえ出来ないままに。 「思えば、戦真館に席を置くようになってからも、私たちはちょくちょく辰宮邸に呼ばれて百合香さんと会談してた。あれも意味があったのかもしれない」  自分たちにかけた魔法が薄れないよう、定期的にタガを締め直していたんじゃないだろうか。 「幽雫さんやのっちゃんも、このことは知ってたんだよね。きっと」 「………………」  重い沈黙が周囲を包む。騙されていただろう事実は、もはや疑いようがない。  それでも未だ、完全に辰宮百合香を敵視できないという複雑な感情が胸の中で渦巻いている。あの令嬢に縋りつき、捨てないでくれと這い蹲りたくなるような気持ちがあるのだ。  〈夏桀殷紂〉《かけついんちゅう》……国を傾けてまで毒婦に狂った、古代の愚王であるかのように。 「〈傾城〉《けいせい》……か」  その印象は図らずも、先ほど聖十郎が言っていた言葉と合致する。まさか女の自分まで、辰宮百合香の魅力に狂っていたとは……認めたくない話だが。  すでに起きてしまったことは覆せない。それなら今は反省よりも、話を進めていくべきだろう。 「ねえ淳士、何か違和感の決め手になったものはないの?」  この幼なじみと自分たちを分けた一線、その判断基準を知りたかった。それに対して、彼は指先で顔の中心、鼻を指す。 「匂い、だな。あの女を中心に、妙に甘ったるい香りがした。 ありゃあたぶん、花か何かだ。詳しくねえが、名前に掛けりゃあ百合なのかも」 「この中で俺以外、それを嗅いだ覚えがある奴は?」  問いに、そろって首を横へと振った。  嗅覚に訴えていたらしいのだが、心当たりはまったくない。 「あくまで勘だが、あれが原因じゃねえかと思う。判断力を低下させて、相手の言い分を丸ごと鵜呑みにさせちまうんだろう。   それがあの女自身の力か、あるいはあの館自体に仕掛けた大掛かりなトラップかは判別できてねえけどよ。“効き”に個人差があるのだけは確実だ。現に俺がそうなんだから」 「なら今後、百合香さんと向き合う際は鳴滝の判断を最優先だな」 「……いや、まあ、そうだな。   気は乗らねえが、四の五の言ってられねえか。それでいい」 「あと、問題なのはそこだけじゃねえ。辰宮対策もいいが、もっと分かりやすい部分が残ってるだろ」 「司令塔の不在、だよね」  今まで自分たちは、統制された個の集団だった。しかし今、その中核となる人物が欠け落ちて、ぽっかり大きな穴を空けている。  頭を失ったバラバラの手足。分断された状況を一度経験しただけに懸念は大きい。鍛え上げてきたはずの戦術が瓦解しているのだから、早急な対応が必要となるのだ。  すなわち、それは臨時のリーダーであり。  となれば当然、候補者は絞られる。皆無言で、それぞれの顔を見回していた。  百合香対策のために淳士を据えても、集団はまともに機能しないだろう。そこは彼自身、己に統率者の素質がないことを自覚している。  晶、栄光も性格的に不向き。彼らは良くも悪くも感情に呑まれすぎるし、甘いと言われるほど性根が優しい。そして的に集中すべき狙撃手に戦場全体を逐次対応せよ、というのも不可能なので歩美も除外。  よって、選択肢として残るのは鈴子と水希の二人になるが…… 「でだ、俺は〈鈴子〉《こいつ》を推す」  それを踏まえて、淳士が出した結論は前者だった。指差された鈴子は、一瞬ぽかんとした後に慌て始める。 「……え? ち、ちょっと待ってよ。なんで私が――」 「いいから聞けって、理由もある。   おまえだけなんだよ、この中でそういう教育を受けて育った奴は」 「極限状況ほど、積み重ねた心構えや倫理観がどうしても幅利かしちまう。それは全員、痛感したろ。   で、生き死に潜り抜けた後で一番芯がぶれてなかったのは、たぶんこいつだ。心当たりがあるんじゃねえか?」 「それは……」  言われ、鈴子は言葉に詰まった。そんなこと、ここで口に出せるものじゃない。  胸に迫るものなど何もなく、ただ死線を通り過ぎたという、醜悪な事実なんて……  そう思いながらも、しかし冷静に認めてもいた。血と惨劇に無感動であるというなら、なるほど確かにそうだろう。自分以上の適任はこの場に居ない。でも、だからって…… 「そういうことなら、能力的には水希の方がいいはずよ」 「ごめん、少し自信がないかな。   ほら、私って追い詰められると突っ走っちゃうタイプだし」 「同感だ。世良が柊に次ぐオールラウンダーだとしても、周りのケツ持った瞬間に持ち味がっつり消えちまう。   それに、自分だけならともかく、思い切った決断下すとか絶対無理だろ。仲間大切にしすぎた挙句、テンパっておろおろしそうな様が目に見えるじゃねえか」 「確かに」 「ひ、ひどいっ!?」  いじられて拗ねる水希だが、言葉自体は否定しないし、出来ると思ってもいないだろう。何せ、まさにその通りなのだから。  彼女の本質は、荷物が少ないほど軽やかな動きのできる遊撃兵。単身での突破や陽動に向いているため、複雑な工程を任せるほど強さが制限されていく面を持つ。 「とまあ、精神的な理由の方はそういうことでだ。消去法から考えても、やっぱりそれしかねえんだよ。   だいたい、武器の都合だってあるじゃねえか」 「あ、そっか……やば、すっかり忘れた」  各々の得物を生み出す〈物質創造〉《クリエイト》もまた、四四八に代わって誰かが務めなければならないことだ。  ならば必然、残るメンツでもっともそれを得意とするのは鈴子になる。四四八のようにマジックと組み合わせて飛ばすなんて芸当は出来ないが、事前に作って渡しておけば問題ないし、そこに限定すれば精度そのものはむしろ四四八を上回る。 「つーわけだから、こういう時ぐらいシャキっとしろよ。あいつのライバル自称すんなら、腕の見せ所じゃねえか鈴子」 「別に四四八ほどやれとか、そんな無茶振りしねえからさ」 「フォローはおまかせ」 「うん。だからみんなで、柊くんを取り戻しましょう」 「よろしく頼むぜ、新リーダー」 「…………あんた達」  ああ、困る。そんな風に言われたら、頑張りたくなっちゃうじゃないか。  信頼の分、背中は確かに重くなった。それは大きな荷物だったけど、心を挫くようなものではなかったし。  胸の澱みを押し殺してでも、自分は応えたいと思ったから。  私は──  我堂、鈴子は── 「いいわよ──ああもう、やったろうじゃない!」 腹を括ったと、ここに決意を口にした。 「上等よ。この程度、出来ないようなら目覚めたあいつに笑われちゃう」 負けたくない、勝ちたいなどと、いったいどの口で言えというのか。 ならばここが意地の張りどころ。自分にできるのだろうか? なんて腑抜けた思いは吹き飛ばす。 「気合い、入ったか?」 「そんなのハナから入ってるわよ。あんたは余計な気ぃ回してないで、〈夢の中〉《あっち》で鼻をひくひくさせてりゃいいのよ馬鹿」 「それからあんたら、言っとくけど私は柊みたいに甘くないわよ。命令は絶対遵守、破ったら厳重に罰を下すわ。そうね、小指とか詰めるからそのつもりで」 「おまえ、いきなりの独裁宣言かよ」 「当然。頭軽い愚民どもは、黙して私に従ってなさい。時代はすでに王政なの。凡愚による民主主義よりマシでしょ実際」 「手段を選ぶつもりなんてさらさらないわ。安心なさい、結果だけは何としてでも出してやるから」 そのためなら、どんな障害も根こそぎ自分がぶっ飛ばす。 成し遂げよう、絶対に。 「このねぼすけを叩き起こす──カチコむわよ、野郎共ッ!」 「お、おう……」 「えっと……」 「今のどのタイミングでそろえればよかったの?」 「だああああっ、なんであんたら締まらないのよ、ほんとにもうっ!」 「まあ、そこはおいおい慣れてこうぜ。ほら掛け声、真奈瀬――」 「はいよ。3・2・1」 「いくぞぉー!」 「応ッ!」 見てなさい柊、目が覚める頃には私が名実共に新リーダー。今度はあんたをこき使ってやるんだから。 それが嫌なら、そうなる前に起きられるようあんたはあんたで頑張りなさい。 約束だからね。破ったりしたら承知しないって、分かってるでしょ?  ──地脈、というものがある。  それは、近代において地層の連続面を指しての言葉であり。  かつての東洋では、陰陽五行太極風水において一般的に用いられていた概念である。  曰く、地を走る血管。  曰く、力を司る経路。  曰く、大龍の寝床。  これらは地域や思想によって表現を微々に変えつつも、示している太源は何も変わっていない。大地を流れる霊的な力の通り道、地球という巨大な生命体に張り巡らされた血流のようなものだった。  その解釈と表現は単なる〈荒唐無稽〉《オカルト》に留まらない。人間にも経絡の集う〈つ〉《 、》〈ぼ〉《 、》がある。神経が集中する箇所がある。  神経・血管・筋走行上に位置した体性内臓反射など。それらを正確な知識のもと〈鍼〉《はり》や灸など刺激するという医療は近代でも一般的なものだ。そこをうまく操作すれば対象を健康にすることも、逆に病ませることも自由自在。  要はそれと同じこと。星を生命と解釈するなら、人間の〈つ〉《 、》〈ぼ〉《 、》に該当するものが大地にあるのも当然だろう。  森羅、あまねくものは〈混〉《 、》〈ざ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。純金や蒸留水など、純度の高いものはおしなべて人工的だ。  素のままに生まれた天然物であるほどに、不純物となってしまうし単一ではいられない。だからこそ自然と陰陽──“吉”と“凶”が顕在化する。  科学的に述べるなら、〈大陸間断層〉《プレート》同士の干渉による地表の軋り……とでもいうべきだろうか。天然から生まれた資源の宝庫を吉とするなら、煽りをうけて痩せた土壌を凶とするというように。  だからこそ大地に張り付いて生きる人間にとって、健常な地脈にそって街を造るのは非常に重要なこと。  活力のある土地に住めば人の調子もよくなるが、病んだ土地に住めば不幸が起こる。破滅する。  それは噴火などの災害であったり、それによって発生する陰鬱や怨恨という気質であったり、現象は様々であるが徹底して凶事だ。  逆に言うなら、地から利を得て福寿と成すのが人の営み。都を繁栄させる要である。  これは世の理であり、少なくとも古くからそう信じられてきた事実だった。黒船が来航するより以前となれば語るまでもない常識であり、風水師とはすなわち方位と地脈に相通じる専門の科学者でもある。  星の動脈──東洋ではこの力を龍に喩えている。  黄龍、または勾陳。大地を走る黄金の龍。  五行説における黄は土行、方位として中央を指す吉兆そのもの。都を守る龍神である。  だが今、それが病んでいる。  徳川の世が終わり近代化した明治から大正の世の中、都の都市設計は新時代の到来によって侵略された。文化的に一新されてしまった因は、持ち込まれた西洋概念に由来する。  それは物質文明の先駆け。気、霊力、神気魂魄といった無形の念を押しのけて台頭したのは、実在にのみ依存した判別法。見えもせず触れもしないものを嘘偽りだと切り捨てた。  無形の〈震〉《チカラ》は迷信だと一笑されて廃れていく。しょせん、それら土着信仰であろうがと。  これが現代の地学に基づくものならば一定の理解もあっただろうが、すべては過去。未熟な国際論は異なる文化を未開と称した。  日本もそこに遅れてなるか。廃仏は進む。加速する文明開化。改革という名の新しい喜びは、吉も凶も〈混凝土〉《コンクリート》でまっ平らに舗装していく。  大地を〈均〉《なら》し、意図せぬままに封じ込め──  よって、黄金の龍は反転する。  〈廃神〉《タタリ》と化した。そう信じられている。  かつて抱いた畏敬は誤魔化せず、無意識の奥底へと沈殿していく。狂える邪龍へ変じた〈象徴〉《イコン》、忘却の彼方から病んだ信仰が姿を現す。  すなわち、裏の勾陳。百鬼夜行──百鬼空亡と化して。 「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ――!  キャキャキャキャハァ――!」  そして今、病んだ龍脈が震撃を放つ。  〈第七層〉《ハツォル》の鶴岡八幡宮。神々を奉る祭壇が、この邪龍の巣窟だった。  一歩、踏み出した瞬間に〈大気〉《てん》と〈地殻〉《ち》が鳴動する。それはまさしく悲鳴であり、世界が崩れ去る音でもあった。  龍が暴れれば砕ける。散り果てる。  そこに何ら複雑な理屈はない。  彼の怒りを買えば世に災いが訪れるという、語るまでもない当たり前の現実というものだろう。その咆哮にて万象滅ぶというだけだ。  それを前に、熟達した殺しの業が入る。  相対していた者は怪士。全身が致命傷に覆われ、すでに瀕死寸前ながらも卓越した一撃に翳りはない。骨肉を破りつつ、内臓をも崩壊させる浸透勁が炸裂するが。  ──しかし、逆に砕けたのは鬼面の豪腕。  鉄に角砂糖をぶつけたかのように、肘から先が大震しながら消し飛んだ。空亡は小揺るぎすらしていない。  だが、それもまた道理だろう。人体における急所を的確に射抜き、命を刈り取る巧みの拳撃……それが何だ、何なのだ? 殺人拳がどうこうと、しょせんは人を破壊する技。活動する地脈に対し、通じる理屈がどこにある。  重ねて言おう、これは龍だ。人ではない。  鱗は岩盤であり、〈顎門〉《アギト》は地の裂け目、咆哮は界を揺るがす震災である。  いわば具象化した地殻運動エネルギー。それを殴りつければ、砕けるのは人の腕だ。人類の練り上げた闘争技術で掻き消えるほど、天地自然は甘くない。  達人だろうが素人だろうが、地割れは平等に命を飲み込む。岩をどれほど巧みに粉砕しようと、踏みしめた大陸は厳と存在するのみだから。  きろり、と狂った目玉が奇怪に動く。  痛痒すら感じさせず、触れた獲物を見定めて。 「みぃーつけたぁ、 キヒ」  わざわざ近づいてくれた玩具へと、八等廃神は枯れた悦びの声をあげた。 「きれいなきれいな水晶玉」  目玉を抉る。弄ぶ。 「紅い朽縄、おお脆い」  腸を引き摺る。千切る。貪る。 「痛いの? 苦しいのォ?  痒い。痒いぞ。  わいは爛れた。どうして? どうして?  狭い。臭い。くれ、くれ、寄こせ。  滅・滅・滅・滅―― 亡・亡・亡ォォォ!  くーりゃしゃんせ、くりゃしゃんせェェェ───ッ!!」  腹を裂いて、掻き分けて、混ぜる混ぜる混ぜる混ぜる。  心臓も骨も一緒くたに。残した皮膚を受け皿にして、滾った赤い煮込みを作り出す。さながら子供が砂場で泥団子を作るように。  とうに死滅した怪士の身体で祭壇の贄を生み出した。病んだ己に捧げるために。供物で祭り讃えるために。 「よいよ、こりゃあ病んどるのォ」  それを前にして、壇狩摩は苦笑した。  部下の死を目にしても飄々とした態度は未だ健在。しかし現状に対してみれば、彼の言葉通り詰んでいた。  あらゆるものがどうしようもなく終わっている。  それはたとえば、空亡だけを指していない。凄惨な遊び場に誰も近づけないのは、押し寄せる妖の群れがあるからだ。  災禍の波濤。悲鳴と絶叫、阿鼻叫喚の混合物。  狂える龍による災害の象徴が、今も震源から我先に逃走している。他には一切目もくれず、死に物狂いに駆け抜けてあらゆるものを轢殺していく。  自立活動する龍脈と、そこから際限なく湧き出る〈凶将〉《バケモノ》の群れ。結果として、それが最悪の進軍行為となっている。他意や裏が欠片もないだけに、ただ強大で恐ろしい。  大軍を放射状に撒き散らす震の太源。百鬼空亡を斃すには、この百鬼夜行を掻き分けた上で必殺を叩き込まねば勝機はない。  そこは重々承知の上だが。 「ま、あかんか。順当に潰れておしまいよな」  言うまでもなく至難の業だ。いやそれどころか絵空事だ。怪士の一撃さえ空亡から接近したから奇跡的に当たっただけ。それも凶将の突撃は避けられないため、どのみち鏖殺されるのは変わらない。  残る手駒は夜叉、泥眼。そこに己を加えても、攻撃を当てる回数自体は二度もあるまい。  タタリであろうが自然現象、言わば神だ。とりわけ空亡を成す概念は東洋の土着信仰。現世の救済と悲嘆によって編まれた基督教とはかけ離れている。そのため無邪気で容赦がない。  祈りを捧げても救いはなく、ましてや天使が手を差し伸べてくれることもありはしない。どうか“〈荒〉《 、》〈ぶ〉《 、》〈る〉《 、》〈ミ〉《 、》〈タ〉《 、》〈マ〉《 、》〈を〉《 、》〈鎮〉《 、》〈め〉《 、》〈た〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》”と……その地に住まう民草が畏れ慄き奉らねば、永劫ああして狂奔する。  神も魔も妖も、怪も霊も等しく同じ。東洋では総じて、強大であれば神となるのだ。歳月を重ねた器物さえ、日ノ本においては神器へ転ずる。  絶対値の大きなものを崇めた上で、如何にうまく共生するか。その恩恵を受け取るか。そこが肝要であるだけに、勝てる要素は存在しない。狩摩から言わせれば、空亡を斃すとはもはや勝負事の次元にないのだ。 「あの龍に示す忠など、俺はさらさら持っとらん。そこは駒も同じことよ。  俺らはそろって、機と利を求めながら動いちょる。畏敬を示すもへったくれも、あったもんじゃないからの」  だからこうして、突進する凶将どもをいなしながら抗うことが精一杯。  よって詰み。勝ち目無し。いやそれを言うのなら、この地に引き寄せられた時点で勝負など成立するはずもなかったのだ。  地脈は病んでいるし狂っているが、その機能までも失っているわけでは決してない。今も流れが生きている以上、空亡の視界に入った者は問答無用でこの〈八幡宮〉《すみか》まで引き摺り込まれる。  それはさながら蟻地獄のように、大地に訴えた強制的な場の転移が生じるのだ。病んだ龍脈が蜘蛛の巣の如く、網が張り巡らしていると言っていい。  結果として、百合香の手から四四八を奪えたまではよかったが、その代わりに〈第七層〉《ハツォル》への落下と共にここへ手繰り寄せられたのが痛恨だった。  加えて狩摩自身にも、変質は起こっている。 「おまけに、今の全力でこれとはのォ……おお、我が事ながらしょぼいもんじゃわ。八方塞、愉快じゃのう」  呵々大笑する様とは逆に、彼もまた弱体化していた。〈掠〉《 、》〈め〉《 、》〈取〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》がために。 「やってくれおるのう、お嬢。そんなじゃから女は怖いと言われようが。  独り占めとはずっこいのう。夢から追い出そうとまでは思っとらんでも、こりゃちいときついわい。まるで甘粕のようじゃぞあんた。  そら輝け、やれ奮起せよ? ここが男の見せ時ならと……はッ、言いよるわ。ええ趣味しちょるでよ」  怪士で〈遊〉《 、》〈び〉《 、》〈終〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》空亡が再動した。視線の先にある蟲が粉砕され、体液を撒き散らしながら飛散する。 「ああええじゃろ、ならよう見とき。  こんな様で空亡抑えられる輩といやあ、そりゃ俺ぐらいしかおらんじゃろうけえのォ」 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ――  ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ、ぎゃァァッぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃァ―――!」  死骸によって構成された礫弾の雨は、破壊を伴った毒液の雪崩。それを前に悠然と、狩摩は爪先で地を小突く。  その瞬間、微かに地脈の網がその矛先を変更される。途端に磁石でもついているかのような動きで、飛来していた細切れの蟲が狩摩を避けた。  夢界から排斥されつつあろうが、風水に相通じる彼にとってこんなものは児戯に等しい。  神祇省は健在。空亡の対処法など幾つか浮かぶし、そして策を練りもしない。やりたいようにやった上で、大地震を地鳴り程度に押し留めていた。 「とはいえ、まあジリ貧よの」  それも風前の灯。この瞬間にも幾重と空亡に縛をかけてはいるものの、片っ端から強引に解除されている。  もともと狩摩は地相学の権威である。龍脈の化身である空亡の対処法をもっとも弁えているのだが、現状ではこれで手一杯。むしろここまで耐えられているのが不思議に思える状態だった。  今まで動きを若干鈍らせていたものの、それが解き放たれればどうなるか……まあ予想として、まず鶴岡八幡宮が消し飛ぶだろう。自らはおろか、材木や石畳の欠片一つも残らない。  そしてこのままだと、当然の通りとして退場する。  それは些か興に欠ける。ならばさて、これからどうする? 死の危険を前にしながら、狩摩は口角を楽しげに吊り上げた。 「今回の主演はお嬢なんじゃから、俺も逆十字のようにさっさと退いてしまえばええ」  それが一番賢いし、特に損をするわけでもない選択なのだが。 「やっぱりいかん。退屈じゃの。それじゃあ面白くなかろうが」 「せっかくの夢、これもええ機会よ。この際とことん、本番前に遊んでみるのも一興じゃろうが。  男じゃけえのォ、見栄ェ張らんで何のための生き様なんなら。おら来いやァ!  いずれ必ずぶつかろうし、慰霊鎮魂の柱も見つくろえれば、これ幸いよ。儲けモンじゃ。  〈社〉《やしろ》に〈祀〉《まつ》るは誰じゃろなァ。〈何〉《なん》しに何処ぞへ行くやろなァ。ひひひひひ――ええぞ、ええでよ、ようやく俺好みになってきたでよ!」  その結果が如何なる形になったとしても構わない。  どれほどの混沌と大過が解き放たれても構わない。  どだい何がどうなろうとも、最後に笑うのは俺なのだから。  そのためには、まず── 「なあ、夜叉よォ。  ──おまえ、死ねや」  命に応え、即座に夜叉は実行した。迷いなく邪怪の津波へ身を投じる。  ならば、後は蠱毒に落とされた羽虫の如くだ。臓物を食い破る毒蜘蛛、頭蓋を轢き裂く百足、無数の〈壁蝨〉《だに》と白蟻が砂塵のように体躯を覆い、夜叉の身体へ巣穴を作りながら走り回る。  邪魔だ。邪魔だ。龍が来るぞ──あな恐ろしや。  震災から逃げ惑う阿鼻叫喚の断末魔どもは、牙を打ち立てた対象を認識すらしていなかった。夜叉の無謀な突貫は、この時点で彼女の死へと帰結している。  加えて、そこに迫り来る大震の〈廃神〉《タタリ》。動き出しただけで巨大な破壊の波濤を起こし、新たな供物へ手を伸ばす。 「おーにさんこちら、手の鳴る方へ。  夢にその〈腸〉《わた》バラと撒く」  吐息を吹き付けられた瞬間、夜叉に群がる凶将どもはその半数が霧消した。 「そんならまずは、こう遊ぼうや」  にい、と弧月を描く口元。いたずらに蹂躙するがままと思うな。  抗う合間を縫いながら、鬼面を使って足元に刻んだ太陰の紋。  〈閑〉《しずか》に、豪胆に、組んだ印が発動する。 「だぁーるまさんが、こーろんだっと!」  その瞬間、死した夜叉の肉体が動き出した。創り出した数百の鉄針で狂ったように自身を貫き、大地に向けて串刺しのまま磔となる。  それで完成。〈土行〉《したい》を通じ、相生導く〈金気〉《てつ》の楔。五行太極相通じて陰気を操る〈堪輿〉《かんよ》の業が、ここに成る。  それ、すなわち。 「あれぇ? う、あああ、あああああ…… アアアアアアアッ、アアアアアアアアアアアアア──!」  霊道を断ち切り、気を乱すという均衡の崩壊。土地を枯らして災禍を招く、地脈殺しの外法である。  元来、大陸で発生したその術は、日本の如何なる文献にも記されていない。だが神祇省の歴史は千四百年――裏の裏の裏の裏まで、咒に通じる道は知りつくしている。  ゆえに効果は抜群。いかに強大であろうとも、自らの因は存在核ゆえに逃れられない。空亡は狩摩の存在を見失って激昂しながら暴れ狂う。  地脈の網が機能不全に陥るということは、知覚というセンサーをかき乱されたのと同じことだ。眼も鼻も髭すらも、麻痺して何も見えない状態。一種の〈瞽〉《めくら》へと陥っている。  絶叫はかつてない規模で大気を揺るがし、凶将どもは大挙して放射状に押し寄せるが、それは獲物の姿を捉えてないという何よりの証だった。もはやこの場、この時だけは、地脈の網は分断されて要を完全に無くしている。  地相学の権威にして、神祇省の頭領たる壇狩摩にのみ可能な裏技。龍に人柱を捧げ、迅速に八幡宮から離脱した。 「どこへ行ったッ、どこへやったッ!  ねえ、痛いの。痒いの。寂しいの。  狭い……枯れるッ!  暗いよ怖いよ置いてかないでッ!」  残された夜叉の身体は幾分と保たない。盲目になったとしても空亡の破壊は続いているのだ。この調子で至近距離から暴れる限り、原型を留められるのもあと数秒。  三、二、一と……無情にも魂魄ごと分解された、次の瞬間。 「何処だ、何処に、どこにいるゥゥゥ───ッ!」  爆発した絶叫に境内そのものが崩壊した。  地割れが大地へ深い傷跡を刻む。逆鱗に触れられた龍が一柱、〈第七層〉《ハツォル》を揺るがしながらさらに病を深めていった。 「うわはははははは! おうおう、元気じゃのう。本調子じゃなかろうに」  遠ざかりながら背後で炸裂した咆哮に対し、狩摩は笑う。あれが空亡、龍神という存在なのだと。  封縛と共に今まで自分が重ねていた弱体化の仕込みも、一切まとめて消し飛ばされた。絶え間なく震動する破壊を前に、空は亀裂が走っているようにさえ見えてくる。あのままあれと対峙していれば、おそらく数秒も保たずにこちらは全滅していただろう。  今も全力で離れているというのに、耳元で花火を打ち上げているような音を轟かせている始末。  空亡は斃せない。人間の手に負える怪物ではない。  地龍を討ち滅ぼすことだけは、人の領域を超えている。この世に大地がある限り、黄龍は不滅の存在なのだから。  おそらくは地球という〈星〉《いのち》が息絶える、その時まで。 「しょせんは一時しのぎじゃが、ともあれこれで仕切り直しよ」  しかし、それをなんとかしなくてはならないのも事実。〈第七層〉《ハツォル》に足を踏み入れた以上、奴は決して避けて通れない。無理だ不可能だどうこうと、言っているだけではどうともならず。  鬼面衆も残るのは、隣を並走する泥眼のみ。 「さあて、どうしたもんかのう」  負けるつもりは依然欠片も持っていないが、だからといって状況を理解しない阿呆じゃない。戦力はどうしても必要だ。 「今回、俺らはお嬢に捨てられた。辰宮と神祇省の関係はあえなくご破算。おまけに力の大半も失っちょるが、ここから巻き返す手がないでもない。   なんせ盧生はこっちが掴んどる。今は木偶じゃが、そいつを出汁にやれることも多かろう。   たとえば、戦真館のヒヨッコどもと組むのはどうじゃ?」  友情、愛情、勇気、信念。相手がこちらを信じずとも、甘粕が魅入るような連中が四四八を見捨てるはずなどない。  同盟が消えたというのなら、別の繋がりで補填するのもいいだろう。 「ここらで〈元〉《 、》〈鞘〉《 、》に収まるのもよかろうが。そんならまさしく、これはリハーサルっちゅうことになる」  そう、空亡も、甘粕も、そして戦真館との関係もいずれ通る道であり、そして通った道となる。ならば不思議なことなど何もなく、理屈は万事一徹して不変であった。  ゆえにこちらの側に付こうや、と。狩摩は明確な揶揄を癪に障る笑みと共に配下へ投げた。 「なあ、おまえもその方が嬉しかろ?」  なぜなら── 「別に、そのようなことはありません」  〈彼〉《 、》〈女〉《 、》もまた、そこについては納得していることだから。  外装を脱ぎ捨て、隠していた〈配役〉《すがた》を明かし、ただ返答する。 「どうぞお好きなように。  私の言葉など、最初から気にせずとも結構ですから」  淡々とした、感情の見えない声。  喜怒も哀楽もなく、伊藤野枝は狩摩の判断を放置した。素っ気なく一瞥さえしないままに。  わざわざ言われるまでもない。彼女もまた、そこについてはとうに納得を済ませているのだ。  空亡も、甘粕も、そして戦真館との関係も。いずれ通る道であり、そして通った道となる。ならばそこに自分は渾身をかけるだけ。  如何に転ぼうともつつがなく。ああ、何せ。 「すべては、夢中の些事でございましょう?」  その真理を察したから、狩摩は腹を抱えて大笑したのだ。  龍の咆哮は止まらない。人に理解できる規模を遥かに絶し、膨れ上がり続ける大地の神威。  ああ、それでも、これが単なる“前震”にすぎぬと知ったなら、どのような英雄豪傑でも狂死するに違いない。  まだだ。まだまだ。  まだまだまだまだ――魔震の本領からは遥か遠い。 「お、おお、おおおおおおおおおォォォォ――――」  腐り果てた九つの鎌首を振り回し、龍は陰陽狂乱の果てへと今このときも堕ち続けている。  空亡、すなわち天中殺――神の呪いにる魔の震災が起こるとき、あらゆる加護も救いも消え失せるのだ。 「――ああああァァッ」  喉に牙を突き立てられ、生き血を啜られる痛みとおぞましさに絶叫する。  だけど、同時に何かが流れ込んでくるような。  忘れていたことを、思い出していくような。  首から全身に走り抜ける戦慄は、まるで何百万もの昆虫が私の内部を這いずり回っているみたいで、奴らが顎を擦り合わせながら告げるのだ。  思い出せ。思い出せ。思い出せ。思い出せ、と―― 「そろそろ、目を覚ましてもいい頃だろう?」  悪魔の囁きが耳朶を抉る。そうだ、〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》。  この吸血行為に本来的な意味はないということ。  なぜなら私は盧生じゃなく、そして神野は眷属じゃなく。  ゆえに権利の強化を目的とした吸血行為なんかじゃない。私とこいつの関係ではその概念が成立しない。  血を吸われることに意味があるのは柊くんで、彼を吸血することに意味があるのはその眷属である者たちだけ。  私はこれまで、〈何〉《 、》〈度〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈状〉《 、》〈況〉《 、》〈を〉《 、》〈目〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  壇狩摩がそうしたように。  辰宮百合香がそうしたように。  柊聖十郎は甘粕の眷属だけど、柊くんの盧生権を奪い取るのが目的だから、同調を深めておくことには意味があるのだ。  そう、知っている。これまで、おそらく〈四〉《 、》〈周〉《 、》〈回〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  目的の第八層へと到るため、私たちはそれだけの夢を越えてきたのだ。  晶と結婚した柊くん。  歩美と戦場へ行った柊くん。  鈴子と総代選挙を競った柊くん。  そして、最初の一周目……私一人を残して全滅したあの結末。  すべて、すべて覚えている。  私の夢に刻まれた、都合四百年にも渡る〈歴史〉《くりかえし》の記憶。  それが今、この五周目において初となる展開を見せているのだ。  なぜ神野は、私の血などを吸っている? 言ったように、本来的な意味などないというのに。  カラクリを思い出せと言うのなら、思い出したのだからもういいだろう。いい加減にやめてちょうだい。お願いだから。 「いいや、まだだ。  僕が君に思い出してほしいのは、そんなことじゃあないんだよ」  闇の中で無貌が蠢く。愉悦と絶望に爛れた瞳が、こちらを覗き込んで、揺らめいて…… 「でないと、〈世良信明〉《せらのぶあき》は浮かばれない」  その名が深く、深く私に染み込んでいく。  同時に歯車は回り始め、時計の針が巻き戻っていくのを私は感じた。  かつて、そのように願った発端の日へと巡り返る……  そして今、尽きせぬ悔恨の渦に苛まれながら少女は夢から浮上した。  いいや、もしかしたら、すべてが夢なのかもしれない。 「――神野ぉぉォォォオッッ!」  噴きあがる〈嚇怒〉《かくど》の念は、いったい誰に対してか。  それすらもはや分からない。  ただ思うことは一つだけ。彼女の胸にある真実はいつだってその一つだけ。  強い男の人が好きだなんて、何があっても言ってはいけなかったのだ。  そう、今でも絶えず悔いている。  死にたいほどに。やり直せるなら命も要らないと思うほどに。  他の人では、どうしたって理解できないほど狂おしく…… 「そうだよ。だから、さあ、今こそ僕に見せてくれ!  君はこの〈混沌〉《べんぼう》に何を願う? 本音を――〈真実〉《マコト》を搾り出すんだ。もう躊躇する必要はない」  すべての仲間を虐殺され、ただ一人となった水希は満身創痍。炎上する戦艦の甲板で、対峙する悪魔に抱く感情は、激怒以外の如何なるものも一欠片だって存在しない。 「殺してやる……!」  ゆえに燃え上がる怨嗟の炎に焼かれながら、しかし水希は同時に奇妙だが冴えていた。まるで春を謳う鳥のように、清々とした命の脈動を寿ぐがごとく解放感に浸っている。  それは重荷が失せた者の顔。これにて自分は思う様好きに出来ると、ある種喜び勇んでいる状態に他ならなかった。  真っ当に考えて、筋は全然通っていない。つい先ほど、仲間と総力を挙げて挑み、敗北したにも関わらず、最後の一人となった今を好都合だと断じる理屈は議論の余地なく破綻している。  よって順当に考えるならこれは絶望による発狂であり、すなわち破れかぶれの特攻だ。そうした愚断の招く結果は、古今犬死にと相場が決まっているだろう。  だというのに、真実はその手の常識をいともあっさりと覆した。  放たれた水希の一太刀。その一閃が神野の片腕を容易く切り飛ばして宙に舞わせる。しかも、回復を許していない。 「おぉ……、これは……」  吹き飛んだ自らの左腕へと視線を落とし、呟く神野の声音は抑えきれぬ感激に痺れていた。長年探し求めた至高の芸術品を目にしたかのごとく、敬虔さすら滲ませながら水希の変化を讃えている。 「そうだよ、いいねえ……ようやく照れが消えたかい。  もっとだ。もっと僕に君の真実を曝け出してくれェッ!」  絶叫の余韻が消え去る前に、再度放たれる水希の剣。今度は神野の右脚を切断した。  返す一刀で腹を裂き、肩から肋骨を切り割って心臓を断つ。そのまま抉りつつV字に逆の肩へと切り上げて、宙に舞った神野の上半身へと百裂の刺突が連続した。  すべて。そのすべてが極めて有効――内の一撃たりとも神野は無効化できていない。見た目の通りまったく一方的なまま、水希の剣が悪魔の霧を削りながら蹂躙していく。  それは誰もが目を疑うであろう、信じられない現象だった。神野が手加減をしているのかと普通は思うところだが、違うと本人が言っている。 「素晴らしい……!」  いつもの〈諧謔〉《かいぎゃく》ではなく、心からの愛と真摯さを込めて。 「それが本来の君だよ、水希。どうだい気持ちいいだろう? もう遠慮なんかすることはないんだ」  八つ裂きに刻まれながら、それでも宙に浮いた首と腕だけで語る神野は、なるほど第八等の廃神だけあって不死身の存在なのかもしれない。  だが、斬撃を無効化できずに再生も覚束ないのは、紛れもなく今の水希が神野の防御力を上回っているからに相違なかった。悪魔としての名誉に懸けて、彼が彼女の力を認めていることこそがその証。  得物である白刃を編んだ形の精度。  斬撃の瞬間に刃筋へ集中させる解法のコントロールとタイミング。  一切の無駄を排した体捌きに、純粋な剣術の技量。  有るか無しかの隙を無意識かつ本能的に察知する直観力。  つまり水希は、特別なことなど何一つとしてやっていない。すべて基本の組み合わせであり、ゆえに極意と呼ばれるものだ。基礎を高密度に極めていれば、小技が一切不要になるのはあらゆる物事に共通する真理だろう。  強い。偽りなく彼女は強い。まるで別人としか思えない突然の変化だったが、それは土壇場における進化や覚醒といった類にも見えなかった。  曰く、本来の姿。世良水希という少女の、これが真実の力量。  ならば、なぜ今の今までそれを隠し、偽っていたのだろう。  彼女は仲間たちを愛している。だからこそ今、猛っている。にも関わらず全力を抑えていたという事実は、明らかに矛盾していて道理が立たない。  あるいは当の水希本人にさえ、それは分からないのかもしれなかった。  そこを正確に知っているのは、彼女を愛する神野明影ただ一人。 「要らない無力感に苛まれることなんかない。弱くてチョロい女を演じる必要なんてどこにもないんだ。“僕ら”がそんなことを求めているとでも思っているのか?  それこそ侮辱だねえ。君は〈彼〉《ぼく》を舐めている」 「黙れェェッ―――!」  首だけになっても健在な弄言を断ち切るべく、振り下ろした水希の一閃が神野が顔面を真っ二つに断ち割っていた。それによって、ばらばらに吹き飛んでいた他の肉体部位も消えていく。  ……いや、それで終わったわけじゃなかった。 「いいだろう。ならもう少し語り合おうか。  君がどれだけ罪深いか、教えてやれと僕の中の“彼”が言ってる」  渦巻く数億もの蝿声が、輪唱しながら宙に奇怪な陣を描き始めた。神野の姿は依然消え去ったままであるが、膨れ上がる邪気の凄まじさはこれまでと比較にならない。  いわば本性――それが出てくる。到来する魔性の予感を前にして、しかし水希に恐れはなかった。その目に宿るのは斬滅の意志、ただその殺意だけ。 「私が罪深いことくらい分かってる。  だから罪人らしくしようというのよ。もう二度と、同じ過ちを繰り返したくないから」  たとえば? そうたとえばそれはなんだ?  にたりと、闇に無貌の笑みが滴った。 「女に負けたら屈辱すぎて、また腹でも掻っ捌くんじゃないかと言いたいわけだ。 彼のように」 「―――――ッ」 「だから君は本気を出さない。自分は弱いんだと思い込んで忘れている。  だって私が本気を出したら、あなたショックで凹んじゃうでしょ? ひはははははははは―――そうだねえ! 僕ちゃん凹んじゃってこんなんなっちゃったもんねえ! あああぁぁ―――それは確かに。  うん、君のせいだわ」 「神野ォォォッ―――!」  そして、再び連続する剣閃の瀑布。先のものよりさらに鋭く、速く、精妙に、穢れた陣ごと掻き消してやると言わんばかりに刃が鏖殺の軌跡を描く。  しかし、今度の結果は一方的にならなかった。相変わらず神野の姿は闇に溶けたまま見えないが、何か人知を超えて強固なものが水希の剣を打ち払っている。  それはつまり、両者の間で混じり気のない対等の戦闘が成立している証だろう。これまでどちらかの側に極端な偏りを見せていた天秤が、初めて拮抗したものになっている。  本気対本気。ぶつかり合い高まり行く戦意と戦意が〈戦艦〉《いぶき》を軋ませ、海に激流の波濤を巻き起こした。二人を中心に竜巻が発生し、それが瞬く間に巨大化していく。 「そうだね水希、君は確かに間違っちゃあいない。  女は面倒くさいと世間は言うけど、男もどうして、かなり面倒くさい生き物だ。野心とプライドの奴隷だよ。  そしてまた困ったことに、〈女〉《きみら》はそんな〈男〉《やつら》のことが決して嫌いなわけじゃない。勝負に負けてへらへら笑っているボンクラや、そもそも勝負の場に立とうとさえしない根性無しを見下してさえいるはずだ。  ああ、それでいいんだよ。だってそんな奴らは男じゃなければ人でもない。きっとママのお腹に金玉忘れてきちゃった奇形児なんだよ。人間未満だ」 「強くなければ男じゃない。いいや、仮に弱かろうとも、大事なのはそこに恥を覚えるか否か。気概の有無。  そうだよ、たとえば彼のようにね」  無貌の底に呪縛された一つの〈人格〉《きおく》が、今も狂おしく恥じ、絶望している。  神野明影という悪魔を現界せしめている核がそこに存在するのだ。 「もしも彼が、君に憧れるだけの存在だったら幸せだったか? 大活躍する君の後ろで、黄色い声の応援してりゃあ世の中上手く回ったのか?」 「そんな構図に、誰も違和感を持たない世界は素晴らしいのか?  女子供を前線に立たせ、クソ役立たずのくせにスケベ心だけは一丁前のクズが主人公を張っていいのか?  〈女〉《きみら》はそんな奴のハーレム要員になるのが望みなのかい?  違うだろう」  そうだ、違う。だけど、 と――水希は没頭する戦闘のなかで反駁を噛み殺している。  その先を口にしてしまうのがどうしようもなく嫌なのだ。 「〈廃神〉《ぼくら》は人の夢が生んだ〈存在〉《ものがたり》だ。だからよく知っているよ。そういう奇形児どもがいま増え続けているっていうことを。  いいねえ、いいねえ、いいねえ、いいねえ―――!  あんめいぞォ、ぐろおおりあァす――喜べ水希、遠からず君のような女にも需要が生まれる世の中になる。だから我慢なんかしなくていいんだ!  そのハイスペック、思う存分に揮えばいい。堕落させろよ、無限に奇形児ども生み出せばいい。そしてそれに耐えられない強くて弱い男たちを、彼みたいに血の海へ沈めてくれェッ!  なあ、だから愛してるんだよ」  それこそが〈悪魔〉《ぼく》の〈楽園〉《ぱらいぞ》。イヴに知恵の実を授ける蛇の誘惑。  悪魔からイヴへ、イヴからアダムへ。連鎖する誘惑の相関は原初にそう決定したから、女は悪魔に弱く男は女に弱い。  それが人の原罪になっている。ゆえに、遠からず世から男性的な役割は消滅してしまうだろう。  文明が進み、社会が成熟し、分かりやすい野蛮さは唾棄すべきものとして廃れていく。  法や人権意識が常識的に定着すれば、たとえ他者を面と向かって罵倒しても、殴られるということにさえ思い至らぬ奇形が跋扈し始めるはずだ。  それは堕落。紛れもない魂の劣化。  たとえ善や正義で敷き詰められた道であろうと、地獄に通じることがある。  暴力が縁遠い世界になれば、男の男らしさなど紙細工にも劣る形骸と化すだろう。元来、男の程度などそんなものだ。そして彼らは放り出す。  戦わねばならないという性の重圧を投げ捨てて、ただ安穏と愛でればいい。  女々しく弱体化する奇形の自分を正当化し、母乳の中毒になりながらどこまでも堕ちていくのだ。  そして勇気は一種の幻想となり、幻想であるがゆえに愛でる対象として女にでも背負わせればよい。  戦の真を忘れ去って。  奇形でない者らを悉く滅殺してでも―― 「君にとって実に生きやすい世の中だろう?」 「―――違うッ!」  吼える水希の激情に呼応して、世界がゆっくりと巻かれ始める。  言いたくなかった。見せたくなかった。後悔、慙愧の念を〈縁〉《よすが》にしつつ、過失をやり直せる時を夢見て反転していくのを止められない。 「〈主〉《あるじ》よ、とりあえず演出はこんなところでどうでしょうか。  あなたがはっちゃけすぎたせいでご破算になりかけたけど、上手く修正できそうなので次回からは慎重に。  彼女に説いた〈楽園〉《ぱらいぞ》は、あなたがもっとも嫌うものだろうけど目を瞑ってもらえるとありがたいね。  ここでの功績に免じて一つ。  ふふ、うふふふ、あははははははははははははは―――!」  〈混沌〉《べんぼう》が爛れ落ちる空の下、神野の哄笑は天を衝く竜巻に呑まれながらも轟き渡る。  巻いて、巻いて、逆巻いて、巻き戻っていくのだ。渦のように。 「私は……」  そもそも、どうすればよかったんだろうという、少女の〈嘆き〉《ユメ》を贄にして。  巻き戻るのだ。狂った邯鄲を正すために。 春──舞い散る桜の花びらが、あたかも俺たちを祝福しているようだった。 俺たちだけじゃない。周囲では合格発表に集まった学生たちが喝采の声を上げている。それらの光景を黙って見つめていると、後ろから声をかけられた。 「よう! おまえもちゃんと受かったのか、夢にまで見た千信館によぉ」 文武両道、質実剛健。そこいらの一般学生では試験の突破はとても叶わないだろう、その難易度は県内でも屈指だと言われている。 栄光の成績では少なからず不安だったが、無事に受かったようで何よりだ。 「ほんと、みんなで入学できて良かったよねぇ」 「おうとも! やっぱオレたちって、決して離れらんねぇ永遠の友ってやつなのかもな」 暑苦しく肩を組んでくる栄光のことを些か鬱陶しいとは感じるものの、しかし今日ばかりは強く嫌とも言えない。 確かにこいつの言う通り。みんな揃ってこの千信館に入学できたことを、俺はどこか運命的なものにさえ感じている。 盛り上がる栄光に視線を向けると、呆れた様子で晶が言った。 「まぁな。一番危なっかしかった奴もちゃんと受かってて何よりだ」 「けどよ、永遠の友とか言って抱きつくのは、いくら男同士でも気持ち悪くないかねぇ。浮かれやがって」 「おいおい。それをめでたい日に言うかよ。いいじゃんか、こういう日くらい盛り上がっても!」 「あー、もう人前でベタベタすんなって言ってるんだよ。乙女かおまえはっ」 「へいへい……まったく、幼なじみは盛り上がりに欠けるのがなぁ」 「わたしはちゃーんとテンション上がってるよん」 「ああ、なんたる晴れやかな天気──めでたいときは、こういう美しい日じゃないと記憶に残らないわね」 「……あら。私としたことが緊張しているのかしら。この我堂鈴子ともあろう者が」 「けど、ここから私の覇道が始まるんだわ。この千信館から――」 「りんちゃん、遅いよー! みんな受かってるから安心して!!」 「クッ……先に言う事ないじゃない。せっかくの風情が台無しね」 「どーせ緊張してなかなか家を出られなかったくせに。遅いから、あたしらが確認してやったんだよ」 「誰が頼んだのよ。自分が矮小だから他人のことを気にする、いかにも庶民らしい行為ね」 「受験番号、オレたちに晒してる我堂もどうかと思うけどな……」 「ホントだよ。みんなで試験勉強してるときにわざわざやってきて、合格発表を楽しみにしておきなさいって番号を見せられたら、そりゃチェックするだろ」 「う、うるさいっ。それで私は何位だったのよ! もちろん首席で合格――」 「あー、えっとりんちゃんは三位だったよー。全教科でちょっとずつミスしちゃったんじゃないかなぁ」 「ガァッ――!?」 せっかく物々しく黒塗りの車で乗り付けたというのに、我堂のやかましさでは相変わらず締まらないことこの上ない。 いつもの仲間たちが、いつものやりとりをしているのに、それがいつもよりも少しだけ輝いて見える。 桜の花が日常を彩っているようだ。ああ、たまにはこういう節目があるべきだと俺は思う。 なぜなら、俺たちにとって千信館に入ったことは、まちがいなく人生の大きな分岐点になるだろうから。 「おまえら、騒ぎ過ぎだろ。うるせぇよ」 「うお、鳴滝。後ろからいきなり声かけんなよっ」 栄光がびくりと身を震わせる。心から驚いているわけじゃないだろうが、鳴滝の醸し出す雰囲気に反応してしまったようだ。 そろそろこいつも、鳴滝の厳つさに慣れてほしいと思う。 「なぁ、おまえどこ行ってたんだよ」 「ここはうるせぇからな。そこの木陰で休んでた」 「マイペースかよ……」 「不良に何を言っても無駄ね」 「ああ、鳴滝くんも合格発表を見て緊張しちゃったの? わたしもだよー。安心したら、ちょっと疲れちゃった」 「………………」 仲間内でも天然に見えて、その実は察しのいい歩美。それをそのまま表へ出すから、鳴滝でさえ閉口してしまうことも少なくない。 つまりは、変なところでバランスが取れている俺たちだった。 「でもさ、せっかく合格したんだから、何かこう心躍るようなご褒美とかないもんかねぇ」 「褒美って何言ってるんだおまえ」 「だって最難関だぜ? 思い出してみろよ、学力だけじゃなくて面接も運動測定も大変だったろ。それなのに紙切れで合格ですなんて、オレは寂しいぞ。うむ」 合格発表とはそういうものだけどな。 「あー、そういうの栄光くんらしいけど、ちょっとだけ分かるかな」 「猿らしい煩悩にまみれた発言ね」 「ぐっ……」 助け船をよこせとばかりに縋りついてくる栄光。やめろ、暑苦しい。 こういうとき俺がどういう反応をするかくらい、こいつだって分かっているだろうに。 そして、あまりにも浮かれ過ぎている栄光のことを引き締めようと俺が口を開きかけたとき、澄んだ声が耳朶を打った。 「ふふ。みんないつも通りだね。全然緊張してないみたい」 「水希!」「水希!」「みっちゃん!」 顔馴染みの心安い友人に話しかけるような、親しみに満ちた優しい声。 けれど過度に馴れ合った印象はなく、あくまでも先輩らしい包容力や凛然とした態度を感じてやまない。 現われたのは、この千信館でも有数の才女と呼ばれる世良水希―― 「世良……先輩。お疲れっす」 鳴滝までが礼儀正しい反応を見せる。ぶっきらぼうなくせしてこいつは意外と上下関係に分別のあるタイプなのだ。 「年齢だけは上かもしれないけど、尊敬できるかどうかは別よ」 「もちろん。そっちの方が、鈴子らしくて安心するかな」 「みっちゃんのおかげで、全員入学できたよ~」 「うんっ。入試一ヶ月前のラストスパートが無駄じゃなかったってところかな」 「アレがなかったら落ちてましたよ……もう二度と受けたくないですけど」 「同じく……すごく助かったけど思い出したくないっ」 「そんなこと言ってると、入学してから置いてかれちゃうよ……そうだ! 期末試験のときにまた勉強教えてあげよっか?」 「今度は一週間徹夜するくらいで済むと思うよー」 「ひぃいい!? 徹夜することよりも、スパルタな水希が恐いっ」 「お、同じくっ。幼なじみとは思えないスパルタっぷりで思い出したくない」 身体を硬直させながら栄光と晶が震え上がった。 こいつらの心身には、すっかり恐怖が刻まれているのだろう。確かに勉強を教えるときの世良には妙なプレッシャーがある。そこは俺も否定しない。 「学園に何か用事だったのか?」 「うん、ちょっとね。ハナちゃんに呼ばれてて」 「おお、雑用っすか? 俺は暇です!」 「ふふ、ありがとう。でも大丈夫、手伝ってくれる子はちゃんと確保してあるから」 「ちょっと栄光。おまえ、露骨すぎ」 「し、下心なんかじゃないぞ。ただこれを機にただの友達から変われたら、みたいな?」 「気持ち悪い」 ストレートな我堂の反応に晶も頷く。 そうしていると、やがて歩美がふと気がついたように世良へ尋ねた。 「でも、確かに有名人だもんね。学園だとみっちゃんじゃまずいかなぁ」 「どういうこと?」 「わたし達はみっちゃんとお友達だけど、みっちゃんに憧れてる新入生はいっぱいいるでしょ」 「そういう子からすると、わたし達が馴れ馴れしいのは嫌かなって」 「………………」 「確かにな。水希だって舐められるかもしれないぞ。とくに栄光みたいな後輩から呼び捨てにされてたらさ」 「オレかよ」 「言うほどの存在かしらとは思うけど……ただし面倒事は私も避けたいわね」 ある意味、俺たちらしくない気の回し方だった。しかし重要なことでもある。 世良水希という女子生徒は、千信館で知らない奴のいない有名人だ。 教員の信頼も厚い。世良の言うことだから、という理由で言うことを聞く生徒も沢山いる。それこそ鳴滝の反応が良い例だ。 ゆえに余計なことをすれば世良の学園生活において歯車が狂いかねないと、みんな気にしているのだ。 すると世良は少し考えてから、どこか願いを込めた様子で、俺たちに言った。 「それでも、みんなには普通に接してほしいな」 「水希……?」 「私が願ったことだもの。みんなと一緒にいること。私は――みんなの中にいる私がいい」 わざわざ改まった台詞。それは、どこかこの場にそぐわない。 だが、世良の表情を見ていると分かる。きっとこういう機会にしっかり伝えたかったんだろうということを。 「……そっか! じゃあこれからもみっちゃんだね!」 「うん。そうだよ。みっちゃんで水希。それ以上の何者でもないの。そんなに私は大した奴じゃないもの」 「ふん。最初から私はそう接するつもりよ」 「かといって馴れ馴れしいのはうざってぇな。俺は俺なりの反応だから気にするな」 「うん。分かってる。みんなのそういうところが好きなの」 ほっと胸をなで下ろした世良が優しく微笑む。 まるですべてを見透かしているような、この世に世良以上の存在があるのだろうかと思わせる深い笑顔だった。 ただ笑うというよりも、それこそ世良の言う通り、彼女の願いや祈りが込められているようだ。 そして、晴れ晴れしい表情を俺に向けて告げる。 「――というわけで、千信館に入っても今まで通りだよ」 ああ。分かってるさ。当然だろう。 「うふふ。これから雑用を手伝わされるなって顔してる」 「分かりやすい奴」 「大丈夫。すぐ終わるから……それにしても、まさか合格するって思ってなかったから、今でも驚きかな」 「おめでとう。本当に頑張ったね。■■■■」 千信館の生活に慣れる頃には、桜の花もすっかり散ってしまっていた。 初夏を控え、季節の移り変わりに吹く風を掴もうと、グラウンドの緑がより青く枝を伸ばしている。 長距離を走るに適した日差し。先に走っている女子を眺めながら、俺たちは待機していた。 するといち早く抜け出していた生徒がゴールを決める── 「はい。おめでとう世良。今日も記録を塗りかえてのゴールだ」 「はっ……はっ……そうですか」 「まだまだ余裕って感じだな。どうする? クールダウンも兼ねて、もう少し走っとくか?」 「遠慮しておきます。下級生でも速い子がいて、途中とても苦しかったですから。木陰で休んでます」 「二位以下を周回で引き離しておいて、説得力に欠ける台詞だなぁ。我堂辺りに聞こえたらうるさいぞ。次は手心でも加えてやるか?」 「いえ、それはしません。本気で走る子に悪いですから」 「……ふふっ、そうか」 少し離れた位置でも、芦角先生と世良のやりとりが途切れ途切れで聞こえてくる。 いかにも世良らしい台詞のようだが、それでもまだどこか余力がありそうに聞こえてしまう。 二人のやりとりをつぶさに盗み聞いていた栄光が、感嘆の声を上げた。 「しっかし、さすがは水希だなー。アレって男子の俺たちより速いんじゃね?」 「少なくともおまえよりは速ぇな」 「オレだけじゃないだろ。鳴滝だったらどうだ? 勝てる自信あんのかよ」 「走ってみないことにはな。きっと今のもマジじゃねぇだろ」 鳴滝も同じ意見のようだった。確かに世良の表情や言葉の端々からは、いつも一歩引いたようなところが感じられる。 いや、意識して引いているというよりも、秀でている能力をあからさまには見せないようにしている感じの控えめな調子。 そういうのは男として、なんとなく気になるものだ。 すると待機している俺たちを横にして、世良の後を追っていた女子が次々とゴールを果たしていった。 「ほう。真奈瀬はタイム上がってきたな。我堂は相変わらず優秀だが、飛び出してすぐ転倒してたら、世良にはもう追いつかないぞ」 「ぐぐっ……、あ、あれは晶と歩美が邪魔で――」 「言い訳無用。龍辺はもっと必死で走るように」 「はぁ~い」 素直にうなずく歩美。いや、認めてるなよ。本気で走れ。 「今日こそは周回で遅れないようにって思ったんだけどな」 「みっちゃんの体力ゲージってどうなってるんだろ~」 「もう。人をオバケでも見るような目でみないの。私はみんなと同じだよ」 「ただちょっとだけ歳が上で、走るのも嫌いじゃないだけで……」 「上級生のことも周回で抜かしてるんですが」 事実、世良のすぐ後ろをついていた晶さえ、結果的にはラストのスパートで周回遅れにしてしまった。 千信館の万能超人と誉れ高い世良には、上級生の男子さえも憧れる奴がいると聞く。 「今日はちょっと調子が悪くて運が無かっただけ。きっとそうなのよっ」 負けず嫌いの我堂はその辺りも悔しいようで、『明日からランニングの距離も増やさないと……!』みたいな心の声が聞こえてくるかのようだ。 やがて女子のタイムを計り終えた頃、時間はちょうど授業の半分を消化するくらいだった。時計をチェックしつつ、芦角先生が俺たちに声をかけてくる。 「よーし。これで女子は終わりだ。さぁ男子! 位置につけ」 「へいへーい。はぁ……、女子の前で遅れたくねぇ~」 「鈴子みたいに飛び出して転ぶなよ。邪魔だ」 「ぐっ……淳士。呪ってやる」 ああ、おまえら仲いいな。 そして間もなく、男子生徒がグラウンドの位置につく。 ここは千信館、どいつもそこいらの学生とはレベルが違う。体育授業としてのマラソンであっても、ダラダラと手を抜いて走る者などいない。 どこか軍隊然としていて、とくに男子の場合は身体能力がそのまま勲章のように扱われることだってある。 風がそよぎ、張り詰めた空気が黙したところで、芦角先生が手を上げた。 「位置について。よーい――」 生徒のすべてが一斉に飛び出す。長距離走だが、もっとマクロな見方をすれば短距離の要素もある。 ハイペースである分、最初に遅れたら取り返しがつかなくなることも多い。 だからこそ、重要視しているスタート――だったのだが。 「ほらほら、遅れちゃってるよ~! ファイトー!!」 「転ばなかった分、まだマシだな」 驚くべきことにと言うべきか、俺はいきなり先頭集団から遅れてしまっていた。 いや、先頭集団どうこうではない。出だしからみるみる離されてゆく―― 「おい、先に行ってるぜ」 もちろん待っていてくれなどと思うわけがない。自分の出せる力のすべてをもって走るべきだ。 わずかに俺のことを心配した様子の栄光だったが、先に出て何とか集団の最後尾に追いついていった。 いったい、どうしたんだ? 鳴滝にまるで追いつけない。そこまで速いペースで走っているようにも見えないのだが、俺の身体が意識に追いついてこないのだ。 心肺能力はすぐに落ちるというが、受験のときだって、俺は身体を鍛え走っていたはずなのに。 このままのペースでいけば、真ん中よりも少し遅れている栄光にさえ、周回で抜かれてしまうだろう。 「ほら、しゃきっとしろ。遅すぎるペースは余計に体力を消耗するぞ」 「………………」 長距離を走っているときに女子を気にするなどというのは恥ずべきことだ。しかし、俺は世良の視線を感じずにはいられなかった。 明らかに心配している様子で、あたかも病弱な人間を――女よりも遙かに劣る男を心配するかの如く、憂慮に耐えない顔をしている。 くそっ。本当にどうしたっていうんだ。 足が重い。肩に余計な力が入る。腰が無駄に上下してしまう。長距離の走り方が、今さら分からなくなってしまったのか? とにかく呼吸が苦しかった。酸素を身体に入れられないのではなく、身体にある酸素をうまく吐き出せない。淀んだ空気が、俺の中に満ちてゆく。 俺はどんどんペースを落としながら、気がつけば他の男子たちよりも周回遅れで、最後尾を走っていた。 これでは世良のまるで反対じゃないか…… やがて俺がゴールに着いたとき、みんなが待ち構えた様子で迎えてくれた。 「大丈夫? 胸が苦しかったらさすってあげるよ」 俺が歩美の申し出を丁重に断ると、栄光が気を使った様子で声をかけてきた。 「ま、気にすんなって。こういうときだってあるさ」 気にするな? こういうときだってある? 「おい。顔色が悪ぃようだが、どっか異常でもあるのかよ。鈴子、水ないか?」 「あるわよ……はい、どうぞ」 なんだ? 我堂の奴、妙に優しいな。 いや、そもそも最近は、以前のようなやりとりをしなくなっていたような……? すると晶が、結果を確認するように先生へ尋ねる。 「花恵さん。男子のタイムはどうだったの? 女子と比べてかなり差があった?」 「ん。まぁ全体的な平均タイムは、そりゃ男子の方が上だな。しかし――」 しかし? 「男女合わせても、トップは世良だ。二着以下を大きく引き離して断トツのタイム。千信館の姫さんは健在だな」 「……そうですか」 先生の発表に、男子も女子も感心したように唸った。ただ憧れの的を取り囲むようにして、みんなが世良の周りに集まる。 「おお~! さすがみっちゃん」 「ま、まだ決着はついてないわ。次こそは必ず……見てらっしゃい!」 「チッ、女に負けるってのはだらしねぇ話だが、世良が相手ならしゃあねぇか」 世良を前にすれば、鳴滝までもが素直に兜を脱いでしまう。 おい、こんなに手の届かないような女だったのか? 俺は世良の圧倒的な能力よりも、矮小な自分に対して言葉を失った。 「世良、あんまり完璧過ぎると色々と遅れるぞ」 「そりゃー、ハナちゃんのことじゃなくて?」 「大杉。次の試験で世良より悪かったら、おまえ女子トイレ掃除な」 「男子じゃなくて!?」 「ああ~、そりゃダメだよ~ハナちゃん先生。栄光くん、喜んじゃう」 「学園のトイレが使えなくなるじゃない」 ──俺が息を整えている傍では、いつものやりとりが繰り広げられている。 ひたすら惨めな光景に、俺は絶句したままだ。誰も俺の非力さや無能力さを責めようとしない。 こんな風に気を遣われるのが、どれだけ恥じ入ることなのか、初めて理解した。 さながら身体中に針を刺されるようで、俺は座り込んだ場所から、立ち上がることすら出来なかった。 「ねぇ、大丈夫? 呼吸は整った?」 俯いた俺の顔を覗き込んで、世良が声をかけてくる。 やさしく響くその声は、俺にとって誰よりも残酷だ。 俺が顔を上げると安堵した様子で、彼女が微笑む。 「……もう。心配かけて。無理し過ぎて失敗してたら保たないわよ」 無理しない男なんているものか。 「みんなの迷惑になったらダメよ。早く立ち上がって教室に戻らなきゃ」 「ほら、そんな顔してないで■■■■。次はもっと頑張らないとね」 ――次はもっと頑張らないと。 世良の言葉が、なかなか頭に入って来ない。 おかしい。みんな、何を言ってるんだ。 俺はいったい―― 放課後になると、外の空気も少しは涼しくなってくれる。 千信館に入学してから、さらに月日は過ぎてゆき、季節は秋を迎えようとしていた。 俺は居残って、授業の復習をするよう命じられていた。 「よう。精が出ているようだな。それなら遅れた分も何とか追いつけるだろ」 目の前に課題があるのなら、全力をもってことを成す。以前はあんなにも当たり前に出来ていたことが、今は後手後手になってしまう。 「私は用があって離れるけど、すぐに戻ってくる。おまえら、ちゃんと見ててやれよ」 「了解っす!」 「悪いが、俺は先に帰らせてもらうぞ」 「何よ、淳士。引っかけた女にでも会いにいくのかしら」 「何言ってんだおまえ。ただのバイトだ」 鳴滝と我堂のやりとりも相変わらずに見えて、最近ではどこか合ってきているような感じだ。他のみんなもいつものことだと生暖かく見守っている。 「ほらほら、あんまり絡み過ぎると鳴滝くん遅れちゃうよ~」 「ちょっと! 私が淳士へ絡みにいっているように言わないで!」 「他にどういう言い方があるんだっつうの」 「ふん。じゃあな、おまえら。それとダラダラやってると終わらねぇぞ。気合い入れてやれ」 「淳士に言われなくても分かってるわよっ」 「おまえに言ってねぇ」 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」 二人が教室から出て行くと、栄光が溜め息を吐きつつ呟いた。 「はぁ……そろそろテストか。気が重いぜ、まったくよー」 「だな。親父もうるさいし……」 「みっちゃんが、みんなの予定を教えてって言ってたよ~」 「うへぇ……」 栄光と晶の嘆息はあまりに深い。それに比べて歩美はあっけらかんとしている。 「あゆはテスト余裕あるのか?」 「まっさかー。でも、直前でジタバタしても意味ないかなって」 「そりゃそうだけど……」 「戦場でも冷静さを欠いた兵士から死んでいくのだー!」 あれか? いつものゲームの話だろうか。 しかし、どこか違和感がある。俺が手を止めていると、まもなく先生が戻ってきた。 「ん、もうこんな時間か。んじゃそろそろ居残り終了かね」 「はぁーい!」 「ハナちゃん、良ければこっそり出題範囲なぞ教えてくれないでしょうか?」 ほぼ直角に腰を折って懇願するようにしゃべる栄光に、晶が呆れて言った。 「はぁ。男に幻滅させてくれるなよなぁ」 「バカヤロー! あわよくばオレは、おまえたちのためにもって考えてだなぁ」 そんな言葉は、俺のためということだろうか── どことなく思考がぼんやりしていた。違和感はここ最近、ずっと続いている。 「黙れ、大杉」 そんな中、芦角先生の怒声一喝。小賢しいことを言ってると課題を倍に増やすぞと栄光に脅しをかける。 「ひぃいい!? それはあまりにご無体な!」 「分かったら、さっさと帰れ」 「は、はいはい! おまえもさっさと支度しろよ」 「だね。そこまで真面目に勉強してれば、きっと試験も大丈夫だよ!」 「努力するのだけは誰にも負けないよな」 三人が、俺のことをそんな風に励ましている。 みんなの言葉からは嘘偽りが感じられない。純粋に俺のことを心配して言っているのだ。仲間の中で一番弱い俺のことを、決して見捨てないという友情で。 俺が立ち上がって帰る準備をしようとすると、芦角先生が言った。 「ああ、待て。おまえは残れ」 「え、こいつだけまだ残るの?」 「居残りはもう終わりじゃないのかよ」 「あんまり根詰めても意味がないんじゃないのかなぁ」 再び俺を庇うような晶たちの反応。しかし、先生は首を振って答える。 「いや、勉強はもういい。そうじゃなくて、ご指名だ」 ご指名? 「千信館のお姫さまが、例の如くおまえをお呼びだよ。はっきり言って、ジャリの分際で気に食わないが、まぁおまえたちなら間違いはないだろう」 「お待たせ。いつもごめんね」 やってきたのは書類の束を持った世良だった。 彼女の事情を察した栄光たちは納得した様子で、それぞれ鞄を手に持つ。 「なーんだ、そういうことか。じゃあ、わたしたちはお邪魔だね~」 「合格発表のときも、早速手伝わされてたしな」 「くそっ、うらやましいぜ。綺麗な先輩と居残りだなんて!」 「絡むなよ、みっともない。さっさと帰るぞ」 「へーい……」 「私は仕事があるから終わったら呼びに来い。遅くならない内に済ませろよ。くれぐれも自分たちがガキであることを忘れないように」 「はい、分かりました」 「それじゃー、またねー!」 「誰もいないからといって、いやらしいことすんなよっ」 「栄光じゃないんだよ。ほら、とっとと歩けっ」 まるで夏の日差しみたいに賑やかな仲間たちがいなくなると、放課後らしい夕暮れの残照が教室の窓から差し込んでいるのを感じられた。 「ふふ。みんないい友達だね」 もちろん。それは否定するところのまったくない事実だ。 俺がこうして居残りをさせられていても、なんだかんだと先に帰らず待っていてくれる。鳴滝にしても、バイトに遅刻するかしないかギリギリくらいの時間だったのだ。 だからこそ――霧のような違和感が晴れない。 「教室を使う時間は過ぎてるから、資料室に行こうか。ハナちゃん先生の許可は取ってあるよ」 「ほら、早くしないと暗くなっちゃう」 「ふぅ。そろそろタイムアップかな」 作業に没頭していたのは二時間程度だった。 すでに遅い時間ということもあって、俺と世良は無言で資料整理を進めていった。ときどき疲れたように息を吐いたりする仕草は、他の生徒には見せないものだ。 「さ、帰りの支度をしなきゃ」 俺は頷いて、自分の周りを片付け始める。 今日もこうして一日が終わってゆくのか。 違和感を違和感のまま放置して、俺は千信館から家に帰る。そしてまた明日戻ってくる。延々と繰り返される毎日。 変化を求めているわけではない。欲しいのは突破口だった。 すると――世良は、そんな俺の内心を見透かしたように語り始めた。 「あのね。こういう何でもない毎日を、私はずっと欲しかったのかもしれない」 なんだ? 発言の真意がよく分からない俺に対し、続けて世良はどこか楽しそうに語る。 「みんな、すごく逞しくなってきたよね。入学から比べると見違えたみたい」 それを世良が言うのか。誰も敵わない。男子の体力でさえ敵わない万能の女。 凛としていながらも情緒がないとかそういうこともなく、他人の気持ちも思いやれる優しさを有している。 晶や歩美、我堂のような個性的な手合いとは違う、まさに理想の女性という言葉の似合う先輩だ。 千信館の姫と呼ばれるのも、世良ならば納得してしまう。 「それにね、私が何よりも驚いてるのは、あなたのことなの」 俺のこと? 「だって昔から身体が弱かったじゃない。そのせいで勉強も運動も、努力したくたって中々できなかったはずなのに……」 「ねぇ、覚えてる……? かくれんぼをしていて、大仏殿に忍び込んだこと」 「結局、私があなたを見つけられたのは次の日になってから。意地でも出てこないあなたは、家に帰ると二日も寝込んで熱にうなされてた」 「病弱なのに気持ちだけは誰よりも強くあろうとして……」 「現実で傷つきながらもがいてるように見えて。だから、あなたが千信館を受験するのも、私は内心で反対だった」 「合格発表のとき、おめでとうって言ったの覚えてる? 頑張ったねって」 「あれはお世辞なんかじゃなくて、心の底から思った言葉だったよ」 「あなたが千信館に入れたこと、とてもすごいことだと思う。そして、誇りに感じるの」 「私が試験やマラソンで一着を取ることよりも、ずっと誇りに思っているのよ」 世良の語りは止まらなかった。 昔のことから、千信館に入学したときのこと、それから今こうしていること。 ひたすら語り続けて、まるで誰かに言い訳しているようにも聞こえてしまう、長い長い世良の話。 それなのに―― 耳に入ってきても、俺の頭の中には響いて来なかった。 いや、うっすらと理解はできるんだ。世良がそう言うのなら、そうなんだろうなと俺は思っているし感じている。 世良の言葉が正しくて、俺の記憶が正しくないような、薄ら寒い実感。 けど、それでも俺の意識の片隅では、ずっと警鐘が鳴り響いていた。 思い返せば、それは今に始まったことじゃなく、千信館の合格発表から鳴り続けているものなんだ。 そもそもおかしい。俺はどうして、なぜ今さら入学しているんだ? あのときから、まるでやり直しているように――都合良く毎日を過ごしながら、多くの違和感に襲われてきたのだ。 どうして、俺は入学する前から我堂や鳴滝と知り合いなんだ? なぜ、俺が千信館に入学して頑張ったねと褒められている? 毎朝鍛えていたはずのマラソンで、どうやっても栄光たちに追いつけない。 試験前だからといって、どういうわけで居残り勉強なんてしてるんだ。 違和感ばかりが募り、それは四肢を縛って、意識に枷が嵌められてゆく。 この世界で俺は、世良に対して何と言えばいいんだろうか……? 「■■■■?」 「大丈夫? 顔色が悪いみたい。具合悪かったら先生呼ぼうか」 不安そうにしゃべる彼女に対して、俺はようやく絞り出すようにして答えた。 「ありがとう。なんでもないから心配しないで」 「■■■■……」 「俺、伝えなきゃいけないことがあるんだ」 「なに……?」 「ずっと……」 「ずっと前から好きだった。憧れてたんだ」 「違う」 今、確信に変わった。〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈俺〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》 柊四四八というフィルターを通して見ているため、登場人物がある程度置き換わっていただけだ。そのために気づくのが遅れたが、ここに至って乖離していく感情と行動はもはや見過ごせるものではなかった。 友人、というポジションに配置されたのは晶や栄光といった仲間たち。 ヒロインは世良で、そこに静かな、しかし疑う余地を許さないほど深い情念を感じている。 この世界で主人公という役割を夢に描いていたそいつは、一貫して世良水希という女だけを追いかけていた。 そのために願う感情はたった一つ。 「強くなりたい」 そのためなら命もいらないというほどに。 己の弱さを激しく憎んでいたからこそ、こんな〈反転した現実〉《》を思い描いたんだと理解して── 俺は今度こそ、二人の間に存在する最大の〈真実〉《やみ》に触れたのだ。 言った瞬間、一気に展開は加速した。 「あなたと……こんなことするなんてね……それもこんなところで……ちょっと緊張するな」 そうか。緊張するか。俺も緊張している。 「そうなんだ。ちょっと意外かも……ううん、意外じゃないかも」 「どっちもかな……凄い心が震えてるから」 上手く言葉にできない。俺も世良を好きで好きでたまらなくなっている。 しかし、この場所でこうしていることが正解か、それは悩ましいことだった。 時間は惜しい。だが、この大切な気持ちをこんな場所で果たしていいのかどうか。そしてそれが後悔につながるんじゃないかと、そういう心配ばかりしている。 「困ってるのかな……難しい顔してる」 「大丈夫。この選択、間違ってないよ。私には分かる。これが正しい選択だって……」 「だから安心して私を抱いて欲しいな」 ……世良。 俺が考え過ぎたのだろうか。こういう形で彼女に受け入れてもらえるとは思っていなかった部分もある。 「もっと強く抱いて欲しい……いいかな」 俺は答えず、黙って世良の身体を抱く。 それはとても気持ちのいいことだった。それだけで心地よさに、高まりを感じずにはいられない。 その感覚をもっと高めたいと思って力を入れてしまう。意外にも小さくて華奢な身体、これが女の子の身体だと否応にも実感する。 「ふふっ、痛いよ……、女の子の扱いに慣れてない」 そうだな…… 「いいよ。私も男の子の相手するの初めてだから……一緒だよね」 世良のような女の子が男の扱いが上手いなんて想像できない。そして、俺は女の子をこうやって抱くのも初めてだ。 「じゃあ初めて同士、上手くやるためにね、キスするのはどうかな?」 ――キス。 そうだ。好きな男女が互いに最初に求めるのは唇。しかし、逸る気持ちは何故か下世話なイメージだけを運んでくるものだ。 「ふふふっ、エッチ。ちょっと興奮してる」 俺たちは互いの身体を、さっきよりもずっと緊密に抱き合う。 「はぁ……あなたって、いい匂いがするね……私、凄い安心するな」 匂い……そんなことを言われると俺も意識する。世良から感じられる甘くて優しい匂い。 だが、それはやはり下半身へと変換されるから、ちょっと申し訳ない気持ちになるのだ。 「ふふっ、困ってるね……いいよ。大丈夫。私、あなたの全部を受け入れるから」 目を閉じ、互いの存在を感じる。 それから重なった唇。 すぐに離れてしまう。 俺からか。それとも世良からか。 「ごめん……すぐに離しちゃったかも」 それはこちらも同じだろう。俺は頭を振る。 そのまま互いを感じ取っている。体温。呼吸。匂い。鼓動。そんなものが身体に染みこんでいくように感じられるのだ。 「はぁ……んんん、変な気分に、なるね……好きな人とこうやって抱き合っているだけなのに……、心のなかがあったかいので満たされる……」 「こういうのを幸せっていうのかな」 そうだろう。傍にいるだけで心も身体も安らぎ、落ち着く。その上で、昂ぶりを感じながらも、この人を守りたい、慈しみたいという気持ち。 ――愛している。 それを実感することこそが、きっと幸せなのだ。 「ふふふっ、目を瞑ったままだと色々分かるんだね。あなたが何を考えているとか、今どんな気持ちだとか、どうしたいだとか」 好きな人に隠し事はできないってことか。納得いく反面、参ったなという気持ちは強い。 「ねぇ――」 世良が目を開ける。 「ふふふっ、やっぱり好きな人の顔は見ておきたいな……大好きよ」 俺も頷く。俺だって彼女のことが好きだ。 好きだからこうやって抱き合っている。 もちろん、この先も世良との行為に期待しているのだから。 「ふふっ、あなたって正直。いいよ。私もあなたと……一つになりたい。心の底から思ってることだよ」 再び俺の身体に世良の腕が回る。 優しく俺の背中を撫でる腕に、俺自身が反応していく。 合わせて身体全体を撫でていくと、世良の頬がふわりと赤らんだ。 俺たちは目を瞑り、互いの鼓動だけを感じていた。 高まっていく興奮と期待に震えながら、徐々に俺たちの情熱を表に出していく。 そんなもどかしくも大切な時間をこうやって過ごす。 やがて世良の腕が上に伸びてきて、俺の顔に触れた。 「ねぇ……しようよ」 俺は黙って頷いた。 そのまま世良の服をはだけ、胸を露出させていった。 服を脱がされた世良は頬を染め、沈黙する。 俺は静かに彼女を見つめていた。 「その、も、もしかして……見てるだけかな……」 どういう意味だろうか。俺はちょっと世良を見て、首を傾げる。 「あ、ごめん……その、恥ずかしいなって思って。見られると、こんな風に緊張するんだなって驚いてる感じ」 「うん、あなたのこと好きだよ。だからなんだよね……その、凄い、恥ずかしい……でも、見て欲しいって……。そんな矛盾した気持ちが広がってきて……困るの」 とつとつと世良は俺を見て話す。 俺が世良から目を離せないのも同じところにあるのだろう。ただ俺は恥ずかしいのではなく、心から嬉しいという気持ちなのだ。 「……見られてる。私、あなたに見られてる……胸を見られてるよ……」 潤んだ瞳から涙が零れそうだった。だけど、それは決して嫌な気持ちで溢れたものではないと実感する。 嬉しさ。そして、その嬉しさから発露している羞恥。世良の複雑に絡まった感情の表われたものなのだ。 「はぁ……あ……あふぅ……んんっ……見られてるだけで、なんだか興奮してきちゃう……おかしくなったのかな?」 そんなことは無いだろう。俺は見ているだけで相当に興奮している。 怒張はせり出し、狭いズボンから開放しろと怒鳴り散らしている。 だが、まだ早い。世良だってびっくりしてしまうだろう。それに、今度は俺が羞恥を感じる番になる。 さすがに局部を晒しても、単なる興奮だけを得ているとしたら人としてどうかしていると思うのだ。 「はぁ……あうぅっ……ビリビリって、してきちゃう。先っぽが……その、ビリビリって……」 ……先っぽ。 乳首のことだろう。気付けば見て分かるほど勃起していた。羞恥と興奮、高揚感が、充血を加速させ、乳首を勃起させたのだ。勃起の結果、感度が上がり、ビリビリとした感覚に苛まれているのだろうか。 その感覚が新しく快楽に変わっているのは、ほんのりと染まる頬を見れば分かること。 ……感じてるんだ。世良が。 「あ……う……。いやぁ……そんなの、聞かないで。意地悪だよ……」 別に意地悪で聞きたかったわけじゃない。世良のことを考えていたのが、裏目に出てしまったんだ。 「あなたに触られる。ずっとして欲しかったことだから……嬉しいな」 俺がずっとしたかったことだ。できるだけ優しく、乳房に触れた。 「はぁっ……あ……あああ……ちょ、ちょっとっ……」 世良の声に俺は顔を見る。怖い顔をしてるかもしれないが、そこはわかって欲しいと思う。単に真剣になっているだけなのだから。 「い、いきなり、触っちゃうの……。凄い、びっくりしちゃって……ごめんね……」 「声をかけないとって思ったんだけど、あなたの動きが早くて……はぁ……はぁ……ドキドキが止まらないよ」 ……少し焦り過ぎたか。そういうつもりはなかったのだが、結果的に彼女に負担をかけてしまった。 「うふふ……大丈夫。難しく考えないで。私がびっくりしただけだからあまり気にしないで欲しいな」 そう言ってくれると俺も気が楽になる。世良が俺に余裕を与えてくれている。 俺はゆっくりと手のひらで、世良の乳房を撫でていく。さっきはうっかり力を入れてしまったから。今度は力の入れようのない状態で愛撫していった。 「はぁ……あ……あああ……撫でられてる。おっぱい撫でられるの、気持ちいい。あなたの、手のひらが気持ちいいよ」 世良が気持ちいいことが嬉しい。俺の方は感極まっていると言っていいぐらいだ。 股間は当然として、手のひらも喜んでいる。柔らかい感触。なめらかな肌。俺の好きな女の子。その全てが俺を高みに引き上げていると言っても過言じゃない。 その興奮が手のひらに伝わっていく。つい、力が入ってしまうのだ。 「んんっ……ふあっ! あ……ああっ! ああっ! 強い……けど、いいよ……」 「うん。さっきと違うから……もうだんだん慣れてきちゃった。あなたの手のひらで、もっと愛して欲しいって思っている」 「……ちょっと、はしたないよね」 そんなことはない。世良がその気があるなら俺はもっともっと優しく責め立てたいと思っているのだ。 俺の中の〝男〟がもっと彼女を愛したい、めちゃめちゃにしたいと強く主張している。 だが初めて同士、もう少し気持ちを落ち着けて、優しく気持ちいいセックスを迎えたいとも思う。 「……いいよ。あなたの好きにして」 俺はゆっくりと愛撫を深める。そうだとも。世良にはもっともっと気持ちよく感じて欲しいんだ。 俺は大きく手を動かし愛撫していく。その一方で感じる場所を指で責め始める。 「ふあぁっ……あああっ! 凄い……っ――」 そう言った途端、世良はきゅっと唇を噛み締めた。 頬がさっき以上に真赤に染まる。それの意味することは一つしか無い。 ――羞恥。 それが彼女を支配している。 俺の指が与えた快楽に、思わず歓喜の声を上げてしまったこと。それが世良を恥ずかしがらせているのだ。 俺はもっともっと世良の声が聞きたかった。性の快楽に悶える世良の声を。 「ふぅぅ……んんっ……はぁっ! あ……あああっ! はぁっ……あああっ……んんんっ……くぅっ……」 「あ……ああ……んんっ……凄い、こんなに気持ちよくされちゃうなんて……私、想像してなかった」 「私の身体が気持ちいいのは、触られてるからだけじゃないよ。触っているのがあなただからだよ……」 「あなたとこれから一つになるんだって思うと、どんどん身体の芯が熱くなってくる……興奮してるんだ、私」 上気した頬。荒い呼吸。震える身体。その全てが性の快感に囚われている証だった。 俺はそれを受けて丹念に愛撫を重ねていく。そうすることが世良のためでもある。これからもっともっと激しい快楽に身を委ね、高みに達すると俺は確信しているからだ。 その前準備のためにも、世良にはもっと感じてもらいたい。その思いが通じているのか、彼女は俺に身体を寄せてきた。 「はぁ……あああ……ごめんね、立ってるのが大変になってきたから」 「うふふ……やっぱりあなた、いい匂いがする。私、あなたの匂いが好き。本当に好きなんだよ……?」 「だから、もっと感じさせて欲しい。私を淫らにして欲しいな……」 俺は小さく頷く。 そして、ゆっくりと俺は乳房から、乳首へと指を這わせていく。 ぴくんと世良の身体が震えた。感じているのだ。 「ふあぁっ……ああ……ああああっ! んんっ……こ、声が、エッチになっちゃうね……恥ずかしいな」 「でも、いい……あなたとこうなることを望んでたんだもん。もっともっとエッチにしてくれていいんだよ」 指をぎゅっと動かす。指と指の間で、世良の乳首がくるりと回る。 「くうううううううううぅっ……はぁぁっ! んっ、き、きつい……気持ちいいけど、きついよぉ……」 「あっ、ああっ、んんんっ……凄い、感じる……こんなに感じて、いいのかな?」 いいんだ。俺がそう望んでいるのだから。そして、そうなるように愛撫を深めているのだから。 指でくりくりと乳首を転がす。さっき以上に乳首が勃起していく。硬く凝り、俺の指の間で存在感を高める。 それを潰すように責めると世良の声が悲鳴に変わってゆく。 「きゃああああぁぁぁっ! あっ! ああっ! あああっ! い、い、痛い……痛いけどぉ……んんんっ!」 痛いけど? 「や、やぁっ……き、聞かないで……ああ……ああ、はぁっ」 鼻から大きな息が漏れる。口をきゅっとつぐんでいるせいだろう。そして、その口元は気持よさと痛苦しさから歪んでいた。 「ふぅぅ、んんんむむうぅっ……ふあぁあっ……ちょっと激しすぎる……痛いよぉ」 痛いだけか? 気持ちよくは無いんだな? 「え……そ、それは……その……んんんっ」 俺の問いただす声に、世良の視線が泳ぐ。快感の信号は身体全体から発信されている。世良の言葉は、照れ隠しにしか聞こえない。 もっともっと素直になってほしいんだ、世良には。 俺は今度は優しく乳首を転がす。コロコロと指先で転がすと、痛みで少し萎縮していた海綿体が再度充血し、硬度を増してくる。 そして、乳輪までも含めてしこリ上げていく。 「きゃあううううぅっ、ふあぁっ! あああぁっ! あああああぁっ、い、いいぃっ。気持ちいいっ」 「あ、や、やだ……はしたない……私、はしたないことを……」 俺は気にしない。素直になってゆく世良の姿が、むしろ喜ばしくさえある。 そのまま俺は指で乳首を押し潰すように責めていった。潰してしまうわけじゃない。ただ少し痛みが出る程度。さっきよりは強く。 「くぅぅぅっ……ふぅっ……んんんっ、あああぁっ! お、おっぱいぃ、気持ちいいぃっ……ああ……ああああ……もぉっ、我慢、できないよぉ……」 がくがくと俺の腕の中で震えながら、世良は快楽を意思表明していた。 「あっ……ああっ……あああぁっ! もぉっ、私ぃっ……おかしく、なっちゃうぅっ……気持よすぎてぇっ……おかしく、なっちゃうぅっ」 「きゃううううぅっ! はぁっ、あああっ! あああっ! ず、ずるいぃっ、ずるいよぉっ、あああっ、あああああああああああああああっ」 もっともっと気持ちよくなって欲しい。そう思って、俺は乳首を摘み、乳房を揺する。 責め立てを一気に本格化していく。 「きゃああああぁぁっ! ああああぁぁっ! ああああぁっ! い、いいぃ、いいよぉっ! おっぱい、気持ちいいよっ、んんん、ふあああああぁぁっ……」 世良がとても気持ちよさそうだ。彼女の反応が俺の快感にもつながっている。俺自身はもう限界直前まで来ていた。 「はぁ……はぁ……はぁ……ああ……いいよ。しよう。今、したら、きっと……痛くないと思うし……」 ああ……俺も世良が欲しくてたまらなかった。 世良を抱きしめ、優しく机の上に横たえる。床でやるわけにもいくまい。ここがこの場所では一番無難だ。 こんなところで初体験というのは、なかなか問題があるような気がしないでもないが……仕方あるまい。 「気にしないで。ここでしたくなったのは、私もそうなんだから」 「それであなたもOKしたんだし……いいんだよ」 それでもこんな机の上とは……。もう少しロマンのある場所を選べなかったか。後悔せずにはいられない。 「それよりも……続けて。私のことを愛して」 状況はさておき、せめて男としては、ちゃんと世良を愛してやらなくちゃいけない。 俺はそっと彼女の股間を撫でる。そこはさっきまでの愛撫のせいか、しとどに濡れていた。 これが性交に十分なものかどうか、俺には判別がつかない。だから更に愛撫を深めていく。 「ふぅぅっ……んんっ……はぁっ……ああっ……触ってる……私のを、触ってるんだね……」 このまま弄ってもっと感じさせたい。 「……いいよ。あなたが好きな様にして……私、あなたのを全部受け止めたいだけ……お願い」 俺は頷く。そのままヴァギナにあてがっていた指をゆっくりと動かす。そして、丹念に弄っていく。 股間全体が跳ねるように震え、割れ目からは新しい愛液がとろりとろりと溢れ出した。 それをクレバス全体に引き伸ばし、ゆっくりと陰裂を割っていく。 「はぁ……ああ……ああああ……あ、アソコぉっ、開いちゃう……見たいのかな? いいよ……見ても……その、見られてもいい……」 陰唇を開き、膣口を晒す。その途端、溜まっていた愛液が糸を引いて、だらりと机の下に水たまりを作る。 これぐらい濡れるものなのか。女の子の身体というのは、凄いなと実感させられる。 そして、俺は膣口の位置をよく確認してから、勃起しきった俺自身を引っ張りだし、世良の性器に定めていく。 「はぁっ! ああ……あああっ! い、挿れるんだ……あなたの、挿れるんだね」 膣口の辺りにペニスを宛てがい、俺はぐっと腰を付き入れた。 ミリッという肉の感触。そして―― 「くぅっ……うあっ……ああっ! あああっ……い、痛い……んんんんんっ!」 世良の苦悶の声。それは破瓜を迎えようとしている女の声だった。 可哀想だとは思った。だが、ちまちまやっていれば痛みを与え続けることになる。俺としては、一気にねじ挿れるしか無かった。 「んんんっ……うあぁっ! ああっ! うああああっ! ああ、ああああ、あーーーーーーーっ!」 一際高い声を上げる世良。そして、俺のものは遂に世良の中に埋没したのだった。 「くぅ……ふぅ……んんっ、あ……ああ……ああああ……こ……これで、一つになったんだよね」 頷きながら、俺自身もズキズキとペニスが痛んだ。世良の性器が俺のものをぎゅっと咥え込んで離さない。 「はぁ……ああ……あああ……ま、まだ痛いけど、このままじっとしていれば……大丈夫だよ」 「ごめんね。早くしたいよね……だけど、お願い今はこのまま待ってて」 世良の望むままでいい。俺も十分気持ちいい。 嘘偽りは無かった。痛みのせいか、それとも異物への反応のせいか、世良の膣内はゆっくりとうねるように動いている。 それが優しく、ゆったりとしたものではあるが、俺自身を感じさせているのだ。 「あなたに愛撫されてる間も凄い気持よくて、身体がウズウズしちゃったのは、本当だよ」 「だからセックスも痛くなくていいかなって思ったんだけど、ちょっと見積りが甘かったみたい」 実際に体験してみないとわからないことばかりだ。 「そう、だね……ふふふっ、あいたた……はぁ、もうちょっとなんだけどな……」 痛みが走る度、膣内がぎゅっと蠢く。そのたびに意図しない形で俺のペニスが刺激されている。 こっちの方が我慢できなくなりそうだ。俺はじっと世良を見つめて耐えていく。 「……うん、大丈夫。いいよ、動いて。私、あなたの受け止めたい」 その言葉を何もかも真に受けるのは、少しやり過ぎだろう。だが、世良の膣内で高まりきった俺自身はやり過ぎるぐらいの刺激を要望していた。 「くぅっ……ふぅっ……んんっ! あっ……はぁああ……あああああああぁっ!」 俺は長いストロークで世良の中を犯していく。その刺激は俺のモノを一気に絶頂まで導くんじゃないかと思うほどの気持ちよさだった。 俺はそれを気合で乗り切り、どうにか形を作っていく。これで世良の中を自由に動くことができると確認できた。 「ふぅっ……んっ……ああ……だんだん、よくなってきたよ……痛くなくなってきた……ゆっくりだったら、もっと動いて大丈夫」 俺は優しく世良の中を犯し始める。痛みなのか、自発的なのか、それとも勝手にうごめいているのか。俺のペニスを包み込んでいる膣内はくねくねと動いていく。 その微妙な動きでさえ、俺にとっては絶頂のトリガーになりかねないほどだ。それでも、その欲望を押さえつけながら彼女の中を動いていく。 くちゅ、くちゅと小さい粘着音が響き、俺たちがセックスをしていることは聴覚でもはっきり捉えられるようになっていた。 「あうぅっ……ふぅっ……んんっ! あっ! あああっ! ……いい。凄い、よくなって……きた……」 「熱いのが、だんだん広がってきて……んんっ! ビリビリって……大事なところ、ビリビリするようになってきた……」 ……クリトリスのことか。そこに意識が行く。 さっきの愛撫では余裕もなかったし観察するのもはばかられた。確かに陰裂の上に存在感を高めている場所がある。 そこは俺が擦過する度、身体で擦っている状態だ。もどかしい程度の快感が、ここでは大切なのかもしれない。 「や、やだ……私とあなたの、はまってるところ、見てるの?」 「い、いやぁ。恥ずかしい……そんなところ見ないで……凄い感じちゃう」 視線を反らし、興奮をどうにか抑えこもうとする世良。だけど、彼女の生殖器はそれだけでは満足しない。 ぐちゅぅと蠢いたいのは、俺の動きばかりではなかった。世良の身体が更なる快感を要求しているのだった。 「はぁぁっ……んんっ! 恥ずかしい……けど、欲しい。あなたのぉ、もっともっと欲しくなってる……アソコが、大事なところが、ビリビリしてきて、熱くて、もっと動いて欲しがってる」 世良が欲しい。世良を犯したい。俺のモノにしたい。 俺の中で欲望が渦巻いていた。 「うんっ、いいよ……して。激しく犯して欲しい。あなたの、ものして……」 俺は頷き、ピストンを再会する。今度は俺の欲望に忠実に動かしていくのだ。俺の激しい動きに世良は苦しそうな快感の声を上げている。 「くぅっ……ふあぁっ! あああうぅっ! んんんっ! い、いいっ、いいのぉっ!」 「……んんっ……はぁっ! あああっ! あああああぁっ!」 俺はストロークに意識を高めてゆく。ぐちゅぐちゅとリズミカルな音を立てて、愛液がこねられていく。 いやらしい音は俺と世良のセックスへの意識をどんどん高みに引き上げていった。 「はぁっ……ああっ! うあぁっ! い、いいぃっ……いいよぉっ……んんんっ……くぅっ……、ふああぁっ! あああああっ!」 「凄い、な、中を突かれると、こんなに、気持ちいいなんて……あっ! ああっ! 熱い……熱いよぉっ……んんっ、ふあっ、あああああんっ!」 熱いという場所を徹底的に責め立てる。途端、まるでおもらしでもしたかのように、大量の愛液が溢れ出し、まるで蜜壺の中で陰茎を扱いているような錯覚を覚える。 「あ……ああうぅっ……な、中がぁっ、勝手に動いちゃうぅっ……恥ずかしいっ。でもぉっ、気持ちいいぃっ!」 じゅぶじゅぶという粘着音。それにペニスを打ち込む際に爆ぜる音。お互いの吐息と喘ぎ。最高のセックスのハーモニーに、俺たちは揺蕩っていく。 「くぅっ……ふうぅっ……んんっ、好きぃっ! 好きぃっ、大好きぃっ……あああっ! あああああああっ!」 「くぅっ、ひゅくっ、んっ、ふぁっ……あ! あああっ! あああああああああぁっ! 凄いぃぃっ! あああああああああ――」 世良の膣内がぎゅうぅっ、と絞りだすように蠢き始める。それも一回、二回ではない。断続的に、ぎゅうぅぎゅうと俺のペニスを絞り出すように動くのだ。 「あ……ああっ……はぁっ! ああ……い、いき、イキそうぅっ……っ、イキそうだよぉっ。な、中ぁっ、ビクンビクン繰り返して……もぉっ、イク……」 そうだったか。納得した俺は彼女の絶頂に合わせるべく、我慢していたものを切った。途端、ペニスがぐうっとせり上がり射精を迎えようとしていた。 俺は一気に腰を使う。世良には悪いが、俺も一緒にいきたいんだ…… 「きゃううぅっ、は、はげ、しぃっ……で、でもぉっ、い、いいぃっ。あなたが、い、一緒……いっしょだよぉっ……ああ! あああっ! あああああああぁっ!」 「はぁっ、あっ! ああっ! うあぁっ! い、い、イク……イッちゃう……わ、わたしぃっ、初めてなのにぃっ、あなたとぉっ、イッちゃうぅっ!」 ああ……世良っ! 俺も! 「くぅっ……きゅぅっ、ふあああああっ! い、い、イクううううううううぅっ!」 そして、俺も絶頂を迎えた。 びちゃびちゃと精液が飛び散っていた。 俺と世良の初めてのセックス。それがこうやって果てたのだ。 俺としては不満なことは無い。ただ世良はどうだろうか。 「はぁ……はぁ……ああ……はぁはぁはぁ……んんっ……き、気持ちいいぃ……」 「あなたはどうかな……気持ちいい?」 頷きながら、俺はこんな快感を味わってしまったら、もう元には戻れないと思った。 「私も最高に気持ち良かった……それはきっとあなただから――」 ……嬉しいな。まるで溺れてゆくような愉悦を覚えてしまう。 「……ああ。抱いて……、ずっと抱いて欲しい……」 「これから先もずっとこの世界で……私のこと愛して欲しい……」 言うまでもないことだ。今の俺には世良しかいない。世良が俺にとっての全てなのだ。 「■■■■――」 俺たちは互いの顔を両手で優しく包み込んで、それから唇をゆっくりと重ねた。 そして、俺はまるで世界のスイッチを入れるようにして、その言葉を口にしたのだ。 「愛してるよ、姉さん」 「ああ────」  そして──〈僕〉《 、》は束の間の夢から覚めた。  幸福の残り香が意識の中を過ぎ去って。  酷薄な現実の冷たさが、身体の芯を冷やしたのだった。 「すべては都合のいい夢か。確かに、あんな幸せが僕に訪れるはずがない。  しかし、まったくどうして……」  自分はこんなにも弱いのだろう。先程まで見ていた物語、その暖かさとの間にあるあまりに深い隔たりを感じ、思わず苦笑してしまう。  今このとき、腹を切って自刃しようという身であるのに。  〈彼〉《 、》〈女〉《 、》への想いを胸に、墓まで持っていこうと決意したのに。  いまわの際になればこれだ。死を前にしてこんなありえない夢を思い描いてしまう我が身の弱さに嘆きを零した。そして嘆いてみせる惰弱な自分を自覚して、殺したいほど恥じているし、憎んでいる。  そう、今でも絶えず悔いている。  死にたいほどに。生まれ直せるなら命も要らないと思うほどに。  女の人では、どうしたって理解できないほど狂おしく…… 「強くなりたい」  彼女に──水希に相応しい男になるために。 「強くなりたい」  強い人が好きだと彼女は言ったから。 「強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい」  強くなろう。強くなるんだ。強くなければ男じゃない。  そう願って、願い続けて、だから僕はあらゆるものを犠牲にした。  唯一の望みに手を伸ばして、自らにかけた頑強な呪いのままに希望へ向けて墜落していく。〈強〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈不〉《 、》〈可〉《 、》〈能〉《 、》〈だ〉《 、》と誰より自覚しているくせに、目指した夢へと落ちる以外の生きる術を捨てたのだった。  けれど結果は、無惨なもので…… 「ごめんよ、水希。僕は弱い、どこまでいってもお荷物だった。  生まれつき身体が弱いそのせいで、〈戦〉《 、》〈真〉《 、》〈館〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈入〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》」  順当かつ当たり前に、何のひねりもない結果だけをここに晒した。約束は果たされないまま記憶の中に刻まれる。  ゆえに見たのはあんな夢。会ったことのないたくさんの友人が出来て、彼らと喜びを分かち合いながら戦真館の門をくぐるという幻想だった。水希の後輩になるという、儚い願いの残滓を慙愧と共に噛み締める。  すべてを強さに捧げてもこんなものだ。自分は何も成せないと散々思い知らされた。それはつまり、生きる理由をなくしたということでもある。これ以上、無為に生きて恥をさらすつもりはない。  ただ、別段それは水希を恨んでのことじゃないんだ。  今も深く激昂するのは、こんな自分の不甲斐なさから。  彼女の言葉に応えられず、並び立てなかった〈自分自身〉《ガラクタ》をこそ恥じている。絶望している、壊してやりたい──こんな僕など消えてしまえと、心から。  信じている願いの重さは、水希の輝きと比例して心の奥で息づいている。  ああ、水希。僕の女神。君はまったく素晴らしい。  身体が弱く足を引っ張ってばかりの僕に、いつも優しくしてくれた。  幼いころから傍にいて、嫌な顔を一つもせずにずっとずっと守ってくれた。  真っ直ぐで、曲がったことを許せなくて、人の痛みに敏感だからいつも僕のことを案じてくれたね。とても優しい心を持っている〈女性〉《ヒト》、あなたを好きになったことは自分にとって当然の結果なんだよ。 「……なんて、彼女は考えつきもしなかったろうけれど」  この想いを閉じ込めることなんて出来そうにもなかったから、一世一代の告白を僕は彼女に〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  どうしようもなく、〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「好きだよ、水希。僕を男と見てほしい。  いつまでもあなたに守られているだけじゃない。僕は男だ、男なんだよ」  二つ年上の彼女に送った精一杯の告白は、端的に言って失敗した。  まあ、僕にこんなことを言われても彼女は困るだろうなというのも分かっていたし、実際彼女は目に見えて困った顔をしていたわけで。  自分たちの〈関〉《 、》〈係〉《 、》〈性〉《 、》を考慮すれば、それはもうなんというか……言葉にしただけで問題のある論外のような告白だったのだ。  禁忌であり馬鹿げている。何よりどちらも報われない。  罰せられるべきはそうと分かっていながら想いを伝えた自分の方だと、今も変わらず信じている。それは主観を抜いても変わらない。十人に聞いたら十人、間違いなく愚かなのは僕の方だと口を揃えて言うだろう。  だって、水希は僕の■■■■だ。  愛している。隣に立ちたい。けれどそれは致命的に狂っている願いであると分かっていたんだ。だからこれは、いっそひと思いに殺してくれと首を差し出すことにも似ていた。  大切な彼女に、自分の馬鹿さ加減を容赦なく切り捨てて欲しかったのかもしれないと……今になっては自覚しているのだがそれもすでに過去のこと。  結果として、予想外だったが彼女は僕を振らなかった。  代わりに少し狼狽しながら、曖昧に、苦笑しつつこう言ったのだ。 「私は、強い人が好きだから―― もう少し……■■■■が強くなったら、ね」  提示されたその条件は〈真〉《 、》〈っ〉《 、》〈赤〉《 、》〈な〉《 、》〈嘘〉《 、》だとすぐに見抜いた。  それはいわば咄嗟の逃げ口上で、僕を傷つけないように出た言い訳に過ぎないのだと明かされずとも見抜いている。だって自分は、水希のことをずっとずっと見てきたんだから。  なんと返すべきか分からなかったから、ついその場しのぎを言ってしまったんだろう。  つまりこの時点でもう、僕は答えが分かっていたんだ。強くなっても彼女に男と見られない。自己の鍛錬や研鑽をどれだけ積もうと空回りで、報われない足掻きだと最初から全部見抜いていたというのに。 「任せて、きっと強くなってみせるから」  ……それでも希望を捨てきれなかったことこそが、僕の最大の〈罪〉《よわさ》だったと自嘲する。  水希には何の咎もなく、このとき事実から目を逸らした自分を今でも強く呪っている。  強くなれば、強い男になれば、いつかきっと──必ず彼女に。  実質的に否定されたことを見抜いたうえで目を背けた。張りぼての希望を必死に偽装して、何の罪もないあなたに重荷を背負わせてしまったと気づいたときにはもう遅い。  僕は変わる。強くなる。だけどそれと引き換えに、水希が褒めてくれたあらゆる美点が消えていく。  優しさだったり、面白さだったり、ふと気の抜けた午後、陽だまりで笑って語り合えるような、暖かい幸せの色彩……すべてを質屋に放り投げて、たった一つの望みのために魂さえ捧げると誓った。  届かないというのは最初から分かっているけれど、ごめんね、それでもこの想いは本物だと僕は証明したかったんだよ。本気で身を削る以外に、弱い僕には何の手段もなかったんだよ。  桶いっぱいの血反吐を吐いて、丈夫じゃない身体を苛めた。  極限まで苦痛を課して、人の十倍努力して、それで一歩ようやく進んで。ああまだだ、まだ足らない──  強くなりたい。もっと、もっと、劇的に。  こんなに弱い自分では水希の光で霞んでしまう。  今の僕は彼女に寄り添う澱んだ影だ。決して釣り合うはずがない。  それが許せなかったからさらなる苦痛で我が身を研ぎ染まそうとして、それを悲しそうな目で見る彼女に空元気の笑みを返して悪循環を繰り返していく。  心配されているという状況が仄暗い喜びを生んだのも事実だ。坂を転げ落ちていくように、事態は悪化の一途を辿っていった。  だがそれでも、まだこの時点では救いが残っていたのだろう。病弱であろうとも、そこまで磨き上げれば当然多少は見れるようになる。少なくとも体裁は保てるほどに自分は標準的な男性の能力まで近づいたのを感じていた。  努力は決して裏切らず、亀であろうとも前に進めないわけではなかった。ゆえにここで何らかの成果が出れば、好転するという切っ掛けもあったはずだと思うのだ。  そうなれば否応なく事態は動く。なぜなら強くなったと証明できれば、水希はあのときの告白に対して返事をしなければならなくなる。  そうなれば──  きっとその瞬間にこそ、僕はこの愛を終わらせられると予見したんだ。  駄目だと言ってくれ。ごめんねとはにかんで、笑ってくれよ、なあ水希。  そしてもう一度、当たり前の二人に戻るんだ。そんなこともあったねと優しく笑いあえるならそれに勝る未来はないと思えたから。  あとは男の意地だった。ここまで来ると僕は成就するか否かよりも、二人にかかった呪いを解こうということだけを一心不乱に願っていた。ある種の使命感に突き動かされていたと思う。  頑張って、頑張って、これが最後だと何度も自分自身に言い聞かせて。振り絞ったその暁に── 『貴殿ノ努力、誠ニ素晴ラシキト認メルモノノ残念ナガラ能力不充分ニシテ、戦真ノ徒ニ迎エ入レルコト能ワズ。失格ヲ告ゲル』  弱者の努力は何の実を結ぶこともなく、僕は戦真館に入れなかった。  その資格がないという現実を受け止めて、最後の糸が切れたのだ。 「だから、僕はここで死ななきゃならない」  このまま自分が生きていたら、きっと〈水〉《 、》〈希〉《 、》〈を〉《 、》〈憎〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。  悪魔のように苦しめてしまうと分かっているから、ここで己の命を絶つのだ。  人の心は複雑怪奇。正に属する一面だけで構成されているわけではない。  僕が水希を愛しているのは本当だけれど、そんな想いだけではないのだ。魅了されているその裏面で、暗い泥のような葛藤を常に内へ抱えていた。  彼女と対等に並び立てない憤りは、裏を返せば八つ当たりへと転じてしまう。〈女〉《 、》〈の〉《 、》〈く〉《 、》〈せ〉《 、》〈に〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈に〉《 、》〈強〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》と、みっともなく思わずにはいられないのだ。男という生き物は。  お門違いにも程がある。悪いのは弱い自分だ。けれど刻まれた本能が、雄としての陳腐な誇りがどうしても強い女を逆恨みする。  健全な身体を持っていない自分は特に、心のどこかでそれを羨ましいと感じていたんだ。  だから、仮に自分が強くなるというのではなく。  相対的に考えて、〈水〉《 、》〈希〉《 、》〈が〉《 、》〈堕〉《 、》〈落〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》──と。  卑しく囁かれたような誘惑に、いずれ僕は耐えられなくなると分かっていた。このまま敗者として生きる限り、必ず彼女を引き摺り下ろそうと下衆な喜びを抱いてしまう。  そんなことは耐えられない。いいや、絶対にさせはしない。  彼女は素敵だ。綺麗なんだ。美しい僕の女神、あなたの光を守り抜く。  その一念だけは真実なのだと確信して、冷たい刃を腹に添えた。切っ先が皮膚に食い込み、赤い雫をゆっくりと身体の外へと溢れさせる。  後は横一文字に引き裂くだけ。  短く、儚い、無為な一生を終える……その刹那に。 「すみません、〈姉〉《 、》〈さ〉《 、》〈ん〉《 、》」  叶えられない愛を告げて、世良〈信明〉《のぶあき》という落伍者は脆弱な生に幕を下ろした。  それが、病弱であるために姉を愛した弟の生涯。  強さという希望に縋り付いて、けれど何も叶えられずに死んだ男の切ない命の終焉だった。 「──そう、だから私が全部悪いの。  分かってた。分かっていたのよ、本当は。一番弱いのは自分だって。  私が〈女〉《そう》であるように、彼もまた〈男〉《そう》であるはずだという当たり前のことを、なぜ慮ることが出来なかったのか……今でも絶えず悔いているのよ」 「強い男が好き? 弱いから駄目? ううん違う、だって私たちは姉弟じゃない。血の繋がっている姉と弟、結ばれるなんてあり得ないし…… 私自身が彼のことを、大切な家族としてしか見られないって伝えることが出来なかった。そんな当たり前の言葉から逃げた結果が、これなんだ。  だって、あの子はきっと壊れてしまう。  長く生きられるかもわからない、脆い身体に生まれたの。先天的な欠陥に男女の別は存在しない。  日々を生きるだけで精一杯な信明。優しい弟、自慢の家族。そんなあの子が初めて言った〈我儘〉《こくはく》を切り捨てるなんて私には出来ない」 「強さにかける男の人の想いは狂気だ。  女の身では到底理解できない域で、彼らは強いという称号を全身全霊求めている。弱い自分を殺したいほど恥じ、憎んでいる。  それが男の人というものだから、私は取り返しのつかない失言を悔いるのだ。 ああ、本当に……強い人が好きだなんて、なぜ私は言ったのだろうと。  彼の死体を抱きながら、海より深く恥じて、悔いて、乱れて泣いて絶叫し、そして私は知らず己に枷をかけた。自分でも知覚できない深層に、絶対的な不文律が〈焼鏝〉《やきごて》のように刻まれる」 「〈女性〉《わたしたち》は、〈男〉《 、》〈性〉《 、》〈の〉《 、》〈前〉《 、》〈で〉《 、》〈本〉《 、》〈気〉《 、》〈を〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  彼らが真っ直ぐ生きられるように、〈命〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈局〉《 、》〈面〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈上〉《 、》〈回〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。  決して、決して、それだけは何があってもやってはいけない最低のこと。やればあのような最悪が訪れる。  そう自覚した真実は、無意識のうち私に拭えないブレーキを備え付けた。  たとえば〈信明〉《かれ》とか、たとえば〈四四八〉《かれ》とか、それに大切な仲間たち。皆の前では何が何でも、本当の私を悟られてはいけない。喪いたくないんだもの」 「だって男の人の強さにかける想いは狂気だから。  ありのままに才能を発揮して、無邪気に力を見せつけて、彼らを超えてしまったら狂い焦がれて死んでしまう。  馬鹿な私は、弟のような人たちをきっとまた生み出してしまうのよ。  ごめんなさい。私は女、弱いのよ。どうしても男の人には敵わない。〈男〉《あなた》の身を焦がす狂おしい飢餓の深さを、〈女〉《わたし》はどうしたって同等に感じることが出来ないの」 「だから、ねえ考えてみて。そんなつまらない女が、あなたより強く戦えるはずないでしょう?  〈男〉《あなた》は強いの。〈男〉《あなた》は強いの。〈男〉《あなた》は強いの。そして〈女〉《わたし》はこんなに弱いの。男性の役に取って代わろうなんてこれっぽっちも思っていない。  私は女。女は女。強い人、頼りになる人、自分や子供を守ってくれる雄々しい男性を望んでいる。  それが本能。雌性の性、だから――」 「そう、今でも絶えず悔いている。  死にたいほどに。やり直せるなら命も要らないと思うほどに。  男の人では、どうしたって理解できないほど狂おしく…… どうして私は自分の力を隠すことを、早く覚えなかったのかと。  信明を喪ったときから微塵も変わらず、泣いて叫んで悔い続けている」  それが、世良水希と世良信明という姉弟に訪れた絶望の連鎖だった。  俯瞰的な視点で見れば、これはボタンの掛け違いじみた悲劇なのだろう。  反省すべき点は大小の違いがあっても、互いにそれぞれ存在している。自覚の有無は関係なく二人は共に協力し、この破滅まで漕ぎつけたのだ。  ゆえに、あるいは当然か。互いの認識は所々で細かな齟齬が生じている。  たとえばそれは、両者共に自分がすべて悪いと信じ切っているところにも大きく現れていると言えるだろう。要は二人とも血縁という繋がりゆえか、内罰的な傾向が非常に似通っているのである。それが悲劇の一端を担ったのはもはや語るまでもない。  水希は自らの迂闊さに嘆き、男性の前では強さを無意識の檻へ封じ込めようと戒めた。  信明は自らの弱さに絶望し、愛情が憎しみへ変わる前に自刃して姉の輝きを守ろうとした。  自分へ罰を科そうとするあまり、己を苛む煩悶が相手の抱える痛みとは微妙にズレた位置にあると、特に水希は気づいていない。  より正確に言うならば、自責に走るあまり問題点を正確に把握しきれていないのだ。しかし当の本人だけは、強い女は害悪なのだと心から信じ切って頑なであった。  ゆえに今も、生きている彼女は苦しんでいる。  自分を見ている仲間の前では……特に恋い焦がれている男の前ではどうしても全力を出し切ることができずにいた。  ある意味で解放されたのは、先に死んだ信明で……  いいや、それは本当に?  答えを述べるなら否だった。  絶望は終わらない、負の連鎖は続いていく。  むしろここから更に更にと、世良姉弟の運命は奈落へ向かって突き進むのだ。  なぜなら、悪魔を喚び出すことにおいてこれ以上の供物はないのだから。  山羊の心臓。処女の子宮。赤子の脳髄。生贄、絶望、魔女の窯にも似たおぞましき〈混沌〉《べんぼう》は、古より魔を召喚する精巧な〈必須工程〉《プロセス》と相場が決まっている。それは夢であっても同じこと。  術者の側がそれを狙い、このタイミングでけしかけたことでは断じてなく、あくまで偶発的な結果であろうが……いや、それら運否天賦も含めてこれを運命と呼ぶのだろう。  甘粕正彦という盧生が〈楽園〉《ぱらいぞ》成就のために魔性の蠅声を選んだことと、世良水希がやがて四四八と共に邯鄲へ挑んだことはこの時から決まっていたのかもしれない。  悪魔を喚ぶには対価がいる。山羊の心臓。処女の子宮。赤子の脳髄。つまり生贄。  この世に本来あるはずのないものを、普遍無意識から引きずり出すための核が要るのだ。限界点を迎えた信明の絶望が、死の刹那で最低最悪の魔性をその祈りで引き寄せてしまう。  すなわち── 「ああ──心地いい絶望だねえ」  〈神野明影〉《シンノカゲリ》、降臨。  地獄から伸びた祝福の手が、昇天する魂を逃がさないと包み込んだ。 「強くなりたい、強くなりたい、僕は男だ。彼女を守れる自分でいたい。  うん、わかるともその気持ちは。男子なら誰もが抱く根源的な願望だよ、それを共感できない奴はそもそも男でありはしない。  恐れることはないよ、君は何も間違っていないんだから。惜しむらくは力が足りなかったというだけで、それさえも弱く生んだ両親が悪いんだよ。自責する必要なんて最初からどこにもないさ」  自らの裡に取り込んだ魂へ優しく声をかける下劣な悪魔。神野は今や誰よりも事情に詳しい彼ら姉弟の理解者だった。  なにせ神野は、信明の持つ裏面が投射した暗い影として現界を果たしたのだ。基本的な思考形態が極限の負へ傾いているものの、あくまで本質は世良信明という一人の男をトレースしている。  彼の愛を、絶望を、深く慈しむから裏切らない。  そして嘘や虚飾も通じない。退廃と堕落まで一直線に導いていく。魂に残った輝きを、その一片まで汚泥に浸して削ぎ落すのだ。 「怯えなくともいい、僕は全部わかっているよ。君の〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈の〉《 、》〈望〉《 、》〈み〉《 、》もね。  感じるだろう? 君を核として溢れ出すこの〈絶望〉《チカラ》が」  言葉通りに膨れ上がる〈邯鄲〉《ユメ》の波動、それを指して弱いなどと今や誰に言えるというのか。むしろ今までは何だったのか。  あれほど自分で自分を追い込んだ時間が嘘のように、驚異的な変貌を〈神野〉《のぶあき》は遂げていた。 「〈信〉《イノリ》、〈信〉《ネガイ》、〈信〉《チカイ》、信じる……そうだね、僕も信じているよ。君は強いし弱くない」  これで彼女と対等以上だと、囁く言葉があまりに甘美で。 「だからさぁ──」  束の間、浅ましくも喜んでしまった耳元に、そっと。 「これで一緒に、水希を憎もう?  ていうか、それが君の望みじゃないか──〈神野明影〉《せらのぶあき》くん」  最大の猛毒が破損した命を補って、人性を魔へ転じさせ始めた。 「勘違いしてはいないかい、僕は君さ。必死に否定しなくてもその本心は伝わっている。  そんな想いが欠片もなければ、こうして口にすることもできないんだよ。逆説的に、そういうことだと分かるかな。  憎みたかったんだろう? 苦しめたかったんだろう? そうすることで僕を見てと、訴えたくて仕方がなかった。  ああ水希、愛しい女神、お姉ちゃん……僕はここにいるんだよ、置いていかないで、忘れないで。オシメを替えてよ抱きしめてくれ」 「そうしている限り、彼女は僕を見てくれる」  そうだ──だって水希は優しいから。  縋り付く弟を振り払うことなんてしない。絶対にしない。 「そうしている限り、彼女を傷つけていいのは僕だけだ」  そうだ──だって自分には水希しかいないから。  男の独占欲として、彼女が遠くに行ってしまうのが耐えられない。愛しているんだ、本当なんだよ。信じてくれよ苦しいんだ。  この慟哭するような辛さと嘆きに、君が責任を取ってくれ。  なぜならそうしている時こそが── 「水希は一番かわいいからね」  傷ついて、迷って悩んで苦しんで。  すぐに私が悪いのと自分を責めたりするけれど。 「そういう顔がとても〈そ〉《 、》〈そ〉《 、》〈る〉《 、》。どんな女よりチャーミングだ」  困らせたい、刻みたい。 「消えない〈証〉《きず》をつけてあげたい」  彼女は強くて綺麗だから、挫けている瞬間がどうしようもなく愛おしい。 「僕のところまで堕ちてほしいと、願うことを止められないんだ。  大好きだよ、離さない。君に絶望をねじ込んで、柔らかい湿った部分を抉りたいと願っている。痛みに泣き出す彼女の雫はどんな味がするんだろうか」  想像して、たまらず震えたのは嘘じゃなかった。  影から引きずり出された言葉は下劣極まりないし、際限なく闇に増幅されてはいるものの……そういう願いが無いなんて自分に言えるはずがないんだ。  そもそも、そうして穢してしまうのが怖くて自ら死のうと決意した。  つまり裏を返すなら、僅かな引き金で自分も水希もそこまで堕ちるという未来を確信していたことに他ならず── 「ね、興奮するだろう?」  再度投げかけられた問いを否定することは、もはや出来なかった。  急速に反転していく〈世良信明〉《シンノヒカリ》──〈僕〉《 、》〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈が〉《 、》〈捲〉《 、》〈れ〉《 、》〈裏〉《 、》〈返〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。  そうだ、水希を穢していいのは自分だけ。他の誰にもそれをさせるのは許さないし譲れない。  堕落させて共に地獄へ落ちればいい。どれだけ汚れて惨めな姿になったとしても、僕は彼女を愛せるという自信がある。  なぜなら己はすでに悪魔だから。  魂を売り渡した憐れな供物、生贄の羊。ならば今さら、何を戸惑うことがあるだろう。  蠅と蛆で血肉が編まれ、感覚器官が蠢く害虫で埋まっていく。  深度を増していく背徳の〈同調〉《シンクロ》。もはや水希は迫る絶望から逃れることなど不可能だった。 「愛しているよ、水希。  なあ、今の僕は強いだろう? 強くなったよ、約束通りに。  だから今度は君の番だ。愛してくれよ、愛してくれよ、愛して愛して愛しているんだッ!  きひっ、ひひはは、あーはっはっはっはっはっは!」  もはやここに、世良信明という死者はどこにもいない。  いるのは一柱の悪魔、第八等の廃神である。  曰くベルゼブブ。曰く悪五郎日影。曰く這い寄る混沌。曰く曰く曰く……  人間の魂を地獄に引きずり込む普遍的悪役という〈夢物語〉《キャラクター》の集合体。  〈蝿声厭魅〉《さばえのえんみ》──最上級の祟りが堕落の快感と、喝采の声を轟かせた。  だから── 「……そうか、全部わかったよ」 俺は事のすべてを理解して、流れ込んだ世良の過去を受け止めた。 そして、身体を貫き際限なく吹きつけていく情報の突風はそれだけに留まらない。第五層、第六層、第七層で経た経験と記憶の数々……それが膨大な知識と共に脳髄へ流れ込むのを感じていたんだ。 盧生とは、眷属とはいったい何か。俺が生み出された意味に、幾度となく繰り返した出会いと別れ。その果てに見た複数の未来をも思い出す。 最後にどうして、〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈が〉《 、》〈夢〉《 、》〈に〉《 、》〈入〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》を理解して── 「やあ──」 「ようこそ、柊四四八。第二の盧生。私は君を待っていた」 知の渦を意識が突き抜けたその瞬間、ついに俺は到達点に辿り着いたのを自覚した。 目の前に広がる空間は一言で言って、異形だった。自分たちの知る鎌倉どころか、別階層の時代ともまったく異なる無形の趣に満ちている。聞いたことも見たこともない。 まして今、俺に語りかけてきた存在にこれまで会った覚えもない。 しかし、頭を駆け抜けた〈五〉《 、》〈回〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈分〉《 、》〈岐〉《 、》とそれによって得た密度が、こいつの正体におおよその当たりを付けていた。 この存在は、何処にでもいて何処にもいない。 無限に広がる大海であり、この空間そのものの化身。 邯鄲の夢の最終地点。それすなわち── 「ここが……いいや、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈が〉《 、》〈第〉《 、》〈八〉《 、》〈層〉《 、》か」 「然り」 問いかけに対しソレは鷹揚に頷いた。秩序と、中庸と、混沌を融合させたような不思議な感覚……あらゆる感情を揺さぶる念が鼓膜に響く。 「私は根源。私は太極。私は森羅。私は万象」 「そして無であり零であるもの。天上にあり奈落に坐すもの」 「全であり、同時に一。つまりは〈四四八〉《きみ》で、永劫出会わぬどこかの誰かだ。あえて言語に当て嵌めるなら、〈阿頼耶識〉《アラヤ》とでも呼んでくれ」 「おめでとう、会えて嬉しいよ。いま認識しているだろう〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈私〉《 、》は、君の功績を心から歓迎している」 自分の本心でありながら、どこか他人事のようでもあるその口調。確信がより深まる。 「なるほど、アラヤ──普遍無意識とはよく言ったものだな」 曖昧な言い回しでからかっているのではないのだろう。コレは恐らく元からそういうものなのだ。一つの身体と一つの命で構成されている〈人間〉《ヒト》とは違い、唯一無二の個我によって生じているものじゃない。 全にして一。 流転しながら決して揺るがぬ本質でもある。その二面性に対する理解を、アラヤは肯定しているようだった。 「そうだよ。だからこれがどういうことか、分かっているね?」 「〈第八層〉《ここ》へ到達するために〈五〉《 、》〈度〉《 、》〈の〉《 、》〈ル〉《 、》〈ー〉《 、》〈プ〉《 、》〈を〉《 、》〈体〉《 、》〈験〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。しっかり思い出せたかな」 「ああ。すべて取り戻したとも」 「俺がここにいる意味……より正確に言うならば、ずっと誤解していた部分が解けた」 七層攻略時において感じたことを、今こそはっきりと自覚できる。 「俺たちの真実は、〈大〉《 、》〈正〉《 、》〈時〉《 、》〈代〉《 、》〈を〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》で──」 「これまでのすべて、現実だと思っていたあの二十一世紀さえも、邯鄲の夢が紡ぎ出した世界なんだな」 「そう。あれは君たちが望み、辿り着きたいと願った未来」 「戦真館の面々が夢に描いた百年後の姿なんだよ。大正時代の世界背景から得た情報を吟味した上で、こうであってほしいという個々の願望を反映して演算した、一種の〈仮想未来〉《シミュレーション》というやつさ」 「だからこそ階層攻略に伴ってその後の未来も変化した。あれは現実に時代改変が起きたんじゃない。君たちがああいう選択をあの場で起こすと未来はいったいどうなるか……という一例を示したに過ぎないんだよ」 「よって、君が色々忘れていたということから生じた歪みを除けば、タイムパラドックスなど起こり得ない。細かな矛盾点があったとしても、そこを追及する者は誰もいない」 「なぜなら無意識下で、君たちはそれが自然な結果だということを知識として覚えていたから。そもそも邯鄲の秘密を暴くなんてことよりも、ずっと大事なことがあったんだからね」 「それもすべては──」 「日本帝国を揺るがす魔人、甘粕正彦を打倒するという大義のため」 「戦真館特科生、俺たち七名はそれを誓って邯鄲の夢へと入ったんだ。神祇省と辰宮家の要請で」 それこそが、ここに思い出した柊四四八と仲間たちの真実だった。 どうして、狩摩や百合香さんが俺という盧生と最初から接続していたのか。どうして、柊聖十郎が大正時代の人間である甘粕と現実世界で出会っていたのか。 その他もろもろ、あらゆる疑問にはたったそれだけで説明がつく。〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈は〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈の〉《 、》〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈も〉《 、》〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈に〉《 、》〈目〉《 、》〈を〉《 、》〈覚〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 なにせ現実と呼んでいたあの場所は、すべて自分たちが作り上げた仮想の揺り籠に過ぎなかったのだから。因縁や関係性も同じ時系列の生まれだと分かってしまえば、どれも辻褄が合うものばかり。思わず苦笑してしまう。 だが、それもある意味仕方ないのか。〈夢〉《 、》〈に〉《 、》〈入〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈本〉《 、》〈題〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈外〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》、首をひねりながらも知らぬ間に納得してしまうのだろう。 大切なのは、幸せな仮想未来を体験することじゃない。 「もっとも重要なのは速やかな邯鄲の制覇であり、その先に待つ甘粕攻略で揺るがない。つまりこれまでのすべては、言ってしまえば修業期間のようなものだ」 「夢を現実に持ち出すための訓練であり、そのために生涯を五周して階層を突破してきた。そういうことだな」 「その通り、君たちにとっての本番はあくまで大正時代の現実である」 来歴のわからない使命感が息づいていたのもそういうことだ。何せ俺たちは自らの覚悟と共に夢に入った、他人の都合で巻き込まれたわけではない。 よくぞ自分を頼ってくれた。そして心から思う、ありがとう。 世良に対してそう感じた想いは正しかったし、この瞬間のために自分たちは生きてきたという不思議な気持ちの正体は、そもそも最初からそうだったからに他ならない。 打倒甘粕――すべてはそのためにやってきたのだ。よって奮い立つのは正当であり当たり前。 そうした使命感だけは、全員が覚えていたということだろう。 奴を斃すという意志を無意識でも感じていたこと、それを俺は誇りに思う。 「ただ、それだけに分からないこともある。なぜ俺たちは自分が何者かを忘れていたんだ?」 夢に突入する直前での高揚感。使命に決意、誓い、祈り、願い、信じる。 必ず共に成し遂げようと矜持を抱いて挑んだはずだ。にも関わらず、どうして? 狩摩や百合香さんは俺たちを覚えていたというのに。 記憶の喪失なんて邯鄲法の設定には入っていない。なのになぜ? 夢に入る際、いったい俺たちに何が起こったというのだろう。 「困惑しているね。まあ、順を追って説明するとしよう」 「君たちが生きてる本当の時間軸は大正十二年、西暦で言うと1923年にあたる。そして事の発端は明治三十八年の春、初代戦真館の崩壊にまで遡る」 「君が第四層で仮想体験したように、あのとき邯鄲の夢という術は物部黄泉の死と共に失伝した。幽雫宗冬ただ一人を残して当事者はみな全滅を遂げる」 「しかし、人の口には戸が立てられない。高度情報化が進んでいない大正でも、そういう脅威的な術があるという噂だけは朧気ながら残ったんだよ」 「無意識の海から力を紡ぎ神や悪魔を召喚する〈術〉《すべ》……無論、大半の人間は眉唾物だと本気に取り合わなかったが、そこに眼をつけた者もいた」 「男の名は柊聖十郎。そう、君の父親だよ」 「彼がどういう人間かは、ここで言わずともよく知っているだろう?」 「もちろんだ。そして奴がどう動くかも、楽に予想できてしまう」 業腹だが、俺もあの男の闇を体感した人間だ。聖十郎がいったいどういう欲望のもと邯鄲法を欲したかは見当がつく。 「聖十郎は当時からすでに数多の死病を患っていた。大正時代の医学ではどれもこれも手遅れでね、鬼籍に入るのを避けるために彼は何でも試したそうだよ」 「そんな折に、唯一己を完治可能な超常の〈業〉《わざ》と出会ったんだ。傾倒するのは一瞬だった。彼は死に物狂いで、より完成度の高い形に邯鄲の夢を再構築する」 「物部黄泉がプロトタイプを造り上げた創始者なら、柊聖十郎はそれを完成形に導いた後継者とも言えるだろう」 そして── 「被験者を探す過程で、奴はデータ収集用の〈実験体〉《モルモット》を強烈に欲しがり……」 「〈息子〉《きみ》を作るに至ったわけだ。無いなら生めばいい。よくある破綻者の理屈だね。もっとも、それは皮肉なことにすぐ無用の長物となるけれど」 「柊四四八が夢に投入可能な年齢へと達する前に、思いがけず理想的な協力者が現れる。男の名は甘粕正彦」 「聖十郎は君に興味をなくし、というか本当に忘却して、あとは彼ら二人の蜜月だ。ひたすら邯鄲の実験を繰り返し、そして見事、甘粕は全階層を制覇して人類初の盧生となる」 「データは取れた。後は自分だ。これで己に渦巻く病と決別できる。……そう意気込んだ聖十郎は、しかしそのとき自分が盧生でないと自覚してしまったんだよ」 「奴からしてみれば絶望どころではなかっただろうな」 因果応報。病人に鞭打つようではあるが、ご愁傷様と言う気にもなれない。 まるでよくできた喜劇のようだ。誰より不遜で自分を優れていると謳ったあの男は、夢という幻想が横行する場所において現実を知ったのだから。 自分がどうしようもなく脆い社会的弱者であるという現実を。 その結果を受けて、激怒しながらも甘粕の眷属になったのだろう。あいつの願いは生きることにある。十年以上も病死寸前で耐えてきたんだ、ここで誘いを跳ね除けるほど愚かじゃなかったというわけか。 「甘粕正彦は邯鄲を制覇した。よって当然、君に第七層で語ったように〈野望〉《ぱらいぞ》を実現するため動き出す」 「これが君たちの正しい時間感覚でいうと約二年前。ちょうど戦真館に入学した時期とほぼ時を同じくするわけだ」 「覚えているかな? 大正の世は災害が多い」 「大正三年、桜島での大噴火が発生。同年二か月後には、秋田で大地震が発生している。三年後の大正六年には東日本で大水害も猛威をふるった」 「これらはすべて甘粕の邯鄲攻略と連動している。制覇までの節目節目で、段階的かつ限定的に夢を現実へ持ち出してみるという試みだ」 「柊聖十郎と甘粕正彦。闇の天才同士が全霊の一致協力をしたから成せた奇跡だね。本来、夢は邯鄲を制覇しないと欠片だって持ち出せない。それをたとえ一雫のようなものであっても実用化させたんだから恐れ入る」 「聖十郎は万事急がなければ現実の命が保たないし、邯鄲で未来を知った甘粕は早く〈楽園〉《ぱらいぞ》を実現させないと世の美しさとやらが滅ぶと思った。共にそれぞれの事情で焦っているし後がない」 「本気の妄執。凄まじいまでの気合いだよ。そしてよく言うだろう。諦めなければきっと“夢”は叶う」 「……そんな事情で使ってほしい言葉じゃないがな」 だがまあ、理解はできる。聖十郎は物理的にも否応が無いし、甘粕は奴流に言えば兵器の試し撃ちがしたかったんだろう。 神野と空亡、最終的にあの二柱を持ち駒と定める前に多様な〈廃神〉《タタリ》を並べ、吟味した。 甘粕は常に、万事必勝の心得で挑んでいるし手は抜かない。そのために全力であらゆる神魔を使役したに違いない。 「そして今、彼は関東大震災を引き起こさんと活動している。その動きをいち早く察知したのが壇狩摩さ」 「それを受けて護国を司る神祇省は甘粕への対抗策を講じるべく、貴族院辰宮と手を組んだ。そして大願成就の試みとして、糸を伝うように戦真館の筆頭生たる君のもとへ話がくる」 「仲間である特科生の皆も含めて、甘粕正彦に立ち向かう道を選ぶか、否か? そこでどういう答えを返したかは……この瞬間が今も証明しているね」 俺たちは首肯し、誓い、誇りを抱いて拝命した。 奴を斃す。そして無論、魔人への対抗手段はただ一つ。 「俺たちも邯鄲を制覇して、甘粕と同等の〈夢〉《チカラ》を得なくば話にならない……」 「ああ、当然の帰結だな。だからこそ分からないんだよ」 こんなに大事なことじゃないか。なのにどうして忘れていたのかという核心には、未だ触れられていないまま。 これまでの会話は種明かしの〈お〉《 、》〈さ〉《 、》〈ら〉《 、》〈い〉《 、》だった。本当に知りたいのはその因果、何が原因で初志を見失ったのかということにある。 それに対して、普遍無意識の影は小さく笑ったようだった。小首をかしげているような優しさとも嘲りともつかない感情が伝わってくる。 「それなんだけどね……逆に問うけれど、君は疑問に思わないのかい?」 「先駆者たる甘粕に、果たして後続の身で並ぶことができるのかと」 「もっと率直に言うと、二番手風情が初めて夢を切り拓いた男に勝てるとでも? 信じているなら君は本当に強い男だね」 「…………それは」 試すようなその口調に、俺は束の間考える。 強固な想いを抱いて邯鄲に臨んだのは甘粕も然りであり、むしろ理論の保証もない状態で挑戦した事実を吟味すれば…… 「要するに、俺たちは奴より心構えが甘いというのか?」 「さてね。ただ甘粕は前人未到で邯鄲の夢を制覇した。これは大きな違いじゃないかい?」 「少し客観的に見てごらん。邯鄲法? なんだいそれは馬鹿馬鹿しい。人として破綻した重篤患者が、死の間際に紡いだ怪しげな〈妄言〉《まじない》に過ぎないだろうと、そう思う方が正しいだろう?」 「信じられないことにそんなものへあの男は命を懸け、覚悟をもって挑んだのさ。正気の沙汰とは思えない」 「そして、それだけの意志力があったからこそ、甘粕正彦は最初の盧生となれたのでは?」 「彼の強さ、その恐ろしさ。盧生としての優劣はそこにも関係するのでは? 攻略過程を知っている対抗用の急造品が、果たしてアレに敵うのだろうか?」 「と、そう考えた男がいた。実際、甘粕に比べて君たちの条件はその点遥かに甘いものだ。攻略すればそれに応じた成果があると知っているため迷いがない」 「大洋を横断するのはいつも相応に困難だけど、その先にある新大陸を最初に発見した奴は図抜けてたいしたものだということさ」 「ゆえにその差は覆せない。精神的に後れを取る。ならばどうする? 一計を案じるしかないだろう。いいぞ、きっと面白くなるに違いない……」 「そう考えた果てに、独断で行動を起こした人物がいる。誰だと思う?」 なんて勝手だ、そんな大馬鹿野郎はあいつだけだろう。 「壇狩摩だな」 「その通り。なぜなら彼はそういう男なのだから。そこで理由は完結している」 「自分の中にある公平性や、己にだけ通じるルールをこの世の何より重んじるのが壇狩摩。それは破天荒で、滅茶苦茶で、余人にはとても理解できない摩訶不思議なものではあるけれど……恐ろしいことに精度だけは抜群なのさ。基本的にまず外れない」 「だから彼は、君たちの邯鄲へ極秘裏に何か不純物を混ぜたんだよ。それも最初の時点でね」 「見たことのない精密機械に気まぐれで砂をかけたようなものさ。つまりは博打。何が起こるか分からないし、本人自身も狙ってやったものじゃないのだから次の瞬間には忘れていたはず。よってそこは大した問題じゃない」 「重要なのは、結果として戦真館の邯鄲に狂いが生じたということにある。その一つとして現れたのが、記憶喪失という形」 「つまり、思いつきで賽の目を振った結果がこれかよ。呆れてものも言えやしないぞ」 となれば……当然、連座で他の疑問も生まれてくる。 「百合香さん……辰宮が俺たちの変調を知りながら放置していた、その理由は?」 「簡単なことだよ、君にとっては度し難いことに彼女は私情を優先したのさ。つまり真実を教えないまま事態の続行を選択した」 「現実の彼女と面識があるままの君たちでは、どうしても辰宮百合香に部下的な態度で接してしまうだろう。大正の世は未だそういう家柄や、血筋の重さが幅を利かせているからね」 「ゆえに色々忘れている君たちと再会したとき、彼女はこう思ったわけだ。もしこのまま進めていけば、彼らはいったいどういう風に自分へ接してくれるのだろうと」 「試したかった。だからそうした。他には何の理由もないよ。辰宮の家が戦真館の味方でも、彼女自身はそんなことより興味と私情を最優先したんだ」 「ちなみに余談だけど、こういうエピソードがある。辰宮百合香に君らの庇護を要請したのは神野明影で、彼はその際、彼女に当時拠点としていた六層を退去して四層に行けと言った」 「四層に行って、君らに会って、それでも六層へ戻ってこられるものならやってみろ、とね。出来やしないと分かってたんだよ。そこはさすが悪魔だ、女に強い」 「実際あの令嬢は、傾城の香で君らの記憶障害をより強固にしようとまでする始末」 「彼女の内面を垣間見たことのある君ならば、なるほど不思議じゃないと思うだろう?」 確かにそうだ。壊して犯して愛してと──そんなことを、あの女性はいつもいつも願っている。子供のように。 それだけに、今も彼女を情けないと思う気持ちが俺の中で燻っていた。その想いを読んだ上で、アラヤは苦笑し首を振る。 「辰宮百合香がそれだけを黙っていたと思うかい? そんなわけはないさ、狩摩と同じく君に伝えていない事実はそれこそ多岐に渡っている」 「たとえばそれは、大きなものだと邯鄲に入る際にそれを施した術者について。君たちを夢へ入れた存在が、柊聖十郎であると明かすそぶりも見せなかったろう?」 「なんだと──」 あり得ない情報に一瞬だが意識が飛んだ。それはなぜ、どういうことだ。 「馬鹿な、奴は甘粕の眷属だろう」 「けれど現実問題、聖十郎以外に邯鄲の夢へ接続可能な施術者はこの世に存在しないんだよ。四の五の言ってはいられない」 「壇狩摩と辰宮百合香も、彼が甘粕の眷属であるのは情報として知っていたが……この場合、他に選択肢がないのもまた事実だ」 「いずれ空亡は訪れる。それまでに自前で別の接続方法を探す余裕など、後追い側には存在しない」 「それにある意味、今回は互いの目的が綺麗な形で一致していた。聖十郎は絶対に、そう絶対に柊四四八を安全な形で夢へ繋ぐと確信できる。そうだろう?」 「俺から盧生の権利を奪うために……」 「ああ、まさしくその提案は聖十郎にとって渡りに船であったろうね。そして狩摩や辰宮からすれば、聖十郎を釣るために君を指名したという裏がある」 「接続先である甘粕もああいう気性だ。盧生が増えることを歓迎している。ゆえに妨害は起こらないし問題ない。あくまで理屈の上であるが他に取れる手段もなし、当事者だけが知らぬまま密約は静かに敢行された」 「まあ、知らなかったのは君たちだけだが、そう気に病むこともないさ。〈戦〉《イクサ》において大勢を把握できるのは常に将、兵はしょせん単なる駒だよ。余計な真実を与える方が稀少な例だと思えばいい」 「たとえば幽雫くんなんかは可哀想だよ。彼は過去の体験から邯鄲を憎悪しているし、再び入るのは相当に嫌だっただろう。外法を復活させた聖十郎などに至っては、絶対に許せないと思ったはずだ」 「しかし愛するご主人様はお花畑だし、否応もないよね。君らはそれに比べたら結構マシさ」 「だから今のうちに割り切れと?」 「そうだとも、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈お〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈方〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。特にあの男への拘りは」 その一瞬、何かを暗に仄めかすような言葉尻が気になったものの、複雑な心境の前に消えてしまう。未だ柊聖十郎のことに対して、俺は完全に冷静ではいられないようだったから。 ああ、確かに……奴はまだ生きている。少なくとも現実に帰ったなら再び顔を合わせることは避けられないと、改めて自覚した。 その時にいったいどうするべきなのだろう? 想像するが答えは出ない。何とも言えない感情が胸中に生まれては、泡のように消えていったが…… 俺は苦虫を噛み潰しつつ、わだかまりを振り払った。今はまず目先のことに注力しよう。夢を超えない限り、そんな懸念にかまけていても仕方がないんだ。 答えは再び、現実で見つければいいだろう。 「先程の話だが、おまえは俺たちの邯鄲に狂いが生じたと言ったな。そして内の一つが記憶喪失だということも」 「ならばそれ以外に、おかしくなった箇所が幾つかあるということか?」 「そうだよ。たとえば鋼牙の侵入などがある。君たちが記憶を喪失し、初期設定が曖昧になった瞬間を狙ってキーラは君の夢へと繋がった。彼女もまた、盧生になるのが目的だったからね」 「まあ火事場泥棒みたいなもので、少々物騒だけどの狙いとしては至極普通だ。君の眷属になったことも手段の一つ。そして盛大に最初の一歩を間違えている」 「キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ、彼女の父は甘粕の盟友だったんだよ。しかし二人は袂を分かち、あげく無惨に殺されている」 「父の死後、遺された記録を見て邯鄲法についての基本的な知識を得たキーラは、盧生になろうと画策した。それは亡き父親の夢を継ごうとしたのか、あるいは仇討ちか、それとも他の何かだろうか……」 「彼女の心情は酷く屈折してるから、どれでもあってどれでもないのだろう。だがどうでもいいことだ。重ねて言うが最初の一歩を間違えている。なぜならキーラは盧生じゃないし、権利を奪う〈夢〉《チカラ》もない」 「結果、今は甘粕の眷属として彼の〈楽園〉《ぱらいぞ》に繋がれてる。その事実がすべてだよ」 「そして、さらにもう一つ。これが最大の歪みでもあるのだが──」 すっと、真っ直ぐにこちらを射抜くような思念をこいつは向けて。 「君が今、生きてることがおかしいんだよ」 「……は?」 散歩でもしているような気軽さで、あり得ないはずの言葉を告げた。 「思い出してごらん。君は〈最〉《 、》〈初〉《 、》〈の〉《 、》〈一〉《 、》〈周〉《 、》〈目〉《 、》〈で〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》」 「そう──大した密度を持てぬまま、甘粕と出会ってしまったあの時に」 「─────」 敗北の苦汁と共にフラッシュバックする記憶。第一周目における最終決戦を思い返す。 指摘された通り、俺たち戦真館は戦艦伊吹の甲板で総力戦を展開した。そして結果、成す術もなく順当に敗亡の淵へと突き落される。端的に言って全滅したのだ。 どんなルールでも初心者が熟練者に敵うことがないように、それは単純な力量差が起こした至極当然の結末だったが……それの何がおかしいのかが今になっても分からない。 なぜならそれ以外にも死を体感した記憶を所持して、俺はここにいるのだから。 確かに初回は無惨なものであっただろうが、二回目以降でそれを取り戻すことが出来たと思うが…… 「だから、それがおかしいと言っているのさ。少し勘違いをしているようだね」 「〈眷〉《 、》〈属〉《 、》〈は〉《 、》〈盧〉《 、》〈生〉《 、》〈が〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈る〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》〈夢〉《 、》〈に〉《 、》〈お〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈不〉《 、》〈死〉《 、》〈身〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ど〉《 、》、〈盧〉《 、》〈生〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈ら〉《 、》〈基〉《 、》〈本〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈で〉《 、》〈お〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》。よって原則、死ねば終わり。〈二〉《 、》〈度〉《 、》〈目〉《 、》〈は〉《 、》〈決〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈起〉《 、》〈こ〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「な──」 「ならばなぜ? どうして自分は生きているのか? そうだよ、それが歪みと言っているのさ」 「甘粕は〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈も〉《 、》〈死〉《 、》〈亡〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》邯鄲の夢を攻略したよ? 何度でも挑戦可能な優しい法であるのなら、彼はもっと早くに夢を制覇していただろう」 「ゆえにあのとき、問答無用に戦真館は全滅を遂げたはずだった」 「待ってくれ、それならいよいよ矛盾している。こうして生きていることのみならず、まず何より甘粕の対応がおかしいだろう」 「奴は自分以外の盧生を歓迎しているはずなのに、俺を躊躇なく殺したのか? その場の気分と勢いで」 「ああ、だから反省していただろう? あれは自分もやりすぎたとね」 「後進がどういうものか少し試してみたかったんだろう。そして君があまりに眩しく、彼の美感に沿っていたからついつい興が乗ってしまったのさ」 「要は、楽しむあまり我慢ができなくなったんだよ。その場の気分と勢いでノリに任せてやらかしちゃった。君の言葉そのままだとも、よく分かっているじゃあないか」 「馬鹿な、何だその理屈は……」 まるで子供だ。お気に入りのオモチャを勢い余って壊してしまうようなもの、とても理知的とは思えない。ここにきて俺は一気に甘粕という男の像が分からなくなり始めていた。奴の本質が遠ざかる。 あいつはそんな軽率極まる行動をとるくせに、覚悟がどうだの、輝きが素晴らしいだの、〈楽園〉《ぱらいぞ》を創り上げるだの言っているのか? 「そうだとも、何を過大評価していたんだい? 甘粕正彦が世を統べるに足る大物だって? 馬鹿を言わないでくれ、彼の本質は今も〈未〉《 、》〈熟〉《 、》〈で〉《 、》〈無〉《 、》〈邪〉《 、》〈気〉《 、》〈で〉《 、》〈青〉《 、》〈臭〉《 、》〈い〉《 、》」 「刺激的な物語や登場人物に入れ込んで、続きが見たい、もっと見たいと叫んでいるのと同じだよ。それが全世界を巻き込むという途轍もない規模に膨れ上がっているだけだ」 「やりたいからやっているだけ。君の抱いた感想通り子供と何の違いもない」 「人の〈無意識〉《アラヤ》である自分が見てきた限りにおいて、君らは悪の親玉などを何かとんでもない傑物に設定したがるよね。そういう物語が好きで、むしろそうじゃないと納得しないし文句をつける」 「現実ではまったくそんなことなどないと知っているのに。いや、だからこそ夢見るのかな?」 「よってここらで断言してあげよう。君が戦ってきた存在たちに〈大〉《 、》〈人〉《 、》〈物〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》よ」 「彼も、彼も、彼女も彼も、揃い揃って小物ばかりさ。自分の主義に盲目で、異なる思想を受け入れる器なんて微塵も持ってはいないんだ」 「壇狩摩も言っていたじゃないか、性根のつまらない人間が大きな力を持っているから怖いんだよ。すぐに暴力へ訴えるし、自らの行動に恥じ入るものが一切ないというろくでなしども。これを卑小と言わずになんと言うのか」 「悟りは開けず、俗欲にまみれて、己が祈りに振り回される身勝手な暴走列車。柊聖十郎なんかはその最たる典型だろう? 格下に傷をつけられれば激昂するし、受けた恨みは忘れない。思い通りにいかなければ我慢ができずに暴れ狂う」 「本当に優れた人間性を持つ者は気前がいいし寛容だ。他者の失敗や反逆をあっさり許すし容認できる。心を蝕む飢えや葛藤を受け入れて、現実と迎合しながら真っ直ぐ生きていけるんだよ。道を別った誰かにさえ愛と情を口ずさんでね」 「……とはいっても、世知辛いことにそんな人材はそう現れない。虚しい現実というやつさ。権力、財力、暴力、知力、未熟者が突出したそれらを持つパターンがうんざりするほど世には満ち溢れているんだ」 「悲しいね、人類は未だ幼い。これでは涅槃にはほど遠い」 その声色がどこか惜しむように、あるいは寂しがるように聞こえたのは俺の願望が反映されているからだろうか。 そこに対してだけは一切の解を返さず、〈阿頼耶識〉《アラヤ》の影は再び超常の気配をまとって続きを語った。 「話を戻そう……盧生であるならば絶対遵守である大元のルールが崩れたのはいったいなぜか。死亡後も邯鄲の夢を続行できていたことには、もちろんそれなりの理由がある」 「起点は壇狩摩の起こした不純物の混入だね。その結果、多少ルールに遊びが生まれてしまったことが後々尾を引くきっかけとなった。しかしこれではまだ弱い、歪みを大きく広げたのは別の力が働いたからに他ならず……」 「世良水希、彼女の夢。土壇場でやり直したいと願ったその祈りが、ここで初めて邯鄲に致命的な〈矛盾〉《パラドックス》を引き起こした」 「なぜならあの時点で、盧生である君よりも、他の眷属の誰よりも、〈第八層〉《わたし》に近かったのは彼女なのだからね」 「水希が望んだのは幸せな日々への回帰。つまり巻き戻し、時間逆行だよ。それが彼女の紡ぐ〈邯鄲〉《ユメ》の形だ」 「界の創法において他の追随を許さない資質は、君もよく知っているだろう? 〈偽〉《 、》〈装〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈ラ〉《 、》〈ン〉《 、》〈ク〉《 、》〈が〉《 、》〈下〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈状〉《 、》〈態〉《 、》だったとしても、その凄まじさの一端は理解できていたはずだ」 「偽装だと? いや……そうか、あいつ」 「これの精度はどれくらいのもんなんだ?」 「正直、そのへんは分からないよ。人を見る目っていうのにも、やっぱり個人差があるわけだし、逆に誤魔化すのが上手い人もいるだろうから」 「でも、相手がよっぽど格上でもない限り、そこそこ見極められるんじゃないのかな。あと、柊くんはそういう観察眼が優れてると思うよ」 「お互いに知ってる者同士だし、少なくとも私たちの間でなら、柊くんの見立ては外れないだろうなって考えてるけど」 「そうかな。だといいが」 俺はあの時、あいつの能力を本気で暴こうとはしなかった。付き合いが浅いからというのもあるし、まだゲーム感覚の時分であったからとりあえずこういう数値なんだなと納得して、その場は気軽にスルーしたんだが…… 世良の抱えた悔恨を知った今では、真実を見抜かれないよう偽装した理由にも見当がつく。 あいつは、自分の本気を俺たちに見られたくなかったんだ。全力の状態をあるがまま認識されるのを恐れていたんだと理解する。 そして、あの時に限って言えば世良は見事に騙しとおした形になる。それが可能だった時点で、俺の力量を上回っていたという証明だろう。認めざるを得ない。 「じゃあ世良は、とんでもない天才だということになるな」 「然り。本当の世良水希は君が見て知ってるような域の能力者じゃないよ。〈天稟〉《てんぴん》の大きさだけで語るのなら間違いなく戦真館……いや、他の全員を含めた上でも最強だね」 「なにせ盧生じゃない眷属の身で私に触れかけた……それがどれだけのことかは分かるだろう」 「生まれ持った他を圧倒する才能に、唯一と定めた事象へ懸ける並外れた情念の深さ。それは狂人や超人の域へと達している。良くも悪くも純粋なのさ」 「柊四四八のように懐が大きくないんだ。すぐに悔やみ、悩み、傷つき惑うという脆い性根を持っているから、彼女は大業を成し遂げた」 「君が死んだ後、接続先の盧生が死亡したことで眷属たる彼女も即座に消えるはずだった。しかし狩摩の手によって生じてしまった歪みの分、夢から排斥されるまで少々の余白が出来たんだよ」 「そしてその間隙に、彼女の〈慟哭〉《ユメ》がかつてない最大規模で駆動した。〈仲〉《 、》〈間〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈心〉《 、》〈配〉《 、》〈無〉《 、》〈用〉《 、》〈だ〉《 、》〈し〉《 、》〈手〉《 、》〈加〉《 、》〈減〉《 、》〈無〉《 、》〈し〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》。時計の針は巻き戻され、君が死亡する寸前まで巻き戻る」 「当然、甘粕も喜んだよ。素晴らしい〈四四八〉《ろせい》をつい前哨戦で潰しちゃったことは彼にとっても不本意だからね。両者の願いは合致して、戦真館の一周目はひとたび幕を閉じたのさ」 「ただし、その真実を当事者が正確に認識するかは別問題だ。自分が起こしたその因果に、水希自身が気づかない」 「なぜなら甘粕が退いたとしても、あの場にはもう一人彼女を愛してやまない悪魔が存在してたのだからね」 世良を苦しめるために、神野がその時いったいどういう行動を取るか。少し考えればすぐに分かる。 「奴のことだ。おまえのせいだとでも吹き込んだんだろう? あるいは断片的に、その瞬間を思い出すように手を加えたか」 「そう、邯鄲の夢において何度も繰り返すことは基礎設定だが、それを君たちは忘れていた。だからほんの少しだけ一周目の顛末を〈覚〉《 、》〈え〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》水希は、すべてがすべて自分の咎だと思い込む」 「私のせいだ。私が悪い。私が戻してしまったから、また優しい皆が死んでしまう……世良水希は最低の死神なんだ、と」 「そんな風に誘導したのは、まあ神野が好む演出の一つだよ。いわゆる得意の味付けで、そこにそれ以上の意味はない。苦しめることだけを考える単なる愛情表現さ」 「だが、現実問題としてこの救済が致命的な歪みとなったのも事実なんだ。戦真館の邯鄲は、この瞬間を境に正常な筋道から少しばかりズレてしまう」 「それをうまく軌道修正しない限り、第八層まで辿り着くことが不可能な事態に陥ってしまったのさ」 「その条件とは、通常工程とはまったく逆に、〈盧〉《 、》〈生〉《 、》〈の〉《 、》〈死〉《 、》〈が〉《 、》〈邯〉《 、》〈鄲〉《 、》〈制〉《 、》〈覇〉《 、》〈の〉《 、》〈必〉《 、》〈須〉《 、》〈項〉《 、》〈目〉《 、》〈に〉《 、》〈組〉《 、》〈み〉《 、》〈込〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》」 「これまで何度が死んだだろう? ヨシュアは死を経て、神の使徒に目覚めるんだよ」 意味深な言葉は皆目わからなかったが……しかしこれも腑に落ちない。 「だから幽雫さんや狩摩は、積極的に俺を殺しにかかったのか?」 「まさか。そんなことは知るはずもない。彼らは彼らの勝手な理屈で、君の命を奪おうとしてきた」 「だろうな、俺もそう思う。ではいったい、どうして彼らはそんな暴挙を起こしたんだ? これは一線を画している。今までのような興味や私情で済む程度の問題じゃないぞ」 「俺は盧生で、そして彼らは眷属だ。たとえこっちが忘れていてもその関係は健在で、末端が太源を破壊するのに等しいだろう」 「そんなことが可能かどうか、問う以前に実行する方がどうかしている」 「そう、どうかしているんだよ。もういい加減に理解したまえ、彼らは全員ろくでなし。いわゆる小物で、どうしようもない破綻者たちさ」 「壇狩摩を見るといい。あの男が根拠や理屈を弄して君の命を狙ったかい? 他の者も根っこは同じ、やりたいようにやっただけさ……恐らくだがね」 「やけに曖昧な物言いだな。全知全能が泣くぞ、普遍無意識の集合体」 「誤解しないでくれ、私はあくまで柊四四八にとっての〈阿頼耶識〉《アラヤ》。そうでなければこうして会話ができるはずもなし」 「すべての叡智を欲するならば、まず〈人間〉《ヒト》の〈器〉《こころ》を捨て去ってから来るといい。深海と天空が異なる理屈で統べられているように、万象を理解できるものはやはり万象そのものに限られるんだよ」 「〈人間〉《ヒト》は〈己〉《ヒト》に、君は〈柊四四八〉《きみ》にしかなれない。だから〈阿頼耶識〉《わたし》も同じこと、〈盧生〉《きみ》が受信できる情報を伝えるためのあくまで“窓”に過ぎないのさ」 「この身に知識や人格を定義するのはその時点でお門違いだよ」 「この世のすべてには普遍に広がる理屈がある。因果という逃れ得ぬ鎖がある。混沌の中にさえ不明瞭という法があるんだ。よってそれは、君に生じた歪みにとってもそうだった」 「なぜ死を経験することが歪んだ夢を元へ正すことに繋がるのか……それは柊四四八に嵌められた〈救世主〉《イェホーシュア》という型が、強く機能した結果である」 「名前の由来が逆説的に、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈名〉《 、》〈付〉《 、》〈け〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈意〉《 、》〈味〉《 、》〈を〉《 、》〈な〉《 、》〈ぞ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》と思えばいい。つまり君は邯鄲の夢において、ヨシュア記を紡がなければならなくなったというわけさ」 「〈真奈瀬〉《マナセ》、〈我堂〉《ガド》、〈龍辺〉《ルベン》を従えカナンを目指す。他にも〈芦角〉《アシェル》や〈壇〉《ダン》、〈幽雫〉《ユダ》がいるんだ」 「全部が全部じゃないとはいえ、こうして見ればなかなか嵌っているだろう。相応に博識な君のことだ、これらの名が持つ意味は分かるはず。いわゆるヨシュアの眷属だよ」 「そしてヨシュアはセラの地で死に、そこで神の使徒として完成する」 「だから〈水希〉《セラ》の起こした因果によってどこかで死を迎えない限り、〈四四八〉《ヨシュア》の旅は終わらないのさ。すなわち私に──第八層まで辿り着けない」 「けれど、それもこうして果たされた。おめでとう、君は〈約束の地〉《カナン》の踏破を完了した」 そう、だから── 「残る関門はあと一つ」 俺たちを取り巻いていたすべての真実、隠されたもの……それらを知り、噛み締めた上で心と身体を奮い立たせた。 迷いはない。今度こそ戦真館の皆と共に、本当の朝へと帰るんだ。 「第八層攻略の条件は何だ?」 「〈私〉《アラヤ》を理解すること。それのみだよ」 「そしてそれは、甘粕のように単独で八層に到達すればもうその時点で完了している条件なのさ。だが君は眷属と共にここまで来た、ゆえに〈阿頼耶識〉《わたし》に対する理解もまた分散するかたちになっている」 「自らの器に水を一滴ずつ入れていくか、別の器からまとめて一気に注ぎ込むかの違いといえば分かりやすいかな。夢を現実に持ち出すためには、君の眷属が体験した時間感覚をここで太源に統合しなくてはならないんだ」 「こんな風にね」 「────ッ」 瞬間、自分以外の心象風景が次々と俺の中に流入してきた。 世良や晶、歩美に我堂に栄光、鳴滝。そして戦真館のみならず、狩摩や百合香さんといった他の眷属全員分の経験が自壊すら構わないという勢いで無遠慮に飛び込んで来る。 自分以外が感じていた彼女の想い、彼の想い、あいつの野望に腹の中……それが濁流のように押し寄せてきて、気を抜けばそのままバラバラになってしまいそうなほど自分の中で荒れ狂っていた。 「ぐ、ぅ……ぁ──」 軋む、痛い、砕けそうだ。まるで雪崩を茶碗で受け止めているかのよう。 歯を食いしばり膝をついてなるものかと身体を支えたのは、同時にこれが避けられない試練だと理解していたからだった。普遍無意識の影もその革新を見届けながら何事かを言っている。 「どうだい、なかなかにきついだろう。これが分散歴史の統合だ」 「君は五層や六層を一つ越えるごとに一ループをしているわけだが、その時代から二十一世紀に至るまでの詳細な記憶がないだろう。歴史の授業で習った程度のことしか知らない」 「なぜなら君は、自分が二十一世紀の人間だと思い込んでしまったからね。ゆえに区切りごと〈未来〉《あさ》へ帰るようになってしまい、現状は二十一世紀で一生を送った歴史をループ回数分持っているだけだ」 「しかし、明治大正からの百年が空白なわけでは決してない。そこでの歴史分岐と記憶は主に狩摩や辰宮が受け持っているし、君らも先の理由によって認識がだいぶ薄くなったとはいえ〈毎〉《 、》〈度〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈を〉《 、》〈通〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》」 「邯鄲の夢で経験する歴史の中に穴はないんだ。これの統合がどれだけの数字を弾き出すことになるか分かるかい? 人生として考えてみればいい」 「……………」 言われ、俺は言い訳できない恐怖を覚えた。俺や晶たちが二十一世紀で一生分送った歴史にそれらが足され、さらに人数とループ回数分が掛け算されたら、楽に万を超えてしまう。 「ああ、それと言い忘れていた。これには部分的だがキーラと鋼牙兵の歴史記憶も含まれる。彼らは今、言ったように甘粕の眷属だが、そうなる前は紛れもない君の眷属。よって外すわけにはいかない」 「鋼牙機甲獣化聯隊約三千名……彼らの〈歴史〉《じんせい》をたとえ一端といえども背負わなければいけない責任が君にはあるんだ。ゆえに歴史の密度はまた膨れ上がる」 「なッ……」 それではもはや、俺が纏めなければいけない時間はどれほどのものになるというんだ。 「それくらい生きなければ、人類は〈阿頼耶識〉《わたし》を理解することができないんだよ」 「そして仮に、そこまでの時を生きることが出来たとしても、真っ当な自我を保てる人間なんてそういない」 「その可能性を持っている人間こそ、君たちは盧生と呼んでいるんだ」 「辛いというのはよく分かる。眷属は基本三人以下で挑むのが現実的な攻略手段だ。僅かな周回で第八層まで辿り着けたのは凄まじい快挙だが、常態で十四・五人、瞬間では三千以上もの大所帯で来ているからには、かつてない域まで統合の難易度が跳ね上がっている」 「参考までに教えておくが、甘粕は一周百年の設定で五百周はしているよ。君はこれに匹敵する歴史の密度を眷属たちとの統合で成さねばならない。言うまでもなく、試練だね」 それが複数での邯鄲制覇における最大の難点。早く攻略できる可能性がある反面、最後の最後が非常に難しいということで帳尻が合っている。 「ただ、君たちには否応がなかったからね。もたもたしていたら〈震災〉《くうぼう》が目覚めてしまう。リスクを承知でその決断に踏み切るしかなかった」 「苦痛なんて序の口だよ。本番はこれからだ」 「ああ、やってくれ。覚悟はとうに済んでいる……!」 いまさらこんな苦痛がなんだという。死に瀕する激痛なんて、何度も耐えてここに来たんだ。 この最終局面で根を上げるなんてするはずもなく、そしてこいつも俺はそれを超えるだろうと思っているのが伝わった。そのうえで本番と言ったのなら、おそらくより困難な試練が襲い掛かってくるんだろう。 感じた懸念は正しかった。 「この統合作業がどういう形になるかは、辿り着いた君次第」 「大事なのは、その盧生にとって最大の困難、弱点。不可能ともいうべき事象を乗り越えなければならないんだよ」 「君にとって単純な痛みに耐える程度のことは、辛くはあっても無理じゃない。見れば自信もありそうだし、最大の困難ではない以上、これから別の形に変貌する」 「盧生の故事を思い出そうか。要は悟ることが大事なんだよ」 「で──いったいそれは何だと思う?」 「柊四四八、君自身が絶対に不可能だと、自分自身で痛感している難題は」 俺が俺である限り、天地がひっくり返っても成し得ないこと…… 苦痛は当然、我慢できる。甘粕や空亡といった強大な敵に立ち向かう恐怖についても克服できた。並大抵の困難を一通り体験した後だから、それこそ諦めやそこに通じる負の感情とは一通り対処の仕方を学べていた。 仁義八行、それぞれの階層へ挑む過程のなか、俺は確かに自らの夢と心で壁を乗り越えてきたと感じている。 だが、それでも──ただ一つ、まだ胸の中に刻まれた澱みがあるなら。 紛れもなくあの男の存在に他ならないと、自覚して。 「……まさか」 最悪の想像に到達して、俺は知らず身震いした。冗談じゃない──〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈不〉《 、》〈可〉《 、》〈能〉《 、》〈だ〉《 、》。 「──その通り」 そう思った瞬間、体表が剥がれ落ちていくかのように〈阿頼耶識〉《アラヤ》の姿が変わっていく。 知らず一歩後ずさりしていたのは、不安で不安でたまらないから。 輪郭が出来上がる。存在感が確固としたものに入れ替わる。アラヤが奴の皮を被っているというのではなく〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈本〉《 、》〈人〉《 、》が、俺の眼前へ配置されていくのがなぜかわかった。 これは紛い物でも幻でもない。この身を蝕むおぞましさが単なる影であるものか。 「では始めようか、四四八」 独尊を露わにして柊聖十郎が再び第八層に降臨した。 怒り、憎しみ、憐憫など、そうした負の感情を持って対する限り、絶対にこの男は斃せない。 それを越えろとはすなわち、一つのことしか思い浮かばず…… 最後の試練は……アラヤよ、俺にこいつを許せと言うのか? 「馬鹿な……!」 出来るわけがない! だが、それをしなければ…… 俺は真に盧生として不適格だと理解して、ずっと目を逸らしていた一つの事実に気づいてしまう。 〈柊〉《 、》〈四〉《 、》〈四〉《 、》〈八〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈外〉《 、》〈道〉《 、》〈を〉《 、》〈憎〉《 、》〈み〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈て〉《 、》〈仕〉《 、》〈方〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。聖十郎の血が流れているという現実を、忌まわしい呪縛のように感じている。 俺の親は母さんだけ。あの人の愛情で育ってきた。それを誇りにしている反面、奴の欲望によって生まれたというすべての事実をただの一度も認めていない。 憎しみを捨てきれずどうしても惑ってしまう浅ましさに、心が強く打ちのめされた。つまり俺は、〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》〈の〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈を〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈心〉《 、》〈の〉《 、》〈底〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈願〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。これを傲慢と言わずになんというのか。 この排他心にだけは嘘がつけない。そしてこの他者を憎悪する祈りにおいて、俺は柊聖十郎と何も変わらない畜生じゃないか。 如是畜生発菩提心──そうだ、柊四四八こそ力があるだけの小物。 本当に改心させないといけない〈畜生〉《ケダモノ》は、〈聖十郎〉《ちちおや》を拒み続けた他ならぬ自分だった。 獣は己の血統に誇りなど抱かない。ゆえ逆説的に、二親を認められない者など人ではない。 その過ちと愚かさを痛感したから、変わらなければと思うが……しかし。 「急段、顕象──いいぞ、俺の役に立て」 「おまえは俺のためだけに生まれ、生かされているのだから」 憎しみの〈呪縛〉《きずな》を受け、逆十字が再び猛毒の瘴気を振りまく。 嗤う聖十郎に自分の顔が重なって見えた気がして…… 俺は絶望の底へ落ちながら、いま邯鄲の夢最後にして最大の試練に直面した。  人の姿が見える。  それはこの刻限としては珍しいこと。  本来誰も境内にはいないはずの深夜、二人の男が何やら揉めている。片方はどこか切羽詰まった気色を醸しており、対するもう片方は何処吹く風の態を崩さない。 「そろそろ終わりにするんだ、セージ。 おまえが固執していることは、俺にだって少しは分かるつもりだ。だがそれでも敢えて言わせてもらう。  そのやり方では、先などないとな」  巨漢の影は真奈瀬剛蔵。そして、差し向かいに立つのは柊聖十郎。  先程から口を開いているのは剛蔵のみであり、彼の声だけが闇夜の中へと消えていく。 「おまえの持ち得ないものをいくら抱えたところで、それはおそらくなんの足しにもなりはしないんだ……もう、気付いてるはずだろう。  無駄なことはやめておくんだ。そんなことをして、求めた物を得たところで……誰が幸せになれるというんだ?」 「決まっているだろう、俺が喜ぶ。   いつもながら、貴様の話は要領を得ないな。それだけならば俺は行くぞ」  熱の籠もった口調の剛蔵に、ようやく言葉を返す聖十郎。  しかし両者の間に会話などは成立していない。聖十郎は剛蔵の発言意図を汲む素振りなどまったく窺わせない所作で、一方的に踵を返した。 「待て、セージ」  境内より立ち去ろうとする背中に、再び掛けられる剛蔵の声。  聖十郎は僅かに振り返り、なんの感慨も宿していない声で告げる。 「これは驚いた。 俺の意に反した行動を取るか。どういうことだ? 分からんな。失われた存在が口など利けるはずがないだろうに」 「ああ、俺にもどうなっているのか説明はできない。  ただ、四四八くんたちが心配で──」 「心配?」  問い返したその表情は、さらに要領を得ないといったもの。  挑発でも愚弄でもなく、剛蔵の発した言葉の意味をこの男はまったく解していない。  なぜなら、〈他〉《 、》〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈立〉《 、》〈場〉《 、》〈を〉《 、》〈慮〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈精〉《 、》〈神〉《 、》〈性〉《 、》〈が〉《 、》、〈目〉《 、》〈の〉《 、》〈前〉《 、》〈の〉《 、》〈剛〉《 、》〈蔵〉《 、》〈に〉《 、》〈残〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》──  その類の感情は、〈と〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈昔〉《 、》〈に〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈奪〉《 、》〈い〉《 、》〈取〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  そう訝るような聖十郎の視線を察し、剛蔵は目に意志を込めて正面から見据え返した。 「おまえには理解できんよ、俺の気持ちというものはな」 「構いはしないさ、世迷い言に耳を貸さずとも、俺は何も困りはせん」  眼前の剛蔵が自分に会いに来た理由──それは取りも直さず、消失したはずの己を求めてということになるのだろう。  惚れた女の息子の為か、と聖十郎はごく無感動に大凡の当たりを付けた。  これまでの人生、柊聖十郎は自分の有する感覚をもってしか世の中というものを捉えていない。  人の感情というものが理解はできる。己の発言がどのような効果をもたらすかも分かっている。ただ、その結果になんの興味も抱けないのだ。  ゆえに放言し唯我に振る舞う。なぜならば、それで如何なる問題もありはしないという彼なりの帰結が待っているから。 「──なんにせよ、貴様にはもはや情など残っていないはずだがな。   ただ取り返したいというだけだろう。乞食の所行だな、浅ましい」  そう、手に取るように理解できる。  剛蔵にとっての奪還すべき存在とは── 「どうせ恵理子だろう? 不格好に、延々と拘り続けているのは。   貴様はずいぶんと熱を上げていたからな。実にくだらん、時間の無駄だ。   あれが俺にどれだけ惚れていたのか、知らないわけではないだろう」 「………………」 「それとも何だ、そういう趣味か。 だとしても一緒だ、付き合ってはいられない」  その言葉は結果的として剛蔵の精神を煽ってこそいるものの、決して聖十郎は愉悦を求めているわけではない。  相手を嬲る意図などなく、客観的にどれだけ想われていたかというのを告げているだけ。それは実際に起こった事実そのものなのだから。 「俺にとって、あの女はたかが道具だ。知らないわけでもないだろう」 「そういう言い方をするのはよせッ」  剛蔵が短く反撥したのは、恵理子が道具呼ばわりをされたゆえか。  馬鹿馬鹿しい──そう言いたげな表情を露骨に浮かべて、聖十郎は虚空に己が掌を翳した。  現れたのは彼の妻……柊恵理子が燐光に包まれて静かに顕現する。  前触れもなく起こった超常の現象に剛蔵は言葉を失い瞠目する。裸身を晒す恵理子に聖十郎は一瞥をくれて口を開いた。 「いくら女に縁遠い貴様でも、見れば分かるだろう。  これは既に命を宿している。自ら腰を振り、男の情けを自らの胎内に求めたその結果としてな。  我欲を通し、俺に使われるのを承知の上でだ──これが道具でなくてなんだと言う?  俺のために、ただ産むんだよ」 「何か喋れよ。一丁前に堪えたか。  しょせん、貴様の行動は妄執ゆえのものでしかないということだ。それを諾々と飾り立てて己に言い聞かせているに過ぎん。 ああ、実にくだらん」 「違う──俺自身が納得できないというのはもちろんあるさ。だが断じてそれだけじゃない。 恵理子さんの、そして何より、お腹の子のために……」 「誰かのためとは笑わせる。答えに窮したときの貴様らはいつもそうだ。  だが届かんよ、欺瞞に満ちた言葉など。どうしても俺を否定したいというのならば── そのご大層な愛とやらで、恵理子を取り戻してみせればいい」 「ん……ああぁ…… 聖十郎さん、愛しています……」  恵理子の発した言葉は、彼女が精神的な盲目の状態にあることを何より雄弁に物語っていた。 「ずっと……ずっと傍にいて……あなたがいなくては、私…… お願い、聖十郎さん……」  それはまるで〈睦言〉《むつごと》。  恵理子は聖十郎しか見えていない。視界には剛蔵も収まってはいるはずなのだが、気に掛ける様子すらなく路傍の石に等しい扱い。  壊れた蛇口であるかのように、ただ一方的な愛の言葉を繰り返す。  あたかも、この恵理子はそれしか知らないかのように。  愛以外の感情が無い。いや、愛だけを抜き取って結晶化したかのように。 「どうだ、この白痴にも似た姿は。俺から見れば紛う事なき道具であり、他の何でもありはしない。 いっそ滑稽だよ。恵理子も、貴様もな」 「ああ、確かに言う通りなのかもしれん── しかしそれはすべてなんかじゃない。まだ何も終わってなんかいないんだよ。  セージ、おまえだって分かっているはずだろう?」  眼前の光景にも屈さず視線を上げる剛蔵。  聖十郎は鼻白んだように嘆息し、おまえは役に立たんなと小さく呟いた。  それを受けて、刹那――  先と同じ、燐光を発する聖十郎の手から現われたのは真奈瀬剛蔵。  それはまったくの同一人物としか思えぬ姿で、有り得ない光景に他ならない。加え、当の剛蔵本人さえもう一人の自分になんら驚いていない様を見れば、狂った事態としか言えないだろう。  夜は長く、そして深い。それはいつの時代にも同じことであり、ユメは明けることなく続く。 時刻は真夜中── それぞれが別の部屋に分かれて眠りに就いた俺たちだったが、夢の中で全員が顔を合わせるには至らなかった。 これまで睡眠に落ちると同時に足を踏み入れていた邯鄲の地──しかし今夜に限って、その法則は適用されなかったのだ。 「どういう、ことだ……」 夢に入らなければならない──自ら掲げたその目的に急かされるようにして目を覚ます。 これまでなんの苦もなく夢には入ることができていた。だが今は、まるで拒絶されてしまったかのように現実世界に取り残されている。 前触れすらない唐突な変化……それは、この世界が変容を見せてしまったことと無関係だとは思えない。 だとしたら、邯鄲にはもう戻れないというのだろうか? 今後の対策、手の打ち所はいったいどこに置けばいい? 一つ大きく息を吐く。ともあれ一人で考えを巡らせても碌な思考には至らないだろう。皆の状況がどうなっているかを確認する必要がある。 「──────」 「四四八くん……」 客間の方へと向かえば、やはりと言うべきだろう。そこには栄光と歩美の姿があった。 こいつらも夢へと入る事ができずに戸惑っていたようで、その表情は現状に対して不安を覚えているものだった。俺は確認を取るために声を掛ける。 「おまえたちもか」 「ああ。一度眠ったら、そのまま意識が途切れていってよ……」 「普通に眠れちゃったよね。まるで、邯鄲の存在なんて知らなかったころみたいに」 「四四八くん、これってどういうことか分かる? 今までに明晰夢を見なかった日なんてないって言ってたよね」 「そうなんだ。だから俺も、現状のような事態は初めての経験になるな」 奇妙な言い回しになるが、邯鄲の中では“普通”に眠れていた。それは明晰夢の中で明晰夢を見るわけがないという当たり前の結果だけど、そうした意味で俺が現実に“普通”の眠りを体験したのはこれが初ということになる。 「このタイミングで夢から弾き出されてしまうというのは、どうにも碌な心持ちとはいかないが──」 俺たちの声を聞きつけたのか、世良と鳴滝、そして晶もやって来る。どうやら全員が邯鄲の世界に至れなかったのは確定のようだ。 「おい鳴滝、おまえらもかよ……」 「ああ。ぷっつりと意識が途切れて、それっきりだ」 「寝ちまったのと同時にどうしてだよって思ったのは、まあ今回が初めてだな」 本当に、これではまったく手の打ちようがない。あの芦角先生が僅かの躊躇すら見せず俺たちに銃口を突きつけてくる世界だ。一眠りしてまた明日、などと悠長なことをやっている余裕はないだろう。 「それにしても、これが普通の睡眠というやつか。意外と据わりの悪いものだな」 「そりゃ、今の状況ならそうだろうね……ここで柊くんにぐっすり眠られても困るし」 ああ、まったくだと俺は頷く。とりあえずのところ、現状の把握を進めていかなくてはならない。 今日に限って安眠を貪るというわけにはいかないんだ。変わってしまったこの世界に放り出されたままでいいはずなどないのだから。 「まずは俺たちの側の確認からだな。みんな、夢に入る際に必要なものは持っているか?」 「四四八くんに渡されたアイテムでしょ? はい、これ。ハンカチ」 「あたしも持ってる」 「俺もだな。いつもと変わらねえ場所に置いて寝てたぜ」 予想はしていたが、こちら側はほぼ変わりはない。どころか、より確実にさえしようとしたのだ。 母さんが死んで以降、俺のアイテム――歩美流に言えば〈認証〉《パス》の有無は実質必要なくなってはいたものの、今回は不安もあって皆それを使用した。にも関わらず夢の中に入れない。 ならば要因は他にあると考えて、まず真っ先に思いつくのは一つだけだ。 「あのとき聖十郎に吸血されてしまったことと、何か関係があるのか……?」 あれほど奇妙な、意図の見えない行為をされたにも関わらず、これまで特に異常を感じられなかったのがやはりおかしいことだったんだ。その効果が、今こういう形で現れたと見るべきだろう。 「……答えにくいことかもしれないけど、あんな風にして血を吸われて、柊くんの体調はどうなのかな。今こうしてて、普段とは何か違うなってところはあったりする?」 「それが、すぐには思い当たらないんだ。俺の感覚で言うならば、そんなに影響はないようにすら思える」 「無論、長期的な目でみればまた何か違うのかもしれないし、今ここでまったく大丈夫というのは言い切れないところもあるが──」 世良が口にした疑問に、己の調子を確認しながら俺はそう答えた。 これは強がりでもなんでもなく、以前までの自分と変わったところは特に何も感じられない。 よって今、現れている異常が夢に入れないことだとした場合、聖十郎はなぜそんなことやったんだ? そこが皆目分からない。 「どうして……こんなときに、夢に入れなくなるんだよ。くっそぉ……」 「世界がどうにかなっちまったっていうんなら、何かしないといけないのによ。あんなハナちゃんとか、誰が見たっておかしいだろ……」 「実際、ヤバいのは俺らだけじゃないかもしれねえぞ」 「街中探しても捕まんねえんだったら、次はそれぞれの自宅に押し掛けるだろ。んでもって、とりあえず家族を拘束だ」 「その可能性は高いよね。っていうか、そうしない理由がない」 「わたしたちの家にも、とっくにハナちゃん先生の命令を受けた人たちがいるって考えた方がいいかもね」 「ちょ、ッ……マジかよ……」 俺としてもそこを考えていなかったわけじゃないが、最優先すべきは夢に入って再度の改変を行うことだったので後に回した。というか、そうすることが唯一それぞれの家族を守る方法だったんだ。 しかし現状、こうなった以上は話がまったく変わってくる。 「そもそも家にも帰ってないんだし、親には心配はされてるだろうね」 「こうして考えてるだけじゃ、埒が明かないかも。とっくに洒落にならない事態になってる可能性だってあるんだもん」 「そういうのはやめとけ、龍辺。意味もなく不安になるだけだ」 「考え過ぎて得られることなんて、どうせ何もねえんだからよ」 この世界では自分たちはすでに反逆者のような扱いとなっている。 そうなれば── 「一旦、帰るしかねえだろうな。それぞれの家に」 「でも栄光くん、それって……」 そう言い淀んだ歩美の気持ちはもっともなものだろう。俺たちはあくまで、追っ手を逃れるために現在ここに匿われている身だ。 それが再び、自ら火中に飛び込もうというのだ。無謀に思うのは当然で、学園の生徒なりまたは警察なりが皆の自宅で張っている可能性はそれなりに高いはず。しかし。 「……様子を見て帰るくらいなら、できるかもしれないね」 「追っ手の人数も分散してるだろうし、私たちだったらよっぽど下手を打たない限りは撒けるはず」 「昼間は鈴子を庇いながらだったからな。誰かを守りながらだとか、そういうのがなけりゃ後れは取らねえだろ」 世良、そして鳴滝に俺は頷く。 ただでさえ予測のつかない状況の中、なけなしの戦力を分散させるのは本来であれば上手くない。 しかし、ここは夢の世界じゃない。紛れもない現実の日本であり、危険が待ち受けているとは言ってもそれぞれの裁量である程度は対応が可能だろう。 俺たちは戦真館でそれなりの期間、教導を受けている身であり、基本的な格闘技術や隠密行動くらいであれば各々が苦もなく可能となっている。よって多少誰かしらに追われても対処は出来るだろう。 戦闘能力には個人差があるものの、もっとも体力のない歩美でもそうそう一般市民に組み伏されることはないはずだ。 しばしの間、俺たちは静まり返る──それを破るように栄光が口を開いた。 「やっぱみんな、家に戻ってみようぜ。別に無事かどうかって話し込まなくたって、チラッと顔を確認するだけでもいいんだし」 「なんだかんだ言っても、やっぱ親とか心配だしよ」 素直に吐露したその言葉は、皆の偽らざる心の内。家族の身を案じない奴なんて、この中にいようはずもない。 そしてそれは俺も同じ。今や天涯孤独の身ではあるが、そうだからこそこいつらの気持ちが痛いほど分かる。 意志の統一は図られ、俺たちは誰からともなく立ち上がった。確認するまでもなく、隠密行動は闇に紛れて行うのが大原則。たとえ相手に行動を読まれていたとしてもそこは変わらない。 有事の際、敵の視界を眩ませられる可能性が高い時間帯を選ばない理由などなかった。ならば今、可及的速やかに動き出した方がいいだろう。 「いいか、この家を出たところから別行動だ」 「迅速をもって行動。己の安全確保が第一で、危険を感じた場合にはすぐ離脱しろ。相手の深追いだけは絶対にするな」 「再集合の場所は、いつもと同じく八幡だ」 ここもおそらくは変えない方がいいだろう。誰にとっても目立つ場所ではあるものの、慣れない待ち合わせをして手間取るよりは土地勘のある方を選択したい。 八幡は開けた場所でもあるし、たとえ追っ手が集まってきても易々と袋小路に追い詰められる心配もないだろう。敵の懐に誘引されることをこそ今は避けるべきだった。 頷き合い、一同は玄関へと向かおうとする。そんな中、俺はこれまでにほとんど口を開いていない晶を見た。 どこか表情は憂鬱そうで、それも当たり前というものだろう。こいつは剛蔵さんのことを口では気にしていない風に言っていたものの、そんなわけがないことくらい知っている。 晶が心配していないはずがないんだ。普段からいろいろ言い合っているあの二人ではあるが、その親子仲なんてものは少しでも見ていればすぐに分かるというものだから。 ましてや俺がどれだけおまえと一緒にいると思っている。眠る前にも言った通り、こいつを放っておくことなど出来ない。 「晶、ちょっと待て」 声を掛ける俺に、足を止めてじっと見上げてくる晶。その視線はやはりどこか力が籠もっていないように感じてしまう。だから。 「俺もおまえと一緒に行く。いいな」 「え? あ、ああ、そりゃあたしはいいけどよ──」 「俺の方なら心配はいらん。家には誰もいないんだ。なら、おまえの所の方が気になるよ」 「剛蔵さんには、昔から世話になりっぱなしだからな。突然いなくなったという今の状況で、無視を決め込めるほど俺は薄情じゃないよ」 「いいのか? 本当に……」 「ああ。こういうときくらい頼ってくれ」 そう、傍にいておきたいのだ。 剛蔵さんのことも影響しているのだろう、今の晶を一人にしておくのはやはり些か心許ない。普段に比べて明らかに注意力が散漫になっているし、ここで急襲などあろうものなら一巻の終わりだ。 ならば俺がこいつを家まで送り届けるのは、幼なじみとして当然の行動だというものだろう。 「……ありがと、四四八」 「悪いな、気ぃ使わせちまって。いろんなこと片付いたら、絶対埋め合わせするからよ」 こんな俺の行動でも、少しはいい方向に作用したのだろうか。晶は僅かだけ明るさを取り戻したように感じられる。 その笑顔のためなら頑張ることができる──何を差し置いたって、俺はそう思うから。 「よし、それじゃ行くか」 別れ際、皆の顔は一様に切迫感を帯びていた。普段はなかなか気付かないものだけど、やはり家族というものは拠り所なんだ。 このような事態に陥って初めてそういうことを意識するのは、やはり俺たちがまだまだ大人に成り切れていないことの証左なのだろう。 先程からしばらくの間、俺と晶は極力気配を消したまま街中を移動している。こちらに敵意を抱いている勢力には何者たりとも遭遇はしなかった。 全方位に対して警戒を働かせていたが、尾けられているということもなさそうだ。遠くで赤色灯の光を見た気がしたが、その一帯は避けて先を急ぐ。 全速力で走れないのがもどかしい。今は何よりも早く、剛蔵さんの安否を確認したいというのに。 俺たちは可能な限りの速度をもって真奈瀬家へ向かい、そして── 到着したそこには、誰の姿も見えなかった。 静謐と呼ぶには不穏に過ぎる無音が、蕎麦屋の店内には満ちている。この場がただ夜の闇に落ちているというのみならず、そこからは主の不在というものが感じ取れたからだ。 人の住む場所、集う場所には必ず息付いている生気というものがここにはない。あるのはただ、寒々しい印象だけだ。 「親父……」 「どこに行ってるんだよ、くそっ。こんなときに」 「なあ四四八、親父大丈夫かな。今まで一度だって、こんなことなかったのに」 「落ち着け、晶」 そう落とした声を掛けるも、晶は動揺を抑えられない。胸の内に渦を巻いていたのだろう不安と一緒くたになって口を衝く。 「何かするとき、どっかに出掛けるとき……あのハゲ、いつもあたしに言うんだよ。そうじゃなかったことなんてないんだ、小さな頃から」 「それが、どうして……もしかして、親父も花恵さんみたいになってんのかな」 「あんな誰だか分かんなくなって、いや、それどころか──」 「晶ッ!」 「──────」 「剛蔵さんを心配するおまえの気持ちは、よく理解できる」 「……いや、俺も同じなんだ。理解するだなんて他人行儀な感情じゃない」 「だけど、連絡の取れない今だからこそ、俺たちは剛蔵さんを信じるしかないんじゃないのか」 「信じる……」 「ああ、そうだ。あの人が、おまえや俺を裏切ったことはあったか? なかっただろう。それはこれまでにただの一度だってだ」 「あ……」 「だったら──ここは、信じてあげなきゃいけない場面じゃないか?」 暗闇に落ちた店内で、ゆっくりと諭すように言い聞かせる。 いつも優しく、風貌こそ強面のそれでありながら、その所作には隠しきれない父性を感じさせる剛蔵さん。晶にはいささか甘いところもあるが、それでも彼の情けない姿などは今までを通じて見たことがない。 頼れる大人なのだ。そう、それこそ自分の父親であってくれればよかったと思うほどの。 やがて、感情の昂ぶりが落ち着いてきたのだろう。晶は少しばつが悪そうに俺を見上げて口を開いた。 「あぁ、悪かったな四四八。なんだか駄々っ子みたいによ」 「そうだよな、おまえの言う通りだ。あのハゲが今どんな用事抱え込んでんだかは知らない……けど、必ず戻って来る」 「今まで、親父がそうでなかったことなんてないんだから」 「ったく、帰ってきたらきつく言ってやらなきゃな。おまえ、家空けるんだったらせめてメモくらい残してからにしてくれってさ」 「心配、しちまうだろがって──」 まだ多少の心配はあるものの、晶はどうにか己を取り戻した様子であり、これならとりあえずのところは大丈夫だろう。 俺はいつの間にか入っていた肩の力を抜いて、冗談めかして晶に言う。 「本当、しっかりしなきゃいけないぞ。今はおまえが、真奈瀬家の柱なんだ」 「小さい頃からそうだったよな、晶は。普段から跳ねっ返りのわりには、剛蔵さんがいなくなると途端に不安になって周りを探し出す……」 「そんなんじゃ、剛蔵さんも安心してこの店を任せられないぞ?」 「なっ──よ、四四八までそんなっ」 「あたしはそういう、ファザコンとかじゃないっつうの! ああ、心配なんてしてないさ。いつでも好きなときに戻ってくればいいっ」 ──そう、戻ってきてくれればいいんだ。それだけで。 いささか言い過ぎたか、拗ねた晶を宥めながら俺たちは真奈瀬家を後にする。次にここへ来るときは、すべてを解決した後だということを心に誓って。 そして…… 合流場所である八幡へ向かう途中、並木道には皆の姿がすでにあり、俺たち二人に手を振ってきた。 「おーい、四四八くぅん」 「こっちだこっち」 「おまえたち、みんな無事だったか? 何か変わったところは──」 「うちは特に異変なしだね。みんなのところもそうみたい」 「お父さんとお母さんに、なるべく外には出ないようにって言っておいたけど……どうだろうね」 「事情を説明できないのもあって、万全の警戒をするのは無理があるって感じだったよ」 歩美の言葉はその通りで、自分たちの家族を守ろうと思ったら、それこそ俺たちが目を離さず傍にいるくらいしかないだろう。 しかしそれすらも、早晩無理が来ることは目に見えている。二十四時間の警戒を張っていることなどできはしないのだから。 すなわち、現状の打破および解決こそが大切な人たちを唯一守れる方法に他ならなかった。シンプルな図式でこそあるが、それゆえに俺たちに圧し掛かった責任は果てしなく大きい。 「それで、真奈瀬のところはどうなってた」 鳴滝の問いに首を振る晶──それでも、落ち込んだ雰囲気はその表情に漂っていない。 剛蔵さんと会えなかったのはもちろん残念だが、状況としてはつまるところ昼間と何ら変わりがなかったということになる。 そして、それはある意味不幸中の幸いなのかもしれない。俺たち絡みの事情で何者かに拉致されたというわけでは、少なくともないのだから。 だが── 「皆のところに大過がなくて、本当に良かったと思う。しかし、疑問もある」 「どうして、芦角先生を始めとする一派は俺たちの自宅に張っていないんだ?」 こうして口にするまでもなく、それぞれの家に待ち伏せをしておけば捕縛の可能性は飛躍的に上がったことだろう。 現にこうして俺たちは危険性を把握していながらも家族の安否を確認しに行ったのだから、効果は何よりも覿面であると言える。 どんな人間にも甘さというものは存在し、それを漏らさず捉えるメソッドを有しているのが、警察であり国家権力というものだろう。俺たちの浅知恵でそのすべてを簡単に抜けられるなどとはこちらも思っていない。 だが、芦角先生は今回それをしなかった──迂闊などではないだろう。あの人はそこまで抜けていない。 万事に無気力という表面的なキャラクターで覆ってはいるが、その内実はできる人であって万事に敏い。俺たちが知っている頃の先生でもそうだったのだから、今の彼女はもっと鋭くなっているはずだろう。 そう思って、嫌な予感が背筋を走る。何がどうだと説明はできないが、これはまずいと直感していた。裏に何か、禍々しい意図があるような気がしてならない。 言葉にするのは難しいこの胸騒ぎを、皆に持ち掛けようとしたそのとき。 「……おい、今なにか聞こえてこなかったか?」 「境内の奧の方からだ」 「たぶん、あっち──」 俺たちの耳に届いたのは、八幡方面から聞こえた人の苦鳴だ……間を置かずして、激しい破壊音めいたものまで響いてくる。 事故か、事件か。いやそれよりも、なんと言い表せばいいのだろう、この本能に訴えかけてくるような説明不能の悪寒は。 「とにかく行くぞ、放ってはおけない」 今は目の前の異変に対応しなくてはならない。胸騒ぎを抑えつつ、俺たちは音がした方へと走る── そこで見た光景に俺は一瞬当惑し……そしてすぐ激しい嚇怒の念が込み上げてきた。 「お、親父──」 「貴様はっ……!」 境内の石畳に倒れているのは剛蔵さんだった。 相当の暴行を受けたのか、立ち上がることもできずに目を固く閉じ呻いている。そんな彼の姿に打ち震えながら、しかし俺はもう一人の男から目を離せない。 そう── 「柊、聖十郎ッ……!」 さもつまらなそうに俺たちを睥睨しているのは、長身に白いスーツを纏った怨敵とも言える存在。その怜悧な色を浮かべる瞳の持ち主はただ一人。俺が忘れるはずなどない。 柊聖十郎がここにいる。 「呼びもしないのに、また煩いのが来たか」 「ッ──────!」 激情のまま反射的に飛び出しかけて、しかしそれでは以前の二の舞だという思考が浮かび、そして同時に理解する。 そうだ、ここは現実の現代日本。ならばこいつが存在するのは何も不思議なことじゃなく、不意に遭遇したインパクトが強すぎて一瞬忘れていたが、これは最大のチャンスだろう。 俺たちと奴、彼我の間に絶対の壁を作っていたのはあまりに隔絶した実力差に他ならない。残忍、冷酷な性情も無論のことありはすれど、奴を前にしてこの身に全力の警戒が喚起される一番の理由は、シンプルに不均衡極まる力関係だったと言える。 その根拠自体が、夢を行使できないこの現実では無くなっているんだ。つまるところ、俺たちとあいつの差は邯鄲で戦うよりも間違いなく詰まっている。 夢をこちら側に持ち出せるようになるのは八層に到達しなければならない前提条件が存在する以上、それは当然のことだろう。 この現状においても幾らかの差はあるかもしれないが、それはあくまで人間としての範囲内。少なくとも、国家権力を向こうに回すよりはよほど御しやすいはずだろう。 これだけの人数がいればきっとやれるし、上手くすれば奴からこの世界に関する情報すら引き出せるかもしれない。 「退かないのか、馬鹿どもが」 「皆ッ──」 奴の口が開かれたのを契機として俺は叫んだ。意味と力を込めたそれに、仲間たちは瞬時にして気付く。 俺の中に内在している戦いの意志。そして、逃げないのには根拠があるということ。意思疎通とも言えない号令だったが、もうこれだけで俺にその身を預けてくれる。 視線を交す。分かり合う。そして拳を握り込み── 「行くぞッ、各自最大限に警戒しろッ!」 急加速の歩をもって俺は先行する。誰よりもこの男を打ち斃す姿勢を見せて場の全員を鼓舞するために。 「おおおおおおおおォォォオッ!!」 吠え、疾走する俺に合わせて皆が散開するのを感じた。的を絞らせず多角度よりの一斉攻撃を仕掛ける。 先手必勝の持つ意味は、夢の入り込まないこの戦いにおいて何よりも大きい。現実世界であるがゆえに、常識外の逆転要素など生まれようがないのだから。 ペースを取れた者が勝ち、戦の理を覆す反則など起こり得ない。至極当たり前なその論が、ここでより濃く機能する。 この遭遇が奴にとっても不意のものであったことは先の台詞からも読み取れるんだ。ならば好機を逃さず押し切ってやる。 並走し距離を詰めるのは鳴滝で、こいつも俺と同じ気持ちなのだろう。なんの衒いもない双方向からの剛撃が長身の鬼畜に襲い掛かる。 もはや回避は不可能、防御も不可能のタイミング── 「もらったッ!!」 しかし、聖十郎は動じない。 怯まず、どころか表情に僅かな変化すらも浮かべることはなく、まるで視界の端で蠢く虫を見下ろすかのような視線をこちらに向ける。 それはまったく取るに足りないという侮蔑の意志を感じさせ、瞬間―― 「致命的な頭の回転の鈍さだな。論ずるにも値しない」 「もういい、ここですべてを俺に寄越せ」 本能の域で危険を察した。歪な信頼にも似たその感覚が、反射的に俺を突き動かす。 「ッ、鳴滝やめろッ――まずい!」 「な──」 ──同時、眼前で衝撃波が炸裂した。 脈絡のないタイミングでの制止に咄嗟の軌道修正は効かず、それでも鳴滝はどうにか自らの進路だけを聖十郎から逸らしていた。そのため、直撃の位置で発生した爆発から寸でで逃れることに成功する。 「あっ、グ……!」 しかしすべてを完全には避けきれず、爆風にも似た攻撃の余波に側方へと大きく吹き飛ばされて転がった。 今、聖十郎が使った力は、間違いなく世の理から外れているもの。 「どういうこった──」 それでいて、確かに見覚えのある──邯鄲の夢に他ならない。 「なぜ……」 「馬鹿か。初めて見たわけでもあるまいに」 俺たちの混乱と戦慄に対し、聖十郎は面白くもなさそうに告げる。 先ほどこいつが使ったのはマジック──すなわち咒法の散であり、しかも激尽の威力を有していた。 まず問わねばならない疑問は一つ、なぜこの世界で夢を使うことができる? 夢の世界、遙か深奥まで至らなくてはその超常を持ち出すことは出来ない。それが俺たちの知っている大前提だったはずだろう。 言うなればルールのようなもので、それ事態が嘘だったとでも? いいや、そうは思えない。これまで幾多の戦に身を投じてきて、その大原則だけは真実だったと言い切れる。 血を流し、幾つもの命が失われた。仲間であろうとなかろうと、己を懸けたその信念は断じて嘘などではないだろうから。 しかし目の前の現実は──ここが夢でなければ起こり得ないことが、いとも容易く当たり前のように行われている。 「来るぞ、避けろォッ!」 攻撃が襲い来る一瞬前に叫び、仲間たちを動かした。さっきまでいた場所が抉れ飛び、続けて火砲にも似た爆発が巻き起こる。 その連撃は、もはや疑いの余地無なく夢の力。ならばもしや── 「ッ──────」 「駄目だ、やっぱり使えねえッ」 同じ考えに至ったのだろう、栄光がそう叫び俺を見る。ああ、こっちもやっているさ。現実世界でのユメの行使を。 聖十郎だけでなく、俺たちもここで邯鄲を行使できるか──そう思い、やってみるも待ち受けるのは当然の帰結。すなわち何事すらも起こらない。 混乱が伝播すると同時、一つの現実が俺たちには突き付けられた。好機だと思ったシチュエーションは、実のところまったく逆。 あちらは夢を有しており、対するこっちは丸腰だ。ならばこれより展開される光景はもはや明らか、絶望的な嬲り殺しとなってしまう。 一対六──たとえ夢でこの状況に持ち込もうが、彼我の実力差は向こうに軍配が上がるだろう。認めたくはないが聖十郎はそれほどの存在だ。 それであるにも関わらず、現在の俺たちは誰一人として夢の発動すらもままならない。言ってみれば六つの案山子で、ならばどうなるかなど自明の理。ただ撃ち抜かれるのみだろう。 一片の容赦もなく襲い来る衝撃波に、混乱を抱えながらも回避を試みる。 しかし俺たちの防御術を支えていたのもまた夢だ……戟法や楯法の強化系であり、それがなければ常人となんら変わりない。 戦真館で叩き込まれた格闘技能によって、未だ全員致命傷は避けているが、言い換えればただそれだけ。状況を覆す役には立たない。 「ぐ、ううゥッ──」 「あぁっ……!」 そしてそうなれば、順当に身体能力が低い者から潰される。夢を用いた戦闘であれば他の長所を活かして立ち回ることも可能だが、今はそれも不可能だ。 ゆえに栄光や歩美のスタイルは真っ向から否定される。戦う意志があろうとも、それが具現化できないのであれば話にならない。 「ちくしょォッ、どうすりゃいいんだこんなの──」 寸でのところで躱しながら、吐き捨てるように言う鳴滝。このままでは全滅するのも時間の問題だ。 致命の一撃を負ってしまえばそれで終わり。楯法の活による援護など、今は望むべくもないのだから。 ああ、このままではどうにもならない。今選択しうる最善手はなんだ? 世界の因果が、そして解決法が皆目読めず、静謐を湛える八幡宮は邪魔者の介在しない死地と化していた。 さりとて聖十郎はしてやったりの表情もなく、いつも通り不快そうに次々と破壊行為を重ねていく。 その怜悧な瞳が見据えるのは俺一人。 怨敵であり、斃すべき仇である柊聖十郎。しかしその視界に入るだけで腸が煮えくり返るような相手に、俺たちはただ追い詰められていくだけだった。 目の前に広がる光景は、まるで悪夢。 早く目が覚めろと願うしか、あたしたちにできることはない。 炸裂する爆発、その焼け付くような痛みは確かに覚えがある。 夢の中で何度となく味わってきた、マジックを喰らったときの衝撃と同じ。ここが現実の世界だということなんて、とっくにどこかへ行ってしまったかのようだ。 「避けて、晶ッ!」 「くっ──────」 咄嗟に防御の構えを取るものの、水希の言葉で我に返って間一髪回避する。 習性とは抜けないもので、つい楯法でどうにか捌こうと思ってしまった。あたしは先読みがそこまで上手くないし、水希の経験も鳴滝や四四八ほどの身体能力も持ち合わせていない。 だから堅の夢を活かしていこうと磨いてきたのだが、こんな状況でもそれが出てしまう。身体が自然と動くまでになったのはいいが、夢でないと意味なんてないのに。 喰らえばそこで即刻終わり、墓の下に直行コース。 だから、今まで味わったことのない強烈な緊張感が、あたしの胃を直撃していた。 安全だった現実の世界、それがこいつに侵される── あのときもそうだった。恵理子さんを残忍に殺して、あたしたちを非日常へと落とした張本人。 どうして、そんなことを平然と出来るんだよ、あんたは。 傷付くのは、誰だって辛いはずなのに── 「舐めるなァッ!」 「つああああああァッ!」 埒が明かない、希望の見えないこの状況をどうにか覆そうと疾駆する水希と四四八。 そのすぐ後ろには鳴滝が構える三位一体。夢が使えないというのなら、連撃で隙を強引に生み出そうという発想だった。 数での圧倒は兵法の基本であり、それはあたしも戦真館の座学で習った。イレギュラーな戦況に置かれたときにこそ、即時の応用を用いてその打破を狙う。 しかし聖十郎は眉一つ動かすことなく、ついと片手を軽く挙げた。 瞬間、まるでダイナマイトを投じたかのように爆ぜる空間。咒法を纏った聖十郎の拳に大気が震える。 「ッ、グウ……」 四四八、水希はなんとかそれを躱したものの、鳴滝は直撃を喰らっていた。鳩尾に突き刺さった衝撃で、その大きな身体がくの字に折れ曲がる。 「死ね」 「させるかああああァァッ!!」 横合いから栄光の特攻、だがそれもただの蛮勇に他ならず── 何も考えていない攻撃の軌道は、それゆえに対処も容易い。ほとんどモーションもなく放たれた裏拳が栄光の顔面に直撃し、嫌な音が聞こえてきた。 「ぐ、ああッ……!」 しかし栄光は怯まなかった。力業で強引に、聖十郎から鳴滝を引き千切るようにして確保する。 「ゴフ、ッ……くッそ……」 石畳の上に投げ出された鳴滝は苦悶の表情を浮かべていた。もはや身体を起こすこともままならず、口元からは血が伝っている。 まるで塵掃除だと言わんばかりに皆を蹴散らしながら、こちらへ歩いてくる聖十郎。その一歩一歩は、あたしたちにとって死への距離が縮まるのを意味していた。 気付いたら身体が震えている。情けねえ、あたしなんかじゃ出来ることもありゃしない。 何をしたところで返り討ちは見えているこの状況で、しかし――いいやだからこそ退いてはならない。 「死に損ないから片付けるとか、つまらないことしてんじゃねえッ」 「こっちから来いよ、相手してやらぁッ!」 あたしの啖呵に、聖十郎はひどく退屈そうな目を向けてきた。ああ、それだけで分かる。この男は人の命というものを虫ケラほどにも思っていない。 だからこその時間稼ぎ。こうして少しでもこいつの注意を引いていれば、四四八がきっと何か作戦を立ててくれる。みんなが突破口を見出してくれる。 どうせこのままじゃ全滅なんだ。現状役立たずのあたしに出来ることといったら、それくらいしかない。 「貴様は、あいつの娘か──」 「なるほど、どうしてくだらない。鈍い頭で幾ら策を弄したところで、仇討ちなど成せるはずもないだろう」 「るせえな、そんなんじゃねえっ」 「見え見えだと言っているんだよ。己が身を投げ打ってまで俺の注意を引こうとしているのがな」 「そんなに剛蔵が惜しいか。ならばいいぞ、奪ってみせろ──」 意味の分からないことを告げる聖十郎。その言葉から受けた印象は……何だ? 言葉では説明できない、腐臭を放つ汚物に身体を這い回られるような悪寒。まるで、開けてはならない禁忌のような禍々しさを感じる。 そして── 「──────」 「どう、いうことだよ……」 淡く光を放つ聖十郎の掌から、現われたその影は── 「親父っ!」 「ッ、──────」 〈紛〉《、》〈れ〉《、》〈も〉《、》〈な〉《、》〈く〉《、》、〈あ〉《、》〈た〉《、》〈し〉《、》〈の〉《、》〈親〉《、》〈父〉《、》〈だ〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》。 頭の中は、まるで焼き鏝を突っ込まれて乱雑に掻き回されたかのように混乱している。ああ、意味が分からない。 説明の付かない現象が目の前で起こっているというのは理解できるが、しかしそれだけだ。 見ると、石畳に倒れている親父もまた存在している。つまり真奈瀬剛蔵が二人いて、この現れた男が同一人物なのかそうでないのか、見分けすら付かない。 「ぐ、ウゥッ……」 自分の中にあった常識を立て続けに破壊されているのを感じる。このままじゃあ、頭がおかしくなってしまいそうだ。 「さあやれ、剛蔵」 「貴様の手で娘を殺させてやるんだ、有り難いだろう」 「──────」 「セージ、俺は……おまえの言いなりにはならんッ」 「ほお」 漏らしたその声は、あたしが今まで見てきた限り、初めて目にした聖十郎の感情なのかもしれなかった。 ほんの僅かではあったけど、何かがこいつの心を動かしたような── 「まだ逆らえるのか、大したものだな。いや、結局のところはどうなんだ?」 「貴様は昔からそうだ、反吐が出る」 淡々と、まるで研究者のように親父を問い詰めていく。 言ってる意味は分からない。でも滲んでいるのは苛立ち、そして呆れの感情なのだろうか。 親父は身動きが取れないようで、微かに震えている。 しかし視線だけをあたしに向けて、小さな声を絞り出した。 「晶……」 「逃げろ、四四八くんと。みんなと──」 「反抗だけでなく自我もあるのか。いいぞ、ますます興味深い」 「まだ幾らかの価値はあるようだな。認めてやろう、俺の道具になるがいい」 聖十郎はのらりくらりと煽るように親父に迫る。 それを遮るように、あたしは力を込めて言った。 「やらせっかよ……」 「どけよ柊聖十郎。あんたの好きにはさせやしねえッ」 状況は未だに分からないし、こうして対峙するのも正直恐い。だけど、確かに言えることがあるんだ。 こいつは親父。紛れもなくあたしの親父なんだということ。 もちろん、これまで一緒に暮らしてきた真奈瀬剛蔵とは何かが違うのだろう。正気じゃないのかもしれないし、理屈だって皆目だ。 でも、さっきあたしを見た目。それは昔から知っている親父のものだったんだよ。 だから、ここで助ける。 逃げろと言われたけど、それは無しだ。この場を離脱するときは親父も一緒だよ。 だって勇気を貰ったから。 変わらず絶望が渦巻くこの場に、負けてなるかという心の火が灯ったから。 「いい度胸だ──来いよ。さっさと終わらせてやる」 そんなあたしたちの態度が気に食わないのか、尊大に手招きをする聖十郎。 ああそうだ、終わらせやしない──その一念だけをあたしは胸に燃やして、仇である男と向かい合った。 四四八も、そして他のみんなも、気持ちはまったく同じはずだから。 聖十郎の揮う〈暴威〉《ユメ》によって、俺たちは成す術もなく窮地へと追いやられていく。 突破口が見えない。このままでは勝機がない。射と散、二つの咒法を弾幕の如くに放ちながら襲い来る。 「もっとも理想的と言えるのは、邯鄲を極めた貴様であっただろう。そこに議論の余地はない──」 「しかし、その前提条件が満たされたときには、少々厄介な存在になっているであろうこともまた事実。ゆえにこれもまた、悪くはないのかもしれんな」 こいつは何を言っている? 聖十郎の目は俺たちを見てすらおらず、その言葉は誰に語り掛けているわけでもなさそうだった。 そこに表われているのは徹底した自己中心。例えるならば天動説にも似た、柊聖十郎の世界認識に他ならない。 奴の掌に燐光が灯った次の瞬間、剛蔵さんが現れていた──それは言うまでもなく異常な現象で、つまり何かしらおぞましい真似を彼に加えたことになる。 こいつは、母さんだけじゃなく剛蔵さんまで……! あの日のことが頭を過ぎり、全身の血液が沸騰していく。ああ、俺はどうしてもこいつのことが許せない。 絶対に許してはならない男なんだ。こいつの血など、俺には一滴たりとも流れていないと証明してみせるためにも。 母さん――俺の親はあなただけだ。 「この時代は言うなれば赤子で、高純度な力を持っているのは今だけでもある」 「次善の策として、ここで奪っておくのも悪くはない──」 「リスクとリターンを秤に掛ければ、充分に納得のいく選択だろう」 「く、っそが──」 俺を庇うように仲間たちが前へと出る。こんな絶望的とも言える状況下において、こいつらも誰一人として生きることを諦めていない。 戦う意志を失うことなく、皆等しく激している。母さんを、そして剛蔵さんまでも守れなかった、その不甲斐なさを己の心に刻み付けながら眼前の聖十郎に怒りを燃やす。 「まるで蠅だな、鬱陶しい」 仲間に対する侮辱を吐き、聖十郎は一歩退く。その間の取り方で、俺は即座に気付いた。 「これは──」 「ッ──────」 晶も感じたのか、弾かれるようにその顔を上げる。聖十郎の取った挙動は、今しがた剛蔵さんを出現させたときとまったく同じ。 夢としては創法に類することになるのだろう。先と同じ能力であれば、すなわちこいつの手に落ちた相手が出てくることになる。 淡い光が収束し──そして、俺たちは再度自らの目を疑った。 「あー、何か用っすかぁ。私なんか呼んじゃって」 「およ、柊たちじゃん。どしたおまえら、聖十郎に楯突いてんのか」 「馬鹿だなー、こいつ超強いだろ。数で囲んだってそんなもんじゃ勝てないぞ?」 現れたのは、芦角先生。 昼間の学園で見たのと同じ、軍服を纏ったその姿に俺たちは全員息を飲んだ。腰に帯びた剣の金属音が剣呑な響きを鳴らしている。 「花恵さん……」 「どうして、あなたが──」 「あ? なんだ柊。どうしてっつったな今おまえ」 「こんな状況に置かれても、まずは理屈からってか。優等生だよな」 「だけど下手な考えはやめとけ。だいたい、おまえらが分かってることなんて一つでもあるのかよ」 どこか軽薄な話し口は、間違いなく先生のもの。しかしその醒めた視線は、これまで短くもない期間俺たちを見てきた彼女のそれではない。 連続する眼前の冒涜に、眩暈すら伴う怒りを覚える。この男はいったいどこまで俺たちを愚弄すれば気が済むのか。 「芦角」 先生の名を貴様が馴れ馴れしく呼ぶな──無言の叫びも、聖十郎には届かない。 「はいはい、なんでしょ」 その口調こそ変わらず飄々としたものだったが、やはり先生はなんらかの支配下に置かれているということだろうか。発する言葉からは、聖十郎に対するある種の敬意が感じられた。 邯鄲には理があり、決して荒唐無稽なだけの能力ではない。 思ったことをすべて、無条件に実現するなどという天外が通るなら、六勢力の首領による均衡などハナから存在するはずもないだろう。 ならば、〈こ〉《、》〈れ〉《、》はどういうことだ? 原理も法則もまったく読めない。 芦角先生は一見すれば洗脳の類を施されているようにも思えるが、直感的に違うと分かる。これが今の彼女にとってのニュートラルだ。 かと言って姿が同じだけの偽者とはどうしたって思えない。発言、そして存在感があまりにもリアルだから。 これは紛れもなく本物であり、そして同時に本物ではないということなのか。 そう、例えるなら〈誇張戯画〉《カリカチュア》。芦角先生のごく一部分を、醜悪なまでに際立たせた存在。俺にはそう思えてしまい…… 戸惑いを露わにする俺たちへ決定的な鉄槌を振り下ろすように、聖十郎は低く告げた。 「命令だ。四四八以外は皆殺せ」 「はいよー」 先生は腰の剣に手を掛ける。そこに見えるのは、もはや言い訳の余地すらないほど明確な主従関係。 心底愉しそうなその様子からは、非道の命令を実行することに良心の呵責など一切覚えていないのが分かった。 「おまえら、悪く思うなー。なんせ命令なんでな」 「で、誰から死にたい? 自分から首差し出してくれたら、私はとっても楽なんだけど」 「ハナちゃん先生っ」 「目ぇ覚ましてくれよ、いい加減ッ……!」 「あーあー、うっさいな。これでもまだ〈そ〉《、》〈う〉《、》見えるのか?」 「まあいい。まずはおまえ、大杉からだ。残りは出席番号順な」 「我堂……はいないから、次に世良。龍辺。鳴滝。んで最後に真奈瀬──」 「私に殺されろ。いいか? これは上官命令だ」 「刃向かえば反逆罪で即死刑だ。いいか?」 「分かったら、黙ってそこに突っ立ってろよォッ!」 同時に白刃が閃き、闇の中を光芒が縦横に舞った。 戟法の力も乗っている連撃は、怒濤の激しさで十重二十重と俺たちに襲い掛かる。 「ガ、ッ──」 「きゃあっ……」 「ホラホラ逃げてばっかいるんじゃねえぞ、イクサのマコトはどこやったッ」 「上官命令に噛み付けもしないか? 私ゃおまえらをそんな風に育てた覚えはないなァ!」 庇う間もなく、栄光たちの肉体が容赦なく抉られ、鮮血が舞う。師が弟子を喰らうその様は、あたかも畜生道を思わせた。 彼女が花恵教官であるならば、もとの実力がそもそも俺たちより数段上だ。それが今、こうして本気の牙を剥いている。 こちらも全力を出して初めて戦いの俎上に乗れるというものだろう。それなのにこの体たらくでは、勝ち目など当たり前のように有り得ない。 成す術もなく吹き飛ばされる栄光たちに、芦角先生は喜々とした様相で近付いてくる。 「大杉、おまえボッと立ってるなんてのは論外だろ。龍辺は遅い、そんなんで戦場に出て来られたって単なる足手纏いだろ」 「真奈瀬はいつまで待ち決めてるつもりだ? フォローがどうこう言ってたらこいつら皆死ぬぞッ」 栄光を蹴り上げ、歩美を斬る。距離を取って反撃を窺っていた晶は、迅雷の踏み込みで懐に潜られ吹き飛ばされる。 容赦も躊躇もありはしない。どころかその声には徐々に興が乗っているようにすら感じられた。 「世良はテンションで実力変わり過ぎ。今は気分じゃねえってか? 鳴滝はちったあ考えて動けよ、おまえ独活の大木かよッ」 あたかも煽って楽しんでいるようなその姿に、俺たちは皆言葉を失う。 近しかった人が刃を持って襲い来る──頭では対抗しなければならないと分かっていても、身体は簡単には動かない。端的に言って呑まれているんだ。 「──んで、柊は考え事か、甘く見られたもんだなァ」 「ッ──────」 隙に脇腹を切っ先で突き刺され、そのまま鳩尾を蹴飛ばされた。呼吸が一瞬止まるほどの衝撃を、刹那の体裁きでどうにか逃がし立ち上がるが…… 「はぁ、はぁッ……く、っそ……!」 「四四八くん、大丈夫?」 「生きてるかどうかって意味なら、なんとかな」 まだどうにか口は利ける。意図は不明だが、俺を殺すなと聖十郎が言っ以上、これは余計な邪魔を入れさせないための牽制であって、ゆえに致命傷ではない。 自らも傷の痛みに呻きながら、心配げな目を向けてくる歩美。ああ、ここで本来、撤退を視野に入れるのが正しいのは分かっているよ。負った傷も軽いものではなく、今のまま戦闘を継続していれば全滅してしまうのだから。 だが俺たちには、キーラとの一戦が苦い薬となっている。格上相手に、逃げ腰の勝負を挑んだところで無駄なんだ。同じ轍を続け様に踏んでしまうわけにはいかない。 それにな── 悠然と見下ろしてくる聖十郎を睨みつけた。こいつを前に尻尾を巻いて逃走など、もはや絶対に選べない。 やるしかないなら、俺だけは生かせと言った点を利用してやる。やりよう次第で、それはアドバンテージになるはずだ。 「行くぞ──」 「おうよ。ハナちゃんじゃなくて、こいつだったら……」 「どうせ逃がしてなんてくれないだろうし、だったら先に倒すしかないもんね」 「いい加減、一方的にボコられてるだけっつうのも我慢ならねえ」 一瞬の目配せで皆も即座に理解した。全員、傷付いた身体を押して立ち上がる。心の奥底に炎を秘めているのはどいつも同じということだろう。 すべての原動力は聖十郎に対する憎しみ、それしかない。形はどうあれ、その熱を頼りに俺たちは力を取り戻す。 重傷を負った我堂のこともあるんだ。この世界のあらましを解き明かすのに、悠長な真似はしていられない。 どちらにせよ、俺たちは待ち受ける側なんかじゃないんだ。猛る闘志のままに挑むしかないんだよ。 「あー、やばいわおまえ、そういうノリ」 「親父さんにムカついてどうこうするって、んなの相手の思う壺だって」 高めた意気を逸らすような芦角先生の軽口を俺は一顧だにしない。これがたとえ妄動でも、今さら退くことなんか出来ないんだよ。 母さんを失ったあの時から、堪忍袋の緒はとっくに焼き切れているんだから。 「使い終わった道具は必要ない」 「剛蔵や恵理子もそうだ。奴らも一時は利用の目もあったが、今となっては既に用済み。ならば打ち棄てるのが自然というものだろう」 そんな俺たちを睥睨し、変わらず侮辱を重ねる聖十郎。こいつはいったいどこまで腐れているのかと、己の内で怒りが頂点に達するのを感じる。 そして次の瞬間、唐突に異変は起った。 「ガッ、ア──」 なんの前触れもなく、鳴滝がその場に崩れ落ちた。 一瞬弾けるように身を大きく震わせて、糸の切れた操り人形のごとく倒れる。見れば耳から血が流れ出ており、目を見開いたままぴくりとも動かない。 まるで内部から血管が破裂したかのような有り様。それは重篤そのもの、致命に至っている状態にすら思える。 どういうことだ、何をした? 俺の感知する限り、聖十郎に目立った挙動は何もなかったが── 「あがぁっ……」 続いて歩美の身にも凶事が降りかかった。血色混じりの吐瀉物を、足下にバケツ一杯以上撒き散らしながら倒れ込む。 瞳孔を開かせたまま、止まることのない嘔吐に塗れて痙攣していた。こんな禍々しい光景を、俺は邯鄲ですら見たことがない。とてもユメによって引き起こされた事象とは思えなかった。 それほどに歩美の苦しみようはリアルであり、実際に命の灯火は掻き消されようとしている。 場を一気に支配し、塗り替えていく絶望の色。それはまるで感染症のように、瞬きすら許されない速さで爆発的に伝播する。 「あ、うううゥゥッ──」 「があああああああっ! あっああっ!」 まるでピンポン球のように飛び出しているのは世良の血走った眼球。その頭を激しく掻き毟る手が止まらない。 青黒い斑点を全身に浮かべる栄光はそこから腐り落ちていくかのようで、顔となく腕となく醜く膨れあがっている。 抗うこともままならず、逃げることすら許されず、理解もできないまま襲い来る生き地獄── 常軌を逸しすぎた光景に、俺は言葉を失った。栄光たちが浮かべた症状はいずれも別種で、共通しているのは重篤の極みであるということ。 死神に撫でられたかのように容易く、おぞましく身体を冒されていく。 このままもう誰も助からないのではないかと思わされるも、頭を振って弱気を打ち消す。考えろ、俺まで呑まれてどうするんだッ! 出血が石畳へと広がっていく光景に心を冷やす。何かの夢がこの裏には存在している、それだけは間違いない。 ルールは、理はどこにある? 思考を巡らせろ、助けるんだこいつらを。 芦角先生はそんな地獄絵図にも似た狂乱を見て、あたかも映画のグロテスクシーンに遭遇してしまったという顔をしていた。 そして、ポップコーン片手の陽気さを崩さず告げる。 「おー。これでもまだ諦めてないか。立派立派」 「さすがっすね、息子さん」 「だが手遅れだ、もはやこいつの命など潰えている」 「え──」 告げられると同時、視界が一気に赤く染まった。 それが網膜内部からの出血ということに気付くまで、一瞬の時を要した。ボゴリと腹の中で嫌な音がして、胃がその内奧から歪に膨れあがっていくのを感じる。 「ぎッ、ああああああァァァッ!!」 内臓すべてを赤熱した大根おろしにでも掛けられているかのような痛みが奔り抜けた。思わず俺は地に膝を着く。抑えられない、なんだこれはッ! 一瞬で思考は焼き切れ、その場で幾度も反吐をはきながらもんどり打つ。 まるで内側から捲り上げられるかのごとき不快感……悪魔が身体に侵入して、内部から破壊を繰り返しているような痛みが俺を貫いた。 これはいったい──毒か、いや違う。 そんな類のものじゃない、もっと深奥から腐らされているかのような……おそらくこれは、病の類。それも凶悪極まる業病だ。 寸前まで健常だった俺たちが、一瞬にしてこうなるほど。何者であれ耐えられはしないだろう特大の激痛に魂まで蹂躙される。 「これだけ時間を掛けて失敗とは、上手くはいかんものだな」 もはや感覚器官としての態を成していない耳から、微かに聞こえるのは聖十郎の声だった。あたかも悪意を擦り付けるかのように告げられる。 「まだイエホーシュアには程遠いか。役立たずめ」 刹那──聖十郎の背後に、〈逆〉《、》〈さ〉《、》〈十〉《、》〈字〉《、》が見えた。 それは残虐の限りを尽くされ、血肉も魂も尊厳ごと奪い取られて吊るされた刑死者の磔……あの処刑台、あれが奴の能力なのか? 何人いる? 分からない。手前に見える数人の後ろにも、何百何千という逆さ磔が連なっていた。まるで生贄の祭壇であるかのように…… これは、つまりすべてが聖十郎の犠牲者なのか? 失われていく視界に、禍々しい凶兆を見た気がした。それはほとんど理屈抜きで俺の神経を逆撫でし、反射的に慄きを覚えてしまう。 そう、魂を抜かれたかのような感覚── もはや身動きすらままならず、抵抗する術などない。身を焼く地獄の業火にも似た激痛だけが唯一鮮明に感じられる。 聖十郎は仲間たちの身体をなんの感慨もなく足蹴にしていた。まるで塵を端に退けるかのように。 それは、こいつが母さんを殺したときと同じ光景。 「く、そ──」 感覚のない中で立ち上がろうと全力を足に集中させるも、その言葉を最後に何かが決壊した感じを覚えた。過剰な空気を送られて風船に穴が空いたかのように呆気なく、急速に俺は萎んでいく。 噴出。破裂。血が迸り今やただの肉袋と化した俺は、今度こそ崩れるように倒れ落ちる。 無数に空いた穴から生命力が抜けていくのが分かった。身体はもう二度と温まることのない域にまで冷えていく。 聖十郎はこちらに一歩寄って睥睨していた。こいつに怒りの感情を覚えるほど、なぜか体調は悪化の一途を辿っていき…… 瞼の裏に憎き姿を残しながら、俺は意識を失った。 あたしの目の前で繰り広げられたのは、まさに絶望劇と呼ぶに相応しいものだった。 「あ、ああ……っ」 全身の至るところを掻き毟り苦悶に呻くみんなの声が、八幡の境内に響いている……仲間の誰もが、先程までの面影もない。 「おい、しっかりしろよ四四八っ!」 「どうして、こんな……くそっ」 倒れた四四八たちにあたしは駆け寄った。分からない。分からない。なんでいきなり、こんな状況に落とされているんだよ。 これは紛れもなく邯鄲の力。ここでは使用不可能なはずの夢。 存在などしていないはずだし、実際あたしもさっきから試しているがまったく発動の兆しすらない。夢の中じゃないんだし当たり前だ。 でも、こいつは平然と行使している。そうでなければすべての辻褄は合わない。だったら── 「っ、──────!」 夢を発動しようと、もう何度目かの挑戦を試みる。翳した手に精神を集中し、そして── しかし、結果は何も起こらず。ひどく当たり前で、そして無慈悲な現実があたしの心を押し潰す。 みんなが苦しんでいる。こんなの見ていられないし助けたい。今や心はそれ一色だ。 そして、根本的な疑問なのだが──なぜ自分だけは体調に異変を来していないのだろう。 何を避けたわけでもないし、その方法などというものも当然知らない。かといって、難を逃れたのがただの偶然であるはずもないだろう。 柊聖十郎が余計な仏心や遊びなどかましてくるはずもない。それはここまでの一部始終で、充分過ぎるほど承知している。 けど、今はそんなことなんて考えられない。 「こいつらが、苦しんでるんだよ……!」 全員が正体不明の攻撃に倒れて動くことすらままならない。助けられるのはあたししかいないんだ。無茶でもなんでも知ったことか。 夢を発動させるんだ。夢を、夢を――お願いだから、何でもするから、出ろよ出ろよ、出て来いよおおォォッ! どんな手段でも構わない。構っている場合でもない。とにかく、一刻も早くこいつらを助けたい── 聖十郎が見下ろしている。それがどうした、あんたに構ってる暇はないんだ。そこをどけよ、引っ込んでてくれ。 この男を斃す……なんてことは二の次だ。あたしには仲間たち以上に大事なものなんてないんだから。 それに── 親父はおそらく、聖十郎の手に落ちたんだろう。崩れ落ちそうな悲しみ、そして絶望を感じる。 だからといって無謀に走ることは出来ない。ここであたしまで意味のない特攻で倒れてしまったら、誰がこれから親父を救うんだ。 生きていれば、そして四四八たちが再び立ち上がることが出来たなら。そのときこそ最大の好機となるのだから。 少し待たせるかもしれない、ごめんな親父── 「さすがはあいつの娘といったところか。驚くほどの茶番だな」 そんなあたしの様子を見て、聖十郎は吐き捨てるように呟く。 こいつがどこか不愉快そうなのは、あたしが諦めずに地を這っているからだろうか。でもなんと思われようが知ったことじゃない。 物事には順序があり、今この場で選ぶのは皆を助けることなんだから。 「芦角」 「はいよー」 「やれ」 そう冷酷に命じたのはあたしの処刑で、花恵さんはあっけらかんと頷いてこちらへ歩み寄ってくる。 「──────」 幻覚か何かか、そうであってくれ。甘っちょろいと言われようがあたしは願う。 しかし見覚えのある花恵さんの所作は、圧倒的なリアルさをもってあたしの目に映った。 「真奈瀬ぇ、おまえはほんっといい子だ」 「真面目でガッツもあるし、ハメを外してる連中のフォローだって上手だよな」 「とても惜しいよ、ここで殺しちまうのはさ」 「あ、がっ──」 鮮血が舞う。 反撃の力などもとよりなく、加えて体勢も整っていなかった。ゆえに成す術もなく倒される。 遠ざかっていく意識の中で、四四八の姿が目に映った。 ああ、ごめん。守るだのなんだの言っておいてこの様だよ。 あたしは今度こそおまえの力になりたかった。助けたかった。 背中を預け合いたかったんだ。 いやまだ諦めるな──そう強く思うも、意識は徐々にぼやけていく。 倒れた石畳の冷たさを頬に感じて、それがあたしの意識に残った最後の知覚となった。 「ここは──」 まるでどこまでも落ちていくような感覚に囚われながら、あたしは思う。 周囲を見回す。いや、見るって感じじゃない。風景とあたしの境目がなく、まるで自分の中に潜っているような不思議な気分。 世界との境界が消えたような……まるで、眠りに落ちたときとよく似ている。 徐々に思い出す。あたしの最期は、八幡で花恵さんに止めを刺されたんだ。 ということは、つまりここは天国? いや地獄か。 「はは……なんだよそりゃあ、冗談きついだろ」 そう、冗談ではない。 四四八たちを、あたしはまだ助けていないんだから。 血塗れた石畳を思い出す。そこに横たわり、一秒ごとに身体を腐敗させていく仲間たち。 ふざけるなよ、早くあそこに戻せよ。あたしは誰にともなくそう訴える。 仲間がピンチなんだ、そんなとき傍にいなくて何が力になるだ笑わせるな。 強烈な思いに胸を焦がす。しかし周囲の空間は僅かの歪みすらも見せず。 ただたゆたっているばかり。やはり、自分は死んでいるのだろうか── いいや、それこそ考えるまでもないだろう。あの場で止めを刺され、あまつさえ聖十郎まで後ろに控える状況だ。生きていられるはずがない。 しかし、そう結論に至ってもまだ胸の炎は消えない。 戻りたい、今すぐに。もう手遅れかもしれないけど、あいつらが生きている可能性が少しでもあるなら駆け付けたいんだ。 だけど応えるものはなく、あたしの思いは虚空へと消える。 少し経ち、いやどれくらい経ったかしれないが──僅かだけ落ち着いて思考が戻って来る。 まず思ったのは、自分の中にはどうやら一つの感情しかないということ。 四四八たち、親父……いつも、どんなときだってあいつらの安全を祈っているんだ。 「そもそも、疑問っつうかよ──」 「どうしてあたしはこんな、みんなを守りたいと思うようになったのかな……」 それは答えのない問い掛け。 こんながさつな性格で、守るとか癒すとか似合いやしないのに…… こうしていると、いろんなことを思い出す。 四四八や栄光たちと通った千信館。その前もずっと一緒だったし、いろんなことがあったよな。 すべてが懐かしく、そしてそのもっとも底に眠るものがある。 夢心地の中、回想するのは幼い頃の記憶── まだほんとガキの頃、あたしは親父に背負われて色んなところへ遊びに行ったものだった。 肩車が好きだった。乗ったら乗ったで恐くて必ず暴れるのに、親父は嫌な顔一つせずに連れていってくれた。 楽しそうだった。笑っていた。そして、あの頃からハゲだったような気がする。 からかったらマジで目に涙浮かべてたっけ。意外と気にするんなんだよな、あいつは。 子供の頃のことを思い出し、まず感じるのは親父の温もり。 嬉しいことがあったときには一緒に笑ってくれた。そして、悲しんでいたら一緒に考えてくれた。 不思議と癒されていくのを感じたんだ。子供心に親父は魔法でも使えるんじゃないかって思ってたくらいさ、恥ずかしいけど。 生まれて初めて台風に遭ったあたしが震えてるときも、背中におぶってくれたっけな。あのときは確か四四八たちも家にいたか? 「大丈夫だ晶、心配しなくてもいい」 「俺が必ず助けてやるからな──」 思い出したからだろうか、背負って走られてるような感覚がある。 って、あたしも大概ファザコンだよな。 もうあたしは死んだんだ。あの状況で親父が助けてくれるなんて、そんなことあるはずがないだろう。 「四四八くんも、みんなもだ」 「全員揃って、朝に帰してやるからな──」 全員、ね。 やっぱりこれは記憶の中の出来事だ。現実の世界で、いくら力自慢の親父でもその手に何人も抱えられるわけがないし。 それこそ、夢でも使わない限り無理だろうから。 ──そう、これは夢。でも、どこか安心できる幸せな記憶。 いつだって親父はあたしを元気づけた後、決まって最後にはこう言うんだ── 「しっかりしろ、そんな顔は似合わないぞ」 「おまえには俺がついてる。心配することなんか、これっぽっちもないんだからな」 「ああ──」 あたしの根底に在るものを、今強く思い出す。 きっと──自分がそうされたように、あたしは誰かを元気付けてあげたい。笑わせてあげたいんだ。 あの素敵な親父のようになりたいんだ。 「晶──」 「ほれ見てみろ、月が綺麗だ。ははっ、でっかいだろう」 ──なあ、親父。 あたし、少しはあんたに近付けてるかな。周りの連中、あたしが傍にいて少しは助けになってるかな。 ちゃんと、笑わせてあげられてるかな。 「そりゃ、心配なんていらないだろう。何せおまえは、真奈瀬家自慢の太陽のような女の子だからなっ」 「おい、ちょっ、俺の頭は違うぞ。そりゃ少しばかり光っちゃいるが、今はそういうことじゃなくてだな──」 あと、今まで言ったことなかったけど──実は知ってるんだよ。あたしが親父に、すっごく愛されてたってことを。 あんたはいつも大きく構えて、あたしの好きにやらせてくれて。 人間として誰より尊敬できると思ってる。照れくさいけどよ、ほんとだぜ? 「──おう、ようやく笑ったか」 「へへっ。いいぞ、美人だ。さすがは俺の娘だな」 「おまえの笑顔は、傍にいる人を幸せな気持ちにさせることができるんだ。こういうことを、改めて言うのは気恥ずかしいが──」 「ずっと守っててやるから安心しろ、晶」 ああ、あたしもだよ。 そして、やっぱり恥ずかしいな。今さら娘に格好つけるくらいなら、さっさと恵理子さんを落とせばよかったんだよ、このハゲは。 昔からこんな関係で、わざわざ言わなくてもっていうのがあったし。 だけど、今度会った時には、あたしからもちゃんと言うよ。 恥ずかしいけど。照れちまうかもしれないけど。目を見てはっきりと、本当の気持ちを。 あたしは昔からずっと変わらず── 「親父、大好きだ」 目覚めたときにいたのは、鈴子の家だった。 頭が酷く痛み、思考の焦点が定まらない。どうやらあれから一夜が明けているみたいだけど── 徐々に頭がはっきりしてくるにつれ、何がどうなったんだと混乱する。あたしたちは確かに八幡で戦っていたはずだ。 夢の力をこの世界で用いた柊聖十郎。燐光とともに現れた花恵さん、そして親父。 そして禍々しい暴威を前に、手もなく蹂躙された仲間たち── 行かなきゃ。何を把握するよりも先にそう思う。 意識を失ったため状況は最後まで追えていないが、ならばおそらくみんなはあのまま取り残されている。 今どうなってるかなんて考えたくもない。じっとしてなどいられない。行くんだよ、一刻も早く。 そう身を起こすと同時── 「真奈瀬晶くんだね? 目が覚めたのなら、部屋に入っても良いかな」 「君の友人たちの容態について、少し話があるんだ」 「あ──」 障子の向こうから、こちらの様子を窺ってくるその声には聞き覚えがある。 鈴子の親父さんだ。鳴滝と話しているときに聞こえてきた声と一致している。そして、今確かに友人たちの容態と言っていた。 心臓の鼓動が大きく一つ跳ねる。 みんなもここにいるのだろうか? 親父さんが言っているのならそうなのだろう。 容態という言葉が気に掛かる。と同時に八幡での惨事が脳裏に蘇ってくる。聖十郎の前で、次々と原因不明の症状に倒れた仲間たち。 そう、あれはまるで悪質な伝染病のようだった。四四八たちもこの家に運び込まれているんなら、どうにか命は助かったってことなのか? それとも── ともあれ、あたしがこうしてパニックに陥っていても始まらない。いまだ事情は飲み込めないながらも、親父さんの言葉に了承の意を返した。 「どうだい、加減は。喋れるかい?」 「寝ている間に済まないが、医者に診てもらったよ。君はどうやら何もないようだね、安心した」 「あの……」 緊張のあまり小刻みに身体を震わせたまま、ようやくの思いで口を開く。ああ、喋り辛くてかなわない。 「あたし、どうやってここに戻ってきたのか、知ってたら教えていただけませんか?」 「昨夜からの記憶が、ちょっと曖昧で──」 要領を得ないまま訊いたあたしに、鈴子の親父さんは隣に伴った医師に確認をしてから答えてくれた。 「君のお父さんが、柊くんたち全員をここに運び込んできてくれたんだ」 「親父が──」 「驚いたよ。どんな方法を用いたのか、これだけの人数を玄関まで抱えてきて、済まないが助けてやってくれと私に頼んできた」 「それはもう、必死の形相だったよ。無下になどとてもできないほどにね」 そう教えられ、諸々の疑問も何もかも棚上げしてしまう自分を感じる。 なんで親父が。どうやって連れてきたんだ。確認したいことはいくつもあるけど、今はそれより、どこか心が暖かい。 助けてくれたんだ、親父が── そんな呑気はしかし、すぐさま心の闇へと呑まれて消える。 みんなの容態はどうなっているんだ? その疑問に思い至って心にヒビが入っていく。 見ればこの部屋にはあたし以外誰もいない。嫌な予感はほとんど確信へと変わり始めていた。 どこにいるの、なんで? ……そりゃ個室、部屋割り等、理由なんていろいろあるだろう。だけど不安に感じてしまったものを忘れることなんかできない。 渋面を浮かべる鈴子の親父さんに、震える声であたしは訊いた。 「あの、四四八は……みんなはどうしてるんですか?」 あたしの言葉を待っていたように医師が一歩前に出て、四四八たちの容態を説明してくれた。 「──まず言いたいのは、彼らがあの容態に至った原因が皆目分からないということ」 「どうして、あんなことになっているんだ? 説明が付かない」 そこから先の話は、まったく頭に入ってこなかった。 脳が薄い膜のようなものに覆われていて、情報が入ってこられない感じ。つまり、心が拒否している。 突き付けられた現実、何一つとして認められない。 「共通しているのは、全員それぞれ症状は違えども、何らかの病の末期患者であること──」 「柊四四八さんは、ステージ4の内臓癌」 告げられるのは、死の宣告。 どういうことだ──その思いだけが頭を回る。 その間も医師は、まるでそう決まっていた脚本のように口を開く。 「世良水希さんは脳腫瘍」 「鳴滝淳士さんは白血病」 「──────」 よく聞こえない。 「──────」 聞きたくない── 「……もちろん、最善は尽くします、しかし」 いやだ、やめて。心で思うも届かない。 告げられるそれは、まるで希望を刈り取る鎌のよう。 「──皆、いずれもどうにもならないところまで症状が進行しています」 「この容態なら、もうあと数週間も保たないだろうと予想されます」 呆然としながらあたしは歩く。 夜の鎌倉を放浪するようにあてどなく。ただ現実から逃げるように意味もなく。 医者の先生が言ったことは、嘘だなんて思えない。それはあのときの光景がまだ目に焼き付いているから。 吐血、その禍々しい赤は……死を濃厚に匂わせるもので。 異常な事態だっていうのは分かる。だからこそ、正面から向き合えない。 なあ、どうすればいいって言うんだよ。 おまえらがいない未来なんてのは信じられない。いやなんだよ、そんなのは。 そして、なぜあたしはたった一人で生かされた? こんなのってあんまりだろう。 深夜の街は暗く、誰の姿も見えない。ただ静謐を湛えていて、まるで世界があたしを拒絶しているかのようだ。 何をするでもなく、向き合うでもなくただ歩いて── 無意識のうちに、あたしは自宅へと辿り着いた。 ああ、やっぱり結局ここに戻ってくるんだなと苦笑する。今はもう、誰もいないっていうのに。 花恵さんの手下連中がいるかもと思ったが、誰の気配もしなかった。あたしは家に入り、そして気付く。 「これって……」 テーブルの上に手紙が置いてある。 近寄って手に取ると、親父の字が見えた。 急に鼓動が高鳴った。いつから、ここに手紙があった? あたしが家を出るまでは、確かに何もなかったのに。 震える手で開き、見る。紙の掠れる音が妙な感じで耳に残った。 晶へ。 なんだか妙に懐かしい筆跡を目で追った。 おまえがここに戻って来ると思って、今これを書いている。 いろいろ、言えてなかったことを知られてしまったな。済まない。 謝ってもおまえに隠していたという事実は消えないだろう。父親失格だな、俺は。 そんなわけないだろう、あたしはそう独りごちる。 事情があんだろ、どうせ。親父がわざとあたしを騙したなんて思わない。思うわけがないんだよ。 俺がこれまでにしたこと、そしてできなかったこと── 詳しく話していたら何日も掛かってしまう。だから、今はただ一切を謝りたい。本当に済まなかった。 だが、自分で自分の後始末くらいは着ける。 聖十郎のことは、俺に任せろ。 おまえたちは何も心配しなくていいから、ゆっくり休め。 大丈夫だ。愛しているぞ。 印象としては、親父は自分に起こったことすべてを知っていたという感じに取れる文面だった。 あたしは更に読み進める── おまえからはひょっとして、今こうして手紙を書いている俺が今までと違う奴に見えるのかもしれないし、実際そうでもある。 しかし、どの俺も俺で、おまえを愛している。 それだけは言い切れる。間違いない。 だから、後は俺に任せろ。 これは俺たちに端を発してる問題で、締め括るのも俺たちの手によって成されないといけないから。 せめて、そのくらいはさせてくれ。 晶は美人だし、可愛い。さすがは俺の娘だといつだって思ってる。 俺たちの青春はほんと情けないものだった、おまえには真似てほしくないところだな。 まあ、それが悪いことばかりだったってわけじゃないにしても、だ。 何せ、お陰で俺はおまえに会えたし、おまえは四四八くんに会えたんだから。 これは、素敵なことだろう? 晶、おまえも幸せになってくれ。 大事なことがあったら迷うんじゃないぞ。何をすべきかなんて頭で纏まるのを待っていたら、だいたいは手遅れになる。 そうだな、経験者からの忠告ってところだ。 ──そこまで読んで、涙が手紙に零れた。 「……ッ、~~………………」 まるで赤ん坊を扱うように、手紙を優しく胸に抱く。 親父、親父。 会いたいよ、今すぐに。あたしもあんたが大好きだ。 だから、お願いだ。 これで最期みたいな手紙、残して行かないでくれよ。まだあんたに言いたい事、こっちには山ほどあるんだから。 声を殺してあたしは泣く。涙は涸れず、止めどなく頬を伝って流れ落ちた。 俺たちが鎌倉の病院で目覚めてから、すでに数時間が過ぎ── その間、歩美が目を覚ます様子は依然として見られなかった。 穏やかな寝顔は、呼びかけようものなら今すぐにでも起きてきそうで、しかし実際の歩美はほんの僅かの身動きすら見せない。 あまりの昏睡ぶりに、これは本当に眠っているのだろうかという懸念すら浮かび上がってくる。 「きっと、オレらもこんな感じだったんだろうな」 栄光の短い呟きに返事をする者は誰もいない。 歩美の状態が睡眠だという証といえば、呼吸と共に微かな上下を見せる胸部の動きのみ……あたかも周囲の時間を止められたかのようなその佇まいは、見ている者に不安を感じさせずにはいられない。 うやむやの内に修学旅行も終わってしまったため、俺たちは明日から再び〈千信館〉《トラスト》へと通う日々に戻らなくてはならなかった。 そのための準備もあるし、歩美のために全員でここに残って様々な方面にさらなる迷惑をかけるわけにもいかないだろう。 目を覚まし、身体に不具合も見られない以上、病院側からはいい顔をされないと思われる。ただでさえ京都からの搬送で手間をかけさせてしまったのだから。 みんなが歩美を心配している。しかし、俺たちにできることも何もなく…… そのため皆は自宅へと一旦戻り、今日のところは俺が代表者として歩美を見ていることになった。 病室の窓から外を見る。茜色に染まった夕暮れの街が、まもなく今日の面会時間が終わることを告げていた。 依然として変わらず〈昏々〉《こんこん》と眠り続けている歩美。今にもそのまま起きて、いつものように明るく喋り出しそうな寝顔だった。 「早く、目を覚ませよな……」 「みんな、おまえを待ってるんだから」 本人に語りかけるでもなく呟きながら、俺は小さく溜め息を漏らす。 状況の変化に対して機転が利き、ここぞという場面でこそ頼りになる──歩美はそんな奴だった。 観察眼も相当なもので、俺たちが理性を失っているときにもこいつは一歩引いた位置でバランサーの役を果たしてくれた。 ガキで、未熟で、調子に乗りたがりの連中が多い俺たちを陰で支えていたのが歩美なんだと、今は深く実感できる。 収拾がつかないんだよ、おまえがいないと。それは日常の場面に限った話じゃなく、どんなときでも俺たちの間に小さな齟齬が発生することは容易に想像できてしまう。 〈戦真館〉《トゥルース》での毎日は、みんなが常に緊張常態を強いられていた。そんな中でも俺たちが楽しく笑いあって過ごせたのは、おまえがいてくれたからだとよく分かった。 歩美が輪の中にいなくなってからその大切さに気づくとは、あまりに月並みすぎて自分が情けない。 思えば幼い頃から……それこそ俺が物心つく前から歩美とはずっと一緒にいる仲で。 栄光、晶……今では我堂や鳴滝、世良を加えて七人。いつか誰かが欠けるかもしれないと覚悟はしていたつもりだったが、実際にこうなってみるとそのリアリティは甚だしく薄い。 歩美とはどこへ行くにも一緒で、しかし殊更べったりしているというわけでもなかった。そんな関係が成立していたのも、こいつといる時の空気が心地良かったという証に他ならない。 記憶を呼び起こしてみれば、あのときもそうだった。 眠り続ける歩美を見ながら、俺は思い出す…… 昨日のことのように頭に浮かんでくるのは、千信館に入学した日の光景だ。 試験に合格するには偏差値が大幅に足りなかった栄光たちを、俺は心を鬼にして半年ほどみっちりとしごいた。 自分で言うが、そのスパルタぶりは過去最高水準だった。あいつらも尻に火がついていることもあって、よく音をあげずに付いてきてくれたと思う。 その甲斐あってか、どうにか全員揃って入試を突破し── 晶、栄光、歩美に俺。子供の頃からの腐れ縁だとかみんなで言い合いながらも、楽しかったよな。 これから待っているであろう幾つもの出来事に、俺たちは皆期待を膨らませていたんだ。 桜の舞い散る中、歩美と俺は並んで校門を潜った。 一面に薄桃色の花びらが舞っていて、それを見た歩美は上機嫌で鼻歌なんか口ずさんでいて、俺はなんとなく桜がよく似合うなとか思ったのを覚えている。 柄にもなさすぎて、本人に直接伝えたりはしていないけれど。 歩美は横を歩いている俺を見上げる。同世代の中でもとりわけ身長の低いこいつの、いつもの目線。 「へへっ、満開の桜っていいよねぇ。いかにも日本の春って感じで」 「ここがわたしたちの〈学舎〉《まなびや》になるんだね。あー、クラス分けとかどうなってるんだろ。きっともう決まっちゃってるよね」 「みんな一緒だったらいいなぁ……ね、四四八くん?」 「ああ、そうだな」 なんとなく照れくさくなって素っ気なく言いはしたものの、歩美の言葉には同感だった。こいつらが傍にいれば学園生活が面白くなるのは保証済みだったから。 普段よりも胸の鼓動がどこか早くなっている気がして、桜は人を酔わせるものだなと俺は眼鏡を直しながら思う。 「おーい、四四八ぁ。歩美。早く来いよー」 少し先を歩く晶の呼びかけが、どうも上滑りして聞こえてしまう。歩美はそんな俺の様子に気づいて目を丸くする。 「あれ? どしたの四四八くん、ぼーっとして」 「あっちゃん呼んでるよ。うわ、手まで振ってる、なんか面白いものでもあったのかな」 「──ああ、すまない」 「ちょっと見たことのない桜吹雪だったんでな、思わず感慨に耽っていたようだ。さ、行こう」 俺がそう言うと、歩美はどこか可笑しそうに微笑む。 「へえ、四四八くんでも心奪われるっていうか、そういうことってあるんだね。ちょっと意外」 「そりゃ、俺だって人間だ。綺麗な風景があれば見とれたりもするさ」 「うんうん、だよねー。なんていうか別格だよね、〈千信館〉《ここ》の桜」 「あー、栄光くんにも見せてあげたかったなぁ……よりによって、どうして入学式の日まで寝過ごすんだろ」 「前日に緊張して眠れなくて、そのまま朝になって熟睡とかほんとに子供なんだから」 「携帯かけてきて泣くくらいなら、目覚ましセットしとけって話だよ」 栄光とは俺も少し話したが、それはもう号泣と言ってもいいレベルのものだった。不憫ではあったものの自業自得とも言えるのでフォローのしようがない。 「あいつらしいと言えば、そうだがな」 「まあ、明日以降も桜はまだ咲いてるだろう。栄光が来たとき、改めて見せてやればいいさ」 「うんっ!」 その満面の笑みを見て、ああ、そうだと思ったんだ。 前にも、確かこんなことが…… それはいつだったか、ずっと昔。同じような桜の下で、歩美が言っていたのを追憶する。 「ずっと、こうしていられればいいのにね」 「四四八くんにあっちゃん、栄光くん……みんなでこうして笑って、ふざけあって」 少し離れたところには晶が手招きしている。そんなことまで、まったく一緒の光景で…… 「そりゃ特訓は厳しいし、他にもいろいろあるけどさ。でもわたしは嬉しいの」 「一緒に頑張ろうね、四四八くん」 ところどころの記憶が曖昧だが、そう言っていたような気がする。 なんにせよ、昔から俺と歩美が一緒だったことには違いなく。 こいつが日常からいなくなるなんて、どうやったって信じられない── どうやら俺は、知らずのうちに微睡んでいたらしい。窓の外にある夕日が先ほどまでよりも深く傾いている。 早く起きていろいろ話そう、歩美。 みんな、おまえを待ってるから…… ………… ………… ………… 「ねえ、起きてよ」 奇妙な回想に意識がぼんやりとしていたとき、不意に優しい声がかけられた。 それはすっかり耳に馴染んだ声で、俺は気づいて飛び起きる。 顔をあげた俺の前には、目を明けて微笑んでいる歩美の姿。 これまで目覚めなかったことなどとっくに忘れてしまったかのように。どこか悪戯っぽい、いつもの雰囲気を浮かべながら── 「歩美……」 まだ頭に朧な倦怠感が残っていて、一瞬これが現実なのかどうかの判別がつかない。 歩美はそんな俺の様子を気にするように服の裾を掴んできて、やがて穏やかに口を開いた。 「ありがとう……わたしについててくれたんだね」 「嬉しいよ、四四八くん」 「────」 「でも、もう大丈夫」 「今まで寝てたぶん、いろいろみんなにお話しないとね」 そういうことで、結局俺たちは目覚めたその日に鎌倉の病院を無事退院した。 改めて検査を受けたものの、やはり身体には何の異常も見られなかったためだ。一切の原因が不明の集団昏睡ということで、病院関係者も首を傾げていたことだろう。 ただ、一番最後に目を覚ました歩美だけは諸々の手続きに多少の遅れが出ているようで、数日ほど検査入院をする方向になってしまった。 大したことはないという医師の説明もなされたし、過剰に心配することもないのだろう。今は歩美が意識を取り戻したということで、彼女の母親が色々と身の回りの世話を焼いている。 昔なじみでもある歩美の母親と軽く挨拶を交わし、一足先にこうして自宅に戻ってきたというわけだ。 「えー、わたしだけ入院するの? みんなは家に帰れるのになんでー?」 「もう元気だよ、つまんないよ。ねえねえ、こっそり抜け出しちゃダメかな」 「あーあ、一人だけ残るなんて最悪。ぶー」 当の歩美はといえば、自分だけ病院に残されることを嫌がっていたようだが……まあ事態がこうして大きくなってしまった以上、仕方のないことだと言えるだろう。 内心では深く安堵したというのが、俺を含めた全員の正直なところだった。ろくでもない可能性を考えてしまっていただけにその思いはなおさらだ。 ともあれ──もう少しだけ、あいつが戻ってくるのを待っていよう。無論、受け入れる体勢を万全に整えた上で。 現在は俺の家に、歩美を除く六人で集まっていた。今後の作戦会議というか、各々が得た情報の交換が目的の集まりだ。話す場所はどこでもよかったが、誰か他人のいるところで夢がどうだの言うわけにもいかないしな。 「とりあえずは、お疲れだったなみんな」 「退院してすぐ来てもらうことになってしまったわけだが、家の人たちは平気だったか?」 「あー、心配はしてたような感じだったな。うちの親は」 「ま、当たり前っちゃそうなんだけど、こればっかりは上手い説明もできねえしなぁ」 「我堂は?」 「大杉のところとだいたい同じ反応ね。すぐ外に出るって聞いて驚いてたわ」 「しばらくの間は家に閉じ込めておきたかったみたいだけど、まあ平気よ。事態が事態だもの」 「あんま心配かけんじゃねえぞ、鈴子」 「こういうときくらい言う事聞いてやるのも親孝行なんだからな。親御さんにツンケンした態度とか取ったりしてねえだろうな?」 「うっさいわね。知ったふうに」 「心配されてるのも、信頼されてるのだって分かってる。だからこそ、私はそれに報いるためにも、無事で帰ってこなきゃいけないのよ」 「──ん、そうだな」 「あたしは四四八んちに行くって言ってきたから、特に問題なしだったな」 「いい気晴らしになるだろ、くらいに思ってるっぽいし。むしろ行ってこいって勧められたくらいだわ」 「うちも平気ね。心配ないよ」 と、各人おおむね問題なく出て来られたようだ。 それぞれに多少の違いこそあれ、こういうときに家族が送り出してくれたというのは、普段からこいつらが積み上げている信頼の賜物かもなと思う。 そして、だからこそ── 「今回の一件についてだが、修学旅行が半端に終わってしまったことが最大の問題だと俺は考えている」 「あら、大杉みたいなことを言うのね」 「だろだろ四四八! あー、やっぱおまえもそう思っててくれたかー」 「たった一日だけで、言ってみりゃ強制的に帰らされたようなもんだからなぁ。正直くっそ納得いかねえわ」 「私も、いろいろと楽しみにしてたし残念だったな」 「みんなでいろいろ回る予定だったのにね。そりゃ、清水の舞台とかは行けたけど」 「そう、俺たちは夢と現実を区切ると決めたはずなんだ。〈戦真館〉《トゥルース》でどうなるか分からないぶん、〈千信館〉《こっち》では普段の暮らしを大切にしようということを」 「だからこそ、今回の敗北は痛かった。単に修学旅行が取り上げられたからじゃない、自分たちの誓った約束を破ったからだ。結果として周りに心配までかけた」 「それは、俺たちがもっとも避けたかったことだろう?」 頷く皆の表情には、一様の思いが宿っている。 俺たちはあくまで現代の人間だ。夢での出来事を軽んじるつもりなどまったくないが、こっちでの日々を全うするということこそが、本当に大事なこと。 「これからは、二度と現実を侵させない」 「だな。向こうに行くたびにいちいち入院させられてたんじゃ、面倒くさくてかなわねぇ」 「あんなふうにボロクソ負けるなんざ、今後一切御免だしよ」 鳴滝の言葉に同意する。そう、後手を踏まされるのはこれっきりだ。もう誰も危険に晒させやしない。 そのためには、二つの世界の繋がりを委細漏らさず押さえておくことが必要だ。生半可な知識をもとにして、行き当たりばったりで行動するのがこれから先は何よりも危険なはず。 どうやら同じことを考えていたらしく、世良が口を開いた。 「まず整理するべきは、あの時の戦いで私たちは一体どうなったかだよね」 「最後まで意識が残ってたのは、誰なのかな?」 全員が深手を負い、次々と事切れるように意識を失っていった〈戦真館〉《トゥルース》での戦闘…… これまでの相手とは違う、どいつもこいつも濃厚に死の匂いを纏った相手だ。悔しいが、幽雫さんに鍛えられて実力に一定の目処が立ったと思っていたのはまったく甘かったと言うしかない。 「最後に黒幕っぽい奴が出てきたのを、覚えてる奴はいるか?」 その問いかけに返事をする者はいなかった。すなわち、俺こそがあの場で最後まで意識を保っていたということになる。 歩美が退院してきたらまた改めて話を聞かなければいけないが、今はとりあえず置いておこう。 俺の質問に対してよく分かっていない表情を浮かべる一同に、なけなしの記憶で説明する。 「まあ、俺もよく覚えてはいないんだが」 「夢の世界には六つの勢力があったよな。そして、そのいずれもが覇を競っているとこれまでは思ってた」 「ただ、あの時に見たのは……あからさまに場を取り仕切っているような奴が新たに現れてきて、そいつの前では他の全員が結託を見せていたんだ」 「いや、恭順しているのかまでは分からなかったが、雰囲気からして少なくとも連携はあると感じたな」 あの破壊の権化──百鬼空亡の意志こそ未だ不明ではあるが、少なくとも他の連中には関係性というものが窺えた。 壇狩摩、百合香さん、神野、聖十郎……いずれもあの男の仲間というか、誤解を恐れず言ってしまえば部下であるかのような雰囲気すら感じさせる。 「……その四四八の感じたっていう印象がマジだった場合さ、あたしらの敵の認識って大きく間違ってたことにならねえか?」 「ああ、晶の言う通りだ」 「だからこそ、これまで持っていた考えに沿って動くのは危険だと思う」 「根本のとこから、今後の方針ってやつを考え直さなきゃいけねえってとこか……」 俺たちが現状を取りまとめている中、我堂が何か考え込むような難しい顔をして鳴滝に対して口を開く。 「淳士。あんた、何か〈分〉《、》〈か〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈る〉《、》んじゃないの?」 「……どした、急に」 「急でもなんでもないわよ。あれだけ妙な様子を晒しといてよく言うわ」 「辰宮の家に招かれたときからそうだったじゃない。意味もなく突っ張って、反抗的な態度取って……」 「初対面の人に対してそれって、無礼千万にもほどがあるわよね」 「あんたはそりゃ乱暴で野卑な奴だけど、あんな失礼な態度を取ってるとこなんてこれまで見たことないわ」 「私がずっと疑問に思ってたのはそんなところ。さあ、どうなのよ」 「……俺だって、よく分からねえよ」 我堂の切り込むような質問に、鳴滝はそう答えてどこかばつが悪そうに頭を掻く。 「ただ、辰宮の女は最初からどうも〈気〉《、》〈持〉《、》〈ち〉《、》〈が〉《、》〈悪〉《、》〈か〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》」 「あいつの顔を見てると、わけもなくイライラするっつうか……俺も無意味に荒れてるつもりはねえんだがよ」 「だから逆に、おまえたちがあの女を根っこから信用してるっつうのが、むしろ俺には理解できなかったんだ」 己の中にある感情の正体を探りながら、訥々とした調子で鳴滝はそう説明する。 確かに我堂が言う通り、辰宮に対する〈鳴滝〉《こいつ》の言動は俺たちと一線を画していた。 その理由まではまだ分からないが……そういう点についての違和感諸々を自覚したのが、俺にとってもつい最近だというのが奇妙に感じる。 なぜ俺は、鋼牙との乱戦が始まる段になるまで鳴滝の態度に齟齬を感じなかったのか。 いや、感じてもすぐ忘れたのか。 自分がどこか酔っていて、〈鳴滝〉《こいつ》は酔ってないとあのとき言ったのは反射で出たような言葉だったが、もしかしたら的を射ているのかもしれない。 「つうわけでよ、これまでおかしいのは自分の方なんじゃねえかと思ってたんだ」 「辰宮が怪しいのだって確証もありゃしねえし、それでおまえらに何かを愚痴るわけにもいかねえだろう」 「けど、悪かったな。言うべきだった」 まるで懺悔のように頭を下げる鳴滝に、聞いていた晶が割って入る。 「それは違うだろ鳴滝。今の聞いてたら、おまえが謝ることなんかどこにもないぜ」 「だって、それなら気づきもしなかったあたしらが悪いんじゃん。頭っから百合香さんのこと信じきって、疑いもせずにさ」 「だな。オレらが甘いっつう流れだわ」 「正直、今こうして教えてくれただけでもすっごく助かるもの」 「大事なのは、これからどうするかってことよね?」 「ああ」 ほぼ無条件に頼っていた百合香さんが敵であると仮定したとき、それが即座に意味するものは…… 「ともかくこうなった以上、今後は〈戦真館〉《トゥルース》で百合香さんたち貴族院辰宮を頼るわけにはいかない」 「彼女は確かに相手の側に通じていた。何か考えはあるかもしれないが、今までと同じように全幅の信頼を寄せるのは危険だ」 未だ推し量る材料に乏しい中ではあるが、当面の方針をそう結論づける。 疑念を抱いたままで会うわけにはいかない。夢の世界のことは当然ながら彼女の方が熟知しており、ならば俺たちに対し情報操作を仕掛けるのなど容易いことだ。 頭から悪人だと決めてかかるわけじゃない。信じたいという気持ちがまだ残っているのも事実だ。しかし、それらが鳴滝の言葉を覆す要因にはとても成り得ない。ここから先は一つたりとて零せないんだ。 思えば、定期的に辰宮邸に呼ばれて彼女と会談する場を設けてもらっていたのも、何かしら自分たちを〈嵌〉《、》〈め〉《、》〈る〉《、》ために必要だったからかもしれない…… 疑い始めればきりがなく、その辺りは本人に確認するしか仕方のないことだろう。とりあえず今のところは、百合香さんの別面を知れただけでも僥倖というべきだ。 そして、次の疑問は── 「世良、一つ聞きたいことがある」 「おまえの中にあるループの記憶……その中に、〈あ〉《、》〈の〉《、》〈軍〉《、》〈服〉《、》〈の〉《、》〈男〉《、》は存在しているのか?」 「推測の域を出ないものではあるが、敵勢力と深い関わりのある人間だ。以前、あいつに会ったことがあるか? もちろん思い出せる範囲でいい」 奇妙に歪曲した笑みが印象に残る、軍服を身に纏ったあの男が対抗勢力の中枢であるならば、当然にして前回のループ時もその場にいたはずだろう。 今は情報が少しでも欲しかった。奴の特徴でもなんでも、聞ければそれに越したことはない。 世良はしばらく考え込むようにしていたが、やがて眉を顰めながらか細い声で漏らす。 「何か、覚えてるような気がするんだけど……」 「あの人は……」 と、そこまで口にするが、しばらく待っても続く言葉は出てこない。 いや、それよりも世良の様子はどこかおかしく── 「どうしたの、水希。大丈夫?」 「あ……うん、ごめん」 「ちょっと、頭が……」 「とにかく、少し安静にして休みなさい。いいでしょ柊」 もちろんだと我堂の言葉に頷く。世良は突然起こった原因不明の頭痛に目を固く閉じ、壁に背を凭せかけて休息を取っている。 夢の世界を幾度となく繰り返しているその記憶は、おそらく世良にとってダイレクトに自我を構築している部分なのだろう。 記憶すら不完全なものだったのに、無理に特定の人物を思い出させるような問いかけはこいつにとって負担の大きいものかもしれず、これ以上はきっとやめておいた方がいい。 とりあえずの結論として、軍服の男の正体は不明……現時点ではそれで仕方がないだろう。 「あとよ、四四八」 「どうした」 「おまえ、狩摩に首筋噛まれて血ぃ吸われるみたいなことされてたけど、それは大丈夫なのか?」 「っていうかそもそも、あれって一体なんの意味があってやったんだよ。吸血鬼でもあるまいし」 吸血鬼──晶のその言葉は例えとして的を射ており、あのときの狩摩の行為は確かにオカルトめいている。 夢から覚めた今は異変も何もなく、再度眠ってみるまでは分からないというのが実際のところだ。 無論影響がないに越したことはなく、その意味では助かっているのも事実だが……正直な印象を言えば拍子抜けの感もどこかにあるのは否めない。 わざわざあんな真似をしているんだ、なんらかの効果があると考えるのが妥当だが…… 「……それって、オレらがこうして考えてても分かんないっぽくねえ?」 「あんなことする奴なんて夢の中でも初めて見たしよ、本人に聞きでもしなきゃ見当もつかねえだろ」 栄光の意見に俺も同意だった。まあ、そういうことになってしまうだろう。敵方の行為の意図などとてもノーヒントで解ける気がしない。 その辺りについても皆でひとしきり考え込むが、やはり答えは出ず。 ただ── 「あくまで俺の印象としてではあるが、吸血することによって〈何〉《、》〈か〉《、》を得ようとした感じではあったな」 「うまく言い表わせないが、他の連中に先んじるアドバンテージを得るためのものだったような気がする」 誰が俺の血を吸うのかと、あのとき軍服の男は確かに募っていた。まるでなんらかの特権を競売にかけるかのような口振りだったように思える。 ではその権利とは何かと問われれば、やはり分からないと言うしかなく…… ともかく、あの場において狩摩が獲得した〈も〉《、》〈の〉《、》は間違いなく存在する……直に見ていた者としてそこは言い切れる。後は、推測を詰めていくしかないだろう。 「柊の勘が正しいと仮定すれば、今もっとも警戒するべきは壇狩摩……つまり神祇省ね」 我堂の言葉に、俺たちの空気がにわかに緊張を帯びる。 壇狩摩。あの破滅的にすら映るすべてがデタラメな男。 神野や聖十郎、そして空亡……もちろん百合香さんも油断ならない相手であることに変わりはない。 だが、今後の流れとして自分たちの前に立ちはだかるのは神祇省に違いないと皆の認識がここに一致する。 敵が見えたという意味で、そして同時に脅威も明確に浮かび上がったという点で、それは決定的なインパクトだった。 「現状、分からないことは無数にある。暗中模索、ほぼ手探りの状態だと言ってもいい」 「だから、まずは確度が高い問題のみを見据えていこう」 「そうね。あれもこれもで手を回してたら、全部中途半端になっちゃいそう」 「神祇省への対処を怠らず優先していけば、その中で他の謎についても見えてくるんじゃないかしら」 夢の世界に入ったばかりの八幡宮の境内で、鬼面衆を含めた神祇省の連中と一戦交えたことを回想する。 それはまさに死と隣り合わせの記憶。一瞬の気の緩みすらも許されることはない、掛け値なしの最前線だ。 「再びあいつらと戦うことがあると仮定すれば、壇狩摩以外にも三人の戦力がいることになる」 「〈怪士〉《あやかし》、〈夜叉〉《やしゃ》、それに〈泥眼〉《でいがん》」 「お、思い出しただけでも大概な連中だな……」 「そんな奴らと喧嘩かまそうってんだから、オレらもいい度胸だよなぁ」 「割り当てを決めとかなきゃいけねえな。つまり、誰が誰をやるか」 「いざその場で迷っちまうよりは、今考えた方がいいだろう」 鳴滝の言葉に頷いて同意を示し、俺はしばし考える。 鬼面衆の戦術的特徴は、三者が三様のスタイルを持っていること。どいつも自分の形というものを先鋭化させ、それをもち敵を不意の一瞬で死に至らしめる。 そして各々の得意分野同士をかけ合わせれば、その連携を前に付け入る隙は絶えてしまうだろう。つまりは奴らを孤立させることこそが肝要で、ならば。 「怪士は、鳴滝と俺がやる」 「あいつの武器は徹底的に鍛練を重ねたその武術だ。接近を許したときに、こっちもある程度の格闘の心得がないことには話にならない」 再度距離を稼ごうとしたところで、おそらくは襲い来るであろう一気呵成の猛攻に耐えることはできないだろう。 俺と鳴滝にしても万全の迎撃態勢とまではいかないが、それでも他に適任はいない。 「やれるか、鳴滝」 「くだらねえこと聞いてんじゃねえよ」 「なら、決まりだな。そっちは──」 「夜叉と戦うのは、私と水希ね」 「あれだけ手数の多い相手だもの、スピード重視で対応したほうがいいでしょう」 我堂の見解は俺の出したものと同じ。 夜叉の暗器術に対抗するには、あいつと同じ高度な物質クリエイト能力。プラス手数に負けない速さが必須だ。 そうなると、俺たちの中では、やはりこの二人ということになる。世良の調子に心配は残るが、もしも回復しなかった場合は別の方策を考えるしかない。 ならば、残る相手は一人。 「泥眼は、オレにやらせてくれ」 栄光が口にしたその言葉には、確固たる決意の色が感じられた。 俺を見据える表情にはいつものふざけた様子も、ましてや臆病さなどというもの存在しない。 「頼りにならねえかもしれないけどよ……あいつだけは、オレに任せてくれないか」 「絶対に、それこそ差し違えてでもやってやるから」 栄光がこれだけ強く意志を押し通そうとするのはいつにない事で、俺は思わず目を見張る。 ただでさえ荒事は苦手なはずで、今回にしてもこいつには後方からの支援を任せようかと思っていたくらいだ。 「本当に大丈夫か? 言っておくが、差し違えてもらっちゃ困るぞ」 「ああ、イマイチ信用できないだろうとは思うけど、頼むわ」 「きっちり勝って、戻ってくるからよ」 その筋の通った眼差しに、返って一抹の不安は抱いてしまうものの…… 実際のところ、泥眼を任せられるのは栄光くらいだろう。相手は完全な隠密状態を己が強みとしている暗殺者、ならばこちらもキャンセルの能力に相当長けていないと手に負えない。 つまり相性としてはもっとも噛み合っており、栄光のその意気に異論を挟む余地はない。 「あたしはみんなのサポートに回る」 「いくらやられようが、ばっちり回復してやっからよ。あ、今度はキーラのときみたく速攻やられやしないから、心配しなくても大丈夫だぜ」 そう後衛役を請け合うのは晶だ。ああ、頼むぞ。もうあんな肝が冷える光景を目の当たりにするのは御免だからな。 俺たちは、誰一人として欠けることなく朝に帰ると決めたんだから。 ここまで話して、鬼面衆との決戦時の大枠は決まった。しかし、肝心の狩摩の相手はどうするか。 それを決めなくてはならないのだが…… 今まさにその話に入ろうとしたところで、鋭い着信音が鳴り響いた。出所を見るとどうやら我堂の携帯のようだった。 「ごめんなさい、もう……柊、少し出てもいいかしら?」 「ああ、もちろんだ」 「父からなの。まったくもう、心配しなくても大丈夫だって言ったのに……」 どうやら電話の相手はこいつの親御さんからで、我堂の反応を見ているとそろそろ戻ってきたらどうだという類の内容みたいだった。 「あのね、父さん……だから、今そういう場合じゃないから。みんなで集まってるんだから少しくらい平気よ」 「え? いやよ、そんな……」 「我堂。今日のところは、話をこれくらいにして切り上げよう」 父に電話で反抗をしているらしい我堂に、俺はもうお開きにしようという提案を耳打ちする。 俺たちにそれなりの理屈があるように、親の側にだって考えはあるだろう。昏睡状態に陥っていたという今回のような事態の後で、我が子に対する愛情が深ければなおさらだ。 こっちの世界では、そういうものを無視しないって俺たちは決めたのだから。 そんな俺の意図を汲んで、我堂は父に渋々ではあるが了解の旨を伝える。通話を切って一つ深い息を吐き、口を開いた。 「柊。私の都合で、この場を閉めちゃってよかったの?」 「いいんだよ。なんにしろ大前提として、歩美が戻ってくるまでこっちから行動は仕掛けないんだから」 「つまり、また少しの間おまえたちには徹夜を頼むことになる。もちろん俺も眠らない。行動方針を決定するのは、全員がここに揃ってからだ」 「どうだ、みんな。耐えられるか?」 「余裕よ」 「なんせ、今日までたっくさん寝てるしな」 「むしろなんか寝疲れたわ。あー、オレも四四八みたいにその辺ちょっと走ってくるかなぁ。身体相当なまってるし」 「道端歩いてる姉ちゃんに、見境なく声かけるなよ。深夜それやったらおまえ単なる不審者だかんな」 「大杉くん、明日の朝刊にニュースで載るのはやめてね」 「しねえし! っていうか水希までひでぇっ」 「話は纏まったな。なら、この場は今日のところはお終いだ」 「俺たちは退院明けなんだ。それぞれ親が心配してるだろうし、早く家に帰って安心させてやれ」 そういうわけで── 今後の方針をともかく決定したことにより、俺の家での会合は終了したのだった。 みんなが帰って、すっかり普段の静けさを取り戻した自室。 いつもと違う賑やかな時間を過ごしていたせいか、あるいは病院で長らく眠りに落ちていたためか、深夜になっても睡魔が訪れるということはなかった。 何の策もなく夢の世界においそれと訪れるわけにもいかないという現状、目が冴えているというのは好都合だった。まあ、数日程度の徹夜であれば以前のようにどうにかこなせるだろうが。 俺は蒲団に入ることなく、本棚から出した南総里見八犬伝をなんとはなしに開いていた。こんな非常時に取る行動ではないのかもしれないが、あえて通常のリズムを崩さずに過ごす。 〈千信館〉《トラスト》ではこうすると決めていたし、何よりも俺自身が日々の暮らしを重んじたいから。 あらゆる事象に惑わされず、フラットな精神状態で現状を振り返りたいという考えがあった。 今、この追い詰められたような状況を生んでしまったのは、要するに自分たちの無知が招いたことだろうと俺は思う。 この場合に求められているものはただ博識であるというのみならず、得た情報の運用が適正に行えるかどうか、それによって己の成すべきことを成せるかというすべてを纏めた総合的な概念での話となる。 つまりそれは、仁義八行でいうところの智であって…… 自分たちにはそれが足りず窮地へ追いやられたのだとしたら、これからの戦いで状況を引っ繰り返す余地はまだ残っているということになる。 つまり、現状の不足分がすなわち伸びしろに他ならないのだから。これから先も弱点であるなどという悲観的な考えをする必要はなく、むしろ俺たちの武器となる可能性だって秘めていると言えるだろう。 そんな中で智を持った仲間……犬士で言えば〈犬坂毛野胤智〉《いぬさかけのたねとも》に該当するのは、自分たちの中ではやはり歩美になるだろう。 あいつは普段から調子に乗っているふりをして結構鋭いし、土壇場での度胸だって据わっている。 栄光や晶が万事にのめり込んでしまう性質の分、同じようにはしゃぎながらも歩美はどこか俯瞰の視点を持って行動しているように俺の目には映っていた。行き過ぎた仲間たちをあいつが諫める立場に回ることも一度や二度ではない。 俺みたいに、途絶えることのない明晰夢で人生の時間を嵩増ししているという事情があるのならばともかく、歩美の性格はこの歳でなかなか形成されるものじゃない。あの強メンタルは、純粋に凄いと言わざるを得ないだろう。 そんな背景もあって、日頃から俺が密かに頼りにしているのがあいつだった。実際、本人にそう伝えたこともある。 そこにいるだけで、みんなが無意識に頼りにする存在。仲間内の安全弁なんだと最近は気づかされた。 歩美が俺たちの後衛となって全体の底上げをしてくれるから、みんな思うさま突っ走れるんだ。 だから早く戻ってこいよと、そんなことを考えていたとき── 「ん……?」 窓の方から、〈何〉《、》〈か〉《、》が当たったような微かな音がした。 見ると、外はいつもと変わらず静謐を湛えた夜であり、とりたてて雨も降っていない。 つまりは気のせいか、まあ大したことでもないだろう。そう思いながら再び本に視線を戻していると。 ……やはり、聞き違いではない。一体なんだ? そう思い、何者かの仕業なのかと窓を開けて外の様子に目を凝らして見ると。 「やっほー、四四八くーん。わたしだよ、歩美ー」 「どう? びっくりした? びっくりしたでしょ。あ、窓開けてくれるかな?」 「な、ッ──」 物陰からいきなり歩美がその姿を現わした。 まったく予想外の事態に、頭が一瞬混乱状態に陥ってしまう。なぜ、ここに歩美が? だって、今こいつは検査入院でいないはずだろう。 っていうか、窓に何ぶつけたんだ。普通に玄関から来て呼び鈴押せばいいのに、まったく意味が見えやしない。 「あれ? 窓の鍵開いてるじゃん。四四八くん、いくら男の子だからってこのご時世にそれはちょっと不用心だよ」 「んじゃ、おじゃましまーす。んしょっと」 呆気に取られたままの俺に取り合おうとすることなく、窓を開けてそこから当たり前のように身をこじ入れてくる。 窓の桟に乗って靴を脱ぎ、牛若丸よろしくひらりと部屋に着地する。ああ、思うことは多々あるが、順を追って一つずつ紐解いていこう。 そう己に言い聞かせながら、なにやらそわそわしたように部屋の中を見回している歩美に訊いた。 「質問なんだがな、おまえ、さっき何投げたんだ?」 「え? ああ、これだよ。見る?」 「どれどれ……って、おまえこれッ」 差し出された小さなその掌に乗っていた〈も〉《、》〈の〉《、》を見て、俺は反射的に一歩後退ってしまう。 ──それは暗緑色の甲を身に纏った、親指の爪程度の体長を誇る節足動物。 要するに、カナブンだった。 今回の歩美の行動には一切の脈絡というものがなさすぎて、怒りも呆れも覚えない。ただ、深い溜め息だけが肺の奧から迫り上がってくるのを感じる。 これを人ん家の窓に向かって投げつけていたというのか。子供かおまえは。 いや、実際のところ昔はそういう悪戯もやっていたし、まったく未知の発想というわけでもないだろう。童心を忘れず、変わっていないというべきか。 でも成長とともに、人間って普通変わるものだろ。ではなくて、なんと声をかければいいのか分からない。 「ふふーん。どう、さしもの四四八くんでも驚いたでしょ」 「これ、集めるのに苦労したんだからっ」 そう薄い胸を張って言う歩美。なぜそんなに得意気なんだよ。 苦労をしたと言うが、それに釣り合う価値がある行動なのか。問い質したいような気もするし、ひどくどうでもいいような気もする。 「一口にカナブンって言っても色々種類があるんだけど、この種類のやつは実に投擲に適していてね」 「見てよちょっとこの形。かっこいいでしょ。クールでしょ。鈍く光を反射してる甲羅なんて、大きさ含めて銃弾まんまだよね」 「射撃ならお任せのわたしだしー、そこの木の陰に隠れて部屋の窓を狙って投げてたってわけ。命中率はなんと、脅威の100パーセント」 「まさに弾丸を装填した一丁の銃、ってところかな」 「何を言っているんだよ、おまえは……」 「そもそも女なら、少しは虫を怖がるものじゃないのかよ。きゃーとかいやーとか、何かあるだろう」 その手の反応こそが、カナブンを取り扱う際の一般的な女子のイメージとして俺の中には存在しているんだがな。 少なくとも、こんな喜々として部屋の窓に昆虫狙撃を敢行する奴が一般層だというのは聞いたことがない。 「いや、虫って可愛いじゃん。引っくり返すとわきわき動いててさ」 「あ、でもあいつ、神野は気持ち悪いね。あれはわたし無理。できれば今後も近づきたくないんだけどー」 それはそうだな、と思わず同意してしまう。確かに、あれは本能的に嫌悪感を覚えるよな。 と、ひとしきり普段のノリでの会話を交わし…… 「で、おまえ何しに来たんだ」 「というか、病院はどうしたんだよ。こんな時間に外出許可なんて出るわけないし」 そう至極真っ当な突っ込みを入れてしまう。歩美は何やら面倒そうな表情を浮かべているが、質問は引っ込めんぞ。 それなりに心配してるんだ、このくらい訊いてもいいだろう。 「だーってー、病院って退屈なんだもん。ご飯は柔らかいものばっかでおいしくないし、消灯時間は超早いしさ」 「検査入院なんていってもさ、わたしはこの通り平気なんだもん。大人しくしてるのが馬鹿馬鹿しくなって、つい脱走してきちゃったってわけ」 「えへっ」 「えへっ、じゃないだろ……」 徹頭徹尾自分の都合のみを並べ立てる歩美に、俺は今度こそ呆れてしまう。おまえはそれでいいかもしれんが、いきなり娘が病室からいなくなってたら両親が心配するだろうに。 「とにかく早く帰れ。病院までは送ってやるから」 「やだ」 「今ならまだ間に合うって言ってるんだ。そもそもおまえが昏睡状態だったのは事実で、体調に不安が残ってるのも本当なんだぞ」 「あとついでに言えば、ここは遊び場じゃないんだよ」 「あー……四四八くん、わたしにそういうこと言っちゃうんだ。ふーん」 「決めた。もう絶対あんなところに帰ってやんない。で、学園にも行かずにここで不登校する」 「ニートになってやるんだからっ」 どうしてそうなるんだよ。バレないうちに病院に戻ることを勧めるものの、歩美はなんだかんだと頬を膨らませてゴネている。 というか、機嫌が悪くなる。 最初は冗談めかして拗ねていただけだったが、だんだん取り付く島がなくなってきているように感じる。どうもその原因は、話している内容によるもののようだが…… 窺うようにその表情を見てみると、歩美はぷいっと横を向いて言った。 「夢の中であんなことになっちゃって、四四八くんが落ち込んでると思ったからせっかく来てあげたのに……」 「なのに何なのその態度。女の子に対して、ちょっとひどくなーい」 「四四八くんの言ってることは正しいよ。だけどさ、今そういう話を持ち出してこなくてもいいっていうかさー」 「ぷんぷんだよ、本当に」 自分でぷんぷん言うなって。 しかし、聞いてみてだいたいではあるが分かってきた。要するに、わざわざ会いに来たというのにその態度はないだろう──と。 もっと言えば、つれない対応をされれば機嫌も悪くなるということか。 まあ、一理あるかもなと思う。それなりに俺のことを慮りながら来てみれば、待っていたのは説教だったのだ。そうじゃないと思うだろうし、落胆だってするだろう。 そんな歩美の仲間思いの一面に、まあいささか気恥ずかしくはあるものの…… 「だいたい四四八くんさ、わたしが目を覚ましたとき、ちょっと泣きそうな顔してなかった?」 「あーんなに感情的になってくれたのにー、今はそういうふうにはできないんですかねー」 一転、つい先ほどのことを意地悪く突っ込んでくる。 その表情はすっかりサディスティックなものに豹変していて、これは情けをかけた俺が甘かったか。 というか、だ。 「そもそも俺は泣いてないだろう」 「勝手な捏造は困るぞ。そりゃおまえが目を覚まして、安心する気持ちがあったのは確かだが」 「あーあー、知りませーん聞こえませーん」 「四四八くんはそう言ってればいいんじゃない。わたしはあの涙を一生忘れたりはしないから」 「美しい思い出として、永遠に胸に抱き続けてやるぅ」 おまえにとってどういう記憶になってるんだよ、あれは。 耳を塞いで声を上げる歩美は、俺の弁明に欠片も取り合う様子を見せはしない。ああ、まったくこいつは本当に。 そんな不毛極まるやり取りを、しばらく続け── 「……まあ正直、元気そうで安心した」 俺の方から態度を軟化させ、ここらで折れることにした。 歩美もたいがい頑固だからな。こうして言い争いをできるまでには回復したみたいだし、今日のところは降参ということでいいよもう。 「病院から勝手に抜け出したのには感心しないが、俺の家まで来てくれたのは嬉しいよ」 「ありがとうな、歩美」 「まったく、最初からそう言ってくれればいいのに」 「女の子が、早く顔を見たかったって部屋まで来てくれてるんだよ? そう言われて素直に喜ぼうよ、男の子ならさ」 まったく、まだ検査入院中であるにも関わらず、歩美のマイペースぶりに振り回されている自分を感じる。 しかしそうしていれば、少しくらいの気がかりなら忘れてしまうことができた。そんな自分を自覚しつつ、俺は口を開く。 「歩美は、昔からそういう奴だったよな」 「いつだったかな……まだガキの頃、晶の家の蕎麦屋で栄光に蕁麻疹が出たときもおまえはどこか平然としてたよな」 「ちょっとした騒ぎになってさ。剛蔵さんなんて、見ててかわいそうなくらいに慌ててたのに」 「だって栄光くん、体調悪いときって何を口にしてもぶつぶつ出ちゃうんだもん」 「すぐに引くって知ってたからね、パニクるようなことじゃないよ。あれはむしろムリして頼んだ栄光くんが悪い」 当の本人いわく、食いたかったから食って何が悪い、だったか。あいつはあいつでまったく仕方のない奴だ。 店の評判に傷でも付いたらどうするつもりだったんだと説教したら、青ざめて剛蔵さんに謝りに行っていたけども。 「いや、でもあれだけ派手に蕁麻疹が出てたし、それで平然としていたのはさすがといったところだろう」 「他にも晶が近所の犬に追いかけられたときもそうだし、俺が車に轢かれかけたときもそうだった。挙げていけばいくらでもあるさ」 「………………」 「子供の頃から、おまえは物事に動じないメンタルだったんだよ。大したものだと思う」 そして、それは今もそう。 常に己を見失うことなく、地にしっかりと足を付けている。歩美の本質は現在に至るまで一貫してずっとブレがない。 「あんな大事があったのに──いや、本当はいろいろと思うところがあるのかもしれないが、歩美は普段と何も変わらない。変わらずいてくれる」 「それは本当に凄いことで、俺は昔からずっとおまえには一目置いてるんだよ」 自分の気持ちを、そう素直に口にする。面と向かって告げる機会はなかなかなかったが、これもまたいいタイミングというものだろう。 「ああ、うん……えっと、ありがとう、でいいのかな?」 「そんな、四四八くんに褒められるようなことでもないんだけどね……」 だが歩美は、俺の言葉に対して微妙な反応を見せている。もじもじと身体をくねらせて、その様子はまるでどこか困っているかのようだ。 歩美なら、そして今日これまでのノリならば天狗になったとしてもおかしくなさそうなものだというのに。 まるで植物の棘が指先に刺さったかのような違和感を覚えた俺に、歩美は唐突にどこか甘えるような声音で言った。 「ねえ、外行こうよ」 「わたし、海沿い歩きたいなぁ。ほら、最近夢の世界にずっといて、しばらくあの辺りに行ってなかったし」 「……こんな夜更けにか?」 いきなり話題を変えられて、俺は梯子を外されたような気分になってしまう。 「いいじゃん、行こうよ。海辺のデート。四四八くんがいてくれれば夜道も安心でしょ」 「デートって、おまえな」 「それにこの部屋、なんだかちょっとカナブンくさいんだもん」 「おまえが持って来たからだろ、それは……」 「ていうか、いつの間に床に散らかしたんだよ。くそっ、後で片付け手伝えよ」 「はいはーい」 「だからさー、ね。お散歩行こうよ」 「ああ、分かったよ」 歩美の勢いに白旗を上げざるを得ず、俺は頷いた。 どうせ今日は眠れないのだ。だったら、幼なじみと二人で夜の散歩に行くのも悪くはないだろう。 歩美を連れて、家の玄関から外へと出る。 夜の空気は、触れるだけで突き刺さりそうな寒さを帯びている。大きく深呼吸をすると、肺の中がそれだけで澄み渡っていくように感じられた。 普段は当然この時間は睡眠を取っている時間ではあるが、たまにはこうやって外気に触れるのもいいかもな。 「いいか、朝が来る前に病院に戻るんだぞ。このまま逃げるとかは絶対なしだ」 「その約束が守れるなら、まあ散歩くらいは付きあおう」 「はい、了解であります柊四四八殿っ」 「へへっ、深夜の街だぁ。なんだかわくわくするね?」 ああ、そうだな。 まったくおまえは……と思いながらも、頬に入った力は緩んでしまう。二人で外出するその足音が、静謐を湛えた夜の闇に響くのだった。 海沿いの通りを、月明かりを頼りにして歩美と二人で歩く。 周囲に街灯は少ないものの、意外と何も見えないということはなかった。僅かな自然の光さえあれば、そうそう困るということはないのかもしれない。 寄せては返す波の音が耳に谺し、汐の匂いが鼻をくすぐる……昔から慣れ親しんできた道を浜辺に向かって進みながら、歩美と時折言葉を交わす。 今の俺たちが話す、その内容とはやはり── 「ごめんね。わたしのせいで、修学旅行台無しにしちゃって」 「起きたら鎌倉で入院してるとか、シュールな展開にも程があるよね。あんな変な終わり方になっちゃうなんて、栄光くんとか悲しんでるかなぁ」 「いや、寝てた期間で言えば俺たちも歩美とそんなに変わらないんだ。どのみち同じことだったんだよ」 「むしろ、他のクラスメイトたちに申し訳ないことをしたかもな。一気に七人も修学旅行を離脱すれば、どこか変な空気にもなっただろう」 「うー、そうかもねぇ」 などと、修学旅行の顛末についての会話を交わす。 〈現実〉《トラスト》にいるときは〈夢〉《トゥルース》の話は極力しないということだったし、だとすれば必然的にこの話題に至るというものだろう。 実際にこちらの世界で昏睡状態にまで陥ってしまった今、もうそんな状況ではなくなっているのかもしれないが…… ここまでどこか歩美は夢の話を出さないようにしているし、また触れたくなさそうな雰囲気だ。 なので、俺もあくまで現実の立場のみで会話をしている。〈千信館〉《トラスト》の柊四四八、一個人として。 「形はどうあれ修学旅行も終わったし、次は総代選挙だな」 「あー、りんちゃん出るんだよね」 「四四八くんは……どうするのかな?」 「出るよ。一応、我堂にもそう言っておいたしな」 「なんだかんだ、あいつも選挙で勝負するには不足のない相手だよ。挑まれれば、喜んで受けて立つさ」 これは本当のことで、我堂は性格にこそ若干の難があるものの、仲間としてのその能力の高さは認めている。 何かにつけて張り合ってきた時間も決して短いものじゃないし、だからこそ分かることもある。 こっちの勝負は、水入りなんてことがないようにしないとな。 「それが終わったらもう期末試験だよぉ」 「こないだテスト受けたばっかなのになぁ、はー」 「俺たちは学生だからな、当然だ」 「テストなんてものは、なにも苦労させられるだけの存在ってわけじゃないぞ。将来のためにも、この今をこそ鍛錬あるのみだ」 「ぶー。なーんか、言ってること先生みたいだよ」 「あれ? そういえば、将来っていうか進路のことって、四四八くん何か決めてるの?」 「わたし、聞いたことないかも」 「そうだったかな」 言われてみれば、まだ歩美には話してなかったか。いつも近くにいるのが当たり前すぎて、ことさら機会を設けて伝えてはいなかったというところだろう。 やがて道の先に夜の浜辺が見えてきた。そちらに歩を進めながら、俺は自分の将来についての考えを口にする。 「俺は、検事を目指そうと思ってる」 「法や規則、そういうものを扱って世の万象に向かい合いたいんだ。やり甲斐も感じられる仕事だしな」 「といった理由もあって、今勉強をしておかなきゃってわけだ」 「へぇー、そうだったんだね……でも、なんだか分かるかも」 「四四八くんって、法律の専門家とか似合いそうな感じだもんね。規則はきっちり守るしさ」 「別にどの道を志すとしても、規則は守るものだと思うがな」 「もう、また堅いこと言って」 「わたしは、自衛官になりたいの。物心ついたときから、ずっとそう思ってた」 そんな未来のことをお互いに話しながら、俺たちは浜辺へと到着する。 歩美が自衛官を志望しているというのも初耳だったので、聞かされていささか驚いた。なるほど、たとえ幼なじみであろうとも腹を割ってみないと分からないものだ。 少し意外な進路希望ではあったものの、歩美には似合っているのかもしれないなと考える。 いかなるときにも動じない、冷静な判断力を有しているこいつであれば、自衛官という職務への適正そのものはかなりのものではないだろうか。 「だが──そのためには、もっと身体を鍛えておかないと駄目だろうな」 「歩美は一般の学生と比べても体力はない方だろう。それじゃいつかきっと厳しくなるし、根性だけじゃ行き詰まる」 「精神力なんてのは、基礎体力があってこそ活きるもの……これはどの仕事を選ぶにしても言えることだと俺は思う」 つい口をついて出てしまったお節介に歩美は苦笑しつつ、一歩前に出る。 「──そうだね。分かってる」 「ありがとう、四四八くん。応援してくれたんだよね」 そう微笑んで言ってから、俺の目を覗き込む歩美。 見ているだけで吸い込まれそうな色を、その瞳に浮かべて…… 「わたしはね、自分を試したいんだ」 告白か何かをするように、どこか厳かな声音で言う。 それはこれまでずっと一緒だった歩美の、心の奧に息づいていた本音のようで。 「日常ってさ、ある意味予定調和じゃない。楽しいことも、辛いことも、ここからここまでの範囲で起きますよーっていうみたいなさ」 「もちろんそれでも毎日楽しかったし、これからもみんなと一緒にいたいよ? でも……だんだん、わくわくできることって減っていくよね」 「ちょっと中二っぽいこと言っちゃうけどさ、日本ってすっごく平和な国だとわたしは思うの」 「夜の街だってこうして歩けるし、路上で寝てても身ぐるみ剥がされないし、普通の暮らしをしてたら、銃なんてなかなか手に入れづらいし……」 「なんだかんだで、安全が担保されてるんだよね」 「だから自衛隊、っていうのも単純な話かもしれないけどさ。入隊したからって、別に危険な任務は回ってこないかもしれない」 「わたしはただでさえ女なんだし、四四八くんがさっき言ったように体力もないしね」 「だけど……普通に生きてるよりは、修羅場みたいなのに立ち会える確率はきっと高いよね」 「そのときになって初めて、自分ってどういう人間なのか知れると思うんだ」 「ほら、わたしってピンチになんないと、いくらでもサボっちゃうからさ」 「ちゃんと向き合いたい。知りたいの」 「これからも四四八くんの仲間として、恥ずかしくない人間でいたいから──」 遠くで波音がさざめいていた。 まるで熱に浮かされたようにそんなことを話す歩美に、俺はどこか不穏なものを感じる。 歩美が身に纏っているのは、何か瀬戸際まで追い詰められているような張り詰めた雰囲気。 今の話にしてもそうで……なんと言えばいいだろう、物事の一面しかこいつは見ていないように思える。 自衛隊に入ることがすなわち、身を窮地にさらすこととイコールであるという図式は俺の中になかったのだが、歩美は完全にそこを見据えているような印象すらある。 それはFPSが趣味だからというレベルでも、なんの冗談でもなく。 確かに、そういうことも想定するのが正しい在りようなのかもしれないが、この状況にはどこか違和感が拭えない。 手段と目的が入れ替わってるような、そんな据わりの悪さ。 まるで修羅場を……命のやり取りをする経験がしたいから、自衛隊に入ると言っているようで。 違うぞ馬鹿、考えを改めろ──そう頭の中では制止するべき声が渦巻いている。しかしそれを口に出す前に、歩美はさらに話を続けた。 「我も人。彼も人」 「四四八くんはそう言ったよね。それが〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》だって」 「わたしもね、胸を張ってそう言えるようになりたいの。傍観者なんかじゃない、一人の〈我〉《、》として」 「だから──壇狩摩はわたしに任せて」 唐突にそう言って、歩美は踵を返し走り去っていく。 「おい──」 一瞬不意を突かれるも、俺は歩美の背中を追いかけた。くそッ、どういうことだよこれは。 幸い、歩美の足は速くない。次の瞬間には彼女の手を掴みこっちを振り向かせると── 「ッ──」 「四四八、くん……」 歩美の目には、大粒の涙が浮かんでいた。 今まで共に過ごした時間の中で、歩美が泣いている姿なんてほぼ見たことがない。正面から見つめられ、わけもなく鼓動が早鐘のように脈動する。 歩美は一粒、また一粒と涙を頬に伝わせながらその表情をくしゃくしゃに歪めていた。そのまま、俺の胸を握った拳で叩いてくる。 「もう、見ないでよぉ……っ」 歩美の震えている手に力が籠もる。顎の先から涙が砂浜に零れる。 そのときようやく俺は気づいた。これが歩美の本当の感情なのだと。 小さな身体の奧に隠していた、触れれば火傷するかのような激情なのだと。 「お願い、だから……四四八くんっ……」 名前を呼んだと同時、歩美は俺に抱きついてきた。 柔らかく、そして軽い身体の感触。わけが分からず、理解もできず、焼き切れそうな血液の逆流の中でただ歩美を抱き留める。 俺の腕の中で、歩美は小さく震えていた。 何に、そして誰になのかは分からない。しかし歩美は凄く怖がっている。怯えていると言ってもいい。 その様子はまったくこいつらしくなく、いや── 俺がこれまで見ていた龍辺歩美という人間像が、彼女のすべてだということなど有り得ないんだ。そんなものは、ほんの表層をなぞっただけに過ぎなかったのかもしれない。 「わたし、全然強くなんかない」 「冷静なんかじゃないし、いつも心の中はドロドロしてる……とっても卑怯で、汚くて、恥ずかしい……」 「そんな、ずるい奴なの。四四八くんや、みんなとは違う……」 歩美はそんなことを言いながら泣いていた。 俺はそれに、なんと言っていいかしばらく迷う。しかし頭の中はとっくに高熱に侵されていて、まともな思考なんて働きやしない。 こんなときにこそ考えなくてはならないのに……そう思う反面、頭で出した結論などこの場で意味を成さないということも理解していて。 いたずらに時を過ごし、やがて俺は歩美に告げた。 「……正直、驚いている」 「今の俺には、まだ何も分からない。掴めてなんていないが、言えることはある。これだけは歩美にどんなことが起ころうが変わらない──」 「おまえは俺の幼なじみで、クラスメートで」 「誰よりも頼りにしてる仲間なんだ」 そんな俺の言葉を、歩美は腕の中で聞いていた。 そして顔を上げると、窺うような視線を俺に向けて言う。 「──それって、兄妹みたいな感情ってこと?」 唐突に発せられたその問いに対して、俺は…… ──心に湧き上がってきた感情は、その通り。 歩美は俺の幼なじみで、悪友で、言うなれば兄妹のような関係だったはず。 しかし、目の前の温もりや身体の震えが、そんな俺の口を塞いで…… 「いいや」 気づいたときには、そんな言葉を口にしていた。 ──迷うことなく、絶対の言葉を発していた。 「いいや」 歩美は俺の幼なじみで、ずっと一緒にいた間柄だ。 だけど、兄妹のような情に結びつくかと言われるとそれは違う。もっと、心の奥底から互いの存在を近くに感じ、思い合えるような…… その感情をどうにか言葉に纏めようとしていると、歩美は続けて問うてきた。 「じゃあ、どんな?」 重ねて言われ、歩美の視線が俺の心を掻き乱し、ああ収まれ── 「それは、たぶん……」 そこまでどうにか口にするが続きが出てこない。どうしてだ、迷っているのか? 歩美が問いたいのは、きっと二人の距離感の話だ。しかしその定義は、今の俺にはまだできておらず── 「宿題、ってことにしといてくれないか」 この場は、そう返すに留まった。 言葉を濁して逃げたわけじゃない。今のこいつに対する答えは、何よりも真摯に考えなくてはならないと思ったからだ。 はたして、そんな俺の気持ちが伝わったのか。 歩美は薄く笑んで頷く。 「うん、分かった」 「でも、あんまり待たないよ。わたし、我慢なんてしないんだから」 ああ、急ぐよ。 こんなことをいつまでも放ってはおけないだろう。大事なことを棚上げしたまま日常を過ごすなどというのは、俺にできそうもないし。 そして何よりも知りたいんだ、自分の気持ちというやつを。 頷いて視線を向けると、歩美は憂いをその表情に浮かべて少しだけ身体を寄せてくる。 俺たちは言葉少なに月光の下、しばらくそのままでいるのだった。  そこには一切の音が存在しない。  月の存在しない夜のように暗く、漂う空気はさながら氷の世界に迷い込んだかのように張り詰めており寒々しい。  ここは俗世の賑わいとはもっとも縁遠い場所……想起するのは海底の静寂であり、地上と同じ世界であるとはとても思えぬ様相を呈していた。  すべてから隔絶された闇の中――燭台の火に照らされて不気味に蠢く影がある。  その者の名は神野明影。  醜く歪んだ口端に滲む感情は何者かに対する嘲りのようであり、あるいは侮蔑のようでもある。  いずれにせよ、それは見る者の精神を苛立たせ、不安にさせる凶相であることに論を挟む余地はない。  揺らめく影は、巨大な材木らしき物体を移動させている。  それはただ黙々とした単調な挙動であり、この世界の終焉めいた空間において動きというものが存在するのはそこのみだった。  彼が行っているのはただ遊戯であり、件の行動を例えるならば縮尺のいささか狂った積み木だと表現することができるだろう。  材木めいた部品を弄り、何をするでもなく転がし戯れている。  細部で言えばかなり稚拙な作りの柱材ではあるが、その規模はただ巨大。そして形状を正しく嵌めれば〈あ〉《、》〈る〉《、》〈形〉《、》へと完成するようにできている。つまりは無駄に凝っていた。  ゆらりと燭台の火に照らされながら、取り組む姿勢は鼻歌混じり。  その貌には奈落の相が濃く渦巻いており、世界の誰とて彼に近付いては嫌悪感しか催さないだろう。  波打つ金色の髪が時折炎の光を閃かせ、次の瞬間には再び闇に落ちている。つまり捉えることは叶わず、ただこの空間に腐臭を振り撒きながらたゆたうばかり。  今もご機嫌で独り遊びに興じているが、瞳の色はどこか偏執的で、且つ病的だ。  禍々しさを色濃く漂わせまま、彼がその作業に没頭していると…… 「──それが、あの学舎というわけか」  神野が一息入れようとした頃に、闇の中から現れたのは柊聖十郎。  彼もまた委細が知れず、表面的な風貌でその内奧は計れない。長身を揺らしながら、凶面の黒影に接近してくる。  一つだけ断ずることができるのは、この場に馴染んでいるという意味において、彼も神野と〈同〉《、》〈じ〉《、》〈側〉《、》の人間だということだ。  質問を投げかけるその口振りは大して面白そうな風でもなく、ただ聞いてみただけというもの。  神野が弄んでいる積み木紛いは、見れば果たして戦真館の校舎を模していた。校門、本館、その他すべてが揃っている……  否、どこか不気味なほどに〈符〉《、》〈合〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》と言ってもいい。 「うん、ご名答。 まあだって、跡形もなく壊されちゃったからねぇ。再建しないと」  へらへらと軽薄な笑みを浮かべながら謳う神野に、聖十郎は不機嫌の態を崩すことなく一方的に告げる。 「それは神祇省の領分だろう。貴様の成すべきことではない。 斯様に黴臭い場所で、時間をただ無為に浪費することを馬鹿馬鹿しいとは思わんか」  その口調は、まるで面倒事は御免だと言わんばかり。  自分たちは今回の〈盤〉《、》〈面〉《、》からは既に排斥されている。ゆえにもはや、ここで何をしていようが関係はないのだが……  やはり気分がいいものではない。もっともそれを言うのなら、柊聖十郎という男の人生において、機嫌がよかった時など皆無に近いのが実情なのだが。  しかし今、蚊帳の外に置かれたこの現状も、結論から逆算してみればとりたてて問題はないと言えるだろう。ただ、待つ時間というものは殊の外焦れるというだけだ。  聖十郎はそこまで考えて神野を見遣る。この男は、ちまちまと一体何をやっているのか。  如何な行為にももはや意味など有り得ない。成すことなどない。それは分かっているはずなのに── 「放っておけばいいと言っている。  なのに、その行為は何だ。未練とでも言うつもりか、見ているだけで腹立たしい。  不快であり、目障りだ」 「おお、恐いねぇ。剣呑剣呑。 なあセージ、そんなに怒るもんじゃないよ。別に僕がここでどうしていようが、もうとっくに取り除かれたことには変わりなんてないんだし。 なら、手慰みでも何でも、ないよりはあった方がいいだろう? どうせやるのなら楽しくってね」  状況を一刀両断する聖十郎へ、軽薄に切り返し楽しむ神野。両者のコントラストは鮮明である。  そしてそのまま、深淵の地で展開されるのは切迫感のない冗漫な会話。  神野は変わらず笑いながら、意味のない言葉を垂れ流す。 「彼らにとっては、いわゆる最終的な状況こそがすべてだろう?   途中経過なんてどっちに転がろうが構いやしないさ、どうせ大差ないんだし。何を思い、誰がどうなったところでね。 これはあくまで、〈そ〉《、》〈こ〉《、》に辿り着くための過程だよ。わざわざ血眼になって手に入れることなんてありゃしない。 どうせ最後には僕たちが頂いちゃうんだし──神祇省で言うところの、盧生てやつをさ」 「美味しく実った時に収穫すればいいだけのことなのに、まったくみんな夢中だねぇ。真面目だよ。とても真似できやしない。 ただ夜に混沌を撒き散らして、楽しんでればいいのさ。どうせすべてが暇潰し──   なあそうだろう、セージ?」  問いに、聖十郎は何も言わない。  先の言葉は神野の方針と言うよりも、どこか聖十郎を揶揄している風であった。そのせいかもしれない。 「そういえば、牙の姫君も盧生になることが目的だったよね。 彼女が排除されてよかったね、セェェジ。言っちゃえよ、目障りだったんだろう?」 「構わん、どうせあいつは盧生にはなれん。 根本として間違いを犯していることに気付かん限りはな」  そのとき音がして、神野の弄んでいた積み木が崩れる。  さして気にした様子もなく、再び淡々と所定の位置に組み上げながら神野は口を開いた。 「彼女は〈我が主〉《あまかす》に〈取〉《、》〈り〉《、》〈込〉《、》〈ま〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》んだっけ。言ってたよね、君の息子もいたあのときに。 これでまた状況が変化した……はてさて、どうなることやらだ」  神野の言葉は依然変わらず適当であり、そこからは何も窺えず確としない。この闇にただ浮かんでいるばかり。  対して、聖十郎の意志は確固としている。二人はもはや対照的を通り越して水と油であり、混じり合う事はおそらく永劫訪れない。何故場所を同じくしていられるのかすらも疑問である。 「あぁ、セージ──君はこれまで、望むものすべてを手に入れてきたんだろう? いいよねぇ、羨ましいよ」  僕ごときには出来ないことだと自嘲する神野の言葉尻を、聖十郎は捉えて返した。 「そうまで己を〈韜晦〉《とうかい》するか。失笑ものだな。 貴様が甘粕の走狗に甘んじたままで満足だとは、俺には到底思えん。他にも気付いている奴はいるだろう。   いい加減に謀るな、虫酸が走る」 「うははっ……ハハッ、ハハハァハハッ……!」  まるで金属を擦り合わせたかのような、神野の笑い声が辺りに響く。  そして無貌の黒影は、ことさら嬉しそうに── 「アァ可笑しい。買い被りすぎだよセージ。僕はそんなに大層なモノじゃない、それは他ならぬ君が一番よく知っているだろう?   〈悪魔〉《じゅすへる》ってのは、奴隷なんだよ。それが求められた役回りなんだから、僕はそれを忠実に演じるまでだ。   きりやれんず きりすてれんず きりやれんず――おおおおぉぉ、ぐろおおりああああぁぁす。 ……ってね」  嗤う神野を睥睨するように見据える聖十郎。  目に剣呑な光を宿して、凶相を浮かべた悪魔に告げる。 「ならば貴様は、ここで俺を殺すべきだな。 知っているだろう、俺は甘粕の軍門になど降らない。奴こそ俺とは相容れない」  その言葉に対し、またしても神野は口端の笑みを深める。嬉しそうに、愛おしそうに。  徹底的な侮辱でありながら、しかし聖十郎は動じない。 「君こそ知っているだろう。あの人はそういう世界こそを望んでいる。 彼の〈楽園〉《ぱらいぞ》は君を歓迎しているよ、セージ。仲間外れになんかしたりしないさ、安心しなよ。 だいたい、約束したじゃあないか。 僕が君に与える絶望は、敵になって殺してどうこうなんて安っぽいものじゃない。 それとも──もしや、怖いのかい?」  鋭い剃刀を思わせる不穏な空気が漂い、僅か両者は睨み合う。が、聖十郎はほどなく敵意を消して話題を変えた。 「で、今はそれが貴様の〈仕〉《、》〈事〉《、》というわけか?」  指摘したのは、先から神野の手慰みにされていた積み木だ。それは戦真館を模したものであったが、既に今は崩れてしまいもはや跡形もない。 「ああ、そうだよ。その通りだ。 僕もね、ここにいたかったんだよ。たとえ共に崩れ落ちようとも。 そう。いるだけで、よかったのになぁ……ああ」  神野の呟きはどこか譫言のようで。  調子の外れた笑みを見せながら、再び戦真館の積み木を組み立てていく。ただ規則的に淡々と。  その様子は、どこか狂気を感じさせて…… 「望んでいた。焦がれてたんだよ。 だが奪われた。僕も、彼らに負けないくらいに望んでいたのに」  呪詛を謳い上げるにも似た独白から、伝わってくるのは絶望の心。どうして、何故こうなった──  しかし、答える者はここにはおらず。 「二代目となる戦真館は、辰宮の命のもと建造されたもの…… 神祇の盲打ちが、指揮を執った事業だと聞いている」  さして面白くもなさそうに、聖十郎はゆるゆると話し出す。 「つまりは、龍脈というものについて熟知していることになる。 小賢しい連中だ……だからこそあのとき、百鬼空亡を抑え込むことに成功した。己の盤上に引き込むことによってな」  回想されるのは壇狩摩が選ばれ、彼らが手もなく退場したあの戦闘。  すべての糸は繋がっており、輪廻の果てには何があるのか……それを確信している者はただ一人。  最初の盧生、甘粕正彦。神野は低く、黒く嗤いながら締め括った。 「だけどまあ、それも所詮は一時凌ぎでしかないけどね。 空亡は消せないよ。迷惑な話だけど、あれは僕と同じタタリだから。 永遠に存在を残し、世界に災厄を振り撒くのさ」  言い終わると同時に鈍い音が響き、積み木が塵になるまで粉砕される。  その様は、どこか見る者の運命を道連れにするかのような禍々しさを感じさせて…… 「ほうらね、ご覧の通りさ」  心の底から可笑しそうに嗤う神野。  漂うのは狂気……否、おそらくは冥府の香気。 「それじゃ、〈第六層〉《ギベオン》の歴史を見せてもらおうじゃないか」 しばらくぶりに訪れた夢の中の並木道を、俺は仲間たちと歩いている。 戦真館まで少し距離のあるここの風景は、以前と何ら変わることなく穏やかなものだった。あくまで戦場となったのは学園だけであり、どうやら他に影響を及ぼしたりはしていなさそうだ。 俺の隣には、皆と共に歩美がいる。 海辺に訪れたあの夜の翌日、歩美はすぐに退院することが認められた。 検査の終了までにはいくらかの時間を要するとのことだったが、本人の強い要望もあって帰宅を許されたのだ。 行われた検査では異常も見付からず、結果としてよかったと言うべきなのか。ともあれ、歩美の帰還には皆一様に安堵していた。もしもの事態に至る可能性だって、ゼロだとは言い切れない状況だったのだから。 これまでに様々な事態を潜ってきたからこその心配、それもおおよそのところで晴れていた。戦真館に向けて道を行く俺たちを取り巻く空気は、徐々にではあるがいつものものへと戻っている。 そして、七人全員が集ったことを受けての探索再開。 以前の状況から何が変わり、何がそのまま残っているのか。把握できているものはないに等しく、充分な警戒をもって確認しなくてはならないだろう。 「それにしても、あゆは心配かけやがってよぉ」 「おまえ一人だけ夢から起きてこないから、どうしたんだって思うだろ普通。なのに夜中に病院脱走して、四四八ん家にしっぽりしけ込むだぁ?」 「あれをしけ込むとは言わんだろう」 「カナブンを投げ込まれていながら色好い雰囲気になるなんてことは、普通ないとは思うがな」 「あー……そりゃそうだ。ってかカナブン集めてる暇があるんなら、ベッドで休んで寝てろとあたしは言いたいんだが」 「まあ、でもいいわ。そんだけできる元気があるんなら安心だろ」 「あはは、ごめんねあっちゃん。ご心配おかけしました」 「でももう平気だよ。いぇいっ」 「なら、一安心ってところかしらね」 「でもいい? 絶対に無理はしちゃ駄目よ。私たちの中から一人だってリタイヤなんてのは認めないんだから」 「ったくビビらすなよな、本当によ。オレとか超縮み上がったっつーの」 「本当に大丈夫、歩美?」 意識を取り戻してから初めて仲間たちと会う歩美は、周囲を囲まれるようにして心配されている。 これも、普段口にはしないものの皆が歩美を頼りにしているということの証左だろうか。この小さな仲間を誰もが無意識のうちに労り、慮っている。 ……そんな光景を見ていて思い出されるのは、やはりあの夜のこと。 本当のわたしはずるくて汚い──俺の胸に自分の顔を押し付けながら、震える声で歩美はそう言った。 そんなことはこれまでの付き合いの中で初めてだったし、今の歩美が何を考えているかは気になるが、こうして見る限りどうやら落ち着きを取り戻しているようだ。 俺に見せた悲痛な表情が、まるで夢だったかのように。 そんなことを思い返していると、歩美が不意に一歩俺の方へと接近してきて思わず鼓動が跳ねるのを意識してしまう。 互いの距離は極めて近く、少し前に踏み出しただけでも身体が触れあってしまいそうで…… 「──どうした、歩美」 「むぅ。どうしたはこっちの台詞でしょ」 「四四八くん、忘れてないでしょうね。わたしに言った〈あ〉《、》〈の〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》をさ」 「……答え、ずっと待ってるんだからね?」 そう上目遣いで、抑えるような声量で俺に告げる。 ──ああ、無論覚えているさ。あの夜から一時たりとも、その問いが頭を離れたことなんてないのだから。 普段見せている姿とは違う、本当の歩美。そして、胸に息づく自分の気持ち……砂浜の散歩を終えて、部屋に戻ってからもずっと考えていた。 その結論を何の憂いもなく告げるためにも、まずはこれからの行動を容易く失敗させるわけにはいかない。 しかし、本人を前にしてその誘うような確認の仕方には恐れがないというか、物怖じしない奴だよな本当に…… 「ん? そこの二人、何の話してんだよ。隅の方でこそこそと」 「内緒話とは怪しいわね」 「いい歩美、あなたも知ってるとは思うけど今は非常時なのよ。知ってることがあったら、隠し事はなしだからね」 「やめとけ鈴子。こりゃアレだ、おまえの考えてるようなことじゃねえよ」 「まあ、ともかくだ」 今後の指針を伝えるべく口を開き、一同の視線がこっちに向いた。 自分自身の問題については、今はいったん保留でいいだろう。まずは成すべきことを成す。俺たちの未来とはそれがあってこそのものだから。 「こうして歩美も戻ってきて、幸い全員が無事だった」 「身体の傷こそ癒えはしたが、圧倒的な実力差をもってして打ちのめされたという事実が消えない奴もいることだろう……他ならぬ俺がそうだしな」 「だからと言って、連中から逃げる理由には値しない」 「これからの戦いは不確定要素だらけではあるが、乗り込まなくては始まらないのもその通り──」 舐められ、好きに転がされた。屈辱に塗れた記憶はたかだか数日間を置いただけで自然に霧消していくはずなどなく。 しかしだからと言って、心が折れたわけじゃない。生憎と俺たちはそんなに物分かりってやつが良くないんだよ。 無理だと言われようが食らい付くし、目の前の無道は見逃せない。 許せないもの、そして譲れないものがある。ならば、やるしかないだろう。 脅威に直面するたびに尻尾を巻いてなどいれば、何も手に入れることなどできないのは明白なのだから。 「今回は大きなヤマになる──根性見せるぞ、おまえらッ!」 「応ッ!」 凜と答える仲間たちに、臆する者など一人もいない。どいつも一端の戦士の表情を浮かべている。 戦いの中で受けた屈辱がある。それを唯一返せるのが何処かなんて、もはや言うまでもないだろう。 「私たちがそれぞれ誰を相手取るかは、この前話した通りだね」 世良が改めてそう確認をする。壇狩摩を頂点に戴く神祇省を相手取ることが濃厚な現在、この状況でのもっとも勝てる可能性のある割り当てだ。 無論それは歩美にも伝えてあり、こいつに任せるのは俺たち全員の後方支援。 通常の布陣と同じではあるが相手が複数な分、こなすべきタスクは必然として多くなるだろう。だがそのすべてを迷わず任せるのは、歩美ならば遂行できるという信頼に他ならない。 笑みを浮かべる歩美に頷き、俺は戦真館の見える道の先に視線をやった。まずは以前の戦闘後、状況がどうなっているのかを確かめなくてはならない。待ち伏せなどの可能性もないではないが、怯えて縮こまっていれば一生そのままだ。 ただでさえ夢の中で俺たちが訪れたことがある場所は多くはない。ならば、相手側にある程度特定される危険性は切っても切り離せないものだろう。 百合香さんを始めとする辰宮陣営には、もう今後頼るわけにもいかない。現実的な問題として、俺たちはこの世界で動く上での拠点を失ったということになる。 泥縄の状況が増えることは覚悟せざるを得ない。前回までとは大きく様変わりした事態に首元は薄ら寒いものの…… 「心配はいらねえさ。なんだったら俺の後ろに隠れて進んでりゃいい」 「守ってやっからよ。特に大杉とか」 「なめんな! って、そりゃビビっちゃいるけどさ……」 「自分のことくらいだったら、自分で守れるつうの。そういう気障な台詞言うなら女にしとけよな鳴滝。ほら、我堂とかよ」 「な、なんで私なのよ大杉っ。こいつに守られるとか冗談じゃないわ」 気持ちは分からんでもないが、嫌な顔しすぎだろ我堂。まあ幼なじみっていうやつは色々と複雑なあれこれがあるもんで、それは我が身も充分自覚していることだけど。 思いのほか俺たちを取り巻く空気はリラックスしたものだった。ああいいぞ、悪くない。 このまま一行を勢いに乗せたいところだった。空元気でも何でもいい、推進力となる力がなければ突っ切れるものも突っ切れない。 限界を迎えた最後の局面で頼りになるのは、単純な戦闘力などよりもきっとそんな無形の存在だろうから。 歩美と笑みを交わし合い、再び俺たちは歩を進める。不審な何者とも遭遇することはなく、程なく戦真館が見えてくる。 そして── 「あ……」 「これ、は……」 「派手に壊されてやがんな、クソが」 「………………」 言葉を失うのも無理はない。 俺たちの学舎たる戦真館は、直視するのを躊躇われるほど無残に崩壊していたのだから。 校舎はすべてが瓦礫と化しており、もはやどこを見ても原型など留めていない。壁面のところどころに飛散した血液がすっかり凝固しており、ここで繰り広げられた阿鼻叫喚の死闘を否応なしに思い起こさせる。 その惨憺たる有り様は逆説的に、俺たちがこれから向かっていかなければならない相手の強大さを鮮明に浮き上がらせる。 破壊の痕跡がそのまま残った校舎を見ながら、栄光が絞り出すように口を開いた。 「……守れなかったんだな、オレたち」 「そりゃ、ここは夢の中だけどよぉ。それでも何ヶ月もみんなで〈戦真館〉《トゥルース》に通ったんだ」 「ほとんどシゴキばっかだったけど、それでもオレは楽しかったよ。なのに、こんなになっちまって……くそっ」 「よせよ大杉。そういうのにはまだ早ぇ」 「分かってる、分かってるけどッ」 「……なんつうのか、こうして見せられたら、無性にムカついてきてよ」 ああ、俺だって〈戦真館〉《ここ》に相当の思い入れがある。だからこそ栄光の気持ちも分かるし、鳴滝が言うこともその通り。 決意と共に眼差しを上げる。俺たちに今できるのは、すべてを呑み込んで進むことなんだから。 「ここから二手に分かれて偵察を開始する」 「何かの手掛かりらしきもの、異変……どんなものでもいい。各々気付いたことがあったら、安全を確保できる範囲で動いてくれ」 「敵との遭遇、あるいは気配を感じたときには、派手に動いて知らせてくれ。すぐに駆け付ける」 どこに脅威が潜んでいるともしれない状況の今、あまり長く戦力を二手に分けておきたくはない。しかしそれと同時に、可及的速やかな探索こそが現在俺たちには求められている。 時間がいつまでもあるとは思えないし、壇狩摩を初めとする面々が何もせず無為に過ごしているとも思えない。 いずれにせよ立ち止まってなどいられない。 この廃墟と化した戦真館にこそ求める活路がある。今はただ、そう信じて。 「戦力はどう分けるのかしら?」 「ああ、今回の第一目標は全員が無事に合流することだ。なるべく二手のどちらにも穴を作りたくない」 「ほぼ均等の割り振りでいこう。まず第一班は、俺と歩美、そして世良──」 「第二班は鳴滝、我堂、栄光、晶だ。何か意見はあるか?」 俺の側の班は、汎用性の高い立ち回りが可能な二人と、そのバックアップに歩美という布陣だ。直接戦闘、回復、狙撃、そしてその他一通りの状況には対応できるはず。 もう一方は前衛、中衛、後衛を揃えた人員となっている。各人のポジションを明確化することによって迷いのない動きを促し、同時にグループとしての多角性を有しているはずだ。 「はいよ、了解だ」 覚悟を決めたように呟く晶に全員が同調し、誰からともなく校舎の入口へと一歩を踏み出す。 「くれぐれも無理しないでね、みんな」 「その言葉、そのままあなた達に返すわ。深追いなんてしないでよね」 「ああ。今から行うのはまずは偵察なんだ」 「それぞれ一通り見終えたら……そうだな、寮の前で再集合だ。いいな」 各々が無言の返事をして── 二手に分かれた俺たちは、どこか黴臭い雰囲気を漂わせている校舎へと吸い込まれるように入っていった。 三人の足音が周囲に響く。聞こえてくる音はそれしかなく、ほとんど完全な静寂と言っていい。 もちろん、誰の姿も見えないからといって索敵の意識を無くしたりはしない。最大限の警戒体勢をもって歩を進めていく。 校舎内部に入ってから少し経つが、今のところ俺たちの行く先には何の問題もなかった。晶たちの向かった方向からも特に異変のある様子は聞こえてこない。 進みながら思い出すのは、やはり壇狩摩のことだ。 己に対して絶対の自信を有しているその言動。受ける印象はただ豪放磊落だが、それだけでは収まらない何か裏側のようなものを感じる。 野放図の態でいて、必ず最後には自分が勝ちを収めていると不遜にも言い放つスタイル。 要は基にしている常識が余人と異なっているだけなのだろう。ゆえに──というのも変な話だが、今ここに神祇省の手が潜んでいるとは実のところ思っていない。 誰にでも至れるような合理の行動に、あの男が乗り出すとは思えないから。 つまらないと嘯く、そんな声が耳元で聞こえてくるかのようだった。 「ほんとに誰もいないねぇ。なんていうか、ちょっと拍子抜けかも」 「うん、でも正直言って助かる」 「今ここで戦力を集めてこられたら、私たちじゃきっとひとたまりもないもの。早く済ませてみんなと合流しよう」 世良が言うのはまさにその通りで、こちらとしては今のタイミングで奇襲を掛けられるのがもっとも避けたいシチュエーションだ。手を出してこないのは僥倖と言ってもいい。 潰す価値すらもない──俺たちをそう舐めているのなら、これから寝首を掻いてやればいいだけの話だ。反骨の決意を胸の奥に秘めて、俺たちは校舎内の調査を続行する。 戦闘による破壊は凄惨であり、もはやここが少し前まで学舎であったことなど窺い知る余地もないほどに荒れ果てている。何かを探すにしても、その痕跡すらも既に破壊され尽くされていることだろう。 だが、しかし。 「これは……」 微かな違和感を覚えて窓に寄ってみると、何かがうっすらと積もっている。指の腹で掬って確認するとそれは埃だった。 些細なことだが気に掛かった。学舎内は格別小綺麗というわけでもなかったが、こうして埃が堆積するほど掃除を怠っていた覚えもない。そして、それほどの時間もまだ経過してはいないのだ。 にも関わらず、これは明らかに数年程度の放置が成されていたような── 「──四四八くん、見て」 歩美に短く呼ばれ、視線を向けるとそこにはどす黒い血の跡が壁に飛散していた。 あの禍々しい悲劇を物語る跡の一つであるはずのそれは、しかし。 「変色、している……?」 「そう、おかしいよね。こんなに短い期間で、真っ黒い染みみたいになっちゃうなんてさ」 昨日今日のものとは思えない血痕が、違和感と即座に符合する。この校舎内の〈生〉《、》〈々〉《、》〈し〉《、》〈さ〉《、》〈の〉《、》〈な〉《、》〈さ〉《、》は明らかにおかしい。こんなにすぐあの悲劇が風化するわけがないんだ。 ここは夢で、何が起ころうと不思議はない。だがそこには必ず理屈というものが存在するはずで、それこそが俺の体感してきたこの世界の理だ。 しかし、今この場で結論を導き出すことはできず── 「いったん戻ろうか、四四八くん。向こうのみんなも何か見つけてくれてるもかもだし」 歩美の言葉に頷いて俺たちは探査を打ち切り、集合場所に定めた学生寮へと戻ることにした。 二手に分かれた両者ともほぼ同時に寮の入口で落ち合い、互いにまずは感想を報告し合う。 校舎内全体に渡る不自然な時間の経過具合のことを言うと、ああ、やはりといった様子で栄光は頷いた。 「んー、やっぱそっちもなんだな。オレらも同じとこに気付いたわ」 「建物とかさ、そこら辺に飛び散ってる血の跡とか、なんか妙に古くなってるっつうか。だって、まだそんなにあれから時間経ってねえわけじゃん?」 「なのにあんな、一気に数年後に飛びましたーみたいなことになっててさ」 「なんて言えばいいのかな……どっか、オレらの知ってる戦真館とは違うとこに迷い込んだって感じだったわ」 「一緒みたいだね、そっちも」 どちらともに同じ光景が広がっていたというのなら、校舎全体にそれは及んでいるのだろう。 まるで、御伽話の玉手箱を開いてしまったかのような時間経過。現状説明不能のその現象は、今俺たちのいるこの寮にも同じく影響している。 以前に訪れていたときよりも、床なり調度品なりがところどころ古くなっているのだ。その劣化具合はたかだか数ヶ月のものではなく、短く見積もっても数年単位でしか測れないだろう。 しかし…… 校舎での異変と比べての決定的な違いがある。同じくそれに気付いたらしい歩美が口を開いた。 「──でも、ここって人、住んでるよね」 「今も、誰かがいるような気配がするもん。奥の方でさ」 それをいち早く感じることができるのは、狙撃手たる歩美の資質ゆえだろう。真面目な表情を浮かべて呟くように言う。 歩美の言葉に、俺は頷いて同意する。こいつほど気配について鋭敏に探ることはできないにしても、周囲に何者かがいるということだけは察知できていたから。 隠してはいるつもりなのだろうが、静寂に紛れるようにして人の暮らしている生活感がそこかしこに漂っている。 「どいつだかは知らねぇけど、ここに人がいるってのはほとんど確定したわけか」 「そうなんだ。現状、敵か味方かも分からない」 「油断だけはせずに行こう」 そう、まだ俺たちのいるのは学園内。神祇省の手がどこに潜んでいるかもしれないのだ。ここが寮であるがゆえにその疑いは濃くなったとすら言える。 緊張感を解き、素の自分を晒け出す場所ほど警戒しなくてはならないはず。加えて言うならば、学生寮ほど潜伏におあつらえ向きのところはない。 どうする──視線で一同に問うと同時、寮内の拡声器を通じて規則性のある音声が聞こえてきた。 「これは……」 静寂を破ったと言うにはあまりにもか細いその信号音。 ああ、だがしかし俺たちが〈こ〉《、》〈れ〉《、》を聞き間違えるわけがない。戦真館の授業、そして演習で。さんざん叩き込まれたものだったから。 「モールス信号」 「内容は? えっと──」 この時代の軍部ではおおよそ一般的だったと言えるモールス信号。無論、誰にでも解読が可能というわけじゃなく、専門の者がいなければどうにもならない代物だ。 そして俺たちは、それを軍事教練で一から受けた。かなり難解な代物ではあったが、時間を重ねるにつれて理解が及ぶようになっていた。 だから、その内容は理解できる。 「……特科生総員、〈104〉《ヒトマルヨン》号室に至急集合のこと……!」 ほぼ一発で解読し、俺たちは顔を見合わせる。 告げられた内容は緊急集合で、指令を出しているのは暗号の配列から考えて間違いなく上官。 「ちょっと待ちなさいよ柊。罠じゃないの?」 「だってこんな、あからさまな……」 我堂の主張はまさにその通りで、しかしわざわざこんな手法を用いて陥れようとする必要があるのだろうか? 俺たちが誰一人として解読できないようであれば、まったくの徒労として終わるというのに。 そして、これまで相対した誰の遣り口にも見えないのが抱く疑問に拍車を掛けている。 一瞬迷うが……取るべき行動など、すでに決まっていると言えるだろう。 「──行くぞ。警戒を怠るなよ」 虎穴に入らなければこの状況は動かない。それに、先の信号には関係者のみが知り得ている符丁がいくつか紛れ込んでいた。 仮に相手が上官だとすれば、その命令は俺たちにとって言うまでもなく絶対。すなわち無視を決め込むなどという選択肢は最初から存在せず。 また仮に相手が上官でなければ、〈戦真館〉《こちら》にそれほどの精通をしている可能性があるとも思えない。 それらいずれも推測の域を出ていないものの、論を引っ繰り返す理由となれば更に乏しいというのもまた事実。 指定された部屋に駆け込むなり目に入ってきたのは、俺たちが〈あ〉《、》〈ま〉《、》〈り〉《、》〈に〉《、》〈も〉《、》〈よ〉《、》〈く〉《、》〈知〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》〈人〉《、》〈物〉《、》〈だ〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》。 「よぉ……どした、おまえたち。シケたツラしやがって」 「んなジロジロ見やがって、なんだっつうんだよ。私の顔なんか今さら珍しくもないだろうに」 いつもと同じように気負いのない笑みを浮かべ、深々と椅子に腰掛けた花恵教官の姿がそこにはあった。 半ば廃墟と化した戦真館で、ようやくにして遭遇した学園の関係者……その懐かしさにも似た感情に思わず緊張が緩むが、即座に記憶が蘇る。 この場で甘さを見せてはならない。どうやら全員理解しているようだった。 なぜならば──この人は〈辰〉《、》〈宮〉《、》〈側〉《、》〈の〉《、》〈人〉《、》〈間〉《、》なのだから。 〈戦真館〉《ここ》で出会い、長い時間を共にした。もちろん返しきれない恩もあれば、親愛の情だって感じている。 だが、彼女は百合香さんの部下だ。俺たちがこれまでに接してきた姿というものは、すべて辰宮の指示通りだったはずで…… 辰宮百合香という女性のことが、今では皆目分からない。鳴滝だけが感じていたという違和感のこともある。 以前はまったく気にならなかった諸々が、突如霧でも晴れたように疑問となって押し寄せてくるこの現状。 もしや俺たちは、あの人に頭を弄られていたのではないかという考えが拭えない。 そして、そう思うからこそ花恵教官に対しても憤りの心がこみ上げてくる。 信じていたんだよ、あなたのことを。たとえ甘いと言われようが俺たちは。 激した感情を乗せて睨むと、花恵教官はばつが悪そうに頭を掻く。まるで悪戯事が周囲に露見してしまった子供のように。 「あー、まあ分かるよ。おまえたちの言わんとしてることってのは」 「私だったらやだかんな……騙されてた相手とこうして、呑気にお喋りしてるのなんて」 「まあ、正直嘘は吐いてたし、まだ言ってないことも多いよ」 「今こうしておまえたちと話していても、な」 「影でいろいろ辰宮に報告もしてるし、おまえら未熟だなぁとも思ったもんさ。こんなケチな芝居に、まんまと尻尾振って付いてきてよ」 「て、てめぇ……」 「やめろ、栄光」 手で制して栄光を引かせる。だけどああ、おまえの感情は間違いじゃない。 栄光は、ともすれば軽薄にも映る態をして、この中の誰よりもきっと己の心に誠実だから……秘めた思いは俺たちも全員同じなんだ。 彼女のことを仲間だと思っていた。同じ側で戦えると思ってたんだよ、出会ったときからずっと。 一瞬の沈黙が流れた後、俺の一歩後ろにいた世良が荒ぶる感情を押し殺すように口を開く。 「教官、ご用は何ですか」 「あなたは芦角〈花恵〉《かえ》の立場において、特科生一同をここに集めた……だけど、その命令を聞けるかどうかは私たちが判断します」 「教官殿にこんなことを言うのも、心苦しくはありますが……」 「その覚悟をなされた上で、話し合いましょう」 たとえ相手が誰であろうとも、決して警戒を怠らない。それがまず頭に叩き込むべき戦場の鉄則。 昨日の味方が今日の敵だなんて、呆れるくらいに日常茶飯事であるこの世界。今こうしてみっともなく戸惑っている俺たちは、まだまだ甘ちゃんなのかもしれないけれど── 「あー、まいったな。いや世良、わたし命令だとかってそんなつもりはないんだけど」 「じゃあ、どうしてこのような事を」 「いや、教官っつう立場で呼んだ方が手っ取り早いかなって。いきなりわたしが予告もなしに目の前に現れても、おまえら聞きやしないだろ?」 「なら、とりあえず〈こ〉《、》〈う〉《、》〈す〉《、》〈れ〉《、》〈ば〉《、》聞く耳だけは確保できるかなーと……って、そりゃちょっと虫がいいか」 「よし、じゃこれ見て」 さばけた口調でそう言うと、花恵教官はおもむろに纏っていた衣服に手をかけて── 「なっ……」 「お、おい」 予告もなく、躊躇もなく、そのまま上着を機械的に脱ぎ始めた教官に俺たちは混乱してしまう。この状況で何をどうすれば、そういう行動に繋がるんだよ。 だが後列で様子を窺っていた歩美は、調子を一切崩すことなく至って怜悧な視線で俺たちに告げる。 「もう、男の子たち脱衣シーンに目敏すぎ。まったく、普段から何考えてるんだか」 「はははっ、おい男衆、そういうんじゃないから。ほら見なって」 その言葉に促され、各々が花恵教官の〈姿〉《、》に目を向けた。 そこには── 「──、ッ」 〈眼〉《、》〈前〉《、》〈に〉《、》〈あ〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》〈の〉《、》〈は〉《、》〈、〉《、》〈た〉《、》〈だ〉《、》〈の〉《、》〈肉〉《、》〈塊〉《、》。 この人が辰宮だ何だということすら、一瞬忘れてしまうほどの無残。凄惨極まるその光景に、誰しも思わず息を飲む。 教官の服の下に隠されていたのは、その健康的だったであろう素肌をただ無造作に、そして糞味噌に掻き回された哀れな肉の残骸だった。 「ウゥ、ッ……!」 晶が反射的に口を押さえ、それでも抗し切れずにそのまま吐く。出鱈目に破壊されている花恵教官の身体は既に異様な臭気を放っており、饐えた臭いに俺はただ眉を顰めた。 傷口は満足な回復をしておらず、じゅくじゅくと泡を吹くように壊死している。慣れ親しんだ学生寮とその悪趣味なコントラストが、見る者に正気を保つことを許さない…… 異様な光景に俺たちが絶句していると、花恵教官は口を開くのも辛そうにゆっくりと言った。 「──と、まあ、こういうこった」 「あの戦闘で、人獣のお姫様にキッツイ一撃を喰らっちまってな……どんな治療もとっくに手遅れだ」 「正直、私の命はもう長くない」 「こんな身体でおまえらをどうこうしようったってムリだし、今さらその気もないってなもんだよ」 「だから、そうだな……言うなれば、最後のお節介ってのでどうだ?」 「──ッ、とか言ってる場合じゃねえだろあんたは!」 まだ言い終わらぬうち、誰よりも速くその傍へと駆け出したのは栄光だ。 先程まで燃やしていた敵意もどこへやら、こいつを今突き動かしているのは己の師であるからという、青臭く幼稚なその思い。 戦場で生き残るための教訓に、今背いたって構わない。肝心要のその教えをくれた人は、他の誰でもなくこの教官なのだから── 「いいかげん、甘いな……大杉、おまえらも」 「くそッ……卑怯だろ、こんなのって……」 「いきなりオレらの前に姿見せといて何だ? 腹に大怪我抱えてて、もう無理死ぬとか意味分かんねえよ」 「ああもう晶っ、早く診て治してやってくれッ」 「お、おう──」 呼ばれて前に出る晶。全身に緊張の行き渡った所作は、教官の傷があまりに凄惨だからであって、彼女を警戒するような意図ではないし、己の能力を行使することについても迷っていない。 この人の生命を助けたいんだ、心の底から本当に。 即座に楯法を展開し、教官の傷口へと生命の流れを送り込む。しかし目を背けたくなるようなその腹部の凶傷は一向に癒える様子を見せなかった。 「な、治らない……どうしてっ」 「くッそ、おおッ──」 「仕方ないんだよ、こればっかりは……わたしの寿命が、もう終わってるってことだから」 「医者でも何でも、治療が有効なのは生きてる間だけだろう? だったらもう、分かっただろう」 「私みたいな半死人に対してそんなもん使っても、意味なんてありゃしないんだ」 「そんなものッ、まだ分からないだろ──」 「もう、いいんだよ。ありがとな真奈瀬」 花恵教官は晶を諭す。その優しさを湛えた表情は、これまでに俺たちの前で見せたことすらないもので── そしてすべてを悟ったのか、力なく教官から身を離す晶。 おそらくは激痛が絶え間なく奔っているのだろう、荒れた呼吸を隠すことなく教官は口にする。 「確かに、私は辰宮側の人間だ……疑われてるのは分かるし、そうしないなんてのは逆におかしいっつうもんだろう……」 「だがな……逆に、って言い方も変だけどよ、ここにいるのが辰宮〈だ〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈こ〉《、》〈そ〉《、》、絞り出せる情報がある」 「そういう考えは、できやしないか?」 「と、言いますと──」 教官の緩やかな笑みを浮かべながらの提案に、俺はようやくにして得心がいく。 ああ……つまりは〈こ〉《、》〈れ〉《、》〈ま〉《、》〈で〉《、》〈と〉《、》〈同〉《、》〈じ〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》。 「そう、お嬢に頼まれたんだよ。おまえらの面倒を見て差し上げろってな」 「神祇省の連中は一筋縄じゃいかないからな、本当に。鋼牙とやり合うのとはわけが違うぞ」 「って──あてて、ちくしょ」 さして緊張感もなさそうな調子で傷口を押さえる花恵教官。それを見ながら、俺は急速に心の奥底が冷えていくのを感じる。 目の前のこの人は味方でなく、あの場で俺たちを僅かの迷いもなく見捨てられる百合香さんと同じ側にいるということ。 これまで過ごしてきた日々も、すべてが計算尽くのものだったのか……こちらの未熟を棚に上げて女々しいとは思うものの、そう考えざるを得ない。 だけど、だからこそ。 「話を聞かせてください、教官」 「あなたが口にした情報をどう捉えるべきか、その判断は後でします」 「おおー、柊。おまえは飲み込み早いな、正直助かる」 「さすがは特科生総代ってところだな。うんうん」 今はそんな軽口を叩いている場合じゃないだろうと言いたかったが、そんな返しをするのも同じく場合じゃない。 そう。辰宮の側の人間だからこそ、彼女の持っている情報には意味があるんだ。俺たちの成し得る百の推測に勝る真実が、形はどうあれそこには潜んでいる可能性が高い。 事の真相と、そこに至るヒント……欲しいものが明確な現状を鑑みれば、花恵教官はむしろ最高のキャストと言うべきだろう。 俺の問いかける視線に教官は自嘲するように力なく笑み、そして口を開いた。 「まあ、細かいところはいろいろあるんだが──まずは結論だけ言うぞ」 「お嬢はもう、〈今〉《、》〈回〉《、》〈の〉《、》〈盤〉《、》〈面〉《、》〈に〉《、》〈は〉《、》〈い〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》」 「──亡くなった、ということですか?」 にわかには信じがたい展開だが、何せあの混沌の最中だ。どんなアクシデントが起こったところでおかしくはないだろう。 しかし、連中は互いに結託しているような口を利いていた。だとしたら、そのような状況に陥るものだろうか? 仮に教官の言うことが真実だとしたら、何がどうなってそのような事態を迎えたというのか── 「ああ。まあ、そんな風な感じだよ」 「意味としちゃ、〈死〉《、》〈ん〉《、》〈だ〉《、》〈よ〉《、》〈う〉《、》〈な〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》かもしれないな。おまえの認識で合ってるよ」 「もう柊たちの前には出て来ないし、私からも連絡を取ることはない。これは始めに言ったとおり〈結〉《、》〈論〉《、》だ。騙しなんかないって保証するよ」 「………………」 含み、どころではなく露骨に裏のある言い方だが── 論旨としては、百合香さんの戦線離脱は確実に保証されてるということになる。信じるか否かは別問題だが、俺はそれなりに信憑性のある発言と見た。 なぜなら、嘘にしては演出が過剰であるから。俺たちを担ぎたいならば、ここまで胡散臭い風に言わなくとも、いくらでも繕いようはあるはずだ。 それをこうして奥歯に物の挟まったような言い回しで告げてくれたのは、一時とはいえ師弟の関係にあった教官なりの、俺たちに対する誠意だと信じたいから。 実際のところ、六勢力の一つでありその動向がまったく読めず不気味であった百合香さんがいないというのは、助かる展開と言えるのだろう。 教官の言葉をどう受け止めるかは、今は保留としておいて── 「この局面の主導権を握ってるのは、おまえたちも見ただろうが壇狩摩だ。他の勢力のことは一旦忘れてもいい」 「〈こ〉《、》〈の〉《、》〈局〉《、》〈面〉《、》、〈一〉《、》〈旦〉《、》……」 「但し書きが多いわね。で、実際のところはどうなのよ」 「私たちには──やっぱり、真実は明かせないの?」 「ああ、悪いが言えないね」 「それは私の領分じゃないし、たとえ教えてやったとしても事実かどうかも確認のしようがないしな」 「だからただ、言えることだけ言うよ」 当然のことを確認する我堂に対し、泰然自若を崩さない花恵教官。この場を譲るつもりがないという確固たる意志が伝わってくる。 我堂のように食って掛かるのも自然なことで、この物言いをいちいち信じていたら俺たちの運命は綱渡りなんてものじゃない。 しかし、ここは── 「差し当たっての俺たちの相手は、神祇省というわけですね」 「柊、あんた──本当に話を聞くつもり?」 「あたしも鈴子の意見に乗っからせてもらうわ。教官、あんたの言ってることはどこまで信じていい?」 「もしそこを見誤ったら、みすみすつまらない策略に乗ることになっちまうからな」 「それはそれで、いいんだよ」 言葉を挟んできた歩美は、一同を見回して告げる。 「あっちゃん、りんちゃん、今はとりあえず聞いとこう。新しい情報は少しでも、残さず全部」 「そういうことだな」 「俺たちを嵌めようとする思惑があるのかもしれないし、力になってくれるのかもしれない。確かに、いずれの可能性も否定できないさ」 「だがそのどちらだって、今はいいんだよ」 腹の奧は窺い知れず、すべてが嘘だという可能性も多分に存在する花恵教官の言葉。 そう、すべてを天秤に掛けるんだ。 教官は俺ににやりと不敵な笑みを浮かべる。晶と我堂も、不承不承ではあるが納得してくれたようだ。 一応ではあるが方針は纏まった。それを見て、歩美は居住まいを正して問いかける。 「それでは不肖、龍辺歩美。質問をさせていただきますッ」 「教官殿は先程、壇狩摩が目下の敵だと仰りました。奴ら神祇省のことを、何かご存じなのでしょうか?」 「ああ。直に会ったことはないから伝聞にはなるが、ある程度ならな」 話を聞く姿勢になった俺たちに、教官は声を潜めるようにして口にする。 「それより先にまずは大前提の話としてだが──ここは第六層になる」 「ッ……」 明かされたその事実に俺は思わず息を飲む。いや、他の連中だってそうだ。 何故なら── 「六層って、じゃあ第五層は……」 「ああもう、知らない知らない。その辺りのことは何も言わんよ」 「だってさ、一から百まで説明してたら、私このままおっ死ぬぜ? 話し終える前に失血過多でよ」 「あー、意識遠退いてきた。もう駄目、三途の川のせせらぎが聞こえてきたし」 「そんな、いい加減な……!」 「なにがいい加減だ。私の言ったのは事実で、これ以上はっきりとしたものはないんだぞ?」 「とにかく、ここは第六層。第五層は気になるだろうが、いったん〈飛〉《、》〈ば〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》と思えばいいの」 なんという出鱈目。我堂のみならず場の誰もがとても信じられないといった表情を浮かべているのも無理からぬことと言える。これまでの話を聞いていれば、そんなのありかと思うのがむしろ普通だろう。 しかし今は、状況的にも聞くしかない。教官は抉れた傷が痛むのか、荒れた呼吸にその胸を上下させながら言う。 「私が戦真館で特訓つけてやった〈あ〉《、》〈の〉《、》〈時〉《、》〈代〉《、》があったな? それから、ここは十年ほど経ってるんだ」 「十年──」 「あ……」 歩美が何か思い当たったように目を開いた。ああ俺もだと同時に至る。 さっき見た校舎を思い出す。妙に堆積していた埃や、すでに風化しつつあった血痕など…… そういうことかよ、なるほどなと得心する。十年もの時が経過していれば、そのどちらにも納得がいくというものだろう。 こんな展開、俺たちから見れば突拍子もないものの連続ではあるが、まずは事実と仮定しておくしかないだろう。 「そう、〈あ〉《、》〈の〉《、》〈と〉《、》〈き〉《、》に戦真館は崩壊したんだ。おまえたちもその目で見たように」 「それからしばらくは再建もままならなかったんだが、この度ようやく話が纏まってな──」 「間もなく、二代目とも呼べる学舎を興すことになっている。そのことは知ってるか?」 俺たちは一同頷いた。詳細な資料こそ残ってはいなかったものの、再度建築が行われたという歴史は我堂が〈千信館〉《トラスト》ですでに調べている。 それによれば責任者は辰宮百合香であり、そして── 「計画の根幹を成す、新たな戦真館の設計図面。それは壇狩摩が手掛けてるんだよ」 徐々に断片的な情報同士が符合していく。狩摩の名前は、我堂の調べた資料でも写真付きで確認されている。 「土地の持ってる力とかなんとか、あいつはそういうのに詳しくてな」 「まあ〈ま〉《 、》〈じ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》みたいなものなんだが、これが単なるハッタリでもない。この地における最大限の力を引き出せるように、式を組み上げてもらうっつうわけだ」 「少しは信用いったか? 大雑把に話せば、今はそういう状況なんだよ」 負った深手に頓着することなく、片頬を上げて笑みを浮かべる花恵教官。 こちらの持っている事前情報と照らし合わせても大きな矛盾はなく、それなりに信憑性の高い話ではあったというのが俺の受けた印象だ。 覚束ない部分は幾らでもあるが、そこはある程度出たところ勝負にならざるを得ない。 「……教官」 しばしの間考えて、口を開いたのは我堂だ。 「何か他に、神祇省の情報は持ってないのかしら? このままぶつかり合ったんじゃ、正直泥縄よ」 そこまで知ってるのであれば──と言外に訊いている。花恵教官は小さく溜め息を吐いて口を開いた。 「んー、そうは言ってもなぁ。私もあいつの力の詳しいところは知らないし」 「狩摩の展開する空間ってのは、ちょっと他の連中とは毛色が違っててな。直接のどうこう作用するっていうものじゃない、七面倒臭いものなんだよ」 「相手を引っ張り込んで、とことんまで荒らす。そして最後には勝ってる」 「例えて言うなら、そういう蟻地獄みたいなもんなのさ。おまえらも相対したんだろ?」 俺は仲間たちを見回す。あのとき、ここにいる全員は満身創痍であり意識もほとんど残っていなかったのだ。俺も少し覚えている程度に過ぎない。 ただ一人、見ていた可能性があるとすれば歩美だけ。 そして今、こいつはどこか薄寒そうに自らの身を抱くようにして言う。 「あいつの力、甘くないよ」 「相性としてはわたしが戦うのが一番向いてるって思うけど、それでも相当きついかもね。正直、必ず勝てるとは言えないや」 「マジかよ……」 栄光がそう呟きを漏らすのも分かる。 歩美が自らこのような、ともすれば周囲をネガティブな雰囲気に染めてしまうような発言をすることはあまりない。なのに、今回はそれが真っ先に口を突いて出た。 しかも、相性が悪くないと見ていながらの判断なのだ。他の俺たちと狩摩の能力は、相当な食い合わせの悪さが存在するのだろう。 「単に力比べじゃないんだよ、あいつのは」 「言うように、それこそ龍辺が主に相手取ったほうがいいのかもな。後方支援役ってのは全体が見渡せてるもんだ」 「前線の奴がいいようにあしらわれちまうよりは、勝ちの目が出てくると私も思う」 教官の言葉を聞いて、視線を伏せたまま黙り込む歩美。その頭で勝負の展開をシミュレートしているのか、どこか身を強張らせているようにも見える。 何か意見を挟もうかと俺が思ったところで、教官が再び口を開いて続けた。 「ま、そんなわけで大して教えることもねぇわけだ。すまないが」 「あ、でもなんつったかな……確か、二代目戦真館の設計図面が八幡宮に奉納されるらしいんだよ」 「霊験あらたかなとこに祀ることで、より良き幸を得るとかでさ」 「縁起モノ、つうことか」 「だな。そんなわけで、もし行って見せて貰えるようなら、そうしてみてもいいかもな。参考になることも、何かあるかもしれないし」 鶴岡八幡宮という鎌倉周辺でもっともシンボリックな場所を挙げられて、妙に腑に落ちてしまう。確かにあの佇まいを思えば、他と比べて霊的な恩恵があったとしてもまったく不思議はない。 「あいつがマジで仕上げた図面だからこそ……そこには無意識のうちに手癖だのなんだのが浮かび上がってるかもしれないな」 そこから、決戦に役立てる材料を探すというわけか。なるほどなと教官の言葉に得心する。 風水には門外漢の俺たちではあるが、それであるがゆえに見れば得るものも大きかろう。狩摩の根底にも通じる何かがあるかもしれない。 「他には?」 「うーん……もう、ピンと来るものはないかなぁ。狩摩ってのは、基本ふらふらと放蕩していてな」 「立ち去った後には何も残してはいないし、そもそも行動に意味があるのかどうかすら分からない……」 「徹底して尻尾が掴めない、そういう手合いなんだ」 「つまり、なんだ教官──」 「〈か〉《、》〈も〉《、》〈し〉《、》〈れ〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》程度の、雲を掴むような話であたしらに行ってこいっていうのかよ」 「ああ、そうなるかな。ははっ、信用してくれとは言えないか」 晶の疑念ももっともだ。ただの与太……悪ければ罠であるかもしれない教官の言葉を頼りにせざるを得ないという状況は相当にうまくない。 しかし俺たちの現在持っている情報の少なさから、相対的にその価値は高くならざるを得なかった。 「八幡に奉納する日にちは正確なところを確かめてないんだが、確かそろそろだったはずだ」 「もう納めたっつうんなら今すぐにでも確認に行きたいところなんだが、どうだろうな……下手すりゃ向こうでばったりだ」 「そこを抑えてねえってのは迂闊だな、教官」 「あー、仕方ないじゃんよ。私はこの様だし、いつあいつが来るかって勘定までは気が回ってなかったの」 「やるならなるべく急ぎたいけど、鉢合わせにならないようにしないとな。理想は狩摩が八幡を出た少し後だ」 ここで教官を疑うのは簡単だろう。むしろそうするべきだということも、論を待たず分かっている。 しかし最初から嘘だと決めてかかっているだけでは、俺たちの歩みが前進しない。うえにいつ神祇省の面々と夢の中で出会ってしまうかもしれず── つまるところ、どこへ向かおうともすべてが虎穴であることには今さら変わりがないんだ。 「まあ何が潜んでいようが、行ってやるってな。うだうだ話してる方が俺には面倒くせえ」 「そうだな。そもそも、追い詰められてないシチュエーションなんて俺たちにはこれまでも一度だってなかったんだ」 「最初から、今までずっと……」 聖十郎と初めて遭遇したときも、先の鋼牙との戦いも……そして今も。 俺は振り返り、皆を見据えながら口を開く。 「八幡に奉納されている図面を取ってこよう」 「そして、あいつらの行動を予測するんだ。もうどんな先手も打たせない」 引き締まる空気の中、静かに頷く仲間たち。狩摩を出し抜いて、これまでの負け分を精算させる。このくだらない流れを終わらせるんだ。 教官を見ると、少し嬉しそうな様子をその表情に浮かべている。今や味方とは言えない俺たちの前でそんな甘い顔を見せては駄目なんだろうが、やはり俺たちにとっての恩師なんだなと改めて実感する。 「ただ、全員で行っても都合が合わないかもしれないな」 「どういうことですか?」 「狩摩の術式は、自分流で組んでるからその分効きがいいんだよ」 「思い出してみろ、あいつの傍に鬼の面つけた奴が三人ほどいただろう?」 「そいつらが神祇省の諸々の任務をこなしてるんだ。大将が出張ってくるのは相応の時だけだってわけ」 「今回ももしそうだとしたら、図面を置いてあるところには三人しか入れない仕組みになってやがるかもしれない。使い手に合わせた術式を組むので壇家は有名なんだ」 「よくそんな面倒なことするよなぁ。自分らで分かんなくなってきそうなもんなのに」 「わたしたちの常識に当てはめちゃだめだよ、栄光くん」 歩美と栄光を横目で見遣りながら、俺はしばし考える。 三人でないと八幡に立ち入れない確率が高いとのこと。だったら最初から七人全員で赴き、もし駄目だったらそこから三人を選べばいいのではと瞬間的に思ったが、おそらくそういうことではないのだろう。 張られているのは高密度な咒的結界。俺たち流に言うなら環境のクリエイト。そこには術者である狩摩の意向が強く反映されており、ゆえにこちらの都合は基本として通じない。 最初から七人で行って駄目だったら、その後に何をしても駄目になると推察できる。たとえば〈八〉《 、》〈幡〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈つ〉《 、》〈け〉《 、》〈出〉《 、》〈す〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》、など。 環境クリエイト、いわゆる創界を自在に行える者はまだ俺たちの中にいないものの、理屈としてどういうことが出来るのかは知っていたから、きっと間違いないだろう。 ならどうしても、ここで二手に分かれる必要があるわけで……チーム作りは上手く振り分らねばならない。 「三人つったな。じゃ、まずは俺が行く」 「神祇省の連中と鉢合わせるかもしれねえんだろ? なら決まりだろ」 そう言って立ち上がったのは鳴滝だ。 正直なところ、こいつが来てくれれば大いに助かる。なにせ、神祇省の実働隊と思われる鬼面衆は掛け値なしの暗殺集団。こちらも武闘派を連れていくのは必要不可欠となるだろう。 荒事に遭遇した際、戦線を支える任を預けられるのは鳴滝をおいて他にいない。それはこの場にいる全員の共通認識と言ってもいい。 続いて名乗りを上げようとすると、一歩前に出てきた世良に柔らかく制された。 「柊くんには、こっちに残っててほしいかも」 「敵が襲来する可能性も充分にあるわけだしさ、寮の方にも指揮を執る人がいるでしょう?」 「鳴滝くんをフォローする立ち回りなら、私にもできるし。ね?」 戟法に長けた鳴滝を軸にした、中衛とも言える遊撃要員。その役どころであれば、確かに世良も俺と遜色のない能力バランスを有している。 この場にもそれなりの戦力を残さなければならない必要性を考えれば、世良の提案に反対する理由は特に見当たらなかった。 「じゃあ、任せたぞ」 「うん」 「それじゃ、後は私が行くわ。いいでしょ柊?」 「ばっか、それ違うだろうがよ我堂」 「え?」 「おまえが行きたいっつう意気はいいけど、ここは真奈瀬が鉄板だろ」 「それなりに面倒事があるかもしれない場所なんだし、誰かが深手を負っちまったらどうすんだ?」 「こっちには柊いるから、楯法の方もそれなりにどうにかなる。だから気にせず行ってやれ」 教官の言葉はもっともで、専業の回復役として考えた場合に我堂では一抹の不安が残る。 ただでさえ八幡に向かえる人数はこちらより一人少ないんだ。継戦能力に泣き所を抱えざるを得ないのは事実だった。 「で、でも……こんな怪我抱えてる教官、あたしは放っておけねえよ」 そう口にする晶の視線の先には、ただ見ているだけでも痛々しい深い傷がある。 辰宮勢が信のおける味方ではないと知れた今でも、俺たちにとってやはりこの人は教官なので捨て置けない。 「いいんだよ、私はもうとっくに覚悟決めてるんだから」 「戦場ってのはそういうものだ。大事なのは、死ぬまでを如何にして生きるかってやつだろ?」 淡々とした口調で説くその様子は、まさに俺たちに教導を施していたときの花恵教官のままで── ならば、答えも自ずと決まっているというものだろう。ぐしゃぐしゃと髪を掻き回しながら、晶は言う。 「分かったよ、ついていく残りの一人はあたしだ」 「だけどいいか。さっさと済ませて帰ってくるから、全員無事で待ってろよな!」 晶の言葉に小さく肩を竦めて、教官は可笑しそうに笑みを浮かべる。 そのとき俺たちの間に流れていた空気は、この寮で寝食を共にしたあの頃のようだったんだ。 戦真館の寮を出た三人は、その日のうちに鶴岡八幡宮へと到着する。 境内の雰囲気はいつもと同じ。どこか清廉さを感じさせるような静謐を湛えていた。 そして…… 「よし、妙な連中の姿はないな」 晶はそう口にして境内を一歩行く。後に続く二人も、周囲の動きにそれぞれ目を凝らした。片時も警戒を緩めることなくここまで来たものの、神祇省の者と思わしき人影は今のところ見えない。 現状考えられる中で最悪なのは鬼面衆との鉢合わせであり、それを避けることでようやくハードルを一つクリアしたということになるだろう。 「あいつら、もうここでの奉納を済ませた後なのかな。それともまだ来る前なのか──」 「もし来てないとしたら、あたしらどっか隠れながら進んだ方がいいよな?」 「いや、それよりさっさと図面のある場所を探した方がいい」 「そうね、特定しないとこっちも動くに動けないから」 「もしそこに誰かいたりしたら、すぐ戦う準備整えないといけないし」 水希の言うことは正論で、目標の位置を速やかに押さえなくては今の一行にできることは何もない。ただいたずらに時間を消耗してしまうばかりだ。 四四八たちと二手に分かれている時間は可能な限り短くするべきで、ここで逡巡している暇はないだろう。 「とは言え──どこから見たもんだろうな」 「こんな広い場所、手当たり次第に探し回るってわけにもいかねえだろ」 自分たちは泥棒ではないし、そもそも三人程度でこの敷地全体を受け持つというのはいささか広大過ぎるというものだろう。比喩ではなく夜が明けてしまう。 いくら勝手知ったる土地とはいえ、それは流石に現実的と言い難い。ならばどうするか。 「誰かに聞いてみる? もしかしたら、教えてくれるかもしれないし……」 「ほ、何かお探しかね?」 「ひゃっ?」 横合いからかけられた声に、小さな悲鳴を上げて驚く水希。視線の先には白と浅葱の装束を身に纏った老人がいた。 微かな記憶に晶は引っ掛かりを覚える。確か、自分たちは以前にこの人と…… 「ああ、あんたあの時の!」 手を打って思い出す。夢の世界に入ったばかりの頃、八幡で一悶着あった宮司だった。 たとえそれが他人であろうとも、おかしなことがあれば叱責する……いささか頑固とも言える、この時代におけるステレオタイプのような人格であったと記憶している。 「どうしたのかね、道の真ん中で突っ立って」 こちらのことは覚えていないのだろう、宮司は朗らかにそう尋ねてくる。 絡まれて面倒なことになるのかと一瞬警戒する晶ではあったが、これならばおそらく助けになってくれる──そう思い直して口を開いた。 「ああ、いや、ちょっと八幡宮で見たいものがあってさ……」 「ほう、娘さんが神社仏閣に興味を持つというのはいいことだ。感心感心」 「で、何だね? 遠慮することはない、言うといい」 「え、えーと、その……」 気を良くしたのか、親しみのこもった対応を急に振られて晶はうまく対応できない。見かねた水希が一歩前に出て交代する。 「私たち、戦真館の学生なんです」 「おお、すぐ近くにあるあそこかね」 「はい。それで、今度新しい校舎ができると聞いて、どんなに素敵なものなんだろうって期待してるんです」 「完成まで待ちきれなくて、教官に少しでもいろいろ知りたいってお願いしたら、こちらの境内に設計図面が納められているって案内されまして」 「若輩の身ではありますし、どれだけ凄いものかというのはよく分かりませんけど、後学のためになると思いまして」 「この手にとって見られなくても、せめて遠くから一目でもって思ったんですが……駄目、でしょうか?」 「おお……すげえなおまえ、猫被るの」 「しっ」 背中の後ろ、小声でひそひそ言う二人を意にも介さず、水希は上目遣いのまま小首を傾げる。 宮司はなにかを思い出すように考え込んでいたが、やがてその皺だらけの頬に薄く笑みを浮かべた。 「ほっほ、熱心でいいものだね。やはり若者というのはそうでないといけない」 「ああ、奉納されているよ確かに。なに、畏まるものじゃない。手に触れなければ、誰にでも閲覧は許可されているものだ」 「こっちに来なさい。その図面にまつわる話も聞かせてあげよう」 「よっしゃっ」 「ありがとうございます、宮司さん」 「いやいや、礼には及ばんよ。ほっほほ」 難航するかもと懸念されていた交渉だったが、思いのほか呆気なく纏まった。 そうして三人は、境内を飄々と進む宮司の後をついていく。 案内する宮司が立ち止まったのは、境内の中でも人気のない奧まった場所だった。 周囲には礎石が散見され、どこか厳かな空気を湛えている。やはり教官の話にあったように、特殊な術式の施された空間なのだろうか。 際は宮司も画面に映るように。 そんな三人の内心に気付いた様子もなく、宮司は振り返って笑みを向けてくる。 「もう少し行った場所に、戦真館の設計図は納められておる」 「言ったように見学は許可されておるし、自由に見なさい」 「あ、ありがとうございます、その……」 「〈曽禰〉《そね》だよ、〈曽禰玄心〉《そねげんしん》。気軽に呼ぶといい」 「ありがとうございます、玄心さん」 妙な警戒をされていない今のうちに、聞けることは引き出しておきたい──三人は視線でそう意思統一を交わす。 交渉次第では、この曽禰という宮司にしか知り得ないことまでも教えてもらえるかもしれない。少なくとも鬼面衆には直接会っていると推測される老人の話は、今の自分たちにとって耳を傾ける価値があるだろう。 そして可能であれば、より深部に立ち入らせてもらう許可を取り付けないといけない。そう思いつつ、様子を窺っていると── 「ほっ、なかなか熱心だね。そんなに真剣な顔をして、若さというものは眩しいものよ」 「ああ、茶化すなよ爺さん」 「やらなきゃいけないことがあるんだ、俺たちにはよ」 淳士の言葉に玄心は皺だらけの顔を緩ませ、懐かしそうな面持ちで口を開く。 「ああ、おまえさんたちを見ていると思い出すよ。私の若いころは、まだ幕末でなあ──」 「青春の、それこそすべてを懸けて鍛錬に明け暮れたものだよ。毎日毎日、休むことなくね」 「へー。玄心さん、鍛錬って武術か何かやってたのか?」 「ああ、まあそんなものだよ」 「ははっ、見えないな」 「おい、真奈瀬」 「あ、いや……ごめんなさい」 「ほほ、構わんよ。今となってはもう、ごらんの通りの歳だしの。そう思うのも当然だろう」 穏やかに頷く玄心の機嫌は正確なところまで窺えないものの、特段に不満を抱いているというわけでもなさそうだった。 「その、昔はお強かったんですか?」 「いや──それが、分からないんだよ」 「私は戦場に出る機会というものを奪われてしまってな、一度も前線には出られなかったんだ」 「いわゆる戊辰だの、維新の後は西南とかの……色々機はあったんじゃが、どうにも間が悪くてのお」 「あれだけ日々、歯を食いしばって修練を積んだのに。血反吐を吐く思いで耐えたのに」 「戦場に立たせてくれるだけで……それだけで、私は満足できたというのになあ」 「だが叶わなかった──それが、この歳になっても未だ心を疼かせる後悔だ」 この老人が初めて見せた己自身に、そして焦がされるような感情の片鱗に、三人は思いがけず言葉を失ってしまう。 まるで何かに浮かされたように、彼は訥々と話し続けた。 「私の家系は、何十代も前から、ある一つのことを極めようとしておっての」 「連綿と続いてきた歴史の技を、私も幼いころから叩き込まれたんだ。それなりの自負もあったし、ただ一度だけでも戦えるだけでよかった──」 「……だが、ついにその思いが成就することは出来なんだのよ」 そこで話を切った玄心に、晶たちは同情の念すら抱いていた。戦場に出られなくて可哀想……という意味ではなく、それを幸運だったと思えない彼の寂しい精神に。 だから、つい言ってしまう。 「その、練習の成果……今からじゃ、もう試すことはできないんですか?」 「そうだよ、諦めることねえよ。って、詳しいことは知らないけどさ」 たとえば道場を開いて子供たちに教えるとか。それこそ戦真館で武術教練の指導をするとか、同じ武の道でも他に色々あると思うのだ。 そうして技と心を継いでいけば、修行に明け暮れたという彼の青春とやらも無為にはなるまいと信じられる。 「おまえさんたち……」 「いいのですかな。私などが、再びその機会を貰っても──」 「いいさ。誰に遠慮することもありゃしねえ」 三人の言葉を聞いて嬉しそうに──本当に嬉しそうに玄心は微笑んだ。 その貌は、奈落の色を浮かべていて── 「時は無情にも流れ行き、老いさらばえたこの身体。もう若かりし頃のように動けはしないが……」 「そうじゃのう。〈こ〉《、》〈の〉《、》〈程〉《、》〈度〉《、》ならば、ほれ」 「あ……?」 晶はその目に見る── くの字を描くように折れる、水希の身体を。 吹き出す鮮血の向こうで薄く笑む玄心。その拳が水希の胴体に深々と突き刺さっていた。肉の裂かれる音、そして骨の軋みがはっきりと聞こえてくる。 「ガ、ハッ──」 びしゃりと吐血する水希。その光景には既視感がある。 油断をすれば命を狩られる──これまでの戦いと委細同じ。そしてそれが意味していることは明白で。 これは彼の乱心でもなんでもない。最初から張り巡らされていた狙いの通りだったのだ。 「水希ィィッ!」 そのまま塵か何かのように地面に放られた水希へと、刹那も迷うことなく晶は駆け寄った。一目でそれと分かる深手を負った身体は、もはや己の力で支えることすらままならない。 即時に楯法を展開する。そして、傷自体は緩やかに塞がっていくが…… 「ああ、あ……」 〈何〉《、》〈か〉《、》〈が〉《、》〈治〉《、》〈癒〉《、》〈し〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》。いくら重傷を負った箇所が回復しようとも、むしろ進行すらしていくこの症状はなんだ……? まるで生気がそこから抜け落ち、急速に枯れていくかのような。 「ほっ、ええのう。ええのう」 まるで縁側の猫でも可愛がるかのような呑気さで、玄心は晶に語り掛けた。 「肉が抉れ、骨が砕ける。若い娘の命が消えゆく、苦悶の表情が堪らんよ」 「ほら、もっとよくその顔を見せておくれ──のう?」 「──てめええッッ!!」 瞬間、火が点いたような勢いをもって淳士が玄心に飛び掛かる。 しかし眼前の老人は、焼け付くような敵意を正面から向けられているのを気に掛けていない── 「血気盛んだのう……ほれ、私が憎いか」 「殺したいのか、ん?」 「うっせんだよぉッ!」 放たれる剛拳が続け様に空を切る、空を切る──〈空〉《、》〈し〉《、》〈か〉《、》〈斬〉《、》〈れ〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》。 枯れ葉が舞うような動きを前に、すべての撃が透かされる。 未だ攻撃の一手は玄心から繰り出されていない。しかし回避に徹している今ですらも、この好々爺が熟達の武人であることは鮮明に理解できた。 「おお、なかなか筋が良いじゃないか」 「勘も悪くないし度胸もある。これだけの武をもってすれば、今まで何人もの相手を屠ってきたことだろう──」 「楽しいか? 楽しかったろう。相対した連中を叩いて、潰してきて」 「何人殺した? 無残に散らせた?」 「羨ましいのぉ、本当にィ!」 「ぐ、ううぅぅッ……」 その速さはまさに迅雷──攻めに転じた老人の放つ拳打を辛うじて受け止めるが、衝撃を逃がす間もなく、防御と同時に骨が破砕されていた。 高く付いたガードの代償。激痛が走るが歯を食い縛って気合いで堪える。 「ジジイ、てめえ──」 「ほッ、臆していないか」 「だが冷静さを欠いておる。それでは実力を十全に発揮できんよ」 躙り寄る玄心の口調は、まるでこの闘争する時間を慈しむように。 「頭を冷やせよ、そんなものか?」 「私を打擲し、破壊して、臓腑までも踏み躙り荒らせば少しは治まるかの?」 言い終わらぬうちに地面を蹴り、突風にも似た踏み込みで間合いを詰められる。それを認識したと同時に連撃の花火が舞い散った。 「ガ、アッ……!」 皮膚が抉られ、周囲に血の赤が弾け散る。玄心の攻撃は極めて的確かつ容赦なかった。しかも── 〈な〉《、》〈ん〉《、》〈だ〉《、》〈こ〉《、》〈れ〉《、》〈は〉《、》、まるで何かが抜け落ちていくかのような。自分の意志に反して、身体に力が入らない。 「殺させてくれるか? それとも殺すか?」 「どっちなんだよ。ほれ、早く決めんか」 促すようにそう言って、腕を掴んで引き寄せる。 そのまま玄心の指先が淳士の関節に入り込み……次の瞬間、破砕音が響いて〈肩〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈先〉《、》〈の〉《、》〈関〉《、》〈節〉《、》〈が〉《、》〈す〉《、》〈べ〉《、》〈て〉《、》〈外〉《、》〈さ〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》。指の一本一本までもが例外なく、デタラメな方向へと向いている。 「イッ──ギァァッ!」 焼け付く衝撃が奔り悶絶する淳士。そして──気絶しそうな激痛の中で見る。 仲間の元に、ゆらり歩み寄っていく鬼を。 「や、めろッ……」 そう、これは鬼だ。老いさらばえた肉体を、人畜無害を示す宮司服を、上から覆い包むように、鬼面の狂気が侵食していく。 その姿、一目瞭然――神祇省・鬼面衆、怪士でしかありえない。 「ひょおおおおおおッ」 「やめろおおおッ!」 まるで盾になるかのように、晶は折り重なって水希を庇う。その身体へ無情にも、鬼の剛拳が叩き込まれた。 「あッ、が……」 そうして頽れる晶を見下ろし、〈怪士〉《げんしん》はさも愉快そうに嗤っていた。 「何せ、こいつは回復役なんだろぉ?」 「せっかく破壊したのに治癒を施すなど、そりゃあないだろう。遣り直しなど唾棄すべき無粋だ」 「そう思わないかい、若いのよ?」 「クッ、ソ……!」 そして、次の瞬間。 「ァ、グッ──」 膝を砕かれ、四肢ともにすべてが粉砕されて達磨も同然の状態で地に転がされる。 圧倒的な実力差に加え、先程から淳士の立ち回りにはいつもの冴えがない。それは先手を握られたことに起因する。 まず一人を先に潰し動揺を誘う。淳士は義に厚く、ゆえに拳は鈍ってしまい、あとはそのまま雪崩れていくのみ。 すなわちすべてが計算づくの、実に鮮やかな殺人者の手管。 鬼が歩み寄ってくる。新鮮な獲物を喰らうのが美味なのだと言わんばかりの相を浮かべて。 「ああ、いいな──実にいい」 「私の人生、今こそが絶頂だと言えるのかもしれん。どんな気分なのだろうね、このままおまえさんを殺したら」 「グゥ……ッ」 「返す返すもあの頃に、こうしていたかったよなァ……」 怪士の口元から、だらしなく垂れているのは涎だった。その目の奧は彼の深淵を窺わせる闇が覗いている。 そして、彼の股間はあたかも性的興奮を得ているかのように雄々しく隆起を示していた。下腹の装束を内側から盛り上げて、しかし淳士は目の前のそんな変化になど気付けない。 全身を破壊され、ただ刺されるはずの止めを待つばかりで── 「──おいおい、おまえ」 「まさか俺と交わした約束、忘れとるんじゃないじゃろうのォ?」 薄れゆく意識の中、淳士はその声を聞いた。三日月型に歪む傲岸の表情、そして不遜の物言い…… 間違いなどない、壇狩摩がそこにいる。 「分かっちょるんか? 俺はやれェとは言うたけどの、殺せェ命じた覚えはありゃせんで」 怪士は一瞬不服にも似た色を浮かべて狩摩を見据えるも、我情を晒すのはそこまで。まるで泡沫の夢から醒めたように傅く。 「おう、感心感心。よう分かっちょうの」 「──────」 「おまえらは打ち手があってこそのもんよ。好きィできる駒なんざ、この世にありゃせんのじゃけ」 「ただ黙って使われとりゃええ言うことよ。まあ、いささか哀れではあるがのォ。ひひっ──」 怪士の目は茫洋とした空洞を感じさせ、先の興奮はそこから跡形もなく消え失せている。 取り繕っているのか窺う術はない。ただ黙したまま従っている。それが自分の役目と弁えるように。 狩摩はそんな駒から目を離して、血の海に沈む淳士たち見遣った。 「賢しいのと、楯法使いがちょうどやられよるか」 「ああいうの生かしとったら、後々手間になるけえの。さっさと片すに限るわい」 「これであのジャリどもとこっちの人数も釣り合うたしのォ。おい、褒美に殺らしたろォかい、おまえにも。無様に股膨らましよってからに」 「こんなァ、この様で未だに〈不殺〉《どうてい》じゃっちゅうけえのう。笑かしよるで、かっかっか!」 語り掛けるも、すでに鬼面の様子は僅かにも変じない。ただ泰然と、苔蒸す岩のようにそこに在るばかり。 淳士は震える瞼を開く。起き上がろうとする意志は未だ残っているも…… 何も分からないし、意識も闇に呑まれかけている。命が繋がれていることだけでも奇跡と思える深手であり、身を動かすことなど不可能のはず。 だが──精神の力で肉体を超越し、己に課された役目のためだけに立ち上がる。 「………………」 「ん? まだ立てよるんか、おまえ」 「る、っせえ……」 「は、ははっ、はははははッ──」 狩摩は哄笑する。いじましい子供を見た大人のように、しかしその形相は修羅のそれだ。 そして、懐から取り出したのは紙の束。 「ほォか、これ探しに来たんじゃったのォ」 「わざわざ三人で動いてまでご苦労なことよ。入れ知恵されたんは、お嬢辺りにか?」 眼前でからかわれていようとも、もはや腕も上がらず反攻の撃は成し得ない。その目には光も宿らず。 ただ震えた手を伸ばすだけ。そこに…… 「ええわ、褒美よ。くれちゃるわ」 「自分で言うのもあれじゃけど、割りかし良うできとる。どうせおまえら戦真館のモンじゃ、持ってけえや」 拘りも、計算も何もかもその様子からは感じられず。 まるで適当。まるで気紛れ。残された晶たちには興味を失ったかのように、狩摩は踵を返した。 「帰るで怪士。はっ、決戦前の見世物としちゃまあまあじゃったのォ」 無造作に歩を踏み出して、壇狩摩は闇の中へと消えていく。 倒れた三人にどこか名残惜しそうな視線を向けていた怪士も、無言で己が主の後を追った。 「ク、ソが……」 最後の力を振り絞って、淳士は首の向きを変える──そこには、今にも命の炎が潰えてしまいそうな仲間二人の姿があった。 窓の外に広がる暗い闇に視線を向ける。 晶たちが八幡へと向かって、すでに数時間ほどが経過していた。奉納されているものをただ取ってくるにしては、いささか帰りが遅いと言えるだろう。 さっきからどうにも胸騒ぎが治まらない。やはり俺も行くべきだったか。 「信じようぜ、あいつらを」 俺の様子に気付いて、そう口を開いたのは栄光だ。 こういう時にいつも不安を表に出す役どころであるはずの栄光が、ついに覚悟を決めたのか。引き締まった表情は確かな成長の跡を窺わせる。 「ああ、そうだな。おまえの言う通りだ栄光」 「あいつらなら、きっと──」 言い終わらないうちに、部屋のドアが力なく開いた。 そして──ぱさり、と何かが落ちたような音が聞こえた。 それは戦真館の設計図面で、ああやはり持ち帰ってくれたのかと一瞬思うも、己の愚かしさにすぐ気付く。 なぜなら。 「淳士ッ!!」 「どうしたんだ、おまえたち……!」 持ち帰った図面の用紙は、鳴滝の手から滑り落ちるくらいに血塗れていたから。 自分も重傷を負いながらも、両脇に晶と世良を抱えて鳴滝は戻ってきたのだ。女二人はその瞼をぴくりとも動かさない。 鳴滝本人も思わず目を覆いたくなるようなひどい傷だった。そんな怪我で無茶をするなど自殺にも等しい行為だ。 口の端から血を吹きながらも、鳴滝は俺を見据えて伝える。 「すまねえ、柊……おまえら……」 「何がどうしたってのよ。誰があんたをこんな、酷い目に──」 「もういい鳴滝、喋るなッ」 「あのジジイの能力すら、満足に見極められやしなかったがよ……取るもんは、取ってきてやったぜ……」 「ああ……柊に渡せたんなら、これで大丈夫、ッ……」 「安心して、休める……」 何も言うな、横になってろ。視線に力を込めてそう伝える。 分かるんだよ、晶と世良を庇いながら戦ったっていうのが。鳴滝が普通にやっていれば負うはずのない箇所に傷があるから。 己の身を賭してでも女を守り、与えられた任務を遂行する。見せてもらったぞ、おまえの男ってやつを。 その身を小刻みに震わせながら、鳴滝は俺たちに事の顛末を短く語った。 怪士の正体。その精神性。そして壇狩摩……こいつが体験したすべてを伝え終えてから…… 「後は、任せたぜ──」 限界まで力を振り絞っていたのだろう、糸が切れたように俺の腕の中に倒れ込む鳴滝。 我堂の悲鳴が部屋に谺する中、俺は明確に気付いていた。今このときは、すでに決戦前夜なのだということを。  そして、今もまた蜜の香りに包まれている。  甘さに満ちたこの華は、陰鬱に爛熟した愛の牢獄。  最初に告げよう。毒婦が夢に焦がれる限り、この場を脱出する術はない。  独力で目覚めることなど、誰であろうと不可能だと知るがいい──  まず、最初に自覚したのは弛緩している肉体だった。  四肢は水揚げされた蛸のように伸びきっていて、意志と動きが綺麗に分断されているため動くことが出来そうもない。最後の記憶から察する限り、俺は何処かに囚われているようだがその場所が分からなかった。  そして、次に気づいたのは脳を蕩けさせる甘い匂い。満開の花束を顔面に押し付けられ、そのまま深呼吸をしたような、花粉から立ち上る香気が肺胞をすべて汚染していく。  それが、……思考を、より鈍化させて、いき。  悪寒を振り払おうと瀬戸際で意識を高める。正気を保て。正気を保て。力の抜けた顎を使い、舌を噛み切ってでも意識を留めろ。誘われるなと自分自身に喝を入れた。  流れ込んでくる、いや同調しようとする別の意思を何としても拒絶する。この繋がりが真に〈完成〉《だらく》すれば最後、二度と俺は浮上できない。何一つわからない虜囚の身ながらそれだけは理解できた。  何かが己と重なっていき、境目が消えていく。  そのたびに、この手へ残った決定権が遠のいていくのだと。  そして皮肉にも、その深まっていく同調が事態を把握させていく。より鮮やかに。より鮮明に。  ここは、その人物の心象風景。花開かない〈白百合〉《おり》の中。  純白の花弁に守られて、蕾に眠る姫君はまどろみながら待っている。  己の城を力づくで犯してくれる……そんな暴虐の王子様を。  俺と結びついている人物──彼女──の人生を表現するならば“貴族”という一文字に集約される。  それも生半可な紛い物ではなく、純然たる本物でだ。溢れんばかりの富を有し、名声を極め、さらに気品と美貌を備えているという本物の〈尊い血筋〉《ブルーブラッド》。  長い歴史の中で維持し続けてきた純血性の賜物というべきか、最高峰の環境という下地もあって彼女は可憐な成長を遂げていく。そこはもう予定調和の領域で、ただ当たり前に深窓の令嬢がひとり世に生み出された。  そう、何もおかしなことはない。彼女は褒め称えられる。愛される。生来の〈魅力〉《カリスマ》もあってそれはより加速した。  いかなる男も彼女を見れば心を奪われ、女は嫉妬さえ抱かない。あまりに隔絶した存在を前にしたとき、人は思わず崇拝を選ぶ。あらゆる者が膝を折って、賛辞と共にかしずいた。  あなたは素敵だ。華のようだ。この世のすべてはあなたのもので、真実、その言葉通りにならなかったことはない。一度たりとてなかったのだ。しかもそれは〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  忠義を誓った者は、彼女を守る永遠の騎士となる。  献上された財宝は、繁栄をより強固なものとした。  裏切りにあったことなど皆無。誰も彼女を害しようとさえしない。陶酔した者ほど傾向は顕著であり、捧げた忠を身命賭して遂行するのみ。それを奪おうとする輩は皆ことごとく撃退される。  返ってくる言葉は大抵これだ。ご安心くださいお嬢様、我々がついております、何も心配は御座いません──  脅威という名の病原菌をこれでもかと殺菌され、  ゆえに、それともだからだろうか。彼女の個人的な願いは、徐々に王道から逸れていくことになる。  つまらない──ああ、つまらない。  それはさながら、熟して落ちる果実のように。  傍から見れば順風満帆な生涯だが、彼女は僅かも満たされなかった。そして徐々に失望していき、次第に見切りをつけていく。  自分を構成する世界、その幼稚さと容易さに絶望の念を抱き始めた。  人間は往々にして、容易く手に入るものに価値を見出さないという傾向がある。貧しい者ほど金銭を好み、孤独な者ほど永遠の愛を夢見て、王族ほど庶民の身軽さに羨望を抱く。どれも自分が持っていないから。  希少性のあるものほど高価になるのは世の常だ。それは何も金品や宝石などに限定されず、個人間でまったく異なる基準点を生み出していく。  よって、彼女もまたそう感じたのはなんら不思議なことではない。  あらゆるステータスを予め持っていたことへの悲嘆は、〈仮面〉《ほほえみ》の下で少しずつ堆積しながらその重量を増していった。  賞賛繁栄貴族美貌──ねえ、それがいったいなに? だから何なの、何になるの? どなたか教えていただけますか。  容易く手に入るものに価値はあるの? そして周囲は本当に、自分のことを見ているの?  あなたが恐れ入っているのは家名であり、無造作に積み上げられた名誉の山ではないというの? 家柄というシンボルに頭を下げているだけではないでしょうか、と思いつつも笑顔を向けて……誰も内面に気づかない。  そんな自分が何より嫌いで、しかし変えることさえできず。  深く刺さった棘のように疑念が消えない、なくならないのだ。思考は迷路に入ったまま、出口を求めてさ迷っている。  要は一種の適応不全なのだろう。自分が住まう水槽と、その生き方を信じられない。  椅子に座っているだけでも増加していく賞賛、財宝、そして権力。労力という対価なしにそれが手に入ったものだから、自慢とするなど出来るだろうか。  別に、もっと欲しいなどと言っているわけではないのだ。この世のすべてを寄こせとも、人類史に名を刻むという名誉欲もない。年頃の少女なら誰もが望むようなものを願っているだけ。  たった一つで、ただ一人で、ああそれだけで構わない。  生まれ育ちというフィルターを通さずに、ありのままの自分を見て。そしてあるがままに見つけてちょうだい。  この無味乾燥とした自分の世界を、何もかも〈暴力的〉《ロマンチック》に一変させてくれるような。  そんな苦難と愛に満ちたものが、欲しくて欲しくてたまらないのだ。  如何なものにも劣らない、輝く本物を渇望している。恋に夢見るお嬢様。  けれど、現実はそんな理想に目もくれない。  次々に嵩を増していく財と臣。背に積み重なっていく栄光という名の荷物たちは、揺るがない枷となって自分の望みを邪魔し続ける。  余人から見れば好循環でありながら、本人にとっては悪循環。下手に動こうとすればするほど輝きは強く高まり、自分の姿を光の中に押し隠してしまう。もはや迂闊なことさえ口にできないという始末。  だから、彼女はこう考えた。つまるところ、〈わ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈し〉《 、》〈が〉《 、》〈動〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈駄〉《 、》〈目〉《 、》なのだろう。  何か思い立って行動しても、他人は真っ直ぐに受け取られない。挑戦を試みた瞬間、不要な手助けがあらゆる方向から差しのべられる。泥臭く足掻くことを許してくれず、余計に誰も自分を見ない。  なので、これからは〈引〉《 、》〈っ〉《 、》〈張〉《 、》〈り〉《 、》〈上〉《 、》〈げ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈人〉《 、》〈物〉《 、》を求めよう。  ああ、できれば殿方がいいですね。それも雄々しく逞しい、強い男性なら最高でしょう。少々、粗野でも構いません。  優しく梱包するこの花びらを力づくで引き裂いて。わたくしのことを引きずり出して。  まだ見ぬ愛しいあなたのことを、ここでずっと待っています。無能は何も余計なことをいたしません。勝者に与えられる景品のように、祈り焦がれておりましょう。  どうせ、自分から動いても何一つ叶わないのだから。  どうせ、自分の求めているものはいつも手に入らないのだから。 「ふざ、けるな……!」  流れ込んでくる思惟に対して、震える喉が呻き声を紡いだ。  なぜそうなる、どうしてそんな思考に行き着く。的外れにも程がある願いを聞き逃すことができなかった。  手に入ってしまうことに慣れていて、深く知ろうとすることを無意識に放棄している。  どうせおまえも、〈百合香〉《わたくし》を好きに違いないと投げやりに思い込んでいる。そこまで深く、他人を知ろうとしたこともないくせに。  家柄、富、そして美貌……いわゆる格と言われる諸々しか、おまえたちは見ていない。その奥にある本当の自分、生の辰宮百合香には誰も触れない。興味も持たない。愛さない。  そんなことはないというのに。この令嬢は甚だしく、他人というものを履き違えている。 「どこがでしょう? だってあなたも、一目でわたくしを愛したではないですか四四八さん。ゆえにまったく信用できません。  盧生の器は稀少ですけど、殿方としては正直なんの魅力も感じませんわ。犬ね案山子ね屑ね死ね。話にならない。要りません。  わたくしが欲しいのは、真に骨のある本当の殿方のみですから。  いないのですけどね。そんな方は。うふふ、ふふふふ、あはははははは」  そうして、彼女は自己完結の世界に篭る。内から俺が何を言おうと、一切耳に入らない。  だが、それでも言わずにはいられない。 「手を、伸ばせばいいんだよ……ッ」  辛いのなら辛いと、満たされない理由はこう思っているからだと、口に出せばいいじゃないか。それこそ勇気なのだから。 「誰もいないわけじゃ、ないんだ!」  一人なんかじゃないし、必ず大切に思ってくれている人はいる。家柄や財など関係なく“あなた”だから絆を結ぼうとする思いはきっとある。自分を表現する前から、勝手に失望するんじゃない。  例えば“彼”や俺たちとか……きっと他にも探せばいるはず。何も見せていないまま、理解だけをしてほしい、なんて我が侭を言う前にやるべきことがあるだろう。 「──っ、ぁ…………」  そう諭してやりたいのに、身体は変わらず弛緩している。うだるような熱が増して、呼吸さえ自由に出来ない。  ああ、本当はこんな風に怒ることさえ悪手なんだ。彼女を理解すればするほどに同調は深まって、優しく、優しく囚われてしまう。  花は開かない。蕾は青く未熟なまま。花粉は今この時も肺を満たして自由を奪い、香気を放つ。辛うじて自意識を保つだけで精一杯だ。  独力では何をしようと逃れられない。これは自閉の檻ゆえに、彼女と同調している俺が破ることは不可能なのだ。  この牢獄を打ち破るには、外的要因が絶対的に必須となる。 「どなたか、わたくしのことを見つけてください。家柄や名声なんて関係ないと叫びながら、暴いてください。  ここにいるのは祭られただけのつまらぬ女。憐れで卑小な、栄達を管理するための古びた御輿……いっそ壊してくれて構いません。  邪魔になってはなりませんから、静かにここで見守りましょう。  わたくしの求めるものはいつも手に入りませんから」  だから、仲間たちに強く願う。彼女に絆を示してくれ。  この度し難い箱入りに、立ち向かうという強さと想いをどうか教えてやってくれ。  それまでの間、何としても俺は俺を守り抜く。克己心を糧に自意識を保つ静かな戦いを再開した。  百合の蕾はまだ咲かない……花開く時を待っている。 夢への再突入は驚くほど静かに完了した。それはもう、何事もなく。 警戒心を奮い立たせて挑んだ私たちだったが、予想していた危険要素は訪れなかった。正直、何かあるだろうと踏んでいたのだが、いい意味での肩透かしを食らった事態に遭遇する。 生活の営みに通じる気配は綺麗になくなっているあたり、以前の時代とは世界そのものが違うということなのだろう。ただそれも、ハツォルという層へ落ちたらしい、としか分からない。 そして、凄まじい混沌が渦巻く最前線とのことらしかったが……正直どこか拍子抜けした気分だ。入った瞬間を包囲され、各勢力から袋叩きにされることさえ想定していたのだが、まあいい。 「それじゃあ、まず戦真館へ行くわよ」 警戒しながら歩きつつ、突入前に予め決めていた目的地を目指す。 じっとしていれば嗅ぎつけられるかもしれないし、何より自分たちはまるで状況が分からない。だからこそ、まず目にしたいのは最後の記憶である炎上した〈戦真館〉《せんじょう》だ。 崩壊直後か、あるいは建てられる前か、それとも新築して〈千〉《 、》〈信〉《 、》〈館〉《 、》への〈歴史〉《みち》を歩み始めているか。 時代が変わったことの指針を見つけるために行く。あとは行動の拠点を失ったから、それを探すことも意識しておいた。 その道中で晶たちの得物を渡しておいた。柊と違って遠隔操作で飛ばせないんだから、くれぐれも壊さないようにと念を押している。 「使い心地は問題ないけど……しっかし、なんか違和感あるよな。鈴子に武器創ってもらうのって」 「それよりオレはギャラリーいねえことに安心するわ。明らかに白けた眼で見られるだろこれ、つうかしょっ引かれるんじゃね?」 「ローラーブーツと帯はまだしも、街中でライフル担いでいるとかアウトだろ。アウト」 「今までは堂々とできたんだけどね。百合香さんの名前を出せば納得されたし、信頼もされたから」 「やっぱり権力っていう後ろ盾は大きいねぇ。そういう意味だと、二重の意味でよかったのかもしれないよ」 「ああ。人がいないってことは人海戦術を警戒しなくていいもんな。タレこみされるだけでも、こっちの動向、全部筒抜けになっちまうし」 「当たり前だけど、信じるってこんなに〈怖〉《つよ》かったんだよな」 戦真館で過ごした時間のうち、誰もが辰宮のことを信じていた。それが能力によるものか、家柄ゆえかはともかくとして一枚岩だったのは間違いない。 彼女に与せぬ者はすなわち悪……なんていう単純な方程式は、深く考えるほど恐ろしくなってくる。そしてこんな会話が出ること自体、各々が再度の意識操作に気を張っていることの表れだった。 認識に訴えて賛同者へと変える。派手さはないが凄まじく凶悪な力だ。油断せずに進んでいく。 やがて十数分後、襲撃も遭遇もなく目的地へと到着した。 見慣れた校門は健在。炎で朽ち果てたはずが、記憶とまったく同じ意匠で荘厳に佇んでいる。 時代が移ったとはっきりした。後はそれが以前より〈過去〉《まえ》か〈未来〉《あと》かなのだが、それもすぐに見分けがつく。 以前あった小さな傷や凹みがなく、手入れではどうしようもない経年劣化が全部なくなっている。これは以前と同じ設計図に伴って、後から新造されたものなのだろう。ということは。 「ここはあれから少し〈未来〉《あと》の時代。辰宮麗一郎が没して以後、百合香さんが立て直した戦真館なんだわ」 かつて資料室で発見した通り。あの地獄に抱かれて祖父が消え、孫の彼女が後を継いだ。 表向きには正体不明の事故と片付けられ、根拠を明かせないのだから色々と世の疑念や不審を招いただろう。一度なくなったものを再建することがいかに難しいか分かっているつもりだし、そこには素直に敬意を表する。 ……難航しただろうに、よく成し遂げたものだ。 あるいは苦も無く達成したのだろうか。ならばより、尊敬の念を抱かずにはいられない。 「大したもんだよなぁ、時たま本当に同年代かって思うぜ」 「完全無欠のお嬢様だもんね、百合香さんは」 とは言いつつも、ここで長々と感心しているのも間抜けだろう。門を〈検〉《あらた》めてみるが無機質な音が返ってくるだけである。 「まあ、当然閉まってるよな」 防衛の備えは、無人でもきっちり行われていた。そうなれば当然、悪い考えも浮かんでくる。 「やっぱり危険なものが潜んでいるから? だから少しでも、こうして陣地の守りを固めているとか……」 「可能性はあるわね」 考えすぎかもしれないが、閉じ込められている可能性もある。ひとたびそう考えると気が急かされずにはいられなかった。知らぬ存ぜぬを決め込んでるのは鈍感な淳士だけ。 優しい彼女のことだ、きっと心配しているだろう。あの時に何が起こったかも会えば話してくれるに違いない。 それならまず敷地へ入るべきなのだが、いかんせん壊すのは躊躇われる。信頼を裏切るような真似はしたくないので残る選択肢は……上からか。我が意を得たりと大杉がストレッチを始める。 「よし下がってな。ちょっくらオレがひとっ飛びで──」 「待て」 地を蹴ろうとした寸前、ごつい手が大杉の肩を掴んだ。 深刻な顔に思わず全員目を剥いたが、それに返ってきたのは大仰な淳士のため息で……自覚しろとその目が真摯に訴えている。 「思い出せよ、俺らは何しにここへ来た。あの女に会うためか? 違えだろ」 「注意喚起した先からあっさり嵌ってんじゃねえよアホどもが」 「何よ、わけわかんないことを………って」 「あ──」 瞬間、冷や水を浴びせられたように意識が覚めた。 百合香さんに会う? 彼女はきっと心配している? そうだ、自分は何をさっきから馬鹿なことを思っているんだ。 今も眠る彼への所業を忘れたのかと──戒めて、よろけながら唇を噛む。 そして同時に恐怖を覚えた。まったく自覚がなかった。気づけばまた同じ轍を踏まされていただなんて。 なんて恥だろう。こうまでまんまと、木偶のようにしてやられるとは。 「覚めたみたいだな。気分はどうだ? さっきまでの態度を鑑みてよ」 「……そうね、よくやってくれたわ。感謝してあげるから末代までの自慢にしなさい」 「軽口叩けるなら問題ねえな」 「おまえらも分かったろ。とにかく門に触れんじゃねえ、むしろ戦真館に近づくな。こっちの位置まで下がってろ」 「むせ返るほど充満してやがるぜ、クソが」 文字通り言葉を吐き捨てながら淳士は校門を睨みつけていた。指で鼻の頭を軽くこすり、我慢できないというように眉間へ皺を刻んでいる。 濃密な悪臭を我慢する仕草。つられて自分たちも鼻を鳴らすが、まったく感じるものがなかった。ここには風の香りしかせず、臭気がどこに混じっているというのだろう。 「なあ、今も何か匂いしてるのか?」 「これを無臭と思えるわけか。羨ましいぜ」 「とにかく絶対に入ろうとか思うんじゃねえ。今までのがちょっとキツい香水なら、こいつは阿片を炊いた花畑だ。一息吸えば鼻から頭が壊される。俺でも気分悪ぃんだ」 「無自覚に踏み込んでたら都合のいい蜜蜂になってたろうよ」 「はい、その通りです。ここは百合香様の領域ですので」 と、耳に飛び込んだ第三者の声。聞きなれた響きに驚いて── 「迂闊に踏み込めばたちまち虜になってしまいますよ。知覚外のことゆえ実感が湧きにくいでしょうが、留まる事を推奨します」 振り向けば、そこには見慣れた人物の、見慣れていない姿があった。 忍者……いやこの場合はくノ一か? だがそんな外装よりも、問題なのはそれを着ている人物のほうで。 隠密装束に身を包んだ彼女のことを、私たちはよく知っている。 「野枝、さん……?」 呆然と呟く大杉に返答はない。怜悧な表情は彫像のようで、沈黙だけが無情にも呼びかけを肯定していた。 記憶の中でいつも微笑んでいた伊藤野枝。そんな彼女が無表情で佇んでいる光景は、まるで影絵みたいに実感がなかった。誰も言葉を出せず呆気にとられているがまま。 訊ねたいことは山ほどあるのに、咄嗟に言葉へ出せることはなく── 「来よったか、小童ども」 そして、次に現れた人影に〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》と痛感した。 考えなし、その気などあらずとも打たれた最善手。二重の驚愕に場の空気が支配されたことを悟る。 動じず、揺るがず、強者の風体そのままに。壇狩摩は泰然自若と佇んでいた。 「まあ肩の力を抜けや。そんな色めき立たんでも、こっちにその気はありゃせんのじゃけえ。やれっちゅうならもうやっちょるでよ」 「お嬢にしてやられた者同士、ここはいっちょう、仲良くいこうや」 「まさか」 はいそうですか、なんて言うと思っているのだろうか。相変わらず正気の程が掴めない。こちらはすばやく臨戦態勢を整えた。 それぞれが自然体に構えつつこの二人と対峙する。何が何だか分からないままだが、強大な敵を前に気は抜けない。 「前にも言っただろうが、てめえは信用できねんだよ」 「そんならこっちも言うたろうが、やれっちゅうならもうやっちょる。ああ、不意打ちなら気にせんでもええぞ。他の鬼面はもうおらん」 「残っちょるのはご覧の通り泥眼だけじゃ。残りは邪龍の慰み者よ」 「な、──ッ」 「え、ええっ……!?」 「………………」 続けて投下された爆弾発言を前に、思わず控える彼女に視線が向いた。直立不動の姿から内面は伺えず、そして嘘でもないのだろう。小さな会釈が返された。 だからそれがまずい、もう駄目だと思い知る。話の主導権を握れない。 いや、それ以前の問題だろう。こちらは〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈知〉《 、》〈識〉《 、》〈に〉《 、》〈自〉《 、》〈信〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》のだ。辰宮で得た情報は今や疑問符がつくものばかり、胸を張って否定できる材料がない。確度があまりに不足していた。 それを分かっていながらこいつは手札を一つ一つ明かしている。 こちらの気をうまく引くように、そして言葉通り戦意を欠片も出さず片手間だとでもいうように。 「ついて来い。諸々話しちゃるわ。それに手土産もある、受けとれい」 「おまえらの大将、俺が保護してやっとんのじゃけえ」 最後にそんな〈決定打〉《トドメ》を吐いた。 返答など限られているだけに、聞こえぬよう小さく歯噛みする。これでもう私たちはあいつの言葉を無視できなくなった。 「……どうする? 常識的に判断するならノーだけど」 全員が最初にそう思ったろうし、自分もそうだ。まず狩摩という人物が信用できない。罠の可能性も充分ありうる。そもそも柊のことさえ釣り出す罠だと思うけれど。 それで申し出を突っぱねたとしよう。独力でいいと決めたとしよう。その選択に先はあるのか? 何も知らない、知ることもできないままで、困難を打ち払うことが出来るのか? 無理とは言わないが可能性は圧倒的に低い。だから言い換えれば、これは好機だ。賭けでもある。 「あいつにとって、私たち程度はどうとでもなると思ってるはず」 有り体に言えば侮っている。だからこそ翻弄するし取るに足らないと思っているが、そこには情報を明かすだけの〈度〉《 、》〈量〉《 、》が見えた。 こいつが大人物だとはとてもじゃないが思えないけど、少なくともキーラのように、癇症を爆発させるタイプじゃないのは確かだろう。 他の連中は唸る子犬を前にすればただ不快だと潰す中、壇狩摩は笑い飛ばしたり、気まぐれに餌をやる輩ではなかろうか。 そしてこれが、彼なりの〈お〉《 、》〈布〉《 、》〈施〉《 、》や〈施〉《 、》〈し〉《 、》……たとえばイーブンなゲームをなんとなく楽しみたくなったという諧謔趣味の派生ならば。 「乗ってみましょう。悔しいけど、手探りじゃ袋小路だもの」 「それに、なまじ本当だったら困るもんね。四四八くんが囚われっぱなしになるもん」 さらに付け加えるなら、その真偽を確かめることさえ出来ないままだ。それぞれが一蓮托生と決断を同じくする。 さあ、虎穴に飛び込んでやるとしよう。 「話はついたか? そんなら来い、ここはまずいで。場を移すぞ」 「〈盧生〉《ろせい》は鎌倉大仏に匿っちょる。そこで互いの賽の目振るとしようや」 その時に出る目は一か六か、はたまた八か……それとも零か。 運命の〈軋〉《きし》るような音を聞きながら、私たちは盲打ちの後に続いて歩きだした。 鎌倉大仏殿高徳院……法然上人を開祖とする浄土宗の仏教寺院という歴史を持つ場所に辿り着き、その姿を見上げる。 移動している間、互いに終始無言だった。話す気のないあちらと、安々と尋ねるには危険すぎると感じるこちら。噛みあわないままの陣営が談笑などするわけもなく、黙々と歩を進めるのみ。 見上げた大仏の影には大輪の月が見えた。 爛々と輝く真円は美しく、内なる心情を掻き立てるほど妖艶だ。夜空を刳り貫いているようでもあり、夢の中を覗くため用意された穴なのではとも思ってしまう。 そう感じるのはこの場のせいもあるだろう。この地は〈妖〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。歴史の重さもさることながら、〈狩摩〉《あるじ》の気質を反映しているせいで気分がどこか煽られる。 真っ当な理屈や定石を嘲笑い、絡め手、裏技、なんでもありと公言して憚らない。そういった男の精神がそこらに偏在しているようで、ただ厳かなものを感じ取らせてくれないのだ。まず端的に落ち着かない。 それでも、ここに悪意はない。敵意もなければ戦意すらも。 常態でもそれを撒き散らす狩摩だから、それは自然と染み込んでしまったという結果に過ぎない。多少、経歴ゆえ自ら地相をいじってはいるかもしれないが、少なくとも私たちを排除しようという気は未だ感じられなかった。 〈本拠地〉《ホーム》におびき寄せるのに成功しながら、未だ何もしてこない──ならば、やはり。 「さて」 本題に入ろうかと、小馬鹿にしながら神祇省の首領は私たちに視線を合わせて破顔する。 「分からんことも多かろう。疑問があるなら言うてみい」 「花の香りも抜けた頃、少しはすっきりしたんじゃないか?」 予想は当たった。こいつに騙すつもりはない。 思惑はまだ見えないが、本心からこちらに情報を明かすつもりのようだった。 まだ柊の所在については言わないあたり、暗黙のうちにそれを後に持ってこようとしているが……そこに疑惑は尽きないものの、これがまたとない機会であるのは分かる。ならば最大限に活用させてもらおう。 だがその前に── 「色々聞きたいことはあったけどよ。ついさっき、それが一つ増えたぜ」 全員が〈彼〉《 、》〈女〉《 、》を視界に収めた。代弁者として大杉が一歩前に出る。 「野枝さんが泥眼って、なんだよそれ。ていうか、ならどうして辰宮の屋敷にいたんだよ。おかしいだろ」 「いいえ、裏を明かせば簡単な話ですよ」 「元々、神祇省と辰宮は同盟関係にありました。それは夢に入って以後ではなく、入る前の段階から既に話はついていたのです。幾つかの決まり事も設けられておりました」 「その中には、手駒の賃貸も約束されていたのです」 「どっちが先かっちゅう話になれば、こんなは本来、辰宮のもんよ。じゃが泥眼の枠は稀少でのォ、なかなか後継者が現れよらん」 「じゃけえ俺が才能見込んで、野枝を引き抜いたっちゅうことじゃ。〈神祇省〉《うち》のように無駄に歴史が長いとのォ、積み上げた血の濃さも大事じゃが、それと同じに突然変異っちゅうのも逃がさんようにするもんなんじゃ」 「つまり今、こんなは正真正銘の鬼面衆。そして第五十六代目の泥眼っちゅうことよ」 そして夜叉は……いいえ、これ以上考えるのは止しておこう。 「口止めされていたとはいえ、謀っていたのは事実です」 「矛を交えたことも含めて、お役目とはいえ申し訳ありませんでした」 淡々と、抑揚なく告げてからの綺麗なお辞儀。 見本そのものといった謝罪は、ひたすらに無機質だった。 ただ、それを安易に責めることは出来ない。彼女の立ち位置には驚いたし、多少のしこりも残ってはいるが生きている時代が時代だ。そういった忍耐や滅私という観念について理解もある。 それに見えてきたこともあった。こう言っては悪いが、あくまで〈伊藤野枝〉《でいがん》という少女は舞台を演出する道具だ。役者を照らすライトや小道具と何も変わらない。 あるのは使用者が狩摩か、百合香さんかという違いだけ。怪士に夜叉も同じようなものだったのだろう。 ならば、なるほど。心情的には受け付けないが、こちらに声をかけてきたのは理に適っている。 「で、使える駒が減ったから私たちで補充ってわけ? どんな面の皮してんのよ」 「そうじゃが? どこがおかしい? 戦の常套手段じゃろうが」 「足りんかったけえ負けた。されど己は清貧である、あな清々しとでものたまうか? たいがいにしとけよ、敗北主義者の戯言なんぞに耳貸すなや。脳が穢れてしまうでよ」 「しょせん、敗ければ全部塵よ。勝つためには親も産婆も総動員して然りじゃろうが」 「その言葉には同意するけど、臆面もなく言うかなそれ。しかも利用するわたし達に向かって」 「はあ? 褒めとるから言うちょるんじゃろうが。使えんと思ったら声かけんわ」 だから光栄に思えというのか、馬鹿を言う。ちょっと減ったから下につけだなんて、誰が納得するものか。徹頭徹尾こいつは自分たちのことをその程度としか見ていない。 それに無軌道なこの男のこと、思い付きで背中からばっさり……なんて展開も不思議じゃない。契約には理性がいる。獣じみた直感で生きる相手など、同盟としては下の下だろう。 辰宮との協力関係が崩壊したと聞かされても、こいつ自身が危険であることになんら変わりはないんだから。 そう警戒していたのに、狩摩は余裕の笑みで爆弾発言を投下した。 「そんな怯えんでもええぞ。安心せい。今の俺は弱っちょる」 「ごっそり奪われとるけえの。千載一遇、やりようによっては一方的に袋にできるわ。試してみるか?」 絶句して目を見開く。それはいったい、何ですって。 「えっ――これ、嘘」 「マジだ、こいつガタ落ちしてやがる」 水希が気づき、〈解法〉《キャンセル》に長けた大杉がスキャンして、唖然とした。 「どうなってんだよ。これじゃあ俺たちとそんな変わんないレベルだぜ」 つまり、現状の狩摩は詠段クラスまで落ちている? そんな様で姿を現したというのなら、自殺志願者かこの傾奇者は。 なのに狩摩は依然、大上段で笑うのみ。感情は欠片も読めない。戦力上では逆転しても、精神的な優位ならこちらの上を抑えていた。 分からない。これは諧謔? 独自の勘? 「悩んどれ悩んどれ。凡人なりに、足らん知恵ェひねり出しとりゃええんじゃないか」 「で、ことの本題についてじゃが……時におまえら、邯鄲法とはなんじゃろな?」 「お嬢から聞いた話をどう捉えちょる。いっちょここで明かしてみいや」 採点してやると言わんばかりの態度。高圧的ではあるが、それなら。 「……邯鄲の夢は八つの階層で構成されていて、それをすべてクリアすると夢の力を現実まで持ち出すことが可能となる」 「そして、私たちが以前いたのは第四層。そしてここは、また別の異なる階層って話だけれどそこから先は掴んでないわ」 「確かハツォルとか……」 「第七層よ。言うたのは逆十字か? まあええわ」 「あと邯鄲についてじゃが、お嬢の語った知識は基本的には間違っちょらん。もちろん、言ってないこともあるがのう」 「たとえばそれは〈資〉《 、》〈格〉《 、》についてよ」 「本来、邯鄲とは万人を受け付けるほど敷居の低いもんじゃない。夢の門を叩ける奴は、そも相当に限られちょる」 「その資格、特権持てる奴の選別基準は、誰もよう分かっちょらん。というより、所得条件、他もろもろ、俺にとっちゃあどうでもええしの」 「んなもん、背が高いか低いかと同じことよ。人間どいつも生まれ持った性なり才なり、細かな差異は持っちょるもんじゃろ? 重要なのはその特性で、結果何が起こせるかよな」 「まあ大雑把にまとめると、才能を持ったそいつに出来ることはおおまか三つ」 「夢の中に入れること。自身と強い繋がりを持っちょる者を、同じくここへ導けること」 「そして、邯鄲を征した暁には、夢を現実へ紡ぎ出せるようになること。最終目的はこいつよな。前の二つはどちらも手段よ」 「無意識と現世を繋ぐ架け橋。それになれる輩を俺らは〈盧生〉《ろせい》と、そう呼んじょる」 「ろせい?」 「バカ、邯鄲の主人公よ。夢の中でもう一つの人生を歩み、栄枯盛衰の儚さを悟る。そういう話」 眠りによって徳を積み、現世において悟りを開く。 なるほど、真実かは怪しいものの状況には合っている。そもそも関わることになった原因も、朧気ながら見えてきた。 「さしずめ私たちは、〈盧生〉《ひいらぎ》の付録なんだわ。あくまでメインはあいつなのよ」 「ずっと夢の中で起きてたのも、こっちに来るきっかけも四四八だしな」 「つまりこれってサーバーのことだよね。普遍無意識っていう巨大なデータベースから力を引っ張り出してきて、〈現実〉《リアル》向けにコンバートするって感じなのかな」 「クリアするための過程は、それを可能とするためのプログラムや経路を組み上げてる必須処理なんじゃないかと思うよ」 「そうなると、俺らは柊に接続されたパソコンか? ケーブル繋いで〈力〉《データ》をダウンロードしてるわけだな」 「えっと、たぶんもっと繋がりは深いと思うの。単に恩恵を得る側じゃなくて、サーバーと直結してる子機……なんじゃないかな」 「なんか私たちと四四八くんってすごく〈密〉《 、》〈接〉《 、》なんだよ。ほら、みんなで夢に入ったから階層が変わったんでしょ? だからユーザーっていうよりは、合わせて一つっていうか……」 「んー、うまく説明できないけど、なんかそんな風に感じるの」 「確かにそっちの方が説得力あるよね。現に私は忘れなかったし」 水希の体験したループの件とも搦めるとまさに運命共同体か。青臭いけど、悪いものじゃないわね。 「ま、その辺は解りやすいように納得したらええ」 「そしてその資格じゃが、俺は生憎持っちょらん。もっと踏み込んで言うなら、辰宮もなければ鋼牙にもない」 「無貌や邪龍は〈廃神〉《タタリ》、呼び出される側の連中じゃから論外。そして逆十字も持っちょらんが、じゃからこそ奴は強烈に欲しちょる」 「というより、そのために女こまして〈産ませた〉《つくった》んと違うか?」 「他人の芝を奪うために、子を成して養殖っちゅうことよな。ひひひ。まったくとんだ性悪よ」 「なんだよ、それ……」 言葉がない。まさか、役に立てっていうのはそういうことで…… 「外道め、そうまでするか? などと眠たいこと抜かすなよ小童ども。他人の理なんぞ考えるなや、無駄よ無駄。そうして欲しがる者もおるぐらいに思っちょけ」 「俺の役に立て。おまえは俺のものじゃ。口を開けばよう言っとろうが、つまらん衝撃受けんなや。実際、盧生にゃそんだけの価値もあれば、欲しがるほどには稀少なもんよ」 「甘粕正彦、柊四四八。知っとる限りではこの二人しかおらんしの」 「甘粕、正彦──」 それが、あの軍帽を被った男の名前。 仲間の誰もがその一言で確信した。まるで深淵に刻まれた忌み名が、痣となって浮かび上がってきたように。 鍵が嵌った。〈必〉《 、》〈ず〉《 、》〈斃〉《 、》〈さ〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「陸軍憲兵大尉、麹町憲兵分隊長を務めちょる男よ。奴を表現する言葉は一言で足りる、魔人とな」 「いや、見方を変えればむしろ〈救世主〉《めしあ》か? あれはまさしく〈伴天連〉《ばてれん》よ。光でなんでも焦がしよる」 「表向きは東條の子飼いなんぞと名乗っちゃおるが、真実の主従は真逆。ひとたび視界に収めれば赤子でも格を悟る怪物よ」 「俺はあいつと気が合わん」 「じゃけんお嬢と組んだんよ。甘粕の台頭を防ぐためにこっちはこっちで〈邯鄲〉《ユメ》を持ち出す。すべては先駆者に好き勝手させんため、神祇省と辰宮が打った対抗策じゃ」 「護国の大義よ、つまり壇狩摩様の正体は、傑作セイギの味方だったっちゅうことよなぁ。こりゃ受けるでよ」 「なっ、ば……」 誰も咄嗟に言葉が出ないが、言いたいことは絶対全員同じだった。 「ん、ん、んなわけあっか、ヒーローは少年少女をぶっ殺そうとかしねえんだよ!」 「阿呆が。生ぬるい。使えんなら死ね。平和ボケして柔いようならぶち殺してやるのが優しさよ」 「そんな愚図に繋いだところで、甘粕の首は到底獲れん」 「これでも期待しちょるんぞ? うまくいけば、俺も力を取り戻せるかもしれんしの」 「まさか……」 〈繋〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈で〉《 、》? その言葉に愕然とした。 あり得ない。つまり、なんだこの男は── 「おまえ、今まで四四八のサーバー使ってたのかッ!?」 「ひひひひひ。なんじゃ、ようよう気づいたか」 〈蜥蜴〉《とかげ》のようにちろりと舌先を覗かせて、種明かしに目を細めた。あまりの混乱に視界が歪む。 「お嬢もよ。言うたろ? 〈邯鄲〉《ここ》には資格を持った者と、その眷属しか入り込めん。必然、〈ど〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》〈の〉《 、》〈側〉《 、》〈を〉《 、》〈使〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》ということになる」 「あの吸血はその結びつきを深めるんよ。つまり盧生の恩恵を独り占めしとるわけよな」 「おまえらほど深い結びつきなら特に問題なかろうが、俺が大半持ってかれたのはそのせいじゃ」 「まあ逆十字よりマシと思うとけ。あれは倅から資格を盗って盧生になるんが目的じゃしの。たとえ後の本命が甘粕でも、碌なことになりゃあせん」 「伊達に長いこと、互いにごちゃごちゃしとるわけじゃなかろうしのォ、手の内もよう分かるわ。くはははは」 「ち、ちょっと待てよ。あんたさっきから何言ってんだ!」 「ほう? なんかおかしな部分あったかのう?」 「大有りだよ、全然筋が通ってないもん」 そうだ、さっぱりワケが分からない。紐解かれていったはずの結び目が、ここにきて一気に混戦し始めた。 元は柊の力を使っていた? それなのに攻撃してきて? 本命はそれ以外の甘粕という軍人? しかも長い間敵対してた? どういうことだ。 だって〈盧生〉《ひいらぎ》はつい最近まで、ずっと一人だけの〈邯鄲〉《ユメ》の中にいたはずなのに。 「あなた達がどうやって柊くんと結びついたか分からないし、私たちが入る前から争ってたなんていうのも時系列がおかしい」 「そもそも最初に、どうやってこちらの世界へ入って来たの?」 「極めつけはメリットの問題だな。俺たちがクリアすることに何の得があるんだよ」 「甘粕……だったかをぶちのめすのが目的でも、こっちは住んでる時代が違うじゃねえか」 先駆者と称している限り、甘粕は先にクリアした人間なのだろう。恐らく出入りも自在なはずで、となれば楽に倒せはしない。そもそもそんな目的自体、そっちの理屈ばかりじゃないの。 掴みがたい使命感さえ無ければ、〈甘粕〉《あれ》には二度と会いたくないと思っている。邯鄲を突破するだけなら避けた方が賢明だもの。 だから今も転がされていると疑う。たとえばそう、有りうる話でこんなパターンはどうだろう。 「あんたも百合香さんも、本当は資格とやらが目的なんじゃないかしら?」 柊聖十郎とやり方が違うだけで、根は同じ。 「盧生になりたくて利用した。わざわざ鍛えて、欲にくらんで仲間割れ。そして今は、こうしてあぶれた側の方が協力を申し出ている……」 「そう考えると非常に納得いくんだけど」 「んなら逆に問うてみるが、納得いかんとはどういうことよ」 「矛盾よな。それがどうした。さっきから何を鵜呑みにしちょるんじゃ。言うことは粗方言うたし、かなり噛み砕いて伝えたはずじゃぞ」 「これ以上俺からは何もない。お嬢の蜜が抜けた頭でちょいと考えてみりゃあええ。それともまだ呆けとるんか?」 「この俺様が組んでやると言うとる時点で、天の恵みと噛み締めぇや。五体投地して咽び泣くのが筋っちゅうもんじゃないんかい」 種明かしは終わりだと、欠伸しながら突き放した。こうなっては取り付く島もないし……悔しいがその通りでもあるのだ。こんな奴は信用できない。 自前の頭で考えて、真実を掴もう。 「むしろ今後に少しは気を廻しとけ。あれは面倒な女じゃからのう、気を引き締めんと取り込まれるぞ」 「今頃、盧生を抱いてまどろんどるわ」 「百合香さんが……四四八を?」 「抱く、ですって──」 あー、なんだろ。無性にイラッとくるのはどうしてかしら。 「そう妬いたるな。言うたろ、深く繋がると。あれはお嬢の、〈生〉《ナマ》の気質に引っ張られちょるのよ」 「閉塞的で、童話じみた展開に焦がれとるからな。王子様を待ち望む眠り姫、じゃから俺らの盧生は目覚めんのよ。心中に咲く百合の〈華〉《おり》で、宝石みたいに包まれちょる」 「じゃけえ現状どうにかするに、特効薬はこっきり二つ」 「お嬢を殺すか、あるいは根性叩いて直すか。後にも先にもこれっきりよ」 「ああ、大将が勝手にどうにかしてくれる……なんぞいうのは期待すんなや。ああまで嵌まれば不可能よ。力量の多寡だの気合いだの、そんなもんじゃどうにもならん、この俺でも、逆十字でも、下手すりゃ甘粕でも無理かもしれん」 「つうことは、この世の誰にも無理っちゅうことじゃわなァ。力任せに外からぶっ叩くに限る」 「とは言おうが、どっちにしても至難の業よ。特に殺るんは、その難易度も跳ね上がっちょる」 「どうしてだよ。そりゃあ、昔はともかく、今は心構えしてんなら、ちょっとぐらい……」 「甘いわ。強化されちょると言ったろうが。そりゃあ単なる繋がりと違う。〈邯鄲〉《ユメ》の領域をより強固にしちょるということよ」 「当然、阿片の効きも段違いになっとるわ」 「あの鼻につく匂いか」 「おう、今のお嬢は薬香を振りまく大輪の花じゃ。近づけばあっちゅうまに〈脳〉《ここ》をやられて、牙抜かれるわい」 現に先ほどそうなった。おそらく効果範囲まで広くなっているのだろう、辰宮の統べる場所にまで力が適応されていたと分かった。 迂闊に動けば、精神汚染のいい餌食だが。 「そこついては心配無用。なんたって、こっちには対お嬢様用のリーサルウェポンがいるからな!」 けれど希望も見えている。後はこいつに託すだけだ、私たちは信じるのみ。 「どっちを選んでも恨まねえよ」 「決断も含めて全部あんたに一任するから。気合い見せなさいよ、淳士」 「……ああ、任せろよ」 これで本当に準備は整った。きっとこいつなら間違うことはないはずだし、失敗してもそれはすべて全員の不徳ゆえだ。たった一人に背負わせて責任を押し付けたりなんてしたくない。 ここから先に訪れる結果は、共有するべき責任なんだと固く誓う。 対して部外者は興味深そうに顎をさすりつつ、淳士の顔を眺めていた。目を輝かせた野次馬、なんとも形容しがたい意地の悪さが滲み出ている。 「お? なんじゃおまえ、お嬢の艶に靡かんのんか! そりゃあ大した男じゃのう、見直したでよッ!」 「それとも若いうちから不能なんか? いかんわいかんぞ、股間の〈魔羅〉《マラ》をよう勃たせぇや! カカカカカッ!」 「うっわぁぁ」 「さいってー」 「勝手に一人で盛っとけ。つうかてめえはどうなんだ」 「土壇場でコロッと裏切られても邪魔なんだよ。役に立たねえようなら、茶々入れずここで縮こまってろ」 「ていうか、こいつ去勢しちゃおうよ。うん」 「はッ、ぬかせやチンチクリンのまな板が」 「安心せえ、お嬢の術は俺に効かん。なんせ〈現実〉《もと》からぞっこんじゃけえのう」 「おかげでこの通り、惑わされるも糞もないわ。なあ傑作と思わんか? 愛の力は偉大よのうッ」 「ぜってぇー違うと思うんだけど」 どう見ても恋い焦がれるとか、まして愛情のある相手にする顔じゃない。呵々と笑う狩摩の顔は、獣が玩具にじゃれるようなそれだった。 世の恋人に謝ってほしいし、これを大正時代のスタンダートと思いたくもない。野枝に視線を向ければ無表情で首を横に振っているし。 それでも、耐性を持つ人間が二人もいるのはありがたい。後は野となれ山となれだ。 「納得もしたようじゃの。なら軽く心構えでもしとけ、後で辰宮の屋敷へ行くけんの」 「自分からはまず出てこんから、虎穴に入らにゃ始まらんしの」 「それなら私たちは柊の顔でも見るわ。あいつはどこ?」 親指で示した先は高徳院の本堂だった。私たちは揃って歩を進めながら、さっきまでの会話を何度も何度も反芻する。 分かったことはそれなりに多く、理解できないことも増えてしまったけど、まずは目標が定まっただけ良しとしよう。 その時なぜか、思い浮かんだのは正気を蝕む男の影。 「〈一〉《 、》〈刻〉《 、》〈も〉《 、》〈早〉《 、》〈く〉《 、》〈目〉《 、》〈を〉《 、》〈覚〉《 、》〈ま〉《 、》〈せ〉《 、》、か」 どうしてだろう……問いかけが耳障りなのに鼓膜の奥へこびりつく。 洗礼のように、記憶の中で焦燥と疼きを増していた。  そして、遠ざかっていく彼らの背中に目を細めた。  力強い足取りは決意に満ちているものである。仲間と自分を、その祈りを深く信じているのだろう。  信頼はひたすら眩しく、疑う余地すら混じっていない。そこに微かな羨望を抱きながら、くすぶる感情に蓋を落とした。  羨ましいと感じていて、自分の一部に辟易していて、それでいて余計な主張はこの場で不徳と自覚していて……結果どうとも動けない。ああ、本当に、なんて不甲斐ない雁字搦め。今の自分は矛盾している。  それはここに始まったことではなく、伊藤野枝という人物が自我を確立して以降、ずっと抱えていた〈葛藤〉《ジレンマ》だった。  そう、本音を語っていいならば私はあの場に混ざりたいのだ。  戦真館と組む方が嬉しいだろう……? それはそうだ。理解不能な盲打ちの傍より、肩を並べて切磋琢磨できる彼らの方が何倍もいいに決まっている。誰がこのような蝙蝠を好き好んでやるというのか。  得難い対等な存在と歩調を同じくできるのならば、それに勝る幸福はない。なのにある一点へ特化した適性が利用価値を生じさせて自分を縛る。あげく与えられたのは、薄汚い二枚舌の間諜役だ。  こうまでくると笑えてしまう、いっそ呪われているのではないだろうか。〈邯鄲〉《ユメ》の中にいるはずなのに、〈理想〉《ユメ》はどんどん遠ざかる。 「女が〈女〉《ヒト》であることは、それほど罪深いことなのでしょうか」  罪深いことを願った覚えはないのに。  至極、当然のことを主張しているつもりであるのに。  私は異端のまま、手をこまねて駒の役目に殉じている。今や理想と正反対な恥知らずの端女だった。  幼いころから感じていた疑問は、世にはびこる女性像について。  三つ指ついて、半歩後ろをついて歩き、夫の言葉に唯々諾々と従う女。それを指して〈大和撫子〉《やまとなでしこ》と呼ぶ風潮。その一切がともかくすべて、男にとって都合のいい規範としか思えなかった。  女は男の所有物で、身を粉にしてお家の柱を支えればいい。  仕事をするな。家事に励め。子を産み育てて血を繋げ、良人をおだてることで亭主関白これ円満と? 冗談じゃない。  そんなものを淑やかだの、あるべき女の姿だのと口にするのか。男にとって都合のいい〈女房〉《どうぐ》論を口にして。  女性が〈国政〉《まつりごと》への参政権を有すことすら、未だ容易に許されない。そんなものは分不相応だと、皆口ずさむのが世の風潮だ。  生きる国の舵獲りへ関わることさえ勿体ない。そのような暇があるなら孕んで生んで飯を炊けと、誰もが、そう誰も彼もがこぞって揃って合唱してくる。  働くな。女性は柔い。男を負かすな言語道断、口答えなどするんじゃない。  女のくせに。女のくせに。女のくせに──うんざりなのよ。勝手に幸せを定義するな。  私は、〈伊〉《 、》〈藤〉《 、》〈野〉《 、》〈枝〉《 、》だ。  ちゃんとした名前と心を持っている、一人の人間なのだ。  女に生まれたからって男の付属物じゃない。対等の関係でありたいし、性別の区別なく頼られる人間でありたい。  我ら等しくヒトなのだからと。そう思ったから実力主義の戦真館に入学したのは、今思えばちょっと青臭かったかもしれない。  それでも、動機に関しては偽らざる感情だった。  こっちにだって異性を選ぶ権利がある。家柄や血筋だけを見て、長男や家督を考慮しただけのお見合いを仕組まれるなんて御免なのだ。  それに別段、相手に勝ちたいとか、完膚なきまでに打ち倒したいと思っているつもりはない。女性としての幸せも掴みたいし、愛した男性と家庭も持ちたいと思っている。そのための努力は惜しまないつもりだ。  おいしい手料理だって手ずから食べさせてあげたいし、惚れた人に尽くしたいという人並みの感情もある。子や孫に囲まれて月日を重ねられるなら、それは至上の幸福というものだろう。  私を好きになって良かったと思ってほしいし、この人を好きになってよかったと思えるような相手が欲しい。そして同じ道を自然な歩幅で歩みたいのだ。  そうした過程で、恋の刃傷沙汰など起きたとしてもそれはそれで素敵だろう。かように本気だったのだと言えるぶん、生き様に情熱があってよいではないか。  つまり自由。そういう馬鹿をやれることも含めて〈自由〉《けんり》が欲しい。  なぜなら、それが人間だろうと思うから。  と、つらつら理屈を並べてみたものだが、要するにこれは適応不全を起こしているだけなのだろう。育った環境と生まれた時代に対し、〈伊藤野枝〉《わたし》は合致していない。  生まれるのが百年早いと、馬鹿にされてるのか褒められているのか分からないことをよく言われ、対等の主張を繰り返すたびに常識を破壊する異形の怪物みたいに見られた。そして憤慨する感情はさらに研鑽を積む糧となる。  結果、私はものの見事に〈就職〉《とつぎ》先を失った。  理由は簡単、生意気だから。  そこから先は運がなかったのだろう。基本、男性がたに快く思われない自分が行く先は女性当主が支配する辰宮以外に見当たらず、順当な流れとして邯鄲の試みへと志願した。それがさらに心を突き落す事態へ繋がるとも知らずに。  目覚めたのは解法の透、それも一点特化という薄汚い隠密向き。  与えられた名誉は第五十六代泥眼……突きつけられた現実が、初めて自己への不信となって心を打ちのめしにかかった。  よく勘違いされることだが、邯鄲法は何も肯定的な面のみを体現するものではない。人心と同じく表裏や浅深、その度合いが複雑に絡み合って発現する。  目覚めた特性は確かに潜在意識の疎みや恐れに影を受ける場合もあり、私はそれが悪い意味で顕著だった。  姿を消して世界に映らぬ影絵となる。それは、ああ、どうしてつまり。 「本当は引け目を感じているからなの?  自分は生まれついての物狂いで、間違っている側なのだから、いっそ消えてしまいたいと」  思わずにはいられなくて、しかしそれを公言するのは憚られる。みっともなく泣き喚き、心まで醜女に落ちることだけは避けたかった。 「その半端さから、これですか」  辰宮に捨てられて、盲打ちに拾われ、戦真館との名ばかりである同盟を密かに喜んでいるという始末。まさに多勢に弄ばれる風見鶏だ。お伽噺の蝙蝠さえこれほど厚顔無恥ではないだろう。  役目が気に食わなくとも義務は守らねばならない。けれど本心は常に白黒はっきりしたいと叫んでいる。  信念が支柱ごと揺れ続けていたから。 「……それで、何を企んでいるんですか?」  だから、せめて務めだけは果たすとしよう。  嫌だ嫌だと嘆くより、役割をこなして胸を張れる自分を貫く。  権利を主張するにはそれに相応しい女でないと。  思い、今の主に問いかける。耳をほじりながら聞き流している態度には、いまさらいちいち斟酌しない。 「鳥肌が立ちましたよ。親切丁寧な素振りなど、似合ってないのですぐにやめてはどうでしょう」 「辛辣じゃのう」 「当然の疑問でしょうかと。あなたが一手を指したのです、穏便に済むはずなどありません」 「戦真館を抱き込んで、頭数は揃えて、その上で百合香様から四四八さんの意識を取り戻す。   正着ですね。それだけにあり得ない」  まるで棋士の常道だ。理屈が通っている時点で無軌道な盲打ちらしくない。  もっと苛烈に、荒れ狂う海のような阿鼻叫喚の〈艱難辛苦〉《かんなんしんく》を用意してこそ、この鬼畜だ。逆十字を外道と評していたが、自分から見ればいい勝負。共に破綻した最底辺の悪党である。  今このときも、こうして蛇のように笑みを深めているくらいだ。運命を扇動するのがさぞ楽しくてたまらないのだろう。 「大層なことはしとらん。ただ、あいつらの手間を一つはぶいちゃろうかと親切心よ。  どうも今一つ、七層におるっちゅう危機感が足らん。前にちょろっと前震見たからなんかのう、気楽なこっちゃ。本震前にいっちょ味わわせてやるのが親心っちゅうもんじゃろう?  あとはほれ、好きな女に対して思わず、男は悪戯しかけるもんよ」 「なるほど、つまり」 「おう、そのつまりよ──空亡はお嬢を狙う。  何のために、俺がわざわざ龍鱗を引っ掻いたと思っちょるんなら」  そういう風に誘導したと、なんら悪びれずに語っている。  地脈の分断と攪乱に加え、引き際に意趣返しを仕込んでいたのか。特定の方向へ龍脈が流れるよう地の気に干渉しておいたのだ。あの邪龍が、恐らくちょうど会談の場へ訪れるように。 「僅かな気の流れじゃが、あれで充分。自然っちゅうのは人よりよほど正直じゃしの。雪崩や雷も、より通りやすい〈穴〉《みち》が出来れば素直にそちらを向くもんよ」  それが如何なる大破壊を巻き起こすか、分かっていながら笑っている。狂っているから。考えてすらいないから。  深慮のない策謀はどこまでも痛快に嵌まり、私たちを殺すのだろう。  次に会ったとき、どれほどアレは〈本〉《 、》〈領〉《 、》〈に〉《 、》〈近〉《 、》〈づ〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》。  少なくとも分かるのは、希望と呼ばれるものは一切ないということ。戦真館も辰宮も、そして我々もまた平等に惨たらしく死ぬだけだった。 「まったく……」  ため息をこぼす。まったく、本当に度し難い。  知った上で何もしない自分も含めて、どうしようもないのだ。この邯鄲で蠢いている連中は。 「本当に、大した手癖をお持ちのことで」 「なんじゃ惚れたか?」  冗談でも笑えない。好きになるのは尊敬できる殿方。見惚れるほどの人にしようと決めているのだ。 「同じ穴の狢など願い下げでございます」  いまさら仲間と名乗れはしないぶん、せめてこれから〈戦真館〉《かれら》の力になるとしよう。  訪れる破滅には無意味な抵抗かもしれないけれど……それだけが自分に許された一握りの誠意と思えた。 「寝てるわね」 「寝てんな」 「寝てるね」 いや危機的状況ってのは分かっているのよ、うん。でも人間慣れるもので、そんな感想しか浮かんではこなかった気持ちも分かってほしい、と誰にともなく言い訳してみながら視線を横たわる人影に向ける。 事前に聞いていた通り柊はこっちでも眠っていた。もちろんそれがまずいことだと理解しているつもだが、思わず既視感を感じてしまうのはどうしようもないだろう。 食傷気味というかなんというか。そりゃこんな淡白な反応にだってなるわよ。 それぞれ軽く触れてみても寝息は非常に穏やかだ。無事を確認したはいいけれど、やることも特にないんじゃなかろうか。 「よし、思い切ってなんか落書きでもしちゃおっか!」 「まず最初のお題は額から。みっちゃん、何かいいネタない?」 「うーん、ここはベタに肉で……それともいっそ、天眼の方がいいかな!」 「やめとけっつの、三つ目とか明らかに縁起悪いだろ」 じゃれあっているのは普段の余裕が戻ったから。少なくともモチベーションはこれで完璧に取り戻した。何が待ち構えていてもなんとかできると信じられる。 その中で、一人だけ大杉はその輪に入らなかった。いいや、上の空でいる。 そわそわと貧乏ゆすりをしたかと思えば、苦虫を噛み潰したように眉間へしわを寄せてみたり。 その理由は当然分かっているのだが、自分で言わない限り私たちは何も言わない。あくまで気づかないふりをしながら普段通りを装った。 こいつ自身も発破をかけてほしいなんて思っていないだろうから。好きなだけ葛藤させて、意を決したようにやっと絞り出した声は。 「悪い、みんな。ちょっと席外すわ」 このヘタレにしては上出来とも言える答えだった。 野暮なので言葉少なく見送る。せっかく男を見せたのだから、こういう時ぐらいは見栄を張らせてやるとしよう。 「せいぜい派手に玉砕してらっしゃい」 「ヘマすんじゃねえぞ」 「おうともよ!」 声援を受けて一目散に駆けていく。こっちを振り返りもしないあたり、本当に分かりやすいことで。 けど、上手くいってほしいというのは偽らざる気持ちだ。そのときは素直に祝福してやろうと思っている。 もっとも確率はかなり低そうだけれど、そこはあいつの頑張り次第。 頑張りなさいよ、大杉。ここがあんたにとっての一世一代なんでしょうから。 「いやぁ青春だよねえ。うんうん」 「あゆ、おまえオッサンくさいぞ」  何を言おうか、どう言おうか。  悩みながら進んでいるのに、答えはちっとも出てこない。  頭の中はぐちゃぐちゃで、足はもつれているばかり。それでも会いたいと思っているのは、たった一つだけはっきりしている感情からだ。  このままじゃ終われない。いいや始まっていないとさえ思うから。  大杉栄光は思う、あれは間違いなく一目惚れだったんだと。  出会ったその瞬間から間欠泉のように噴き出す衝動。たった一度目にしただけで息の詰まるという異常事態。そんなこと、この短い生涯でさえ初めて感じたことだった。  まるで最初から下地が出来ていたように、想うことを止められない。  これはそう、自分たちが夢の戦いに身を投じる際、強く自覚した使命感と同じ階層にある気持ちだ。  すなわち、〈最〉《 、》〈初〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈決〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  この今が始まるずっと前、大杉栄光として現代日本で能天気に生きていた頃はもとより、なお百年、二百年も超えた遥か前から。  自分は彼女に惚れていたのだと、強く栄光は確信している。  いま胸が苦しいのだってそのせいだ。全身全霊がなんでもいいから、彼女と話したいと叫んでいる。  向き合う瞬間が待ち遠しくて、同時に恐いけど止められなくて。逸る心臓の鼓動を抑えながら、その時を目指してひた駆けた。  そして──短い距離。すぐに目的の場所へ到着して。 「…………野枝さん」 「はい。何でしょうか?」  待ち望んでいたはずの再会を、もう一度ここから。  沈黙を痛みにさえ思いながら、栄光は野枝の瞳を見つめていた。 「え、っと、その、オレ……」  だけど言葉はすぐに出てこなくて、動悸がうるさく、考えがまとまらない。舌はからからに乾いていて、名前を呼んだままそれっきり。歯の裏側に張り付いて、引きはがすことさえ苦労している。  そうして相手の目を見たままどれほど経ったか。得心したように、目の前の女性は頷いた。 「ああ……」 「なるほど、怒っているのですね私に。よくも今まで騙してくれたと。  まあ確かに、こういうものは理屈で納得できると思えません。あなたなら尚更そうでしょうし、分かってくれと言っても無理でしたか」 「……そうじゃ、ないっすよ」  そんなことじゃない。黙っていたことに関しては納得してる……というよりは、もうとっくにどうでもよくなっていた。  戦真館での日々を通じて、彼女の生きる時代がどういった気風であるかは分かっているつもりだった。役目や立場というものは今と比較にならないほど重いのだろうし、笑いかけてくれた時間が全部嘘だと糾弾するつもりもない。  ならば何を伝えたかったのか、皮肉にも突き放すような言葉を受けて、ようやくはっきりと自覚ができた。  胸に引っかかっている言葉は一つ。かつて〈泥眼〉《かのじょ》から告げられたもの。ここにようやく、何を払拭すべきかが形になる。 「責めようなんて全然思ってない。ただ伝えたかったんだよ。  オレ、やめねえから」  向いていない。情けない。やめてしまえおまえは男じゃないのだと、ガツンとぶつけられた衝撃に否と答える。  感情の見えない透明な瞳から目を逸らすな。これだけは、ここだけは意地を見せないと自分は立っていられなくなる。そう二度と。 「怖かったのは本当だし……ブルッちまったよ、みっともねえ。  戦の真を教えられたつもりになって、強くなったと勘違いして、そこは笑われたって仕方ねえんだ。真っ向から受け止めてるし、自分自身にムカついてる。 けど、次は違うッ!  あいつらの中でオレは雑魚くても、馬鹿みたいにダサくさても、卑怯もんには絶対ならねえ!  ましてあいつら置いて逃げ出すような、臆病もんでも断じてねえッ!」 「だから見ててくれ……これからオレ、変わるから。  野枝さんやみんなの自慢って言えるような、カッコいい男になるから。ここに誓うよ、もう逃げない。  たとえ、どんな奴が相手でも」  そうだ、自分はいつだって── 「この手で守れるようになる」  〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈戦〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。それが大杉栄光の真実だから。  その時、小さな音を立てて、何かが胸の内で結びつきつつあった。  おかしな既視感。こんなことを彼女に〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》という気恥ずかしさが、顔を熱くさせてしまう。  けれどこれはいったい何なのか。  いつかどこかで、この想いを宣したことがあるような。  その際にも彼女の視線は真っ直ぐで、透き通っていたような。  それは確か、いつだ、そう…… 確か── 「変わってないですね、大杉さんは」  ふっと綻ぶように、今日初めて見る笑顔。今まで能面のようだった無表情が淡雪のように溶けてなくなる。  同じく、不思議な感覚も胸の内でほどけて消えた。胸の高鳴りが再び大きくなって、その戸惑いに塗りつぶされてしまう。  微笑は依然として変わらない可憐さだったが、儚さと諦めも滲んでいた。  どこか困ったように彼女は微笑む。少しだけ不満なのは、それが手のかかる子供に向けるようなものだったことだろうか。男として見てもらえないようで少しだけ悔しく思うが。 「ははっ、やっと笑ってくれた」 「ええ。おかげ様で」  嬉しくて肩から力が抜ける。息苦しさはもう消えていた。 「それと、私は別に侮っているわけでも、気概を疑っているのでもありませんよ。変わらず向いてないとは思ってますけど。  立ち向かえるとあなたが言うならそうなのでしょう。嘘をつく器用さもなさそうですし、自分を騙せるほど利巧であるようにも見えませんから。  ですが、守れるかどうかというのは少々疑問が残ります」 「そっ、か……」  そう言われるとは思っていたが、やはりショックだった。面と向かって頼りにならないと告げられるのは結構こたえる。 「やっぱオレ、そんな弱っちく見えるのかな?」 「いいえ、そうじゃありません。  力の強弱のことじゃなく、紡ぐ〈邯鄲〉《ユメ》の問題です。率直に言うなら適性について。 解法に特化している以上、どうしても活躍できる機会が限られますからね。肩身の狭さが常に付きまといますし、まず光が当たらない」 「どうしても敵とまともに激突できない。そんなことで守るも何も、どう示すつもりでしょうか?」 「は、はぁ……?」  それは、どういうことだろうか?  何を言っているのか皆目さっぱり分からないが、生返事は勘違いを解いてくれなかった。私は理解者だと言わんばかりに深く頷かれてしまう。いま自分はどうして同情されているのだろう。 「すみません、意地の悪いことを口にして。けれど、その気持ちはよく分かるんですよ……私も同じく〈そ〉《 、》〈う〉《 、》偏ってる身の上なので。  もっとも、それに加えて私の場合はより根の深いものなんでしょうね。軍は徹底した男社会。女の立ち入れない不可侵の聖域に、能力の有無は関係ない。それ以前の問題でまず落とされる。弾かれる。  女性の階級が上となれば部隊には自然と不和が生まれます。こんな細い肢体の〈野枝〉《おなご》より、己は階級も実力も下であるという劣等感。日本男児であればとても耐えがたい屈辱でしょう」 「男のなんたるかを侮辱する〈異端〉《おてんば》になど、居場所は欠片もございません。ましてこんな〈解法〉《もの》にまで長けていれば、さらに風当たりは強くなる。  正当な果し合いも出来ず、鼠のように弱みを暴いて、そこに付けこむ戦の落伍者。誰も、誰からも歓迎されない。  女としても、軍人としても、人としても……不思議ですね、私はもっと背筋を張って生きたかったはずなんですけど。面白いほど迷走してます」 「要するに鬼子なんでしょう。だから辰宮に拾われて、邯鄲に繋がる機会を経てから神祇省に借り出されました。  傑作だと思いませんか? 私、そこで本当に鬼面を被ることになったんですよ? これでおまえは〈大樹〉《くに》を支える根の〈神祇〉《はしら》だと…… 運命は意趣返しが得意で、参ったものです。さすがの私もお手上げでした」  微苦笑しながら身の上を語る姿は寂しげだった。深い部分は読み取れなかったけれど、分かるのは彼女にとって自分の力と願いが背反している立場であるということ。  それだけは読み取れて、そして── 「だから、気持ちだけ受け取っておきます。同じ外様に、見栄を張らせたくはありませんし。  こんな力で成せることに栄誉も誇りもありません。  あなたも本気で、何かが出来ると思っていたりはしないのでしょう?」 「んにゃ全然」  だからこそ、自分にはまったく分からなかった。彼女は何を言っている?  ぶっちゃけるなら、どうして〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈悩〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。そんなに驚くことだろうか。 「的外れっしょ野枝さん。つうか、考えかた古すぎだって。なんすかソレ。  男とか女とか、意味分かんねえっつーか、どっちも同じ人間じゃん。考えてることや願ってること、そう変わるもんじゃないっしょ基本。  そりゃ女の子に雑魚扱いされるのがキツイってのは分かるけど、だからってそもそも出しゃばるなとかいうのは違う。そっちのほうがみっともねえよ。男らしくない」 「それに、カッコいいと思うけどなぁ〈解法〉《キャンセル》。  オレは好きだぜ。むしろ自慢に思ってるし!」 「……………」  そう胸を張って答えると、さらに呆然とされたのだから、少しだけ嬉しくなった。自分のような男でも、彼女を驚かせることができるらしい。  呆気にとられている顔もやはり可愛いかった。反則だ。もうちょっとだけ眺めていたいのに、すぐ表情を整えられてしまう。 「それは、いったいどんな部分がですか?」 「たくさんあるね。やり方によっちゃ戦況を一気に覆せるし、あっという切り口でドカンと一発くらわせるのもできるしさ。やっぱ時代は侍よりも忍者だよ、忍者ッ!  それに、皆のために必要なことが出来る。じゃんけんだってグーだけじゃパーには絶対勝てないだろ。チョキはどうしても必要なんだよ」 「あいつらがストレートにブチかますためにも、オレみたいなトリッキータイプはいなくちゃならない。  褒められたいなんて思ってねえよ。だってもう、認められているんだから」  後はそれに応えるだけでいい。百の力に百をぶつけて疲弊して、錦を飾ったまま綺麗に死んでいくなんてゴメンなんだ。  力を合わせて朝に帰ると決めているし、そのために出来ることはなんでもする。むしろ責任が重いくらいだ。重要な力を任されたのが自分で良かったのだろうかって。  それでも頼ってくれていることを信頼の証と受け取っている。だから己にとって解法は崩であろうと透であろうと、共に大切な誇りである。 「それにほら、こんなことだって出来るしさ!」  少女の手をそっと掴んで、ゆっくりと重力を〈解除〉《キャンセル》しながら浮き上がる。  触れ合う指先に内心ドギマギしながらも、徐々に、少しずつ……最後は上空へと滑り落ちていくように、風を切って爽快に。 「イイイィィ、ヤッホオオオォォ──ッ!」  二人で月光の夜空へ翔び上がった。  そこは二人だけのステージ。他の誰にも入ってこれない場所で、鳥が戯れるように飛行する。  上に、下に。木の葉よりも気まぐれに……燕よりも軽やかに。  真円の月をなぞりながら、寄り添ったまま星空の海を渡っていく。  宝石箱をひっくり返したプラネタリウム。それはこの時、真実二人だけのものだった。  夢の天頂は煌めいている。もつれながらダンスを続ける流れ星。月光に足跡をつけながらただひたすら幸福に、幸福に。  空を滑る彼女に向けて無邪気に笑った。 「ほら見てくれよ野枝さん。こんな絶景見れるのは、オレたちぐらいのもんなんだぜ! それってすっげえサイコーじゃん!」  後になって思い返せば、それは子供がとっておきの宝物を見せるような態度そのもので。 「あなたは…… 本当に、変な人ですね」  いい歳をして非常に恥ずかしいものだったけど、彼女は目を細めながら微笑んでくれた。どこか観念したように、そして慈しむように。  また心拍数が高まったけど、それでも繋いだ手は離したくない。代わりに一つギアを上げて速度も上げる。 「情けないのに格好つけて、臆病なのに意地を張って。  必死になって、気を遣おうとしたりして、ちぐはぐなところばかりですね。どうしてそんなに私のことを気にするんです?」 「えっと、それはですね……そのぉ」 「なんなんです? ああ、励ましていただいたことは、誠にありがとうございました。そういう考えもあるのだなと、非常にためになりましたよ。目から鱗が落ちたようです」 「ですから、もう大丈夫ですので手を離してくれても構いませんよ。こう見えて立ち直りの早い性分なんです。  そもそも既に自前で飛んでいますから、落ちることもありませんけど……」  そう言いながら、すっと顔を近づけて。 「これは、女として自惚れるべきところでしょうか?」  至近距離での笑顔が視界を埋めたものだから、殺し文句に白旗を上げた。  舌がもつれるけれど、ここまで追い込まれて何も言えないのは情けさなさすぎるだろう。気合いを入れろ、ここしかないだろさあ今だッ! 「…………す、 き。ですから」 「なんですか? 聞こえません。もっと大きな声でお願いします」  なんて天使の笑みで言われたので、腹の底から振り絞る。 「──ッ、ああもうはいそうですよ、好きなんですよ! 大好きですッ!」 「オレは……大杉栄光はッ、野枝さんのことが全部、全部、なにもかもあれやこれや丸ごとごっそりひっくるめて、好きで好きでたまんないって言ってんすよコンチクショォォ──!」  言った。言ってしまった。  天まで届けと言わんばかりの大告白は、きっと地面まで響いただろう。絶対に後で仲間にからかわれるなと考える。  もう恥ずかしさやら達成感やら返事を待つ緊張やらで眩暈もしてきた。このまま気を抜けば墜落するんじゃなかろうか。  返事はこない。どうなった? どうなんだ? 沈黙が夜空を包む。心臓はもう破裂しそうだ。  そしてようやく、瑞々しい果実のような唇が開き、声が届いた。 「ねえ、〈栄〉《 、》〈光〉《 、》さん」 「正直、信用できません」 「うぐふッ!?」  そして放たれた〈致命的損傷〉《クリティカル》。 「あと、告白の仕方も減点ですね。もっと詩的にお願いします」 「ごふぁッ!?」  さらに追撃。たった二発で心がボロ雑巾に早変わりした。恋が音を立てて崩れ行くが、微笑みは小悪魔のように容赦がない。 「第一、〈初〉《 、》〈対〉《 、》〈面〉《 、》からああだったこと、まだ忘れていませんからね。誰にでもあんなことを言っていると思いましたし、その通りなんでしょう? 反論があるならどうぞ。  とはいっても、私も実はそっち側だから理解できる行動ですけど。  素敵な恋をしてみたいけど、相手が落ちぶれても拘り続けるのは不毛だって思いません? 生涯あなただけ、なんていうのは相応の魅力を磨き続けてこそでしょう。他がよければそちらに行くのが道理です」 「尻が軽いわけじゃありませんよ。相手はしっかり選びますし、愛するならば本気でいきます。  支えて、つくして、共に歩むことを幸せとしたいです。女に生まれて幸せだったって…… けれど、男の人はそんな女が嫌なんでしょう?  一度好きになったら死ぬまで好きでい続けろ。目移りは許さないし、心変わりも許さない。そんな都合のいい不変が私は受け入れられないんです」 「殿方の所有物じゃないんですから」  当然だろう、それは誰にも咎められない。恋愛はゲームじゃないんだ。  付き合えたらクリアで、永遠にめでたしとは決してならない。エンドロールが流れても二人の〈人生〉《シナリオ》は続いていく。好きでい続けさせるために相応の努力が要求されるのは、当たり前というものだろう。  付き合う権利と分かれる権利に男女の別は存在しない。  少しだけ分かったのは、この人はそれを奔放さだと捉えているみたいということ。そういう主張をすることを、奥ゆかしくもはしたないと思っている。  けれど自分から見れば、それは〈真〉《 、》〈摯〉《 、》なだけだ。  誰かを好きになることにも、自分自身に責任を持つことにも。しっかりとやるべきことを受け止めたうえで獲得した権利を用いている。  どれも当然のことなんだけれど、それが胸に刺さる棘となっているようである。 「栄光さんはこんな私でいいんですか?  そして、捕まえておくことが出来ますか?  他にもっと素敵な恋愛ができそうなら、その人の方へ行っちゃいますよ? 屈辱的じゃないんですか、そういうのは」 「そんなことないっすよ。全然、当たり前で普通のことだ。  オレがダメダメになったら、遠慮なくポイしてくれて構わねえよ」 「そう言いながら捨てられるのはこちらであると……なんて、すみません。  ここが〈邯鄲〉《ユメ》の中だからでしょうか。出会いも、積み重ねた時間も、泡沫のように消えてしまいそうだと思うんです。  たとえば、あなたが私のことを綺麗さっぱり忘れたりとか。  よく分からないうちに夢中になって、覚めるように嫌いになるとか」 「それもまた、当然のようにありえそうだって思いません?」 「〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》」  絶対にない。彼女のことだけは、どんな場所でも。どの〈層〉《じだい》でも見つけ出す。この手は決して離さないんだ。 「本当に?」 「ああ。それで忘れてしまっても、何度だって好きになるよ」 「百万回生まれ変わっても……約束する。オレ、君のことが好きだから。  大好きだから」  そして、訪れる誓いは果たされた。  これがきっと二人にとっての必然だったのだろう。  楔は打ち立てられた。禊はいずれ訪れる。振りかざす剣は本人すら知らないうちに完成を遂げた。後は抜き放たれる瞬間を選ぶだけ。 「そ、そそ、それで、あああのぉ…… 野枝さんは、オレのこと、いったいどう思ってるんでしょうか?」  と、表現させられてばかりだったから訊けば、なぜかここで無言が返る。  こてんと小首を傾げつつ、彼女はどちらとも判断できるような笑みを浮かべた。 「さあ?  そんなことよりも、ほら……空を見上げてみてください」  つられるように上空へ視線を向ければ、そこには美しい満月があって。  心なしか手を握る力が強くなり、気持ち身体を引き寄せられる。  そのまま耳元に向けて彼女は一言。 「──月が、綺麗ですね」  囁くように、そう告げたから── 「まあ、そうですね……うん」  何が何だか分からずに、けれどうまく保留にされたらしいのは悟れたので、思わず肩を大きく落とした。心の涙がちょちょぎれるというやつである。  そんなこっちの態度が不満なのか、くすくす笑いながら手の甲を優しく爪でひっかかれた。猫にじゃれつくような指先が非常にくすぐったい。 「まったく、もう少し栄光さんは学を積んだ方がいいですよ。手始めに夏目漱石なんかはいかがでしょうか」 「えぇぇ……活字見ると眠たくなるっていうか、じゃなくて! ずっけーっすよ野枝さん。美人ならなんでも許されると思ってるっしょ」 「心外ですね、返事はちゃんとしたつもりなんですけれど。それなら分かりやすく、これからに期待ということで」 「もう逃げないんでしょう?」 「ああ、それなら任せてくれ」  彼女が傍で見ていてくれるなら、何だって出来る気がする。 「オレが野枝さんのことを守るから」  彼女と自分にそう誓い、千の〈信〉《イノリ》を口にする。  愛の証明をするためなら何を対価にしようと惜しくない。そのとき自分は、恐るべき純粋さでそう思ったのだ。  ただ誠心に……悲しいほど、清らかに。  その空間は、一言で表せば酷く胡乱なもの。  位相が明確に定まっていないかのような大気の歪みに、時折微かに振動する外の光景………まるで支柱を通さぬ古家屋を思わせるような不安定な印象を、周囲全体という域で押し与えてくる。  そして開けた部屋の中央に、静謐をもって横たえられている女の姿があった。  彼女の名は、キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。  数千もの人獣たちの頂点に立つ姫君は、先の戦によって力の殆どを失った。ゆえに現在、こうして回復の深き眠りに落ちている。  やがて時は訪れ。  銀色の髪が流れる妖精めいた姿は、しばしの沈黙を破って再びその瞼を動かした。 「ん……く、はッ……!」  キーラは目覚め、同時に狼の防衛本能で周囲を見回す。  頭は未だ靄が掛かったように働かず、手酷い疲労が身体全体に澱のごとく残っていた。負った手傷にしてもある程度の再生こそ果たせているものの、内部構造の全快にまでは至っていない。  つまり、現状はどうにか外面を繕う程度の回復度合いに過ぎず。そのため身体は未だ自由に動かせないものの、認識、思考等を押し並べて行う精神の働きは正常である。  ゆえに、視界の端に軍装の男を捉えても、相対し起き上がることすらままならない。  口端を吊り上げたまま腕を組み、男は愉悦を佇まいに滲ませながらこちらをただ睥睨している。  余裕すら感じさせるその姿を見るなり、キーラの怒りの炎は己が内奧で激しく燃え上がった。躊躇も呵責も存在せず、ただ目の前の敵を滅相し尽くすかのように。 「ようやくにしてお目覚めか、気分はどうだ。  いささか遅かったな、待ちわびたぞ」  白々しい物言いと共に、その表情はさも愉しそうに笑みを深め──  彼我の感情の隔たる落差に、キーラの激情が容易く沈黙を振り切った。 「甘粕、正彦……貴様ッ……!」  自らの胃の腑を焼くかのような溶岩めいた激情を発露させるキーラ。  全身を駆け抜ける激痛など斟酌せずに立ち上がろうとするも、彼女の内側は未だ回復を見ておらず思考と行動が連結しない。  その身に負った傷は深刻であり、ゆえにただ射貫くような視線だけを甘粕に向ける。  対して、この場においての甘粕は圧倒的有利の状況にあった。  その腰に帯びた軍刀を一振りするだけで、己に牙を剥く獣姫の命は容易く奪うことができるだろう。だがこの男はそうしない。  悠々と、そして泰然と──まるですべての状況が織り込み済みで、計画は委細滞りないとでも言うかのように。 「ああ、いい目を向けるな。だからおまえは好ましい。  俺の所行に憤慨するか? ああそれでいい。誰も止めはしない。  その激情こそを、俺はこの目で見たいのだから」 「はっ──」  身動きの取れないまま鼻で笑う。  甘粕の言う事はこの状況でも普段と何ら変わらない。あたかも己を高みに置いているかのようで、それがキーラは気に入らない。  その言説は一皮剥けば饐えた臭いのする卑属の極みであるばかり。如何に飾り立てたところで、本質が良く見えるということなどない。  キーラと甘粕。二人の間に上下は存在せず、ただ希求するユメが違うのみ。その認識は恐らく誤っておらず。  それならば、何が彼我を隔てているのかと言うと── 「一つ告げておいてやろう、キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。誇り高き獣の姫君よ。  如何に足掻こうが、おまえは盧生になどなれん」  それはただ一つ、知識の差に他ならなかった。  すなわち見渡せる世界の広さと言い換えてもいい。  ゆえに知ってしまえば大したことではない……甘粕が握っているのはその類の事象だろうとキーラは信じている。  しかし既知に至るまで、それはそのまま次元の違いにも等しく、だからすべてを奪いたい。  交渉などではなく〈簒奪〉《さんだつ》する、それが人獣の流儀である。だが── 「おまえが奪おうとしているものは、端的に言えば〈永〉《、》〈劫〉《、》〈そ〉《、》〈の〉《、》〈身〉《、》〈に〉《、》〈宿〉《、》〈る〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》〈な〉《、》〈ど〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》」 「……私に資格がないとでも言うつもりか? この期に及んで戯言を。  だが貴様は確かに〈そ〉《、》〈れ〉《、》を有している。ならば強奪するまでだ。  必要とあらば、骨の髄までも引き摺り出そう」 「事実は事実だと俺は言っているんだよ。問答を重ねることは甚だ無益で、ゆえに言わせてもらう。  少なくとも今、この〈邯鄲〉《まつり》において、それを宿しているのは俺とセージの息子だけだ。これは生得的な資質でな、獲るとか奪うとかいう類のものではない。  まあ、誤解を招いた理由は分かるさ。セージだろう? だがあれは特別なのだ。 彼はそもそも奪うことを前提に、そこへ特化した夢を持つから可能なのだよ。ゆえ、他の者に真似ができる道理はない」  言いながら、甘粕は感情をこめずに事実だけを並べていく。キーラの無知を、その勘違いを善意で正してやるのだと。 「だからおまえは、〈俺〉《、》〈に〉《、》〈繋〉《、》〈が〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈お〉《、》〈け〉《、》〈ば〉《、》〈い〉《、》〈い〉《、》。我が眷属として、力を持ち出す許可をやろう。  なにも尻尾を振れと言っているわけじゃない。ただ大人しくしているだけで構わんし、それも今だけの話で結構」 「馬鹿め、それを首輪と言うんだよ。ふざけた真似を」 「貴様の言説は徹頭徹尾信用できない……そうだろう?  見え透いた嘘になど、餓鬼であろうと引っ掛からん。利用し尽くし、終いには取り上げるつもりだろうが、些かその提案は明け透けに過ぎる」 「そう思うか? だとしたら、案外つまらんことを言うのだな。おまえの父君と変わらんぞ」  外套を微かに揺らし、甘粕は呵々と嗤う。まるで目の前にいる獣の女王が、他愛もない冗談を口にしたかのように。  そして次に浮かべたのは恐らくこの男の本性──紛れもなく悪禍を放つ凶相であった。 「おまえが何をしようが、俺は放っておいてやるさ。強者は多いほど面白い。  ここは〈邯鄲〉《ユメ》だぞ、退屈の中で朽ち果ててしまってどうする」 「詭弁だな」 「事実さ。つまりは──」  余裕の態を崩すことなく、ゆらり挙動する甘粕。前触れなく己が眼前で顕現する〈そ〉《、》〈れ〉《、》にキーラは瞠目し…… 「──こういうことだ。理解したか?  今一度言おう。キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ……大人しく俺と繋がれ」  状況に呑まれ、呼吸をすることすらも忘れていたキーラは我に返り、抉り込むような眼光を向けて甘粕に問う。 「本当、なのだな。 貴様も理解しているだろう。我々鋼牙を愚弄すれば、その身がどうなるかは──」 「分かったのなら、黙って首を縦に振れよ。  そもそもだ。おまえの本懐を遂げたいと言うのなら、これはまず必要なものだろうが。選択の余地などないんだよ。最初からな」  喉を微細に震わせ、甘粕はさも愉快そうに哄笑する。己に仇成す存在すらも、まるで慈しむべき対象であるかのように。 「いつか寝首を掻きたいと言うのなら、何構うことはない。そうすればいい。  構わん、励めよ。俺を愉しませてみろ」 「まあ、もっとも――」  そこで一瞬、甘粕は稚気めいたものを覗かせつつ微笑した。 「その前に、おまえは照れ屋なところを直してほしいと俺は思うが」 「――――ッ」  その台詞には、いったい何の意味があったのだろう。余人にはまったく不明なまま、しかしキーラは言葉を無くすほどに激昂している。  甘粕はなおも続けた。 「誇っているのだろう。恥じてなどおるまい。人と獣の均衡で揺れるおまえも好みだが、そろそろどちらかに決めてほしいところでもある。  ゆえにこれは、俺からの軽い発破だ。いずれおまえはどちらかに、転びたい方へと転び始める。  あるいは、亡き父君へと俺が贈る、友誼の証と取ってもいい。彼は転んだおまえを愛していたようだから」 「甘粕ッ……」 「〈七層〉《ここ》は前夜祭だ。せいぜい楽しめ。いざ本番に乗り遅れることなどないように……」 「震災の予兆、観覧しながら転んでいくのも悪くあるまい? ふははははは」 「甘粕ゥゥゥッ!」  去り行く背に浴びせられた絶叫は、すでに半ば以上が魔獣の咆哮となっていた。狂気に傾倒していく意識の中で、キーラは思う。  ああ、やめて。私を見ないで。  お父様。お父様。お父様。お父様――  〈私〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈を〉《 、》〈繋〉《 、》〈げ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈で〉《 、》。そんなことをされなくたって、姉妹喧嘩なんかはしないから。  ねえ、どうして首が三つもあるのよ。  いいやそもそも、それどころか――  私たちを形作る、この総身の馬鹿っぷりはいったいぜんたい何事なのだ。  ──部屋の外に広がる亜空間では、黒雲と共に百鬼空亡が蠢いている。  ──神野明影が醜悪な表情を晒しながら、窓よりこちらを覗いている。  これは如何な悪夢だろう。  一歩ここから外に出たなら、既に世界はそこにない。あるのはただ曖昧にたゆたう異次元であり、それは世界のどことも繋がっている。  闇とも、魔とも、邪知とも、混沌とも……  地獄とは概ねこのような光景を晒しているのだろうと、狂気の淵でキーラは悟った。  しかし、それを……ユメが横溢する世界こそを、甘粕正彦は求めている。  あまりの禍々しさに、己の異形を恥じる心など霞のごとく吹き飛んでいった。  ああそれは、なんと清々しい祝福だろう。〈楽園〉《ぱらいぞ》はここにある。  確信し、受け入れて……キーラは魔獣への階段を音を立てながら転げ落ちていった。 「ようこそいらっしゃいました」  腰を折って一礼。屋敷に入って来た客人を変わらぬ所作で出迎える。  予想はできていたが、戦真館と神祇省とが手を組んだらしい。都合八人、突き刺さる視線は一部を除き大半が刺々しいものだった。  まあそれも無理はない。ある意味協定違反を犯したのはこちらが先だ。彼ら彼女らの怒りは正当なものであり、そこまで違えては輪をかけて恥知らずというもの。  無論、面と向かってそれを口にすることはないため、胸中で思うばかりに留めておく。  本来ならこれを辰宮が先導し、対甘粕の旗印とする流れであったが……もはやそれらは詮無きことだ。  賽は投げられた。七層の〈邯鄲〉《ユメ》は結実し、これで突破を命じている。  意にそぐわない形になったことへは嘆息を禁じ得ない。だがどれだけ言葉を重ねようとも既に出てしまった結果があるなら、受け止めて対応すべきだ。  そうでなければ俺が残った意味などない。  ならば後は徹するのみ。主がそうであるように己は己の意を通そう。不審の視線に微動と動かず卒のない対応で出迎える。 「よう幽雫、元気しとったか? 相変わらず暗いのォ」  揶揄を多分に含んだ盲打ちは相手にしない。これの意思を解こうとするのは雲や雷の軌道を読むのと同じことだ。徒労に終わるというのならいっそ諦めて放逐する。  意図して視線を外したまま戦真館へと身体を向けた。馬耳東風と聞き流してかつてのように前を歩く。 「こちらへ。お嬢様がお待ちしております」 「なんじゃ、そう邪険にすんなや。  お嬢は元気か? おまえはここで何しとった? つうか二人で飽きんのかのぉ、今やここは伽藍じゃないんか。なんらどうやって暇潰しとんじゃ」 「手持ち無沙汰なのは否めませんね。だからでしょうか、皆様の来訪を心待ちにしているようです」  それは本当だ。あの方は心の底からこの邂逅を待っていらっしゃる。正確には、恐らく一人に向けての興味だろうが……  〈そ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》に対しては腹立たしさしか感じないものの、私心は深く封じ込める。主を諌める権限は自分になく、あったとしても異を唱えたいと思えない。ならばそれは詮無きことだ。  俺から語る言葉は有らず。従属する駒として今も彼らに接するのみ。  そういった態度が、尚のこと機嫌を逆撫でているのだろう。七対の瞳は不審感の意識をぶつけて今も背中を燻している。  特に我堂鈴子……彼女の眼光には物理的な圧さえ感じられるものだった。  それでいて殺意がないのだから、甘いというか慈悲深いというか。素質に反している点は落第だが、人としてはそれで当然なのかもしれない。少なくとも正道であろうとしていることは評価しよう。 「ねえ、幽雫さん」  振り返らない。だが、複雑な気配は伝わっている。  真実を暴こうとする決意に、立場上持つべき怒りと、信じるに足るものを見つけたいという誠意だ。 「あれから色々と考えてみたんです。たとえば、定期的に開かれたお茶会についてだとか。  半年の間、私たちはたびたび百合香さんとの紅茶に誘われました。あなたからも薦めてきたはずですよ。彼女の無聊を慰めてくれたら幸いだって。  今ならよく分かります……あれは、予めかけていた術を掛け直していたんでしょう? あるいはより認識の齟齬を深めるためでしょうか。どっちにしてもこの様ですけど」 「おかげで手痛い対価を払う羽目になりました。無条件に肯定しているだけの姿は、さぞ滑稽に見えたんじゃないですか?」 「いいえ、微塵も。  仕方のないことかと。お嬢様の前では自動的にそうなりますから」  然るべき当たり前の結果に対し、滑稽さなどありはしない。返答に対して、彼女は得心したように頷いた。やはり気づいていたのだろう。 「だから全部が全部、騙していたわけではないということ……それはもうなんとなく分かっています。  再会してより感じました。あなたは私たちに対して、隔意を欠片も持ってません。それこそ個人的な興味さえ。  だからこそ、幽雫宗冬という人間がいつまでも見えてこないんです。  辰宮家という大きな方向性としては、この際置いておきましょう。今はそこに紛れているだけのあなた個人を、私は知りたいと思っています」 「随分よくしてくれましたし、鍛えてくれたことには今も感謝しています。そうでなければ死んでいた事態がありました。こうして生きていることの何割かは、紛れもなくここで身に着けた教訓があってのことでしょう。  けれどそれは、ただ命じられたからなんですか?  盧生を利用するため、邯鄲を攻略させるため、百合香さんが命じたから、そんな理由ばかりじゃなくて…… 自分自身の意思として、我々千信館をどういう風に捉えているのか。教えてくださいよ、大先輩」  骨の髄まで主従関係の奴隷なのか。  辰宮家の意向があったゆえの誠心か。  そしてそんなことのためだけに、戦真館を継ぐ後輩を利用していたのかと。精悍な問いに瞑目する。  それは、そんなこと── 「はい」  決まっている、その通りだ。言い訳するまでもない。  そんな理由は〈軽〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈る〉《 、》。いいや比較すらも冒涜だ。虚を突かれた顔の面々へ厳かに、短く答える。 「私はお嬢様の忠実な家令です」  そう、俺だけは彼女の味方でありたい。  剣として、盾として、唯一最後まで辰宮百合香の真なる臣でいたいのだ。  それと比すれば、彼らに対する感傷など吹けば飛ぶだけの塵芥だ。  なるほど、確かに可愛い後輩たち。戦の真と志を継ぎ、その命と教えを誇りとして日ノ本の明日を繋ぐ後進である。男子としてその気概を汲み、手ずから〈業〉《わざ》を施しもした。  敬意を持っているのも嘘ではないし、密かに応援したことも当然ある。期待しているのも本当のこと。  だがそれは……そんなものが芯まで届くわけでもなし。 「その御心を完遂することが、至上の喜びにございます。二心など、いかにして抱きましょうか」  同情はしよう。憐憫もしよう。しかし心変わりだけは決してしない。  俺のすべてを捧げる人はもう決めている。すべてはただ、彼女のために。 「かははははは! たいぎぃのぉ、おまえ。こん石頭がッ」  ひいひいと、喉を鳴らしてひきつるように笑う壇狩摩。  傑作だと、滑稽だと、この道化めがと耳障りに嗤っている。心底楽しそうに馴れ馴れしく肩を叩いてきながら、口端を深く歪めた。 「一途に純情、結構じゃがの。噛み合わんたぁ悲しいこっちゃ。  お嬢には伝わっとらんぞ」 「────、 それが何か」  見返して毒の滴る弄言を切り捨てる。全身の筋肉を硬直させなければ、何がしかの挙動を取っていたかもしれない。  背に隠した拳を静かに握りしめ、湧き上がった激情を封じた。何もかもを見透かした上での指摘はどこまでも底意地が悪く、内情の痛点を抉り倒してくるものだから。  そんなこと、言われずとも知っている……  ああ、知っているとも。俺の示す忠義は、彼女の求めに噛み合っていない。  それでもこれが自分なのだ。今更、生き方を変えるには遅すぎる。積み重ねてきたものが多すぎて、律する以外に示す術をなくしていた。  削ぎ落とし、研ぎ澄まし鍛え、磨き抜いた我が〈忠誠〉《つるぎ》。  それは辰宮に生まれた彼女を守るためには必須の要素だ。傍に控える者はそのまま主の格を象徴する規範となる。直属の家令とはそういうもので、決して他の勢力に付けこまれる隙を見せてはならない。  良家の宿命。どれほど辰宮が権勢を誇っていようと政敵は絶えない。  それらの火の粉を討ち払い、権勢を支える手腕なくば、いずれ彼女自身を巻き込んで零落を迎えるだろう。  そんな未来を自分は心から拒絶する。  だから、出来ることは何でもやった。  教養を重ねた。戦真館に入った。初代の筆頭としてあの地獄から生き延びることが出来たのも、思えばすべてそのためだ。  彼女と出会い、俺の〈運命〉《いのり》は王冠を得た。  ──辰宮百合香という女性を守りたい。  それが己にとって唯一無二の真実だと確信している。  誰よりも御傍にいたい。願うことなどそれだけなのだ。 「くだらねえ」  けれど、黙する俺を見て── 「女を見る目が壊滅的だな、あんたは」  まるでそれこそが、〈幽雫宗冬〉《おまえ》にとって唯一の欠点であるのだと言うかのように。  よりにもよってこの男は、落胆するようにそう告げたから。 「黙れ」  一声、それで空気が凍結した。息を呑んだのは誰だったか。  あまりの殺意に視界が真紅に染まっている……冷徹に吐き出した言葉さえ、温度がないのが不思議だった。これほど臓腑は煮えたぎっているのに。  屋敷を満たし始める死の気配。それに動じていないのは、未だ見下している木偶の坊だけ。  それがなおのこと気に障る。 「貴様も、何が分かる」 「分かるわけねえだろ、ボケ。  虫が良すぎんだよ。理解されたいならそう言いやがれ。  木石や置物じゃねえんだ、その口はいったい何のためについてんだよ」 「それが恥知らずだというのだ」  彼女の意思こそ俺のすべて。ならば物申すことなどあってはならず、私情などただ不敬である。  おまえたちには分かるまい。享楽に爛れた百年先もの未来を知り、それが常識だなどと勘違いしているおまえたちには。 「軽薄に自らを明かしたところで何になる。主の心を煩わせるだけだ」 「くだらねえ、屁理屈こねやがって。しかも軽いだと? そりゃ誰のことだよ、誤魔化すな。  〈一〉《 、》〈番〉《 、》〈の〉《 、》〈馬〉《 、》〈鹿〉《 、》を放置して、今まで何やって来たんだあんたは」 「ああ────」  この瞬間、こいつの首を刎ねなかったのは奇跡と言っていい神業だった。  駄目だ。この男を見ていると、自分は正気じゃいられない。  柄に触れた指先が寸前で滑ったのは、あまりの嚇怒とお嬢様の命を思い出してのことだった。それがなければここで血の華が咲いていたのは間違いなく、百八の肉片まで刹那の間に切り刻んでいたことだろう。  〈無貌〉《じゅすへる》さえ凌駕する不快感。もはや一言たりとて会話を続けてはならないと判断したゆえ、俺はただ―― 「もういいだろう。すべてはお嬢様が決めること」  ──扉を開く。そして形ばかりに頭を下げた。  部屋の中では、客人を招いた見目麗しい主の姿があり。 「ようこそいらっしゃいました、淳士さん」  頬を染めながら、熱に湿った歓待の言葉を紡いでいる。  見つめる相手は一人だけ。なんて喜劇、盲打ちは声を上げて爆笑した。 「くふふひひひひ……おうおう見てみい、俺らのことは無視かいや!  のう幽雫、女はやはり魔物じゃのォ! なんならこれ、世界中の男どもがキレよるぞ、この展開」  聞こえない、何も聞こえない。  耳に残響するのは、どこかで轟く奇怪な亀裂の走る音。  蓋をしていたはずの感情が蠕動したのを、実感した。 部屋に入った途端、産毛が湿気に絡めとられたという錯覚があった。 この部屋はどこか〈蒸〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。なんとなくにしか感じとれないが、得体のしれないものが所狭しと充満しているように感じるのだ。煙たいというか、感覚的に息苦しい。 気持ち、呼吸するたびに肺が重くなるというか…… どこか夢幻に迷い込んだような気分。その心当たりはもうついている。 「……臭え」 顔を顰める淳士の視線をたどれば、原因は明白だった。一人だけが今も感じているであろう香気の正体、そして酩酊感の源泉が誰であるのか。 「皆さん、お久しぶりですね。無病息災のご様子でわたくしも喜ばしく感じております」 屋敷の主、辰宮百合香……彼女はやはり見慣れた光景の中で微笑んでいる。 記憶にある姿と同じ、罪悪感など感じさせない淑女の笑みと気品をもって私たちを出迎えた。 「まずはご自由にお寛ぎくださいませ。それぞれ聞きたいこともあるでしょうが、その前に一服してはいかがかと」 「宗冬の腕も少しは上達したと思いますが……あら、野枝も来ていたのですね。それならば彼女に淹れてもらいましょうか。皆様もその方が嬉しいでしょうし、わたくしとしても久々に美味しい紅茶を賞味したいと思いますので」 上品な微笑は花がほころぶようで、隣に控える従者も合わせれば一枚の絵画を思わせる。 「では宗冬、取り置きのカップを持って来なさい。どなたがどれを愛用しておられたか、勿論おまえは覚えているのでしょうね」 「お任せください、お嬢様」 それはまるで、そっくりそのままタイムスリップしたように。 何事もなかったかのように。 悪びれず釈明すらもしない、平常運転そのものといった対応だった。 冗談ではない。 「そういうことじゃないでしょう!」 ふざけないでほしいのだと、意識を強く持つことも含めて地団太を踏み鳴らした。 舐めないでほしい、頭に来ているのよこっちは。自分でも分かるほど苛立っているせいか、彼女に恭順しようという感情はなかった。無条件に肯定したりするものか。 そしてそれは皆も同じ。 「百合香さん、頼むよ。あたしら今はマジなんだ」 「あなたは、柊に何をしたんですかッ」 「答えてください……私たちは、あなたに幻滅したくない」 「さて、それはどういうことなのでしょうか?」 険しい視線で笑みを射抜くが、さも分からないと小首を傾げる仕草は心当たりがないと言っている。 「とぼけるのは止めにして欲しいんすよ。ネタは上がってます」 「私たちは何が起きたかを知りました。盧生のことや、〈邯鄲〉《ユメ》のこと。そして百合香さんと繋がったことで彼が目覚められないことも」 「……あなたが心の奥に、何かよからぬものを抱えていることもです」 「それがどういうものか明確にはまだ分かっていません。けれど、少しだけ、その原因を実感できた気がします」 こうして再び対峙して見えてきたものがある。この人は病的に綺麗なのだ、幼稚と言い換えてもいい。 「百合香さん、率直に表現してあなたはどこかが病んでいる」 驚くほどに無垢で純白。降ろしたてのシルクみたいに滑らかだから、触れえるものが何も足跡を残せていない。ぶつけられている思惟にまるで動揺していないところなど、特にそれを証明している。 現に今もそうではないか。瞠目した、品よく微笑んでいる。なのに何も大したものと取り合っていると思えなかった。 「まあ、それはそれは」 「ねえ狩摩殿。わたくしは病を抱えているのでしょうか?」 「そりゃのう。見るもんが見りゃ一目瞭然よ。なあ」 「…………」 そして、それをおそらく分かっていながら、何もしていないこの人も何だ。 「とは言われましても、心当たりがございません。ええ、これは虚偽ではなく本心からの言葉です」 「わたくしはわたくしなりに、いつも普通に生きているつもりでした。特別なものを求めた覚えは、これといって、本当に何も」 「見当のつかないことを述べることはできません。申し訳ございませんが、どなたかご教授してはいただけませんか?」 「何ですか、それは」 〈埒〉《らち》があかない。誰も彼もどうかしている。正しく在ろうという意思が、この屋敷にはどこにも存在していないのか? 「ああもうっ!」 「ちゃんと向き合ってくれよ、百合香さん。なんかそういうこと言われるの、すげえ悲しくなってくる」 「糾弾したり、憂さを晴らしに来たんじゃないんだ。裏にどういう意図があっても世話になったのは事実だし、あたしは仲間だと思ってたよ。いいや、今でもそう思ってる!」 「だからそうやって、言葉を躱そうとするのはやめてください。あたし達はせめて、当事者の口から本当の理由を聞きたいだけなんです!」 「どうするかはその後に決めます……自分の意思で」 「仲間……」 ふいに、声色が変化したのは落胆だろうか。 「自分の意志、ですか」 見切りをつけられたような違和感。表面上は静かに、しかし微笑の意味が決定的に一変したと思うのは…… 反芻しながら考え込んでいるふりをして、視線は遠くを向いている。その原因が自分にはよく分からないものの、導火線に火がつきかけているという不吉さが垣間見えた。 「わたくしは、あなた方の仲間なのでしょうか?」 なんの期待もしていない問いが頭に来たから、私たちは頷く。当然だ。 「当たり前っしょ」 「あっちゃんと同感」 「お世話になったのは本当ですし」 「今も惑わされているからそう思っているのかもしれません。けれどそれでもと、言葉を交わした人を信じたいのはおかしいですか?」 「……そう」 聞き終えて、嘆息して、ついと彼女は視線を流して。 「では、淳士さんは?」 「嫌いだね。糞女」 一刀両断、にべもなく切り捨てた。 「あんたのどこがいいのか、俺には皆目分かんねえよ」 仲間などではない、おまえにそんな資格はないと。正直に拒絶を叩き付けたことで彼女は静かに俯いた。 肩を小刻みに揺らしながら、しかしたまらないと深まっていく笑み。 ようやく欲しがっていたものを得たように、頬へ手を当てて声をあげた。 「ふ、ふふ……」 「うふふふふふふ、あははははははははっ」 「ほら、やっぱり。嘘つき、嘘つき、正直なのは淳士さんだけ」 身体を抱きしめるように包みこんで、陶酔した悦を漏らしつつ笑っている。狂いながら泣くように。 彼女を中心に、空気がゆっくりと〈彩〉《ねじ》られていく。艶やかに、瑞々しく。堰を切って溢れだした情動は、主の執心をダイレクトに場へ反映し始めた。 これが同調……それとも誘いなのだろうか? 相手の〈本質〉《ユメ》を吸っているようで、意識が朦朧とし始める。香水の泉にぶち込まれてしまったように。 それみたことかと、発生源は私たちを指して嗤った。 「仲間? 大切? 惑っていると分かっているのに、自分の意思がどうこうと……ああ、なんておめでたい方たちでしょう」 「どれもこれも的外れなことばかり。わたくしのことなんて、やはり何も分かっていない。分かろうともしてくれない」 「それは百合香さんが……」 「望んで使っているとでも? こんなものを、好き好んで?」 「なるほど、その結果があなた方であるのなら、この閉塞感も少しは紛れたかもしれませんね。ですが真実はその真逆」 「一つ、いいこと教えてあげましょう。破段で獲得する〈邯鄲〉《ユメ》について、それは必ずしも表層意識が望んだものばかりではないのですよ。潜在意識下に蠢く葛藤も、等しく芽を出すかもしれない」 「野枝、あなたもそうでしょう? 欲しいものばかりが手に入らない。こういう風に」 「……そうですね。仰る通りかと」 「まさか……」 それは、確かに理屈として充分ありうることだけど。 「コンプレックスの具現も起こりうるってこと、ですか……?」 破段で得た力。まともに知っている〈実例〉《サンプル》として、柊があまりに順当なものだったから考え付きもしなかった。けれど言われてみれば納得できる側面もある。 精神なんて安直に表現してもその区分は多岐に渡る。心理学という学問さえあるのだ。理性に本能、浅層と深層、表面と裏面……大雑把に並べてみただけでもこれだけあり、そのすべてを推し量ることは生涯をかけても足りるとは思えないほど。 ならば当然、こういうケースも出てくるんだろう。自らの象徴でありながら、同時にまったく好ましいと思えない心理の一部。それが具現することも。 じゃあ、彼女は望んでこれをやっているわけではない? それなら逆に、ずっと望んでいたことは…… 「皆様はよろしいですね、誇りを持てる夢を描けて」 「とりわけ四四八さんは羨ましいですわ。羨望を禁じえません。自らの普遍を自在に操ることができるだなんて。さすがは盧生、主役は光が違います」 「求めた瞬間に、求めた自分に成ることができる……それはとてもとても、何物にも代えがたい、素敵なこと」 「どんな栄光や財宝も、それに比すれば何のことがありましょうか」 それは物事の真理を突いている言葉でもあった。金銭や名声はあくまで自己肯定するための手段であるということ。そしてそれが、あくまで大多数の人間にとって通用するものである、とも言っている。 自分は違う。こんなものは欲しくない。〈愛〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 ああ、やっと分かってきた。明確になってきた内心の告発を受けて、辰宮百合香という女性が何を望んでいるのかをここに悟る。 「つまり──」 万人を魅了してやまない、この人は── 「あなたは“ただの女の子”になりたいんですね」 とてもとても簡単なことで……〈普〉《 、》〈通〉《 、》でありたいだけなんだ。 「それって……」 「………………」 「分かります、その気持ち。私も少しは身に覚えがありますから」 「家柄って重たいですよね。人は何にも成れるとか、物心ついたときからそういう慰めや希望論を根こそぎ消し飛ばしちゃいますし。自分に自分以外の要素がどうしても混ざってしまう」 「生まれた時から自分の一部、早々に切り離せるわけがない。しかもそれが悪いものじゃないとあったら」 背負う以外にはないだろう。生家の持つ歴史と重み、一個人の意思で軽々しく放棄していいはずがない。 人権を掲げるあまり、近年ではそれを時代錯誤と捉える風潮もあるが、私は逆にこう思う。生まれた時から託してくれたものがあるのはとても誇らしく、同時に幸せなことなんだって。 文化や遺産もそうやって大きな御旗を担い、時の流れで風化しないよう守って来たから、今もあるのだ。そこに住む人々の拠り所となる栄誉。こんなやりがいのある〈仕事〉《いきかた》があるだろうか。 ゆえに弊害というか、付き纏う痛みも分かっている。 きっと仲間の中で私だけが持つ、彼女との共通点。〈持って生まれた者の義務〉《ノブレスオブリージュ》の重み。 「持ち過ぎて生まれたから、誰も他人を信じられない」 栄光の旗を背負っている限り、どうしても人目はそちらに向いてしまう。 「貴族院辰宮家ご令嬢……そうとしか見られない、なんて自分で信じ切っているんですね。疑う余地すらないほどに」 積み重ねた歴史の重みは、個人としての己を容易く覆い尽くしてしまうから。 良家という肩書きは死ぬまで付いてまわるだろう。無償で手に入る賞賛に、彼女はもう飽いているのだ。 不思議だ……初めてこの人が私を見てくれた気がする。 見開いた瞳が、理解者の発見にまたたいた。家の格では対等といかないけれど、それでもこの場における同類を目にして今までにない感情を抱き始めている。 「ですから──」 「だから──」 ここに、はっきりと言わなければならない。 「私はあなたを憐れに思います」 「百合香さん、あなたは情けない人だ。〈装飾品〉《いえがら》に埋もれたのは、あなた個人の選択ではないですか」 それが決定的な、自分と彼女を分ける相違点。 苦悩には一定の理解を示すけれど、この歳になってまで葛藤を放置していた責任が誰にあるのか。そんなことは誰が見ても分かること、何もせずに待ち望んでいた人間が言っていい台詞じゃない。 生まれ持った家の威光がある前に、私は私だ──我堂鈴子だ。 胸を張ってそう言える限り、決して私たちは同じ穴の狢じゃない。 つまるところこれは、自信と自身の有無なのだろう。先天的な要素に見劣りしない確固たる自己を得る。それが出来たときに、私たちは自由を手に入れられると思う。 辰宮百合香が他者を籠絡する〈邯鄲〉《ちから》に目覚めたのは、本人が〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》ではないだろうか? それが真実ならあまりに皮肉だ。待ち望んでいる限り、永遠に求めたものが手に入らないという悪循環に陥っている。 「縁は遠くからやって来て、勝手に結びつくものじゃないんです。そんなことさえ、あなた達の時代だと分からないんですか?」 自ら手に入れようと足掻く意思があったなら、その過程で傷つくことを恐れない気概を持っていたのなら……〈負の面〉《コンプックレス》を凌駕しようという、前向きな力に目覚めていたかもしれないのに。 戒めよう。戒めよう。覚えておくんだ。下手をすれば自分もこうなっていたのかもしれないと。 これだけ言っているのに、まだ何もわかっていないというような心を持ってはならないから、二人の相違を言葉にする。 「そして、私にはこいつらがいます。まあ、それについてはちょっとした不覚なんですけどね」 「なんせ〈右翼〉《うち》にビビらないし、あっぱらぱーだし、遠慮をどこかに置き忘れた馬鹿の見本市ですけれど……だからこそ上っ面で付き合ってるんじゃないんですよ」 「まあ、肩書きあってもおまえポンコツだしな。恐れ入るのが阿呆らしいわ」 「うんうん」 「うっさいわよ、能天気ども」 と、こうしてぴーちくさえずる奴らだけれど。飾らない態度で付き合えるのは自分自身があるからだ。 肩書きの有無で決してこうなれたんじゃない。 「柊を羨ましいと言いましたね。けれど、私たちだってあなたに憧れる部分はたくさんあります」 「辰宮だからだとか、他人はどうとかじゃなくて、まずその前に見るべきものがあると思いますよ」 「ようは自業自得ってことだ」 「逆に考えてみろ。願い通り、今のまま“ただの女”になっちまったら、あんたに何が残るんだよ」 「何もねえ……頭からっぽの馬鹿女が、一人ぼっちになるだけだろうが」 「………………」 訴えに、ほんの少しだけ部屋の空気に淀みが生じた。 まだ何もわかっていないし、相手の伝えたいことが掴めない。けれど他人にとって自分はそう見えているのだろう、という認識だけは芽生え始めた。 自分が希求していたものを他人はどう思うのか、無条件に肯定する以外の者から指摘を受けて、初めてそこに考えを巡らそうとしている。 努力とも呼べない小さな試行を重ねて、当然うまくいかずに従者へと問いかけた。もっとも長い時間を共にした相手なら、果たして。 「……宗冬、おまえはどう思います?」 「淳士さんたちの仰るように、わたくしはそういう女なのでしょうか?」 「違う!」 ──そこに、魂切るような悲嘆が響いた。 時が止まり、何かが剥がれ落ちていく。彼は既に限界だった。 いいや、もうとっくの昔に限界だったのかもしれない。 「あなたは、あなたは──ッ」 「おう、ええ感じに熱しとるとこじゃがのう。ちょい待ちィや」 わななく唇が何かを紡ぎだす寸前、割って入った無粋が叫びを止めていた。 空気を一切読まず、ひらひらと手を振るふざけた盲打ち。複数の視線に睨まれながら、お手上げだと言わんばかりに狩摩は窓の外を指さした。 「時間切れじゃ、諸共に死ぬ時間が来よったぞ」 そして── 「そうら、龍神サマのお通りじゃ」  絶望の到来を告げた瞬間、辰宮邸が大震した。  地が揺れる、岩盤が踊り狂う。  これより先は破壊の〈楽園〉《ぱらいぞ》。滅びの荒野が広がるのみだ。  すべてが崩れ、砕けて落ちる──無事に済むものは何もない。  何もない。 「どどどどどどどどわわわわわわわぁッ!?」 「ゆ、ゆゆゆゆ、揺れ、揺れてるううぅ……ッ!?」 「ああ……」 「これは──」 「なるほど」  激震する大地の怒りに、屋敷の主は呟いた。 「もう、この夢は終わりですね」  すなわち全員、例外なくここで死ぬのだと。  この時、戦真館を除いた面々は一様に生を諦めた。  絞首台にかけられた死刑囚のように、訪れる死を回避不可能であると断じている。それは百合香や野枝に飽き足らず、宗冬や狩摩でさえ深いところでは絶対の帰結だと認識していた。  その理由が分からずに訝しみ、何事かと尋ねようとした時に── 「……鳴き声?」  全身が総毛立ち、弾かれたように窓の外を覗く。  小動物が津波を感知するように、それは生存本能ごと〈七層〉《ハツォル》を揺るがして激動していた。 「なんだよ、あれ……」  狂ったように胴を地に打ち付けながら、大破壊をばら撒く九頭の龍。  殺す。殺せ。殺す。殺せ──殺してやろう、殺してくれ。  万象呪う絶叫を轟かせて腐乱の龍が這いずっている、その震源は。 「〈百鬼〉《なきり》、〈空亡〉《くうぼう》!」  病毒に犯された夢界最凶の〈廃神〉《タタリ》。血走った〈眼〉《まなこ》を抉るように回しながら、地脈を辿って新たな贄を嗅ぎ分けている。  地相風水の導きがまま、綱渡りのように路を侵攻するため外れる確率は端から絶無。生命体としての思考回路を持っていない災害は、ただ愚直に森羅の理をなぞって崩壊の爪跡を刻むのみ。  周囲を埋め尽くすのは阿鼻叫喚の凶将羅軍。  空亡が身じろぐたびに発生し、そして発生源に心から恐怖するゆえ進軍するという〈禍〉《まが》の波濤。矛盾に満ちた〈被災者〉《かがいしゃ》が、円状に大地を抉り、〈均〉《なら》していく。  何だあれは、どうなっている。記憶にある空亡をこれは遥かに凌いでいるのだ。  かつて見た規模を千とするなら、これは億か兆の類。人の身である十や二十で太刀打ちできるものではない。無事でいられる可能性など三千世界の彼方まで消し飛んでいる。  それも当然、邪龍は未だ〈前震〉《よちょう》なのだ。  真価を発揮すべき時へ近づくほどに、満ちるほどに、音叉のごとくその震動は膨れ上がって増し続ける。  まだまだまだまだ、まだまだまだまだまだ……  そして今も、〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈至〉《 、》〈ら〉《 、》〈ず〉《 、》。  本震と比すれば数十分の一以下である〈地殻運動〉《マグニチュード》。唸りをあげる龍牙裂爪。極論、こんなものと出会う方が悪いのである。命運はもはや尽きた。後は死に方を選ぶだけ。  盲打ちの仕込みは誰にも覆せない大過をここにおびき寄せた。自らをも飲み込む結果を前にして、狩摩は依然、不敵に笑う。 「“神”とは“〈示〉《さいだん》”と天に伸びる“〈申〉《いなずま》”を掛けて生まれた神字よ。古来大和の民は、降りかかる超自然現象をこそ神威と畏れ、敬った。  黄龍、伏龍、地脈、龍神……来よるぞ、地を司る〈九頭龍〉《ミカヅチ》が」  具象化した災禍が進撃する。迫り来る滅亡に飲み込まれると、誰もが心の奥底に刻み込まれた、その中で── 「……栄光さん」  野枝の手を確かな温もりが握りしめた。  隣には、気づけば臆病な少年の姿がある。 「誓ったろ。もう逃げねえ」  奥歯を噛み締め、震える身体を懸命に押し殺して、栄光が静かに視線をよこしてきた。  瞳の奥には恐怖と勇気が灯っている。  きっとこの場の誰よりも戦うことに怯えながら、同時に強くそれをねじ伏せようと決意しているその眼差し。  今にも嘔吐しそうなほど怖いはずなのに……それでも崩れ落ちそうな身体を奮い立たせているのは、紛れもない決意の力だ。  強く、強く、かつてない純度で栄光は己が〈邯鄲〉《ユメ》を描く。  この場の誰より意気地なしで、戦うことに向いていない。そう自覚しているからこそ、常軌を逸した域で願い始める……ただ真摯に。  こんな自分よりも、遥かに大切な輝きのために。 「皆も、君も……オレが必ず守ってみせる」  願ったからこそ──それは天頂の琴線に触れてしまった。 「そうだ、おまえは間違ってなどいない。  俺がその意気、買ってやろう。心気示して柱となれよ。見せてくれ」  なにせ彼はそういう想いが大好きだ。  王道、成長、脱皮、覚醒、心が躍るぞ。胸に迫る。  そして〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈在〉《 、》〈ら〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》、空亡に終わりはない。  神もまた、男と同じく振り絞った弱者の勇こそ供物と好む。混じり気のない誠意こそが龍と人を唯一繋ぐ架け橋だから。  ここで必要なのは仁義八行、忠の心。 「〈荒御霊〉《あらみたま》を反転させろ、〈第七層〉《ハツォル》を抉じ開けるがいい」  そのために犠牲を払って、禍津を祓え。出し惜しみをすれば木っ端微塵の無為となるのみ。真価を見せろ、魅せてくれよと甘粕正彦は期待する。  彼は盧生。  夢を完全制覇した最初の盧生で、空前の盧生。  あまねく現世に光を持ち出した男が望むことはただ一つ。  さあ輝け。賛歌を謳え。俺はおまえたちが愛しくて愛しくて堪らない。  龍の咆哮が轟く中、普遍無意識の海すら揺るがす彼の高笑いが響き渡った。  英雄的な気質は自慰だ。脆く危うく、そして儚い。  そんな世知辛い現実だから、誰もが勇者を夢想する。  なぜなら、善悪問わず、ある種の美質に嵌っている者は魅力的だろうが不自由だから。  そしてそれは、すなわち負けに繋がりやすいということを再びこの一戦が証明していた。  ルール無視。誇りは持たない。恥知らず。他者から嘲罵され、石を投げられるような言動に何の抵抗も持たないこと。かつ、その非道にも拘らないこと。  それはすなわち、畜生の強さだろう。人としての道理を踏みにじるがゆえに凶悪であり、手に負えない。精神が常軌を逸していればいるほどに、その深度と比例して他者を害する猛毒と化す。  よってかつての敗北から改心するなどという殊勝な性根は持っていない。  彼は変わらず、徹頭徹尾、鬼畜である。  手の付けられない外道である。  ここにいたってあるがまま、聖十郎は逆十字を紡ぎあげていた。 「ははははは、はははははははははッ!  そうだ、いいぞ、俺を見ろ。好きなだけ仁でも義でも奮い立つがいい。勇敢だな、眩しいことだよ羨ましくてしかたがない──!」  かつて第五層で巻き起こった光景を繰り返しながら、大笑して父は息子を抉り獲っていく。  身体に記憶、次に情動。再び嵌まった協力強制は光と闇の等価交換を発生させて、四四八のすべてを吊し上げていくのだが……状況はいささか以前とは変化していた。それは聖十郎の対応にある。  この男は人として破綻しているものの、決して無知でも白痴でもない。むしろそこらの常人より並外れた知性と見識を備えている。  人情に共感することが出来ないだけで、あくまで理屈としてならば充分頭に入っているし、かつて仕損じた獲物に対し策を講じないほど愚者でもない。 「心は〈物体〉《モノ》ではない? 幾らでも湧き上がって来るものだと? ああ結構だ、好きにしろ。 おまえやアレがそういう奇特な〈生態〉《さが》を背負っていること、俺も重々理解した」  人の想いに、愛に負けた──ならばそれはそれで良し。  こいつらは記憶や精神を補填する術を持っている。つまり丈夫な〈珍種〉《イキモノ》であるらしい。  ゆえに当然、そこらの道具とは異なる対応が必要なのだ。兎を狩るのと虎を狩るのでは取るべき手法も違えば、道具や人員にも差は必然的に生まれてくる。 「ようは〈獲〉《 、》〈り〉《 、》〈方〉《 、》の問題だった。時間をかければかけた分、おまえ達は俺を煩わせようと立つのだろう? 飽きもせず、闇も病も解さずに」  それならば、こちらも初志を最優先するだけの話。 「迅速に、かつ最短で資格を奪えばよかったのだ」  〈他〉《 、》〈の〉《 、》〈部〉《 、》〈品〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈要〉《 、》〈ら〉《 、》〈ん〉《 、》と割り切って、聖十郎は略奪の侵攻速度をさらにさらにと加速させた。  そう、手足を取ろうが記憶を取ろうが何を取ろうが無駄なのだ。こいつらは何度でも立ち上がる気持ちの悪い〈被虐嗜好者〉《マゾヒスト》ども、顔を合わせることさえ害悪である。  無駄な口上にも付き合いきれんし、予期せぬ痛手を負わされると分かった以上、もはや毟り取った成果に対して一瞥すらしなかった。  こんなものはどれも総じて一時的な奪取に過ぎない。四四八は立つ、諦めない、〈い〉《 、》〈ず〉《 、》〈れ〉《 、》〈必〉《 、》〈ず〉《 、》〈奪〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈湧〉《 、》〈き〉《 、》〈上〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》。  ならそんなものはどうでもいいだろう。重要なのはあくまで盧生の権利、その一点だ。これを獲ってしまえれば連中がどれだけ再起しようと関係なく、勝負はそこで決まるのだから。  病んだ執着と共に、四四八の光を次から次へと抉り獲る。  まるで子供が砂場を無邪気に掘り返しているかのように、一心不乱な仕草で聖十郎は息子の〈構成物〉《カラダ》を掻き分けていた。  突き進め、進軍しろ、邪魔だ邪魔だ。他の〈輝き〉《どうぐ》に用はない。  求めるのはただ一点、照準を絞り込んだ急段の業はかつての数倍近い速度で一直線に手を伸ばしていた。それに抗おうとする四四八はしかし、憎悪の念をどうしても抑えられずにいるのだろう。苦悶に歪む顔が必死に出来もしない自己改革に勤しんでいると伝えていたが…… 「言ったはずだ。おまえは俺のためだけに生まれ、生かされていると」  無駄なこと、逆十字は最高にまで高まっていた。  どれだけ感情を自発的に抑え込もうと戒めようが、この磔は秘めた本音を感知する。深層意識で怒りを感じている限り逃れることは決してない。  剛蔵の娘も消えたことで、かつてのような不測の事態もこの場では起こらないだろう。何より自力でここを切り抜けられない惰弱な輩に、〈阿頼耶識〉《アラヤ》が応えるはずもなかった。  完璧な必殺の状況に対し、腹の底から歓喜の渦が滾ってくる。  そう、すべてはこの時のために── 「さあ、役目を果たせよ柊四四八──俺を救う〈救世主〉《イェホーシュア》!  おまえという祝福を得て、今こそ俺は盧生となるッ!」  第八層に傲岸な自賛の声が轟きわたる。  己を包む未来の光を夢想しながら、聖十郎は〈四四八〉《みつぎもの》の包装紙を乱雑に引き裂き続けた。 「がッ、ぐぅぅ……!?」 奪われていく。奪われていく。奪われていく──止め処なく。 手足や内臓のみならず感情や記憶にまで奴の魔手は達していた。以前とは違って段階を踏んだり、戦略的に削っていこうという感じはまったくない。一心不乱に俺のすべてを抉り獲っているのが分かる。 いや、もはや他の〈構成要素〉《パーツ》はどうでもよくなったんだろう。柊四四八の習得した力や夢、それを聖十郎は今や一顧だにしていない。 あくまで狙いは盧生の資格それ一点。他は要らない、どうでもいい。だから寄こせ今すぐ奪うと、欲望にぎらつく瞳が物語っていた。 だから以前のように精神的な復活で動揺させるのは不可能だったし、そもそもここで物理的に勝ったとしても事態は何も好転しない。〈俺〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈を〉《 、》〈斃〉《 、》〈す〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈の〉《 、》〈意〉《 、》〈味〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 なぜなら柊聖十郎を許さない限り、第八層は超えられないから。 それはまさしく、邯鄲の夢を制覇できないということを指している。 仮に奴を倒したとしよう。それで危機を脱したとしよう。ならば次にはいったい何が訪れる? 決まっている……普遍無意識の海は再び、聖十郎を目の前へと呼び出すだろう。それを見抜いているからこそ、この戦いが始まってから俺は一度も攻撃をしかけていなかった。 「変わるべきは自分自身だということ」 逆十字に吊るされるための条件、協力強制を打ち破ることこそが今求められている畜生からの脱却だった。 ゆえにこれは持久戦だ。奴が俺から盧生の資格を奪うのが先か、俺が奴へ対する拘りを乗り越えるのが先になるか…… 勝負はそこにかかっている。俺は今こそ、獣から〈人間〉《ヒト》へと生まれ変わらなければならない。 「考えろ、思考を止めるな」 柊四四八の武器は諦めの悪さと、地道に磨いてきたこの頭だ。 抵抗することなく不動で逆十字の脅威を受けながら、俺はかつてない域で思考回路を加速させていた。 「まず認めよう。俺は〈聖十郎〉《こいつ》が許せない」 自分ひとりの力では憎しみを捨てるなんて出来ないだろう。 だから不甲斐ない己の弱さを直視して、そこから俺が知っている皆の力を借り受ける。なぜなら一人じゃないことこそが、柊四四八の誇りゆえに。 「ならば誰が、この急段を打ち破れていた?」 逆十字の呪縛を振り切った人物……それを参考にすべく、俺は今も統合していく眷属の記憶へ潜航していく。 第五層において聖十郎自身が明かした急段に嵌まらないタイプは二種類。すなわちこいつの邪悪さを肯定している悪党か、人の道理を解さない空亡のような人外かだ。 前者に該当するのはおそらく神野。加えて甘粕も狂った美意識から逆十字には嵌らない。よってこれらを参考にするのは論外だ。自分がやるべきことではないし、やってはいけないと信じている。 そして、後者はさらに問題外。俺はあくまで人なんだ、龍になれるとは思えないし、そしてもちろんなりたくもない。 少なくとも奴が自ら提示した攻略条件は、どちらも自分と掛け離れた位置にあると言えるだろう。ならば── 「あの時、晶はどうだった?」 俺たち戦真館の中において、もっとも逆十字の効果が薄かったのはあいつだ。溢れんばかりの義心が、合意の条件から逃れることを成功していた。 傷つけた相手を憎むよりも、仲間を案じたり慈しみたいという癒しの心が勝っていたんだ。 それに助けられたことで確かに一度、奴を斃すことには成功したが、今回はそれと事情が違う。あくまで独力で超えなければいけない、そういう問題にぶち当たっている。 他者を愛することで矛先を逸らすのではなく、あくまで柊聖十郎自身と向き合いながら悪感情を抱かない人間。 ありのままにこいつを愛することができた人物。まず思いつくのは〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》しかない。 「母さん……」 あなたはどうだったんですか? この手が付けられないろくでなしに、いったい何を感じていたのか。どうか俺に教えてほしい。 ただそこにいるだけで、すべてを不安にさせる人……それが分かっていながら奴を愛した心の源泉はいったいどこから来ていたんだ? あの幸福な〈百年後〉《げんじつ》は俺たちの描いた夢で、あそこの母さんは聖十郎に奪われた“愛情”の具現だったと理解しているけれど、それを獲られたということは現実の柊恵理子も奴を愛していたんだと証明している。 何より、現実世界での柊聖十郎は重篤患者なんだ。しかも瀕死寸前に衰弱していたのは言うまでもなく、自明のこと。 俺を産めと言われても、健常者である母さんはその気になれば容易に逃げられたはずなんだ。なのにその申し出を受けたのはどういうわけか…… 考えて、考えて、思いつく限りの理由はこれしかない。 母さんは聖十郎に教えたかったんだよな、心は〈物体〉《モノ》じゃないってことを。 誰かを愛して慈しむ、信じて、寄り添い生きていく。 そんな当たり前のことをあいつにも教えてやりたかった。そうなんだろう? そのために──ああ、そうか。 「だから俺は〈邯鄲〉《ここ》にいるんだ」 母さんに託されたから、それを伝えてほしいと見送られて聖十郎との邂逅を果たしたんだ。俺に奴との血縁を打ち切ってくれだなんて、望んだからじゃ断じてない。 柊四四八は常に母の愛を感じながら生きてきた。あの人はずっと、現実で俺の帰還を信じてくれている。 それを肯定するかのように、異なる記憶が俺の脳裏へ飛び込んだ。 熱い友情の拳を叩き込んだ真っ直ぐな気持ちが、胸の奥に広がっていく。 「剛蔵さん……」 男同士の無骨な喧嘩。一世一代、遅くなった友誼の告白。 密かに俺の眷属として夢に入ってきた剛蔵さんは、驚くことに真っ向から聖十郎の逆十字を打ち破っていた。清爽なその想いに思わず頬が緩んでしまう。 「はは、やっぱりすごいな。あの人は」 憎しみなんて欠片もなかった。あるのはただ、親友を案じる気持ちだけ。 溢れ出す死病の闇を知った上で友情は微塵も揺るがない。正確な決着こそつかなかったが、あれは紛れもなく剛蔵さんの勝利だろう。そこには澄み渡る感情だけが広がって清らかな祈りに満ちている。 俺も男だ。それに奮える。尊敬します。だから今はあなたの見せた勇気に倣おう。 取るべき道はこれで決まった。穴だらけの肉体を鎮めながら、俺はゆっくりと意を決していく。 「そうだ。許す、許さないじゃなかった」 重要なのは何をもって報いたいと思えるか。 聖十郎との繋がりを単に呪いと見なすのではなく、遠ざけようとするでもなく。思考を放棄して投げやりに肯定するというのではもっとない。 我も人、彼も人。ゆえ対等、だからこそ── 「心から伝えたいと思えることを、俺自身が見つけなくてはならないんだ」 仁義八行──ここで必要なのは、孝の心。 母の愛と先人への敬意を胸に、俺は奴へと近づいていく。 「馬鹿が、自殺志願か? 殊勝な心がけではないか」 「ようやくおまえも、自分の存在を自覚してきたと見える。さあ、差し出せ」 「くっ──」 腹部と共に先ほど抱いた決意の何割かが奪われた。それを再び湧きあがらせながら、それでもじりじりと奴へ向けて歩を進める。 逆さの磔は聖十郎の背後で猛威を振るい、消える兆候は微塵もなかった。一歩踏み出すごとに自分を獲られていく感覚は依然健在。すなわち俺は、まだわだかまりを捨てきれずにいるということ。 けれど、そこに対する焦りは消えた。怒りや憎しみを抱いてはいるけれど、そこから目を逸らすことはもうしない。 まだ俺はこの男を許せない……その気持ちを受け止めた上で、考の心に至るべく努力する。 今までずっとそうしてきたんだ。だから今回も、そして続くこれからも。 背を伸ばして誰に恥じることなく生きていくと、誓った刹那。 「なに?」 「これは──」 俺と聖十郎の間に、突如として霧が立ちこみ始めた。 視界を塞ぐ濃霧は一寸先すら見通せないほど濃く、深い。どこからともなく現れた白色のカーテンは凄まじい速さで広がっていき、すぐに俺たちの姿を覆い尽くした。 そして……なぜだろうか、この霧の正体が誰に諭されることなく分かったのだ。 憎悪、憤怒、逡巡、恐怖。つまりは可視化された〈悪〉《 、》〈感〉《 、》〈情〉《 、》。 柊聖十郎を見ることで溢れだした感情の具現が、二人の間に真実を隔てる目隠しとして機能していた。 ああ、俺はこんなにもあいつのことを憎んでいたのか。 見たくない、消えてしまえと、心の内に深く溜め込んでいたのか。相手の影さえ見えなくなってしまうほどに。 その事実を情けないと今は素直に思えている。ほんの少しかもしれないが、この足は前に向かって進めている気がした。 「小賢しい、これで結界のつもりか間抜け。どれだけ視界を塞ごうとも貴様は俺の手の内だ」 「一度嵌まれば逆十字から逃れることは誰にもできん。距離も人数も関係ないわッ!」 ……対して奴はこの霧が何なのか分かっていないし、それを理解しようともしていないまま俺の身体を略奪していく。 聖十郎の資質を考えれば正体ぐらい容易く看破できるはずなのに、なぜかそれが出来ていなかったのは、つまりそういうことなのだろう。 あいつは柊四四八のことを、盧生の資格以外は心底どうでもいいと思っている。だから霧が何なのか見抜くことが出来ずにいるんだ。 そこに一抹の寂しさを覚えながら、静かに足を動かしていく。ただ前へと。 一歩、一歩、霧の中を掻き分けて、柊聖十郎という男に何を伝えるか掴むために、あいつの元へと歩み続ける。  略奪を続ける逆十字、骨まで食らいついた鮫の如く急段の牙は依然として四四八の輝きを切開していく。  閉じた視界。濃霧の攪乱。それがどうした、憎悪の絆を侮るな。  聖十郎と四四八が築いた怨念という愛しい鎖は、そんなことで砕けない。  なるほど、確かにこの霧は中々の性能を有していると認めよう。第八層に充満するほどの規模と濃度に、彼我の位置を完全に隠蔽した能力はかなりの格と言えるもの。  柊聖十郎をもってしても、解法を用いようが、目を限界まで凝らそうとも一寸先すら見通せず、さらに音さえ四方八方、訳の分からぬ方角へと乱反射を引き起こしていた。四四八がどこにいるのかさえ皆目見当つかずにいる。  互いの距離や方角が漠然として掴み切れない。  気配。情動。能力の発露に存在感。あらゆるものが隠されていて判然つかぬ状態だが…… 「選択を誤ったな」  無駄なこと。獲物は完全に発する力を間違えていた。  なぜなら先ほど語った通り、自身の誇る急段は当てる避けるというものではない。両者の間で〈意識〉《ユメ》の〈矛先〉《ベクトル》が一致すれば他の条件は完全無視。  どこにいようと問題なく己は光を奪い取れるのだ。  ひとたび嵌まれば必中不可避。  射程距離、補足人数は彼方へ消し飛ぶ。  極論、柊聖十郎を前に一億人が存在して全員彼を憎んだならば、そのすべてを逆十字は絡めとって吊り上げる。焦点はただ一つ、悪心を振り切れるかにかかっているし、それを持つ限り逃さない。  俺を憎め、憎悪しろ。鬼畜外道を許せぬと凡百のように怒り狂え。  貴様ら正義が好きなのだろう? 非道を嫌うというのだろう? ならばいいぞ、そうしていろ。俺はお前が羨ましい。  病みさらばえた術者が邪悪な祈りを捧げる限り、あらゆる光は男に捧げられる生贄の供物。ゆえに四四八は脱出不能だった。  何より聖十郎の邯鄲はこの時のためだけに芽生えたような代物であり、精神性も完全に狩る側のものとして完成している。  正義とは守りたいという願いであり基本守勢に向いているのは言うまでもなく、対して悪はその反対だ。  奪う、喰らう、蹂躙する。すなわち攻勢、侵略者。  財宝を狙う山賊のように野蛮で愚劣で、ゆえに醜く、恐ろしい。  今一時にかける執念は極めて聖十郎の方が圧倒的に重いものであり、かつての経験も後押しして傲慢ながらも油断はなかった。それを差し引いてもこうして嘲り笑うのは、生来の気質に加えてあまりに四四八が的外れの手段をとったからである。  一度その脅威を味わいながら土壇場で取った対抗策が、こんなもの。  これが盧生というのなら分不相応に過ぎるというもの。ああやはり、その間違いは正さなければならない。  ほうら、ゆえにもうすぐ。あと少し。  他の美点に目移りなどするものか、盧生になる。盧生になるのだ。 「道具は、持ち主の役に立ってこそ道具なのだ。狂い喜び乱れて舞えよ、おまえにとって生まれた意味がようやく成る」  よってその観点から見れば、自分にとって四四八は未だ生まれてすらいないものだ。  恵理子の腹に籠もっている胎児に等しい、何の役にも立っていない。 「俺の再誕を祝うことで〈生命〉《モノ》として完成しろよ」  流れる血の尊さをここで示せ。柊聖十郎の血を継いだ器なら価値を示してみせるがいい、と。  人権を一切認めない外道の言葉へ、対する四四八はなぜか静かに。 「そうか──」  そして深く、噛み締めるように。 「俺はまだ、〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈役〉《 、》〈に〉《 、》〈立〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈な〉《 、》。  他ならぬ俺自身が、それを頑なに考えようとしなかったから。  断ち切ろうということばかり、願い続けてしまったから」  続けた言葉に一瞬、不吉な〈誰〉《 、》〈か〉《 、》を連想したが、構うものか鬱陶しい。 「そうだ、おまえの存在はそのためにある。しかもこうして蓋を開ければ、最良の結末を捧げてくれたな。  〈第八層〉《ここ》までくればあと僅かだ。完成目前、現実までは目と鼻の先、そして俺に超えられぬはずがない。  〈四四八〉《イェホーシュア》は救世主として完成する。なあ、嬉しいだろう? これがおまえの好きな仁義八行、他者の役に立つということだ」  言い放ち、嗅ぎつけた憎しみを逆十字が抉り獲っていく。  四四八が何処にいるのかは分からないし、見えもしないが発動したのは間違いなかった。  適当な方角を向いてさらに言葉を続ける。より深みへ嵌まらせるために。 「この世の何より価値のある俺を救うことができるのだから、誇りに思って散るがいい」 「……分かっていたつもりだが、最低だな。おまえ」  それは最高の褒め言葉だ。鬼畜であると言うがいい、その称号こそが柊聖十郎を常勝無敗に形作っていく。 「ならば他にはないのか? 俺の持ち物で、あんたが欲しがっているものは」 「不要だ」  どこへともなく歩を進めながらそう断じた。  霧の中にいるだろう四四八へ向けて、見下すような視線を向ける。 「情も記憶も、他の諸々、総じて要らん。  どれだけ獲ろうがまるで雨後の〈筍〉《たけのこ》のように……次から次へと邪魔臭いのだ。煩わせるな。おまえの価値は一つしかない」 「あくまで物言わぬ道具として?」 「そう、俺に本来あるべきものを内包する因子として。  間違いを正すためにわざわざ〈創〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》のだ」  柊聖十郎が息子に感じるものはそれがすべて。  四四八の積み重ねた人生はいわばこの時までの猶予期間に過ぎず、これまで放し飼いにして自由を満喫させてやった自分はなんと甘く、理解のある人間なのだろうと本気で、心底そう思っている。  誰に恥じ入ることもない屑、畜生。  呪いは子に深く絡みつき今も離さないが、しかし。 「……そうだな。確かに」  先ほどから何か噛み合っていないような──この齟齬はいったいなんだ? 「おまえがいなければ俺はこの夢へ入ることもなかった。いいや、生まれることもできなかったんだ。それはすなわち、仲間や母さんに出会えなかったということで。  そこを嘘にはしたくない。俺はあいつらのことが大好きだ。共に生きたい、信じている、その誓いを必ず果たそう。再び朝に帰るんだ。  ああ、こんな誇らしい気持ちだって、あんたがこの世にいなければ……母さんと出会わなければ。  俺は俺にさえなれなかったはずだから」  何事かを囀りながら四四八は歩を止めてはいない。どこをどう進んでいるのかまったく定かではないが、亡者のように今も前進を続けているらしい。  歩を重ねる音が近くで遠くで耳元で、万華鏡のように反射しながら届いているから互いの位置を悟れない。だから現状わかるのは、こちらに向かって歩みを止めない奇妙な不屈の決意だけ。  そこに聖十郎はどうしてか忌避感を抱いている、気持ち悪いと思うのだ。  この澄んだ湖面を連想させる静謐さ。  そして同時に、こちらの罵倒を受け止めながら都合よく勘違いをしているような〈お〉《 、》〈め〉《 、》〈で〉《 、》〈た〉《 、》〈さ〉《 、》。  新星の輝きに似たそれを自分はよく知っていて、なのに思い出そうとするのを心の奥で拒否している。  誰だ、〈誰〉《 、》〈か〉《 、》に似ているぞ、穢らわしい。  さらに変化はそれだけに留まらなかった。 「何だ、この風は──」  緩慢だった霧の動きが徐々に螺旋の軌道を描きだした。それは何かを契機に、一点へ向けて収束しようという動きだ。世界を覆い尽くす欺瞞のヴェールが今しめやかに払われていく。 「だから──それを今こそ認めよう。  ようやく分かったんだ、俺にとっての〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》が。〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》を聞いてくれ!」  渦巻く〈旋風〉《つむじかぜ》の中で業と轟く、決意の咆哮。  畜生が得た悟りの叫びが、〈第八層〉《アラヤ》に真実の光景を取り戻す。 「な──ッ!」  瞬間、眼前には互いの姿が存在していた。手を伸ばせば容易に触れ得てしまうほど二人は近く、目の前にいて。  それでありながら、四四八を見ようともせず戦っていた事実を聖十郎はついぞ解さず、真摯な瞳と視線が合った。  迷い。逡巡。我が心には微塵もなし──  これから放つことが自分の得た答えだと、柊四四八はこの刹那に清廉な祈りを籠めて言葉に変えた。 「────〈親〉《 、》〈父〉《 、》。 俺は、あんたの息子だったよ」 生まれてきたんだ。ここにいるんだ。あんたのおかげだ──〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈が〉《 、》〈と〉《 、》〈う〉《 、》。 鬼畜でも外道でもろくでなしでも、すべて自分のためであったとしても、柊聖十郎がいたからこそ俺はこんなに素晴らしい人生を得ることができたんだって、感謝したから。 伝えた想いに呼応して晴らした霧が雫となった。集う、集う、破魔の水気……孝の心が〈苦悩〉《やみ》を祓う! 「抜けば玉散る氷の刃」 「破段、顕象──」 「〈犬塚信乃〉《いぬづかしの》──〈戍孝〉《もりたか》!」 瞬間、炸裂した一撃が聖十郎ごと逆十字の協力強制を消し飛ばした。繋がれた憎悪の絆が音を立てて崩壊し、急段の条件を無効化するのに成功する。 考とはすなわち報いたいと願う心……親や先達が与えてくれた幸せを自覚して、その愛に感謝して、見合った恩を返したいという感情は喜びの輪を繋げていくという精神だ。 それが生んだ力とは、言うに及ばず破魔の祈り。この破段は自他を蝕む精神的な病や穢れ、両者を苛む悪循環を断ち切るという心の力を宿している。さながらそれは八犬伝の村雨丸をなぞるが如く。 いや、きっとこれは卵と鶏、どちらが先か問いかけるのと同じだろう。 闇に堕ちない心の境地へ至ったからこそ、魔の誘惑を打ち払う〈邯鄲〉《チカラ》に目覚めた。そしてその〈邯鄲〉《チカラ》を用いるためには、それに相応しい明鏡止水へ至っていなくば不可能だという因果関係により成り立っている。 想いゆえの力と、力により生まれる想い。まさしくそれは好循環。仁義八行それぞれを円環のように高め合わせていく。 いま得た答えを忘れない限り、もはや俺が憎悪に呑まれることはないんだ。 ありがとう、母さん。ありがとう、剛蔵さん。 そして、あともう一人。 「馬鹿なッ……ありえん、何故だ! 貴様いったい何をした!」 この馬鹿親父にも、ちゃんと感謝を伝えてやらないとな。 どうしようもない男ではあるけれど、血の繋がりがある以上それは息子である俺の役目だ。その事実を認めているからちゃんと答えを言葉にしたい。 「俺は結局のところ、あんたのことを父親だって認めていなかったよ」 「前に戦った時もそうだったろ。おまえなんて大したことない、母さんから継いだ血があったから俺は盧生に生まれたんだと言ったけど。あれは結局のところ自分がそう思いたかっただけなんだな」 「〈柊〉《 、》〈聖〉《 、》〈十〉《 、》〈郎〉《 、》〈の〉《 、》〈血〉《 、》〈は〉《 、》〈濁〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。だから嫌だ、否定したい。つまり与えてくれた愛情にばかり逃げていたんだよ」 いつまでも母親の乳を吸う子供と同じ、まったくこれじゃあマザコン呼ばわりされて当然だ。 母さんのおかげで、母さんの愛で、母さんが、母さんだから、俺はあの人の息子だから──父親の穢れた血なんて容認してはいけなくて。 そして実際、この男は手の付けられない最低の人間だったものだから、俺に継承されたあらゆる要素を否定した。冷静になろうと努める感情も冷徹さの裏返しじゃないかって、悩んだし惑った。 遠ざけたかった。消したかった。 「あんたとの繋がりを無かったことにしたかった……」 「生きるという幸福を俺に与えてくれた人の中に、あんたも入っているはずなのに」 それが傲慢なことだって、聖十郎自身と何も変わりがないことだとようやく気付いて、恥を感じた。 「馬鹿だよな。自分の由来を否定してさ。まだ生まれてもいないと言われてもその通りで、ぐうの音も出そうにない」 「だから認めるよ。俺が盧生になれたのは、柊恵理子が母親だったからだけじゃない」 「俺の父親が柊聖十郎だったから、二人の息子だったから、こうして真っ直ぐに生きるために必要な力が宿ったと」 「思っているし、信じている。この血統が今は誇りだ」 「………………」 かつて柊聖十郎から継いだものなどなかったと、人格から才能まで否定してしまった事実を謝罪する。これが慰めになるかは分からないが、息子という形でもおまえは盧生の夢に手が届いていた。 なんだかんだ俺を生んでくれたことについては、母さん同様感謝している。 「だが勘違いするなよ。あんたから得た教訓なんて、それこそヤバめのものばかりなんだからな」 「少し文句を言わせてもらうなら、母さんの十分の一は親をやってほしかったくらいだ」 そしてこれもまた、釘を刺しておかなければならないこと。聖十郎の存在を認めているからきっちり苦言を呈しておくべきだろう。 家族なんだから容赦はしないし、言いたいことはそれこそ最後まで言わせてもらう。これ以上ろくでもない人間になられても困るのだから、甘やかしたりせず締める部分は締めておくべきだ。 それを踏まえた上で、結論は一つ。 「俺はあんたを盧生にするわけにはいかない。生きることへの飢餓を理解した上で、この権利を与えてはならないと確信している」 「これ以上、誰かに迷惑をかけてほしくないんだよ」 いい歳した親が馬鹿なことをしていると悲しいし、止めようと思うのが当たり前だろう。家族なんだ。ごく普通の感情としてそう思う。 「まあ、分かりにくかったかもしれないけれど、これが俺流のあんたの役に立つってことかな」 「息子の名にかけてもう余計な罪を重ねさせやしないと言ってるんだよ、この馬鹿親父」 だから覚悟しろよ、現実に帰ったら俺と母さんと剛蔵さんで、きっちりあんたを矯正してやるんだからな。 知っての通り俺たちはしつこいぞ。おまえが地獄の底に逃げようが、必ず引っ張り上げてその根性を叩き直してやると知れ。 俺は本気だ。そう思っているし、そのための努力を欠かすつもりはない。そしてそういう感情は目の前にいる相手にもよく伝わるもので、聖十郎もはっきりと感じ取ったのだろう。 「何だそれは、気味の悪い。まるで剛蔵のようなことを──」 気圧されたのか、光を恐れる亡者のように、足を背後へずらせていた。先ほどまでとはまったく逆に、こいつのほうが俺を鬼門だと捉え始めているようだ。 ここで討とうと思えばできるだろうが、それをするつもりはない。 この問題は、家族として、もっと相応しい人が決定権を持っているんだ。 「だからその上で、ケリをつけるのは俺じゃない」 「母さんが待ってるぞ」 後は柊聖十郎をもっとも愛しているあの人に任せよう。俺から伝えることはこれで終わったから、せめて微笑みながら見送ることにした。 初めて自分の血統に誇りを持ったこと、忘れない。忘れない。ゆえにもう俺は畜生じゃないんだ。 これは人間にしか持ち得ない心だから。仁義八行、それを胸に生きていく。 「如是畜生発菩提心――ありがとう親父。あんたのおかげで俺はやっと〈人間〉《ヒト》になれたよ」 「ふざけるなァァァァァァァァァアアッ──!!」 清々しく告げた瞬間、聖十郎の身体が第八層から排斥されていく。 地を掻き毟るようにしがみ付き、恥も外聞もなく血走った目で獣のように叫喚している。地獄へ連れ戻される亡者のような姿は、俺にとっては試練の終わりと、親父にとっては野望が破綻したのを証明していた。 「憎め、憎め、俺を恨めよ憎悪しろッ! いいや逃がさん、おまえは俺の道具であろうが! 羨ましいと言っているのだ!」 「〈売女〉《ばいた》との混ざりものが……貴様は畜生ですらないわ! 〈物体〉《モノ》にすらなれんか塵がァッ」 「何も捧げず、認めん認めん、このような結果など……ッ」 「寄こせ、寄こせ、寄こせ寄こせ寄こせ寄こせ寄こせ寄こせ──」 「が、アアアアアアアァァァ──ッ!」 ……そして。 風に漂白されるかのように、夢の彼方へと消えていった。 おそらく一足先に現実へ帰ったのだろう。奪われた肉体や記憶はそれを機に復調し、身体に埋め込まれていた死病は最初からなかったようにその存在を喪失していた。 振り向けばそこにアラヤがいて、柔らかい念と共にささやかな拍手を送っている。 「おめでとう、柊四四八。君こそ盧生だ。私を受け入れるに足る強靭な魂を持っている」 統合はこれで終わり、流れ込む情報の奔流も途絶えている。そして密度はゆるぎなく。 まるで根を張る大樹のように、自分の精神が生まれ変わったような感覚がしていた。心に備わった一本の巨大な線、それは自分の生涯をそのまま十全に受け止められたことの証だろう。 生まれて、託されて、育んで、伝えて……そしてありのまま生を尊んで歩んでいくこと。それが素晴らしいことなのだと素直に感じることができる。 そう、無意識の集合体を理解することはきっとこれのことなんだ。自分と他人と、そして世界。すべての繋がりを知った上でそこに感謝して生きる。それが俺の感じたアラヤの意味。 邯鄲の夢が見せてくれた、人の描く可能性なんだ。 「君はそこに調和を見出し、甘粕は混沌を祈った。同じく私に触れたはずながら得た答えはこれほどまでに違っている」 「どちらが真実の〈夢〉《ミライ》となるか。健闘を祈っているよ」 「ああ、見届けてくれ」 いつ何時も恥じない自分であってみせるさ。奴の望む〈楽園〉《ぱらいぞ》なんかに、俺たちが奉じた戦の真は負けやしない。 「ではもう一つ、最後の仕上げだ」 「今も迷っている最後の〈眷族〉《なかま》に、信を示してあげるといい」 最後にそっと、アラヤは閉じた本を開くような所作を行った。 光に包まれた次の瞬間、純白の中から景色が色彩を浮かび上がらせて── 「……ここは、なるほど」 見慣れた風景と空気を見て、瞬時にここへたどり着いた意図を悟った。そして今から自分が成さねばならないことも。 この先に誰が待っているのか、何を悩み続けているのかがよく分かった。それは盧生だからでも、まして八層を超えたからでも何でもなく、あくまで一人の人間としてこの戦真館が誰の描く〈未練〉《ユメ》であるか理解したのだ。 今も〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》は悩んでいると分かったから、それを晴らして現実へと帰るために行くとしよう。 だから……なあ、任せろよ世良信明。君の夢は俺が継ぐ。 伝えたいことがあったんだろう? そのために強くなりたかったということ、その感情は間違っていない。 同じ男に生まれた身として、おまえの願いを今から形にしてやるさ。必ずこの手で最後の仲間を引っ張り上げると、この一瞬に誓ってみせる。 君たち姉弟を囚われた闇から解放しよう、そのために。 「待たせたな、世良」 まずはこいつに信の心を取り戻させてみせる。 夜気に包まれた教室の中、世良は物静かに微笑しながら俺のことを待っていた。 透明感を増した雰囲気は幽霊か幻のように儚く、それでいて月明かりに踊る妖精を連想させた。見目麗しく同時に妖しい。引き込まれそうなほどの綺麗な笑み。 それはまさにこの世のものでは醸し出せない美しさだ。地に足がついておらず、絶えず宙を浮いているから神秘的で胸に迫る。つまり幻想、現実的な要素を今の世良は持っていない。 弟の思い描いた強く優しく美しい〈女性〉《あね》のように微笑みながら、唇からそっと言葉を紡ぐ。 「ねえ──私は柊くんのことが好き」 あの時見た夢の続きが如く、告白を口にする。てらいなく、淀みもなく。 「柊くんの方はどうなの? 私、やっぱり面倒くさいかな」 純粋な感情は不純物のない真水のように澄んでいて、底を見通せるがゆえに他の想いが排されていた。 ああ確かに、今の世良は信じているだろう。一滴の濁りもなく自分のトラウマがすべてだと無意識のうちに確信して視野狭窄に陥っている。他のものには目が向かず自己完結という停滞に陥っていた。 だから── 「今の世良には答えられないな」 俺がやらなければならないのは〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》なんだ。 「……どうして?」 そんなこと、問うまでもなく。 「だっておまえ、俺を信じていないだろう」 その目に映る人間は柊四四八じゃない。 俺は、そして世の男たちは、〈信明〉《おとうと》と同じじゃないんだよ。 返答に対して傷ついている世良の目を見つめながら、ゆっくりと近づいていく。 「そんなことない、ずっと信じているもの。柊くんは強いんだって」 「ごめん……また私のことだから、きっと知らないうちに変なことしちゃってたんだよね? 謝るから、どうか信じて。何も嘘なんて言ってない」 「私は本当に柊くんのことが──」 「だから、そういうことじゃないんだ」 今も続く勘違いに対し、首を振りながら代わりに一言。 「抜け」 「え?」 言い放ち、武装を創り、見せつけるように構えをとった。 もはや正すことが出来るのは、言葉という生温い手段じゃない。重度の精神的外傷は今も血を流す裂傷で、ゆえにどれだけ言い募っても改善しないというほどに惨い傷痕を晒している。 そこから逃げてきたことを臆病だと言わないし、気概がないと責める資格は他人である俺にはない。だがそれを言い訳にこいつの歪みを放置しておくこと、それこそ看過しがたいと思うから。 惑っている世良へ研ぎ澄ました闘志をぶつける。さあスパルタだ、耐えてみろ。 「構えないならこちらから行くぞ」 そして一足──躊躇なく振り落ろした一撃を前に、こいつは。 「────ッ!?」 当然、それを受け止める。真っ向から、咄嗟に苦もなく、軽々と。 一瞬の早業で得物を生み出し、なおかつ防御まで漕ぎつけた体捌きは見事という他ないだろう。今までならすごいで済ませていただろう動きだが、真実を知った後では単なる手抜きの醜態だ。 こうして全力を見せているという姿勢さえ、どうしようもなく鼻につく。 「な、なんで……」 「それを分からせるためにだよ」 自覚しろって、おまえこんなものじゃないだろう? へっぴり腰で精一杯だという演出なんかするなよ。彼もおまえを信じていたし、俺もそう信じているのに、自分自身である世良水希だけが頑なに目を逸らし続けている。 そんなのあまりに悲しいじゃないか。 「世良、本気を出せ。それは俺が死なないと駄目なのか?」 「おまえを見て、信じている人間がいなくならなければ力を出せないといつまで言うんだ。孤独になって、涙して、発狂しないと八つ当たりさえ出来ないだって?」 「俺が役者として不足としているから。全力を出すと壊れてしまいそうだとでも? なるほど、侮られたものだな」 流石に俺もカチンときたぞ。いいか、よく聞け。 「俺は〈誰〉《 、》〈か〉《 、》のように、これで壊れてしまうほど柔な身体に生まれちゃいない」 「だから男を、俺を、いつまでも甘く見るんじゃない!」 叫びながら怒涛の攻撃に打って出るそれを、世良は紙一重でいなし続ける。まさに防戦一方だ……ああ、なんとも白々しい。 そして同時に頷ける。混乱して真っ当な精神状態では決してないのに、手を抜かず攻めている俺からまだ一撃も喰らっていないのだ。それはつまり、生得的な素質に関して最高峰に位置するものを備えていることに他ならない。 アラヤが語った通り、これは確かにずば抜けた才能だ。戦真館随一の天稟を持つド級の天才、そしてそれに見合わない傷だらけの小さな心。 鋭く刃を振るいながら、今も童女のように泣いている。 心技体があまりにアンバランスで、欠片も統制がとれていないのだ。 「そんなこと、一度だって思ってないッ」 だから捻りもなく否定して泣き叫ぶ。 追い込まれているように見せて、いかにも手一杯に見せかけて、降参だと白旗をこれ見よがしに振っている……なぜなら自分は女だから。 「柊くんは男の子だもの。あなたの方が強くて、すごくて、かっこよくて、それは当たり前じゃない。だから訳が分からない」 「何に怒っているのか教えて。お願い、やめて……戦うなんて出来ないから」 「だって──」 「私は女だから、男の人より弱いもの」  ゆえに私が本気を出してしまえば〈柊〉《 、》〈く〉《 、》〈ん〉《 、》〈が〉《 、》〈狂〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。  男の人が強さにかける思いは狂気だから。  女の私ではどうしたって、その飢餓の深さを分かってあげることができないから。  かつて神野は自分に語った。遠からず世から男性的な役割は消滅してしまうだろう、と。  文明が進み、社会が成熟し、分かりやすい野蛮さは唾棄すべきものとして廃れていく。  法や人権意識が常識的に定着すれば、たとえ他者を面と向かって罵倒しても、殴られるということにさえ思い至らぬ奇形が跋扈し始めるはずだ。  それは堕落。紛れもない魂の劣化。  たとえ善や正義で敷き詰められた道であろうと、地獄に通じることがある。  暴力が縁遠い世界になれば、男の男らしさなど紙細工にも劣る形骸と化すだろう。元来、男の程度などそんなものだ。そして彼らは放り出す。  戦わねばならないという性の重圧を投げ捨てて、ただ安穏と愛でればいい。  女々しく弱体化する奇形の自分を正当化し、母乳の中毒になりながらどこまでも堕ちていくのだ。  そして勇気は一種の幻想となり、幻想であるがゆえに愛でる対象として女にでも背負わせればよい。  戦の真を忘れ去って。  そしてその片棒を、自分が担いでしまうと語り――挙句それを否定できず。 「強い女なんて、本当はこの世のどこにもいやしないのよ」  そう言わなければならない。だって遠からず、自分のような女にも需要が生まれる世の中になると言われたし、実際見た。〈邯鄲〉《ユメ》の中で。  自慢げに謳われる平等は性の区別すら否定し始め、男たちを去勢していく。  堕落した奇形の群れは自由と権利を奉じるあまり、やがて男性自身に生まれた意味を根こそぎ伐採してしまうのだ。  それを素晴らしいと言うのなら、逆に私はこう問いたい。  そんなものが跋扈する世の中で、男や女に生まれた需要と意義はいったいどこにあるのだろう、と。  中性的な〈身売り〉《ホスト》や〈お人形〉《アイドル》が求められる風潮になり、相手が自分より優れていれば躊躇なく女に向かい尻を振る恥知らずが二十一世紀でも増えていた。  人権、平和。〈彼〉《よそ》は〈彼〉《よそ》で、〈自分〉《うち》は〈自分〉《うち》。十人十色の名の下に、楽へと流れて男の意地は色褪せていく。  畑に苗木を貸し出すように、有事の際だけ絞り取られる雄の〈遺伝子〉《スペルマ》。  女が戦い、女が強く、女が導き、女が女が強いから……男の行き場を蹂躙していき、そして男はそれに不満を覚えず屈辱にさえ震えて喜ぶどうしようもない〈犬〉《マゾ》と化すのだ。  そんな未来が身を切るような冒涜であると水希にもよく理解できる。  弱さを恥に思い腹を切る以上の悪徳だ。  嫌だ。嫌だ。そんな奇形を自分は生み出したくはない。  だから── 「私は弱い、弱いから、変なことを言わないで」  せめて男児たらんとする気概を有する人の前では、それを見せてはならないのよ。 「女に戦いで負けて、平気でいられる男の人なんていないじゃない。だから柊くんには敵わない」  その努力を知っているから、勝ってしまうかもしれない可能性だって一縷もも見せてはならないんだ。 「それにそもそも、同じ土俵に立たれることすら嫌がるくせに」  女性参政権とか実現されようとしているけど、本当はそんなもの、男の人は喜んでなんかいないんでしょう?  迷惑でしょ? 邪魔でしょう? 女は黙って洗濯でもして、政治の場になど関わるなって心の底では思っているくせに。  そしてそんな男の人を、これが男の意地なんだって私は認めてるんだから。 「滅茶苦茶なこと言わないで。どうして、柊くん怒っているのよ」  あなたは男、強い人。だからそのお株を奪いたいとは思わない。  だから自分は前に出ない。間違ってない。  これでいいんだと、思っているのに── 「言いたいことはそんなものか?」  彼はそれを否定する。自分は男であるという自負を持っている、この人は。  雄々しい瞳が私の雌性をこれでもかと疼かせる。  間違っているのはおまえの方だと、強い視線で射抜くのだ。 「ああ、確かに面白くはないさ。女は面倒くさいと世間は言うけど、男もどうして、かなり面倒くさい生き物だ。野心とプライドの奴隷だとも。  神野の言葉に共感するのは不服だが、そこは断じて間違っていない。俺たち男は女性に戦いを任せることをひどく不格好に感じてしまうし、まして自分より強いとなれば心穏やかじゃいられない。  それも百年後には捻れていくのかもしれないが、少なくとも俺はあの時代を知った上でこの気持ちに揺るぎはない」 「男女平等。能力、才能、効率効率……自分はその力を持っていないから。そういう風に生まれてないから。  性別など関係ないと平等を口にして、強い女を矢面に立たせようとする輩。そのことを恥とも何とも思わない世の風潮。そこには俺も腹立たしいものを感じているよ。恐怖さえ覚えている。  強くなければ男じゃない。いいや、仮に弱かろうとも、大事なのはそこに恥を覚えるか否か。気概の有無。覚悟のほどだ。  ああ、実に小賢しい。確率や方法論を唱える男にいったい何が成せるという。重要なのはまずそれを譲れないという憤り」  その拘りを持たない男は語るまでもなく屑だろう、と。  彼はそう付け足し続ける。 「そんな奴らはもう男じゃない。男に生まれた資格がない」  ええ、私もそう思う。  女性に守られて、それを恥とも思わず当然のことだと感じる男。  彼女の方が優れているから、才能と心の強さに満ちているから、そうする方が効率的だし差別をしない平等精神に溢れていると、何も恥じることなく女の影に隠れた上で綺麗だ女神だと仰がれても……そんな男には何も感じない。  まるでペットだ。男どころか人間として見れるかどうか甚だ怪しい。  フィクションのように、そんな情けない男に恋心を抱くなんてありえない。  誰がなんと言おうとも、強くあろうとする男性たちの雄々しさこそが眩しいのだと感じるから。 「そうでしょう? なら──」 「──けれど!」  烈火の如く怒号と鉄が叩きつけられる。  そのまま、彼は燃え盛る炎のように── 「だからって、俺は〈女性〉《おまえ》に手加減しろと頼んだ覚えは一度もない!  分かれよ、世良。女に知らず手を抜かれて、それを喜ぶ男もまたこの世のどこにもいないんだよ」 「そして、追い抜かれるのが怖いからって女性の可能性を摘むような奴は、男以前に〈人間〉《ヒト》としての資格がない。  我も人、彼も人。ゆえに対等、基本だろう」 「………何よ、それ」  今、柊くんは何を言ったか自分で分かっているのだろうか?  女より強くないと狂う。でも女が弱く見せるのも屈辱だって?  それは、そんな── 「そんなの、どうしたらいいのよ馬鹿ァッ!」  対処ができずに感情が爆発する。がむしゃらに押し返しながら滅法矢鱈に刃を振って泣き叫んだ。もう何も分からない。 「私は生まれつきこうだもん! ええごめんなさい、弱く生まれることが出来なくてッ!  それが間違いだって痛感して、我慢して、ずっと閉じ込めてきたんだから…… なのに今度はそれもやめろ? 腹が立つから、嫌だって…… 軽く言わないでよ、じゃあどうすればいいっていうの! 死ねって? 消えろ? じゃあそうしてよ、柊くんがやればいいんだ!」 「私、頑張ったのに。もう、嫌だ。嫌ぁ」 「世良」  そこで静かな言葉が割り込んだ。  ふっと、彼は初めて自嘲するように微笑んで。 「男ってのはな──〈辛〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》。  見栄とプライドを女の前で張り続けることを背負って生まれた、馬鹿で苦しい生き物なんだ」  だから、そんな気を遣わなくてもいいと、彼は恥ずかしげにそう告げた。 「仮におまえの才能が、〈男〉《おれ》の十倍あったとしよう。それで負けてしまったとしよう。で、それがいったい? だからなんだ。どうして〈女〉《おまえ》が遠慮しなければならないという、見当違いの話になる。  この場合、男と女の正しい関係はそんな手抜きや加減の問題じゃなく。  〈女〉《おまえ》に負けないよう、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈十〉《 、》〈倍〉《 、》〈努〉《 、》〈力〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈男〉《 、》〈は〉《 、》〈恥〉《 、》〈じ〉《 、》〈な〉《 、》〈き〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》。  違うか?」 「────」  分からない。違うのか、そうでないのか。自分はそれが分かるほど頭が全然よくないし、後ろ向きだからすぐ肯定することもできずにいる。  けれど彼は、こんな笑ってしまうほど強引なやせ我慢の根性論を本気で信じているようだった。  焦がれるほど熱く、光のように真っ直ぐ走り、これが男の矜持なんだと胸を張って口にしている。 「そして、おまえはもう一つ間違えている。強さにかける男の想いは狂気じゃなくて“誇り”なんだ。  女を守ることでヒーローになれる特権こそ、男に生まれた醍醐味じゃないか。それは不幸なんかじゃないんだよ。  たとえどれほど病弱であったとしても、その資格を持って生まれたことは何物にも勝る喜びなんだ」  戦わねばならないという性の重圧。苦しいはずの宿命は、男だけが得ることのできる喜びである。  これは、そう決してこれだけは、女に譲ってはならない線だから。  彼女のために。仲間のために。誓いのために、未来のために。  その波乱と苦難を一手に引き受けようとする覚悟。それを背負って生まれたことを、あろうことか──ああ、この人は。  この人は── 「だから当然、たまには無茶もするけれどそこはちょっと許してくれよな。  見えないところで馬鹿みたいに努力もするし、格好もつける。その代わりに困っていたら絶対に駆けつけるとも。見返りなんて求めない。だってこれは当たり前のことだから。  ズタボロになって血反吐ぶちまけることになったとしても、全身が跡形もなくぶっ壊されても……あげく君たち女に助けられる事態になっても、恨むだなんて狭量なことはするものか。鍛え方の足りない自分が悪いんだ。  そうやってやせ我慢をしながら色んな荷物を背負いこんで、男は強くなるんだよ」 「世良、辛いときには幾らだって頼れ。どんな困難が相手でも、俺は命をかけて守り抜く。  まあ、ほら……言われた通り男は基本、馬鹿なんだよ。  女の子に笑顔を見せられただけで身体を張るには充分な理由なんだ。そう思っている限り神様だってぶっ飛ばせるし」  そこで一度、はにかみながら肩をすくめて。 「無理難題をふっかけて男を辛くさせるのが、女の特権ってやつだろう?」  太陽のような輝きが私の闇に、小さな亀裂を刻んだのだ。 「つまりこういうことだよ、世良。男の格好つけるべき場所を奪うな。見せるべき舞台を変な小理屈で荒さないでくれ。  その意地を摘むようなやつは女以前に人じゃない。  我も人、彼も人。ゆえに対等、基本だろう」  同じ人間なのだから容赦もしないし遠慮もしない。  互いにすべてを見せ合って、それでいながら相手のことを認める気持ち。それこそすなわち信の心。  ならば私はどうなのだ? それに相応しくあれただろうか。  そして何より弟が今の自分を見たならば、いったいどう思うだろうか。  考えても答えは出ず。  もう一度自分は向き合わなければならないのを自覚した。  ようやく自覚できたのだ。 「まあ、諸々まとめてそういうわけで。  そもそも俺がおまえに負ける場面が思いつかん。  だから来いよ。どんな本気でも引いたりしないし、受け止めるさ。それとも何だ── 本気を出したら、俺も腹を切ると思っているのか?」 「柊くん……」  一瞬だけ、彼と弟が記憶の影で重なった。  いいや今も自分にはそれが見えている。やり直しは、ここになる。 「男を舐めるんじゃないぞ世良──ッ!」  そして──放たれた攻撃は紛れもなく最強の一撃だった。  柊四四八の全霊を、何より有り余る想いをこめた剛の拳が風を切る。  これを受ければ自分は沈む。容赦なく木端微塵になるだろうと思いながら、しかし意識はそれを捉えていないし二の次だと感じている。 「私は────」  頭の中では彼の伝えてくれた言葉がずっと響き渡っていた。長年の過ちを振り払い、見誤っていた答えまで私の手を引き導いていく。  結局、そういうことなのだろう。信明を死なせてしまったのは、自分が強いからでも彼が弱かったからでもない。  すべての原因は彼を同じ対等の人間として見ていなかったことにある。すなわち私の傲慢さが、信明をあの結末まで導いてしまったんだ。  強くなれたら? 違うでしょう、水希。そんなことよりもっと当たり前で、まず言わなければならないことがあったはずじゃない。  私たちは〈血〉《》〈の〉《》〈繋〉《》〈が〉《》〈っ〉《》〈た〉《》〈姉〉《》〈弟〉《》〈だ〉《》〈か〉《》〈ら〉《》〈ゴ〉《》〈メ〉《》〈ン〉《》〈ね〉《》と、そう言えなかったのが最大の罪。  誤魔化すことを選んだのはあの子が耐えられないと感じたからで、容易に傷ついてしまうはずだと勝手に見切りをつけていたから。病弱なことを理由に信明を弱い人間だって決めつけていたせいで、答えを出すのを避けたんだ。  つまり信じていなかった。  世良信明という男性が対等だと信じられず、そして結果ああなった。  強くなって、強くなってと、あの子に終わらないゴールを定めて、なんて馬鹿。救えない。  だから願った。やり直したい、戻れるなら命もいらないと。  その祈りが通じたのか、今ここに当時とまったく同じ状況が生まれている。  〈僕〉《おれ》の強さを信じてくれと、熱く気持ちをぶつけてくれる男の人が現れた。  じゃあ自分はどうするべきか? 考えたのはほんの刹那。 「そうだね」  決まっている。今度はもう間違えない──! 「────!」  瞬間、驚くほどのしなやかさで水希はその一撃を回避した。  まさに奇跡の紙一重。空を泳ぐ魚のように軽やかな軌道を描き、当たったはずの必殺をあらぬ方向へ流れさせる。  それを苦もなく成し遂げながら、さらにここで終わらない。 「受け止めて、柊くん!」  そして──放たれた攻撃は紛れもなく最強の一閃だった。  世良水希の全霊を、何より有り余る想いをこめた烈の刃が風を切る。  先ほどの一撃に勝るとも劣らない素晴らしさで迫る切っ先は、回避直後に放たれたこともあって不可避の速さだ。避けられない。  柊四四八を一刀両断にするべく迫り、薙ぎ払うような剛閃が彼の真芯に炸裂した。 「──っ、ふぅ」 ……まさに目と鼻の先。皮膚に届く寸前で俺は極大の死を受け止めた。 今のは、正直かなりやばかっただろう。というか、えげつないにも程があるぞ。 ざっと分かるだけでも戟法を基本に解法を用いての攪乱と透過、加えて二度はあの一瞬で三つめの夢を切り替えている。本能に訴えかけるようフェイクを刻みながら、それでいて体術そのものが凄まじい練度を誇っていたという、いわゆる絶技だ。 おかげでトンファーごと両断されるかと思ったし、実際そうなっていてもおかしくない状態だった。衝撃がまだ身体に残留しているあたり、実は本気で殺すつもりだったんじゃないだろうなこいつ? 当の本人もようやくそれを自覚したのか、はっとしたような顔で慌てて得物を消している。 「ご、ごめん。ちょっと力いれすぎちゃって……大丈夫、だった?」 「何がだ? まったくぬるい。見て分からんのか。余裕だろ」 おずおず見上げてくる態度が気に入らんので、アピール代わりに腕をぐるぐる回してやった。 ほうら見ろ、なんてことはないのだこんなもの。痺れているのなど気のせいだ。まだまだ甘い、今回は俺の勝ちだ。 「ていうか、この程度で自惚れていたのかおまえ。ちょっと自意識過剰すぎるだろう」 「──むぅ。あーあー、そう来るんだ、この場面で、ふうん」 「柊くん、足腰ぷるぷるしてるじゃない。意地っ張りだよねえ、これだから男の子はさ」 「言ってろ、つまりそれこそ勲章なのだ。あれほど説いてやったんだからいい加減にそこ分かれ。格好いいと黄色い声でもあげるがいい」 「うわ、中身一万歳のくせに。まだ女の子の前でやせ我慢するつもりだなんて、おじいちゃん、わっかーい」 「ああ、たとえそれが五百歳のおばあちゃん相手にでもな」 「男のプライド、様式美だ。文句あるか」 「…………」 「…………」 「…………ぷっ」 「…………ふふ」 「ははははは、はははははっ」「あはははは、はははははっ」 緊張感がなくなったことで、思わず顔を見合わせながら笑ってしまう。まあこれが、俺たちらしい落としどころということだろう。 言いたいことは言いきったし、世良から感じていた影や澱みはもう感じない。これでようやく仁義八行、すべての心がここに集ったと感じたのだ。 「もう大丈夫だな」 「うん、ありがとう。やっと男心が分かった気がする。自分が見つけなければいけなかった一番大切な心もね」 「私にとっての〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》は、柊くんや仲間のことを信じる心……」 「ありのままの自分を見せて、それを受け止めてくれるって、強く信じることだったんだ」 「満点だ」 それを分かってくれたのなら、もう案ずることは何もない。 強かろうがなんだろうが、メシマズだろうが変な性癖を持っていようがどんと来いだ。いまさらそんな些末事で引いてしまうほど、この絆は浅いものじゃないのだろう。 血は繋がっていないけれど、数多の困難を共に乗り越えた俺たちは心で繋がる兄弟だ。そうだろう、信の犬士。頼りにしているんだよ。 俺たちは朝に帰る。そして戦い、この手で明日を掴むために。 それがいずれ百年後、あの優しい未来に辿り着くための一歩だと信じて。 「さあ」 「そうだね」 「帰ろう、俺たちの〈現実〉《トゥルース》へ」「帰ろう、私たちの〈現実〉《トゥルース》へ」 それが、俺たちの〈千信〉《トラスト》だから。 そこで皆が待っている。 そして…… 「――――――」 これまで何度となく繰り返してきたのと同じように、まったく連続した意識を保ちつつ俺は夢と現実の境を踏破した。 違うのは、〈目〉《 、》〈覚〉《 、》〈め〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈が〉《 、》〈真〉《 、》〈の〉《 、》〈現〉《 、》〈実〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。大正十二年、初秋――柊四四八という俺が生きる正しい世界で、視界に映るのは見慣れた戦真館の寮、その自室。 「ああ……」 どれだけ眠っていたんだろう。身体を起こすのに少しばかり無理がいった。全身の間接が硬く強張っているのを感じられる。 まさか、数ヶ月なんてことはないはずだが…… 「あなたは分かりますか、教官殿」 視線も向けず、独りごちるように、だが確信をもってそう問うた。いかに長い眠りの後とはいえ、こんな狭い部屋に自分以外の者がいるかどうかくらいは分かっている。そこまで寝ぼけてはいないつもりだ。 「まあ、ざっと一週間だ。私は四日そこらで放り出されたけどね」 ゆえに、返答したこの人も特に驚いている様子はない。まあ僅かだが、悪戯が上手く機能しなかったことへの不満はあるようだけど。 「そうですか。ご無事なようで安心しました。それと、ご迷惑をおかけしました。かなりじれったかったでしょう、あなたにとっては」 「なに、気にすんな。おまえら鍛えるのが私の仕事だし、もとを質せば原因はこっちにある」 「狩摩の野郎がふざけた真似をすることくらい、ハナから計算に入れとくべきだったんだよ。これは私らの責任で、おまえらの無能じゃない」 「実際、こいつら綺麗さっぱり忘れてやがるって気付いた後も、このまま行こうって決めたのは私らだからな」 「そう言ってもらえると、助かります」 本来、俺たちはこの大正時代に生きる人間であり、現実だと思っていた二十一世紀も丸ごと邯鄲の夢だったということ。 あれは俺たちにとって理想の世界だ。甘粕正彦という脅威を打倒し、その結果として紡がれる未来。俺たちの戦いにより、百年後はこんな風になればいいなという文字通りの夢。目標。 つまり、あの時代風に言えばシミュレーションに他ならない。だからこそ、俺たちの選択で歴史が変わったような現象が起きたんだ。 日本が軍事のすべてを放棄し、無防備をもって平和を謳う国になったり、逆に世界大戦の最前線で戦う国になったり、貧富の差が極度に開いた階級社会になったり、等々…… すべて俺たちが邯鄲での1ループを終わらせるごと、異なる〈可能性〉《れきし》が具現した。それこそが普遍無意識、アラヤを理解するために体験しなければならない無限の未来たちであり、甘粕風に言うなら密度を高める修行の期間だったわけだ。 そして今、俺たちは夢を越えた。よってこれから、本来の目的、この現実で成さねばならない最後の戦いが待っている。 「俺たちが現実だと思っていた時代にいた教官や母さん、そして剛蔵さんたちは柊聖十郎が奪ったあなた達の欠片だったんですね?」 「そうなるんだろうな。私にとって〈二十一世紀〉《あっち》での記憶はかなり曖昧だから、自覚はないんだが」 「おまえが生まれた時代、少なくともおまえがそう〈勘違い〉《にんしき》する時代は五層の影響を強く受ける。つまり柊聖十郎の支配力が表に顕れるんだろうよ」 「何せ五層の時代はおまえが誕生したときで、言ってしまえば親世代の青春時期っていうやつだからな」 「そういう大前提や五層の突破条件云々、そこらへんの了解が私らの間でも滅茶苦茶になっちまったのは鋼牙が侵入してきたからで……ああ、要するに全部狩摩が悪いんだよ。もうそういうことでいいじゃんか」 「ですね。ともかくこうして、俺たちは帰ってきた」 曰く壇狩摩の遊びによって、もっとも捻れたのは俺たちの記憶障害と生死を除けば第五層の設定に他ならない。 なぜならそれは、俺が誕生した時代だから。二十一世紀の人間だと思い込んでいた俺が、明治後期における己の真なる誕生秘話に直面する。その不条理が一種のタイムパラドックスとなり、連鎖で五層の設定を乱したのだ。 それは初代の戦真館が崩壊した直後、死病の発症が始まった聖十郎が、その運命に抗うため邯鄲の夢を再構築しようと駆けずり回っていた時期と合致する。 奴が母さんと出会い、モルモットとして俺を産ませようと試みた時代がそれだ。よって、〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈主〉《 、》〈観〉《 、》〈が〉《 、》〈正〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈時〉《 、》〈代〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈勘〉《 、》〈違〉《 、》〈い〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》、あの二十一世紀は五層と表裏一体になる面があるんだろう。 親世代の青春時期……なるほど、今になって思い返せば、あの未来において母さんや剛蔵さん、他にも俺の眷属である晶たち以外の他人に対する印象がほとんどない。 千信館で共に学んだクラスメートたちの顔や名前、〈芦角先生〉《ハナちゃん》の他にどんな教員がいたのか分からず、その他大勢いたはずの隣人たちがぼやけているんだ。 それこそ、彼らが舞台装置、エキストラにすぎなかった証だろう。確固とした質量をもって存在したのは俺と俺の眷属の他に、聖十郎の道具として人格の一部を抜き取られたうえに擬人化された、人形としての母さんたちだけ。 「でもまあ、例外的に長瀬の奴についてだけは覚えてますよ。完全に俺の主観で登場させただけなんで、我ながら変なキャラになってましたが」 「〈長瀬〉《あいつ》は今、どうしてます?」 「〈戦真館〉《うち》の奴らを率いて、避難活動に当たってるよ。もっとも、これから地震が起きるから逃げろなんて言ったところで誰も信じやしないから、かなり強引にやらせてるけどな」 「下手したら、〈戦真館〉《わたしら》のクーデターみたいにされるかもしれん。だが仕方ない。他に手なんかないからな」 「その点長瀬は弁えているし、流石に奴は優秀だよ。特科の主席はおまえだが、次席のあいつがあえて〈現実〉《こっち》に残る選択をしたってことを讃えてやれ」 「分かってます」 俺たちが邯鄲に入っている間、現実の処理を担当する奴も必要不可欠。だから長瀬がそれを志願し、サポートに回ってくれたことを感謝している。 記憶を失ってもそういう気持ちは残っていたから、俺は千信館に長瀬健太郎という万年二位の友人を設定したのだろう。 二次元オタクとか、妙なキャラにして悪いな。本人に知られたら殴られそうだが、実のところそう外してもいないと思っていたりする。 「とにかくそういうことで、状況の再認はすんだな柊? 私は今から長瀬たちと合流して指揮に移るが、その前に訊きたいことはあるか?」 「では、一つだけ」 俺は教官の目を正面から見つめ、単刀直入に問いを投げた。 「教官殿は、夢が要りますか?」 「要らん」 それに、返ってきたのは実に小気味いいまでの即答だった。 「結局私は軍人だ。どれだけ便利なものだろうと、幻想に依りたくはないんだよ」 「ああ……柊聖十郎に奪われた部分を覚えてないってさっき言ったが、ありゃ半分嘘だ。ああいう私も〈心〉《こ》の中にいて、それは戒めるべきことだと思っている」 「だから柊、おまえの眷属として夢を持ち出すつもりはない。その権利を芦角〈花恵〉《かえ》は放棄するから、おまえも私に与えなくていい」 「それは世良や真奈瀬たち、おまえの仲間である特科の連中や、おまえがこれと認めた奴にだけ与えてやれ。夢に喰われないような、強い心を持った奴にな」 「分かりました」 教官殿の言葉を胸に刻み、強く俺は頷いた。そう、盧生として邯鄲を制覇した今の俺には、そういう責任が存在する。 夢をこの現実に持ち出す力。その権利を眷属たちに与えることも、取り上げることも出来る。 だから誰に許可を出すかは俺の裁量次第になり、そこでの判断を誤ってはいけない。でないと甘粕が標榜する〈楽園〉《ぱらいぞ》とやら、それを認めることになってしまう。 「ご指導、有り難くあります教官殿。柊四四八、肝に銘じます」 「よし、いい顔だ。じゃあ私は行ってくる」 「ご武運を」 「おまえたちもな」 そうして教官は踵を返し、この部屋から出て行った。残された俺は着替えを整え、戦の準備を整える。 あとは仲間たちとの再会を果たし、決戦に臨むのみだが、その前にもう一つだけやるべきことが存在した。 それは、今さら言うまでもない。 「入ってきなよ、母さん」 この人との対話。俺を産み、育ててくれた柊恵理子という女性に対する感謝と敬意を、しっかり伝えておかなくてはならない。 「ごめん。邪魔しちゃ悪いかなと思って、なかなか声がかけられなかったんだけど……」 「そんなことは気にしなくていい。それに母さん、全然隠れられてなかったぞ。バレバレなんだから、似合わない遠慮なんかしなくていいんだ」 「もう。あんた急に、大きな口を利くようになったわね」 少し拗ねたように苦笑しながら、母さんが部屋の中に入ってくる。その姿は当たり前だが、この大正時代に則したものとなっていた。 これが本当の柊恵理子。夢でなければ人格の一部分だけを擬人化した人形でもない、正真正銘俺の母親である人の真実だ。 「なんだか、もの凄く久しぶりに会えた気がするよ。実際、俺の感覚ではその通りなんだけどね」 「そうね。今の四四八は、私より何百倍も年上みたいなものなんでしょ? そのへんの理屈はよく分からないけど、そういうものなんだって聞いている」 「ねえ、そんな四四八から見て、お母さんはやっぱり駄目な奴だったかな」 「いいや」 この人がなぜ柊聖十郎の妻となり、何を思って俺を産んだか……すべて理解し、納得している。そこに恨み言や批判を混ぜる必要性など、俺はまったく認めてなかった。 母さんは、決して盲目的に柊聖十郎を愛していたわけじゃない。邯鄲における柊恵理子は愛の擬人化だったから、それしか知らなかったというだけだ。 ゆえに本当のこの人は、別に狂気でもなんでもない。ごく当たり前の、どこにでもいる、ちょっと抜けてて変わり者の、優しい俺の母さんだから。 「何も気に病まなくていいんだよ。第一、そんな風に恐縮されると、俺は居心地が悪いだろ」 「産んでごめんなさいなんてことを言われたら、子供はどう反応したらいいっていうんだ」 「あ、そうだね……ごめんなさい」 「ほら、また」 「うん。……ふふ、なんだか本当に、私のほうが子供みたいね」 「それは前からわりと変わってない関係だと思うけどね」 「もう、ほんと口が減らなくなったわね。可愛い四四八は、どこに行っちゃったのかしら」 「どこにも行ってないよ」 目覚める直前、俺が邯鄲を制覇するにあたり、最大の難関としてアラヤが配した試練のことを顧みる。 そこでの結論、価値観、覚悟……すべてこれまでの人生から導き出した答えであり、その多くは言うまでもなく、この人が与えてくれたものなんだ。 「たとえどういう事情から生まれた身でも、俺は幸せだったし、今でも幸せだよ母さん。だから感謝してる」 「産んで、育ててくれてありがとう。そう思ってるから、もちろん母さんの選択を否定したりしない」 「柊聖十郎を選んでくれてありがとう。あの男が存在したから、俺は今ここに在るんだ。その事実は受け止めてるよ」 「まあ、かなりどうしようもない親父ではあったけどね」 「四四八……」 まさか、俺がそんな風に言うとは思いもしなかったのか。呆けたようにぽかんとして、母さんはこちらを見ている。 けど、俺は信じてるんだよ。 「色々複雑な事情があったとはいえ、母さんは親父のことが好きだった。それは事実なんだろう?」 そしてあいつも、事情はどうあれ俺の誕生を望んでいた。 「なら、俺は祝福されてる。だったら文句をつける筋合いがどこにあるんだ。言ったように、今が幸せなんだから」 「これまでも、きっとこれからも」 「だからもう一度言わせてほしい。ありがとう、母さん」 帽子を取って、頭を下げた。誠心誠意俺はそう思っているから、この行為に衒いは欠片も存在しない。 そう、よかったんだよ。これから決戦に臨む身として、その前に自分の気持ちを母さんに伝えることが出来てよかった。 「私こそ、ありがとう。頭上げて、四四八」 「今の言葉、聖十郎さんにも聞かせてあげたかったけど……」 「いや、言ったよ」 ちゃんと伝わったかどうかは分からないが、親父が盧生の資格を奪えなかったという事実は厳然と存在する。それを噛み締めているだろう。 「あいつは今、どうなってる?」 「それは……きっともう、いくらも保たないでしょうね」 「そうか」 薄々予想していたことだ。聖十郎は甘粕の眷属として夢を持ち出し、命を繋いでいたけれど、奴の最終目標は自ら盧生になることに他ならない。 その最後のチャンスを逸した以上、柊聖十郎の夢は潰えてしまった。誰よりも生き汚い奴のこと、甘粕の眷属として生き続け、再起を狙うという道もあるのだろうが、それも当の甘粕に権利を剥奪されては意味がない。 盧生の器は、あくまでも俺と甘粕。今現在、世界にはこの二人しかいないのだから、その双方から夢を与えないと言われてしまえば聖十郎はそこで終わりだ。 甘粕という男の美意識からして、聖十郎のような男は永遠に手元へ置いておきそうな気もしていたが、逆にあっさりと切り捨てそうな気もする。 「確かなのか? あいつがもう駄目だっていうのは」 「ええ。彼に獲られた心が戻ってきたから分かるの。あなたが眠っている間、剛蔵さんと居場所を捜してもいたからね」 「そして見つけた。だから私は、今から聖十郎さんを看取りにいくわ」 「分かった。頼むよ」 聖十郎の処遇は母さんに一任すると決めたんだ。なら今さら、俺の出る幕ではないだろう。 そこでどんな遣り取りが行われるのか、知りたがるのは野暮というものだ。いくら息子の身とはいえ、男女の秘め事に首を突っ込むべきではない。 たとえどれほど歪んでいようと、柊聖十郎は俺の父親。ならその最期は、彼を愛した女に見送られるものであってほしい。 「じゃあ、俺はもう行くよ。母さんも気を付けて」 「ええ。だけど四四八、一ついい?」 「なんだい?」 呼ばれ、振り向いた俺に、母さんは少し悪戯っぽく笑って言った。 「あの日、もう一人の私が言ったことを覚えてるかな? 夢で私が、聖十郎さんに殺されちゃった日のことだけど」 「あいつに似るなっていうことだっけ?」 「うん。それもそうだけど、もう一つ」 思い返して、確か……ああ、なるほどそういうことか。もちろん忘れてなんかいない。 「四四八が本当に好きな子は、いったい誰なの?」 「そういう大事な人が出来たときは、しっかり気持ちを伝えてあげられる男の子になってねって……私はあのとき言ったよね」 まさに。そう言われたときのことを覚えている。 それは守るつもりだったし、当の母さんも親父との関係にケジメをつけにいくのだから、ここで俺に拒絶する道理はないだろう。 「分かってるよ。俺は――」 答えて、同時に。 「よしっ、じゃあ行ってきなさい!」 ばしんと母さんから背を叩かれて、俺は本当に逢いたい女のもとへと向かっていった。 寮のロビーまでやって来ると、少し力が抜けてくれたようで気持ちが平常に戻ってきた。 あまり気負い過ぎててもな。初めて告白するわけじゃないんだ。 俺たちの現実。大正という時代。そして、戦真館。 それらすべてを胸にしつつ、俺は今ここにある。 「よう」 「四、四四八?」 後ろ姿に声をかけると、どこか抜けた声で晶が振り向く。 と同時に向こうへ歩き去ってゆく後ろ姿。あれは―― こいつがぎょっとした反応だったので、俺は少し迷ったが、やはり尋ねることにした。 「剛蔵さんといたのか……?」 「……うん。親父と、ちょっとだけ話をさ」 「そうか。こっちの親父さん……ってのはおかしいか」 こほんと咳払いすると晶が苦笑いする。 どうも慣れないな。 「剛蔵さんとはゆっくり話せたのか?」 「ゆっくりってほどじゃないけど、話したいことは話せたかな」 「不思議な感じだったけど、こっちの親父も親父だった」 「どういう親父だよ」 「……こっちでもね、ハゲてやんの」 「おい。そんなこと言ってやるな」 「だって、事実だしさー」 あっけらかんと語る晶だが、その目はどこか困っているようにも見えた。 何か語りたいような、語ってしまうとなくなってしまうから、やっぱり言えないといった雰囲気だ。 「剛蔵さんには色々と話したいことがあったのに。間の悪い人だ」 「ん、親父に? 話したいこと?」 「ああ。それにはまず礼をしなくちゃな」 「四四八。それって――」 言いかけた晶が口をつぐむ。 剛蔵さんのおかげで俺が馬鹿親父と戦えたこと、こいつも分かっているんだろう。そのへんについて彼に感謝を伝えたかったが、豪快に照れ笑いしながらとぼけられそうな気もする。 まったく、お互い親父が濃くて困るなおい。 「ま、子供の立場だって色々あるよな」 「だな。すべてが終わったら剛蔵さんへ、ちゃんと話にいくつもりだ」 「おまえのこともある」 「四四八……」 「俺は真奈瀬晶のことを愛しているから。真っ先におまえに会いに来たんだよ」 すると晶は、言葉を失ったというよりも、どこか覚悟している目を俺に向けた。 すべて分かっているという女の顔。 愛した女の―― 「……ありがと、四四八」 「おう」 分かってるからこそ嬉しい。 嬉しいからこそ――哀しい。 そういう顔に見えた。 「本当に伝わってるのか?」 「何がだよ」 「俺の愛だ」 「あ、愛って……」 ストレート過ぎる物言いだろうが、俺はこういう伝え方しかできない。 大切なことを曲げて伝えたくない。 そんな俺の信条までも、すべて理解したように晶は破顔した。 「ぷっ……ははっ。四四八らしいね。変わってね~」 「当たり前だろ。ちょっと夢で生きるか死ぬかを経験したくらいで変わってたまるか」 俺の言葉に、だが晶は首を振る。 「違う。あたしら、五十年くらい一緒にいただろ。それでも四四八は変わらなかったってこと」 「それは、おまえ……」 「へっへっへ。覚えてないとか言ったら引っぱたくよ。あたしたちは夫婦だったんだ」 「夫婦ゲンカだって何度やったことか」 そうだ。俺は晶と結ばれた。しかも結婚して五十年も一緒に暮らしたんだ。 その記憶を何より想っているからこそ、母さんに言われた俺は晶へ逢いにここへ来た。 「愛した旦那さまから逢いに来たって言われて、あたし嬉しいよ」 「……子供。結局、できなくてごめんな」 「おまえが謝ることじゃない」 「あはは。このやりとりも何度繰り返しただろうね」 「うん。子供はできなかったけど、すっごく幸せだった」 「そうだよ。……過去系なのが気になるが」 「幸せだったでいいんだよ。ホント、心の底から愛してる」 「晶……」 そして、俺は理解する。 晶が今、どういう気持ちで幸せだったと過去系で言っているのか。 愛しているという言葉が、どうして過去系じゃないのか。 「はは。なんか周りくどくてごめん。あたしらしくないよね」 「…………」 「きっと未練があるのはあたしの方だ」 乾いた笑い声が霧散する。 辺りには誰もいない。けどさっきよりもずっと空気が濃くなっている気がした。 身体にまとわりつくソレを振り払うようにして、晶が続けた。 「あゆと一緒に戦場へ行った四四八。鈴子と競い合ってた四四八」 「そんなおまえを祝ってたあたし……」 「このどれもが自分の中にある。どれもあたしの大事な気持ちだったんだ」 「…………」 「困ったもんだよ、ホントにな! 自分たちが戦ってきたことは胸を張れるけど、何も全部が一気にやってこなくたっていいのに」 「おまえのこと、どう考えればいいのか……あたしは持てあましちゃうよ」 そんな風に俯いて苦笑しながら、やがて晶は自分の気持ちに決着をつけるようにして、俺の告白に答えを返した。 「でも、ごめん。だからこそ、今のあたしは四四八の気持ちを受け止められない」 「四四八のことだから、きっと全部分かってるんだろうけど――」 「きっとあたしよりも百倍くらい理解してるんだろうけど」 「でも、これだけは、はっきりとあたしから言わせてくれよ」 晶の声が震える。 涙を見せまいとぐっと唇を結んで、俺に告げようとしているんだ。 余計なことを言わないよう、俺は言葉短く聞き返した。 「……なんだ?」 「四四八がいくら愛してくれようとも、この現実であたしはあんたと一緒になれない」 「もう一回やったら恋人ごっこになっちまう。結婚だって二回もするもんじゃない」 「現実のあたしは四四八と結ばれないんだ」 そこまで言ってしまうと、晶がはっきりと涙をこぼした。 ひとすじだけ頬をつたう雫から、愛した女の決意がこれでもかと伝わってくる。 「……そうか」 「あはっ、ごめんな。涙なんか」 「いや、いい。おまえが涙を見せるってことが、どういうことなのか知ってるつもりだ」 「なんせ五十年も隣にいたんだからな」 「……ありがと、四四八。五十年経って、ようやく慣れてきた?」 「まさか。俺は世界一、泣いたおまえに弱いつもりだ」 だから俺は、言いたいことすべてを飲み込んで、大きく頷きながら答えた。 「そうだな。その通りだ」 「四四八……」 「おまえの言ってること、何ひとつ違っちゃいない。俺だっていつも本気だった」 「歩美と世界中で戦ったこと。我堂と成し遂げていったこと」 「そして、愛を誓い合ったおまえと死ぬまで寄り添ったこと……」 「俺――柊四四八は本気だったんだ」 そんな俺の言葉を聞いた晶は、安堵したように息を吐いた。 「……よかった。おまえがそこで、あたしだけを愛してたなんて答えたら、ぶん殴ってやったよ」 「いや、それはおまえ……」 とりあえず落ち着けよ。俺は何も言ってないのに、腕振りかぶるのはやめろ。 「だってさぁ、許せる? あたしのこと愛してる。だから、他の奴とはノーカン、嘘だったとか答えられたらさ」 「あのとき、涙を飲んでおまえと他の子を祝ったあたしの気持ちは何だったんだって」 加え、歩美にしろ我堂にしろこいつにとっては大事な仲間で、友達だ。それを蔑ろになどさせないという物言いは、実に晶らしいと実感する。 「だな。俺もそんな自分は許せない」 「へへっ。そうだよ、おまえはあたしが惚れた男なんだ。ふざけた奴だったら五十年も一緒にいられない」 「おまえも大概変わってないぞ」 「お互いさまってことで」 そこまで話すと、俺たちを包んでいた時間もようやく安心したように力を抜いた。 さっきまで固くなっていた空気が、今は柔らかく俺と晶の背中を押してくる。 もうごちゃごちゃ言葉はいらないな。 「あたしらはこんな感じだけどさ。想い出ならいっぱいある」 「ああ。昔を振り返るのはやめよう」 「夢に見た百年後の未来。それを現実にできるかどうかで、俺たちの過去が決まるんだ」 すると晶が、すっと手を差し出してくる。 俺はその手を握り返し、言葉にできる限りの気持ちを込めて言った。 「戦いに勝とう。あの幸せな夢を現実にできるように」 「そしたらさ、百年後に生まれ変わって、また千信館で出会って、告白して結ばれて……」 「できたらいいな」 「余裕だよ」 向日葵のように答える晶の顔は、誰よりも可愛いと思う。 そして、今はそれでいい。 最後の戦いに勝つことこそ、俺たちの生きた証になるのだから。 答えて、同時に。 「よしっ、じゃあ行ってきなさい!」 ばしんと母さんから背を叩かれて、俺は本当に逢いたい女のもとへと向かっていった。 営庭にやってくると、意外にもそこにいたのは歩美だけじゃなかった。 「おぅ、なんじゃやっと来よったか」 「な、おまっ……」 まさかのまさかで、そこにいたのは壇狩摩。 こっちは軽くどころじゃなく引いてしまったわけなんだが、こいつはさして驚く様子もなく、まるで俺が来るのを待っていたかのような反応だった。 「お、四四八くん。こっちこっちー」 「……おまえら、なんで二人なんだ」 「それがさぁ、わたしにも分からないんだよー」 どうやら話し込んでいるわけではなさそうだ。 歩美も、なんでおまえがここにいるんだよって様子である。 だが俺たちの反応もどこ吹く風と、狩摩は豪快に笑い飛ばした。 「うはははは。そういう顔を見ちょると、現実の世界もつまらんもんばかりじゃないのう」 「趣味が悪いな」 「ほんと、最悪」 「そりゃ最高の褒め言葉じゃ!」 ああそうかよ。 なんかいきなり疲れてくるな。 母さんに言われて、真っ先に頭へ浮かんだのは歩美の顔。 けれど足早に来てみれば、会いたくもない奴がケラケラ笑いながらいるなんて、こっちは笑えないぞ。 「言ったじゃろうが。俺の裏は誰も取れんとなぁ」 「その台詞はこういうくだらない形で発揮してほしくないんだが、まぁいい」 表情から俺の心情まで察したらしい。こいつだけは煮ても焼いても喰えんということか。 切り替えの早い歩美も同じ心境らしく、諦めといった様子で狩摩を眺めていた。 そして、首を傾げつつ俺に尋ねる。 「ねぇ、四四八くん。ちょっと整理したいんだけどいい?」 「こいつには眷属の権利を与えてないんだよね?」 「もちろんだ。怪しすぎて与えられるか」 「俺のことは畏怖する対象じゃけえの」 「……前向きなのは良いことだな」 夢での力を誰に与えるか。その決定権を持っているのは俺と甘粕。 それは見方を変えれば、身勝手な自分のエゴを反映するようでもあって、どことなく申し訳ない気持ちになったりもするのだが。 しかし、こいつばかりは素直に除外できてしまう。 なぜなら、誰が何をどうしようと、狩摩は狩摩なのだ。有り体に言えば、イレギュラー過ぎて邪魔なのだ。 「他には誰がこいつと同じなのかな」 「権利を与えてないって意味でか?」 「うん。わたしはもちろん、他のみんなも四四八くんから許されてるよね?」 「ああ。戦真館の仲間には当然な。それから、鬼面衆の泥眼と夜叉にも」 「怪士にも?」 「いや、奴には与えていない。端的に、危険すぎる」 「八層突破にあたって俺は全眷属の人生を統合したから、誰がどういう奴なのか充分すぎるほど知っている。その上での判断だ」 「なるほど、なるほど」 「他には百合香さんにも許可していない」 「それって望んでないから?」 「そうだ。あの人は望んでいない。それに彼女自身が越えなければいけないことだと俺は思う」 「だったら、素のままの彼女でなくちゃいけない」 「なーる」 歩美に聞かれて、俺は自分の判断をもう一度反芻していく。 それが本当に正しいのかどうかは分からない。 けれど俺なりの理由やポリシーがあるからこそ、きっちり判断すべきことなんだよ。 「ただ……」 「四四八くん?」 「厄介なのもいる。幽雫さんだ」 「あの人は――」 「無駄じゃったろ? あいつは甘粕と繋がりよったわ。つまり敵に回ったっちゅうことよ」 俺が言いにくいことを、ズバッと結論から述べてくる。 にやにやしているのは、俺達が抱える不安や焦燥を理解した上で、結果すらも何となく見通しているからかもしれない。 「事態が煮詰まってくれば、こういうこともある。そう理解しているつもりだった。しかし……」 「リアルになると、やっぱりちょっと考えちゃうよね……」 「まぁな。幽雫さんのことだ。きっと自分なりの絶対的なポリシーで動いてる。それは俺達がどうすることもできない」 「できることは戦うことだけ……?」 「今までもそうしてきたつもりだ。戦うことで、俺達は未来を切り開くしかないんだ」 「四四八くん……」 決意だって揺らぐこともある。それくらいなら、今までも経験済みだった。 だからこそ、俺は憂慮を受け止めながら、それでも戦える自分でありたいと思っている。 すると鼻で笑いながら、狩摩がこんなことを言い出した。 「相も変わらず青臭いのぅ。どれ、大人がいた方がええんじゃなかろうか」 「はっ?」 「一つ提案じゃ。幽雫が裏切った今、この壇狩摩様に権利を与えるっちゅうんはどうじゃろう?」 「ねーよっ」 シンクロしてハモりながら答える俺と歩美だった。 迷いのない俺達の反応に、さすがの狩摩も肩をすくめて首を振った。 「ふん、まあええわい。青臭い分、気持ちは一つみたいじゃけえのぅ」 「おかげさまで~」 「じゃ、そろそろ俺は退散しようかの。困ったらすぐに呼べ。いつでも暴れてやるけんの」 「永久にないから安心して退場してくれ」 「うわははは! 褒め言葉として受け取っちょくわ」 「はぁ……」 やっと消えてくれたかという、歩美のため息。正直、俺も同じ気持ちなのでたしなめることはしなかった。 母さんに言われて意気込んで来たものの、すっかり狩摩が残していった存在感にあてられてしまったようだ。 俺がうまく口を開けないでいると、歩美が楽しそうに笑って言った。 「ははっ。あいつ、最後まで邪魔者だったね。最初から最後までブレたりすることなくお邪魔虫だったよ」 「まったくな。きっと俺達がそんな風に感じていることすら、あいつは楽しくてしかたないんだろう」 「ホント趣味悪いよねー。あいつが参加するの許さなかったの、四四八くんのばっちりな判断だと思うもん」 得体が知れないからな。目的とかそういうことではなくて、純粋にあいつの行動は読めないのだ。 目的や意図が判然としていても、次に何をやらかすのが不明な奴ほどやっかいなものはない。 そうして俺がうんうんと頷く。歩美はそんなあいつを思い出して、しかしどこか嬉しそうに語った。 「けど一個だけ感謝もしてるかなー」 「感謝だって? あいつに?」 思いがけない台詞に驚きながら聞き返すと、歩美ははっきりと答えてくれた。 「うん。だって、四四八くんにあの台詞を言わせてくれたこと。わたしの一番大好きな台詞なんだ……」 なんだろう。心当たりがあるような、無いような。 俺が逡巡していると、歩美は俺の声真似をして教えてくれた。 「幽雫さんの件で言った台詞だよ。『戦うことで、俺達は未来を切り開くしかないんだ』って言葉」 「……あっ」 そこでようやく俺は気がついた。いや、思い出した。 歩美との約束。歩美と誓い合った未来。歩美と戦い続けた、あの時代…… 「そういうことか」 「うん。そういうことだよー。わたしの大好きな台詞で、最後の最後まで大切にした四四八くんの言葉だもん」 「……おまえがそう言ってくれるなら、ありがたい」 そうだ。俺達が結ばれた未来で、俺と歩美はその後ずっと戦場を駆けまわることになる。 自衛隊に入り誇張抜きで、俺達は世界中を巡りながら戦い続けた。 楽しかった……とは言えない部分もたくさんあったが、それでも俺と歩美は二人で生きた。 文字通り、戦うことで切り開いていったんだ。 「あの頃、俺はおまえの力になれてたかな」 「うん、そりゃもう。わたし、四四八くんにいっぱい助けてもらっちゃったよ」 「だから、わたしはずっと幸せだった」 「歩美……」 「戦い続ける四四八くんの隣に、ずっといられたんだもん。わたしの夢、叶っちゃったんだ」 「……そうか。夢って意味なら、俺も同じく叶ったぞ」 「どんな夢?」 「愛する人を守るため、最後まで未来を切り開くために戦い続ける」 「四、四四八くんっ」 歩美が照れつつも、満更ではない様子で笑ってくれた。 そうだ。この笑顔を見るために、俺は真っ先に歩美へ会いに来た。 だからこそ―― 「歩美。いいか、聞いてくれ」 「俺が好きなのはおまえだ。俺は龍辺歩美のことを愛している」 「…………」 「だから、現実でもおまえのことを――」 「待って、四四八くん。そこまでだよ」 すると不意に声を上げた歩美が、俺の言葉を切ってしまった。 まるでそれ以上は言わせられないといった様子だ。真剣な眼差しで、俺の目を見つめてくる。 俺は黙って、彼女の言葉を待った。 「四四八くん。この現実の世界じゃ、それ以上はダメ。だって、それ以上言われたら、わたしもどうしていいか分からなくなっちゃうもん」 「それこそ、四四八くんだけじゃなくて、あっちゃんやりんちゃんのことも傷つけることしちゃいそうだよ」 「それくらい、四四八くんのことが大好きだったから……」 「歩美……」 それらはお互いに共有している記憶だった。 俺達には、それぞれ見てきた未来の記憶がそのまま宿っている。 そこには俺と結ばれた歩美だけではなく、晶や我堂とも結ばれた未来があったのだ。 「あのときはさ、あっちゃんとくっついた四四八くんも、りんちゃんとくっついた四四八くんも、心から応援してたんだよ?」 「……分かってる」 「けどね、一度知っちゃうと女はダメなんだ。一度でも四四八くんと愛し合っちゃったら、わたしはもう自分の気持ちを抑えるので精一杯」 「これ以上、四四八くんに愛してるなんて言われたら、わたしどうしていいか分からなくなっちゃうよ」 「だから、現実の世界ではもう言わないで。きっと戦えなくなっちゃうから」 それは歩美の偽らざる本音だった。 歩美だけじゃない、俺にとっても動かすことの出来ない真実であり、心に根を張った慕情だった。 晶と結ばれたことも、我堂と愛し合ったことも、否定することなんかできない。俺の気持ちはいずれも本物だったのだから。 「……分かった。もう言わないさ」 「ふふっ。ありがとう、四四八くん。やっぱり優しいね」 するとそんな俺に対して、歩美は最後まで笑顔で言ってくれた。 だから俺も、もう蒸し返すことはせずにいよう。今こいつに応えられることは一つだけだ。 そう。せめて歩美の一番好きだという台詞で。 「俺達にできることは戦うことだけだ」 「戦うことで、俺達は未来を切り開くんだ。だから――」 「最後の戦いもついてきてくれるか? 歩美」 「うふふ! もっちろん」 「よし……! それじゃ行こう!」 まるであの未来で戦ったように、俺達は戦場で誓い合う。 もしかしたら生まれ変わって、また千信館で出会うことがあるかもしれない。 だったら、その可能性がある未来を守ろう。切り開こう。 俺と歩美は戦友らしく、共に一歩を踏み出した。 答えて、同時に。 「よしっ、じゃあ行ってきなさい!」 ばしんと母さんから背を叩かれて、俺は本当に逢いたい女のもとへと向かっていった。 母さんに言われて、俺は真っ先に頭に浮かんだ女を捜した。 どこにいるのか定かではなかったので、とにかく寮の中を探す。 すると廊下に我堂の姿を見つけたのだが、同時に鳴滝も一緒にいるようだった。 「分かった? タイミングが重要よ。なぜなら――」 「ああ、分かった分かった。ほんとおまえって奴は見かけによらず世話焼きな」 何を話してるかまでは分からなかった。 しかし、その表情から二人とも真剣であることは間違いない。 俺が近づくと二人の話は丁度終わった様子だった。 「柊……!」 「よう。鈴子に会いに来たのか?」 「ちょ、ちょっと。何言ってるのよっ」 「まあ、そうだな。我堂に大事な話があって来た」 「――ッ!?」 我堂がすぐさま顔を真っ赤にする。こういうところは素直に可愛いというか面白い部分だ。 ただし、その手のことを今さらゆっくり話していられる時間が無さそうではある。 「へっ、素直でいいと思うぜ。じゃあ、俺はここいらで消えるとするか」 「いいのか? 二人で話しておくべきことがあるんだったら、俺は出直してくるが」 「いいんだよ。もともと鈴子に絡まれてただけだしな。そんでその話ももう終わった」 「淳士……」 「後は俺がうまくやる。そういうこった」 鳴滝の言葉にはある種の覚悟が感じられた。おそらく決死の思いで断行することなのだろう。 そして、俺と我堂から離れようとした鳴滝は、頭を下げながら呟いた。 「その、悪ぃな柊……我が儘ばっかりでよ」 「我が儘が悪いことなのか?」 「そりゃあな。この大事なときに、俺はどうでもいいことに力を果たそうとしてる」 「…………」 自嘲気味にそう吐き捨てる鳴滝だったが、俺はその言葉に何の意味もないと思った。 なぜなら、鳴滝自身の気持ちが揺らいでいるわけじゃないからだ。 「どうでもいいことか。おまえにとっては違うんだろ?」 「ああ、そうだ。甘粕とのことよりも、俺には無視できないもんがある」 態度や仕草、それに声の様子から、こいつの強い意志が感じられる。 俺はすぐに思い当たった人の名前を口に出した。 「百合香さんと、幽雫さんのことか……?」 俺がそう尋ねると、鳴滝は視線を落とした。 それは決して気持ちが引けたというわけじゃなく、純粋に申し訳なく思っているという反応。 やがて俺の目を見て、鳴滝は答えた。 「ホントすまねぇな。けど、やっぱ俺はあいつら放置してらんねえんだわ」 「何度考えても、行かなきゃいけねえって思っちまう」 「おまえら、いわゆる最終決戦だっていうのによ。俺はこんな様だわ」 「もうやめろよ。謝るのは」 俺は手を振って鳴滝の言葉を静止した。いつもぶっきらぼうな男だが、こいつの義理堅さや責任感の強さはよく知っている。 だからこそ辰宮の二人を無視することができないんだろうし、きっと他の気持ちもあるんだろうがそれはそれだ。野暮は言うまい。 「いいじゃないか。自分にとって何が大切で譲れないものなのかはっきりしてるのは、逆よりずっと良いことだ」 「それに実際的な意味でも、最初から辰宮のことはおまえに任せるつもりだった。これはおまえの仕事だよ。おまえにしかできない」 「俺は百合香さんのことを考えてやれる余裕もないしな」 「だから鳴滝、彼女のことは任せたぞ」 「……ああ」 そんな風に、鳴滝は静かに深く頷くと。 「ありがとよ」 さっと踵を返し、あとはもう振り向かない。実にあいつらしく立ち去っていった。 は、いいんだが。 「…………」 「…………」 二人きりになったところで、逆に俺はうまく口火を切れなくなってしまい、黙っていた。 鳴滝の余韻のようなものがあって、下手に喋ってしまうと色々とぶち壊しそうだったから。 すると我堂は、俺の方を向くこともなく、ぽつりといった感じに口を開いた。 「結局……、私たちって結婚はしなかったわね」 「……いきなりそうきたか」 「事実じゃないの。あんた、ずっと忙しいんだもの」 「おまえも同じだろう。時間がないという意味じゃ、我堂家当主へ会いに行く方が遙かに大変だったぞ。いつでも側近がいるしな」 「しかたないじゃないの。私だって、あんたと二人きりになるときがどれだけ幸せだったか――」 そこまで言いかけ、はっと我堂は我に返る。 「ちょ、ちょっと。今のは忘れなさい」 「おまえ……、最後まで締まらない奴だな」 「うるさいわね! あんたのそういうところ、ほんと全然変わんないわよね。いったい何百年経ってると思ってんの」 「そこを言うならおまえも全然変わってないだろ」 だが、先の言葉は嬉しかった。こいつとの普段通りなやり取りで、妙な緊張が解けたことも感謝している。 「俺もおまえと逢う時間が、何よりも幸せだったよ」 「なっ……」 ぼんっ、という音が聞こえてきそうな我堂の顔。 瞬間的に真っ赤になるところを可愛いと言ったら、反論が何倍にも膨らんで返ってくる。 そういうやりとりを繰り返しながら、俺と我堂は二人で未来を切り開いていったんだ。 「……けど今にして思うと、柊総理ってなかなか悪くない呼び名よね」 「マスコミから何て呼ばれてたか知ってるか?」 「なんて呼ばれてたのよ」 「柊総理と我堂家当主の我堂鈴子。永遠のライバル関係が、日本経済における競争原理を働かせているってな」 「な、なによそれっ」 「片や民主主義のリーダー。片や日本右翼の最強有力者」 「俺とおまえの関係は、マスコミだけでなく、最後まで誰も知らなかったみたいだぞ」 「……フンッ。あんなに頑張って忍んで逢ってたんだもの。知られてたまるかって思ってたわよ」 「あんたも私も周りを無視できない立場だった……性格的にもね」 「違いない」 まるで子供の頃、こう遊んだ、ああ喧嘩したというような回想録。 だが、それは間違いなく俺と我堂が選んだ未来だった。 我堂鈴子に相応しい男……というよりは、こいつと張り合う内にという方が正しい気がするが、とにかく気がつくと俺は政治の世界へ足を踏み込んでいた。 がむしゃらに前へ進んで十数年。俺は史上最年少の総理大臣になっていたのだ。 「私たちの喧嘩で、何度かこの列島がピンチになったこともあったわね」 「あれはおまえが自分の間違いを認めずに、俺と口をきかなかったせいだろう」 「だって悔しいじゃない。あんたはいつでも冷静で、私だけ駄々をこねて……そういうとき、たまには一人になりたくなることだってあったのよ」 「国交を緊張状態にすることはないと思うんだが」 もしかしなくても、俺たちの痴話喧嘩は一番傍迷惑な代物だったかもしれない。 それでも、俺は我堂の意地っ張りなところを可愛いと思っているから重症だった。 「やっぱりおまえに逢いに来て良かったよ。母さんと話したら、真っ先におまえの顔が浮かんだんだ」 「柊……」 「だからまあ、言うこと言うから聞いてくれ」 俺は軽く深呼吸して、我堂の目を見たまま言葉を継いだ。 「俺――柊四四八は、我堂鈴子のことを愛している」 「――ッ!!」 「本当に楽しかったよ。おまえとあれこれやってた未来は」 「それだけはちゃんと伝えておきたくてな」 「そう……」 だが、俺の告白を聞いた我堂の顔は、どことなく晴れないものだった。 切なさと、それから嬉しさを抱えているような反応。 だから、俺はなんとなく次に返ってくる言葉も予想していた。 「だったら、私の答えも分かってるわよね」 「もちろん。おまえに告白して袖にされるのは初めての経験じゃないからな」 「……ごめんなさい、柊」 あのときは、自分を取り巻く環境と、それから俺が足を突っ込んだ政治という世界を慮った我堂の配慮だった。 そして、今は―― 「私だって、自分だけがはっきり結ばれなかった未来に、不満だってあるわよ」 「晶はちゃんと結婚して、歩美と結ばれてからはほとんど日本に戻ってこなくなって……」 「そういう風にしっかり結ばれた子と比べると、私は――」 「…………」 「でもね、不満ばかりってわけじゃなかった。晶たちと結ばれたあんたを横で見てたときも、私は幸せだったわよ」 「祝福もちゃんとしたしね。強がりもそりゃ入ってたけど、嘘じゃないのよ」 「ああ、分かってる」 我堂の言葉は、どれも本心からだろう。表情も、声も、それから強い眼差しも。 どれもが、他の誰でもないこいつの想いなんだと伝わってくる。 「もしかして、おまえにしちゃいじらしすぎだろ、とか思ってる?」 「あのな、俺がそんなこと言ったらただの嫌な奴だろ。別に浮気してたわけじゃないが、事情が事情だ」 「複雑だっていうのは分かるよ」 「うん、そこはほんとにそうね」 言いながらも、我堂は微かに笑っている。どの未来も、こいつなりに楽しんできたという言葉が嘘じゃない証だろう。 「まあ、だからあんたと私はこれでいいのよ」 「どうせ庶民の恋愛なんて、私に合わないしね」 「……なるほど」 一見チョロいように見えて、実はとんでもなく落とし難いのが、我堂鈴子という俺の愛した女である。 だから、きっとこいつの言う通りだろう。俺達にとっては、告白して結ばれて結婚して、めでたしめでたしなんてのは、まったくもって似合わない。 そうであるからこそ、あの未来における奇妙な関係ですら、ベストだったと俺は言い切れる。 俺と我堂は、あのままでいいんだ。 「色々話したら、すっきりしちゃったわね」 「次はもう最後の戦いなんだ。その前に話しておくことに意味がある」 「未練を残したままじゃ、結果はついてこないからな」 「ふふん。まるで未来の総理みたいな言葉ね」 「俺としては、生まれ変わってもう一度繰り返したって構わないぞ」 「あれだけ大変だった政治の世界を、また?」 「それくらいの価値はある。なんてったって、右翼の最有力候補との恋なんだ」 「ちょ……柊っ」 「俺達が舵をとったはずの百年後の未来。もう一度見てみたいと思わないか?」 問いに、我堂は困ったような、だけど嬉しさを押し殺すような雰囲気で。 「……悪くないわね。そういうことだったら、生まれ変わっても千信館に入学だってするわよ」 「ああ。またテストの点とか競い合おうか」 「ま、まず俺が勝つけどな」 「あんた一言多いのよっ」 俺たちが望んだ未来。それを守るための最後の戦い。 どれもが楽な道のりではないからこそ、俺も我堂も隣にいる意味があるのだ。 答えて、同時に。 「よしっ、じゃあ行ってきなさい!」 ばしんと母さんから背を叩かれて、俺は本当に逢いたい女のもとへと向かっていった。 母さんに言われて、俺が真っ先に思い浮かべた女。 それはたった一人しかいない。俺はずっとあいつのことを気にかけてた。 いつのまにか頭の隅にいて、しかし決して離れてはくれない。 世良は寮の部屋にいるだろう。今も静かに最終決戦の時を待っているはずだ。 だからこそ、伝えねばならなかった。 俺が彼女の部屋に向かう途中でロビーを横切ろうとすると、そこには思いがけず栄光と野枝がいた。 「おう四四八! そんなに急いでどこに行くんだよ」 「栄光。それに野枝か」 「不躾な言い方ですね、四四八さん」 「悪い。今はあまり余裕がなくてな。おまえたちは元気だったのか」 「おうとも! オレは最終決戦に向けて気合い全開よ!」 「特に問題はありません」 「そ、そうか」 調子が狂うほどにテンションの差がある二人。けれど、それもどこか無理をしているように見えた。 「四四八こそ、身体のどこにも異常はないのかよ?」 「身体?」 「よくあるじゃん。最後の戦いに向けて、みんなには気づかれていない傷を隠しつつ、気丈に振る舞う主人公」 「そういうの、なんだかんだいって格好よくね? オレの憧れだね」 「隠してる傷のことを心配していたら、おまえが脇役じゃないか」 「……あっ」 力強く最終決戦と言いながら、いつも通りの友人に俺は内心でありがたく思う。 栄光のこういうところは、呆れるよりも素直に感謝したくなるのだ。こいつがいなかったら、気持ちが保たなかったことも一度や二度じゃない。 対して野枝は、言った通り特に変わった様子もなく、ただ栄光の隣に佇んでいる。 「と、とにかくだ。おまえに何も問題が無かったら、それでいいよ」 「心配してるのか?」 「心配というか、頼りにしてるというか……」 「はっきりしろ」 相変わらず不明瞭な反応だ……と思って、軽く突っ込んだつもりだったのだが。 しかし、栄光は俺の言葉に対し、眼差しを強くして返答した。 「そうだな……、うん」 「ホント頼りにしてるぜ、四四八。甘粕はおまえにしか斃せない。だからこそ、空亡はオレにやらせろ」 「栄光?」 「あいつはオレにやらしてくれ。頼む」 一切のふざけた様子もなく、栄光がはっきりと言い切った。 奴にかける思い。一度は文字通り命を賭して戦った相手なのだ。ゆえに俺はすんなり頷くわけにもいかなくなる。 「ちょっと来い」 「な、なんだよ」 野枝に聞かれるのも落ち着かない。俺は栄光を自分の側に寄せて、その意思を確認するべく尋ねた。 「また同じことをするつもりなら、許すことはできないぞ」 「おまえを二度も殺させてたまるか」 「……四四八」 栄光も、俺の言っている意味を充分に理解している様子だ。視線を逸らしたりせずに、正面から見返してくる。 そうした上で、こいつはきっぱりと答えた。 「分かってるさ、そんなことは。オレが死ぬつもりなら、きっとおまえはマジで許しちゃくれないんだろ?」 「当たり前だ」 「ありがとな、四四八」 「…………」 「けど大丈夫だ。もうああいうことはしねぇ。あれじゃ結局、空亡はやれなかったからな」 「死ぬつもりなんて、まったくない。信じてくれ、四四八」 栄光の言葉には確信が満ちていた。俺を納得させるほどの決意が感じられる。 気になった俺は、頷きながらも栄光の策を尋ねてみた。 「……そうか。しかし、具体的にはどうするつもりなんだ?」 「え、えっと、そりゃあ、おまえ……」 「おい」 ないのかよ。 声の調子や確信に満ちた表情から、てっきり具体策があると思っていたのだが。 これはやはり止める必要があるか……? 「…………」 だが、栄光を見ていると、どうも向こう見ずな無鉄砲という様子にも見えなかった。 俺に対して何か言いづらそうにしながらも、視線の端ではちらちらと野枝を伺っている。 こいつは―― 「と、とにかく! なんとかするから心配すんなよ。俺は正義の主人公――の体調を心配する重要な友達なんだぜ?」 「そういうポジションって、映画だと真っ先に危なそうな気がするんだが……」 「問題ない。ここは現実だ。変なロジックはもう存在しない。勝つ方が勝つんだ」 「……そうか。決意は固いんだな?」 「ああ。止めても無駄だ。オレは死にもしないし、空亡にも負けねぇ」 「分かった」 「…………」 友人だと思うのならば、確証や根拠がないままで死地へ行かせるわけにはいかない。 しかし、確証や根拠がない現実だからこそ、信じて送り出せるのもまた友人だと思っている。 今、ここで語れないのなら別にいい。俺は栄光の決意や覚悟を信じたいと思った。 すると、そんな俺の心境を察したのか、すっと近づいてきた野枝が言った。 「大丈夫です。栄光さんのことは私に任せてください」 「ちゃんと見張っていますから。信じてください、四四八さん」 「頼んだ」 「俺は目の離せない子供かよっ」 大事なことを確認したところで、俺はようやく元の目的に戻る。 栄光には栄光の事情があるように、俺には俺の事情があるのだ。 こいつらの覚悟にただ頷き、寮の部屋へ向かうために俺が踵を返すと、にやりと笑って栄光が言葉をかけてきた。 「水希にはちゃーんと告白しろよ!」 本当に最後まで浮かれた奴だ。そんな友人の言葉に背中を押されながら、俺は世良の部屋に向かっていった。 「まさか部屋にまでやって来るなんて」 「おかしくはないだろう。世良に会いに来たんだから」 部屋に入るなり、世良が驚いて、俺のことをまじまじと見つめてくる。 「俺がこういう行動をするのって、そんなにも違和感あることなのか?」 「うぅん。そういうわけじゃないんだけどね。真っ直ぐなところ、柊くんらしいといえばらしいかな」 「おまえの目に、俺の姿がそう映ってるのなら、嬉しいことだ」 「ふふ。やっぱり柊くんが言うにはロマンチック過ぎて違和感あるな」 「どっちなんだ……」 夢での出会いからしてもそうだったが、やはり世良と話しているとペースが乱れがちになる。しかし、それだって俺の知らなかった俺の一部なんだ。 こいつと出会ってから、俺が新たに気づかされたことは数え切れない。 そういうものの積み重ねが、いつしか世良への想いに変化していったような気がする。 「あ、そのクールな目と頭で、またごちゃごちゃ考えてるな」 「悪いのか?」 「悪くないよ。けど、たまには教えて欲しいなって」 「聞いたって面白いもんじゃない」 「それは私が判断すること。柊くんが話したいことじゃなくて、誰にも言えない柊くんのことを聞いてみたいんだよ」 「意地が悪いようにも思える言葉だぞ」 「歳上だからね。そのぶん私は柊くんたちよりずるいし、面倒くさい人間なんだよ」 「たとえば、今ね……」 そこでこいつは、少し憂うような目をしたあと。 「私は、柊くんの好きな人を聞きたい」 儚げに微笑みながらそう言った。まるで罪の告白でもするみたいに。 俺はそれが、どうにも見ていられなかったから、思わず―― 「世良……俺が好きなのはおまえだよ。分かってるだろ」 そっとこいつを抱きしめてからそう言った。 機先を制された形にはなったけど、そもそも俺がここへ来たのは世良に気持ちを伝えるためだ。なのでこの展開に躊躇も不満もなかったが、それはあくまでこちらの視点での話。 世良は身体の力を抜いて身を預けてくれるものの、抱き返してはこなかった。 「……柊くん。ありがとう」 そう、こいつは今葛藤している。触れ合っている部分から、世良の迷いや恐れが伝わってくるんだ。 「私も柊くんのこと好きだよ」 「だけど、迷っているんだな……?」 「……うん。柊くんのことが大好きだから、そのぶん私の中で葛藤が静まってくれないの」 「…………」 世良が何を迷っているかはすでに察しがついている。というか、一つしか有り得ない。 「夢の記憶がすべて残るっていうのも困ったもんだな」 「だね。柊くんと、私じゃない女の子が結ばれたのが、まるで昨日のことみたい」 そこを言われると返す言葉もなくなるんで黙っていたら、世良は苦笑いしながら続けていった。 「だってさ、柊くんと晶が結婚したときは私、涙が止まらないくらい悔しくて幸せだったんだから」 「矛盾してるぞ」 「女がね、女の幸せをお祝いするときは、そうなるの」 「とくに相手の男の子と、それに女の子のことも大好きなときは、もう涙が止まらないんだよ」 「世良……」 「歩美のときだって同じだった。柊くんってば、歩美と結ばれてから自衛官になっちゃうんだもん」 「将来の姿って考えると俺らしくないか?」 「一番柊くんらしくてジェラシーだよ。歩美じゃなきゃ無かった未来だからね」 「そして、やっぱり二人がくっついたことがすごく幸せだった」 「ああ、これで柊くんは幸せになれたんだなって。歩美でしか、柊くんのああいう幸せは紡げない。戦ってるときの柊くん、すごく充実してるみたいだったよ」 「……確かに歩美とだから有り得た未来だと思う。そうやって考えると我堂との未来は、他にないくらいすごい結末だった」 「ホントだよね! 首相だよ? 柊総理って凄すぎるよ!」 「鈴子でしか有り得ない未来だったね。政治家の柊くんは大変そうだったけど、日本を裏で操るカップルなんて、なんだか羨ましかったよ」 「最初からそうなるつもりじゃなかったんだが、まぁ成り行き上、色んな責任のとり方がある」 「そして、いつだって全力で中途半端には投げ出さない柊くんだから、しっかりみんなと幸せになったのでした」 「…………」 言葉だけなら皮肉っぽくも聞こえる言い方だ。しかし、それが何の裏返しでもないことを俺は知っていた。 世良は、心の底からそう思って、いつも俺達のことを祝福してくれたんだ。 「それで私の話に戻ってくると、急に自分のことが嫌になってくるの」 「世良の感じてることや思うことのすべてを知ってるわけじゃないが……そこまで自己嫌悪にならなくていいんじゃないか?」 「なるよ。そりゃ自己嫌悪に陥っちゃうよ。だって、あんなにも幸せそうな柊くん達のことを知っているはずなのに……」 「それなのに今の私は、柊くんのことを誰にも渡したくないって思ってる」 「柊くんを独占したい。それは違うこと、思っちゃいけないことだって分かってるのに、自分の気持ちが止められない」 「こういう感覚は初めてで……私は自分のことが分からなくて前に進めなくなってるんだと思う」 「だから、そんな私を一番信じてくれそうな柊くんに聞いてほしかったの」 俺には世良の葛藤が、あますところなく伝わってきていた。 こいつは今まで、色んな意味で自分というものを内に封じ込めていたから、その枷が外れたことで気持ちを持て余すようになっている。 こいつほど複雑で大掛かりなケースは稀だろうが、程度の差を問わなければ誰もが似たような経験をしているはずだと思う。 だからこそ……そんなときのために友人や、愛する人が必要なんだ。 「柊くん、教えて。私、どうすればいいのかな……」 いくつも見てきた未来で、俺は大人になり、弱い自分を乗り越えようと必死に生きて愛し合い、助け合ってきたのだから。 「私、柊くんと結ばれちゃっても、本当にいいの?」 だから、俺は世良に告げる。 「当たり前だろう。何の問題があるっていうんだ」 「おまえはもう、誰かに遠慮したり怖がったりする必要はない」 「同じ過ちを繰り返すなよ世良。俺を、俺たちを信じろ」 「二度と誰も、おまえの前からいなくなったりしない」 「だから世良は、世良のままでいいんだよ」 「っ……柊くん」 そして、俺と世良は強く抱きしめ合っていた。 そこからもう、言葉は要らない。 …………… …………… …………… 「はぁ……柊くん。嬉しい……こうして愛し合えるなんて……本当に嬉しいよ」 「……ああ」 俺は短く答える。本当だったら色々言いたい。だが、さっきまで充分に話した。だったら、もう態度で示すのが男であり、筋ってものだろう。 「ふふふ……やっぱり素敵だな、柊くんは……」 世良の口からこういうストレートなのが飛んでくるのも慣れたはずなのに、なんとなく気後れして恥ずかしい気持ちになる。 交わり合うっていうことは、こういうことなのかと俺は思った。 「世良、いいか……触っても」 「いいよ。柊くんのだもん。それに触られると、凄い気持ちいいし、幸せなのに包まれて、本当に嬉しいから……」 俺も同意だ。世良を愛している……その時間がとても幸せでかけがえの無いものだと思ってやまない。 「はぁ……柊くん……いい。あったかい……凄い、気持ちいい」 まだ服の上から触れる程度。優しく撫で回すように、世良を感じる。 熱いくらいの体温に、俺もまた興奮を隠せなかった。そのまま世良の気持いいと思える場所に手を伸ばして、優しく触っていく。 「ふぅっ……んんっ……はううぅっ! き、気持ちいい……やっぱり柊くんが触るのは気持ちいいんだね」 「性感帯だからな。それで反応してるんだろう」 「ふふっ、相変わらずなんだね、柊くん。そんなことないよ。柊くんに触られるからこんなに気持ちよくて、こんなに幸せなんだよ」 そう言い切る世良は眩しい。こんな風にうっかり無粋な返答をしてしまう俺が恥ずかしくなる。 そうだとも。俺だって世良に触られれば幸福と快楽を一度に得るだろう。間違いのないことだ。 思わず俺は自分の浅はかさに顔を赤らめてしまう。 「はぁ……ああんっ、んんんっ、ふぁっ……ああ……い、いいぃっ……だんだん気持ちよくなって……くぅっ……」 「まだ足りてなかったか」 「えっ、あ、う、うん……もっと感じたい、柊くんの……」 俺は頷き、服の上からまさぐっていく。 柔らかい双房から身体を撫でる。だが、股間は撫でない。まだだ。これからもっと感じてもらってからだ。 そのまま股を撫で、再び胸を責める。 「ふあぁ……んんっ! い、意地悪……どうして、アソコに触らないの?」 「触って欲しいのか?」 「そ、それは……そうだけど、その、口にするのははばかられるから、その、柊くんが好きにして欲しいんで……」 「だから好きにしている」 ちょっと意地悪かとも思ったが、俺は素直にそう告げる。 そうとも。まだまだ。これからなのだから。 「意地悪……」 「お願い。もっと触って欲しい。だから、脱がせて……」 顔を赤らめながら、世良は正直に求めてきた。俺はそれを正しく受け止める。 「はぁ……ああ……涼しい……凄く汗かいてたみたい……」 「ふぅ……んんっ……や、やだ、早いよ、柊くん……もうエッチするの?」 「兵は神速を尊ぶ、というのは嫌いか?」 「ん……男の人の考え方だと思うな」 「俺は男だよ。それに俺も我慢できない」 「はふぅっ、んんっ……柊くんってば、ちょっとズルいかな」 ……ずるい? 何がずるいというのか。 「そんな風に言われたら私、抵抗できないじゃない。いいよ、触って。エッチな気分をもっと高めさせて」 女心は難しいな。だが、やるべきことをやる。それが男の甲斐性だろう。 「はぁっ……ああ……んんっ……ふうっ、んんんっ、い、いいぃっ……凄い、気持ちいい」 「私の気持ち良い所、もっと触って……ほら、胸とか……そう……そこ……乳首……凄く感じる……」 自分から進んで触って欲しいところを口にする世良。普段とは違う態度に俺もまた興奮を高めていく。 「はぁ……はぁ……ああ……感じる。そこ……ほら、きゅっとしていい……乳首、ぎゅっとして……」 「意外に自分から欲しがるんだな」 「……だって、次、いつできるか分からないから。今、柊くんにして欲しいことをいっぱいして欲しい」 「……そうだな」 俺も同じだ。次、いつか――それを考えるのは止めたい。だが、頭の隅には常にその事実がこびりつく。 これを忘れるためには、どうしたって性欲を加速させるしか無い。 俺は世良の要望通り乳首をぎゅっと摘み、責め立てていく。すぐに指先に硬い凝りが出来上がり、むき出しになった肌がパッとピンク色に染まっていく。 「くぅうぅっ……い、痛い。痛いけど、凄い、アソコに、響く……感じるよ、柊くん……」 「もっとおっぱい、責めて……私に気持ちいいこと、して」 俺は頷く。乳首を中心に責める。だがそれだけではない。片手では下半身を優しく愛撫し、感じさせていく。 世良の口が戦慄きながら快楽を訴え始める。 「ふあぁっ……あああ……ああああっ! い、いいぃっ、気持ちいいぃっ……こんなに、感じて……んんっ!」 「んきゅぅっ……ふぅっ、あ、アソコが、ビクビクして……んんっ……いっぱいいやらしいの、出てきてる……はぁっ……ああ……」 「柊くん……もっと触ってほしい。私の大事なところにも、触れて欲しい……そして、気持よくして……お願い」 世良の欲望が更に高まっているのに、俺は興奮する。すぐにでもセックスしたくなるが、我慢だ。 ここで楽しむべきはじっくりとした時間だと思うから。 俺は世良の下半身を開放した。 「はぁ……ああ……もっと涼しい。でも、熱い……身体全部が凄く熱くて……ドキドキが止まらない……」 「見て……私が、凄くいやらしい状態になってるって、見て欲しい……どうかな?」 俺は優しく陰裂を開く。 ねっとりとした濃い愛液がこぼれだし、甘ったるい牝の匂いが広がってくる。 そして、陰部の粘膜は充血で濃いピンク色に染まっており、俺の指が触れる度、べつの生き物のようにビクビクと痙攣して、いやらしく蠢く。 「はぁ……見られてる。凄い、気持ちいい……」 「こんなところを見せて嬉しい気持ちになるのは、やっぱり柊くんが、好きで好きでしょうがないからだよね……」 「ごめんね……こんなにエッチになっちゃうなんて思わなかった。だけど、嫌わないで……お願い」 「……嫌うわけないだろう」 俺は思わず笑いそうになる。どうして嫌いになる。俺の好きな人が、俺のことでこんなに興奮している。 それを幸せだと思わないで何を幸せだと思う。俺にとっては最高の彼女じゃないか。 「考えるな。感じろ。それでいい……」 これ以上世良に言葉を語らせてはいけない。それでは熱が冷めてしまう。もっともっと熱く。もっともっと激しく、だ。 開いた陰裂に指を宛がう。一本じゃない二本。そのまま、ゆっくりと割れ目を擦っていく。 すぐにグチュグチュといやらしい音が出て、愛液が泡だってくる。腰回りがビクビクと動き、まるで更なる快楽を求めてるようだった。 「きゃうぅっ、はうぅっ、んんんんっ! き、気持ちいい……もっともっと……もっと感じさせて。私、柊くんのぉ、エッチ、全部受け止めたいの……」 「はぁっ……あああ……ああああっ! い、いい! いいよぉっ! いいのぉっ、指で、たっぷりいじめられるのぉ、好きぃっ!」 秘部の粘膜を指で擦るだけで、世良は歓喜に震えていた。その世良の反応を見て、俺も興奮を高め、股間のシンボルを硬くしていく。 早く世良を犯したい。その欲望が、そのまま指責めに現れる。 俺は膣口に指をねじ込み、膣の内側をこすっていく。 「きゃあああああうぅっ! んはぁぁっ、あっ! ああっ! あああああっ! い、いいぃっ、そ、そこぉっ、好きぃっ!」 「はぁ、はぁ……ああ……あああ……んんんんっ! が、我慢、できなくなる……気持ちいいの、もっともっと欲しくなる……」 「あ……ああああ……私、凄く、はしたない……大好きな柊くんに、こんな姿晒して、こんな恥ずかしいこと聞かせて!」 「で、でも……ダメ……もっともっと、エッチしたい。エッチになりたい。柊くんので、そうなっちゃいたいぃっ!」 歓喜でありながら悲痛。男の甲斐性としては最高の状況なのだろう。俺も世良に合わせて、もっと気持ちよく、高まる行為をしたいと思っている。 ああ……いいとも。俺も世良とエッチをしたい。気持ちよくなりたい。 そうして俺たちは向かい合いながら体勢を作っていった。 「ふあぁっ……んっ、ひ、柊くんの、顔近い……」 「仕方ないだろう。こういう体勢なんだから」 対面座位、とでもいうのか。 互いが向い合いながら、生殖器が触れる位置で、身体を重ねている。 「ふふっ、でもこれだと挿れる直前までよく見えるよね」 「はぁ……凄い、起立してるね、柊くんの、それ……」 世良は熱っぽい視線をペニスに浴びせてくる。早く欲しくて仕方ないようだ。 「早く……欲しい。これ、入れたい……私の、アソコに……」 それは俺も同じだ。だが、もう少し愛撫した方がいいだろう。向かい合っているからこそ、顔を見て愛撫ができるのだし。 「はぁ……んんっ……お、おっぱい……あっ! あうぅっ! き、気持ちいい……気持ちいいけどぉっ、んんっ……ま、まだ、足りない……」 「もう、挿れていい……私の中に、挿れて欲しい……柊くんの、これ……これを……」 だが、俺は首を振らない。代わりに、世良の手を俺のペニスに宛てがわせる。そう……もっと扱いてもらおうというのだ。 「あ……ああっ……い、意地悪ぅっ……んんっ……欲しいぃっ、これぇっ……これがぁっ、欲しいのぉっ……」 甘いおねだりの声。とても可愛い。そして、普段では絶対に見せない世良の姿。俺だけが見られるとっておきの姿なのだ。 「あ……うぅっ……んっ……柊くん、そ、そんなに、真剣になって見ないで……恥ずかしいよぉ!」 我に返ったのか、視線を反らし顔を真っ赤に染めている。それさえも、俺にとってはとても嬉しい光景だった。 そのまま腰を突き上げると、世良は扱き出す。ゾクゾクとした興奮が俺の中にも広がってくる。 もちろん俺のモノを扱いている世良はもっともっといやらしく、何かに憑れたようなそんな表情で、手コキを続けている。 「はぁ……欲しい、これ、これがぁ、欲しい……柊くんのぉっ、これぇっ……欲しい……私の中に、ずっぽり……ずっぽり、したい……んんっ!」 俺は世良のこの言葉に満足して、世良を抱きかかえる。そうとも、望みどおり挿れてやろう。 「きゃぁっ! あ……あああっ! い、いれ、挿れる――」 望みどおり、膣の中に俺のモノが全部入った。彼女の思った通り、ずっぽりというハマり具合だった。 「あ……ああ……かはぁっ! んんっ……ふうううううぅっ……くぅっ!」 途端、ぎゅぅっとペニスが締め付けられた。どうやら軽く絶頂を迎えているらしい。事実、俺の身体に爪を立てて必死に耐えている。 「くぅっ……はああ……ああ……あああ……イっ、イッちゃった……んんっ、柊くん、ずるい。こんなに気持ちよくしちゃうなんて……」 そんなにずるかっただろうか。世良の望んでいそうなことを徹底的にやっただけなのだが。 「いいもん……私も、柊くんの、いっぱいいっぱい、気持よくするから……それでおあいこだよね」 そういうと世良は腰を浮かし、俺自身を刺激する。 幾度となく絶頂を迎えた世良のヴァギナは俺のモノを完全に包み込み、それを扱き上げていく。 我慢できず、俺もペニスをひくつかせ、先走り汁を溢れさせる。反撃したいが、世良の行為を全部受け止めてからにしたい。 「はぁ……ああうぅっ……んんっ! はぁっ、ああっ、うあぁっ……き、気持ちいいぃっ……こんなにぃっ、気持ちいい、なんてぇっ!」 「くぅっ……んんんっ……だんだん、おかしく、なってきちゃう……まだ、セックス始めたばかりなのに……もぉ、私の中、ビクビクして……」 「ご、ごめんね……柊くん、もう、私ぃ、動けない……」 荒い息を漏らしながら、世良は俺の身体に全身預けてくる。イッたばかりで無理するからこうなるのだ。 だが、世良の気持ちはよく分かる。自分ひとりが達しているのが許せないのだろう。俺に対してではなく、自分に対して。 我慢できなかったのだ。だが、俺もギリギリのところで立っていた。世良が達したから、こうやってまだ余裕を持っているだけ。 だから、ここからは余裕のないセックスとなるのだ。 「あっ……ああっ……んんっ……こ、小刻みなの、いい……子宮にぃっ、いっぱい、響くからぁっ、好きぃっ……」 余裕のなさは技量でカバーするしか無い。どうすればいいかぐらいは分かっているつもりだ。 こうやって小刻みに動かせば、互いの刺激は小さく、だが気持ちいい場所を刺激するのは行えるのだ。 「ふぁぁっ……ああ……あああっ! でもぉ、これ、もっと……欲しくなるね……柊くんは、どうなのかな?」 「まだ、我慢、できるんだ……い、いいなぁ。私、もう全然余裕ない……こんなに気持ちいいことになっちゃって……もぉ、身体がおかしくなっちゃうっ!」 「でも、いい……もっともっと、柊くんと気持ちいいことしたい。次まで、凄く長くなったらやだけど、そうなってもいいようにね!」 それは俺も同じだ。長く世良を抱けないなんて、考えたくもないことだ。だが、無い話しじゃ無い。 俺と世良の時間がこれから先どうなるかなんて分かったものじゃない。だからこそ、今は刹那的に貪り合ってもいいじゃないか、と思うのだ。 「はぁ……んっ……もっと、動いて……私の中、いっぱいいっぱい犯して……柊くんので、ちゃんと、証を作って……欲しい……」 「うん……私が、思い出しただけで、凄く濡れちゃうほど……そんな強い証にして欲しい……」 ああ……望むところだ。自分の女にそこまで言わせて、それを達成できないのは、男じゃない。 甲斐性? いやそんな問題じゃない。女が愛してくれる男である限り、男としての責任をきっちり果たさなくちゃいけないのだ。 俺は大きく腰を揺する。どうせ次のステップでは世良の身体を抱えるようにして、ピストンを打ち込んでいく。 だったらここは世良の中をたっぷりと味わうように、動かしていけばいいじゃないか。 「くぅっ……うあぁっ、ふあぁっ! わ、私のぉ、中ぁっ……いっぱいっ、いっぱいぃっ、気持よく……なってぇっ……んんっ……柊くんのぉっ、私の中で、たくさん動いて……いい、気持ちだよぉっ!」 「はぁっ……あああ……ま、またぁっ、奥からいやらしいのぉっ、どろって、出てきちゃう……んんっ……もっと、もっとぉっ、刺激、欲しくなるよぉ……」 「お、お願い……柊くん。いっぱい、いっぱい、パンパンして。私の中が壊れてもいいから……それぐらいして欲しい。私に、柊くんの、証、刻んで欲しいっ!」 俺は世良の望みどおりに動いた。いや、それは俺が一番望んでいたことじゃなかったのか。 そうだ。俺はこうしたかったのだ。世良の尻をつかみ、そのまま揺すりながらストロークを打ち込んでいく。 俺と世良の間でぐちゃぐちゃと泥をこねるような淫猥な響きが漏れ聞こえるようになる。 「くぅっ……きゅぅっ……ふあぁっ! あああっ! ああああああっ! い、いいぃっ! 気持ちいいぃっ! 柊くんのがぁっ、私の、中ぁっ、ずんずんしてるぅっ!」 恥ずかしげもなく大声を漏らす世良。俺はもっともっと世良の声が聞きたくなっていた。 だから、そのまま何度も何度も子宮を押し潰さんばかりに腰を打ち込んでいく。 「ふぅっ、ふぐぅっ……んんっ……し、刺激ぃっ、強いぃっ! でもぉっ、これぇっ、好きぃっ……」 世良の快感に触れ、俺もまた責めるの深めていく。 打ち込みだけじゃなく、グラインドも混ぜながら、女性器そのものを貪り尽くすような、そういうセックスに変化するのだ。 「くぅっ……あああっ! あああっ! だんだん、またっ、気持ちいい痙攣、してきた……」 「くぅっ、ふぅっ……んんっ……ビクビク、止まらないぃっ……柊くんぉっ、凄い、熱くて、嬉しいところばかり突いてるからぁっ、もぉっ、イッちゃっても、お、おかしくないのぉっ」 それは俺も感じ取っていた。世良の膣が縦に蠢いていく。子宮が反応しているのだ。 絶頂が近いと分かり、俺は一気にピッチを上げた。ただ、漫然と突き上げていたら世良の絶頂に合わせられない。 俺は激しく腰を動かした。俺と世良の結合部から愛液がはみ出るように飛び散っていった。 「はぁっ……ああっ! ああああっ! い、いいぃっ、こんなに、気持よくて……もぉっ、わ、私ぃっ、んんんっ……い、イッちゃうぅっ……柊くぅんっ!」 俺は世良の身体をぎゅっと抱きしめる。オルガスムスを迎えつつある世良の身体ががくがくと大きく震える。 「くぅ、きゅぅっ、ふぁあああああああああぁっ! あーーーーーーーーーーーーーーーーーー、い、イクうううううううううううううううううううううううううううっ!」 この激しい言葉に合わせたように、膣内は快楽の暴風が吹き荒れていた。グニュグニュと蠢く粘膜の筒。それが俺の陰茎を丁寧に、そして優しく、激しく、責め立てる。 世良の絶頂の声と共に、俺もまた射精を迎えたのだった。 「はああああぁっ! ああああああああぁっ! あーーーーーーーーーーーーっ!」 自分の膣内で起こる爆発のような射精の感触に世良は歓喜の声を上げていた。 目の端からは随喜の涙がこぼれ落ち、戦慄く唇は快楽の吐息を幾度と無く漏らし、甘い牝の匂いを更に濃密していった。 「あ……ああ……こ、こんなにぃ、気持ちいい……なんて……んんっ……嬉しすぎて……おかしくなっちゃう……」 ぎゅっと世良は俺の身体を抱きしめる。まだ震えは収まっていない。 俺は優しく世良の身体を抱きしめた。 世良は鼻を鳴らして甘えてくる。とても可愛いい反応だった。 「ぐすっ……なんだか、泣けてきちゃう……気持よくて、嬉しいのに、涙が出ちゃうし……」 「はぁ……柊くん、もっと強く抱いて……お願い」 世良の要望に応え、俺はぎゅっと身体を抱く。 快楽の余韻で、震えながら世良は涙をこぼし続けた。 「はふ……んっ……柊くん、ありがとう」 「それは俺も同じだ」 俺は世良の髪を撫でながら、そう告げる。 「ううん、私の方がわがままだったからね。だから感謝するのは、私だよ」 俺も同じだが、黙って頷いた。互いに譲り合ってもしょうがないことだ。 互いのことをたくさん大事に思っている。それだけでいいじゃないか、と。 「はぁ……このまま、一緒の時間が続けばいいのに」 同感だ。世良との時間、これが後どれだけ取れるのか。 いや考えはすまい。一緒の時間をこれからも得るために前に進むだけだから。 「もっときゅっとしてくれる? 私に、柊くんの力、分けて欲しいから」 「俺も世良の力を分けてもらうよ」 「うふふっ……最後の戦い、頑張って勝とうね」 「ああ」 世良の腕が、俺の身体を抱く。 俺たちは、互いの体温を、鼓動を、汗の香りを、たっぷりと受け入れあった。 そして―― 「キス、して……」 そのまま俺は世良の唇を自分の唇で塞いだ。 「……そうだな。確かにここで世良のことを愛して終わりってのは、おまえの言う通りなんか違う気がする」 「柊くん……」 俺は抱きしめていた腕を解き、世良の肩を掴んで答えた。 「世良にあそこまで言わせたのは辛かったけど、確かにその通りなんだ」 「晶たちを愛していた気持ちは嘘じゃない。あれも正真正銘、紛れもない俺そのものだった」 「俺は誰かのせいでとか、何か成し遂げるためになんて思ったことはない。ただ純粋に、そのときの相手を愛していた」 「うん。そうだね。そういう柊くんだから、ずっと素敵だったよ」 ようやく世良にも、それから俺にも力が戻ってくる。 迷いは途端に俺達から色んなモノを奪おうとする。それは決意や、覚悟や、ポリシーなど。 だからこそ、俺の答えによって迷いが晴れた世良の瞳には、また元の輝きが宿ったように見えた。 やがて、いつものように悪戯っぽく世良が言う。 「色々求められて、男は辛いね」 「女も辛いみたいだしな」 「百年後、私たちにも未来があるといいな」 「それにはまず戦いに勝つことだが――」 「勝つことだが?」 「俺も夢を見ずにはいられない。夢に見ていた百年後。それが確かな未来になるように」 「そして、勝ち取った未来の千信館で、今度こそ世良と俺が結ばれるんだ」 「最高……! そんなこと言われたら、私も柊くんと同じ夢を見ちゃうから」 満面の笑顔で、世良が応えてくる。 さて。青写真を語るのはここまでにしておこう。 俺達には、まだ最後の戦いが残っているんだ。 それに勝利しない限りは、どれもただの夢物語で終わってしまうから。 すると最後に、ちょっとだけ付け加えるように、小さな声で世良が言った。 「でもね、今は自分のところに来てくれたことだけで充分だよ」 「世良?」 「ありがとう、柊くん。絶対に勝とうね」 俺達は誓い合った愛を手に入れるため、最後の戦いを迎えようとしていた。 …………… …………… …………… 「……ここも、なんだか奇妙に懐かしいな」 選んだ女との対話を終え、俺は一人、戦真館の教室に立っていた。 ここで教わり、そして戦い、百年後の千信館ですごした日々の諸々が、こうしていると胸に次々と去来してくる。 偽りなく、俺にとっての特別な場所と言えるだろう。だからそのすべてを目に焼きつけ、記憶しようと思っていた。 これで最後になるかもしれないから……などと、そんな縁起の悪い理由からじゃない。ここが俺たちの原点で、心に秘めるべき聖域なのだから誓いを立てるためにという意味だ。 ゆえに、呟く。 「勝つ……俺たちは絶対に勝つ」 そしてあの未来へ、夢見た朝を現実にしてみせよう。 俺の子や孫、さらにその先へと繋がる輝きを守るために。 そうした想いを形として残すため、俺は小刀を取り出すと壁の一角に誓いを刻み付けることにした。 「大正十二年、九月一日――此処に我らの勝利を誓う。柊四四八」 この文言は、百年先にも残るだろうか? 記憶にある千信館はこの戦真館から数度の改修工事を経ていたから、消えてしまうかもしれない。 それともあるいは、この教室とはまったく違う場所に移るかもな。現在のここが百年後にはただの物置となるかもしれないし、板の一部だけを別の所に持っていかれる可能性だってあるだろう。 そういうことが起きた場合、とりあえず便所とかの格好悪い場所になるのだけは勘弁してくれよと思っているが、まあそれも面白いか。 俺の子や孫、そいつらが千信館に入学して、ふとしたときにこれを見つけて、馬鹿か親父なにやってんだと突っ込み入れてくれたら笑える話だ。 「ふふ、ははは」 そう考えると、なんだか愉快な気分になってきて…… 「なーに一人で遊んでんだよ、おまえはよ」 いつの間にか背後に全員そろっていたこいつらに、不覚ながらまったく気付いていなかった。 「おいおい柊、優等生のおまえがずいぶん珍しいことやってんじゃねえか。いや、ある意味おまえらしいのか?」 「おー、なにこれ。誓いの寄せ書き? だったらあたしもなんか書こうか」 「やめなさいよみっともない。こういうのは早い者勝ちで、二番手以降の便乗犯は馬鹿丸出しよ」 「ま、なんかあったらリーダーの四四八くんが責任取って怒られるんだし、これ一個でいいんじゃない?」 「そうだね。それに、誓いの気持ちはみんなきっと同じだから」 晶、歩美、世良、我堂、栄光、鳴滝、俺の眷属……仲間たち。 共に夢を越えここに集い、これから最後の戦いへと赴く同志だ。 こいつらの顔を見て、改めて思う。そうだ、俺たちが負けるはずはない。ここに刻んだ誓い通り、勝利は必ず掴み取れると信じている。 「なあおまえら、あれをやろうか」 「うん? なんだよあれって、なんかあんの?」 「ああ、分かった。あれだよね」 「まあ、定番と言えば定番だし」 「なあおい、ちょっとオレ分かんねえんだけど」 「鳴滝くん、今度はちゃんと喋んないと駄目だよ?」 「たく、面倒くせえなあ……」 分かっている奴、分かってない奴、それぞれ反応は様々だったが、俺は黙って右手を掲げた。 「おぉ、そっかあれかぁ!」 「ようやく分かったわ。ていうかオレと晶だけ察し悪くて馬鹿みてえじゃん」 「そりゃ実際、あんたら馬鹿のツートップじゃない」 「うるせーよ!」 そんなお決まりの喧々囂々。この状況でも変わらないこいつらのことが、俺は何より頼もしく思える。 「いいから、ほら――」 「オッケー」 「よーっし」 「修学旅行の馬鹿台詞大会に比べりゃ、確かにマシか」 アホなことを思い出させるなよ鳴滝。そんなこんなはまあ置いといて、今再び俺たちはこの時代で朝へと誓う。 あのときのように円陣を組み、手を重ね、それぞれの決意を表明するため。 「ここまできたらもう細かいことは言わない。大事なのは今、俺たち全員がそろっていることだ」 「そしてこの先、誰かが欠けることなど絶対に許さん。そのことだけは、ここにおまえらの〈真〉《マコト》と一緒に誓っていけ」 もともと俺たちは、この戦真館に在籍する一学生にすぎない身だ。将来の軍属として相応の覚悟と共に入学したのは確かだが、それでも本来はここまでの大事に関わるような身分じゃない。 にも関わらず、こうして最前線に立っていること。 聖十郎との因果によってハナから避けようがなかった俺とは違い、特科生というだけで邯鄲へ身を投じることになったこいつらは、なぜそうまでして危険な戦いに付き合ってくれたのか。 たとえ野暮と言われようとも、聞かせてほしいんだよ。俺が盧生として、夢を間違えたりしないように。 「甘粕正彦は強い。たった一人で邯鄲を制覇した奴は、俺の数段先を行っている。すでに一度、世良を残して全滅したこともあるくらいだ。その記憶と恐怖は、全員覚えているだろう」 「このリターンマッチは甘くない。神野や空亡は言うまでもなく、鋼牙や辰宮も一筋縄じゃいかないのは分かっている」 「だけど俺たちはここにいるんだ。なぜか――」 「世の中ぶっ壊そうとかいう奴ぶん殴んのに、身分もクソもないだろ馬鹿」 「柊がやるって言ってるのに、私がやらないわけにはいかないじゃない。忘れてんじゃないでしょうね、あんたは私に負けて、奴隷になるのよ」 「俺は気に食わねえ奴をぶん殴るだけだ。真奈瀬と被るが、理屈なんてそんなもんだよ」 「オレ、おまえらのことが好きだからさ。対等のツレでいたいんだよ。だから逃げねえ」 「わたしも、何より自分自身から逃げたくないから」 「ずっと悩んで、分からなくて、だけどやっと答えを見つけ出したの。それを確かめに私は行きたい」 「つまり――」 かつて誓ったあの日の通り、俺たちの思いに間違いはなかったということだ。 「この気持ちが悪いものであるはずがない!」 国を、世界を救うとまでのでかい風呂敷は手に余る。ただ俺たちは、それぞれの動機から甘粕という悪夢の流出を止めたいと願い、仁義八行を胸に抱いて邯鄲の夢を駆け抜けた。 「それだけは、誰も忘れなかった俺たちだけの戦の真だ!」 ゆえに勝つ。朝に誓う。 「必ずあの未来へ辿り着こう。気合いを入れろよ――いいなッ!」 「了解っ!」 「これが最後だ――」 「当たり前!」 「戦真館の学生らしく――行くぞォ!」 「おーっ!」 掲げられた手の向こう、ここに俺たちは真に一丸となったのだ。 ああそうだ、誰も欠けない。戦真館は無敵だと強く信じろ。それは絶対に夢じゃないと、この場の皆が知っているから。  そして──  光があれば同等の影がその色を濃くするのが世の真理。  彼らは勝った。ゆえに雄々しく明日を目指す。  戦真館の流儀を胸に、誓い誇って、肩を並べ、志を共にする仁義八行の犬士たち。立ち昇る朝日のようにその輝きは煌めいている。  だからこそ、忘れてはならないだろう。  勝者の影には必ず敗者が屍をさらしているということを。  絶望という闇は深く、深く、誰にも知られぬ片隅で蠢き毒を吐いている。  負けるというのはそういうこと。腐臭に満ちた漆黒の血を垂れ流し、惨めに悶えるしかないのだ。 「おのれが、ふざ、けるなァ………、──」  呪詛を搾りだすのと同時に、膿んだ肉が胃から食道へと逆流した。今にもへし折れそうな枯れ木の指で胸を抉れるほど掻き毟り、地をのたうちながら柊聖十郎は現実を悪鬼の形相で呪っている。  それはさながら寿命が尽きる寸前の蟲にも似ていた。もはや死ぬと分かっていながら生を求めて一心不乱に足掻きつつ、しかし己が所業を悔いる気持ちなどここに至ってすら欠片もない。  あるのはただ、悪意と憎悪と渇望だけ。  許さぬ。塵が。なぜ俺が死ぬというのだ。屑が屑が屑が屑が──と。  この期に及んでなお〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈役〉《 、》〈に〉《 、》〈立〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈愚〉《 、》〈図〉《 、》〈か〉《 、》と失望し、ありったけの妬みと恨みを吐瀉物と共にぶちまけている。  俺を救え。それ以外、この世のすべてに何の価値があるという。その大前提すら理解できないことに発狂し、此度の結果を呪い続ける聖十郎は、今や骨と皮の蓄音器だ。  悪感情を無限にリピート再生している壊れた〈円盤〉《レコード》。あらゆる神聖なものへ向けて、代わりに死ねと叫喚している。  そしてそれは、彼が今まで行い続けた延命手段の一種でもあった。  他を不安にさせて屈服させようと願う意志力、確かにそれは褒められたものではないとしても、平均を遥か凌駕する精神的な原動力であったのだけは間違いない。  柊聖十郎という男にとって生きることと羨むこと、他を踏みにじって礎とすることはどれも等しく繋がっている。この世に悪がある限り彼はまさしく無敵の悪魔だったのだ。  だがしかし、その夢が今ここに潰えようとしている。なぜならすでに彼は盧生どころか〈眷〉《 、》〈属〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》のだから。 「が──ぁ、甘粕ゥゥッ……!」  第八層で四四八に敗北を喫した瞬間、接続先からのリンクが途絶えた。それは聖十郎にとって死を意味している事態であり、自分一人では生きていくこともできない重病人へ逆戻りしたのを示している。  ……ここに邯鄲の夢で猛威を振るった逆十字はもういない。  数えきれない病魔を抱えた、脆弱な末期患者が朽ち果てているだけだった。  力んだ途端に骨密度の浅い部分から骨折していき、肉を内側から引き裂いていく。そしてその肉すらまるで熟したトマトのようだ。地を這いずるだけで皮膚はおろし金でもかけられたようにペースト状へと擦り潰れ、畜生の死骸じみた腐乱臭を放っているという始末。  流血の色に関して言えば真っ当な赤色をしている部分など一滴すら見当たらず、口内を満たす血からは糞を煮込んだような味がしていた。麻痺したはずの〈味覚〉《したさき》さえ徹底的に破壊されていく。  呼吸をするたびに抜け落ちていく体毛と歯。自意識が融解する。もはや微塵も耐えられない──  だからさすがの聖十郎も悟らざるを得なかった。  これが真の瀬戸際だ。自分はいま、ここで死ぬ。 「これが……こんなものが、俺の死だと?」  盧生にもなれず、あまつさえこの手で造った〈道具〉《よしや》にさえ己の業を克服されて? ふざけるな、嫌だ断じて認めない!  だが目がかすむ、暗くなっていく。視神経そのものが狂い始めたのか視界に穴のようなものまで出現し始めた。  喉の粘膜は度重なる嘔吐で残らず剥がれ落ちてしまい、気道を塞いでしまっている。たとえそれを摘出できたとしても、癌化の進んだ肺は酸素を身体に取り込むことさえできないのだ。精神を残して総入れ替えしなくば完治など到底不可能。  だから寄こせ、俺に夢を。  生きたい生きたい。死にたくないのだ。  俺がここで死ぬなどと、こんな馬鹿げたことがあるか。  そう渇する気概さえ意識と共に消えていくのが、何より自分は恐ろしいのに。  結果は絶対に覆られない。柊聖十郎は、盧生ではなかったのだから。  思えばそれが最初にして最大の間違いだった。そのたった一つというべき誤りが、自分をいま死神に明け渡そうとしている。 「────、ぁ……」  それが憎くて、到底許すことができず、思わず虚空へ手を伸ばす。  世界へ爪跡を刻むかのように、自分を救わなかった塵ども、残らず不幸になれと呪いながら、細い五指をわななかせた。  言葉は声帯を震わすことなく、まさに野垂れ死にする、その刹那。 「大丈夫ですよ、聖十郎さん」  ──暖かい指先がそっと包む込む。  染みわたるような他者の熱が、思いがけず聖十郎の意識を浮上させた。  まさしくそれは愛の奇跡だろう。死の寸前、闇に落ちたはずの命が女の手で繋ぎとめられる。  亡者に垂らされた蜘蛛の糸が如く、菩薩にも似た暖かい光が生の息吹を注ぎ込んでくるのを感じた。まるで夢でも使われたかのように、心が一握りの活力を湧き上がらせていく。しかしそれは何もおかしいことではない。  命とは他者との触れ合いによって生まれるもの。  だから邯鄲を突破する以前の話として、彼に生きてほしいという祈りは微量でもその効果を発揮するのだ。  そして聖十郎にそう願う相手など端から少数に限られていた。  自分に理解不能な愛情を抱く女。そんな者は一人しかいない。 「…………恵理子、か?」  その時、相手が誰かを確認して、胸に生まれた震えは何なのか。聖十郎はそれが〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  ああ、駄目だ。俺はこの女のことが── 「触れ、るな……」  自覚した感情のまま、切れ切れの声で突き放す。  これ以上、恵理子を自分に関わらせるべきではない。  それはきっと、このまま死ぬことよりもやってはならないことなのだと、彼はようやくここに至って理解した。  このまま孤独に死ぬべく身をよじろうとする動きを、またも柔らかな指先が押し留めた。  寂しそうな目が聖十郎を捉えて離さない。  胸の疼きに任せて、その視線から瞳を逸らす。 「痛みますか?」 「貴様には、関係……ない──」  これは俺の得た痛み。俺の業だ、誰にも渡さん。  まして同情されるなど屈辱の極みであると知っていようが。 「失せろ。……穢れるのだ、屑が」  だから、もういい。自分にこれ以上関わるな──  四四八の元へ帰り、剛蔵とでも仲良く戯れているのがお似合いだろう。  わざわざ俺をその輪に連れ込もうなどと考えるな、余計なお世話にも程があるぞ。  俺は、望んで鬼畜となった。あるがままに外道である。  柊聖十郎の求める道に貴様の居場所など存在しない。俺は黒で、おまえは白……色違いがでしゃばるなよ。 「いいえ、私はあなたの傍にいます。それが柊恵理子の夢ですから」 「くだらん────、……!」  それをどれほど伝えても、帰ってくるのは寂しげな微笑だけだった。  恵理子は決して離れない。そして深く、聖十郎に訪れる死を、その命が失われることを心から悼んでいるようで。  惜しまれているのが分かるたびに、胸の疼きが強くなる。  指先から伝わる柔らかな命の熱を感じるたびにわけも分からず、叫びだしたくなってしまうのはどういうことか。  もう、分かっている。  だから、そう──  だがそれを形にすることもできず、成すがまま重ねられた手と温もりに身体を委ねるしかないのが血を吐くほどもどかしかった。  ああ、このまま恵理子を突き放せたらどれほど自分は救われるのだろうかと。願っているのに叶わない。  見捨てれば楽なものを、こうしてわざわざ、愚かな女。  殺したいほどそれが憎く、そして等しく願うのだ。早くどこかへ行ってくれ──手を握って聖母のように囁くな。 「ねえ、聖十郎さん。あなたもこれで心が物じゃないって分かったでしょう?  なんと言おうとも結果的には認めざるをえないでしょう? 四四八にも剛蔵さんにもそれこそ何度も言われてきたし、こうして形にされちゃって。  こんな手遅れな状態にまでならないと、それを分かることが出来なかったのよね」 「愚図の、言いそうなことだ………つくづく貴様らは度し難いッ」  〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。ただ〈理〉《》〈解〉《》〈し〉《》〈た〉《》〈だ〉《》〈け〉《》だ、おまえ達にどう対処すべきかを。 「俺は、俺として、完成している。おまえ如きに定義される覚えなど」 「それでも、聖十郎さんは何かが変わったと思いますよ?  今だってそう、私に以前とは違う想いを抱いてくれている。分からないわけないじゃない。これでもあなたの妻なんですから」 「だからどうしても願ってしまうの。今のあなたとなら、本当の家族として生きていけたかもしれないって。  ここまでこないとあなたにそれを教えてあげられなかったことが、悔やまれて、惜しい」 「黙れ。その口を、閉じ────」  何度も何度も言わせるな。思い上がりも甚だしい、俺の傍に近寄るなとさっきからずっと言っているだろう。  放っておけ。忘れてしまえよ、通り過ぎろおぞましいのだ。  来るな、来るな、来るな、来るな──俺に触れるなこの〈聖女〉《きょうじん》が!  絶叫しようにもそれを言葉にする力もない。  そう、まさしくこれは愛の〈奇跡〉《あくむ》だ。  恵理子の存在を確認して、胸に生まれた震えが何なのか。  訳も分からず叫び出したくなる想いの源泉。  理解不能であったはずの、それら正体。  聖十郎はそれが分かってしまった。  分かったのだ、どうしようもないほどに。  ああ、駄目だ。〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈気〉《 、》〈味〉《 、》〈が〉《 、》〈悪〉《 、》〈く〉《 、》〈て〉《 、》〈仕〉《 、》〈方〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  自分を慈しもうとする愛情がおぞましく、柊恵理子という女に吐き気を催すほどの恐怖感を抱いている。  なぜなら、剛蔵や四四八と今の恵理子は同じだから。  こいつらは愛という最悪の狂気で武装した、道理の通じぬ怪物ども。  己の〈病魔〉《やみ》が通じぬどころか犬のように懐いたあげく、破滅をもたらす〈気〉《 、》〈狂〉《 、》〈い〉《 、》である。絶対に、そう絶対に関わってはならない人種であった。  柊聖十郎にとって最大の鬼門は同等以上の悪党でも、邪龍のような人外でもなかったのだ。  理屈として納得が出来る分あちらの方がまだ生温いだろう。力や技で対抗できるし、相手もまた同じ土俵に乗ってくれるがこいつらは違う。解析不能な精神は異次元の生命体にも等しいほど隔絶している。  これを上回る猛毒がいったいどこにあるというのか……  ゆえに先ほどからずっと遠ざけようと腐心していた。心の底から関わるなと叫んでいたのは、そういう理由に他ならず。  落ちてくる涙の雫は〈聖気〉《しょうき》に満ちた硫酸の雨のようだ。浴びるだけでかつてない苦痛が心を蝕む。  俺に約束されていた未来をまだ蹂躙するというのか、〈怪物〉《えりこ》は愛情をこめて頬を撫でる。それは蛆の卵を塗りつけられているのと同じような気分だった。  囚われている──逃げられない。 「だからせめて、あの夢の中みたいに百年後にまた巡り逢いたい。  そしてその時こそ、本当にあなたの妻として、家族として、皆で生きていきましょう」 「私と四四八と聖十郎さん……三人仲良く、あの家で。  そして、お腹がすいたら剛蔵さんや晶ちゃんのところでお蕎麦を食べたり、談笑したり。あとは時々、口喧嘩をしたりして。  あの子たちの成長を見守りながら一緒に歳を取れたなら、きっとそれに勝る幸福はないって思うのよ」 「────、──ッ!」  壊死した声帯では叫びを上げることさえ出来ず──ああつまり、俺を未来永劫不幸にすると、この女は言っているのか?  死したのちも逃がさぬと。俺を追い詰めると言うのか貴様、そんなことは冗談じゃない。  こいつの口ずさむ幸福は、自分にとって唾棄すべき未来図に他ならなかった。  なぜなら俺は誰より地獄に憧れている。そんなつまらない幸福など御免こうむるし得たくはない。  柊聖十郎は常人と違う感性を持って生まれてきた。ゆえに望んで鬼畜となったし、あるがままに外道である。それを人は悪魔と呼ぶのだろう。  己を客観的に認識したなら、なるほどまさにその通りだ。俺が邪悪であるという事実には一片の疑いを挟む余地もなく、だからこそ求める先も通常の人間とは正反対のものであって然りだろう。  悪魔にとっての祝福とは地獄に向かって落ちること。  それを望んで神野や甘粕と手を組んだ。きっとその時行き着く奈落の底には、素晴らしい絶望と阿鼻叫喚が渦巻いているはずだったから。  だがこれは、なんだこれは……俺に何が起こっている! 「大丈夫……他の誰が何と言っても、私だけはあなたのことを愛しているから。 どれだけ巡り変わっても、見つけ出してみせるから」  これは聖母の抱擁である。この外道にも救いの手を差し伸べている。  そしてそれこそが、柊聖十郎にとって地獄を越える恐怖である。  悪霊や亡者が天の光を忌むように。  曇りなき女の愛が悪魔を浄滅させていく。 「な、ぁ────」  その時、聖十郎は確かにあらぬ光景を幻視した。  魂を誘うべく天から降り注ぐ〈美〉《けがらわ》しい光。  恵理子の愛に天使も心を打たれたのか、願いを聞き届けようと聖十郎を誘っていく。  地の獄ではなくその真逆、天上にます父なる主の御許へと。 「〈Sancta Maria ora pro nobis〉《さんたまりや うらうらのーべす》  〈Sancta Dei Genitrix ora pro nobis〉《さんただーじんみちびし うらうらのーべす》」  彼を祝福するかのように聖歌が響き、鐘も鳴った。  ああ、なんて命は尊いのだろう。どんな悪党だろうと救いはある、救いはあるのだ。これに勝る〈至福〉《ぜつぼう》があろうか。 「やめろやめろ、俺は───」 「では、さらば我が友。天使に抱かれて逝くといい。  おまえの生涯を俺は終生覚えておこう」  そして約束通り、〈天国〉《じごく》に召し上げられるその間際に。 「──愛しているわ、聖十郎さん」  聖母の抱擁が処刑台のように男の望みを絶ち切った。  天使のラッパが彼ら夫婦を包んで荘厳に響き渡る。 「う、ああぁ、ぁ──── オオオオオオ、ガアアアアアアァァァァッ──!?」  おお、いつくしみ深き天主よ。  どうかのこの罪深き魂を、限りなき愛で〈癒〉《こわ》したまえ。  永久に〈地獄〉《きゅうさい》とは無縁であれかし。  〈聖女〉《あくま》の祈りはどこまでも清らかに、福音となって逆さの十字に奏でられた。 「あはははは、う、うひ、ひひひひひひひゃハハハハ──!  おめでとうセージィィッ、そうだよいい絶望じゃないか。君との約束はこれで確かに果たされた!」  聖十郎の顛末を見届けて神野は腹の底から喝采した。  悪魔の誓約は絶対遵守。最悪の結末まで必ず導き、そして破滅を叩き込む。  彼はこれから永劫、もし仮に来世があるならその果てまで、愛による浄化の光で穢されるのだろう。  その絶望、その恐怖!  想像するだけで、ああ、ああ、滾るたまらない。  彼と築いた友情はなんて素晴らしいものだったのか。  舌の上では阿鼻叫喚が甘く愛しく、転がっている。神野は下衆な欲望を滴らせて、涙さえ流しながら聖十郎を祝福していた。  汝の死後に幸あれ、と。  そしてまだ、自分の求める最高が残っている。 「ああ、水希。僕の〈恋人〉《まりあ》。誓うよ、君はあんなものじゃすまさない」  かつてない〈混沌〉《べんぼう》を。神の顔面へ糞便を擦り付けるような背徳を、愛するあなたに刻み込もう。  ああ信明、僕の生贄。君のお姉ちゃんは素晴らしい。地獄の底で姉弟二人、永劫にじゃれ合わせてやろうじゃないか。  唯一無二の破滅へ転がっていく悪魔の筋書き。他のあらゆる可能性をすり潰し、自慢の商品を売りつけるために底なしの悪意で磨き上げられ続けていく。  魔王もさらなる狂宴を望んでいた。従えた蠅声の悪魔に負けるような輝きなど、己は認めぬ。一切不要。 「そうだ、許せんだろう? 屈してはならん。堕落を拒むその気概、待ち遠しいぞ──胸が躍る。  俺の友を超えたのだから相応しいものを見せろ」  甘粕は変わらず人の強さを愛しているから、聖十郎の死を心から悼みつつ、同時に彼から眷属の資格を奪うという矛盾を行い、かつぶれない。  むしろこれは当然の措置だ、彼は今も柊聖十郎を対等だと認識している。だからこそ贔屓はしないしつまらない慈悲も与えない。  万全の態勢で挑みながら息子に敗れ、親として人として完全に乗り越えられたのを見届けている。ならば当然、その傷は本人が負って然るべきだろう。少なくとも四四八ら戦真館との決戦が終わるまで、敗者に横槍を入れる資格はない。  厳しい? いいや否、覚悟を汲んだ措置に過ぎない。つまりこれは筋を通しただけのことだ。  我も人。彼も人。ゆえに対等、基本である。よって聖十郎の独尊を愛していようが、特別扱いなど一切しない。  そして雌雄を決したその後まで彼が生きていたのなら。  想像を絶する生存への渇望で、逆十字が妻を粉砕できていたのなら。  再び眷属として夢に繋ぐのはその時だった。結果はこのように寂しくもあり、友人らしい散り様ではあったが、いいだろう。  聖十郎との友誼を永遠にするためにも己は負けない──〈楽園〉《ぱらいぞ》は成る。 「では、おまえはどうなのだ。〈幽〉《 、》〈雫〉《 、》」  燕尾服の影、幽雫宗冬に想いの是非を問いかけた。  彼がなぜ甘粕と共に在るのか? 一目瞭然。そういうことだ。 「俺の夢に繋がって目指すところを実感した今、何を思い、何を感じる?  明日にかけている願いを、ここらで一つ宣してくれよ」 「ならば一言。くだらん。  俺は俺のやりたいことをやるだけだ。おまえを選んだことは単なる消去法の結果に過ぎん」  柊四四八は決して宗冬に眷属の権利を与えないだろうし、彼の求めていることを許すとも思えない。  そう、幽雫宗冬はどこまでも不器用な男なのだ。夢に繋がり甘粕正彦の価値観を直接体感した程度では初志揺るがず、常在不動。貫徹すべきはただ一つ。 「彼女を殺す──それだけだ。他に何も、何もいらん」  第七層での約束通り、自分はそうすることでしか愛を証明できないゆえに。  そしてそれを阻むために、必ず〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》が待っているという確信に近い予感がある。  忌々しいことにそれだけは絶対だと分かっていたし、外れるとは微塵も思っていない。なぜなら宗冬と彼は本質的に似た者同士、根を同じくしながら正反対に別れた枝葉だ。  この現実で決着を付ける、そのためにも……甘粕に繋がるのが最低条件だっただけのこと。表情は鉄のように変化しなかったが、自分の頑なさに宗冬は胸中で自嘲した。 「それを遂げた後、俺は百合香の屍を抱いて逝こう」  甘粕と四四八、どちらが勝とうがどうでもいい。  楽園でも百年後でも好きに描いているといい。宗冬はすでにどう転ぼうと生きるつもりなどないのだから。 「不毛がなんだと好きに笑っているがいい」 「笑わんとも、むしろ好ましく思うぞ。その覚悟は。  存分に口説き落とせ。惚れた女のためにすべてを賭して死ねることが、男に生まれた甲斐性だろうが」 「おめでたい男だ」  求めるものは精神の善悪ではなく絶対値。未来、破滅、方角は一切問わない。突き進もうとする意志を甘粕正彦は讃え続ける。  よって真実の理解者にはなりえない。寛容なようでいてこれはその実、平行線だ。ゆえに宗冬も彼という盧生に感じるものは欠片もなかった。  踵を返して聖堂を後にする。 「俺の〈狂気〉《おもい》を理解できるのは、俺と同等の〈馬鹿〉《やつ》だけだ」  だから行こう。自分と真に、狂える情愛をぶつけ合える男のもとへ。  同じ救いようのない男として決着をつけるべく、死の猟犬と化した幽雫宗冬は辰宮邸へと進撃した。  同時、呼応するように激しくなっていく龍の怒り。  揺れ動く大地が描く破壊の波形。規則正しい〈鼓動〉《リズム》を刻み、一秒ごとにより大きな魔震へと変貌を遂げていく。  いいや、これは近づいているのだ。今まではただの前震、単なる余興のようなもの。  完全な邪龍はまだまだこんなものではない。  なぜなら未だ空間が震えているだけ、龍の鱗が軋んでいるだけ。大爆発を目指して今も高まっている地殻運動エネルギーは、解き放たれる瞬間を今か今かと待ち望んでいる。 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ――」 「六算祓エヤ滅・滅・滅・滅・亡・亡・亡ォォォッ」  ああ、人の子よ、忠の心を忘れたか。それを時代遅れと嗤うのか。  ならば今一度知らしめよう。そして再び見せるがいい、清々しい息吹によって〈一切成就祓〉《いっさいじょうじゅのはらえ》と成れや。  相模湾北西沖80kmから無限に湧き出す凶将陣・百鬼夜行──  津波となって海を埋め尽くさんとする無数の〈廃神〉《タタリ》が、陸を目指し我先に遁走する。眼前の悉くを潰しながら。  文字通りそこに逃げ場は存在せず、同心円状に押し寄せる災禍はやがて日本列島そのものを平らに均して砕くだろう。  〈龍〉《カミ》は祀り、鎮めるもの。拝跪し、畏れ、敬うもの。  だが今、帝都の龍は狂っている。黄金の身体は爛れて腐り、万象灰燼と帰す魔性の震と化している。  ついに真価を見せる魔震の咆哮。大地の神威。  百鬼空亡がいる限り、希望はどこにもありなどしない。 「オオオオオオオオオオオォォォォォ───!」  そして同時に、人智によって生まれたものが人智を超える怪物に劣るわけでは決してない。  なぜなら彼女は空前絶後のモンスター。  グルジエフの血脈より生まれた規格外の神秘が咆哮する。  お願いいたします、お父様。これ以上はもう、繋げないで。  悲痛な慟哭は聞けば涙してしまうほど切なく、痛い。しかしそれでありながら耳を塞ぎたいほどの憎悪と耽美に濡れていた。  これぞ人が生み出した極限の悪夢。〈廃神〉《タタリ》ではない、人間がどこまで狂えるかという闇の結晶──魔道と科学の完成形がここにある。  その姿を見て正気でいられる者はいないだろう。いいや、こんなものを誰も見たいとは思えないはず。一目見れば気が狂うし、それを行った存在は己を悔いるべき外道なのだ。  闇で身じろぐキーラの姿は人としての形状から過分に外れてしまっている。  かつて第七層で存在していた状態を三つ首の魔獣と言うなら、今の彼女は、否、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》は制御不能の超獣だった。あれはしょせん夢の欠片、つまりまだ真の姿には届いていない。  その帝国。その領土。おお、ゲオルギィ・インピェーリヤ! 鋼牙の女王は狂乱の中で吼え猛る。  そしてそれが如何なる意味を持っているのか……  戦真館は相対したときに知るだろう。人という種族が抱える拭いがたい負の側面、彼らが未だ見たことのない業の深さというものを。  妄執の生んだ人造の最終兵器が、ついに現実世界で牙を剥く。  夢を超える悪夢の具現が、解き放たれるのを待っていた。  それらを統べるのは混沌の盧生。甘粕正彦は希う。  人の尊さ、その輝きを。  守り抜くため、来るがいい。俺がお前を永遠にしてやる。 「ふははははは、はははははははははははは──」  〈楽園〉《ぱらいぞ》はすぐそこに。  たった一人の男が夢見、実現の時を待っている。  俺は、あいつが心底気に入らなかった。  それはおそらく、初めて出会ったときからそうだったのだろう。なんだこいつは──それが、俺のセージに対する第一印象だ。 自分以外の他者をすべて見下し、人を人とも思わない…… こんなにも歪んだ性格がこの世の中に存在するのかと思ったものだ。何をどうやったら、ここまで救いようのない性格になれるのか。 俺なりにそれまで抱いていた、人としてのルール。セージはそのすべてに、僅かな良心の呵責すらも抱くことなく反していたんだ。  言ってみればそれは狂気で、ゆえにだろう、あいつから目が離せなかったのは。 野に放ったままでいるなんてとんでもない。碌なことを起こさないだろうという確信があった。だから俺は、聖十郎の傍にいるように努めたんだ。 それは監視の意味が大きかったが、少しばかりの好奇心もあったのかもしれない。  ──理由は、もちろん恵理子さん。  あの人が惚れていると聞いたとき、俺は自分の耳を疑ったものだった。人に貴賤はないと分かってはいるものの、それでもあんな男を好きになる理由が分からなかったから。 正直に告白すれば、なぜこいつなんかにと思った事もある。若かったんだな、俺も。  だって、出会いからして最悪だったじゃないか。 ああ、嫉妬だよ。そこは否定しないし、するつもりもないな。 本当のところはセージのことをどうこう言える資格も俺にはないんだが、当時はそんなこと棚上げしていたもんだ。  ──ともあれ、そんなこんなで俺はあいつと一緒にいることが多かった。  セージは気難しい。用心深く、常に何かに飢えていた。 周りがなんの気なしに過ごしているようなときでも、あいつだけは何かを求めるような目をしていたんだ。 俺はいつの間にか、それは何故だろうと思うようになっていた。悪い癖だな、すぐに他人に肩入れしてしまうのは。  セージ自身は誰が傍にいようとも、自分とは関係がないといった態のままだった。 笑ったことなどなく、どころかこっちすらも見ずに何かを常に考えている。どんなことにも関心なんてなさそうな目をしていた。 一緒にいても話もせずに、挨拶するのも何もかもがこっちだけ。こんなのが友人か? などと考えたことも一度や二度じゃない。  まあ、違っていたのかもしれないな、今にして思えば。  そんなあいつだったが、いつか妙な事を口にしたことがある。 確か、俺はおまえが羨ましい──だったかな。  最初は何を言っているのか分からなかった。悪質な冗談だとすら思ったくらいだ。 だってそうだろう。こいつは学問においては掛け値なしのエリートだ。得ているものは俺なんて比べものにならないほど多く、それこそ恵理子さんの愛にしたってそうだ。 今さら欲するものなどないだろう、そう思っていたんだ。  そんなある日、俺は偶然目撃してしまう。  ──あいつが何の前触れもなく吐血し、崩れるようにその場に転倒してしまったのを。  俺はセージに駆け寄った。そして抱え起こすときに、あいつの体重が異様に軽くなっていることに気付いたんだ。 疑う余地もなく、重篤な病気だった。その命すらも保てる状態じゃなかったんだろう。  そして、理解したんだ。 こいつが羨ましがっているのは、ただ俺たちの健康な身体だったんだと。  生きてるのは大半の人間にとっては普通のことだ。しかしセージには特別で、常に羨望の眼差しを向け希求することだったんだ。 あいつが求めたのは、ただ生きるということだけ。 おそらく、その心の弱さを隠すための傲岸不遜な態度であり、だからこその攻撃的な人格だったのだろう。 そう自覚したときから、俺は本当の意味であいつから目が離せなくなった。  色々な場所に付いていき、話し掛けた。あいつは変わらず鬱陶しそうだったがもはやそれでもよかった。 俺は、単に同情していたんだろうなと今にしてみれば思う。ゆえに…… それこそが、セージの持つ狂気に拍車を掛けた。  俺が友人として力不足だったから、支えてやれなかったからこそ。あいつは奈落の底まで堕ちていったんだ。 どこに行っても、誰からも、弱者としてしか見られていない。その思いがあったからこそ、長い時間を掛けてあそこまで捩れてしまったんだろう。 自分はあいつに同情していた。哀れんですらいた。 今にして思えば、それが情を盗まれる切っ掛けとなったのだろう。  友人として当たり前のことさえ出来ていたならば、セージを止めることだって出来たかもしれないのに。 語り尽くせないほどの後悔は、現在に至るまでずっと続いていて──  俺は今でも、あいつの力になりたい。深い闇の中から救い出したい。ならば、何をすべきだ?  それはきっと簡単なことで、こうして確認なんてするまでもない。  友人として、対等に接するだけでよかったんだから。  俺とセージの関係は歪なものだった。沢山の後悔は残っているが、だからといって諦めるわけにはいかない。 ゆえに──今度は昔とは違う形で終止符を打つ。 他の誰でもない、俺の手によって。 ──あたしは自宅で親父の部屋を漁っていた。 手紙に書かれていた親父の気持ち。あたしに対する想い……それは本当に嬉しかった。けど、すべてを任せてはいられない。 親父が言ってくれたのと同じように、あたしだってあんたを幸せにしたいんだよ。 笑っててほしいし、ずっと隣にいてほしい。昔から二人でいたのが当たり前で、それなのにいきなり目の前からいなくなるとか冗談だろ? そんなのあたしは嫌だ。とても耐えられないし、全力で拒絶する。 幸せになれって言ったよな。それは、あんたもいてこそ叶えられる願いなんだよ。分かるか? 分かってないだろうな、女心に疎いもんな、親父は。 恵理子さんとのあれこれ見てたら、そんなのバレバレだっつうの。 子供だって、女だって力になりたいんだよ。守られてるのは安心するけど、守ってあげたいとも同時に思う。それで大切な人の助けになれるっていうのならば尚更だ。 だからこうして動くんだ。少しでも可能性のある限り。 どうやら親父と聖十郎の間には、あたしの知らない過去が存在しているらしい。 必ず何か、ここにはそのヒントになるものがあると思っている。親父はあんな厳つい顔しといて、結構マメなタチだから。 あの二人の因縁についての手掛かりが部屋にあっても、全然不思議じゃないはずだ。 あたしや四四八に来ないように言い含めるってことは、行っても力になれないからというのもあるんだろう。 そんなのは御免だから、ここで知りうる限りの情報を仕入れたかった。ただの自己満足のために親父の足を引っ張ったって仕方ない。 やるなら──戦うなら守りたいから。大切な人たちを、今度こそ。 しかし…… 「あー、見付からねえっ」 部屋中を徹底的に漁ってみたものの、めぼしいものは何もなかった。 雑誌やら新聞やらの物持ちは良かったがそれだけだ。普通の中年オッサンの趣味範囲を超えるものは一つたりとも見付からない。 そういえばエロ本の類もなかったな。まあ、別にいいけどよ。 蕎麦屋の席であたしはだらりと弛緩する。机が頬に当たってひんやりと心地よい。 誰もいない店内はどこか現実感がなく、ずっとここにいたら気力がいつの間にかなくなってしまいそうだ。 親父の部屋は釣果ゼロ。居間もざっと見たけどそれらしきものはなし。残るは店内と、トイレに風呂場。それらの共用スペースのみだ。 ヒント。突破口。それらが都合良く転がっているなんて、あたしの単なる思い込みだったのかなどとそう思うものの…… 「よっし、ここも浚うかっ!」 立ち上がり、自分を鼓舞するように口にする。 刻一刻と親父に危機が迫っているかもしれないというのに、怠けたりなどしていられなかった。 けど。 いろいろと見てみるがどうやらここにも何もなさそうだった。まあ店だししょうがないか、などと思いつつも奧へと行ってみる。 そして、厨房のあたりをなんとはなしに覗いてみると── 「あれ、これって……」 何かが隅の方に置いてあるのを見て、あたしはそれを手に取った。 何の変哲もない普通のノート。ぱらぱらと捲ってみる限り、どうやらこれは親父のメモ帳のようだった。 思い付いたことをそのまま書き留めている。いつ誰それに電話する、何々料金の払い込み、とか。 レシピめいたものもあった。蕎麦のアイデアもいくつか記載されてるけど、いいのもあれば、こりゃ商品化不可能だなみたいなものもあり、あたしはつい微笑んでしまう。 「ふむふむ、冷製トマト蕎麦ねぇ。これなんかわりかし売れるんじゃねえかな。あたしもちょっと食べてみたいし」 中には昔食卓で出されたものもあって、つい懐かしく思い出してしまう。 「って、おいおい。めんつゆにチーズ混入するとか、そりゃ思い止まっとけって。んなもの出したら売れねえどころか苦情殺到だわ」 なんとなく現在置かれた状況も忘れて楽しくなってしまう。人の日記めいたものを覗き見するのは、それが誰のものであろうがどこかドキドキするものだ。 そのまま捲っていくと、最初の方はレシピやメモ書きなどが主だったのに、だんだんと内容が変わってきているのに気付く。 日記っぽくなっている。というか、一言メモみたいな感じか? どうやら途中でこのノートの使い方が変わったらしい。ほんと、要領悪いよな親父は。そういうのって小学生みてえだぞ。 さらに進めていくうちに、空白が目につくようになる。おいおい、メモすることにすら飽きちゃったパターンかこれは? そして── 「………………」 後半は、もはやメモ書きですらなくなっている。 これは──言うなれば回顧録か? 先ほどまで見て取れた冗談の気がそこからは微塵も窺えず、親父が思索を重ねた跡が色濃く残っている。 テーマは、聖十郎の手記を発見したということだった。 どうやら親父はそれに一通り目を通したらしく、考察らしきことが続いている。 そして、現在もどうやら手記は存在するらしい。あたしに見付からないように、親父の部屋の額の裏に隠してあるようだ。 「マジかよ……どうして、そこまでして」 親父の性格にそぐわない慎重さに、思わずそう漏らしてしまう。 家にはあたしたち二人以外に誰がいるわけでもない。勝手に掃除したりもしない。そのくらい分かっているはずだ。なのになお、厳重に隠す理由はただ一つ。 絶対に見られてはならないものだから。 同じ家に住むあたしに、そして他の何者にも……窺えたのはそんな徹底した姿勢だ。 嫌な予感がする。背中に冷や汗が一筋伝った。 見たらまるで呪われてしまうかのような扱いは、いっそ冗談めいてすらいる。しかしもう知ってしまった以上は引き返せない。 ノートの残り少ないページには、親父の迷いが窺える── 正直、もうこの手記を手元に置いておくことに耐えられない。 これは燃やすべきなのか? 俺が持っているというのは、恵理子さんすら知らないことだ。 無論、教えるわけにはいかない。あの人がこんな現実をもし知ったなら……考えるだけでも悪寒が走る。 まるで鬼畜の所行だ、人間のすることとは思えない。 こんな、狂ったことを…… ──太い氷の棒を、強引に身体に詰め込んだような悪寒を覚える。 いつの間にかあたしの呼吸は浅くなっていた。どんなに禍々しいものなんだよ、〈そ〉《、》〈れ〉《、》は。 見たら正気ではいられない……親父は自分がそうだったからこそ、殊更に危惧をしているんだろう。 普通に考えれば恵理子さんに伝えるはずだ。なのに、こうして頑ななまでに隠していたこと。それが意味するのは危機を察知したということだ。 なぜなら記されている筆致からは、親父が精神的に追い詰められているのが感じられる。そしてその元凶が、今手を伸ばせば届くところにある。 深呼吸をして、あたしは瞳を開く。迷う事などありはしない。 もう確認するしかないんだ。危険なのは分かるが、それこそが必要なんだよ今のあたしには。 親父に心の中で謝って、再び部屋へと向かう── 探してみると、ノートに記されている場所にそれはあった。 聖十郎の手記は、さっきのノートよりも更に古びて痛んでいる。古めかしいものであり、どこか手に取る者を拒絶するような雰囲気を感じられた。 でも、ここで怖気づいてなどいられない。 「うし、読むか」 そう、怯んでいる暇なんてないのだから。 捲っていくと、先頭のページに日付が記載されている。覚悟を決めて、あたしは手記に目を落とした。 ──○月○○日  また、失敗した── 「ッ────」  今日の実験も、何の収穫も得られなかった。  これで五日連続の足踏みとなる。ああ、一体何が悪い?  理屈は合っている。手際に抜かりはない。なぜなら俺の成すことに問題などあるはずがないのだから。  しかし残されたのは、無様に過ぎるこの結果──  既存する表の理はもはや試し尽くしている。ならば、外の可能性に活路を求めていくしかないだろう。  未だ人類が到達し得ぬ領域。この世界とは相を異ならせる概念。  普通に考えれば世迷い言の類だろう。だがしかし、そのような常識に囚われている時間はもはや俺に残されてなどいない。  よって、これよりは左道を進む。してみれば医の分野だけでも異端とされる法は数多あるのだ。  目が悪ければ目を食す。胃が悪ければ胃を喰らう。脳髄ならば無論然り。そして俺は人間なのだから、補填を狙うなら人間を食うのが望ましい……などという基本は最速で試みた。  結果として未だ何の効果も実感できぬが、まあよいだろう。人権や倫理観など知ったことではなく、そもそもそれらを享受してよいのは俺だけだ。俺以外の蒙昧など、俺の価値に比ぶれば〈塵芥〉《ちりあくた》に等しい。  これから先も左道は進む。たとえ何者であろうが口を挟むこと罷りならん。  いいや、誰にも俺は止められない。 ──○月○○日  病院の方から今日は文句が出た。薬剤の紛失がどうのこうのと言っていた気がする。  凡愚どもの分際で喧しいことだ。俺の成すことこそが唯一絶対の価値あるものであり、他の問題など屑にすぎぬのが天下の法というものだろう。  ゆえに、然るべき手段で連中を黙らせておいた。愚図にいくら言い聞かせようとも時間の無駄に過ぎぬから。  症状のほうは些か進行を見せている。  悪寒が止まらず、血痰が出るようになった。  医者はすでに重篤の域だと言う。ああ知っているさ、自分が他の誰よりも。  まだ頭は働くし手も動く。しかして一刻の猶予もない。立ち止まることは許されない。  これより次の実験に掛かる。 ──○月○○日  相も変わらず事態に好転は見られない。  むしろ体調はやや悪化、最近は痛み止めも服用するようになった。  日々症状が進行していくのが分かる。己の身体が内側から腐れていくとはこういうことをいうのだろう。  完治がための最適解は未だ闇の中というのが客観的な現状である。少したりとも前に進んでいないのだ。  ああ、どうしてこの世の者らはこうも役に立たぬのか。  貴様ら、俺より遥かに生きられる身なのだろうが。  そういう者らが寄り集まって、何千年と紡いできたのが今なのだろうが。  ならば内に一人くらい、使える屑が何かを遺していてもよさそうなものを。  呪わしい。苛立たしいぞ。俺に貴様らほどの時があれば、森羅の万象ごとき容易く掴み取ってみせるというのに。  なぜ貴様らごときが俺より生きる?  それが羨ましいのだ。許せない。 ──○月○○日  ここに一つの変革を見る。俺は新たな理を見付け出したのだ。  蒙昧どもの使えなさにはほとほと失望していたが、その中からこれを発見したのは流石に俺だと讃えるべきことだろう。  明治初期、神仏分離の令が施行され、この国には多数の廃神と呼ばれる祟りが出たらしい。  ゆえにその宗教の門徒どもは、浮浪者さながらの存在に身を〈窶〉《やつ》していると耳にした。  胡散臭い連中だ。学もない、目も曇っている──しかし使い道はある。  政府お抱えである神祇省ですら、どうやら解体の憂き目に遭ったようで、荒事に当たっていた部隊は追放されて草の根に潜んでいるようだ。  時代に翻弄されたということだろう、なんら珍しいことでもない。  その者たちが野に散ったという事態は、すなわち神仏界隈における力の低下を意味することとなるのは自明である。  つまり、組織を以前までの純度で保つことが不可能な状態だ。ゆえに潜入を仕掛けるのは容易いだろう。  ざっと調べてみたが概ね問題はない。すべてが大過なく進むはずだと信じている。  明日から更なる情報の収集に入ろう。 ──○月○○日  旧神祇省の情報収集は進んでいる。しょせんは蒙昧どものすることだ。少し予想外の圧を掛ければすぐに綻びが生まれるもの。  ある一人に口を割らせてそこから諸々引きずり出した。この類のものは糸口を見付けるまでが最大の難所であって、一度こうしてしまえば後は容易い。  そいつは用件が済んだ後、即座に始末しておいた。指紋を焼いて頭骨を粉砕する。歯形も丹念に削いでおく。  これで足も付かないだろう。何も問題はない。  しかし、身体の方は芳しくなく、手が微細に震えるようになった。書き物をする際に不便だが大したこともない。  肝心なときにしくじりさえしなければ、この程度なら問題などとは言わないだろう。  現状、薬剤を投与して誤魔化している。これで抑えられているうちに、早く解決法を見付けるのみだ。 ──○月○○日  予想以上に俺の推測は当たっていた。神祇省、あいつらは胡散臭いことこの上ない。  動乱の常として、人の世には野心を抱く者が現われる。しかして連中はそれを地で行っている。きっと頭が悪いのだろう。  どうやら権力中枢への返り咲きを熱望している者どもが、国に認められようと考えているらしい。その手段が実に妄動であり失笑を禁じ得ない。  ありもしないオカルト……神の兵器利用ときたものだ。  酸鼻を極める妄執であると言わざるを得ない。あまりにも醜いその我欲は、しかし使えると考える。  これこそ左道のアプローチであり、当たってみる価値はあるだろう。  たとえ誰に匙を投げられようが生きてみせる。神や仏がこの世に存在しないなどと、そのような証明は不可能なのだから。  盗んだ資料を見るに、連中の計画には何件かの実証もなされている。  とは言ってもそれはご大層なものではない。現代科学の範の中に収まる程度の、いわゆる常識的なものだ。  しかし俺に言わせれば悪くない収穫だ。奴らの遣り口で成果が上がっている、それこそがこの場合は重要なのだから。  神に縋る──世迷い言といえばそうだろうが、俺は委細を気にしない。  骨の随まで〈簒奪〉《さんだつ》するのみだ。 ──○月○○日  街中で胃の内容物をすべて嘔吐し、ちょっとした騒動となった。  俺を気遣う態を見せたお人好しに苛立ち、横っ面を殴打した。  馬鹿が余計な事をする。今さら悠長に医者など通っていられるものか。  残された時間は多くないのだから。 ──○月○○日  神祇省の研究が成果を上げた。やはり、あいつらは中々使える道具であるようだ。  連中の求めているものは、どうやら邯鄲というらしい。故事成語として聞いた事のあるあれだろう。目処が立つ可能性は拡がった。  伝承の域でしか存在しえなかったものに形が付与された意味は大きい。  そうすれば権力者の側、すなわち国がその力を見直す。  奴らが新たな鉱脈を見逃すことなどありはしない。元々配下であった神祇省であるのなら尚更だ。  本格的に研究が行われるようになり、これで進捗は飛躍的に良くなるだろう。ああ、待ちきれんぞ。おまえたちの妄執を俺は歓迎し、信じてやる。  もはや病院は用などなくなった。  文句を付けてきた愚図を始末して立ち去った。  炎は燃え上がり無関係の者も巻き込まれた。それなりの被害が出たようだ。しかしどうでもいいことだ。  むしろ、くだらんことで俺の貴重な時間を奪うなと言いたいくらいだ。我が大願を成就させる糸口が見付かった今、阿呆にかかずらっている暇はない。  ──そして、八幡を歩いている際に愚鈍な男と女に遭遇した。  俺の目の前で何かうるさく騒いでいた。説教をくれてやったが、分かったのかどうなのかまったく堪えていない顔をしている。  やはりこの手合いは鬱陶しい。頭が足りていないのだから外を出歩くなよ貴様らは。 ──○月○○日  邯鄲の法は現在、あるていど体系立てて整えられ、物部という男がその指揮を執っているらしい。  こいつは今のところ放っておく。せいぜい俺のために働くがいい。  しばらく時間を与えておけば、それなりに納得のいく結果を上げてくるに違いない。  ここ最近、周囲の俺を見る目は蔑み混じりのものに変化していた。  職を失い、わけの分からないことを謳ってるということらしい。心底救いようのない愚物どもだ。  あるとき親身を装ってきた奴がいたので馬鹿めと吐き捨ててやった。屑が舐めるなよ、気持ちの悪い。  さんざん暴行を加えて階段から突き落としておいた。あれならばもう絡んではこないだろう。  体調は一行に良くならない。大量の薬を服用するも、やはりまったく効果はない。  人前で調子を崩すたびにどいつもこいつも大騒ぎだ。  甲斐甲斐しいのはなんのつもりだ? 鬱陶しいことこの上ない。  親愛の情はそのうち罵倒へと変容する。よくあることだ、昔から何度それを見てきたと思っている。  豚にも劣る生を送る貴様らごときが、俺の時間を一秒たりとて奪うなよ。 ──○月○○日  邯鄲の法を実験に移す日取りが決まった。  あの稚拙な研究がここまで到達したのかと、まずは喜んでおこう。  鎌倉に戦真館という学舎があり、それは言ってしまえば神祇省の下にある巨大な実験施設のようなものらしい。  全国より強靱な若者を集め鍛えているそうだ。  憂国の皮を被れば非人道的でも許される。ことの肝は如何にマインドコントロールを施すかであり、それには国だのなんだのはひどく都合が良いものなのだろう。  育った故郷、仲間、理想……大儀を与えれば奴らはたやすく承知する。餌を目の前に吊るされ走る駄馬にも似たその姿はひどく滑稽だ。  しょせん実験台、己の身体で左道を試されたとて文句を言う鼠はいないと、まあそういうことになるか。  笑わせる……誰がどう見たところでそれは茶番であり、その程度の連中が作ったものを使うのは業腹だが仕方がない。  俺の身体は小手先の医学などではどうにもならない。内腑がすでにどうにもならないほど手遅れなのはとっくに自分が分かっている。  ゆえに、学徒の阿呆どもがオカルトめいたものを祭り上げ、形にしている現状は今の俺にとってそう悪いものでもない。  資質の優れたそいつらに邯鄲を施し、実験模様を衆目へお披露目となったのだから。日夜鍛練を積んだ健康体であるならば、サンプルとして申し分ない。  奴らが如何に承伏したのか? 事故が起こった際の補償はあるのか? おそらく碌なことにはならないというのにそれを自覚はできているのか。  諸々あるが、総じて言えるのは上層部が屑だということだ。実験生物として己が学徒を差し出すなど並みの精神では出来ないだろう。  まったく、素晴らしいぞおまえたち。  ああ、笑いが止まらない、いつになく気分が良い。待ち望んだぞ、早く見せろ。これまでの世界を超えてくれ。  屑の思惑と阿呆の蒙昧。それにより手に入るものが俺を救うとは、世の中分からないものだ。  もうどのくらいの間、焦がれた宿願になるのだろう。そう思うと胸が高鳴る。誰よりもそれを希求しているのだから。譲りはしないし諦めもしない。  俺はもはやいくらも保たない、身体を蝕む死病はそういう域だ。  内腑はすべてやられ、常に痛みと苦しみに苛まれている。まともな思考が働くのも残りどのくらいだろうか……それを思うと背筋が薄ら寒い。  生を求める、ただそれだけだ。  何か無理を言ったか? 言ってはいないだろう。  補償された命を何よりも希求する。それを最初から持っている手合いどもが難癖を付けてこようが知った事ではない。  貴様らが何を語れるというのか。生まれたときから当たり前にあった健康に胡坐をかき、ろくに物事を見ようともしない貴様ら風情が。  死をただ待つことなど、御免に決まっているだろう。俺は死すべしと定められて生を受けた家畜ではないのだ。  時間がない。絶望もした。だが、どうにか間に合った。  おそらくは天運があるのだろう、やはり俺は他の愚物と違う。  死なせていいはずがないのだ。命の重さが違うのだ。生贄となれよ貴様ら。  その愚かしい命を〈磔〉《はりつけ》に処せば、それだけ俺の命が延びるというなら人類を根絶すらしてくれよう。  劣等が優性の糧となる、その身を捧げる。それは何もおかしなところなどなく、人間以外は皆そうやっている。いや突き詰めてみれば人間も同じか。  現に今、まさに劣等共と引き替えに叡智が世に降りてこようとしているのだ。ここは黙って歓迎しようではないか。  そう、夢の実現まであと少し。  じっくり待つとしよう。 ──○月○○日  痛みを紛らわせようとしていたら加減を忘れたようだ。右拳が血塗れになった。  外科の治療程度で医者に通ってはいられない。ゆえに放っておく。化膿さえしなければ問題ない。 ──○月○○日  女が物欲しそうにしてきたので種を付けた。  溜まったものを吐き出すだけの、何の意味も持たない行為。女は蒲団の中で満足そうになにか繰り言を宣っている。幸せを享受しているように見える。  ただ交わっただけでこれか。救いようのない馬鹿とはこのことか。  意味付けするな、規定をするな。貴様が俺の何を知る。  こんなものはただの無為に過ぎず、貴様の持てるどんなものも俺には届いていないというのに。  ただ肉体の接触で興奮するだの言うのならば、それはもはや獣に過ぎん。  無駄に苛立ち女の頬を張った。それでも女は笑っていた。  阿呆だな、こいつ。 ──○月○○日  すべてを無くした。  全身の血液が逆流しそうな憤怒に駆られる。馬鹿か、貴様らふざけるな。  残された時間など僅かにしかなく、こうしている間にも病状は進行している。  邯鄲の実験が行われた。それは順調であるとの情報を掴んでいたし、俺の病状の快癒へと繋がるはずのものだった。  しかし、結果は失敗。  邯鄲の制御が叶わずに、その場にいた術者、お偉方含め、全学生、全教官が死亡した。  生き残ったのは特科の総代ただ一人であるらしい。  こんな様で披露するとはどうしようもない。どうせ資金繰りの都合上、何らかの成果を華々しく見せておかねばというところだったのだろう。面子を気にする馬鹿どもの如何にも考えそうなことだ。  パトロンを言い含める、そしてより金を引き出す駆け引き……そんなことをしている時点で三流、価値さえ認めさせれば後は向こうが湯水のごとく金を垂れ流すというのに。それだけの価値が邯鄲にはあったというのに。  俺にしたところで、藁の如く浮かび流れる表層の情報を掴まされていたという事か。怒りが収まらない。  誰が死のうがどうでもいい、規模がいくらかなど知ったことか。一人も百人も万人も、本質的にはまったく変わらん。  この場合の最大にして唯一の問題は、陣頭指揮を執っていた術者も含めて皆死に絶えたことだ。  つまりは、技術的な失伝──  物部も事故に巻き込まれてその命を失ったという。救いようのない阿呆だこいつは。己が研究を途中で投げ出す馬鹿がどこを探せば存在するというのか。  これだから神祇だのいう連中は馬鹿でいけない。化石のような価値観を語り、共有し、その挙げ句がこれとは呆れ返って言葉も出ん。  すなわち、もはや研究のノウハウは断片しか残っていないということか?  加えてこれにより、邯鄲法の実利用は危険すぎるという意向が政府の中で出てきたらしい。実に当然の流れと言うことができるだろう。  人前で死者を出したものに金の集まる筈などない。当然だ。お偉方がどうこう言うのは勝手だが、それでは俺が困るんだよ。  ふざけるなよ本当に、何から何まで馬鹿げている。  ともあれ、すべては途絶えた。今から他の手段を探すことも出来ようがそれでは時間が足りはしない。  ここまで来るのにどれほどの時を掛けたと思っているのか。俺に間に合わねばいかに上手くいこうが意味などないんだよ。死後に技術が完成するなど茶番以外の何物でもない。  俺は生きたい。死にたくないのだ。そしてこの世の事象をいつまでも探求していたいと願う。それの何がいかんと言うのだ。  しかし、現実は閉ざされたままで……俺の前に広がるのは、ただ絶望の闇だけだ。 ──○月○○日  平衡感覚がなくなるという症状が顕れる。ゆえに眠れないという状況に陥った。  如何なる時にもぐらつき、眩暈を覚えるようになる。目を閉じてもそれらは緩和されず、ゆえに眠ることも叶わずにただずっと起きているという状態だ。  加えて以前よりの病状もますます進行し、体力も著しく落ちている。  外出が辛くなった。立って歩くのすら今では億劫だ。  もう自分がどこをどうして命を繋いでいるのかすらも分からない。しかし、それでも理解だけはできた──もう諸々の進行は止めどなく、俺の身体は隅から隅まで終わっているということが。  今にも四肢が腐って落ちそうだ。切り裂いて見れば、そこには無数の蛆が湧いていることだろう。  とんだ茶番であった邯鄲だが、未だ目をかけておく価値のあるものには変わりない。  死傷事故が起こったということは、裏を返せばそれだけの可能性を秘めているということであって打ち棄ててしまうにはまだ惜しい。  そうであれば、手を打っておくに越したことはないだろう。  幸いにして、都合のいい手駒はある。  女が一つ、男が一つ……自ら保持することを望んだ駒ではないものの、鬱陶しいという思いさえ我慢すれば如何様にも使えることだろう。  ああ、諦めて堪るか。  生き足掻いてやろう、俺に出来ないことなどありはしないのだから。 ──○月○○日  相も変わらず眠れない。これで二週間起きたままとなった。  病状は何をしたところで今さら変わりはしないが体力の問題もある。薬剤を過剰に投与する。  反動として眩暈はいくらか良くなったが、時折不意に意識を失うようになった。  血が汚泥のように穢れていくのを感じる。気分が悪く、すべてを吐き出してしまいたい衝動に駆られる。 ──○月○○日  神祇省に潜入した。  以前に入手した情報がまだ生きていた。身体の方はそれなりに辛いものの興奮剤の服用でしばらくの行動可能な時間を確保、その間に済ませることを試みる。  ここは胡散臭い連中の中枢であり、捕縛されれば一巻の終わりであるだろう。客観的に見て、今の俺の状態で生きているというのは稀有な例だ。  神祇は医学と対極を成すような〈呪〉《まじな》い屋どもだが、だからこそという面もある。実験生物扱いは免れまいし、大した抵抗もできはすまい。  しかし、どうにか帰還を果たす。危ない橋ではあったが俺ならば大丈夫だという確信があった。  今、神祇省から持ち帰った大量の資料が目の前にある。しかし、そのいずれも程度が低く唖然とするしかない。やはりこいつらは馬鹿だ。  この程度の連中に俺の計画が頓挫させられているかと思うと苛立ちが湧いてくる。やはり宗教家はどうにもならない。  そして、持ち帰ったものの中から物部の遺髪を発見した。後生大事に取っていたのだろう。  これは貴様らには過ぎたものだ、ただ祀っているだけなのだから。  俺は遺髪を鍋で煮染めてそれを喰った。これによって得られる物部の着想というものがあるかもしれない。  神祇省という組織は愚かだが、こいつは個人としてなかなか悪くはない。その発想の元は俺が有り難く頂こう。  奴も本望に違いないさ。 ──○月○○日  邯鄲の実験の際に滅んだという戦真館。  ただ一人を残し学徒は全滅したという。そこになんらかのヒントは潜んでいないだろうか?  大量の人死に。有り体に言って修羅場。そこで一人だけ生き残るという極限にしか発生しない何かがあるのかもしれない。  かつて病院を焼き討ちしたとき、その現場を確認しなかったことが今になって悔やまれる。  よってもう一度やってみよう。試す価値は充分だ。  思い付いたその日のうちに、とある学園に俺は毒物を投げ込むと決めた。  ここは学徒の総数も戦真館と大体同じくらいであり、サンプルとしては打って付けといったところか。  効果はすぐに出るだろう、どうなることかが楽しみだ。 ──○月○○日  先日の学園は、居合わせた者が全員死亡した。  潜入し調べてはみたものの、特に目新しいと言えるものは見当たらない。据えた糞便にも似た血の匂いがするばかりだ。  一人だけ生存者を確保という状況の再現が思いの他困難だった。次の機会にはそこを留意しよう。  病状は片腕の動きがどうにも鈍くなっている。しかしもう片方が動けば充分だ。  身を焼くような痛みにはもう慣れた。鎮痛薬にしてもなかなか高く入手できるものではない。  このまま留まってはいられない。 ──○月○○日  どうやら神祇省における邯鄲の研究は遅々として進んでいないようだ。  やはり奴ら、物部の死によって及び腰となっている。予想されたとはいえ愚かなことだ。  死ぬのが恐いなら死なないように理屈を構築すればいいだけの話だろうが。そこが逆転しているから貴様らはいつまで経っても愚図のままだというのだ。 ──○月○○日  そして、ついに政府の上層部は邯鄲の研究自体を潰すことにしたようだ。この有事において、いつまでもオカルト如きにかかずらってはいられないということだろう。  とんでもない馬鹿どもだ、貴様らは資料に目すら通していないというのか。  あれが単なる迷信だと見る一派もあるらしいがとんでもない。阿呆どもには理解もできないのか。  ある種の限定性こそあれど、古より様々な書物にて確認されている普遍無意識。  眠りに落ち、夢を通じてその深奥へとただ降りていく。  邯鄲の法とは、己の軛から解き放たれた状態で経験を重ね、そしてそこに存在するであろう神の力を得ることが最終目的とされていた。  こんなにも簡単なことだろうが、なのになぜ文句が出るのだ。  目に見えないものだからか? だとしたら笑わせる。そんな奴は当然科学分野もすべて否定しているのだろうな。どだい貴様ら、もとより〈盲目〉《めしい》の分際で。  要は理屈が違うだけだろうが。オカルトなど別に荒唐無稽でもなんでもない。  太古の人間から見ればただの稲妻ですら神の怒りにも見えるだろう。それと構造は同じこと。  知らぬから、分からぬから、それだけで本質から目を逸らすというのは土人の所業だ。俺は奴らと違う。  ゆえに求めるのだ、神を。俺のために。  普遍無意識の奧に待ち受けているのが強大な力というのが肝で、それはすなわち多様な事象に転用できるということだ。  様々な学説も目にした上で判断すれば、このまま求め続けるにはそれなりの危険性を孕んでいると思われるが別に構わない。  手間も脅威も何もかも、俺が手懐けてやればいいだけの話だ。  それがこの命を救うというのなら、たとえどんな無謀だろうが成し得てみせよう。  そうだ、事ここに至って、もはや邯鄲にもっとも精通しているのは俺だと言える。ならば俺がやればいい。  物部黄泉のような半端ではなく、不変に〈真〉《マコト》なる邯鄲を。  この俺の手で。 ──○月○○日  己の中を降りていくという邯鄲。その構図は階段にも似ていると言えるだろう。  すなわち延々と下へ向かっていくことになる。ゆえにその最中には階層構造があり、これはどうやら当事者の人生に絡むものであるらしい。  己の深部を順に追っていくという形になる。のみならず、死後の世の中がどのように流転していくのかというところまで体験させられ、要するにここまで含めての普遍無意識ということなのだろう。  何回も、それこそ無限の閾値で繰り返されるシミュレーション。この連続により、世界の真実に触れられるまで精神を強化していく。  荒唐無稽な狂言にも聞こえるが、理屈としては間違っていない。普遍ということは時の流れのすべてをも包括しているという意味に他ならず、未来過去までもを取り込んだその大きなうねりこそが人間という種の意志を表していることになる。  すべての人間が無意識に望んでいる未来──それを幾通りも見せられ、経た体験から種族の意志というものを理解し、悟る。  神という至極の存在を支配可能となるまでには、そのくらいの精神強度が必要になるのだろう。  面倒ではあるが仕方がない。人知を超越するのだ、斯様なこともまた必要だろう。  研究の断片のみしか現在残されていないのが本当に惜しまれる。陣頭指揮を執っていた物部の無能を恨む。  あれさえ順調に進んでいれば……いや、くだらぬ愚痴は止めておこう。  俺ならば、必ず望んだ終局まで至れるのだから。 ──○月○○日  ついに邯鄲の雛形が完成をみる。  だが喜んでもいられない。これはまだ、以前に神祇省が築き上げていたものと同程度といったところ。すなわちここからの実験が必要とされる。  無論我が身で試してはみたが、それはほんの浅い領域に至った程度のこと。  夢の世界というものは一度潜ってもそこから出るのは自由であり、いきなり深奥を目指す必要はない。  最下層まで到達する自信はあるが、なにぶん未知の世界のこと。万が一ということがあるかもしれぬし、そんな事態が起ってはならない。  実験中に絶命など、それでは物部とまったく同じで本末転倒にもほどがある。ゆえにテストケースを設けねばならない。  しかし、被験体にもそれなりの人材が必要だろう。俺と同等とまではいかなくとも、使える奴でないと困る。  出自はどうであろうが構わない。そいつがどうなったところで関係などないからだ。  明日は適当なものを見繕ってこようと思う。 ──○月○○日  被験体の候補である男を殺した。  あれは駄目だ、資格がない。無駄な時間を使わされてしまったぞ反吐が出る。  明日は別の奴を攫ってこよう。 ──○月○○日  どいつもこいつも劣等ばかり、俺の求める条件には適合しない。  この世の中には馬鹿しかいないのか? 身体能力、胆力ともに吹けば飛ぶ程度の屑しか見付からないとはどういうことだ。  このままでは研究が遅々として進まない。さりとてリスクの排除もできないうちから己が出張るわけにもいかない。それでは戦真館の二の舞だ。  俺は俺の実力を天下の何よりも信じているが、同時に何の問題も起こらないことなど有り得ないと弁えてもいる。ここまでのすべてがそれを証明しているし、だからこそ取り返しのつかぬ無様が起こる可能性だけは断固として摘まねばならない。  必要なのはモルモット。  しかし眼鏡に適う者がいないとなれば是非もなし。  俺はソレを作ることにした。  俺、柊聖十郎という人間を前にして、正気を保てる者などそういない。何せ傍から見れば生きているのが不思議なほどの病人だ。健常に生まれた者にとってこの身は凶兆そのものであり、否応無く死を感じさせる存在なのだから根源的な恐怖を抱くのは自明の理だろう。  だが、その戦慄、危機感を勘違いする女どもは昔からいくらでもいた。病症が今ほどではなく、外見的に分かりにくかった時分は夏の藪蚊さながらに群がってきたものだ。  俺にとっては鬱陶しいことこの上ないものだったが、奴ら愚かな女どもに〈塒〉《ねぐら》や金の面で多少の利用価値があったのもまた事実。  もっともその大半も、今では死ぬか去るかしているのだが。  ただ一人、未だに俺の傍を離れない女がいる。いずれは何かの役に立つかもしれぬと、鬱陶しいのを我慢しながら放置していた駒。  いいぞ、さすがは俺だ。冴えている。あの女を肉の試験管に見立てよう。  愚図でつまらぬ能無しだが、俺の種を受ければ相応のモノが生まれるのは至極当たり前のことなのだから。 ──○月○○日  行為が終わった。現状の俺にとっては真実苦痛でしかなかったが、ともかく種は撒いたのだ。あとは実るのを待てばいい。  しかし、この方策が効果を発揮するまで俺は何年待てばいいのだ。五年? 十年? 無理だ、到底保ちはしない。  絶望が押し寄せてくる。この程度の時間的問題さえ事前に思い至れぬほど、俺の脳は腐れてしまったというのか。  そんな俺を見て何を勘違いしたのか、擦り寄ってくる女がどうしようもなく苛立たしく、散々に罵倒して殴りつけた。失せろよ屑め。貴様ごときに俺の何が分かるという。  にも関わらずこの阿呆は、しょせん肉で出来た試験管でしかない分際を弁えず、子が出来たときの名などを問う。  その様子があまりにも馬鹿馬鹿しく、気狂いのようであったから、俺はそれ以上相手にするのも億劫になり、ただ一言告げておいた。  〈救世主〉《イェホーシュア》――そう、俺を救うメシアになってくれればよいと。  女は微笑む。俺はますますこいつが気持ち悪くなる。ゆえに終わりだ。もう会わん。  だが同時に、救世主が育つまで生きねばならんと思ったのだ。  何が何でも。他に手が無いのならたとえ石に齧りついても。  俺は生きる。生きるのだ。  柊聖十郎に、不可能は、ない。 ──○月○○日  二年経った。未だ適合者は見つからない。 ──○月○○日  五年経った。俺はまだ生きている。 ──○月○○日  あれから何年? もう分からない。  どうして俺は、ここまで永らえることが出来たのだろう。すでにこの身は、腐汁と腐肉まみれだというのに。  座して死を待つだけの身ならば、もはやリスクを度外視して俺自身が邯鄲へ入るしかない。  ああ本当に、どうしてもっと早くこの決断へ至らなかったのか。  分からない。分からない。  わからない。 ──○月○○日  男が来訪。  奴は言った。己を邯鄲に投じろと。  すべてを諦めかけていたとき、被験体が向こうの方からやってきたのだ。  いいぞ、素晴らしいことだ。俺の命運はまだ尽きていない。  しかし、当然疑問はある。こいつはどこで俺の存在を知ったのか──  神祇省か? 辰宮なりその辺りか、もしくはこれまでに殺めてきた奴らの関係者か。  まったく見当もつかないが、この男がこれまでの凡愚どもと一線を画しているのは一目で分かった。  目が違う。覇気が違う。そして内から立ち上るとしか形容できぬその情熱、俺が抱く生への渇望に勝るとも劣らない何かがある。  こいつは破格だ。間違いなく奇貨に他ならない。  ならば答えは一つだろう。素性が知れない? 腹が読めない? 笑止、柊聖十郎こそが天下に至高。恐れるものなど何もない。 ──○月○○日  あいつはやはり優秀だ。  早くも邯鄲の一周を終えた。正直なところ想像していた以上だ。  無論それで終わりなどというわけではなく、むしろここから如何に周回を重ねるかが重要となる。  聞けば、一周を何年とするかは夢の世界へ入る際に己で決定することが可能であるそうだ。  男は概ね百年を基準にしていると言っていた。俺の生など幾度かは送れそうな、想像のつかない時間ではある。 ──○月○○日  男の目的が判明した。奴としては別段隠すつもりもなかったらしく、世間話の延長として俺に語って聞かせたのだ。  正直言って、度し難い。  この男は狂っている。  俺には理解できない感情が極限に肥大した怪物、一種の化け物なのだろう。  〈楽園〉《ぱらいぞ》だと? 馬鹿め、それは一般に混沌と言うのだ。  しかし、その流れで男が傾けてきた提案には旨味があった。こいつは現段階でも夢を現実に持ち出したがっており、そのためにはどんな努力も危険も顧みぬと言う。  俺にしても、こいつの来訪によって瞬間的に意気を取り戻したというだけで、現状は明日をも知れぬ状況なのだ。否応は無い。ああ、やってやろうではないか。  邯鄲を制覇し得る資質の者、神祇省が〈盧生〉《ろせい》と呼んでいた存在には、大まかに分けて二つの特権がある。  一つ、邯鄲制覇に際し夢を現実に持ち出せる権利。  二つ、やはり邯鄲制覇の後、夢を夢のまま封じる権利。  このうち後者は論外である。俺も奴もそんなことは望んでいない。  ゆえに大事なのは一つ目、夢の現実獲得についての条件を破壊してやる。  何も完全である必要はないのだ。普遍無意識の海から一滴を持ち出す程度のものでよい。たったそれだけのものであっても試し撃ちには充分だと奴は言ったし、俺も構わん。  要は奴が邯鄲を制し、その後に俺が続くまでこの身が保っていればいい。  男が持ち出した夢をもって俺を癒す。そういう約束を取り付けた。  ここに利害は一致している。ならばあとは走るだけだ。  見ていろよ。 ──○月○○日  男が邯鄲の十周目を果たしたとき、俺もまた小癪な条件を破壊することに成功した。細かな手段についてはいちいち記すつもりもない。俺は天才であり、男も破格の盧生だったというだけだ。  そして、俺は奴の夢によって癒された。完全な快癒には至らなかったが、病症を停止させることに成功したのだ。  いいぞ、これは最初の一歩だ。今後も繰り返し、夢の持ち出しを強化出来るよう努めよう。そして最終的には、奴にわざわざ癒されずとも己自身で……  そうさ。それさえ成ればこの男にも用などない。 ──○月○○日  辰宮の手によって戦真館が復興したと男から聞かされた。しかし今となっては、もはやそのような些事など眼中にない。  勝手にやっていろ。俺は神へと至るのだ。 ──○月○○日  気の遠くなるような試行を何度も繰り返すのが邯鄲法である。そのため、並の人間であればその時間感覚に耐えられない。  最終的に、総計で万年近い時間を経験していることも充分に予測の範囲内で、男はそのくらいで済めば楽だと口にしていた。  言ってみれば白痴にも似た精神性で臨まねば、普遍無意識には触れられないのだろう。神に近付く行為であるしこれも必定と言える。  ゆえに、そんなことが可能な人間はそもそも滅多なことでは出会えない。万人に一人ではきかないはずだ。 ──○月○○日  あと僅かで男は邯鄲の終焉へと至る。  奴はここまで何度も夢の深奥部へ到達してきた。もう良かろうと俺は判断を下す。  どうやら夢の世界というものも大した問題はなさそうだ。万全を期しはしたものの時間も無限ではない。  満を持して俺も、夢の中へと入ることにする。  さあ、ここに祝福が訪れるのだ。  思えば、人生において俺が幸せを感じたのは、今日が初めてのことかもしれない。 ──○月○○日  ふざけるな! 馬鹿にするなよ、そんなことは有り得ないだろう!  あまりの怒りに言葉も出ない。こんなものを書いて気を静めようとしたところで意味などないのだ。  俺は、俺は、俺は―――――――――――――――― ──○月○○日  激昂のあまり気を失っていたらしい。憤死の一歩手前というやつだと、俺を介抱しながら男は言った。  ああ、なぜ。なぜなのだ。未だに信じることが出来ない。  俺が盧生ではなく、すなわち神の領域に至ることのできない人間だということが。 ──○月○○日  この数日、失意に沈む俺をよそに、男は邯鄲の制覇を成し遂げたらしい。こいつに出来たことがなぜ俺には不可能だというのか。  詳しいことは何も分からず、ただ選ばれなかった──その事実だけが厳然と突き付けられる。  これまで夢の最奧に至れるのが当然と思っていて、今もそれに変わりはない。  しかし結果は、ひどく呆気なく俺に真実を告げている。  恨むぞ神よ。  こんな世界、希望がないのであれば存在することすら馬鹿馬鹿しい。  もう駄目だ、死ぬ。恐慌状態の一歩手前に俺が陥ったとき──  男は言った。俺に繋げろ、許可を出してやる、と。 ──○月○○日  邯鄲法は基本的に一人で挑戦するものである。  しかしこれには例外があり、その人物を媒介にして複数の人間を夢に繋げることも出来るらしい。  言わば眷属。そこに盧生の許可があれば、夢の力を使う権利を得られるというのだ。  この場合、主たる人物が死亡すれば他の者らは一斉に夢を失い、その大半は同じく死亡にまで至るということらしいのだが……  要するに、男が俺に提案してきたのはこの手法というわけだ。  眷属化する条件は、盧生と共に夢へ身を投じ、邯鄲の制覇を達成すること。そうした意味で、俺はこいつの眷属ではない。  奴はたった一人で邯鄲の夢を越えたのだから、眷属なしの盧生である。  しかし、男は言う。おまえほど俺に尽力してくれた同胞はいない。  ゆえに、己の眷属は〈聖十郎〉《おまえ》である、と。  その〈眷属〉《とも》が朽ちていくのは耐えられぬ、と。  ──ああ、それさえ聞ければ満足だ。  業腹だが、こいつは凄まじい男である。  最初の盧生。破格の盧生。そしておそらく、最強の盧生だ。  今や邯鄲を制したこいつにとって、その気になれば誰であろうと眷属にすることが出来るのかもしれない。それを俺に、惜しみなく与えると言う。友情の証として。  独占欲というものがないのだろうか。それともそんな矮小な者には最初から盧生の資格が与えられぬようになっているのか……  どちらであろうが構いはしない。いいぞ聞き入れてやる。  せいぜいこちらは、眷属としての特性を活用してやるまでだ。 ──○月○○日  奴の眷属として現実に夢を持ち出し、俺はここに復活を果たした。  容易く岩を砕くことも、風より速く駆けることも出来る。今や俺の肉体は病人どころか、超人の域に達していた。  それについて、男は言う。通常、身体能力の類は現実の感覚と生々しく繋がっているため、虚弱な者が無双の怪力などを夢で獲得することは不可能だと。  しかし、俺はそこいらの者と出来が違う。想いが違う。なぜなら生涯ずっと祈ってきたのだ。  健常な身体を。強固な肉体を。その願いは常軌を逸した規模で夢に反映され、俺はこのようなことが可能になっている。  そして、俺だけの夢。柊聖十郎個人が思い描く、固有の〈夢〉《チカラ》がなんであるかも理解した。  一言でいえば、簒奪である。  思えば俺はずっと、すべての者が羨ましかった。  なぜ他の阿呆どもが、俺よりも長く生きることが出来るのだと。  それは度し難い理不尽であり、天の正気を疑う混沌だ。塵と俺の命では価値が違うのだから、その不正はたださねばならない。  よって、俺は奴らの誇るものを奪い、代わりに俺を蝕み続けてきた病を押し付ける。  奴らの苦しみ、嘆き、その姿を見ながら俺は嗤う。それこそが邯鄲で得た俺のユメだ。  素晴らしい。何よりも、奪うという概念が素晴らしい。なぜならそれは、病など遥かに勝る天の不正をただすことが出来るのだから。  盧生の資格――  本来俺に与えられるべきだったそれを、今こそ俺は取り返す。  ああ、俺を親友だと言ったなおまえ。応とも、おまえは親友だ。  ならば俺の役に立てよ。 ──○月○○日  失敗した。奴は俺の夢に掛からない。  どうやら俺の〈夢〉《ちから》は発動に条件が必要らしく、あの男はそれに該当しないようだ。加えて、こちらには初めから致命的な不利がある。  今現在、俺は奴の眷属なのだから、奴がその気になれば容易く資格を取り上げられる。そうなれば元の重病人に一瞬で逆戻りとなるだろう。このように他者の気分一つで命運が左右されるという状況は我慢がならない。  ゆえに盧生の資格は絶対に必要であり、やるなら不意討ちしかないというのに、それが決まらないとなれば目も当てられぬ。  俺を嗤うな。いつでも来いだと? この後に及んで眷属の資格を取り上げようとしないのは、余裕か? それとも慈悲のつもりか?  ふざけた真似を。必ず後悔させてやる。  必ずおまえを……そう、必ずおまえのすべてを奪ってやる。  どうすればいい。考えろ。  何か、絶対に妙手が存在するはずだ。 ──○月○○日  ああ、実に簡単な話だった。俺は何を迷っていたのだろう。  結論はひどくシンプルで、いつだって足下に転がっている。そうさ、その手があるじゃないか。  あの男から奪うのが難しいなら、他の盧生を用意すればいいだけのこと。  同じように邯鄲へ放り込み、何百回何千回と夢の中を漂わせて、しかる後に俺がすべてを奪い取ってしまえばいい。  そうして、改めて盧生となった俺があの男を殺せばいいのだ。条件が同じであれば、この柊聖十郎が遅れを取るなど有り得ない。  覚えている。いや、思い出した。俺が奴と出会う前、モルモットを作っていたこと。  我が〈救世主〉《イェホーシュア》――今では相応の歳になっているはずだろう。  いい子だ。父は嬉しいぞ。役に立て。  いくら愚図の血が混じっているとはいえ、俺の子ならば必ず盧生の資格を持っているはず。  それはもともと俺のものだったのだから、収奪するのに何の論理破綻も存在しない。  恵理子、おまえも褒めてやろう。  福音の時は近い。 ──○月○○日  俺の息子──四四八。  これで万事が問題ない。目の前の霧はようやく晴れた。  そして、腕が鈍っていないかを剛蔵で試す──  獲った。何も問題はなかった。さして要らないものではあるが、手駒として持っておこうと思う。 ──○月○○日  実験も兼ね、恵理子からも簒奪する。転がり込んで来たのは剛蔵と同じく情だった。まったくどこまでもくだらん奴らだ。  どうやら、俺の力とは何を奪えるかまでは選べないらしい。  だが、問題となることでもない。息子からは、すべてを刮ぎ取ればいいだけのことである。 ──○月○○日  戦真館の生き残りから簒奪する。左腕を取れた。屑にしては中々良い。伊達に物部黄泉の邯鄲を生き残ってはいないということか。  同日にその同輩という奴からも奪う。どいつも俺の道具と化す。  四四八には邯鄲の神髄を得させて、それから狩らなくてはならない。逸る気持ちを今はただ抑える。  もう少しの辛抱だ── ──○月○○日  理想は四四八に最下層まで踏破させてから根こそぎ奪うことだが、それは同時にリスクも孕んでいる。  端的に言って獲物が強くなりすぎては困るのだ。奪う際に手間が生じる。  盧生の資格を刈り取るだけであればいつであろうと問題ないのだが、それではまた結局のところ、俺自身が邯鄲の周回を行わなくてはならなくなるので面倒だ。  よって、ここは悩みどころである。  おそらくもっとも奪いやすくなるのは第五層であろう。四四八の邯鄲において、その時代こそが奴の生誕時期になるのだから。  必然、五層へ入った瞬間に、四四八は赤子へと立ち戻る。外見や知能面までそれに倣いはしないだろうが、根源的には赤子同然となるはずだ。  己がどういう存在で、何のために生を受けたのか知る試練。四四八にとってそれが五層突破の条件になるわけだが、奴の生まれた意味などハナから一つに決まっている。  俺に盧生の資格を献上するため。他には何もまったくない。  ゆえに、その概念がもろに顕在化する五層こそが簒奪には絶好の機会。  しかし、言ったようにそうしてしまえば残りの階層を俺が自力でやることになり……  まあ追々考えればいい。すべては思うがままに進んでいるのだから。 ──○月○○日  悠久にも近い時が流れ、いまここにそれらがすべて集約される──  これにて、完成だ。 漂うあまりの毒気にあてられ、そこまで読んだあたしは机に手記を置いた。 「なんだよ、こりゃあ……」 綴られていたのは目を覆いたくなるような陰惨無道の日記であり、これは本当に人間の所行なのかと疑いたくなる。 誰の命も、誰の感情すらもなんとも思っていない。 あるのはただ、腐った溶岩のような憎悪と嫉妬。 まるでその場に自分が晒されていたかのような眩暈がする。吐き気を催したのも一度や二度じゃない。 こんな奴が、この世にいるのかよ。存在していてもいいのかよ。 どんな言葉でも表わし尽くせないくらいに、手記の中の柊聖十郎は醜く生き足掻いている。 他人はすべて己のために存在し、他の理由など最初からあるとすら思っていない。どこまで行っても一方通行。 ゆえに躊躇も何もなく、あのような数々の無法行為に及ぶことができるのだろう。 ふざけるな、そう強く思う。こんなんじゃ、親父も恵理子さんも四四八だって報われない。 ただ道具としてしか見ておらず、価値を奪い取れば容赦なく廃棄する。 長々と聖十郎の手記を読んだ今、こうして正気を保っているだけで精いっぱいだ。 親父が燃やそうとするのも頷ける、これは存在すらも許しておけない……そういう類のものだ。 だけど── 「……見えたことも、あるよな」 信じられないという思いはまだ色濃く残っているが、どうにかそれを心の奥に押し込めて手記の内容を回顧する── そう、ここで足を止めてなどいられないのだから。 浮かび上がる疑念は無数で、まず時間軸が意味不明だということだ。どれも明言はされていないが、まるで聖十郎が明治・大正時代の人間であるかのように見える箇所が散見される。 これはどういうことだろう? 重篤患者が錯乱の中で追い求めた邯鄲という夢と現実がごちゃ混ぜになっているのか? しかし、それにしては文体が理路整然だ。腐汁のような憎悪の中でも、あの男が氷の冷徹さを保ち続けていたというのが伝わってくる。 そして、これは自分自身でも分からないのだが、そこに意識を傾けようとするとなぜか思考、が、くらくら、と―― 「………………」 駄目だ、そのへんについてはまったく頭が回らない。だから分かっていることに目を向けよう。 それは他でもない、ここが夢の第五層なのではないかということ。 目が覚めて現実に戻って来たと思っているのはあたしたちだけ。実際はまだあの世界を抜けておらず、邯鄲の中を彷徨っているだけ。 なぜなら聖十郎の手記が言っている。四四八を狙うのは第五層が望ましいと。そして思い返せば、前回の対決であいつもそんなことを言っていたような気がする。 そしてそうであるならば、ここで聖十郎が夢の力を使えたことにも説明が付くだろう。 なまじ聖十郎が現代人だから──あいつと八幡で出会ってしまったがゆえに、勘違いは決定的なものへと補強されてしまったのかもしれない。 いやもちろん、色んなところが穴だらけな推論なのは自覚している。矛盾点は滅茶苦茶多い。 だけど、あたしはこう思うのだ。〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》と。 四四八がされた吸血行為。聖十郎の言動、手記……それらを顧みて、ここが五層じゃないのかと思った瞬間、頭の中で何かがカチリと嵌ったような気がしたのだ。 それは理屈で説明できるものじゃなく、直感や本能よりもさらに深い部分で感じた“何か”……そう、言うならば、あの思いと似ているのだ。 自分たちが夢での戦いに関わっていくことを、至極当然のように受け入れた気持ち。どこか誇らしいとさえ感じながら皆と交わした朝の誓い…… あれと同じ、原因不明だけど、疑う余地はまったくないと強く思える気持ちなんだ。これが悪いものであるはずがないと信じている。 〈あ〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈は〉《 、》〈速〉《 、》〈や〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈前〉《 、》〈へ〉《 、》〈進〉《 、》〈ま〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と。 だから今、ここが五層であるという予想は、半ば確信に変わっていた。 そして、ならば実のところ、使おうと思ったら夢の力は発動するんじゃないか。 思えばこれまで、夢の中では〈力〉《、》〈を〉《、》〈使〉《、》〈え〉《、》〈る〉《、》〈の〉《、》〈が〉《、》〈当〉《、》〈た〉《、》〈り〉《、》〈前〉《、》という節があった。最初の頃は四四八と水希がいたから無条件で信じてたし、以降はもう自明のこととして扱っていたから。 実際に試してみて駄目だった。しかし、それはここが邯鄲であるという〈思〉《、》〈い〉《、》〈込〉《、》〈み〉《、》が足りなかったからじゃないのか? ユメとは信じる思いこそが重要で、どれだけ己に誠実でいられるかが肝心なんだと思う。 不確かなものと最初から決めてかかっている世界にマコトを懸けることは出来ない。だから今まで、あたしたちは夢を使うことが出来なかった。 聖十郎の能力についても整理をする。ここまでの手記を読んできた限り、言えるのは相対する敵の〈何〉《、》〈か〉《、》を奪い取ってしまうということだ。 思い出すだけで怒りが込み上げてくるが、しかし今はそれを抑えて拳を固く握り込む。 一方的に簒奪するのみならず、どうやら互いの特徴同士を交換するような面があるらしい。何を与えられるのか、などというのは四四八たちの現況を見れば自ずと分かる。 すなわち死病。 自分の大切なものを一方的に奪われ、こちらは抗う術もなく聖十郎の〈病〉《ヤミ》を受けるということだ。その原理が解き明かされていない今、あいつと相対するのは無謀なことのように思う。 浮かんでくるのは、敵わないかもしれないという後ろ向きなことばかり。 しかし── 「ああ、上等だ……それだけでも分かればよ」 最初から退くつもりなんかまったくない。 あたしはみんなを治したいんだ。そのために、今できる蜘蛛の糸より細いかもしれない道筋がようやくはっきりと見えたところ。 なら、やらない理由がないよな。 そうだろう、親父? 自分の部屋に戻って、あたしは眠るともなく横になる。 あの禍々しいとすら言える手記を読んだ興奮も冷めやらぬまま、こうしていても、一向に睡魔が襲ってくる様子もなかった。 むしろ目が冴えている。この非常時だから、睡眠くらいはしっかりとっておきたかったんだけど…… 「ま、仕方ないか」 夜の闇の中、そう独りごちる。寝返りを打って溜め息を一つ。 曲がりなりにも柊聖十郎の人生を垣間見てしまった以上、何も思わないほどあたしは達観していないわけだし。 これまでは単なる凶人という印象だったし、あの男がやったことを思えば当たり前で、怒りと恐怖の感情しか抱いたことがないのは事実。 正直、今でも恵理子さんを返せよって思ったり、あいつとさえ出会わなければ……なんてそんな風に考えたことも一度や二度じゃないけれど。 「あいつにも、いろいろあったんだな」 呟きは静寂に紛れて消える。同情? 憐憫? 上等だ、だってそういうの当たり前に〈痛〉《 、》〈い〉《 、》じゃないか。 手記にあった病状のこと。いったいあの男は、その人生をどれほどの苦痛と恐怖の中で過ごしてきたのだろう。 僅か一部分を受け取っただけで四四八たちがあんな状態になってしまったくらいなんだ。今まで耐えてきた痛みのほどは計り知れない。善悪は抜きにして、とんでもない男だと思う。 生への執着……聖十郎の行動規範とは、つまりはそういうことなんだろう。極端に身体を蝕まれているがゆえの歪んだ妄執。 我が身可愛さで済まされるほど、あの男が犯してきた罪は軽くない……そう分かっているけれど。 ……いや、これ以上を考えるのはやめよう。思うところを飲み込んで、まず皆のために決意を固める。 闇の向こうにある窓を見詰めながら、頭に浮かんでくるのは親父と、仲間たちの姿だった。 任せてろ。必ずあたしがなんとかしてやるから。きついだろうけど、今晩だけ待っててくれよな── 頭の中で語り掛けながら、そっと目を閉じる。さっきまでの落ち着かない気持ちは、淡雪のように少しずつ胸の内で溶けはじめていた。 そのままあたしは、深い眠りに落ちていく── そして翌朝…… いつもと同じに学園前の光景だが、どこか不気味に見えるのは恐らく勘違いじゃない。 校門の向こうは、あたしの知っているものとはまったく違ったことになっているのだろう。現代とは異なる、常在戦場といった気風があるはずだ。 単身ここに乗り込むことは、昨日の内に決めていた。けれどもちろん、自棄になったわけでもないし、無駄な特攻を掛けるつもりなんざさらさらなくて。 目的は、花恵さんとの決闘にあった。 聖十郎の手記やその他諸々の情報から推測されるのは、ここが現実じゃなく、夢の五階層ではないのかということ。 そして仮にそうならば、自分も夢が使えるはずだという当然の帰結に思い至る。ていうか、この想像が当たっていれば諸々のことに説明もつく。 あの外道親父が当たり前に夢を使えていたことも、思い返せばきっとそういうことなんだろう。 昨日、八幡で試したときの顛末もそういうこと。あのときは何も信じることができていなかったから、当然何も使えない。つまり〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈が〉《 、》〈現〉《 、》〈実〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》という思い込みゆえの縛りを、あたしは今から突破しなければいけないんだ。 その常識をぶち破るには、当然相応の試練ってやつが必要で…… 花恵さんという壁を超えることでそれを成し遂げれば、事態はきっと好転するだろう。力を使えれば傷ついた四四八たちを癒せる。それこそがあたしの望みなのだから、ギリギリまで自分を追い込んで成し遂げなければならない。 そして、その思想に至った根拠は、手記から垣間見えた聖十郎の能力。 そこから考察するに、あの花恵さんもおそらく何かを奪われたのだろう。そうじゃないとあの暴挙に説明が付かないし、ならば本物を助けずしてなんとすると思う。 大切な恩師だからこそ、戦う覚悟をきっちり決めたんだ。 まるで草花を踏み躙るように他人の大切なものを奪う聖十郎、あいつの傀儡のままにしてはいけないじゃないか。 だから、これは不思議なことだけど──あたしはどうしてか、今すんなりと柊聖十郎についての懸念を頭の中から追い出せていた。スムーズに。 無視していい存在ってわけじゃないし裏で糸を引いていたのはあいつだから、これからも最大の警戒が必要だけど、しかしその動機を知った今、不思議なことにある程度の理解というか、納得の感情があるわけだった。 命を長らえたい。死病に冒された身体を癒すためならばなんだってやる。 手段の是非はどうであれ、その動機には妙な人間くささを覚えてしまって。 助かりたい。その感情はあたしにとって、もっとも納得のいくものだったから、と…… 考えている内に、学園の前まで到着する。 さすがに緊張するなと思っていると、視界の端で何か動くものが見えた。そして僅かも置かずに複数の生徒たちがぞろぞろと集まってくる。 花恵さんの姿はない、どこか別の場所にいるのだろう。 おおかた、反逆者がやってきたとか打電されていることだろう。殺気立つ連中に、あたしは大声で言い放った。 「ちょっと待て、あたしはおまえらと戦うつもりはねえ──」 「ほら、これでいいか? ちょ、変なとこ触るなオイ!」 無防備に両手を上げて、何も持っていないことをアピールする。 一瞬連中は面食らっていたけれど、すぐ迅速にあたしを拘束しに掛かるがこれでいい。最初から普通の奴らと戦うつもりなんてないのだから。 「痛ってえな、いちいち反抗しねえよ」 「ただ、あたしを花恵さんのところまで連れてってくれないか」 「って、どうせそう言われてるんだろ? おまえらの勝手で殺していいわけねえよなぁ」 最後の台詞は、少し危ない賭けになったけど。 「ッ──────」 強引に両脇を抱えられてあたしは引っ立てられる。どうやら来いということらしい。 やはりこいつらは命じられてるだけであり、その行動に主体的なものは感じられない。読みは当たったし、そして同時に好都合だ。 「待ってろよ、花恵さん」 恩師の名を口にして、あたしは連れて行かれるがままとなる── そして、そのまま教室へと引きずり出された。 中央に悠然と立っている教官殿。周囲には生徒どもがいて準備万端って雰囲気だな、おい。 「おう真奈瀬、よく来たなぁ」 「今日は欠席かと思ったぜ? なんだかんだ、おまえは真面目だよなぁ」 「分からないこと、私に聞きに来たか?」 未だ拘束されたままのあたしを花恵さんはそう煽ってくる。ああ、やっぱ普段の性格とは違うわけだ。 口調とか大筋で同じだけど、こんなのは断じて別人だろう。こんなに趣味は悪くないし、なんというか、目が違う。まるで〈た〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈一〉《 、》〈つ〉《 、》〈の〉《 、》〈感〉《 、》〈情〉《 、》〈を〉《 、》〈極〉《 、》〈限〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈煮〉《 、》〈詰〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》かのようで、とてもまともな人間だというような普通の感想を得られない。 ある意味、肉食獣に対する感慨に近い。無駄や余分が一切ない、単一機能で構成された狩猟欲の塊というか。 今まで傍若無人な言動も少しはあったけど、それはすべてが納得いくようなもの。理不尽を押し付けるような立場なんてあたしたちが知ってる花恵さんは取ったことがないし、だからこその信頼ってのもあったはずだ。 ゆえに、あんたのことは認められない。 そうあたしが睨んでいると、鼻白んだような笑みを浮かべて告げてくる。 「なあどうだ、聖十郎の病はきついだろ?」 「あいつら今頃どうしてる? 頭は焼け爛れて、そろそろ身体も腐り落ちてるかな? もう廃人になっちまうかもしれねえなあ」 「看病してやんなくていいのかよ、優しい優しい真奈瀬ちゃあん」 近寄って言うのは徹底して下衆な内容。ああ、ここまでされると感心すらするよ。 たぶん、それが〈役〉《 、》〈目〉《 、》なんだとは思うけどさ。 「しっかし、おまえどうも〈罹〉《、》〈り〉《、》が悪いんだよなぁ」 「どうなってんだ一体。健康優良児ってだけで防げるようなものでもないし」 「べちゃべちゃうっせえよ、花恵さん」 言葉を遮って、あたしは口角を上げる。 両手を押さえられてどうにもならない状態だけど、そんなものは気にすることなく顎を突き出した。 「なんだそりゃ、しょぼいぜ。聖十郎があたしらを弱らせておいてくれたから、ようやく大口叩けますってか」 「あたしとやるのにビビってんのかよ。はっ、大した先生様だことで」 見え見えの挑発。どう乗ってくるかは分からない、しかし花恵さんならばと期待を掛けているところがあった。性格の大部分が削られていても、根っこは一緒だということを悟っていたからの賭け。 それは稚気、言い方を変えればムラッ気だ。変わってしまった今の状態からも、それは感じる事ができたから。 「おー、挑発ね。そういうこともできるんだおまえは」 「いいぞ、なかなか優秀じゃない。無骨なだけの兵士より私好みだ」 「ていうか乗っちまうのかよ。ほんと分かり易いなあんたは」 「おいおい感謝しろよォ。このままおまえ、殺しちまってもいいんだぜ?」 「だがまあ、生徒だった真奈瀬に餞別だよ、公開処刑に切り替えてやる」 その言葉と同時に縛めが解かれた。 生徒たちはざっと下がって、教室の壁に沿うようにあたしたちを囲む。命令に忠実なのはいいけど、ちょっとキモイぞおまえら。 ともあれ、ここまでは計算通り……いいや、きっとある意味で予定調和。 今この瞬間に達した流れ、要因、そういったものがこれを一つの舞台として導いたようにも思う。 だからこそ、必ず。 「ここは勝つしかねえよなぁッ」 「おう、言え言え。寝言は学生の特権だ」 「ただし、すぐに現実ってやつを思い知るまでがおまえらのテンプレな」 浮かべる花恵さんの笑みは禍々しく、楽しんですらいるようなその様子にあたしは告げた。 「取り返してやるからな、花恵さん」 「え? なんだって?」 「無理矢理こんなこと、させられてんだろ。あの男によ」 と、それに対してぽかんとした顔をされた。 意外そうな表情を浮かべて、ああ、ああ、と何か納得したように続けて一言。 「いやいやー、違うぞ真奈瀬」 「なーんか勘違いしてるようだけどな、私は別にあいつの奴隷でもないし、囚われのお姫様ってわけでもないぞ」 「好きにやってるんだよ。これが自然な姿ってわけさ」 「んなこと、信じられるかよッ」 だ・か・ら、と──聞き分けのない子供へ畳みかけるように肩をすくめて。 「──人間、根底には暴力性ってものがあるだろ?」 「普段は優しい奴だって、時にはわけもなく周囲のものに当たり散らしたい──そんな残酷な本能、おまえにだって心当たりくらいあるだろう」 「今の私はそれだけなんだ。メチャクチャやるのって楽しいな、っつうね」 「だからこれで大満足なんだよ、正直」 言葉を失う。それは、花恵さんの本性が暴力に塗れているってことか? いや、そうじゃないと信じたいけれど、これは。 聖十郎に何かを奪われたから? 別の感情をなくしているから? それともあるいは、逆に〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈感〉《 、》〈情〉《 、》〈の〉《 、》〈み〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈構〉《 、》〈成〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》、と。 想像した最悪の結論に、彼女はただ呵々と笑った。混じり気なく純粋に、そしてどこまでもシンプルに。 「本当の花恵がどうだかってのは知らないがね」 「おまえ、考えてること顔に出過ぎ。そんなじゃ苦労するよ、先々」 「ともあれ、今の私はこんな感じ。楽しいよ、好き放題暴れられるから」 なぜなら、それ以外何も持ってはいないから。他のあれやこれやという、人間を人間たらしめる複雑性がどれも緻密に排されてるから、迷いがないし澱みもなし。 ああ、ここに来てようやく分かった。今の花恵さん、この人は暴力が楽しくて仕方がないだけなんだと。 他者を屈服させる暴力衝動のみの具現──ゆえに柊聖十郎に獲られた云々、そんなものすらどうでもいいのかよ。ちくしょう。 「まあ、わざわざ来てくれたし無下にはしねえよ」 歓待しよう、と言った瞬間。 「あたしの手で死ねや真奈瀬。聖十郎とかにやられるよっか、なんぼかマシだろ?」 そんな破壊という名の真心を、うずうずしながら伝えてきた。 激突はもう避けられない。だからあたしは集中し、身体の中から闘気を呼び起こす。 花恵さんの狂気の笑顔が思い出のそれと重なる──悲しくて、悔しくて。だから負けるかよ、見ちゃいられない。 さあ来いよ、あんたの渇きも癒してやる! 「いい顔してるねぇ、後悔するなよ!」 放たれた叫びとともに、戦いが開始するのだった。  まず、これまでに重ねてきた戦闘との何よりの違い。それは仲間がいないということに他ならないだろう。  晶は接近戦も一応の態でこなせるが、その本領はやはり回復。集団の軸に据えてこそ発揮できる。  戦真館は指揮官である四四八以外、能力の特化した者の集まり。強烈な得手がまずあって、戦況に対してその個性を流動的に当て嵌める運用こそが本領だ。ゆえにまず、懸念として。 「く、ッ……!」  一対一では、回復よりもまず相手を倒すことが求められるという当たり前の事実が立ちはだかる。回復特化、支援特化、よって当然こうなってしまう。  だから後手に回るのは甚だ悪手だ。一度追い詰められればペース奪還は困難で、がむしゃらな攻撃行動こそがこの場合唯一の正解と言える。  そう、まずは夢をこの手に取り戻すためにも。  行くぞ。戦え。決意をかざして前を向くんだ! 「オラどうした真奈瀬ェッ、おまえ口だけとかしょっぱいオチは勘弁だぞ!」  攻撃を繰り出す花恵は心得ていて手を止めない。怒濤の剣雨が襲いかかるが、それが今では好都合だ。  その恐ろしさに屈さないという勇気を糧に、祈り、願い、誓いを胸に迸らせて── 「舐めるんじゃねえっ……!」  ──紡ぎ出す覚悟が、邯鄲の感覚を再び回し始めていく。  想像は当たっていた。ここは紛れもなく、依然覚めない夢の中だと確信した。  では、さあどうする?  晶にとってもう一つの不安、それは低い〈創法〉《クリエイト》の適正にあった。  戦闘時の武器は四四八の創法に頼っていたためこれは実質、大きな痛手だ。得物がなければそもそも勝負の俎上にすら至れずこのまま膾にされるのみ。集団の練度を高めてきた戦真館の弱みがここに浮き彫りとなるが、しかし。  四の五の言ってはいられない。自身の中に息付く経験、信念、容易く崩れなどしない積み重ねたものを糧に腕をかざす。  覚悟はもう決まっていた。揺るがない、変わらない、ゆえに当然。出来ないはずがあるものか。 「来いっ──」  呼べば応える。それはまるで自明の理とでも言わんばかりに、周囲に力が収束しまるで晶を包むかのように顕現した。  柊四四八の創形に若干見劣りするものだが、懐かしい羽衣がこの手の中に収まっていた。 「っし、これでッ」  やれる。戦える。確信と同時に晶は顔を上げて帯を操った。  最初の一撃は相手も挙動が掴めておらず、初撃にして絶好のチャンスとなった。出し惜しみなしの全開を見せつけるのはまさにこの瞬間。  四方八方より鎌首を擡げた夢の具現が唸りを上げて恩師を襲う。躱す空間をも埋め尽くす。  そして、抵抗の意志もなく、またそれが可能であるはずもなく、呆気なく花恵の捕縛に成功した。思わず拍子抜けするほどだが、先の流れからこれは当然の帰結であるだろう。  四肢を束縛し、捩り上げる。それは相当な負荷が掛かっているはずで、こうなってしまえば如何な手があろうとも逆転の目へ繫げることは不可能だ。 「花恵さん、終わりだ。あんたもう逃げられねえよ。  ここで降参してくれ」  だからまず、そう告げる。晶には相手をいたぶるなどという趣味はない。  今の花恵が暴力衝動の奴隷であったとしても、自分は憎しみの類で戦っているわけではないのだから。  四肢を縛して動きを封じ、完全制圧であるこの状況。花恵とて理解をしていないはずはないが、なのに余裕は揺るがない。  それがどうしたと言わんばかりに、笑う、嗤う。白痴のようにけらけらと。 「ははっ、いいぞ面白い。なかなか言うじゃねえか真奈瀬。   やってみろよ、おまえの手でな」  出来るのか? そう問いかける瞳は邪悪で、なのになぜか、在りし日の教官のようにも見えて。  ブラフ、強がり、自殺願望、そのどれでもあるように見える。  これから起こる結果を待ち望んでいるようにも見えて、そこに一瞬、不吉なものを感じたが。 「さっさと来いよコラァッ!」 「ッ──、後悔すんじゃねえぞ!」  事ここに至って躊躇はしない。我も人、彼も人、だから対等の相手として本気でぶつかり、このまま勝つ。  花恵の咆哮に乗るかのように、晶は意志を羽衣に伝達した。手足を壊し動きを封じれば、そこで勝利となるはずだ。  みしり、と破砕の感触が伝わってくる。  しかし── 「あ、ぐァァァッ……!」  瞬間、晶が力を込めたのとまったく同じタイミングで、後ろで壁を作っている生徒の一人が弾け飛んだ。  あ──と、まるで馬鹿のように口を開いてそれを見るしかなかった。何だよこれ? 何が何だか、分からない。  床に転がったそいつはダメージ負っている、手足がへし折れたそれはまさに今しがた攻撃を仕掛けたのと同じ箇所だ。いったいなにがどうなっている。  身代わり? 今の一瞬で? いいや否、何かができたとは思えない。確かに固く自分は拘束していたのだから。  唐突に現れた理解不能。それに加えて、不気味なのが周囲の生徒の雰囲気だ。  クラスメイトの負傷にもまったく動じない、ただ変わらず、周囲にバリケードめいた陣を直立不動で組んでいるばかり。  おまえらどうしてそんななんだ、もっと慌てろよと恐怖さえ感じながら歯噛みする。一斉蜂起をされていない今の状況は決して晶にとって悪いものではないが、それとは関係ない根底のところで不安と苛立ちが湧き上がった。  仲間がやられて表情一つ変えないなんて異常だろう。自分には現代での記憶が残っていて、その中の奴らと姿形が一緒だからなおさらだ。  そして感傷になど浸ってはおれず── 「おお、見事にいったね。ぽっきりだ。ありゃ治すのにけっこう時間掛かるぜ」  彼女は余裕を崩さない。つまりすべて、この一連の現象は花恵の〈夢〉《わざ》に他ならないと直感した。 「お? そんなことまで聞くのか。いかんな真奈瀬、自分で考える癖をつけろよぉ。 試せばいいじゃないか、トライアンドエラーだよ。   さもなくばこの帯抜けるぞ? 抜けちゃうぞ? したら、今のおまえなんかはっきり言って瞬殺だぜ」 「く、っ──」  それは事実で、確かにそうで、けれどこのままもう一度攻撃を与えることはどうにも怪しく、戸惑って……  どういうことだ──そう思いながら、もう一度力を込めるしかないのだ。やらなくちゃならないのは事実だし、拘束を解くわけにもいかない以上、勝利するためにはこれしかない。けれど理解が及ばない。  心を痛めながら、もう一度。 「いぎいいいいっ──」  そして──いや、やはりというべきか。先ほどとまったく同じ現象が目の前で再来した。  壁に向かい、もう一人の生徒が身を跳ねさせて吹き飛ばされた。  悶絶すると同時に、視界へ血が舞う。  自分が起こした結果で誰かがこんなに傷ついて──やめてくれよ。心が痛い。 「ははははっ、いいぞ、派手だねなかなか。 おうおう、手足が両方潰れてらぁ。真奈瀬、おまえも意外とサディストなのな。 どっちかってーとマゾかと思ってたわ。はははっ」  その挑発に頭が沸騰して、怒りと悔恨でおかしくなりそうだったけど。  奥歯がぶっ壊れるほど噛み締めながら衝動を抑え、冷静になれと何度も何度も言い聞かせる。見切れ、せめて分析するんだ──四四八のように。  自分の攻撃が発端で傷ついてしまった生徒に対しすまないと思うなら、少しでも早くこの状態を脱却しなければ。  倒れた生徒の傷は攻撃と同じタイミングで発生した。負傷箇所も全く同一。そこから考えると自分の攻撃が作用しているとしか思えず、ならばいったいどういう理屈だ。  反射? 身代わり? それともそれとも、それともそれとも── 「おう、いいね。頑張れ若人よ。 だけどいつまでも暇は与えてやれないぜ、時間は有限なんだよ、いつだってなァ」  ゆっくりと、これ見よがしに構えているのは余裕の誘いか? それともああして無抵抗で受けることが、このおかしな状況の発生条件? 無防備に近づいてくる相手が不気味で、思わず足が一歩後ずさった。  そして──そこでふと気づく。  目に入ったのは、先ほどダメージを受けた二人の生徒。彼らに与えたダメージに明らかな差異が出来ていた。  もっと端的に言うのなら、二撃目を喰らった奴は同じ程度の衝撃だったはずながら明らかに初撃以上の損傷具合に至っている。  どの程度の圧を掛けたかは正確に覚えていないものの、倍加までさせた記憶はさすがになかった。  だとすれば、これが花恵のユメの一端。特徴の一つなのかと推察して── 「なんか気付いたかね? 意外ときちんと考えられる子だよなぁ、おまえって。 うんうん、よくできました──っと!」  正解だと褒めるように、一段階引き上げられた膂力からの攻撃が帯を強く軋ませた。  思わず咄嗟に放った返礼の反撃。込めた力は通常の半分程度で、牽制にも満たない程度のものだったが、しかし。 「あがあっ──」  ──予想通り、悪夢の光景は訪れる。今度は側面の生徒が崩れ落ちた。その打撲はこれまでと比しても相当深い、あれだけ弱い衝撃だったのにだ。  骨の粉砕にまで達しているそれは、明らかに今自分が放った威力の数倍へと変化している。戦慄しながら事を理解し始めた晶に、花恵は拍手をしてふざけた口調で言い放った。 「んな検証じみた真似しなくたって、ちゃぁんとタネは教えてやんのに。ご苦労なこって」 「どういうことだよ、花恵さん── なんであたしの攻撃の威力を膨れ上がらせて、あいつらに弾くんだッ」 「おお、ビンゴ。だがそれだとサンカク。点数は半分ってとこだな」  気だるそうに首を捻りながら、まるでゲームのルールを説明するかのように睥睨する。 「なんでも無制限に弾けるってだけじゃ、あたしの全勝ちじゃん。無敵のユメなんてないし、だいたいそんなのつまんねえ。 それは、おまえも気付いてるよな?」 「──────」  自分の周囲に張り巡らされた無敵の壁……そんなものは存在するはずがなく、そして同時に存在できるはずもないのは、確かに花恵の言う通り。  そんな一方的極まる力を持っていたなら彼女が聖十郎に後れを取ることもなかったろうし、そこは晶の考えていたこととも合致する。  ならば、隠された夢とは一体何か。隠すことでもないという風に、花恵は堂々と口にした。 「私の力はな、自分が受けたダメージをその場の誰かに跳ね返す。 要するに、ランダムで擦り付けちまうってもの。次に命中するのは私かもしれないし、あんたかもしれない。 シンプルなもんだろ? それにいたって公平だ」 「まじかよ……」  つまりは命をかけた大博打。慄然として肌が粟立つ。それはそうだ、平然としている花恵のほうがおかしいと言えるだろう。  今彼女が口にしたその真意は、すなわち自分をも巻き込んだロシアンルーレットなのだから。  おそらく、こういうことなんだろう。基本となっているのは散の咒法と崩の解法、その範囲内に存在するギャラリーと自分を巻き込んで、一つの運命共同体と化す。誰かに自分のダメージを飛ばせるが、彼女の言うことが真実ならこれは決して術者にただ有利なだけの条件じゃない。  なにせ自分自身や対戦相手も含まれるのだ。それは晶の初撃でそのまま沈んでいたかもしれないし、たとえば隣の生徒を殴ってあっさり決着がついていたかもしれないことを意味している。にわかに信じられるはずもない。  だって命が懸かってる勝負なんだ。それをまるで玩具か何かのように簡単に取り扱うというのを、どうしても理解できない。  けれど、花恵は意に介さず口を開く。  〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》、と。どこまでも純粋に、暴力へ酔いしれながら。 「だから私を攻撃すればするほど、後ろの連中が吹っ飛んでいったってわけだ。 ここまではおまえの発見な。そして原則、ギャラリーの数が多いほどダメージは増大し、さらに回数を重ねるごと威力は上がっていく。 加えて、同じ人間が二回目三回目とダメージの受け持ち役に選ばれると、それに比例してまた威力が倍増する。 運の悪い奴にはとことん厳しく。はいまたババ引いたーってな感じだ」  とことんまでに馬鹿げている内容──そんなもの、本当にただの博打じゃないか。運が良ければ、極論、何の強さも速さも努力すら必要ないと言っている。こんなどうしようもないことがあるかよ。  命を張るにはこれ以上不適格なものはない。なのにどうして軽薄に笑える? 「つまりー、見てる奴が多数いる場合、私が受けた十のダメージは五十や百になって周りに飛ぶということだ」  そして逆も、また同様。誰かが適当に傷つけば、たったそれだけで自分が当たりを引いて死ぬかもしれない。  なのに、なのにこの人は── 「当たる確率が低いからこそ、いざ命中したら点数がでかいっていうギャンブル的な理屈だな。 おまえも私も、実はラッキーだったんだぞ? さっきのがヒットしてたら、今こうして呑気にお話しできなかったかもしれんし」  笑って告げる、それを狂気だと晶は思う。  目の前で人が血ぃ流して倒れてんだぞ? それは自分の生徒なんだぞ? あんたの教え子じゃねえのかよ!  実際、自分は今、こんなにも胸が痛いというのに。  彼女の能力を見抜けなかったことで不必要な血を流してしまった。それを悔いているし、辛いと思うし、恥じてもいる。  申し訳なくて仕方がない。自分が傷つく何倍も、苦しくてたまらないのに、この人は。 「怪我人見たら、治したいって思うのが普通だろうが……」 「そんなのどうでもいいけどね、少なくとも〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈私〉《 、》は。 ただ、退屈なのはお断り。面白さ、熱いスリル、いいじゃねえか求めていこうぜ。乗って来いよもっとなァッ」  花恵の目の奧底にある虚無。それが何かを理解する。  それは、破滅へと続く昏い光だ。  暴力、暴力、とりもなおさず〈殴〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》──他には総じて伽藍の空っぽ。まるで穴が開いているようにも見えた。 「まあ知ったところで、もうどうにもなんねえがな。みんな等しくリスクを負ってるんだよ。 この教室の全員ね」  だから〈公平〉《イーブン》、最高だろうと花恵は語った。どいつが死んでも、どいつが生きても、運否天賦。見えない何かの思し召し。  気軽に気楽に殺しあおう。なあに、生き死に浮世は〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》。  ならどこまでも一時の感情と情熱に身を預けて。  熱く、熱く、笑い転げまわればいいと語ったから。 「……どうして、あたしに教えた?」  震えながら、そう漏らす。  知りたくなかった。だって、こんなの── 「あ? 知ろうがどうしようが一緒だろうが。 疑心暗鬼に探り合いなんかしてもしゃーねえだろ、私がやりたいのはそういうんじゃないし。  ギャンブルなんだよ、ただ」  強さ? 覚悟? 知らない、要らない、どうでもいい。  全部適当にうっちゃって、ごちゃ混ぜの結果と、ひりつくような緊張感を楽しもうぜと低く笑う。  周囲は既に花恵の夢に堕とされているのだろう。その身に迫った危機に怯えることなく、ただ沈黙を守っている。 「タネが割れたところで、さあどうする。優しい真奈瀬ェ。それでも戦えるのか?  私はおまえの勝負に乗ってやっただけ。今から処刑に切り替えても全然構わんのだよ」  事実、この状況は晶にとって過去最大の重圧となりのし掛かっていた。そうだ、今も怖くて仕方がない。自分のせいで誰かが死んでしまうかもしれないことを想像し、崩れ落ちそうな恐怖を感じる。  相手は攻撃を加えてくるし、逃げ惑っても適当に誰かへ当てるだろう。そうすれば死のルーレットは発動し……命を奪ってしまうという最悪のリスクは否応なく上がっていく。  自分の手で花恵を、あいつらを傷付けても。  花恵があいつらを、そして自分を傷つけても同じこと。  これが真の一対一ならば戦えたし、立ち向かうことができたはず。けれど無関係な誰かを巻き込むことは、苦痛以上に耐えられない。それがたとえ、見知った顔をしているだけの夢であっても同じだった。  拭いきれない善性がここにきて晶を苛み始める。逆十字の統べる第五層は、総じてすべてが例えようもなく鬼畜だから。  ギャンブルの快感に恍惚としたまま花恵は構える。  周囲の空気が変わったことに、晶は恐れながら顔を上げた。  そこにはもはや、自分の知っている女性はいない。あったのは、ただ震えるような喜悦混じった般若の相── 彼女の〈博打〉《ユメ》が駆動する。 「見し夢を獏の餌食と成すからに、心も晴れし曙の空。  破段・顕象── 〈夢合延寿袋大成〉《ゆめあわせえんじゅのふくろたいせい》」  宣誓と共に、周囲もろとも、天運の地獄へと引き込まれた。 人は理不尽を恐れる生き物だ。 因果も何も無いところからの不幸など受け入れられないという奴が大半だろう。同じ損害を被るのでも、それが因果応報に類するものであればどこか納得できるというものだ。 ましてや命に関わることならなおさらだ。悪魔の気紛れなどで殺されてしまってはたまらない。 大往生をさせろとは言わないまでも、なんで不幸な目に遭うのかの説明くらいはあってもいいだろう。それさえあれば、こっちは大した文句も言わないんだから。 納得できるかどうかは、かくも重大事なのだ。 そして言うまでもなく── こんな理屈もなく、道義もなく、意味すらもないもので殺されてしまうなど納得いくわけがなかった。 花恵さんが展開した〈邯鄲〉《ユメ》を一言で述べるなら、率直そのまま、蜘蛛の巣だ。 まるで糸のように教室の皆へ、そしてあたし自身に接続されているそれは、死の〈阿弥陀籤〉《あみだくじ》という他ない。 すなわち導火線であり、縁であり、花恵さん本人を起点として誰も彼もを巻き込みながら伝播されていくデスゲーム参加の証だ。行き先は誰にも分からないというふざけた仕様、この場にいるすべての者は絡め取られた哀れな蝶か。 すべてが運任せという特大の理不尽に己が命を賭けざるを得ない。それは本人ですら例外はなく、だからこそ強力無比。 自分に降りかかるリスクを飲み込んでいる以上、その狂的な平等精神がいとも容易く自分たちを一つの型に嵌めこんだ。 「ほらァッ! 腰が退けてんぞびびったか?」 「だったらチンタラしてねえで、さっさと退場しなッ!」 刹那の逡巡の間にも剣撃は襲い来る。 それは苛烈で一切の手加減などなく、ようやくにして回避し距離を取った。 「くッ──」 飛び込んでくる花恵さんの連撃。躱す、防ぐ、しかし後が続かない。 無関係の連中を巻き込んでしまう可能性があたしの手を止めてしまう。 すべての防御とは勝利のためにある、すなわち反撃の一手に繋ぐためのもの。しかし今のあたしにはそれがなくて、必然、動きには弊害が生まれてしまうものだから。 「脇が甘いっつってんだおらァッ!」 「ッ、ぐ……!」 巻き込むような肘打ちが炸裂し──けれど、けれど、何にも痛みはなくて。 それどころか衝撃の走るという感触すらなかった。それはつまり、同時に一つの結果を示している。 瞬間、あたしのダメージを肩代わりした誰かから盛大に血飛沫が舞った。脇腹から臓腑が爆発したように弾け、水風船のように破裂する。 避けきれなかったのは自分なのに。ミスしたのは自業自得なのに。けれど、どうしてどうして、別の誰かがこうならなきゃいけないんだよ── 何だよこれ。何だよこれ。理不尽だろ、どうなってんだよ。 こんな馬鹿げた展開、あっていいはずないだろうが……! どいつもこいつも、どいつもこいつも、あいつもそいつもあんたも皆── なんで死ぬことが恐くないんだ。操られてる連中はともかく、花恵さんまで、これはねえだろ。 攻撃食らったら痛いに決まってるし、そうじゃない人間なんてこの世にいるわけないんだからさ。 恐いって言えよ。 傷を受けたら治したい、治りたいって言ってくれよ。 そしたらあたしが幾らでも治すから。こんな戦い、心底嫌だ。全員揃って痛覚を切除されてしまったように、本当に恐い。戦の真がどこにもねえ。 こんな最悪の反則ルール、逃げ出したくてたまらない。くじ引きで死ぬなんてまっぴらだし、そんなことで死なせてしまうということも吐き気がするほどまっぴらだろうが。 喰らった奴ら、あんたも、あんたも、頼むから治せと叫んでくれよ。まだ生きたいと、どうして思ってくれないんだ。 そう── あの男、柊聖十郎のように。 あいつが抱いていた生への執着、その何十分の一だって抱いてくれたら。 いいや── 「はっ……そうだよな」 知ったことか、ふっ切れた。〈あ〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》〈を〉《 、》〈治〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》。 死にたがりでも何でも、こいつらがどう思おうなんて関係あるか。そんな大馬鹿相手に、どうしてあたしが遠慮しなきゃならないっていうんだ。 たとえ、縋ってくれなくても。余計なお世話だって言われようが。 「そっちが勝手にやってんだ。ハイそうですかって合わせるのはきついって」 ──全員、完璧に癒してやるよ。 それが真奈瀬晶にとっての、戦の真と思うから。 心が決まったことで、迷い、戸惑い、それらは嘘のように消え去った。ただ正面だけを見据える。 離れ業かもしれない。上手くいく可能性は少なく、難度が高いことなんて火を見るよりも明らかだけど、しかしそんなことは問題ですらなく要するにできるかどうかじゃない。 刹那、幼なじみの顔を思い出して。 そう、あたし自身が── 「──やるんだよォッ!!」 気合の叫び声と共に、かつてない領域で夢の領域を振り絞った。 たとえ、彼らがあたしを信じてなくても、あたしは何も隠さない――そう決めたからやり通す。 「おらアァァッ!」 ダメージの乱反射が起こった方向へ向け、回復の光を全力で飛ばす。 瞬間──数倍加された衝撃の直撃を受けた生徒に帯は届き、同時に傷口は回復し、巻き戻し映像を見るかのように塞がっていく。 そうだ、これが自分にとっての戦の真。そうだよな、四四八。 「は、ははっ……なんっだそりゃ」 そして、花恵さんもこちらの意図を察したのだろう。面白がるように、褒めるように、小馬鹿にしながら眉を顰めた。 「おまえ、ダメージの飛んだ奴のこと片っ端から自分で治すつもりか? ざけんなよ、そりゃ無理だろうが」 百も承知。だからあたしは花恵さんに笑んで、その教えを意趣返す。 「あんたは好きなようにやりゃいいさ」 「──あたしも、そうするからさ」 戦闘中に受けた負荷を誰かにランダムで跳ね返すなら、好きなだけすればいいよ。当たりが出るまで終わらない、じゃあその時まで〈あ〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》〈が〉《 、》〈生〉《 、》〈徒〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈を〉《 、》〈癒〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 リスクに怯えることなく戦闘を続行しつつ、それが他に向かったらあたしが速攻治して繋ぐ。 冗談にもなっていない戦術で、正直戦いながらそれを行うのは効率としては当然最悪。遠距離にいる人間に楯法を当てるだけでも難しいのに、加えて他の夢との並列だ。手が足りないっていうか無謀そのものだ。 けれど、こんな程度で退けはしない。知っているだろ? あたしは意地を張ったら通しますから。 たとえあなたが相手でも。 「──なるほどね」 「おまえらしいよ、真奈瀬。小細工無し、出せるもの出すっていうその姿勢」 「あんたに習ったんだぜ、一応な」 それは、厳密にはこの人じゃないのかもしれないけれど。 だが、それでも。感謝を込めて睨み付ける。 「いいぜ、その目。ぞくぞくするわ」 花恵さんは悦に入った相を浮かべ、そして── 「面白い、その賭け乗ったッ!」 「何百発でも撃ち込んで来いや、全弾受け止めてやっからよォッ」 「おまえがバテるのが先か、私にブチ当てるのが先か……いいじゃねえか、やろうぜ来いよッ」 「来いよって、あんたな……」 あたしは半ば呆れてしまう。 それはこちらの台詞だろう。なぜそっちから来ないのかと。さっきまでの絶対有利をどうして徹底的に生かさなかった。 何か言ってやろうとしたが、諦める。素直に聞くような性格してないからな、この人は。 「そういうところ、変わってねえな──」 「ふざけたようでいて、変に生真面目なところがよ」 「真面目? やめろよぞっとしない」 「さっさと来いよ真奈瀬、手加減なんてシケたことすんなァ」 「言われなくても──」 覇気を両腕へと集約させる。あたしの精神力がここからどこまで保つか分からない。 だけどッ! 「一発ぶん殴ってやるよォッ!」 本気の気迫を込めた羽衣は螺旋に舞い、確かな手応えをあたしの手に伝えてくる。 蜘蛛の巣の一部が破裂しそうなほどに膨らむ。さっき花恵さんが言っていた威力の倍加── 同時、すべての衝撃が弾け飛ぶ。 「間に合えッ──!」 即座に疾駆し、帯を伸ばす。生徒を抱え込むようにして治癒する。 すまねえな、こんな茶番に巻き込んで。 しかし絶対に死なせない、だから安心してくれよな。おまえたちの誰一人だって、くだらない最期なんか迎えさせやしないから。 想像以上に精神力を消耗するけれど、負けるかよ。あたしは勝つ。あの人をぶっ飛ばして、そして誰も死なせない。 死なせない──! 「んふ、いいねぇ……私らの背中の辺りをよ、運命の女神がウロウロしてんの感じるわぁ」 「まるでジャンキーだな。いつからそうなったんだっての」 「ほら、辛そうだぞ。さっさと来いよ」 「ガス欠になったら終わりだろ、誰も救えない。いいのかよおまえそれでッ」 「分かってるってのッ!」 攻撃──生徒が薙ぎ倒される。 攻撃──生徒が貫かれる。さっきの何倍も酷く。 それが何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も。吹き上がる血飛沫と共に、より激しく苛烈になって──それを全力で治していく。 目を逸らしたい。しかし逸らせない。いくら治すとはいえ、傷付けてるのはあたしなんだから。 向き合うんだ、痛みと。その上で助ける。 弾け飛ぶ内臓や骨肉を嫌になるほど見て、治して、治して、治して…… 彼らの身体が原型を取り戻す光景を眺めるうちに、不思議と聖十郎の手記を読んだ記憶が頭の中に蘇った。 あいつは自分を救うために、すべてを犠牲にして。そりゃ、あたしにはそんな重い背景はないけれど── それでも柊聖十郎って男の気持ちが今なら少しは分かってしまう。こんな光景はゴメンだし、狂っていると当然思うよ。生きたいっていう方がまだ理解できるし納得できる。 ゆえに自覚する。誰かに救いを求められたとき、それを見捨てるって選択肢は、真奈瀬晶の中にはない。 必ず助ける。なんとしても。ああ、そうだあたしは── あたしの夢は、そのために在ると理解して── 「ああ、あ……」 刹那、ついに自分へ大当たり。 全身の骨が爆竹みたいに吹っ飛んで、肉と混ざった粥のように周囲へ大きくぶちまけられる。視界の端ではげらげらと大爆笑する花恵さんがいて、けれど鼓膜が破れているためにその声は微塵も聞こえない。 〈夢合延寿袋大成〉《ゆめあわせえんじゅのふくろたいせい》──強いも弱いも関係なく、すべてはただ、果てしなく運任せの夢占いとして処理される。 さっきまでの奮闘なんて単なる幸運の比べっこに過ぎないと、どうしようもなく突きつけられて、夢の彼方に散っていくだけ。 けれど── 「……ッ」 勝つんだと、命を、意思を奮い立たせる。 皆を再起させるためにも、自分はここで死ぬわけにはいかないんだ。 だから今だけ、頼むよ皆。 あたしに立ち向かうための力をくれって、願った瞬間── 「え……?」 続けた二度目の大凶が、〈首〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈下〉《 、》〈を〉《 、》〈挽〉《 、》〈肉〉《 、》〈に〉《 、》〈変〉《 、》〈貌〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈た〉《 、》。 そして呆気なく、実に呆気なくあたしの意識は消えていく。だってそれはどうしようもなく間違えてしまったからで、何も不思議なことはない。 運が悪いという以前に自分の芯を見失ったと、最後の最後で悟ってしまう。 四四八のように、皆のようにと、つまり戦う力を欲したこと。 いわゆる戦意を滾らせたことが、真奈瀬晶にとって決定的に〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》ものであり──そして自分の本分を捨てた奴に成せることなど何もなく。 更なる駄目押し、三度目の大凶が残った頭部も消し飛ばした。 癒したいという初志を貫けなかったことを心の底から後悔しつつ、ここ第五層において戦真館は全滅を遂げたのだった。 「オラ終わりか真奈瀬、てめえ達者なのは口だけだなァッ!」 煽るような檄を飛ばしてくる花恵さん、それはどこか戦真館での教導を思い起こさせる光景だったものだから、ほんの一瞬だけ唇が緩んでしまった。 四四八、皆……そうだよな、まずは。 「うるせええええ──────ッ!」 仲間と、そして〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈を〉《 、》〈救〉《 、》〈う〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》、降りかかった悪運を力ごなしに乗り越えていく。 ブレない、引かない、前を向く。目の前で苦しんでいる誰かを放っておけないから、あたしはその矜持を胸に真っ直ぐ明日を生きられる。 そうだろ、四四八。 そうだろ、皆。 なあ──そうだろ、親父! 「あああああああァァァ────ッ!!」 そして、あらんかぎりの力を振り絞った。 この一瞬に、持てる限りありったけの〈真〉《ユメ》を顕現させた。次の瞬間── ──鮮やかに、花恵さんから血飛沫の花が咲き誇った。 そう、まさしく運否天賦によって。さっきの自分とまったく同じに、呆気なく大凶のくじを引いたのだった。 そこには達成感以上にどうしようもない寂静感が付き纏う。胸を穿つような虚しさと切なさが満ちているのは、紛れもなくこれが博打だったからだろう。 すべてはひたすら、運任せ。 けれど常に運気を掴むのは、自らの掲げる矜持へ渾身をかけられるかということ。 ゆえにその逆、外れに当たるということは、きっとそういうことなのだ。 結果はあたしの粘り勝ち、といったところだろうか。正直、こうして肩で息を荒げながら立っているだけで精いっぱいだけど。 周囲の生徒は囲んでるだけで、花恵さんを助けにも来やしない。倒しはしたがやはり心の中は虚しいものだった。 本当に、〈第五層〉《ここ》はなんて悪夢なんだろう…… 「はっ……残念でした……」 花恵さんは皮肉げに笑んで、苦しそうにそう漏らす。 「私をどうにかしたって、おまえの知ってる花恵先生にはもう戻らないよ? とっくに奪われちまってんだから」 「なぁ、空しいか……? 勝っても何も得られないのは」 ああ、確かにあんたの言う通り。けれど、まあ。 「いや。そりゃ、元の花恵さんってやつを取り戻したかったけどさ」 「いいヒントになったよ、あんたとの戦いは。うん」 「ふうん……」 「まあ、いいさ……こっちも、ひさびさ楽しかったし……」 「真奈瀬、おまえもあんな馬鹿力出せるんなら、普段から出しとけよ。幽雫んときみたいによ」 「追い込まれなきゃできないのは、甘さだよ……仲間といるからって、修学旅行気分じゃいけねえんだぞ」 「──────」 息が詰まった。それは、いったいどうして? 修学旅行って、それはつまり、紛れもなく現代の記憶そのもので。 分からない、この人は果たして〈ど〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈花〉《 、》〈恵〉《 、》なんだ? 現実か、過去か、あるいは聖十郎から吹き込まれた知識をそれらしく語っているのか。 「これ間違いなく斬首ものだわ。あいつサドなんだからよぉ」 困惑するあたしを前に、それを問いかけようとしたその時──  刹那──  空間そのものが破砕したかのような爆音が響き渡り、巻き込まれた生徒たちは何処へともなく散らされる。  眼前で展開されているのは高度な空間創造であり、それを有しているのは認識している限りで一人しかいない。  歪んだ空間を滲ませながら、そこに現れたのは柊聖十郎。  力を使い果たし、床に倒れ伏した花恵を興味なさそうに睥睨し吐き捨てる。 「しょせん、塵の残滓は塵か。  この程度の役にすら立てんとはな。まあいい、さしたる期待もしていない」  花恵は黙して目を閉じる。それがせめてもの矜持だとでも言うかのように。  沈黙が流れ──そして視線は晶に注がれた。 「無意味。無謀。よくもくだらんものにこうまで駆け回れるな。まるで虚弱な己を偽ろうとしているかのようだぞ。 その愚かしさは剛蔵と似ているな」  明確に敵意が籠もっている。挑発するようなその口調に滲むのは、害してやろうという暗い感情。  剣呑に凄む聖十郎に、晶は呑まれることなく胸を張る。 「柊聖十郎。悪いとは思ったけど、あんたの手記を見せて貰ったぜ。 親父が持ってたんだよ。なんつうか、そっちにもいろいろ事情があったのだけは分かった」 「………………」  聖十郎の眉が動く。ああ、馬鹿馬鹿しいなとでも言うかのように。 「正直、同情もできないってほどじゃなかったよ。納得のいく箇所だって、少しはあった。 だけどな、それで放免とはいかねえよ。あんたのこれまで数々やってきたことっていうのは、どこから見たって馬鹿げてる。 死にたくないのはよく分かるさ。そんなもの、誰だって当たり前だ」 「人間らしいって言えば、そうなのかもしれねえな。だからって許されないことに、あんたはとっくに染まってるんだ。 本当にそれでいいって、自分で胸を張って言えんのかよ」  ──晶にとっての聖十郎はまさに死の象徴であり、恐怖というものを具現化した存在に他ならない。  恐ろしい。禍々しい……しかし、同時にこの男を助けたい気持ちも、心のどこかでは理解できるような気がしていた。  男の内心、その一端を垣間見た今だからだろう。どこか聖十郎という人間に弱さというものを感じてしまう。  剛蔵や恵理子も、おそらくは自分と同じ気持ちを抱いたんだ。  そんな晶の思いを打ち砕くように、聖十郎は怜悧に告げる。 「すでに剛蔵は殺してある」  無慈悲、そして無感情。瞳からはなんの色も窺えない。 「情けなかったな、最後まで。まったく無駄な時間を過ごさせてくれた。 何年にも渡って同じことしか言えない。劣等だったな、反吐が出る」  悪し様に言われながらも晶は、それでも聖十郎を心の底から憎むという気持ちにはなれずにいた。  あるのは、ただ剛蔵を悼む気持ち。目を閉じたその姿は祈りを捧げているように見える。 「──あたしは、諦めないからな。 目の前でやられてないんだったら、あんたが揺さぶり掛けてきてる可能性だってある。まだ可能性はあるんだよ。  絶対に、この手で助け出してやる」 「馬鹿馬鹿しい……が、貴様が目障りなのは俺も同じだ。どうだ、利害の一致を見ようじゃないか」 「………………」 「明晩、八幡宮へと来い」  聖十郎が告げるそれは、紛うことなき冥府への入口。手招きする死神の姿が見えるかのようだ。 「おまえらなりに表わせば決着というやつだ。俺直々に赴いてやろう。  貴様はその回復能力を取り戻していたな。ならば連れてくることのできる者の目処も付くはず。  全員は無理だろうな、せいぜい一人といったところか。ならば、相応しいのはあいつだろう」  聖十郎が指し示す方向には、己の息子である柊四四八が今は眠っている。 「無駄な戦いはつまらんからな、これ以上の時間の浪費など有り得ない。  いかに人数が多かろうとも再度死ぬだけでは意味がない。そのくらいは分かっているだろう?」  言葉の通り、未だこの男を攻略する道筋は掴めていない。  このまま戦いに望めば返り討ちに遭う可能性は濃厚であり、勝ちを収められる率は極めて低いはず。  しかし、晶は頷く。  これから取り戻すものがあるのだ。それは、絶対に譲れないもの。  そして聖十郎は忌々しそうに眉を歪めながらも、一陣の風となり去って行った。  その空間は、一言で表せば酷く胡乱なもの。  位相が明確に定まっていないかのような大気の歪みに、時折微かに振動する外の光景………まるで支柱を通さぬ古家屋を思わせるような不安定な印象を、周囲全体という域で押し与えてくる。  そして開けた部屋の中央に、静謐をもって横たえられている女の姿があった。  彼女の名は、キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。  数千もの人獣たちの頂点に立つ姫君は、先の戦によって力の殆どを失った。ゆえに現在、こうして回復の深き眠りに落ちている。  やがて時は訪れ。  銀色の髪が流れる妖精めいた姿は、しばしの沈黙を破って再びその瞼を動かした。 「ん……く、はッ……!」  キーラは目覚め、同時に狼の防衛本能で周囲を見回す。  頭は未だ靄が掛かったように働かず、手酷い疲労が身体全体に澱のごとく残っていた。負った手傷にしてもある程度の再生こそ果たせているものの、内部構造の全快にまでは至っていない。  つまり、現状はどうにか外面を繕う程度の回復度合いに過ぎず。そのため身体は未だ自由に動かせないものの、認識、思考等を押し並べて行う精神の働きは正常である。  ゆえに、視界の端に軍装の男を捉えても、相対し起き上がることすらままならない。  口端を吊り上げたまま腕を組み、男は愉悦を佇まいに滲ませながらこちらをただ睥睨している。  余裕すら感じさせるその姿を見るなり、キーラの怒りの炎は己が内奧で激しく燃え上がった。躊躇も呵責も存在せず、ただ目の前の敵を滅相し尽くすかのように。 「ようやくにしてお目覚めか、気分はどうだ。  いささか遅かったな、待ちわびたぞ」  白々しい物言いと共に、その表情はさも愉しそうに笑みを深め──  彼我の感情の隔たる落差に、キーラの激情が容易く沈黙を振り切った。 「甘粕、正彦……貴様ッ……!」  自らの胃の腑を焼くかのような溶岩めいた激情を発露させるキーラ。  全身を駆け抜ける激痛など斟酌せずに立ち上がろうとするも、彼女の内側は未だ回復を見ておらず思考と行動が連結しない。  その身に負った傷は深刻であり、ゆえにただ射貫くような視線だけを甘粕に向ける。  対して、この場においての甘粕は圧倒的有利の状況にあった。  その腰に帯びた軍刀を一振りするだけで、己に牙を剥く獣姫の命は容易く奪うことができるだろう。だがこの男はそうしない。  悠々と、そして泰然と──まるですべての状況が織り込み済みで、計画は委細滞りないとでも言うかのように。 「ああ、いい目を向けるな。だからおまえは好ましい。  俺の所行に憤慨するか? ああそれでいい。誰も止めはしない。  その激情こそを、俺はこの目で見たいのだから」 「はっ──」  身動きの取れないまま鼻で笑う。  甘粕の言う事はこの状況でも普段と何ら変わらない。あたかも己を高みに置いているかのようで、それがキーラは気に入らない。  その言説は一皮剥けば饐えた臭いのする卑属の極みであるばかり。如何に飾り立てたところで、本質が良く見えるということなどない。  キーラと甘粕。二人の間に上下は存在せず、ただ希求するユメが違うのみ。その認識はおそらく誤っておらず。  それならば、何が彼我を隔てているのかと言うと── 「一つ告げておいてやろう、キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。誇り高き獣の姫君よ。  如何に足掻こうが、おまえは盧生になどなれん」  それはただ一つ、知識の差に他ならなかった。  すなわち見渡せる世界の広さと言い換えてもいい。  ゆえに知ってしまえば大したことではない……甘粕が握っているのはその類の事象だろうとキーラは信じている。  しかし既知に至るまで、それはそのまま次元の違いにも等しく、だからすべてを奪いたい。  交渉などではなく〈簒奪〉《さんだつ》する、それが人獣の流儀である。だが── 「おまえが奪おうとしているものは、端的に言えば〈永〉《、》〈劫〉《、》〈そ〉《、》〈の〉《、》〈身〉《、》〈に〉《、》〈宿〉《、》〈る〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》〈な〉《、》〈ど〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》」 「……私に資格がないとでも言うつもりか? この期に及んで戯言を。  だが貴様は確かに〈そ〉《、》〈れ〉《、》を有している。ならば強奪するまでだ。  必要とあらば、骨の髄までも引き摺り出そう」 「事実は事実だと俺は言っているんだよ。問答を重ねることは甚だ無益で、ゆえに言わせてもらう。  少なくとも今、この〈邯鄲〉《まつり》において、それを宿しているのは俺とセージの息子だけだ。これは生得的な資質でな、獲るとか奪うとかいう類のものではない。  まあ、誤解を招いた理由は分かるさ。セージだろう? だがあれは特別なのだ。 彼はそもそも奪うことを前提に、そこへ特化した夢を持つから可能なのだよ。ゆえ、他の者に真似ができる道理はない」  言いながら、甘粕は感情をこめずに事実だけを並べていく。キーラの無知を、その勘違いを善意で正してやるのだと。 「だからおまえは、〈俺〉《、》〈に〉《、》〈繋〉《、》〈が〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈お〉《、》〈け〉《、》〈ば〉《、》〈い〉《、》〈い〉《、》。我が眷属として、力を持ち出す許可をやろう。  なにも尻尾を振れと言っているわけじゃない。ただ大人しくしているだけで構わんし、それも今だけの話で結構」 「馬鹿め、それを首輪と言うんだよ。ふざけた真似を」 「貴様の言説は徹頭徹尾信用できない……そうだろう?  見え透いた嘘になど、餓鬼であろうと引っ掛からん。利用し尽くし、終いには取り上げるつもりだろうが、些かその提案は明け透けに過ぎる」 「そう思うか? だとしたら、案外つまらんことを言うのだな。おまえの父君と変わらんぞ」  外套を微かに揺らし、甘粕は呵々と嗤う。まるで目の前にいる獣の女王が、他愛もない冗談を口にしたかのように。  そして次に浮かべたのはおそらくこの男の本性──紛れもなく悪禍を放つ凶相であった。 「おまえが何をしようが、俺は放っておいてやるさ。強者は多いほど面白い。  ここは〈邯鄲〉《ユメ》だぞ、退屈の中で朽ち果ててしまってどうする」 「詭弁だな」 「事実さ。つまりは──」  余裕の態を崩すことなく、ゆらり挙動する甘粕。前触れなく己が眼前で顕現する〈そ〉《、》〈れ〉《、》にキーラは瞠目し…… 「──こういうことだ。理解したか?  今一度言おう。キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ……大人しく俺と繋がれ」  状況に呑まれ、呼吸をすることすらも忘れていたキーラは我に返り、抉り込むような眼光を向けて甘粕に問う。 「本当、なのだな。 貴様も理解しているだろう。我々鋼牙を愚弄すれば、その身がどうなるかは──」 「分かったのなら、黙って首を縦に振れよ。  そもそもだ。おまえの本懐を遂げたいと言うのなら、これはまず必要なものだろうが。選択の余地などないんだよ。最初からな」  喉を微細に震わせ、甘粕はさも愉快そうに哄笑する。己に仇成す存在すらも、まるで慈しむべき対象であるかのように。 「いつか寝首を掻きたいと言うのなら、何構うことはない。そうすればいい。  構わん、励めよ。俺を愉しませてみろ」  それを受け、キーラは数瞬の沈黙を挟んだあと。 「……ところで、〈奴〉《、》〈ら〉《、》はどうなった?」  場の主導権を取り戻すように、話題を変更する。  鼻白んだような表情を浮かべる甘粕ではあったが、やがてさしたる興味もなさそうにその口を開いた。 「現在いるのは第六層だ。 二代目となる戦真館、その建造計画は辰宮に依頼された壇狩摩が委細を取り仕切っている。  だが、六層の達成条件も些か困難なものだ。 唯一の方法であるそれは、〈人〉《、》〈間〉《、》〈を〉《、》〈生〉《、》〈き〉《、》〈な〉《、》〈が〉《、》〈ら〉《、》〈に〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈埋〉《、》〈め〉《、》〈る〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》〈な〉《、》〈の〉《、》〈さ〉《、》」 「つまりは人柱というわけか」  キーラは異国人であるため、この国の文化事情にはさほど明るくない。だが生贄の概念くらいは知っている。そこは万国共通だろう。  要求されるのは格と、そして関連性。つまり、戦真館に深く関わっている者で、相応の重要人物が死なねばならない。それが六層の突破条件。  そこから先、起こり得る数多の可能性を吟味し始めたキーラに対し、甘粕は宥めるように笑って言った。 「なあに、最後にはおまえにもくれてやるさ。 はっ、せいぜい荒れるといい」  尊大にそう言い放ち、纏った外套を翻しながら去る甘粕。  ──部屋の外に広がる亜空間では、黒雲と共に百鬼空亡が蠢いている。  ──神野明影が醜悪な表情を晒しながら、窓よりこちらを覗いている。  これは如何な悪夢だろう。  一歩ここから外に出たなら、既に世界はそこにない。あるのはただ曖昧にたゆたう異次元であり、それは世界のどことも繋がっている。  闇とも、魔とも、邪知とも、混沌とも……  地獄とは概ねこのような光景を晒しているのだろうと、キーラはほとんど直感で悟った。  しかし、それを……ユメが横溢する世界こそを、甘粕正彦は求めている。  あまりの禍々しさに、キーラは己が総毛立つのを感じた。この未知の先にあるのは……混迷の箱から流れ出すのは、まさに目の前に渦巻いている世界なのだ。 蒼白な顔色の鳴滝はすでに意識を失っており、全身の傷口からはどろりとした粘度の高い血液が溢れ落ちていた。 関節を完全に粉砕された手足を伝って、寮の床に赤一色の血溜まりを作っている。喚起される死のイメージに後悔と憤怒の激情が入り混じった。 「淳士ぃっ──」 「お願い柊……早く、治療を……」 「教官、あんたまさかッ……!」 泣き崩れるように我を失い、俺の背を揺すっている我堂の後ろで、怒気を露わにした栄光が花恵教官に食って掛かる。 辰宮の人間である教官の入れ知恵が、何の捻りもなく裏目に出た形だ。疑問を挟む余地もなく、三人は罠に嵌められたと考えるのが普通だろう。 だが── 「よすんだ、栄光」 軋むほどに歯を食い縛り、やっとの思いでそれだけを告げる。 たとえ事実がそうであったとしても、今はそんなこと言っている場合じゃない。 「四四八くん」 ああ分かっている、時間がないんだ。 こうしている間にも鳴滝の全身からは血液が急速に失われ、どころか生気すらも徐々に感じられなくなっているのだから。 「──死なせやしないぞ、誰一人」 鳴滝に一歩近付き、自分の体内を流れる力に集中した。 ここで気張れるのは俺しかいない。傷口、時間、すべての状況が僅かでも味方をしてくれることを祈りながら…… 「ハ、アアァッ────!」 印を結び、鳴滝の治癒に全神経を傾けた。この一つだって間違いの許されない局面に、これまで培ってきた己の力すべてを懸ける。 「柊……お願い、淳士を──」 憔悴した我堂の声が耳に届く。言われるまでもなく鳴滝をどうにもさせやしない。ありったけの力をこの瞬間に注ぎ込む。 破段、顕象――俺の資質を楯法の活に特化させて癒しに入った。あまりに極端な資質変動を行ったことで、凄まじい頭痛が襲ってきたが意に介さない。 「おおおおおおおおオオオォォォッ!!」 だが、だというのにこの状況は―― 「なんで……どうして、治んないんだよォッ……」 「さっきから、こっちは全力で回復してんじゃねえかっ……!!」 焦れるような声を漏らす栄光。黙って見てろと言いたいところだが、様子が明らかにおかしい。 確かに精神性の問題として、俺は晶ほど癒しの夢には向いていない。だが単純な性能面なら、破段の使用により晶と同等以上の出力を搾り出しているはずなんだ。 ならば、たとえ一瞬で全快とまではいかなくても、それなりの回復効果が見えないと理屈が立たない。 しかし鳴滝の顔色は快方へと向かうどころか、ますます土気色に悪化していき、いや── 攻撃を受けたであろう傷口から、まるで老化でも始まったかのような皺が総身へと広がっていく。 晶も、世良もだ。深手を負った箇所からウィルス感染さながらにじわじわと伝播していく。失われていく血色、そして生気…… ミイラ──そんな言葉が脳裏に浮かんだ。こいつらが向かっている先は映画でしか見たことのないそれらに極めて酷似しているが、いったいなぜ? 「愚問だな、くそっ」 自分自身に舌打ちをする。ああ、本当に苛つくな。 壇狩摩を斃さなくてはならないと決意したばかりだというのに、早速にしてこの体たらく。盤面を好きなように掻き回され、挙げ句の果てにはこの有り様だ。 「四四八くんっ。傷口から、皺みたいなのが全身に広がって……!」 「グ、オオオオオオッ────!」 死はその鎌首を一気にもたげ、症状が爆発的に進行する。この正体不明の疫病紛いがさらに拡散してしまうとまずいぞッ! ただでさえ回復が思うように進んでないのに、これではまったく追い付かなくなる! 「舐めるなよ……」 「我堂、歩美、栄光。他の二人もここに連れてきてくれ。なるべく鳴滝に身体を近付けるんだ」 「で、でも、あんた……」 「早くッ!」 突然の指示に戸惑っている我堂たちに檄を飛ばし、晶と世良を近くに寄せてきてもらう。ここが意地の見せ所だ── 「──────ッ!」 すべての──それこそ体内に存在する限界以上の力を、横たえられた三人の身体へ惜しむことなく放出した。 他の全資質が零になるまで、悉く楯法の活に集中させる。戟法性能が無に等しくなったため、五感すら消え始めたが構うものか。続行するのみ。 これだけの出力を俺は未だかつて成したことがない。だが後先なんて考えるな、我が身可愛さでこいつらが助かる可能性を棒に振るなど、柊四四八の主義じゃない。 仁、仁なんだよ。見捨てはしない。待ってろよおまえたち。 まだだ、まだまだ。すでにすべてを楯法に注ぎ込んだが、普段は抑えている力が身体のどこかにあるはずだ。いいや、必ずなければならない。 出力が足りないと言うのなら、〈そ〉《、》〈こ〉《、》から引き出せばいいだけのことだろうが! 「がぁッ、ああああああああアアァァッ!!」 そのとき、俺から放出される夢が初めて鳴滝たちに通りだした。その身体を蝕んでいた謎の老化現象が巻き戻しを掛けたかのように止まり、僅かながら回復の兆しを見せ始める。 ああ、やはり抗し得ないなどということはない。俺の〈力〉《ユメ》をあまり見くびるな、これでもこの世界に来るようになってからそれなりに鍛えられているんだよ。 普段の回復とは違い莫大な出力が要求され、しかも今は三人同時にそれを平行させなくてはならないという超絶の難事だが、しかし── 再び鳴滝の身体に手を乗せて、生気が抜け落ちたかのような症状を堰き止める。これで、幾らかではあるが遅らせることができただろう…… 「と、止まった……?」 「助かったの? ねえ、柊……」 どうにかの思いで、三人の症状を沈静化させることに成功した。完全に回復していないのは業腹だが、それでも謎の症状にひとまず対抗できたと言っていい。 全身を急激な倦怠感が浸していく。俺はどうにか踏ん張り、我堂に応えた。 「とりあえず、応急の処置はした……」 「ッ、だが、このままではいずれ……」 そこまで言ったとき、激烈な眩暈が俺の脳髄を襲った── 「く……ッ……」 急速に冷えていく頭の片隅で、俺は現状を把握する。 完全に限界を超えた力の行使、この無謀極まる回復行為は、当たり前に俺から精気を奪い取ったというだけのこと。 全身が怠く、もはや力が入らない。立っている姿勢すらも保つことができず。 俺は膝からその場に崩れ落ちるようにして倒れた。頬に密着している床が冷たく、こんな状況ではあるがどこか心地良い。 身体を襲う底冷えは、強烈な睡魔にもまた似たもので…… すべてを搾り出した俺は、そのまま意識を喪失した。 まるで身体の中心に鉛を埋め込まれてしまったかのように、全身が重く気怠い。 少し腕を動かすだけでも言い様のない脱力感を覚えてしまう。頭に走る鈍痛に眉を顰めながら、ようやくの態で俺は目覚めた。 見慣れた天井は俺の部屋のもの。普段と僅かにも変わらないそれを見ても、一瞬現実感が湧いて来ずに呆けてしまう。 が、すぐに思い出す。俺は限界まで己の能力を行使した結果、夢の世界から弾き出されてしまったということに。 安穏とした寝床から跳ね起きると同時に眩暈が襲い、再び尻を蒲団に落としてしまう── 「く、そッ……!」 ままならない自分の身体に、湧き上がってきたのは強烈な無力感。 あの状況の中、結果として仲間たちを途中で見捨ててきた形になった自分自身に怒りすら覚える。 未知のダメージを負って帰ってきた鳴滝たちを、その場ですべて回復させるのは難しかったのかもしれない。老化らしき現象をどうにか堰き止め、治療の橋頭堡を築くところまでは至れたのだろう。 だが、そんなものでは足りないし、到底満足できはしない。 この現実にまで疲労の一部を持ち越していることが、どれだけ無茶をやったかの証明になっているが、何の言い訳にもならないことだ。 男が任せろと言っておきながら、最後までやれなかった……それが猛烈に苛立つんだよ。己の言葉に責を持たなければならない立場であることなど、とうの昔に分かっているから。 結果として突きつけられたのは、力足りずして追い出されたという現実。栄光たちは夢にまだ残ったまま、俺がこうしている今も仲間たちのために全力を尽くしているに違いない。 ゆえに少しの猶予もなく、そもそも気が急いていて呑気にこうしてなどいられない。即時戻るぞと思うものの…… 「眠れるのか……? このまま目を閉じたところで──」 頭は完全に覚醒した状態で、興奮状態とすら言える有り様。全身の疼痛も未だ色濃く残っている。 目はどうしようもないほどに冴えており、このまま睡眠を試みたところで素直に意識を落とせるなど、とてもじゃないが思えない。 ならばどうする……歯痒さに拳を握り締めながら、現実と夢との関係に初めて理不尽を覚えた。いっそのこと自分自身を殴るなりして、無理矢理にでも気絶すればいいのだろうか? 駄目だ、落ち着け。漫画じゃないんだ。そんな都合よく加減の効いた自傷など、人間は出来ないようになっている。 頭がこんなに激した様では、たとえ戻ったところでさしたる助けにはなれないぞ。 窓の外は眩しい朝の光に染まっていた。時計を見ればまだ六時、己を持て余しているこの状況…… まずは一旦、通常の自分に戻る必要があり、俺がいつもしていたことと言えば。 「──走ってくるか、浜辺まで」 そう声に出すと、少しだけ気分が軽くなったような気がした。心に溜まった澱が晴れたか。 もともと〈現実〉《こっち》にまで持ち越した疲労は精神面のもので、肉体的には大過ない。深く息を吸い込み、俺は蒲団から立ち上がった。 決まった日課を変わらず行うことが、精神を正常に戻す一番の早道だろう。ここまで来れば、それはもはや反射の域だ。 加え、再度眠りに至るためには、多少なり肉体的な疲れも負ったほうがいいと思う。 今は、焦ってどうこうなる状況でもない。指揮官である自覚を持つのなら、冷静に努めねば何事だって始まりはしないだろう。 そうと決まれば、善は急げ── 「行くぞッ」 手早く身支度を済ませ、俺は靴紐を結び直して家を出て行った。 刻む足取りのリズムを一定に、俺は早朝の鎌倉を走る。 徐々に回復しつつある気疲れを推進力に変えて風を切った。澄んだ空気の中を行く、それだけで日常の英気を取り戻させてくれるかのようだ。 しかし、ここで無理をして動けなくなっては元も子もない。逸る気持ちをあくまで抑え、生まれ育ったこの地を確かに踏み締める。 幾度となくこのコースを走り込んできたことを思い出す。あの日々は俺の修練になり、血肉になっていたということを実感せずにはいられない。 そして、これまで重ねてきたものを発揮してみせるのはまさに今で── 夢に戻り、あいつらを助けるための日々だったんだ。そう改めて決意する。 鳴滝たちに施せたのはしょせん一時の延命措置であり、解決をみたわけではない。おそらく長くは保たないだろう。 そうであれば、電撃的に決着を付けるしかなく。 幸いにして相手が神祇省だということは把握している。加えて、仲間の重傷と引き替えにではあるが戦真館の設計図面も入手できた。 まずは寮に戻り、それらを見ながらの方針検討となるだろう── 疲労を溜めるためにとも思ったランニングだったが、こうして走っていると実に様々な効果が感じられる。 中でも、睡眠時の体勢固定により凝り固まった身体へのストレッチ効果は特に顕著で、数十分ほど走った俺の頭はいつも通りの感覚へと戻っていた。 徐々に折り返し地点が近付いてきた。立ち止まり、吹き付ける風を全身に浴びる。これで少しは、腐っていた気分も清浄になるだろう。 潮の香りが鼻腔をくすぐる。俺を見て挨拶を向けてくる馴染みのサーファーの人たちに返礼をしたりしていると…… 「よ、四四八くん──」 「やっぱり……ここに、いたぁ……はぁ……はぁっ……」 「歩美、おまえどうして……!」 後ろから不意に声を掛けてきたのは、夢に残っているはずの歩美だった。 肩を激しく上下させながら呼吸を乱し、どうにかここまで辿り着いたという様子だったが…… 足を止めた俺の脇に歩美はよろよろと近付いてきて、そのまま砂の上に倒れ込むようにへたってしまう。 そして荒れた息を整えようともせず、俺をじっと見上げて言った。 「はっ……はぁ……あの後、わたしも四四八くんを追いかけて来たの……」 「それで、四四八くんちに電話しても出ないし、家に行ってもいない……だったら、やっぱりここかなって……」 「もう……こんなときにまで、真面目すぎるよ……」 「どうして、そんな……」 動揺を努めて抑えながらも俺は問う。 確かに百合香さんの行使する創界という蓋が取り除かれた今、夢と現実との往復は以前よりも容易になっているだろう。 だがしかし、向こうの状況は掛け値なしの緊迫したものであり、人員はいくらいても足りないはず。人一倍目端の利く歩美が、それを把握していないとも思えない。 なのになぜ、こんな── 歩美はしばらく上目遣いで俺を見据えていたが……やがて顔を赤らめ、いささか言い辛そうに口を開いた。 「まだ、そういうこと聞くの……?」 「まったく……ほーんと、こういうことには勘が働かないっていうか、もう」 「知っててとぼけてるとしたら、とんだ天然ジゴロだよね」 「歩美──」 「心配だったに決まってるじゃない、四四八くんのことが」 「──────」 驚くには値しない理由かもしれない。俺たちはその身も運命も共にした仲間であり、互いを思い遣るのは自然とも言える心の動き。 大前提として存在するものであって、殊更に意外性のあるものではないんだ。なのに…… そんな今さらなことを真正面から告げられて、ただそれだけで俺は鼓動が跳ねはじめる。 「そりゃ、わたしだって夢のルールは知ってるよ。くたくたに疲れて意識を失ったら現実の世界に戻るだけで、それ以上のことは何もない──」 「だけど、目の前で限界超えて倒れたんだよ。大丈夫だっていっても、そんなの分からないじゃない」 「これまでにだって、いろんなことがあったし……」 「だから、居ても立ってもいられなかったの。それだけっ」 「そうか……ありがとう」 俺はどうにかそれだけを口にする。 仲間を守ること。その先頭に立って臆せず征くこと。どちらもやるのが己の責務だといつも思っていたせいか、仲間に心配される側に立つというのが正直な感想として新鮮に思えた。 こいつに言われると、不思議と素直にそれを実感できるから。 歩美は穏やかに笑んで、俺が気に掛けている状況を詳しく説明してくれた。 「夢の世界のことは、りんちゃんと栄光くんに任せてきたよ」 「四四八くんのおかげで、わたしたちが今できる事っていうのはもう全部やれてるの。あの老化現象も止まってるし、負ってきた傷も悪化はしてない──」 「寮の部屋で、安静にしてるってところかな。みんなで付きっきりで看てるの」 「みっちゃん、あっちゃん、鳴滝くん……三人とも容態は安定してる。すぐにどうこうなるってことは、ないと思うよ」 それを聞いて、ほんの少しだけ安堵した。あのときは無我夢中だったし、楯法での回復も正しく行えたとは思うものの、その後を自分の目で確認することはできなかった。つまるところ、あいつらが無事だという確信まではなかったんだ。 しかし歩美の話を聞いたことで、そこに保障が与えられた。今はそのことをただ感謝する。 「鳴滝くんが持って帰ってくれた戦真館の設計図面は、解読ってほどでもないかもしれないけどみんなで見てる最中……」 「主に考えてるのは、やっぱりりんちゃんだね。栄光くんは、うーん……って情けない声出して唸ってた」 「それで、わたしもその図面をメモしてきたの。もちろん全部じゃなくて、気になるところ限定だけど」 「だから、こっちはこっちで考えてみよう? どうせすぐには眠れないだろうしさ」 「四四八くんが手伝ってくれたら、きっとすぐに解決するよ」 凛とした空気を周囲に纏った、一本筋の通っている歩美の表情。 そうだよな。戦真館は俺たちの大事にしている場所だ。そこにいる仲間から教官まで余さずすべて。 完膚なきまでに破壊された。もう跡形も、面影すらも残っていないかもしれない。だからこそ、これから先は今まで以上にベストを尽くそう。 もう何も壊させない。奪わせないんだよ。 そのためにもまずは情報の精査、そして解読だ。求められているのは神祇省関連における精度の高い〈事実〉《データ》で、俺たち二人で考えれば互いに違う角度での発見もあることだろう。 そして──俺は、改めて居住まいを正し口にする。 「助かる、本当に」 「歩美が一度目を通して、それでいて気になる箇所を纏めてくれたんだろう? ならばその情報は百人力だ」 「とはいえ、こんなところであれこれと話し込むのも良くないか……どうだ、一旦家に戻ってから考えないか?」 「ええーっ、も、もう……なのぉ?」 突然、異を唱えるかのように声を上げる歩美。その様子は先程までと大きく異なり、何というかネガティブな雰囲気を多分に帯びてしまっている。 どうしたんだ、いきなり? 「どうしたもこうしたもないよぉ……あのね四四八くん。ここまで来るのに、いったいどれだけの距離をわたしが走ってきたと思ってるの」 「片道だから、およそ5キロってところか。それがどうかしたか」 「走って疲れちゃったの! わたしみたいなか弱い女の子にはね、その距離は拷問に等しいんですー」 「それに……まだ、来たばっかだし」 「少しくらい、ここで休んでいったっていいじゃない……」 「何か言ったか?」 「いいえっ」 「とにかく、四四八くんのような超人とわたしとじゃ、身体の造りからして違うんですー」 「座って休みたいとまでは言わないけど、せめて帰りは歩かせてよぉ~」 歩美は情けない声を出して、子供がおねだりをするように寄り掛かってきた。まあ、こいつが運動苦手なのは知っているし、体力的に厳しいというのは事実だろう。 俺を心配してくれた結果、ここまで来させたわけだしな。 「まあ、いいだろう。無理して怪我なんてしたら元も子もないからな。クールダウンも兼ねて運動量を落とすのも悪くない」 「しかし、おまえは本当に体力面が課題だよな」 「あのね、もう一度確認しとくけどさ、雨が降ろうが何だろうが毎朝走ってる四四八くんが鉄人過ぎるだけなんだからね?」 「夢の中では、もう少し動けるんだけどなぁ……これって、〈現実〉《こっち》とあっちできちんと線引きできてるってことなのかな? むうぅ」 眉に皺を寄せながら、ぶつぶつと独り言を呟く歩美。その声を聞きながら、俺は手近にあった自販機へと向かう。 そしてスポーツドリンクを二本続けて買い、一つを歩美に向けて放った。 「え? わわっ……って四四八くん、これ?」 「走ってきて疲れたんだろう? おまえをここまで来させたのは、まあ俺の所為だと言えるだろうし」 「奢りだよ。気にせず飲めよ」 「俺のせいで倒れられても困るし、それを後から言われても責任までは取れんからな」 「あ、ありがとう……」 どこか熱でも出たかのように頬を染め、見上げる姿勢のまま歩美は礼を口にする。 ていうか、そういう目で覗き込むなよ。調子が狂うというか、あれだ。照れるだろうが。 「こんな気の利いたこともできるんなら、いっつもやればいいのに……」 「そしたら四四八くん、ハーレム敷くのも夢じゃないとわたしは思うよ?」 「嫌なら、無理に飲まなくてもいいんだぞ」 「あん、うそうそ。もう、冗談通じないんだからぁ」 「ありがとねっ」 そう、屈託のない笑顔で見つめてくる。 反射的に、思わず視線を逸らしてしまった。胸の鼓動が高鳴っているのを自覚する。 幼い頃……それこそ物心ついてからずっと、傍で何度も見てきた笑顔。しかし、今はきっとそれだけじゃない。 平常心を保つだけでも一苦労だなんて、これまでに覚えがないのは確かなことで…… いろいろ考えれば、それなりの結論も出てこようというものだろうが、端的に言えば、こういうのも悪くないと俺は思っていた。 「それじゃ、いただきまーす」 「んく、んっ……はぁ、おいし」 「うーん、生き返るね。失われた水分をクイックチャージ、五臓六腑に染み渡りますわー」 「そりゃよかったよ」 「ほら、もう少しゆっくり飲め。口の端から零れてるだろ」 「拭いて?」 「拭かんっ」 まったく、幼児かおまえは。 俺たちは並んで、浜辺の道をゆっくりと歩く。歩美の歩幅、足音のテンポ、昔からよく知っているものであり、どこか落ち着くものだった。 すっかり見慣れた鎌倉の海も、こうして眺めると改めて綺麗だなと思える。朝日に照らされて眩しい水面は、まるでご来光が射しているかのようだ。 「わぁ……きれいだねぇ四四八くん、ほらほらっ」 俺と同じことを思っていたのか、嬉しそうに目を輝かせてはしゃぐ歩美。そんな仕草一つを取っても心が躍ってしまう。 ……というか、腕に絡みついてくるなよ。 幾ら幼なじみだとは言っても、俺たちはもうそれなりに年頃の男女だ。こいつのどこか無防備にも思える振る舞いを見ていると、なんというか落ち着かん。 これだけ密着しておきながら、まるっきり意識するなというのも無理な話だということに、俺としては早く気付いて欲しいんだがな。 「ん? どしたの四四八くん。なんだか難しい顔して」 そして目敏い歩美の常として、俺のそんな変化を見逃さずに訊いてくる。ああもう、何でもないっての。 「そういうわけにはいかないよ。これからまた夢に戻ろうかっていう時だもん、もし体調が悪くなったとしたら見逃せないよ」 「鋭いんだか鈍いんだか分からないよな、おまえは」 また俺の服の裾を摘んでくるし。だからよせってそういうあざとい仕草は。 「だって、あの特科生総代たる四四八くんがだよ。どこが悪いとも言わずにもじもじとした様子見せてたら、そりゃ気になるのも仕方ないじゃない」 「あー、さては……」 そう言って、何かに勘付いたように目を大きく開く。そうだよ、距離が近いんだよ俺とおまえの。 歩美は少しだけ呆れたように小さな溜め息をついて── 「ひょっとして、おトイレ? 困ったなぁ、見当たらないよこの辺り」 「四四八くん、もうちょっとだけガマンできる?」 わざとだろう。いいや、絶対にそうだ。 俺の反応を見て楽しんでいる、そんなところだろう。だがもういいだろう歩美? そろそろ察してないはずないだろ、おまえなら。 「あっ、わたしいい案思い付いちゃった。聞いてくれる?」 「こっそり海に入って〈し〉《、》〈ち〉《、》〈ゃ〉《、》〈え〉《、》〈ば〉《、》さ、誰にも気付かれることなんてなく──」 「却下だ。未来永劫、そんなことはせんからな」 歩美の一言一言は、実にクリティカルに俺の戸惑いを儚く散らしていく。 無論こちらの仔細に気付かないというなら構わないが、それでも言い方というものはあるだろう。これでは立つ瀬がないにもほどがある。 ああ、つまるところ、この距離感こそが厄介なんだとここで俺はようやく思い至った。 付き合いが長いゆえの気安さこそがおそらく問題の根幹であり、ことさら意識しないことだけが対抗策であるような気さえする。上手く躱されるといったレベルですらなく、今の歩美にはそもそも意識されてすらいないのだから。 家を出たときよりも太陽は僅かに高く位置しており、時刻もそろそろいい頃合となってきたのだろう。サーファーさんたちが次々と海から上がってきていた。 いい波が打ち寄せる時間帯は終わったらしく、彼らは荷物をそれぞれ纏めて朝飯へと向かっていた。通りすがりの顔見知りに、俺は軽く挨拶を交わす。 「へー、サーファーのお兄さんたちと知り合いなんだねぇ」 「まあな。俺はこの道を毎朝通るし」 「挨拶を交わしてるうちに、自然と話すようになったんだ。みんな気のいい人たちばかりだよ」 「わ、わたしも挨拶してもいいのかな……あっ、どうもー」 そう戸惑う素振りを見せながらも、ぺこりと頭を下げて受け答えする歩美。こいつは愛嬌もあるし、身長こそ子供じみているものの見た目だって悪くない。いや、むしろ背丈はプラス要素ですらある。 ここに数日ほど通っていれば、すぐ人気も出ることだろう。まあ問題はやはりその運動神経であって、俺と一緒にランニングなどとても続くとは思えないが。 「おはようございまーす。あ、どもー……えっ、わたしですか?」 「いえ、普段はあんまり来ないんですけどー」 ほら、早速擦れ違った一人と話している。それにしても、こいつの物怖じしない性格はやはり大したものだよなと思った。 初対面の相手と打ち解ける、笑顔で周囲を和ませる……それらは大袈裟に言ってしまえば才能であり、少なくとも俺にはないものだから。 歩美は俺をちらりと見やり、頬を染めながらサーファーさんと話し続けていた。 「今日は〈彼〉《、》についてきたんです。四四八くんって言うんですけど──」 「はい、そうなんですぅ。付き合ってるんですよー昔から。かれこれもう十年以上になるのかな?」 ごく自然な調子で歩美が口にしたその言葉に、俺は思わず飲みかけのスポーツドリンクを吹き出してしまった。 何をさらりと、事実無根を吹聴しているのだこいつは。普通に幼なじみで説明すればいいだろうがまったく。 「え、奥さん? やーん、それはまだちょっと早いっていうか、いつかはそうなれればいいっていうかー」 「今後とも、四四八くんをよろしくお願いしますね。なーんてっ」 「ふー……いい人たちだね。ってうわ、四四八くんすんごい顔してる。どしたの?」 「この状況でこの表情はおまえのせいだろう、どう考えたって」 「いったい、誰と誰が付き合ってるって?」 「ああ、それね。いやー、あそこはそう言っとく空気だったかなって思って。えへっ」 えへっ、じゃない。だいたいどんな空気だそれは。 「まあいいじゃん、そんなに細かく考えなくてもさ。あの人たちも盛り上がってくれてたし」 「事実ってのは重んじるべきだと俺は思うんだがな……」 目を細めてこちらを見る歩美の様子は、何というか満更でもないもので。 きっと俺も似たような表情をしているんだろうなと思い苦笑する。こいつだけをどうこう言う資格などありはしないだろうし、歩美もそれには気付いている。 今までにこいつと歩いてきた、いくつもの時間を思い出す。あのときも、そのときも、いつだってこんな距離感だったのにな。 他愛もない話で笑いあって、翌日には同じ日常が続いていて。 これからも、俺たちは変わらず一緒にい続けるのだろうか。 いま二人で見ている光景すらも、いつかはその色合いを変えてしまうのだろうか。 夢の世界へ入るようになって、俺たちの日常はもはや確認などするまでもなく急速に変質している。ずっと同じでいるのがどれだけ難しく、むしろ奇妙でさえあるのかは実感していた。 ゆえに俺と歩美の関係も、変わってしまうのだろうか? いつまでも幼なじみのままではいられない、そんな日が訪れてしまうのか。いや、俺が認識していないだけで既にもう…… 「それ、もう飲んだの? わたしのと一緒にゴミ箱捨ててきてあげる」 「ああ……悪いな」 空になったペットボトルを受け取ろうと、歩美は微笑んで俺の隣に来る。仲間であり、掛け替えのない大切な友人であり、そして── 「うわ、おまえら」 「ちょっと待って、何、休日まで私の前に出てくるのかよ。気ぃ休ませてよほんとにさー」 四方山の考え事を断ち切るように、いきなり現れたのは芦角先生だった。 こんなところで会うと思っていなかったので些か驚きはするものの、俺は挨拶をして頭を下げる。というか、なんか露骨にこっち見て嫌そうにしてないかこの人は。 心の洗濯を行うべき休日に生徒と出会って落胆する気持ちも、まあ分からないではないが。何というか、もう少し角の立たない言い回しがあるような気がするんだよな、大人なら。 そこで一瞬、夢の世界での教官がフラッシュバックした。 が、それと目の前でいかにも嫌そうな表情を浮かべている芦角先生はもちろん別人だ。今さら確認することでもないのだが、どうにも姿形が似すぎているんだよ、この家系は。 向こうに残してきた教官の容態も心配だし、この場を終わらせたらそろそろ家に帰るべきだろう。 「あー、ハナちゃん先生だ」 「おはようございますっ」 「おはようございます。どうしたんですか先生、こんなところにいるなんて」 「あ? そりゃおまえ、せっかくの休日だかんなー。ウォーキングだよ、エクササイズだよ文句あるか」 その足下でか。芦角先生の履き物は、今日も普段と同じく便所サンダルだった。 この辺りを歩いてたら足に砂がまとわりつくだろう、それだと。 「良く聞けよ柊に龍辺。便所サンダルってのはな、いいことづくめなんだぞー」 「まず何よりすぐに突っ掛けて外に出られるし、加えて涼しく動きやすい。サンダルは脱げちゃうからーとか行ってる奴なんてのは、私に言わせりゃセンスってもんが足りないね」 「便所サンダルにセンスが必要っていうのは、寡聞にして耳にしたことありませんけど」 「朝から突っ込みが細かいよなぁ、おまえって奴は」 「あとあれだ。その、朝の散歩でもしたら、何か出会いが転がってないかなーとかって思ったんだよ」 「海の男とかいいじゃない、逞しくてさ」 そもそもの話として、その格好で出会いを求めてしまうのかあなたは……というのは禁句なのだろうか。 まあ言っても面倒なだけだしな、と俺は一人首肯する。洋服を始めとした概ねすべてにずぼらであるのはおそらく直しようのない芦角先生の性格だし、ならば俺がどうこう言ったところで仕方ない。 決して元は悪くない先生に浮いた話の一つもないのは、その辺りが原因で間違いないと言えるところだ。 浜辺で出会いを求めるのであれば、ここがチャンスとばかりに普通の格好をするだけでも成功率は大分違ってくると思うのだが……この辺の考察を本人に告げるのは、いち生徒として些か出過ぎた真似というものだろう。 「へぇ、サーファーさんですか。意外とハナちゃん先生とお似合いかも」 「おまえらこそ何だ、二人揃ってこんなとこ歩って。ひょっとして、いやひょっとしなくてもあれか、デートか」 「ふざけんな、普段から言ってるよな私は? 担任教師の権限をもって認めるわけにはいかないねそんなの。いくらおまえらだろうが例外などない」 自分のことをこうもあっさり棚に上げて、相変わらずだなこの人は。その軸のブレなさには敬服の念すら覚えるよ。 見てくれよ、俺が着ている千信館のジャージを。体育の授業中でもあるまいし、こんな色気のない格好でするデートもないだろうに。 もしかしたら、この人の中ではジャージでデートも上等という概念があるのかもしれない。というか、あるんだろうな。その格好を見る限り。 「まあでも、二人ともこうして出歩く元気が戻ってきたんなら何よりだ」 「いいか、こないだまでおまえら入院してたんだからな。原因不明の昏睡って普通はけっこう大事なんだぞ?」 「ちょっと良くなったからって、あんまりはっちゃけんじゃないぞー。大事にしろよ、自分の身体を」 「特に龍辺。おまえんとこはご両親、相当動揺してたんだからな。心配掛けるようなことは極力慎むように」 一転して教師らしいもっともなことを言われ、歩美はにわかに恐縮している。これについては先生の方が正論で、こんな早くに出歩いてる俺たちには若干分が悪い。 こちらの世界はいたって普段と変わらず平和なまま、こうしてお小言を頂戴していると、姿形のまったく同じ教官の置かれた状況すらも一瞬忘れてしまいそうになる。 いや、なまじ見た目が似通っているからと言うべきだろうか。親族にしたって、外見からそのちょっとした所作に至るまで記憶の中の両者は瓜二つに過ぎる── そこまで考え、ふと思い至った。 〈戦真館〉《トゥルース》の時代はおよそ百年前。そこから類推すれば、芦角先生は花恵教官の曾孫くらいということになる。 以前、それとなく教官に訊いたことがあるんだが、あの人は天涯孤独で、兄弟姉妹はもちろん従兄弟その他もいないらしい。 だから、目の前の芦角先生は直系親族ということだ。 そこから想像される当然の事象が、俺の背筋を冷たく撫でる。 湧き上がった懸念はシンプルで、状況から考えればおそらく不可避…… 〈夢〉《、》〈の〉《、》〈中〉《、》〈で〉《、》〈教〉《、》〈官〉《、》〈が〉《、》〈そ〉《、》〈の〉《、》〈命〉《、》〈を〉《、》〈喪〉《、》〈え〉《、》〈ば〉《、》、〈今〉《 、》〈目〉《 、》〈の〉《 、》〈前〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈芦〉《 、》〈角〉《 、》〈先〉《 、》〈生〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》? 二つの世界は独立したものでなく、連綿と繋がっていることはすでに実証されている。あちらが欠ければこちらは成り立たず、歪みが生まれるのは自明の理。 ぞっとする。つまりは親族の存在が〈な〉《、》〈か〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》〈に〉《、》〈さ〉《、》〈れ〉《、》〈る〉《、》のか? しかし事実として、現在芦角先生はここに存在している。 取り返しのつかない深手にも見えた教官の傷。彼女はあれから助かったというのだろうか? だとすればすべての辻褄は合い、残される疑問は何もない。 しかし。本人すらも諦念していた致命傷が、あの状態から劇的に回復をみるとはどうしても思えない。無論のこと助かってほしいとは思うものの、それと実際の可能性は別で。 どうなっている? すべては俺の思い過ごしで、事態は極めてシンプルに教官が助かったという顛末なのか。 それとも、未だ知り得ない〈仕〉《、》〈組〉《、》〈み〉《、》が何か隠されているというのか…… 「先生のご家族も、心配なさってるんじゃないですか?」 「娘さんがこんな早くに外出してどうしているのか、もっともな説明をしてちゃんと安心させてあげた方がいいですよ」 靄の掛かったような状況に焦れ、俺は先生に直接探りを入れてみる。 目上の女性に詮索紛いの質問をするのは些か失礼かもしれないが、そこは彼女の度量の広さで勘弁して欲しい。ここには見落としている〈何〉《、》〈か〉《、》があるのかもしれないのだから── そんな俺の内面を芦角先生はもちろん気取ることなく、いつものように無造作な仕草で怠そうにこちらを覗き込んできた。 「ああん? ったく、あのなあ柊」 「うちの家系は代々鎌倉に住んでんだ。ここがどんな場所かってのは充分に知ってるし、一人で出歩くくらい心配しやしないよ」 「それより、うるさく言われてるのは別のことだな……やれ結婚早くしろだの、相手くらいはいないのかだの、まったく堪らんよ実際」 「おまえらジャリどもに分かるかこの気持ち? やー、分っかんねーだろうなー。大人ってのはいろいろと煩わしいものなんだよ」 「帰ったらまた言われんのかな……ああ、もうやだ」 ひとしきり話して、かくんと項垂れる芦角先生。代々鎌倉に住んでいるということは、やはり教官の直系なんだろう。 ならば、花恵教官は一命を取り留めたのだ。そうでなければ芦角先生が今こうしていることに矛盾が生じてしまう。 致命の傷を負った後にどうなったのか、詳しく類推するには材料が足りないが、一番大事なところを知れたのは僥倖だ。 知らず安堵の息を吐いて、俺は続ける。 「そうだったんですね。ご家族、お元気そうで何よりです」 「ん? お元気ってそりゃおまえ、これからなんじゃないのかよ」 ────…… その言葉に微妙な違和感を覚え、俺は思わず芦角先生を二度見してしまう。 思わず聞き逃してしまいそうなほど自然な調子で発された今の台詞。一緒に住んでいる家族の健康状態が〈こ〉《、》〈れ〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》とは……どういうことだ? ちょっとした聞き違いかもしれない。そもそも、そこまで変な言い回しでもなかったような気もする。 だが、何と言えばいいのだろう。あたかも家族の健在を守る〈何〉《、》〈か〉《、》が、今現実として起こっているかのような…… 「────ッ」 どういうことだ、違和感が拭えない。 とはいえ、どこがおかしいのかという決定的な一言があったわけではない。にわかに針の筵の精神状態に陥れられたかのようだ。 細波の立つ胸中を持て余し、何か言おうと考えていたら── 「あのな、見ての通りだっつうの」 「そりゃ、おまえらよりは幾らか年上だけどな、わたしだってまだ全然若いんだっつうの。お元気だの何だのって、まるで婆さんみたいに言うなよな」 「その手の言葉は、もう少し私が歳喰ってから言ってくれ」 ああ、なるほど。そういうことか── 些細な言葉尻の取り違えに過ぎないことにまで反応してしまった自分に気付く。状況が状況だけに仕方のないこととはいえ、どうにもナーバスになっていたようだ。 これ以上余計な心配を掛けないためにも、ちゃんとしなくてはな。 芦角先生はその居住まいを正すようにこちらを見て、そして口を開いた。 「──おまえらもだぞ。柊、龍辺」 「先のことなんてな、これからどうするか次第で変わるんだ」 「なーんて、それじゃあな。私がいなくなったからって、あんまり変なことして遊ぶなよな」 歩み去っていったその足取りは、いつもと同じく飄々としていて。 だが、なぜか強烈な齟齬を覚えてしまう。まるで、この現実の世界が擦れ始めたような…… 今の芦角先生の表情は、これまでに見たことないものだったような気がする。 だとしたら、その意味は? 何かが起こっているのかもしれない、そう思うものの── 「四四八くん、いったん帰ろう?」 「またみんなと集まって、それから相談しよう──きっとそっちの方がいい」 見上げてくる歩美も慎重な表情をしている。 今、この場で言葉の意味を考え、一つの結論に片付けてしまうことがまるで危険であるかのように。 俺は頷きを返す。確かに、ここで急いてしまうのは上策じゃないだろう。不確定条件が多すぎて、自分たちでも現状を把握しきれていないのだから。 とりあえず俺たちにできるのは、各々の自宅に戻って眠ること。 それが現在優先すべき最善手だろう。いずれにせよ、すべてのことは再び夢の世界に降り立ってから。 眩しい朝日を背に受けながら、俺と歩美は来た道を歩いて戻るのだった。 部屋に戻り、寝支度を済ませて横になる。 未だに時刻は朝だったが、諸々の出来事もあって精神的にはそれなりの疲労を感じていた。というか、いずれの件も解決をみていないことに変わりはなく、自然と溜め息の漏れる状況だと表してもいい。 日課のランニングをしてきたことも良い具合に作用して、これならばすんなりと眠れそうだ。 数刻ほど時間を食ってしまったが、それはもう仕方のないことだろう。夢に戻るべく俺は瞼を閉じて── 「さて」 「寝るか」 「だから、なんでおまえも付いてくるんだよっ」 「えー、ここでこれ言っちゃうの? いいじゃん、もう一緒に寝ちゃえばさ」 「それとも、わたしじゃ魅力足りないかなぁ……?」 当たり前のように俺と同じ蒲団に入り込んだ歩美は、そう瞳をうるうるさせながら言う。なんという狸芝居だ。 ていうか、いつかもこういう展開があった気がするぞ。 しかし、たかが俺をからかう程度のことに対してこの無防備具合……いや、それだけじゃないのかもしれないけれど。 ともあれ、一旦置くとして── 「……自分の家に帰って寝ろよな、まったく」 「親御さんが心配……は、まだ早いし大丈夫なのか。ああもう」 夢と現実が連続していて忘れがちになってしまうが現在は未だ午前であり、娘が戻ってこないからといって心配する時刻でもない。 家を出て友人宅へ遊びに行っていても、なんら不自然なところはないだろう。 「むぅ……禁欲的だよねえ、四四八くんってほんとに」 「それともその態度は実は照れ隠しで、わたしにどきどきしてたりする……? あん、もうやだぁ」 そりゃ鼓動は早くなっているさ。ただし、それはこの明け透けなシチュエーションに対する動揺に類しているもので、端的に言って心臓に悪いんだよ。 要するに、次に何をしでかすか分からないおまえを警戒してるんだ、俺は。 「うー……なんか今、失礼なこと考えてる気がする……」 しばらくこっちを黙って見てそう口にする歩美。勘がいいな、正解だ。 そこまで察しているのなら、この辺りで切り出すとしよう。 「まあ、俺の考えてることが失礼かどうかは置いといてだ──」 「歩美、おまえ何か感じなかったか? さっきの浜辺で」 「あ、ハナちゃん先生のこと?」 歩美は頭を切り替えて身を起こし、蒲団の縁で脚を崩す。その目にはもう冗談を窺わせる気色は浮かんでいない。 「休日にあんなところでウォーキングっていうのも意外だったけど、んー」 「何か、言い回しがいつもと違う感じがしなかったかと思ってな。迂遠というか──」 「言葉の裏で真意らしきものを仄めかしているような、そんな感じだ」 見当違いの当てずっぽうかもしれないが、俺は思ったことをそのまま口にする。 先の会話はあの人の普段とは違う物言いと様子だったと、直感的にそう思ったから。 口にした内容は、いずれもどうとでも受け取れるものだ。しかし語るその雰囲気と、そして何よりも── 先祖代々鎌倉にいるから? 家系? いや、果たして本当にそれだけなのか。どこかに決定的な見落としがあるような…… 外見が瓜二つということもあって、余計に要らぬことを考えてしまうのだ。まるで芦角先生と教官が同一人物かのような益体もないことを。 「それは……どうなんだろうね。わたしも少し変だなとは思ったけど」 「まず大前提として、ハナちゃん先生は夢の中での出来事なんて何も知らないわけじゃない」 「だったら、いくらそれっぽい風に聞こえたって言い当ててる可能性なんてないわけだよね。普通に考えたら、この場合の正解はわたしたちの思い過ごし」 「……っていうのも踏まえた上でだよね、四四八くんが言ってるのは」 歩美の所感に、俺は同意し頷く。 概ねそういうことだった。夢の世界に関しては完全な部外者であるはずの芦角先生が、何かを語れるはずはない。可能性があるとすれば、口伝として当時の出来事を聞かされていたという線だが…… あのときの言葉には寓意が潜んでいるような気がしたんだ。それは、ここ最近ろくでもない化かし合いに俺たちが晒され続けているからなのかもしれない。 「ともあれ、戻ってからだろうな。その辺りの確認は」 「うんっ」 「ただ、教官は寮でみんなと一緒にいるわけだし、警戒だけはしとこう。戻ったらりんちゃんと栄光くんにはできるだけ早く伝えて──」 「最悪、わたしたちだけは対応できるようにしないとね」 とりあえずのところだがそう結論付け、そして歩美は鞄から何かのノートを取り出した。 「これ、鳴滝くんが持ち帰ってくれた〈戦真館〉《トゥルース》の設計図面の概要」 「もちろん全部じゃないけど、大まかなところを抜き出して纏めてみたの」 壇狩摩のしたためた設計図面──おそらくは勝負の鍵を握る存在であり、仲間たちが命を賭して持ち帰ってくれたもの。 ここに秘された無形のヒントを解き明かすことこそ、決戦に向けての避けられない課題と言えるだろう。 こうして持ってきてくれた機転は大いに助かる。図面について考えを巡らせられるのは眠りに落ちるまでの僅かな時間なのかもしれないが、それでも何かを思い付くかもしれない。 向こうでも我堂たちが解読を進めてくれているようだが、二つの場所で取り組めばもっと早く進むのは自明のことだから。 礼を告げて早速ノートを開いて見ると、そこには…… 「──いつか調べてもらった通り、風水だな。これは」 やたらファンシーなのは置いておこう。とりあえず歩美は我堂より絵心があるようで、図面から受けた第一印象を、俺はそう口にした。 特にそちらの方面に精通しているわけでもないが、竜・穴・砂・水などの項目が存在することくらいは我堂の報告を受けた後にざっと資料を浚って知っている。それらの単語が、走り書きでノートの随所に記されていた。 古代中国の思想……都市や住居、建物、墓などの建立に際し、方位の吉凶を占い、より永きにわたる福を得んがために用いられてきたものが風水だ。ここで用いられていることは予想通りと言えるだろう。 気の流れを物の位置で制御するのが風水の基本通念であり、それは世に数多ある眉唾ものの与太とは一線を画している。 どちらかといえば学問に寄った思想と言えるだろう。手元にある戦真館の設計図面には、どうやらその要素が多分に含まれている。 「うん、わたしも思った。でもさ四四八くん……」 「何て言うか……〈こ〉《、》〈れ〉《、》〈で〉《、》〈い〉《、》〈い〉《、》〈の〉《、》〈か〉《、》〈な〉《、》、って思わない?」 「どういうことだ?」 「だって、わたしたちがパッと見て気付けちゃうんだよ」 「二人とも、特にこの手のことに詳しいってわけでもないのに──」 それは確かにそうだろう。風水、建築、ともに門外漢も甚だしい俺たちですら、図面に記されている語句の意味が大雑把にではあるが理解できる……言ってしまえば、〈そ〉《、》〈ん〉《、》〈な〉《、》〈程〉《、》〈度〉《、》でいいのかと。 特にこれを記したのは壇狩摩であり、万事において一筋縄ではいかないはず。その思いも懸念をより強める材料となっている。 解読不可能な代物が出てきて当たり前ではないのかと、つまりは刷り込みにも等しい域で感じているのだ。 夢界の時代背景はおよそ百年前で、それから現代に至るまでの開きはかなりある。当時から見れば、おそらくどの分野をとってみてもその発展には著しいものがあるだろう。 それは裏返して言えば、今の一般的な感覚を有した人間から見たときに、往年の最先端というものがレトロに映ってしまうことと同意。 そう、時代が違うものを比較するときにはその差異だけでなく、厳然と横たわる進歩の度合いというものも鑑みなくてはならないだろう。 時を経れば、単純に積み重なった知識がその分増える。それが認識できる世界の広がりに直結するのは言うまでもないことで、それはこのような文化的な分野において無視などできるはずもなく。 当時の最先端を誇った思想が、振り返って見れば型落ちに過ぎない……などとはよく聞く話で、俺と歩美が抱いた感想とはそこに起因するものなのだろうか? 「例えば、これを見てくれ」 別のページにある校舎図面の中心辺りを、俺は指し示しながら言った。 「この辺りの造りは、平安京のそれにどこか印象が似てるよな。あの時代の建築が風水に端を発したものが多いっていうのは知ってるか?」 「いちおう、聞いたことはあるけど」 先に訪れた京都の情報でもあるため、その辺りの学説は俺も幾つか耳にしている。 飛鳥・奈良時代に大陸より日本に伝わった風水の理論は、この国独自の思想と合わさって発展を遂げた。 後に陰陽道や家相として変化していき、平城京・平安京の選定はそれらの理に則っているとされている。 「東京……江戸も風水を参考にして造った都市っていうのは、わたしも何かで見たことあるけど」 「まあ、都市建設に深く関わった人物がそっちの方に通じていた、あるいは風水を採用したっていう文献は存在していないらしいけどな」 その辺りは諸説入り乱れているものの、陰陽道や宿曜道などの影響はそこかしこに見られることは確からしい。 そして、その見地で語るなら戦真館の造りはベースとして平安京とほぼ一緒だと推察される。いや、そもそも鎌倉自体がそうなんだろう。我堂も以前、同じようなことを言っていた。 しかし…… 「やっぱり腑に落ちない?」 「ああ、そうだな。どうにも上手く言えないが、〈印〉《、》〈象〉《、》〈が〉《、》〈嵌〉《、》〈ら〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》んだよ」 そう。さっき歩美も言った通り、何よりも違和感を覚えるのはそこだった。 どこか心に引っ掛かりが残ったままのような……いや、それ以前に物足りないとすら言ってもいい。 余人から逸脱した奔放さを今まで見せ付けてきた壇狩摩。その男が組み上げた図面として、これはあまりにも── 「──〈綺〉《、》〈麗〉《、》〈に〉《、》〈過〉《、》〈ぎ〉《、》〈る〉《、》」 「ノーマルなんだよ、どこを取っても。いち学園の設計図面としたらそれでいいかもしれないが、それにしたって基本的な建築法ばかりが目に付くだろう」 「これじゃまるで、こいつは風水だけしか知らないみたいだ」 図面から受ける印象はあたかも優等生然としたものであって、しっくり来ないなどというものではない。 そう…… 「こんなものは、まったくあいつらしくない。何よりも──平凡とも言えるこの設計書を、本当に満足して出しているのか?」 それは否であろうと確信できる。狩摩の振る舞いは天の邪鬼にして万事が出たところ勝負。であるにも関わらず、まるで教科書を諳んじているかのような〈非〉《、》〈の〉《、》〈打〉《、》〈ち〉《、》〈所〉《、》〈の〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈こ〉《、》〈の〉《、》〈図〉《、》〈面〉《、》…… 独自の行動メソッドがゆえに勝利という結果が奴にもたらされていると言うのなら、この書面にはどうしても納得がいかない。 あいつを動かしている理というものが実感として理解できない──それが、俺の抱いた印象だった。 「もう一つ可能性として考えられるのは、そもそもこれが偽物だということだが……」 「教官が、わたしたちに嘘ついてたってこと?」 つまりはこちらの戦力を半分に裂いて、鬼面衆に襲わせたとする仮定だが── 「これもいささか真実味に欠けると俺は思ってる。なぜなら、彼女にそうまでする理由はない」 ただ恩師というだけでいたずらに庇っているわけではない。花恵教官の発言は、一定の整合性が取れていた。 そこから推測するに、あの発言が俺たちを騙すためだけのものだったとは考えにくい。 無論、すべてが嘘という可能性も理屈の上では存在するものの、それを言い始めたら現状ではキリがない。鳴滝たちの状態も予断を許さないものであり、何より時間は有限なのだ。 ゆえに、そこを疑うのは一番最後。可能性として考慮しておくくらいでいいだろう。 ここまで出揃った材料で一定の対策は立てられる。腰を据え、我堂たちと顔を付き合わせて考えればそれなりの案も浮かぶはず。 しかし、それを盲信できるかといえば微妙なところなのは変わらず、違うアプローチを探しておきたい。 「わたしたちの動きに先んじて、敵が嘘の図面を持ってきた、っていう可能性もあるよね」 「それはそうだな。こっちの動向を察知していた可能性か……」 「あと、わたし思うんだけどさ」 そう行って歩美は一瞬言い淀み、再度口を開く。 「壇狩摩のヒントになるものは、〈こ〉《、》〈こ〉《、》にはないんじゃないのかな」 「教官は例えるならこれは棋譜だって言ってたよね。わたしもそれを表わすものを探してると思ってた」 「だけど、これはヒントなんかじゃなくて……」 「肝心要のものは別のところにある……か。なるほどな」 頷く歩美の言葉に、俺は考える。教官はおそらく確信を持ってそう言っていたのだろうし、犠牲こそ出してしまったもののこうして図面も手に入った。 しかし、棋譜そのものとは誰も断言できないのが現状であり、これはその周辺情報に過ぎないという可能性もある。 「だとしたら、探している本命はどこにあると歩美は思う?」 「それは、今は分からないけど……」 「単純に、ここにあることがあいつの持ち味じゃない。そういう気がするの」 思い返してみると、確かに狩摩は言っていた。筋などどうでも構わないという風に。 あいつの行動は実際、理屈としては破綻しているとすら言えるものであり、だからこそ手の内を読むことができない。 「確かに歩美の言う通りかもしれないな」 「その着眼点には俺も賛成する。図面、ありがとうな。一旦戻しておくよ」 「うんっ! あ……」 図面の書き込まれたノートを手渡しする際、何かに驚いたんだろうか。歩美の身体が突然弾かれたようにびくっと短く跳ねた。 「どうした?」 歩美は大きく目を見開いている。その注がれた視線の先を追って……俺は気付いた。 お互いの手が、僅かではあるが確かに触れ合っていることに。 「う、あう……な、なんでもない……」 言葉とは裏腹に歩美の頬は赤く染まっており、その横顔はまるで純真無垢な乙女のようだ。いや、実際のこいつがそうでないとは言わないが。 おいおい、どうしてそんなに狼狽えているんだよ。たった少し、ほんの少しだけ指先が触れただけだろう。ついさっき浜辺で色々やってきたのはなんだったんだと言いたくなる。 だというのに、この反応はどういうことだ。しかもよりによって、俺の部屋に二人だけでいるときに。目の前でおまえがそんなだと、つられてこっちも意識してしまう。 別にベタベタくっついて来た挙げ句に平然としていろと言うわけじゃないが、過剰に〈初心〉《うぶ》な雰囲気を出されても調子が狂うぞ。何より、そういうのはおまえのキャラじゃないだろう。 今や部屋全体の空気にまで気恥ずかしさが蔓延しているようだった。俺は歩美から一旦視線を外し、最近の出来事を回想する。 ……頭に浮かんでくるのは、やはり昨夜のこと。 歩美の様子が今までと違っていたのがいつかと言われたら、間違いなくあの日を挙げざるを得ない。 涙を見せたというだけではない。終始どこかウエットだったというか、胸の奥に何か話したいことを秘めている様子だった。 そう。まるで、俺がこれまで知らなかった歩美の隠された一面について── 「──歩美」 「え……な、なに? 急に、改まったりしちゃって……」 「おまえ、〈何〉《、》〈か〉《、》〈あ〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》〈の〉《、》〈か〉《、》」 だから。気付いたときにはそう口に出していた。 こいつにもし何か起こっていたならば、誰よりも力になりたいと。 「余計な世話かもしれないが、聞かせてほしい。おまえが嫌だって言うのならそれでもいい」 「どうしたんだ? 最近、いつもの歩美じゃないだろう」 「夢でのことで──ひょっとして俺が意識を失っていたときに、聞いた出来事の他にも何か起こっていたのか?」 ついさっきまで歩美は頬を染めていたが、今はすっかり醒めてしまったように、蒼白な面持ちで俯いている。 そして、そのままこちらに視線を向けることなくぽつりと呟いた。 「反対だよ、四四八くん」 「あの時何か起こってたら……みんなみたいに、どうにかなっちゃうくらいの出来事を体験できてたなら、〈ど〉《、》〈れ〉《、》〈ほ〉《、》〈ど〉《、》〈安〉《、》〈心〉《、》〈で〉《、》〈き〉《、》〈た〉《、》〈か〉《、》──」 「わたしには何もないの。なかったの」 「夢の世界での戦いを潜り抜けても、それでどんなに死にそうになったって……」 その横顔の、意味するところはなんだ。 暗い、落ち込んでいるなどというものではない。大切なものを失った絶望ですらない。そこに浮かんでいるのはただ徹底した虚無だ。 自身の内奧を紐解いていくように、歩美はゆるゆると語り始める。 「いくら強い敵と戦って、どれだけの傷を負っても……わたしはどうとも思わなかったし、恐くも何ともないの」 「なんでかっていうとね、わたしには〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈に〉《 、》〈届〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》」 「あはは……何言ってるのって感じでしょ? イタい子だよねこれじゃ」 「もちろん刃物で斬られたら怪我だってするし、首を刎ねられたら死ぬと思うよ。でも、わたしは〈そ〉《、》〈う〉《、》なんだ」 「命を失うことが、恐ろしくないということか?」 「うん。それで半分正解ってところかな」 俺の言葉に、寂寥感すら湛えた微笑みで歩美は続ける。 「死ぬこともそうだし、傷付くこともそう……どれもわたしの心に堪えるとは思えないし、何をやってもやられても、どこか嘘のようで……」 「現実感がないってわけじゃないけど、実際のところはどうでもいいって思ってるの」 「──たとえ誰かを殺しても、〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》も何もかも」 「だから、怖さもなんにもない。へへっ、当たり前だよねそんなの。どんなことだって届かないっていうんだからさ」 「歩美……」 「ほんとはね、ずっと昔から思ってたの」 「栄光くんも、あっちゃんも、みんな楽しそうに毎日を過ごしてる。きっと充実してる。でもわたしは、わたしだけが違う……」 「楽しいけど、心の底からじゃないの。そんな感情って、きっと本当のものじゃないって思うから」 「だから、四四八くんたちとは違うんだよ……」 聞いているうちに、心に細波が立つのを感じる。涙を浮かべながら話す目の前の歩美に何かを伝えなくてはならない──そんな感情に身を焦がす。 なぜなら、〈こ〉《、》〈れ〉《、》が大元だから。 歩美の口にする一つ一つこそがきっとこいつを今まで蝕み、そしてそれは昨日今日からのものじゃない。 ずっとそうだったんだ。仲間と共に潜った夢でも、千信館で笑いあっていたときも……出会ったころから今日まで葛藤し、孤独に戦っていたのかもしれない。 阻害。不参加。蚊帳の外。それらは誰のせいでもないがゆえに、己のみを責めねばならない構図に帰結する。 傷付いていないと歩美は言った。けど違う、そんなわけはない。こいつの場合はただ血が流れていないだけであって、刃物を刺せば痛みは走るに決まっているじゃないか。 だが、しかし…… 「他人と違っていても、それでいいんじゃないか」 「そう俺は思うぞ。今の話を聞いていて」 「四四八、くん……」 俺は語る。そう、そんなことは問題じゃないんだと。 こいつが言っているのは世界に色が付いていないということだ。何を見てもモノクロームな風景の中、色盲である自分をこれまでの人生で何度も繰り返し認識してきたという独白。 その意味で確かに俺とは違うだろう。晶や栄光と比べてもそうだろう。しかしだからどうしたと、この場で語らなければならない。いや、語りたいんだ。教えてやりたいんだよ。 なぜなら、歩美の根幹を成しているものは── 「出来事に対する実感という意味では、おまえの言う通りかもしれない。どんな一喜一憂も、上辺だけのものだったのかもしれないさ。だけどな歩美」 「それがゆえに、おまえが得たものだってあるはずだろう? プラスもマイナスもない、そんな風に言っているが俺にはそうは思えない」 「なぜなら、これまで俺たちがおまえにどれだけ助けられたか……その一つ一つを、確かに覚えているからだ」 「どんな局面においても冷静さを保つことができる。頭も切れるし度胸だってある。これが長所じゃなくて何だっていうんだよ」 「頼ってるだろ、みんなが歩美を。それはおまえの中に在る価値を認めてるってことなんだ。意味がないわけがないだろう」 「無論、俺だってそうだ。大事に思ってるし、もうただの友人というだけじゃないさ」 「兄弟。家族。そのくらい掛け替えのない存在として──」 「ふざけ、ないでよぉっ……!」 短く──しかし強く、叩き付けるように挟まれた歩美の言葉。 そこに渦巻く感情は、これまで向けられたどんなものでもなく。 怒っている。激している。どうして、なんで──数多の感情が迸るままに炸裂する。歩美が顔を上げたとき、その頬には大粒の涙が零れていた。 「冷静? 頼れる? それがわたしに与えられた価値……?」 「そんなもの、求めてない……要らないんだよ少しだって。なのに、四四八くんはずっと同じことばかり」 「それがわたしは嫌なの……! 冷静でいたくても、頼られたくもない。みんなのバランス取りが仕事だなんて誰が言ったの、そんなのってあんまりだよッッ」 「一人だけいつも後ろにいて、知ったような顔して……つまらないのよ。余裕なんていらなかった。欲しくなかった。何から何まで鬱陶しくて余計なんだ」 「得たものはあるよ、でもどうだっていいの。こんなくだらないものなんて、欲しいならあげるよ誰にでも」 「わたしが、欲しいのは……」 烈火の如く喚き、泣いて、嗚咽混じりの呼吸をどうにか整えようとする歩美。涙の跡が色濃く残ったその顔には、いつもの様子など欠片もなく。 俺はようやく理解する。ああ、おまえの言う通りだ歩美。いつも傍にいたつもりでいながら、なんて救いがたい間抜けなんだ俺は。 歩美の長所と思い、信じて疑わなかった幾つものこと……〈そ〉《、》〈の〉《、》〈認〉《、》〈識〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈間〉《、》〈違〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈た〉《、》〈の〉《、》〈だ〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》。 これまでずっと、誰とどんな場所にいても、歩美はそれが恐かったのに。 「──でも、わたしにはもっと嫌なことがあってね」 「それは、〈こ〉《、》〈ん〉《、》〈な〉《、》〈自〉《、》〈分〉《、》〈を〉《、》〈誰〉《、》〈か〉《、》〈に〉《、》〈知〉《、》〈ら〉《、》〈れ〉《、》〈て〉《、》〈し〉《、》〈ま〉《、》〈う〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》」 「臆病で、汚い……醜いの。そんなのを他の人に知られたら、辛くて耐えられない。一秒だってガマンできないよ」 「だから──わたしは壇狩摩を殺すの」 「目の前で馬鹿にしたように笑いながら、わたしのすべてを見切ったあいつを……」 出てきたのは神祇省の長、鬼を率いる男の名前。 俺が吸血されて意識を失ったあの後のことを、おそらく歩美は言っている。そこで何らかの契機があったのは間違いない。 それは耐えられない屈辱。目を背けて安穏と暮らすくらいならば、自らの手を汚すことすら厭わない──こいつにそんな決断を容易くさせてしまうような汚辱。 どうにか落ち着きを取り戻しながら、歩美は少し語気を控えて言う。まるで自嘲するかのように。 「わたしは壇狩摩の戦いの一部始終を見てた。それで、うまくは言えないけど……」 「分かったの。あいつと戦えるのは、わたししかいないって」 「みんなと違う自分……わたしの大嫌いな龍辺歩美こそが、今度の戦いでだけは相性いいんだって」 「だけど……」 俺を見上げる瞳は、大粒の涙に濡れている。 その様子は、まるで行く場のない子犬のようで── 「そのためには、四四八くんたちを〈使〉《、》〈わ〉《、》〈な〉《、》〈く〉《、》〈ち〉《、》〈ゃ〉《、》駄目かもしれない。それが恐いの」 「できればあたしが矢面に立てれば……何度もそう思ったよ。でも無理なの、あいつの力に対抗するためには」 「だから、今まで言えなかった。迷ってた」 「恐かったの」 自ら導き出した結論に、歩美は身を震わせている。俺たちを巻き込むことに怯えている。 だが、いいんだよ、話せば。仲間だろう俺たちは。 歩美が我が身可愛さなんかで動く奴じゃないというのは、とっくの昔に知っているんだ。おまえのためなら身体くらい張ってやる。その涙を黙って見ている方が堪えるんだから。 歩美の小さな身体を、俺は腕の中に抱き留める。 擦れ違っていたことも、分かっていなかったことも今まであっただろう。こいつはずっとそれに絶望していたし、まだ何も解決していないのかもしれない。 だが、しかし。 俺も、そしてもちろん歩美だって、まだ何も間違えてはいないんだという実感が、この胸に湧いてくる。 「──俺さ、昔から八犬伝好きだったろう?」 だから語る。言葉にする。 大事なことを、今度こそちゃんとこいつに伝えるために。 「まあ知ってるとは思うけど、その中でも仁義八行の思想には今も影響を受けててな。仁義礼智、忠信孝悌──」 「考えてたんだ、その中で歩美は智だよなって」 「冷静で、いざというときに頼れる……〈犬坂毛野胤智〉《いぬさかけのたねとも》みたいなさ」 智の犬士、犬坂毛野胤智。 どこか一筋縄ではいかないところのある人物であり、八人の主人公たちを卓越した戦術眼をもって後方より支援する──その活躍振りに子供だった頃の俺は胸を熱くしたものだ。 万象を深く観察し、己の才を弁えていること。道理や因果を踏まえて正しい判断を下すこと。これらはすなわち、智慧と言っていいだろう。 それはすべて、この腕の中にいるこいつが持ち合わせているものではないだろうか。 「智に表わされるものの根幹にある、人を思えるということ──」 「すなわち、痛みを知ること」 「己こそが仲間のために矢面に立ちたいと思えることこそが、歩美を歩美たらしめていると思うんだ」 「四四八、くん……」 歩美は涙を溜めた目を大きく開いて俺を見ている。いつの間にか、その手は服の裾を掴んでいる。 身体の震えは徐々に小さく、そして収まっていく── 「俺のことをふざけるなと言ったよな。何も分かっていないと」 「確かにそうだった、おまえの言う通りだ。でも、間違えてはいなかったんだ」 「話を聞いているうちに分かったんだ。ああ、これだけは確信を持って言える」 「おまえはただ優しいんだよ。頭が切れるのも確かだが、それは仲間たちを守るためのものだろう?」 「いつも、どんなときでもだ。上辺だけの偽善なんかじゃない、まさに本質ってやつだろう」 「貴いと、俺は思うよ。そしてその精神こそが、龍辺歩美という人間なんじゃないか?」 目を見てはっきりと、一語一語を余さず告げる。 照れもしない。怯みもしない。拒絶をされる不安など関係ない。なぜなら、それは大切なことだから。 「俺たちは、仲間じゃないか」 「昔から……いや、それこそ前世から一緒にいた、八犬伝にも負けてない絆だろう」 「っ、ふふっ……」 泣き笑いのようにして、歩美は口元を緩めてくれる。それは、少し心が軽くなった表れで。 次第にその表情に悪戯っぽさを取り戻して口にする。 「ありがとうね、四四八くん」 「今、わたし……すっごく嬉しい」 「でも、ふふ……ほんとに好きだよね、八犬伝」 「この場面で、わざわざ引っ張り出して言うかなあ普通。二人っきりのシチュエーションだよ?」 「いいだろ別に。より伝わると思ったんだよ」 歩美はくすくすと可笑しそうにしている。言われてみれば何だかそんな気がしてきて、ばつが悪いぞ。 そして、俺の方を向いた歩美は真剣な眼差しで口を開いた。 「ねえ、この間の浜辺で出した宿題って覚えてる?」 「答え、今聞きたいよ……いいかな?」 じっと見詰める濡れた瞳。引き締められた唇。小さな拳はきゅっと握られている。 「わたしたち、兄妹みたいなものなのかな?」 「それとも──」 「兄弟なわけがないだろう」 歩美の言葉を遮るように、強く。 俺は告げた。これだけは伝えないといけないから。間違いのない、絶対の気持ちを。 「実感したよ、断じて違う」 「ああ、俺も未熟だった。それについては謝る、すまない」 「兄弟、身内……俺はどこかで、そういう絆が最上級のものだと思っていたのかもしれないな」 「男と女っていうのは、まだどうも見当がつかないということもあるし──」 「絆に忠する仲間でありたい。何にも侵されることのない無上の関係に……そう思っていた」 「だけど、そうじゃないんだな」 「八人もいる兄弟なんて関係じゃないってこと、それが今身に染みて分かったんだ」 「俺にはおまえ一人だけしかいない。歩美という、無二の存在しか有り得ないんだよ」 「離したくない。傍にいたい。やっと気付いたその気持ちは正直ひどかった、どうにかなると思ったよ」 そう、これまではずっと一緒にいたから。 とても近い関係だと思っていたから見落としていたものを、実際は歩美のことを何も分かっていなかったんだと知ることで、ようやく実感として得た。 ガキだ。未熟だ。けどしかし、気付いたからには伝え切る。目を逸らさずに。 「俺は、歩美が好きだ」 「今までもそうだったし、これからもずっと──」 伝えた。すべてを吐き出した。柊四四八、一世一代の大勝負だ。 歩美はというと、どこかぽかんとした表情を浮かべている。 そして、頬を真っ赤に染め上げて── 「そ、それは、その……」 「あの……ほんと?」 「本当に決まっているだろうが」 「そ、そうだよね……うん」 「この状況で、そんな……ね……」 歩美は状況を確認するかのように口の中でごにょごにょとやっている。反芻し、幾度も一人で頷いている。 そして。 「う、うわぁ~~~~……」 「ど、どうしよう……ちょ、やだ見ないで四四八くん、こんなの……」 歩美は笑っていた。そう、とても嬉しそうに。 俺の言葉が届いたのだ──それが分かったと同時に、こちらも釣られて赤くなってしまう。 いかんぞ頬が熱い。俺は今、きっと歩美と同じ顔をしているのだろう。 「わぁ……顔、すごいよ?」 「四四八くん、赤くなりすぎ……」 「おまえもだろ……」 しばらくの間、そんな風にお互いもごもごとやっていて。 そのまま、どちらからともなく吹き出した。 「ふふっ、うふふっ……」 「これってさぁ、告白だよね? 両想いってことだよね。うわぁ~……」 「どうしよう、すっごい幸せ」 薄く涙を浮かべ、そう噛み締めるように言う歩美に胸が高鳴る。 離したくないと言ったばかりだが、その思いは早くも強烈に倍加されている。 唯一無二の存在で、心の隅まで掻き乱される──そんなのは俺にとってこいつだけだ。 やがて、笑っていた歩美は何かに気付いたように、俺の身体にその小さな手を置く。 それは温かく、もう震えていない。 そして…… 「四四八くん、ねえ──」 「見ても、いいんだよ? わたしを、もっと深く……」 そう、どこか誘うように囁く。 「ううん、違うね」 「見て欲しいの、わたしを」 それは艶めいた女の声で、歩美にこんな一面もあるのかと驚かされる。 ああ、もっと解き明かしたい。隅から隅まで徹底的に。 「いいのか、そんなこと言っても」 「引かんぞ俺は。おまえの思っているよりも、遙かに執着しているんだからな」 「えへへ、いいよ四四八くんなら」 「もう、口説き文句まで格好いいんだから……」 目の前に戻ってきたその笑顔を眩しく思いながら── 俺は、歩美に身体を近付けていった。 俺の前で歩美はスカートをたくし上げる。 男と女が思いを伝え合い、今は二人きりで部屋にいる。その状況を考えれば、この光景は自然なものですらあると言えるだろうが…… 「何か、その、虚構の世界めいているな」 「虚構?」 「まぁ、そうだな……虚構だ。アニメでも漫画でも官能小説でもいい。女が挑発的にこういう格好をするってのを思い出したんだよ」 口ではこう言い抜ける。だが、身体の方も、心の方もあまり余裕はない。手にはじっとりとした汗が滲んでいて、どうにも落ち着かないんだ。 歩美がこういう挑発的なことをするのは、普段のこいつを鑑みれば考えられなくもない。しかし、この状況がすでに非常事態そのものなのだから。 「んー……そうかなあ? じゃあ、もっと大胆にガッと来ていいんじゃないかなー?」 「そう、四四八くんが」 そう言って歩美は笑う……やはりこっちを挑発しているんだな。 歩美らしいといえば歩美らしい。俺は素直に彼女を見直すことにした。 「俺はガガッと行けばいいわけか」 「そうだよ? でもどうかな?」 俺は怪訝な顔をする。すると歩美は納得いったように頷く。 「……うん。分かんないならいいよ。ちゃーんとかぶりつきで見て欲しいかな」 ……妙に挑発的だな。実際こうなっている段階で挑発的なのは言うまでもないことなんだが。 さて、じゃあじっくりと観察させてもらうかな。 「ねぇ、四四八くん……こういうの見たこと、生で見たことあるかな?」 「答えなくちゃダメか」 「ううん、それで十分かな」 ……歩美の挑発にちょっとカチンと来る部分はあるが、我慢して見守るとしよう。 「……はぁ……こうやって四四八くんの前で、スカートを捲り上げているのって、なんだか変な気分がするね」 変な気分って、要するに欲情してるってことだろうな。俺だってこういう光景を見たら欲情し始めるのが普通だ。 しかしかぶりつきで見ようとは思わない。男の沽券だろうな。 「いいんだよー? 四四八くんが見たいなら、もっと近づいても……ね? ほら、これぐらいの距離だとつまらなくない?」 つまらないという表現は面白い。だが、どのみち歩美の神秘の場所はパンツという障壁に守られていて、見ることは叶わないのだ。 今ここでは、女が履いているパンツはパンツ。その向こう側に性器があると想像すればそれなりに楽しい。 「しょうがないなあ、四四八くん。やせ我慢。いいよ、もっと見ても。こういうの、視姦って言うんだよね?」 ……何処でそんな言葉を覚えてきたんだか。 挑発に乗りたくない。こんな形で乗るのは、みっともないんじゃないかって思う。 だけど、結局身体は動く。ぐっと身を寄せて、歩美の股間を眺める。 じっくりと見たいが、やはり下着のクロッチは厚いし、そもそも股間は下なのだから、見えるわけはない。 だが、今見せびらかしている部分を見ないで何処を見るのか。 「うふふふ……四四八くん、凄いかぶりついてる感じがするね。こっちが恥ずかしくなるよ」 ……何を言ってるんだか。こう仕向けたのは歩美だ。俺はそう思いながら身を乗り出し、突き出された股間を観察し続ける。 「いいよ。もっと近くて……その、アソコとか、もっと見えるようにした方がいいよね?」 まだまだ挑発的。余裕があるってことか。こういう挑発的なことはあまり好きじゃない。もう少し素直になったらどうかと思うのだ。 それでも口から出るのは、この挑発を受けての言葉。 「そうだな。もっと足を開いたりするといいな」 「……四四八くんって脚フェチなのかな? あ、そういうことじゃないよね。ここだよね……うふふ」 ぐっと腰をせり出すようにする歩美。挑発的な態度は変わらないが……さっきよりも恥ずかしく感じているのは表情で分かる。 しかし、体勢を崩すことはなく、そのまま股間と股を強調するように、見せびらかしている。 「どうかな……分かるかな? 私が感じてるの、見て分かるかな?」 分かるか、って言われるともう少しはっきり見える場所を見せてもらえればと思う。 具体的にはパンツのクロッチのところだ。ヴァギナそのものが貼り付いているであろう部分か。 そこに意識を集中していく。もちろんそうすると歩美は恥ずかしそうな雰囲気を見せる。 「あの……四四八くん……あのね、もしかするとパンツ汚れてるかも……」 「だって……その、アソコ、なんだかぐちゃぐちゃしてる感じだからね……それでね、だから、汚れてたら萎えちゃうんじゃないかな、って思うんだよね」 「それとも汚れてるパンツの方が勃起するのかな……だったらもっとよく見て欲しいかも……どうかな?」 なんてことを口走るんだよ、コイツは。そういうのは女が言っていいセリフじゃないだろ。 見て欲しいとか、この状況だと見えないんだ。そんなに挑発的になる必要が何処にあるのか。 「はぅぅ……四四八くんの目がいやらしくて、怖い」 「ただでさえ目つき悪いのに、いやらしくなるとますます悪くなるなんて損だよね……」 動揺を顔に出さないようにして見てるだけだっていうのに、いやらしいとか言われると本気で困る。 それに目付きが悪いんじゃなくて、表情を殺すのに、こうしているだけなんだよ。これでも俺はお前に気を使ってるんだぞ。 「はぁ……私も四四八くんの、どうなってるか見たいなぁ。きっと凄い大きくなってるんだよね?」 「んんっ……ちょっとぞくぞくしちゃったかも。ほら、見えるかな? パンツの大事なところ、染みが広がっちゃった?」 歩美の奴はぐっと腰をせり出してくる。そうすると割れ目が浮き立っているのが、露骨になる。 陰唇に血液が集まってきて、ぷっくりと膨れてきているのだろうな。それが貼り付いて、変な気分になってるんじゃないか。 ……こんな予想をしても、今の歩美を止められるわけじゃない。俺はただ黙って見るだけ。次のステップに必要なことは口走ってもいいんだろうか。 「変な気分かな……どっちかっていうと、貼り付いて気持ち悪いかな? うん、エッチな気分にはなってるけどね、その、気持ち悪いって方が強いよ?」 「もちろん感じてるって言えば感じてるんだよ。ほら、こうやって四四八くんと話してるだけで、どくんどくんしてるんだよ。アソコの中がね、とろってね……」 「見たいでしょ? 私のアソコの中、いやらしくなっているの、見たいんでしょう?」 それは……見たい。見たいが、余裕のない歩美をいたぶりたいわけじゃない。単に性欲のために、コイツの秘部を見たいという訳じゃないが……口に出してもしょうがない。 「はぁ……四四八くんの前で、こんな破廉恥なことしちゃうなんて……私って変な女の子だよね」 「でもなんだか凄い興奮してくる。こうやってパンツをね、見せながらね、アソコを意識してもらって、私も意識してるとね、凄い感じちゃうんだ……」 「多分子宮だと思うんだけど……中で、ぎゅーぎゅーって動いちゃうんだよね。いやらしいよね?」 見えないところの話まで引っぱり出されると、俺としてはどんな表情をしていいのか分からなくなる。 俺の心境は毒食らわば皿まで。歩美は毒じゃないが、この態度は俺には毒だ。 「随分と盛り上がってるんだな、そのパンツの中で」 「う、うん……盛り上がってるね。いやらしいね」 「ああ……いやらしいな」 羞恥に拒絶するか、と思ったのだがそうじゃなかった。耐えて、このまま俺の前で股間を晒してる。 「はぁ……四四八くんってば、意外に積極的なんだね、こういうの」 「ちょっと雰囲気と違うから驚いたよ。あ、でも普段からすると当たり前なのかな」 「こういうエッチなこととね、普段って違いがあるからね、てっきり四四八くんってば、気後れするタイプなのかな、って思っちゃったよ」 そんなわけあるか。俺をどう思っているのか、これでちょっとは垣間見えたか。 これからすることに関してのみだと思っておこう。そして、その誤解は早々に解消されるだろうってことも。 「はぁ……んんっ……んんんっ……見られてる。こんなに近くで見られると、凄い興奮するね……」 「あん……んんっ……アソコが、凄いしびれたみたいになってきちゃうっ……びゅくびゅくって中でね、おつゆが溢れてる感じだよ……」 俺の前に突出されている股間、歩美の恥丘、その向こう側のヴァギナではそういういやらしい反応が起こっているのか。 それなのに、まだ挑発的に、それも余裕を持って歩美がこんなことを口走っているんだ。俺の股間も非常事態になるってものだ。 今すぐにセックスがしたい。さくさく脱童貞して果てたほうがいい。 だが、歩美も一緒に満足させたいという気持ちはある。男としての甲斐性って奴だ。だから引くわけにはいかない。 「どうかな、四四八くん? 興奮してる? 私のこと視姦して、エッチな気分になってるかな?」 「ああ……なってるな。コイツは俺の負けかもしれない」 「負け? 私、四四八くんと勝負なんかしてないよ?」 「俺の勝手な思い込みって奴だよ。早く歩美のことをめちゃくちゃにしたいな――」 仕方ない……歩美に合わせてやろうじゃないか。これからすることの極端な予告って奴を。半分以上はったりだが、今の歩美に向けるにはいいんじゃないか。 ――たっぷりと指でヴァギナの入り口辺りを感じさせる。できるだけ長い時間だ。開ききった陰唇を指で、こじ開けて、それから膣口を撫で回す。どろどろと奥から溢れ出る愛液をこねるようにしてな。 ――それがタップリと泡立ったら、そのままクリトリスの方に引き上げる。そのまま包皮をむいて、撫でていく。カチカチに勃起するまでな。 ――我慢できなくなったところで、膣の中に指を入れ、充血して敏感になっているゾーンを擦り上げる。それで歩美がどんな反応を見せるか、観察した後、セックスするのだ。 そう、俺は歩美の股間を見て、歩美の目を見て、告げる。 「くぅっ……ふあぁ……ああっ……や、やだ……そんなにいやらしいことするんだ。私のアソコで……しちゃうんだね」 「私の処女のアソコなのに、そんなにいやらしいのしちゃえるなんて、四四八くんって、凄い変態さんなのかもね」 「ほら、分かるかな……今、どろって、アソコの中からいっぱい出てきちゃったよ? じゅわってパンツのクロッチに広がってるの」 「じんわりしながら滲みていってるんだよ。アソコの形に滲みてるの、分かる? 割れ目の形が分かっちゃうかも……」 俺の適当に口にしたセックスのプランに興奮したか、歩美の奴は妙に熱っぽい言葉で反応している。 ……むむむ、おかしい。少しはしおらしくなって、俺の方に引き寄せることができると思ったんだが、俺が浅はかだったか。 ともかく、歩美とのセックスを遂げるためには、歩美の性欲を上手くいなしていくしかないんだろうな…… 「うふふふ……四四八くん、興奮してるね。分かるよ。分かっちゃうんだ。だって私、女の子だもん」 「好きな人の心の反応がね、分かるのが女の子なんだよ。だから、もう我慢できないなら……いいよ」 「はい、四四八くん……エッチなことして下さい。お願いします」 片足をパンツから引き抜かせる。 歩美の言っている通り、そこは愛液でしとどに濡れていた。一瞬お漏らしでもしたのか、と思うほど。 何しろ張り付いていた陰唇がクロッチから剥がれた瞬間、どろりと塊のような愛液が溢れ落ちたのだから。 噎せ返るほどの歩美のメスの匂いに、俺は興奮を隠せない。 「ふあっ……ああ……んんっ……いやらしい、いやらしいよね、四四八くん。こんなにいやらしくなっちゃったのは、四四八くんのせいだよ?」 「だって私のことこんなに興奮させるんだもん。見られてるだけで、アソコがぐちゃぐちゃになっちゃって……まだ、びくびくしてるんだよ。分かるかな?」 見てるだけで、子宮やクリトリスの辺りがぴく、ぴく、と痙攣している。歩美が感じているのが分かるのだ。 俺は優しく愛撫したいな、と思うのだ。だけど、いつの間にか羞恥責めや激しい愛撫になっている。 「ふぁぁっ……ひ、ひら、開いちゃう……開いちゃうんだ、この状態で……んんっ……あ……アソコ、全開になっちゃった……」 「いやらしいの、いっぱい、出てきて、いっぱい滴ってる……んんっ……恥ずかしい、凄い恥ずかしいよ」 だが、そのセリフとは裏腹な表情でオレを挑発する。こういうのは可愛いと言うべきなのか。 確かに俺はこの態度、この表情、そしてこの現象に欲望を高めている。参ったな……どう対応するべきか。 そう思う間もなく、腕の方が動いた。 「ひゃあっ、ああ……あああ……四四八くん、ちょっと声をかけてから触って欲しかった……」 「あ……でもそうだよね。四四八くんは先にしちゃうよね。うん分かってる。だから大丈夫だよ」 「はぁ……んんんっ……初めて、初めて男の人に触れてるね。ううん、私以外の人が触るのは初めてなんだ」 処女だったらそうだろう。陰裂に指を入れた途端、入り口に強い抵抗を感じたからそれは間違いない。 しかし、その割には随分と挑発的なことを繰り返したものだと感心する。 「こうでもしないと四四八くんから主導権奪えないかな、って思ったんだ」 そんなことの意味があるんだろうか。 「だって私初めてだから、その、四四八くんに、いつもの四四八くんにエッチなことして欲しいって思ったからね」 「だからこういう風に挑発しちゃったんだよね……いつもよりもずっとずっと強く。緊張してたのかな?」 そうは見えない。これは歩美なりの気遣いだったのだろうか。そこら辺の距離感はいつもと同じなのだと思わないといけないのだろう。 だけど、やはりこれは非日常な行為、情景、行動だ。 それに相応しい態度があるんじゃないか、と思う。 「まったくいやらしい奴だな、歩美は」 「はうっ……」 「そんなので興奮するな。俺もいつもの態度でお前を迎え入れてやるから安心しろ」 「そ、そう……なの……」 「いつもの、だからな……少し我慢してもらうこともあるぞ」 「う、うん……それはいい。私、いつもの四四八くんが好き」 ふむ……だったら自然体でいいんだろうな。さて、自然体ということで―― 「ひゃぁっ……あ……ああっ……や、やだぁっ……広げちゃ、ダメ……恥ずかしい……こんなに間近で広げるなんて……」 いつもの行為の延長線上だと思ったけどな。なんだかんだで歩美も普段通りだと思っていた。 俺はそのまま陰裂を指でなぞり、愛液を掻き出していく。意外に粘性の少ないものかと思っていたが、奥から出てくる愛液はどろりとしており、粘り気も相当なものだった。 これがいわゆる本気汁って奴なのだろうか。様々な知識も実体験をフォローするほどでは無いのだった。 その変化を楽しむように俺は指を動かして、粘膜を刺激する。 歩美は当たり前だが敏感に反応している。それを見て、俺は自分の股間が相当に高まるのを感じていた。 「はぁ……四四八くん、だんだん気持ちよくなってきたよ……凄い、感じる……気持ちいいの、いっぱいだよ……」 興奮が表に出てきている。汗が滲み、頬だけではなく、首周りもピンク色に染まっている。 快楽が彼女を支配しているのはよく分かる。俺も早くこの快楽に溺れたいと思うのだ。 「凄い濡れてるな。それにここ、ビクビクと震えてるじゃないか。感じすぎて痙攣しているのか?」 「う、うん……そう、だと思う。よく分からないんだよね、自分の身体なのに……」 「もう少し分かるようになってから、こういうことすればよかったかな?」 ……それはどういう意味になる? セックスをするってことか? 俺以外の誰かと? まぁそうじゃないってのは分かっているけどな。要するに自分の身体と快楽の関係ってのを分かりたいってことなんだろう。 だったら今それを学んだっていいじゃないか。 「俺以外の誰かとこういうことするのは許さないからな……」 「そ、そういうつもりじゃ……あ! ああっ! やぁっ……そ、そんなところ擦らないで……いっぱい、出ちゃう……奥から、出ちゃう……」 「はぁっ……ああ……い、今、奥から熱いの出ちゃったよ。分かるかな、四四八くん。ほら……溢れてきちゃった」 俺の指がどろりとした熱い体液に濡れていく。激しい愛撫の結果か、それとも元々内に溜まっていたものか。いずれにしても、相当な量の愛液がこぼれだしたのだ。 俺は愛撫のために、その愛液をすくい取り、指を動かしていく。ぐちゃぐちゃという粘着音が激しく響き渡る。 「はぁっ……ああ……あああっ! いやらしい音だぁ 四四八くんって、責めが凄いんだね……びっくりしちゃった」 「指の動きもね、私の気持ち良いところを凄く擦ってるんだよ……四四八くんって、初めてじゃないのかな?」 「俺は童貞だ。他の誰かを抱こうなんて思わないぞ」 「はぁ……そ、そうなんだ。なのに、こんなにキツい責めするんだね。なんだかいつもどおりの四四八くんで……嬉しいかも」 いつもどおりに気を使おうとして、失敗している。慣れない状況というのはこういうものだろうか。 ただ、歩美は俺が童貞だっていうのを本当に嬉しがっているみたいだった。俺の中の当たり前を口にして喜ばれるのは少し不思議な気がする。 気にしてもしょうがないか。俺は歩美の性器の愛撫を深めるため顔を寄せて、細かく撫でていく。 「や、やぁ……四四八くん、意地悪。こんなところで、そんな言い方するなんて……酷いとは言わないけど、意地悪だよぉ」 「もぉ……本当に、四四八くんは、意地悪なんだね……」 まぁ、勝手に俺の評価を付けてろ。 さて……じゃあ、もっと気持ちよくさせよう。やはり、ここは口を使うのが筋だろう。 口淫というのは男も女も感じるものだ。シックスナインが古代ギリシャの昔から行われていたのは、蟹座のルーンが示している。 といっても、俺にフェラチオしてもらう位置ではない。間違いなく俺がクンニリングスする位置だ。 これでもっともっと歩美が感じてくれればいい。 「あ……え……よ、四四八くん、な、なんで、指を抜いてるの? それでどうして股を開こうとするの?」 「だ、ダメだよ……さっき私のおつゆ舐めてたじゃない。まさか、口でするっていうんじゃないよね?」 ……やっぱり察しがいい。他の奴とはちょっと違うな。 だが、それはある意味不幸かもしれない。俺としては意地悪するつもりは無いけれども、恥ずかしいことには変わらないから。 「んはあぁぁっ……あああっ……や、やだぁっ……な、なめ、舐めて……る……アソコを舐めてるぅっ」 「なんだ? 舐めちゃダメか? こういうのもセックスの技法の一つだろう?」 「そ、そう、だけど……ま、まさか、四四八くんがこういううことをするとは思わなかったから」 「今後は認識を改めるんだな」 さて……歩美にも分かってもらえたようだ。俺はこのまま口で愛撫していく。ねっとりと甘く生臭い牝の匂いが口内と鼻腔をくすぐる。 その熱い感触に俺もまた興奮するが、ここは口をつけたまま匂いを嗅いていよう。なかなかできる体験ではないし。 「ふあぁっ……あ……あああっ!」 「ひゃぁっ……はぁぁっ……あ、ああ……よ、四四八くんの、息が、かかってね……凄い、興奮する……んんっ、私のエッチな匂い嗅がれてるんだね……」 「そうだな。これが歩美の匂いなんだな」 「や、やだ……そんなこと言わないで……だめ、恥ずかしすぎる……んんっ、ふぁぁぁっ……あああ……」 こんなことでも羞恥を感じるのか。体臭なんてのは当たり前のことなんだから、そのままでいいじゃないか。 「やぁっ……意地悪っ。んんっ、恥ずかしい。そんなに鼻を鳴らさないで……」 匂いを嗅げば鼻が鳴る。それは当然だろう。 むしろ牝の匂いが濃くなった。口を這わせている陰裂から溢れる愛液の量も増えている。 ……そんな気がする。そして、愛液の量も増えている。俺の手の甲を伝って滴っていく。 俺はそれを拭き取るのもなんだと思い、舐め取る。 「や、やだ! 四四八くん、変態! 何で、そんなの舐めるの! あ……ああ……やだやだ……そんなことしないで」 他意は無かった。ただ、そのままにしておくのもどこか落ち着かなかったから。 単に舐め取るのが一番簡単で手早かっただけなんだが……歩美には変に誤解させたか。 「……四四八くんは、ドが付くほどの変態なんだね。童貞のくせに」 ……そう言われるとなんだかカチンと来るから人間は面白いと思う。 もっともカチンときたのは事実だし、その事実を受け止めているのは他ならない俺である。 となると、歩美にもう少し苛立ちをぶつけていいんじゃないか、と思ったりする。 いや、酷いことじゃなくて、快楽として。それだったら歩美も納得だろう。 「ひゃぁっ……あ、あああ…………んんっ! だめぇっ、そんな感じるところばっかり……んんんくぅっ、はぁっ!」 「ふぁぁっ……あああ……いっぱいいっぱい、エッチなの出て……んんんっ! あああぁっ! や、やだぁっ、気持よすぎるぅっ……」 俺の指の動きに、歩美は激しい声を漏らす。こんな風に感じてくれているのだから、いい具合なのだろう。 「気持ちいいんだな。良かったな」 俺としてはとても嬉しい。歩美が素直に快楽を感じていることが俺にとっては幸せな気分にさせられる。 「あぁ……はぁっ……ああ……あああ……んんっ……な、舐めて……もっと気持ちいいところ……舐めて欲しい」 「わ、分かる? ここだよ……ここ……ここ、いっぱい四四八くんに舐めて欲しいよ……」 「あ……ああ……し、舌っ、触れた……あ、ああ……皮ぁ、剥けちゃう……剥いちゃう……んんっ、ビリビリするよぉ……」 敏感な突起を丹念に舌でめくり上げていく。歩美の腰がびくつくが、俺の口淫を受け止めたい一心だろう、必死に突き出し直してくる。 しょうがない奴だ。俺はそれを受けて、尻を掴んで吸い寄せる。 「きゃああぁっ! あ……ああ……あああっ! にげ、られない……んんっ、よ、四四八くん、や、やだぁっ……やだよぉっ……」 「やぁっ……く、クリちゃんばかり、だ、だめ……ダメにぃっ、なっちゃうよぉっ……ああああっ!」 逃げようとしたりするから俺がこうやっているだけなのに……なんだかな。 俺は更に優しく、だが回数を増やして口淫を続ける。とぷとぷと淫穴から愛液が溢れ出てくる。それを指でかき回し、感じさせていく。 「くぅっ、ううあぁっ、りょ、両方……く、クリちゃんとぉっ、アソコの中ぁ、い、一度は、だ、だめっ、だめぇっ! ああああああぁっ! あああああああっ!」 「い、い、いく、イク、イク、イッちゃううううううううううううううううううううううううううううううううううううぅぅぅぅぅっ!」 歩美の腰がぶるぶるぶると震え、やがてがくりと崩れ落ちるように身体から力が抜けた。 俺はそれを尻を掴んで支える。しょうがない奴だな……こんな風に崩れ落ちるとは。 「はぁ……はぁ……ああ……あああ……こんなのでイクなんて……凄い……気持ちいいけど、恥ずかしいよぉ」 「でも、ま、まだしてないよね……これじゃあ、できないかなぁ……まるっきり足腰に力が入らないよぉ……」 ふむ……足腰に力が入らないか。だったらこういう格好だったらどうかな。 「はぁ……ああ……あああ……四四八くん、こんな格好でするの? んんっ……四四八くん、大変じゃないの?」 ……大変とか大変じゃなくて、単にこういう格好がいいだろうな、と思っただけなんだが。 「ふぅぅ……んんっ 四四八くん、体力が凄いね……私、重くないの?」 「いや、別に。それにこれから気持よくするんだから、お前が気にしてもしょうがないだろう?」 「そ、そう、だけど……んんっ……は、恥ずかしいなぁ……でもさっき気持ちよかったよ 四四八くん、初めてなのに上手だね」 上手いとか下手とか、そういうのはあまり関係ないんじゃないかな。ともかく歩美が気持ちよかった。そして、達したそれだけだと思うのだ。 「ふふふ……四四八くん、これでどうするの? 私のアソコ、ドロドロだからね、挿れるの割りと難しくないよ」 その通りだな。俺はゆっくりと歩美のヴァギナに合わせていく。開ききったヴァギナからどくどくと愛液が溢れる。 さっき絶頂したせいもあって、相当な愛液が溜まっているようだった。それを俺は陰茎に擦り付け、たっぷりと馴染ませていく。 見る間にぬるつく感触が俺のペニスを包み込む。そのまま歩美の割れ目を愛していく。 「はぁ……あああ……素股……かな、これも……んんんっ! 熱いの、こすっていくの気持ちいいね……」 「ふぅ……んんんっ……んんっ、あ……ああ……ま、またぁ、エッチなおつゆ、溢れてきちゃう……んんはぁっ、あああっ、あああああっ……気持ちいいいぃっ」 愛液を漏らすだけで気持ちいいのか。俺は素直に感心する。歩美の身体はセックスの快楽に支配されている。 このまま犯す……そう決めた。 「きゃあああああっ、ああっ! ああああっ! い、痛いぃっ……あああああああああぁっ!」 悲鳴が上がった。このプロセスだけは優しくしてもしょうがないという知識を持っている。 女の子にとって破瓜は辛いことだとは思う。だが、こればかりは避けるのはほぼ不可能。無いわけじゃないが、俺は薬物を使うような愚か者でもないのだ。 「んんんっ……んんぐ、ぐううぅっ! あ……ああ……あああああああ……ひいぃっ!」 みしりと肉のきしむ感触。これできっちりと俺自身が入ったと思う。それを見るためには姿見を使うしか無いが、生憎とここには無い。 それにこういう格好を見られるのは……どうかな。俺だったら嫌だが、歩美はそうでもないのか。 「はぁ……はぁ……んんっ……ああ……よ、四四八くん、これで一つに、なったんだよね……」 俺は頷く。確かに一つだ。歩美は処女を、俺は童貞を。互いの相手に捧げたことになる。清らかな男女が結ばれた、というのはなんだか気持ちいいものだ、と思えた。 「うふふ……あ痛たた……まだ、馴染んでないんだね、私のアソコ。でも、すぐに四四八くんが気持ちいいことになると思うな」 強がりか、とも思ったがさっきまでの歩美の反応だったら、事実だろうな。自信があるんだろう。 もう少し馴染んでから動かそうと思う。 「はぁ……こうやってると、なんだか凄い気持ちいいよ……痛いんだけど」 「四四八くんのコレがね、私の中にあるんだな、ってはっきり感じるんだよね。体重もかかってるからね……だからぐっと中を押されてる感じなんだ」 「だから……このままズボズボされたら、凄い気持ちいいだろうなって思うよ。まだ、痛いけど……すぐに欲しくなっちゃう」 歩美の熱を帯びた可愛い声に、俺も相当なレベルで興奮し始めていた。抽挿しようか、と身体を動かすと歩美のくぐもった声が漏れる。 まだ早いのだろうか。だが、さっきの破瓜と同様で、快感に変換して痛みを消すしか無いだろう。 何故ならくすぐったさは、痛覚に属していて痛みの手前の感覚に過ぎないから。快感も同じなのだ。 「あ……ああ……い、いいよ、動いて平気だよ、四四八くん。私、我慢できるから……んんっ……ふあぁっ……んんっ、はああああぁっ!」 俺はゆっくりと、だがしっかりと歩美の中を犯していく。その感触は自慰では絶対に味わえない格別なものだった。 その感触に俺は興奮し、そのゆっくりとした抽挿をもっともっと早いものにできないか、と思案する。 しかし、歩美のことを考えれば早いな、と思うのだ。そういうもどかしい動きに歩美は反応した。 「四四八くん、いいよ。好きに犯していいよ。今の四四八くんに遠慮されるのは好きじゃないな……」 「別に遠慮はしてないぞ」 「ううん。それぐらいは分かるよ、処女でもね。でも、四四八くん、好きにさせたら怖いかもね……えへへ」 好きにした覚えはないけれど、歩美を気持ちよくしようとしていたのは確かなんだが…… ちょっと激しくやってしまったというのはあるかもしれない。なので、ここはゆっくりと優しく気持よく導ければいいんだが。 「好きにはしないが、セックスは続けるぞ」 「うん 四四八くんに任せるよ」 任されたわけだが、さてどう動かすか。実はこの格好だと動かし方は歩美を動かすぐらいしか無い。しかも、揺すりながら腰を使うのは結構大変だ。 男の甲斐性を期待しているところ申し訳ないが、選択肢は多くない。ということで一番安易な動かし方をする。 「ひゃああああ……ああああっ! ああああっ! ちょ、ちょっとぉっ、よ、四四八くん……キツイ、わ、私の身体を動かすのは、ちょ、ちょっと早いよぉっ……」 「わ、分かるけど……も、もうちょっと優しくぅっ……んひぃっ! お、奥ぅっ……熱い……い、痛くない……んんっ、な、なんでかな? さっきまで痛かったのに……」 「挿れたままが長かったから、馴染んじゃったのかかな……あっ ああっ き、気持ちいいぃっ……熱いのぉ、いっぱい出てきたよぉ……」 実際どろりとした感触、ビクつく膣内が俺に歩美が感じているのを伝えてくる。 だったらもう動いていいな、と思うのだ。ゆっくりと、だが確実に歩美も俺も感じるように腰を動かす。空気が入り、ぐちゅりと粘着音が響いた。 「ふあぁぁ……ああぁぁっ、んんんっ、い、いいよぉ……動いて、いいよぉ……あっ、ああ、くぅっ……気持ちいいっ」 「はあ……ああっ……うあぁっ……い、いい。そ、そこおぉっ……あっ! ああっ! あ、熱いぃっ……ふぁぁっ! ああああっ!」 歩美の声にどんどん歓喜の色が乗ってくる。いいセックスができていると思っていいのだろうか。 「ど、どう……四四八くんは? 気持ちいい? 私の中、気持ちいい? それならいいんだけど……私も四四八くんも初めてからだからね……その、ダメだったらダメでしょうがないかな、と思うんだ」 「でも、四四八くん、気持ちいいみたい……私の中で、四四八くんの、凄い大きくなって暴れてるから……いいんだよねっ」 その通りだ。でも、口に出す必要はないだろうと思う。態度で示せばいい、と。 俺は歩美の身体をぐっと持ち上げるようにして、ストロークを長くする。こうすれば、ペニスで歩美の膣内を全部擦過することができるから。 「きゃあああっ……ああああっ! あああああっ! 凄いっ! 凄いけどぉっ、キツイぃっ……んんんっ!」 「四四八くんのぉっ、私のアソコ、全部擦って、奥まで、ゴリゴリしてるぅっ こ、こんなこと、しちゃう、なんてぇっ……ああっ! 酷いぃっ、初めてなのにぃっ、酷いぃっ」 「でもぉっ、気持ちいいぃっ 四四八くんのぉっ、凄いぃっ、気持ちいいぃっ」 そこまで酷いことをしているつもりはないんだが、酷いと受け取られるか。だが、快楽も主張している。悪いが、都合のいい方だけ採用させてもらおう。 「ああぁっ……ぬ、抜けちゃう、抜いちゃ、やだぁっ んんっ……あああああぁっ! お、奥までぇっ……」 「だ、だめぇっ! だめぇっ! おかしくなるぅっ、そんな長いジュポジュポしちゃぁっ、んんんっ……き、気持ちいいぃっ、初めてなのにぃっ、こんなに気持ちいいぃっ」 「あ……ああ……そ、そこぉっ、好きぃっ 今、ゴリッてしちゃったとこぉっ……そこぉっ、ぼ、膀胱の裏側ぁっ」 ふむ……ここがいいのか。だったら、こうしよう。 俺は、亀頭のくびれの辺りをそこに合わせて、揺するようにセックスする。こうなると、俺の方も刺激が強く、しかも相当に良く、すぐにイケてしまいそうなのだが…… 「きゃあああああぁぁあっ! だ、だめぇぇっ! そ、そこ、そこばっかりぃっ、お、おか、しくっ、なるぅっ! んはぁっ! はあっ! ああああっ!」 「と、溶けちゃうぅっ、アソコがぁっ、ドロドロってぇっ、溶けちゃうぅっ で、でもぉっ、気持ちいいぃっ!」 実際、俺の方も相当気持ちいい。歩美の膣内の感触ばかりか、締め付け、痙攣が更なるアクセントとなって俺自身を楽しませているのだ。 あまりにも気持よくて、すぐにでもイキたいんだが……歩美はどうなのかな、と思う。 「い、いいよぉっ! もぉっ、イッてもぉっ、わ、私のアソコぉっ、ジュポジュポされてるとぉっ、刺激が強くてぇっ、い、イケそうに、ないからぁっ」 「す、少し、か、緩急つけてくれると……い、いけ、る……と思う……」 余裕のない上擦った声。どうやら限界を迎えているのは確からしい。 俺はピッチを上げつつも、さっきの場所をずらしながら刺激を続ける。これだったら一応の緩急になるだろう。 「あっ! ああっ! ああああっ! いいぃっ、いいよぉっ それぐらいぃっ……んんっ、それぐらいぃっ……あっ! あああっ! き、きて、きてるぅっ!」 「い、イクっ、イッちゃうっ、イッちゃううううぅっ! イクううううううううううううううううううううううううううううぅぅぅっ!」 ぎゅうぅっ、という責めが俺のペニスにも与えられる。 膣内の収縮は、これまでの快感の中で最高のものだった。 俺もまた絶頂を迎えた。 「きゃあああああああぁっ……あ……ああ……ああああ……い、いっぱいぃっ、流れこんで……んんんっ、くぅっ……ふぅっ……ああああああぁっ」 「き、気持ち……いいぃっ……良すぎて、おかしく、なっちゃいそぉっ……んんっ……震えが……とまんない……」 身体を震わせて、歩美は快感を貪っていた。 俺も射精を迎えたが、快感を得たいという欲望はまだ残っている。 そのままどろどろのぬかるみになった歩美の膣内をぐちゅぐちゅと犯していく。もう一発ぐらい出るんじゃないかな…… 「きゃあああっ……はぁっ、あ、あああ、あああ、だ、だめっ! だめぇっ! 四四八くん、と、止めてぇっ、も、もれ、漏れちゃうぅぅっ」 ……漏れる? ん? 歩美の悲鳴で俺は理解した。慌ててペニスを引き抜く。 だけど―― 「い、いやあああああああぁっ! だ、だめええええええええええええええええええええええええええっ!」 「あ……ああ……いやぁ……は、恥ずかしい……と、止まってぇっ……や、やぁっ……こんなのぉ……だめぇぇっ……」 泣きそうな声になりながら、歩美は必死に自分の失禁を止めようとする。 だが絶頂を迎えたばかりのヴァギナは、だらしなく口を開いたまま、閉じることはできない。 腰回りに力が入っていないのは、俺からでも分かることだ。これではしょうがあるまい。 「うぅ……ひっく……ひっく……四四八くんのぉ、バカぁ……」 ……バカとは。だいたい漏らしたのは歩美だろうに。 確かに最後の引き抜きがとどめを刺したのかもしれないが、あのまま膣内にあり続けても同じ結果だったんじゃないか、と思うのだ。 「……大丈夫だ、歩美。俺は気にしてない」 「うううぅ……四四八くんのおバカ! ううぅ……ひっく、ひっく……恥ずかしいよぉっ……」 と泣く歩美だったが、結果としてお互いに、心地よく疲れたのも事実。 腕の中で歩美を宥めるようにしながら、俺たちは共に夢へ戻ることにした。  仁王門を抜け、闇の中をしばらく進んだ奧──  静謐と荘厳、その二つを併せ持つ空間。  中央に隆々と創建されているのは、見上げるほどに高い大仏像であった。  露坐の大仏として名の通る高徳院の本尊、阿弥陀如来坐像。  建長の頃には既に建立されたと伝えられるその堂々たる威容は、夜の闇をも仏を包む帳へと変容させている。  そこに凶色を加えているのは、三つ並んだ鬼の面とその首領であった。  盲打ちの男に付き従う鬼面は、ただ静かに佇んでいる。  この場において彼らが奉じるのは壇狩摩であり、神祇の首領は余裕の笑みを浮かべ、ただ胡座をかいてた。  彼が座すのは畏れ多くも大仏像の掌上であり、愉悦の笑みを浮かべながら下界を睥睨している。  この男は世に生を受けてよりずっとこうで、それは今後も変わらない。  愉しそうにくつくつと笑みながら、配下の一人に告げる。 「物足りんか? ひひっ、そらそうじゃろうのォ。 そのでかい魔羅ァ膨らましよったけえの、おまえは。見咎められとらんとでも思うとったか?」  指摘する調子は嘲りでなく、ただ面白がっているだけ。  愉悦。磊落。彼は何者も恐れず、ひとえにそれは負けというものを知らぬからに他ならない。  これまでの人生、すべてを勝ち得てきた盤面不敗──ゆえにこその傲岸不遜と言えるだろう。 「はっ、まあ慌てんでもええ。次は許しちゃるけぇ。  お膳立ての必要があるいうのは怪士、おまえも知っとろうがいや」  黙す怪士と同様に、他の二人も言葉を発することはない。それは決して忠誠というものに非ず、そう〈嵌〉《 、》〈め〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》がゆえの沈黙である。  退屈そうにゆるゆると、壇狩摩は言葉を継いだ。 「対局は一人じゃできやせん、手順いうのを踏まえる必要がある。  つまりは、盤の向かいに招かにゃ始まらん──導かれちょるいうのを理解した上で来てもらわんことには、何も意味がありゃァせん」 「どがァにしても、ここだけは抜かすことができん。難儀よのォ。 つまりは辿らせる必要いうんがあって、ここまで誘い込むのもその一手の内よ」  柊四四八から吸血して臨んだ、戦真館での戦いを思い出す。  あのときに得た無比の力こそが特級の例外であり、今の彼にその再現はできない。  だから待つ。食い付きそうな場所にあざとく餌を撒きながら。 「それにしてもあの砂利ども、まんまとここに来るかいのォ。  まあ、気付いたときにはそれで構わんがの。また嵌め直すだけよ」  などと話す口調はどこまでも軽薄であり、命の取り合いに臨む真剣味はついぞ感じられることがない。  浮世の因縁から解脱しているとすら思える享楽主義。徹底的に刹那のみを追い求めるこの男に、果たして人らしき感情が存在しているのだろうか。 「──怪士。おまえは誰とやりたいんな。選ばしちゃる。   て、あいつか。クク、そりゃそうよのォ。童子を捨てるには、あれはちょうどええ相手よ」  自分の獲物は四四八だと、怪士は鬼念で明確に主張した。  先頃、彼にとって念願の殺人を直前で奪われた疼きと火照りは、至高の体験で昇華されねばならないから──  淳士と交えた一戦は不満だけが残るものだった。それは、命を奪う寸前で待ったが掛かったというだけではない。  あの男は、仲間を庇いながらの戦いを強いられていた。本来の能力は相当な域に届くはずの者が、片手落ちの状態であったがため存分に武を揮えていなかったのだ。  ゆえにこそ怪士は四四八を選ぶ。  今度こそ覇気ある益荒男を喰らわねば、己の思いは成就されない。  身体が火照る、ああ殺したい。その相手があの学徒ならば、さぞかし良いものとなるだろう── 「なら、夜叉はあの薙刀かのォ。似ちょるところもあろうし、大した問題はありゃァせんじゃろう。 小煩いあれは泥眼、おまえよ。始末せい」  命を受けた鬼面二人は、やはり無言のまま念のみで頷いた。  我堂鈴子。大杉栄光。いずれも思うところのある相手だが、面の禁縛がそれらの感情を封じているため表に出せない。  そして、狩摩はにやつきながら思い出していた。  因縁というほど大仰なものでもないが、言葉を交わした少女のことを。  龍辺歩美。どこか歪な雰囲気を漂わせるあの小娘が、さてどれだけ剥けたか、化けているのか──  女ならば魔物となれよ。戦真館でもっとも鬼の素質があるのはあれだと見ている。でなくばこのような夢になど付き合ってはいない。 「少しゃァ愉しませてくれぇよ、ほんま」  その言葉こそが壇狩摩のすべてを端的に表している。見せろ。遊ぶぞ。楽しませろ──  誘引される戦真館の特科生。彼らを待ち受けるのは蟻地獄。  盲打ちが張る神祇の方陣、釈迦の掌に他ならない。  己が才気に絶対の確信を持ち、狩摩は不敵に煙を空へ吐くのだった。 身体を重ね合い、互いを愛し。 俺たちは同じ蒲団に入って、これまでの出来事を思い出す。 楽しかったこと、辛かったこと、そして未だ許せていないこと……いろいろあったが、それもすべてが力に変わっていることを実感する。 戦の真をただ信じ、そして── 負けられない戦いに挑む。助けるんだ、危機に瀕している仲間たちを。 「行くぞ」 「うんっ」 二人で共に深い眠りに落ち、そして…… 夢の世界に戻って、俺と歩美は戦真館の学生寮へと帰還する。 部屋に入った俺たちを見るなり、我堂と栄光は血相を変えて駆け寄ってきた。 「柊っ、あんた大丈夫なの?」 「ああ、それよりどうした」 二人の様子はどう見たって普通じゃない。色を失った表情で、我堂は状況を俺たちに説明する。 「見ての通りよ──〈教〉《、》〈官〉《、》〈が〉《、》〈い〉《、》〈な〉《、》〈く〉《、》〈な〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》〈の〉《、》」 「少し目を離した隙に姿が消えてて、それっきり……物音も何もしなかったわ。本当に煙のように忽然と」 指で示されたところを見ると、確かにそこにいたはずの教官の姿がなくなっている。 その胴体には深手を負っていたはずで、我堂の目を誤魔化して逃走するなどということができるとは思えない。そして不思議なことに、なぜか服だけが残されている── 「ほんの一瞬でいなくなってたんだ……すまねえ四四八、抜かっちまった」 「俺も我堂もここにいたんだよ。断じて部屋は空けてねえ。なのにッ」 「くそ、どうなってやがんだよ……」 責任を感じ、口惜しそうに漏らす栄光。俺は立て続けに起こった状況の変化を思い出しながら考える。 明らかに、俺たちの知っていた夢の世界の法則が変わりつつある。大波のうねりにも似たこの流れ──いったい何が起きている? そして、まるで俺たちの帰還を見計らったかのように、この部屋にも異変が表れた。 「なんだ、これ……ッ」 花恵教官のいた椅子の上に、禍々しい赤色の軌跡が浮き上がる。それは例えるならば血文字のようで── その法則性に思い当たり、俺は記憶を手繰り寄せる。何も難しい事はない、これらはすべて〈ご〉《、》〈く〉《、》〈最〉《、》〈近〉《、》〈に〉《、》〈触〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》〈ば〉《、》〈か〉《、》〈り〉《、》〈の〉《、》〈情〉《、》〈報〉《、》〈な〉《、》〈の〉《、》〈だ〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》。 「──鎌倉の地脈の流れだ」 「間違いない。そうだな、我堂」 「ええ。設計図面に記されていたものとまったく同じね」 そう、目の前に突如として表れたのは、まるで先程まで見ていた図面を丸写ししたかのような鎌倉の地形。起伏や水の流れなどがことさら強調されているところを見れば、これが風水由来のものであるのは一目瞭然。 俺たちの把握している情報の程度に合わせたかのようなこのメッセージ、裏にいる存在はもはや一つしか思い浮かばない。 神祇省。目的はなんだ。挑発か、それとも…… 「見て柊、あれ……」 我堂が指した箇所には俺も気付いていた。もはや穴の開くほど読み込んだ戦真館の設計図面に、存在していなかったはずの丸印が目の前にはある。 現在で言うところの逗子と江ノ島、それに大船。以上三つの箇所のちょうど中間辺りにある場所といえば思い当たるものはもはや限られる。 「鎌倉大仏──高徳院か。わざわざご丁寧に誘い込んでくるとはな」 さしたる知識を要するまでもない露骨な誘引には、むしろ簡単にしてやったという向こうのふざけた意図を感じる。 つまるところ遊んでいるのだ。早く来いよ退屈だぞと、片肘ついて俺たちを手招きしている。 「──気に入らねえな」 「なにがって、その余裕ぶった態度がだ。人の仲間やっといて、てめえはゲームかなんかのつもりかよ笑えねえ」 「ああ乗ってやる、行ってやろうぜ四四八。オレらはそりゃ半人前かもしんねえけど、舐めてりゃ痛い目に遭うってことを教えてやるよ」 「そうね。私も今回ばかりは大杉に同意するわ」 「へらへらとしたその態度、落とし前付けてあげようじゃないの」 「うん、りんちゃんの言う通り」 「あいつが考えてるほどわたしたちは簡単じゃないってこと、見せてやらなくちゃ」 「本気で行くぞ、おまえたち」 「こんな連中に深手を負わされた三人のためにも、全力をもって叩き潰す」 ああ、そうだ。見え見えの挑発だからどうした。安易なノリで俺たちに尻尾を見せたこと、後悔させてやらねばならない。 未だ謎の多い状況ではあるが、そんなものは関係ないんだよ。 横になっている晶たちに視線を送る──こいつらを嬲った上で出汁にするとか、腹立つんだよふざけるな。 鼻をへし折る。分からせてやる。ただ翻弄されるだけじゃないってことを。奪われたものがあるのなら、そのすべてをここで取り戻してやる。 「おそらく、ここからは修羅の道になる。裏のかき合い、化かし合いだ」 「きついが行けるか?」 振り返って見た歩美たちは、全員が揃って力強く頷く。是非もなしといった表情だ。 ああ、おまえたちならそう言ってくれるよな。心の底から信じていたぞ。 状況は決して芳しいものじゃない。しかし、不思議と気力が身体に充実しているのを感じる。 俺は、一つ大きく息を吸って── 「行くぞォッ!」 「応ッ!」 そう、声を揃えて号する戦真館特科生。 黎明が近い闇の中、神祇省との全面抗争がここに始まろうとしていた。  大正十二年。九月一日、十一時五十八分三十二秒──  大日本帝国はかつてない大災害に見舞われた。  後に言う、関東大震災である。  神奈川県相模湾北西沖を震源として発生した大地震は、日本史上最大となる被害をその爪跡により歴史へ刻んだ。  その被害者数は総計百九十万。  当時の人口数から見てもまさに天地を揺るがす未曽有の災害であったことは言うまでもなく、実際、そこは地獄が溢れていた。  建造物の倒壊。液状化による地盤沈下。沿岸部には津波が大挙して押し寄せ、混乱と絶望があらゆる二次災害を助長する。  首都圏のインフラは完全に破壊され、文明は見る影もなく打ち砕かれた。  〈大地〉《しぜん》には敵わない。人は地に根を張って生きる〈生物〉《もの》。その認識を強制的に呼び覚まさせるほど、龍脈の怒りは苛烈で容赦がなかった。  そう──龍は怒り、荒ぶっている。正確には〈見〉《 、》〈失〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。  ここが何処だか分からない。  何をしているのか分からない。  自分が護ってきた民も、信仰も、廃れた土着神はもう忘れている。  その畏敬ごと忘れられてしまったから、霊地は淀んで瘴気に満ちた。  見よ、この血走った〈眼〉《まなこ》を……憐れに堕ちた護り神を。  荘厳であった輝く〈黄金〉《こがね》の威容は過去のもの。  龍眼は凶に染まり、鱗は腐り、肉は膿んだ。髭は爛れて折れ曲がり今にも崩れてしまいそう。  知覚器官は軒並み全滅。これでは見えるはずもない。そして穢れを自浄することが龍自身にはできないのだ。歪み溜まった地の陰気、それを調律してきたのは常にその背で住まう民たちだからだ。  妖も鬼も霊も龍も、日本神話において神の怒りとは人の知恵で付き合える類が多い。〈西洋概念〉《きりすと》のように絶対かつ普遍的なものではなく、相互利用と暗黙の了解が繁栄に結びついている。  酒や宴、あるいは供物、人柱……それぞれの神気にあった正しい対処を行う限り、偏在する〈八百万〉《しぜん》は親であり、善神であったのに。  よってこの場合、地脈が病んだのは自然の成り行きだったのだろう。国際化という時代の変遷が生んだ陥穽、大きすぎるツケとなって大正の世に自業自得と押し寄せる。  関東大震災を起こす九頭龍──空亡は滅ぼせない。  顕現した自然災害は、邯鄲の夢であっても勝敗などという次元にない。 「かーごめかーごめ」 「かーごのなーかのとーりーは」 「いーつ」 「いーつ」 「でーあーう」  ゆえに邪龍は狂乱しながら、同時に深く求めている。  かつて自らを敬い、善く付き合ってきた概念。神とは強大な反面、型に嵌まっているものだ。向き合える資格を持っているものだけは、〈廃神〉《タタリ》となっても変わらず同じ。  誠意を見せろ──忠節を示せ。  人が人足らんとする清廉な祈りだけが曇った視界を晴らすから。  甘粕もまた、それを待ち望んでいる。  見事これを乗り越えてみせるがいいと期待するのだ。  来たる大震災へと近づくたび、空亡はよりその力を増していく。  〈第七層〉《ハツォル》の龍は本震の到来を前にした前震、曰く予行演習である。山を砕いて大地を揺るがし、万の命を飲み込むだろう……という〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈の〉《 、》〈力〉《 、》しか持っていない。  所詮はどこまでも予兆にすぎぬと、彼を呼び寄せた男は笑む。だから超えろ、より輝け、決意を見せろと口ずさむが……  しかし、重ねて言おう。空亡は最強である。単純明快な強さという点において、主たる甘粕を遥か凌駕した域にあった。  指向性という利便さを抜いて論議すれば、どちらが優かは一目瞭然。力だけを見れば、人が神を従えているというあべこべの事態。  そして当然というべきか、両者に主従意識は欠片もない。にも関わらず反逆だけはありえないという関係が成立していた。  なぜなら空亡は甘粕の使役する“兵器”だから。  男が望む〈楽園〉《ぱらいぞ》のため、地の底から召喚された狂える龍神。盧生の夢に描かれて顕現し、形を成して、ついに辰宮邸へと辿り着く。 「よーあーけーのばーんに」 「つーるとかーめがすーべった」  何かが在った。これは何だ?  見えぬ、聞こえぬ、分からぬ、知らぬ。  鱗が痒い。髭が痒い。痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い──  なら壊そうぞ。九つに分かれた頭が唸る。 「後ろの正面だーあれ」  万象、ゆらゆらとふるべ。灰燼に帰すべし。  九頭龍の進撃に正門が幻のように消滅する。  粉微塵と化した空隙へ、凶将が我先にと雪崩れ込んだ。  再度の、そしてより直接的な大震が屋敷を襲う。  見慣れた地形が砂の城を崩したように掻き消えて、大気ごと爆砕しながら暴風と化した。衝撃は些かも衰えず、龍頭の一匹が濁った瞳でこちらを見据える。  それを前に全員、この一撃で終わると確信し── 「さもありなんっと!」  天が引き裂けるような音と共に、地を這う縛から陣が生じた。  それを受けて、龍はそれ以上の進撃を止める。まるで視界を封じられたかのように目玉を動かし、四方八方へあらぬ破壊を繰り返す。  大地に打ち立てられた避雷針。特大の厄除けを伝い、衝撃が他の地表へと拡散していた。  成した術者は飄々と犬歯を剥く。 「〈向管成敗〉《こうかんせいばい》、さすがは辰宮。〈吉凶〉《きっきょう》と〈寿夭〉《じゅよう》を弄れば御家の威光に大過なくとな。隙のない造りをしちょるわ」 「お褒めに預かり光栄です」  京の都と同じく、礼式を重んじる古い家柄ほど地の網に沿って屋敷を建てる。ならばその下地に合わせて霊的防御を張ることは、狩摩にとってなんら難しいことではない。  口には出さないが、仕組んだ者としてこの事態などとうに見越している。  地形読破、〈巒頭〉《らんとう》の業。一歩踏み入った瞬間から、これぐらいの備えは当然だろう。  もっとも── 「それでどうにかなるとは思えませんけど」 「そりゃまあの」 「な……くうッ!?」  そしてこれもまた当然。何一つ危機は去ってなどいない。  先ほどとは違う連続した衝撃。今度は小刻みに、かつ怒涛のように足元が揺れ続ける。 「ど、どうしてなんだよ。龍は止まったはずだろ……なのに!」 「ボケが、空亡を舐めすぎじゃ阿呆ども。  逸らして散らして、俺だからこそ巧くやっちょる。それでもありゃあ龍神でな、そもそも人の手に負える代物なんぞじゃありゃせんわい」 「仕掛けたんは大物用の網よ。目が粗くて丈夫な分、小物は難なくすり抜けよるぞ。震災が凶将となって走るんよ」  だから無尽蔵に発生する。だから相互に協力しない。  ただ恐怖に駆られて一直線に逃げ出すだけ。単純で圧倒的な物量となって押し寄せる。 「死に物狂いで逃げよるわけじゃ、〈震〉《しん》の発生源からのう」 「……シン? しん……もしかして、震動ってことなの?」 「なら、あいつの正体って……!」  空亡が何を具象化した〈象徴〉《イコン》であるのか、ここにきて戦真館も理解する。そして同時に全勢力から恐れられていることを納得した。  あくまでこちらは人であり、大地に住まう生命だ。その化身とも言うべきものに勝てるも負けるもあるものだろうか。  極論、拳で大陸は砕けない。  よって空亡には勝てない。彼らは至極当然のことを言っていたと痛感する。  そして今、それを理解したとてもう遅い。あの邪龍を討ちとらなければ死ぬのだと、否応なく理解できた。 「出るぞ。もたついとったら破られる」  状況は果断のみを要求する。  これより僅か一時、一手仕損じれば全滅しよう。  それを肝に銘じながら、窓から外へと躍り出た。  瞬間── 「う、ああああああああァァァッ!?」  待ち受けていた破壊の波濤に本能が絶叫をあげさせた。  中庭を埋め尽くす畸形の魔瘴、醜悪な百鬼夜行。  土砂崩れのように高速で迫り来る壁は、視界を埋めて蠢く大地だ。揺れ動く岩盤から零れ落ちた砂塵の嵐みたいなもの。しかしその一粒一粒が呪に染まっている、暴力を体現している、逃げ場がない。  そして何よりおぞましいのが、凶将の瘴気までが伝播してくるということだ。  阿鼻叫喚を轟かせながら、這いのたうち、聞くに耐えない鳴き声を響かせて猛進する災禍の波……例外なく、アレから逃げさせてくれと訴えている。  言いようのない生理的な嫌悪が走った。それは万の言葉よりも雄弁に、常軌を逸した凄惨さを叩き込む。  恐れ慄き絶望せよ、これが地を震撼させる大災害。龍が揮う神威なり。  震災から生まれた呪詛が、生者を砕きに押し寄せる。 「ッ──淳士、大杉、私と一緒に前へ!  水希は晶のサポート、残りは各自いつも通り……!」 「了解ッ!」  轢殺される寸前、司令塔の喝破する声が命を繋いだ。冗談抜きに一秒でも遅れていたら諸共終わっていただろう。  下がれば飲まれて潰される──ゆえに前へ、無謀でも前へ前へ前へ。  切り拓く以外に命はないから、一丸となり立ち向かう。  夢に入る前、何度も打ち合わせた立ち回りは予想以上の機能を見せた。  それは背水の陣ゆえに至った火事場の馬鹿力というべきか。各員が夢を振り絞り、かつてない獅子奮迅の働きを成す。  淳士が打ち砕く盾となり。  栄光が蹴り払いながら、かき乱した流れを鈴子が断つ。  無論、無傷とはいかないものの傷は即座に晶が癒して。  討ち漏らした百鬼を水希が切り伏せ、射程外を歩美がカバー。後衛には蟲の一匹通さない。  絶体絶命の状況であるからこそ、それに抗おうとする意志が潜在能力を芽吹かせていく。  代理の指揮官が牽引しながら、極上とも言える気力、統率、結びつき。  六人は今や、戦真館という個の生命体へと昇華していた。  そのまま理想的な連携で百鬼夜行と激突する。出し惜しみなどしない、必ず生きる。そのために。  しかし──  だが、しかし──  しかし、しかし、しかしだ。 「ぐ、ぬぅ……ッ!」 「駄目だよ、多すぎるッ」  どうしようもなく手数が足りない。威力が足りない。禍の軍勢が多すぎる。  大挙して押し寄せる災禍はまさしく津波だ。異常発生した害虫のように、視界を邪気一色へと埋め尽くす。  続々と、わらわらと、轟々と爆走する鬼相の波。  大地を鉈で切れぬように、人智を超えた域で今この時も生じていた。  百程度なら言うに及ばず、五百であっても調伏できよう。無事とはいかぬが千までなら瀕死になっても殲滅可能と予測できるが……それがどうした。慰めにもならないことだ。  質を圧殺する億をも超える凶将の波濤。そんなものを前にすれば、抵抗する手段などいったいどれだけあるというのか。  戦の原則、大軍の利。単純に膨大な物量をぶつければ、無事なものなど何一つないということ。  結論を述べるなら戦真館に勝ち目はなかった。  一匹一体はもはや敵ではないというのに、どれほど互いを高めあってもこの壁は絶対過ぎる。  本来の指揮官、四四八がいたとしても趨勢は何一つ変わらぬだろう。  よくて生存時間が幾らか延びる、その程度。一人二人増えた程度で覆せるわけもなく、それが分かっているからこそ成す術もなく飲み込まれるのみ。  だからこれも当然、順当に攻勢へと穴が開いた。  間隙を縫って弾丸となった一匹の餓鬼。決して誰かがミスをしたわけでもなければ、仕損じたわけでもない。  大気の振動を遮断する術がないように……順当な戦力差の結末として、破壊の飛沫が晶や歩美へ殺到した。  その光景に、誰もがこれで終わると確信する。その瞬間── 「龍、穴、向──尋龍点穴。  どけや〈虫螻〉《むしけら》、道を開けいッ」  龍脈より霊気が噴き出す。地の間欠泉は強引に悪鬼を導き、災いが彼らを遠のいた。  凶将は空亡から生まれるものの、あくまで自然発生的な副産物だ。無差別に同心円状へ逃げ惑っているだけに過ぎない。  そして当然、これらも地脈の産物ならば地相風水の理を受ける。ならば創法の界をもってすれば、この程度は赤子をひねるような余技だった。  九頭龍を抑えつつ要所要所で援護に手を貸す手腕は、とても衰えたものと思えない。  神祇省の頭領、壇狩摩はなお健在。  卓越した直感のまま、〈盲目〉《めくら》打ちにて戦況の瓦解を防ぐ。 「ふッ──!」  そして、最後の死線を守り抜くのは不可視の泥眼──伊藤野枝。  極限まで透過した体躯で百鬼の波を潜り抜ける。実体のない幽鬼のような軌道を描き、的確な刃を放った。  本人は今も好ましいと思っていないだろうが、効果は絶大。暗殺の手本というべき手際を前に、討ちもらした敵が訳も分からぬままに消えていく。  そのまま疾走は絶やさずに、改めて戦列へと加わった。 「指示を。巧く使っていただければ幸いです」 「掻き回しつつ後衛のフォロー、大杉と役目が被らないよう注意して!」 「心得ましたッ」 「がってん承知……!」  窮地を脱し、新たな陣列を組んで対峙する。  それを号する時間さえ惜しいのだ。  戦真館と神祇省の総力を結集して、〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈や〉《 、》〈く〉《 、》抵抗という形にまで戦況が移行できた。  全力を尽くす限り戦えて、しかし押し返せているわけでもなく、かと言って勝機が見えているわけでもない……そんな状況。  蟻地獄でもがく昆虫のような瀬戸際まで、これでようやく辿り着けた。  その不条理を前提として更なる命を振り絞らなければならない。  ならばさあ、どうするのか。これから何をどうすれば勝てるという?  邪龍とは震災の化身であり、この凶将陣が何であるかもよく分かった。身に染みて痛感している──〈凶将〉《こいつら》は所詮、前座なのだと。  そんなものを相手に、生き残るだの戦えるだの息巻いては駄目なのだと。  分かっただけに鈴子は焦る。掻き分けて本丸まで辿り着かなければならないのに、その手だてが一向に見えない。  狩摩の陣という塹壕が無くなったとき、容易く全滅するだけだ。それまでに何としても、せめて道筋は掴まなければならないのだが。  果たして、それで何とかなるのだろうか。  この戦況が、何か変わるというのだろうか。  思考の奥で引っかかり始めたものがある、まるで大前提をはき違えているような。  遺憾ながら、空亡は甚だしく“神”である。  その事実を思えば思うほど、力量において決定的な開きが逆に気にならなくなってくる。負けて、劣って、当然だから。  絶対値としてみれば紛れもない最強。他の勢力も例外なくそれを認めていたからこそ、衝突を避けていたし忌避していた。それどころか勝とうとすらしていなかったのは…… 「あんた、さっきから何を黙りこくってんのよ……ッ!」  考えながら戦って、答えが出ない苛立ちを狩摩にぶつける。  自分で導き出すというプライドなど投げ捨てた。直入に問う、生きるために。 「無理でも無茶でも構わないから、方法論を教えなさい!  どうせ知っているんでしょう。こいつを斃す方法を──」  同時に腹部へと衝撃、言葉が物理的に止められる。  内臓を喰い破って向こうに逃げようとした餓鬼を、猛追する魍魎ごと串刺しにしながら鈴子は吼えた。  堪えきれなくなる前に知らなければならない。  このままだともう、希望も決意も欠片と残らず、轢き潰されてしまうから。 「早く、ッ……ぅ!」  櫛が抜けるように余力が圧殺されていく。  自身だけではなく、仲間たちも傷を負う頻度が増えていた。  絶望の泥沼が襲う。 「無茶ぶりしよるのう」  悲痛な叫びを受けながら狩摩は苦笑し、間抜けとごちる。  ようやく〈違〉《 、》〈和〉《 、》〈感〉《 、》〈を〉《 、》〈抱〉《 、》〈き〉《 、》〈始〉《 、》〈め〉《 、》〈た〉《 、》ようだが、まだ確信には至っていないということらしい。  敷いた地の陣あってとはいえ、戦真館はよく堪えていた。  決壊寸前ながらまだ打ちのめされている者は出ていない。百鬼夜行の震撼を真っ向から受け止めて、今も小賢しく生き延びようと足掻いている。  勝つために、そして生きるために。  明日を掴むと互いに誓い、誰一人欠けてなるものかと。  絆を掲げて抗する様は煌めく健気な奮闘だが……狩摩は知っている、まずそこからが間違いなのだ。  空亡と向かい合うとき、そこには単なる勝敗と隔絶した別の要素が絡んでくる。  鈴子が疑問を感じた通り、あれは龍だ。人ではない。  よって当然、戦の真も通じない。我も人、彼も人……などとはいかず、相対する際の心構えも違うものが求められる。  それはたとえば、格式ある神社や仏閣に参拝するのと同じことだ。  清められた神域に足を踏み入れる場合、取るべき行動は二拝二拍手一拝である。テーブルマナーでも、相手の格に合わせた服装でも作法でもない。そういった“人”への応対ではなく、まず“神”への畏敬を示すことが肝要となる。  逆に言うなら、どれだけ偉大な人物に直面しても〈柏手〉《かしわで》を打ちはしないだろう。  彼女が引っかかっていたのは、そこから感じる齟齬なのだ。  龍を相手に勝敗を論じること自体が、既にどうしようもなくズレている。糊の利いたスーツを着こみ、名刺を手にして、神棚にうやうやしく握手を求めている行為に等しい。  戦の真がどうこうと、空亡には何の関係もありなどしない。  その態度は不敬となる。ゆえ、〈邪龍〉《かみ》の正気は戻らぬまま。  というよりも、少し考えれば分かるだろう。怒れる龍が求めるものなど、大昔から大抵一つと決まっている。  定番で、王道の供物。それすなわち── 「さあて、どう祀ろうもんやら」  人柱、祭壇に捧げる人身御供に他ならない。  龍を慰撫するための御魂。穢れなき〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》が病を晴らす。  犠牲は回避できず、さらに淀みない誠心が必須である。  伝承において、土地神は奉納するべき贄にも格を欲するのだ。そんじょそこらの木っ端や罪人を与えたところで、大地の凶が引くもはずもない。やんごとなき血筋の者や純真無垢な乙女など……そういう人物が適切だった。  かつては夜叉を捧げたが、今度は〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》で満足すまい。霊格劣り、万全には程遠かったからこそ通じた策だ。今の空亡に通じさせるには、それ相応のものを見繕う必要がある。  そしてこの場合、〈尊い血筋〉《ブルーブラッド》というだけならばこの上ない逸材が辰宮邸の中にいるわけであり──  目星をつけての誘導だったが、その当ては外れつつあった。  今の〈巫女〉《ゆりか》ではとてもとても、〈龍〉《 、》〈が〉《 、》〈好〉《 、》〈む〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈思〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  当初、狩摩の描いていた順番としてはこうだ。空亡の襲来を糧に百合香を追い詰め、精神への軋轢を発破とし、まずは〈盧生〉《よしや》を目覚めさせる。  そして心清らかな乙女へ仕立てあげてから、喰わせて貢げば万事解決。  おお黄龍よ、荒ぶるその身を鎮めたまえ……といきたかったところだが。 「律儀に幽雫がおるしのう」  狙っていた相手の傍には、今も護衛がぴったりと張り付いている。  神威をいなしながらあの〈家令〉《バカ》を相手取るなど、こちらもまたかなりの難題。自殺志願もいいところだろう。  これが己の領域である六層ならば話も違うが、今は翼をもがれた身なのでこれも却下。  だがしかし、人柱は必ず要る。  鎮魂に相応しい者だけは、絶対に必要不可欠だったのだ。 「おまえはどうよ。尻軽ちゃうなら、捧げてみるか?」  霧と化して駆ける颶風……この部下ならばどうだろうか。  清純な夢に拘るあたり資質はある。さらに器量よしの〈未通女〉《おぼこ》なら、やってみるのも一興だが。  怪異を討ちながらも当人は、首を横へと振っていた。無論、命を惜しんでの否定ではない。 「命じられれば逝きますが……徒労に終わると思いますよ? 親にも捨てられたような身ですので。  まだ血の青さに賭けた方が、公算は大きいかと存じます。  何より、私たちは──」 「身ぃ入っちょらんと。なるほど、確かに」  芯の芯の芯からは、どうしても全霊を懸けられていない。  これほど濃密な死相を前にしていながら、どこか傍観者めいている。  全力は出しているし、命も賭しているが、〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈く〉《 、》〈り〉《 、》に対する知識がどうしてもある種の達観を生んでいた。  巌と構えられているとはつまり、裏を返せな死に物狂いに成り難いということである。戦真館のように清廉な覇気を出し辛く、訪れる絶望さえ斜に構えてしまうのは致し方ない。  存在としての格と、精神の高潔さ。そこが自分たちはちぐはぐだ。  やんごとなき血筋とやらはあの有様で、いっそ戦真館の方にこそ、まだ見込みがあるとさえ言えるだろう。 「ちゅうかもう、それしかないんじゃないかのう」 「……そうですね」  じゃあその中で誰がなるのかという呟きに対し、野枝は静かに自問していた。  そう、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈困〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈流〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》。  自覚して驚き、惑い、そして自分が分からなくなる。  どうして今、〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈青〉《 、》〈年〉《 、》を思い浮かべてしまったのか……その真実が見えてこずに胸中で首をひねった。  思わず手を確かめるように開閉する。そこに残っている温もりと、あの眼差しを想起して躊躇してしまう。まさかと思うが、彼こそがと。  だから、だからこそまるで分からない。どうして自分はこんなにも彼を心配しているのだろう……  いいではないか、捧げたら。  この危機を回避できるなら安いもの。  龍に届く誠意を抱ける逸材ならば、諸手を挙げて喜ぶべきで。  間違ってはいけない、邯鄲の突破こそが我々の第一目標。それこそが神祇省と辰宮、ひいては戦真館の悲願であると戒めて。  そんなことを考えている時点で、迷っているのが明白だから思い悩む。自分はいったいどうしてしまった?  ただ、ほんの少しだけ気分が悪い。鬱陶しいと思ったのだ。 「行きます」  言葉短く再び戦列へと加わる。凶将の波は衰えていないが、それでもその熾烈さが野枝には都合よかった。  時折死が首元に触れるものの、役割に没頭することができる。  大手を振り、並び立てることを噛み締めながら……目を背けたのだ。  狩摩も続き、希望なき戦況は継続する。  先の見えない抗戦に削れていく余力。掠り傷から裂傷へ、裂傷から損壊へ、傷つく頻度と度合いが増す。緩慢に終焉へと近づいていた。  逆転の機は訪れない……潰えるまで、あと僅か。 「案外、保つものですね」  その奮闘を見下ろしながら、令嬢は小さく独りごちる。  破壊神の進撃と、徹底して立ち向かう面々を見てこぼした感想はそのようなもの。徒労をよく重ねるものだと、憐れみさえ感じながら眺めていた。  己が夢を信じられるということも、案外碌なものではないかもしれない。  戦力差を思い知らされてなお切り抜けられる、戦える、そのような世迷い事を堂々と口にできるなら……そんなものは狂信だ。夢幻にまどろんでいるようなもの、往生際が悪すぎる。  少なくとも、彼女にとってはそうとしか思えない光景だった。邪龍の真実を知った上で対峙できるということが、そもそも信じ難い選択である。  辰宮邸は既に崩壊寸前。中庭は億万の百鬼夜行に地均しを受け、屋敷は討ちもらした突撃で穴だらけになっている。  優雅に構えているこの床さえ、数秒後に存在する確証は欠片もないのだ。  早急に何とかしなければならないのに、それでも一番の実力者はああして遊んでいる始末。まったく理解できそうにない。 「狩摩殿も戯れが過ぎます。〈未来〉《さき》への投資、仕上がりを見る試金石、にしては随分苛烈なご様子で。まあその本懐も察しましょうが」  空亡は斃せない──なのにそれが分かっていながら、盲打ちは馬鹿正直に真っ向勝負を挑んでいる。  戦真館への義理立てにしては挺身が過ぎるし、本当にやる気があるというなら早く方法論を告げればいい。なんという諧謔だろう。遊戯に付き合わされる側はたまったものではないというのに。 「本震は訪れる。〈播磨外道〉《はるまげどん》は成る。天は奈落を謳いあげて、その時に最たる使徒となるのは邪龍……何一つまともなものは残らない。  そうなれば、灰燼と化す前に急ぎわたくしを担ぐでしょうね。実際それしか手は在りません。  この夢を用いることで、龍神を籠絡せよと」  乙女の柔肌を引き裂けば少しは溜飲も下がるはず。  今はある程度絞っているが己の邯鄲は健在だ。その気になればここから一歩も動くことなく、香気を充満させられる。  足を踏み入れた者は正気を失い、ことごとく自身に魅了された信徒と化すのは言うまでもなく……そしてこの場合、対象は人類ですらない。 「少なくとも興は引けましょう、ならば後は古くからの伝承通り」  良家の血肉を弄び、臓腑を貪って土着の神は怒りを鎮める。  ありふれた、つまらない悲劇だ。  当事者としてではなく、客観的に論じるならそれしかないとすぐに分かる。狩摩も早くやればいいというのに、まさか抵抗を覚えているのか。それこそああ、まさかというもの。  香にやられているから自分を死なせないと猛っているなら、輪をかけて最悪だった。あのような男まで〈恋慕〉《みせかけ》に踊らされては、待ち望むも何もあったものではないのだから。  もうたくさんだ。いっそ喰らうといい、こんな夢。 「大義の柱が立ちますね」 「させません。御身は私が、何に替えてもお守りします」 「そうですか」  そしてやはり、控える男もつまらない。聞き飽きた対応に辟易する。小娘の思惑さえ逸することが出来ないなんて。  鉄面皮を湛える家令は真理を語っているつもりなのだろう。  なんていう自己満足、なんて愚鈍さだと心中で冷笑する。  けれど── 「それに──」  初めて彼は、一瞬だけ躊躇いを見せ。 「お嬢様が、相応しいとは思えません」  蚊が鳴くほどの小さな声で、視線を逸らしながらそう呟いた。 「…………、 それは」  何なのだろう? 分からない。どういうつもりの発言なのか。  そんな言葉は、いいや言動自体が初めてだった。  決して目を合わせようとしないことにも、歯に物が詰まったような物言いも、どちらもこれまでの記憶にない。この局面で冗談を覚えたにしては、意図が見えないことだった。  連鎖的に思い返せば、兆候はあったのだろう。空亡が襲来する寸前、彼は珍しく何やら語気を荒げていて……  切なるものを吐き出すような、似合わぬ〈フ〉《 、》〈リ〉《 、》までして見せて……  そして今は、自分が贄に相応しくないと言っていた。公平な目で見てもそれしか解決策はないというのに、妥当ではないと確信している。  何かが変わりつつあった。それがどうして、わたくしは癪に障るの?  このとき自分は、まるで手ひどく裏切られたような気がしたのだ。 「答えなさい、宗冬。おまえは何を言っているのです?」  返答は沈黙、引き締められた口元は貝のように閉じていた。  苦悶を滲ませるように眉根を寄せている。秀麗な表情は小さく歪んでいた、紛れもない異常事態──許せない。 「答えなさい」  何を今さら苦しんでいる。  おまえのようなものが、ここに至って。  失望させ続けてきた、つまらないだけだったはずの男が。  この期に及んで、何故どうして、知らない面を見せようとする。そんな夢があったというなら──!  ああ、ああ、分からない。 「宗冬!」  理解不能の衝動を叩きつけて、反響する声が部屋に小さく木霊した。  同時、代弁するかのように屋敷がひときわ大きく揺れる。先ほどよりも近くの区画が崩れたらしい、それを受けて顔を上げた。 「……じきにここへも雪崩れ込んで来るでしょう」  腰に下げた鋭剣が凛と唾鳴る。  出陣に赴くのだろう、その前に。 「先ほどの問いですが、難しいことは何も。  私はただ、守りたいだけなのです」  抑揚のない声を残して、男は加勢に跳び立った。  まるで高所から身を投げるように、隠せない寂寥感を口にしたその意図が分からない。  明かして欲しかった理由は、結局またも不明のままだ。  またしても辰宮百合香は放置された。守る守ると、自己満足を押し付けられて、籠の鳥。 「何なのですか……」  本当に、どういうことなのだろう。それを分かれと? 分かっているとも、充分に。そのような扱いばかりなのだから。  誰も彼も駄目だ無知だと突き放して、教えてくれてもいいはずなのに導こうともしてくれない。  自分で気づけと言うのなら、それはあまりに残酷だ。  そういうことなら、こっちも好きにやらせてもらおう。彼ら各々、自らの道理を掲げ自由気ままに動いている。  ならば自分も痴愚の宴に混じればいい。 「そうですね、試してみましょう」  あなた方もしている以上、誰に止める権利があるものか。  今までの〈百合香〉《わたくし》にはやれないことをすればいい。それはとてもとても、素晴らしい提案に思えたのだった。  空を鷲のように滑空しながら剣を携え、抜き放つ。  眼下には埋め尽くす災禍が激走しているものの、飛び込むことに恐れはない。むしろこれぐらいで丁度いいのだと自嘲する。  死の渦中に近づきながら、心はあまりに虚ろだった。  色なく、味気なく、大層なものとは思えない。これから自分の陥る佳境すら……そこで落とすはずの命すら。  きっと、あの方は困惑しているだろう。  あのご様子だ。未知に戸惑う童女のように、おそらく何も汲み取ってはくれていまい。  しかし、とうに納得していたことでもある。この程度で斟酌してただけるなら、俺はこれほど惨めに生きていないと自覚している。つまらない男だという罵倒を甘んじて受け入れよう。  その通りだ、彼女は正しい。幽雫宗冬はつまらない男だ。  〈夢〉《 、》〈が〉《 、》〈偏〉《 、》〈り〉《 、》〈過〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》、一つしか拝顔できない粗忽者。だから一皮剥けばこの程度で地金を晒す。  誰でもよかったし、どうでもいいし、八つ当たりに嬉々と逃げているばかり……まったく自嘲するほど底が浅い。  寄る辺なき想いが軋轢で心朽ち果ててしまう前に。 「鬱憤を晴らさせてもらう」  到着すれば、眼前には駆逐すべき害虫がいた。  主の威光を穢す魍魎ども、大義名分の下に誅殺できる。  戦真館の最前列に陣取り、切っ先を向けた。迫り来る脅威を一手に引き受ける位置で静かに破壊を待ち受ける。 「な、幽雫さんッ!?」 「危ない、下がって……!」  背後からの声に、そういえば義理立てもあったなと一人ごちた。  幽雫宗冬個人が彼らへ抱く感情は複雑だが、否定するだけでない。  詫びの意味も込め、ただ朗々と。 「皆さん、これが私からの、最後の指導です。  〈邯鄲〉《ユメ》とは如何なるものであるか、目に焼き付けて体得しなさい」  この身は龍に鏖殺されて終わるだろう。ならば不出来な先輩として、後輩へ指南を施す泡沫も悪くあるまい。そう思ったから。  それではいざ、僭越ながら。 「〈破段〉《はだん》、〈顕象〉《けんしょう》――」  ここに、俺の夢を晒すとしよう。  変容は一息で紡ぎだされ……  隙間なく押し寄せる凶将に、不動のまま飲み込まれた。  しかし── 「退け」  躾けるように腕を振るった瞬間、効果は如実に現れる。  轢殺は成らず、それどころか〈指導者〉《もーせ》のように百鬼夜行の軍が割れた。  その間隙へと跳躍すれば、より現象は顕著になっていく。  当たらない。逸れていく。暴走する牛馬よりも凶悪な突進が、この身を避けていくように不可思議な曲線を描き始めた。  そして、変化はそれに留まらない。  こちらへ直進する一回り大きな邪鬼へ、ゆっくりと五指を広げれば。 「は?」  軟球を止めるように掌へ軽く押し留めた。  まあ、驚愕もするだろう。鉄板を轢き潰すに足る衝撃を優しく、優しく、稚気のもとに停止させる。大した労力は用いていない。 「軽いぞ、やはりそんなものか」  自らの欠落には通じない……そこに微かな寂寥と落胆を滲ませながら、一足で切り刻む。前菜を消し去るために、そのまま攻勢に打って出た。  そこから先は獅子奮迅だ、俺は恐るべき狩猟者と化す。  戦場を駆け抜けるたびに身体が風圧を伴い、その僅かな風を受けて凶将どもは憐れなほど翻弄された。  直進することが出来なくなり、攻撃の威力が著しい減退を見せる。  いや、〈地〉《 、》〈を〉《 、》〈蹴〉《 、》〈る〉《 、》〈反〉《 、》〈作〉《 、》〈用〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。  そしてその変化に、凶将自身は気づいていない。  特攻を繰り返す半狂乱の魑魅魍魎に知性があるか定かでないが、彼らは己の身に生じた異変を完璧に見落としていた。もっとも、思考したとしても結果は同じだ。何も変わりはしない。  基本に徹した動きで突く、凪ぐ、断つ。それだけで面白いほど脅威は討滅されていく。  他者の視点から見た場合、木の葉へ向けてタクトを振る指揮者でも連想するのだろう。右へ、左へ、風に揺られてひらひらと。  まとわりつく風船の軌道。消されていく禍の波に戦真館も合点がいったか、力の理屈を理解した。  腕の一振りで吹き飛び、軽く直進するだけで風圧に影響を受け、巨体の衝撃を指先で受け止めるそれは…… 「重力の軽減……」 「ええ、その通り。より直接的ではありますが」  接近するものを問答無用で軽くする。それが幽雫宗冬の〈破段〉《ユメ》である。  嵌まる条件は相対距離が短くなるだけという利便性。  己の力ながら、凶悪無比という他ない。自嘲しつつさらに八体、片手間のように斬滅した。  物理学の基本であるが、破壊力を決める要因は基本的に大元二つ。  すなわち重力、そして速力。空気抵抗や摩擦といった細かな要素を抜きにすれば、この二項目ですべてが決まる。  とてつもない暴論になるが、質量を高めてから神速で叩き付ければ小難しい理屈は必要ないのだ。それこそ衝撃力の基本であり、いわば奥義であるのだから。  解法や創法といった絡め手反則を抜きにすれば、それら両方を持つものは優秀な攻撃手段を持つということ。現実のみならず夢界の中でも重要な〈前衛要因〉《アタッカー》に成りうるわけだが。  この宗冬には通じない。その方程式を根っこから台無しにする夢を持つ。  軽くする、と言えば捻りのない力に聞こえるが……その実態は甘くない。なぜならこれは、〈破〉《 、》〈壊〉《 、》〈力〉《 、》〈の〉《 、》〈消〉《 、》〈去〉《 、》を意味する。  特に今相対している原始的な突撃を繰り返すだけの存在など、葱をしょった鴨だろう。  百鬼夜行は前方へ落下している自分に気づいていない。羽毛となった身体で地を踏みしめても、反作用は微々たるものだ。速度が見る影もなく降下して、さらに一挙一動の影響まで強く受ける。  風圧で軽く飛ばされて直撃出来ない。仮に当たったとしても、蝶々の羽で軽く頬を打たれた程度。下手をすれば息を吹かれただけで、明後日の方角へと逸れていく。  だからまったく容易い、迫り来る紙飛行機の群れを処理しているようなものだ。なんら警戒することなく、単調な作業のもとに消していく。  まさに天敵。体力が無限であるなら、おそらくこのまま自分のみで百鬼夜行は全滅しよう。  とはいっても、一人の力では限界があるのも事実。 「続いて下さい。そして、あまり近づかないように」  この力に区分はなく、ゆえあなた達まで軽くなる──そう言外に忠告してから最前線で剣を振った。  奮起する戦真館の楯となる。戦況が好転する中で……しかし。  心は真実、冷めていた。自分自身に向けて乾いた自嘲を抱いている。  そうだ、己の夢もまた淀んだ心に潜む〈疵〉《きず》。主の魅了と同じように無意識の軋轢から生じている。  なぜなら── 「この世は総じて紙風船だ」  彼女に想いが届かない……自分の愛は伝わらない。  その狂おしい嘆きと悲しみに比べれば、森羅万象ことごとくは気球と同じ。大した重みを持っていないし、価値があるとも思えない。  軽過ぎるのだ、空虚だぞ。ああまったくどうしようもない、つまらぬ男、戦の真はどこへ行った……?  けれどそれが紛うことなき真実なのだ。辰宮の本懐や甘粕の遠謀さえ、幽雫宗冬はどうでもいいと感じている。  先輩らしい振る舞いも気まぐれと言えばそうであり、彼らを見捨てる必要性が出たのなら、寂しげにそっと踵を返すだろう。渾身で何かを伝えようとした覚えはなく、そしてこれからもきっとそうだ。  俺は偏っている。唯一無二が重すぎる。それは自分自身さえもそうで。  つまらないと誹られても、事実その通りなのだから憤慨する気も湧いてこない。こんな自分のいったいどこに大した価値があるという。  意中の女性一人へ、想いを伝えることもできない男に、何が。  そして身勝手ながら、それを自覚するたびに世界はより色褪せた。  愚かなのは自分なのだ。男児たる軒昂が足らぬゆえだと分かっている、分かっているつもりだが……それでも、他者の中に大した夢を描けない。  戦真館にも、神祇省にも。  邪龍にも無貌にも逆十字にも鋼牙にも。  等しく何も感じなかった。幽雫宗冬という男のすべては、永劫実らない恋慕を至上としている。  だからただ一人、貴女だけのために、などという浪漫溢れる詩を俺は嗤う。つまるところ、そんなものは気狂いだろうが。  喜怒哀楽、仁義八行、如是畜生発菩提心に至るまで。自己と他人の関係性から世界は広がり現実となる。最上を定めるのはいいとして、ならば他を蔑ろにしていいかというのは別のものだ。  それを然りと習っていながら、俺と彼女は共にそれが欠落している。  いや、きっと罪深いのは自分の方だろう。これほど自覚していながら、自浄の兆しも一向に見られぬのだから。  恥だけが募り、強さだけが研ぎ澄まされる。  そんな業を持っているから、俺は。 俺は── 「っざけんな……!」  そして、だからこそ腹立たしいのだ。呪いのような運命を思う。 「恥ずかしくねえのか、あんたはッ」  心を覗く邪仙のように、この男だけはいつもいつも、的確にそれを見抜いてくるのだ。 「何も」  苦虫を噛み潰したように一瞥すれば、睨みつける眼光と視線が重なる。今まで仲間のために肉の壁を演じていたくせに、疲労など忘れたかのように気炎を迸らせているではないか。  癪に障るのはお互い様だろう。だから黙れ、口を開くな。 「この通り、火の粉を払うには都合がいい。お嬢様のお役に立てる」  それが誇りであるのだから、それでいい。それでいい。それでいい。心の底から感じている。  話は終わりと突き放したはずなのに、奴は傷つきながら前へと出た。  魍魎に肉を削ぎ落とされながらまったく怯まず、猪のような愚直さで俺の傍までやってくる。  軽くなる位置に踏み込まぬよう意識しながら最前線で拳を振るう、訳のわからない酔狂さだ。 「そうやって見切り付けたあげくがあれか……喜べよ、あの箱入りとお似合いだぜ。どっちもどっちだ、甘えんな。  どうして、馬鹿を叩き直してやらなかったんだ」 「抜かすな、世迷い言を」  鼻で笑い、苛立ちを刺突に籠めて屠る速度を上げていく。ついて来れるかという挑発は、当然ながらこちらに軍配が上がっていた。  俺だけは彼女の味方だ。在りのままを肯定したい。 「囀るなよ、時間の無駄だ。あらゆる面で私とおまえは正反対なのだから。  議論に勤しむつもりはない。平行線ならば、せめて貢献しろ」  ここは戦場。弱者に物を語る資格なし。  おまえの言葉など所詮は酔漢の釈であり、張子の虎と同じことだ。  現に働きが劣っている。こうしている間にも既に三十、四十と、まばたきの間に増えていく討伐数と比べれば、こいつの戦果は無きに等しい。  今のままどれだけ吼えようが弱者の遠吠えに過ぎないことだ。この手の人種はそれをよく思い知っているから、力の差で黙らせる。  この距離に、おまえの居場所はないのだと。  足手まといだ。邪魔。役立たずめと……一撃ごとに暗い愉悦を見せつけていたからか。 「ああ、そうかい」  ゆえに──無謀にも奴は俺の〈破段〉《ユメ》へと踏み込んだ。  のみならず、なおも前進を続けてくる。軽くなるのを一顧だにしていない。正気の選択ではなかった。  自覚はないだろうが、身体は既に綿毛の重さに変わっている。自慢の拳は張りぼてへと堕し、防御は紙の守りとなった。  今の状態で突進など受けようものなら、毬のように突き飛ばされて轢き殺されるのは目に見えている。  だが、それなら何故、何故だ。 「軽く見てんじゃねえぞ……」  こいつは今も、平然と〈歩〉《 、》〈を〉《 、》〈進〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?  地を踏みしめて一歩、一歩、大地に罅さえ刻みながら悠然と相対することが出来ているのだ。  押し寄せる百鬼を前に、骨が砕けるほど強く拳を握りしめていく。  認めたくはないが、それは自分と似た仕草だった。煮えたぎる数多の想いをその身体に籠め、そして。 「俺は、俺にとって、この世の何より重いんだよォォッ!」  解き放った一撃は大地を砕き、迫る荒波を爆発するように押し潰した。  俺とは正反対に、逸らすことなく真っ向から。  絶大なる力と重量で敵を粉砕し、構えた。 「──だから、真っ向から向き合えるんじゃねえか」  ああ、本当に妬ましい。  こいつは自分の〈重〉《 、》〈さ〉《 、》を、常に感じて生きているのだ。 「あんた、まさか……」 「おそらく。いえ、間違いないでしょう」  剛腕一閃……繰り出された拳撃を前に、来襲していた魔障の群れは木端微塵に砕け散った。  まるで特大の爆撃が敢行されたような破壊力は、無論まぐれでも、それ一撃でも終わらない。腕は一本きりではないのだ。 「オオオ、らァァッ!」  続いて解き放たれた連撃は、もはや大砲の雨より凄まじかった。  右、左、左、右、蹴撃。繰り出される一撃ごとに大地が弾け、岩盤が抉れ飛ぶ。掠っただけで凶将は原形を保てず千切れ飛んだ。荒波を掻き分ける重戦車のように、その末端に接触しただけで破壊される。  量を覆す質を前にして、疾走する邪鬼が選んだのは更なる量での圧殺だ。  百ではもはや、この障害を越えられない。なんとしても逃げたいために、千の雁首揃えて挑むが。 「効かねえんだよォッ」  その肉体に触れた途端、水飛沫のように宙へと弾き飛ばされた。  あるいは地面へめり込んで押し花の如く陥没する。  それは、大木に鼠の群れが突進した光景に近い。大質量のものに対し、あまりに軽いものがぶつかった場合、こうなるだろうという景色だった。  〈強〉《おも》く、〈重〉《つよ》く、決して譲ってなるものかという男の〈矜持〉《ユメ》。  鳴滝淳士という無頼漢が覚醒したのは、そういうどこまでも一本気な力であった。 「自分がどこまでも重くなる……幽雫さんの逆なんだ」  他者の質量を軽減するのに対し、自らの重量を増加させる。そう、彼は常に自らの重みというものを背負っていた。  自分より大切な誰か、なんて言葉を信じていないし嫌っている。  なぜなら自分自身とは、この世でもっとも身近な唯一だからだ。いわば万物の基準点たる物差しであり、粗雑に扱ってはならないと本能的に知っている。  そうだとも、〈つ〉《 、》〈ま〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈男〉《 、》〈に〉《 、》〈何〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  自分を信じられないものに何か事が成せるほど、この世の中は甘くない。  まずは〈立脚点〉《おのれ》を深く受け止めて、自己を愛し誇りを持つ。だから他者と真摯に向き合えるのだと信じているし、それは決して独りよがりの独尊ではない。  むしろその逆、仲間や絆のためにこそ自分に自信を持つということ。  仲間からの信頼は本物であり、それに見合う男足らんと努力するから雄々しくあれる。強く成れる。成長できるし並び立てる。  浅い男を信じた馬鹿にしてなるものか、あいつらは見る目があったと証明してやる、そのためにも。  俺は負けない。俺は重い。地球よりも、ずっともっと──誰よりも。  万象に本気で向き合いたいからこそ、己の道に夢を描く。 「てめえらより、俺は重い」  龍から逃げ出す根性無しを正面から打ち砕く。この剛腕にもはや叶うものはいない、それも仕方のないことだった。  これらは存在そのものが震災の悲嘆、その象徴である。いわば生じた瞬間から敗亡の型に嵌まっているわけであり、突撃は逃走の意図せぬ副次効果なのだ。そこには何の敵意もない。  相手を害そうという意志すらなく、たまたま轢殺の形になる凶将の波。精神的な覚悟の面で、鳴滝淳士の漢に勝るわけもなかった。  期待の重さを受け止めつつ、それを拳の力へ変えて仲間のために道を拓く。  横殴りに雪崩れ込んできた突進を蹴り砕き、さらに前へと踏み込む。  突破口を開かんとしたところで、横一文字の剣閃が百鬼を巻き込み、煌めいた。 「脇が甘い。前に出過ぎだ、〈至〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈て〉《 、》が」 「あぁ? でかい顔してんじゃねえ、ベテラン崩れ」  隣に並んだ相手へ二人は顔を向けすらしない。  馴れ合わず、一言交わし、そして吐き捨ててから同時に突貫。  震災の波濤が撃砕され、切り裂かれていく。  正反対の男たちはその精神面とこれまた逆に、最高の相性を見せて反撃を遂行していた。 「すげえッ……!」  重墜と軽昇、皮肉にも相性は完璧である。この中で淳士だけが宗冬の射程距離で自在に動け、連携を可能としていた。  損傷する頻度が減り、奔る凶軍が殲滅される姿に誰もが大きく奮い立つ。 「いけるッ」  形勢は逆転されつつあった。希望の光が見え始める。 「これなら……!」  そして、意気昂揚が仲間を包んだ。彼らを支えて援護する。  残りがようやく万を切り、向こうの景色が見え始めた。 「やっちゃえ──ッ」  ならばあと少し、もう少し。  距離が縮まる、ここを抜ければ辿り着けると── 「あかん、こりゃ終わったわ」  信じた意気を唐突な呟きが打ち破った。  刹那、空間に刻まれる亀裂。  比喩ではなく、世界が軋み、〈悲鳴〉《なみだ》を零した。 「────、ぁ」  ぴしり、ぴしり、と乾いた音。  硝子をゆっくり割るように……御霊を圧する呪怨の音色に、戦場のすべてが凍てついた。  それは絶望したからであり、逃れられないと知ったからであり、本能が壊死したからで、どうしようもないと悟ったから。  狩摩の陣が静かに砕けた。  そして否応なく悟らされる。今までの奮闘は総じて児戯、趨勢になんら影響するものではなく── 「〈遠神笑美給〉《とほかみえみため》、遠つ神愛み給へ。  一切衆生の〈罪穢〉《つみけがれ》ぇ。  くちおしや、あなくちおしやぁぁー」  つまるところ、これが控えている限り諸行は無常で、無惨に終わる。  反転した天津の龍が、抉るように〈鬼灯〉《ほおずき》の瞳を向けた。 「アアアアアアアアアアアァァァ──ッ!?」  瞬間、〈三千大千世界〉《みちおほち》は激震する。  何一つ無事なものは残らない。天も地も、陰も陽も、五行太極相通じる森羅のすべてが崩れて落ちる。  臓腑がひしゃげた。目が破裂した。四肢が崩れて砂となり、大地に混ざって肥やしと消える……命が土へと還り逝く。  ただ空亡に睨まれただけ。ほんのたったそれだけで、全員もう終わっていたのだ。五体無事な者は誰一人として存在せず、辛うじて淳士と宗冬のみがまだ〈原〉《 、》〈型〉《 、》を保っている。  他はみな、手と足が付いているから猿か人かと認識できる肉塊と化してしまった。  死んでいないし夢から消滅していないから生きている、というだけのもの。声帯が壊れているため、呻き声の一つもない。  凶将は一匹残らず消し飛んで、真の静寂が訪れた。  代わりに、地を擦過する鱗が破滅の到来を告げている。 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ―― 六算祓エヤ滅・滅・滅・滅・亡・亡・亡ォォォ!」  現れたのは、一柱にして九頭の龍。  零落した邪龍神がここに全滅を宣告する。  咆哮を上げただけで震壊の波が巻き起こり、のたうつ胴が瀕死の身体へ鞭を打つ。慈悲も容赦も加減もなかった。  愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦と連ねて八苦。ここにはすべての苦諦が揃い、神の怒りで濁っている。  呪詛に染まった禍津の祝詞は憎悪と憤怒をまき散らす。  剥き出しの内臓に浸透してく怨の波動は、身体の前に意識からも破壊活動を行っていた。  狂う、駄目だ。〈叫喚〉《ことだま》さえも堕ちているから。 「は……や、く────」  立ち上がらねば殺されるが、立ち上がっても殺される。何をしても死ぬのだと骨の髄まで痛感しても、苦痛が伸びるだけだとしても。 「づおおおォッ!」  晶が回復する時間を稼ぐ──そのために淳士は飛び出した。  唸りをあげる剛腕は千切れ飛びそうなほど傷ついているが、それでいい。片腕を捨ててでも龍の注意をこれで引く。  本体までは届かないと踏んでいるが、当然だ。〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈敵〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  ゆえに捨て身で時間を稼ぐと決意した。腕を対価に得られるのは一秒か、一瞬か、あるいは刹那か……どれでもいい。  足らなければ残った〈躯〉《ちにく》もくれてやる。仲間のために渾身の力を振り絞った淳士の決意は、まさしく英断であったのだが──  そのような戦の真は空亡に通じない。空亡だけには通じないのだ。 「が……ぐ、ぅぅッ!?」  直撃──した瞬間、〈解〉《ほど》けるように肩口までが砂塵と散った。  彼の一撃は大仏や八幡宮より増大した質量を誇っていたが、総じて無意味だ。単純な破壊力で地震の揺れは止まらないし、何かが減退することもない。単純な力じゃないのだ。  震動という反復運動には増幅、伝播という二つの特性が備わっている。  反響のたび音叉となって膨れ上がり、爆発するような衝撃を接触面から伝えてくる。さながら核分裂の連鎖反応であるかのごとく。  触れれば終わる。よって攻撃を当ててもならない。理不尽極まる不可侵の神威、それが廃龍──百鬼空亡。  大木をへし折る程度の拳など、これを刺激しただけである。 「戯けが、引けッ」  鎌首をもたげた龍頭に対しいち早く宗冬は反応した。限界まで淳士の重量を軽減し、唯一無傷の右足で蹴り飛ばした。  次の瞬間、再び万象が激震する。  九頭龍は身じろいだだけである。攻撃の意志すらなく、さもむず痒かったとでもいうように胴を地に擦っただけ。爬虫類が幹で鱗を整えている行動と本質的には何ら変わりがない仕草。  だがそれだけで、二人は致命傷を刻まれながら吹き飛んだ。血を霧のように噴出し、全身の皮を剥ぎ落とされながら墜落する。  ──それは、なんと〈優〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈結〉《 、》〈果〉《 、》だろうか。  髭が掠っただけで済んだのは、ひとえに宗冬の機転があってこそだ。仮に直撃していれば跡形もなく散っていただろう、細胞の一片すら残っていたはずがない。  よって彼らは順当に、当たり前の結果としてここに全滅を晒した。  まだ全員生きてはいるものの、戦闘能力は一人残らず消失している。復活の時間すら稼げず、愛撫を受けただけで追い込まれたようなものだった。 「〈十種〉《とくさ》ノ〈神宝〉《かんだら》どこじゃろなぁ。〈祓祝詞〉《はらえのことば》をくりゃしゃんせ」 「〈大御名〉《おんみな》となえてくりゃしゃんせ」  そしてそのような事実さえ、邪龍にとってはどうでもよく。  絶望は終わらない。まだまだこれから、まだこれから。脈打ちながら刻む鼓動は、震動の増幅を続けていた。  こんな程度であるはずがなく、大災害の前震として天井知らずに出力を上げていく。 「〈瀛都鏡〉《おきつかがみ》、〈邊都鏡〉《へつかがみ》」 「〈八握劔〉《やつかのつるぎ》、〈生玉〉《いくたま》、〈死返玉〉《まかるがえしのたま》」 「〈足玉〉《たるたま》、〈道返玉〉《ちがえしのたま》」 「〈蛇比禮〉《おろちのひれ》、〈蜂比禮〉《はちのひれ》、〈品物比禮〉《くさぐさのもののひれ》」 「ひい、ふう、みい、よお」 「いい、むう、なあ、やあ、ここのたり」  昂ぶり凝縮していく力の波動は、そっくりそのまま地震が描く波形の形に沿っていた。  前震の予兆としてより活生していく様は、胎動する卵にも似ている。あるいは〈蘇〉《 、》〈生〉《 、》と言うべきか、封じられた地の底から裂け目を作って世に翔び立とうとする昇龍。 「うぁ、ぁ……!」 「────こんな、っ」  止めなければならない。立ち上がらなければならない。あれを放置していれば終わる、それほどまでの〈地殻運動量〉《マグニチュード》をひしひしと感じている。  心が折れていないのならば、生きるために戦うのだ。魂が削れるほど夢を酷使し、潰れた身体を巻き戻しじみた速さで再生しようと振り絞る。 「〈布瑠部〉《ふるべ》、〈由良由良止〉《ゆらゆらと》、〈布瑠部〉《ふるべ》」  その奮闘を邪龍は見えない、聞こえない。  健常な精神を残していれば若者達の〈千信〉《イノリ》に何かを感じていたかもしれない。  試練か、あるいは納得か。八百万の末裔として民草に問いかけることもあったであろうが、腐り落ちた目に見えるものは己に纏わりつく外敵のみだ。 「祓いて清めに参ろやなぁ、参ろやなぁ」  濁流のように歪んだ視界の中、ぎょろりと腐った目玉が蠢く。  空亡は思った……先ほどから動きにくくて堪らないと。  大地の気脈が不揃いだ。何かが我が尾を踏んでいる。流れがどれも乱れていて、上手くこの地を泳げない。  それが痒くて、腐肉が疼く。  朽ちた爪が、削れて渇く。  〈地脈〉《すみか》が閉塞しているせいで未だ全力に至れず。  許さぬぞ、邪魔だ何をしている。地相を乱す不遜の輩は──  どこだ。  どこだ。  どこだ。  どこだ。 「ひひ、バレたか」 「おまえかやァァァッ! おのれかやァァァッ!」  枷の繰り手を見つけ出し、本日最大の波が訪れる。  指向性を宿した極めて凶悪な大震災が、天まで轟きながら炸裂した。  進行方向の物体を分解するまで揺り動かし、地脈を励起させ、風水の業を圧倒的な質量のもと次から次に打ち破り。  そして、血肉が裂けて乱れ飛ぶ。  首だけを残して、壇狩摩の肉体は呆気なく消滅した。 「きゃきゃきゃきゃきゃ、きゃァァァッきゃっきゃっきゃっ!」  それを機に、さらに加速度を増す空亡の膨張速度。震動して増幅を、より増幅を、さらにさらに増幅をと天井知らずに出力を上昇していく。邪魔な術の縛鎖からようやく解放されたのだ。  残った頭蓋を戦利品だと弄び、毬のようにその手に掴んで空亡は無邪気に笑い声をあげていた。  対してこちらは余波を受けたことで再び損傷し、復帰しようした足掻きが帳消しになった。  もう止められる手段はなく、順当な結末が待ち構えるのみ。後はただ死ぬだけだと、誰もが拒絶しながら受け入れざるを得ない時に──  ゲラゲラと、愉快そうに生首が喝破した。  死の間際には似合わない、高らかな激が飛ぶ。 「聞けや、小童どもォ! 空亡は絶対斃せん!  勝つ死ぬ生きると言っちょる内は見当違いよ。気概のある奴ァ、忠を示して柱となれいッ!」 「それと、なぁ──」  誰かに向けて、おそらくはたった一人に向けて。 「玉ついちょるんなら男気魅せェや、口説いてこませっちゅうとるんよ。  おまえの戦真、懸ける時はこうじゃろうがァッ! ハハハハハハッ!」 「────、ッ」  ……叫び終えた瞬間、血の花が一輪咲いた。  飛び散った脳漿と髄液が薄れるように消えていく。  大地に落ちるより前に夢の中で形をなくし、盲打ちは邯鄲の露と散ったのだ。 「……あ、ああぁッ」 「そ、んな……、ぅ──」  これで……これで、本当に逆転の目はなくなった。  空亡を唯一、真に妨害できていた男はもういない。  それを肩代わり出来る手腕を持った仲間も皆無であり、替えのない戦力が潰えたことで無明の闇が未来を覆う。  あと一撃で間違いなくおしまいだろう。三度動かれただけでこの劣勢なら、本格的に動き出した今ならば二撃保てばいいほうだと容易に予測可能である。  狩摩を殺戮した愉悦に飽きたその瞬間、あらゆる抵抗を圧し潰して九頭龍は鏖殺に浸る。その時こそ、この夢と命が終焉を迎えるのだ。  だが、それよりも…… 「わ、私は──」  そう、それよりもと鈴子は迷う。〈誰〉《 、》〈を〉《 、》〈人〉《 、》〈柱〉《 、》〈に〉《 、》〈す〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈か〉《 、》〈と〉《 、》。  負傷とは別の要因で顔色を死体のように青ざめさせる。歯は恐怖にかちかちと鳴り響き、全身を襲う激痛さえ今は頭から抜け落ちていた。とても正気じゃいられない。  それは、死の間際に狩摩の残した言がよく分かったから。  彼の遺言を耳にし、自分の中ですべてのピースが嵌まったから。  どうすればいいかという一筋の光明を掴んだがために、残酷な選択をせざるをえないと理解した。  自らのすべきことを理解したことで極限まで葛藤している。それこそかつてないほどに、彼女は指揮官としての重圧を感じていた。  空亡は斃せない。こいつは神だ、荒ぶる龍。人間の身で敵わないのは不文律であり、勝敗や生存を願う範疇にすらいない。薄々ながら絶対に勝てないのだと悟っていたのはやはり正しかったのだ。  だからこそ、〈忠〉《 、》〈を〉《 、》〈示〉《 、》〈す〉《 、》〈柱〉《 、》と言われて疑問は氷解した。  病んだ邪龍に堕ちようが、龍神は龍神である。その時点で殺害は不可能であり……たとえ殺せたとしたも代償に大地の気脈が死ぬ。  仮に地球を焼き尽くせる核兵器があったとしても、これは斃してはならないものだった。  正気に戻すべき存在だったと気づいてしまった。ゆえに、惑う。  龍を鎮めるための人身御供……それが必要と理解して、自分は指揮官なのだから。  当然、皆を生かすために発生すべき義務がある。  大のために小を切り捨てるという判断を。仲間のために、仲間を捧げるという行為に手を染めなければならないと理解した、から。 「誰を……誰かを……」  選ばなければならないのか?  指揮官だから、その責任があるから、目を逸らすことは許されなくて。  滲み始める視界は共に切磋琢磨した者の姿を映す。邪龍の姿なんてもう目に見えないし入らない。 「無理よ──できない」  苦痛で胸が張り裂けてしまいそうなほど悲しくて、弱音が滑るように口から漏れた。 「私には、とても選ぶことなんて……」  かつて鋼牙兵を切り捨てた際には感じなかったものが、次から次へと湧き上がって氾濫を始める。腕が千切れかけていなければ、耳をふさいで泣き喚いていたかもしれない。  自分はゲーム気分なんかじゃなかった。本気で邯鄲の夢を現実の一部としてとらえていたから、こんなにも恐れている。  ならどうして、殺人に痛みを感じなかったの? そんな疑問は生まれた瞬間、泡が弾けるように消えた。  人柱をどう打ち立てるか、選びたくない──仲間に選ばせたくなんてない。  その軋轢に、涙がこぼれる。 「助けて、柊──ッ」  切実な声に〈救世主〉《ヒーロー》は現れない。  きっとこのまま、矛盾と後悔を抱えながら死ぬのだろうと諦めかけた。その時に。  九頭龍が不思議な挙動をし始める。 「なんじゃろなぁ、なんじゃろなぁ」 「青い果実はどこじゃろなぁ」  とぐろを巻きながら九つの頭がそれぞれ探るように身をねじっていた。犬が異臭を嗅ぎつけるのと似た仕草は、おそらく見た通りのものなのだろう。この場の全員を完全に無視したまま、何かに意識を割いている。  数秒ほどそれが続いた後、一斉に黄濁した眼光が屋敷の一角へと向けられた。 「〈婢子〉《ぼうこ》がおるのう」 「臭いぞ、臭うぞ……喰らおうぞ」  すなわち、贄の〈香〉《 、》〈気〉《 、》を嗅ぎつけたと──宣言した瞬間、睨みつけた虚空を穴ぼこにしながら律動を開始する。  目指す先は身を捧げようという乙女だけ。腐乱する舌から涎を垂らし、地を汚染しながら廃龍が猛進した。大気が爆発しながら、周囲の存在を吹き飛ばしつつ一直線に進み続ける。  魅了され、誘われているが、同時に龍は疎んでいる。  この臭いはさほど格が高くない。  それでも自らに存在をちらつかせているのなら、いいだろう。望み通り〈内臓〉《はらわた》を貪るとしよう。 「ダメ、百合香さん……!」  彼女がどうしてそのような行動に出たのかは分からずとも、結果的にこの場の面々が標的から外れたことは事実だった。短期的な目で見たのなら、百合香の独断は戦真館の命を最低十秒は引き延ばすという大功績を成し遂げている。 「あの馬鹿女が……ッ」 「行かせはしない!」  そして、それを阻止しようとする者が疾走する。二つの影が追撃し、互いの夢を振り絞った。  意図せぬ最高の〈共鳴〉《シンクロ》。大進撃する空亡の進行方向へと向けて、攻防一体の合わせ技を解き放ち──  よって、奇跡的に〈即〉《 、》〈死〉《 、》〈を〉《 、》〈免〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》吹き飛ばされる。  人の覚醒など神威の前ではこんなものだ。彼ら二人が英傑だろうが豪傑であろうが、そもそも土俵が違っている。  薙いだ龍鱗が辰宮邸の四割を巻き込み、肉体を粉塵に変えられながらそこへ向かって弾き飛ばされていく。  そしてそれこそ、刹那に練った彼らの奇策。攻撃を最大の防御とし、辛うじて生きたまま宙を舞った。  辰宮百合香のいた部屋へと塵屑のように飛んでいく。 「ッ、ぐ──行けェッ」  内臓をまき散らしながら宗冬の破段が起動し、飛散する瓦礫の質量を低下させた。それを足場と化しながら、吐血を飲み下した淳士が駆ける。  接触した瞬間だけ瓦礫は質量を取り戻し、その運動量を反動としてさらに前へ、前へ、あの少女が巻き込まれたであろう場へ。  床と共に崩落する彼女を視界に納め、庇うように抱きかかえたまま広間へと突き刺さる。  加速をつけて真横へ墜落するよう飛び込んだせいか、全身の骨が軋んでいた。ささくれ立ったように肉へ内部から突き刺さり、意識が飛びそうなほど激痛が襲い掛かってくるものの。 「がッ……は、ざまあみやがれ」  まだ、自分は生きている。そしてこのどうしようもない女もまた。 「どうして、わたくしのことを……?」  腕の中で目を丸くしながら見上げている女に、淳士はやはり苛立った。こうして身を張り助けても、相手のことがまるで分かっていない稚児のような馬鹿なのだから。  さぞ業腹だったことだろうに、主を助けるため自分に協力した宗冬。これでは彼が報われない。 「うるせえ、まだ聞きたいことがあんだよ……ッ」  そして、それを指摘するだけの余裕もない。  危機は依然、些かも衰えず健在である。外では邪龍が咆哮している、今すぐにでも仲間のために戻らねば。 「あんたが気張った程度で、あれはどうにかなるもんじゃねえ。分かったらいつも通り、隅っこで身を潜めてろ」 「あ、……」  瀕死の身体に鞭を打って立ち上がり、百合香に悟られぬよう自己回復を外側から施していく。  神経は繋がった。四肢は動く。気概もまだまだ、ならば諦めるわけにはいかないのだ。  気合を入れ直して口端の血を拭う。背を翻し、再び大震災の渦中へ立ち向かおうとしたところで── 「──────」  背中に、小さな温もりがぶつかった。  たったそれだけで、足が止まる。  伝わる震えに、止まってしまったのだ。 「どうして……」  こんなことをしたのか──それとも、何故行くというのだろうか。  自分と相手、どちらの行動に対して紡いだ理由なのかきっと百合香自身も分かっていない。咄嗟に移した自分の行動が理解できずに困惑している。  しがみ付くように追いすがったことなど、生まれて初めてのことだった。  堪えがたい衝動が身体を動かすなんて、そんなことさえ初めてだった。  だから百合香は何も分からない。自身の感情も、真意も、根源も、それを探せる夢さえも。  何もかもから致命的にズレたまま、しかし。  しかし── 「あのまま…… あのままいけば、空亡という危機は去りました。  龍は乙女の身を喰らい、荒ぶる御霊を鎮めるのが古くからの習いというもの。つまり我々すべてにとって最善の手であったはず。  そしてそれは、今からでも遅くはありません」  事実、有効的な手段は思いつく限りこれだけだ。  指摘は正しいと、淳士も根の部分では分かっている。戦の真が対人向きの心構えであるように、神には神の〈鎮め〉《かち》方が必要なのだと。 「国を支える人柱となし、尊い犠牲を〈祓祝詞〉《はらえのことば》とすることでこの場も丸く収まりましょう。  ですが──」  百合香は少しだけ、背に触れる手へ力をこめて。 「わたくしでは、それに相応しくないのだと。  龍神は身を鎮めないのだと、宗冬から告げられました」  主を慮る意志はあれど、無駄死に過ぎないと、暗に従者は口にした。  そう確信しているからこそ、ああして参戦を決意したのだ。まったく意味が理解できない……けれど。  それはもしかして、分かっていないのは自分だけなのかもしれないと、百合香は思い始めていたのだ。 「淳士さんは、それがなぜか分かりますか?」 「当たり前だ」  振り向かずに、淳士は短く肯定する。  ほんの少し、溜飲が下がった気がした。自己の世界に対して、初めてこの少女が疑念を抱きつつあることに。 「あんた自身が、〈手前〉《てめえ》を大したものと認めてねえ。なのにそんなガラクタ捧げて、いったい何になるんだよ。  どうでもいいもん寄こされて、それで喜ぶわけあるか。  俺が龍ならお断りだぜ」  いや、そもそもその前に…… 「〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈ば〉《 、》〈か〉《 、》〈り〉《 、》〈を〉《 、》、〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈貢〉《 、》〈が〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》」  続けた言葉に、百合香は完全に硬直した。おぞましいものを見たように、身を強張らせた気配を感じた。 「────、それは」  不必要なものを、欲しがっていない相手に向けて与えようとする行動。  滑稽だと、どうして彼らはそれが見抜けないのだと。自嘲して憤慨して、呆れて見下げて信じられず……  けれどそれこそが、ああ、まさに。たった今、自ら行おうとしたものと何が違うと告げられた。  空亡はきっと喜ぶはず、そうに違いない、鎮魂は成る、などと疑う余地すらなかったのだ。それが自らを苛んできた概念であると指摘された衝撃は、いったい如何ほどのものだったろう。  呼気が自然と荒くなり、指先から感覚が遠のいていくのを感じていた。辰宮百合香の根幹が音を立てて揺らいでいる。  龍の暴虐よりも、一人の青年の言葉で、こんなにも彼女はいま震えていた。 「………… 離せ。あいつらが待ってる」  伊達男のように恐怖を抱きしめて癒しはしない。そんなことは自分に似合わないし、それを許す状況でもなかった。  鳴滝淳士には仲間たちの中核を担っているという自負がある。自分の強さと重さが、彼らを支えているという自信がある。だから行くのだ、誰より雄々しく真っ直ぐに。  精悍な在り様には清々しさが満ちている。  背に刺さる熱を帯びた視線には、そこに身を焦がすような憧憬が籠められていた。 「どうして、そこまで強く在れるのですか?  いいえ、まさかそんな戦の真で、あれをどうにかできるとでも? そういうものではありません…… 召喚した甘粕大尉殿でさえ、放し飼いにすることで空亡を御しています。あくまで攻撃対象にいないというだけ。決して手綱をつけているわけではないのです」 「正面から討ち果たすなど盧生であっても不可能でしょう。ですから……」 「知らねえな」  そんな理屈はどうでもいい。淳士は行く、再びあそこで戦うために。  そして、そんな理屈など百合香にとってもどうでもいい。  勝敗も夢の行方も、誰が生きるか死ぬかもどうでもいい。今はただ、この逞しい背中に縋りついていたかった。  心がバラバラになってしまいそうだったから。 「お願いします。行かないで、ください……」  本人にとっては渾身の……そして、相手にとっては軽く振りほどける儚さで体重を預けた。 「どちらにしてもこの夢が終わるなら、わたくしは……せめて」  失いたくないと切に願う。彼と一緒なら、このまま消えてしまっても悔いはない。  荒れ狂う感情の中で、その想いだけは本物だと思えた。たった一つの確かな〈縁〉《よすが》と思えたのだ。 「だから傍にいろってか」 「願わくば、最期の瞬間まで……」  あなたと共に終わりたい。そう伝えた感情がどこから来たのか、淳士は然りと分かっていた。  ──こいつは自分に惚れている。  男として、女として。それが理解できないほどの鈍感ではさすがにない。  だからこそ、これに頷いてはならないと強く強く感じている。  いわばこれは兆しなのだ。  目と耳を塞ぎ続け、勝手に周囲へ絶望していた少女が始めて何かに惑っている。生き方に疑問を抱こうとしていると、感じたからこそ。 「……あんた達は軽いんだよ」  無意識の〈傲慢〉《エゴ》に気づけと苦言を呈する。  受け入れることなど絶対にしてはならない。見てて苛々するような、どうしようもない女でどうすると。  自分はあの男のようにではなく、この〈背中〉《いきかた》で道を示す。 「八つ当たりする前に、まずそうやって言動にしな。自分がどうこうだけじゃなくて、相手のことも知ろうとしてやれ。  俺の〈矜持〉《ユメ》が、俺の誇りで……俺だけのもんじゃねえように」  それが信頼であり、絆であり、強さと呼ばれるものであると告げてから戦場へと駆けだした。  遠ざかっていく男の姿を見ながら、百合香は何も語らない。やはり彼は強い人で、何一つ理解できるように教えてくれはしなかった。けれど何故か、胸の内で微かに痛む違和がある。  目と鼻の先だというのに、地平線の彼方で響いているような戦いの〈音色〉《うた》。  思わず伸ばした手は虚しく空を掴むだけ。  腰から下は切り取られた様に動かない。あの場所に自分も混ざることは、彼らを冒涜することなのだということだけは漠然と分かりかけていて。  初めて芽生えた執着心に対して、童女ような夢見る乙女は処理する術など持ってはいない。  そしてそれは、内界への変化をもたらしつつあった── 「これは……」  香りに満ちた闇へ、一筋の光が射し始める……  連動して身体を包む蕾が胎動するように動きだした。  華の牢獄は、静かにその拘束を解きつつあった。  だが、未だ解放には足らない。  身体は倦怠感に毒されたままであり、射しこむ光も通り抜けられるほどの隙間に至っていなかった。  あと一押し、もう少し……何かがこの世界には足りなかったが。  芽吹かぬ蕾は変わりつつあった。ならばまだ、希望は残っている。  どうかそれまで、頼むみんな──耐えてくれ。  再起を誓いながら、意志を繋ぎとめてその機を待つ。  閉じるか、開くか、それともこのまま散華するか。  花弁は今も、迷うように揺れていた。  しかし── 「滅・滅・滅・滅ゥゥゥ」 「亡・亡・亡ォォォ──!」  四四八の願いも虚しく、再度の前震が発動された。  空間全域を砕くほどの激震、大震、龍の怒り。  指を咥えてこれが放たれるのを見ていたわけではなく、誰一人とし、極々当たり前にそれを止めることは敵わなかったというだけの結果が訪れる。  もはや、語るべき特筆すべき戦の趨勢などそこにはない。血の海に沈んでいく戦真館はこれで生存の目も失った。  ただ二人の破段である淳士と宗冬も拳を潰され、剣を柄ごと砕かれている。攻撃手段を再生するだけでも要十秒、それだけあれば七度は共に粉砕されてしまうだろう。  そして駄目押しに、増幅の〈鼓動〉《リズム》を刻む邪龍の心臓。  どくんどくんと、無機質な〈振り子〉《メトロノーム》のように上昇していくエネルギーは狩摩が脱落する以前と比べて比較にならないほど早い。  土気を克する陣は消えていた。地脈との同調を深め、高め、より最悪な大破壊へと変貌を遂げていく。  誰もが悟った……これで本当に終わりだと。  奇跡の期限が尽きたことで、夢の泡沫が散っていく。 「どうして、オレは……ッ」  地に這いつくばりながら、栄光は訪れる破滅を悔恨の眼差しで見上げていた。  空から叩き落とされた鳥のように、折れた〈足〉《つばさ》で虚しくもがくも、その動きは単なる虚勢に過ぎないという情けなさを噛み締めている。  本当はやろうと思えば立ち上がれていた。へし折れている両脚だが、この夢なら幾らでも再起する手段があるし、発狂を堪えさえしたのなら気力振り絞るだけで身体を起こすほどには必ず回復できるだろう。  素養が低いとはいえ、その程度の楯法は栄光にも紡ぎだせる。今から全力でそこに力を振り絞れば……少なくとも空亡の再進撃まで何とか間に合うはずだったが。  足はぴくりとも動かない。冷静な思考は、全滅を予見してそれに適した動きを下していた。  立ち上がって、それでどうするという? 出来ることが残っているというのだろうか? 何もない。  それが自分だけの不徳なり愚かさなりなら、まだ戦えた。囮として最前線に立てたと思うし、連携の一助にならんと奮闘できていたはずだった。  だが、これはもう駄目なのだと全員等しく痛感している。  励ましてくれる仲間がいたならせめて抗うことが出来ていた。ならばただ自分だけでもと思えばいいのに、原始的な死への恐怖が身体を縛り付けている。まるで目に見えない鎖のように行動を許しはしなかったから。  とてもとても単純なことに、大杉栄光は死が恐ろしいから動けないのだ。  情けなさに視界がゆっくりと滲み出す。自分は、所詮こんなものなのか。  言葉だけで、誰かがいないと意地を張ることさえ出来なくて。今も迫る脅威を前に拳を地へ打ち下ろすだけで…… 「この夢も、ここで終幕ですね……」  優しい温もりが振り上げた手をそっと包んだ。気が付けば隣には、守りたかった人が瀕死の姿で微笑んでいる。  視線を下に向ければ、彼女の腹部は六割が抉り飛び鮮やかな内臓を露出させていた。  両脚は自分より輪をかけて酷く、大型のプレス機に挟まれたようにひしゃげている。ここまで腕だけで這いずりながら来たのだろう。凄惨たる有様は見ているだけで痛々しく、胸の内を軋ませる。  なのに、表情は見惚れるほどに穏やかだった。  それはこれから巻き起こる大破壊を受け入れている、末期の蝋燭めいた美しさだろう。諦めてしまっているから、こんなにも綺麗で、儚い。  自分が守れなかったから── 「野枝さん……オ、オレ──」  舌が絡まるようにもつれているのは、単純に死ぬことが恐ろしいからなのか。それとも彼女に情けないと思われるのが怖いからか。  どちらにしても、ただ純然たる事実として二人、共に死ぬ。  それだけは絶対的に訪れる未来であり、命を対価にしたとしても逃がすことさえ出来ないのだ。 「ごめん、結局こうなっちまった……!  オレがこんなに情けねえから、約束も何一つ、守ることができなくてッ」 「それはまた、自意識過剰な台詞を言いますね。あれをどうにかできることなんて、最初から期待してはいませんよ。  それに……謝ることはありません。大して役に立てなかったのは私も同じことですし」 「不思議と私は、あまり後悔していないんです」  それは野枝なりの処世術でもあった。願い叶わぬ現実が多すぎて、だから悲しい結末よりも過程から幸福をかき集める。  終わりはこうして普段通りかもしれないが、それでも、決して悪いことばかりではなかったと彼女は思った。 「死に場所もこうして選べましたしね。それに、〈戦真館〉《みなさん》と共に肩を並べた展開も……まあ、それなりに有意義な体験でした。  向いていないなんて言って、ごめんなさい。栄光さんは立派に戦えていましたよ」 「違う、違うんだよッ!  そんなんじゃ、なくてさぁ……、ッ!」  そんな慰めが欲しいんじゃなかった。許してくれだなんて、懇願した覚えもなかった。  ただ生きてほしくて、どんな苦難や障害からもこの手で守ってみせたくて。せめて彼女だけの英雄になりかっただけなのに、そんな男の意地一つ、自分には形にできる力がないんだ。  解法の崩では防げない──押し寄せる破壊の波が膨大すぎる。  解法の透では避けれない──すり抜けようとも、全方位満遍なく圧される。  そして、仮に同時使用ができるようになったとしよう。それで生き延びたとしても、本当に大切なものは邪龍に潰され滅した後だ。本末転倒ではないか。  どうして、どうして自分はいつもこうなんだ。  仲間どころか、大切な女性一人を守ることさえ出来なくて。 「くっ、ぅ、ぁぁぁ………ッ」  拳の上へ目から雫が零れ落ちた……止め処なく溢れる悲しさが、触れ合う野枝の手も濡らしていく。  困ったように苦笑しながら、目端を折れた指先が拭ってくれた。 「もう、泣かないでください。男の子でしょう?」  その表情は母親のように優しくて、そっと栄光に身を寄せる。終焉の時を心穏やかに迎える姿は、敬虔な殉教者のようだった。 「〈八言〉《やごと》の〈五元〉《ごげん》に、〈天津祓〉《あまつはらえ》と奉らんやぁ、奉らんやぁ」 「〈秘詞〉《ひめことば》にて、〈神留〉《かむづま》り〈坐〉《ま》す、奉らんやぁ、奉らんやぁ」  空亡の鼓動が噴火前の火山が如く急いていく。  解放の予兆、震災の〈秒読み〉《カウントダウン》を前に── 「願わくば、どうか…… ちゃんと〈ま〉《 、》〈た〉《 、》、私のことを好きになってくださいね」  百万回生まれ変わっても好きになる。  そう約束した、約束したんだ。だから自分はその通りに──と。 「ああ──」  出会いを思い出した途端、震災は解き放たれた。  迫る九頭龍が一頭。押し寄せる大気の壁に、土砂の波濤。捲れ上がる岩盤が横殴りの巨大な轢断となり浴びせかかってくるものの──  だが、そんなものはどうでもいい。見えない、知らない、気づきもしない。  震えが恐怖から、歓喜へと変わっていく。  災禍に呑まれる刹那……栄光は大切なものを取り戻したのだ。  世界が一変するこの感激に比べれば、どんな大地震だとて〈細波〉《さざなみ》に過ぎないと確信できる。 「そうだ──」  いつかの時代、どこかの場所で。  如何なる理屈と運命かは、何も分からないままだけど。 「オレは、ずっと昔から──」  忘れてはならない、たった一つの確たる〈真実〉《ユメ》。 「君と出会って」  そして同時に。 「君のことが、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈好〉《 、》〈き〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》」  だからこそ、〈解法〉《じまん》の夢は片手落ちのままだった。  過去と現在は結びつかずに独立したまま。崩と透を同時に紡げず、片側しか一度に用いることが出来なかった。  不完全な想いは、無意識下の影を如実に受けて現れていたのだろう。今ならそれが、切実なほどよく分かる。  こんなにも、ああこんなにも、大杉栄光という馬鹿な男は伊藤野枝に惚れているのだと。  そう自覚して、忘れていたことに自嘲して。  小さく笑んだ──その瞬間。 「破段、顕象──」  すべての条件が達成される。  胸の中で輝く〈邯鄲〉《あい》が、いま〈層〉《じだい》を超えて駆動した。  そして、彼の誇る〈愛情〉《さいきょう》が病んだ龍へと炸裂する。  そう、あろうことか決まったのだ……人間の一撃が、震災の〈廃神〉《タタリ》を難なく蹴撃で消滅させた。  荒唐無稽、出鱈目な夢。およそ真実とは思えない結果を前に、誰もが思わず瞠目する。  断末魔をあげて消えた九頭龍を前に、栄光はよろめきながら立ち上がった。  己が起こした偉業を当然のものと受け止めて、驚愕する野枝を庇うように相手を見せる。前を向く。 「おおおおお、おおおおおおおッ」 「柱なるか? 忠なりや?」  力の末端を調伏された空亡は、しかし何故か怒らない。まるで焦がれたものと出会ったように、苦痛に身をよじりながら何事かを問いかけている。  その真意も今や栄光には分かっていた。自分の夢は、こういう力だ。 「どうだ、旨かったかよ」  〈動〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈左〉《 、》〈腕〉《 、》を一撫でし、復元した脚で空へ向けて飛翔する…… のみならず。 「おい〈糞龍神〉《めくら》、オレの仲間に何してやがる」  滅法に放たれた追撃の大震を、浴びせた烈蹴が〈歪〉《たわ》ませた。  そして散る──四方八方、空間を伝い大地へと。  仲間を巻き込む大破壊は、地脈をなぞって拡散しながらあらぬ方角へ向け散った。直撃する軌道を避けさえすれば、後は各々回避できる。  無論、栄光も無事では済まないものの変わらず空を滑っていた。  一撃で皮膚と肉が混じり合い、表面積の二割が衝撃で大きく吹き飛ばされはしたが損傷は極めて軽微。以前と比べれば歴然の差というものだろう。  自然災害と正面からぶつからず、逸らして躱し、生き延びる。  まさに神業。それを成し遂げた要因は狩摩が手を入れていた陣の残骸、防護の備えがあったからというのが一つ。  そして更なる理由として、栄光の覚醒が挙げられる。  世界から距離を〈解〉《こわ》して場を繋ぎ、ベクトルを〈解〉《とお》すことで地脈の網へと接続させた。  〈解法〉《キャンセル》の同時展開をいとも容易く実現させ、避雷針のように土の相克を成し遂げる。 「……なんと」  見違えたと、宗冬は嘆息する。ああ、これだから解法使いは〈お〉《 、》〈ぞ〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。  他の王道たる資質を嘲笑うように、遥か彼方を飛び越えていく。これだけは邯鄲法の中において一際異質な力だった。  土俵の外から足場そのものに干渉してくるようなもの、常識的な手段や異能をうまくいけば根底から覆しにかかれるのだから。  けれど、まだ宗冬はその先を知らない。仲間への被災を防いだ技さえ、栄光にとっては覚醒の副産物に過ぎないのだと。  解法にのみ特化した人間が、真に目覚めた姿とはどれほど反則じみたものなのかを。  少年の描く〈破段〉《ユメ》は誰よりも誠実で、残酷であるものだったから。  真価は再び、そしてすぐに衆目へと諸刃を晒した。 「が、は……ァァァッ!」 「大杉ッ……!?」  功績は鮮やかに、しかし不吉を孕んで戦果と成す。  さらに一体、蹴り抜かれた龍の頭が数を減らした瞬間、無傷であるはずの栄光が血の塊を吐き出した。  右手で腹を鷲掴みにしながら、顔を歪めて離脱する。  傍から見ればその理屈がまったく見えずに困惑したが……徐々に、徐々に、戦真館にも理解が及ぶ。  〈彼〉《 、》〈の〉《 、》〈左〉《 、》〈手〉《 、》〈は〉《 、》〈さ〉《 、》〈っ〉《 、》〈き〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈も〉《 、》〈動〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。空中での舵取りや遠心力の補助にも使わず、糸の切れた人形のようにだらりと垂れさがっていた。  それは何故か? 治っていない? ならばどうして? 晶は既に復帰して仲間の治癒を進めているのに。  空を滑る栄光にも充分届くはずで、まさか手を抜いているわけでもない。  疑問に思う仲間の前で、いま再び破段の力を顕現し── 「──ぐ、づぅッ!?」  これで三体──龍の頭が消えたと同時、〈次〉《 、》〈は〉《 、》〈右〉《 、》〈腕〉《 、》〈が〉《 、》〈弛〉《 、》〈緩〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》。  やはり二度と動かさない。いいや、二度と動かせない。 「まさか……」  苦悶を押し殺しながら、失った部位を捨てることなく栄光は飛ぶ。  そう、彼の夢とはこういうものだ。  自分にとって大切に思うものを差し出す代わりに、それに見合ったものをこの世から消滅できる相殺の業。  等価交換を基本とした絶対的な〈完全消滅〉《キャンセル》、その強制執行である。  この技が恐ろしい要素はそれこそ幾つも挙げられるだろう。それは例えば防御不可能である点や、一撃必殺たり得ることなど。  驚異的な特徴なら枚挙に暇がないのだが、この技が誇る最大の恐怖はそんなものではない。  これの凶悪性は相殺の基準点が〈彼〉《 、》〈個〉《 、》〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈価〉《 、》〈値〉《 、》〈観〉《 、》に依存しきっているということだ。  1+1は2にならない。零が億にも変貌する。あくまで大杉栄光から見た世界という贔屓まみれの天秤で機能すること。これほど不条理なものはない。  万人にとって金と銅は等価値ではなく、一人の命と千の命は往々にして釣り合わない。質量保存則というものが自然界にもあるように、一の結果を起こすには一の対価を要することは言うまでもない世の常だ。  しかし、それはあくまで理屈の上での物言いだろう。個人的な見解が混じった場合、方程式は呆気なく捻れて狂う。  富や名声よりも、愛を求める人間がいるように。  千の見知らぬ他人より、一人の身内を尊ぶように。  そして、それらの逆を選ぶ者が必ず一定数はいるように。  問題自体は同じであるのに、〈精神〉《エゴ》という〈贔屓目〉《フィルター》を通した瞬間、十人十色の答えを見せる。いったい何を愛しているかで世界はこれほど景色の違いを突きつけるのだ。  そしてだからこそ、栄光の破段は凄まじかった。相殺の判断基準が彼の中で通った場合、小国を一つ消し去ることさえ可能な力と証明している。それは最初に捧げた左腕を見ても明らかで、信じられない不平等をこうして形にし続けていた。  人間の腕一本と、九頭龍が一体……誰がどう見ても等価交換として破綻しているというのに。  しかし、それを達成させるのが彼の〈邯鄲〉《ユメ》。  理論はどこまでも正当であり、矛盾点など欠片もなかった。  なぜなら当の空亡も、身を捧げて〈龍〉《オノレ》を鎮める贄を所望しているのだから。  破段覚醒のみならず、〈協〉《 、》〈力〉《 、》〈強〉《 、》〈制〉《 、》〈の〉《 、》〈条〉《 、》〈件〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈が〉《 、》〈成〉《 、》〈立〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  龍が、人の域を遥かに超えた神威の念で、栄光のユメに乗っているのだ。ならばその業、神をも穿つのは自明の理と言えるだろう。  もはや本質的には急段顕象。使っているのが解法一本というだけで、龍神の協力を得た栄光はここに絶対的な昇華を遂げた。  左腕、腎臓、右腕──次いで捧げたのは触覚。九頭龍を消し去った途端、風を切る感覚がぷっつりと喪失した。  特定の内臓器官だけではなく、己の持つ概念的な所有物さえ対価に出来る。  ああ、これでもう、誰かと触れ合える喜びもないけれど。  抱きしめた温もりを、もう二度と感じることはないけれど。 「まだ、まだァ……ッ!」  充分だ、いま自分は戦えている。  仲間のために、彼女のために、そのためならばこの程度。 「これっぽっちも、惜しくねえんだ……ッ!」  叫び声を轟かせて宙を走る、縦横無尽に舞い踊る。  それは羽根を削りながら飛ぶ、もの悲しい燕のようで。 「やめて……もういいから、お願いッ」  とても見てはいられない。胸が締め付けられる。激震する空間を駆け抜ける栄光、櫛が抜けていくように翼を犠牲に駆けていた。  勇気だけを頼りに、怯えを殺し邪龍と渡り合っているのだ。  そうだ──本当は、今も恐い。こんなことはしたくない。  こんな怪物と戦うことも、敵対した相手の命を奪うことも、考えるだけで足が震えて崩れ落ちそうになってしまう。  指先から凍てつくように怯懦が走り、全身の骨が絶対零度の氷柱へ変わる。殺意をもって手を汚すことなどもう駄目だ。どれほど心に誓っても直前で身体が止まり、攻撃が当たる前に見逃せない躊躇が生まれる。  野枝の言葉は正しかった、自分は争いごとに向いていない。  栄光はどうしても考えてしまう人間なのだ。敵にとっての友と平和や、そこに生きる命の尊さというものを、常に重く受け止めている。  自分の勝手な一存でそれを奪ってしまうなど、どうして容易くできるというのか。  淳士が誰より己の〈価値〉《おもさ》と向き合っている男なら、誰よりも他人の〈輝き〉《おもさ》を尊重する性を抱えていると言えるだろう。  それは臆病と紙一重の優しさであり純朴な善性の現れでもあったが、殺し合いには徹底して不向きであるのは論ずるまでもないことだった。枷にしかならない美徳は、やがて身内にまで累を及ぼす危険がある。敵を殺めることに一々同情しては闘争の場で役に立たない。  だから悩んだ。〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》を持たないから戦えないのかと苦悩した。  皆が信じる輝かしい王道を己は持つ資格がないのだと、激しく恥じていたのだが……  しかし違った、それは〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈描〉《 、》〈く〉《 、》〈夢〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  他人から受けた言葉の上での講義であり、生来の気質と合致していなかっただけのこと。その部分をずっと、ずっと誤解していた。何もすべてがすべて、教えられた通りである必要はなかったと思う。  習わしではこうだとか、世界平和がどうだとか。  支配や覇権がなんだのそうのと……知ったことか。そんな大層極まるお題目に、自分は命を懸けられない。  戦に渦巻く痛みと恐怖、彼や彼女が消えてしまうという絶望。それにどうして、形だけでの心構えで打ち克てる? 教科書に載ってるような言葉の羅列なんかにどうして、何故いったい、この苦痛と決意を託せるんだ?  なまじ四四八が優等で、それを苦もなくこなせてしまった。だから錯覚していたのだ、自分もそうでなくてはと無意識のうちに決めつけていた。  それが間違いだと今なら分かる。  大杉栄光という小さな男が、戦うために何を重んじなければならないのか。  この臆病者がちっぽけな勇気を振り絞るために。  誇りにできる、たった一つの夢の欠片は。 「オレにとっての〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》は」  ──宝物は、ここにあるから。  それを守るためならば、どんな困難だって関係ない。  こんな自分を捧げることで、皆の笑顔を守れるのなら── 「てめえは、国を護る龍なんだろうが。  ちょっと忘れられたくらいで、ヘソ曲げてんじゃねえぞォォッ──!」  この想いを忠として、狂える神の目を覚まそう。  左肺を新たに捧げながら、押し寄せる破壊の波濤を全力で地へ伝導する。  押し寄せる震の波に対して防御するものの、栄光の右半身は四割近くが消し飛ばされた。どれだけ解法を極めたとしてもやはり邪龍は強大であり、通常の一撃がすべて必殺として襲い掛かる。  九頭龍は相殺できるようになったが、単なる攻撃を打ち消すことはできない。肉体の〈残存〉《ストック》は本体に叩き込まなければならないから、単なる一薙ぎこそが厄介だという逆転現象が発生していた。  どれだけ地脈に飛ばそうとも、元の質量からして圧倒的だ。  このままやがて削り殺されるというところに──仲間からの援護が入る。 「この、馬鹿野郎……馬鹿野郎ォ、ッ!」 「勝手すぎるよ、こんなの一人で決めないでよぅ……ッ!」  傷ついた身体を癒し、空亡の気を引いてくれる戦真館の仲間たち。  分けても二人の幼なじみ。そして四四八……ああ待ってろよ、絶対オレが助けてやるから。  相殺に捧げた部位は欠けたままだが、それ以外の傷ついた箇所へ熱が芯まで染み込んでいく。  誰もが悲しんでいるけれど、止めることはもうしなかった。  これから己のするべきことを、最期まで見届けてくれると知ったから。 「は、はは……」  壊れかけた意志に力が漲る、恐れるものなど何もない。 「オオオオオオオオオオオォォォ──ッ!!」  骨髄、嗅覚、両眼──そして左脚。  最後まで取っておいた攻撃器官、その片方を自切して九頭龍を消滅させた。 「おおおおお、おおおおおおおおッ」  残るは本命の邪龍が一柱。激痛を歓迎するかのように、震源地は狂喜しながら血走る瞳で空を抉る。  反転した黄龍もまた煌めく供物を待っていた。  その清廉な輝きへ向け、焦がれるように襲いかかる。 「〈意〉《おもい》は、〈諸法〉《すべて》に先立ち」 「〈諸法〉《すべて》は、〈意〉《おもい》に成る」 「〈意〉《おもい》こそは、〈諸法〉《すべて》を〈統〉《す》ぶ」 「けがれたる〈意〉《おもい》にて、且つかたり、且つ行なわば」 「ひくものの跡を追う、かの車輪のごとく、苦しみ彼に従わん」 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ――」 「汝、〈一切成就祓〉《いっさいじょうじゅのはらえ》と成るやァァッ」  これで終わり、あと一合。それですべては決するだろう。迫り来る神の〈顎門〉《あぎと》は強大で、視界を失った今になっても簡単に感知できる。  もう空を疾走する必要もなく、墜落するように滑空した。  唯一無事な右脚で、さあ大気を蹴ろうとしたのだが。 「ぅ、あ────」  ここに来て限界へ至った身体が大きく傾ぐ。  奇跡ともいうべき奮戦を遂げた代償が、燃料切れという形で訪れた。  最低限の速度を維持できず、すべてが台無しになってしまう刹那に。 「栄光さん、っ」  ……傍に寄り添った〈誰〉《 、》〈か〉《 、》を察して、小さく微笑む。  聴覚を残しておいて本当によかった。耳に透き通る彼女の声へ、最期だから精一杯力強く言葉にしよう。 「大丈夫」  これから起こることに、訪れる運命に。  そして彼女と出会えたすべてに、感謝を込めて。 「オレに、君を守らせてくれ。  格好つけさせてくれよ……な?」 「────、はい!」  背を押してくれた強さを乗せ、弾丸のように突き進む。  震災の波で分解されても怯まない。骨と化しながら前進する。  最後に捧げるべき鼓動──心の臓を意識しながら、この一撃へと刻んだ。 「くれてやる、オレの〈千信〉《すべて》を」  どうかこの想いが、届きますように。  彼らが明日も、これから先も、笑って生きられますように。  願いながら最期の蹴撃は炸裂した。〈荒御魂〉《あらみたま》へ向けた夢が、空亡の真芯を捉えて鮮やかな光を描く。 「大杉ィィィ──ッ!」 「栄光さぁぁぁん──ッ!」  これにて、罪穢が晴れ渡り。  これにて、人柱は成就され。  大切な仲間の叫びに微笑みながら、大杉栄光の意識は闇へと消えた。  視界を覆う大爆発と粉塵が巻き起こる。  何も見えず、決着がどうなったのか分からない。  衝撃に後ずさりしながら、彼が命を懸けた地点を必死に見つめる。  そして、噴煙が晴れたその時……  そこには、何もいなかった。  栄光と空亡、どちらの影も綺麗さっぱり消えている。  聞こえるのは土砂が風に舞い散る音だけ。神殿のように澄み渡る空気が、荒れ果てた庭地を包んでいる。  それはあらゆる穢れが洗い清められた後のようで、思わず息を呑むほど荘厳な美しさが胸を突いた。 「……見事だ」  その偉業に対して宗冬は心から敬意を払う。  あまりに真摯な呟きに、戦真館も悟らざるを得なかった。 「…………あなたは、本当に」  お調子者で、臆病で、けれど誰より勇敢だった彼はもういない。  もう、この世のどこにもいないのだ。 「ああ、ぁっ」 「う、ううぅ……」 「こんなの、くそッ……ちくしょォォッ!」 「──っ」  各々の目に熱いものが止め処なくこみ上げて、身を切りつけるような喪失感が見えない傷を刻み込んだ。  喉から嗚咽を漏らしながら晶は地を何度も殴り、歩美や水希は口を手で覆っている。あまりに大きい代償だった。  ありがとう、おまえのおかげだと、せめて言わなければならないのに。  その勇気を悲しみで濡らしてはいけないのに、自分たちが生きていることの感謝よりも、栄光がいなくなったということが崩れ落ちるほど大きかった。  もう二度と彼は笑わない。会うことも、共に〈千信館〉《トラスト》へ通うことも叶わなくなってしまったから。 「格好つけすぎなのよ、馬鹿……っ」  今はただ、頬を伝う雫を拭わずそれを悼んで立ちずさんだ。 「皆さん……」  その光景を、百合香は離れた場所で見つめていた。  よろけながら屋敷から出たところで、滂沱の涙を流す戦真館を遠い出来事のように眺めている。  あの場へ向かってどうしても、一歩を踏み出すことができない。  影が縫われているように、呆然と、映画のようだと感じながら茫洋とした感情を持て余していた。  こちらとあちら、ほんの少し駆け寄れば届くはずの短い距離なのに、まるで見えない絶壁が立ちはだかっていると感じるのは……いったいどうして?  そして仮に駆け寄って、何を言えというのだろうか?  慰めも、礼賛も、どちらもあそこでは霞んでしまうと感じている。そう思ってしまうことが自分でも理解できなかったから、四肢は糸が切れたように弛緩して動かない。 「わたくし、は」  こんなにも自分の気持ちは見えないのかと、今日は何度思ったか。  足踏みし続けている心を自覚しながら、蚊帳の外でどの色にも染まることが出来なかった。  その時だ──大地が、小刻みの揺れを刻んだのは。 「え……?」  最初は小さく、小さく……けれど徐々に、着実に。  秒刻みで肥大化していく、戦慄を呼び覚ます地の鼓動。  消滅したはずの恐怖が総身を掻き乱していき、悪魔的な慈悲深さで地殻の底からよじ登ってきた。 「まさか──嘘、だよね」 「なんで、どうしてだよ、こんなッ!?」  願い虚しく、そのまさか。直前まで相対していた破壊神を、今さら見間違えるはずもなく。 「ぎゃァァぎゃっぎゃっぎゃっぎゃァァァ―――!」  そして、激震と共に虚空へと実像が紡ぎあがる。  百鬼空亡、再来── 手始めとばかりに全員を粉砕し、微塵の衰えもなく九頭龍の禍を振りまいた。 「あはははははは、ハハハハハハハ!  当然だよ、助かったとでも思ったかい? ご愁傷様、無駄死にだ。  そんなものじゃあ空亡は死なないよ。あれぐらいで消えるようなら、僕がとっくに仕留めているもの」  何処とも知れぬ〈層〉《じだい》で踊り狂い飛び跳ねながら、神野明影は手を叩いて蹂躙活劇を観戦していた。  眼下で巻き起こる大破壊。成す術もなく粉砕されていく戦真館。  唯一の対抗手段をなくして全滅していく彼らを愛しながら、慈しみながら、しかしそれを当然の結果だと冷静な評価を下している。  俯瞰する彼には事の詳細が見えていた。これはもはや当然の結果だ、空亡は最初から消えてなどいないのだから。  栄光が心臓を捧げたことで相殺されたかに見えたものの、完全な消滅にまでは至っていなかったという、たったそれだけ。  確かにあの破段は、他に例を見ないほどの桁外れた必殺性を有していた。  夢が通じなかったわけではないし、空亡が一時消えかけたのも真実なのだ。  しっかりと見合った対価を払いさえしたのなら、どのような外敵さえ跡形もなく消滅させることが出来る。  それは空亡も、そして神野や甘粕さえも例外ではない。彼の描く邯鄲は素晴らしくも恐ろしい力だ。  そしてだからこそ、導き出される結果は一つしかない。 「〈八百万〉《ビッチ》は男をよく見ている……いい線いっていたけど、惜しかったね。貢いだお金が足りなかった」  そう、栄光の中で自分の命と空亡は釣り合ってなどいなかった。  脳髄や全身を対価にしても同じこと。あの力が真価を発揮するにはまず、発動の前提を間違えている。  神野は愉快でたまらない。その道化さと、どうしようもない滑稽さに。 「〈仲〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈守〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈あ〉《 、》、〈満〉《 、》〈た〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈て〉《 、》〈当〉《 、》〈然〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》」  だから君は駄目だったのだと、さも楽し気に謳いあげた。  仲間を守るために力を振るっている限り、自分自身の価値が二の次になってしまうという当たり前の帰結。  つまり、〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈を〉《 、》〈差〉《 、》〈し〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。龍が納得するはずもない。  最大の効率を発揮するためには、守りたいものを惜しげもなく贄としなければならなかったという二律背反。  その残酷な見落としを、大地の神は敏感に見抜いてしまった。  忠は足らず、あなくちおしや──誠心至らずと判断したのだ。よってまつろわずに狂しながら、柱を求めて暴れ狂う。  もし仮に、栄光があの場の他者を対価に選んでいたのなら……  結果は言うまでもないだろう。最悪の自責と後悔に堕ちるとしても、同じ一人の犠牲で事態を切り抜けていたはずだが、それは意味のない仮定だった。  なぜならそんな平等の視点を持たないからこそ、彼はあのような夢を体得したのだから。  公明正大に人の命で算数が出来るような人間じゃなく、青臭い想いはその譲れない一線を起点としている以上、厳格に天秤を機能する。図り間違えることだけは絶対にありえない。  よって地獄は依然、続行する。  愛ゆえの自爆、なんたる悲劇だ素晴らしい。腹を抱えて悪魔は笑った。 「さあ、まだ宴は続くよ。第二幕の続行だッ!  彼の奮闘を無駄にしちゃいけないだろう? 君たちの頑張りで、とびきりの〈混沌〉《べんぼう》を見せてくれ!」  だから〈人間〉《きみら》は最高だと、汚濁を振りまき喝采する。  足を無邪気にばたつかせ、大喝采して大爆笑していた。 「──あああああぁぁッ!?」 「がはッ……ざっ、けんな」  血反吐を吐き、一切の希望なくただただ翻弄されるだけ。  直撃を避けるためだけに瀕死の身体に鞭打ち、挑む。気概だけは誰も翳っていなかった。  無駄だと痛感させられようが、何度だって立ち上がる。 「終われないのよ、絶対にッ」  自分たちの命はもう己だけのものじゃない。栄光の意地を無駄にしてはならないから、何としても勝たなければならなかった。  打開策もないまま、手も足も出せずに解き放たれる大震を渾身で防ぐ。同心円状に広がる波濤は戦真館を嬲り砕き、更に辰宮邸まで飲み込んだ。 「あ────」 「──お嬢様ッ!」  眼前に迫る死を前にして、百合香はぼんやりと佇んでいるだけだった。  争いの心得など持たないために、攻撃の予兆を見抜けない。そして対応できるだけの物理的な力を持っていない。  当たる。死ぬ。粉微塵に分解される── 寸前に宗冬が割り込んだ。  抱きかかえて自らを盾としながら、脳が破裂するほど己の夢を滾らせる。 「ぐうぅ、づ……ォォォッ」  万の〈鑢〉《やすり》で削られるような苦痛が襲い、末端から原子単位まで破砕されていくものの、離さない。離さない。  宙を舞って地面に叩き付けられたものの、最愛の主は守り抜いた。胸の中で感情の見えない瞳を向けられながら、それでも生きていることに安堵した。  百合香はそれを必死だな、と他人事のように思う。そしてふと、覆いかぶさっている男の身体を一撫でして呟いた。 「……軽いですね、おまえの身体は」  血肉が物理的に減っているせいか、成人男性とは思えないほど宗冬からの重さはなかった。  それがおかしくて思わず自嘲がこぼれてしまう。滲む血潮が傷に這わせた指先を穢していく、マニキュアのように爪を鮮やかな緋色に染めた。 「ですが、それはわたくしもでしょうか。先ほどそう言われましたから」 「……我々は空虚である、と?」 「そして、不要なものを知らず押し付けているのだと」  共に投げかけられた言葉を、互いがそっと口ずさむ。  淳士の指摘は二人を繋ぐ大きな共通項だが、それを受け止める二人の間では大きな乖離が生じていた。  軽さとは、そして己が歪みとは何であるか。宗冬は自覚していながらそれを改善することが出来ていないが……彼女は違う。 「わたくしには、今もそれが分からないのです」  他者とは、自分へ従属してしまう悲しい存在である。その大前提がある限り説法は糠に打った釘の如く。  環境と年月が作り上げた固定観念は無意識に組み込まれてしまっているから、何をどう改善すればいいというのか思いつけないままだった。  手を伸ばすとは何なのか。行動に移すとは、どういうものか。 「宗冬にはそれが分かりましょうか?」  椅子に座りながら微笑むだけで、すべて献上されてきた。それを変える方法をこの従者は知っているかと問いかけて。  彼は、口端を歪に吊り上げた。主が見たことのない眼差しを向ける。 「痛恨ですが、ええ。理解できますよ。  なぜなら〈俺〉《 、》は、このような〈香気〉《じゅつ》ではなく、そして生まれの貴賤も関係なく、あなたを愛しているからです。  狂おしいほど、ただ一途に」 「……………え」  その瞬間、百合香の世界から音が消えた。  胸の奥へと広がっていく感情は雷のように無秩序で、淡雪のように儚い。現実感も、何もかもが無くなった。  目の前には初めて見る彼の微笑み、彼の本音、彼の本気。そして告白。  不器用な男が真っ直ぐに伝えた想いは、嘘だと感じる余地すらない。  ああ、この人はこんなに優しい顔が出来たんだ──なんて、今更ながら思い知らされたと知ったから。  返事を考え付けずに口ごもって、視線を合わせて、それでも何とか言葉を紡ぎだそうとした、寸前。 「──それでも、お嬢様は信じてくれないのでしょうね」  噛み締めるように宗冬は首を横へ振った。端正な顔立ちが自嘲に染まり、深い諦観に翳っていく。 「業腹極まりないが、あの男は常に正しいのだ。いつも雄々しく壮烈にこちらの〈疵瑕〉《しが》を貫いてくる。  どれほどこの身を捧げてもそれが羽毛の如く軽いなら……なるほど、あなたに届く道理もない。要らぬ荷を差し上げても虚しく空転するだけか」 「……宗、冬?」  く、とくぐもった嘲笑を浮かべる家令の姿にかつてない悪寒が背を駆け抜けた。こんな彼は見たことがなく、突然の豹変に百合香は戸惑いを隠せない。  この実直な青年の心が既に傷だらけであったことに、彼女はついぞ気づけないままだった。  その代償と言うべきか、いま形容できない焦りが少女の心を侵食していた。致命的な兆候を見過ごしてしまったのではないだろうか、と。 「ですから──」  幽鬼のように立ち上がる姿を、半ば呆然と見上げながら。 「あいつのように、あなたへ想いを届かせるには」  焼き尽くすほどの熱情を、氷のような瞳に宿して。 「この手で、あなた自身を〈殺〉《うば》うしかないでしょう」  こちらへと刃を向けた男に対して、動くことは出来なかった。  分からない、何も──分からない、感情も。どう動けばいいのかも。  そして、彼がこんなにも悲痛な〈殺意〉《アイ》を秘めていたと自分は知らなかったようだから。 「──お嬢様、お覚悟を」  命を絶つ慈愛を前に、ようやく己の無知を思い知った。  淳士からは静かに、宗冬からは激しく突きつけられた自身の歪みに、胸の中で閉じた華が綻び始めて── 「開いた──!」  ここに青い蕾は開花して、一筋の軌跡を描く。  射しこんだ光へ向かい、俺は空を掻き分けるように飛び出した。  纏わりつく鬱屈した香気を振り払い、解き放たれた外気へ触れるそのたびに何が起こったかを知覚していく。  神祇省との同盟、盧生の真実、辰宮の在り方、空亡の襲来。  そして、そして── 「栄光……、ッ」  大切な仲間の死に、両目から熱い雫が堰を切った。 「すまない、すまないッ、おまえの傍にいてやれなくて」  共に戦えなかったことを詫びながら、拳を強く握りしめる。あいつの勇気を夢の彼方まで焼き付けよう。  忘れないし、無駄にはさせない。  おまえが守りたかったすべてを背負いたいから、その強さをどうか俺にも分けてくれ。  栄光が残してくれた夢の残滓を手に、疾風の速度で浮上していく。  澄み渡るような覚醒の息吹を感じながら、仲間たちの戦場へと手を伸ばし。 「──届けッ!」  再び仲間たちへと強く結びつくのを感じたんだ。 「あれは!?」  天地に突き立つかの如く、巨大な火柱が鎌倉大仏から煌めいた。  それとまったく同時、戦真館の全員が一つの予感に包まれる。  身体の外側にある器官が輝く光と結合していくような感覚は、彼の帰還を溢れ出す歓喜と共に伝えていた。  希望が身を包む。あれは反撃の狼煙だと。  この絶望を払い飛ばすのだと、そう信じて奮い立ったから。  自分たちのすべきことはたった一つのシンプルなこと。遠く離れた地点から彼をこの場へと導かなければならない。  栄光の遺志を継ぎ、形にしたいと祈っていた。だからさあ、そのためにはどうすれば── 「鈴子さん、どうか私を使ってください」  どこまでも静かな、しかし揺るぎない意志を乗せた視線が重なる。傷つきながらも気概は衰えておらず、誰より前線で空亡に喰らいつこうとしていた野枝は命令に近い提案をした。 「四四八さんをこちらへ引き上げる機は、今を置いて他にありません。  百合香様とも、そして皆さんとも繋がっている、この時だけが」  盧生と百合香は強制的な接続状態にあったが、その〈牢獄〉《つぼみ》が解き放たれたと同時に、再び戦真館へと繋がりを強めつつある。つまり数珠のような状態になっていた。  程なく前者は接続が断たれ、元の鞘に収まるだろうがその僅かな時間を狙いさえすれば四四八を身体ごと〈手〉《 、》〈繰〉《 、》〈り〉《 、》〈寄〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》ことが可能だ。  そしてその手法は、栄光が先ほど証明している。  解法の透を用いることで一時的に距離を無視し、地脈や気脈を伝導させるという神業。震災の防御法として用いたのは記憶に新しく、攻撃の分散を行わずともいいため、解法の崩は必要ない。  野枝でも充分可能な技だ。ゆえに、だからこそもう一手。 「他には手がつけられなくなりますから、その間隙に彼を導いてください」  距離を透かすことだけに集中するため、結びつきが強い側の介入が必要となると告げた。その提案に思わず鈴子は息が詰まった、なぜって。 「……私でいいの?」  〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈歪〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》のに……  他者を殺すこと、戦うこと、そして仲間を失うことに対して明らかな偏りがあったし、それがどういうものであるか正確に理解しつつあったから、自信がない。相応しいとは思えなかった。  こんな人間が四四八を呼び出すことをしていいのか、そもそも出来るだろうかという不安に野枝は視線を逸らさなかった。  覚悟に満ちた眼差しは、きっと彼女だけの強さじゃない。 「誰だって不安なのは当たり前なんです。こんな自分でいいんだろうか、受け入れてもらえるのだろうかって……悩んで、一人抱えて苦しんで。  それでも、あの人は──」  恐怖と向き合い、龍に立ち向かった少年のことを二人は束の間思い返して。 「今はあなたが指揮官でしょう、引継ぎはちゃんとしなさい!」  喝破した声に瞑目し、託された命の重みを反芻する。  括目した面差しに迷いはなかった。 「……くっ」  目指している先の光源が徐々に狭くなっていく。華は役目を終えて消えつつあったが、それより身体は別の場所へと引きずられつつあった。  行くべき場所は仲間たちのいる戦場なのに、戻るべき器がそちらに存在していない。結果、盧生という機能を取り戻していくたび、辿り着きたい地点が遠ざかる。  それは俺が今まで囚われていた理屈と同じ。個人の力ではどうしようもない、原理や仕組みの問題だった。  進んだはずの距離が逆回しのよう遠ざかる。  遠のく光へ駆けろ、駆けろ。俺は仲間のところへ帰るんだ。 「届けぇぇッ!」  そして、叫んだ言葉と共に何かが近づいてくるのを感じた。  透き通るように開けていく視界の中、俺を掴み取ろうとする力強い意思が光源を貫いて出現する。  知っているぞ、この腕の持ち主は── 「──柊ィッ!」 俺が人事不省に陥っていた間、代わりに皆を率いてくれたのがこいつだというのは分かっていた。ゆえにお互い、この上ないシンパシーを感じている。 ましてその局面は、過去最大の難関となる第七層――裏勾陳。 こいつが抱えることになった責任、重圧。そしてそれに立ち向かった覚悟のほどは痛いほど理解できる。だから俺は、それに応えてみせねばならない。 「――我堂ッ!」 繋いだ手から通じる想い。これは絶対に裏切れない。 ああ、分かっているからこそ唱えよう。 俺とおまえ、共に二人で、この場に相応しい戦の真を―― 「仁義八行、如是畜生発菩提心」 龍の病を晴らすために、要となるのは忠の心。 新たに目覚めたその夢を、形にすると強く誓った。 「四四八!」「四四八くん!」「柊くん!」「柊!」「四四八さん!」 地を踏みしめて、俺はついに大震災の渦中へと到着する。 目に飛び込んできた光景は満身創痍の仲間たちと、倒壊寸前の屋敷、そして暴れ狂う九頭龍だった。魂散るような絶叫を轟かせて夢そのものを激震させんと今も瞳を曇らせている。 だが、しかし── 「皆、待たせた。後は俺に任せてくれ」 今の俺には、見えていた。龍の中にある真実が。 一見すれば空亡は些かも衰えた様子を見せていないが、核というべき部分は確かに規模を減じている。反復と増幅を繰り返す特性の震源に打ち込まれた一撃が、今も尾を引き深い裂傷を刻んでいた。 こいつの再起から、仲間の誰一人も欠けていないのが有無を言わせぬ証拠だろう。龍神が完全に復活を遂げていたならば、抵抗などする暇もなく潰されているはずだった。この場の全員、たった一人の例外もなく生き延びられたのはあいつのおかげ。 なあ、栄光。おまえはすごいよ、その勇気を俺は心から尊敬する。 だからここに遺志と希望を引き継ごう。恨みを晴らすためではなく、しっかりと弔いを遂げてやるために……清廉な心持ちで病魔に苦しむ神と対した。 その間際、自分を引っ張り上げてくれた奴と視線が合う。 「ぶちかましてやりなさい」 同じ気持ちを抱いて、形にするためゆっくりと歩き出す。 一歩、一歩……憎悪も怯懦もこの一時は捨て去って。ただ厳かに。 震の波濤たる九頭龍へと、静かに印を組んでいく。 「〈意〉《おもい》は、〈諸法〉《すべて》に先立ち、〈諸法〉《すべて》は、〈意〉《おもい》に成る。〈意〉《おもい》こそは、〈諸法〉《すべて》を〈統〉《す》ぶ」 「きよらかなる〈意〉《おもい》にて、且つかたり、且つ行わば」 「形に影のそうごとく、たのしみ彼にしたがわん」 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ――」 「汝、〈一切成就祓〉《いっさいじょうじゅのはらえ》と成るや」 「ああ、成るとも」 あいつが示した、この〈忠〉《ユメ》は── 「必ず〈龍神〉《おまえ》に届くと信じている」 ゆえにいざ、括目しろとその完成形を紡ぎ出した。 瞬間──血肉噛み砕かんと猛った〈顎門〉《あぎと》が、音もなく崩れて落ちる。 ぼろぼろと、ぐずぐずと、俺に近づくたび形を喪失していく廃龍の群れ。根源たる空亡から千切れるように胴を離し、一切の抵抗なく静かに空へと霧散していく。 それは新たに体得した邯鄲のもたらす御業であり、破壊の力では決してない。攻撃とはまったく逆の清らかな祈りが、神を安らかに眠らせる。 放たれる災禍を恐ろしく感じながら、その感情をも受け止めた上で歩み寄る。次々と数を減らしていく龍はもはや抵抗すらしておらず、あろうことか救いを求めるように向かって来ていた。 自ら飛び込み、最期に残す断末魔はもはや安堵の嬉し泣きだ。感動すら滲ませて邪性を散華させていく姿は、これこそが龍の求めていたものだと語っていた。 そう、これは決して攻撃ではない。曇った神の視界を晴らし、元来持ちえた聖性を取り戻させる鎮魂の業。 すなわち浄化、それを成すのが忠の心。病みさらばえた〈荒御魂〉《あらみたま》に、〈和御霊〉《にぎみたま》であったかつての威光を取り戻させる誠心の輝きに他ならなかった。 「祓い給え、清め給え──」 「〈神〉《かむ》ながら、守り給い、〈幸〉《さきわ》え給え」 歩み寄っていく俺に対して、空亡はあらゆる敵対行動を止めていた。神道における祓えの祝詞を口にして、静かに静かに問いかけている……回帰していく。 廃仏毀釈が起こる以前、人類が土と共に生きた時代において民を慈しんでいた護国の龍へと。かつての姿を取り戻しながら、縦に裂けた瞳孔とその目が合う。 忠を示せ、礼節を見せよと──正気と狂気の狭間で揺れる龍眼、〈黄金〉《こがね》の煌めきが魂魄の奥まで真摯な視線で貫いていたから。 二拝し、二拍し、そして再び一度拝んで、指の印を拳へ変える。 ここに籠めるのは仲間への想いと、命を捧げたあいつへの純なる敬意。厳然たる〈千信〉《イノリ》に一点の曇りはなく、夢の証を打ち立てよう。 「〈高天原〉《たかまがはら》に〈坐〉《ま》し〈坐〉《ま》して、天と地に〈御働〉《みはたら》きを現し給う龍王は――  大宇宙根元の〈御祖〉《みおや》の〈御使〉《みつか》いにして一切を産み、〈一切〉《いっさい》を〈育〉《そだ》て、万物を御支配あらせ給う〈王神〉《おうじん》なれば。  一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の〈十種〉《とくさ》の〈御寶〉《みたから》を己がすがたと〈変〉《へん》じ給いて、自在自由に天界地界人界を治め給う」  同時に、〈邯鄲〉《ユメ》の王者もまた偽りない誠心を湛えていた。彼がもっとも敬する光を見せてくれた少年に報いるため、己が兵器に勅を下す。 「〈龍王神〉《りゅうおうじん》なるを尊み敬いて、〈真〉《まこと》の〈六根一筋〉《むねひとすじ》に〈御仕〉《みつかえ》え申すことの〈由〉《よし》を〈受〉《うけ》引き給いて、 愚かなる心の数々を戒め給いて、一切衆生の〈罪穢〉《つみけがれ》の〈衣〉《ころも》を脱ぎ去らしめ給いて、〈万物〉《よろずもの》の〈病災〉《やまい》をも〈立所〉《たちどころ》に祓い清め給い」  断じて容易く調伏されようなどと思うな。彼らの勇気をおまえも敬し、最大の凶威をもって対するべし。  なあ〈空亡〉《おれ》よ、おまえも人の愛が何より好物であろうがよ。  煌く輝きを見たかろうがよ。 「〈万世界〉《よろずせかい》も〈御祖〉《みおや》のもとに治めせしめ給へと、〈祈願〉《こいねがい》〈奉〉《たてまつ》ることの由を〈聞〉《きこ》し〈食〉《め》して、 〈六根〉《むね》の内に念じ申す大願を成就成さしめ給へと」  普遍の無意識に触れた盧生と、これから触れんとする盧生。  両者の激突は避けられない。  ならばこそ、前哨戦の終わりに彼らは最初で最後の協調を成した。 「──〈畏〉《かしこ》み〈畏〉《かしこ》み〈白〉《もう》す」  そして──  〈第八層〉《イェホーシュア》から響き渡る、祝福の龍神祝詞と重なるように。 「〈犬山道節〉《いぬやまどうせつ》――〈忠与〉《ただとも》」 ここに揮った仁義八行――忠の教えが龍に届く。 俺の拳は震を透り抜けながら空亡本体へと吸い込まれ、あまねく邪気を浄化せしめる。 結果はもはや、言うまでもないだろう。 栄光の勇気。我堂の覚悟。そして他、すべての想いが乗った拳だ。三たびは絶対に起こさせない。 〈第七層〉《ハツォル》に大震災を振りまいた裏勾陳は、荒ぶる御霊を鎮められ、自ら属する大地の脈へと還っていった。 栄光、おまえがくれた勝利だよ。どうかこの鎮魂を聞いてくれ。 おまえこそ、俺の誇りなんだということを。 「ははははは、素晴らしいぞよくやったッ!  おまえも、おまえの〈戦真館〉《なかま》の輝きも俺が残らず保証しよう。無駄死になどと誰にも言わせん、実に見事だ」  その光景を眺めながら、邯鄲の最果てで甘粕は喝采していた。  それでこそ愛、それでこそ勇気。虜にするほど美しいぞと、天に謳いあげながら人間賛歌を褒め讃えている。  三日月に裂けた口元は絶えず笑いを奏でていた。腹の底から先ほどの一幕を歓迎している。手と手を打ち合わせて拍手の雨を降らす様は、神聖なものを愛でているようであり同時にどこか歪であった。  栄光も死に、神祇省は崩壊、彼の敵になりうる勢力が削れたから……手駒たる空亡は中々の戦果をあげたから。だからこうして一見持ち上げているような醜い皮肉を送っている、などという理屈では断じてない。ならば複雑な道理が潜んでいるのかというと、そんなことも一切なかった。  この男はただ純粋に、戦真館の奮闘に賞賛を送っている。  尊敬の念すら抱きながら、感涙する観客のように舞台へ喜びを口にしていた。  付き従う影はそれを見て呆れたように嘆息している。 「おおぅ、〈主〉《しゅ》よ。ご機嫌ですねえ」  こちらは対称的に、惰性と言わんばかりの億劫さでやる気なく手を打ち鳴らしていた。  少年少女の放つ光を毛嫌いしている態度は、実に悪魔らしいと言えるだろう。大活劇か、単なる茶番か。正反対の感想を見せながらも、彼ら主従は互いに隔意を抱いてはいなかった。  実際、今も無礼な態度に対して何を言うわけでもなく、甘粕は神野の稚気を許容している。  磁石の対極でありながら関係は良好。これほど感想が食い違っていると分かるのに、反目は決してありえない。今も廃神の反応を面白がるように、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》と分かっていながら問いかけている。  この、真面目で誠実な〈悪魔〉《じゅすへる》へと。 「つまらんか」 「だって〈ア〉《 、》〈レ〉《 、》、僕には何の効果もないでしょう? なんせ元からそういうものですし。 まあ〈伴天連〉《うち》にも堕天がどうこうありますけど、一度穢れてしまったものは基本ずっとそのままですよ。  ましてや再び、もう一度………なんて慈悲深さを〈潔癖症〉《かみさま》が許すとは思えませんね。異端には徹底してドギツイですから。  悪はやっつけるものであり、他教は滅ぼすものであり、悪魔はずっと嫌われ者で、徹頭徹尾、生まれついてのやられ役というわけでして」 「つまり僕は、今日も元気に健康体ってことですよ」  だから、先ほど四四八の見せた邯鄲は自分に効果を及ぼさないと神野は語る。なぜなら彼は、その誕生から終焉まで邪悪という概念で編まれた〈廃神〉《たたりがみ》。〈第八等廃神〉《だいはちとうはいしん》・〈蝿声厭魅〉《さばえのえんみ》。  荒れるも病むも狂うもない、神野はどこまでも純粋で誠実なのだ。ただひたすら一直線に迷える羊を堕落させる。  病を晴らす清爽な息吹を受けたとしても、空亡のように正気に戻るということはない。普段通り、いつも通りの常態で変わらず他者を唆すだろう。健康だと自称したのはそういうことだ。  ならばこそ、彼は暇を持て余している。今回の展開はまったく好みじゃないものばかり、心はちっとも弾まない。 「退屈だなぁ、つまらないなぁ。少年少女の〈青春模様〉《じゅぶないる》で、アバズレも喝入れられて更生完了。これで〈第七層〉《ハツォル》もおしまいとは、呆気ない幕切れだ。  なんて思ったりしませんか? ちなみに僕は、言わずもがな」 「ほう、艱難辛苦が足らんというか」 「そりゃそうでしょう。災害の予行演習や爆弾の解体と同じですしね」 「面倒なものをどう捌こうというだけで、登場人物の心は極論して二種類しかない。すなわち諦めるか、抗うか。  なんですそれ? つまんないねえ。君も彼もその子もあの子も。もっとこう、ドロドロと煮えたぎるマグマのような、むしゃぶりつきたくなるような甘酸っぱさを見せてくれよ。それが人間模様ってもんじゃないか。  頭空っぽの原始人がマンモス狩ってるんじゃないんですから」  立ち向かう、勝つ、死ねない足掻く仲間のために……あるいは諦観して死ぬか。俯瞰で見ればあの大激戦も単純な構図に収まってしまうという、神野の言葉もよく分かるのだ。  無論、前者の清廉な感情は甘粕の好みであるが少々それに思うところがあるのも事実。  今回の決戦において覚醒を果たしたのは、栄光、淳士、四四八と僅か三名。その内真に勇気を示したのは大杉栄光、ただ一人。他の者らは怪物の相手をして目覚める種類の夢ではなかったらしい。  ならば、つまり── 「決意の絶対値ではなく、わき腹を突いてやりたいというわけだな」 「ええ。要は彩りが足らない」  此度の困難と絶望は強大な禍津神というシンプルな障害だった。  腹をくくって戦い、忠を示して場を納める。それはそれで輝きを見れたとして、足らない部分は当然あるのだ。襲い掛かる脅威としては空亡が最強でも、それで心が一皮剥けるかは別問題であるのだから。 「ですから、もっと妬いたり泣いたり嗤ったり、割り切れない人の情ってものを僕らが演出してあげましょうよ。  彼らはとても強い子だ。何度だって立ち上がる。だからきっと、より素晴らしいものを見せてくれるに違いない」  素敵だろう、と上機嫌に従者は主を唆す。すべての真意を分かった上で、甘粕もまた頷いた。 「いいだろう、このまま続けるのも悪くない」 「〈前震〉《くうぼう》を凌いだことで〈第七層〉《ハツォル》は超えた。奴にとって邯鄲の夢も終わりが近い。  ならば同属のよしみだ。盧生の器、ここらで見定めてみるとしよう。丁度いい塩梅にもう一押しの者もいる、キーラと戯れさせてみるのも一興だろう」 「では主よ、僕に授けられる今宵の愛しい花嫁は?」 「みなまで言うな。あるだろう、おまえ好みの愛憎劇が」  そう言ってから二人は同じ方向を見て、同じ人物を視界に収めた。  〈彼〉《 、》〈女〉《 、》とそれにまつわる〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》。少女の夢見る恋物語はまだその結末を描いていない。 「せっかく生まれ持った血筋と格だ。従卒も含めて、開花せぬまま切り捨てるのも少々惜しい。  俺の〈楽園〉《ぱらいぞ》に住めるよう、少し遊んでやるがいい」 「うひ、ひひひ」  命が下ったその瞬間、神野は恍惚と舌なめずりした。 「いいですねえ、さすがは主! 悪に〈厳〉《やさ》しく善に〈優〉《きび》しい。  三人まとめて久しぶりの〈乱交〉《サバト》と行こうッ! 退廃的にやろうじゃないか、うふふふふはははははははは──」  汚濁をまき散らしながらくるくると、悪魔は踊るようにステップを刻む。  耳まで引き裂けるほど口を大きく開き、涎を垂らして、さあどう演出してあげようかと訪れる未来に思いを馳せる。  彼は真面目で誠実だから、精一杯の真心を籠めて何もかもを滅茶苦茶にしてやろうと今も必死に考えていた。  人知れず、本来あり得なかった〈第七層〉《ハツォル》の続投が成る。  これもまた予行演習。〈第八層〉《イェホーシュア》に至るための布石として、邯鄲の続きはある意味当然の結果として訪れたのだ。  二人の盧生。彼らは今こそ邂逅する。  大正十二年、九月一日。  この日こそ、天の加護が消え去る〈空亡〉《とき》。  関東の大地は、荒ぶる龍に陵辱される。  関東大震災、あるいは大正関東大地震。  これが魔的な属性を持たず、〈あ〉《 、》〈く〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈の〉《 、》〈地〉《 、》〈震〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈場〉《 、》〈合〉《 、》〈の〉《 、》〈歴〉《 、》〈史〉《 、》でも以下のことが起こっている。  不動のはずの大地は、寒天のごとく歪み揺れた。栄華の証たる〈塔楼〉《ビル》が、致死の瓦礫を撒き散らしつつ崩落した。  家々の灯は業火となって街路を焼き、沿岸部へ押し寄せる〈大海嘯〉《だいかいしょう》は、人も家も漏れなく貪り藻屑に帰した。  万象すべて、一瞬にして恐怖の破壊神へと変転する。まさに天地逆転の不条理と言えた。  己がその場に存在する限り避けようのない、天変地異というもの……それがいかに恐ろしく理不尽きわまりないか、論ずるまでもなく明白だろう。  苦難に遭い落命した者は数知れず。老若男女の別もなく、問答無用に叩き込まれる阿鼻叫喚。  運命を呪って死んだ者、その暇さえ与えられずに終焉を迎えた者、死別や喪失に狂する者らが巷に溢れ、埋め尽くした。  しかし結局、最後は諦めという落としどころに向かうしかない。  仕方がないと。〈知〉《、》〈ら〉《、》〈な〉《、》〈か〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》〈の〉《、》〈だ〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》どうしようもないのだと。  あれは運命であり、人の力でどうこうできるものではなかったと、そう〈首〉《こうべ》を垂れる他に何ができよう。  それは確かに苦痛であり、悲惨であると言う他にない。  しかしある意味で、最後の救いが残されているとも言えないだろうか。  なぜなら彼らは少なくとも、敗北したという思いなくして諦めを選べる。予告抜きの大災害に対処することなど、誰にも決して不可能なのだから。  では―― それを知る者がいたとしたなら、どうだろうか。  この大地獄が到来すると予期していて、その上で襲いくる事態に対処し跳ね返すことはできるだろうか。  答えならば考える間もなく瞭然だろう。それもやはり不可能であると。  なぜならそれが天変であり、地異というものなのだから。  人は天地という牢獄に繋がれた囚人も同じ。ゆえにこそ黎明の時代より、〈自然〉《てんち》を畏れ敬い奉じてきた――カミとして。  事実、この本来の〈現実〉《れきし》において、大地震の〈元凶〉《しょうたい》は〈そ〉《、》〈う〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》なのである。 「かーごめかーごめ。  かーごのなーかのとーりーは  いーつ、 いーつ。  でーあーう」  第八等指定廃神、〈百鬼空亡〉《なきりくうぼう》。  日本国における最大最悪の凶霊であり、〈永久〉《とこしえ》に狂える盲目の龍神。普遍の無意識から現実に呼び出されたその暴威は、過去〈彼〉《、》〈ら〉《、》が夢で踏破したすべての階層と別次元の域に膨れ上がっている。  まだまだまだまだ、まだまだまだまだまだ……本来の歴史において開放された正午から、実に半日もの時を費やし、なお高まっていく〈地殻運動〉《マグニチュード》。龍の鼓動。  音叉が如く増幅、増幅、増幅増幅、もう充分だろう──いいや否。  想像を絶する域で上昇する裏返った災の勾陳。際限なく、すべての大地を飲み込まんと天井知らずに膨張する。  曰く本震。否、魔震。もはや夢物語は通じない。  魔の色を帯びた神威の震災、その化身なのである。 「よーあーけーのばーんに。  つーるとかーめがすーべった。  後ろの正面だーあれ」  そう、〈彼〉《、》〈ら〉《、》が立ち向かうべき敵とは真実これなのだ。  存在するだけで死と亡びを病毒のように撒き散らし、人の世に仇をなす零落した〈廃神〉《タタリ》。  まぎれもない人外であり、途方もない重質量の怨念によって空をも亡ぼす霊的な巨星とも言える。  見る者を圧する大怪龍の威容さえ、人が認識できる範囲の矮小化されたものにすぎない。  こんな〈存在〉《もの》が出現すると分かっていて、いったい誰に何ができるだろう。  知っているということは、この事態に対して何のアドバンテージももたらさない。落ちてくる小石を予知していれば避けることもできようが、星砕く大隕石であればどんな行為も因果を覆しようがないのだから。  むしろ知って〈し〉《、》〈ま〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》いることで、苦痛と絶望は百にも倍することだろう。  秒刻みで落ちてくる断頭の刃を克明に認識しながら、しかし肉体は足指ひとつ動かせない。確定した破滅を前に無力を自覚せねばならないというのは、人の魂を容赦なく削るのだ。  諦めれば〈敗北〉《シ》。立ち向かっても〈敗北〉《シ》。  そんな袋小路の絶望に比べれば、何も知らずに蹂躙される〈だ〉《、》〈け〉《、》の哀れな被害者など、遥かに幸福な立ち位置だと言えるだろう。  だが。  しかし、である。  運命に儚く蹂躙されるのも人間ならば、〈運命〉《それ》に強く立ち向かえるのもまた人間なのだ。  そして、〈彼〉《、》〈ら〉《、》は何も知らずに蛮勇を奮い起こしているわけではない。  むしろ誰よりも深く認識し、あまつさえ痛烈な記憶として骨身に刻んでいる。事態のどうしようもなさを知り尽くした上で、それでもなお克己の心をもって立ち上がるのだ。  ゆえにこの局面において、〈彼〉《、》〈ら〉《、》こそはまさしく人間。  儚きその身に強き決意を装填し、戦の真を示すべくして出陣する。  彼ら――戦真館の七人を人間たらしめている儚くも強い輝き。  それこそが仁義八行、如是畜生発菩提心。  柊四四八が幼き頃に魅了され、生涯を貫く規範と掲げた〈理想〉《ゆめ》である。  それはもはや、四四八個人の信条に留まらない。この震災に直面する〈時代〉《げんじつ》……人の世の行く末を決し、悪しき〈未来〉《ユメ》を打ち砕くかんとする希望の剣に他ならなかった。  そしてもちろん、彼らは楽観的でも無策でもない。  行く手に待つは大震災、その化身たる祟り神。人が掲げる崇高な決意も悪辣な邪念も、共に等しく通じない。そのような次元にあるべき存在ではないのだ。  そんな絶望を踏まえた上で、戦真館は備えている。智勇誠心の限りを尽くし、必勝を期して拳を上げる。迷いなど欠片もなく、なすべきことは誰もが〈確〉《しか》と見据えていた。  ゆえに後は、各々が挑む勝負とその結果こそがすべてなのだろう。  かつて届かなかった結末に、今度こそはと至るために。  〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》を、その〈拳〉《て》に束ね。  これより切って落とされる、この〈戦〉《イクサ》こそが〈真〉《マコト》となるのだ。  すでに関東の地は、魔震を前にして蹂躙され始めていた。  百鬼夜行。膨れ上がる空亡の凶気に追われるがごとく、常世の穴から這い出してきた魑魅魍魎が絶叫しながら走り抜け続けている。  人呼んで凶将陣。名のごとく軍勢に匹敵するほど、その数は雲霞のごとく果てしない。  だが陣の名に偽りがあるとすれば、そこに一切の秩序めいたものが存在しないことだろう。姿形にその習性、何一つとて同じものはなく、めいめいが勝手ほうだいに狂奔していた。無秩序、混沌の地獄絵図がそこにある。  否、秩序は一つだけあった。それは指向性である。魍魎たちはすべて、背後に控える空亡から逃れ遠ざかろうと動いていた。  必然、その様は狂乱の突撃と化し、まさに軍勢と呼ぶに相応しい雪崩となって人界を踏み潰しながら突き進む。  だがここに今、百鬼夜行の前に立ちはだかる孤影が一つ存在した。  その姿もまた鬼であった。鬼面を被りし男が単騎、凶将陣の行く手を遮るように構えている。  決して巨躯ではないが、鍛え抜かれた五体はまさに〈巌〉《いわお》。鋼を思わせる筋骨は強弓のごとくたわめられ、五体を矢と変え放つべき時を待ち構えていた。  加えて言うなら、嗤っている。怪士面から覗く双眸は、確かに喜悦の笑みを浮かべていた。  そして単騎の鬼は、地を蹴っての疾走――否、爆走を開始した。天地を圧して押し寄せる凶将の陣へと、避けるどころか自ら突撃を敢行したのだ。 「驚き惑う鬼どもを、一人残さず斬り殺し。 酒呑童子の首を取り、めでたく都に帰りけり」  滅々と木霊する地獄の囃し歌。それは皮肉にも、次の瞬間、現実のものとなった光景を謳いあげているかのようだった。  殺到する百鬼夜行の大奔流。その只中に呑まれて消えたと見えた刹那、怪士を爆心地とした周囲一帯が大気ごと四散していた。  木っ端と舞うのは、砕け散った魍魎たちの肉片骨片。妖魔の血雨を浴びながら、怪士は水を得た魚のごとく破壊の絶技を振るっている。  拳が、手刀が、〈蹴足〉《けぞく》が、閃くごとに凶将を引き裂き屠ってゆく。  その雄姿、その武勇、さながら百鬼に劣らぬ鬼神のごとし。 「ああ――いいな。素晴らしい」  鬼面の下から漏れるのは、童のように無邪気な喜悦そのものだった。  そう、真実彼は愉しんでいた。この人間兇器は、いまや一切の制約を外され解き放たれているのだから。  面の下に刻んだ皺の数よりも、男は殺人の技芸を研ぎ上げてきた。千年に渡りこの国の暗部に伝えられてきた武威の極みを、一切使うことなくひたすら肉体に溜め込んできたのだ。  甲斐なき人生。しかし男は黙して忍び、ただ信じて待ち続けた。この業、この威を十全に振るう戦働きが与えられる日を、〈鍛〉《、》〈え〉《、》〈終〉《、》〈え〉《、》〈た〉《、》後もひたすら一途に焦がれていたのだ。 「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ」  そして今、男の望んだ〈瞬間〉《とき》は来た。  それも相手は、亡国をもたらす廃神の眷属。そこに不足はなく、恐怖などは端から慮外だ。むしろ護国を背負って闘う誉れが、生涯最高度の燃焼を心身にもたらしている。  しかしながら、多勢に無勢はいかにしても覆しようがなく。  万はおろか億にも達する魔群に呑まれ、総身は見る見る朱に染まっていく。  悪鬼を砕き割り裂く拳は、自らも半ば以上が白骨を曝していた。鬼面にも大小無数の亀裂が入り、あたかもその下の肉体が持つ限界強度を示しているかのようだ。  今、怪士が振るっている業は〈邯鄲〉《ユメ》の力などではない。その危険すぎる性情ゆえに四四八の許可が得られなかったという顛末だが、本人はまったく頓着していなかった。  もとより、他者の若さを吸い取るという彼の夢は、あまりにも巡り合わせが悪い己が人生に対抗するためのものでしかない。よって、好きに暴れられる場を得られた今となってはどうでもよいものなのだろう。  ただ純粋に、老人は鍛え上げて血肉に刻んだ武術のみで闘っている。それ自体が超常の域まで達してはいるものの、あくまで人間業の範疇にあった。  ゆえに万軍を退ける奇跡などなく、この圧倒的と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい数の差には抗えない。むしろ、未だに原型を留め立ち続けているのが不思議なほどだ。 「遊ぶ子供の声聞かば、わが身さえこそ〈動〉《ゆる》がるれ」  しかしそれでも、怪士は不倒。すでに重篤の域など超えている数多の致傷も、入神の技を一向に衰えさせようとはしなかった。  激痛は歓喜に。劣勢は法悦に。死の予感など、殺し殺される醍醐味を前にしては霞ほどにも感じられない。  男が望むのは、ただ続行。もっと、もっと、もっと――この〈瞬間〉《とき》の中に身を置いていたいという、その一念。  そして驚くべきことに、鬼面はなおも笑っていた。 「カカ、カカカ……クカーッハッハッハアァ!」  片腕が消失し半身が抉れ消し飛びながらも、怪士は高らかに哄笑を上げ続けた。  その姿はもはや、血肉をまといつかせた魂だけとでも言うべき有様ながら。  怪士は決して倒れない。主役の座は譲らんとばかり、押し寄せる魔群の怒涛に仁王立つ。 「仏も昔は人なりき……我も遂には仏なり……クキキ、キヒッ。  ああ楽しいのう、楽しいのう……」  そしてようやく、怪士はその奮迅を止めつつあった。  立ちながら朽ちゆく鬼面の男を、凶将陣が包み込み……その輪郭すべてを濁流に沈む枯葉のごとく呑み込んでいった。  ……やがて魔群が通過し、静寂と化した七里ヶ浜。  その後には、不倒のまま絶命した怪士だけが残された。  これは己の晴れ舞台。この日のために己は産まれ生きてきたのだと、屍の背中は誇らしげに謳っている。  彼は死した今も闘っているのだろう。  もはや誰も永遠に、その至福の〈瞬間〉《とき》を奪うことはできないのだから。  ――この長い廊下を歩くのは、これが初めてではない。  緋色の絨毯がどこまでも続くようなこの景観を、彼は確かに憶えている。  足裏に伝わる感触や空気の質感。それらもまた、忘れようがないものだ。  しかし。 「…………」  鳴滝淳士が感じているこの既知感は、そうした感覚情報という外的要因がもたらすものではなかった。  かつて今と同じように、一組の男女を目指してこの廊下を歩いていた時の記憶……つまり内的な要因こそが、そう感じさせている。  何もかもが〈あ〉《、》〈の〉《、》〈時〉《、》の焼き直し。感じる気分はまさにそれ。  五感の一つが〈と〉《、》〈あ〉《、》〈る〉《、》差異さえ伝えていなければ、そのまま錯覚してしまいそうだ。  その差異とは嗅覚が訴えていた。すなわちそう、香りである。  かつて辰宮邸の長い回廊を満たしていた、理性の芯を蕩かすようなあの媚香が今はない。  あの香りは、この空虚なまでに広大な館の主……辰宮百合香が巡らせたある種の結界だとも言えたのだろう。夢における彼女の王国に踏み入りし者への、抗いがたき魅了の〈魔法〉《わな》だ。  その魔香が、今はもう絶えている。  なぜなら現在、この屋敷が存在するのは現実の世界だからだ。夢の中ではない以上、そこに属する超常は盧生の許可がなければ持ち出せず、そして四四八は彼女に与えていない。  その判断の根拠は辰宮百合香の危険性というよりも、彼女の心や将来を案じたがゆえのことだろう。もともとあの令嬢も、自身の夢を厭うている部分があったのだからなおさらだ。 「ハッ――」  しかし、それがどうしたと言うように、淳士の口元から零れたものは自嘲の吐息。 「そんなもの関係ねえ……どのみち俺にゃ、同じことだ」  苦い呟きを噛み締める。そう、自分はもう〈そ〉《、》〈の〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》に気付いてしまったのだから。  〈巌〉《いわお》のように盛り上がった肩をすくめ、うつむく視線は足下へ。踏み出す一歩ごとに揺れてやまない、己の影法師を見つめていた。  単調な歩みが追憶を呼ぶ。自嘲の理由たる、ある男に投げつけられた言葉が脳裏に響いた。 「馬鹿はこの俺だったか……」  そう、自分もまた〈同〉《、》〈類〉《、》だった。そのことに、今この館が示す客観的事実――〈香〉《、》〈の〉《、》〈不〉《、》〈在〉《、》が動かぬ証拠を突きつけてくる。  思い出す。かつてここに満ちていた誘惑の魔香は、千信館の仲間内で自分だけにはその効果を及ぼした節がなかった。  その真相が今こそ明らかになったのだ――と言うほどのことでも、実はまったくない簡単な理屈。  鳴滝淳士は、とっくの昔に魅了状態にあったということ――  辰宮百合香に、骨の髄から狂わされていたということ――  要約すれば、結論はたったそれだけのことに帰結する。  何とも呆れる。馬鹿馬鹿しい。邯鄲の夢に入る前から、心はあの女に奪われていたのだ。  だからこそ〈魅了〉《ユメ》は淳士に通じなかったし、なるほど道理だ。正常な者を狂わす手管であるのなら、既に狂っている者には無用だろう。 「……くそッ!」  舌打ちを飛ばし、噛み締めた奥歯を軋らせる。意味の分からない悔しさと苛立ちが共にあった。  仲間と共に邯鄲を突破し、本当の記憶を取り戻した今の淳士は、かつて現実で知り合ったときの辰宮百合香を思い返す。  初めから妙に気に食わない女だった。  苛立たせる女だった。  その印象は夢で記憶を無くしたまま会ったときも変わっていない。だから彼女に抱く感情を定義するのは難しいし、どだいこの手のことに疎い身なので率直なところ色々解せない。  だが思えば、自分がことさら意識した女というものが他にいないのもまた事実だ。そして状況を並べる限り、結論は先に挙げたものしか有り得ないと分かっていた。  よって否定できない。できないことが、なお鬱憤めいた感情を発酵させる。  だからと言って歯の浮くような睦言など、自分に言えるはずもないだろう。罵倒と〈悪口〉《あっこう》の類なら、千だろうと吐き捨てられそうなものだというのに。  そんな不合理な感情を自分に押し付けてくる、辰宮百合香が心の底から疎ましい。いっそ消えてなくなればいいとさえ思うが、それに耐えられないであろう自分が見えてまた悔しい。  なぜなら結局のところ、淳士は百合香を捨ててはおけないからここにいるのだ。なんのかんのと言い訳しても、彼女が気になっている事実は揺るがない。  そして鬱憤は、心乱す面影に対してのみならず……同じ女を挟んで相対する男へもまた、向けられていた。 「幽雫……」  あの男に対する苛立ちは、煎じ詰めれば同属嫌悪にすぎなかったのだろう。  たちの悪い女に〈逆上〉《のぼ》せ上がった盲目の愚者。そんな鏡像を突きつけられているようで…… 「……いや、だけじゃねえ。ああくそ、わかってらぁ」  自分はまだ己の心に向き合えてはいない。首まで泥に浸かりながら、なお無駄な格好をつけている。  まったく、滑稽すぎるにも程がある話だろう。そんなことでは駄目なのだと、敗北の記憶が鞭を打つ。  認めろ。言葉に刻め。さもなくば、待つのはただ繰り返しの結末だ。何度挑もうと覆せずに終わってしまう。  自分が性懲りもなくこの館へ来たのは何故か。事ここに及んでも、あの女を無視できない理由とは何なのか。  それを今こそ―― 「ああ、何度だろうが認めてやらあ。  楽じゃねえだと? くそが、舐めんな」  顔をあげ、きつく歯を食いしばりながら、淳士は獣じみた唸りで自分の心を口にした。 「俺は、〈百合香〉《あいつ》に惚れている…… 他の誰にも渡したくねえんだ」  吐き出した。  己が腹を掻っ捌き、生き胆を引きずり出すかのごとく苦しげに。  自分にとってだけは、何より〈重〉《、》〈い〉《、》本心を。  宣戦布告めいて甚だ無骨な、だがそれは確かに愛の告白に他ならなかった。  そして同時に…… 「幽雫――てめえの馬鹿さ加減も一緒に叩き直してやる」  激情は、恋敵にさえも向いていた。  それもまた、切り離せぬ自分の〈本心〉《まこと》であるのだから。  馬鹿を倒せるとしたなら、本当に頭のいい利口者か、その上を行く馬鹿者だけ。幽雫自身の言葉である。  そうだとしたなら、自分が選べる道は後者でしかありえない。よってなるべきは、いわば究極の馬鹿。  あのどうしようもない阿呆女が好きで、あの救われない石頭の恋敵が放っておけず、ゆえに血を流してでも割って入る。  愛した女のみならず、殺し合うべき恋敵にさえ手を伸ばす。なるほど確かに、そんな〈う〉《、》〈つ〉《、》〈け〉《、》は致命的に処置なしだ。究極の愚者と呼ぶに恥じぬだろう。  しかしそれこそが、自分にとっての戦の真。  鳴滝淳士にとっての〈魂〉《おもさ》であり、奉じるべき誇りなのだ。 「悪いな柊。どうやら俺にやれそうなのは、こんなあたりが関の山だ。  なんせ自覚した馬鹿だしな。どうにも救いようがねえ」  まさにこの瞬間、空亡に対峙しているはずの仲間たちを思い浮かべる。  自嘲の言葉は、しかしどこか誇らしげに呟かれた。  こんな自分が仲間に恥じぬ何かを持っているとしたならば、それはこの意地に他なるまいと思っていたから。  気に食わない奴はぶん殴る。ただそれだけの、単純明快な自分のルールから逃げないことがすべて。 「だから、馬鹿は馬鹿なりに貫くぜ。これから俺の全力で、気に食わねえ何もかもをぶん殴りにいくからよ。  〈自分〉《てめえ》自身からケツをまくるのは、もうやめだ」  そう決意したからこそ、淳士は冷静に思考する。  考えるのは彼我の戦力差。同時に、幽雫宗冬という自分にとって最強の敵を破る法。  夢を駆使した闘いを心技両面で推し量るなら、もはや心の面で淳士は負けていない。百合香への慕情を認めたことで、宗冬と同じ土俵に立てている。しかしそれでは、五分止まりだ。  となれば後は、技の面。純粋な力量の凌ぎ合いということになる。  癪ではあるが、ここでの劣勢を淳士は認めざるをえない。基本的な戦闘能力において、戦真館の初代筆頭たる宗冬には未だどうしても及ばない。  実力で勝る相手に、劣位の側が勝るにはどうするか。兵法に照らすなら、それはやはり常道以外の奇手や秘策の類となるだろう。  前者は優位に立つ相手の裏を掻き、時には騙まし討ちのようなこともせねばならない。有体に言って淳士には向いていない闘い方であり、まして宗冬が油断や慢心を見せる隙など想像もつかまい。  では後者はと言えば、まず〈秘策〉《それ》を用意するだけの時が必要だ。待ったなしの今、その猶予はやはりないように思えた。  そこまで考えを巡らせたとき、前方に忘れもしない扉が見えた。  運命の終着点に、鳴滝淳士は至ったのだ。 「…………」  彼は無言のまま、己の頭を分厚い掌で触れていた。そこには何の変哲もない木綿のバンダナが巻かれている。  〈千信館〉《トラスト》と〈戦真館〉《トゥルース》。どちらの時代でも、常に淳士のトレードマークとしてきた寡黙な戦友を軽く一撫でして。 「分かってるって。信じてっからよ」  そう苦笑しながら呟いたのは、果たしていかなる心情だったのか。 「――――」  そして扉に両手をつき、自然体のまま体重を預け押し開けていく。  焦りはなく、気負いもない。  扉の先に待つのが何であるのか、すでに淳士は知っているのだから。 「よう」  豪奢な部屋の中で、〈そ〉《、》〈の〉《、》〈光〉《、》〈景〉《、》のままでいる二人へと。 「待たせたな」  よどみなく静かに、淳士は声を投げかける。  見飽きた映画の中のように、女の白い胸へ剣先を振り下ろさんとする、幽雫宗冬と視線が出遭った。 「そいつの前に俺と片をつけるのが筋だろう。そうじゃねえのか?」  あくまで静謐は保たれたまま、しかし対決は既に始まっていた。  億年をかけて胎動する大氷河の流れのように、二人の精神は音もなく、しかし激しく戦意を交錯しあう。 「その通りだ」  宿敵は〈毫〉《ごう》とも表情を変えず、淳士の登場を当然のように受け入れていた。  そう、こうなることは宗冬もまた知っている。この再戦を約したのは、彼の方だったのだから。 「おまえの答えは見つかったか?」 「確かめてみろ。〈自分〉《てめえ》でな」  鋭剣の先が持ち上がる。  鉄拳が固く握られる。  共に等しく鍛えあげた両者の武器が、ただ一輪の花の前で対峙する。 「ああ、淳士さん…… ああ、宗冬……」  その中で、百合香だけが〈あ〉《、》〈の〉《、》〈時〉《、》のまま変わらない。フィルムに焼きつけられた〈登場人物〉《ヒロイン》のように。  〈観〉《、》〈客〉《、》〈席〉《、》から舞台を見上げ、甘美な陶酔に身をゆだねていた。  彼女はいまだ分かっていない。男たちの血が、誰のために流されるのかを。 「行くぞ――」 「――来い」  そして、拳と剣は再びの激突を演じる。  この辰宮家という牢獄の魔境に幕を引くため、その先にある何かを目指して、互いに引かれ合うように。  ロシア帝国機甲獣化聯隊・ゲオルギィ――それが自分に与えられた〈役割〉《クラス》だが、厳密なところ私はロシア帝国の人間ではない。  なぜなら私が生まれたとき、すでに帝国は革命によって滅んでいた。ゆえにこの身は、誕生からして亡霊だったのかもしれない。  否……亡霊であったなら、むしろどれだけよかったことか。それは少なくとも、かつては何者かであった証があるということなのだから。  個としての自由意志、こう生きてこう死んだという唯一無二の生の軌跡が。  そんなものさえ、キーラ・ゲオルギヴナ・グルジェワには存在しない。  真実はお父様の妄執、彼の狂気を具現するための兵器でしかなかった。  この血もこの骨も、その思想実験のための素材であり装置であり続けた。  生まれ落ちてから、そうでなかった日はただの一度とてない。  すべては、生まれ持ったこの二つの〈眼〉《まなこ》が決定付けた運命。  黄金に狂おしく燃え立つ、異形の魔眼が。  魔術師と呼ばれた男、ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ。  その思想とは人間の進化。神ならぬ身にて、同属をより高次の領域へ昇華させることにあった。つまりは、人造の超人を世に生みだすこと。  この時代、そんな魔術師くずれは欧州界隈でそう珍しくもなく見かけられた。英国の〈黙示録の獣〉《クロウリー》もその一人だ。  だがお父様には、それら誇大妄想狂と片付けられがちな神秘家たちとは決定的な差異があった。  それこそが、娘に宿った天与の魔眼。  〈魔術師〉《グルジエフ》の血脈が輩出した、奇跡を生み出す一対の宝石。  この黄金瞳の力とは、王者のごとき〈支配力〉《カリスマ》だ。つまり他者を問答無用で平伏させ、意のままに統率する異能。  王の瞳に屈した者は、自らの個を維持することさえできなくなる。〈領土〉《さいぼう》の一片に至るまで、〈王〉《わたし》に捧げてしまうのだった。  私には二人の妹がいた。本来は三つ子としてこの世に生を享けたのだ。  私が王として最初に支配し屈服させたのは、その自分の妹たちだった。  それがロムルスとレムス。もちろん幼子であったから、無意識の所業には違いない。  だがそれは、お父様にとってある悪魔的な着想に至ったきっかけとなった。  超人創造の夢。  いや、それが目指す先はもはや人の域ですらなかった。優れたものであるならば、どんな姿であろうが構わないと言わんばかりに。  人間を人間たらしめる境界線。道徳的にも科学的にも存在するだろうその一線を、狂気の探究は易々踏み越え突き進む。  〈足〉《、》〈り〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈の〉《、》〈な〉《、》〈ら〉《、》〈継〉《、》〈ぎ〉《、》〈足〉《、》〈せ〉《、》〈ば〉《、》〈い〉《、》〈い〉《、》。そんな児戯めいた足し算思考の一本槍で、お父様は超人――否、超獣の創造という〈狂気〉《ゆめ》に没頭していく。転がり落ちていくかのように。 「アアアアアアアァ――ッ!  やめて! やめて! お願いどうかお父様!  それはわたしの手じゃないの。それはわたしの足とは違うものなの。  切り刻まれるのは痛いの。縫い合わされるのは苦しいの。  だからお願い、いい子になるから…… 〈わ〉《、》〈た〉《、》〈し〉《、》〈に〉《、》〈誰〉《、》〈か〉《、》〈を〉《、》〈繋〉《、》〈げ〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈で〉《、》!」  行われたのは、呆れるほどに即物的な外科手術。刃物で皮と肉を切り、鋸引きで骨を断ち、接ぎ木のように傷口同士を縫合する。  もちろんこの時代の医学にそんなことを可能にする技術はないし、お父様は医師ですらない。そも他人の手足や器官を〈く〉《、》〈っ〉《、》〈つ〉《、》〈け〉《、》〈た〉《、》からといって、それが機能する道理があるか?  だが、魔眼がそんな出鱈目を可能にする。黄金瞳に支配された者たちは私の一部も同然となり、生体組織は融合した。  そして私に繋げられた者は、どんなことをされても死ななくなる。〈王〉《わたし》の一部となって生き続けるのみ。二度と離れることはない。  それでも足りない。届かない。お父様が満足する日は、いついつまでも来なかった。  天まで塔を積み上げるように、悪魔の試しは終わらない。  人の歯では脆すぎるから、骨まで砕ける牙を生やそう。極寒の環境に耐えられるよう、毛皮で肌を覆ってみよう。大きな敵を引き裂く爪も、風より速く走れる脚も必要だ。  〈王〉《わたし》の〈領土〉《にくたい》に加わる者は、やがて獣の領域にまで拡大する。生物種として人間は脆弱の部類に入るのだから、より強靭な肉体を求めた結果の必然か。 「痛い痛い痛い――!」  〈王〉《わたし》に繋がれた者は、どんなに切り刻まれても死にはしない。けれど痛みが消えるわけでは決してなく。  〈共〉《、》〈有〉《、》〈さ〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》〈激〉《、》〈痛〉《、》が、来る日も来る日も〈私〉《、》〈た〉《、》〈ち〉《、》を責めさいなんだ。訴えるどんな悲痛な慟哭も、お父様には届かない。  なぜならもはや彼の世界は、赤い血肉と白い骨だけがすべてだったから。  ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフは探究の果てに精神というものの可能性を見限り、絶望していた。ゆえに当然、心というものが分からない。痛みというものを忘却して、欠片も残さず見失っている。  いや……あるいは超人なるものの精神は、人間という脆弱な〈肉体〉《うつわ》には収まらないと考えていたのかもしれない。  だからこそ異常なまでの改造手術に没頭し、肉体というものに執着した。そう考えるのが妥当だろう。  人と獣の別もなく、その身体を切り刻んでは別の身体に合体させるという行為を、飽きもせず延々と続けていくお父様。  それは紛れもなく、狂気の所業に他ならない。明らかに正常な思考ではないし、人倫を冒涜する邪悪な行為だ。  けれど、私が真に恐怖したのは切り刻まれる痛みではなく…… 「お願いお父様。もうこれ以上繋げないで。  わたしが見えなくなってしまうから。  わたしはずっとここにいるの。 だからお願い、わたしだけを見ていてお父様――」  そう。私は己が何者なのかすら、徐々に分からなくなってしまった。  〈自己同一性〉《アイデンティティ》の危機。キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワとは、人間なのか獣なのか。個人なのか群体なのか。そんな意識さえ、日々分からなくなっていく。  分からないまま、しかし増していくのはただ憎悪。  その座標が父という〈人〉《、》〈間〉《、》に向けられていくのは語るに及ばず。  自分は人間を超えた獣。そう望まれ創られし者。  ならばあんな生き物と同じであるはずがない。  爪を鋭く研ぎ澄まそう。牙の強さを誇りとしよう。  キーラ・ゲオルギヴナ・グルジェワは、自然界最強の超獣だ。  死ねよ〈人間〉《れっとう》。私は鋼牙、狼だ。見下すことなど断じて許さん―― 「と……そうなるべく導かれたのかもしれないか」  だとしたら――と、つかの間の回想を打ち切りつつ。  銀雪の髪を靡かせた少女は、自嘲しながらも誇らしげに……しかしやはり苛立たしげに呟いた。 「ならばこのキーラ、流石はお父様と感服いたしましょう」  ロシア帝国軍大佐という軍籍や皇帝への忠誠という、既にこの時代に存在しない形骸を自分に与えたのも思えばそうだ。  帝国という力の論理を結晶した概念が、獣としてのキーラの〈精神形態〉《ありよう》に合致すると見なしたからこその〈配役〉《キャスティング》だったのだろう。  キーラ・ゲオルギヴナ・グルジェワは、父を憎みながらも讃えている。  地獄の苦痛を耐えるためには超獣としての自負と矜持が必要で、ゆえに己の創造主たるグルジエフは肯定せねばならなかった。たとえ、この世の誰より憎悪すべき対象であったとしても。  かくて、獣としての誇りで人の感情を押し殺しながら、歪んだ依存構造が完成する。  人としてのキーラは、父を心の底から憎悪している。  獣としてのキーラは、父を心の底から賞賛している。  人獣一体であるがゆえの二律背反。しかし、その〈均衡〉《バランス》はあくまで際どい紙一重。それが崩壊した時、爆発するのはおぞましいばかりの狂気であることに疑いはないだろう。  それが、キーラという〈人間〉《けもの》の真実だった。 「さあ、狩りの時間だ」  根源の本能にして最大の目的。  それを思い出したかのように、牙の女王は終末の〈決戦〉《とき》迫る〈邯鄲〉《ユメ》が溢れた空を仰ぐ。 「ゆくぞ我が子ら――天に咆えよッ、牙を鳴らせィッ!」  銀狼の毛皮で編まれた外套が、巨鳥の翼めいて翻る。  砂塵と衝撃波が渦と化して大気を震撼させる。  地を蹴り飛翔したキーラの姿は、既に遥か上空高く。戦場目指して天翔けるがごとく、白銀の流星となり疾駆していった。  戦真館の営庭に、我堂鈴子は立っていた。  空亡との決戦に向かう四四八たちとは別れての行動。その理由は、やはり辰宮邸に向かった淳士と同じである。  すなわち、唯一無二の決着をつけるため。  自分でなければ幕を引けない相手がいる。  これは因縁で、同時に義務で、アレは必ず匂いを辿ってでもやってくると分かっていたから、鈴子はこうして一人待っていた。  いや、一人ではない。影のように鈴子の傍らに佇む立ち姿があった。  暗色の装束をまとった女。夜叉である。  取り立てて互いに向き合うということもなく、二人は自然体で同じ空間を共有している。 「ねえ、ひとつ訊いてみてもいいかしら?  こういう道行きなんてそうないだろうし、いい機会だと思うから」  強さを増してきた風に黒髪をさらしつつ、相方へと言葉を向けたのは鈴子。 「はい、何でしょう」 「あんたの本名、そういやまだ知らないままだったわ」 「知りたいのですか?」 「いい機会だから訊いてみたっていうだけよ。気が進まないなら、言わなくても構わないわ」  夜叉は、しばらく間を置き。 「〈千早〉《ちはや》」  一言、そう答えた。 「ですが、〈百〉《もも》と呼んでください。  きっとあの子も、あなたと一緒に闘いたがっているはずだから」 「分かったわ――〈百〉《、》。  あんたとは結局決着もついてないし、そのうち白黒はっきりさせたいからそれまで死んだりしないでね」 「ええ。善処しましょう」  ここでの会話はそれで終わり。先の言葉通り、二人は過去に争った者同士なのだが、互いに警戒している様子はまったくない。  少なくとも鈴子にとって、今この場の夜叉を敵と見なす理由は何処にもなかった。  なぜなら四四八が、彼女に夢の力を使う許可を与えているから。  今の四四八は自分たちの記憶をすべて統合した状態であるらしく、つまり何もかも知られているわけなので色々と複雑な気持ちもあるにはあるが、その上で夜叉に許可を出したのだから信じていい。  まあもとより、そういう理屈などなくても自分はこの状況を受け入れていたのかもしれないが。  そんな風に思いながら微笑しつつ、鈴子は頷き―― 「来るッ!」  南天の彼方を見上げ、弾けるように躍動していた。夜叉もまた同じく。  最初に感じたのは圧倒的な気配。それは秒を待たず、実視界に映る凶影となって地上に迫った。  堕天する銀の流星が、戦真館営庭に激突した。  爆轟と共に砕け散った地盤を蹴散らし、進み出たのは忘れもせぬ異形の獣戦車だった。  同時に、一帯を震わせはじめる激烈な地鳴り。まるで天空からの来訪者に呼応するかのごとく、荒ぶる地脈は活性化を始めていた。 「待ってたわよキーラ。さあ決着を付けましょう――」  武器となる薙刀を創形し、射抜くように宿敵の名を呼ぶ。  果たして御者を収めた玉座には、これもまた忘れえぬ銀の牙姫の姿があったが、しかし―― 「……なに、よ?」  キーラ・グルジェワは鈴子を見ていなかった。夢遊病者のように力なく玉座に佇んでいる。その瞳は、虚ろに中空を彷徨っていた。  表情もまた不変ながら、唇だけが微かに動いている。ぶつぶつと、呆けたままで何やら言葉を紡いでいた。 「お願い、お父様…… もうこれ以上、私に誰かを繋げないで。  ほら、私たちはこんなにも大きく強くなったから。誰にも負けない狼の群れに……」  言葉の意味は分からない。だが滲み出る腐汁めいた妄執の熱量に、鈴子の背筋に怖気が走る。  一見静かな外面は、ただその下にあるものに蓋をしているだけだと悟ったから。あれは予兆、反作用の顕現だ。大津波が押し寄せる前の引き潮に等しい。  今この瞬間にも、何が起こるか分からない。そして、起こってからではすべてが遅い。ただその一点だけは理解できたからこそ…… 「今すぐ奴を仕留めましょう。このままでは終わりますよ」  鈴子の結論を先取りしたように、夜叉もまた一片も迷わず言い放った。  攻防が発生する前の先制により、戦闘そのものの因果を摘み取る。彼女が極めた暗殺術とはそういう概念に基づく闘法であり、その〈戦闘哲学〉《メソッド》が選択した決断でもある。  事実、今のキーラはこれ以上なく隙だらけだ。好機として狙い撃たぬべき理由はない。  だがその瞬間、足元が一段と大きく揺れ跳ねた。激化する震動に地殻は悲鳴をあげ、鈴子たちの眼前に巨大な傷口を曝け出す。戦真館の営庭が大きく縦に裂けたのだ。  地獄まで直通で繋がっているかのような、深い深い暗黒の亀裂。そして…… 「――――」  まるでそれが、自身の心に噴出した裂け目であるかのように、深淵を見たキーラの表情が初めて動いた。  緩慢な動きで視線が巡る。初めて出会った者同士のように、鈴子たちを凝視してから、か細く一言。 「私を……見ないで」  そして、驚くべきことに微笑したのだ。過去あまたの局面で鈴子らを蹂躙した、残虐無残な野獣の哄笑ではなく。  年端もゆかぬ迷い子のように、泣き笑いめいた表情を浮かべたと見えた―― 次の瞬間。 「――あッ」  眼前で発生した、それ以上の驚愕に鈴子は呆然自失した。  キーラの身体が重力を失ったのように、ふわりと背から倒れこむ。戦車から滑落した真下にあるべき地面には、生じたばかりの巨大な地割れが大きく口を開けていた。  千尋の奈落へと、妖精めいた白貌の少女は呑み込まれ墜ちていく。深く深く、どこまでも。 「な……これはいったい……?」  夜叉もまた呆然としている。たった今目にしたキーラの行動は、結果だけを見れば疑いなく自殺。  暴虐の権化とも言える獣の女王には、天地が入れ替わろうと有り得るはずがない行動だった。獣は自死を選んだりなど絶対にしない。 「分からないわよ……私だって……」  鳴動する大気と地盤の唸りだけが、不気味な波動となって二人を取り巻いていた。  ――〈獲物〉《にく》だ! 〈獲物〉《にく》だ! 〈獲物〉《にく》のにおいだ!  柔い肉を喰い尽くそう。溢れる血潮を飲み干そう。腸や目玉も残すなよ。  誰もここから逃がさない。そう、狩るのはわたし、獲物はおまえら。  ――狩りだ! 狩りだ! 狩りの時間だ!  みんな集まれ、遅れるな。 〈わ〉《、》〈た〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》〈ち〉《、》〈は〉《、》〈ひ〉《、》〈と〉《、》〈つ〉《、》〈だ〉《、》。  鈴子と夜叉の自失はそう長く続かなかった。破ったものは、轟音と衝撃。  一瞬にして、キーラの乗っていた戦車が〈消〉《、》〈失〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈た〉《、》。  いや、正確には依然そこにあるし消えていない。ただ押し潰されて見えなくなったというだけだ。  つまり戦車があった場所に、別の巨大な物体が落ちてきたということ。  それは手。人間の右手。ただしそれは、一軒家並みの大きさを持っていた。 「ばっ……」 「そん、な――」  地上の二人が見る見る影に呑み込まれていく。〈人〉《、》〈型〉《、》〈の〉《、》〈影〉《、》に。  蝿を叩くように戦車を圧潰した右手に続き、地割れの底から巨大な左手が出現した。そして頭に上半身。絶望が形を取ったような、それはまさに雲衝く大巨人の姿に他ならない。  スケール感が麻痺していた。我が身から逆算してみれば、その巨体は少なく見積もっても五十メートル。いや、もっとだ。 「あれは――」  その全容を見上げ終えた瞬間、鈴子はようやく看破していた。  そびえ立つ巨体の各部を構成しているのは、そのすべてが人間だという驚愕の事実に。  あれは鋼牙の総軍だ。キーラの指揮下にあった機甲獣化聯隊の全兵士が、まるで一つの生き物であるかのように密集して組み合わさっている。ある者は顔の一部を成し、ある者は指先を成し、ある者は足を……というように。  それは統率された獣の連携。人の輪郭を帯びてはいるが、この大怪物こそは人間を超え獣を超えた超獣と呼ぶに相応しかった。  もはや疑いようもなく、これがキーラの本性であると理解する。そして同時に、過去における一つの謎が解けていた。  四層突破の直後、戦真館に攻め込んできたキーラと戦ったときに体験した不可視の脅威が。 「そういうことだったのね……あのとき私たちをやった〈あ〉《、》〈れ〉《、》は……」  残骸と化した戦車を見れば、まざまざと思い出すのはあの時の衝撃だ。指先一つも動かさずに、自分たちを瀕死に追いやったキーラの異能。  あれは何もしていなかったわけじゃない。ただ、〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》が見えていなかっただけなのだろう。  全長数十メートルの大巨人。あのとき味わわされた謎の蹂躙は、その巨体で単純無比な物理攻撃をしてきただけ。  当時それが認識できなかったのは、単純に力の差が歴然だったから。隠蔽、偽装、次元が違いすぎる〈実力〉《ユメ》を前には、何をされたかの理解さえ及ばぬまま潰されるしかない。  そして今だからこそ見えた、この醜怪なる狂気の戯画こそキーラ・グルジェワの真の姿。  だがキーラは今、見るなと告げたはずのその〈狂気〉《すがた》を余すところなく曝け出している。 「つまり、絶対生かしておかないって宣言よね。〈そ〉《、》〈れ〉《、》を見せた私たちを……  あんたの本気、全身全霊で」  そう理由を喝破した鈴子に応えるかのように。巨大なる人間城の天守閣ともいうべき眉間の位置に、白い柔肌が人肉の海から浮き上がった。  三千の肉塊を動かす司令塔。怪異すぎる威容の中で、そこだけが神聖なまでの美しさを誇っている。のみならず、その左右にもキーラと瓜二つの少女が二人、寄り添っていた。  閉じていた白貌の瞼が開いた。  地獄の太陽のような黄金瞳が、絢爛たる狂気の輝きを放ち矮小なる下界を睥睨する。 「グオオオオオオオオオオオオオォォッ!」  そして破滅を告げる〈喇叭〉《らっぱ》のごとく、人外の叫びを三重奏で轟かせた。 「薄汚い人間〈輩〉《ばら》、骨も残さず喰らい尽くしてくれるわ!」  鋼牙の女王が咆哮する。それに唱和するように、超獣巨人の全身で三千の〈赤口〉《しゃっこう》が一斉に開いた。  壊れたような轟き渡る狂気の怒号。聯隊規模の大音声に、戦真館の校舎が崩れんばかりに震盪する。 「あは、はははは、ははははははははははは――――!」  おお帝国、我が領土。今こそ地上に顕現せり。  そう朗々と吼え猛るは、鋼牙の女王。そして三千の眷属ども。  我堂鈴子とキーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。  向かい合う両者の決戦は、今まさに最終局面を迎えようとしていた。  〈気流〉《かぜ》の中を、〈疾風〉《かぜ》となって翔けていく。  踏みしめるべき大地は、遥か彼方の足下に遠く。栄光は、宙を蹴りつけひた走る。〈解法〉《キャンセル》により重力を反転。無窮の〈虚空〉《そら》を、弾丸よりも速く飛んでいく。  目指す彼方は、相模湾北西沖80キロメートルの洋上。  すなわち、帝都を壊滅させんとする関東大震災。その震源地となる座標に他ならない。  そこは運命の終着点。自分、そして〈邯鄲〉《ユメ》に関わった仲間たちの未来を決めるべき一戦が、その場所には待っている。  そう、決戦。泣いても笑ってもこの帰趨がすべてを決するだろうことは、栄光にも分かりすぎるほど分かっている。  だと言うのに、身体は恐怖に竦んでいない。  死が、敗北が、恐ろしくないわけでは決してない。そんな勇壮とは無縁なのが自分だと、幾度もの死闘を通じて嫌というほど向き合ってきた。今の栄光だからこそ、自分の心がよく見える。  端的に言い切ってしまうなら、それはきっと優先順位の問題だ。  一秒一瞬ごとに迫りくる決戦の予感よりも、今自分が心砕くべき大切なこと。それが何なのかを分かっているから。それを蔑ろに遠ざけては、この戦に決して勝てないことも。  そう、栄光はもう知っている。幾度となく〈繰〉《、》〈り〉《、》〈返〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》今ならば、間違えようもなく理解している。 「ごめんな、野枝さん」  だから。  傍らを駆けるもう一つの〈面影〉《かぜ》へと、自嘲まじりに詫びたのだ。 「いつもいつも、会うたび忘れちまっててさ。馬鹿みたいだったろオレ。  野枝さんからしてみりゃ、もどかしくて頼りなくて愚図な男だったと心底思う。 そんなオレの言うことなんて、信じられなくて当たり前だよなぁ」  それでも、栄光の語気に怖じるところは一切ない。  かつては取りこぼしてしまったものを、今は確かに抱きしめていると感じられるから。  そして、二度とは手放さないと誓えるから。 「でも、今度は約束を守ったぜ。だから、オレはもう絶対に忘れねえ。  百万回生まれ変わっても、君のことが好きだってさ」  そう言って、〈あ〉《、》〈の〉《、》〈時〉《、》と寸分違わぬ言葉で口にした。  かくして愛の告白は、ここに昇華し再誕する。  〈永遠〉《とわ》の不朽を貫く〈誓約〉《ちかい》へと。 「つり橋効果って奴だっけ? 修羅場や戦場で一緒になるうち、相手のことを好きになってるっていう…… これは、そういう降ってわいたような感情なんかじゃ決してないんだ。  信じてほしい。オレは、大杉栄光は、伊藤野枝がずっと好きだったってこと。 この〈大正〉《げんじつ》で、〈邯鄲〉《ユメ》に入るずっと前から」  もはや〈い〉《、》〈つ〉《、》〈か〉《、》〈の〉《、》〈よ〉《、》〈う〉《、》〈な〉《、》迷いも衒いも、まして恥ずべきことなどあろうはずがない。  胸の真を〈言葉〉《イノリ》に紡ぐ栄光の顔は、だからかつてなく晴れ晴れと澄み渡っていた。 「夢の中で夢に融けて、この時代の人間だったことすら忘れちまってたオレだけど…… 野枝さんへの、この気持ちだけは忘れてなかった。  それが、オレの……馬鹿で間抜けで頼りない、オレのたった一つの誇りなんだ」  言うべきことは言い終えたと、満足げな顔を隠さない好漢を前に……頷きながら、野枝は小さく微笑した。 「まったく、栄光さんと来たら…… さっきから黙って聞いてれば、ご自分のことを馬鹿馬鹿と。どれだけ自虐をすれば気が済むんですか。  あまりそう本当のことを言われてしまうと、こちらとしても困ります。  同意していいやら、慰めていいやら」 「あたッ。はは、相変わらず野枝さんは手厳しいなァ」 「それに……私には謝る必要なんてないんですよ、そんなこと。  栄光さんがそういう不器用な男性なのは、ずっと前から承知ですし。  何も、今に始まったことじゃありませんから」 「あの時だって……」  情熱的すぎる栄光の〈求愛〉《せめ》を、影も踏ませず躱すように。唇を尖らせ横目で睨む野枝。 「うん? あの時……?」  野枝の不機嫌に不安を覚え、反芻したその言葉で何を思い出したのか。  栄光の顔が一瞬蒼ざめ、次いで真っ赤になって慌て出した。 「あわッ! もも、もしかして……」  蘇ったのは第六層での記憶。神祇省と闘ったあの時、自分は泥眼としての野枝と死闘を演じた。  最後まで泥眼を野枝と看破することなく、突っ走った果てに散華したのだ。両者ともども相討ちの形で。  怒ったような野枝の反応を見るに、心当たりはと言えばそれ以外に思いつかない。 「サーセンッ! その節は大変な失礼をばッ!  若気の至りとは言え、野枝さんの気配に気づけなかったなんて…… ああオレの馬鹿! 過去に戻ってぶん殴ってやりてえよ」  先までの気勢はどこへやら、ひたすら平身低頭に勤しむ栄光。 「別に気にしてませんから。まぁお互い様ですし」  しかし野枝はと言えば、どこ吹く風で素っ気ない。栄光にとっては、そんな冷静すぎる返しこそが針の〈筵〉《むしろ》だ。  そして同時に思い出したのは、指に刺さった棘にも似た疼きを感じさせる疑問。 「あの時っていや、野枝さん……」 「はい?」 「オレ、実はずっと分からないことがあったんだ」 「何でしょう?」 「あの時のオレは無心だった。作戦とか自分の命とか、全部考えないで突っ込んでった。  だから、オレの気迫が先読みの力に勝った。捨て身で一世一代の逆転を掴んだ―― ってな風には、やっぱどうしても思えなくてさ」 「…………」 「だってさ。いくら命懸けって言ったって、ただ頭から真っ直ぐ突っ込んでっただけだぜ?  どう考えても、あんなの野枝さんに対応できなかったはずはないんだよなァ……?」  栄光が言っているのは、つまりこういうことだ。たとえ何をするかという予測が不可能だったとしても、結局のところ栄光はただ相手への愚直な突進を仕掛けたにすぎない。  ならば、読みとは関係なく反射で回避や迎撃を行うのは充分に可能だったろうと。実際両者の間には、体術において雲泥の開きが存在していたはずなのに。  しかし結果、〈泥眼〉《のえ》は栄光にしてやられた。 「あの時の野枝さん、全然らしくなかったよな。  オレ、なんか特別なことやったっけ?」  そう言い横目で反応を伺う栄光。はたして当の野枝は…… 「さあ?」  曖昧に流したままで黙秘する。  その頬が何故か赤みを帯びていたことを、再び前を向いた栄光は見過ごしていた。 「仮にそうだとしたなら、栄光さんがあまりに馬鹿すぎるので驚いてしまっただけです」 「んなッ」  そして拗ねたような声で追撃。絶句する他にない栄光が、狐につままれたような顔で頭を掻く。 「ほんと敵わないよなァ……野枝さんには。  オレが〈主導権〉《ペース》握れる気が全然しねぇわ」 「では、もっと男を磨いて精進してください」  掴んだと思ったら逃げていく。そんな捉えどころのない、だからこそ追いかけずにはいられなくなるような〈女〉《ひと》。  そんな彼女が心から楽しげに笑っている。ならば今、自分が笑わない理由なんてどこにもない。  一刹那ごとに近づく破滅の鼓動。そんな風雲急さえ今この一瞬だけは忘れ、〈穹上〉《そら》の二人は無心に笑顔を交し合った。 「――月が綺麗ですね」  不意に、野枝がそう言った。月はかつてその台詞を聞いた時と同じように、夜空から二人のことを見下ろしている。  思えば、あの時は少しばかり不恰好な告白になってしまったと、栄光は思っていたから。ゆえにここは、今度こそ一世一代の殺し文句で返すべきだろう。 「いや、野枝さんの方が綺麗だ」  放った一言は、これ以上なく決まったはず。自分が女なら確実に落ちたと確信する。  事実、野枝は楽しげに笑っている。どこか苦笑いというか、呆れたような感じがしないでもないのが気がかりだけど…… 「まあ、栄光さんはそれでいいです」 「そ、そっすか。まぁ野枝さん的にオッケーなら何よりで」  寄り添うように飛翔する二人は、それきり口をつぐんでいた。  ついにそうならざるをえないまでに、空亡の影響を無視できない勢力圏内へ突入したのだ。まだ遥か外縁部とは言え、それでも凶障の波動は凄まじい。その残滓の一端に触れただけで、鳥の群も一瞬で腐り落ちるだろう。  凶神として放つ瘴気のみではない。もはや言うまでもなく、百鬼空亡は震災の化身だ。来るべき本震の刻へ向けて、空間そのものへ干渉する波動もまた、更に激化増大の一途を辿っていく。  それが空間そのものを押し流す〈空〉《、》〈の〉《、》〈津〉《、》〈波〉《、》と化して、栄光らへと殺到する。 「いよいよだ――いくぜッ、野枝さん!」 「はい!」  空間震とも言うべき破壊の波は、さながら万里を塞ぐ巨大な壁だ。雪崩のごとく、全方位から行く手を阻むその猛威。  〈解法〉《キャンセル》の〈邯鄲〉《ユメ》を具現化しつつ、押し寄せる不可視の怒涛へ突進する栄光。無論、野枝も一緒だ。  巧みな透の妙技を手操り、凶の波濤を潜り抜けてゆく。  繰り出す崩の一撃で、行く手の壁を蹴散らしていく。  雷雲の中を飛ぶ比翼の燕がごとく、天変地異に抗う矮小な飛影ふたつ。その行為は、氾濫した大河の上流へと力づくで遡るも同じだった。幾度も押し流されそうになるが、解法の出力を振り絞って加速を止めない。  だが〈前進〉《それ》は皮肉にも、絶望への接近を意味することに他ならず。 「くっ――これほど、かよ……」  不可避的に伝わってしまう脅威のほどは、いや増しに増していく。  背中を氷柱で貫かれるような、問答無用の悪寒と恐怖。栄光は嫌というほど理解せざるをえない。この先に待つものが、正真正銘の龍であり神そのものであるということを。  そう、これが本物であり本番だ。大正十二年九月一日、関東大震災当日の〈層〉《じだい》に降臨した零落の廃神空亡。その宇宙規模と言って差し支えない絶大な力の顕象である。  かつて〈第七層〉《ハツォル》で立ち向かった恐るべき力でさえ、何十分、何百分の一にも希釈されたごく一部でしかないという絶望感が心を挫く。  情けないことに歯の根が合わない。かつて、〈こ〉《、》〈れ〉《、》〈よ〉《、》〈り〉《、》〈弱〉《、》〈い〉《、》空亡を倒す際に味わった、文字通り身を引き裂かれるに等しい苦悶、それを思うだけで震えが身体を走ってしまう。気を抜いたが最後、魂が重圧で捻じ切られてしまいそうだ。 「怖いですか。栄光さん」  まるで、その恐怖を見透かしたようなタイミングで野枝が問う。 「ああ、怖い」  あっさりと肯定する栄光。しかし、その視線は邪気迫る前方を睨み据えて逸れなかった。 「だけどオレが一番怖いのは、野枝さんに嫌われることだから。  それに比べたら、こんなもの何でもねえ」 「お見事な空元気ですね。  ですが、栄光さんらしいと思います。  そんなことを言いつつ、何をするのかもう覚悟を決めてるあたりなども」  驚く栄光の反応は、その言葉が的を射ていたからなのか。そして野枝は続ける。 「あなたが、〈何〉《、》〈を〉《、》〈対〉《、》〈価〉《、》〈に〉《、》空亡へ立ち向かうつもりなのか。  私には、もう分かっているんです」  栄光の驚きは、バツの悪そうな苦笑へと変わる。野枝の冷たい視線に気づいたから。 「私に嫌われるのが怖いと言いましたね?  なら、どうしてそんな選択をするんですか」 「それって……つまり、もう野枝さんに嫌われてるってこと?」 「当然です。自業自得なんですから、責任持ってずっと嫌われててください。  〈私〉《、》〈は〉《、》〈こ〉《、》〈の〉《、》〈気〉《、》〈持〉《、》〈ち〉《、》〈を〉《、》〈忘〉《、》〈れ〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》」 「ああ、忘れない。忘れてたまるかよ」  栄光は破顔する。もう何も恐れることはない。  四四八も体現してみせたことだ。  心はモノじゃない。いくらだって湧き出てくるものなんだから。  そして――  儚いほどに小さき者たちが、誓いを交わした瞬間に。  巨大なるものもまた、ついにその目を爛と覚ましたのだった。 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ―― 六算祓エヤ滅・滅・滅・滅・亡・亡・亡ォォォッ!」 「おいでなすったな――」  眼下に広がる太平洋。その海面が突如、綺麗なほど真っ二つに断ち割られた。まるで地球規模の巨剣で斬られたように。  忽然と生じた大瀑布の底へ雪崩落ちていく海水……その水底から。 「空亡ォォッ!」  感覚が麻痺するほど巨大な、九頭の龍体が浮上する。  その〈巨〉《おお》きさは関東平野そのものにも匹敵すると謂われる、夢界最大の霊的質量が顕現した。 「おおおおお、おおおおおおおおッ」  高度を上昇させていく巨大なる龍。その全身に絡みついていた大量の海水が、遅れて真下に流れ落ちる。そして、上空数千メートルの高度から海面を一斉に爆撃した。  必然、生じるものは山じみた高さの〈大海嘯〉《だいかいしょう》。空前規模の大津波が、二人を……そしてその向こうの鎌倉、帝都を呑み込まんと殺到する。 「させるかよッ!」  〈解法〉《キャンセル》の崩を握りこみ、巨大津波へ叩き込む。小柄な栄光の拳一振りで、山脈にも達する水の長城は消滅した。 「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ、ぎゃァァァッぎゃっぎゃっぎゃっ!」  だが、それに留まるわけもない。ここに出現してしまったものは、神格化された大災厄そのものである。  ゆえにこれは、回り出したが最後二度と止まらぬ大車輪も同じ。万象因果を轢殺し尽くすまで、その怨念は発動を続ける。  甘粕という〈人智〉《ひとのて》により抉じ開けられた、常世の扉が鳴動した。黄泉へと至る奥底から、億兆規模の災禍が噴出する。 「やらせないッ!」  怒涛のような百鬼夜行。雲霞と群がる凶将陣を消し飛ばすのは野枝の解法、その一撃。  互いに劣らぬ〈解法〉《キャンセル》の使い手として、二人は獅子奮迅の働きを見せる。それは戦真館においてもこの両名にしか成しえぬ壮挙であったろう。  だが、対すべきは無尽にして無窮。抗うべきは天変地異を掌握する廃神そのもの。どれだけ末端を砕こうが、賽の河原の石積みよりも無益な徒労に終わるのみ。 「野枝さん――」 「はい。栄光さん」  無論、そんな帰結は二人にも分かりきっている。  だからこそ交わした視線に、お互い躊躇は微塵もなかった。 「行くぞォォッ――!」  元より、向かう先は後にも先にも一つしかないのだ。  巨星の重力に墜ちてゆく星屑のように。二人は激しく命を燃焼させ、迷うことなく突き進んでいく。  撃つべきは空亡本体。凶将、大津波、空間震が襲いくるが、これらすべては廃神の吐き出す残滓にすぎない。ひとつひとつに構わず、解法の透を全開に上げて突破する。  世の終末めいた天変地異の叫喚地獄を、二条の流星が眩い輝きと化し切り裂いていった。巨大すぎる九頭龍の威容を前に、それは蟻よりも矮小な存在にすぎなかったが……空間的距離なら間違いなく縮んでいる。  無論その報いとして、二人を襲う霊圧と魔障、そして空間そのものを破壊する激震の波動もまた増していく。 「くッうゥッ――」 「ああぁッ――」  解法に特化した二人とはいえ、それはあくまで邯鄲法という人の〈業〉《わざ》だ。  肉体という実存に縛られる人間が、夢という形のない力に自己の可能性を投射するための技術。つまりは霊的な弱者のための法とも言え、〈妖〉《あやかし》なり神なりというれっきとした形而上の存在を相手取るのは最初から分が悪い。人間が鍛えた武術で猛獣に立ち向かうようなものだ。  常識を超えて途方もない荒唐無稽を実現してのける、トリックスターのようにも見える解法使い。しかし邯鄲法という尺度を離れ、空亡という未曾有の前に投げ出されてはそれも微小な差異でしかない。  要するに、解法と言えども万能ではないのだ。  限界を超えて〈処理〉《キャンセル》しきれない波動圧は、二人の肉体を確実に蝕み崩していく。細胞の一片、原子の核までに浸透する破壊のエネルギーは凄まじい。  龍の本体に届くまで、肉体そのものが維持できるかどうか。その最低限の可能性すら今は疑わしかった。 「まだ……だ……ッ!  くそっ、頼むッ、保ちやがれ……!」  だからといって、第七層のような破段覚醒による突破に頼るつもりなど栄光にはない。  あれは自分にとって大事なものを消す代わりに、それに見合う脅威を消すという等価交換の消滅技。  栄光は自身の五体に六腑、そして命と引き換えに空亡を消滅させる荒業を試みた。だが四四八に繋ぐ礎とはなったものの、それ自体は自爆の犬死に終わってしまったのは今も苦い記憶であり。  ゆえにここで、我が身を犠牲にする気はない。  それは無論、保身の念などではなく。むしろ、より悲痛にして困難な選択へ進む決意の顕われであった。  己の命よりもなお大事な、本当に何よりも掛けがえのないものを捧げるための。  そして、その機会はただ一度しかない。  あの時のように、〈命〉《、》〈を〉《、》〈削〉《、》〈る〉《、》〈と〉《、》〈い〉《、》〈う〉《、》〈手〉《、》〈軽〉《、》〈な〉《、》〈手〉《、》〈段〉《、》は使えないのだ。そういう小出しは決してできない。ここで自分が捧げようとしているものは分割が可能なものではなかった。  だから今、空亡へ肉迫するために栄光は愚直な手段を採らざるをえない。基本の解法を手繰る以外に、この凶の波動壁を突破することは許されないのだ。  第七層の時よりも、強大無比に成り果てているこの〈廃神〉《そんざい》を相手に。 「我ながら相当な無理ゲーだとは思うぜ…… けど、やってやらぁ。オレは逃げねえ」 「ええ、私もいますから。  その時が来るまで……いえ、その先もずっと」  もがきながら、足掻きながら、二条の流星は暗黒の太陽へと直進する。  だがそれは破滅への進軍、絶望という断崖への投身に等しい。二人の肉体はついに、物質としての限界強度の突端へと晒される。 「う……おおおおおぉッ!」 「くぅぅぅ……ッ!」  肉が潰れ、骨が砕ける。いや、そうした域すら超えて崩壊していく。  破壊の波動は二人の細胞、その分子結合すら断ち切り無に帰そうと吹き荒ぶのだ。  栄光と野枝の身体は今、陶器のように砕け砂のごとく崩れ始めていた。  しかし、未だ砕き尽くされないものもある。それは進軍する二人の意志だ。  絶望の渦中へ飛び込んで、絶後の苦痛に苛まれながらも、手にした決意を放さないその〈魂〉《ゆめ》だけは……なお不撓にして不屈を保ち続けている。  だが。ここで時間という、無粋の極みたる幕引きが降臨した。  粛々と針を進めていた時計仕掛けの破滅劇が、矮小な人間の都合など目に入らぬとばかり冷厳に〈既〉《、》〈定〉《、》〈事〉《、》〈項〉《、》を起動させる。  大正十二年。九月一日、十一時五十八分三十二秒。  それは魔性が入っていない場合の日時だ。  〈裏〉《 、》〈返〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈勾〉《 、》〈陳〉《 、》〈の〉《 、》〈本〉《 、》〈震〉《 、》〈は〉《 、》〈さ〉《 、》〈ら〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈十〉《 、》〈時〉《 、》〈間〉《 、》。  それだけの時間をかけてさらに増幅し続けた震動が今、 今、 今──  関東大震災の本震が、現刻の到来をもって発動した。 「滅・滅・滅・滅・亡・亡・亡ォォォッ!」  龍の咆哮が空を亡ぼす。  ついに放たれた最大規模の消滅波動が、至近に迫った栄光と野枝を直撃した。  空亡にとって二人は敵ですらない。木っ端、いや塵芥とすら認識せずに圧し潰す。押し流してゆく。放射状に拡散していく絶大な空間震は、関東の都市圏を日本地図上から抹消するだろう。 「畜生ォ……ッ」  涙すら気化し蒸発してゆく。想いが、夢が、虚無の暗闇に呑まれて消える。  人の愛と決意は届かず、ここにすべては終わったのだ。 「これで終わりなのかよ……どうしようもないのかよ…… なあ……そんなわけないって誰か言ってくれよ……」  繰り返す、すべては終わったのだと龍が咆哮をもって謳いあげるが―― 「そうだ栄光、これで終わりなんかじゃない」 「俺たちは、今度こそ皆で朝に帰るんだ!」 鶴岡八幡宮の鳥居の上で仁王立ちし、水平線の遥か先にある震源地を見据えながら俺は叫んだ。 海を、岩を、そして街を木っ端微塵に粉砕しながら迫り来る魔の震災。凶将の嵐――この病み爛れて狂乱した龍の地鎮を成さぬ限り、二度と朝日は拝めない。 甘粕、神野、奴らとの決着をつけるために、これを乗り切ることが大前提なのは今さらすぎる話だろう。邯鄲の八層へ到るための最大障害が七層の空亡であったように、この現実においてもその構図は変わらない。 言わばこれはリターンマッチだ。あのときとは違う。今度は犠牲など絶対に出さない。 七層においての空亡は前震であり、今は本震。ゆえに生じる破壊と魔気の規模は桁違いであるものの、それはこちらとて同じことだ。 邯鄲を制覇した今の俺たちを、以前と同じだなんて思うなよ。力も、知識も、そして覚悟も極まっている。 策はあるんだ、祈りも忠もここにある。俺たち人間の〈力〉《ユメ》がどれほどのものか、思い出すがいい百鬼空亡――! 「いくぞ晶ァ!」 「了解、任せろッ!」 左隣に立つ晶が、俺の激に応えて奮い立った。さあ受けるがいい。ここで龍の咆哮を止めてやる。 「あなたが私を疑っても、私は何も隠さない――あなたが大切な人だから」 「急段、顕象――」 晶が紡ぐ癒しの夢。この戦いに向かった俺たち全員は無論のこと、今、迫り来る魔震を前に、その脅威に直面しているすべての人たちが願うことはただ一つだ。 救いを――この天変地異を退ける奇跡を。 よって晶の急段が発動する条件は、極めて容易く成立する。たとえ難易度的には低かろうが、それで効果が減じることなど有り得ない。 なぜなら数。条件が甘いという不利を帳消しにする数。物量。 晶の〈咒法〉《マジック》、散の射程に入っているすべての人たちの〈祈り〉《ユメ》が合わさる。その威力は、断じて軽いものじゃない。 「〈犬川荘助〉《いぬかわそうすけ》――〈義任〉《よしとう》ォォ!」 ここに発動した義の奔流。生きるという夢の輝きが光となって魔震の破壊に激突した。砕け散る大地を、街を、そして人々を癒す、癒す、生きろと叫ぶ。 「ぐッ、あ、ああァァ……!」 だが、それだけではまだ足りない。対するは〈龍〉《カミ》――その強度総体においては地球の重さに匹敵する地殻運動エネルギー。たとえ百万二百万の祈りをもって立ち向かおうが、力押しでこれは消せない。 いいやそもそも、空亡を敵と認識し、叩き潰す対象と見てはいけないのだ。仮に有り得ないほどの何かが起きて、アレを斃せたとしよう。斃してしまったとしよう。 その結果として訪れるのは、あまねく大地が枯れ果てた死の惑星だ。人が生きられる環境ではなくなってしまう。 黄龍は討滅すべきものではない。祀り、鎮め、護国の要として奉じるべき存在なのだから―― 「忠を示す。捨てられ、忘却され裏返った陰陽の狂乱を正すために」 〈人間〉《おれたち》は御身の鱗の上に生きる者。その恵みに感謝し、その強大さを畏敬し、片時も忘れてはならない。 我ら人間、大地に根を張る生命なのだと。 「それ三界は〈火宅〉《かたく》なり。穢土にいて穢土を知らず、〈嗜欲〉《ぎよく》に耽りて嗜欲を思わず。〈愛惜〉《あいじゃく》によりて輪廻あり、好悪によりて煩悩多かり。〈四大原〉《しだいげん》これ〈何処〉《いずこ》より〈来〉《きた》る」 「破段、顕象――」 ゆえに病んだ龍神よ、目を覚ませ。悪夢はもう終わったんだ。 「〈犬山道節〉《いぬやまどうせつ》――〈忠与〉《ただとも》ッ!」 〈高天原〉《たかまがはら》に〈坐〉《ま》し〈坐〉《ま》して、天と地に〈御働〉《みはたら》きを現し給う龍王は。 大宇宙根元の〈御祖〉《みおや》の〈御使〉《みつか》いにして一切を産み、一切いっさいそだ〈王神〉《おうじん》なれば。 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の〈十種〉《とくさ》の〈御寶〉《みたから》を己がすがたと〈変〉《へん》じ給いて、自在自由に天界地界人界を治め給う。 〈龍王神〉《りゅうおうじん》なるを尊み敬いて、〈真〉《まこと》の〈六根一筋〉《むねひとすじ》に〈御仕〉《みつかえ》え申すことの〈由〉《よし》を〈受〉《うけ》引き給いて。 愚かなる心の数々を戒め給いて、一切衆生の〈罪穢〉《つみけがれ》の〈衣〉《ころも》を脱ぎ去らしめ給いて、〈万物〉《よろずもの》の〈病災〉《やまい》をも〈立所〉《たちどころ》に祓い清め給い。 〈万世界〉《よろずせかい》も〈御祖〉《みおや》のもとに治めせしめ給へと、〈祈願〉《こいねがい》〈奉〉《たてまつ》ることの由を〈聞〉《きこ》し〈食〉《め》して。 〈六根〉《むね》の内に念じ申す大願を成就成さしめ給へと──〈恐〉《かしこ》み〈恐〉《かしこ》み〈白〉《もう》す。 「並びに――」 発動した龍神祝詞。狂える神を鎮める祈りに連鎖させ、ここに切り札を使用する。 犬山道節。荒魂の廃神鎮めに特化した忠の夢は、あくまで俺の内部と、俺が触れた廃神にしか作用しない。つまり、射程においてはゼロに等しいものだ。 ゆえにここで、ただ道節を展開しても、良くて俺一人がなんとか生き残る――かもしれないという結果にしかならない。 それでは意味がなく、助けとして機能しないのは語るまでもないだろう。 だからこそ―― 「信濃なる、戸隠山に〈在〉《ま》す神も、〈豈〉《あに》まさらめや、神ならぬ神」 今こそ、こいつが要るんだよ。 「破段顕象――」 「〈犬田小文吾〉《いぬたこぶんご》――〈悌順〉《やすより》ッ!」 炸裂した光は悌の輝き。 俺の兄弟、仲間たちを思う心の具現こそがそれだった。 「よし、よし……よおおおしッ―――いくぜェェッ!」 刹那、晶の〈義〉《ユメ》に俺の〈忠〉《ユメ》が重なった。そして同時に、爆発的な癒しの力が魔震と凶将の嵐に拮抗する。拮抗して、押し返す。 粉砕された大地が、家屋が、人々が――まるで逆再生でも掛かったように修復されて復活する。 「凄い……」 右隣に立つ世良が、感に堪えぬというかのように呟いた。もちろん、そこは俺も同じだ。 狙い通りと言えば狙い通り。自信があったからこそ立てた作戦ではあったものの、ぶっつけ本番だったことは否定できない。なぜなら、俺もこれを完全に使ったのは初めてのことだったのだから。 かつて、邯鄲の第六層で、俺たちは壇狩摩と争った。奴の急段、対象を将棋の世界に落とし込むというデタラメな夢を前に、絶体絶命の窮地へと陥った。 対局者として選ばれた歩美にとって、俺たちは文字通りの駒となる。ゆえに意思疎通は不可能で、だからこそ歩美はその事実に恐怖した。 物事を俯瞰でしか見れない。そんな自分に。 仲間を駒として扱わざるを得ない状況に。 それを覆すために目覚めた俺の夢――悌の小文吾は仲間同士の繋がりを強化し、あの場で一種のテレパシーを可能たらしめることによって勝利を得たが、これの本当の凄さはそんなものじゃない。 「夢の共有。我も人、彼も人……彼我の溝をなくすこと」 すなわち、仲間同士で成立する全能力のシェアリング。思考の伝達などほんの一端、全体の一欠片にすぎない。 「俺の夢を、晶が使えるようになるし」 「あたしの夢を、四四八に渡すこともできる!」 盧生とその眷属たち。一心同体のものとして、悪夢を越えた今の俺たちだからこそ出来る業だ。 「まあそのせいで、色々お互いの気持ちが丸見えになっちゃうのはちょっと恥ずかしいけどね」 「そんなの、今さらな話だろ」 「そりゃそうだ」 俺も含め、どいつもこいつも分かりやすいのが戦真館の売りだろう。これまで互いに、さんざっぱら恥ずかしい秘密や記憶を曝してきたんだ。ここにきて、もう知られて困ることなんかない。 〈魔震〉《くうぼう》の暴威は未だ健在。押し返しつつはあるものの、震源地にまでは依然として届かない。 だからこそ、あと一押し。栄光を助け、あいつの男を立たせるためにも。 「分かってるな、歩美。おまえの出番だ」 今やあらゆる意味でゼロとなった彼我の差により、距離を無視して俺はそう激を送った。 「くくくく……かァァァかッかッかッかッ!」  鎌倉大仏殿高徳院――〈六層〉《かつて》の戦場を回顧して慈しむように両手を広げ、宙を見上げながら喉も張り裂けよと壇狩摩は笑っていた。  その目も、心も、何一つとして変わっていない。生まれたときからそうであったように、このときも、これからも、勝利は己の上にあると釈迦の掌で男は遊び続けている。 「なんじゃ、なんじゃいや、よいよこんなァ優しいのォ――結局俺にも夢をくれよるんか」 「ええでよ、そこまで言うなら付き合っちゃろう。俺らの盧生は、ほんまに出来た男じゃわい。――かははははははッ!」  晶と四四八の〈義忠〉《いやし》によって、魔震の第一波は軽減された。しかしこれで終わりではない。  震動、波とは言うまでもなく、波状に突き進むものなのだから、震源を制さぬ限り無限に連続し続ける。  よって今このときも、大仏殿には破壊の嵐が押し寄せていた。その先触れとして、龍から逃げる凶将たちが大挙して殺到している。 「ここで俺が裏切ったらとか、考えんのかのォ……まったく今どきの餓鬼ァ面白いわい」 「ちょっと、さっきからいい加減にうるさいよ」  そんな狩摩のハイテンションを、ぴしゃりと抑えたのは歩美だった。同じく釈迦の掌で、かつての対局を想起させる組み合わせ。  それが結構不本意で、だけど仕方ないなと苦笑するような、幼さと成熟した達観さが同居した佇まいを見せつつ、銃の狙いを定めている。  有り体に言って、今の歩美はひどく魅力的な雰囲気だった。何も変わっていない狩摩と違い、以前の彼女はもういない。 「あなたが土壇場で妙なことをしないように、わたしがお目付け役になってるのを忘れないでよね。四四八くんはちゃんとそのへん考えてるもん。  あなたのノリに対抗できるのは、わたししかいないんだから」  もっとも、それも狩摩に言わせればすべて己の掌か? 彼が遊びをしようがしまいが、それを歩美が止めようが止めまいが、結果はまったく変わらない。  壇狩摩の裏は誰にも取れぬと、お決まりの台詞で笑うのだろうか。 「だいたい、四四八くんはあなたに夢を返してないよ。ただ、ここだけちょっと分けてあげただけ」 「おお。そりゃ言われんでも分かっちょるよ。じゃが俺にとっちゃあどっちでも同じじゃわい」  狩摩固有の、破段・急段に属する夢は依然として封じている。四四八は単に、彼の忠を晶と同じくシェアしてやったというだけだ。  この奔放不羈極まりない、誰にも従わぬ男に忠の心を授けてやる。それは狩摩に根こそぎ欠けている精神だからこそ、逆にいくらでも入るという面があった。  その意味するところ、狙いとなる効果は単純明快。 「〈去〉《い》ねやああァッ、カスどもおォォッ!」  結印、同時に地を蹴る〈反閇〉《へんぱい》。その瞬間、津波のごとく押し寄せる凶将たちが十戒さながら真っ二つに弾け飛んだ。 「ほおおォ、こりゃまた効果覿面じゃのォ」  壇狩摩は地相学の権威である。ゆえに地鎮という“技能”において、彼の右に出る者は存在しない。  そんな狩摩にとって唯一の、そして最大の欠点は、この男に神を畏敬するという敬虔さが欠片も存在しないことだ。  よってかつての七層においては、空亡に一撃のもと粉砕された。それでも様々な悪条件下にありながら、多少は粘ったという事実を鑑みれば、狩摩の地力がどれほど卓越したものであるかは疑う余地もない。  その彼が、唯一欠けていた忠心を借り物とはいえ与えられた状態なのだ。ならば必然、凶将ごときに遅れを取るはずもないだろう。 「ほぉれ、道は俺が作っちゃろう。好きに切り込んじゃれや、ちんまいの」 「分かってる。だけどチビチビうるさいよ。わたし、結構気にしてるんだからね」 「ほぉか。んじゃあ名前で呼ぶか?」 「それは……ああもう、気持ち悪いからやっぱなし! ていうか黙って、集中できない」  言いながらも、歩美は狩摩の技量に内心舌を巻いていた。そして同時に、抑えていた動悸が速まり始める。ここまで彼に決められたら、いよいよ自分はミスができない。  皮肉にも、万事俯瞰の目線でしか見れないという病理を克服したことにより、今の彼女はこういうときの大胆さが弱まっていた。人としては誇るべき変化であり成長だが、それも時と場合による。焦りは手に震えを呼び、視界は狭まってしまうのだ。 「まあ、気楽にいけぇや。しょせん、失敗したところで皆死ぬだけよ」  にも関わらず軽薄を絵に描いたような連れの言葉に、歩美は腹を立てるのだが、そんな彼女を無視して狩摩は続けた。  一転、人が変わったように静かな声で。 「囚われちゃあいかんで。勇気じゃ信念じゃゆうんは大事じゃが、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈に〉《 、》〈縋〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ん〉《 、》」 「そんなは〈戦真館〉《おまえら》にとっての武器じゃろうが。なら上手く使えや。戦場で得物を抱きしめたまま固まっちょる馬鹿が何処におるっちゅうんなら。  履き違えるなよ、ちんまいの。武器は使うもんじゃ。抱くもんじゃあない。  そこさえ常に弁えときゃのォ……おおさ、おまえは無敵になれる。盤面不敗よ、俺の次くらいにゃのォ」 「…………」  珍しく理屈を言っているようで、さっぱり根拠がないのはいつもの通りだ。それに歩美は、状況を忘れて思わず笑みを漏らしてしまった。 「ねえ、一つだけ教えてほしいことがあるんだけど。  結局あなた、その自信はどこから来るの?」  誰も己の裏は取れぬ。壇狩摩の盲打ちは天下に無双。盤面不敗。  幾度となく聞いた自負であり、実際のところ今ここまで、確かに彼は負けていない。  過程に意味を見出さず、辿り着く先で笑っていれば問題なし。そして己は常に笑うと言ったように、狩摩の笑みを消せた者は誰一人としていないのだ。  六層の局面において勝利した自分も、四四八も。そして神野や空亡、甘粕でさえも、この男に苦渋という敗北を舐めさせた者は皆無と言えよう。釈迦の掌は今も健在。孫悟空は常にあしらわれ続けている。  あるいは、狩摩こそが悟空なのか。掌を出るという大前提にすら囚われず、広大無辺の〈盤上〉《うちゅう》で遊ぶことに没頭しているからこそ、釈迦でさえもが苦笑するのか。  この悪戯猿め、我との勝負ですら決まりを無視する。そんなおまえは、なるほど誰にも囚われまい、と。 「別に。生まれたときからよ」  そんな疑問に、狩摩はどうでもいいことだと言わんばかりに鼻を鳴らした。自らを象徴するような自負の根源、それすら些事だと断言する。 「ただなんとなく、気がつきゃ俺はそういうもんじゃと思っただけよ。そこに理屈も根拠もありゃせんわい。  必要かのォ、そんなもんが。そんなもんを探すんは、要するに不安じゃけえじゃろ。疑問に囚われちょるけえやるんじゃろ」 「たとえば俺は界の創法が上手ォ使える。じゃけえ星じゃの天運じゃのゆうんを操作しちょる――とでも言えば満足かいの? それが真実じゃったとした場合、占星が得意な奴にゃあ俺の行動は丸分かりになってしまうの。  他にもまあ、星を殺せる奴がおったとしたら、俺にとっての幸運の星たらゆうんを潰された日にゃあお終いよ。分かるか、ちんまいの。何かの型に我を嵌めれば、そこで囚われてしまうんじゃ」  ゆえに何にも囚われない。ルールも方針も、自らの属性すらも定義しない。  だから負けない。裏も表もないからこそ、仏や天魔であろうと敵ではない。  狩摩はそう言っている。  この男に唯一主義があるとすれば、囚われないことに囚われていると言うべきか。彼の急段における真髄がちゃぶ台返しであったように、枠に嵌らない己であることを拘っている。  だけど、それをもって狩摩も囚われていると指摘するのは、堂々巡りの言葉遊びだ。おそらくこの男は気まぐれ次第で、型に嵌った自分を楽しむことだってするだろう。今、四四八の忠を受け入れて、四四八の眷属である立場を面白がっているように。  常に笑う。疑問を持たない。やりたいと思ったことは、即座に迷いなく実行するのが壇狩摩。 「おまえがチビなことに意味なんぞない。胸だの尻だのが貧相なことにも理屈はないんじゃ。そんなはどうでもええことよ。  おまえの親がそうじゃったけえとか、眠たい反論は聞いちょらんぞ。おまえの魂が、おまえの親のもとに招かれたのはなぜかっちゅう次元の話よ。  そして、やっぱりそこに意味なんぞはありゃせんのじゃ」 「私が、どうして四四八くん達と出会ったのか分からないのと同じように?」 「おお、要はそういうことよ」  意味はないし、理屈はない。無いものを探し求める行為は徒労で、まして無理なこじつけをすることなど愚の骨頂。 「有るもんは、ただそこに在る。それで充分じゃろうがいや」 「それを疑ってはいけない」  そうすれば縋ってしまう。自ら創りあげた〈設定〉《ファンタジー》に嵌ったまま、一歩も動けなくなってしまう。  かつての自分がそうだったように。  だから歩美は笑っていた。すべてのプレッシャーを有るがまま呑み込んで。 「〈虚構〉《ゲーム》に逃げるのは、もう沢山だよ」 「おおよ、弁えたのォ――ならどうするや?」 「決まってる」  自分の、そして皆の真実から目を逸らさない。  知ること――それが龍辺歩美の戦の真。 「我、ここにあり。〈倶〉《とも》に天を〈戴〉《いただ》かざる智の〈銃丸〉《つつさき》を受けてみよ」  高まる集中。この刹那に研ぎ澄まされ、透徹する心眼は未来すら読む極限域のスナイピング。  かつて歩美の急段は、狩摩の急段が持つ負け勝ちという特性によって条件を無視して発動したが、ここでそれは期待できない。ゆえに正しく手順を踏む。  いま空亡は、間違いなく快楽に溺れている。溜めに溜めて放たれた魔の震災は、あの龍にとって身を苛む膿や毒血の放出に他ならない。  よって、それを解き放った喜びは言語を絶するものだろう。  龍神という超存在が、神威の域で発するカタルシス。  その規模が度外れていればいるほど、それに乗る歩美の夢も力を増すのだ。 「未来が見たい。そう思ってるでしょ」  早く、早く、すべての毒穢れを洗い流して、清浄へ立ち戻る己の龍体を目にしたい。  黄金に輝く鱗の煌き、正しき姿へ還れる時はまだかまだか、待ちきれぬ。  未来をよこせ。早く見せろ。  それが今、邪龍の腐れた脳髄を駆け巡っている一つの〈願い〉《ユメ》。  ある意味、空亡は急段に嵌めるのが極めて容易い相手と言える。彼を慰撫し、祀り、鎮めて奉じるという清廉な祈りをもって対する限り、常に利害は一致するのだ。ゆえに必ず条件は成立する。 「急段、顕象――」  己を知り、仲間を知り、その進む先を常に正しく見つめたいと願う歩美の心と、我を鎮める未来を早く見せろと咆哮する病んだ龍神。  今ここに合意は成された。協力強制が発動する。 「〈犬坂毛野〉《いぬさかけの》――〈胤智〉《たねとも》!」  発射の轟音と共に走ったのは、高く澄んだ鐘の音のごとき響きだった。  それこそ、弾丸が時間を跳躍した証。神威に乗って因果律すら飛び越えた智の一閃が、震源地に向けて夜空を裂く。 「邪魔じゃ、どけやあああァッ!」  その進行方向に群がる凶将たちを、再び狩摩が弾き飛ばして道を作った。しかし、連続する何千乗もの魔震の波動までは止められない。  だから歩美は、それを時間と共に越えるのだ。 「いっけええええェェェ――――!」  本震に達した魔の波動は、その一枚一枚だけであっても桁外れの強度を有する。これを真っ向突き破って進むなど、降り注ぐ山脈の雨を抉り抜いて行くに等しい作業だ。到底可能なことではない。  〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈越〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。弾丸は波動に触れる寸前でこの時間軸から消失し、壁を飛び越えた未来に現れるのだ。それを何度も、何度も、震源地に到達するまで何度でも繰り返す。  単に障害物を飛び越えるという意味でなら、破段の空間跳躍のほうがよいのではないかと言うならそれは愚問だ。魔震という神域の暴虐を突破するなど、人の地力だけでは絶対に不可能。  だからこそ、急段の協力強制は不可欠なのだ。盧生として神に触れられる四四八と甘粕は例外だが、それでも前者の忠と悌心、さらに晶の急段までを上乗せしてようやく可能性が見え始めるという凄まじいまでの離れ業。  よって当然、歩美に掛かる心身の負荷は冗談ですまない域にある。 「はる、みつ、くん……!」  脳細胞が沸騰し、全身の毛細血管が破裂して、耳や目から血が噴き出すが、それでも歩美は夢を消さない。見据える未来から目を逸らさない。  もうすぐ、もうすぐ届くから。  どうかお願い。まだ生きていて。死なないで。  震源地である空亡本体。その前面にある最後の魔震、その一枚をわたしたちが砕くから。  栄光くんのすべてを懸けた乾坤一擲。絶対届かせてあげるから。 「いけ……!」 「いけ……!」 「いけ……!」 「いけ……!」  飛び越える。飛び越える。飛び越えて飛び越えて飛び越えて飛び越えて――  届け、百鬼空亡に。  力においては最強の存在である龍神が相手、簡単にいくはずがないのは分かっているが、ここに結集した祈りはそれを超えると信じている。  だから―― 「いけえええェェッ!」  そのときついに、智の弾丸は震源地へと到達した。ここまですべての波動を飛び越えてきた一撃は、その標的たる最後の魔震に命中し、見事壁の破壊を成功させる。  ゆえに今、空亡は完全な無防備を曝しており―― 「捕まえた、ぜ……神様よ」  栄光の手が、空亡の胸を掴んでいた。それと同時に、骨まで塵と化していた肉体が晶の癒しを受けて高速の復元を始めている。 「栄光さん……」  野枝もまた栄光同様、死へ落ちる紙一重で復活を果たしていた。  あとは最後の一発を決めるのみ。 「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ―― そは忠成るや。誠心成るや。  〈一切成就祓〉《いっさいじょうじゅのはらえ》と成るやァァァ」  壊れたように繰り返される薬師如来の真言は、悠久の時の中でこの龍神を鎮めてきた者たちの祈りに他ならない。  その意味を解す脳は腐っていても、真似るという行為自体が空亡の本心を表しているのは間違いなかった。  すなわち、我を癒せ。我を救え。忠を示して祀るがよい。  相応しき供物を捧げるならば、我は喜んで護国の要となるだろう。  よって問われる。さあ、汝は何を捧げる?  その選択を誤れば、龍の咆哮がすべてを滅ぼす。  さあ、さあ、さあ、如何にするや――?  返答するべし。 「オレは……」  呟き、だが栄光はもはや空亡を見ていなかった。文字通り触れ合うほど肉迫した神威を前に、そんなものは目に入らぬと傍らの少女だけを見つめている。  そして告げた。どこまでも真摯な心で。彼にとっての戦の真を。 「野枝さん、オレは君が好きだ。ずっと一緒にいたいと思ってる。  きて、くれるかな? 答えてほしい」 「はい、どこまでも。喜んで。  私もまた、栄光さんを愛しています」  瞬間、合意が成されたことで二人は見つめあって、微笑んで。 「急段、顕象――」  ここに、真実の乾坤一擲を発動させた。爆発する光の奔流が二人の中から、空亡へと注ぎ込まれていく。 「お、おお、おおおおおおおおおォォォォ――――」  迸る絶叫は歓喜か、それとも断末魔か。龍は何を二人から受け取ったのか。 「オレの命なんかじゃ軽すぎる。捨てても構わねえと思ってるものをよこされても、満足しないとおまえは言ったな」  まさに。かつてはそうした相関で、栄光の特攻は通じなかった。 「そしてもちろん、私の命でも軽すぎる。たとえそれが二人分になったところで、〈黄龍〉《あなた》の怒りは鎮まらない」  ここまで病んで、狂気に堕ちた神を慰撫するには一切の邪念があってはならないのだ。  平和のために命を捧げると言えば聞こえはいいが、そこには陳腐なヒロイズム、悲壮美に酔った感情が厳然と存在している。なぜなら人は、太古より同属同士で殺し合い、自らの首を絞めてきた愚かしい生物だから。  人間の魂は、種族という単位からして自殺というものを肯定している。どう言いつくろったところでそれは真実であり、その生命体としての矛盾を埋めるため、殉教という概念を生みだした。  この惑星誕生より存在する〈大地〉《ガイア》の化身、龍神は当然そのことを知っているのだ。〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈贄〉《 、》〈は〉《 、》〈喰〉《 、》〈い〉《 、》〈飽〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  我を病ませたのは〈人間〉《キサマラ》。  我を堕としたのも〈人間〉《キサマラ》。  このような真似は天地開闢以来初めての、最大級の不敬である。  ゆえにそのことへ赦しを請うなら、これまでの真似事などは通らぬのが道理と知れ。  空亡が意思を持ち口を利けたら、きっとそのように言うだろう。  だからこそ、未だかつて誰も捧げたことのない供物を。  真実、一片の不純も無く、身と魂魄を億万の塵に切り刻まれようとも差し出したくない光をよこせ。  狂乱に血走った眼がそう告げている。  それに栄光は苦笑して。 「だから、オレの宝物をやるんだよ。本当に、本当に本当に誰にも渡したくないものを」  ああ、実際いまこのときだって、すべてが木っ端微塵になるほど叫びたいくらい嫌なんだ。  それでも、しかし捧げよう。ここで決断を翻したら、彼女に嫌われてしまうから。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈気〉《 、》〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈け〉《 、》〈ど〉《 、》。 「オレがおまえに捧げるものは――」「私があなたに捧げるものは――」  互いに通じ合えるのは、これが真に最後となるだろう。  心は無限に湧き出てくると、それは確かにそうだろうが、そんな現世における救済措置を寸毫でも思考に入れたら龍は見抜く。失敗する。  どちらからともなく二人はそっと、軽いが火よりも熱い口付けを交わしてから…… 「彼女を好きだという心だ!」「彼を好きだという心だ!」  何よりも掛け替えのない宝の名を口にして、瞬間――光は最大の効力を発揮した。 「お、おォォ、忠成るぞ。誠心成るぞ。  〈一切成就祓〉《いっさいじょうじゅのはらえ》と成るぞォォォ」  二人が捧げたのは互いに想い合う愛情、記憶、これから育めたはずの未来そのもの。  大杉栄光と伊藤野枝が、互いに関係する文字通りすべてを龍神鎮めの供物とした。すなわち、愛し合う二人にとって人生の決して少なくない部分、心の聖域とも言えるものを明け渡しのだ。  それが命と比べてどう重い? 愚問である。自分の命などはもちろん、世界と引き換えにしても譲れないものを人は誰でも持っているのだ。  そしてこのとき、それを捧げることが出来たのは、やはり愛の成せる業。  愛してる。愛してる。愛しているからオレを私を忘れてしまってもお願い生きて――愛してる。  その心すら根から失くしてしまうと分かっていても。  愛のために愛を消す。矛盾しているがゆえに破綻は微塵も存在しない。  加えて言うなら、これは完璧十全に〈黄龍〉《くうぼう》へ示す忠の型に嵌っていた。  黄龍は五行の土。中央に〈坐〉《ま》す神獣にして、司るのは陰陽である。  陰と陽。それすなわち女と男。  空亡が女の性と男の性に分裂していたことからも、その統合失調が狂乱を招いたことは想像するに難くない。  ゆえにここで、真に相手を想い合う男女の愛を受けたことには〈覿面〉《てきめん》極まりない意味がある。  栄光にしろ野枝にしろ、そうした効果を狙ってやったわけではないだろう。もしも賢しい計算が僅かでもあったなら、龍は断じて鎮まらない。狂っているがゆえに、純粋さを嗅ぎ分ける鼻だけは究極的に研がれているのだ。 「一切衆生の〈罪穢〉《つみけがれ》。〈万物〉《よろずもの》の〈病災〉《やまい》を〈立所〉《たちどころ》に祓い給え清め給え  ──〈恐〉《かしこ》み〈恐〉《かしこ》み〈白〉《もぉぉ》す」  よってこれこそ偽りない、神が裁定した結果の勝利。  ここに最高の供物を捧げられ、黄金の龍体を取り戻した空亡は歓喜と共に魔震を鎮めて大地に還る。無限に増殖していた凶将陣も、光に追われるようにして夢の中へと消えていった。  その間際、二人にとって最後の愛が忘却の彼方へと去る刹那に。 「また、逢えるかな」 「ええ、きっと」  今、ここにいる大杉栄光と伊藤野枝は失われる。命は残るし、生きていくが、このとき互いを想う二人は永遠にいなくなるのだ。  しかし、それでも彼らは再会を誓う。気休めではなく、心からまた逢えると信じていた。 「今度はまた、百年後にでも……」 「ええ。桜咲く千信館で逢いましょう」  自分たちが守った今、そこから繋がる優しい未来で巡り逢おう。  そう誓って、微笑んで、共に二人は龍神の手に抱かれながら夜の海へと落ちていった。  龍は去り、尊い祈りによって魔震の破滅は防がれた。  しかしまだ、無論戦は終わらない。その結末へと到るためにも、ここで僅かに時を巻き戻す。  空亡の咆哮が轟いて、四四八たちが魔震封じの切り札を発動するほんの幾らか前の時へと。  そこでの攻防と決着もまた同様に、この夜を彩る戦の真――〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》に他ならないと誰もが知っているのだから。 「急段、顕象――」  共に戦線を布告する両者の夢は、まったく同時に発動した。 「〈鋼牙機甲獣化帝国〉《ウラー・ゲオルギィ・インピェーリヤ》ァァ!」 「〈犬村大角〉《いぬむらだいかく》――〈礼儀〉《まさのり》ッ!」  彼女ら二人の激突は、無論のこと初めてではない。当時は力量差がありすぎたために瞬く間の決着となった五層での戦いは除くとしても、七層においてはまさしく死闘を演じている。  そして今は〈七層〉《かつて》と同じ、互いの奥義がぶつかり合った。  共に手の内を知っている同士による再戦としては、本来有り得ないことだろう。得手を封じるという当たり前の戦術意識が、両者等しく欠片もない。  なぜなら鈴子とキーラの夢は、著しくその相性が噛み合っている。封じることも控えることも、どだい出来ない相談なのだ。  貴様は人外だと敵に認められることで発動するキーラの夢と。  自分は人外だと敵に認めさせることで発動する鈴子の夢。  互いの成立条件が、互助の相関を皮肉なほどに成している。己の真価を発揮するには、敵の真価を引き出さなければならないという間柄の二人なのだ。  よって感情的な面を無視して言えば、否応無く認めざるを得ないだろう。  自分たちは似た者同士。  常人の感性から逸脱した世界に住まう、魔獣と〈処刑者〉《マシン》の戦いである。 「ぐッ、ああァッ――」  だがしかし、この再戦において圧倒的に不利なのは鈴子だった。以前は急段顕象と同時に勝利を得たが、今は状況が変わっている。  かつてのキーラは、まだあれでさえ本性を出してなかった。己が真の姿を厭うている鋼牙の女王は、爆発的に極限まで狂気が高まらなければその十全を発揮できない。  そして、現状はその十全だ。我人外、暗黒神話の超獣なりと骨の髄まで自認しており、また鈴子にもそう思われている。  怪物は怪物たるのアイデンティティを獲得し、より怪物的に加速するのだ。  キーラの急段とは何のこともない、〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈怪〉《 、》〈物〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈強〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》。  戟法、楯法、咒法の複合。賢しく嵌めたり、何かの概念を引っ繰り返すような洗練されたものは何もない。  ただ力。火力膂力速力凶念――総じて暴力!  総計三千人もの獣化聯隊を細切れの肉片に分解したのち、外科手術で物理的に接合させたグルジエフの大巨人兵。  年端も行かぬ可憐な少女を核にして、地獄のごとき科学と魔道が全長五十メートルを越す狂った帝国を具現している。  ウラー・ラスィースカヤ・インピェーリヤ――超獣の軍勢は女王の魔眼に呪縛され、本来的にはバラバラ死体の集合でしかない肉塊の山が一つの生命体として活動するのだ。  まさに悪夢。どこまでも物理的に、この現実世界で発生した〈幻想〉《いいわけ》のない気狂いの所業。  私を見ないで。見ないで。見ないで。ああ、誰であろうと目を覆うだろう。こんなものが現実の法則によって生み出されたと知ってしまえば、人間など辞めたくなるのは至極道理で、悟らざるを得ない。  これこそ極限。神でも悪魔でもない、人という生物がどこまで壊れているかということ。  これほどまでに壊れているから、今このような超獣が存在している。  キーラの夢は、言ったようにあくまで力だ。もとからあったものをただ強化しているだけにすぎない。  よって鋼牙、〈機甲獣化聯隊〉《ゲオルギィ》という最悪自体は、確固とした重量を持ちながらここに絶望の威容を曝している。  だから、鈴子は不利なのだ。これが何かの概念的なものではなく、あくまで物理法則による存在ならば、その巨大さが単純な意味で手に負えない。  有り体に言えば、スプーンで山を崩そうとしているのと変わらなかった。  鈴子の夢は礼の心。殺人無痛症という己の性を自覚して、それでも人として生きていくと誓った戒めの祈りである。線の外側に身を置く自分ではあるけれど、ならばせめて、この境界を守る番人でありたい。  生きていくと誓った人の世の規範、礼則。その決まりと世界を守るために、自分と同じく外側に住まう者が線を飛び越えてくることなど許さない。  我、人に非ず。人界の礼法など守る気は無し。なぜなら我の世界ではないのだから。  そう嘯く者に対し、鈴子の礼は発動する。彼女が引いた線を越えたら、彼らは文字通りに消滅するのだ。  自分が人ではないと言ったのはおまえ。  人の世に倣う意志を微塵も示さず、あくまで己が世界の理に終始するなら是非も無し。消えるがよい。  〈人界〉《ここ》に己の居場所は存在しないと、おまえ自身が言った通りに。  そういう意味で、鈴子の夢はキーラに〈覿面〉《てきめん》嵌っている。かつても今もそのこと自体は変わっておらず、対鋼牙における絶対的鬼札とさえ言っていい。  だが、今の鋼牙は現実的な山なのだ。その総体、物量として膨大すぎる。  仮に大巨人の威容が、キーラの獣性を投影した概念的な夢の像であったら問題ない。一撃のもとに消せただろう。  しかし、これはあくまで物理。でかい。多い。ゆえ手に負えない。  引いた線を侵した部分が削り飛んで消滅してはいるのだが、まだまだ帝国は潰えない。痒いとさえ感じていないのかもしれなかった。 「お父様、ねえお父様ったら満足かしら? 褒めてくださる?」 「私たちは完成しているとそろそろ仰ってくださいな」 「でないとお姉さまがまた泣いてしまいます。とても痛くて苦しいから」 「お願いいたします、お父様」 「これ以上はもう、繋げないで」 「おおおおおおおおおおぉぉぉぉぉォォォオッ!」  狂乱する三姉妹の絶叫が砲撃となり、大気を爆発させながら戦真館の営庭を破壊の色に染め上げた。その技自体は以前とまったく同じだが、威力が桁違いに上がっている。  そして、さらに以前とは違う部分。今の彼女らはたった三人だけではない。その千倍にも及ぶ兄弟たちと繋がっているのだ。  肉に根を張り、皮膚を突き破って芽を出す奇怪な植物のごとく、巨人の全身から夥しい銃口が出現した。  それらは無論言うまでなく、鋼牙兵たちに他ならない。先の砲撃でキノコ雲のごとく膨れる噴煙を切り裂いて、三千の銃撃が嵐さながらに連続する。  どこか奇怪に、エロティックな光景だった。巨人の核となっているのはキーラを中心とした三姉妹。雪の妖精と形容される美貌の裸身に、むくつけき男どもが群がって絡みつきながら存在するのだ。  まるで女王の純白を求め、雪原の肌へ触れる座を競い合っているかのように。キーラこそが彼らにとって唯一の光明。輝く希望そのものなのか。  聖女を礼賛する信者の列のようにも見えるし、無垢を汚そうという強姦魔の集団にも見える。  あるいは地獄から這い上がるため、垂らされた蜘蛛の糸に殺到する亡者の群れか?  ただ、依然として衰えない銃撃は終わりを見せず、攻撃対象を引き裂き続ける大合唱を謳っていた。これでは鈴子も、一片数センチにも満たぬ肉片と化す運命かもしれない。  事実、彼女だけならそうなっていた確率は高いだろう。  だが次の瞬間に起こったのは、鋼牙の機銃にも劣らぬ白刃の大乱舞だった。それが悉く銃弾を弾き飛ばして相殺する。 「最初の威勢はどうしました。まさかもう諦めたとでも?  あなたの奉じる〈真〉《マコト》とやらは、その程度で折れるのですか?」  夜叉が、いいや穂積千早が――鈴子を守るように射線上へ立ち塞がって、すべての銃弾を防いでいた。  そして、その腕はすでに六本。彼女も出し惜しみなどする気はなく、初手から本気を曝している。 「百……」  未だもうもうと立ち込める噴煙の中、ゆらゆらと浮かぶこの女性は穂積百の姉であって、当人ではないけれど。  他ならぬ彼女自身がそう呼べと言っていたので、鈴子はそう呼んでいる。  いいや、それとも鈴子にとって、未だに千早は百なのかもしれなかった。 「こんなものは、何も難しく考えることのない相手でしょう。ただ単に、大きいだけだ。  こちらの攻撃はすべて通る。ならば死ぬまで殺せばいい。  単純明快。私やあなたにとっては誂え向きだと思いますが?」  そして紡がれたその台詞。確かに筋は通っているが、それが出来れば苦労はしない。  死ぬまで殺せばいいと言っても、それまで自分が生き残るのをどう実現すればいいのだという話だろう。 「ふ、あはは……」  だが、そんなことは重々分かっているうえで、鈴子は込みあがる可笑しさを禁じ得なかった。状況の過酷さも一瞬忘れて、奇妙な皮肉を感じている。  かつては釈迦の掌で、死闘を演じた者同士。その決着もまだついておらず、ゆえに再戦を誓った言うなればライバルだ。  この暗殺者はかなり遊びの効かないタチっぽいので冗談も通じなさそうだが、自分たちのリターンマッチはきっと殺伐としたものにはならないだろうと鈴子は思う。  なぜなら、以前に彼女はこう言ったのだから。 「私とあんたは同類だって、〈六層で〉《あのとき》言ってきたでしょう?」  鈴子は決然と立ち上がり、夜叉に並んで噴煙越しの敵を睨むと、明朗に言葉を継いだ。 「あの時点で、私はなんのことを言われているのかいまいち分からなかったけど……初めてそこに突っ込みを入れてきたのはあんただった。  六層と七層、どっちを先にクリアしたのかは私の主観じゃ分からない。でも間違いなく、人から指摘されたのはあれが初めてだったのよ」  穂積姉妹と我堂鈴子。共に殺人という“作業”においては稀有な才能を持っている。それをあの第四層から五層の狂宴で知ってしまった。  別に暴力への渇望や快楽症があるわけじゃない。  倫理や道徳を理解できないわけでもない。  人死にを体験すれば悲しいし、それが知人のものならなおさら苦しく受け止める感性だって持っている。  鈴子は夢の中で恵理子や栄光、淳士の死を事実として悼んだし、そして千早もきっとまた、百を悼んでいたからこそ彼女の心を夜叉の面へと創形したのはずなのだ。  よって自分たちに足りないのはたった一つ。血と臓物と断末魔に対する生理的な嫌悪感。  修羅場そのものに慣れないうちは恐怖や混乱も抱いたが、ことスプラッタに関してだけは最初から無感のままで、そこは今も変わらない。  ゆえに戦いが必要となればその行為に没頭できる。どれだけの血を浴びようと気持ち悪いとは感じないから、阿修羅にだってなれるだろう。  まったく嫌な才能だなと、改めてしみじみ思うわけで。 「私たちみたいなのが今後もたまに生まれてくるし、それはきっと止められない。だって理由なんかないんだろうから。  こんな喩えは不謹慎だと分かっているけど、本質的には絵や音楽の才能とたいして変わらないんだと思う。一曲聴けば耳コピできたり、一目でパースを把握したり…… 本人的には自然にやってることだからコツなんか訊かれても分からなくて、むしろなんであんたは出来ないのって言うみたいな? たぶんそういう類なのよ、私たちの〈性〉《これ》」 「だからせめて、そういう運の悪い奴らがさらに運悪く自分の才能を発揮しなくてすむように。……ううん、そもそも自覚することすらなくなるように。  どうってことない毎日で、どうってことないまま生きて死ぬ。自分の中におかしなものが埋まってるって気付かないまま、普通であることに不満をぐちぐち言ってる人生……それはきっと」  幸せなものだろうと、そう思う。  千信館の夢で見た二十一世紀。ああいう〈時代〉《もの》こそが素晴らしいんだ。あっちにいたときは暇だとか退屈だとか、浪漫がないとか閉塞してるとか、そういう諸々あっただろう。理解は出来るし実際感じた。  でも本当に尊いのは、自分が何者で何のために生まれたのかなんて中二っぽいこと考えなくても、なんとなくで生きていけるような世界なんだ。  それが愛しい。そして眩しい。  少なくとも、人殺しの才能が横溢している人間を、英雄として讃えるような時代は駄目だ。自分たちのような人間が台頭してくる世の中は、決して生きやすいものじゃない。 「そういうわけで、あのなんか間違ってるデカブツ、速攻で片すわよ。あんた、私と同類だって言うんなら、そのへんの機微が分かるでしょ。きりきり手を貸しなさい。  ここだけじゃなく、これからもね。そこそこ使える助手くらいには思ってあげるわ」  そんなふんぞり返った台詞を前に、夜叉は短く言い返した。 「話が長い」 「あなた、今の八割がた自己完結です。意味が分かりません」  鈴子の理屈では同類イコール同じ志を抱いているという結論で、ゆえに夜叉も自分の事業を手伝うべきだと当たり前に考えているのだろう。  おめでたいと言えばその通りだが、夜叉はことさら反論をしなかった。  それは単に、今自分で言った通り、意味不明だから放置しただけなのかもしれないが…… 「しかし一つだけ同意しましょう。あれは速やかに消すべきです」 「だったら行くわよ――こういうときは行儀よく喋んなくてもいいんだからね!」  同時に噴煙の帳が晴れる。再び姿を現した巨人を前に、並び立つ二人は脳裏に編みあげたイメージを固め、照準を合わせると。  そろって銃爪を引くと共に阿吽の呼吸を成立させた。 「――ぶっ潰れろッ!」  そのとき巨人の頭上に出現したのは、さらに巨大な〈混合物〉《アマルガム》だった。形の創法に精通している二人ならでは、この一瞬で本物より五倍は拡大した鎌倉大仏を創りあげた夢の精度は半端じゃない。  激突の大音響が轟く中、地響きをあげて潰される鋼牙全軍――確かに夜叉が言った通り、的がでかければ当てやすいのは間違いない。  よりによって創形したのが大仏なのは、それが二人にとってイメージを共有できるもっとも巨大な物だったからだ。さらに言えば、破魔を成すという気分的なものもあったのかもしれない。  あれだけの巨体を吹き飛ばす爆弾や砲の類は自分たちにとっても危険だし、何より彼女らはその手の火器に対する知識も愛着も持っていない。  ゆえに選択肢としてはこれしかなく、結果的にも上手く嵌った。仕留めたかどうかは分からないが、キーラも無傷ではないだろう。  この機を逃すな。 「行くわよォォッ!」  そして、ここに展開するのはまさに阿修羅の剣舞だった。外見からして六本腕と化している夜叉はもちろん、鈴子が繰り出す消滅の剣閃も一切途切れることがない。  削り、抉り、穿ち、断ち切り、巨人をバラバラに解体しながら血飛沫の〈旋風〉《つむじかぜ》を巻き上げる。  汗と返り血と糞尿と臓物が、砲煙や粉塵の煤と入り混じって得体の知れない液体となり、全身をどろどろに汚していくがまったく頓着していない。  こんなものはただの作業だ。どこまでも現象であり、殺戮という行為に必然として付随するだけの代物だろう。  肉体の一定量や重要器官を破壊すれば、生命体は活動を止める。そんな方程式の連続にすぎない。  だから、没頭すればいいだけのこと。  目玉が口に入った。胃にまで落ちた。下着も血でぐしょぐしょになっている。だからどうした。  勉強していればノートの白紙部分が埋まっていき、鉛筆の芯が削れていくのは自明の理。  それと同じ次元のことだろうと、死の嵐の中で鈴子は思う。 「我も人、彼も人」  ああ、柊。あんたは間違っていないけれど、一つだけ付け足しておく。  人たるものの最低条件は、人でありたいと願う心。  その世界のルールに従おうと思う礼。 「だから、そのためにこいつは消す――それが私の戦の真よッ!」 「――はあああああァァッ!」  削る。削る。削る。削る――削って削って削り消す。  その目的を果たすための努力以外、他は一切この場において必要ない。  走る刃の竜巻さながら、夜叉と鈴子は全身全霊の解体作業に没頭した。  止まってはならない。疑うのは論外。鋼牙の軍勢は膨大・強靭・異形の極地だと知っている。  もし僅かでも躊躇すれば、超獣の帝国に滅ぼされるのはこちらのほうだ。  しかし―― 「痒いぞ」  次の刹那に飛んできたのは、もぎ取られた大仏の首だった。それは咄嗟に散開した二人の間に突き刺さり、爆裂した質量の破片が夜叉と鈴子に襲い掛かる。 「――ちィッ」  一度創形した物はその時点で独立した物体となり、術者が自由に消せるような物ではなくなる。流石に永久持続するわけではないものの、この瞬間に自然消滅するわけがないのだけは確かだろう。  よって、このとき迫った礫弾を回避するなら〈解法〉《キャンセル》の資質が重要なのだが、夜叉も鈴子もそこに関する適性は高くない。  それでも、鈴子はまだマシだった。彼女は自分の急段である消滅の剣閃を発動している最中だったし、それが盾の代わりとなって重症だけはなんとか避ける。  しかし、一方の夜叉はそう上手くいかなかった。  乱舞する阿修羅の六腕によって大部分は弾いたものの、内の一つが腹を抉って動きを縫い止め―― 「臭いわ、この下郎どもが」  叩き落された巨腕によって、虫のように潰されてしまったのだ。 「――――――」  衝撃に息を呑む暇もあらばこそ、嘆いている暇など存在しない。夜叉を潰したのとは逆の手が持ち上がり、薙ぎ払うように鈴子へ迫る。  奇妙に遅く感じる時間の中、視界に広がる鋼牙の軍勢は確かに大部分が負傷していた。先の大仏落下と獅子奮迅は、決して無為に終わったわけじゃない。  しかし、キーラには反則的なまでの楯法性能が存在する。  巨腕が到達するまでのおそらく刹那に満たない間で、高速の復元が成されていると鈴子は悟った。  やはりこれは、根こそぎ消し去らねば打倒できない。  しかし、この巨体をどうやって完全に討つ?  いや待て、そうだ―― と、何かを察しかけた矢先。 「ぐううううううぅぅゥゥッ!」  迫る横殴りの一撃を受けて鈴子は吹き飛ばされていた。電車に撥ねられたような気分を味わいながら、骨も内臓も粉々にされつつ校舎の壁に激突する。 「……がッ、は」  だが、それでもまだ鈴子は生きていた。彼女の防御力からすれば本来有り得ないことで、命を拾った幸運の理由はたった一つ。  いや、それを幸運と言うのは違うのかもしれないが。 「空、亡……」  たった今、ついに本震が始まったのだろう。走り抜ける魔の震災と凶将陣がここまで届き、それが皮肉にも鈴子の絶体絶命を救っていた。  キーラに殴り飛ばされる寸前の状態であったから、その巨体に隠れる形で鈴子は魔震の直撃を受けずにすんだし、逆にキーラは魔震を喰らって攻撃力が低下した。  結果的に即死を免れたという状況だけを見るなら確かに僥倖。だがそれは一瞬のことにすぎない。  今は微かに校舎の影に入ってはいるものの、生身の鈴子が魔震を受けているという事実に変わりはないのだ。もたれかかった校舎と共に、その全身は徐々に砂のごとく崩れていく。  そしてそれは、キーラも同じだ。 「お、おお、おおおおおおおおぁぁぁァァァアアッ―――」  殺到する凶将陣と震災の波動でキーラは穴だらけにされていく。的がでかいだけに目で見て分かる破壊の規模は凄まじく、阿鼻叫喚の様相を呈しながら凄惨極まりないものへとなっていった。  今このときも連続して走る龍の咆哮。  その中で、キーラの絶叫はやがて啜り泣きへと変わっていった。 「崩れる、私が崩れちゃうよォ……お願い助けてお父様ぁ!  バラバラになったら生きていけない。助けて――だけどもう繋げないでぇ!  夢は、どうしたら私は私になれるというの? それだけ叶えば、他には何も要らないのに……」  弱々しく掠れ、徐々に消えいっていくキーラの声。これで彼女は終わるのだろうか?  ならば鋼牙が空亡に屈するのはこれで都合二度目になる。力で龍神に対抗できる者などもとより存在しないのだから、そうなってもまったく仕方のないことだろう。  だが、この言い知れぬ不吉な気配は何なのか。  かつて甘粕正彦は言っていたはず。キーラ・グルジェワこそ人の狂気が生んだ極限だと。  廃神ではないが、廃神より劣っているわけでは決してない。  なぜならタタリも、もとは人の闇が普遍の無意識に生んだ影なのだから。  そうした意味で根は同じである。いいや、より直接的という意味でなら、物理的に闇を叩き込まれたキーラのほうが純度は高いと言えるのかもしれない。  絶頂に向けて高まり、狂奔していく魔震の中、崩れ落ちる巨大建造物めいた帝国の中枢で、キーラはぼそりと呟いた。  声色ごと変わって、短い一言。 「恨みます、お父様」  そこだけぞっとするほど静かな絶望と呪いを乗せて、巨人は急激な膨張を開始した。沸騰する溶岩であるかのように、ぼこぼこと血肉のすべてが不連続に絡まりながら盛り上がっていく。 「……死なん、死なんぞ、私は死なん! 下郎と同じ尺度で測るなよ、この程度、何ほどでもないわァ!」 「お姉さま、一つになろう。ロムの命をさしあげます」 「レムの命も使ってください。お姉さまさえ生きてくだされば、私たちはもうそれで……」  それは紛れもない融合だった。もとより三千もの肉塊を繋ぎ合わせた群体こそが彼女らの帝国であったものの、そこにはまだ最低限、王と臣の区別が存在していたと言えるだろう。  しかし、今から起こるこれには“それ”すらない。完全なる一として、臣下を呑み込みながら超越の生命を生もうとしている。 「つまりあんた、いよいよ捨てる気っていうわけね……」  自身も瀕死の様相ながら、鈴子は僅かだけ悲しげにそう呟いていた。  己の臣下、己の民、文字通り血肉を共有した同胞たちすら喰らい尽くして新生を見るラスィースカヤ・インピェーリヤ――  ああ、歴史を無視しているではないか。そんな革命を選ぶというのか、この帝国は……  見上げる鈴子の前で膨れ上がっていくキーラは、おそらくこれが生涯最後になるだろう正気を浮かべて、惜別を告げた。 「許せ、兄弟……もう夢は叶わない」  そして、魔震の波動にすら匹敵する轟哮が迸る。それは彼女の臣たちが謳う断末魔であり、同時に変革の産声だった。  天の加護が消え去る〈空亡〉《とき》……甘粕正彦の〈楽園〉《ぱらいぞ》に相応しい悪夢が誕生を見ようとしている。  そして鈴子たちが負ければ、これからもこうした存在はきっと夥しく生じ続けていくのだろう。  人の勇気を、強さを輝きを鼓舞するために。それを〈魔王〉《あまかす》が愛でるために。 「馬鹿みたい……」  だが鈴子は、今そんなことはどうでもよかった。  悪魔に屈さぬ気概。  超獣に立ち向かう勇気。  破滅の大災害にも折れぬ覚悟を見せろ見せろと言う甘粕。  自分たちの奮闘が奴を喜ばせているという業腹な相関はともかくとして、それは成すべき大前提だからここでことさら意識するものでもない。  我堂鈴子はそういう人種で、ならばこそ、ただ思うのだ。 「あんた……要するに戻りたかっただけなんじゃない」  キーラが何を夢見て邯鄲に入り、獲れもしない盧生の資格を求めたのか。  その理由は、呆れるほど単純なこと。鈴子はそれが分かってしまった。 「ただの人間に戻りたかった」  狂った実験によって繋ぎ合わせれた肉の海から脱したかった。帝国の姫や女王の玉座など、欲していないし固執もしてない。  そんな彼女にとっての悲劇は、己の姉妹や兵たちを掛け値なく愛していたということなのだろう。そして、彼らもキーラを愛していたのだ。  思い返せばこれまですべて、キーラは己が配下に駒のような表現を使ったことが一度もない。我が子、兄弟、あくまでそういう、家族としての扱いを自然なままに徹底していた。  つまり、自分に接合された三千もの他者たちを、唾棄すべき邪魔な付属物とは考えていなかったのだ。その帝国から脱したかったのは確かだろうが、決して一人になりたかったわけではない。  あくまでただの人間として、兄弟たちと触れ合い、生きたかった。ゆえに彼女が求めたのは分離と、そして再統合。  繋ぎ合わさった身体を、元の一人一人に戻しても全員が生きられるように。  そのうえで、再び家族として生きていけるように。 「あんた、もしかしたら、盧生の資格があったのかもね……」  眷属と共有するその絆。器と優しさ。地獄を経験しても変わらない仁の心は四四八にも劣らない。人間賛歌を熱愛する甘粕のそれと同じく。 「そんなあんたが盧生になれなかったのは、きっと自分たち以外を認めることができなかったから」  凄惨極まりない体験を共有した家族以外、キーラにとっては敵であり、汚らわしい〈人間〉《ゴミ》でしかなかった。それでは駄目だ。人の無意識の総意であるアラヤの海には触れられないし理解も出来ない。  惜しい。だからこそこの結末を鈴子は悼む。 「もう夢は叶わない。そう言ったものね」  この場を生き残るため、兄弟たちの命を取り込み、融合した。ただの人間として生きるという帝国の夢を、完全に捨てたのだ。  もはや彼女は、あらゆる意味で人じゃない。空前絶後のモンスター。  空亡のように鎮魂を求めることすらなく、呪詛と怨念を動力にして破壊を続けるだけの真なる超獣。  だからこそ―― 「あんたの負けよ――私はそういう奴を許さないって、言ったでしょ!」  立ち上がり、裂帛の気勢を乗せして大喝した。  そう、力だけなら遥かに鈴子を優越していたキーラの敗因は、たった一つ。 「あんたは土壇場で、独りになること選んだからよ!」  その叫びに呼応するかのごとく、破壊に沈まんとする戦真館に義の光が差し込んだ。そして事態はまったく反転する。 「お、あぁ……なんだこれは、なぜ私がぁッ」  魔震を鎮め、癒すために到来した光の奔流は晶による急段顕象。その輝きに触れた大地が、校舎が、そして鈴子の負傷が逆再生のように復元していく。  唯一の例外になっているのは、キーラだけだ。 「癒しを求めすぎれば崩壊する。……なるほど、見たのは初めてだけど聞いた通りね」  それはかつて、晶が柊聖十郎を打倒したときとまったく同じ現象だった。重篤の病人として常軌を逸する域の癒しを渇望した逆十字は、求めすぎた代償として過回復を起こし、光に喰われるかのごとく消えたのだ。  その理屈に嵌るのはキーラも然り。彼女は聖十郎とまた違う意味で、とびっきりに病んでいる。  もとより異常なまでの楯法性能をこの超獣が有していたのは、そういう心の現われに他ならない。そして今は、それすら越えてさらなる癒しを渇望している。  もっともっと、もっともっとと。際限なく膨れ上がろうとしている様相こそがその証だ。 「仲間は頼るものよ。たとえ同意を得たり、頼まれたりしたからって、犠牲にしていいものじゃない!」  四四八が百合香に取り込まれ、その代行としてリーダーを張ったときに犠牲を出してしまったことを、鈴子は今も悔いている。あれは夢で、現実に自分たちは生きているといったところで、その事実は変わらない。  よって、強く戒めているのだ。これも自分が守っていくべき礼の一つなんだと心から―― 「終わりよキーラ、送ってあげる」  高まる斬気。そして裂気。我堂鈴子が殺しの機を見誤るなど有り得ない。  連続する過回復で崩れ落ちようとしている超獣の核、キーラ・グルジェワという少女に向けて線を引く。  これより先、立ち入るな。人でないなら消えるがいい。 「〈犬村大角〉《いぬむらだいかく》――〈礼儀〉《まさのり》」  再度、そして今度は静かに告げた礼の祈りで決着を告げた。  同時に虚空へ走った無尽の光芒が、超獣の核を消滅の檻へと叩き落とす。  ここに炸裂した義と礼の連携は、異形の生命体に完膚なきまでのダメージを与えていた。その断末魔さえも消滅の光に吸い込ませ、あらゆる痕跡を残させない。  だが、それが完成するまであと刹那。ほんの刹那しかない隙をキーラの執念は逃さなかった。 「このまま終わらん――貴様も来いッ!」 「―――――――」  驚愕する鈴子の頭上に迫ったのは、とても反撃と言えるようなものではない。ただ消え去ろうとする超獣が、その巨体を前方へと倒しただけだ。  しかし重さが違う。規模が違う。いかに崩れかけ、消滅の寸前であろうとも、完全に消える前なら倒れるだけで鈴子を潰し、殺し得る。  まったく想定外の事態だった。全霊を絞った直後の鈴子は動けず、あらゆる対処が間に合わない。  だがそのとき、下から跳ね上がった白刃の嵐が鈴子を救った。剣山のごとく林立するそれがキーラを貫き、支えとなって圧死の運命を覆す。 「百――ッ!?」 「死んだと、思ってましたか……まさか」  キーラによって潰され、絶命したと思われていた夜叉はまだ生きていた。満身創痍ではあるものの、夢を振り絞って最後にサポートを成したのだ。 「しかし、さすがにもう駄目です。早く離れて……もたない」  今このときも、二人の頭上には圧し掛かってくる超獣の巨体がある。なんとか一時は凌いだものの、すぐに落ちてくる。時間はない。 「あなたの助手とやらにはなりたくないので、手を貸すのはこれが本当に最初で最後…… そう了解してくれると、助かりますね」 「この、馬鹿たれェッ―――!」  しかし鈴子は、夜叉の言うことを完全無視した。逃げるどころか駆け寄って、彼女を抱きかかえると再び駆け出す。 「私はもう、一人だって犠牲なんか出さないのよ! さっきそう言って決めたばかりなんだから、いきなり破らせないでよ――馬鹿みたいじゃない!  あんたはこれから、私の奴隷になるんだって言ったでしょ!」  助手から奴隷にいつのまにか格下げされているのはともかく、鈴子は全力疾走した。  疲労も負傷もすべて棚上げ。これだけ度外れた悪夢の最後を飾ったのは奇跡でも超常でもなんでもない、単に火事場の馬鹿力というひどく原始的で、単純で、あまり格好のよくない類の―― 「あなたらしい」  詰めが甘い鈴子っぽいと言えばこれ以上はないほど嵌っている、そんな結末だったのだ。 「ぶはぁ、はあ、はあ、はあ……」  そうして、地響きと共に超獣が倒れ伏し、ほどなく完全に消滅していく。その気配を背で感じながらようやく息を整えた鈴子は、妙に赤くなった顔で夜叉から目を逸らし、虚空に叫んだ。  まるで八つ当たりでもするかのように、だけど強い決意を込めて。 「見たでしょ、柊――私は勝ったわ! 誰も仲間を犠牲にしてない」  だからあんたも気合いを入れろと継ぎ足して、もう一人へと続ける。 「聞いてる淳士? あんたもよ――ていうか、あんたこそよ!」 「こっちはそういうことなんだから、二連敗なんてすんじゃないわよ! 許さないから!」  四四八の悌心による意識同調に、プラスあるものを加えつつ、鈴子はそう言っていた。  今や灯りの落ちた青薔薇の城で、破壊の爆音が奏でられる。  それは男と男の戦いで、単なる意地のぶつけ合いだ。  精悍だとか歪であるとかそんな属性は関係ないし、論じて説こうという感情は互いの中から吹き飛んでいる。共に殉ずるのは同種の感情、彼女に狂っていることを最大の原動力と化しながら破壊の夢を回し続ける。  俺の方が、いいや俺が、〈彼女〉《あいつ》のことを愛している──  恋文を歌に乗せる死の演奏者は、鳴滝淳士と幽雫宗冬。  激突する〈無頼〉《アイ》と〈殺意〉《アイ》。両雄未だ一歩も譲らず、加重と軽重を競っていた。  己が〈真〉《ユメ》を解き放った二人の戦いは拮抗の様相を呈していた。その趨勢がどちらに傾くのかは杳として知れず、それだけに動き始めれば一瞬だろうと思われる。それは彼らも弁えていた。 「ヅ、アアァァッ──」  放たれた拳撃は空気を歪に引き裂きながら、未だ涼しい表情を浮かべたままの家令へと迫る。  無比の剛力と重量で触れる者すべてを粉砕するであろう破壊力は、さながら砲撃のそれにも等しい。 「おおおおおおォォォッ!」  連撃、怒涛、滅多打ち──余波のみで砕ける〈戦場〉《やかた》。この一室に豪腕の絨毯爆撃が舞い起こる。  直撃すればたとえ金剛石であろうが粉微塵に砕け、まるで紙屑の如く押し潰すだろう。それは相手が宗冬であろうとも同じこと。今の淳士はもはやかつてと比較にならない。  刹那の見切りで渾身の撃を躱す宗冬に、しかし淳士の手番はまだ終わらない。呵責無く連続する両の拳、からの蹴撃。  どれをその身に掠っても待ち受けているのは身体器官の粉砕に他ならず、一連の動作を布石に軽剣士の真芯を捉えた。  が、しかし── 「──────」  それを依然、涼しげにいなすからこそ幽雫宗冬。戦真館崩壊というこの世の地獄を潜り抜けた血塗れの猛者だ。  彼の側は事実上一つたりとて攻撃を貰うわけにはいかないことが前提でありながら、そんなことは不利という条件にさえ当てはまらない。  委細承知。それがどうした、この猪がと。  真紅の布を携えて舞う闘牛士のように無駄なくいなし、そして無論、淳士も半端な攻めが当たるなどとおめでたい願望は持っていない。  この男は片手間にそれぐらいはやってのけると感じていたから、また焼き直しであるかのように二人の舞踏は続行する。皮肉にも互いが互いを何より許せず、同時に信じているからこそ彼らの決闘は続くのだ。  愚直に、しかし徐々に彼我の距離を詰める淳士。その姿はさながら荒れ地をものともせずに直進する猛牛を思わせるし、本人自身、自分にはそれしかないという開き直りの境地へと達していた。  その突撃に触れれば、宗冬の身体などいとも易々と宙へ弾き飛ばされることだろう。瀑布にも似た怒濤の大質量を前にして、小手先の武技は意味を成さない。  躱される? ああ好きにしろ。ならばこちらは相手の逃げ場を奪うのみで、その思考はどこまでも一本気。  譲りはしないし、また譲るつもりもない。  小細工なしの真っ向勝負こそが真骨頂であり、また彼という男の〈矜持〉《ユメ》を強く支えているのだから。 「────」  対して宗冬は寒々しいまでの闘気を湛えて、静かにそれを観察する。  無機質な昆虫の複眼じみた冷徹さと、恐るべき精密さで僅かな隙も逃さない。眼前を逃げ場なく埋め尽くした無数の拳撃をもってしても、なお躱し続けて当たらないのは、悉くが逸れていくから。  万象、俺の想いに比べれば羽毛の如く。なんて軽い。  暴走する戦車よりも遙かに凶悪な突撃が、清流に呑まれたかのような曲線を緩やかに描き、宗冬の身を避けていく。  その様子はまるで演舞でも見ているようであり、そして攻守は切り替わる。 「はあああァァッ──」  研ぎ澄まされた鋭剣での連撃に合わせ、宗冬の破段は敵の攻防力を薄紙以下へと落とし込む。  ああそれは、風に揺られて敢えなく舞ってしまうほど。たとえ鉄塊だろうが山だろうが、彼にとっては等しくたいした重さを感じない。  その理を纏いながら放たれた剣閃は五月雨のごとく、確かな命中を手応えとして返すものの── 「効かねえな、真面目にやれよ色男」  こちらもやはりと言うしかない結果だった。この程度でたじろぐほど、淳士の夢は軽くない。  なぜなら同じ狂気を身に宿す以上、宗冬の側からも彼を対等だと認めざるをえないから。 「その鈍さには、もはや呆れを通り越して感心する。ああ、つまり合格だ。俺とおまえはまさに同じ穴の〈狢〉《むじな》。  盧生よりも遥かに強く、花に繋がれた虜囚だよ」  ゆえに自嘲し、侮蔑して、さらに激しく歓迎する。 「まったく男は馬鹿な生き物だ」 「だからって、望んで馬鹿やるつもりはねえ」  これが二人の相違点。たった一つ、こんな線を境にして彼らは殺し合いを続けているのだ。これを狂気と言わずなんというのか。  周囲の質量を著しく軽減させる夢と、己が内奧に抱いた思いによって自らの重量を増加させる夢。一本の線に乗っているがゆえに対極。だから同胞。決して分かり合えはしない。  特に聞く耳持たないという点で淳士の重さは相当なものだ。背負うのは自身のみならず、信じて送り出してくれた仲間たちの存在が乗っている。双肩にある退けない〈意味〉《おもみ》と誓いの濃さは、軽くなることを許さない。  仲間からの信頼、そして絆。ここに至るまで走ったすべて。  重ねてきた悪夢の中、皆と〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》を体現してきた。ゆえに今こそ思うのだ、己は己を誇りに思う。  この宇宙で鳴滝淳士の抱く熱は誰より重いと信じている。決意が心に深く根を下ろしているからこそ、容易く飛ばされたりなどしない。  この〈信念〉《おもさ》を否定などさせるものか。自分を譲ってなるものか。  そして、そんなことにすら未だ気付いていない馬鹿に、己が狂ってしまったというのなら──  そのためにもこの〈夢〉《ユメ》へ命を懸けよう。  男が戦う理由なんて、そんなもので充分だろう。 「だからッ──」  今この時も、誰より自分は重くなる。  不恰好に、不器用に。握り拳を自慢にして、ひたすら愚直に。まっすぐに。  側頭部から斬り込んできた剣閃を拳で弾き返し、さらに前へと踏み進む。  相手の間合いに侵入したところで力を解放。爆雷に等しい破壊力を伴った拳を放った。 「だから何だ。喚くなよ、雛が」  刹那の見切りを常時に渡って要求される攻防の連続。  触れれば終わりの剛撃を、翳した掌の向こうで減速させ。  そしてまた、再び、幾度も、何度となく──  ぶつかり合って、ぶつかり合って、熱く激しく雄々しく強く──  甘粕正彦が狂喜乱舞するような凄絶さを見せつけながら、一歩も譲らぬ馬鹿二人。彼が見ればこう讃えるだろう、おまえたちこそ漢の鑑だ!  プラスとマイナス。自身強化と外部無効化。  互いに高次元で行使し続ける戦闘は熾烈を極めてもはや何者にも立ち入れない。またこの二人も、相手以外の存在など眼中にもないまま。  両者のぶつかり合いは、千日手の様相を呈していた。 「づおおおォォォォッ!」「シッ────」  武威ではなく、理屈でもなく、己をどちらがより貫けるかという原始の闘争は美しい。  一人の女が見守る中で、意地の張り合いは終わる様子を見せることなく続いていくのだ。  未だ開かぬ蕾の華に、雄の情熱を刻み込むために。 「綺麗」  目を惹かれる。あの時と同じ、やはり彼らは美しい──  己が眼前で繰り広げられているのは、赤く血塗れた殺し合い。  凄絶極まりないその戦いを目の当たりにしても、辰宮百合香は動じない。眉を顰めることも、ましてや涙を浮かべることもなく、ただ〈在〉《、》〈る〉《、》〈が〉《、》〈ま〉《、》〈ま〉《、》傷付く二人の姿に魅入られている。  だが同時に彼女の内裡、その片隅では奇妙な冷静さも同居していた。  ほとんど平穏に近い心持ちで観劇を眺めている、傍観者のような心もある。この光景に固唾を飲むべきなのだろうし、どちらの身も案ずるべきなのだろうが、それでもどこかでこれを他人事のように捉えているのは否めない。  つまり現実感がないのだ。このままでは間違いなく、あの二人のいずれかが喪われてしまうというのに。  置かれた立場というものを思えば、心がさざめいて当たり前の状況だと言えるはず。なのにどこかで穏やかなのはどういうことか。  確か以前は、こんなことなどなかったはずなのにと思った時── 「あ──」  その理由に気づく。なるほど、これは〈あ〉《、》〈の〉《、》〈と〉《、》〈き〉《、》〈と〉《、》〈ま〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》〈く〉《、》〈同〉《、》〈じ〉《、》〈状〉《、》〈況〉《、》〈な〉《、》〈の〉《、》〈で〉《、》〈は〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈か〉《、》。  戦況に対して既視感がある。見覚えのある光景はただ似ているというだけではなく、寸分違うことなく委細合一していたのだ。  不思議にも思うが、ある意味では当然と言える帰結なのかもしれない。何せ渡り合っている二人は同じ人物であり、その力量もほぼ同等。であればこうなるのは半ば必然だと言えるだろう。  これはあのときの焼き直しであって、その戦況は全く同じ過程をなぞっている。これならどこかで〈白〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》のも当然だ。  結末までもがきっと同じになる歌劇。予想できる催しを見て、再び夢中になれるはずもない。 「では、また淳士さんが?」  負けるのだろうな、きっとそうだ。  百合香はどこか他人事のように考えている。  当事者として場にいながらも、現実感というものはまるで存在していない。  彼女の脳裏に回想されるのは以前の結末。淳士が一歩及ばず、敗北を喫して、そして勝利した宗冬は百合香の前で自害するというあの…… 「あれが、もう一度」  〈あ〉《、》〈の〉《、》〈光〉《、》〈景〉《、》〈に〉《、》〈は〉《、》〈胸〉《、》〈が〉《、》〈踊〉《、》〈っ〉《、》〈た〉《、》。何故かは分からないけれど、確かに響くものがあったのだ。  家令の死を目の当たりにして昂ぶりを覚えたから? いいや違う、たとえ宗冬が想定外の行動に出たところで、それが自分の心に届くことなどない。  ないのだ。きっと、そんなことは。  そうに決まっているだろう。  今までには感じたことのなかった高鳴り──もう一度〈ア〉《、》〈レ〉《、》を見たら、自分は何かが変わるのだろうか。  そしてその事実で何が起こり、辰宮百合香の〈世界〉《ユメ》はどのような展望を見せるのだろうか。  知りたい。知りたい。ああやっと、自分の華は開くのだ。  待ち望んでいたはずなのに、けれど…… 「…………」  どうして何故、今さら息が乱れるのだろう。その理由はきっと何かを無くしてしまうから、そして取戻しがつかないからだ。  百合香が求めるものはあくまで変化、彼らの血や死に様が殊更に見たいと思っているわけではない。  死体が望みだったとすれば、もっと早くに宗冬へ命じている──その鋭剣で己の腹を捌きなさいと。  だとするなら、自分がこの戦いに求めているものは別にあるのではないか?  生まれた瞬間から、望めばどのようなものでも手に入った。手に入ってしまうという人生を送ってきた。  そんなものはうんざりで、正直を言えば飽きてもいたし倦んでいる。  だから他者の零落さえさして珍しいものではなく、望めば見られる程度の余興に過ぎない。だとすれば── 「あのときの〈宗冬〉《おまえ》は逆らいたかったのでしょうか?」  自分を喜ばせるためではなく、あくまで自尊。己だけの我侭を貫き通したから、ああいう形となったに過ぎず。 「あのときの〈淳士さん〉《あなた》は、わたくしを叱ろうとしてくれたのでしょうか?」  命を懸けて──全身全霊、彼の理屈と我侭を貫いた先があの結末なら。  ならば、自分は彼らにどう応えるべきなのだろう?  分からない。まるで先の見えない深い森に紛れ込んでしまったかのように、心は霧に包まれている。  だけど今、確かに感じる鼓動の高鳴りは真実だった。根拠すら語ることのできない喜びで百合香の胸は満ち溢れている。  これまで誰をどうしても、何をしても得ることのできなかった熱情。執着。  だから現在己に現われた変化は、まるで光溢れる世界へ続く道標のようで、希望そのものに感じられるのだ。  ゆえにどうか、もう少し。  たとえ一瞬でも構いません、この至福が続きますように──  もっと殺し合って、そして情熱を見せ付けて。 「わたくしはどうか、それだけを知りたいのです」  少女は今も、自分のものにならず反逆の牙を剥くような強い男に憧れている。そして同時に叱り飛ばし、正しき道を示してほしいと思っている。ただ強く。  紅の微かに差した表情は、まるで質の良い酒に酔いでもしたかのような陶酔の色を見せていた。  おそらく生涯初めて、自らの生を実感しているのだろう。  それは言うまでもなく到底まともとは言い難い思考だ。乙女の皮を一枚剥いた本性は人の道になく、すなわち狂気の直中にあるということ。  自らを楽しませるため、未知の死をここに見せて……彼女が言外に訴えているのはそういうことなのだから。  しかし百合香には〈自〉《、》〈覚〉《、》がない。周囲の犠牲により己が成り立っている構図は当たり前すぎて、結局のところ、ただ恋に恋するお姫様。  変えてくれと言っている限り、この状況でもやはり希望はないのだろう。  四四八に〈邯鄲〉《ユメ》を剥奪され、その力を行使することが叶わないのにこの有様。  辰宮百合香は未だに傾城。  己が化け物であることを分かっていない妖婦なのだ。  他者を惑わし、恋の奴隷として従える盲目の白痴嬢。だから今も、すでに勝敗の行く末を確信している。  もうすぐ、あと少しで、きっと淳士は負けてしまう。  その決められた運命は動かない。  胸の内に僅かながら寂寥が去来して、百合香がその表情に憂いの色を浮かべたときに── 「ッ、ぐ──」 「──────ぁ」  苛烈極まる宗冬の攻撃に弾かれたのだろう、百合香のすぐ前まで吹き飛ばされてきた淳士と視線が合う。  同時、激しく高鳴る百合香の鼓動……それに気付いているのかは知れないが、強く淳士がこちらを睨んでくる。  野獣めいたその眼光に気圧されるように、百合香は自分自身よく分からないままに言葉を詰まらせてしまう。  今、自分はまたも叱られた。  これは、なぜ? 如何なる心の動きが、と──  そんな戸惑いの態を浮かべている百合香に、舌打ちをして一言だけ。 「──同じじゃねえよ」  唐突に投げ掛けられたその言葉に、百合香は目を丸くする。  この人が〈何〉《、》〈か〉《、》を告げてきたのは分かる。しかし、同じでないとはどういうことだ? どの事象を指して言っている? 「てめえ、今退屈してただろう。あの時と同じだって。  いい勝負はしてもこのままじゃ俺が負けると信じきってた。だが、上手く言えねえが違うんだよ。ああそうさ。  同じであるはずがねえんだよ」  立ち上がりながら、かつてない凄絶な視線を向けて淳士は吠えた。これが自分の答えだと、彼と彼女に宣誓すべく。 「なぜなら今、俺は世界中の誰よりもあんたにムカついてるからだ!  そしてそのことを、俺自身がとっくに認めているからだ。それは断じて、羽毛のように軽い想いじゃねえんだよッ!」  まるで喧嘩を売るかのようなその態度。  彼の胸中とはまったく符合していない、不恰好な本音の叫び。  内心を知っている者なら思わず苦笑いしてしまうほどの不器用さで、やがて淳士は自分自身の過剰な熱に頭を掻きつつ、ぶっきらぼうに踵を返した。 「──つまんねえ話をしたな。 だから分からせてやるさ、ここから先の結末で」 「見届けろ。目を逸らすことだけは決してするな。俺たちの馬鹿さ加減に最後までしっかりケツまで向き合えよ。  それがあんたにとっての〈真〉《マコト》だろうが」 「あ……」  皆目、状況が把握できない。わからない。  真摯なのに大雑把で不器用すぎる。たとえ相手が百合香でなくても意味はおそらく通じないだろう。  けれど胸を打つ。忘れない、忘れない。確かにこれは自分を変えてくれる〈背中〉《もの》だった。  真意を察した者はこの場で宗冬ただ一人。〈同〉《、》〈じ〉《、》〈愚〉《、》〈者〉《、》であるがゆえ、彼は苦笑を浮かべている。 「馬鹿だな、おまえは」 「ああ、馬鹿だぜ」  この世の誰より手がつけられない。 「けどよ──馬鹿だからこそ、あんたに勝てる!」  ぎらつくその瞳は、未だ見えない勝利への確信を掴んでいる。  そうでなくてはと宗冬は独りごちて迎え撃つ。  油断はしない。容赦もしない。ただ冷徹に、すべてを懸けて。 「やってみろ、鳴滝淳士」  鋭剣を小さく鳴らし、宗冬は再び撃滅の構えを取るのだった。  そう、ここまでは五分と五分。事前にある程度淳士が予想していた通り、両者の心は見劣りしない域に達している。自覚の有無はそれほど大きい。  そして自分と相手の〈破段〉《ユメ》が真っ向からぶつかれば、こうして膠着状態に陥ること、それもまた重々承知。  以前の勝負を経て分かっていただけに、懸念もまた如実に顕在化していた。すなわち、あまりに符丁が合いすぎているのだ。秤のように公平だからどれだけ規模が膨れようとも支点は一貫として揺るがない。  極限まで突き詰めた戦いとはもはや単なる根性論だ。  重い、軽い──それだけで戦闘の大半に説明がついている。ゆえに事態を急変させる別要素、要は〈切〉《 、》〈り〉《 、》〈札〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》という現状をこの決闘へ挑む前から感じていた。  五分では届かないというのも分かっているし、確率で言うのなら二度戦えば一度は勝てる計算になるのかもしれないが、そんなものに意味などない。  必勝、必ず勝つという気概。百合香の命がかかっている以上、負けてもいいなど当然思えないのは言うまでもなかった。  先ほど強く否定したのはそういうことだ。このままでは以前と同じ結末が待っていると、自分自身がわかっている。惜しいところまで行ったと思わせておいて、その実超えられない〈何〉《、》〈か〉《、》があると、そんなろくでもないオチが見えるかのようだった。  後ろ向きな予想に囚われてしまうのは、何も根拠がないわけではない。  最大の理由として一つ、戦いが始まってから気付いていることがあったのだ。  この局面に至るまで、幽雫宗冬は〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈も〉《 、》〈左〉《 、》〈腕〉《 、》〈を〉《 、》〈使〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  いや、それは今演じている一戦に限った話ではなく、〈邯〉《 、》〈鄲〉《 、》〈の〉《 、》〈夢〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈数〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》、〈真〉《 、》〈実〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈の〉《 、》〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈抜〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈覚〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  第四層での手合わせから始まり、第七層での空亡戦。そして敗れた、かつての決闘。  遡って思い出せば常に右腕を振るっている。それどころか日常生活にいたるまで、そこに関しては徹底していた。たとえば紅茶を注ぐときすら、彼は左を使っていない。もはや冗談じゃすまされないだろう。  何より自分たちが誰一人、それを不思議に思わなかった事実に対して、戦慄を禁じえないのだ──そこにはきっと意味がある。  手加減? 余裕? 矜持に美徳? いいや否、幽雫宗冬はそんなものが戦においては足かせにしかならないと、誰より深く知っているはず。  ゆえにおそらく、あの左手こそが奴の切り札なのだろうと淳士は認識し始めた。  今の今まで温存し続けていたということは、それが必殺である証。なるほど、理屈としても通っている。  禍々しさなど感じさせない、ともすれば忘れてしまいそうな存在感の薄さこそが逆に特級の恐怖だろう。暗殺と同じで分からないものは防げないし、理解できないということは決まれば必殺を逆説的に証明している。  それを直感で理解した、だからこそ── 「信じていたぞ、おまえのことを」  その時点で逃れられぬ詰みへと達した。なぜなら〈左腕〉《これ》こそ幽雫宗冬の奉じるもう一つの〈罪業〉《おもさ》がゆえに。  たとえば元来、左こそが利き腕であった男がいたとする。  彼は学び舎が地獄へ変わったという経験があり、その時に鍛えぬいた“左”の腕で狂乱した同胞たちを次々と物言わぬ屍に変えて生き延びた。  以来戦いになれば、常に自らの左腕が血に塗れていると錯覚してしまう。これは呪い、怨みであった。ああすまない、皆、皆、許してくれ。  だから枷を自分自身に掛けたのだ──俺は利き腕をもう使わない。  これは絶対の咎、罪穢。そして死ぬまで負い続けるべき我が悪夢。  仲間を鏖殺した過去は唯一無二の重量と化し、今もこの手に乗っているのだ。  以降、日常生活においてすら宗冬は左腕を使わないよう勤めがけた。病的な執念でその不便さを容認し、あげく戦いの場においてもそれを自ら使おうとしない。  それはもちろん、そのまま考えれば当たり前に欠点だろう。戦いの自由度を自ら制限しているのだから、愚かしい真似には違いない。  だが、そうした者を前にして、敵はいったいどう思い、どう対処するか。  おそらく、こう考えるのではないだろうか。こいつは左を切り札だと思っている。つまり左を使うということは、きっと恐ろしいことに違いないと。  そのとき、両者の間で合意が成されることとなるのだ。  〈左〉《 、》〈は〉《 、》〈最〉《 、》〈大〉《 、》〈の〉《 、》〈絶〉《 、》〈望〉《 、》〈と〉《 、》〈化〉《 、》〈す〉《 、》。 「何かがあると思っただろう? 脅威と思い警戒したな。その通りだ。  これこそ、彼女以外に俺の感じる唯一の〈絶望〉《おもさ》。 逆十字に奪われていた急の段だ」  かつて第五層で聖十郎に用いられたが、あれは文字通りの片手落ち。  右が揃っていなければ腕は腕。左右の違いに意味はなく、元来通りただの破段として顕象していただけだったが……  今はこうして、真の持ち主に帰還した。  無論発する〈急段〉《ユメ》の形もまるで別のものへと〈変貌〉《かいき》している。  夢は決して自己肯定できる形だけではない。要は強さ、思い込みだ。嫌っている箇所であろうが、深く意識しているものほど大きな形で発現する。  ならば幽雫宗冬にとって最大の〈心的外傷〉《トラウマ》とは何であるか、先に論じた通り彼の左腕は血まみれだ。  共に青春を駆け抜けた仲間の命を、数え切れないほど奪っている。  つまりは悪夢。絶望への通行手形であり、戒め。  彼女への愛情以外は羽毛の如く──その〈絶対〉《ちゅうせい》を凌駕しかねない怨念が、聖十郎に獲られていたときは失っていた重量が、〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈と〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈の〉《 、》〈絶〉《 、》〈望〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈具〉《 、》〈現〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》。  死を拒む者には死を。  愛を奉じる者には裏切りを。  世界平和を求める者には、鉄風雷火の大戦争を。  用いられないはずの左腕と呼応したが最後、静かなる魔腕は相手の思い描く最低最悪の重さと化して、破滅の事象を押し付ける。 「おまえは、俺の左に〈絶対〉《おもさ》を見た。  俺は今も、拭えぬ〈過去〉《おもさ》を己の左に感じている」  つまりは合意、協力強制。 「ではいいだろう──この左腕は、おまえの描く悪夢となる」  鳴滝淳士が心底恐れるものはいったい何だ?  それが今より寸分違わず、絶望の腕で具現化される。 「〈左道大逆魘魅蟲〉《さどうたいぎゃくえんみのかしり》」  左は忌むもの。邪に通じる。皮肉にもそうした〈概念〉《ユメ》は宗教世界に現存し、数多の悪夢が溢れ出しているこの大正、宗冬の急段は甘粕という盧生のもとそれら恐怖を引きずり出すのだ。 「急段・顕象── 〈穢跡金剛禁百変法〉《えしゃくこんごうきんひゃっぺんほう》」  そして発動したと同時、鳴滝淳士が何より忌避すべき結果が訪れた。 「グ、おおォォォッ──!」  瞬間、互いの立ち位置がそっくりそのまま〈入〉《、》〈れ〉《、》〈替〉《、》〈わ〉《、》〈る〉《、》。  今の今まで淳士が立っていた場所に宗冬が移動しており、そして逆もまた同じ。左腕の魔的な力は両者の強制変更という形でここに顕現した。  それは物理的な意味で立っている場所が変わっただけに留まらず、その主義、心情に至るまで及んでいる。  すなわち──  気付けば淳士は、目の前にいる百合香目掛けて己の拳を振り下ろしていた。  無論のこと、どういうことだと驚愕して同時に悟る。〈こ〉《、》〈れ〉《、》がつまり、淳士にとって究極の恐怖に他ならなかった。  焦がれた女を己の手で殺害する――それこそまさに、胃の腑が痙攣を起こすほどの恐怖であり、自分で自分を許せぬ絶望。男にとってもっとも忌避したい最悪の結末ではないか。  二人は同じ女に惚れた恋敵。相容れない反面で、どこか共感できる部分もある。認めたくはないものの、両者の間には間違いなく納得や理解の情が、一定ながら存在している。それだけは隠せない。  言うなれば同属嫌悪の関係だろう。  だからこそ、そうだ、こんなことは認められない。  この場で相手に負けることより、そう何より。  鳴滝淳士は幽雫宗冬という男のようになることが、叫びたいほど恐ろしかったのだ。  好いた女を殺して終わらせ、それをもって完結する人生。そんなものを目指す〈未来〉《ユメ》など背筋が凍るほど認められない。  他ならぬ自分自身が宗冬の代行者となるべく、ロケットのような推進力で百合香に拳を叩きつけようと動いている──強制的に。 「止まれ、止まれ、止まれ止まれ止ま、れぇェェッ――――!」  己が巨躯をどうにか止めようとするものの、まるで操る糸が切れてしまったかのように言うことを聞かない。  そして迫る拳を前にこちらを見据え、殉教者のように目を細めていく百合香の顔。  どうして逃げない、いい加減にしろ!  身体全体で加速する今、心の内は声にならない。こんな壊れた女を、壊れたまま終わらせるなんて、俺は断じてやりたくないんだ!  しかし、もはや何もかもすでに手遅れ。急段は嵌れば無敵だ。自分と相手で協力しながら紡ぐ以上、強制力は絶対である。  発動した後で防げるような代物では断じてなく、さらに淳士は止める手段を持っていない。  落ちる、落ちる、落ちていく死の〈鉄槌〉《こぶし》。  百合香の頭をザクロのように破裂させ、瞬きの間もなく少女の生を終わらせるだろうと、想像して。 「──舐めんなァァァァアアッ!」  ゆえに淳士は、かつてないほどの嚇怒を自分へ抱いた。  限界を立て続けに凌駕していく超重量。爆発した自己への怒りが、たった一つの〈矜持〉《おもさ》にすべての夢を注ぎだす。  重くなれ。さらに、もっと果てしなく。  極限を超えて自分自身にかける重力、 重力、 重力重力重力重力、重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力重力ッ──────!  山すら上回るほどに、ただひたすら希った。己を何より〈強〉《おも》く変える。  全身の毛細血管が破裂して、眼球から血の涙が噴水のように溢れ出した。  脳髄は爆竹のように節々が弾け飛び、前後不覚へと陥っていく。  音速に迫る挙動を強引に停止しようという離れ業の代償は、淳士の全身を肉袋へと変えながら、拳の動きを止め始める。 「ぐ、うぅ……は、はははッ」 「淳士さん――」  そして、あろうことか信じられないことに、単純な力技によって宗冬の急段はついぞ未発に終わったのだ。  理屈が通らない。こんな〈邯鄲〉《ユメ》は破綻している。急段は敵の利用によって力量差を無効化する技、出していながら嵌らなかったという現象など元来ありえるはずはないのだ。  それでも無理に理屈で説こうというのなら、これもまた単純な話。急段顕象時の淳士と宗冬、〈二〉《 、》〈人〉《 、》〈合〉《 、》〈わ〉《 、》〈せ〉《 、》〈た〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈力〉《 、》〈を〉《 、》〈後〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈で〉《 、》〈上〉《 、》〈回〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈出〉《 、》〈鱈〉《 、》〈目〉《 、》に他ならない。  そして当然、淳士本人にそんなものを狙った覚えは微塵もなかった。  彼にあるのはたった一つの揺るがぬ信念、〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈世〉《 、》〈の〉《 、》〈誰〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈も〉《 、》〈重〉《 、》〈い〉《 、》。  三つの夢を同時に使う? 条件に嵌めることで必ず殺す? せせこましい、狡すからい、そうじゃないだろう男というのは。 「俺は、俺だ」  だからこそ何より重く、そして強い。  その矜持を張り通すから鳴滝淳士は男なのだ。  胸を張って生きてこれたのも、仲間に恥じない自分であり続けることが出来たのも、すべてはその一念から。前を目指して歩むだけ。  不器用にも程があるがこれこそ己で、曲げはしない。  万倍に等しい加重力によってまさに眼前で停止した、この結果が雄々しさを証明している。自分は何も間違ってなどいないと、胸を張って信じられる。 「貴様という男は、どれほど」  呆れるような、妬んでいるような、あるいは悔やんでいるかのような、複雑極まる感情を滲ませて背中に宗冬の影が落ちる。  なんて面をしてやがる――と、悪態の一つでも吐いてやりたい淳士だが、今の身体ではそれすらもままならない。過剰な負荷が全身の至る箇所を破壊し尽くしていて、もはや声も出せなかった。  握り締めた拳はひしゃげて、泥団子のように潰れている。  全身の毛穴からは、幾筋もの血が流れ落ちていた。かけた重さの反動ですでに身動き一つ取れやしない。後先を考える状況ではなかったとはいえ、背負わされたのはあまりに大きな代償だった。  己の限界を超えたがゆえに、訪れた窮地。そこまでしなければ上回ることの出来なかった宗冬という相手こそ、決闘の勝者であることは言うまでもないが、しかし。 「どうだ、見たかよ……羨ましいならそう言いやがれ。  俺はてめえなんかにはならねえ」 「………………」 「あなたは……」  意地を張り通したというのなら、男の何たるかを百合香に見せ付けたのがどちらというなら、これもまた言うに及ばず。  振り上げた鋭剣の切っ先は、怒りをこらえるように揺れていた。奥歯をかみ締めて、宗冬は勝負に幕を下ろすと決める。 「ならば、それを誇りに逝くがいい」  ここにいる三人、すぐに地獄で再開できるだろう。  その結末を静かに告げて、彼は断頭台の刃を落とした。  そして彼らの愛憎劇は終着駅へとたどり着く。  勝負あり――そう思われた、この瞬間。 「聞いてる淳士? あんたもよ――ていうか、あんたこそよ!  こっちはそういうことなんだから、二連敗なんてすんじゃないわよ! 許さないから!」  意識をひっぱたくような叫び声に、淳士もまた苦笑して。  ほんの一瞬、その笑みを隠すように受け取った夢を掴みながら。 「余計なお世話だ──俺がこいつに負けるかよォッ!」  常にその頭に巻いていたレードマーク、無地のバンダナへと鈴子から受け取った形の〈創法〉《ユメ》を叩き込んだ。 「ッ、――――これは」  刹那――淳士と宗冬の間を物理的な構造物が遮断する。  それは無骨で、なんの装飾もない大剣だった。  いやその威容を表わすのに、剣という喩えが適当かどうかは分からないほどの代物だろう。なぜならば、あまりに重厚かつ巨大。  とても人の手に握れるようなものではなく、全長に至ってはこの屋敷を支える支柱の一つを超えている。もはや岩盤にも似たそれが、落下の衝撃そのままに鈍い音を立てて地面へ突き立ち、盾となって宗冬の一撃から淳士を守った。  宗冬が瞠目するのは当然で、それほどまでに目の前で起こっている現象には説明が付かない。このような能力を淳士は持ち合わせてなどいないはずで、ゆえに事の因果が分からなかった。  そして一瞬、重要なことを見逃してしまう。不可能な現象だろうとこれを創ったのは淳士なのだ。つまり当然、彼にとって自らの〈夢〉《いちぶ》に他ならない。  そう、つまり重いのだ。  我も人、彼も人。仲間があるから己は重い。  具現化したこの巨大な刃は彼の信念を強烈に反映している。ゆえにその意を受け継ぐのは、至極当然の道理だろう。 「く、お、おおおおおおォォォ──」  剣は重力に従い、主とは逆の側へと軋みを上げて倒れ来る。まるで鋼鉄で出来た天が、そのまま崩落してきたかに等しく、山すら越えた重量を前にこのままだと死は免れない。  咄嗟、宗冬が取った行動はそれを軽くすることだった。  足を動かすことを選択肢として思いつかず、全身全霊をこめてそれを真っ向からと止めてやろうと、あらゆる力を振り絞る。 「止まれ、止まれ、止まれ止まれ止まれぇェェッ――――!」  羽毛となれ、軽くなれと……どれほど強く祈ろうが迫る刃は止まらない。  本来、彼にとって避けることは簡単なはずだった。その後に改めて、動けない淳士に向かい止めの一撃を加えていれば、勝負は決していただろう。  しかし宗冬は、真っ向からこの大剣に対抗する選択をしてしまった。それはひとえに、無意識にだがこう思ったからに他ならない。  ──俺も男だ。だからこそ、鳴滝淳士に負けてはならない。  この男が振り絞った重さなど、この手で苦もなく無効化してやる。  貴様の全力は及ばない。軽いぞ、軽い。ゆえに身の程を知りながら、縮こまっているがいい──と。  彼が急段を強制的に打ち破った展開を見て、どんな一瞬だとしても宗冬は淳士を認めてしまった。あらゆる無茶を押し通して百合香を守り抜くその姿に、あろうことか自分の理想像を垣間見てしまったのだ。  子供じみた対抗心が喚起されたのはそのせいで、ゆえに退けない。これだけは、そうあいつだけには決して、決して。  恋敵であるからこそ、退けなかった。  百合香への愛とかつて犯した罪以外、すべてが軽いと断じた幽雫宗冬にとって、それこそが第三の例外。  すなわち、淳士に対する男の意地。  稚気にも似た感情は、男なら無視不可能な不治の病だ。愛する女の前で己が雄性を刻み込む、それを放棄して掴んだ勝利に何の価値があるというのか。  けれど大剣は止まらなかった。なぜならこれには淳士だけでなく、彼と繋がる仲間からの〈信頼〉《おもさ》まで有している。 「忌々しい」  だがなるほど、つまりそういうことだ。 「皆、すまない」  己は仲間を守れなかった人間だ。  幽雫宗冬の結んだ絆は、自らの手で消えている。  友の重さを背負い、そして支えあう強さ。自分たちの間に決定的な差があるのなら、その王道に他ならないだろう。  悌の破段、能力のシェアリング。皆の夢が乗っているから重いと語った男はまさに、それを体現してみせた。  彼がもう失ったものを、この土壇場で叩き込んできたのだ。 「――――ふっ、はは」  そう、微かに自嘲して。  微笑みながら腕を下ろして。  倒れ掛かった巨剣に抗うことなく、宗冬は押し潰された。  その光景はまさに断頭台のギロチンであり、物言わぬ刃が彼に落ちた瞬間。 「――宗冬!」  悲鳴じみた百合香の叫びが屋敷に響いた。  二人の男から〈水〉《アイ》を受け、その最期を前に生じた二度目の衝動。  それは、彼女の中にあった理が乱れた瞬間だったが――家令の耳には届くことなく、闇に紛れて消え行くのだった。 「――――――」  自分がなぜその名を呼び、そしてなぜ今こうしているのか分からない。  だけどはっきり分かるのはただ一つ。これが辰宮百合香という少女にとって二度目の不可思議だということ。  世の中、理解の及ばないことばかりだし、己が愚かなのも重々承知しているが、それでもこっきり、二度しかないのだ。  この自分が自発的に行動し、さらにはその動機目的が掴めないという事態。  一言でいえば、衝動。理屈を無視して衝き動かされる何か。  そうしたものに包まれたのは、生涯でこれが二度目のことだった。  告白すると、そのことが決して不快ではない。 「百合香……さま?」  ここに男たちの戦いは決していた。直接的な決め手となったのは四四八らのサポートによる大剣の創形だったが、その強度と重さを決定したのは淳士の夢に他ならない。  そして、落ちかかるそれを躱そうと思えば躱せたのに、真っ向迎え撃ったのは宗冬が淳士の夢と勝負を望んだからだろう。  おまえの信念など羽毛にすぎぬ。俺がそのことを証明してやる。そうした意地を懸けて激突したのだ。  よって、ここに訪れた結末は淳士の勝利。他の如何なる解釈も入り込めない、それが純然たる事実だった。 「なぜ、俺を……?」 「さあ、なぜなのでしょうね。わたくしも分かりません」  大剣の重さを軽減できず、潰された宗冬は即死こそ免れたものの今や瀕死の有様だ。彼自身も己の敗北を認めているのだろう、傷を癒そうという意思が見えない。  敗者として、死を選ぶ。俺にはもう何もない。そう断じた宗冬だからこそ、彼にとってもこの現状は予想外のものだったらしい。 「ゆえに〈理由〉《わけ》は訊かないで。何もないのかもしれなくて、本当にそうだとしたら、嫌だから。  こうしていることが不快ではない。なぜかそのように感じている夢を消したくないから、消さないで。……いいえ、消してはなりません。命じます。  おまえは、わたくしの家令なのですから」  死に行く宗冬を胸に抱き、訥々と語りかける百合香。その目に涙が浮かび始めていることも、彼女は分かっていないのだろう。  実際、本当に分からないのだ。  別に淳士と宗冬のどちらを選ぼうかなんて百合香は考えていたわけではない。そもそも、自分が何かを手に入れられると考えてはいなかったのだ。  ただ、閉塞した心の牢獄を。いつのまにか自分を取り囲んでしまった百合の檻を壊してくれる人に逢いたいと願っただけ。  他と違う反応を示す淳士に期待をかけたのは事実だし、もっとも身近な存在として長年失望させ続けてくれた宗冬に苛立っていたのも事実だが、彼らを具体的にどうこうして……というところにまでは思考が及ばず……  だからこそ今、この状況に戸惑っている。衝動に走ったのは、併せて二度の経験しかなかったので処方の仕方が分からない。 「俺は、あなたを殺そうとした」 「ええ、分かっています」 「本気で、です」 「そうなのだろうと、理解はします」 「では、その意味するところが……分かりますか?」  問われ、百合香は二呼吸ほどの間を空けてから返答した。 「おまえが、真にわたくしを想っていると……証明するため?」  家柄、血筋、財物、美貌、そして傾城の香気など関係なく、辰宮百合香という度し難い少女をただ愛している。  どれだけ忠を示しても、どんな献身を捧げても、彼女をそれを信じない。  自分に付属している何か諸々のどれかを求めて言っているのだろう。  そう断じる。  ならば、信じさせる手段は天下に一つしかないではないか。  殺して、あなたの付属物が欲しかったのではないと、血塗れの百合香を抱きながら叫ぶしかないのだ。  そして彼女は、本当にそう出来るならどうぞやってくれと願っていた。  結果はこうなってしまったけれど、真実の自分を見てくれる者がいるのだと確信できれば構わないと思っていたから。  それが、この辰宮家という魔境を構成していたすべて。  この少女を中心に回った愛憎劇。  甘粕の〈楽園〉《ぱらいぞ》や、それを防ぐため立ち上がった経緯などしょせん後付、二の次三の次のことでしかない。  彼らの夢はそういう形になっていて、その法則に基づく結末へと走った。  一般目線的な意味での救いや幸せとは、様相の異なる祈りであったというだけ。事実をどう受け止めるかは、当事者たちに任せるしかない。 「答えは出たな」  それを見届けて、立ち上がった淳士は元に戻ったトレードマークを締め直すと、二人の横を通り過ぎた。視線は高く、不自然なほど上向いて、百合香たちとは目を合わせない。 「これが現実だ、お嬢様。あんたはそこで、これからも生きていく」 「今後もくだらねえことは多いだろうし、ムカつくことだって嫌になるほどあるだろうよ。けど、諦めなけりゃあなんとかなるんだ。  その都度泣いて、叫んで、喚き倒してよ……いよいよとなりゃぶん殴っちまえばいい。出来るはずだぜ、簡単なことだ。  気持ちがマジなら、身体は勝手についてくる。そういうもんだって、分かったろ」 「淳士さん……」  百合香はその顔を見ようとして、瞬いた拍子、目から頬を伝って流れ始めた水の存在に気付いてしまった。 「そんな、わたくし……」 「俺はもう行く」  そんな百合香に、やはり淳士は一瞥もくれないまま歩き始める。部屋の扉を開けて去る間際、思い出したように短い言葉を付け足して。 「まだこっちの戦いは終わってないんだ。 殴らなきゃいけない奴らは残ってる。  だからそこに、あんたのぶんも足しといてやるよ。じゃあな―― 先輩」  そうして扉は閉まり、彼の背は見えなくなった。遠ざかる足音の音も消えていく。 「ふっ……馬鹿が。  要らぬ気を……余計な世話というものだ」  それに宗冬は苦笑しつつも、いま止め処なく頬に落ちてくる雫を意識せずにはいられなかった。  ああ、この令嬢が泣いている。己の内に生じた熱い何かに衝き動かされて、滂沱と涙に濡れているのだ。  その事実はもしかして、どんな夢や奇跡よりも実現困難なものだったのかもしれない。  だが、現実に起きているこれが絵空事である可能性など有り得ない。  泣き濡れる百合香は美貌を歪ませてはいるものの、確実にこれまでの如何なるときより美しかった。  ここに百合の花は咲く。蕾の牢獄は開いたのだ。 「あなたは真実を知った。世界は辰宮百合香をちゃんと見ている」 「はい」 「俺も、彼も、戦真館の者たちも、あなたのことを知っている」 「はい、はい……!」  だから、と彼女は継ぎ足し、この愚かでどうしようもなく大事な家令に自分の望みを伝えていた。 「おまえと一緒に、いてよいでしょうか? いいえ、いさせてください。おまえの傍に」 「お断りします」  それだけに、返ってきた答えは誰も予想し得ないようなものだった。  幽雫宗冬が辰宮百合香を拒絶する。  二人を知る者ならば、目を疑う光景だろう。 「何を驚いているのです? まさか〈わ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈し〉《 、》〈が〉《 、》〈言〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈断〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》、とでも?」 「見くびってもらって困る。俺はあなたの犬でも、案山子でもない」 「それは、ですが……」  百合香はきっと、彼女なりの拙い心で答えを見つけて、それを信じて……  別に賢しく立ち回ったわけでなければ、状況に酔っているわけでもない。  今も頬を濡らし続ける涙こそがその証。  だが宗冬は、微かに意地悪く笑って言った。出来の悪い妹を諭す兄のような口ぶりで。 「真実を知ったと言うのなら、ここで朽ちる俺などに構ってどうする。  その先には何もない。俺はあなたを抱けもしなければ笑わせることも出来ないのだから。  安易な選択。まったく生産性のない関係。死者を想ったまま老婆にでもなっていくと? お花畑もそこまでにしていただきたい。  俺があなたの、新たな牢獄になるなどと……絶対に御免こうむる」  かすれ気味だが明瞭で、火よりも熱い声だった。その激しさに当てられたかのように、百合香は言葉を失っている。 「お嬢様。これが最後の忠言です。心して聞いていただきたい」  そして幽雫宗冬は、彼がその人生で重さを認めた唯一の〈真〉《マコト》を告げるのだった。 「彼を追うのです。たとえ振り向いてもらえなくても、離れずに」 「そして傷つき、悩み、苦しみなさい。足掻いて、みっともなく、貫いて進むのです。  あなたにとっての、本当の真を信じて…… 俺がそうしてきたように」  それはもしかしたら、この上なく冷徹無比な意趣返し。最大級の呪いなのかもしれない。  宗冬が味わってきた辛酸。どれだけ想っても届かないという苦痛の世界に、百合香も身を投じろと言っている。  だが確かに、真実を知ったと言うなら死者へ捧げる愛などでは軽すぎる。  百合香が繰り返してきた愚かさは、その程度で帳尻を合わせられるようなものではないのだ。  ゆえに傷つけ。悩み苦しめという宗冬の瞳は、しかしこの上なく優しかった。  彼の魂はここに旅立つ。かつて自ら殺めてしまった同胞たちが待つ〈天〉《ソラ》へと向かうのだろう。 「ああ、待たせたな……いま行くよ。  無事に、おまえたちのところへ行ければいいが……駄目かな、こんな俺のままじゃあ…… 詫びたいことが、無数にあるんだ……聞いてくれよ、なあ、みんな…… 俺は、真実、おまえたちとの戦の真を……」 「…………宗冬?」  呼びかけに、手の中の男はもう応えない。  温もりはまだあるというのに、それも急速に消えていく。 「宗冬、宗冬――ああ、どうして。なんということ……!」  夢は終わった。遺された百合香はこれから、この世界で生きていく。  淳士に言われたように。宗冬に言われたように。  苦しみながら、泣きながら。叫んで、悩んで、のたうち回ることだろう。 「宗冬ぅぅぅゥゥッ―――!」  そうして生きていくしかないのだ。  絶望の二つや三つはまた訪れるに違いない。  しかし、彼女が一人じゃないということに気付ければ、きっと乗り越えられるはず。  少なくとも、諦めることだけは二度とないはずだった。 「――よくやった」 〈魔震〉《くうぼう》の鎮めが成功したのを確認し、俺は低くそう言った。 ここまでのところ、不備はない。どいつも等しく、最大の仕事を成し遂げた。 晶、歩美、栄光、我堂、そして鳴滝――おまえたちの真は受け取った。ああ、格好よかったぞ。ゆえに負けてはいられない。 あとは俺たちに任せておけ。 「晶、みんなは街の人たちの救護や避難をお願い。まだ被害は残ってるから」 「分かってる。こっちは任せて、ラスボスぶっ飛ばしに行って来いッ!」 「うん――見ててね、絶対勝つから」 同時に、世良はこいつが本来持っている並外れた力の一端を覗かせた。 「はああああああああァァッ」 俺たちが立っている八幡の鳥居を潜るようにして、巨大なマシンが顕れる。 それは紛れもなく兵器でありながらどこか有機的なフォルムを持ち、全幅十二メートルにも達する翼をもって空を翔る戦の猛禽に他ならない。 日本海軍零式艦上戦闘機――通称ゼロ戦。 この時代には本来存在しないものだが、邯鄲で百年先までの様々な未来を体験した俺たちにとっては既知のものだ。 なるほど、確かに日本人といったらこれだろう。この機にまつわる歴史の数々は決して輝かしいものではなく、むしろ悲劇に満ちているけど、だからこそというやつだ。 二度とこいつが、同胞にさえ死の翼と恐れられたりしないように。そんな未来を生まないためにも―― 「乗って、柊くん!」 ここに俺たちは、奴の〈楽園〉《ぱらいぞ》を止めなくてはならない。 「行くぞ甘粕ゥッ!」 「待ってなさい、神野」 ゼロ戦の上に飛び乗った俺と世良は、そのまま市街地を飛び越えて一気に海上へと躍り出た。 目指す先は相模湾沖、魔性の建造と化した〈混沌〉《べんぼう》の城――戦艦伊吹。 そこで真に斃さなくてはいけない奴らが待っている! 今の俺たちは以前と違う。二度目の敗北は無いと知れッ! 「うふ、うふふふ……楽しみだなあ、いよいよだよ」 「さあ、俺におまえたちの〈強さ〉《ひかり》を見せろ。愛させてくれ」 待ち受ける神魔の波動が伝播して、奴らの思考が頭に雪崩れ込んでくる。 それは俺たちだけにじゃなく、きっと相州全域、いいや関東――もしかしたら日本すべてを覆い尽くして、世界の裏まで届いているのかもしれなかった。 人の愛が、勇気が、強さが好きだ。ゆえに見せてくれ、悪逆の災禍を試練として課そう。 血みどろになりながらでも、屈さず立ち上がる素晴らしさを愛でたい。 やがて世界には数万の盧生と、その百倍を越える眷属たちの夢で溢れる。 あらゆる神話の英雄や怪物や神そのもの、人が夢に思い描いた物語の登場人物たちが、この現実世界に出現するのだ。 そうして果てない混沌が訪れる。たった一人の男を楽しませるためだけに。 「違うな、すべての救済だ。人の魂が劣化していくなど耐えられん」 「俺はおまえたちのような人間を失いたくないのだよ。永遠に守りたいのだ、抱きしめていたい」 「だから堕とすよ。抉るよ、誘うよ。〈悪魔〉《ぼく》に容易く穢されるような、地獄に引かれている人間なんか安い。その選別をしているだけだ」 「おおぉ、あんめいぞぉ、ぐろおおりああす――すべては〈主〉《しゅ》の御心のまま」 「〈悪魔〉《じゅすへる》ってのはねえ、そもそもそういうものなんだよ」 「おまえたちの輝きで、天上の光へ届く階段を築いてくれ」 「その先へ待ち受ける希望と共に、祝福の喇叭を吹き鳴らそう。きっと理想の世界が降りてくる」 「それこそが我が〈楽園〉《ぱらいぞ》――この甘粕正彦が胸に描いた、何にも替え難い夢である!」 「――ふざけるな!」 こいつの思想は以前と同じく、なまじ理解できる部分があるだけに相容れない。共に人の勇気を奉じていても、根本のところが俺たちとは違うんだ。 「甘粕――おまえは基本的に、どいつも殴り飛ばさないとしっかりしないと思っているんだろう」 つまり一種の性悪説。こいつの根底にあるのはその概念だ。 「まったく、スパルタもいい加減にしろって話だぜ。四四八に慣れてるオレたちでも、正直言ってマジ引くわ」 「おまえはあたしらの親父気取りか。あいにくそういうのは、うちのハゲだけで間に合ってんだよ」 「ほんと、実のところみんなを馬鹿にしてるよね。要は誰も信じてないだけじゃない」 「どうってことない毎日で、どうってことない風に生きるのが幸せだって分からないのね。憐れよ、あんた。見るに耐えない」 「一つだけ言ってやるぜ。てめえみたいな神様面した馬鹿野郎はな、単に痛い奴っていうんだよ」 俺の悌心に乗って、意識を同調させた仲間たちからの声が届く。ああ、全部まったく同感だ。本当に気が合うようで、嬉しいことだよおまえたち。 「たとえどんなことがあろうと、私たちは私たち。世界が優しくても酷くても、秘めてるものは変わらない」 「なぜならそれが、夢で誓った私たちの〈千信〉《トラスト》だから」 「この〈戦真〉《トゥルース》でも、目指しているものは一緒なんだよ!」 ついに目視の距離まで捉えた戦艦に、ゼロ戦は急旋回の軌道を描いて落下しながら特攻する。 これまで見てきた歴史のすべてを抱いて行こう。これが本当に最後の勝負だ。 「来なよ」 「来い」 ここに誓おう、〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》は〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》に顕現する。 「仁義八行、如是畜生発菩提心」 「さあ――決着をつけるぞォッ!」 伊吹に迫るゼロ戦が激突と共に甲板へ突き刺さる寸前で跳躍し、俺は決戦の場へと降り立っていた。  礼拝堂、神殿、神社……  それら天との通信を目的として設けられた施設は、呼び方に差異はあれど歴史上あらゆる国に存在している。  精神が成熟した動物は、皮肉にも自分以外の何者かを強烈に尊重し始めるの傾向でもあるのだろうか。  一大国家から高山地帯に住まう少数民族まで、ほぼ例外なく認識できない絶対者と対話するために、特別な空間と場所を定めて祀る。そうすることによって社会の秩序をより磐石なものへと変えてきたのだ。  なぜならそうしなければ、人は共食いを始めてしまう。  同じ価値観を共有して、ただ健やかに生きていくことができない。  近代化が進む以前、神秘への畏敬で溢れていた世界では特にそれが顕著だった。事の真実が分からないから、世の大半を練り上げた虚構の〈教科書〉《せいしょ》に任せてしまう。  雷がどのような理屈で落ちるのか、地震がどうして発生するのか、それらはすべて原因不明の天変地異だ。  検証するには当時圧倒的に知識が足りず、そのために出会ったこともない〈裁定者〉《かみさま》へ発生源をどれもこれもと預けてきた。  社会を安定させるための思想という鎮静剤……言ってしまえば、在らぬものをどれだけ信じきることができるかなのだが、人々は空想の体系を創り上げるのに夢中になった。  なにせこれら、〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。  自分たちが生んだ宗教なのだからある意味それは当然であり、そのためより夢中になるという循環構造が発生する。  この地は日照時間が長いために、太陽神の遣わす場所。  この者は巫女であり、我らが神の翻訳者である。  万物は神の創造物という大前提を崩さぬため、悪魔さえ試練の使徒として組み込んだ。長い時間をかけて創造し続けた〈設定〉《しんわ》は、破綻しないようあらゆる隙を潰して現代まで存続し続ける。  ゆえに、その〈無意識〉《しんこう》は邯鄲の夢において絶大な支配領域を構築していた。  礼拝堂、神殿、神社……それら神域は万人の思い描く聖地として、壮観に君臨し続ける。  大日本帝国の誇る精鋭戦艦、伊吹。ここに建造された礼拝堂もまた、神が座す絶対不可侵の移動城砦と化していた。  〈主〉《しゅ》は、その内側に実在する。  夢界の最高位に腰掛ける〈現人神〉《あらひとがみ》として、彼は足を運んだ来訪者を歓待していた。  しかし間違ってはいけない。  ここに存在する者はすべて外道。  種別はそれぞれ違っていても、共通して人道からかけ離れた魔性の性を宿している。  悪逆非道の逆十字と、ものみな焼き尽くす天の灼光。  敬虔な畏敬など皆目持ち合わせていない彼らは、神域を歪ませながら静かに言霊を交わしていた。 「さて、いよいよ夢も佳境だな。セージ」  現状、唯一無二の夢界攻略者として甘粕正彦は友人へと語り掛ける。  聖十郎が邯鄲法を確立してからの付き合いだけに、声色に敵意はない。ただ常態で、大気が軋むほどの圧力が自然と放たれているだけである。  戯れじみた雑談さえ照り付ける太陽のように熱いのは、そのままこの男がどういう存在であのかを一目で印象付けるものだった。  彼は平等な裁定者であり、それゆえにあらゆる局面で差別をしない。己が判断基準に従って、いかなる功績にも公正な評価を下す。  それは自らへの反逆を前にしてもまったく同じ、目の前の友人が何を目論んでいるか知った上でこのように友誼を確認している。  己の眷属から浴びせられる殺意を前に、微塵も動じず談笑さえしている始末だ。むしろ聖十郎の反骨心を嬉しく思うし、好ましいと感じている。  それでこそ、覚悟。気概。  真正面から叩き付けられる敵愾心を喜んで受け止めながら、甘粕は確認するように再度状況を口にした。 「辰宮の鞭撻を受け、おまえの息子もそれなりに仕上がっているようではないか。それで、どちらにするかは決めたのか?  完成を経る〈八層〉《いずれ》か、未完成である〈五層〉《いま》か。 俺としてはもう少し、彼らの奮闘を慈しみたいと願っているが」 「おまえはおそらく違うのだろう?」 「無論だ。このまま〈第五層〉《ガザ》で獲る」  短い断言に、聖十郎の決意がそのまま窺える。簒奪の機を五層にするか八層にするか、どちらにもメリット・デメリットが存在するが、この男にとって目前の好機を見逃す選択はないのだろう。それだけ盧生の資格に執着している。 「これ以上あれを肥えさせても旨味がない。ならば貴様の首輪に繋がれた現状など、一刻も早く払拭するのが道理だろう。 無駄な試行を重ねて時間を浪費することも目に見えているからな。邯鄲の攻略程度、俺にとっては児戯に等しい。奪えばすぐに片がつく」 「ならばこの機は決して逃さん。俺はここで盧生となる」  その果てに、延命以外の何を成し遂げるつもりなのか。聖十郎の放つ凶兆は隠すことすら一切せずに相手へ真意を語っていた。  それは甘粕にとって不利益であり、なんの得も生まない決意であったが……唯一彼の〈美〉《 、》〈感〉《 、》にだけは合致していた。  知れば知るほど他者に不快感しかもたらさないこの鬼畜を前にしながら、それでも湧き上がる尊敬を甘粕正彦は止められない。  ああ、これだから〈そ〉《 、》〈そ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》。  聖十郎は嫌がるだろうが、甘粕の抱く信頼は本物だ。万雷の拍手を送りたいほど往年の友を勇者として讃えている。 「セージィィィ、それはちょっと不義理じゃないかい?」  そして、喜色ばむ主に呼応するかのごとく床一面に影が広がった。  蠢き、集い、光が濃くなればなるほど浮かび上がる闇の蠅声。悪徳を詰め込んだ人影が、子供をたしなめるような優しい口調で立体的に形を成す。  外道の間にも友情は存在するのだろうか、実像を編んだ神野は普段に似合わぬ誠実そうなそぶりを見せた。 「そんな急いで独立起業しなくても、夢を取り上げられたりしないよ。我らが〈主〉《あるじ》は慈悲深い。むしろ現状維持をする方が、死の危険とは無縁だろうに。   息子さんから獲った資格、それは本当に僕らへ対抗できる代物かな? 賭けてみるのは結構だけど、僕から見てもそれは慎重な君らしくない。博打は趣味じゃないだろう」 「第一、あれほど生きたいと切に願っていたじゃないか。二兎追うものは一兎も得ず、変な意地張ってわざわざ身を張るのはどうかと思うね。 まあ、願い叶わず腹かっさばいた僕が言うのも何だけどさ」 「〈蝿声〉《さばえ》が、黙っていろ」  挙げ連ねた問題点の数々、承知の上だと聖十郎は切って捨てた。  実際それらは真実だったが、ゆえに初志を違えることなど彼には決してありえない。 「甘言を弄するなら他所でやれ。甘粕に繋がれた同じ〈眷属〉《タタリ》同士、邪龍と戯れているがいい」 「だから、それが嫌なんだよねえ」  甘粕の眷属としてでも、聖十郎との友誼でもなく、単に自分にとってつまらないから引き止めただけ。  神野は肩を竦めつつ、呆気なく真意を暴露し、悪びれない。 「このままだとせっかくの話し相手がいなくなる。〈悪魔〉《ぼく》にとってそれは死活問題だ。 鋼牙のお姫様も嫌いじゃないけど、少々〈ご〉《 、》〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ご〉《 、》〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈し〉《 、》〈過〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》今となっては面倒だ。空亡はもう裏返っているし、話が成り立つのは君と〈主〉《あるじ》の二人だけ。 誰かこっちへ引きずり込もうにも、〈第五層〉《ここ》で勝手するほど僕も肝は太くない」  逆十字がこの瞬間のために積み上げてきた数々の策、執念。それを思えば神野も無理に介入しようという気が起きない。  別に相手を慮っての配慮ではなく、まず現実的な問題で聖十郎と真っ向激突することになるからだ。  その展開は誰にとっても利にならず、ご破算になって喜ぶのはせいぜい戦真館ぐらいだろう。そう分かっているために、悪魔は両手を広げて友の心を引きとめようとしている。  殊勝に、真摯に、そしてどこまでも図々しく。 「なあセージ、僕らは友達だろう?  もっと一緒に悪役っぽくあれこれしようよ。あの日の熱い友情はいったいどこにやったのさ」  共に背徳を積み重ねようとのたまう悪魔の声。その的外れな情愛に反応したのは、聖十郎ではなく甘粕の苦笑だった。 「そう引き止めるな、分かってやれ。俺の眷属という立場など、セージにすれば到底甘んじられるものではないのだろうよ。 それに、事の顛末を俯瞰で見ればこれは俺の横取りだろう。手塩にかけて確立した邯鄲法を、後から掠め取ってしまった形になるからな。不義理というならこちらが先だ。 よってこれはある意味、本来の流れに戻すという形になる。そうだな」  指摘に対して返答はなかったが、概ねそれは的を射ていた。少なくとも柊聖十郎という男にとっては。  心血注いで邯鄲法を構築したのに、秘奥を得たのが〈発案者〉《じぶん》ではなく目の前の〈被験者〉《モルモット》という始末だ。いわば貸してやった家屋を、そのまま奪い取られたようなもの。断じて許せるわけがない。  そう、修正が必要なのだ。  狂った道理は正さなければならず、そのためにやるべきことは男の中で決まっている。 「自分が編み出した〈邯鄲〉《ユメ》を用い、盧生となる。   そして次に──俺を殺して唯一となる。   それがおまえにとっての正しい結果、あの日そうなるはずだと願っていた未来だろう?」 「語るまでもない」  つまり肯定であると口にして、聖十郎は猛然と極悪な邪気を滲ませる。  それは濃密な死の気配。他者には想像もつかぬ域の苦痛に耐え、なお生き抜いてきた男だから持ち得る地獄の怨念であり羨望だった。  見ているだけで不安になる。常人ならばとても正気ではいられない。 「貴様の存在そのものが、俺にとって害悪だ。 この屈辱は必ず返す。待っていろ、すぐに殺してやる」 「と、宣戦布告を口にしておられますが。いいんです? やると言ったらやりますよ、彼は」 「構わん。むしろそれでこそだよ、親友。俺はおまえを買っている」 「全人類を敵に回しても我を通し、生を掴もうとするその気概。迂回など微塵も考えず、あらゆるものを粉砕して直進しようとする独尊。これを勇気と言わずなんと言うのだ。 歪ではあるだろう。道を外れてもいるだろう。しかし自身の命を繋ごうと試行錯誤し、もがき抜いたおまえの強さは万象において一際抜きん出るほど輝いている──漆黒に。 〈色彩〉《ねがい》の種別を俺は問わん。極論、すべての生命はただ生きるために産まれるのだから」  白であろうが黒であろうが、どちらであっても光を放てば魅入られるし感じ入るものがある。要は絶対値の問題なのだ、甘粕はあくまでその強さと剛毅に魅入られている。  第一、聖十郎の真実は起き上がることも出来ない重篤患者だ。  盧生と繋がっていなければ一呼吸する気力さえない彼を前に、生きる望みを捨てろなどと、恥知らずなことをどうして言えよう。  生きたい、生きたい、生きたい、生きたい―― 何を犯しても、どんな悪行に手を染めてでも。  神や悪魔であったとしてもその祈りだけは穢せない。  一秒でも長く生きようとする当たり前の生存欲求……それだけは、森羅万象に課せられた命題であり、誰にも否定できない大前提なのだから。  そしてもう一つ、甘粕が聖十郎を肯定している要因に他者の抵抗を許容しているという点がある。  この男は外道だが、他者の挑戦そのものを否定しているわけでは決してない。常に自分が勝つという傲岸不遜な認識が根底にあるものの、怖気づいて激突を回避するということだけは一度もなかった。  ならばそれも〈覚悟〉《ゆうき》の一種というものだろう。  己は強く、衆愚は総じて取るに足らない供物の群れ。そんな情念でさえここまで鍛え上げれば光を放つし、立派な強さだ。その執念があったからこそ、どのような形であれ今もこうして生きている。  あらゆる死病に蝕まれながら生を掴み、なお高みへ登ろうと猛っている柊聖十郎という一人の男……  彼の〈歴史〉《ヒストリー》に甘粕は感動を禁じえない。  それは健常者である身には得られない闇黒の美しさだ。今も見せ付けられる破滅の輝きに対し、最高の賛辞を口にする。 「だからセージ、俺はおまえを尊敬するぞ」 「ああ。そして俺は、おまえのことが羨ましい。 その輝きを一片に至るまで、この手で抉り獲ってやろう」  血肉の欠片も残さないし、必ずそうするつもりでいると聖十郎は言い放つ。  なぜなら彼は、徹頭徹尾鬼畜であるから。それを誇りとしているから。  愛は分かる。情も分かる。  人の性に属するすべて、自分は余さず知っている。  ゆえに無論、己の邪悪さも誰より承知。己は己が望むまま、あるがままに鬼畜であるだけ。そこに後悔など一片もない。  だからこの世は森羅万象、自分を輝かせる礎である。  さあ、おまえ達の輝きを寄こせ。  俺はどうしても、それが羨ましくて仕方がないのだ。  狂気を宿した眼光は重い病魔に蝕まれている。  覗き込む奈落の深さは、そのまま男の感じて来た絶望の深度だ。  常識という物差しから逸脱した世に解き放ってはならない悪意、だからこそ成せるものがあると甘粕は信じている。  魂の髄まで破綻しているからこそこの男は〈怖〉《つよ》いのだと、改めて感じながらその道を応援した。 「親と子、どちらが盧生であったとしても構わんさ。強固な想いを持った方が資格を宿していればいい」 「二度目の親子喧嘩だ、楽しみにさせてもらうとしよう」  その結果、最大の敵として反逆されても構わない。  いいや、それでこそ我が楽園の住人足りえる。  そんな、余人には理解できない親愛を受けながら、聖十郎はあくまで敵対の意思を見せて踵を返した。 「頑張れ、頑張れ、セージッ! さあ、絶望まですぐそこだ。   やって来るよ、君を愛する〈救済者〉《しにがみ》が。そこでとびきりの混沌を見せてくれ」  啓示のように不吉な神野の声援が礼拝堂に響き渡る。  聖十郎は答えない。ステンドグラスから差し込む光が、退室する逆十字の背を照らしていた。  愛情なき父親と息子──ここに、一つの物語が決着を迎える。 ──渦巻く苦痛と幻覚が、悪夢の深海へと誘っている。 外傷とは異なる生命の汚染を味わいながら、俺は際限のない絶望の海で必死にもがき苦しんでいた。 湧き上がる感情はただ一つ。原始的な一つの本能。 生きたい、生きたい、死にたくない……そのシンプルな意識を頼りに、崩れ落ちそうな魂を限界間際で支え続ける。 「がぁ、あぁぁ……ぐッ──」 吐き出した血が、牛の小便よりも臭い。全身を流れる血は蛆をすりつぶして混ぜ合わせたような有様だった。恐るべき汚泥へと塗り替わっている。 体内で疼く激痛の源は、猛悪な死病からもたらされているのだろう。おそらく聖十郎の攻撃で受けたこの病魔は、現在進行形で柊四四八を生き地獄へと叩き落としていた。 生きたい、死にたくない。そう願っているのは本当なのに、同時にまったく逆のことも考えるのだ。 〈早〉《 、》〈く〉《 、》〈楽〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈と〉《 、》。神に祈るような必死さで救済と介錯を求めている。 健全な肉体には健全な精神が宿る、という言葉の意味が痛感できた。腹の内側で悪魔が蠢くような状態で、まともな心なんて到底抱けるはずがない。 仁義八行。人としての道理や徳。築き上げた常識さえ猛毒が蝕んでいくのを感じていた。 そして……何より、口惜しいという思いが募る。こんなところで終わりたくない。 「俺は、まだ……っ」 あいつに母さんの死を償わせることを……決意を誓いを約束を、俺はまだ何も成し遂げていないのに。 挑戦することさえできずに病死してしまうことが、慟哭するほど口惜しかった。それでは今までの努力が無に帰してしまう。何のために鍛えてきたのか、そのことさえ分からなくなってしまうじゃないか。 だから怨む。憎悪が芽生える。健常者に対する八つ当たりじみた感情が俺の正気を誘惑していく。 〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈と〉《 、》〈シ〉《 、》〈ン〉《 、》〈ク〉《 、》〈ロ〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》…… これほど素晴らしい力を俺は持っているのに、それを使う機会がない。なのに日々を漫然と送る〈凡俗〉《どうぐ》風情が、俺より長く生きている。 その理不尽に耐えられない──ふざけるな。死んで詫びろ。あってはならんぞ、偉大な俺が死ぬことなど。 爆発する怨嗟に満ちた絶叫が、埋め込まれた病巣から精神汚染まで引き起こした。そしてそれに、少なからず共感している自分がいると、よく分かる。 なぜなら、俺がいま感じているのは受けた〈呪詛〉《やまい》のごく一部に過ぎないのだから。 この絶望は柊四四八に感染した時点で、オリジナルから希釈されている。 本来はこの千倍、万倍もの阿鼻叫喚が闇に詰め込まれているのだろう。生への渇望と、健常者へ向ける殺意は兵器のようにおぞましい形まで膨れ上がっていた。 すべては生存本能に従ったからこうなった。恨むことが悪だとしても、そうなってしまった経緯事態は自然の成り行きだったのだろう。 ただ生の輝きが眩しくて、羨ましくて、切に生きたいと願う〈心〉《ユメ》。 そうだ、本当は〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》だって── 「死にたくなかった、だけなのかな」 そのために、不幸な結果をあらゆるものにもたらしはしたけれど……生きたいという感情だけは否定することが出来なくなった。 当たり前に健康であることがどれほど尊く、ありがたいのか。病魔の恐ろしさを知った今では身に染みてその辛さが分かったんだ。 ゆえに俺も、素直に生きたいと願っている。 強く強く、明日の光を目にしたいと。 誰かを憎む前に、こんなところで死にたくないと思ったから。 「そうだよ、みんな死にたくないんだ」 「だから必死に、どんな格好悪くても生きたいって願うんだよ」 その時、絶望の坩堝へ暖かい光が射しこんだ。 輝きに触れた部分から痛みが浄化されていき、次々と病の棘が肉から取り除かれていく。 母性を感じさせる慈愛の抱擁を俺は忘れてなどいない。ああ、これは…… 「だから、絶対おまえを死なせない」 「あたしがそう願って、四四八も生きたがってくれている限り」 「癒せない痛みなんてこの世のどこにもあるもんか」 互いが互いを救う願いが絆となって、結びつく。 それはまるで奇跡のように、降り注ぐ聖光が俺を蝕む暗黒の影を打ち払った。 そして── 「おはよう、お寝坊さん」 目を開ければ、そこには優しく覗き込んでくる晶がいた。 安心したように微笑みながら、吐息が触れ合う距離で俺と額を合わせている。 「晶……」 「そうだよ。ああよかったぁ、ちゃんと成功したみたいで」 「身体、大丈夫か? 痛いとこあるなら遠慮せずに言ってくれよな。ちゃんとそこも治してみせるから」 「いや、どこも痛まない」 本当は〈し〉《 、》〈こ〉《 、》〈り〉《 、》のような違和感がまだ点在しているものの、さっきまでに比べれば今の状態は天国だった。 軽やかに呼吸が出来る。内から食い破られるような激しい痛みも感じない。晶の体温、鼓動、吐息……それを感じるたびに生きていると実感できた。 そうだ、俺は生きているんだ。こんなに嬉しいことはない。 病の恐ろしさをまた一つ知る。蝕まれていくということは、大切な誰かを感じることもできなくなるという恐さでもあるんだ。 晶が夢を使えたことに尋ねたいことはあるけれど、まずそれより今は感謝の言葉が先だろう。 「全部おまえのおかげだな、ありがとう」 「どういたしまして」 にかりと至近距離で気持ちよく笑う晶は、気にするなと言っている。おそらく一人で大変だっただろうに、それを窺わせない表情は以前より頼もしいものを感じさせた。 ただとにかく、これで崩壊寸前の状況にも少しは改善の芽が見えてきた。晶だけにすべての負担を押し付けていたぶん、これからはそれを取り戻すほど巻き返してやるしかない。 何より、俺たちはどれだけの時間、ここで病に喘いでいたというのだろうか。そしてその間にいったい何が起こり、どのようにして改善の兆しを経たのだろうか。 晶に聞かねばならないが、ここにいるのが俺だけであることが気にかかった。 「そうだ、他の皆は?」 「ん、それなんだけど……とりあえずやばい状態は脱したと思う。今すぐ命がどうこうってのはないかな」 「でも、まだ何もかも安全ってわけじゃない。押し付けられた病気は全部取り除けるほど軽いものじゃなかったし……」 「正直、容態が急変する可能性も込みで運と時間の勝負だな。むしろ、どうしてか一番大きく治ったのは四四八ぐらいなんだよね」 「あたしらの間で、何かカチッと嵌まったみたいでさ。それでこう、ぶわーって感じに限界突破しちゃったわけ。だから自分でも、実はちょっと驚いてるんだわ」 「四四八は何か心当たりある?」 「まさか、こっちにそんな余裕はなかったよ。生きたいと思うだけで手一杯だった」 何かを解明するだけの余裕なんてなかったし、あの状態で都合よく新しい力に目覚めるだなんてことが起こったとも考えづらい。 とにかく今、こうして完治に近い状態まで回復していることがすべてなんだろう。なら再び二度目の奇跡にかけるかといえば、その甘さをあの男が許すとも思えなかったから。 「皆を助けるには元凶を何とかするしかない、か」 これ以上は柊聖十郎を斃さなければ改善しないと、心の奥の深い部分が告げていた。 あるいは俺だけの復活も、奴が見越してのものかもしれない。なぜかそういう気がしている。 ただ、そういった事情を抜きにしても俺が復帰可能になったのはいいことだと信じよう。待っていろ、今までの借りをこの手でまとめて返してやる。 「ほら、よっと──」 若干よろけつつも、手を掴まれたまま身体を引き起こされる。平衡感覚が少し狂っているせいか船酔い程度の気持ち悪さは拭えない。 晶は俺に肩を貸して自ら松葉杖代わりになってくれた……というか、なんだ。妙に甲斐甲斐しくないか、こいつ? 「お? どーしたよ、そんなまじまじ見ちゃってさ」 「もしかして、あたしに見惚れたちゃったかいベイビー」 ああ……なるほど。この反応はあれだな。 「悪いものでも食ったのか。洗面所はあっちだ、急げよ」 「おまえそれ何気にひどくないか」 顔を近づけながらジト目で睨んでくる仕草は、普段あまりべたべたと接触してこない晶にとっては非常に珍しいことで。 とどのつまりはそういうことだ。感じた懸念通りに追及をすぐ切り上げる姿は、子供が何かを隠そうとしている行動によく似ていた。 「まあ、せっかくだから外に出ようぜ」 「リハビリ、今から付き合ってやるよ」 「……そうだな、頼む」 その急かすような提案を嘆息しつつも、俺は素直に晶の後に続くことにした。真意に気づきながらも特に尋ねず、ある程度相手の行動に付き合ってみる。 こっちがその悩みを感じ取っているように、あっちもまたそうやって配慮されているだろうことに気づいているから。 重いものを一人で背負うか、打ち明けるか。その狭間で揺れているだろう心境を敏感に感じ取りながら……俺たちは我堂の屋敷を後にした。 海沿いの道路を二人で歩く。他に人影は見えず、また自分たちを訝しむ敵意の目線も感じなかった。 いわばお尋ね者の身分であったはずなのだが、やはりあれから何かあったのだろう。最初はそれとなく警戒していたものの、今ではリラックスして潮の香りを感じている。 なにせ、ここに来るまで〈人〉《 、》〈の〉《 、》〈気〉《 、》〈配〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》ときた。そこらの民家や公的機関に至るまでどれも無人としか思えず、作り物めいた空虚さが漂っているのはおそらく間違いじゃないのだろう。 まるで外側が同じでも、がらりと〈中身〉《ステージ》が入れ替わったように。俺たちを追い込む人々、なんていう設定はもう不要だとでもいうように。頭の片隅でよぎった推論を考えながら、それをあえて話題にあげなかった。 晶は語らない。だから、俺も訊ねない。それには意味があると思えたし、問いかけることでこいつの心を追い込みたくなかったから。 代わりに話すのは、何気ない戦術論。今回の一件で得た教訓を軸に会話しながら歩を進めていた。 俺たちの知らない戦いをきっと潜り抜けたのだろう。俺の目に映る晶は、以前より精悍な雰囲気をたたえていた。 「鋼牙との戦いでも思ったけどさ。回復役は最後まで生き残らないとダメなことが、身に染みてわかったよ」 それは以前にもした会話だったが、ここでは意味と重さがまったく違った。 あの時とは違い、今度こそ、こいつは最後まで残り俺たちを救ったのだから。 「こういう局面で分かったのは不本意だけど、しみじみと自分の重要性を理解したぜ。あたしが残っている限り、みんなはまた戦えるし、少しの傷なら何も気にせず突っ込むこともできるわけで……」 「ゲームだとボスが回復魔法しないわけだよな。相手からみたらインチキだぜ、これ。何度も復活してくるとか、よく考えると反則だろ」 「確かに、傷を治すっていうのは重要だよな。創作物でもまず鉄板だし、メタな言い方になるけれどキャラクターが生き延びなければ、次の展開も始まらない」 「どれだけの力を持っていても、死んでしまえば無意味なんだから」 「不思議だよな。口に出してみるとまぬけなくらい当たり前のことなのに、ふとした時忘れてしまいそうになるのは何でだろ?」 「産まれてきたことも、生きていることも、本来凄まじい幸運の上に成り立っている奇跡のはずだ」 「けど俺たちは、明日がやって来るのを心のどこかで疑うことなく信じてしまう。家族に社会、福祉、人権、そういうものに最初から守られているからな」 高度文明化された現代社会では、生存確率が圧倒的に死亡確率を凌いでいる。それこそ重い病気にでもかからなければ、明日の太陽を拝むことに何の感慨も抱けないだろう。特に日本は福利厚生が他国に比べてかなり重要視されている。 それは喜ぶべきことであるし、危険な方がいいなどとは口が裂けても言えないが…… 重篤者の絶望を味わった今となっては、今まで以上に素晴らしく幸せなことだと感じずにはいられなかった。 なぜなら、あの苦しみ。最悪じゃないか、二度と経験したいとは思わない。 「だから感謝しているんだよ。生き残ったのが晶以外だったなら、どう考えても一人残らず全滅していた」 「仮になんとか生き残ったとしても、大半は奴の犠牲だ。自慢していいぞ、俺が許す」 「水臭えな。約束したろ、当然だって」 「ていうか、こんなのまだまだ。やっと一つおまえの役に立てたようなものじゃねえかよ」 「そりゃまあ嬉しいのは本当だけど、さ」 そう言いながら、照れくさそうに鼻をかいて晶は笑った。まあ確かに、こういう構図は珍しいか。いつもはまったく逆だったから。 「勉強とか色々、あたし今まで四四八に助けられてばっかりじゃん? テストに、入試に、宿題に」 「あと、あゆや栄光とのごっこ遊び。他にもいたずらした時のフォローとか」 「剛蔵さんの折檻が少しでも優しくなるように、よく俺に泣きついたりして」 「そうそう! で、最後は結局親父にバレちまうのな」 「そして、おしおきのげんこつゴチン」 「後は母さんにしがみついて、わんわん泣くまでワンセットだな。この悪ガキめ」 「だってあのハゲ、それが効果覿面だもん」 だからといって、よしよしと慰めている母さんをバリア代わりにするなと言いたい。雷が落ちそうだと、その度にうちの家まで逃げ込んでただろ。 剛蔵さんも剛蔵さんで甘いから、晶ちゃんも反省しているようですし……なんて母さんに言われると弱くて。結局うやむやになったこともあったっけ。 だがそれを抜きにしても、俺たちの中で一番そういう風に叱られることが多かったのは晶だった。 「仕方ないだろ。問題を起こすきっかけは、大半おまえの強行軍だぞ」 何せ俺は子供のころからこういう感じで、調子乗りの栄光は基本どれもお粗末に終わる。歩美はこっそりうまくやるから、大人の目に留まる回数が多かったのは断然、晶だ。 「幼少時に、近所の公園でガキ大将を何度返り討ちにした? 覚えているか? 少なくとも両手の指は超えるだろうな」 「うぐっ……し、しょうがねえだろ! あいつら、嫌がるあゆにちょっかいかけてたんだぞ」 「放っておくとかできねえし、ああいう男が腐ったようなのマジ腹立つわ」 「戯け。あれは思春期特有の素直になれない行動だろう」 「あんな小さい頃から分かるかよ。それが分かるちびっ子なんて、四四八くらいだっつうの」 唇を尖らせる晶に対して、我ながら子供らしくなかったなと苦笑する。 幼少時の歩美は今より輪をかけて子犬チックだったものだから、本当によく少年たちの拙いアプローチを受けていた。けれど晶は、好意の裏返しがどうしても卑怯なものに見えたのだろう。それでよく取っ組み合いまで発展した。 オトコ女め、生意気だー、なんて色々、よく言われたよな。それで生傷こしらえて、家に帰ったから怒られて……けれど一歩も引かなくて。 俺も止めに入ったりはしていたが、前述の理由で向こうの気持ちも分かるんで、あまり強くは出ていなかったと思う。そのぶん、当時から直情的な晶は速攻だったし、結果としていつも矢面に立つのはこいつだった。 ああ、自分が皆を守るんだと、幼い晶はよく言っていたな。そしてその感情に、今も助けられていると感じるよ。 「ただ──俺は嫌いじゃないぞ、おまえのそういう部分は」 好んでいるし、尊敬している。この幼馴染が持つ最大の美点だろう。 「誰かが不当にいじめられているとき、いつも真っ先に何とかしようとしてきたよな? それはつまり、誰より深く自分以外のためを思っているということだろ」 「常識だって教えられるし、理屈の上じゃ分かっていても、これが中々。楽にできることじゃない」 「だから俺は思うんだ。前からおまえは考になりたいと言ってたけれど……」 信乃が好きだから、なんて理由でこいつはそう言っていたけど。 「晶に相応しいのは、義の心なんだと思う」 「あたしが、義……?」 頷いて肯定する。我欲、利得を顧みず他人のために尽くせる心。正義を堅く守る意志。俺たち七人で誰がもっとも仲間の絆を大切に思っているかというのなら、それは晶を除いて他にない。 「ああ。生き物にとっての大前提であり、一番の正義はなんなのか。それは問い詰めれば……〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》という当たり前のことに落ち着くんだろう」 「今回の一件で、改めて命の大切さを考えさせられたからな」 ともすれば見逃してしまいそうになる健常という名の幸福。無毒の身体で世界と向き合えることを喜びと共に噛み締めている。 「生きること、死なないこと。生かすこと、死なせないこと。総じて命を慈しみ、育もうとする義と優しさ」 「そして同時に〈死〉《いたみ》へ立ち向かうとする勇気。真奈瀬晶を象徴する強さとは、きっとそういうものじゃないか?」 「破壊や侵略の対極に、おまえの優しさはあるんだよ」 「お、おう……その、ありがと……」 「けどあれだろ? 義って犬川荘助だろ。素直に喜べねえよそれ」 「圧倒的にラック値低いわ、耐えるコマンドばっかりじゃん。事あるたびに貧乏くじ引きまくってさ、子供心にありゃどうかと思ったぜ、うん」 「そこは頼りにしてる証だと思ってくれよ」 それに、これは口に出せないが今までの状況がそれを証明していると思う。実際こうして諸々の苦労を背負わせてしまったのだ。犬士一の苦労人は伊達じゃないということかもな。 「それともやっぱり、信乃の方がよかったか?」 「そりゃ村雨丸使いたかったもんよ。あー、でも四四八が言うんならそうなんだろうなぁ、苦労人属性だったかあたし」 「一段落ついたら運気上昇のお守りでも買ってみようかね」 「まあ安心しろ、そばもんの触手を使っているぐらいだ。邪神の加護はあるかもしれん」 「だからぁッ、あれは羽衣だって言ってんだろ!」 帯じゃなかったのかよ、と内心つっこみながらご立腹の晶をなだめる。 それは普段通りの態度で、いつも変わらないやり取りだったものだから、思わず朝に帰れた後だと錯覚するほど懐かしくて…… 今この瞬間だけは何もかも忘れ、素直に二人笑いあうことが出来たのだった。 不思議と厳かに感じる心境で、俺は自宅の扉を開けた。 内装は記憶のまま変わっておらず、誰かに侵入された形跡なども見当たらない。もしかしたら家宅捜索されたかもと心配していたのだが、それも杞憂であったようだ。 自室に入っても手を付けられた風には感じない。寒々しいほど以前と同じだ、やはりそれが不自然である。 現実にいるはずが、精巧なミニチュアの中に迷い込んだような違和感。かつて感じなかったその感覚を、今は敏感にとらえている。 「四四八の家も、現実と変わんないな」 そして晶もそれを肯定した。黙っていたのは、やはりそういうことだからか。 「……ここはまだ夢の中なんだな?」 「らしいぜ。ほら」 そっと俺の胸元に触れた手が淡く輝き、同時に体内の疼きが消える。 ここまで歩いているうちに少しずつ再発していた鈍痛は、それで再び消え去った。晶は夢を使えている。ならば結論は一つしかない。 逆転の発想、集団催眠のようなものだ。自分自身がここでは使えないと信じているため、出来るはずのことがどれも封じられていた。現実そっくりであればあるほど精度は強く比例する。 それら無意識にかけられた呪縛も晶のおかげで打ち破られた。強く意識すれば、俺も再び夢を使えるという実感がある。 今度はもう負けやしない。必ず斃す、戦える。 だからその前に、もう一つ今度はこっちからしてやらなければならないことがあった。すなわちこいつの抱えるものについて。 重いかどうかは関係なく、それを放っておけないからいずれ聞くのは決まっているし、そのためになら何でもすると決めているから問題ない。重要なのはそういった俺の気持ちではなく、晶の心だ。 ぶしつけに詰問して傷つけたりはしないだろうか? 何があったか説明させて下手に追い込んだりしないだろうか? そしてそれらの理屈を抜きにしても、一人で抱え込むことが正しいなんて思えなかった。 その結果、俺がしたのは待つことだ。話したくなった時に言いたいことを口にすればいい、どんなものでも聞いてやる。 おまえの荷物は、俺の荷物だ。 そう態度で伝えていたことで、布団に並んで腰掛けながら次第に晶も肩の力を抜き始めたんだ。 「そういやさ……前にここで、ああ、正確には現実での〈自宅〉《ここ》になるけど」 「胸貸すって言ったあたしにおまえがヘタレこいたやつ。覚えてる?」 「誰がヘタレか」 極々自然の反応だ。豹変した幼馴染を前にすれば、あれは一般的な態度だろうに。 しかし冗談めかした返答にも晶の表情は晴れていない。むしろより神妙な、悔やむような顔になって…… 「………ごめん。あれ、悪かった」 短く、けれど心からの謝罪を口にした。 そこにはあらゆる感情が混じっていたから、同時に俺は受け入れない。おまえが謝ることなんて、どこにも何もないんだから。 「基本的にネガいことばっか考えてるから、たまたまそういうことになったときだけ的中してるように見えるだけ。普段は外れてることのほうが圧倒的に多いんだし、だから信憑性なんか全然ない」 「おまえが言ってくれたことだぞ。あれで元気が出たんだから余計な世話なんかじゃないし、全然気に病むことでもない。ましていまさら謝られても、そっちの方が困り者だ」 「そうじゃなくて……なんつうのかな、あの時言った想いはそれでいいんだよ。今でも同意見だから」 「ただあの時、どうしておまえはあんなに凹んでたのか」 「あたしにとって四四八の親は恵理子さん一人だと思ってたから、その部分を深く考えてなかったわけ。それがちょっと情けなくてさ」 「恐いよな、〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》の血が流れてるの」 「…………」 その時、心の奥で不可視の烙印が疼いた気がした。小さな動揺のさざなみが胸の内に広がっていく。 数秒の沈黙後、苦い想いを喉から絞り出すように、呟いた。 「……そうだな。そうかもしれない」 なぜならそれは決して覆せないことだから。柊四四八を生んだもう一つの始点に対し、拘る思いは確かにある。 俺を構成する遺伝子。二重螺旋の片側。きっとその塩基配列は極悪に濃縮された毒素なんだ。どれだけ否定したくても奴の子である事実は払拭できない。 そしてこの葛藤を誰かにぶちまけるのも違うだろうと思っていた。これだけは自分が、母さんの息子であることを証明しないといけないのだと…… 誓っていたまま、決着はまだついていない。だからまだ熾火のように消えずにいるのを晶は見抜いて、悲しんでいる。 「自分の強さや心とか、どれも変な方向に理由づけされてる気がするんだろ? 嫌な答えと常に繋がっている気がして、とても明るい気持ちになれないよな」 「おまえはたぶん、深いところで柊聖十郎の本質が見えてしまっているんだと思う。純粋で、突き抜けていて、容赦がないから正直で。それがある意味正しい面を持っているから……割り切れなくて、悔しくて」 「あたしも、辛いよ。あいつを見てると痛くなるんだ」 「……俺も同じ気分だよ」 心も、身体も、そして植えつけられる病まで……そうだ、俺はあいつが〈真〉《 、》〈っ〉《 、》〈直〉《 、》〈ぐ〉《 、》だからその在り方に耐えられなかった。 病み狂った独尊すらも極めれば強さという側面を生んでしまう。それだけに自分が抱く決意や判断が、奴の行動と類似して仕方なくなる時があるんだ。 あの男の血を引いているから俺は皆を指揮する才や、力を持って生まれたのか。違う、絶対に! そう思いながら奥底で葛藤し、自慢であった輝きが裏返って反転するのを痛感した。 俺の抱えていたものを、晶は別の真実から感づいたのだろう。あいつが他人の持つ〈義〉《ひかり》を羨む、その理由に。 「だから不思議と同情してる。あんなメチャクチャしてんのに、殴ろうしたらこっちが悪いような感じになるし。端的に言って気持ち悪い」 「どれもごちゃ混ぜ。あべこべだぜ。病気みたいにさ」 「それだけに分かるんだ。あいつが四四八を作ろうとした行為には、義なんてきっと欠片もなかったって」 「すげえ身勝手な感情しか、持っていなかったと思う」 「だから──」 「ああ、だから──」 奴の影を超えるんだと、宣言しようとした言葉に被せて── 「おまえの心は全部、恵理子さんがくれたもので構成されているんだよ」 「あの人の愛情を受けて、ここに生まれて──育てられて」 「あたし達と出会ったんだろ。な?」 「…………、──」 闘志や克己心と呼ばれるものが、それを超える輝きを前に頭の中から吹き飛んだ。 一瞬、優しく告げる晶が母さんと重なったのは幻だろうか。単なる目の錯覚だろうか、分からないが──しかし、しかし。 胸に暖かいものが染みわたっていくことだけは、紛れもなく確かだったんだ。 「四四八だけじゃないぞ、きっとあの糞親父のことだってこれでもかって愛したはずだ。舐めんじゃねえよ、思い出せ。恵理子さんの愛は底無しだぜ?」 「そしてそんな人が与えてくれた色んな気持ちがあったから、おまえはそんなに凄いんだよ。心が強いと冷たい奴か? 決断速いと薄情なのか? 全然違うさ、そういうの」 「一見同じに見えたとしても毎回ちゃんと悩んでいるし、責任持って選んでいるのをあたしはちゃんと知ってるんだからな。おまえは絶対、人を物とか思っていないし思わない」 「聖十郎から流れた血が? 恵理子さんを超えたって? 何も教えてもらってないっていうのに?」 「んなわけねえよな」 「まったくだ。俺は奴から何も学んだ覚えはない」 感謝をささげるのはあの人にだ。小さな身体で、誰よりも大きな愛情を注いでくれたんだよ。愛して育ててくれたんだよ。 義とは生き、生かすこと。すなわちたゆまぬ愛情であり、誰かを愛して子供を成すのも母性愛という最たるもので── 「生きるのに大切なことは、母さんが教えてくれた。俺の想いがどこから来たというのなら、それは決して聖十郎からじゃない」 一度たりとて輝きを忘れた覚えはないのだから、柊四四八の深い部分で大きな指針となっている。 その真実を強く信じられている。俺は奴の劣化コピーではなかった。 大切なものは、最初から全部、この胸の中に詰まっていたんだ。 「ああ、そうだよ。ずっと見てきたんだからな」 「誰かのために笑ったり、怒ったり、頑張ったり葛藤したり、案じたり励ましたりして一緒に行こうとしてくれる──」 「そんな四四八が、あたしは好きだよ」 そう言いきってから、晶はひまわりのような笑顔を俺に向けた。 籠められた本音が隠すことなく伝わるのを機に、二人の間でなんとも言えない雰囲気が部屋いっぱいに広がった。 互いにじっと相手の目を見つめ合う。 「……………」 「……………」 「……………」 「………な、なんかあるだろ。無言やめろよ男だろっ」 「ほら」 空白の時間が耐えきれなくなった晶に、手を広げて招き入れる。 「来いよ。胸貸してやるから」 ぽかんとする晶を見ていると、つくづく前とは逆だと思ってしまうな。 というより、これじゃあちょっとした意趣返しになるのかもしれないが、今度は俺の番だと思うのだ。 「俺が起きるまでに何か色々あったんだろ? 見縊るなって。内容は分からなくても、おまえが苦しんでいるのはよく分かるさ」 「ここで全部吐き出しちまえ。誰にも言わないから安心しろよ」 泣けないのはつらいよな。だから悩みを吹き飛ばしてやる。 「それ、仕返しかよ……」 「ああ、そうだとも」 「あの時おまえは俺を泣かせようとしたけれど、俺は」 おまえのことを── 「腹がよじれるほど笑わせてやろう。こんな風に」 「ぶはっ、ちょ、どこ触ってこらやめくすぐった……あははははっ、は、はは! 待てこらこのバカ何だよこのシチュ、雰囲気がっつり無視すんな!」 「そこはほら、もっとこう、いい感じのがあるだろコラァ!」 知らんな、聞こえん。これが俺たちらしくというやつだろう。 笑顔の方が好きだぞなんて、素直に言うと思うなよ。 「んにゃろッ……そっちがその気なら」 するりと猫のように逃れて、俺を布団に押し倒す。 拗ねたようにほっぺたを膨らませた晶の顔が、ドアップで迫っていた。 「観念、させてやるんだからな」 「そっちこそ」 というか、この体勢そのものが観念しているということで。 言葉よりも行動で、大切だと伝え合おうとしたのだった。 「晶のことを、全力で幸せにしてやる」 俺も同じ気持ちだと相手の顔を見つめながら、しっかり言葉にして伝えた。 おまえがいると楽しいし、笑っていると嬉しいから、同じ墓に入っていいと言ってるんだよ。分かれよな。 これは母さん、やっぱりあなたの影響かな。どうやら俺は母性的な女の子が魅力的に見えるみたいだ。 次の瞬間、晶は感極まったように勢いよく抱きついて来て── 「うん、幸せにして」 束の間触れた唇が両思いの感情を互いに伝えてくれたんだ。 「ん、んぅ……ふ……」 まるで小鳥が餌をついばむような軽いキスが降り注ぐ。 病み上がりの俺を気遣っているのだろう、極力負担がかからないように思っているのか自分から何度も口付けを落としていた。 「四四八……」 熱い吐息のかかる距離、晶は瞳を潤ませて俺を見ている。 気持ちが伝わってくるし、それが嬉しいものであるのも間違いなかった。 だからこそ、受身じゃなくこっちからも行動に移そうとしたが── 「いいんだよ、そんなに難しく考えなくても」 「今だけは、さ」 俺の頬を指先で撫でながら、晶はまるで心を読んだように呟いた。やんわりと押しとめられる。 「動くなって、まだ本調子じゃないんだから」 「やれムード出せだの、男のリードがどうこうだの、しょうもない注文なんてつけやしないさ」 「そういうんじゃなくて……ああ、何て言うのかな」 そこで言葉を切って、俺を正面から覗き込んでくる。 怯むことなく、真っ直ぐに。 「あたしが四四八にしてやりたい。だから、この場は任せろよ」 優しく笑んで、そっと口づけを再開する。 触れるだけのキスを交わしながら思ったのは、やっぱりこいつも一人の女性だったということだ。 もちろん分かっているつもりではあった。ぶっきらぼうなのは繊細さの裏返しであり、誰よりも仲間に気を遣っている普段の振る舞いこそがその証左だが、今はそういうことではなく。 熱を帯びた表情に、目の前の俺を求める仕草。そんな姿を見せたのは、長い付き合いの中でも間違いなく今が初めてだろう。 俺の唇を咥えてみたり、軽くなぞるようにしていたが、やがて伏せていた瞳を開く。 「ん……ふぅ、ちゅ……」 「な、なんかエロいよな、これ……生々しい」 「レモンの味がするとでも思ったのか?」 「ちょっとだけ」 舌をちろりと出した悪戯っぽい表情にも、思わず動悸が激しくなった。 今はこのような行為に及ぶ時ではないだとか、男の意地というやつがまあ色々と冷静になれと訴えかけていたものの、それが胸から吹き飛ばされる。 触れる唇に仄かな心地良さ。覚えてしまったのもまた事実で── 「いいか、少しでもきつかったら言えよ。無理強いなんてしやしないから」 「……なんと言うか、ずいぶん男らしい言い種だな」 「まるで口説かれてる生娘みたいな心地だよ。そのまま惚れてしまいそうだ」 不意に投げかけられた軽口に晶は目を丸くして、次の瞬間には頬を真っ赤に染めて睨んでくる。 瞳に浮かぶ色は抗議と……少しばかりの媚だろうか。 「惚れる、ねぇ──さらっと言うよな、もう」 「ジゴロかっつうの、おまえは。しかも天然の」 他愛もなく照れるその様子に、俺も肩の力を抜く。少しばかり軽くなった空気の中で、晶が身体を寄せてくる。 「ほら、じっとしてろよ……ん……ちゅっ……」 唇に、頬にキスの雨が降ってくる。熱い吐息がかかってくすぐったい。 小さく舌を出してまるで傷を癒すように、あるいは子猫がじゃれてくるようにか。優しく俺の首筋を舐めた。 「んんっ……れる、ちゅっ……ちゅぷ……はぁっ……」 「やっぱり、男の身体なんだよな……んむっ……ちゅ……首回りとか、しっかりしてる……」 「ん、んっ……ちゅっ……んふぅっ……」 こうして丹念に舌を這わされるのは言うまでもなく初めての経験だが、背筋が粟立つような感覚を覚える。 その間に、晶の手は俺の身体を撫でていた。 肩、背中、そして胸板……細い指先の伝うがままにされていると、次第に下半身が反応してきてしまう。 「れ、る……ちゅっ……って、あ、あれ? え?」 いや、そりゃあな。 普通に考えれば、こうなるだろうよ。 「これって、ひょっとして……お、おぉ~……」 「おぉって、おまえな」 「た、たってきた……でいいんだよな?」 「なるほど、こんな風になるんだ……」 「まじまじと観察しないで貰えるか。正直いささか恥ずかしい」 吸い込まれるように凝視とか、好奇心旺盛な子どもかよ、おまえは。 しかし──この状況に至るまでにいろんなことを頭で考えてはきたものの、思考の元である脳ってやつも、所詮は身体の一部であるのを実感する。 人の温もりに触れ合ってしまえば容易く麻痺し、そして支配すらされてしまうらしい。 自分がひどく単純な存在なのだという発見は若干承伏しがたいことだが、事実としてそうなのだから仕方なかった。 「っていうかさ、おまえが照れるなよ。むしろあたしの方が恥ずかしいわ」 「経験なんてないのに、何か無駄に手練れみたいでよ……」 「こっちだって、ドキドキしてるんだぞ」 「ああ、それはちゃんと伝わってるから心配するな」 「そもそも、そんなぎこちない手練れはいないだろ。顔も真っ赤だし」 「……微妙に余計な一言をありがとよ」 どうやら若干外してしまったようだった。こういう場でのフォローというのも、なかなかにして難しい。 だいたい、股間を膨らませながら普通に喋るっていうこと自体が難儀なお題目だしな。 「まあ、いいんだけど……おぼこなのも事実だしさ。知ってるだろうけど」 「んじゃ四四八、リラックスしててな」 「すー、はー……よしっ」 覚悟を決めるかのように大きく深呼吸をしたかと思うと、晶はおもむろに自らの服に手をかけて── 次の瞬間、目の前には晶の白い胸が晒け出されていた。 その乳房が同世代平均と比べてはるかに大きいのは知っていたが、こうして何遮るものなく見てみると重量感は想像を超えている。 先端に乗っている薄桃色の乳首は、急に空気に触れたせいかツンと上を向いていた。 反射的に浮かんだのは──綺麗だ、という月並み極まりない感想だった。 「うぅ……そんな無言で見んなって。かぶりつきか」 「……こんなにでかいの、あたしも恥ずかしいんだからな」 「そうなのか?」 「そりゃそうだろー。少しくらいなら〈あ〉《 、》〈る〉《 、》のもいいけどさ……」 「この無駄おっぱいのせいで結構からかわれたり、クラスの男子とかにチラチラ見られたりしてんだぜ? あと、あゆとか水希に揉まれたり」 それはご愁傷様。そう告白をする晶の顔は、すでに真っ赤を通り越している。 〈身動〉《みじろ》ぎするごとに微かに揺れる乳房と、その性格とのギャップに言いようのない背徳感を覚えてしまう。 「男をオトすのに便利だって聞いたりもするけどよ、あたしそういうのって興味ないし」 「いや、でも後ろめたく感じることはないさ」 「俺はいいと思うぞ、晶の胸」 「……じゃあ、揉みたい?」 「舐めたりしたい? 荒々しく鷲掴みにして、獣欲のままに思うさま弄くり回したい?」 「直に訊くなよな、そういうことは……」 さっきまでの恥じらいはどこ行った。 まあ多分に照れ隠しなのだろう。褒め言葉にも謙虚なのはこいつの性分だ。手で自分の胸を支えるようにして言う。 「いろいろしたいのかも知れないけど、四四八は動いちゃだめだぜ。あたしに任せとけ」 「ちょっと慣れてないかもだけど……そこは、勘弁してくれよな。その代わり、あ、愛情はこめるから」 どういうことだ。俺がそう訊こうとすると── 晶の手がすっと伸びてきて、ズボンのジッパーを引き下ろされた。 何を言う間もなく、すでにおおかた隆起していた男性器が露出させられてしまう。 「わぉ。これは、なかなか」 「っていうか……お、おっきくない? これ普通のサイズじゃないだろ絶対っ」 「俺が知るかよ……」 秘すべき己の局部を、幼なじみの手によっての強制開陳。性的な感情などよりも、何より気恥ずかしさが先に来る。 先程までの行為で充分に血流の行き渡ったものを、晶はおずおずと手に取った。 触れたその感触は、少しひんやりとしていて心地良い。 「言っただろ、いろいろとしてやりたいんだよ」 「四四八は動じず、反り返ってればいいんだって。こう、ぴーんと」 「何でここで親父ギャグなんだよ……」 溜め息を吐く俺を尻目に、晶は自らの身体を寄せてくる。 そして俺のものを、露出させた胸の谷間へと〈誘〉《いざな》った。 「うわっ……男のここって、思ってたより熱いんだ……」 「しかし、意外とすんなり収まるものなんだな、うん」 当然晶もこの手のことは初めてで、いちいち確認しながら進めている。 陰茎を360度の周りから押し潰しにかかるような乳房は柔らかく、個体として形を保っているのが不思議に思うくらいの感触だ。 吸いつくようなその肌触りに、否が応でも昂ぶってしまう。 晶は脇を締めるようにして、深くした胸の谷間に涎を垂らす。 そして乳房を抱え、ゆっくりと上下に揺らし始めた。 「やり方、これで合ってるのかな? ん、んっ……」 「あ、ぴくってしてる……はっ……んんっ……ふ、ぁんっ……」 「んっ……ぁ、ふぅっ……はぁっ……」 晶の手の動きに合わせ、自在に形を変える両の乳房。そのまさに中央に俺のものが埋もれ込んでいる。 じりじりと焦がすような快感が迫り上がってきて、背筋が小さく震えてしまう。 垂らされた唾液は潤滑油の役を果たし、互いの肉を隙間なく絡め合っていた。 「どう四四八、痛かったりしないか?」 「……こっちの具合くらい、一目で分かるだろう」 そう。俺の陰茎は、晶のお望み通りに隆々と反り返っている。 これこそがすべてを表していて、今さら何を言ったところで説得力なんてありはしない。 ついでに言えば、減らず口を叩いている余裕も実はない。 そんな俺の様子を見ながら、晶は嬉しそうに表情を綻ばせる。 「へへ……良いって少しでも思ってくれてんなら、嬉しいよ」 「今まで使い道なかった肉でも、四四八の力になれたってことだから」 「どうだ。こういうのも、気晴らしくらいにはなるだろ?」 そう冗談めかして口にする。 こんな時まで屈託のない晶の表情に、そして笑顔の裏に隠された感情に、俺のものは反応して痛いほど固くなってしまう。 「さっきは、胸が大きくていいことなかったとか言ったけどさ──」 「おまえがこうして喜んでくれるんなら、たわわに育てた甲斐もあったかもな」 再び再開される乳房での奉仕。自らの身体を揺する晶のその動きは先程よりも幾分激しい。 陰茎に圧をかけての上下運動。垂らした涎はカウパー腺液と混じり合い、今や晶の胸はテラテラと光沢を帯びている。 「く、ふぅっ……やだ、これ、あたしも……んんっ」 「はぁっ……はぁっ……ちょっと……気持ち、いいかも……」 「んっ……あふっ……くっ、ぅん……はぁっ……」 熱に浮かされたような吐息を漏らす晶。しかしその行為は止まらない。 乳首は今やすっかり尖ってしまっており、のみならず擦りつけてすらくる。 亀頭の部分と押し合った乳首が、くにゅくにゅと曲がっているのをダイレクトに感じる。 「んっ、ぁふっ……どう、かな……こういうの、いい? くぅっ……」 「して欲しいこと、あったら言ってね。あたしがやってあげるから」 「今だけは、何でも……」 コリッとした乳首の芯の感触がアクセントとなり、俺は思わず下半身に力を込めてしまう。 再び胸の谷間の奥深くに誘引され、陰茎が限界までいきり立つ。射精衝動が立て続けに襲ってくる。 こうして自分の中に押さえつけていられるのも、そろそろ限界だった。 「晶──」 「はぁっ……いいよ、四四八……気持ち良くなって。好きに出して」 「汚したって、いいから……ぁん……はっ、あぁっ……」 「んぁっ、くぅ……あっ……はぅ……んっ、ふぁ、んんっ……!」 健気に言い、胸の上下動がいっそう激しく行われる。 刺激的に過ぎる水音が周囲に響き、合わせるように晶の呼吸も乱れていく。 このまま陰茎が溶けてしまうかのような強烈な快感が、脊髄を幾度となく走り抜ける。 そして一際大きく晶が動きを取ったときに、限界は訪れた。 溶岩を溜め置けなくなった活火山のごとく、俺は白濁を放出していた。 遠慮も何もなく晶の乳房を、そしてさらには顔をも汚してしまう。 「ふあぁっ? ん、ぁ……はぁっ、はぁっ……」 「ん……あついの、いっぱい……ふぁっ……んんぅ……」 「はぁ……ぁ、はぁっ……」 自分もどこか放心したように肩で息をしていた晶だったが、やがてこちらを向いて尋ねてくる。 「あ、あのさ……その……気持ち、良かった?」 「少しは、役に立てたかな。あたしでも」 上気したままのその頬を伝い垂れているのは、俺の欲望の残滓である白濁だ。 不慣れであるはずの行為を終えてなお、晶は自分のことよりも俺を気にかけている。 こいつはいつだってそうで、誰よりも優しいんだ。 晶の献身によって射精に導かれ、この場はどうやら一段落の空気に包まれている。 だが、そこには重大な見落としが存在していて── 「ひゃあっ?」 突然の抱きつきに虚を突かれ、小さく悲鳴を上げる晶。 「よ……四四八、どうした? 急に」 ──俺はたしかにこいつに癒されたし、絶頂にまでも上り詰めた。 しかし、まだ収まっていない。こうして精を吐き出しこそしたが、そんなものでは全然足りなかった。いやむしろ行為の前より遙かに情熱は燃えたぎっている。 端的に言おう。俺は今、俄然やる気なのだ。 「ありがとうな、晶。そして、次は俺の番だ」 「おまえが与えてくれたものと同じだけ──いや、何倍にもして返してやる」 「え、ちょ、えええぇ──」 「いや、待て待て。でもおまえ、さっきまで」 「されっぱなしっていうのもな、男の沽券に関わるんだよ」 今更そんなものもないだろうが、これはけじめだ。 何よりもまだ、俺は行為で伝えていない。晶の想いに応えなくてはならない。 虚無。倦怠感。それがどうした。そんなものは今晴れた。 柊四四八。男として、このくらいの見栄を張れないでどうする! 「ちょ、え? ひゃあっ」 「うわ、待てって、マジで──」 そのままころりと、俺たちの体勢は上下逆にひっくり返った。 いささか複雑に絡み合ったものの、晶の片足を持ち上げて肩に担ぐ。必然それは大股開きとなるわけで。 まあ、男としてはなんだ、〈そ〉《 、》〈そ〉《 、》〈る〉《 、》。 「おい四四八。こ、こんな格好有り得ないだろっ」 「ううっ、丸見えじゃんか……」 羞恥心から、晶は耳の先まで赤くして慌てているが、しかし。 「この体勢だと、ぴったりと密着できそうだろ?」 「あ……そ、そう……なの? ていうか、そうしたいわけ? あたしと、その」 「無論」 それほどには、俺もおまえを欲しがっている。 断言した言葉に納得したのかどうなのか、もじもじとする晶。その露わになった秘部に視線を遣る。 重ねた愛撫のためだろう、薄い桜色をした陰唇はすでにしとどに濡れている。蠱惑的な光景に思わず惹きつけられてしまう。 うっすらと開きつつある膣口に、俺は亀頭を宛がった。ちゅく、と小さな水音が発生する。 「んっ……あ、ぅ……くふぅっ……」 「は、ぁ……あ……んんっ」 ゆっくり、破瓜の痛みをなるべく感じさせないように。焦ることなく腰を押し進めていく。 まだ先端しか挿入していないとはいえ、熱くとろけた肉襞が早くも絡みついてくる。気をしっかりと保たなければならない。 やがて少し行ったところで、何か薄い膜のようなものに触れる。俺は晶の頭を撫でて囁いた。 「力、抜いてろ」 「心配しなくてもいい。優しくしてやるから」 「あ……は、はい──」 しおらしいその返事に、俺は体勢を構え直す。 ここからは一工夫だ。ただ愚直に突くのではなく、ゆっくりとひねりを加えていく。 かかる力量は拡散した方が、幾分は楽であるはずだから。 そして── 「い、ぁ……あぁっ……!」 「ん、はぁっ……あぁ……くぅ……ん、んんっ……!」 「っ……あぁっ……あ、はぁぁっ……」 晶の身体が一瞬強張り、粘膜が裂けるような感触が伝わってくる。 遮るものがなくなって、陰茎が深く奧に埋め込まれていく。 目の前の幼なじみは、その瞳に涙を浮かべながらも優しく微笑んでいた。 「これで……ひとつになれたんだな、四四八と……」 「ガキの頃からずっと一緒にいてさ、いろんなことがあったけど──」 「あたし、今が一番幸せかも」 「俺もだ、晶」 どちらからともなく口づけを交わす。そこには、もはや遠慮などは存在しない。 互いに相手を求め合う。舌を伸ばし、絡めて貪り合うキスだ。 「んんっ……ちゅぶ……れる、ちゅ……ん、むぅ……」 「はぁっ……ん、ちゅるっ……ちゅっ、じゅぷっ……!」 歯茎までも舐り、唾液を交換しあう。晶のすべてを味わいたかった。 結合部は愛液にぬめっており、ただ繋がっているだけの今も膣襞が陰茎をきつく締めつけてくる。 俺の腰は知らずのうちに抽送を始めていた。 擦れ合う晶の中は熱く、火傷すらしてしまいそうだ。 「ん、はっ……くふっ……あ、あはぁっ……んんっ、んっ……」 「大丈夫か? 無理は──」 「して、ないよ……ぁ、んくぅっ……はぁっ……」 「そりゃ、少しは痛いけどさ……」 「嬉しい気持ちのが、勝ってるんだ……んんっ……あたしだって、これでも女だぜ」 言葉と同時、膣内が強烈に絡みついてきて、少しでも気を他所にやると一瞬で達してしまいそうだ。 俺も生憎、性行為の経験などない。自身が〈保〉《・》〈つ〉《・》間に、晶とともに最後の快楽まで到達せねばならない。 ゆえに── 「奧まで行くぞっ」 そもそもこんな大仰な体位を取るには、当然だが利点がある。互いの結合部がまるでボルトの凹凸が嵌るかのように密着する。 俺はさらに腰を進め、恥骨同士が触れ合うまでに挿し入れた。 「ふああぁぁぁっ……! あっ、ああっ、んはぁっ!」 「はっ、はっ……四四八ぁ……ふ、かいぃ……」 「あ、はあぁぁ……んっ、ふぅっ……」 陰茎はずっぷりと根本まで埋まってしまっている。そのすべてで襞肉のうねりを感じる。 俺が動くのと合わせて、晶の身体はびくっと波打つ。相当深い快感なのか。 「んんっ、ぅあっ……! い、はぁっ……」 「やっ、あんっ! はぅっ……ふっ、くぅぅっ、んっ、んんんっ!」 「いいぞ、晶。もう少しペースを上げる」 「えっ? あ、んんぅっ……! こ、これ以上……」 「むり、だよぉっ……ふぅっ、んあぁっ……!」 「挑戦する前から諦めるな」 そりゃおまえは処女だし、俺も同じく初めてだが、今という時間を出来る限りいいものにしたい。いつだってすべてを尽くしたいんだ。 納得したような、それでいてなお胡散臭そうな、複雑な表情を浮かべて呟く。 「初めはロマンチックにとかって、可愛いこと考えてたわけじゃないけどさ……」 「やっぱり、この体位は予想外だよなぁ」 「予想の範疇に収まる関係性なんて、退屈だろう」 「ばか」 互いにしっかりと繋がったまま告げれば、やがて吹き出して頬を緩めた。 花の咲くようなその表情に、容易く胸の鼓動が高鳴ってしまう。やばいな、まだ全然足りないぞ。 俺は腰を引いて、再び深く突き入れる。 反り返ったものと膣襞との激しい摩擦に、射精衝動を猛烈に喚起されてしまう。 「はうぅっ……! んっ、んうぅっ……ふあぁぁぁ」 「あっあっ、はんっ……くふぅっ……四四八、よしやぁ」 愛液は止めどなく溢れており、開いた脚を伝って下へと流れ落ちている。 陰茎で掻き混ぜられている水音が、何はばかることなく周囲に響く。 「はぁっ、はぁっ……ん、ぁうっ……」 「どうにか、なっちゃうよ……ひぅっ……や、あぁっ……!」 「んんっ……はじめて、なのにぃ……ふぁっ、くぅっ……んっ!」 熱に浮かされているのは俺も同じだ。ただ腰を叩くように打ちつける。陰嚢が晶の尻に当たって間抜けな音がする。 まるでそのまま呑み込まれてしまうような錯覚に囚われながらも、獣めいた抽送は止まらない。 突き込み、絡み合っているのが、もはやどっちの身体のものだか境目が分からなくなった頃── 訪れた限界に、俺は大きく身震いをした。 「はぁんっ、あぁっ……! んっ、んふぅっ……四四八、きちゃう……一緒に……」 「ふぁっ、ぁん! はぁっ、んぅっ……はぁっ……んはっ、ぁあぁっ!」 「く、来るぅっ……くふぅっ……あ、あ、はぁんっ……イっちゃう、あっ、イっちゃうぅっ……!」 「あっ、んあぁっ、ああぁあああぁぁぁぁぁーーーーっ!」 オルガスムスの声を上げ、晶は大きく背筋を反らせて達した。 同時に膣壁が強烈に締まり、俺もその奧に仮借のない精を放つ。 すでに一度絶頂に至っていたとは思えない勢いの白濁が、晶の子宮をひた叩いた。 「んふぅぅっ……あ、熱いの来てる……はぁぁっ……」 「くふぅ……ん、んっ……はぁ……はぁ……」 行為の余韻に浸りつつ、俺たちは互いの身体を繋げたままで息を整えていたが、やがてどちらからともなく腰を引く。 晶の膣口から、どろりとした精液が垂れた。それは扇情的な光景で、思わず見入ってしまう。 「う、うぅ~……」 「やっちまった……あぁ……初エッチで、こんながっつりと……」 今になって気恥ずかしさが襲ってきたのか、うなだれる晶に俺は言う。 「いいじゃないか、互いに良かったんだし」 「今日の出来事に、俺は感謝してるぞ」 「あのなぁ、そういう問題じゃないの」 「あるんだよ、女には。慎みとか何とか、面倒なことがいろいろとよぉ」 そして晶は溜め息一つ。 「しっかし、こんな調子で大丈夫かね……四四八とこういう感じにいくのって」 「今みたいに、いきなり体育会系に豹変されたりしたら困るぞ。だいたい何だあのノリ、スポ根かよ」 「しかも、すっごい気持ち良くされちゃったし……」 「あー、もー。いいんだけどさっ」 小声でぶつぶつと言ってるが、いらぬ心配というやつだろう。 想い合う気持ちがあれば、これから恐れるものなどきっと何もないのだから。 そう信じさせてくれた晶に、俺は笑みを浮かべて小さく肩を竦めた。 火照った身体で触れ合いながら、汗ばんだ相手の髪を手ぐしですく。 後戯のまどろみが充足感を満たしていき、晶もそれをくすぐったそうに受け入れていた。まるで懐っこい犬だな、こいつは。 このまま二人で優しい眠りにつきたいという感情がないわけではなく、それができればきっと今日という一日は幸せなまま終わるだろう。 だが、忘れてはならない。見落とすのも、逃げてもならない。 この幸福を現実にするためにも、俺たちにはまだつけなければならない決着がある。 「それで──いったいどこなんだ?」 胸の中にいる晶を抱きしめながら静かに、優しく問いかける。 「あいつと会って知ったことを、俺にもここで背負わせてくれ」 「この思い出を嘘にしないためにもさ」 黙っていたことを責めているわけじゃないと抱擁で伝えながら、二人で立ち向かおうと告げる。 「……わかった。説明下手なのは勘弁してくれな」 そして、時折つまりながらも晶は真実を語り始めた。 ここが第五層と呼ばれる階層であること。柊聖十郎が邯鄲法を確立した経緯と野望に。あの芦角先生が奴の奪いとった暴力衝動であったことも。 晶は語った。本当のあいつが今にも死にそうな重篤者で……〈四四八〉《おれ》がそれを回避するために、この世に生まれてきたこともだ。 母さんや剛蔵さんもその犠牲者。すべてを聞き終えてから、一度だけあらゆるものに深い哀悼の意を送った。 あの男の最奥に座す真実を知ったことに、後悔とも憤怒とも言えない複雑な感情が胸をよぎる。 自分でも分からないほど不思議な気分だ……不幸な境遇を差し引いても奴に同情する気はないというのに、最後の糸がぷっつり切れたかのような寂静感も芽生えていた。 そしてそれを、理性的な観察眼が致命的だと告げている。 他者の誇りを奪うと同時に、己が病を押し付けてくるという奴の夢。 そこに存在する発動条件とやらは、過去の自分達を顧みれば即座に割れた。 すなわち、柊聖十郎を憎むこと。奴に負の感情を向けることが、断頭台の刃を落とす引き金となる。ならば―― 天地がひっくり返っても、柊四四八はあの男を斃せない。 「許すなんて出来ないだろうが」 俺は男だ。まともな心を持っているんだ。悪事とそれの担い手を見て、当たり前に許せないと思ってしまう。 だから絶対に再び術中に嵌まってしまうと理解して、対抗策を見出せずにいたのだが…… それはすでに過去の話だ。俺に聖十郎を斃せないというのは、あくまで一対一の場合に限る。 「俺は、奴と違って一人じゃない」 自分だけで勝とうだなんて、自爆覚悟の見栄を張るつもりはなかった。それを肯定するように力強く晶が頷く。 「四四八があいつを憎むのが仕方ないなら、そこを補うのがあたしの役目だ。当たり前のことだったよ」 「そうだ、二人ならきっと奴の芯まで届く」 「俺の命、俺の夢、全部晶に預けるさ。おまえの義はどんな病にも負けやしない」 「任せな、絶対に手放さねえから」 こいつが居てくれる限り俺は不死身の男になれる。絆や愛を青臭いと嗤うあいつに、その強さを余すことなく教えてやろう。 真実の朝へと帰るために…… 育ててくれた愛の義を、奴へ叩き込むために…… 「行こうぜ、四四八。八幡宮にあいつはいる」 親子二世代に渡る因縁へ、必ずこの手で幕を引くと誓ったのだ。  冷たい月光が鶴岡八幡宮を照らす。  境内は静謐に保たれ、虫の鳴き声一つない。  より正確に言うのなら……真っ当な生命体は、この地を嫌って近づこうとさえしていないのだ。  腐汁に汚血、死毒に腫瘍。敏感な野性の本能が隠し切れぬ病魔の気配を捉えて竦み、発生源から遠ざかろうとした結果であった。  それは動物にとって、ある意味当然の反応だろう。感染能力の有無にかかわらず、病んだ命に好んで近づきたがる者はどこにもいない。  人であれ獣であれ、死亡寸前の患者に長時間付き合っていると多大な〈負荷〉《ストレス》を心身に受けてしまうのが自然の道理。  病院で心を病む者が後を絶たないのと同じこと。濃縮した〈負〉《マイナス》の塊は何であれ、そこに鎮座するだけで周囲の空間を際限なく汚染する。  そしてこの場は、その究極とも言うべき状態に陥っていた。  とてもまともじゃいられない。  不安で、不安で仕方がなくなる。  柊聖十郎という男の抱える絶望により、神を祀る境内は地獄の窯へとその姿を塗り潰されていた。  月は、そろそろ夜空の頂上へ。  刻限は近い。時刻を指定はしていないが、自らの求めるものがすぐそこまで向かって来ていることを聖十郎は感じていた。  盧生の資格はこれでようやく手に入る。ならば考えるべきは〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》だった。  なぜなら、四四八が未だ八層に達していない段階で奪取すると決めたからだ。大願成就のため、やらねばならない必須作業を今から自分が引き継ぐという形になる。  見誤ってはならない。あくまで最終目的は夢界八層を攻略し、盧生として夢を現実へ持ち帰るということにある。  独力での生存手段を確立し、そして甘粕正彦を抹殺するのが、自分の願く未来の形。  そのためにまずこなさなければならないのは、変化する状況の把握だった。  子から親へ盧生が移り変わることにより、この夢界を取り巻く戦況も激変するのが予想される。 「盧生となった瞬間、俺はおそらく自動的に奴の眷属から外れるだろう。それに応じて、戦真館の眷属も同時に夢から排斥される。 いや、連中は特別結びつきが強い。太源である〈四〉《 、》〈四〉《 、》〈八〉《 、》〈ご〉《 、》〈と〉《 、》〈奪〉《 、》〈い〉《 、》〈取〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》手駒も増えるというものか。 神祇省、及び辰宮は邯鄲から脱落だな。鋼牙と神野は健在だが共に甘粕の首輪付き……突破する算段は幾らでも付く」 「となれば、やはり面倒なのは〈第七層〉《ハツォル》か」  あの階層には夢界最大の障害として、百鬼空亡が控えている。甘粕が配置した第八層へ至るための門番、容易に突破できるものではない。  かつて〈恵理子〉《イケニエ》を使って逸らしたが、七層突破に求められるのは正攻法での攻略だ。  ……あれは絶対に斃せない。そもそも、そういうモノではない。  無論その対処法を知ってはいるが、自分が条件に当てはまらないのは承知している。ゆえにここだけ見ればすでに手詰まりだとしても、その不可能を可能とするのが聖十郎の紡ぐ〈業〉《ユメ》。  何のことはない、獲れば済む。 「おそらく、戦真館のいずれかだろうな」  邪龍を鎮めるのに適した柱はそこから見繕えばいい。ああ見えて甘粕は無理強いをしない男だ。相手に強烈な〈試練〉《きたい》を課すものの、最初から達成できない命題だけは決してあてがおうとしない。  限界寸前、魂が擦り切れるほど力を振り絞れば必ず到達できるよう、優れた検眼で難易度を調整している。  奴の内面を熟知しているためそれを逆手に取るのも容易だろう。腹立たしいが付き合いも長い。対抗手段はそれこそ泉の如く湧き出てくる。  そうなると、残る問題はいよいよ時間的なものに限られた。  甘粕の眷属から外れてしまえばいよいよ自分は瀕死であり、腰を据えて攻略などしようものなら、現実の身体が危うくなる。  そう、〈一〉《 、》〈刻〉《 、》〈も〉《 、》〈早〉《 、》〈く〉《 、》〈目〉《 、》〈覚〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  でなくば元の木阿弥だ。たとえ盧生になったとしても、目覚めないまま虚しく絶命してしまう。  邯鄲の突破に甘粕は十年かけたが、自分にそのような猶予はない。  本来は甘粕がしたように、階層を超えたタイミングでその都度、現実へ帰還するのが好ましい。  その方が第八層到達時において、現実へ夢を持ち出す負担が大幅に軽減される。夢界で体感する加速した〈生涯〉《とき》と、現実時間との擦り合わせは出来るならやっておきたかった事項の一つだ。  こればかりは他者から獲る獲らない以前の問題である。あくまで盧生である自分が通らなければならない道だ。  ならばもはや、是非もない。 「統合する際の反動は膨れ上がるが……やむを得ん」  リスクを承知で、一度も目覚めずこのまま夢を走破する。  それがどれほど困難かは知らないが、知ったことか。己に成せぬはずがない。  確信と共にそのための工程を何百通り、何千通りと頭の中で組み立てる。  世に満ちる有象無象を遥か凌駕した高速思考を実現しつつ、その瞬間を待ち焦がれていた。  その時、ふいに聖十郎の背後が軋む。  うっすらと虚像を映した逆十字──磔にされた何かが、擦れた愛の言葉を口にする。 「────四四八、四四八ぁ。 いっぱい愛してあげるから、どうか元気に産まれてきて。ああ、もうすぐ会えるのね」  〈第五層〉《ガザ》という子宮に母の呼びかけが優しく響く。  剥奪された愛情の現身が、近づいてくる四四八の〈到来〉《たんじょう》を誰よりも的確に察知していた。  ここへ向かって来る気配は二つ。夫もそれを感じたことで、背後へ流し目を送った。 「嬉しいか、恵理子。俺の道具を〈ひ〉《 、》〈り〉《 、》〈出〉《 、》〈す〉《 、》のが待ち遠しくてたまらんわけだ。  褒めてやろう、おまえは〈母胎〉《しけんかん》としてそこそこ優秀であったらしい。  その調子で今後も俺の役に立て」  それがおまえのすべてであり、他には何の価値もない──  至極当然の、論ずるまでもない、自然の摂理を語るような口ぶりで聖十郎は恵理子の出産を祝福した。  自分の〈盧生〉《みらい》を製造した肉袋を一瞥し、そして二度と興味を示さない。訪れる息子のことを手足の付いた献上品だと認識しながら、今か今かと待ち焦がれている。  その感性、外道と言わずしていったい何と表現しようか。  柊聖十郎の真実は、もはや救いようのない重篤患者だ。  夢の加護がなければ、一人で食事をすることも覚束ない社会的弱者。肉体的な強さは子供にさえ劣る有様であり、とても他者に傲慢な態度を向けられるような境遇ではない。  他人がいなければ数日も生きられず、実際その通りの人生を送って来たはずだろう。恵理子や剛蔵が傍に居なければ邯鄲法の完成も不可能だった。志半ばで鬼籍に入っていたのは、もはや言うまでもないことで。  だというのに、聖十郎はあるがままに鬼畜である。  感謝の心など一片たりとて抱かない。  むしろ何だ、逆だろう。貴様らこそ俺に使われて光栄に思うがいいと、道理の通っていない不遜を全方位へと浴びせにかかる。  そして……それゆえに、誰もこの男を放っておけない。  目を逸らして拒絶するか、甲斐甲斐しく世話を焼くか。どちらにしても無感であることだけは決してないのだ。そう、決して。  死病に侵された身体は弱く、醜く、見ているだけで不安になる有様だから。この男を知る者たちは放っておけないし、見捨てておけない。柊聖十郎を視界に入れて、何らかの感情を抱かない人間は存在しないと言えるだろう。  重病人を見捨てることに良心の呵責を覚え、嫌って遠ざかるにしても大きな忌避感と生理的な嫌悪感を植え付けられる。  そして何より悪辣なのが、彼自身そのような感想を抱かれると分かった上で利用していることにある。  弱っているから仕方ない──  こんな境遇なら誰でも狂う──  彼も望んで病に侵されたわけじゃない── などと、些細な同情心でも抱いてしまえば、もう聖十郎の思うつぼだ。〈嫉妬〉《ぞうお》の十字架に絡めとられ、あらゆる輝きを奪われる。  こんな男を打倒するなど、まともな感性ではどだい不可能なことである。  怒りや憎しみを抱かないことは出来ず、かといって爽快に叩き潰そうとしても重病人であるという事実と境遇が相対する者に同情を誘う。何かを感じずにはいられない。  よって、柊聖十郎を打倒できるのはこの鬼畜を心の底から愛することが出来る者だけ。  妻や友、そして息子を単なる供物と捉えている男の性根。それを充分知ったうえで、なおかつ肯定できる存在だけが彼を斃せる資格を持つ。  そんな条件に合致するのは、邯鄲においても悪魔だけだ。  甘粕や神野のように、外道を祝福し、鬼畜を喝采する手合いのみが逆十字の型に嵌まらない。  あるいは、そもそも人の道理を解さない天災ならば通るだろう。空亡のように人類そのものを路傍の石と思っている輩にすれば、聖十郎を憎むも糞もないのだから。  そしてゆえに、彼の勝利は揺るがない。  恵理子を殺した。友を傷つけた。〈四〉《 、》〈四〉《 、》〈八〉《 、》〈は〉《 、》〈必〉《 、》〈ず〉《 、》〈怒〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。  義憤という悪感情を燃えたぎらせる正義漢……彼にとって、これほど容易い獲物がどこにあろうか。  長かった生と死の闘病もここで終わる。生まれ変わる。  盧生の生まれた今日この日が、柊聖十郎の誕生日だ。 「さあ祝え、俺の〈救世主〉《イェホーシュア》」  貴様のすべてを、夢の一欠片に至るまで偉大な〈創造主〉《おや》に捧げるがいい。  おまえは俺のためだけに生まれ、生かされている。  柊四四八という器は、この瞬間のために生まれた〈贈り物〉《プレゼント》なのだから。 「お断りだ」 「勝手にやってろ」 開口一番、告げられた意味のわからない言葉を毅然と相手へ叩き返す。 祝えだと? 馬鹿を言え。おまえのいったい何を見て、どう讃えろと言うのだろうか。 景色から浮き彫りになっている白のスーツとは逆に、境内の闇よりなお暗い凶兆が奴の総身から滲み出ていた。睥睨する視線は子供のように純粋で、なのに邪悪の一言に尽きる歪さ。直視するだけで頭がおかしくなりそうになる。 こいつは本当に、どこまでも最低のままだ……更生の余地が欠片も見えない。 それが腹立たしくて、同時にとても悲しくなる。だからこうして対峙するたびに、俺の中で形容できない感情が溶岩となり溢れ返っていた。 吐き気を催すおぞましさは今もより強く、深くなっていく。空間に毒を垂らしていくかのように、すぐにでも俺からすべてを奪いたくて仕方ない餓狼のような眼光が語っている。 激突は避けられない。そして、それを決心して来たのだから今さら心に怯えはなかったが…… 最後の戦いを始める前に、これだけは明らかにしておくべきだろう。 「一つだけ聞かせろ」 「晶が言うには、おまえは俺の持つ力……夢を現実へ持ち出すサーバー権みたいなものを奪い取ろうとしているんだな」 「ならば、おまえにとって母さんは……柊恵理子はあくまでそのためだけの人間だったのか。俺を作り出すための単なる部品に過ぎないと」 「そうだが?」 言葉を選ばない一息の肯定。こいつは逆に、こちらの正気を疑っている。 なぜ今さらそんな分かりきったことを問うのかと言うように。 「俺にとっておまえは、盧生になるための道具に過ぎん」 「そのための手段として、試験管は必要だろう」 「では、どうして母さんを選んだ」 「ああ」 それを聞き、奴は事もなげに、ただ一言。 「手近であったからな。調達の手間が省けた」 呆気なく最低の事実を口にする。 まるで、そこらの犬猫から適当に選んだとでもいう言葉。こいつにとって母さんとは真実〈そ〉《 、》〈う〉《 、》なのだと、思い知らされた。 震える拳から一滴の血がしたたり落ち、握りすぎた指先を緋色に穢す。なぜ、どうして、この男はこうなんだ……そして。 「たった、それだけの理由で……っ」 「四四八……」 俺を一人で育ててくれた母さんは、おまえに何もかも奪われたというのか。 単に運が悪かったからと、それを納得しろというのか。 静かに怒気を発露させる俺を見て、奴は納得したように頷いた。そして心底、くだらないと言わんばかりに落胆の吐息を漏らす。 「なるほど、合点がいった。つまりおまえは、恵理子が優秀な女だったと信じたいわけなのだな」 「あれが優れた母体であったから、何某かの選考基準に合っていたから、ゆえにわざわざ俺が手塩にかけて選んだとでも──阿呆かおまえ。真逆だろう」 「物の道理が分かっていない。あれの血が混じるとここまで頭の巡りが悪くなるのか?」 「おまえが盧生という資格を得て誕生したのは、〈正真〉《しょうしん》、俺の種が優秀であったからだ」 「砂漠であろうが深海だろうが、種を蒔けば俺という〈才気〉《はな》はどこでも芽吹く。極論、恵理子の腹も犬の腹も、培養液でも同じことだ」 「母の栄誉がどうこうと、くだらん拘りで穢すなよ」 本気で、それが世の真理だと、そんな顔で説くこいつが──ああクソ、意識が沸騰しそうになる。 「晶、すまない。そろそろ我慢も限界だ」 「みなまで言うなよ。あたしだって気持ちは同じなんだから」 感じた印象はまったく同じ、こいつは駄目だというのに尽きる。 壊滅的に終わっている人間性は、きっと一度や二度死んだくらいじゃ直らないほど病み狂っているものだった。 死病に侵されていたからこうなったのか……それとも生得的にこうなのか。どちらにしても手遅れだ、おまえは色んなものに詫びなきゃいけない。 詫びることが出来ないのなら、せめてあの世で償うべきだ。 それが最初で最後の親孝行。俺がこの手で、おまえを母さんに会わせてやるよ。 「最後だ、おまえの勘違いを正してやる」 「柊聖十郎は盧生じゃないが、柊四四八は盧生の力を持っている」 「この力が何なのか、どういうものかは俺にとってどうでもいい」 「だが、それがいったいどこから来たかというのなら……その因果は母さんの中にしか存在しないはずだろうが」 臨界点に達する空気の中、得物を創り上げながら本人だけが気づいていない矛盾点を指摘する。 子供にも理解できる簡単な遺伝論だろう。おまえの血には何の優性も宿っていない。 だから── 「貴様の論は、最初から破綻しているんだよ。この糞野郎ォォッ──!」 如是畜生発菩提心……これから俺たちが、あの人は菩薩の心に至っていたと証明してやる! 滾る義憤を鉄の棍に乗せながら、戦いの火蓋は切って落とされた。 夜の境内を照らすように、幾度も〈鳳仙花〉《ひばな》が散っていく。 一秒の内に最低七度、多くて二十。放ち放たれる暴力を共に当たる寸前で撃墜しながら、その威力に怯むことなく次の攻撃へと繋ぐ。かつてのような醜態は晒さない。 そうだ、俺は戦えている。 この悪魔みたいな男と、正面から相対できている。 母さんを殺されて動揺し、成す術なく状況に翻弄されたあの時と同じじゃない。鍛え上げてきた時間と相対してきた死の苦難が、一挙一動に力の結晶と化し宿っている。 駆動する〈邯鄲〉《ユメ》は過去最高の力強さだ。負けられない、必ず勝つ、その信念と勇気が今も背中を押していた。 だが──それでもなお、奴は桁が外れている。 いいやこの場合、より悪辣であると言うべきか。 「──っ、ぐ!?」 直角に曲がった拳が異常な軌道を描いて迫り、強かに顔面を打ちすえられる。鼻の骨ごと頭蓋を粉砕しかねない威力だったが、重要なのはそこではなく直前で起こった出来事の方。 ──まただ、これで何度目か、〈動〉《 、》〈き〉《 、》〈が〉《 、》〈ガ〉《 、》〈ラ〉《 、》〈リ〉《 、》〈と〉《 、》〈変〉《 、》〈貌〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》。 まるでコマ写しの映画みたいに、瞬きの時間で柊聖十郎という男は戦い方を次から次へと切り替える。攻撃を喰らったのは一合前で得た対策が何の役にも立たないからだ。 〈一撃離脱〉《ヒット&アウェイ》、〈一撃必殺〉《ワンストライク》、〈電光石火〉《スピードスター》、〈変幻自在〉《トリックスター》…… 手技、足技、柔術、剛術、殺人活人、一対一から多対一まで多種多様に……節操なく。 湯水の如く、五月雨の如く、怒涛となって迫る変幻自在の攻め手。下手をすれば鼓動のテンポまで入れ替えながら、柊聖十郎は攻撃を重ねてくる。 しかもその動きがどれも例外なく達人の域に達しているとなれば、追い込まれるのは自明の理だ。 これが仮に五つか六つのパターンならば、どれだけ超一流であろうとも対応することが出来ていた。その程度の手合いならここまで手こずることもない。 だがこれは、あまりにも手段の数が多彩過ぎる。この禍々しい空気と外側だけを残し、中身がごっそり別人へ入れ替わっているとあれば、戦いの中で予測することさえ出来ないのだから。 素質を自在に調整できる俺の破段ともまったく異なる、異質な業。 そしてその正体にも、すでに見当はついている。 「それが、おまえの奪ってきた輝きかッ」 「その通り、俺の集積した道具どもだ」 あの時、俺たちに仕掛けたことの真実がこれだ。こいつは他人の誇りを奪いにかかる。 しかも先生の例から考えて、略奪する対象は物理的なものに限らないんだ。相手が積み重ねてきた努力や才能、下手をすれば心や人生さえ技に嵌まると抉り獲られる。 そしてそれを盗品の王は自慢顔で使っていた。 ああ、確かに強いさ、手強いとも。だがしかし。 「なんて情けないんだ、おまえは」 他人から毟り取った力をさも自分の物だという風に、疑問も感じず見せびらかすなよ恥知らず。これはいったいどういうことだ。 「己を己たらしめているオリジナルが欠片もない。人の褌で相撲を取ってるだけじゃないか!」 その感性が根本から俺は理解できそうにない。オリジナリティ云々よりも、他人が磨き抜いてきたものに敬意を持たないというのが信じられない。 賞賛されるべきは、あくまでそれを練磨してきた人たちだろうに。 ただ道具。己のもの。おまえは俺のために生まれたのだから俺が使って何が悪いと、ワケの分からない思考回路で完結している。 なんて伽藍、中身が零だ。こいつの中から病魔と憎悪を取っ払えば、あとには虚無しか詰まっていない。 「くだらんな。そしておまえのほうこそ、まったくオリジナリティのない言い草だ」 「俺と相対した人間は皆そういった反応をする。〈健常者〉《おまえたち》からすれば、どうも甚だ異端らしいが……」 「ゆえに、取りも直さず〈知〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈る〉《 、》」 「それは希少種に対する生物の本能だ。未知の怪物を解析し、理屈という枷を嵌めて安息を得ようと目論む。人類は未知を駆逐することで霊長類の王となった。何もおかしなことではない」 特別なものをただ特別と思えない、来歴を知ろうとする普遍的な感性をこいつは腹の底から見下していた。そんな様だからおまえたちは脆いのだと、病んだ眼光が語っている。 「理解できないのだろう? 知りたくてたまらないのだろう? そして、俺はおまえ達を知っている」 「だからこそ、教えてやろうというのだよ」 言い放ち、〈天〉《おのれ》を讃えるように両手を広げて。 「さあ、俺に潜む〈病魔〉《やみ》を知れ」 何事かを告げたその瞬間、〈殴〉《 、》〈り〉《 、》〈か〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈右〉《 、》〈腕〉《 、》〈が〉《 、》〈根〉《 、》〈元〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈消〉《 、》〈滅〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》── のみならず、さらに異常事態は連続する。 「があァ、ッ……!?」 奴の背後から飛来したのは〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈右〉《 、》〈腕〉《 、》。弾丸もかくやという速度と、何より心理的な動揺で直撃を喰らってしまった。 傾ぐ体勢を見て、しかし奴は一歩も動かない。滑稽な人形を眺めるように、変わらぬ怜悧な顔を向けながら朗々と言葉を紡ぎ始める。傲岸不遜な余裕のままに。 「序段、詠段、破段は分かるな。では親心だ、その先を教えてやろう」 「これが急段。その本質は三つ以上の夢を同時に重ねて使うこと、そして破段で得た特質をさらに強化することにある」 「俺とおまえ、彼我の間に特定の手順を踏ませることで協力強制を起こすのだよ。相手の敷く法へ乗った場合、それは合意と見なされる。何も珍しいことではない」 「侍の鞘当てというように、古今東西を見渡せばそういう枠組みは幾らでも目につくだろう。相手と自分で、共に一つのルールを遵守するのだ。ゆえに必殺、発動すれば逃れられん」 「何せ相手の〈合意〉《ちから》も乗っているのだからな」 それは、ある意味当然のことなのだろう。互いに同じルールを守らなければ成り立たないものは幾らでもある。 チェスやトランプ、スポーツなんかはその類でも最たるものだ。相手選手が同じルールのもとで鎬を削ってくれるからこそゲームは成り立ち、共に力量を比べられる。だがそれは逆に言うなら、協力して一つの法を組み立てているということでもある。 身も蓋もない話になるが……相手を屈服させたいだけなら闇討ちでもした方が遥かに手っ取り早いだろう。敵と自分の間に特定の行動を禁忌とし、そして逆に奨励する。その型を守った場合、本来存在しない法則は途端に形を帯びるということか。 そしてそれは、おそらく自覚の有無など必要ない。 「俺の取った行動が、おまえの提示した急段の発動条件に合致したと……そういうことだな」 「そうだ。これの肝は如何に相手へ悟らせず、その条件を踏ませるかということにある」 たとえば、チェスのルールを知らない素人がいたとしよう。駒の動かし方さえ知らないそいつとは、遊戯を成り立たせようという協力作業は不可能だ。 しかし相手側から上手に誘導することで対局を成し遂げさせた場合、それはゲームルールを無知のまま守っているという形になる。 ゆえに協力強制、合意を得るとはそういうことだと聖十郎は語っており、だから俺もここにきて確信した。 こいつの条件は事前に予想していた通り。かつ、知っていたとしても決して回避できない類。 いいや、むしろ知ることによりなおさら嵌る。悟らせないのが肝だなどと言いながら、べらべら語っていることこそがその証だ。 少なくとも俺にとっては、天地が引っ繰り返っても覆せない殺し技として機能するもの―― 「おまえは俺を憎まずにはいられない──それは知りたいという感情であり、輝きを叩き込みたいと願っているのに他ならん」 「俺はおまえが羨ましい──それはおまえの輝きを求めているということで、同時に理解しても構わんと許可しているのに他ならん」 つまり、それが柊聖十郎の提示する協力強制の条件。 憎悪、怒り、敵愾心……そうした思いを基幹にした興味の心が、最悪の〈呪い〉《キズナ》となって両者を繋ぐ。 知りたい。そして知らしめたい。戦闘の要とは煎じ詰めればそこである以上、逆十字からは逃げられない―― 「がァッ――」 瞬間、俺を襲ったのは例えようもない吐き気だった。毒の霧で満ちたかのように大気は清浄さを失っていく。生存本能が、死の危険以上に激烈なおぞましさを感じて逃げろ逃げろと叫んでいた。 ここにいてはならない。これ以上、この男を視界に入れるのは危険だ。 見れば最後、生涯を蝕む最大の〈死病〉《あくむ》に感染すると確信し…… 「〈干〉《かわ》キ〈萎〉《しぼ》ミ〈病〉《や》ミ〈枯〉《こや》セ。〈盈〉《み》チ〈乾〉《ひ》ルガ〈如〉《ごと》、〈沈〉《しず》ミ〈臥〉《こや》セ」 紡ぎ出される呪いと共に、奴という〈製造者〉《おや》がそれを逃さないと言い放った。 「急段、顕象──」 「生死之縛・玻璃爛宮逆サ磔」 そして、柊四四八にとって最悪の地獄が出現する。 「こ、れは────」 この光景を俺はどう表現すればいいのだろう。 言葉が出ない。形容さえしたくない。ただ強烈な悪感情が頭の中を爆発するように駆け巡っている。 〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》がいったい誰なのか、分かりかけているだけにどうしようもなく不安になるのだ。 「愛は分かる。情も分かる。人の性に属するすべて、俺は余さず知っている」 「ゆえに無論、己の邪悪さも誰より承知だ。俺は俺が望むまま、あるがままに鬼畜であるだけ。そこに後悔など一片もない」 逆さ磔の虜たちが叫喚する。それは柊聖十郎の闇に触れ、生贄となったすべての者たち。 この男に羨ましがられた成れの果てがそこにある。 「おまえは俺のためだけに生まれ、生かされている」 だから寄越せ。その輝きは己のものだと、病んだ双眸をぎらつかせながら手を伸ばす。 「俺に足りないものは、ただ〈盧生の資格〉《ソレ》だけなのだ」 この外道を前に笑い続ける感性など、それこそ悪魔以外に持ち得ようはずもないだろう。 朗々と語る姿が許せない。まして、ああ、ましてそれは── 〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈は〉《 、》、ッ──! 「貴、様ァァ……ッ!」 激昂した瞬間、踏み込もうとした足が消失した。だがどうした、そんな痛みや損傷さえ頭の片隅にも浮かばない。 どんな姿になったとしても、俺があの人たちを見間違うはずなどないのだから。許せない、許せない、そう思う限り更に術中へ嵌まるとしても……それがどうした。 こんな所業を見せられて、怒らなければ男じゃない。そんな正しい心を持つように俺は育てられたんだから。 「憎悪と愛情は表裏一体、とはよく言ったものだな。共に相手を知らなければその手の情は成り立たん」 ゆえに悪魔は嘲笑う。深みに嵌り続ける俺を愛でるように。 「俺を憎み、憐憫するか? なぜこうなったかと嘆くのか? 知りたいと言うのなら、いいぞ、教えてやろう。俺はおまえが羨ましい」 「等価交換の成立だ」 悪感情をきっかけに柊聖十郎へ興味を抱いてしまうということ。 そして聖十郎自身が、相手の抱える美点を羨ましいと希うこと。 この二条件が相互の間で達成された結果がこれだ。俺たちの持つ輝きと、こいつの〈病〉《ヤミ》がそっくりそのまま入れ替わる。 現に先ほどから吐血が止まらくなっていた。〈脳内物質〉《アドレナリン》が痛覚を緩和しているものの、病魔を受け取っているのは間違いないだろう。 この男を構成していた世界観の根が、深く身体を蝕んでいく。当然、敵意を抱き続ける限りそこに終わりは訪れない。 「そうだ、おまえにこれは破れない」 そして、脱出することも許されない。ここは奴の創った空間だからだ。 基本はおそらく創法の両面を用いているのだろう。そこに他人から奪った夢を上乗せして、同時展開を行っている。 ゆえにこいつの資質は〈全方位型〉《オールラウンダー》。他者の簒奪を続ける過程で、自然とその素養もあらゆる方面に高水準へ極まったという怪物なのだと理解した。そう、理解できたのはそんなことだけ。 どれほど〈憎〉《しりた》いと願っても脱出不能、攻略不能、聖十郎の誇る優位は圧倒的で揺るがない。 「逆十字に囚われんのは、甘粕や神野のような悪魔だけだよ。あるいは、人の道理を知らぬ邪龍のような人外か。どちらにしてもおまえにそれは決して不可能」 「良識という荷を背負うがために、いとも容易く型に嵌まる。そら」 「四四八……四四八ァァァ……」 「すまんなぁ、みんな……俺が情けなかったばかりに……」 「あはははは、ハハハハハハハッ! 立てよ柊ィ、もう一度しごいてやろうかぁ?」 「早く逃げて」 「俺たちはいい」 「おまえまでこうなることはないだろうさ」 大丈夫か。愛している。助かってくれと、次々投げかけられる愛情に満ちた声援を耳にして── 「どうだ、役に立ちそうか?」 それら塵屑であるという蔑笑を目にした瞬間、理性が限界まで振り切れた。 貴様、よくも──許せない! 「がああああああァァッ!」 ……そしてそう思っている限り、身体は深く病み果てていく。 皮膚の下で常に百足が這いずっている感覚が生じ始め、首から上は頭痛が嵐のように絶えず意識を掻き混ぜている。 幻聴に幻視、撹拌する五感は真っ直ぐ立つことも許可しない。全身から垂れ流す血液からは腐ったような臭いがしていた。 削れていく。奪われる。義憤を抱けば抱くほど柊四四八が減っていく。 全身の骨から〈丈夫さ〉《カルシウム》が掻き消えた……踏ん張ろうとしただけで、全身の骨に致命的な亀裂が走る。 それを機に、聖十郎の背後に磔られた一体が徐々に輪郭を帯び始めた。何度も鏡越しに見てきた〈人物〉《じぶん》の姿に、少しずつ肉と骨が継ぎ足されていく。 「そうか、それが……ッ」 「見えるか? これが完成したとき、おまえは俺のものになる」 陶酔に満ちた宣言は俺の人権を真っ向から否定する祝福だった。 四肢が消え、内臓各種がそれぞれ半分奪われる。病巣になった身体は崩れ落ち、そこに伸ばされる手を拒むことも睨むことも出来はしない。 「そして俺は、真にこの世へ産声を上げるのだ」 真実、ただの道具として扱われる、その寸前に。 「それをさせないために、あたしはここにいるんだよ──ッ!」 絶妙の援護で俺は五体を取り戻し、反撃へと打って出た。 完治には至っていないが、しかし身体は動く。戦える。 復活の虚を利用して放った左腕は加速も充分に乗っている。対して聖十郎は直立不動だ、躱すどころか受けることさえ選択肢にすら入れていない。 おまえ何をやっていると、呆れた視線を向けただけ。 それだけで奴にとっては充分だった。 急段、発動──攻撃に転じた左腕が奪われる。 憎悪の絆は、依然として互いを結び付けていた。暗黒の等価交換は事もなげにあらゆる抵抗措置を削ぎ落とす。 だが、あまり見縊るな。俺は一人じゃないんだよ。 「──晶!」 「ああ、任せろッ」 「オオオオオォォッ──!」 呼びかけに応じ消えた腕を瞬時に再生、それをもってついに聖十郎を殴り飛ばした。 強引な力押しそのものの解決策だが……それでいい。元より悪辣さにおいてこの外道に敵うわけがないのだから。 どう足掻こうとも俺はおまえに敵意を抱かずにいられない。ゆえに上等、それを飲み込んだ上でやってやる。 「俺たちは、真っ直ぐ行かせてもらう」 幾らでも策を弄すればいい。受けてみろ、これが戦真館の流儀だ。 再び突撃した瞬間、奪われる、奪われる、奪われるが──しかし。 その度に再起して、再起して、再起して立ち向かう。そう何度でも。 晶が支えてくれる限り失った身体の部分を取り戻せすことが出来るから、それを頼りに魔性の逆十字へと挑んでいく。 互いに手札はこれですべて晒したぞ。本当の勝負はここからだ……!  これで都合十七度……  構成する血肉を毟り取り、柊四四八の総体は確実に減少した。  無論、晶の手で瞬時に回復が行われているものの、これが光と闇の交換であるということを忘れてはならない。  空いた箇所を埋めるように蝕んでいく、等価の病。  それは当然の理として、一朝一夕で治療されるほど軽いものではなかった。  二人を除いて戦真館が脱落している現状もそれを如実に証明している。柊聖十郎という男を育んできた負の構成物、そんなものを抱える羽目になったのだ。まともなままで済むはずがない。  四四八の受けた死病はどれも現在進行形で彼の身体を破壊している。  呼吸器や内臓器官の癌化に始まり、赤血球の死んだ血は脳に酸素を届けていない。  肉は次々と膿んでいき、ヘドロのように爛れて落ちた。  猛威を振るう病、病、病の毒──晶が必死に治療をしても、それこそ瞬く間に増殖細胞が健康な部位へ侵攻していく。  激痛と絶望に耐えながら戦っているだけでそれこそ敢闘賞ものだろう。  闘病とは、何より気力との戦いだ。体力以上に〈心〉《 、》〈が〉《 、》〈折〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈に〉《 、》〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》のだと、聖十郎は体験談から熟知している。 「やはり剛蔵の娘か」  ゆえにあの少女が邪魔で仕方ない……ああ、本当によく似ている。  気炎を迸らせて〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈れ〉《 、》〈つ〉《 、》〈く〉《 、》息子の相手など、本来たいした手間ではないというのに。  特攻じみた突撃を繰り返してはいるが、これは重度の汚染を受けている。そのため戦闘能力には陰りが見え、それを気概で補っているのが現状だった。  だからこそ、鬱陶しい。闘病とは気力との戦いであるのだから。  四四八の抵抗を支えている精神の支柱は、間違いなく晶の存在が原因だった。あれが存在している限りは何度でも立ち上がり、牙を剥こうと足掻くのだろう。  蛙の子はやはり蛙ということか。思えば剛蔵から獲るのもひと手間だったと反芻して、憂鬱なため息を吐く。 「親子二代で、どこまでも邪魔臭い」  生得的に精神性が似通っているのだろう。彼女に対して、聖十郎の逆十字は通常より効果が薄かった。  これだけ自分の深淵を知りながら、呆れることにまだ大した憎悪を抱いていないらしい。  当然だが、晶も決して憎んでいないわけではないのだ。  急段の発動対象に四四八が深く嵌まっているからといって、彼女を射程外に置いているわけでは断じてない。創法で生み出した〈病巣〉《テリトリー》は鶴岡八幡宮を丸ごと歪め浸食している。  よってここで憤怒、憎悪、怨恨、憐憫、同情のどれか。  あるいはすべてを抱いた瞬間、勝負はすぐに決着する。聖十郎の勝利として。  だがその目論見は、晶の抱く義心によって外れていた。  相手を斃すことなど二の次で、前線で戦っている四四八のことを案じている。そのため、急段の型に嵌まっていない。  多少は奪っているものの、せいぜいが皮膚の切れ端や血が数滴といったところの成果である。受け取った病の深さも同等に軽い熱や、動悸の乱れ程度のもの。  そして本人はその些細な不調に気づいている様子もない。  頭にあるのは彼を支えるという誓いに慈愛に献身だけ。全身全霊を込めて、柊四四八が大切だと愛の歌を叫んでいる。 「頑張れ、四四八……大丈夫だ、あたしがついてる。  どんな傷も、どんな病気も、何度だって治してやるから。 皆で一緒に朝に帰ろう。だから絶対に諦めんな──!」 「当然だ。俺もおまえを信じてるッ」  繋がり合う心と心、絆、想い──義の精神。  時折それは四四八にまで影響し、逆十字の呪縛を顕著に減退させていた。  面白くないのは聖十郎だ。労せず獲れるはずの盧生であったが、蓋を開ければ思わぬ手間が待ち受けていたのだから。 「─────」  心底、邪魔である。  これはまったく、何の茶番だ?  本来ならばこの瞬間にも己は盧生であったというのに。  いったい何時から、自分は甘粕の大好物を見る羽目になっているのか。くだらない。 「もういい。おまえから死ね」  認めてやろう、危険視していたのは正しかった。  辟易しながら突撃する四四八を払いのけて、もう一人へと狙いを定める。 「──やらせるかァァッ!」  後衛から潰すべく手を伸ばしたが、それを強引に引き留める怒涛の連撃が繰り出された。  これがいわゆる仲間に対する愛とやらか、なるほど実に目障り極まる。  他人のために好んで血反吐を流すのは、恵理子由来の遺伝だろう。これならいっそ、手間を惜しまず別の〈子宮〉《はら》を使っていれば楽だったか。 「滑稽だな、それほどまでに眷属が大切か」  〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈死〉《 、》〈ね〉《 、》〈ば〉《 、》〈連〉《 、》〈座〉《 、》〈で〉《 、》〈女〉《 、》〈も〉《 、》〈逝〉《 、》〈く〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》。  本末転倒な戦略に興じていると、こいつはついぞ気が付かない。 「そしておまえ、なんだその目は。いったい何を粋がっている」  無知とは罪だ、希望が残っているという勘違いが癇に障る。  これで自分を攻略したつもりであるなら、どうやらまだ理解が及んでいないらしい。  急段に嵌まるというのがどういうものか恐れていないのがその証。  互いに合意して一つの夢を紡ぐという凶悪さを、正しく認識していない。  そして俺の抱える業病がこの程度に過ぎないのだと、愚かにも勘違いして猛っているなら。  ──思い知らさなければならない。 「俺の〈絶望〉《ユメ》を侮るな」  〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈で〉《 、》〈済〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》と、すぐに後悔させてやろう。  背徳の御手を伸ばし、さらに深い部分を奪い去る。  それは発症前の潜伏期間であるかの如く、四四八の中へ見えない亀裂を刻み込んだ。  静かに、静かに、人知れず。  ひっそりと蒔かれていく絶望の種子。  自覚したその瞬間、慟哭しながら刑死者として吊られるがいい。 激突し、同極の磁石が如く弾き合う。 そして同時に、またも身体の一部を略奪された。 体内に残留する病は今もじくじくと存在を主張している。だがまだ、立っていられないほどじゃない。 「つ、ぐぅ……まだだッ!」 皮肉なことだが、俺は重病に侵されているこの状態に慣れつつあった。視界は常に歪み耳の奥では砂嵐が発生している有様だが、その分を補うように鋭敏化した直感に身を委ねて身体を動かす。 いわゆる火事場の馬鹿力……それとも、消えゆく寸前の蝋燭か。どちらにしても限界寸前であることが全力のさらに先を生み出している。 だから行ける、ようやく勝ちの目が見えてきた。 聖十郎の繰り出す無数の戦闘手段にも、僅かだが規則性が見え始めた。このままガス欠が訪れなければ、必ず俺たちはこいつに勝てる。 「さあ、根競べといこうじゃないか──!」 背骨が消え、再生し──激突して、また挑む。 気のせいだろうか、奪われる〈肉体〉《パーツ》が以前より減少傾向になっていた。数合前なら中枢機関ぐらい丸ごと獲られていたはずなのだが、今は単に脊柱だけだ。面積が明らかに減っている。 奴が手を緩めている気配は依然まったくないというのに、奇妙な危機感が警告を鳴らしてやまない。この恐ろしさはいったい何だ? 何か大きなものを、俺は見落としているような…… そしてそれは、もはや致命的に柊四四八を侵食しているような気がしていたが。 ──構わない、ここで討つ。 懸念なんてどうでもいい、その前に勝負を付ければ解決だろう。 突進の間に三度、内臓が奪われるが……どうしたものか、やはり効果が衰えている。余裕じゃないか。 確信したぞ、こいつはついに弱り始めたんだ。 ならばこの一撃で勝負を決めよう。加速を乗せて振りかぶり、そのまま大きく頭蓋へ向けて振り抜いた。 だが── 「どうした、俺はここだ。当ててみろ」 なぜか途端に攻撃は当たらなくなっていた。 こいつの速度は一切変化していない。 動きのパターンも読めている。 なのに何故、どうしてだ。先読みされているかのように、攻撃は虚しく空を切っていく。これほど力を籠めているのに。 そして代わりに、訪れるこの倦怠感は何なんだ。予想以上に息が上がって仕方がない。 これもまた、奴の創り出した空間の影響か? 「何をした、という顔をしているな。先ほどまでと同じだとも」 「おまえが無駄に動き回っているだけだ。逆十字からは逃れられん」 何を言っているか分からない。とにかく、きっとまずいことだ。 より深みに嵌まってしまう前に、ひたすら攻めへ転じる。数撃てば一発くらいこいつに通じるはずだから。 一発で倒せないなら、それこそ何度でも試してやる。 心だけは負けないと誓って突撃したが── 「────、ッ!?」 瞬間、その決心を消し飛ばすほどの衝撃が足を地面へ縫い付けた。 奴の気配が一気に膨れ上がったことで、攻撃を受けたわけでもないのに身体が竦んだ。歯はガチガチと啼り始める。 とても向かい合うことが出来ず、視線を合わせているだけで身体が震えた。汗が噴き出す。怒りを塗り潰すほどの圧倒的な感情は……まさか、恐怖だとでもいうのだろうか? 酸欠の犬みたいに何度も荒い呼吸を繰り返すだけ、一歩たりとも動けない。その様を鋭い眼光がお似合いだと語っていた。 「怖いか? だろうな、勇気を持たぬ臆病者にはその無様さが似合っている」 「ならば、次はその恐れでも無くしてみるか?」 そして、再び軋む磔にされた逆十字。効果はすぐさま訪れた。 「う、ああああァァァ──ッ!」 怖くない──〈恐〉《 、》〈怖〉《 、》〈が〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》。だからこれ幸いと、俺は攻撃に転じたのだが。 そこには強烈な違和感が付き纏っていた。だって俺は、勇気を出しているわけじゃないんだ。まして恐怖を克服するためでもない。 戦わなければ死ぬという〈理〉《 、》〈屈〉《 、》や、こいつとの決着をつけるという〈義〉《 、》〈務〉《 、》〈感〉《 、》に突き動かされているだけだった。 困惑し、訳も分からず、振るった拳に何が成せるのか。当然そんな半端が通じるほど、この男は甘くない。 〈闘牛士〉《マタドール》のような動きで弄ばれ、見る見る内に身体を破壊されていく。 ああ、俺も俺だ。さっきからいったい何をしているのか。 もうどれほど前から、馬鹿正直に〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈の〉《 、》〈突〉《 、》〈進〉《 、》〈を〉《 、》〈繰〉《 、》〈り〉《 、》〈返〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。 そんな初歩の初歩ともいうべき部分を、いま自覚したという異常事態。愕然として、血の気が引く。 やっと気づけた。このまま行けば、俺は死ぬ。 「大丈夫か、四四八ッ」 だから、その声に思わずはっとした。 そうだとも、あいつがいる限り負けられない。一緒に帰ると約束したから。 「問題ないッ。おまえはそのまま、続け……て──」 俺を支えてくれと、伝えようとした言葉が詰まる。 湧き上がった雄々しい義心は確かに彼女のおかげであって、それに深く、今も強く感謝しているはずなのに。 どうして、俺は…… 〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈の〉《 、》〈名〉《 、》〈前〉《 、》〈を〉《 、》〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈出〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》? いや、そもそもその前に── 「よ、しや……?」 〈聞〉《 、》〈き〉《 、》〈覚〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈響〉《 、》〈き〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》? もしかしてそれは俺の個人名を指しているのか……思い出せない、分からない。足元が崩れ落ちそうになる感覚と共に、必死に鈍い頭を廻し続ける。 俺の名前は■■■■。仲間の名前は、■■■希、■■歩■、■堂■■、■■栄■、鳴■■■。所属しているのは■■■── 母さんの名は■■■■で、あいつは■。そして父親は■■■■■……ああ、駄目だ。誰がいたのかさえ残っていない。■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。 ならばと外見から記憶の糸を辿ろうとしても、頭の中では影絵のようにその姿が切り抜かれている。身体的特徴の一つさえ思い描けない状態だった。 ありとあらゆる思い出がどれもこぞって虫食いだ。かつてない絶望が襲来して俺の心を打ちのめす。 確か俺は、彼女や彼らが大切で。それを誇りに思っていて…… だから、どんな相手が来ても立ち向かってこれたというのに…… それが消えてしまった今、あらゆる前提が瓦解していく。 そして目の前にいる、このどうしても許せない男の名前は。 名前、は── 「どうした■■■、遠慮はいらん。言ってみろ」 「なあ、〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈名〉《 、》〈前〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈何〉《 、》〈だ〉《 、》?」 並の悪魔など及びもつかない邪悪さで、■■■■が嗤っている。 これが急段、協力強制の恐ろしさ。互いの力が乗っている以上、ひとたび嵌まれば逃れうる手段はない。 「危機感、判断、戦の技量、勇気に恐怖……そして記憶。ああ、勘も鈍くなったのだろう?」 「安心しろ。俺が何を言っているのかさえ、おまえは直に分からなくなる。すべてを奪うとはそういうことだ」 事実上の勝利宣言と共に、病んだ五指が再び俺から輝く何かを毟り獲る。 封殺の型はここに完了を遂げつつあった。  崖から転げ落ちるように、あらゆる概念を消失していく柊四四八。  仁義八行の精神とそれを支える切っ掛けに至るまで、有形無形の区別なく煌めくものを削がれて細る。  それでもまだ、まだ足りない。聖十郎はなおも奪う。  なぜならもっとも手に入れたいと願う資格は、依然四四八の中にあるのだ。  余分なものを消さなければ、真価までは届かない。深奥に眠っている盧生の夢を掴むために嬉々として鬼畜の所業を続行させる。  急段とは何か、そして自らの発動条件を明かしながら男にはまだ幾つか黙っていることがある。  例えばそれは、逆十字の特性について。  聖十郎の夢が悪辣であるのはもはや言うまでもないことだが、だからといって万能というわけでもない。嵌まった後から抜け出す手段がないとしても、今度はそこで順序とも言うべきものが発生する。  この夢は、暗黒の等価交換を成立させる。  よって術の初期段階である場合、相手の〈表〉《 、》〈層〉《 、》〈面〉《 、》しか奪い取れないということだった。  四四八を例に挙げるなら、まず彼が喪失したのは腕だった。  そして次段階へ至ったことで、精神や技能といった形のないものにまで簒奪対象が及んでいる。  どちらが彼にとって重い所有物であるかと言えばその答えは明白だ。仲間や心を守るためなら手足の二、三本は安い対価と思っているに違いなく、ゆえに未だ盧生の資格は聖十郎に獲られていない。  人間を構成する要素には、芯と呼ばれるものがあり、その中心には核というべき光がある。  母にとっての慈愛、革命家にとっての野望、悪魔にとっての邪心がそれに該当するように。  自らを確固足らしめている立脚点。それを獲ろうというのなら、言わば外装とも言うべき箇所から穴を穿たなければならなかった。  聖十郎を恐れながらも裸の真心で向かい合おうとした人種――恵理子や剛蔵などは核の部分を初手で抜き獲ったが、そのような者が極めて例外的なのは言うまでもないだろう。芦角花恵に至っては、暴力衝動という無形のものを奪い獲るまで外装を抉りに抉りまくったし、四四八もその点まったく同じだ。  盧生の資格を最初から狙い撃ちできなかったのは、そういった背景が深く理由に絡んでいる。  ゆえに、逆十字は今この上なく愉快である。  〈外側〉《カラダ》を消す作業は終わり、既に最終段階へ移行した。 「もうすぐだ……あと僅か……」  骨肉をかき分ける指先は魂魄の芯まで触れるほど、近い。  磔にされた柊四四八がおぞましい勢いで完成していく。  ひときわ輝いている美点は、おそらく晶への信頼と愛情だろう。だから笑いが止まらない。  あれを獲ればすべて終わりだ。  自分を回復している者のことさえ完全に見失い、盧生の標本が完成する。 「待ち望んだぞ、この瞬間を」  死病との決別と、超越者としての新生はすぐそこに。  さあ、歌えよ俺の救世主──今こそ柊聖十郎は再誕する! 「駄目だ、やらせるもんか……ッ」  だからこそ、そんな結末を晶は絶対に認めない。  一歩離れた位置で成すがまま玩弄される四四八を見れば、何が起こっているのか彼女の目にもよくわかった。  いま彼は何もかもを喪いつつありながら、絶望と苦痛の中で必死に戦い続けている。  自分の大好きだった部分が目まぐるしく消えていき、押し付けられた代わりの死病と次々入れ替わっていく。正直、とても見ていられない。あれではまるで病魔を詰め込んだ肉の器ではないか。  惨たらしい姿だというのに、それを本人がまともに感じ取れていないのが更に胸を締め付ける。  思考能力さえもう欠片も残っていないのだろう。  理知的な瞳が泥のように濁っていく……無抵抗の姿はまるで人形のようだ、外道の交換作業を呻き声一つもらさず浴び続けている。  背後に磔られている羨ましがられた成れの果てが目に入った。 「みんな、これだけのものを獲られてたのかよ……」  あの安らかな日々の影で、剛蔵と恵理子はいったい幾つの破滅を刻み込まれていたのだろうか。  苦しみを分かってやることはもう出来ないが、四四八まであの男に奪われるわけにはいかない。  必ず守る。それが出来るのはたった一人、自分だけ。  夢を廻せ、真奈瀬晶──ここが本当の正念場だ! 「なあ、聞こえるか……四四八」  聖十郎なんて目に入らない。 「心配なんて、全然しなくていいんだからな」  大切なのは、彼のこと。  癒してあげたい、抱きしめたい。  胸に宿るこの温かさを、もう一度。 「おまえのことなら、あたしは何でも知ってるし。  親父のこと、恵理子さんのこと。あゆに栄光、鈴子や水希や鳴滝に、〈千信館〉《トラスト》から〈戦真館〉《トゥルース》まで。ずっと一緒に育ってきて、同じ景色を見てきたからさ。  何もかも奪われて、みんな忘れてしまっても……その度に思い出を詰め込んでやれるんだよ。あたしは決して忘れない」 「だって、四四八のことが大好きだから」  どれだけ分け与えたって、なくなるような想いじゃない。  自分の心は〈物体〉《モノ》じゃないんだ。  それを証明するためにも── 「誓ったもんな。どんな痛みも必ず治してやるってよッ!」 「あああああああァァァ────ッ!!」  不屈の精神が、さらに晶の夢を研ぎ澄ませる。  〈真〉《マコト》の〈信〉《イノリ》が、再び四四八の中で満ちますように。  願うのはたったそれだけで、ゆえに一つの想いへ懸けた力がかつてない奇跡を起こす。  煌めく光は逆再生のように欠損部を埋めていき、今ままで不可侵であった病にまで徐々に効果をもたらし始めた。  愛がそのまま形になったかのような光景は、まさに慈愛の奔流だ。  見る者を魅了する輝きの渦、聖なる粒子が傷だらけの勇者を抱擁する。 「──羨ましい」  そして、そんなものを見せられて、この男が疼かないはずもなく。  爛々とした飢餓の視線が癒しの夢へと絡みついた。 「おまえの力が、最初から俺にあったのならば」  聖十郎は甘粕の眷属となったことで魔人と化したが、それで病を完全に拭い去ったわけではない。ただ極めて丈夫な生命体に変貌したから、常人には耐えられぬ業病を背負ったまま生存できているというだけなのだ。  どれだけ己が楯法を使っても、奪い取った他者の肉体と入れ替えようとも、呪いのように発症し続ける病病病……  ゆえに今このときも、聖十郎は依然変わらず病んでいる。彼がその痛みから解放されたことは生涯ただ一度もない。  だからこそ、晶の夢を羨望するのだ。自分にああしたものが備わっていたら、随分と楽であったはずだろうにと。 「うるせえよ! あたしだってなぁッ!」  そして、その妄執を肌で感じ取ったからこそ、ふざけるなと晶は思う。厚顔無恥に何を言うのか。 「最初から、あんたがそんな男じゃなかったら……!」  幾らだって治してやれたし、その回復を願ったはずだ。だってこれほど生きたいと、この男は切に願っているのだから。  聖十郎の闇を理解して、生存への凄まじい渇望を知り、その想いはさらに深く強まっていた。  晶とて、いま好き好んで戦っているわけじゃない。  四四八も、千信館の仲間たちも、敵を倒したいからこうして荒事に身を投じているつもりはないんだ。悪党以外が助けてくれと求めているなら、喜んで手を伸ばしたいと思う良識も持っている。  だから悔やまずにはいられなかった。柊聖十郎はどうして、骨の髄までこんなに恐ろしい男なのかと。  もしこの鬼畜外道が、単に当たり前な四四八の父親であったのならばと、今さら悲しいほどに考えてしまうのだ。  それは、あり得なかった〈もしも〉《イフ》の話。  自分たち幼馴染が騒いでいるのを、いつも微笑ましく見守っていた剛蔵と恵理子。その風景に、柊聖十郎が存在してもよかったはずだ。  彼がほんの少しだけ真っ当なら……きっと偏屈なインテリ親父として、自分の父や息子の四四八と日々言い合いをしていただろう。  言葉がきついぞ。黙れ愚息。そんな言い方はないだろセージと……お決まりの喧嘩を始める三人の間で、ひたすらおろおろする恵理子さん。  そして自分たちはそれを遠く眺めながら、ああまたか、なんて肩をすくめて苦笑するんだ。  いつもそんな感じに騒がしくて、ぶすっとしていて、いがみ合ってて。  だけど最後は、いつも綺麗に丸くおさまって……  そんな優しい〈可能性〉《せかい》があったなら、病が発症した聖十郎を一致団結で救済しようと駆けずり回っていたはずだろう。  治療用の〈邯鄲〉《ユメ》を何としてでも現実に持ち出そうって、自分たちは志を同じくしたに決まっている。  結局は、聖十郎の人徳がその未来を破壊した。  他者を標本として収奪してきた男は、今もっとも願ったはずの〈健康〉《ちから》を手に入れられずにいるのだった。  それは晶がこの鬼畜に送る、最後の慈しみであったが、しかし。 「憐れんだな、俺を──」  つまるところ、その感情は憐憫である。  訪れた好機を逆十字は逃さない。  狂喜を滲ませながら、ついに彼女も刑死者の型へと嵌まった。 「あ────」  病んだ魔手が伸びてくる。  一直線に、自分の内へと迫り来る。  走馬灯の如く延長される体感時間。  一瞬を永劫に等しく感じながら。  〈木乃伊〉《みいら》のように枯れた五指が、晶の真芯を掴み取った。  よって、二人は共に気づかない。これが邯鄲に入って初めて見せた、柊聖十郎の〈心〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》であるのだと。  盧生になることを夢見てきた。一心不乱に、ただ強く。  それが今、晶の夢へと狙いを変更したのである。この局面において第一目標を見失った。  妄執の根幹であった生きることへの渇望は、彼の中であまりに強い。  激烈な衝動は理性の鎖を振り切った。それを機に、計画通り進行していた現状は慮外の事態へと転じていく。 「俺を癒せ、今すぐに……!」  聖十郎は晶に願った。どうか、自分に光をくれと。 「いいぜ、あたしがあんたを癒してやる」  晶もまた聖十郎の姿に願った。闇を払ってやりたかったと。  求める者と、与える者。互いが互いに同じ未来へ手を取った。  すなわち合意、二人で築いた〈型〉《 、》〈に〉《 、》〈嵌〉《 、》〈ま〉《 、》〈る〉《 、》。 「あなたが私を疑っても、私は何も隠さない――あなたが大切な人だから」  紡がれるその言葉は、義の犬士の代名詞。柊聖十郎という畜生を前にして、そのような境地に至れる人間は過去二人しか存在しない。  そして晶は、真奈瀬剛蔵の娘である。誰よりも父に憧れ、誇り、愛しているのだ。 「急段、顕象──」  聖十郎の〈失〉《 、》〈策〉《 、》は、その事実をこの局面で忘れたこと。彼にとってもっとも面倒な人種の血を引いているのが晶であると、そこに付随する危険性を無視してしまったことにある。  それほどまでに、この男が抱えてきた〈病魔〉《いたみ》は重い。  ゆえに―― 「犬川荘助――義任!」  刹那、愛を奪われる寸前で立ち昇ったのは聖光の柱。  求めた一つの結果へ向けて、ここに協力強制が発動した。 「ふふ、ふふふふふ。 くくくくくく、ははははははははははッ──!」  意図せず目覚めた晶の急段。  爆発的な光の波動を受け止めて、聖十郎は喉が割れんほど天を見上げて快笑した。  なぜなら、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈邯〉《 、》〈鄲〉《 、》〈は〉《 、》〈攻〉《 、》〈撃〉《 、》〈的〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 「空気が旨い」  清々しく呼吸ができる。 「身体が軽い」  腹の内から〈結晶〉《いし》が消えた。 「素晴らしい! これが、〈死病〉《ぜつぼう》の消える感触というものかッ!」  天使の祝福を受けたようにあらゆる病が癒えていく。  希ってきた己の身体を得たことで、快復の昂揚がまま高らかに喝采した。  柊聖十郎の生涯は常に苦痛と共にあった。  時限爆弾であるかの如く、次々発症する不治の業病。  嵐のように襲い掛かる激痛、幻覚。膿み爛れゆく五臓六腑。  摘出不可能な脳腫瘍。鼠に齧られただけで死に瀕するという恐ろしさと憤り、それが嘘であったようにこの光で取り除かれていくというのだ。かつてない開放感が息吹となって彼の中を駆け抜ける。  最高だ、これぞ新世界──悲願はついに成就した! 「よくやったぞ、褒めてやろう。ああ、なんて役に立つんだおまえ達は」  地へ膝をつく四四八と晶が愛おしくて仕方ない。自分に捧げられた供物の中で最高の貢献度だと褒め称える。 「ゆえに欠片も残しはしない。これを最上級の誇りとし、これからも俺のために尽くすがいい」  これほど便利なモノを誰かに渡してなるものか。  逆十字が生贄を求めて共鳴する。さあ、最後の一滴までここに備えんと再駆動した──次の瞬間。 「な────」  〈内〉《 、》〈側〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈腕〉《 、》〈が〉《 、》〈弾〉《 、》〈け〉《 、》〈た〉《 、》。  そして、異変はそれに留まらない。 「がはッ……なん、だと」  骨が折れた。皮膚が老いた。  体毛が抜けては生えて、入れ替わる。  猛る鼓動が止まらない。ニトロをくべたエンジンのように、爆発的な活動をしている。  おかしい、自己回復をしても効果がない。  それどころか、〈治〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈す〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈酷〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。 「これは、まさかッ……!?」  結果と手段の因果関係に対し、聖十郎はすぐさま事の真実に思い至った。  自分は確かに今も浄化を受けている。ただそれが、常軌を逸して過剰な状態にあるらしいのだ。  いわゆる過回復を受けていると看破した。  これは通常、自然界ではありえない異常現象だろう。  どれだけ不思議な生命だとて、自らを治し過ぎることはない。  そしてもちろん、晶もそんな惨い攻撃手段を夢に求める人間ではない。  彼女の急段は本来、仲間を癒す聖なる力だ。  その本質は“求めに応じた分を回復させる”というものであり、言わずもがな深い愛情から体得したものである。  広範囲を射程においた総員瞬時全回復……と使用するのが正しい用途。条件が困難であるほど力を増すという急段の性質を鑑みれば、まったくたいしたものではない。  戦闘において仲間が晶に癒しを求めるのは当然であり、それに応えるという相関は当たり前のことだから、彼ら戦真館の中でのみ、その信頼関係を要にして発現する極めて簡易な急段だ。  本来ならば、条理を無視して過回復など起こせるような〈神秘〉《ユメ》ではなく……  ゆえにこの自壊現象を招いたのは、ひとえに晶ではなく合意した聖十郎の側に問題があった。  端的に言うのなら彼は求め過ぎたのだ。  柊聖十郎という男の真実は重篤患者であり、さらに一度も健全な状態を体験したことがない。  身じろぐだけで関節の節々は軋んで歪み、常に身体のどこかで病魔が悲鳴をあげている。  知識でしか健常者の状態を知らず、それを求める渇望は誰より深く重かった。よって際限なく願ってしまい、晶の夢は応えてしまう。  もっとくれ。もっと寄こせ。俺に光を──浄化しろ。  遅いと思ったときにはすでに手遅れ。常人では絶対に不可能な域での祈りは、〈求〉《 、》〈め〉《 、》〈た〉《 、》〈分〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》聖十郎を癒し続ける。  彼が、何も羨ましくなくなるまで。  すなわちこのまま、燃え尽きたような灰になってしまうまで。  因果応報として訪れた結果を噛み締めながら── 「自壊しろと言うつもりか、ふざけるなァァッ!」  〈聖光〉《ほろび》は消し飛ばさんとする怒号も、虚しく空間を揺らすだけだ。  激しすぎる血流速度に、毛細血管が耐えられない。  急速な超新陳代謝、細胞がすぐに〈老廃物〉《あか》へと変わっていく。  肉体が一瞬で酸化し、それを防ぐための抗酸化作用がさらに内臓器官を活動させる。  止まらない。止まらない。〈光〉《 、》〈に〉《 、》〈喰〉《 、》〈い〉《 、》〈殺〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》──!  あれほど願った癒しの御手に、彼は止めを刺されるのだ。  だから── 「分かったか、つまりはそういうことだよ」 「羨ましい羨ましいって、あんたは願い過ぎたんだ」 傷ついた身体で立ち上がり、こいつの敗因を突きつける。 激怒しながら、同時に奴は瞠目した。俺が言葉を発した事実をまったく飲み込めていないから。 「もしおまえの中に、一片でも情けが存在していたのなら。母さんや剛蔵さんの想いを、少しでも理解することができていたら……」 「きっとこうはならなかった。そうだろ、晶」 「ああ。分かるよ、四四八」 大切な名前はもうとっくに思い出していた。 俺の名前は柊四四八。仲間の名前は、世良水希、龍辺歩美、我堂鈴子、大杉栄光、鳴滝淳士。所属しているのは千信館── 母さんの名は柊恵理子で、晶の親父は真奈瀬剛蔵。あいつのおかげで取り戻せたよ。驚いているのは奪ったはずのおまえだけだな、聖十郎。 「あり得ん……」 「おまえは俺の手で、記憶も精神も奪われているはずだろう。道理が通らん、ああ何故だ、貴様いったい何をしたッ」 ゆえに今も、こんなことさえ分からない。 我も人、彼も人。自分と他人を対等であると思えなかったその歪み。この土壇場では致命傷だったことを、まだ考え付きもしないのか。 怒りを通り越して憐れだよ。これも悪感情ではあるけれど、それ以上に哀しく思う。 だから教えてやらなければならない。とても大切で、そして当たり前のことを。 俺が立ち上がれた理由なんて誰でも分かることなんだ。 「簡単だよ。なにせ、俺はこいつを愛してる」 胸を張って言い放つ。この真実が俺を支えた。 「心は〈物体〉《モノ》なんかじゃないんだからな」 感情は一度なくしたからって、そのまま二度と生まれてこないものなのか? 違う──身体は確かにそうだとしても、想いは内から育むものだ。 「どれだけ奪われたとしても、後から幾らでも湧き上がってくるんだよ!」 そう咆哮しながら、この想いごと叩き付けるために飛び出した。 勇気がある、恐怖もある……あいつが怖いし、だから負けないと感じていて。 情も、愛も、仁義八行に通じるすべて。再び生まれた数多の心が胸の中を満たしていた。 最大の勝機を逃しはしない。これでおまえと決着を着ける……! 「──寄るな!」 瞬間、逆十字を突き破って現れたのは変哲もない左腕。得体のしれない異生物から遠ざかるように、聖十郎が咄嗟に繰り出したのがそれだった。 その腕になぜか既視感を感じたが……しかし思考を巡らせている猶予はない。 おそらくこれが、奴の奥の手なのだろう。今まで取っておいた秘中の秘、曰く他と比べて使える〈道具〉《ユメ》が不可視の異常を発生させた。 「何だ、これは……!?」 おかしい、〈地〉《 、》〈を〉《 、》〈蹴〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》〈近〉《 、》〈づ〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 どれだけ足へ力を込めても推進力そのものを殺されたように、前へ進むことが出来なくなった。これは何だ、どうなっている。 景色が動いていないことから、干渉を受けているのは空間自体か? それとも俺の認識が狂わされているせいで、足踏みしているだけなのか? 直進することも困難になり、あらぬ方角へ身体が流れそうになる。 この難関を超えない限り、聖十郎まで辿り着くのは不可能だった。 「俺に比すれば大したものを持たぬ輩が……」 「羽毛の如き分際で、軽々と近づくなよ。薄気味が悪いのだ」 だから俺から遠ざかれ、自分の想いと比較すればおまえはしょせん綿か羽根に過ぎないと……その精神と呼応して謎の〈攻撃〉《ひだりうで》がさらに効果を強くする。 原理はまったく分からないが、身体の平衡感覚が明らかにでたらめな状態へと陥った。 真っ直ぐ進めない。力を入れた分だけの成果がなく、まるで空気自体に翻弄されているような気分になった。十数メートルの距離が万里と勘違いしてしまうほど遠い彼方に感じてしまう。 だが、それよりも俺は改めてこいつを馬鹿だと思った。 「言ってくれる、薄っぺらいのはいったいどちらだッ」 光を、もっと光をと、相手の輝きを奪ってきた男が言うな。他人の持ち物で装飾し、自分はこれで偉大だと偽装してきただけだろうが。 負けられない気持ちを、無理でも何でも前へと進む力へ変える。 おそらく用いているのは解法か創法……俺の何かを大きくキャンセルしているか、空間そのものに特性を加えているか。はたまたあるいは、その両方。 どちらにしても解き明かそうとする時間さえ俺には惜しい。確かに聖十郎も徐々に崩壊しつつあるが、俺だってこれでぎりぎりの瀬戸際なんだ。早急に決着をつけなければこちらが敗北するだろう。 ──だから、進む。 十の力で一歩分しか寄れないなら、百の力で、千の力で。 それでも無理なら、万の力をひねり出して突撃する。 戟法の剛一点へすべての資質を注ぎ込み、逆十字に嵌まりながら突き進む。ただ真っ直ぐに。 「焼き付けろ、これが柊四四八だ」 「母さんが育ててくれて、晶が信じてくれたから俺はここまで辿り着けた。断じておまえの血があるお陰じゃない」 「おまえから継いだ〈血統〉《ちから》なんて、これっぽっちもないんだよ!」 一番言ってやりたかった言葉を叩き付けて、大きく腕を振りかぶる。 なあ、母さん。俺が今からこいつをあの世に送ってあげるよ。 自分たちが伝えられるもの……愛情、誇り、そこから生まれる義の強さ。それを出来る限り示したつもりだ。 馬鹿は死ななきゃ治らないというけれど、この大馬鹿野郎はどうなんだろうな。でもきっと、今度こそ何かが変わったと信じたいから。 あとは、あなたに任せます。 「だから母さん、幸せに」 そう願いながら、振り抜いた一撃が柊聖十郎を爆散させた。 放った一撃に大した威力はなかったが、限界寸前だった奴の身体は木端微塵に弾け飛ぶ。 絶え間ない再生と回復の連続に混ざった、一滴の破壊行為。それは今まで決壊寸前で保たれていた天秤を一気に破滅へ傾けたのだ。 聖十郎が消えていく……背後に捕えてきた、悪徳の逆十字と共に。 磔にされた母さんたちの想いが、ようやく本人と同じ場所へと還っていった。 俺を象っていた十字架も砕け散り、飛散した欠片が淡い光となって身体の中へ浸透した。奪われていた残りの記憶が次々と埋まっていき、受けた病魔が入れ替わりに月明かりへと消えていく。 きっと皆の病もこれで完全に癒えただろう。 長い悪夢もこれで終わり。戦いの残滓を厳かな気持ちで見届けてから、俺は幼馴染へと振り返った。 「帰ろうか、晶。俺たちの朝に」 「うん!」 守り抜いた笑顔を、心から愛しく思う。 湧き上がってくる温かい心を胸に、これからもこいつと一緒に歩んでいこう。 母さんと剛蔵さんのぶんも……二人で、前を向きながら。  これにて、第五層の攻略は完了した。彼は自らの出生を知り、その時代における最大の悪夢である柊聖十郎を打倒したのだ。  よって、勝利したのは戦真館。必勝を敷いていたはずの逆十字は、二人の絆によって思いがけず敗北の苦汁を舐めた。  少年少女はひとまず現実の朝へと帰還を遂げ、二度とこの地を訪れることはないだろう。  先駆者と同じく異なる未来を体感し、別の階層に至るまで静かに羽根を休めるのだ。  邯鄲の夢はまた一つ、先の段階へと駒を進めた。  物語は間違いなく幕を閉じた。  よって、予め告げておかなくてはならない。  ──これから先は余談である。  ──大勢に何の波紋も投げかけない。  ──男は変わらず鬼畜のまま。徹頭徹尾、救われず。  ──絶望は訪れる。必ず、必ずやって来る。  ──それが悪魔と交わした、唯一無二の誓約だから。  やがて、慟哭しながら彼は憤死するだろう。 「ゆえに、もうひと押しだ」  事の顛末を見ていた男は、眷属の命を〈巻〉《 、》〈き〉《 、》〈戻〉《 、》〈す〉《 、》。  そうだとも、ここは柊の〈姓〉《な》を持つ者が紡ぐ世界。  息子が一つの大きな決着をつけた。  ならば親もまた、何かの業と向き合うべきだ。甘粕正彦はそう思う。  それはいかなる御業か、無人となった境内に粉微塵となったはずの人影が再び組みあがっていく。  四四八は知らないことであるが、盧生が生存している限り眷属は実質不死身だ。夢の中では真実の死が訪れない。  甘粕の邯鄲と繋がっている聖十郎にもその法則が適応される。  よって、手段そのものは何ら不思議なものでなく、重要なのはここで再起させようという思惑のほうにあった。  終幕後に敗者をわざわざ舞台に立たせる理由など、彼にとっては一つしかない。  甘粕とは、人間賛歌を謳う魔人。  常人の基準から著しく逸脱してはいるものの、その本質は愛と勇気の信奉者である。  いま彼は、戦真館の奮闘に心から魅入っていた。  だからこそ、敗れた聖十郎にも苦難を課す。  おまえの勇気、おまえの愛、ここに〈楽園〉《ぱらいぞ》を見せてくれ我が友よ。  人類初の夢界攻略者にして、おそらく最強の盧生であろう男が夢を告げる。 「では始めようか、セージ。 これからがおまえに訪れる真の苦難だ」  息子の壁が父親ならば、聖十郎にとってのそれは何なのか。  訪れるもう一つの劇を前に、甘粕正彦は聖者のような慈悲をもって微笑んだ。  そして── 「───ふん」  砂の城が巻き戻るかのように、柊聖十郎は鶴岡八幡宮に再生した。  不機嫌さを隠しもせず、忌々しげに鼻を鳴らす。  その態度からは敗北したという事実以上に、また異なる苛立ちを滲ませているのが窺えた。 「手間をとらせてくれる」  それが面倒で仕方ない、と言わんばかりに漏らす舌打ち。  依然、その心情は何も変わっていない。四四八から盧生の力を奪い取る、それだけを今も病的なほど追い求めている。  よって今回の結果も、彼にとってはほんの少し予定がずれた程度のもの。  楽に獲れたはずの機会を逸したことで、ほんの少々手のかかる方を選ばなければならないと、考えているのはそんなところだ。  自分が敗れたことに対する殊勝な反省心など、相も変わらず微塵たりとて持っていない。  いやそもそも、聖十郎にとって盧生とは〈ど〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》〈期〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》という認識でしかないのだろう。  そこには勝つも負けるもなく、必ず獲れるものを早期で楽に手にするか、少々手こずって後期に得るかという違いくらいなのかもしれない。  だから頭の中ではすでに入手しているという公算で考えている。  常人ならば皮算用にしか過ぎない思考だが、それを成してきたのが柊聖十郎という男である。よってその意識は今この時も不変だった。  愛に負けた。情に負けた。ああそれで? 最後には無駄な足掻きになるだけのこと。  四四八を逆十字に吊るすのは、邯鄲攻略時にずれこんだ。  たったそれだけのことだ。自分は何も失敗などしていないと、強がりでも、現実を見ていないわけでもなく、常態で信じきっている。  ゆえにそれが、この男の芯なのだ。  人として大切なものがあらゆる面で欠落している。  病に侵されていようが、いなかろうが、性根は常に外道も外道。  柊聖十郎は邪悪である。  来歴なく破綻しているがために、正義では彼に変化を促せない。  そしてこれほど強気であるのも、そこに根拠があるからだった。 「あれはまだ、俺のことを怨んでいる」  〈仲間〉《あきら》のおかげで勝利したと言えば聞こえはいいが、裏を返せば独力で自分を攻略したわけではなかった。  ならば四四八は己の急段に再び嵌まる。  それまでしばしの間、泳がせておくのもいいだろう。  ──と、考えていた思考を変哲のない足音が中断した。  誰かがこちらに近づいてくる。 「……何?」  訝しむのは当然だろう。なぜならもはや、第五層には誰もいない。  四四八は去った、この階層を踏破した。  だから戻って来るわけもなく、そんな仕様に設定した覚えもない。邯鄲の基礎を組み上げた聖十郎だからこそ、それを誰より熟知している。  神野や甘粕といった、魔を濃縮した気配でもないなら、いったい誰が来ているのかと。  感じた疑問は、意外な来訪者の姿によって晴らされた。  思いがけぬ男の姿が、いま、己の前に立っている──  静かに、風が二人の間を流れていく。  数秒の沈黙は、永遠にも等しいほど澄んでいた。  こうして向き合ったことは何度もあるというのに、まるで初対面のように両者言葉なく佇んでいる。  その短い時間にそれぞれ何を感じたのかは、分からない。  だが聖十郎は、すぐに張りつめた空気を歪ませた。辟易としたように眉根を寄せる。 「……剛蔵、貴様なぜここにいる」 「おまえと同じだよ。四四八くんが生きている限り、俺は死なん。   そっちも眷属なんだろう、なら理屈は充分わかるはずだ」 「そういうことを聞いてはいない」  この手で殺して、そして生き返った理屈など訊ねるまでなく看破している。なぜなら先程、自分もまったく同じようにこの場で甦ったからだ。  ゆえに、分からないのは眷属としての特性などではなく、なぜこの期に及んでやって来たのかということである。 「すでに〈第五層〉《ガザ》は踏破された。出た結末は覆せんし、おまえにそうする理由もない。 あの二人へ肩入れをしに来たのか? 間抜けが、時間どころか状況も見えないとはな。せっかくだから教えてやろう。  この階層はすでに役目を終えた後だ」  試練も、障害も、何もない。ここでの行動は万事、無駄だ。 「理解したなら失せろよ、この木偶が」 「搾りかす同士、恵理子と戯れているがいい」 「いいや、まだ大切なことが残ってる」  突き刺さる罵倒の一切を気にせず、剛蔵は一歩前に出る。  晶とよく似た義の結晶みたいな視線で、聖十郎を射抜いている。 「何度も言わせるな、俺はおまえを放っておけない。  やり残したことがあるから、こうして何度も恥をさらしてるんだよ」 「…………」  何だ、こいつは。ますます訳が分からない。  しかも、自分には心があると言いたそうな口ぶりだ。  滑稽を通り越して呆れてしまう。 「まったく小賢しい。つまらん偽装をするな、剛蔵。おまえの〈情〉《それ》は俺が手にしている」 「馬鹿野郎……おまえは、まだ分からないのか? たった今、それが原因で四四八くんに負けたんだろうが。  あの子たちの強さを見て、本当に何も感じなかったというのかよ」  悲しみ──などないというのに、それらしく気落ちした表情を作る。ますますこれはどういうことか。  外部から誰かが操作しているのかもしれんし、そもそも精巧な偽物という可能性まで出てきた。しかしそれにしてはこの〈剛蔵〉《にんぎょう》、中々真に迫っていると…… 聖十郎はそんなことしか考えないし、思いつかない。  それがとても寂しいことだと悔やんでいる剛蔵に、ついぞ気づかないままだった。  ゆえに、自分がここへ来たのは間違ってなかったのだと剛蔵は言う。  真摯に、そして懺悔するように。 「そうだな、本当は知ってたさ。おまえがずっと前から、そういう奴だったってことぐらい。 だから──」  拳を握り、力を籠めて、巨躯に相応しい筋肉が膨れ上がった。  その容貌に反し、どこまでも争いとは縁遠いはずであった男が、今―― 「だから俺は、それを教えに来たんだよォッ!」  叫びながら一直線に飛び出してくる。そこでようやく聖十郎は、少しだけ相手のことを理解した。  憎い、怒り。なんだ、いつものことであったかと。 「もういい、黙れ」  見飽きている反応を前に感じるものは、鬱陶しいの一言だった。  こんな茶番はもう終わりだ。そして二度と起こさせない。 「今度は肉片一つ残さん。そうすれば、うるさい〈雑音〉《こえ》も止まるだろう」  思えば、獲るだけ獲って適当に遺棄したことが、面倒事の種だったらしい。雑草は根から引き抜かねば意味がなかったと思い至る。  俺を憎み、俺を知れ。その暴力は届かない。  聖十郎を斃せるものは、人外か悪魔の類に限られる。  急段、顕象── 生贄の磔が、ここに悪夢の再来を告げた。 「──がはァッ!?」  そう、告げるはずだったが、しかし。 「ご、ふッ……ぁ──」  しかし── 「オオオオオォォッ──!」  しかし、なぜだどうして──〈逆〉《 、》〈十〉《 、》〈字〉《 、》〈が〉《 、》〈顕〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  拳が刺さる、何度でも。  まるで冗談であるかのように、剛蔵は急段の合意から外れていた。  拳骨が顎を揺すり、視界の端で星が散る。  よろめく身体に続けて二発。肉体に鈍い痛みが広がって、膝が大きく笑い始めた。  そして、そんな現状にかつてないほど聖十郎は困惑する。  紛うことなくこれは暴力……敵意だろう。  正義の怒りや世を守る使命感であったとしても、それは悪感情から外れない。敵という存在へ向ける攻撃の意志に満ちている。だから今まで、あらゆる〈善人〉《モノ》が面白いほど嵌まってくれた。  だというのに、その前提がいま木端微塵に砕かれつつある。しかもそれが、よりもよってこの男にだ。  真奈瀬剛蔵。愚鈍な男。己の欲望に臆病で、その代替に他者へ施すことしか出来ない愚図。  たいした夢を持っていない単なる能無し。そして今は、僅かな価値も残していない抜け殻だろう、そのはずだ。  なのに、なのに──なのになのになのに何故だ! 「──ぐぅ、ッ……馬鹿な!」  逆十字が嵌らない。それすなわち、こいつは己を憎んでいないということになる。  攻撃を加えている以上そんなことはあり得ないのに。その現象に惑い、理解が及ばず、ただ翻弄される聖十郎とは対称的に剛蔵の瞳は澄んでいた。  ああ、だって当たり前のことだろう、と。 「それはな、セージ──」  こうして殴るのも、彼にとっては柊聖十郎が憎いからでは全然なく。 「俺が、おまえの友達だからだよ!」  毅然とした答えと共に熱い拳が突き刺さる。  恨みなんてどこにもない。  そう、どこにもないんだ。なぜなら大切なものだから。 「おまえは確かに、俺の情や想いをすべて抜き取ったかもしれない。そうだな、確かに一度俺は空っぽになっちまったよ。 けどなぁ、それが何だ。四四八くんが見せただろうが」  記憶も心も奪い取られた彼が立ち上がれたのは、何もおかしなことじゃない。  誰もが自然と学んでいく、感情と呼ばれるものの本質だろう。 「心は〈物体〉《モノ》じゃないんだよ。   幾らだって、湧き上がってくるものなんだ──!」  叩き込んだ言霊はひたすらに誠実で、真っ直ぐ聖十郎を貫いた。  それは人間としてとても当たり前の真実だろう。  精神とは泉のようなものであり、時に理屈や理論という尺度をあっさりと凌駕する人類の持つ夢そのものだ。  そもそも邯鄲という普遍無意識そのものが、寄り集まった心の海から生み出されている領域である。  人を人たらしめる願いの源泉。それは単なる神経伝達作用や、脳内麻薬の生み出した幻想などには留まらない。  言葉じゃないのだ、どうしようもなく。  ゆえに柊聖十郎という男は今、思いがけぬ天敵とついに相見えることになったのだ。  剛蔵は、今やこの友人に対して憎悪を持たない。義憤もない。まして重病患者として気の毒だという思いさえ、心の中には一片もなかった。  なぜなら、こいつと自分は対等だから。  そして鬼畜外道であったとしても、共に重ねた時間は嘘じゃないから。  剛蔵は受け入れたのだ。彼の業を直視して、その上で否定をしていないというだけのこと。  どれだけ罪を重ねたとしてもそれを呑み込み、聖十郎に対して純粋な友の情を向けている。  その拳に宿るのは熱く燃える友情の炎、逆十字が発動するわけもない。  柊聖十郎を斃せるものは、人の道理をそもそも解さぬ人外か。はたまた彼を愉快に思う悪魔の類に限られる。  そう思われていた事実はしかし、第三の天敵によって打ち崩された。  恐るべき邪悪を祓うのはいつだって愛と正義。  彼を慈しみ、その救えぬ性さえ肯定して受け止めるという聖者こそが、病み果てた男を穿つ。  そして悲しいかな、悪党はその清らかさを理解できない。  ただ不快で、邪魔で、鬱陶しくて仕方がなく。  だからこそ── 「ワケの分からんことを、抜かすな……ッ!」  ただ愚直に相手へ殴り返すことしかできなかった。  形容できない胸の疼き……それを振り払うように、剛蔵の顔面を打ち据える。 「─────」  そのとき、手に伝わった感触は何なのか。  思えばそれは、初めて本当に人を殴ったことに対する感想でもあったのだろう。聖十郎は真実、このとき他者というものを直接攻撃したのである。  これまで数多の人間を殺めてきた。奪い、嬲り、打ち捨ててきた。  彼にとって他者とは総じて塵芥であり、己に貢物を献上する道具でしかない。ゆえにこのときまで聖十郎が振るってきた暴力、簒奪、外道の数々、そこには必然として欠けていたものがある。  すなわち、それは“防衛心”――  目の前の存在に脅威を感じ、ゆえに取り除こうとする原始的な情動。恐怖。  いま聖十郎は、身を苛む病魔以外で初めて恐怖を抱いていた。剛蔵を殴ること自体は過去に何度もやっているが、この愚鈍な男に恐れを抱いたのはこのときが真に初。  邪魔な障害物や鬱陶しい蒙昧を視界から消すというだけであったこれまでとは明らかに違う。  怖いのだ。分からない。寄るな俺に関わるなと、感情のままがむしゃらに振るった拳はゆえに稚拙で、続く一撃も予備動作を悟らせてしまうお粗末極まりないものだった。  一言、無様。柊聖十郎という闇の天才にはおよそ似つかわしくない。  しかし、そこには生の感情が籠められている。  貴様がなぜ、遠慮なく自分を殴っているのかと。それがあまりに許せなくて、だからこそ屈服させずにはいられない。  心はモノ、自分のモノだ。だというのに今更おまえが逆らうな。  その一心で、こんな非効率な反撃を何故かしている自分自身が、この場で一番聖十郎には分からなかった。よって苛立ちのまま、子供のように慣れぬ〈喧嘩〉《こと》を続けてしまう。 「ぐっ……分からんのは、そっちの方だろうが!」  反撃に転ずる剛蔵の声が、涙さえ流すほど嬉しそうに聞こえてしまうのがまた一段と癪だった。  どうやら、鼓膜までとうに壊れてしまったのかもしれないが。  柊聖十郎が敗北するなどあってはならない。必ず身の程を叩き込んでやると怒りを燃やす。  殴り合う、ひたすらに。策も勝算も余分なものは一切なく。  意地を剥き出して譲れぬものを互いにぶつけ合う、二人の男。  病人だからとか、抜け殻だからとか、優劣の差はそこに存在していない。  同じ一人と一人の人間として、相手に拳で想いを伝えていく。  長い長い時間の果てに彼らは今、やっと対等な関係を構築していた。 「だいたいセージ、昔から俺はおまえが気に入らん」  手の甲から血を流しながら、それでもどこか嬉しそうに剛蔵は思い出話を口にする。  ああ、うるさい。黙れよ屑が。貴様ごときの矮小な世界観で語られる道理などに、柊聖十郎を当て嵌めるのがどれほど冒涜的なことか分からんのか。 「恵理子さんへの仕打ちに、周りへの辛辣な態度。自信満々なのはいいが、感謝の言葉を一度も送ったことがないってのは、ちょっとどうかしてるだろうが。 どれだけ捻くれてるんだ、おまえは。俺や恵理子さんがいなけりゃなぁ、てめえ一人ぼっちになっちまうぞッ!」 「それが、どうした──!」  どうでもいい。余計なことを。いい加減、倒れてしまえと腕を振るう。 「有象無象の塵屑を、どうして俺が、いちいち気にかけなければならんというのだ! 貴様らこそ、誰の断りを得て俺の周囲をうろついている。 つきまとえと命じたことなど、一度も言った覚えはない!」  だというのに、何度も何度も。  この男はいつもこうだ。凡百の一般論を、さも真理であると口にする。  それは俺だけには当て嵌らないと、いったい何時になったら気づくのか。  はたまた気づいた上で突っかかって来るのなら、いよいよつける薬がない。  こいつはもはや、死んでも治らぬ馬鹿だろう。  だからここで殺してやる。そして二度と、自分の前に立たせはしない。 「余計なことを、いつも躍起になって伝えようとする」  そう、だから邪魔なのだ──何故そう思うのか、すべての理由を把握しきれないほどに。 「おまえ程度が、俺に何を教えるという。   道具なら相応の態度をとれ。俺を煩わせないよう、心がけるのが道理だろうが……!」  こいつのことが、理解できない。  諦めが悪いだけでは到底説明できなかった。 「第一、なんだ貴様は。どういうことだ、この様は……ッ!  気に入らないだと? 憎いのだろう? ならば何故、いったいどうして俺の夢に嵌まらない!  おまえの情は、敵意を抱かずに攻撃を加えることが可能というのか!」 「ああ、むかついてるさ! けどそれは、おまえに対してのものじゃねえ。 こんなになるまで決着をつけられなかった自分自身に……腹が立って仕方がねえんだ!」 「だから、おまえを止めるのは俺の役目だ。誰にもこれは渡さねえ。 おまえのことが大切だから、放っておけねぇって言ってるんだよ。簡単なことじゃねえかッ」  簡単? どこかだ、いよいよもって理解不能である。  異次元の言葉でも放っているのだろうかと、聖十郎には見当つかない。  叩き込まれる一撃一撃に宿っている想いが分からず、心をよぎるその刺激が今も掴めず困惑している。  柊聖十郎はどうしようもない男なのだ。悪そのものという人間なのだ。  救われない性根を備えているし、野放しにしていれば害悪をまき散らすことしかしやしない。  だが、だからといって、それを受け入れるかどうかはまったく別問題だったのだ。  そこを認めることに剛蔵はこんなにも時間が掛かってしまった。彼が深く嘆いているなら、それはその一点につきるのだろう。  剛蔵の頬を一筋、熱く血の混じった雫が伝い落ちた。 「すまなかったなぁ、セージ……俺がこんな役立たずでよぉ。  友達なのに、おまえの役に立つ方法を見つけてやることができなくて、ここまで遠回りしちまった……」 「何を、言っている」 「別に。改めて思っただけだよ、おまえは凄い奴だってな」 「色んな病気抱えて、身体ボロボロになって、今にも死にそうな状態でよ……ずっと耐えながら運命に抗い続けてきたんだぜ?  俺が受けた何十倍もの苦痛に対して、それこそ一歩も引かずによう。たった一人で何年もだ、そんなこと誰にも絶対できやしねえよ。 心が途中で折れちまうし、きっとすぐに生きることを諦めてた。夢に入ってなんとしても生き延びよう、なんてとんでもないこと考え付くのも実行すんのも、凡人の俺には不可能だ」 「そんなすごいことが出来るのは、後にも先にもおまえだけ。 柊聖十郎っていう強い男だけなんだよ」  その視線に射抜かれた聖十郎は、何も言えなかった。なぜか喉から言葉が出そうにない。  いつものように、当たり前だと断ずればいい。  貴様ではそうだろうなと、蔑笑すればそこで終わる。  阿呆のように無言で佇むことなどないはずだ。  あまりにも剛蔵の頭がお目出度すぎて、反論さえ自分は忘れてしまったのだろう。どんな攻撃よりも紡がれる言葉が毒に思えた。  そんな、混乱する聖十郎を見て、剛蔵の口端が少しだけ笑みをかたどる。血と泥に汚れながらも柔らかい微笑は雄々しかった。  そこには負の感情など一切なく── 「だから、俺はおまえを尊敬する。  だから、俺はおまえを見下さねえ。  同じ地平を歩む、同じ一人の人間で。  ──大切な、俺の自慢の親友だッ!」  そのために、自分は柊聖十郎を放ってはおけないのだと。  いまこの時、溢れる友情は紛れもなく邯鄲の夢においても一際輝く真実であった。 「────、黙れぇッ!」  自分に投げかけられた剛蔵の言葉。それが心の底から出た想いであると、流石の聖十郎も理解した。咄嗟の声はどこか余裕を削ぎ落とされ、窮しているようにも聞こえる。 「気持ちが悪い、鬱陶しいのだ纏わりつくなッ!  どこまでも不愉快な……真奈瀬剛蔵、おまえほど馬鹿な男を俺は知らん」 「言ったはずだぞ、貴様らは俺の道具だと。  他者という礎が、訳の分からぬことをつらつらと。  見当違いの感情を俺に向けるな、そんなものは貴様の思い描いた都合のいいまやかしに過ぎんッ!  俺は俺だ! あるがままに鬼畜となった! その純粋さを今さら損なわせるものかァァッ──!」 「いいじゃねえかよ、俺が勝手にそう思ってんだから。 邪険にされるのも慣れっこだぜ。今さらこんなことで、おまえを見捨てやしねえよ」  なんなら地獄まで付き合ってもいい、そう晴れやかに言う剛蔵。  きっと聖十郎の相手は、閻魔や鬼でさえ手を焼いてしまうだろうから。  もはや二度と、この心を見失わないと猛っている。 「だからこれが、俺流のおまえの役に立つってことだな。 セージに本当の意味で〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》ほしい。願っているのはそれだけなんだ」  何も生きながら悪鬼羅刹になることはない。死んだ後でも充分すぎるし、その前に日の光の下でやれることがあるはずだと告げている。  生きるとは、自ら輝こうと努力すること。そのことを知らぬ聖十郎ではないのだから。 「──く、ふふ、ははははは。寝ぼけたことを」  だが聖十郎はそれを嗤う。馬鹿馬鹿しいと。衆愚が言いそうなことを、大上段からよくのたまった。 「生きるということに、嘘も真もあるものか……ッ」 「言ったろ──そいつを教えてやるってよォッ!」  真正面からのクロスカウンター。互いの顎が弾け飛ぶ。  折れた歯が血反吐と共に飛び散るが、それでも二人は戦うことをやめようとしない。 「ぐふっ、つぅぅ……!」  いったい何度殴ったか……そして、何度殴られたか。 「──ごほっ、ちぃぃッ」  数えるのも馬鹿らしくなるほど、拳と想いを衝突させた。  彼らの戦いは終始、友情と拒絶の衝突だった。  絶対的な独尊を少しでも解きほぐすように。そして一方は、それに負けてはならないようにと、猛り滾って相対している。  つまりは本気で、本音で、裸の想いで向き合っていた。聖十郎にしても例外ではない。あらゆる装飾はかなぐり捨てた生の自分で立ち向かっている。  なぜなら、この悪辣な男は一度も己を偽っていないのだから。  ただ他人というものは、いつも彼のことを勘違いする人生だった。  恐れるあまりに直視ができず、常に聖十郎の本質を間違ったまま認識する。 あるいは理由があってこうなったのだと、勝手な願望を押し付けるのだ。後で破滅を返されて、ようやく彼が救いようのない人間だと理解して絶望する。  だから、こんなことは初めてだった。  剛蔵は倒れない、見捨てない。悪魔と知りつつ信じている。  自分の深い闇に触れ、深く傷つけられてなお慕おうという存在自体が、聖十郎にとっては未知だった。  まるで道理の異なる異生物。  こいつのことを知らねばならない。  そうしなければ殺せない。今後も必ず邪魔をされる。  それが不快で、不快で不快で仕方がないから──  聖十郎は願うのだ。  真奈瀬剛蔵という人間がどういうイキモノであるのか教えろと。  他者に対して心の底から警戒した。それは初めて、相手の心を重く捉えたことに他ならなかった。  無意識の下した判断に本人は気づかない。 「はは、ははははは……」  そう、いつも気づくのは聖十郎でなく剛蔵の方だ。  本当に世話が焼けると、彼は友人へ噛み締めるような苦笑を漏らす。 「〈邯鄲〉《ユメ》も捨てたもんじゃねえ、か。ああ、確かにそうだな。 〈現実〉《あっち》じゃとてもこんなことは出来なかった。長い付き合いだってのに、ぶつかり合うこともできなくてよ…… それがどうだ。俺たちは初めて、こうして〈殴〉《わか》り合えている」 「なあセージ、どんな気分だよ? 俺は嬉しくてたまらねえ」  敵意であれ、警戒心であれ、構うものかと剛蔵は思っている。受ける拳から相手の想いが、強く熱く伝わって来るのだから。  おまえは何者だという問いが、ただ嬉しくて嬉しくて仕方ない。  初めて自分を、一人の男として柊聖十郎が認めているのだ。 「そう、もっとだ。本気で来いよ。幾らだって受け止めてやる。  この瞬間にやっと、俺は本気のおまえに会えたんだ──!」 「やかましい! いつまでも、いつまでも……」  ゆえに聖十郎は咆哮する。  何一つ分からないから、近寄るな。消えてしまえ。  おまえのすべてを今度こそ〈奪い〉《しり》つくした後で── 「くだらん世迷い言を、俺に向かって吹き込むなァァッ!」  決別を願いながら全身全霊をこめた一撃を見舞った。  渾身の痛打が炸裂したが、剛蔵は倒れなかった。  当然だ。こいつはどうしようもなく、頭の巡りが悪いのだ。  こんな程度で諦めるような男ではない。必ずまだ、生意気にも自分へ歯向かおうとするだろう。  その予測は正しく、すぐに奴は再び突撃してきた。瞳に宿る闘志は陰りなく轟々と燃え盛っている。 「身の程知らずが」  勝つつもりだというのなら、笑わせる。急段を封じた程度で、俺が貴様に劣るものかよ。  いいだろう。どちらが上か、これで分からせてやるとしよう──!  そして── 「剛蔵ォォォ────ッ!!」 「セージィィィ────ッ!!」  激突する音が、鶴岡八幡宮に幾度となく反響した。  これほどの熱と痛みは初めてだと……ようやくほんの少しだけ、一人の男に思い知らせることを遂げながら。  月光が照らす中、二人の戦いはいつまでも続いていく。  共に過ごしたすべての時間に、ここで一つの結果を出すかの如く。ずっと、ずっと── 「────、……」  やがて、眠りから覚めるように朦朧とした意識が浮上した。  視界に映るのは、漆黒に染まる夜空だけ。  地へ仰向けに寝転びながら、ぼんやりと聖十郎は何が起こったかを検分していき、そして答えに思い当たる。  あれから剛蔵と殴り合い、何度となく拳を交えた。そこに決着はついておらず、気づけば相手の姿はどこにも見当たらなくなっている。  それはおそらく、四四八が邯鄲から抜けた影響なのだろう。  眷属である剛蔵もまた、引きずられて連座で消えた。戦真館共々、再びこの階層に突入してくることも……自分と出会うこともなくなったということだ。  その味気なさを反芻して、思わず鼻で笑ってしまう。 「……無駄な時間を過ごしたものだ」  まったく、なんという茶番だろうか。  四四八はともかく、剛蔵との一戦は邯鄲の夢において何の影響も与えるようなものではない。  階層の攻略に貢献することもなければ、他の勢力が得をするようなことも起こらなかった。せいぜい聖十郎個人にちょっとした嫌がらせをしただけのようなもの、結果を見ればそれだけである。  しかもそれさえ、やろうと思えばすぐに癒せる損傷だ。ほんの少し夢を廻せば、この傷や倦怠感はすぐまどろみのように消え失せるだろう。  馬鹿馬鹿しい。腹立たしい。なんて道化、役に立たん。  ああ、やはりあれはどうしようもない木偶の坊だ。抜け殻の分際で出張ったあげく、無駄足を踏んだに過ぎん。  己は変わらず続投可能。ただの閑話にああも身を張る神経が、そもそも聖十郎は分からなかった。  分からなかったが、しかし。 「…………」  立ち上がる気が起きないのは、いったいどうしてなのだろうか。  気の抜けたように身体を動かす気がしない。このまま眠るのもいいだろうと、倦怠感に身を任せてしまいたくなる。  手間を取らされたことで疲労したのか。思えば泥臭い殴り合いなど、ついぞしたことがなかったから。  起き上がるのが面倒になって、そのまま揺り籠のような痛みに包まれ、瞳を閉じた。  今は沈むように眠るとしよう、と。  その時だった。空気が、己と匹敵する背徳の魔で濁ったのは。  果たして目を開いた先にいたのは、覗き込んでくる悪魔の姿。  混沌を煮詰めた無貌が、至近距離で自分のことを見下ろしている。 「神野……」 「やあ、セージ。随分と伊達男になったじゃないか」  開口一番、甘い飴玉を転がすように悪魔は揶揄を口にした。  滲み出る親愛の情は、剛蔵のものとは正反対だ。舌先には腐った毒が蛆の群れと共に滴っている。 「息子に敗れ、友情に敗れ、惨めだねえ。憐れだねえ。  気分はどうだい? ここまで追いやられたのは初めてだろう。是非とも僕は、その感想を聞いてみたいんだ」  傷口に向かって塩や辛子を塗り込みたい。そういう下劣な悪意が透けて見えるのは間違いじゃないだろう。  この悪魔は、敗者に鞭打つのが楽しくて仕方ないらしい。  いつも傲岸不遜な柊聖十郎が、こうして無様に地を這っているのだ。その心境は奈落の底か? それとも焦熱、叫喚だろうか。  さぞ煮えたぎっていると想像して涎を垂らす無貌の姿は、癇に障るほど醜悪だった。  ゆえにこのまま、即刻その頭をねじり切ってもよかったのだが。 「そうだな……」  しかし何故だ……聖十郎は今、神野に対して呆れしか感じなかった。驚くことに不快感の一つすら胸をよぎっていやしない。  悪魔のもたらす挑発がとてもつまらないものに見えたのだ。  ああ、こいつはなんて〈小〉《 、》〈さ〉《 、》〈い〉《 、》のだろうか、と。  雄大な自然を見た後に、泥の水たまりを眺めたような心境だった。いちいち憤るまでもないという不思議な余裕が、心の中で揺蕩っている。  そのために、感想にも劇的なものを抱いてはいなかった。  後から思い返してみれば、まったく、出来の悪い喜劇でしかない。 「あまりに幼稚すぎて、俺は呆れかえっているのだろうな」  だから、こうして気勢を削がれている。  傷を治すこともしようとしない。  万事、変わらずどうでもよし。 「ただ」 「ただ?」  一つだけ、気の迷いかもしれないが……  おそらく気まぐれなようなものに過ぎないと確信してはいるのだが。  短く、聖十郎は本音を告げた。 「不思議と、悪くない」  率直に表現するのなら、きっとそういうことなのだろう。  あれは愚かで、どうしようもない凡人ゆえに、今もよく分からない。  剛蔵だけが聖十郎を理解したという一方通行に落ち着いた。そもそもどうして、なぜ自分があの男を知ろうなどと思ったのかさえ、後になって阿呆らしく思っている。  ……本当に、無駄な時間だった。  それだけにもう一度体験しようという気にならない。  活力の大半を、あの馬鹿さ加減に持っていかれたような気がする。それでも奇妙な清々しさだけが、不思議と胸に残っていた。  もし、普段の聖十郎を知る者が今の彼を見たならば……きっと瞠目していただろう。それほどまでに、日頃身に纏う凶兆が大きくなりを潜めていた。  その変化は、常人ならば歓迎すべき姿であったが、しかしここにいるのは破戒の〈混沌〉《べんぼう》。そんな定石は存在しない。 「ふうん、つまり満足したというのかな? こんな茶番で、この程度で」  つまらない。その一言にすべての感情が限界まで凝縮されていた。  それは触れると炸裂する核爆弾のようなおぞましさで、静かに密かに、破滅の鼓動を刻んでいく。 「だってそうだろう、今の君は何やら気が抜けている。気の迷いが生じた程度でその様なら、僕としては拍子抜けだよ。 そしてそんな人間が悪魔と契約するものかい? いいや、否。 僕は知ってる、信じている。君はもっと素敵に邪悪だ。少し揺さぶられただけでそんな姿を見せないでくれ。胸が張り裂けそうになる」  ねじり込むように覗き込んでくる昆虫めいた眼球が、そこでぐるりと上下に半回転した。 「これが柊聖十郎の〈絶望〉《ぱらいぞ》だって?」  大きく開いた目玉の奥で、何億もの蠅が手足を擦り付けている。  聖十郎が小さく息を呑むほどに、神野は真摯に訴えた。 「それは──」  ……それは、何なのか。僅かな逡巡が意味を紡げず解れる前に。 「そんなことはないよねえ」  次の瞬間、神野は優しく破顔した。親愛の情をこれでもかと前面に露出して、自分は味方だとアピールしている。  だがしかし、それを笑っているとは思えない。  不吉がする。警鐘の音色が響く。  そこにあるのは悪魔の本質。たとえどれだけ道化のように振舞おうとも、芯の部分では一秒も休まず憎悪に狂っている存在のアイデンティティー。 「怖気づいているのかい? 違うよね、違うはずだ、柊聖十郎は決してそんな男じゃない。 だって、〈僕〉《 、》〈の〉《 、》〈友〉《 、》〈達〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》」  禍々しい宣誓は二人を繋ぐ〈絆〉《のろい》だった。  魂魄を絡めとる悪意の糸は二人を繋いで離さない。なぜなら神野は、彼に多大な期待をしているのだから。  自らの好む最高の絶望を見せてくれると言っただろう。そのために悪魔の〈契約〉《ゆうじょう》を交わしたのだ、いまさら反故は許されない。  そして、訪れる破滅を待ち焦がれているゆえに今の聖十郎を嘲っている。  蠅声は石くれを見下すような視線をもって、彼の〈悪意〉《イノリ》をそんなものかと嗤っていた。 「この程度じゃまだ足りないにも程がある。悪人の最後というものは、もっと救いのないものだろう?」 「まさか、怖がってるわけじゃないよねえ? 鬼畜外道のセージくんは」  その問いを受けて、一瞬だけ四四八らの影が聖十郎の脳裏によぎる。 「人の心は〈物体〉《モノ》じゃない」 「あんたは求め過ぎたんだ」 「俺はおまえの友達だよ」  どいつも真摯に自分を見ていた、訴えていた。  正義を、道理を、友情を──そして。 「聖十郎さん」  この女は、いや。 「私は、あなたを──」  現実の恵理子はおそらく、〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》と理解して。 「愚問」  まったくもってつまらないと、悪魔の囁きを肯定した。  本当に、くだらない気の迷いを抱いたものだ。いったい何故、自分が四四八や剛蔵の言葉を斟酌せねばならんという。 「趣向が足らんぞ、神野。〈絶望〉《ぱらいぞ》の使徒を名乗るなら、より相応しいものを寄こすがいい。 そうだ、俺の末路がこの程度であっていいはずがない」  柊聖十郎は背徳の逆十字。ゆえに、最高の終焉を迎えることを華々しいと誉れに思う。  盧生になり、甘粕を殺し、邯鄲の王としてあらゆる者を供物としよう。  そして訪れる地獄の凄惨さを目にしながら、自分は高笑いしてやるのだ。  もし仮に、剛蔵がこの場にいればたいそう嘆いたことだろう。  どれほど責め苦を味わわされても、再び殴りかかっていただろう。  しかし、もしもの話は存在しない。  聖十郎は邪悪である。その結論だけが、揺るがない真実であったのだ。 「ふ、ふふ。いいねえ、調子が戻って来たじゃないか」  天に唾吐く蠱毒の化身が、ここに友の復帰を歓迎する。  ──よって、すべては単なる余談に終わった。  ──大勢に何の波紋も投げかけない。  ──男は変わらず鬼畜のまま。徹頭徹尾、救われず。  ──絶望は訪れる。必ず、必ずやって来る。  ──それが悪魔と交わした、唯一無二の誓約だから。 「さあ、気持ちを切り替えて第二案だ。息子の〈第八層〉《かんせい》を待つとしよう。  その時にこそ、セージ、君は念願の盧生となれるよ」  その果てに、柊聖十郎は特級の絶望を味わうだろう。  あるいは、彼が人として救われるかもしれぬ最初で最後だったこの機会を、神野明影は摘み取ったのだ。  悪魔の友情と愛をもって。  おまえは必ず、無間を超える地獄の底へと〈蠅声〉《じゅすへる》の名に懸け連れて行く。  逃がさない。逃がさない。そうだ、君の破滅は僕のもの。 「うふふふふふ、アハハハハハハハハハッ──!」  そうして、小さな閑話が幕を下ろす。  一人の男が見せた些細な気の迷いは、邯鄲の露へと消えたのだった。  ──あれから、三年。  朝に帰ったあたし達は、どうしてか夢の中に入る力を失っていた。 それがなぜなのか、いろいろ試してはみたけれど、原因は何も分からないまま。唐突に戦真館の戦いは終わりを告げたのだった。  正直、何が何だかわからないのが本当の気持ちかな。今でも時折、あれはなんだったんだろうって皆と考えることがあるから。 百合香さんはどうなったんだろう、とか。他の連中は結局、何をしたかったんだろうとか……  今になってもまだ、分からないことは山ほど残っていて。むしろ尻切れトンボな結果ばかりだから、もやっとした部分がないかと言えば、きっと全員嘘になる。昇るべきハシゴを外された、なんて奇妙な疎外感まであったんだ。  けれど……  あれから、少しだけ四四八は笑顔を見せるのが増えて。 あたし達は胸を張りながら、恵理子さんのお墓に報告へ行けもした。 なら、その二つだけで充分だろう。謎は残っているけれど、その前にあたし達は生きているんだから。  いなくなった人たちや、道を外れた運命に感じるものがあったとしても、まず前を向かなきゃ始まらないし。それに、親父のいなくなった店も残っていた。  ていうか、こっちの方が大問題だったかな。なんせ夢から覚めると、うちの蕎麦屋は〈従〉《 、》〈業〉《 、》〈員〉《 、》〈ゼ〉《 、》〈ロ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈回〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》……なんてことになってんだからさ。  いやね、もうなんだそりゃって気分だよこれ。ぶっちゃけどうなってるんだっつうの。 ご近所さんに尋ねても、〈親〉《 、》〈父〉《 、》〈を〉《 、》〈覚〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈人〉《 、》〈さ〉《 、》〈え〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》しさ。それならあたしの生活費はどこから入って来たんだよとか、そもそもなんでうちが蕎麦屋と知ってんのとか……まあ、言いたいこともあったけど。 たぶん夢の中で死んだことで、そういう歴史に変わったんじゃないかって結論に落ち着いた。あゆはタイムパラドックスがどうこうと自論を展開していたけど、あたしはそこらへん興味なくて。  そしていつまでも、親父がいなくなったことを悲しんでいるわけにもいかなかった。だって、生きていくって決めたんだから。 そのためにやれることを考えて、皆にも手伝ってもらったり、励ましてもらったその結果── 「今日もこうして『きそば真奈瀬』の看板娘として、頑張っているわけなのさ」  さて、今日も商売繁盛……開店しますか! 「えー、まあ、昨今の風潮にはオレも男として思うところがありましてね。博愛主義もやりすぎはいかんでしょと言いますか」 「いやいや、男なんてしばかれてなんぼのイキモンだから。傷つくほどに強くなんのよ。たとえばほら、オレなんてめげずに明るいヌキヌキポンとか言うたびに相方のきつーいツッコミ受けてるしね」 「うわぁ、なになに何です、そのゾウリムシを見るような目。傷つくわぁ、悲しいわぁ、かわいけりゃ何でも許されると思ってるんだねこのBカップめ……どちくしょう」 「てめえ、悪いと思ってんならパンツ見せろよコラァッ!」 「──って、あ痛ぁぁぁっ!? ちょ、マッキー、グーパンやめれ! おまえのツッコミマジきついんだよ、オレの人生に幕引く気かァッ! スマイルで誤魔化してんじゃねえぇッ」 「ぶふぅ、ま、またドツかれてるよ栄光くん……っ」 「あはははは、うん、全然学習しないんだものね!」 「半泣きで転げまわる姿とか、滑稽さが板についてるわね」 「まあ、あいつしばかれ慣れてるもんなぁ」 テレビ画面の向こうに映る栄光を見て、店内を四人分の笑い声が満たす。 あゆ、水希、鈴子……千信館卒業後、久々に揃った仲間との再会に喜びながら会話に花を咲かせていた。 今はそろそろ閉店を控えた時間帯だ。あたしたち四人を除いて誰もいないため、こうして気兼ねなくそれぞれの進路の苦労なり面白さなりを語って談笑を楽しんでいる。 鈴子は、医師免許を得るために医学科へと進んでいった。 通っているのは鎌倉内の大学であるために、うちを利用する回数は仲間内でも多い方だ。講義が早く終わったときなど、よく教授への愚痴を呟きながら蕎麦をすすりにやって来る。 あゆは、意外なことに自衛官になった。 夢の中でも狙撃銃を使っていたためか、隊の中でもその腕前はピカイチらしい。何より外見がこれなので、マスコットみたいな扱いを受けているのだとか。 水希は学業の傍ら、政治家の秘書見習いをやっているようだ。 ……それは、〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈日〉《 、》〈本〉《 、》〈の〉《 、》〈在〉《 、》〈り〉《 、》〈方〉《 、》に思うところがあるからだろう。あたしも同じ気持ちなので、ぜひ夢を叶えてもらいたいと思っている。 そして、先ほどテレビに映った栄光はなんとお笑い芸人になっていた。何気に仲間内ではもっとも世間への知名度を上げているのである……栄光のくせに。 もっとも、芸人になった後でさえポジションは一切変わらないあたりが、なんだか非常にほっとする。若手なのに出演できるようになろうが、エイコーと呼ばれるようになろうが、あいつにはあれが似合っているということかな。 そして、あたしは『きそば真奈瀬』の看板娘で、今ではうちの立派な家長。 学生時代は皆が手伝ってくれたけれど、こうして一人で店を回すのにも慣れてきた。 最初は目が回るほど忙しくて、親父の大きさをひしひしと感じることもあったけど……残されたメモや育んでくれた心を胸に、今ではそれなりの食い扶持を稼げるようになっている。 大変だった、なんて弱音もなんのそのだ。生死の危険に比べれば、これぐらいやってやれないことはないのだから。 「そういえば、鳴滝くんはどうなの?」 「確かこの前、りんちゃんのところに婿入りしたんだよね」 「冗談、さぶいぼ立つからやめてちょうだい。単に父さんと杯を交わしただけで、私は関係ないんだから」 と、その言葉通り鳴滝は、つい少し前に鈴子の実家を継いだのだった。 そして先ほど言った通り、二人の間に男女の気配は欠片もない。鳴滝にしても元から鈴子の親父さんとは父子のような付き合いだっただけに、そっちの方が大きなきっかけとなったのだろう。 互いに人となりも熟知しているため引継ぎもスムーズに行われたとか、いいことだ。 そういう点から考えると、二人は義兄弟になったというのがしっくりくるのかもしれない。勿論あゆと水希もそこらの機微は分かっているが、知った上で鈴子のことをからかっていた。 「だいたい、あんたら幼馴染ってものに幻想抱きすぎなのよ。愛情と時間が比例するのは少女漫画か……」 「ここにいる〈晶〉《こいつ》と、あいつぐらいなものでしょうが」 「まあねえ」 「そうだよねえ」 「な、なんだよ二人とも……ニヤニヤすんなっ」 「にまにま」 「言い方変えただけだろそれ! つーか、そろそろやめろよこのやり取り。学生時代からいったい何回やってるんだよ」 「ふん、自業自得じゃないの。半同棲までしてたんだから」 「むしろ通い妻っていうかー」 「押しかけ女房っていうかー」 「ああああうぅぅ……」 まあ、そう言われるとぐうの音も出ないというか……実際その通りなわけであった。 現実に帰ってから、自分と四四八の雰囲気が変わったことをすぐに皆は悟ったし、それぞれ祝福してくれた。そこはいいのだが、だからってからかわれるのに慣れるかはまったく別問題になるわけで…… 親がいなくなって一人暮らしになった同士、一時期は互いの家に交代で泊まっていたのも格好の材料だったのだろう。 なんとかうちの蕎麦屋を立て直そうと二人で頑張っていたのだが、傍目から見れば明らかに同棲だ。なので今でも、これを言われるとあたしは弱い。 そして、もう一人の当事者である四四八は現在鎌倉から離れていた。 あいつがいてくれたら、少しはこいつらをやり込められるのに……そう思っているときに、ふとつけっぱなしのテレビが目に入る。 さっきまで栄光が出演していたバラエティは切り替わり、まじめなニュース番組に移行していた。それをきっかけに店内の雰囲気──ここにいるあたし達の気配が少しだけ暗くなる。 なぜなら、公共の電波から流れる情報は自分たちが知る日本とはかけ離れたものなのだから。 「それでは、次のニュースに移ります」 「先日、アメリカとの共同管理を決めた沖縄についてですが、北欧諸国と中国から新たに日本国の領土共同管理について提案を受けました」 「政府はそれに対応し、新たに北海道と九州地方の共同管理を申し出ましたが……先方はどうやら尖閣諸島を望んでいるようなので、その対応に向けて方針を改善するつもりのようです」 「そうですね。これで両国の信頼も、より素晴らしいものになるでしょう」 「日本は争いのない平和な国です。これからも末永く国土共同管理法案が続くことを願います」 「六条の改善が成功し、いずれは首都も他国と共有できるようになるといいですね。では、次のニュースを──」 「……共同管理、ね」 重い空気の中、忌々しそうに鈴子は画面を睨みつけた。 心境として抱くのはこの場の全員、まったく同じだ。どうしてこうなったんだろうと、やり場のない感情を抱えている。 そう、聖十郎に勝って、夢から覚めると日本はすでにこうなっていた。 ここは今、〈あ〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》〈達〉《 、》〈の〉《 、》〈知〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈歴〉《 、》〈史〉《 、》〈を〉《 、》〈経〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。その本質がさっきのニュースにこれでもかと散りばめられていたと言えるだろう。 「こういうのを無抵抗主義っていうんだろうね。〈自衛隊〉《うち》を指揮する人間にも、国連の高官枠が当たり前にねじ込まれてるし……」 「完全平和主義って憲法にも記されているわね。権利や領土をシェアすることで、他国の文化や思想に最大限配慮するっていうのが建前だけど」 「外国からみれば、都合のいい実効支配だよな」 変わり果てた日本の外交手段は、弱腰を通り越した滅私奉公の具現みたいなものへと変わっていた。 その信条はまさに自己犠牲の一言に尽きる。無防備最高。軍備削減。〈他国〉《あいて》が求めたのならば満足するまで与えましょう、それが日本の正しい姿と…… 国民感情から、どこのニュースやネットを見てもそういう論調で溢れている。自国を守ろうだなんていう概念は完全な〈少数派〉《マジョリティ》になっていて、公共の場で口にすれば白い目で見られるほどだ。 それは愛と慈悲、他国への信頼に満ち溢れているというのでもなく……ただの思考停止と同じじゃないか。 まるで誰も彼もが、清貧な聖者に成りたがっているかのようだった。兎にも角にも、あらゆるものに優先して暴力が近づくのを嫌っている人々。自分を守ることにさえ力を持つのを恐れている。 だからあたし達は、大小の差はあれそれを変えたいと思っていて。 水希が政治家になりたいと思ったのも、鳴滝が右翼を背負ったのも、四四八が資格を得るために東京へ向かったのも……根っこはそういう理由だった。それぞれが出来るアプローチで、今の風潮を一新したいと感じている。 こんな未来を得たいがために、必死で戦ったんじゃないのだし…… そして未来がこう変わったのが自分たちのせいならば……今度はそれを変えていこうじゃないかと誓ったのだ。 どんな現実でも、前を向いて生きていくことで。 「ま、くよくよしても仕方ねえよ」 「あたしが言うのもなんだけどさ、未来は幾らでも変えられるって思うんだ」 「そのために取っている手段が違うだけで、目指す想いが同じならそこに優劣なんてないんじゃないかな」 毅然と受け応えようとする姿勢であっても、今の日本では珍しく映るだろう。そしてそれが悪意に立ち向かう強さであると、普段の生活でも伝わるものはあるはずだから。 戦わないことは、平和でも、救われることでもない。 「それが世の中を変えると信じて、あたし達は今の生き方を選んだんだろ」 「言うじゃない、さびれた蕎麦屋の店主にしてはね」 「まあ数年後を見てなさい、私を女神と仰ぐ患者たちで一大勢力を築いてやるわ。そうしたらこんな風潮一発よ、一発」 「つまり、あざといナース服でイチコロとか? 自分に萌え萌えする豚の群れを作り上げるつもりなんだ」 「うーん……過激な宗教団体はちょっとお勧めできないかな。自国内の問題に対して法の目が厳しくなってるし」 「くォるあッ、なにさり気なく私のイメージ下げてんのよ! ていうかどういう目で見てるわけあんたらァ!」 どうってそりゃ、なあ。 「イロモノ?」 「うううぅ、しまいにゃ泣くわよ馬鹿ああぁ!」 もう半泣きじゃん、とはややこしいことになりそうなので言わない。あーあ、そんな目を擦ると赤くなるのに。 ただまあ……そういう態度を見ていると、何とかなるって思えるのは本当だった。肩の力がほどよく抜けて、諦めずに頑張ろうという気持ちになる。 そう、まだまだ出来ることはきっとあるさ。未来は作っていくものなんだから。 「失礼──、っと」 そんな話題をしていたからか、店内には思いがけない来客があった。 噂をすれば影って本当にあるんだな。 「四四八、帰って来たのか!」 それにしても珍しい。仲間内でも会える頻度が少ない部類である彼は、必ずやって来る前に連絡を入れてくるはずなのに。 何やら本人はあたしを見てから、あゆ達を目にして渋い顔をし始めていた。 おまけに、どうも落ち着かないようにそわそわしている。なんとも四四八らしくないな。 「あー、そうだな……こっちに着いたのはたった今だよ。家の方にも帰っていない」 「前に言ってた検事一級の資格が取れたからさ、これをいい機会だと思って一度帰って来ることにしたんだが」 ちらりと、何故かイイ笑顔をしている三人を視界に入れる。 「まさか、晶以外もいるとは思わなくてだな」 「ああ、珍しくみんな自由な時間が重なってさ。せっかくだからうちに集まろうって話になったんだけど……どうかしたのか?」 「どうという訳ではないのだが、まあ、なんだ……」 「ちょっとした間の悪さを感じているというか、何もこんな時にというか……とにかくそんなところだ」 「んう?」 なんだろう、本当に歯切れが悪い。思わず小首をかしげてしまう。 落ち着いていない様子の四四八は本当におかしい。 やがて意を決したのか、すっとあたしに向かって距離を詰めた。一度大きく深呼吸してから、思わずドキッとするほどの真っ直ぐな視線で射抜かれる。 「俺なりのケジメというか、一区切りってやつだよ」 「いいから、その、手を出せって。ほら」 「なんかよく分かんないけど、はい」 「だから〈右手〉《そっち》じゃなくて、ああもう──」 そして── 「な、ぁ────」 「おおぉっ」 あたしの左手薬指に、小さな指輪がゆっくりと彩られた。 「……こういうことだ。分かったか、この馬鹿」 えっと、これは、その、あの…… 世間一般的にはそういうことで、だから四四八は、つまり── 「お、おおおまえこれって……ッ」 「うるさい馬鹿、そうだ馬鹿、みなまで言わすな大馬鹿者」 「それとも何か? あいつらの前でこれ以上、俺に何か言えとでも? 後々どうなるか分かったもんじゃないだろう」 そりゃまあ、たぶん一生からかわれるよな。むしろ今この時だって、年頃の女にとってはいい飯の種なんだから。 だから渋っていたんだと気づいても、まったく後の祭りというもの。目を輝かせている三人にとても視線が合わせられない。 「あぅ、ああうぁ……」 うわぁ、駄目だ。頭の中ぐるぐるして、今にも顔から火が出そうで、四四八の顔もまとも見れないじゃんか。 ……それでも、薬指にはめられた感触は嘘じゃなかった。 お互いに頬を真っ赤にしながら視線を交わしたり、逸らしたりして。ようやく幸せが現実感を伴って、あたしの中に湧き上がって来た。 これからも一緒に生きていこうって、四四八が言ってくれている。 そのことを噛み締めて、少しずつ頬が綻んでいくのが分かった。 気を抜けば涙も流れてしまいそうだったけど、それを堪えながらしっかりと責任を取りに来た彼の顔を見る。 「で、どうなんだ?」 「どうって、そっちこそ分かれよ……バカ」 あたしの気持ちはずっと変わらない。 これでも女なんだからさ。そっちがどう思っても、こういうの少し憧れてたりしたんだよ。 「ありがとう。すごく、すごく嬉しい」 なあ、親父に恵理子さん。 見ているかな? あたし達は大丈夫だよ、この現実で力を合わせて生きていく。 だから見守っていてほしい。跡取りが出来たら、その時はまた報告に行くよ。 「だから──」 そう想いながら、最高の笑顔と返事を彼に向けた。 「これからもよろしくな、四四八!」 「ああ、こちらこそ」 「おめでとう、二人とも!」 シャワーのような拍手の雨が『きそば真奈瀬』に鳴り響いた。 今日という幸せな瞬間は、また一つ輝く〈未来〉《ユメ》となって刻まれたのだった。  茫洋と、ゆらゆらと。  どこまでも広がっている漆黒の闇の中を私はたゆたう──  寄る辺など何もなく、ただこの空間を浮遊して流されていく。そこには現実味も、他者の存在も、自分の持つべき感覚すらも存在しない。  認識できるのはあたかも墨を零したような一面の黒色のみで、それ以外には何も認識できない。世良水希という己の身体がどこにあるのかすら曖昧だ。  私は、いったい……  微かに残っている記憶は遠く、もう夢のように輪郭がぼやけている。  そうだ── 「私、やられちゃったんだ……」  仲間たち……晶と鳴滝くんとの三人で訪れた鶴岡八幡宮。そこで出会った宮司さんの穏やかな表情を思い出す。  不意を打たれた、などと言うのは唾棄すべき甘えに過ぎないだろう。この世界の理を忘れ、手前勝手な判断で警戒を解いたのは間違いなく私たちの迂闊なのだから。  手もなく捻られたその後、記憶は曖昧で──  いや、違う。覚えている。失われていく意識の中、倒れた私を気に掛けるばかりにその実力を発揮することなく敵に屠られていった鳴滝くんの姿を。  そして、私に覆い被さるようにして庇ってくれた晶の悲鳴。 「ッ、ク──」  覚えている、ではない。他人事なんかじゃない。絶対に忘れてはならないことだろうそれは。  自分の無力が、間抜けがただ口惜しい。仲間が凶撃に倒れたのは、少しの間違いすらなく私のせいなのだから。  晶は私を庇ってその手が塞がった。敵に背を向けてしまえば待っている運命はもはや語るまでもなく、そうさせたのは他の誰でもない私で。  鳴滝くんはこっちを気にしながら戦っていた。私の負傷具合はどの程度か、この場からどうすれば離脱させられるか……  達人の域にある相手と戦うときの意識がそれでは、片手落ちで剣を振るっているようなものだ。鳴滝くんが本来発揮できていたはずの実力は、あんなものじゃない。  勝てたかどうかまでは分からないにしても、あそこまで一方的になるはずがないのだから。  すべては、心の隙を突かれて一撃で沈んだ私のせい。  思えば、これまでずっとそうだったのかもしれない。はるか昔から、柊くんと再会したときから、あのときも、どんなときも──  いつも、いつだって自分は役に立たない存在で。  敵と対峙しては真っ先に蹂躙され、のみならず相手の掌の上で踊らされているばかり。悔しがっているだけでただの一太刀すらも返せない。  仲間たちには知ったような口をきき、お姉さんぶるだけでいざ戦場に出てみれば足手纏いにしかなっていない。  誰といても、誰と対峙しても変わらず続く屈辱に……いつの間にか私は慣れてしまっていないだろうか?  何度となく泥を舐めさせられながら、今このとき悔しさに身を焦がしていないのはなぜだ?  反省をしているような態を浮かべながらも、どうして闇の狭間をただ彷徨っていられるのか?  そんなことをしていても状況は変わらない。ただ己を鑑みているだけじゃあ、強くなれはしないというのに。  浮かんだ疑問に心の底からぞっとする……そして薄々気付いている。自ら見ようとしなかった世良水希の本質に。  私はもう、〈負〉《、》〈け〉《、》〈る〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》〈が〉《、》〈普〉《、》〈通〉《、》〈に〉《、》〈な〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈た〉《、》〈ん〉《、》〈だ〉《、》。何度も踏みにじられ、奪われ続けているうちに。  そんな自分が情けなく、ただ恥ずかしい。  気付いた今でも涙すら流れないことこそが、追い打ちをかけるように私の精神を辱める。ああ、もはや自分は戦士ですらないというのだろうか。  思考は麻痺し、意識と世界が一つに融解していく幻覚に囚われてる。尽きぬ後悔と心を覆う諦念の中…… 「愛しい、愛しい水希──」 「また手慰みに耽っているのかい? こんな状況になってまで、君もいいかげん好きだよねぇ」  どこからか響いてきた声が、頭の奧を熱くする。  その響きは呪詛。その調べは凶諧、そして……  眼前に形を成して浮かび上がる忌まわしの姿に、私の魂は蒼く燃え上がる。討ち手となるための力が蘇る。 「神、野ォッ────!」  身体は依然として動かない、いや、そもそも肉体というものが存在しているのか? 今この身を捕らえている空間が、世界と相を違えているということには理解が及ぶが……  しかし一度灯された復讐の炎は消えず、どころか益々激して猛る。  だが黒影の男は頓着などしない。いつもこいつはそうであり、私を俯瞰し、監視しながら挑発する。  そして、今もまた。 「一人だけの世界、一人だけの会話……そこに絆なんか、生まれ落ちようはずもない。 つまりは世界が閉じている。いつまでも塞いでいられる気分っていうのは僕には分からないけど、君は篭の鳥でも気取っているつもりなのかい?  嬉しいのは分かるが本気を出せよ、僕の愛しい水希ィ……  それができない限り、〈こ〉《、》〈の〉《、》〈ユ〉《、》〈メ〉《、》〈は〉《、》〈ず〉《、》〈っ〉《、》〈と〉《、》〈続〉《、》〈く〉《、》というのにねぇ。くふふふっ」  分からない。分からない──〈こ〉《、》〈の〉《、》〈男〉《、》〈が〉《、》〈何〉《、》〈を〉《、》〈言〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》〈の〉《、》〈か〉《、》〈分〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》。  身体の中心に氷柱を突き通されたかのように、悪寒は全身を走り抜ける。その聞くに耐えない不快な声に耳を閉じ、少しでも抵抗するように低く呻いた。  まるでそれは悪魔の囁き。拒む私の反応を楽しみながら、神野は口端を三日月状に吊り上げて言葉を続ける。 「いやいやするんじゃないよ水希ィィ。ここに至って分からない子だねぇ君は。まあ、そこが可愛いところでもあるのかもしれないけど」 「〈あ〉《、》〈の〉《、》〈お〉《、》〈方〉《、》もがっかりだよ、肝心要の君がこんな有り様じゃあさ。  まあ、そのぶん僕が遊べるからいいんだけどね──うふふふふ、ふふふ、ふはハハハッ!」 「──────」  冥府より投げかけられた偏執と愛憎塗れの一言により、皮肉にも私は蘇る。  急速に……これまで忘れていたことが信じられない勢いで思い出されていく。あるいは、それすらこの悪魔による狡猾な計算で……  ああ、そうだ。  こいつは。いや、こいつらは──  思い出すのは以前の戦いでの関係性。燃える戦艦の炎を背に、悠然と並び立つ二人の禍々しいシルエットはどうしたって忘れられないもののはずで。  神野が動いたという事実……そこには必ず意味があるのだ。とびきりろくでもない、口にするのもおぞましい何かが。 「……今ここに来たのも、そういうことなの?  甘粕の命令ってことかしら。おまえがこうして動いてるのは──  答えろ神野オオォッ!」  まるで熱風さながら、裂帛の気魄を乗せた大音声を眼前の神野に叩き付ける。  しかしこの悪魔にはそれも涼風、まるで囁き程度にしか届いていないのだろう。神野は笑みを深めて飄々と、嘘か真か分かりはしない答えを返す。 「──急にお利口振る、そんな君の姿もいいねえ。 僕の主は関係ないよ、ここに訪れたのはあくまで僕の意志……すなわち愛ゆえに、だ。 君をこの手でどうこうするのに、なぜ誰かの意志を伺う必要があるというんだい水希?」  にちゃりと水音の聞こえるような醜悪な笑みに寒気が走る。  そこから窺うことができるのは、執着、妄執。  そしてどこまでも狂った愛情。  誰かを想うということ……耳障りの良いその行為、一皮剥いてしまえば何と内実は醜悪であることだろう。  神野は言った。己の主は甘粕だが、ここに単身来たのは自分の意志だと。  この男に何がそうさせる? 取るに足らない、醜い私を── 「とはいえ、君はまだ気付いてすらいないのか。急ぐことはないと言っても些か遅いねぇ」 「至れないものなのかなぁ、自分自身でさ」  ごく珍しい事ではあるが──その言葉からは、私に向けられた多少の落胆が感じられたような気がした。  どういうことだ? しかし、その問いを口にすることは叶わず闇に溶ける。 「ッ、……!」  目の前に突如として現れた光景に、私は思わず息を飲んだ。  神野の胴体、黒衣の隙間から湧いてきたのは無数の蟲たち……蛆が、羽虫が、蛭が、無限の数をもってうぞりうぞりと周囲を這い回る。  喚起されるのは生理的な嫌悪だ。もはや波のように増えた蟲どもは一瞬で足の踏み場もないほどに広がり、さらに爆発的に増加して周囲をすべて埋め尽くす。 「や、ッ──」  やがてそれは私をも容易く呑み込んだ。広がる闇が蠢く蟲へと成り代わり、指の先までそのぬめぬめとした身体で纏わり付いてくる。  今や足の先から頭の天辺まで私は埋め尽くされていた。呼吸もできず、歩くことすらままならない。敷き詰められた蟲どもで、すでに神野のところまでも埋まっていく有り様。 「勇気を出すんだ、水希ィィ」 「さもなくば、〈楽園〉《ぱらいぞ》には辿り着けないよ?」  身体中に蟲という蟲が侵入してくる。  耳、鼻、口、そして穴という穴すべてに──  急速に意識が薄れていく。五感は何もかも蓋をされ、もはや神野の声すらも微かにしか聞こえない。 「蟲塗れの哀れな姿が、今の君にはお似合いか」  まあ、それはそれで扇情的で堪らないとこの悪魔は嗤いながら── 「水希、水希水希水希──ああ愛しい僕の水希。  立ち上がれ。戦うんだよ、あのときのように」  蠢く蟲に全身を蹂躙され尽くして、もう何も分からない。  そして── 「ここまでかねぇ、今回のきみの到達点は」  そんな神野の言葉を最後に聞いて、私の〈意識〉《キオク》は蟲の地獄に沈んだのだった。 ゆめゆめ普段通りに臨んではならない── 壇狩摩と相対する際に守らなければならない心構えとは、おそらくこの一点に集約されるだろう。 神祇省の首領である盲打ちの抱いた〈邯鄲〉《ユメ》……それは俺たちの常識で測れない理が敷かれたものであることに、もはや疑いの余地はない。 歩美から聞いた話になるが、第四層の戦真館で繰り広げられた戦いにもそれは顕著に顕れている。 百合香さんに幽雫さん、神野、そして柊聖十郎── 加えて、圧倒的な暴威をもってあのキーラをも呑み込んだ百鬼空亡を向こうに回しながらも、苦戦はおろか一人勝ちを収めたというその能力は、これまでの〈論理〉《ロジック》が通用しないものであることの証だろう。 まともに戦えば封じられ、相対したすべての者がやり込められているという現実こそが、これから雌雄を決さんとする狩摩の厄介さを端的に示していた。 奴が常々嘯いている、己の裏を取るのは不可能という言葉……未だ全容のしれない能力の根幹がそこには間違いなく存在しているだろう。 正体の判然としない搦め手ほど厄介なものがないのは論を待たない。実際、それによって他の勢力たちは退却に追い込まれているのだからなおさらだ。 対してこちらが掴んだものといえば、ようやくその尻尾が見えてきた程度に過ぎない攻略の糸口のみ。 これで相手の本拠地に乗り込むのだから、相当な不利を覚悟した上での警戒体勢を敷いておくべきだろう。 どの戦場でも同じことだが、罠というものは相手に見えていない状況でこそ効果は絶大のものとなる。ゆえに十重二十重のブラフをもって狩摩はその正体をこちらに悟られないように隠してくるはず。 力押しで来られるよりも遙かに厄介……その自覚は俺を始めとして全員が持っている。そうそう遅れは取れない理由があるから。 仲間のため。そして己のため。 各々が戦う理由を胸に抱き、そして── 鎌倉大仏像を収めている高徳院……その山門へと到着するなり、これまでの夢とは明らかに異なる亜空間が俺たちの前に展開されていた。 ゆらゆらとどこか固定されておらず、如何様にでも変容していきそうな安定性のない気の流れ。まるでただ立っているだけでも酔ってしまいそうだ。 地理としてはあくまでも大正時代のこの場所を踏襲している。入口である仁王門の構えも見知っているものそのままであり、山号「大異山」を記す扁額も変わらず掲げられている。 足を踏み入れたとしても、内部地理は現実の世界に即したものなのだろうか。ベースである土地そのものが変化ないのであれば、些かでも把握はしやすくなるだろう。 「ひえー、しっかしこりゃまた凄ぇな……」 「ラスボスのダンジョンに足を踏み入れちまった感じがプンプンしやがるぜ、なぁ?」 「んー。まあ、言いたいことは分かるけど」 「大杉、ゲームをやらない人間にも理解できるように言いなさいよね」 「超やべぇ、って感じ?」 「簡潔だな。最初からそれでいいと思うぞ」 そんな遣り取りを交わしながら目の前を見渡してみれば、地面からあたかも壁のような隆起が行く先々に突き上がっている。 迷路のようにも見えるその光景を前に、俺は即時に決断を下す。 「ずいぶんと物々しいが、ここで迷っている猶予はないな」 鳴滝たちの負った予断を許さない深手の具合を思えば、可及的速やかに戦真館に戻らなければならないことは間違いない。無論、老化現象を引き起こしている原因を徹底的に叩いた上で。 そのためには、突破前進あるのみだ。躊躇して足を止めれば、それだけあいつらの命は目減りしていくことになる。 「っておい、これいきなり迷わせにかかってやがんな……」 栄光の言葉に見てみればなるほど、門を潜った途端に道が縦横無尽に分岐している。終わらない十字路が連続する牢屋のようだ。 幸いここからでも見通しは悪くなく、どう進んでも先が見えなくなることはなさそうではあるが…… 罠や分断工作と、考えられるリスクはいくらでもある。対してこちらの側と言えば、未だこの異空間の正体を検討つけかねていて── 「どう進むかっていうのも大事だけど、このダンジョンみたいな場所での立ち回りを決めといた方がいいと思う」 「先を進むだけなら、なんとでもなりそうだけど……」 やはり問題は眼前の迷宮における不透明性。仕組まれた罠はここで見ているだけじゃ看破することもできず、結果として足を踏み入れなくては実際のところ何も掴めないだろう。 皆が歩を止め、停滞の空気が一瞬漂う中で俺は考えていたことを口にした。 「我堂、一つ訊きたいことがある」 「俺たちが最初に夢の中で狩摩と戦ったとき──あいつは自らの能力について、〈条〉《、》〈件〉《、》〈に〉《、》〈嵌〉《、》〈め〉《、》〈る〉《、》〈必〉《、》〈要〉《、》〈が〉《、》〈あ〉《、》〈る〉《、》とか言ってたんだよな?」 「ええ、そうよ。複数を纏めて嵌めるのは難しい、ともね」 堂々と口外してしまう辺りが壇狩摩という男なのか。これは神祇省攻略のためにかなり重要なヒントとなり得る情報で、敵側に知られてしまうなどまったくもって論外のはず。 全勢力の雌雄が決するまで胸の内で隠し通すべきであるのは火を見るよりも明らかだが、どうにも頓着している様子がない。 ただ自分が楽しめればいいとでも言い出すつもりなのかあいつは。こうしてその言葉の一つ一つを検討して感じるが、奴は芯からの快楽主義だ。 勝利のための図面など引かない、好き放題に振る舞いながらも必ず最後には帳尻を合わせてくるその手管…… 無論偶然などではなくそれこそがあの男の特質であり、ならば不確定要素も勘案した上でこちらは策を練るまでだ。 まだ推測の域を出ないが……俺は仲間たちに向いて言う。 「これは普通に進んでいたら絡め取られる、おそらくはそういう仕組みなんだ」 「誘引されているんだよ」 無論引き込んでいるのはあいつの手管で、それは間違いない。 送ってきたご丁寧なメッセージ。内容をそのまま受け取るかどうかはあくまでこちらの裁量だが…… 「まあ、柊の言う通りでしょうね。これだけ物々しく仕掛けておいて、何もないんじゃ話が通らない」 「あちらも私たちを、ここでしっかり絡め取るつもりでしょう」 「で、オレらが警戒するポイントっつうのは……」 「神祇省の仕掛けた罠を看破し、踏まないように進んで行くのが重要だ」 そこまで言って思い当たるのは、これまでにおける狩摩の言動。そしてこの場との符合性。 いま俺たちがいる高徳院は、どこか均等な升目でスペースを区分けされているようにも窺える。 歩美からの報告で、空に碁か将棋の盤面を模した光芒が走ったというのがあったことを思い出した。 それによって本来の力を極端に抑えられた神野や聖十郎。 加えて待ち受けているのは鬼面衆との集団戦であり、これらの状況証拠より導き出される推測は一つしかない。 「見え見えのものに例えるのも気が進まないが、これは将棋だ」 「少し上からの視点だと、この空間全体が区切られた盤面のように見えないか?」 「ここを進んでいく俺たちというのは、まるで将棋そのものの絵になるだろう。足を踏み入れた人間を駒に見立てればしっくりとくるはずだ」 「はっ、趣味悪いな。あんなナリして棋士気取りかよ」 「そうだな。こっちにも、対局の相手であることを求めるているんだろうさ」 こうして口にしてみれば、それはまるでお遊びだ。しかし狩摩は他愛もない享楽をこそ欲し、耽溺している。 理解し難いものではあるが、そう筋が一応にでも通ってしまうと妙に得心するのも事実だった。 大きな夢は、それだけ他者の力をも要する。 他勢力との乱戦をなんなく御してしまった能力ならば、仮にそうであっても不思議はない。 事実、現状俺たちはまったくの自由。奴の空間に身を置いているにはいるが、こうして動けるし制約を課されている様子はないのだ。 すなわち── 「おそらく、ここでの進み方で各人にどのような駒の役目を振るかというのを決めるんじゃないか」 「要するに、適正テストのようなものだな」 「チュートリアルとも言えるね」 「え、でもそれってさ、もしわたしがこのまままっすぐ進んだら歩になるってこと?」 「端的に言えば、そういうことになる。無論細かいところでいろいろな条件付けはあるんだろうけどな」 自分で口にしながらその論は荒唐無稽であり、こうして命のやり取りをする真剣勝負にまったく似つかわしくない。 だがしかし、振り返ってみればそうだろう。 狩摩の一歩引いた戦場での立ち位置は指し手として見れば理解できるし、配下の鬼面衆は命ぜられた通りを忠実に遂行するための駒でしかない。 最初の戦いでも第四層でも、狩摩が仕掛けたのは集団戦、武威を競う類でなければ一方的な蹂躙でもない。徹底して複数対複数だ。 仲間たちも感覚としてそれを分かっているのだろう、互いに頷いて確認し合う。 「っていうことは、私たちは……」 「ああ、この場はランダムに動いてみよう」 「直進なら歩や香車になる。そう仮定して、なるべく複数の属性を獲得しておこう」 「幸い今は敵の姿も見えないしね。うん、やっぱりゲームのチュートリアルっぽいんだよなぁ」 歩美は小声でそう反芻している。表現こそ違えど、こいつも感じているのは俺と同じものなのだろう。 「じゃあ、直進するっつうのは捨てるのか?」 「香車とか、けっこう役立つ気もするぜ。いや、ルールとかよく知らねえけどよ」 「もちろんそれらが効率的な局面もあるだろうが、ここでは極力裏をかくように動いていこう」 むしろ、将棋の駒としては有り得ないほど不規則な挙動を心がけるべきだろう。そうしていれば、対局という条件そのものを崩せるかもしれない。 それで狩摩のもとまで辿り着くのが最上だが、そこまで甘くなかった場合でも次善策として機能する。俺は皆にそう言ったあとで、方針を纏めた。 「なるべく可能な限り、強い駒になれるように」 頷く仲間たち。ここを一度進んだならば、もう後戻りの道はない── 俺は腹に力を込めて声を張る。 「行くぞッ!」 「よっしゃあっ!」 応える互いの声に背中を押されながら、闇の奧へと俺たちは駆け出すのだった。  そこから、僅か離れた空間──  畏れ多くも大仏像の掌の上で、隠すつもりのない稚気を醸す者がある。 「おうおう、連中なんぞ言いよるで。 将棋。嵌める。そこまではようやく気付きよったか。雛が口だけは達者よのォ、はっ」  宙空を見据えるのは、壇狩摩と三つの鬼面。  盲打ちの空間支配によって、四四八たちの姿は彼らにすべて筒抜けている。迷路をさ迷うその姿も。  それなりの見解を導き出し、こちらに向かってくる若き学徒たち。その様子は如何にも青く未熟で、狩摩の笑みは自然と深まっていく。  煙管を燻らせながらゆるゆると語った先の口調からは、有り体に言えば余裕が窺えた。  ああ、いい線を行っている。  試験であれば合格点を出してやってもいいだろう。  だがまだ肝心なところを引き出せていない。それがゆえの失笑を漏らした。 「ふン、まあそれなりに勘は働くようじゃのォ。ええで、小賢しい。 〈こ〉《、》〈っ〉《、》〈ち〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈バ〉《、》〈ラ〉《、》〈撒〉《、》〈い〉《、》〈ち〉《、》〈ゃ〉《、》〈り〉《、》〈よ〉《、》〈ん〉《、》〈じ〉《、》〈ゃ〉《、》〈け〉《、》〈え〉《、》、このくらい気張りやせんとハァ面白ぅないゆうもんよ」  そう、四四八たちの得ている材料とは基本的に狩摩が自らリークしたもの。情報が知れるのは神祇省にとって仇にもなろうが、そんなことには一切興味がない。なぜなら問題がないからだ。  負ける奴が慎重になるのは然り、しかし自分は常に勝つのだから何も心配などいらないだろう。  そして実際、柊四四八に至ってはもっとも安易に嵌り落ちそうな気配を漂わせている。経験則の判断ゆえに、狩摩から余裕が消えることはなかった。  言うなればすべては掌の上であり、彼らの奮闘など猿回しを見ている気分に等しい。  狩摩はそもそも勝負を張っているつもりなどなく、ただ博奕に興じているだけだ。  快楽のためならば窮地を潜ることをも厭わない。  狩摩がマゾヒストでないのは最後には必ず帳尻を合わせるからで、勝てる鉄火場であるという確信こそがその精神の高揚を呼んでいる。  負ける目に賭けるのは破滅者のすることであり、生憎とこの男の趣味はそこにない。ゆえに今も戦真館の小童を高みより睥睨する。 「それにしても、こいつは中々筋がええで。  頭も回りゃァ肝も据わっとる。ははっ、大したもんよォ」  そう口にして見遣るのは四四八の姿。  知性に溢れていながら闘志もある。勝負度胸も一度まみえたときに見た限りでは申し分なかったし、ここまでの判断としては合格点と言えるだろう。  戦士として、指揮官として、優秀なのは間違いない。きっと近い将来に花咲く成長を見せる素材だ。  盧生の器であるこの学生に、どいつもこいつも群がっている。まるで角砂糖に集まる蟻のように。  それを見ながら狩摩は低く嗤う。  そんなものはどうだっていい、早く血湧き肉躍る遊びをしよう。  誰も手を出すなよ。〈六層〉《ここ》は俺の庭で、踏み込んできた者は俺の獲物だ。邯鄲の戦乱という状況を生んだ発端さえ、正味狩摩にはどうでもいい。  ただ楽しみたいのだ。ゆえに我が一手は如何なるときも盤面不敗。釈迦の掌を出られぬ猿のように、壇狩摩の裏は誰にも取れない。 「ほんま予想通り言うか、頭のええ奴ほど嵌るところまで同じかいの。  べんぼうも、逆十字も……  抜けれんか、おまえも。やはり所詮は親子よのォ」  四四八の選択を前に、そう狩摩は捕食者の相を浮かべる。  まるで蟻地獄へと落ちて来た昆虫を、舌なめずりして待つように。 「つまりは見え見え言うやつよ。喰らってやるわ、骨も残さず」 俺たちは一丸となって迷宮めいた亜空間を進んでいく。 これまでに様々な分岐が現れた。しかしいずれも可能な限り広範囲に動きを取って、キナ臭い二択も手間を厭わずにどちらのルートも確認する。 今に至るまでの道程はおそらくのところ、勝負のためのイントロダクション。こうして道を彷徨う俺たちの前に敵が一人も出てこないのが何よりの証左だろう。 一網打尽にするならこの状況こそ好機であり、わざわざそれを逃す必然性などない。後にいたぶるつもりとも取れるが、あの男の趣味は違うだろう。 愉しみたい、喰らい尽くしたいのだあいつは。だとすれば、ここまで七面倒臭いお膳立てをしておいて、今さら引っくり返すとも考え難い。 壇狩摩ならばこそ、そこに走るとも言えるのだろうが、これはまず違うと思った。先に話し合った条件云々、決められた筋道を今の奴は重んじている。 急襲を掛けないということは、待ちを選択するだけの理由があるから……俺はそうこの場の状況を定義付けた。 全身を走査されているような不快感が付きまとう──ああ、どこかで俺たちのことを見ているんだろう? 狩摩の空間操作能力は半端な域ではない。それはこれまでの僅かな邂逅や伝聞からも、嫌というほど思い知っている。 どこかに〈仕〉《、》〈込〉《、》〈み〉《、》があるのだろうという思いを強めながら行軍する。仲間たちの緊張もどうやら途切れることなく、ここまで付いてきてくれている。 進路を右に左に取りながら、その中で俺は皆に告げた。戦真館の寮で今も待ってくれている三人の顔を思い浮かべながら。 「──怪士は、俺にやらせてくれないか」 「四四八くん……」 強い調子で言い切る俺を、歩美はどうやら心配しているのだろう。 確かに怪士は鳴滝たち三人を単身屠った仇であり、相当な実力者であることは間違いないと断じられる。 ゆえにこちらが一人で挑むのは無謀、それこそ普段のように連携を取るべきなんだろう。頭では分かっている。 だがな、ここは勝負を掛けるしかないんだよ。 おそらく怪士は鬼面衆唯一の近接型。懐に入ってからの拳打が真骨頂だと以前に相見えたときから確信している。 であればおいそれと距離を稼がせてくれると思えないし、そこを考えると俺以外の面子はいささかどころじゃなく相性が悪い。 栄光もそうだし、歩美は遠距離からの援護こそが持ち味だ。我堂にはなるべく脚を使わせたい。止まって撃ち合えば非力が響くことになるだろうから。 ゆえに俺しかいないのだ。そしてこれは仇討ちでもあり、胸の奥で燃える心を抑えられない。 晶。世良。そして鳴滝。あいつらの仇というのはこれ以上ない単純な動機だ。ああ、腹が立っているんだよ。 「なら、私が相手をするのは夜叉ね」 「能力の特質も一番噛み合ってる気がするし……それに、ちょっとあいつには言いたいことがあるのよ」 そう呟くように言って、何かを考えている我堂。 能力特性はこいつの分析する通りで、相性は悪くないと思われる。むしろ連携なしの速度勝負に置かれたときに、身一つでついていけるのは我堂しかいないだろう。 こいつなりに、何か夜叉に思うところがあるのだろうか。そう推測するものの野暮は言うまい。それが理に適っていると思える限り、志願の激突を止める理由などありはしない。 我堂なりの考えは、ここで言う必要があればすでに言っているだろう。あえてそうしないと言うのなら、俺はそこに秘めたこいつの気持ちを、ただ信じてやればいい。 そして、次に決意を表するのは栄光だった。 「助かったぜ、タイマン張りたい奴が被んなくってよ」 「オレは泥眼だ。これだけは絶対譲れねえ──やったるぜ、絶対に」 「頼む、おまえら、手だけは出さないでくれよ。そりゃオレは強くもねえし、無謀なことを言ってるっていうのは分かってるつもりだよ」 「だけど、今回だけは信用してくれ。絶対に勝ってみせるから」 絞り出すように口にする栄光。その光景にはどこか既視感があり── 第四層での最後の夜、おまえはそんな顔をしていたよな。 戦場とは罪作りだと俺は思う。こうして互いに生き残るごと、新たな因縁がその都度生まれていくのだから。 炎と怒号の中で生まれたそれは、血で贖うしかないのだろうか。どちらかの死を差し出すことでしか終わらないのか。 ともあれ、泥眼は栄光に任せよう。あの予測不可能である動きは厄介だが、こいつも一端の戦士なんだ。因縁があるならぶちかましてやるべきだし、キャンセルに特化した者同士という対戦に異を挟む余地はない。 そして…… 「わたしは壇狩摩ね」 短い宣誓に皆の視線が集まった。相手が神祇省の総大将である以上、それは当然のことで、どうにか全員で掛かる方策を練るのが常道というものだろう。 しかし歩美は気にした風もなく、ガッツポーズを作って言う。 「だってそうなるでしょ、今の話の流れなら」 「まあ、望むところなんだけどね。栄光くんじゃないけど、わたしもあいつだけは譲るつもりなんてなかったから」 「で、でもよ……」 「さっき、みんな自然と相性の問題を出してたでしょ? それで言うと、このマッチングしかないんだよ」 夜叉と我堂。泥眼と栄光。怪士と俺。そして、狩摩には歩美── 確かにその一面はある。まるで狙っているかのように、一対一が上手く当て嵌ってしまうんだ。 それに俺は、以前から歩美が決意を固めていたことを知っている。ならばできることと言えば、こいつの勝負に邪魔が入らないよう精一杯のフォローを行うことくらいだろう。 それでもまだ不安そうな表情を浮かべる栄光に、歩美はぴっと人差し指を立てて言った。 「それにね、あの男は確かにラスボスかもしれないけど、単純な戦闘能力ではそんなでもないとわたしは思ってるの」 「狩摩がやりたがってるのは、あくまでも裏のかき合い。つまりはそれってゲームなわけで、だったら勝負するのはわたししかいないでしょ?」 「なるほど……おまえにそう言われると、なんか妙な説得力があるわ」 「心配してくれてありがとね、栄光くん。でも安心して」 「勝つために、わたしは狩摩とやるんだよ。玉砕したいわけでも、みんなの犠牲になるつもりも全然ないし」 「もし手こずったら、そのときは助けてってちゃんと言うから……ね?」 凛とした面持ちで、そう眼差しを上げる歩美。 こいつには、物心つく前から囚われていた業がある。ついこの間までそれに抗いようもなく囚われていたというのは否定しがたい事実だ。 しかし、今は違う。自らの手で決着をつけようとしているんだ。そう、仲間たちのために。 ゆえに俺は歩美と笑みを交わす。ともに超えていこう。運命を、そして自分を。 「歩美の言う通りだな」 「俺は、ここにいる皆を信じている。敵の誰と一対一になったって、おまえたちならきっとやれるさ」 「分かった。でも、危なくなったらすぐに言えよな。速攻駆け付けてやっからよ」 ああ、頼りになる仲間たちだよ、本当に。 そう。戦っているのは俺だけでも、歩美だけでもないんだ。こいつらだって皆燃えている。それぞれの戦う理由を抱いて。 状況はもはや問答無用で、いよいよ勝負のときは迫ってくる。俺は踏み込む足を加速させて── 「いいか、可及的速やかに突破するぞッ!」 短く叫ぶ。余計な事は頭から追い出し、もはや迷いなく俺たちはこの回廊を進んでいった。  柊四四八の選択を眺め、壇狩摩は笑みを深くする。  それは今までのものとは違う、状況が何かに至ったサインで──つまり、場が整ったということに他ならない。 「そう、これは将棋よ。 おまえらの言うその通りよ。そして、ゆえに──」  〈一〉《、》〈人〉《、》〈で〉《、》〈は〉《、》〈指〉《、》〈せ〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》。  必ず対局相手が必要とされることこそが、狩摩の世界における第一の特質であった。  四四八らの推測は当たっていた。まず対局の手順を踏まえ、その上で双方の同意が必要となる。  限定的で偏屈な能力、だがそれゆえに内包した出力は桁違いに高い。  回りくどく迂遠な夢は、単純で堂々とした戦闘行為を狩摩が嘲っている証だろう。そのうえで、彼ら戦士という人種を〈こ〉《、》〈ち〉《、》〈ら〉《、》〈側〉《、》〈の〉《、》〈世〉《、》〈界〉《、》に引きずり込む。  四四八の聡明さは充分に認めた上で。ただ、〈そ〉《、》〈れ〉《、》〈が〉《、》〈ゆ〉《、》〈え〉《、》〈に〉《、》〈陥〉《、》〈る〉《、》ということだ。  理解ができなければ罠に嵌ることすらなく、つまり逆説的にはなるが見込んだがゆえの展開である。  たとえれば百鬼空亡、それにキーラ・グルジェワなら嵌らない。奴らはこれが将棋であるなどと理解できないし、盤を持ち出してもそんなものは知らんと殴りかかる輩だからだ。  対して他の賢しき者なら、覿面に〈掛〉《、》〈か〉《、》〈る〉《、》。それは取りも直さず利口がゆえに。  対局であるという解に至った時点で、もう脱出不可能なのだ。それを避けるために迷宮内でどのような挙動を採ろうが、意識している時点で嵌っている。  なぜなら、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈に〉《 、》〈相〉《 、》〈応〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈盤〉《 、》〈が〉《 、》〈流〉《 、》〈動〉《 、》〈的〉《 、》〈に〉《 、》〈生〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈だ〉《 、》。  たとえ迷宮の壁をぶち破って進もうが仲間同士で殺し合いを始めようが、そういうルールの〈創界〉《ゲーム》になるだけ。狩摩の夢は将棋だけに非ず、協力強制で紡ぐ以上、本人にさえ分からない千変万化を起こすのだ。  四四八らがこの高徳院に足を踏み入れる以前から狩摩の条件付けは始まっている。尻尾を見せてそれを追わせ、直接勝負よりも読み合いや謎の解明に意識を向かせる。  そうして思考の回廊に陥ってくれるほど効果を生む遊びじみたユメ……そう、これはあくまでも悪趣味な遊戯に他ならず。  人の命を駒に模した対局であるということ。合意はその一点へと集約する。  馬鹿馬鹿しい? ふざけるな? いいや、ならば逆に問おう。  何も賭けることのない〈勝負〉《バクチ》など、おまえは熱くなれるのかと。  そんなものはくだらない。人生の無駄と言ってもいい。漫然と流れるだけの時間であり唾棄すべき怠慢だ。  今、遠くから複数の足音が聞こえてくる。  静寂の時間はここまでだ。狩摩は身を起こし、佇む鬼面に語り掛けた。 「ようやっと退屈も終わりよォ。   ええか、準備は。まァおまえらにゃ、些か物足りないかも知れんがの」  我らが盧生とその眷属よ、さあ戦の真を見せてみろ。本当におまえたちがあの男に対抗できるというのなら、ここに証を立てるがいい。  できないのなら、用は無し。この六層にて果てるのみよ。 「滅したれい」  黙して語らない鬼面衆の、各々の思いが闇に溶ける。  間もなく幕を開ける勝負に思いを馳せて……  さあ、対局を開始しよう。  隠すことなく稚気を晒したまま、狩摩は張り付いた笑みを深めるのだった。 幾多の入り組んだ迷路、そして分岐路を駆け抜けて俺たちが辿り着いたのは、巨大な大仏像の前だった。 この亜空間は現実世界の高徳院を下敷きに展開されているものであり、ならばこうして境内の最奧に仏の像が待ち受けているのも不思議はない。 だが邯鄲の理によって歪曲した地で見上げるそれは、荘厳なだけでなくどこか禍々しさすらも醸し出しているように感じられた。 物言わぬ大仏に俺たちが圧倒されるように息を飲んでいると、そのとき。 「く、ハハハハハハッ!」 声が響き、同時に空の色が変わる。光芒が奔り、漆黒の闇が分割されていく。 まるでこれから、おまえたちは更なる異相の深みに嵌り込むのだと言うかのように── 「な、にィッ……?」 大音声は轟々とした鬼の笑い声を伴って収束し、壇狩摩の姿が大仏像の掌上へと現れた。 背後に佇む鬼の面は三つ。夜叉、泥眼、そして怪士を伴っている。いずれも無言の圧を放ちつつ、俺たちと向かい合う。 呵々と嗤いながら、狩摩は眼下の俺たちへと告げた。 「さぁさ、やろうで砂利どもォ。愉しい愉しい勝負の始まりじゃ」 「ここまで来とんなら、それなりの覚悟いうのはできちょるんじゃろうのォ!」 その歪んだ笑みはまるで地獄の博徒さながら、水を求める砂漠の旅人であるかのように、狩摩は遊びに飢えている。妄執とも言い換えられるそれは、もはや数刻後に訪れる対局の熱しか見えておらず。 「〈三国相伝陰陽轄簠簋内伝〉《さんごくそうでんいんようかんかつほきないでん》――」 そして──神祇の盲打ちは恐れを知らぬ所作で大仏の掌を一つ、その踏み込んだ足で叩いた。 「急段・顕象──」 「〈軍法持用〉《ぐんほうじよう》・〈金烏玉兎釈迦ノ掌〉《きんうぎょくとしゃかまんだら》」 何かの解号を告げる文言と同時に、〈周〉《、》〈囲〉《、》〈一〉《、》〈帯〉《、》〈を〉《、》〈己〉《、》〈の〉《、》〈術〉《、》〈式〉《、》〈へ〉《、》〈と〉《、》〈堕〉《、》〈と〉《、》〈し〉《、》〈込〉《、》〈ん〉《、》〈だ〉《、》。 俺は身構えながら思う……この全身を襲う違和感には、間違いなく覚えがあった。それは、初めて邯鄲の夢に入ったときと同じ。 既存の世界法則、その上から新たな理ですべてを塗り潰してしまうあの切り替わりの感覚だった。 現実の〈法則〉《ルール》が夢の中では意味を成さないのと同様に、今この場はもはや壇狩摩の掟に隅まで支配されているのが理解できた。 そしてこれは案の定と言うべきだろうか、己の身体がまるで何かの枷を嵌められたかの如き不自由さを覚えている。 そう……自分自身が盤上の駒になってしまったかのように。 見渡す限り永久の闇を思わせる亜空間、ここより元の世界に帰還するには勝利こそが唯一の条件で、絶対の不利など分かっているがそれでも腹を括るしかない。 そして…… 「──歩美?」 今の今まで隣にいた歩美の姿が見えなかった。まるで神隠しに遭ってしまったかのように忽然と掻き消えている。 いいや、真の異常はそれよりさらにでかいもの。この大仏殿から大仏の姿が消えているのだ。 それでいて、遥か天空から神仏のごとき視線を受けているような違和感。 まるで釈迦の掌に落ちた孫悟空。宇宙にも匹敵する広大な〈盤面〉《フィールド》で猿よ踊れと、抜け出してみろと告げるように。 歩美、いったいどこへいった? 嚇怒の視線を前へと向ける──広がる空間に、気付けば壇狩摩の姿も見えない。あいつが歩美を連れ去ったのか? 頭を冷やせ……そう自分に言い聞かせる。ここで思考を手放せば負の連鎖に嵌るだけ。判断力を失った状態で臨んで勝てるほど、鬼面の暗殺者たちは甘くない。 歩美は狩摩との因縁を語っていた。その言葉通りに事態が動いているとするなら、これは単に眼前から消されたということではない。ここではない何処かへとあの二人が場所を移したという仮定が成り立つ。 つまりは一対一。盲打ちの対局相手として、歩美が選ばれたということ。 向こうに構える鬼面衆はこの局面にも変わらず不動であり、その態は万事が計画通りに進んでいるということを語っていた。主が姿を消すところまでは織り込み済みというわけか。 我堂、そして栄光も現在置かれた状況を悟る。この場に足を踏み入れたときから俺たちは敵の掌中にあるようなもので、そうなったからにはこの状況でやるしかない。 そう──すべての事態を踏まえて勝利を掴むしかないのだから。 ここで今より展開されるのは、やはり将棋で間違いないだろう。光芒が周囲を取り囲む亜空間は、明らかに盤面を模している。 ただ、気になるのはそのマス目の多さ。通常の将棋盤であればその縦横は九×九に区切られているが、眼前に展開されている空間は明らかにそれの倍近くはあろうかという分割が為されている。 ざっと見たところ一五×一五……俺も話としてしか聞いたことがないが、これはおそらく大将棋というものか。 そのあまりに大きく複雑な規模から、実際に指されていたかすらも疑いが持たれていたという、曰く付きの盤上遊戯だ。後に確かな普及を見せていたことが明らかになり、一部では鎌倉大将棋という名称が提案されているらしい。 この命を懸けた戦場でそんなものを目にすることになろうとは、やはりあの男の趣味は皆目読めない。……いや、あるいは、俺たちの行動が狩摩と協力して大将棋の盤を創りだしたということなのか。 「まんまとしてやられたってことかよ……」 「慌てるなみんな。ここまではこっちも織り込み済み、予想通りだ」 少なからぬ動揺の走っている栄光に俺は告げる。 対局そのものを崩すという最上は得られなかったが、次善策が機能したのは確かなはずだ。今の俺たちは、ある意味で本来の力量より強くなっている。 それを確かめるように、我堂は自分の手を開閉してこの空間での具合を確かめているようだった。 「……驚いた、本当に将棋なのかしらこれって」 「うまく言えないけど、身体の一部が動かないっていうか……とにかくなんだか変な気分よ」 未だ全容は見えないこの空間の仕組み。自分の身体が動かないのみならず、まるで何か別の身体器官が増えたかのような感覚があるのだ。 つまり、ただ単にハンディキャップを負っているだけでなく、これまでにはなかったアドバンテージも同時に付与されている。この展開を想定し、様々な挙動を採りながら進んできたのは無駄じゃない。 だから、既に覚悟は決まっている。今さらこの程度で揺らぐほど俺たちは柔じゃない。 「まあいいわ。私には私のやるべきことがあるし、そっちの方に集中させてもらうわね」 「指揮は預けるわよ、歩美」 ゆえに、今姿のない仲間に向けて我堂はそう呟いた。呼吸を整えて己の力を引き出すことに集中する。その姿はまるで武道の熟達者を思わせる。 「そうだぜ歩美、おまえに任せた」 「あいつの脳天に一発、きついのカマしてやれよな。いつもやってるみたいによ」 ここから先は、〈狩〉《、》〈摩〉《、》〈と〉《、》〈歩〉《、》〈美〉《、》〈の〉《、》〈対〉《、》〈局〉《、》〈だ〉《、》。そう現状を認識する。 豪放磊落にして奔放不羈こそ狩摩の形で、どんな手だろうと使ってくるはず。決して正攻法だけじゃない。だからこそ── 「頼んだぞ」 狩摩の無軌道にある程度の耐性があり、看破できる可能性を秘めているのは俺たちの中でく歩美だけだ。ああ、ゲームでおまえに勝てる奴なんかいない。ぶちかましてやれ。 いかなるときでも冷静であれるという己の特質に、以前は苦しんでいただろう。だが今はもう違う。 すべてを乗り越えた歩美は、きっと誰よりも強く在れるに違いないから── 「こっちは打ち合わせた通りにいくぞ。まず、夜叉を抑えるのは我堂」 「ええ。仮面の奧のあいつに、たっぷりと諭してあげる」 「あの子のいる場所がどこかってのを教えてあげるわ」 我堂は創形した薙刀を構え、その表情を引き締める。 どうやら夜叉と個人的な関わりがあるような口振りだが、ここはこいつを信じよう。その目に宿った意志の光が、何事にも挫けないと主張している。 「栄光は、泥眼だ。大丈夫か?」 「ああ、オーケーだ。こいつはオレの因縁で、誰にも譲れやしねえんだから」 俺の創法による風火輪を装着した栄光がそう呟く。いつになく多くを語らないが、それがゆえに固い決意というものが伝わってくる。 そして…… 「怪士は俺に任せろ」 「晶、世良、鳴滝……あいつらの仇は、この俺が果たさせてもらう」 両手に旋棍を顕現させて、怪士にそう言い放つ。どこか虚無を感じさせる鬼面の奧には、今も殺人者の眼がこちらを補足していることだろう。 よくもあいつらを。その思いが、俺の中にある力を通常以上に呼び覚ます。斃すぞ、必ず。迷いなどない。 俺たちは三様に体内の覇気を高め、そして…… 嵌められた──それが〈こ〉《、》〈こ〉《、》に飛ばされて、わたしがまず感じたことだった。 なんの抵抗も許すことなく連れて来られてしまった。感心するのも馬鹿馬鹿しいくらいの空間操作能力だ。 目的はあのときの約束を果たすためか、それとも何も考えていないのか……ともあれ、壇狩摩直々のご指名なのは間違いない。 警戒し、身体を強張らせるわたしを挑発するかのように、狩摩は手を打って乾いた音を立て、ことさらにその声を張る。 「いや、おまえらが嵌らんように、嵌まらんようにいうて動いちょるのが俺はもう可笑しゅうてのォ」 「とっくに嵌っちょるのも知らんとよ。くハッ」 眼前の男が有する〈能力〉《ユメ》は、如何な実力者であろうとも一人で出来る所業の域を超えている。 だからこそ下準備が必要であり、そしてそれは…… 「おう、おまえ。そこの小さい女」 「ここまで来たァいうのは褒めちゃるわ。あんときの面じゃと使い物にならんかったろうが、ちィとはマシになっちょる」 「──まあでも、つまりこういうことじゃろ?」 「覚悟できた。それで間違いないのォ」 戦真館での戦い……あのときのわたしは傍観しているだけだった。そして今は対局の俎上に登っている。みんなと隔絶させられた、この空間で。 目の前には神祇省の首領が余裕の笑みを浮かべながらこちらを見ている。だけどわたしは知っているのだ。戦うのはこの男とじゃなく、本当はきっと自分自身なんだって。 四四八くんと一緒に過ごしたあのときを、みんなで誓ったあの朝を、無駄になんか出来ないんだ。 わたしは誰にともなく小声で呟く。それは、まるで己を鼓舞するように── 「──さっさと済ませちゃうから。そして戻ろう、わたしたちの千信館に」 嵌ってしまった以上、もはや相手のルールでやるしかない。ここは例えるならば蟻地獄の底で、誘引されたことについて今さら四の五の言ったところで始まらないんだ。 ならば後悔しないよう、全力を。わたしは決意を胸に壇狩摩を見据える。 恐いけど、スコープの世界に隠れたりしない。もう逃げない。 見たところ、今から行われるのはどうやら大将棋。 王将、金銀などお馴染みの駒に加えて猛豹、猫刄、嗔猪に鳳凰、獅子、麒麟……わたしたちの住む世界では見慣れない無数の駒が盤上に整然と並んでいた。 これも一応はゲームの範疇であり、昔ちょっとだけ興味を持っていたこともあったからルールくらいは知っている。だけど、普通の人だったらまず何をしていいのかすらも分からないはず。 互いの命を賭ける勝負にこんなマイナーなもの……とは毒づけない。だってこれは、わたしたちも合意をしたものなのだろうから。 そういう面では、きっと狩摩にとっても一方的に有利なだけのルールじゃない。ある意味フェアと言ってもいいだろう。 盤を挟んだ狩摩は、無造作に頭を掻きながらゆらりとその身を起こした。 「おぅ、小さいの。わりゃァ答えは出よったんかいのォ」 わたしを覗き込むようにして、不敵に挑発を仕掛けている。いや、そんな意識などもなく、普通に語り掛けているだけだろうか。 余りに気負いというものがない。自分の裏は絶対に取れないといつかこの人は謳っていたが、疑うことのない勝利をなぜそうまで確信できるのだろう。 盲打ちの一手を、未だわたしは読むことができない── 「おまえ、この仕組みを知っちょって動いたんじゃなかろォの?」 「だとしたら少しゃ見直しちゃろう。立派な鬼よ、そりゃァ」 片頬を可笑しそうに歪めて、そう覗き込んでくる。 戦の前口上は長々とするものじゃなく、それはこの人も心得ていてそれ以上の文言が狩摩の口から紡がれることはない。 「先手はくれちゃるわい──来いや」 不敵な所作で手招きをする狩摩。つまりは己こそが格上という自信の表れで、やりもしない内からそう来られると正直言ってカチンと来る。 待ち受ける大勝負に、わたしは一つ深呼吸をして──駒を手に取り〈指〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》。 これまでに経験したことのない不思議な感覚に、天上の何者かから身体ごと持ち上げられたかのような印象を覚えた。 これが駒としての加速、一手を指すということか。突進体勢に入った俺は、旋棍を強く握り締めて── 「はああああああッ!」 裂帛の気魄とともに、先制の一歩を踏み出した。 対局と聞いてまず連想したのは静寂の空間であり、これより展開される戦闘も一種独特なものになると思っていた。 しかし実際はまったく違う。いくつもの情報が同時に処理され、流れるような攻防が連続して繰り返される高密度な局面なのだ。 通常の倍にも等しい速さ。それはおそらく、俺が歩美の指す一手通りに動いているからなのだろう──自分にはない発想であり、こんな動きを自らの意志で取ったことは初めてだ。 しかし強く自覚する。〈こ〉《、》〈れ〉《、》〈も〉《、》〈間〉《、》〈違〉《、》〈い〉《、》〈な〉《、》〈く〉《、》〈俺〉《、》〈の〉《、》〈意〉《、》〈志〉《、》〈な〉《、》〈の〉《、》〈だ〉《、》〈と〉《、》。 「行くぞォォッ!」 棍撃が怪士の胴体を捉え、間を置かずに襲い来るのは無数の剣刃。同時に後ろから我堂が迅雷の速度で俺のフォローへと入った。 「させないッ──」 目の前で薙刀と凶刃が火花を上げて激突し、加えて余した夜叉の攻撃を身体を捻って回避。その背後には栄光の風火輪が唸りを上げている。 ほぼ無拍子と表して差し支えのない同時挙動、流れの中での連携、そして攻防。手番を待ってからの対局だなどと、とんでもない。高速戦闘の極みが今、俺たちの眼前に展開されている。 無論こちらだけでなく、連中の攻撃もまったく途切れることはない。鬼面衆の仮借ない連携はまるで、意志を同じくした同一体の撃だった。 盤面の神たる歩美と狩摩が全体を動かしているため、互いの挙動が連続していくのは当たり前であるこの状況。 加えてただの傀儡などではなく、俺たちの思考も確かに身体へ乗っている。すなわちのところ、二人分の頭脳を乗せた別の生物になったかのような心持ちだ。 戦場の把握、加えて人間を三人も同時に動かすことには高等演算にも似た能力が求められるはずで、普通に考えれば幾らも経たないうちに疲労してしまうだろう。 よって歩美と狩摩、今は姿の見えない二人を支えているのは鋼の精神力であり、そこは両者とも相当なものであることが窺える。 僅かの間すらも与えられることはなく、死の匂いを濃密に纏った怪士の拳弾が雨の如くに襲い来る。 「──────」 「ッ、おおおおおおおッ!」 どれもが致命の剛撃を刹那の見切りで弾き飛ばす。鬼面に覆われた怪士の視線は窺えないが、嘆きにも似た妄執の念が伝わってくるかのようだ。 同時に、幾手か交したことで確信を得た──やはり今の俺たちには、宛がわれた駒の役割が直接的に作用している。 駒の死角からの攻撃はどうやら認識できないようで、先程から何度か冷汗をかかされている。要するに、仮に俺が銀将の型に嵌められていた場合、左右と背後にはまったく脆くなるということだ。 現状、事なきを得てはいるものの、意識しておく必要があるだろう。 同時に、そこを衝いていくのがこの盤上では重要な立ち回りとなる。たとえ俺たちの力量が未だ鬼面衆より劣っていても、奴らが対応する駒の死角を衝けば斃せる。そういう意味では非常にフェアだし、チャンスがあると思っていい。 アドバンテージも付与されているというのはそういうこと。 加えてどうやら、ここにきて俺は自分がどういう駒にされているのかが見えてきた。 俺が所持しているであろう特性は、おそらくのところ金将。先の迷路にも似た道程でフレキシブルな動きを意識していたためだろう、意表を衝くような攻撃には不向きなものの、弱点の少ない特性を得ることに成功している。 それはもしかしたら、俺の特質や精神性も考慮したうえでの配役かもしれない。普段とは似ても似つかない劇的な武器を手に出来たわけではないが、そのぶん慣れれば立ち回りに苦労することもなくなるだろう。 こちらとしては、己の行動範囲らしきものが把握できればそれで充分。 これは言うまでもない変則勝負。駒の立ち回りを頭に強く意識したままで即時の判断を求められる、相当に厄介な代物だ。 そして、このままただ受けているだけでは戦況が好転することなどなく── 片足を軸とした半円を描いて怪士の拳打を紙一重で躱し、俺を指している歩美と合わせて二人分の能力を旋棍に込めつつ繰り出した。 戟法の剛に解法の崩も加え、放つカウンターは当たれば爆ぜる必倒の打撃と化す。そして無論、能力同調の効果は単純な破壊力のみに留まらない。 一人の感覚では捉えきることの不可能な周囲一帯への即時反応。間を置かないレスポンスを持っていることこそが、戦闘面における最大の強化で── 攻撃を放つ、それと同時に防御と反撃が成立〈し〉《、》〈て〉《、》〈し〉《、》〈ま〉《、》〈う〉《、》。通常であれば一の挙動しか叶わないものが、二、三、四と同時に繰り出せる。 その力を有した両陣営が真っ向から衝突し合う盤上、戦況の変化は通り一遍の対応などではもはや決して間に合わない。可能であれば先を読み、遅くとも認識と同時の挙動でなくば戦力として役には立たない。 拳を交えた限り、怪士の持つ駒の能力は俺と同じ金であるようだった。その機動性はさして広いものでなく、しかし隙を生じぬ小回りで駆動する。 放つ一撃は迅く、加えて必殺の威力を有している。怪士が中央に位置することによって、鬼面衆の側にとっては実に効果的な盾となっているのが実感として分かった。 難攻不落の不沈艦、まさに王の近衛といったところか。それは間違いなく手強い存在であるものの── 正直なところ、悪くないと思った。ここであいつの足を戦場の一点に止めておけば、謎の老化能力による被害は最小に抑えられる。 怪士の撃に被弾することは即時の戦線離脱を意味しており、俺一人で受け持てるのであればそれに越したことはない。何よりも、これ以上の犠牲を出すつもりなどこちらには毛頭ない。 金なし将棋に受け手なしの格言通り、ここを機能不全に陥らせてしまえば向こうの戦線は成り立たないだろう。それは言うなれば核を失った状態と同じ、頼れる存在であるがゆえの依存度が浮き上がって仄見える。 無論、条件はこちらも委細まったく同じだ。つまり俺が健在であればあるほど敵の攻撃は捌き切れる。仲間たちの防波堤となれるんだ。 責任は重い。一歩も退けない。だがそれはこうして戦場に立っている以上当然のことであり望むところ──心を燃やし受けて立つ。 俺の繰り出した打撃をすべて受け切る怪士は、鬼面の底から不気味に気炎を巻き上げる。立ち回りながら、俺は改めて眼前の鬼が完成された実力を有していると感じていた。端的に言って半端じゃない。 夢の五法や盤面で得た特性よりも、こいつは単純にただ強い。現実に練り上げた武の技量が桁外れなのだ。それは怪士の正体を鑑みれば納得できるところだろう。 その上でミラーマッチとはまったくどこまで意地の悪い偶然なのか……いや、これすらも壇狩摩の設定した舞台装置なのだろう。 戦場に偶然などというものがあると思ってはならない。それは言い訳であり都合のいい逃避の理由になりかねない。すべては己と相手の勝負であり、出し抜くこと以外に頭を回している余裕などありはしないのだから。 こうして怪士を俺に合わせてきたのは計算かと狩摩に聞けば、おそらく適当に返すだろう。享楽的にすべてを愉しむあの男は、そのためならば天下の何をも厭わない。 その結果として流れを自分に手繰り寄せ、勝利する──それが壇狩摩の流儀なのだ。 「──柊、後ろッ!」 「応ッ!」 背後から襲う攻撃を〈一〉《、》〈切〉《、》〈見〉《、》〈ず〉《、》〈に〉《、》〈弾〉《、》〈き〉《、》〈飛〉《、》〈ば〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》。その闇より現れたのは泥眼で、以前と同じく気配を感じさせることなく身体を周囲に同化させている── 姿を見せると同時に暗殺者の気配を覗かせ、その撃は正確無比をもって俺の脳天を貫かんとする。一撃で決めに掛かるのがこいつらの在り方としてもっとも正しいものであり、その対策として以前の戦闘が活きていた。 闇に紛れての不意打ちが機能しないという点においては、この決闘紛いの舞台は決して悪くない。あとは集団連携での競い合いで食い下がりつつ、如何に土壇場の局面で意地を見せられるかだ。 そして──俺もことさら将棋というものに明るいわけではないが、一通りの定石くらいは踏まえている。いわゆるところの怪士と泥眼の隊列は、金底の歩に等しいもの。 周辺範囲に手の回る金将、その弱点とも言われる後方を小駒である歩で補う。面制圧に効果的とされる戦術の一つであり、それに同じくした眼前のこいつらは崩し難く如何にも手強い。 奇襲の範疇のみならず、そのまま俺の命を狙ってきたその手は、もはや歩ではなく香車に似たものだ。そこに漂う稚気はおそらくは泥眼のものではなく、狩摩一流のアレンジといったところだろう。 先制の撃のみならずそのまま美味しいところを持っていくなどとは、いかにもあいつらしい強欲じゃないか。 だが…… 「舐めてんじゃねえぞ、てめえこらっ!」 急加速をもって俺の背後から、文字通り飛んできたのは栄光だ。 こいつは時折感情的になるきらいがあるものの、この決戦の場ではそれが丁度良い引き締めとなる。漆黒の亜空間をライドして、攻撃位置を読ませない複雑な軌道を描きながら側面からの蹴りを放った。 存分に遠心力の加わった一撃が向けられた相手は泥眼で、躱しはしたもののそのまま大きく距離を取るように下がっていく。 再び闇の中に消えた暗殺者に向かい、栄光は言葉を放つ。 「──来たぜ。ああ、来てやったさ」 「確かにあんたの言う通り、オレはビビりだよ。向いてないのかもしれねえし、仲間たちに迷惑だってかけてるだろうさ」 「けどよぉっ……」 何事か言い募ろうとする栄光に、しかし泥眼は耳を傾けるつもりもないのだろう、不意に現れ仕掛けてくるのを繰り返し、交錯と激突の果てに栄光は弾き飛ばされた。 「くッ、は……」 顔面に一撃をもらったか。それでも伝う血の筋を舐め取って、口にするのは栄光の心にある矜持であり、戦いの中で辿り着いたこいつの〈真〉《マコト》だ。 「それでも、こんなオレにだって懸けてるものがあるんだよ。月並みな言葉になるけど、生半可な気持ちじゃねえ」 「引けと言われてはいそうですかってな具合には、生憎いきやしねえんだ。それを見せてやるぜ、今ここで」 「………………」 「栄光、熱くなるのはいいが頭は冷静に保っておけ。急いてはことをし損じる」 「ああ、分かってるさ。いや分かってねえのかもな、でも大丈夫だ」 「この期に及んで、そんな立ち直れねえヘマなんざまっぴらだからよ。もう嫌なんだ。自分が、自分だけがみんなに遅れを取ってるなんてのはよぉッ」 激している栄光──その内心が冷静でないのは明らかだ。 しかし溢れんばかりの熱が今の栄光を強くさせているのも事実であり、この場でそれを使いこなせるかは歩美次第ということだろう。 そして他方、距離を置いたところでは緊迫した攻防が続いている。 夜叉。そして我堂。両者の動きを例えるならばまるで戦闘機。一切出し惜しみのない高速機動から、牽制程度の攻撃を繰り返し互いに隙を窺っている。 両者の交錯するそのとき、僅かな小競り合いこそ起こるものの…… 「ずいぶん度胸が据わってるじゃない。まるでいつものあなたじゃないみたい」 「………………」 「無視ね、なるほどいいわ。構わない」 「ここで多少痛い目に遭ってでも、すべて話してもらうからっ!」 言葉と同時、気魄がそのまま乗ったような急加速を見せる。 構えた薙刀に力が漲るのがわかる。先の探り合いから一転、まるで決着を狙うかのような突進に対して、鋭角的なステップワークでその勢いを殺す夜叉。 最小の動作で無駄のない最大効果を得んとするロジックは熟達のものだった。そしてそれに対抗する我堂の熱気も負けてはいない。 「──いやあああああッ!」 襲い来る百刃の雨を一気に貫き、その突進の勢いのまま攻め立てる。 「あんた百なんでしょ? そんな仮面を着けたって、分かるってのよ私にはッ」 「下手な変装してないで、さっさと素顔を見せてみなさいッ……!」 我堂の声に夜叉は無言で、ただ機械的な動きをもって押し返す。 力比べ、となれば単純な腕力の勝負。それが互角であれば心の乱れが趨勢を左右する。よって強引な押しに出た我堂の体勢はあえなく崩れてしまった。 「っ……!」 「一人で急くなッ、我堂!」 放たれた剣刃に俺は割って入る。そうだ俺たちは決して一人じゃない、こうして互いに助けることが出来るのだから。 そして、ここで一つ確認しておくことがある。 「本当なのか、それは」 眼前の鬼面衆が一人、夜叉が穂積百だと言ったこと。 戦真館で出会った、俺たちの友人。気が弱くいつもおどおどしていたが親しみやすい性格で、教室ではいつも近くにいてくれた少女。 我堂は首を振りながら、しかし凛としたその瞳は夜叉を向いたままで答えた。 「分からないわ、私にだって確信なんてない」 「ただ、そんな気がしただけよ。ごめんなさい、もう大丈夫。忘れてくれて構わない」 体勢を直した我堂は再び得物を構える。闘志が漲ったその視線をまるで何事もなく受け流す夜叉。あれが穂積だと言われても、似ているのは背格好だけであり判然としない。 だがしかし── 「任せたぞ、我堂」 「おまえの思うように立ち回れ。ただ、あいつが穂積であれば連れて帰れ」 「……疑わないの? 結構な荒唐無稽を言っているという自覚はあるんだけど」 「疑わないさ。そういえば、おまえは穂積と一番長く一緒にいたしな」 強気な我堂に引っ込み思案の穂積。性格は正反対と言えるほどに違っていたが、仲が良かったのは間違いない。 意外なほどに面倒見のいいこいつだからこそ、分かることもあるだろう。それに敵を斃す以外の目的があるというのも悪くない。それは戦いの中できっと力になるはずだ。 先程からの戦いで推察するに、我堂の力は掛け値なしの大駒だ。それによって本来以上の力が出ており、相当長足でポテンシャルを開花させているのは事実だろう。 戦況は一瞬の凪に入り、俺たちは互いの死角を補うよう、背中合わせの円陣を組む。そして、ここにいるべきもう一人の仲間のことを思っていた。 今もこことは隔絶された空間で、壇狩摩と一対一の対局に臨んでいるはずの歩美。ここからでは、あいつの勝利を願うことしかできない。 「でもまあ、なんとかいい感じね。現状、みんなしっかり動けてる」 「大杉は、体力大丈夫なの? 最初からけっこう飛ばしてるけど──」 「ああ、問題ねえよ。歩美がどっかで頑張ってんのに、こっちがそう簡単に引けっかよ」 栄光の言葉に、俺たちの心の炎は燃え上がる。ああその通りだ、よく言った。 鬼面の三人はこちらを暫し窺っていたが、次の瞬間には動き始めた。しかも、これまでとはまったく違うと一目で分かる戦法で。 すなわち異なる方向への同時跳躍。なるほど、完全に別方向から来られてしまえば、迎撃する俺たちの側も取れる手段は多くない。だとすれば、こちらも戦力を分けての応対となる。 敵個々人のレベルなど、今さら確認するまでもなく達人揃い。連携という武器を失った俺たちが互せるかどうかは見えず、しかし…… 「ああいいぜ、やってやる。びびりゃしねえよ望むところだ」 「受け持ちは先に決めた通りだ、準備はいいな」 「私は正直お誂え向きの状況なのよ……相手の大将もいつもわけの分からないことばっかり喋ってるけど、たまにはマシなこともするじゃない」 見据え、闘志を発露する。こいつらはそれぞれの理由で激している。自分の手で決着を付けたいと願っている。 だから歓迎、いいだろう。それは俺にしても同じことだ。 迫り来る怪士を睨みすえる。こいつだけは許せない。怒っているんだよこっちも。ああ本当、いい加減にな。 すなわちこれは三面指しの状況となり、歩美にとってはかなりの負担となるだろう。 だが頼むぞ、信じているから。 そう小さく呟いて、俺は再び覇気を身体に巡らせた。こちらは任せろ──おまえが描く盤面通り、決して遅れなどは取らないとここに誓うよ。 ▲13九、桂馬── 長考の末、わたしはようやく一手を指す。冷や汗が一筋背中を伝っていくのが感じられた。 正面に座している狩摩は自らの手を顎に当て、盤面の変化をつぶさに眺めている。何か致命的なミスがこっちにあったんじゃないか……それを思うと気が気ではいられない。 彼は勝負にのめり込んでいるように見えて、その目はどこか醒めていた。まるでこの勝負の行方がどうなろうと、本当のところは興味などないかのように。 ──△8八、奔王。 「っ──────」 後手が打たれ、わたしはその大胆さに息を飲んだ。盤面の中央に何憚ることなく運ばれた大駒の動きは、この類のボードゲームの定石を逸脱したものだったから。 将棋、チェスなどのゲームは駒同士が密に連携を取っていくのが約束事になっている。いわゆる遊び駒を極力減らして、数で相手を上回るというのがセオリーだったはずだ。 なのに、今の一手。飛車と角行の動きを併せ持った正真正銘の大駒を、さも投げ捨てるかのように盤の真ん中へと無造作に打ち込むその考えは、正直言って理解ができない。勝つ気があるのかも疑わしい。 大将棋はその駒の多さから、他のボードゲームと比べて頭に置いておくべき情報が比べものにならないほど多い。各駒の動きを覚えるだけでも一苦労で、実際にアンチョコもなしに遊んだことのある人なんてそういないはずだ。 そこに来て、意図のまったく読めないこの指し手との対局。考えを読ませてくれないんじゃない、何も考えていないのではと思わせる無縫の指し筋は、対処に神経が擦り減らされる。 だからわたしは再びの長考へと追いやられて、結果…… ▲13十、歩兵。 先に位置取らせた桂馬を補強するかのような、守りの一手を強いられた。 呑まれちゃいけない──自分にそう言い聞かせる。彼の腹は未だ読めず、ならいくら慎重を期しても警戒し過ぎるということはない。 集中を途切れさせなければ、必ずチャンスは巡ってくる。そこで掴みに行けるかどうかで、この一局の結果は大きく異なってくるはずだ。 二人で向かい合って、どのくらいの時間が流れただろう……狩摩と正対しながら、わたしはずっと喉元に刃を突き付けられ続けているかのような緊迫感を覚えていた。 身体の芯から凍えてしまいそうな悪寒……一手指すごとに、精神力が削られていくのを感じる。 どうにか致命的なミスを犯すことなくここまで合わせては来たものの、それがすなわち勝利へと結びつく流れなのかは未だ読めない。 極力駒を取られてはいけないという前提条件が、じわじわとわたしの集中を蝕んでいくのだ。 全体を見回し、戦況を判断した上ですべてを同時に動かし立ち回る。そして、〈誰〉《、》〈が〉《、》〈ど〉《、》〈の〉《、》〈駒〉《、》〈に〉《、》〈該〉《、》〈当〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》〈か〉《、》〈は〉《、》〈こ〉《、》〈ち〉《、》〈ら〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈じ〉《、》〈ゃ〉《、》〈分〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》。 この手に持った駒が、盤の端に位置する駒が、わたしの大切な仲間そのものかもしれない…… そう、この対局における一番の脅威は間違いなくそこだった。 戦術として、あえて切り捨てなければいけない駒もこの先当然出てくるだろう。だけどそれが、もし四四八くんだったら? りんちゃんだったら? 栄光くんだったらどうしよう。 仮に四四八くんが歩兵だったら、盤の世界ではその命が十五分割されていることになる。つまり一枚取られるごと、四四八くんが十五分の一ずつ死んでいくのだ。 しかも歩ならまだいいほうで、これが稀少な大駒ならそのぶんリスクも跳ね上がる。一枚二枚取られただけで、きっと終わってしまうだろう。 こちらから同じ駒を取り返せば回復や復活になるのかもしれないが、何にせよ背筋が凍る駆け引きだ。 指し手という俯瞰の目線で、仲間の生死を、ゲーム感覚のまますり潰してしまうかもしれないというおぞましさ。 思えば、一番恐れていた状況に今わたしは置かれているのだ。自分の指した一手次第で、みんなの運命が傾いてしまうという常軌を逸したこのゲームをできることなら避けたかった。 その苦痛、精神的疲労は言うまでもなく甚大で、判断力もどこまで保つのかなんて分からない──しかし。 わたしは無理にでも微笑む。それこそ〈千信館〉《トラスト》の教室でいつもそうしていたように。 ──無茶でもなんでも、やるしかないのだ。 幸いなことに、この将棋というレギュレーション自体がわたしに向いているといえば向いている。今のところ盤上の局面は、それなりに誤魔化せてはいるだろう。 微かな記憶から大将棋における駒の動きを引っ張り出しての対局であることを考えれば、まずまず上出来の立ち上がりだと言えるはず。 これはリアルに命のかかったデスゲーム。わたしが負けた瞬間に、おそらく問答無用で全滅となるのだろう。そういう〈夢〉《ルール》だ。 それでも心のどこかでよかったと思うのは、ゲームのためにあれだけ毎日モニタに向かって積み重ねてきた時間が活きているということだった。 名作も地雷もたくさんやったけど、そのどれにも意味があったんだなと感じられる。 そしてもちろん、物理的に向かい合っての殴り合いじゃないというのもわたしには助かる。壇狩摩はそういう直接な荒事向きではないだろうけど、それでも自分と比べれば熊と兎くらいの差があるはずだ。彼が将棋の勝負に従事してくれるなら、勝機はあると思っていい。 だから、気を強く持て。兵士や戦士としてならともかく、〈指し手〉《プレイヤー》としてならわたしは負けない。現実のFPSでも、本職の軍人たちをいつもやっつけてきたじゃないか。 現状、戦況に大きな穴はないけれど、でもそれは向こうも同じ。こんな牽制合戦で消耗してくれてるわけじゃない。 一歩だって退いちゃ駄目だ、みんなを助けたいのなら。 見たくなかった自分の弱さ……それがずっと今までは心のどこかにあった。気付くたび鬱な気分になったし、不愉快だった。 けど、それは無駄なものじゃなかった。いらないものでもなかった。後付けの理屈かもしれないけど、そう思う。 強さも弱さもわたしの武器で、今こうしてそれを持って戦える。力になれる。だからもう嫌なものでもなんでもない── それこそ生まれてからずっと悩んでいて、長らく呪詛にも等しいものを己の内に抱えていた。しかしここに来て、ついにそれは力となった。克服し、昇華した。 狩摩がどう来るかは闇に溶けて読めないが、やや膠着に陥ったこの戦況をきっと動かしにかかるだろう。 何よりも、彼がこの温い展開に満足しているなどとは、到底のこと思えないから。 それを証明するかのように、彼は再びワケの分からない手を指してきた。自らの陣を崩しているかのような一手にわたしは目を疑うけど、この人なら何もおかしなことはない。 将棋という連動こそが肝要なこの盤上で、個人戦を挑んでくるその采配。確認するまでもなく常識外れで、しかしそれこそがこの盲打ちらしいとでも言うのだろうか。 豪放、磊落、目先の悦楽を優先してただ遊ぶ。その根底には何かが深く根付いているのだろうけれど、ここからでは一向に見えてこない。 よってわたしも意識を切り替える。今後の逡巡は即時の敗北に繋がるから。 「──ここは任せて、四四八くん」 氷の瞳を向けて戦場を俯瞰する。断続的に駒を動かす。思考のリズムを途切れさせず、幾通りの未来を見通して。  光芒に照らされた亜空間をあたかも飛び回るがごとき勢いで疾駆して、その両者は削り合う。  我堂鈴子と夜叉面。ともに飛角という大駒の能力をその身に宿しており、放つ攻撃は必殺の威力を秘めているだろう。ゆえに逆説となるが迂闊には動けず、繰り出されるのは牽制となる。  夜叉の刃は速度、威力ともにほぼ倍加しており、言うなれば機動性に長けた砲台という冗談のような状態と化していた。  無論のこと鈴子の動きも、本人の潜在能力を超える域で引き出されてはいるものの、駒の条件が同じであれば指し手の格が勝負を決する。その点、夜叉はまったく疑問を持っていない。  神祇省。盲打ち。主人。壇狩摩という人物は、自分にとってそれだけではないものの……  人格など問うてはおらず、無論のこと能力は一級品。この場ごときに遅れを取るのは有り得ない。  世の中というものはとかく不公平で、鈴子のように努力、研鑽を重ねていても、狩摩の気紛れによっていとも容易く引っ繰り返される。  それが世界であり、また戦場であろうと言われればそれまでで、だからこそ夜叉は余計な感情を抱かない。己がすべてを鬼面に納めて、ただ冷たい刃を振るうのみ。 「馬鹿馬鹿しいわね、こんな茶番──」  戦況に動きがないことに鈴子は焦れたか、その迸る能力を駆使して迫り来る。  夜叉はただ構えて応戦するだけ。自分には快も不快もありはしない。目の前の敵を無感動に殺していくだけの駒に過ぎない身なのだから。 「あんた百なんでしょ、どうしてそんなに澄ましていられるの。ここは戦場で、私は怒ってて、蚤の心臓してるあんたなんて怯えて震えてるはずなのに…… ──ッ、聞こえてるんなら返事しろっ!」  睨み合い、鍔迫り合って火花が散った。  ああ、この少女は何を言っているのだろう?  薙刀による斬撃が空を切り、周囲の大気を引き裂いていく。  当たればさぞ威力の大きなものであろうが、今は擦る気すらしない。 「何を似合わないことやってるのよ、あんたはッ──」  似合うも何もない。これがただ私の使命で、目の前の少女はそれを解さず、ただ支離滅裂な言葉を繰り返すばかり。  そして──話していながら攻防の流れがお留守になるとは、正直とても理解し難い。遠慮なく致命の撃を叩き込ませてもらう。  躁状態と化して力が跳ね上がることもあるだろうが、それは概ね一時的なものであり、勝負全体から見れば錯覚の範疇だ。  持てる能力自体に変化などなく、ならば十全に行使できない状態というのは欠点以外の何物でもないだろう。自明のことであり、わざわざ論ずるには値しない。  目の前の少女はまさにそれ。言わせてもらえれば酷くみっともない。これが本当に戦真館の、真を叩きこまれた戦士なのかと疑ってしまうほどに。  ああ、見るに耐えない。素質がないのね。まるであの子を……〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈妹〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》。  ゆえにもういい。終わりなさいと思ったときに――  あにはからんや、確信していた必勝の斬撃は空を切った。  そして鈴子は、いま間違いなく九死に一生を得たというのに、まったく頓着していないかのごとくどうでもいい台詞を重ねていく。 「戻ってきなさいよ、百。あんたは確かに要領悪くて、いつも臆病で、そのくせ一人でいられない寂しがり屋だったけど…… そんな百のいる毎日も悪くないって、私は思ってたんだからッ……!」  薙刀が閃き、鈴子の挙動速度が更に上昇する。どういうことだ──予測外の事態に夜叉は彼女の後ろを透かし見た。  戦真館側の指し手、龍辺歩美。なるほど、なかなか有能らしい。この僅か短時間で、ここでの理を把握している。  しかしそれでも我らの指し手には届かない。この対局とこの世界における、表層的な面だけを見て分かった気になっているのだ。真実がどれだけ悪辣なものであるのか、この子たちは知らないのだから無理もない。  なまじ指し手として優秀であるだけに、そうした輩ほど深く嵌る。壇狩摩の急段とはそういうものだ。〈囚〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈者〉《 、》〈を〉《 、》〈嘲〉《 、》〈り〉《 、》〈倒〉《 、》〈す〉《 、》。  こうなったらこうしなくてはいけない。何々を目指すため、避けるため、欲するためにこれこれこういうものを〈縁〉《よすが》にする。それでは駄目だ。釈迦の掌からは出られない。  執着、信念、主義、誇り……そうした哲学、有り体に言えば己を決定する属性などを持った時点で、狩摩に言わせればもうカモだ。彼はきっと言うだろう。  囚われちゃあいかん。武器は使うもんじゃ、縋るもんじゃない。  事実、自分たち鬼面衆は己の属性に縋りついていたがために、残らず駒として狩摩の盤に落とされた者たちだから。  よって今は、その属性に相応しき駒として、夜叉の鬼面衆たる本分を果たすのみ。  瞬間、迫る鈴子を無視して夜叉は飛んだ。  向かう先は相手の中枢であり頭脳。戦況を俯瞰し指している王将を狙い撃てば、そこでこの戦線は崩壊する。 「あああああああああッ!」  だが、横合いより薙がれた一撃に夜叉は叩き落とされた。  その烈風にも似た速度に応じるべく身を起こすと同時、懐に潜られて…… 「余所見してんじゃないわよ、馬鹿。 ちゃんとこっち見て話せッ!」  鈴子は現在有利を取っていたはずであり、ならばこの距離というのはどうにも解せない。薙刀の必殺圏を明らかに外している。  無論、ベストな間合いを踏んだとしても、それで易々制せるほど夜叉の百刃は甘くない。遠距離だろうが近距離だろうが、あらゆる位置に対応できる手を彼女は持っている。  だがそれはそれとして、鈴子が愚かしい真似をしたのは間違いなかった。たかが矮小な自我をぶつけるため、好機を棒に振った事実は変わらない。  まったく。ああ、本当に。  競り合いを繰り返すうち、この少女に対して苛立ちを覚えるのはなぜだろう。まるで、真正面から浴びせられる愚かな熱に当てられていくようで……  鬼面の底、その下にある何かが疼きを覚えはじめていた。 「…………」  しかし考えない。封じ込む。ただ粛々と。  至近の距離から無数の剣刃を放つ──同時に、これでは仕留めるまでには至らないだろうと考えていた。  とても躱しきれるものではない拡散攻撃だが、鈴子の〈速度〉《あし》が大きく距離を取ってしまえば掠り傷程度で済むだろう。  ゆえにこれは仕掛けの合図であり、勝負は次の一手となる── 「ふ、ざけるなッ……!」  だというのに──事態はまったくの予想外。  鈴子は〈さ〉《、》〈ら〉《、》〈に〉《、》〈一〉《、》〈歩〉《、》〈を〉《、》〈踏〉《、》〈み〉《、》〈出〉《、》〈し〉《、》、必中の間合いに到達していた。 「ッ、………………」  懐の内の内までに入られて、思わず夜叉は息を飲む。  無謀な行動による当然の帰結として、相手は幾本かの刃をその身に受けてしまっていた。腕と脇腹に刺さった傷は決して軽度のものではない。  二の腕の筋肉は間違いなく断裂しているはずで、継戦能力は大きく下がっているだろう。それを無視してこの常識外れの接近とは──いったい何を考えている。 「やっぱりあんたは百よ。そうじゃないなんて言ってようが関係ない。  この臆病な戦いが、あの子じゃなくてなんだってのよォッ!」  鈴子は柄を握り込み、ゼロに近いこの間合いで薙刀を半回転。刀身ではなく柄の部分が、夜叉の側頭部へ唸りを上げて放たれた。  結果、咄嗟の回避を試みるも、完全に躱し切ることは不可能で―― 「──────」  鬼面に深く亀裂が走り、次の瞬間には粉々に砕け散る。これまで空を斬るばかりだった攻撃が初めてまともに届いた瞬間──  鈴子は、己がパンドラの箱を開けてしまったのだと直感した。 「ああ……」  砕け散った鬼面が落ちる。ここに曝け出された素顔の〈双眸〉《まなこ》で、夜叉は鈴子を見つめていた。  感情の読めない瞳はだが徐々に、〈熾火〉《おきび》のような熱を放ちながら燃え始めている。  その瞳が、言っていた。  なぜ暴く。そんなにおまえは惨たらしい死を望むのかと。  次いで…… 「なんだ……あなた、〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈同〉《 、》〈類〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈か〉《 、》」  と、意味の分からないことを口にした。 「であれば申し訳ない。少し見誤っていたようですね」  その貌は、鈴子の知る穂積百と同じもの。しかし瞳に浮かぶ色はまったくの異相を浮かべている。  絶対の侮蔑と、なぜか共感を伴って見下ろすような夜叉の視線は、洗脳や人格矯正の類では有り得ない。  別人、なのか? 百ではない? だが赤の他人では絶対あるまい。であれば、予想される答えは一つで…… 「あれは私の妹ですよ」  鈴子の疑問を読んだように、夜叉はしごくあっさりとそう言った。 「お忘れですか? あの子は〈物部黄泉〉《もののべこうせん》が戦真館を破壊した日に死んでいます。現実、あれを生き残ったのは幽雫宗冬しかいないのだから、まったく当然のことでしょう。 その最期に触れたあなたが、私とあの子を間違えたのもなるほど無理はない話。なぜならこれは……」  すでに砕かれ、消え去った鬼面の残滓をなぞるよう頬をなでつつ、夜叉は言った。 「末期におけるあの子の絶望……それを〈形〉《ぎょう》で固めたものですからね」  そして今、穂積百の〈仮面〉《デスマスク》は砕け散った。それによって曝された彼女の素顔こそが真の夜叉面。 「では、不肖の妹がお世話になったお礼をさせて頂きましょうか」  同時に、夜叉は弾丸のごとく鈴子に向けて突進した。先の攻撃による負傷で反応速度が鈍っている。避けきれない。 「ぐう、ううううっ……!」  両手に構えた斬刃の乱舞を、こちらも構えた薙刀を旋回させるように押し返すが、しかし、〈そ〉《、》〈れ〉《、》では── 「破段・顕象──」  不吉に、どこまでの鬼の心で、夜叉はここに霞刃を抜く。  それは彼女が戦法を切り替えた瞬間。これまでとは違い、近接の間合いにおいてこそ最大の効果を発揮する六臂の相。  今、駒の属性は成りとなった。敵陣へ切り込み、縦横に殺戮の剣舞を振るう修羅そのものへと。 「夜叉面・阿修羅――」  そのとき、鈴子の眼前に、〈剣〉《、》〈が〉《、》〈六〉《、》〈本〉《、》〈同〉《、》〈時〉《、》〈に〉《、》〈現〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》。  数自体はこれまでのものと比して多くはない。しかし暗闇に閃く凶刃は、それぞれ別の軌道を描きながら鈴子に向けて襲い掛かる。 「―――――ッ」  咄嗟に大きく躱す。ああそれでいいだろう。ただし、これまでならば。  夜叉は薄く嗤い、そして次の瞬間── 「う、あああああっ!!」  両肩、両腿、そして両膝。  機動性を旨とする飛車角において最も重要なそこを鋭刃が呵責なく抉り、まるで噴水のように大量の血が噴き出した。 「なるほど、やはりはしこいですね」  一瞬にして満身創痍となった鈴子を見下ろし、だが夜叉はその程度で凌いだことを讃えていた。もとよりこの暗殺者には、絶命へ至らない攻撃などすべて失敗でしかないのだろう。  衣服の背部を弾き飛ばし、剥き出しとなった夜叉の背からは新たに四本の腕が現れていた。つまり計六本、そのすべてが白刃を握り、蜘蛛のごとくギチギチと蠢いている。  それがただの伊達じゃないのは、鈴子の様を見れば瞭然だろう。  常人は、たった二本の腕さえ訓練なしでは満足に使えない。楽器の演奏にしろ競技用具の取り扱いにしろ、いざとなればまったく思い通りにならない己の四肢に不満を持った経験は誰だってあるはずだ。  それを矯正し、練磨を重ね、思うさま己を〈繰〉《く》れるようになった者がいわゆる達人と呼ばれる類。だがそれにしても、人間である限り手足の数は決まっている。  普通ならそう。だが〈夢〉《ここ》は普通の世界じゃない。望めば腕を三倍に増やすことも可能になる。  そして、六本の腕を同時に操れる技量を持つ者。それを可能にした資質と鍛錬。人間に可能な情報処理力を超えているとしか思えない鬼神の所業だ。夜叉の創形能力は異常な域で極まっている。 「私と対した者は大方、寄ればなんとかなると思い込む。先ほどまでのあなたのように。 少々調子を狂わされたのは認めますが、結果的にはこうなりましたね。その手の戦法は見飽きています。 ならば、〈近間〉《そこ》に罠を張るのは至極当然のことでしょう?」 「ずいぶん、お喋りになったじゃないの……」  噴き出る血を押さえながら、だが鈴子は気丈に言い返した。 「仮面がなくなって、どうしたっていうのかしらね。姉妹そろって、ほんと変な子。 いいわ、来なさいよ……そのくらいの攻撃、軽く凌いであげるから」 「では、遠慮なく」  そうして、再び阿修羅の乱舞が始まった。  絶対優位の体勢から、夜叉は六連の斬撃を続け様に放つ。そのいずれもが軌道こそ異なっているものの的確に急所を狙っていた。  鈴子は立ち上がって武器を取る。傷を負い、大量の血を失おうとも未だ集中は途切れていない。嵐に呑まれながらも致命は避け、反撃の糸口を探っていた。  しかし──夜叉の攻撃は速度と鋭さ、そして何より奇怪さが天井知らずで跳ね上がっていく。六つの指向性を持つ刃はその一つ一つが独立した生き物のように、鈴子の全身を抉って抉って抉り続ける。  高度の創法に通じているという面では同じ資質の両者だが、技量の面ではやはり懸絶。まったく勝負になっていない。 「あ、グゥッ──」  肉を裂く手応えが、濡れ湿った斬音と共に夜叉の耳へと伝わってくる。 「はぁ……は、ぁっ……、ッ……」  まるで花瓶の水を零したように、地面に血溜まりが広がっていく。  狙った箇所にはすべて命中しており、もはや鈴子は呼吸も乱れて、自らの血に溺死しそうな有り様だ。 「しかし―――」  なぜまだ、生きている? この少女は楯法においては人並みかそれ以下だ。回復力で凌いでいるわけじゃないのは一目瞭然。  では、やはりこういうことか。夜叉は確信をもって思った。  いよいよもってこの少女、〈私〉《 、》〈と〉《 、》〈同〉《 、》〈類〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》と。 「恐怖が足りない」  呟くように独りごちて、刺突を放つ。 「血に嫌悪を抱かない」  胴を断ち割る横薙ぎが霧のような赤色を飛ばす。 「そうですね。思えば鋼牙のときもあなただけはそうだった」  どれも、これも、すべての撃が、必殺の手応えを伝えてくるというのに斃せない。職業殺人者である夜叉がその手のものを見誤るなど、普通は有り得ないはずなのに。  殺し合いという状況に対する異様なまでの適応力。それすなわち、決して覚悟や精神力の話ではない。この少女は〈我〉《 、》〈慢〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「私と同じ、壊れている人間だ。 あなたのお友達は可愛らしい現実逃避で戦を虚構に摩り替えていたようだけれど、あなたは違う。 あなたは真実、最初からの人でな――」 「ごちゃごちゃごちゃごちゃ――やっかましいのよォッ!」  皆まで言わせず、鈴子は吼えた。同時に払った薙刀の一閃で、夜叉を間合いの外まで吹き飛ばす。  相手に言われた言葉の意味も、ハナから耳に入っていないし興味もない。  ただ勝ってこの場を終わらせるため、全霊を振り絞るのみと決めている。 「いいから、とっとと掛かってきなさい。私は何度だって立ち上がる。  あんたの剣なんか、全然効いてないんだから」  鈴子の瞳は、あくまで夜叉の姿を見据え。  そして再び、両者は斬り結び始めた。 探り合いから始まった我堂と夜叉の一騎打ちは、ここに凄絶の色を帯びてくる。 大駒を宛がわれた両者は出力おいてなら互角のはずで、現状は我堂が不利に見えるも先程までのペースを取り戻せばまだ分からない。 あの二人はどこか雰囲気が似通っている。それは能力の特質のみならず、おそらくもっと根底のところで。 鬼面が砕けてからの夜叉は、徐々に地金とも言うべきものが見え始めていた。同時に、苛立ちめいたものも言動から感じさせる。 そう、あたかも今まで、本人の思念を仮面に塞がれていたかのような…… 「どうしたのよ、剣先が鈍ってきてるじゃないのッ」 「そんなものじゃ私には届かない──遠慮してる暇があるんなら、もっと本気を晒してみなさい!」 「よく吼える。自分の得意分野が見つかって嬉しいのですか?」 「だから、あんたは何を言ってんのよッ!」 大音声と共に、両者は何度目かの激突を繰り返す。心配をしたが、傷の多さに比して我堂はまだまだ保ちそうだった。 この競り合いはしばらく続いていくかもしれない。あの気魄があれば、押されてはしても早々やられはしないだろう。 ならば、俺は俺自身の敵に集中するべし。 目の前に立ちはだかる怪士面。 その構えには一切の隙がなく、こうして向かい合っているだけでも圧倒される。こいつの体内に流れる闘気の循環が感じ取れるかのようだ。 まるで血塗れた妖刀。その腕に、俺の仲間たちは倒された。 ああ。おまえを前にして平静などではいられない。 「俺と一対一になったのは、おまえのご指名か?」 「それとも狩摩か……どっちにしても、こちらとしては都合が良い」 「──────」 怪士は黙して語らない。しかし沈黙をもって同意を示しているのが伝わってくる。 いいぞ、上等だ。 「怪士、おまえは許せない」 「やらせてもらうぞ、慈悲などなくな」 そう短く告げ、俺は体内の覇気を最大域へと練り上げてから己の旋棍を握り込んだ。 「おう、よォやく成りよったかい。 遅いわ。鬼面のツラぁ汚すなよ、夜叉ァ」 △4七、飛鷲。 ぱちり、と乾いた音を鳴らしてその一手を指す。 対局開始からしばらくが経ち、盤面の状況は各種の駒が出鱈目とも言える密度で入り乱れている。僅かも集中を解くことの許されない流れだった。 ここに至るまでに落とした駒も無数にある。すべての手持ちを保つことは不可能で、恐ろしいのはやはり失ったものが何かというのがこちらからは分からない点。 誰とも会話のできない、ただ狩摩と二人きりというこの状況が、わたしの中でネガティブな考えを増幅させる。余計なことに思考のリソースを裂いている余裕なんてないというのに。 四四八くんのことを思う。緊張のあまり、さっきからずっと喉が引き攣れている。 ただ黙したまま、拳を握り締めて不安に耐えた。弱みを見せるな、毅然と振る舞え。付け込まれたらそこで終わりなのだから。 そんなわたしに壇狩摩は視線を向けながら、さして面白くもなさそうに口端を歪めた。 「はっ、なんじゃおまえ。びびっちょるんか、傑作よのォ」 「ええで。感情に振り回されるんは女の可愛い特権じゃ。さぞかし男受けもようなったろう」 「それを思い出させてやったんじゃけえ、感謝の一つもしてほしいところよ」 「女が戦場にしゃしゃり出んなあ……なんぞと野暮なことは言やせんわい。少なくともこの俺はのォ」 「男が無粋っていうのも、ロクなことないよ」 言われてばかりじゃ馬鹿馬鹿しい。わたしは精一杯皮肉っぽい顔を作って、鼻で笑うように返してやった。 「わたしだったら、ノーサンキューだね。お引き取り願っちゃうよ」 「ほぉ、こりゃまた言いよるのォ」 そんなこちらの挑発に、狩摩は一瞬目を丸くしたあと、亀裂が入るように笑みを深めた。 その表情は、まさに凶相と言うべきもので── 「くはっ……ええのォ。なかなかどうして、大したタマよ」 「ひィひィ泣かせちゃるわ、小娘がァ」 この状況下で威圧を受けつつも、わたしはべっと舌を出す。それは単なる強がりでブラフの一種──肝の太い女だと思わせておいて損などないのだから。 しかし実情、折れそうな心をどうにか繋ぎ合わせていることなんて、彼も見抜いているはずだ。それでもすんなり曝してやらない。 わたしは本当のところ、仲間内で一番弱く脆いのだ。なにせついこの間まで、自分自身にすら向き合えていなかったくらいだから、正直ここにいる資格もあるのかどうか分からない。 大見得をきって狩摩は任せろなんて言ったけど、自信は本当、全然なくて。 馬鹿――泣き言を漏らすな。そんな贅沢、この状況では許されない。 自分のことを強く叱咤し、わたしはこの対局中に立てた一つの仮説に意識を持っていく。 勝負は変則的であるものの、その大枠は将棋であり、成りというものが存在する。 敵陣に深く侵入することによって、各駒の役割が変わるというルール……つまり、現代風に言えば覚醒というシステムだ。 ならば──この場合の〈そ〉《、》〈れ〉《、》とは、いったい何だ? ただルール的に変化する、というだけではおそらくないだろう。注意して見ていたが、さっきの大駒同士が競り合ったところで急に雰囲気のようなものが変わったような気がする。 どこがどうとは上手く言えないし、今になってこうして気付くのも間抜けな話かもしれないけど── 迷っている暇はない。このまま、座して呑み込まれるわけにはいかないのだから。 そんなわたしを気にもせず、変わらず狩摩は呵々と嗤う。何か、また新しい玩具でも見付けたかのように── 「おう、こっちでも始まりよったな」 「お決まりの決闘ごっこのォ、そんなんに夢中になる奴ァはどう煮たところで救いようのない阿呆よ。笑かすな」 「武人言うわけじゃないけえのォ、俺は。所詮は博徒に過ぎん」 自嘲も衒いも何もなくそう呟く。〈己〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈言〉《 、》〈い〉《 、》〈切〉《 、》〈る〉《 、》〈彼〉《 、》〈は〉《 、》〈清〉《 、》〈々〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》…… だけどそのとき、一瞬だけ、狩摩の目に広がった昏い空洞がわたしはとても気になった。 錯覚かもしれない。でも何か、わたしはこの勝負において大変な勘違いをしているんじゃないだろうか。 そんな不安が、胸にじくじくと広がっていくのを感じたんだ。 「──────」  ──〈殺〉《、》〈し〉《、》〈た〉《、》〈い〉《、》。  眼前にある人間の息の根を、自らの手で止めてしまいたい。  そう、殺人欲求こそが私の原初の衝動であり、それを叶えるために青年時代のすべてを懸けた。  血を啜りたい。心の臓を食い破りたい。それらを封じられて、もうどのくらいになるのだろう。  殺人に焦がれる根源的な理由は特にない。子供の頃、虫を殺せば高揚しただろう? それと同じことだ。  この手で生命の脈動を潰すこと。未来の可能性を奪うこと。それが快感なのだから。決して珍しいものではなく、それこそすべての人間が当たり前に持ち得る感情。  ゆえに、私はそれをずっと胸の奥に秘めている。如何なる時を過ごしていても、たとえ誰を前にしても。 「破段・顕象──」  肉を裂き、骨を砕くその甘美。悲鳴を聞き、命乞いを蹴るその愉悦。  ああ堪らない。やらせてくれ。  そう思いながらこれまでずっと生きてきた。  目の前の獲物を屠りたい。心ゆくまで嬲りたい。  誰であろうが興味はないが、相手が強ければそちらが良い。達成の快感は困難に比例して跳ね上がるから。  そして──こいつは〈合〉《、》〈格〉《、》だ、実に良い。  嵐の如き迅さの拳撃を叩き込む──捌かれる。  こちらの攻撃から隙を利し、返しの撃が襲い来る──労せず捌く。  叩き付けられるような気魄。若くして練達の格闘術。  強い、強いぞ堪らない。  もっとだ、貴様の本気を見せてみろッ! 「怪士面―――〈黒式尉〉《くろしきじょう》」  極上の殺人となり得る可能性に、眼前の青年が放つ煌めきに、我知らず鈍痛にも似た〈昂〉《、》〈ぶ〉《、》〈り〉《、》を覚える。  なんと甘美な殺し合いだろう。いいぞもっと抗ってみせろ。さんざんに剛化したモノを貴様の傷口に突っ込んでくれるから。  この手で命を奪った屍をなお嬲る……ああ、想像するだになんと素晴らしい一時であることだろう。  それがために、ああ、そのためだけに私は技を磨いてきたのだ。これまでの人生、青春、すべてを懸けて。  殴る。極める。折る。抉る……長きにわたる鍛錬を経て、いずれの技能も熟達の域に達している。求めるものは、それらを十全に発露させる機会のみ。  だが〈蓋〉《、》〈を〉《、》〈さ〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》。他ならぬ時代の流れと運命に。  人がもっとも血気盛んで花と開く年頃のとき、私は幕末を生きていた。  これぞ待ち望んだ桧舞台。素晴らしきかな動乱の世。男子たるなら誰もが燃え立ったあのときに、しかし出撃は許されなかった。  〈曽禰〉《そね》の家は〈穂積〉《ほづみ》と同じ、かつて〈物部〉《もののべ》より分家した古き武の家門である。その成り立ちへ遡れば、日ノ本最古の職業殺人者とさえ言ってよい。  ゆえに私は殺しを欲する性を生まれ持ち、物心つく前から過酷な鍛錬を積んできたのだ。いつの日か、己がどれだけの凶器として仕上がったか、存分に確かめられる日を夢見て。  だというのに、なぜだ。なぜなのだ。いや理由は分かる。だが納得は出来ない。また私自身も若いがゆえに愚かだった。  皇室の護衛? 知ったことではない。勤皇など関係ないと、野に下ればよかったのだ。  若い私は目先の誉れに幻惑され、皇族の命を狙う者など早々現れるはずがないということにさえ気付かなかった。ああ、なんたる蒙昧。振り返れば信じられない無知だろう。  知っていたのは、どこをどう壊せば人が死ぬかというただそれだけ。しかしそれも机上のもので、私はまだ殺しの童貞を切っていない。その機会を悉く外してきたから。  もしもあのとき、家だの務めだの名誉だの、くだらぬ装飾に惑わされず、ただ衝動のまま動乱の京へ身を投じていたら私はどうなっていたのだろう。  今や歴史上の人物と化した英雄豪傑と相見え、彼らと神話を共有することが出来ただろうか。  鬼の副長、土方歳三を縊り殺すことは可能だったか?  夭折の天才と呼び声高き、沖田総司を床で死ぬという屈辱から救ってやることが私に出来たか?  人斬り以蔵はどれほどの殺人剣を使ったのだろう。  坂本龍馬を殺したのはいったい誰で、なぜそれがこの私ではなかったのだ!  逃した一期一会は、後にどれだけ望んでも永遠に戻らないというのに!  ああ、ああ、口惜しい。西南、日清、日露、その他諸々、機はいくらでもあったというのに、私は悉く様々な理由で渦中に立つことが出来なかった。  その繰り返し、流れる時の中で私は徐々に老いていく。武の研鑽を積み続け、技能は無双に達していても、単純に身体の強度が下がっていくのだ。我慢できるものではない。  生まれ落ちてより八十年、ただの一度も一人も殺せず、存分に業を振るったこともないまま衰えていくなどと。  許せぬだろう。だから〈私〉《 、》〈に〉《 、》〈若〉《 、》〈さ〉《 、》〈を〉《 、》〈寄〉《 、》〈越〉《 、》〈せ〉《 、》。  たとえ巡り合わせの悪い〈運命〉《サダメ》であろうと、百年千年生き続ければきっと至福のときは訪れよう。そして無限に味わえよう。  それが私、曽禰玄心が思い描くただ一つの夢である。  そのため、神祇省の〈手下〉《てか》となり、この邯鄲へ入ったのだ。  壇狩摩は気に入らない。奴は私のすべてを知った上で、面白半分に枷を嵌めた。私に何者も殺すなと、それは夢ごと縛る命令であり、反することのならないものだ。  嚇怒の念に戦慄きながら私はただ耐えるのみで、それはまさしく生殺しの極地。全身の血管が沸騰するとはこのことか。  思い返せばついこの間もそうだった。  あの男から指令を受けて八幡宮で伏撃し、三人の若者と相見えた。  三人だよ! 纏めて滴るであろう血の予感に私は著しく高揚する。鼓動が高鳴って治まらない。  まずは女。油断を一突き──抉った肉の感触が極上だった。吹き出す鮮血がその艶めいた黒髪に映えていた。  次も女──その瞳に涙を浮かべて私の顔を睨んでいた。  無防備な者を屠っていくのもまた良いものだ。奴らが気付いたときの絶望した面持ちが堪らないから。  よくも仲間を、許さん貴様……私に正面切って向けられるどす黒い怒りの念がただ心地良い。甘露の如き癒しを与えてくれる。  そして、最後に残ったのは男──  こいつはおそらく、そこそこ〈使〉《、》〈え〉《、》〈る〉《、》。頑強であり、折れない精神を有していた。  四肢を破壊され、血塗れたその様もなかなかに良かった。背筋の震えるものがある。  惜しむらくは、かの男が全力ではなかったことだろう。その片手落ちとも言える立ち回りからは、仲間を失った動揺によって本来の力を出し切れなかった印象を受ける。  奴であるならば、もっと高みへと至れたはずなのに。  そう、最高の快楽まで……  ともあれ、まあ良い。私が人生を賭して積もらせてきた永年の悲願……それは今夜で晴らすとしようか。  あの男からの許可は下りた。待つことどれほどになるだろう。如何なる気紛れかは知らないが、ともあれこれは好機に違いなく逃す手などありはしない。  早く拳を交えたい。戦わせろ。  血の華を咲かせてやりたいんだよ。おまえの命を私に寄越せ。  剛撃を放ち、返しの撃を放たれる。連綿と互いの攻防が連続するが、次第にこちらが押していく。  拳と旋棍とが交差し、力で競り合うも私が上だ──いいぞ、やらせろ。殺させろよ。貴様の腹をかっ捌き、その臓腑をここに晒させてくれェッ!  半歩、また半歩と押し込んでいく。我が宿願の達成までもうすぐだ。鬼面の下、愉悦の笑みを浮かべていると…… 「ふざけるなよ、いいかげんにしろ」  この男は何か言っている。どうしたいったい、戦闘中に。  そんな御託はどうでもいいから、もっと踊れよ愉しませろ。 「ようやく分かったぞ、怪士。鳴滝から聞いた通りだ」 「貴様の闘いの根底に在るもの、それは快楽主義か。くだらない。  ただ殺したい……尖ったその感情だけが、伝わってくるかのようだ」  煩い黙れ、聞く耳持たぬわ。言葉の終わらぬうちに繰り出した数発の拳は、服を掠めてあと少しのところまで肉薄する。  もう少しで当たる。〈そ〉《、》〈の〉《、》〈輝〉《、》〈か〉《、》〈し〉《、》〈い〉《、》〈若〉《、》〈さ〉《、》〈を〉《、》〈吸〉《、》〈い〉《、》〈取〉《、》〈れ〉《、》〈る〉《、》〈ん〉《、》〈だ〉《、》。  さあ寄越せ、醜く無様に死んで血塗れろ! 「それほどの使い手が、なぜ己の気持ちを律することができないッ!  貴様がこれまで、力を使わずにすんだという運命は、幸せなことなのかもしれないんだぞッ!」  何を言っている? そんなものは興醒めだ、これ以上よせよ鬱陶しい。  殴り合おう。殺し合おう。武の華を抱く漢同士、存分に愛し合おうではないか。骨まで蹂躙してやるから。  無言で応戦し、相手も構える。絶体絶命の状況で、しかし男は澄み渡る水のような目をしていた。ああ、相容れないとでも言うつもりか苛立たしい。  止めの一撃を叩き込まんと、私が猛然と襲い掛かったそのときに── 「なぜ貴様は、矛を止める武を誇らない!」  相手の力が跳ね上がる。渦巻く覇気が旋棍に行き渡るのがここからでも見て取れる。潜ませていたというのか? しかし何故。  そんな様子など、どこにもなかったはずなのに── 「──────ッ」  息を飲む。歯噛みをする。そして、反撃をする間もなく懐に入られて。 「おおおおおおおおおッ!」  深く顔を覆っていた私の鬼面を、男の猛撃で熱く鋭く弾かれる── 渾身と言える旋棍での一撃に、怪士の顔を覆う鬼面はその一部が砕け落ちていた。今まで捉え切れていなかった相手をついに射程範囲へと手繰り寄せる。 欲を言えばそれなりのダメージも期待したかったが、そう上手くいくほど温い相手じゃないのは分かっている。近接格闘に熟達したこの鬼を向こうに回して、つい先程まで喉元に食い込まれていたのだから。 僅かとはいえ、ようやく相手を掠めた一撃だ。この機を逃さず畳み掛けよう。 露わになったその目に浮かぶのは憤怒か、それとも屈辱か……怪士は俺をぎょろりと睨んで震える唇で声を漏らした。 「う、ぅぅ…………」 「貴様、なんとそそる漢だあああァァァッ!」 一転、怒濤の攻撃に俺は気を引き締め直す。如何にこちらが優位に立っても、当たれば終わりの能力を相手が有していることは変わらない。 舌打ちを繰り返し、獣の目で俺を追い求める怪士。この獣性こそが本性か。 「届かせんッ──」 「オアアアアアアアッ!!」 相手の間合いを完全に読んだ、渾身のカウンターが炸裂する。だが脇腹に旋棍が深々突き刺さっているにも関わらず、怪士は未だ衰えることがない。 その濁った目はもはや狂乱めいており、正気などとはほど遠い。 「いいぞぉ、小僧ォォッ」 「もっとやれよ、殺してみせろ。そんなもので終わってどうする……!」 声はまるで地獄の底より這い出る亡者のようで、完全に〈箍〉《タガ》が外れている。この男から伝わってくるのは、抉り、削ぎ、潰し、殺すという欲望であり、その頭の中には徹底的に黒色しか窺えない。 そしてきっと、これは狂奔どころか怪士にはごく普通のことで、常日頃より蓄積させている当たり前の感情なのだろう。 それがただ恐ろしい。憐れみすら覚えてしまうほどだ。なんだこいつは……いや、〈な〉《、》〈ん〉《、》〈だ〉《、》〈こ〉《、》〈の〉《、》〈時〉《、》〈代〉《、》〈と〉《、》〈は〉《、》。 強さのみ、衝動のみを追い求め、挙げ句に手酷く歪んでしまったこんな化け物を生み落としてしまうのか。 もはやこの男に俺の声など届かないだろう。ただ殺伐とした命の遣り取りをせざるを得ない。そう考えた隙に── 膨れあがる強さの気配と、間を置かず襲い来る剛拳の雨霰。迎撃態勢に入るも旋棍は途中で弾かれてしまう。 死を感じた瞬間──致命の一撃を防いでくれたのは栄光だった。風火輪の走る鮮やかな軌跡を宙空に残して、俺の前へと躍り出る。 「気を付けろ四四八。さっきからもう一人狙ってきてやがる」 「ったく、タイマンじゃねえのかよ」 さすがの見切りと言うべきか、こいつの透視力にはやはり図抜けたものがある。戦真館での一件以来、何かコンプレックスじみたものを栄光から感じていたが、何も気に病むことはない。おまえは真実、頼れる奴だよ。 そして、その言葉に炙り出されるようにして闇の中から浮かび上がってきたのは泥眼だった。鬼面に覆われた無の塊みたいな佇まいで、俺たちをただ冷徹に見下ろしている。 だが、次の瞬間。 「破段・顕象──」 「泥眼面───橋姫」 夜叉と怪士に続き、こいつも破段を発動した。それに身構える俺たちだったが、しかし具体的に何かが起こった気配はまったくない。 不発? それともただのブラフか? いずれにせよ確かなのは、このとき俺たちが拍子を外されたという事実に他ならず―― その隙を衝いて迫り来る連携に、手もなく弾き飛ばされてしまった。 そうだ、忘れるな。こいつらは正々堂々の果たし合いを標榜する手合いじゃない。鬼面衆はただ駒であり、その皮も一枚剥げば異次元じみた妄執が詰まっている。 まずは泥眼、続いて怪士──空を切り裂く剛重の拳打が、神出鬼没の影と連動しながら襲い来る。 その連撃を旋棍の胴で捌き切って、俺は一つ大きく息を吐く。突貫する怪士を泥眼がフォローする体勢は両者の特質が噛み合う型で、与し辛いことこの上ない。 こと戦闘における個々人のキャリア差も無視できず、このまま長引けばジリ貧の形でこちらが不利となっていくだろう。その前に、なんとか打破をしないといけない。 「栄光ッ──」 背中合わせのフォーメーションを組み、背後からの襲撃可能性をまずは消そうとした矢先、そこに。 「ッぐ……?」 無拍子にも近い襲撃が栄光を襲い、すんでのところで身体を反転させて躱す。 俺たちが仲間であるがゆえの行動を読んだような先回りだった。いや、今のが予測などというものか? あまりに対処が早すぎる。 泥眼の佇むその姿はまるで死神を思わせるほどに禍々しく、三日月めいた鬼面の光が凍える冷たさをもって俺たちを射竦める。 「ふほほほ、ええのぉッ」 「もっとやらせろ、命を寄越せェェッ!」 「グ、ゥッ……!」 怪士の拳を避けようとした矢先の一撃に吹き飛ばされた。激しい痛みが走り、骨がいかれてしまったことを告げている。 流れる血を拭いながらも身を起こしたが、その目に飛び込んできたものは―― 「ぐううッ……! あ、がァッ……」 ボロ雑巾のようにされた栄光が、怪士に片手で吊り上げられている様だった。 許せない光景に、耳の奥でみしりと頭蓋の軋む音が響いた。俺の顔色を見ながらにやりと下卑た笑みを浮かべた怪士は、囚われの栄光に凶拳を打ち込む。 「あ、ぐああああああああっ!!」 肘の真裏から手刀を〈そ〉《、》〈の〉《、》〈ま〉《、》〈ま〉《、》〈突〉《、》〈き〉《、》〈刺〉《、》〈さ〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》──その目的はただ一つ、意識的な関節破壊に他ならない。 これではもう栄光の腕は死んだも同然だろう。愉しんでいるんだこいつは、人体の破壊を。命の略奪を。 そして── 怪士の有する夢がその姿を顕わした。〈栄〉《、》〈光〉《、》〈の〉《、》〈生〉《、》〈気〉《、》〈を〉《、》〈吸〉《、》〈引〉《、》〈す〉《、》〈る〉《、》。謎の老化現象が仲間の身体を蝕んでいく。 今は寮で倒れている晶たちに表れた呪禍と同じで、それは腐食めいている。我堂が息を飲むのが伝わってきた。無論俺も平静ではいられない。どうして助けに入れなかったと唇を噛み破ってもまだ足りない。 なぜ栄光を嬲りあげ、晒し上げるような真似をした。狙いが俺だったのならばなおさらだ── 心が軋み、沸騰する。だが激発しようかという寸前で、俺はその意図を見破った。 まさしく同時に―― 「──柊っ!」 「取りあっちゃ駄目、〈一〉《、》〈旦〉《、》〈退〉《、》〈く〉《、》〈の〉《、》!」 響き渡る我堂の声。それが終わる前に〈俺〉《、》〈は〉《、》〈駆〉《、》〈け〉《、》〈出〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈た〉《、》── 空を裂く弾丸と化して栄光の救出に走る。同時に、俺は泥眼と怪士の反撃をもろに食らった。 「ッ、──────」 だが、転んだままでは終わらない。その腕に吊るされた栄光を毟るようにして奪い返す。 そうして射程外まで駆け抜けたあとに悟ったのは、〈全〉《、》〈身〉《、》〈に〉《、》〈走〉《、》〈り〉《、》〈抜〉《、》〈け〉《、》〈る〉《、》〈凄〉《、》〈ま〉《、》〈じ〉《、》〈い〉《、》〈倦〉《、》〈怠〉《、》〈感〉《、》。 災禍の一撃を喰らったそこから、すべての闘気が抜け落ちてしまうようだった。確認なんかしなくても分かる。今や俺の腹部もほとんどの機能を失い、無数の皺が犇めいているのだろう。 しかし、この程度のダメージはなんともない。栄光の奪還を成功させたし、同時に確信したことがある。 いま展開した一連の救出劇とその結果、肝は我堂の叫びにあった。 こいつが咄嗟に一旦退けと叫んだことにより、俺はそれを〈あ〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈無〉《 、》〈視〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈連〉《 、》〈携〉《 、》〈が〉《 、》〈採〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》。つまり鬼面衆からすれば支離滅裂な行動で、逆を突くことになる。 結果、上手く栄光を救出できればそれでよし。仮に妨害が入ったなら、それは一つの事実を意味している。 「やっぱりな……そういうことか」 間違いなく、〈今〉《 、》〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈の〉《 、》〈思〉《 、》〈考〉《 、》〈を〉《 、》〈読〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 栄光を無駄に嬲ったのは怪士の気性もあるだろうが、何より俺を誘うために他ならない。つまり最初から狙いは俺で、食いつきかかったところにそれを静止する我堂の叫び。 普通、その瞬間に鬼面衆は作戦失敗を悟るはずだ。にも関わらず逆を突いた俺の行動にカウンターを合わせてくるなど、初めから知っていなければ出来るわけがないだろう。 我堂もそこを確かめるため、あえてあんなことを言ったのだ。そして、結果としては現状の如く。 あれは確実に見てからの反応じゃない。この盤上でのルールを考えれば、次の挙動を見切られているという現状は致命の状況に他ならなかった。加えて栄光はもう動けず、人数比でも今後は不利になってくる。 突然戦場の趨勢が変わる要因として、考えられる可能性。それはやはり、これが将棋である以上おそらくのところ存在する〈成〉《、》〈り〉《、》だろう。 泥眼の破段、その正体はこちらの手を如何にしてか読んでくるという精神透過能力ではないのか。 漆黒の暗室に自身を置けば、室外から届くどれほど微かな明かりだろうと見通すことが出来るように。 透の〈解法〉《キャンセル》に特化しているこいつならでは。一見地味だがとんでもない反則だ。そのくらいをイメージしておかねば間に合わない。今やそれほどの窮地に追い込まれている。 姿を見せず敵の心を読み取る力……もしも事実だとしたならば、それは最高の〈方向探知機〉《ソナー》だと言えるだろう。 加えて他二人の鬼面にも、どうやら泥眼の持つ情報は届いているようだ。本来は情報の共有は不可能であるはずだが、それこそがこいつの特質というものなんだろう。 どうすればいい、そう俺が打開の一手を考えていると…… 「ざっ、けんじゃねえぞ……クソったれ……」 「させねえよ……やらせやしねえんだ、オレたちがこれ以上……」 栄光が言い、立ち上がる。もはや指を動かすのすら困難であるはずなのに、限界の力を振り絞って。 「要しちまえば、読まれてようがどうにも出来ねえような一発……かましてやれば、いいんだろ?」 拳を握り宣する姿は、このまま行けば対局の敗者となるであろう己から、どうにかして脱しようとしている力強さを感じさせる。 「オレを信じろ──ていうか、信じてくれよ」 「情けないし、ショボいけどよ……今回だけはマジなんだ。おまえらのために、そして自分のために」 「〈信頼〉《トラスト》、だろ。約束だ。違えやしねえ」 「栄光……」 「大杉……」 ボロボロになりながら、強く言い切るこいつの姿に俺は状況も忘れて胸を打たれる。 ああ、そうだ。そうだとも。無論信じているとも、おまえのことを。 互いに視線を交わし合い、もうそれだけで充分だ。これ以上の言葉は要らない。俺たちは覚悟を決め、頷いて── 「行くぞォォォッ!」 風火輪の加速と共に一直線で駆ける栄光。それと並走するように俺も旋棍を構えて疾走する。 夜叉と我堂は依然として終わりなき打ち合いを演じている。この盤面でもっとも厳しい立ち回りをあいつに強いてしまったのかもしれない。 だが、あと少しだ任せたぞ。こっちが終わり次第すぐに向かう。 光芒に分けられた亜空間を駆け抜けていく俺たちの、その軌跡上に―― 唸りをあげて襲い来る怪士の拳。その目こそ狂気に彩られているものの、攻撃軌道は実に無駄なく俺と栄光を一度に貫かんとする精妙さを備えていた。 「ちィッ――」 ゆえに覚悟を即座に固め、俺は栄光の盾となった。この身体でどこまでやれるか分からないが、ここでこいつを抑えてみせよう。 直撃だけは受けないように。あの拳にだけは触れないように。 「ひゃあッはァ――」 そして、またも心を読まれた。いいや、あるいは常識か? 俺の意識が拳に集中していることを容易く看破し、怪士が放ってきたのは重い膝蹴り。 これまで一度も使っていなかった足技を前にして、防御はまったく間に合わなかった。先の一撃で老化を起こし、骨も筋肉も衰えている胴の中心を抉るように撃ち抜かれる。 「がァッ――」 ちくしょう、だが上等だ。ここまで密着すれば心を読むもクソもあるまい。 「――づううゥ、らあァァッ!」 そのまま怪士の膝を抱え込むように掴んだ俺は、全身全霊を振り絞って奴を後方へとぶん投げた。おまえ邪魔なんだよ、すっこんでいろ。 状況を打開するため、真っ先に斃すべきは泥眼――あるいはその先か? 何にせよ、あとは任せた。やりたいようにやってみろ栄光! 「来たぜ、ここまでよォッ」 「──────」 栄光の足下には唸りを上げる風火輪。そこから伸びる光の尾の終着点は、泥眼の懐へと続いている。 その心理は依然、鬼面に遮られてまったく読めない。闇に同化するこの暗殺者を、果たしてあの光で祓えるか否か。 「〈栄光〉《エイコー》なんだろ? 見せてみろッ!」 そして、次の瞬間に起こったことは…… 「がッ、は……」 影より暗い漆黒の一撃が、栄光の胸を貫く光景。そのままあと一捻りで、重要臓器がずたずたにされると分かってしまった。 ……が、にも関わらず栄光は太い笑みを浮かべている。 それが何を意味するのか、生憎俺には分からない。もしかしたら、当の栄光自身にさえも。 分かっている奴がいるとすれば、それは心を読める泥眼であり、結果としてこの暗殺者が、あと一挙動で苦もなく達成できるだろう詰めをなぜかしていないこと。 栄光、いったいおまえは、いま何をやっているんだ? 「へ、へへ、へへへへへ……」 「なんだよ、呆れてんのか? そりゃ、そうだよな……」 「けど、オレはこんな奴だよ。どうだ、馬鹿みてえで殺る気うせちまうだろ。ざまあ見ろ」 出血の止まらないその身体で泥眼を抑え付けつつ、栄光は続ける。 「まあそういうことで、タイムアップだ。もう遅ぇよ。止まりゃしねえ」 「オレは、雑魚くても卑怯もんじゃねえんだ……!」 栄光が俺たちに視線を向ける。それは、まるで別れの挨拶のようで── 「四四八、我堂――見逃すんじゃねえぞ、一瞬だけだ!」 「歩美に言ってやれ、おまえはこの手の勝負じゃ無敵だってなッ!」 ──そして、もう振り返らない。 宙空を睨み付け、己の中で〈覇気〉《ユメ》を高めていく栄光。どこまでも──まるでそのまま破裂してしまうかのように。 「聞きやがれ壇狩摩――オレらの母校を生んでくれたあんたに一つ、言っときてえことがある!」 「そこだけ見りゃあ、別に感謝してやってもいいんだけどよ――」 迸るのは、魂から搾り出す裂帛の咆哮。 「てめえ──あんまヘラヘラ見下してんじゃねえぞおおおおおおォォッ!」 それと同時に、栄光の渾身が炸裂した。 周囲一帯を巻き込むように迸る嵐は解法の崩。今までに見た誰のどんなものよりも巨大な規模だった。 視界すべてが白光に包まれるほどの衝撃波が走り、釈迦の掌たるこの盤面世界に今、間違いなく── 微かな〈歪〉《ひずみ》が生じる音を、俺は確かに聴いていたんだ。 「……ほぉ」  一瞬だけ、ほんの刹那ではあったが狩摩の表情に驚きが浮かんだ。まるで何か奇妙なものでも見たかのように。  いや正確に言うと、見られたのだ。たった今、栄光の解法により、本来情報的に断絶されている〈此方〉《こちら》と〈彼方〉《あちら》の壁をキャンセルされた。  その綻びが生じたのは瞬きにも満たない僅かな間で、今は無論のこと元通りに戻っている。だがその隙に、歩美と四四八らの間でコンタクトが成されたという事実は変わらない。  〈彼方〉《あちら》の状況、誰がどの駒で、どうなっているか。それが判明したという事実は大きい。ゆえに栄光の功績は賞賛されるべきもので、だからこそ狩摩にとっては小癪な事態だ。  普通なら。  そう、普通なら歯噛みの一つもするのが道理。だが依然、盲打ちは笑っている。過程にまったく左右されず、ただ最終的な己の勝利のみを確信しているこの男ならではの奇怪な心で。 「俺の陣はそがァに容易く穴が空く代物じゃないんじゃがのォ」 「少々ぶれたか。まあ理屈もなんとはのう察しがつくわい」  狩摩のそれに限らず、急段とは双方合意の上に発動する絶対ルールだ。ゆえに本来、一度嵌った状態からその決まりを破ることなど出来はしない。気合いだ奇跡だ覚醒だと、そういう次元で覆せるものではないのだ。  ゆえに破るなら、まったく外部の第三者からの助力が入るか、完全な別人に当事者が入れ替わるかの二つに一つ。  そのうち、前者は有り得ない。であれば、答えは見えている。狩摩は歩美に目を向け言った。 「よかったのォ、事前に〈麒麟〉《それ》を取っといて。じゃなきゃあ小僧は死んどったわい」  栄光が対応していた駒は麒麟。初期配置で一枚しか持てない駒で、ゆえに一度取られるとそこで終わる。希少で替えが効かないという特性が、なるほど栄光と合致していると言えるだろう。  その〈麒麟〉《こま》を、狩摩は今取ったのだ。怪士の駒で動きを封じ、泥眼の駒で刺し殺した。しかしここに到るまでで、狩摩も麒麟を取られている。  よって盤上から麒麟は消えたが、手元には持っているので〈麒麟〉《はるみつ》は死なない。  再投入をしない限り戦闘不能状態だが、ともあれ事態はそういうことだ。 「最後っ屁にしちゃあえらく大掛かりなことをやられたが、まあええわい。こっちが甘かったっちゅうことじゃろう。 なあ、泥眼よォ」  つまり、陣に綻びが生まれた主原因は泥眼にある。狩摩はそう断言し、愉快げに喉を鳴らすが、それがどういう理屈なのかはこの場の誰にも分からない。  ただ勝手に納得し、変わらず面白がっているだけである。 「頭ん中が読めるっちゅうのも考え物じゃの。〈愛〉《は》し姫……なるほど、似合いじゃわい。 男が気になってしょうがないか。ええで、許しちゃろう。可愛いんは正義じゃけえの」 「おまえはそれでええ。もともと神祇にゃあ〈関〉《 、》〈係〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈身〉《 、》〈よ〉《 、》」  そんな意味不明な独白を、歩美はまったく聞いてなかった。もとより傾聴したところで、狩摩の言動を推し量ろうとすること自体が時間の無駄と言えるのだから。 「栄光くん……四四八くん……りんちゃん」  ただ今、研ぎ澄まされていく集中の中に彼女は在る。仲間の窮地、目の前の盤面、恐怖も焦りも消えていないが、それで正しい。何も感じない人間が強いなんてのは幻想だ。 「待ってて、もう少しだから」  そして信じて。絶対勝つのは自分たちだと、その未来を―― 「誓うから」  釈迦の掌に生じた亀裂とも言えない微かな隙……如何に刹那で塞がっても、穴が空いたという事実は消せない。  突破口はそこにあるのだ。 そのとき感じたのは、この状況では有り得ない光景。 亜空間の向こう側に狩摩の存在を感じ取る。何も聞こえなかったし、詳しい理屈は分からない。ほんの一瞬、その姿が見えただけ。 だが、それで充分だ。 ただ一人、俺は〈王将〉《かるま》に向けて疾駆する。この好機を無駄にはできないと直感したし、歩美も俺をそう動かしていると確信していた。 「──────」 泥眼は明らかに焦りの色をその挙動に見せ、俺を追うべく向きを変えた。常に無であったこいつにしては有り得ない変節だったが、そこに心を砕いている暇はない。 「我堂――!」 「分かってるッ!」 栄光が戦闘不能となった今、この場で頼れるのは我堂しかいない。こいつも満身創痍同然だが、そこはあえて無視をした。 我堂を信じる。歩美を信じる。俺が成すべきは一刻も早く敵陣に切り込むことで、そのとき曝される無防備を仲間に守ってもらわねばならない。 「くッ、ああああァ――」 夜叉の六連撃を我堂が身体を張って受け止めた。俺に対する怪士の追撃が遅いのは、歩美が奴を牽制する駒を指したからだと感じられる。 分かる。分かるぞ。ここに〈指し手〉《あゆみ》と〈駒〉《おれたち》との意思疎通が成されていると体感していた。 すべては、先の栄光。あいつの一撃によりこの世界に綻びが生じたからだ。刹那で塞がった穴ではあるが、その間隙を逃さずに俺たちは〈繋〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。 今はその残滓、瞬く間に消えてしまうリンクだと分かっているが、だからこそこの繋がりが完全に消え去る前に、ラインを不動にしなくてはならない。 〈俺〉《 、》〈が〉《 、》〈成〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》。理屈を無視して、そう感じたのだ。ゆえに早く、敵陣へ―― 「させんわ、甘いで」 釈迦の掌に響く狩摩の声。同時に、俺の側背から急襲してくる泥眼の気配。 「どっちがッ」 だがそれを、歩美は読んだ。そして続ける。 「ごめん栄光くん――でも頑張って、信じてるから!」 苦渋に耐えるような声で、だけど絶対の信頼を込めた態度で、歩美は麒麟の駒を再び盤上に指していた。 その結果が意味するところはただ一つしか有り得ない。 「水、臭ぇな……気にすんじゃねえよ」 「ま、一回カッコつけて消えたあとにまた出てくんのは決まんねえけど……オレらしいっちゃオレらしいわな」 それはこいつの復活に他ならず、戦闘不能だった栄光がここに意識を取り戻した。再び泥眼の身体に縋りついて妨害する。 「――アナタハ」 「……どうだよ、これでも役立たずだって言うつもりか?」 「いい加減、オレの頭なんか覗かなくたって分かんだろ? ……退く気は全然ねえってことをよ」 「オレがやろうとしていることも――」 「栄光、サン――」 「食らえええェェッ!」 そして再びキャンセルの発動。ゼロ距離でそれを食らった泥眼は声にならない悲鳴をあげて、その影にも似た全身を光の中に〈解〉《ほつ》れさせていく。 「早く、柊――こっちは任せて!」 「四四八くん!」 ああ、分かっている。栄光の勇気を無駄にはしない。 俺はこの盤面で、あいつに一番大事なものを学んだのかもしれない。思えば昔から、そうだったよな。 普段から馬鹿ばっかりやっていて、臆病なところもある奴だが、それだけにここ一番というところでは男を見せる。勇気の使いどころを知っている。 歩美が悩んでいたように、恐怖を感じないでいることなんかは強さじゃないんだ。それは戦真館で叩き込まれた戦の真からは程遠い。 怖くても、辛くても、すべてを呑み込んで進む気概。たとえどんな失敗を犯し、敗北を喫しても、折れずに立ち上がる心こそが真の強さだ。 「行くぞォォッ――!」 その心を抱いて疾駆する。ようやく行動を再開した怪士が迫ってくるが、しかし遅い。 「もう少し、あと一歩っ!」 歩美の思いが、そしてその胸の奥に秘めた感情までもが把握できるかのようだった。身体という容れ物で区切られてこそいるが、俺たちは今、同じ精神性を有している。盤面のすべてが、その向こう側まで見渡せる。 単身で強くなったというわけではない。一人という枠を越えた力が身体の奧から湧き出てくるのを感じるんだ。百人力という言葉があるが、実感としてはあれに近いものがあるのだろう。 ならば、もはや何も恐れることはなく── 「信濃なる、戸隠山に〈在〉《ま》す神も、〈豈〉《あに》まさらめや、神ならぬ神」 そして──さらなる深奥の力を俺は呼び起こす。 「ひひッ、ええで逆十字の倅よォ」 「もっと見せてみィや。おまえがどこまで至ったいうのかをのォ!」 聞こえたぞ、〈そ〉《、》〈こ〉《、》にいるのか壇狩摩。 見えた盤面――王手まで続く道筋を完全に俺は脳裏に描いて―― 「破段・顕象――」 最後の一歩を踏み込んだ今、ここに成りを完成させた。 「〈犬田小文吾〉《いぬたこぶんご》――〈悌順〉《やすより》ッ!」 覚醒せし新たなる破段の力を、結印と共に宣言する。 その効果は単純明快。俺の兄弟、仲間たちの間で成立する意識の完全同調だ。 すなわち意思疎通はテレパシーとして不動となり、先ほど見えた王手への道筋も俺たち全員が共有できる。 最初に栄光が空けてくれた穴があったればこそ、そこで瞬間的に繋がった意識のラインがあったればこそ、それを〈縁〉《よすが》にしてこの結果を可能とした。 でなくば、壇狩摩の急段を崩すことなど出来はしない。初めの綻びが生まれなかったら、俺が〈悌順〉《やすより》を発動させても通じはしなかったろう。 しかしここに至るまでの、複雑な盤面の流れが不可能を可能にした。それは紛れもなく俺たち全員が導き出したものであり―― 「四四八くん、右ッ」 「分かってる」 成った金将は飛車の属性を獲得する。迫る怪士に向けて放たれた一撃は、これまでの間合いを遥かに超えて狂気の武術家を撃砕した。 「おおおおおおォォッ!」 迸る断末魔の中、俺と我堂はたった一つの目的のもと再動を開始する。まだ夜叉が残っているがそこに頓着などしなくていい。 なぜなら将棋の絶対ルール。王を取れば勝負は決するのだから。 「さあ――」 「あとは――」 壇狩摩を詰め。それでこの悪夢を終わらせろ。 歩美、俺たちはおまえの一手を信じている。 「―――――」 四四八くんが成りを決め、同時に流れ込むみんなの心が電流にも似た啓示となってわたしの中を駆け巡った。 見える。これは間違いない。 「7十、龍王。11十三、〈醉象〉《すいぞう》」 続けて〈角鷹〉《かくおう》、〈飛牛〉《ひぎゅう》、〈飛鹿〉《ひろく》、〈鳳凰〉《ほうおう》――他にも数多ある持ち駒を続けていけば、これより先十七手目。 6十四に四四八くん……その一手で詰める。確実に。 そうした流れを不動にするための一手が今、わたしのもとにきているのだ。 これをこのまま、思う通りに盤へ指せば、狩摩の敗北は決定する。 はず、なのだけれど…… 「どうした? おまえの番じゃぞ、ちんまいの」 この人は、まったく気づいていないのか? 変わらずにやにや笑ったまま、彼は自身を破滅させるはずの一手が来るのを待っている。その態度に言いようのない不安を覚えた。 もしや、わたしの気づかないところで抜けや返しの手があるのかもしれない。勝ったと思った瞬間に奈落の底へ落とさせる……彼の考えそうなことに見えるし、絶対の勝利を確信した手がそのまま敗着へ反転するというのは実際にもよくあることだ。 「…………っ」 だから、わたしはここにきて躊躇を覚えた。これを指していいのか、いけないのか。即断できずに長考へ入る。 見ろ、見ろ、見るんだわたし――盤上のどんな可能性も見逃すな。 自分が組み立てた勝利への道筋に、穴はないのか? 大丈夫か? 考え、考え、あらゆる面から見た結果、どこをどうしたところで正着はここしかないと確信を得た。 そのときに―― 「囚われちょるのォ……」 弄うように、ぽつりと呟いた彼の言葉に釣られる形で顔を上げた。至近距離で目と目が合う。 「ぁ………」 わたしを見る壇狩摩の目に刹那だけ揺らいだものは、先ほども感じた奇妙な違和感そのもので。それはもっと前にも感じたことのあるもので…… 「そうか……」 わたしが何かを勘違いしているかもという直感が、未来予知にも等しい域ですべての謎を解いていた。 これまでの言動、諸々、とりわけ〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と訝った戦真館の図面が何を指すのか。 彼はすなわち、わたしにこの正着手を―― 自分を博徒だと言った彼。ならばこそブラフは定番。実際に命のかかった局面でやらかすなんて肝が太いどころじゃないけど、それを平然とやってくるのが壇狩摩という男なんだ。 だから、その手にわたしは乗ってやらない。これが勝利を掴む正着なのは間違いなく、皆で導き出したものなんだからそれを疑ってはいけないんだ。 「終わりだよ、壇狩摩」 今さら脅しに屈したりするものか。わたしはもう、これまで通りのわたしじゃない。 そう自負と信念をもって指した一手は、だけど同時に―― 「おまえがの」 突如、盤上から出現した夜叉の白刃が、わたしの胸を貫くという結果となって返ってきた。 「え……?」 どうして? 確かに勝ったのはわたしのはず。いいやそもそも、盤の駒が棋士を直接討つなんて……ルール破りにもほどがある。 これは将棋で、だから駒は盤の中から出られなくて……王手を指されたわけでもないわたしが攻撃されるなんて有り得ない。 どうして? どうして? 心臓を一突きにされて逆流する血が器官を塞ぎ、わたしは言葉を紡げない。 そんなこちらを、壇狩摩はくだらないものを見るような目で見下ろしている。 「よいよ、なんでどいつもこいつもこうなんかのォ」 「賭けて、指して、勝ち負け決めて、ああそれで? 賭け金取り立てるのはなんじゃと思うとるんなら」 「負けても知るかと引っくり返す奴がおったらどうする? 将棋じゃけえ? 決まりじゃけえ? 詰んだらはい参りましたと俺が言うと思っちょるんか? 甘いのォ、囚われすぎじゃわい」 「かばちたれがなんじゃ言おうと、直接ぶん殴ればはァお終いよ。勝負の中でイカサマやっても、勝負の後にぶち壊す奴ァ滅多におらん」 「特におまえみとォな、勝負師気取っちょる奴ほどの」 「そ、んな……」 つまりこの人は……ハナから将棋の勝負なんかしていなかったんだ。 たとえ盤上の勝負に負けても、賭け金を取り立てられる前に殴ればいいと……そんな型破りで臨んでいたんだ。こんなの、卑怯を通り越してる。 囚われない。囚われるな。彼が言っていたのはそういうことで…… 「じゃあの、ちんまいの。不合格じゃ、もう〈去〉《い》ねや」 血に染まった盤へわたしの頭がごとりと落ちる。同時に王将を殺されたことで四四八くんたちも連座となり、全滅するのが感じられた。 「……ごめん」 ごめん。ごめんなさい…… 赤く染まっていく視界の中、詫びることすら、もう出来ない。 「―――――」 わたしが指した一手を見て、壇狩摩は目を見開いた。そして呆れたように笑いだす。 「おいおい、おまえ自分が何したか分かっちょるんか?」 「当然、言われるまでもないよ」 今、わたしは勝利に繋がる正着を放棄した。替わり指した手は悪手そのもので、一気に盤面の形勢は逆転している。 他の人がこの状況を見ていたら、目を覆う有り様なのは間違いない。 「十九……いや、二十一手先かな」 「おまえの詰みじゃ」 「うん、そうだね」 だけど、それで? わたしは参りましたなんて口にしない。 代わりに湧き上がってくる力のまま、別の台詞を紡ぐのだ。 「我、ここにあり。〈倶〉《とも》に天を〈戴〉《いただ》かざる智の〈銃丸〉《つつさき》を受けてみよ」 「急段・顕象――」 まったく、自分は博徒だなんてよく言ったよ。この人、ハナから将棋なんてやっちゃいない。 今、わたしに起こっている現象が、その事実を証明している。 「〈犬坂毛野〉《いぬさかけの》――〈胤智〉《たねとも》」 瞬間、〈過〉《 、》〈去〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈飛〉《 、》〈来〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈弾〉《 、》〈丸〉《 、》〈が〉《 、》〈彼〉《 、》〈の〉《 、》〈眉〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈撃〉《 、》〈ち〉《 、》〈抜〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。 「かッ―――」 跳ね上がる顎。迸る血飛沫。それを盤上に撒き散らしながら、だけどまだ彼は笑っている。 よくやったと、意地の悪い教師が生徒を褒めるように。 「……こりゃあ、あんときの一発か?」 「そうだね。わたし自身、驚いているけど」 この人が百合香さんや柊聖十郎を排除したあの修羅場で、わたしが放った一発の弾丸。 恐慌して、苦し紛れに、今になって思い出せばかなりみっともない態で撃ったあのときの破段顕象。 それは空間跳躍という〈能力〉《ユメ》だったけど、彼には蝿でも叩き落すように事もなく防がれた。 でも今度は違う。 破段の上を行く急段。空間の跳躍ではなく時間の跳躍。因果律を飛び越えて飛来した銃弾は、さすがの盲打ちでも防げなかったということだ。 そしてもちろん、この土壇場でそれを成せたことには相応のカラクリがある。 「全部、無視できるんでしょ。負けた側が、その瞬間だけは」 正しくは、負けを認めない限り、か。 「あなたの急段は、対局の合意を得ることで敵を将棋の世界に落とし込む。そしてそこの勝負に負ければ、ルールに則り命を落とす」 「でも、それはあくまで将棋の上でのルールだもんね。盤越しに直接ぶん殴っちゃえば関係ない。さすがにいつでも殴れるわけじゃないにしても」 将棋という勝負が決着した瞬間だけ、その世界を維持していたすべての力が敗者側へと雪崩れ込むのだ。ゆえに心が負けを認めればその力が敗者の命を喰らい尽くすが、認めなければプラスに転じる。 わたしが自分の熟練度や成立条件をまったく無視して、急段顕象を成せたように。 「賭け金を取り立てるのはいつだってルールじゃない。ルールを遵守させる、あるいはぶち壊すっていう武力が背景にないと出来ないんだよね。考えてみれば、当たり前のことだったよ」 「あのままわたしが正着を指してたら、あなたはあなたで、何かデタラメなちゃぶ台返しをしたんでしょ。おまえの敗因は囚われたことだ――とかなんとか言ってさ」 「くくっ、ええわ……よう弁えたのォ、その通りじゃ」 こちらの指摘に、彼は血塗れのまま楽しそうな顔で頷いた。 「なんぼ将棋で勝ったゆうても、殴られて泣かされりゃそこで負けとろうがいや」 「博打打ちいうのも笑わせよる。あいつらァ救いようのない馬鹿共よ」 「盤の上でイカサマする奴はおる。騙しを掛ける奴もおる」 「じゃけどのォ、その根本から侵す奴ゆうのはおらんじゃろうがいや。俺には理解ができんけどのォ」 「半端に頭の回る奴ほど、つまらんことで躓きよる」 「どうやったら勝ちなんかを考えんけぇ、そうなるんよ。さんざん注ぎ込んで、やっとるのは単なる自慰よ、くだらん」 「それは確かにそうだろうね」 事実わたしも、ついさっきまでは完全に嵌っていた。これは将棋で、勝負だからと、そこでの勝ち負けにのみ目がいっていた。 この手の賭けや、ゲームに自負がある人ほどそうなるだろう。だって勝負師なんだから、そこにプライドを持っている。 サッカーで負けた後に、相手チームを皆殺しにすれば勝てると思うようなサッカー選手はいない。当たり前だ。 いたらそれは、もうサッカー選手と呼べないだろう。 「それが囚われないっていうことなんだね」 「あなたは博徒なんかじゃない」 そして、他の何者でもない。だって彼は囚われないから、自分の属性を一つに決めることなどしないのだ。 それは弱さで、負けに繋がる。彼はそう信じている人。 戦真館の図面に始まった違和感の連鎖……あれも急段の条件だったんだと今なら分かる。 〈壇〉《 、》〈狩〉《 、》〈摩〉《 、》〈が〉《 、》〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。そう思わせたうえでの対局は、すなわち彼が将棋の勝負などするはずがないという双方の了解、合意……だからこそ、ちゃぶ台返しが当たり前に起こる。 そしてたぶん、そんな型破りである自分さえも、この人は状況次第で引っくり返すのかもしれない。 いや、きっとそうなのだろうと感じるから……わたしはこの人が消える前に訊いておきたかった。 「この結末も、あなたにとっては全然負けじゃあないんだね?」 「当たり前よォ」 「その意味は?」 「自分で考えェ」 ──声が掠れてきた。いよいよかもしれない。 そう、わたしもなんとなくだが分かってきている。この邯鄲という夢が何を意味しているのかを。 「これで終わりじゃない。そうだね?」 こんなものはリハーサル。いずれやってくる本番のため、手順を踏んでいるにすぎない。そう思える。 何せ、他でもない壇狩摩が、己はまだ負けてないと言っているのだから。 「まァ、あまりそのことにも囚われんこっちゃ」 「なんせおまえら、一度は俺に手順を狂わされとるわけじゃけえのォ」 「それはどういう――」 「言ったろうが、自分で考えェ」 「今回んとこはこれで終わる。まずはそれでよしとせえや」 そう、清々と嘯きながら。 「のォ、ちんまいの。おまえはなかなか、悪ゥないで。背だけじゃのォて、乳も尻も貧相じゃがのォ……芯はええもの持っちょりやがる」 「もしもあの坊主に振られたら、俺んとこ来いや。貰っちゃるけえ」 「誰が――」 最期にそんなセクハラ発言、まったくなんだこの人はと腹が立って、ムカついたから、わたしは舌を出してやった。 「言ったでしょ、お呼びじゃないよ」 「もういい、バイバイ」 「くはッ、ははは――そりゃ残念じゃのォ、はははははははははは」 そして―― 結局何一つまともに答えていないまま、神祇省の首領は彼の駒ごと朝の中に消えたのだった。  ──それから、わたしたちは邯鄲に入れなくなった。  事の起こりは、狩摩を斃した翌日。 四四八くんも、そしてわたしたちも、夢の世界に行くことなくその日の睡眠を終えたのだった。 ただ眠り、朝になったら目が覚める……少し前まで、わたしにとっては当たり前だった日常。  そして、生まれてこのかた明晰夢を見続けていた四四八くんにとっては初めてのこと。  その夜だけではなく、以後ずっとわたしたちには平穏な眠りしか訪れなかった。 突然とも言える異変に、おかしいと思わないといったら嘘になる。どうして急に邯鄲に入れなくなってしまったのか…… 考えたけど、答えは出てこない。いろいろな可能性は思いつくものの、それらはすべて推測の域を出ず。 夢に降り立ってみないことには、言えることなんて何もない。  そしていろいろと試してみたけど、わたしたちが再び邯鄲に訪れることは叶わなかった。  そしてもちろん、あっちゃん、みっちゃん、鳴滝くんの三人も元気だ。怪士が斃れたことで、老化現象は綺麗さっぱり消え去ったから。 わたしたちと同じように夢から目を覚まし、戻ってきてくれたのだ。  ──結果として、取り戻した日常。 危険もなく、平穏で、よく分からない奸計なんてどこにも蠢いていない。ここがもともとわたしたちのいた〈千信館〉《せかい》で、帰って来られたことをもっと喜ぶべきなのかもしれない。 しかし、本当の意味で解決したことなんて何もなく。  神祇省の真の目的は言うに及ばず、突如として現れることのなくなった他の勢力、そして夢の世界の趨勢。 四四八くんのお父さんのこともそう。 目の前の悪夢を終わらせるということだけは叶ったものの、言ってしまえばわたしたちの手にしたものというのは僅かにそれだけで。  何も見えず、分からず、そしてもはや確認する術はない。あからさまに中途半端と言える幕引きで──  まるでゲームをしている途中にいきなりリセットボタンを押されたかのような、投げ出されたような気分…… 昔のわたしなら、きっとそう思っていただろう。エンディングを取り上げられたことに拗ねていたかもしれないし、一頻り怒った後にすべてを忘れて、再び安穏とした日常に戻れていたかもしれない。  だけど、今は違う。  それはあいつの言葉がまだわたしの耳には残っているからで。 どんなに記憶が薄れたって、あの戦いは幻なんかじゃないと言い切れる。  大切なのは、ぶれないこと── そして必要以上にルールに囚われないこと。サーバーから放り出されたからゲームは終わり……なんていうのは、あくまでユーザーの側から見た理屈だし。 そこで一歩引いてみれば、勘付けてしまうことだってあるから。  だから、今のわたしはこう思うのだ。 きっとこれもまた、一つの大きなユメなんだって。  戦乱の邯鄲。それもまた確かな現実であって、わたしたちは間違いなくその一端を垣間見た。  繰り返される闘争。それは綱引きみたいなもので、人間のエゴが丸出しになっている。 偶然によって、戦局が左右されることもあるだろう。しかし、その後ろにあるものは間違いなく人の意志で。 どんな事象でも必ずそうだからこそ、性善説なんて信じられない。情弱じゃ駄目だって強く思う。  それは、今回のことで身に染みて分かったから。  そして一度転がった事象は勝手に進んでいく。まるで見ることを抗えない夢のように。  そう、今回の戦いが辿り着いた先というものは…… まるで雷のようにけたたましく銃声が鳴り響き、マズルフラッシュが周囲の至るところから閃いている。 頭上を行き交う銃弾にわたしは小さく肩を竦めた。こんな闇雲な銃撃で仕留められると思われているのであれば、それはちょっとした落胆ですらある。 いくら戦争下手の日本人だからって、〈こ〉《、》〈ん〉《、》〈な〉《、》〈と〉《、》〈こ〉《、》〈ろ〉《、》まで来ておいて案山子よろしく頭を上げたりしないってば。 そんなことを考えていると、同じ塹壕の横合いから締まった声を掛けられた。 「歩美、気を付けろッ」 「南南東の方角に狙撃手がいるぞ、俺たちの存在に気付いている」 火線の真っ直中に銃弾を数発ほど撃ち込んで、四四八くんがそう吠えた。 この場に残されているのはわたしたち二人で、南南東には部隊の気配すら感じない。つまりは潜伏状態からの狙撃を仕掛けられている。 姿が見えているのはこちらだけで、状況だけ見れば不利もいいところだろう。しかし── 「ありがとう四四八くん、それだけ分かれば充分だよ」 言いながら銃口だけを塹壕から突き出してスコープを覗き、レティクルを引き絞る。 森の中には敵はおろか何者の姿も見えはしない。だけど…… 「後ろのフォロー、お願いしちゃっていいかな?」 「任せろ」 委細を説明しなくても通じる意図。わたしたちの間には信頼がある。これまで長い時間をかけて積み重ねてきたトラストが。 銃を構えて後方へと回る四四八くん。その挙動を横目で見送って、わたしは意識を自分の仕事へと集中させた。 風向き、距離、問題なし。これまでに何度も撃ってきた通りにやればいい。 そして── ──スコープの向こうに、崩れ落ちる人影が見えた。 おそらくあのポイントにいる狙撃手は一人。たとえ仕留めたのが随伴だとしても、狙われたと分かれば位置を変えるだろう、つまり。 「とりあえずOKかな、こっちは問題なし」 「反射光をチラチラ晒してるレベルの相手じゃ、わたしたちを仕留めるなんて無理だよねー。あー、やっぱり舐められてるのかなぁ、日本人だからってさ」 「後ろの方はどうかな?」 「ああ、威嚇で何発か撃ち込んでみたが、反撃してくる気配はないな」 「こちらもしばらくは大丈夫だろう」 銃を引いてそう報告し、こちらを向く四四八くん。 塹壕の中はさして広いものでもなく、必然的に背中合わせの状態になるわたしたち。つまり、こうして向き合えば互いの顔は近く。 「あ、やんっ」 「もう、こんなところで……大胆だよね、四四八くんって以外と」 「はいはい、そういうのは後でな。いくらなんでも、戦場ど真ん中で不埒なことを考えたりはしないだろう」 「確認が先だよ。北の方角は見たか?」 「あん、もう。大丈夫だよぉ。そっちは友軍がいるじゃない」 「そうかもしれんが、こういうのは一応済ませておくんだよ」 いささか呑気にも映る遣り取りは、まるで昔のまま。学生のころから何も変わっていないノリだ。 そう。わたしたちは今でもあのときのまま。こうして日本から遠く離れた戦場に来ていても、互いに一緒の部隊に身を置いていた。 邯鄲に入っていたころから五年が過ぎて、日本という国を取り巻く情勢は大きく変わっていた。 契機というものは明々白々。アメリカと中国が開戦したあの日から、もう後戻りのできない混乱の渦へと世界は呑み込まれていったのだ。 その決定的な行動に至るまで、どれだけの鬱屈が存在し堆積していたのだろう。それは事情を聞いたならば理解できるような気もするし、所詮が他人事だと言えばそれまでだ。 しかし最後の一線とは多くの場合、それを越えないために存在している。そのようなことを理解していなかった人間などいないが、結果として容易く超えられてしまったということになるだろう。 まず全世界を走ったのは衝撃で、次に悲しみはほんの一瞬…… 気付いたときには、憤怒一色の米国情勢が取り付く島もなく完成してしまっていた。 即座に反撃を仕掛けた際に厄介だったのは、常に様子を窺っていたイスラムまでもがこれを幸いと参加してきたことで、アメリカも同盟国を含めた蜂起を呼び掛けざるを得ず。 巨大な連合国家同士の直接交戦に、さらにはロシアまでもが加わって……一箇所のパワーバランスが崩れてしまったことにより、状況はさながら世界大戦の様相を呈してきたのだ。 平和だった世界なんて、薄皮一枚を剥いてみればそんなもの。いかに儚いバランスの上に日常という名のユメが成り立っていたのかが、今こうして戦場に赴く身となってはよく分かる。 当然のように日本も他人事ではいられず、自衛隊を米国へと派遣した。 一般市民を巻き込んだ議論、様々な団体の主導権争い、そして反戦デモ……国内情勢としてはいろいろあったと聞いているものの、米国との密なる関係と大陸の脅威がすぐ傍にある以上、断れる言い訳など正直存在しはしない。 千信館を卒業後に自衛官となり、海外任務に従事していたわたしも当然紛争地域へと駆り出された。 最前線での軍事活動を自ら希望していたから、そのこと自体はなんの問題もない。だから今、こうして狙撃銃を片手に戦闘しているというわけだ。 と、まあわたしの方は、それでいいんだけど…… 意外なのは、四四八くんも自衛官への道を選んだということだ。 周囲はものすごく驚いた。普段のイメージにそぐわないというのもあったし、選んだ進路の特殊性もあったから。 四四八くんの希望を事前に聞いていたわたしにしても、最終決定ともなればそれは例外じゃなく、ずいぶんと物議を醸したような気がする。 入隊してからの四四八くんはさすがの腕前で、ここでも優等生のポジションを配属初日にして勝ち取っている。毎朝行っていたランニングで鍛えた基礎体力も存分にものを言っているようだ。 今ではわたしも、他の隊員なりには動けるようになっていた。元が貧弱だったというのもあって、追い付くまで相当大変だったんだからね。 そして、あっちゃんや栄光くん、みっちゃん、りんちゃんに鳴滝くん…… 夢の世界でともに戦ったみんなは、変わらず本土にいてそれぞれの生活を送っている。 今ではすっかり紛争地区を転々とするのが当たり前となったわたしたちだが、〈千信館〉《トラスト》に通ってたときのことを思い出す日もある。 修学旅行とか、徹夜で勉強したテストとか……ああそういえば、生徒会総代選挙もあったよね。 あのときのりんちゃん、今でも忘れられないなぁ。顔芸の新境地だよほんと。 笑って、ときに泣いて、楽しかった思い出。四四八くんともたまに話すよ。 だけど…… 〈戦真館〉《トゥルース》でのことはほとんど話したことがない。それはちょっぴり不自然だとも言えるほどに。 だって、二つの世界は分けて考える約束だったから。〈戦真館〉《トゥルース》でのことは〈千信館〉《トラスト》には持ち込まないっていうね。 しかし一人になったとき、わたしはたまに回顧する……あの日々こそが〈真〉《、》〈実〉《、》だったのかもしれないと。 戦の真を追い求めた夢の世界。あの血塗れた日々こそが、本来わたしたちのいる場所で…… ──でも、〈現実〉《こっち》が嘘なんかじゃない。それだけははっきりと言い切れる。 「戦況確認、いずれの方角にも現状問題はない。お疲れだったな歩美」 「今の内に食事とか済ませておくか? おまえも少しは休んでおけよ」 「ん、ありがとう。じゃ、お言葉に甘えちゃおうかなー」 わたしは周囲の見張りを一時的に四四八くんにすべて任せ、塹壕に頭を引っ込めて休憩を取ることにした。風に乗って届けられた硝煙の匂いが鼻孔をくすぐり、リラックスできないなぁと一つ溜め息を吐く。 ここはインドと中国の国境地帯、現在の戦乱における守り手の側だ。 攻め込んでくる相手に対して迎撃側が有利というのは、古今東西の定説となっている。まあ、わたしもそれには同意するけどね。出鼻をちょっと挫いてやれば、今の相手のようにもう迂闊には出てこられなくなるし。 狙撃手のわたしと、全対応型の四四八くん。互いに得意とする戦術の異なる二人は、ペアとしてなかなかのものだって自負してる。この〈戦場一帯〉《あたり》でも恐れられてるんだぞ、一応。 地上での醜悪な諍いをよそに、青く澄み渡った空。なんとはなしに見上げながらわたしは水を口にする。休憩時間中、四四八くんと交わされるのはいつもの雑談だ。 「そういえばさ、こないだあっちゃんからお手紙きてたよ」 「へえ、どんな?」 「おもに報告かなぁ。お蕎麦屋さんに、栄光くんがアルバイトで入ったんだって」 「手際とか、なかなかいいって褒めてたよ。剛蔵さんにも気に入られてるってさ」 「まあ、あいつは決して要領が悪いわけじゃないからな。接客とか、そういう仕事には相当の適性があるだろう」 「とはいえ、アルバイトの身というのはいささか心配ではあるな。あいつもそろそろ就職してもいいとは思うんだが」 「四四八くん、心配性だよねぇ。大丈夫だよぉ、ニートしてるわけじゃないんだし」 「普通は心配するだろう。あいつは大学進学も一切考えてなかったっていうし」 「んー、栄光くんやわたしに、大学は無理だと思うよ……? 自分で言うのもあれだけど」 「現状食えているかっていうよりも、将来のビジョンの問題だよ」 「ああ、あと俺のところにも鳴滝から電話があった。あっちも特に変わりはないらしい」 「そっかぁ。りんちゃんも?」 「ああ。我堂も昔のままの調子らしいぞ。あの二人も本当腐れ縁というか、なんというかだな」 「ねえ、四四八くん」 「ん、どうした?」 「どうして付いてきてくれたの? こんなところまで」 ふと、さっきの考えが頭に浮かんで、そのまま四四八くんに訊いてしまう。 日常、平穏、そんな話題を交わしたせいだろう。想像してしまうのだ。四四八くんにだって、みんなと一緒の場所でやっていけた未来が確かにあったはずなのに。 それに、思う。 四四八くんがわたしと同じ自衛隊という進路を選んでくれたのは、もしかして〈気〉《、》〈付〉《、》〈い〉《、》〈て〉《、》いるからのかもしれないと。 それは口にして確認なんてしないけどね、ユメでのことだし。 わたしの唐突な質問に、四四八くんはこっちを向いて躊躇わず口にした。 「──俺にとっての大事なものが、この場所にはあるからだよ」 「古くさい考えだと思われるかもしれないが、俺は日本という国が好きなんだ。自分をここまで育ててくれて、恩を返したいという思いもある」 「そんな祖国の礎となる……平たく言えば、守るための力になる。それにはこの手段が一番の近道かなと思ったんだよ」 「そして、それは間違っていなかった。この明日をも知れない日々の中ではあるが、俺は充実しているんだ。本当に」 「……もちろん、おまえのこともだぞ。今さら言わせるな」 「ふふっ、ありがとう」 「でも、四四八くんなら違う手段を選ぶのかと思ってたからさ。ちょっと意外だなって感じたの」 「ほら、検事になりたいって前に言ってたじゃない」 もちろんこうして一緒にいてくれるのは嬉しい。しかし、夜の浜辺で四四八くんの希望を聞いた時、それは良い考えだなと思ったのだ。 理に適っているし、適性だってあっただろう。そしてなにより似合っていると。 そんなことを考えていると、四四八くんはこれもまたはっきりと言う。 「俺もそう思っていたさ。検事への道を歩き出すための準備だってした」 「けどな。たとえ試験を突破したとして、俺の理想が実現できるようまでに何年の時間が掛かるというんだ?」 検事としてキャリアを積んで、いずれは政治の世界に進む……そうしてこの戦争を止めること。それが理想だったと四四八くんは言うけれど、待ちきれなかったんだと苦笑した。 言っていることは分かる気がした。それは、わたしと同じだから。 明日が来る保証なんてないという意識は、夢の世界に入ってからずっと持ち続けている。それはに二度と邯鄲に戻ることがなくなった今でも同じだ。 四四八くんはわたしの顔を覗き込むようにして告げる。 「人生の分岐には、いつだって真摯でありたい。俺はずっとそうしてきたし、だからこそこれまでにどんな後悔もない」 「あのときに、おまえだけを戦地に行かせられないって思ったんだ」 「俺にとってそれ以外に重要なことが、何があると言うんだ?」 そして微笑み、わたしの頭にその大きな手を置いて…… 「本当、〈小〉《、》〈心〉《、》〈者〉《、》〈だ〉《、》〈も〉《、》〈ん〉《、》〈な〉《、》。〈お〉《、》〈ま〉《、》〈え〉《、》〈は〉《、》」 「普段の図太さからは想像もつかないよ。ちょっとしたことでも怯えて、警戒して」 「目の届かないところで、一人にしておけるわけがないに決まっているだろう?」 「もー、子供扱いしてぇ」 頭をくしゃっとされて、唇を尖らせ軽く拗ねてみせる。 ──そう。今のわたしは、ただの臆病者になってしまっていた。 自分に銃口を向けられれば恐いし、面と向かい合って気持ちを告げられたら嬉しい。それは、隣に四四八くんがいてくれるから。 大切な存在があるからこその、付帯する感情を知ったのだ。そして、それこそ本当の意味で強くなるということ。この世界で、当事者として、俯瞰じゃないまっすぐな目線で生きていく。 そんな現状を、何より誇らしく感じているのだ。 見上げると、四四八くんが微笑んでいる。 その顔を見ながら、なんとなく思う。この人もやっぱり、あのとき狩摩の言ったことについて〈分〉《、》〈か〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》のだろう。 同じところを見ているんだなと、自然にそう悟ってしまう。わたしは腰を僅かに浮かせて口を開いた。 「ありがとね、見張りしててくれて。さて、休憩終わりっ」 「今度は四四八くんも休んで?」 「悪いな。じゃあ、そうさせてもらうか」 そう言って四四八くんは座り込んで、わたしは引き続き警戒に当たる。背中合わせで互いの温もりを感じながら。 これからも、ずっとそうしていきたいなと思う。 誰よりも近くで、生の実感と隣り合って。 この繰り返す人生、何があるかなんて分からないけれど…… 見上げた空は雲一つなく澄んでいる。それはまるで、朝に誓ったあの空を思い出させる綺麗な群青色だった。 あの後…… 〈千信館〉《トラスト》に帰ってから、まず最初に栄光の葬儀が行われた。 公の死因は不明ということになっている。母さんのときと同じように眠ったまま息を引き取ったことで一時は謎の奇病蔓延か……という噂も出てきたが、どれも根拠のない推論なため、確たる結論を見いだせず曖昧なまま消えさった。 それも仕方のないことだろう。邯鄲を知らない人々が、どれほど検査をしても原因不明としか判断できない。 普遍無意識で心が死んだという荒唐無稽に気づく術はない。やがてその疑問も、身近な死という悲しみに押し流されてうやむやになる。葬式が執り行われる頃には、当事者以外も大杉栄光という個人の死だけを悼んでいた。 ああ……だから心苦しかったのは、涙を流すクラスメートやあいつの親を葬列で何度も目にしたことだろう。自分たちだけは真実を知っているという罪悪感以上に、その悲しんでいる様が俺たちの心を締め付けた。 すべてが自分たちの原因ではないと分かっているが、それでもこう思わずにはいられない。 あの時、もし少しでも目覚めるのが早ければと。 「栄光……」 呟きに帰ってくる明るい声はない。棺に花を添えて、冷たくなった姿に堪えようのない激情を感じた。 瞳を閉じている顔は安らかで、だからこそ胸に詰まる。とりわけ自分自身の不甲斐なさに腹が煮えくり返って仕方がない。せめて共に戦うことさえ、あの時出来なかっただなんて。 何も言えなくなった幼馴染にどう詫びればいいのか。 悔やんで、考えて……そして最後には、きっとこんなくよくよ立ち止まる姿を望んでいないと分かったから。 無理にでも口の端を持ち上げて笑みをかたどる。何も心配はいらないぞと、せめて安心できるようにしてやりたかった。 「格好よかったぜ……あたしらの中でダントツにさ」 「おかげで今も生きてるよ、わたしたち」 「ありがとう。本当に、言葉にできないくらい」 「俺らの命はおまえの命だ」 「尊敬してあげるから、天国で最高の自慢にしなさい」 「ああ。おまえは最高の男だったよ」 涙を流す代わりに、何度も何度も俺たちはありがとうと伝え続ける。 けれど、ふとした時におまえを思い出して泣いたり感謝したりするんだろうな。苦笑されるかもしれないけど、そこは少し大目に見てくれ。真っ赤な目をして情けない顔をするのはこれで最後だから。 「それに、すべて終わったのかもしれないしな」 そう、もしかしたらおまえの奮戦で事態は終点を迎えたのかもしれない。 あれから空亡との決戦を終えた後、俺たちは例外なく邯鄲の夢に繋がることがなくなったのだから。 それは仲間たちのみではなく、盧生と言われた〈柊四四八〉《おれ》にも訪れた異常事態だった。 全員で一か所に集まり寝ようが、それぞれ個々別の時間で睡眠を経ようが、結果はどれもまったく同じ。通常の休息しか訪れず、眠りはそのままただの眠りとしてしか機能しない。 思いつく限りあらゆるパターンを行ったが、結果はどれも鳴かず飛ばすのままだった。激戦を繰り広げた第七層どころか、かつて留まっていた第四層やそれ以下にも入れる兆候が見当たらない。 端的に言えばお手上げであり、明晰夢のない眠りというものに最初は戸惑ったが……人間やはり、その状態が長く続くと次第に慣れてくるもので。 徐々に冷静になってきた思考が、一定の段階まで夢を成し遂げたと捉え始める。 そしてまた、こちらは第六感だが似たような感覚に至ったのだ。すなわち、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈夢〉《 、》〈は〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》と。 なにがしかの条件を満たしたからこそ、夢に入る資格が凍結されたように感じている。おまえは何かを達成したのだから、これ以上入る必要はないのだとこちらの意図など知らぬとばかりに認定されているようで。 「ふざけるなって……そう思うよな、おまえも」 母さんを失って、栄光まで失って、これだけの傷と痛みを押し付けられたその挙句、ワケも分からずただ助かったと安堵しながら生きていけと? 冗談じゃない。 盧生、邯鄲、俺を作ったという〈親父〉《げどう》……何も分かっちゃいないままだ。 そして元凶たる謎の男、甘粕正彦。あいつを放置してはならないと、心の奥底から畏怖と共に使命感が湧き上がる。これもまた、その気持ちの由来が見えてこない。 だから、俺はこのまま終わらせるつもりなんてさらさらなかった。決着をつけなければ真に一歩を踏み出せない。 そして── 「これだけは言っておかないとな」 後悔を噛み締めた後に感謝を形にしたけれど、それでもやはり最後には、一周回って悲しみが来るんだよ。 「一人で勝手に行くんじゃない。でかい風穴、俺たちの胸に空けやがって」 栄光―― 「この、馬鹿野郎」 さよならとありがとうを告げて、日常に帰還した。 栄光のいない……あいつがくれた、眩しく寂しい朝の中へ。 それからの日々は、およそ争いとは無縁のものへと戻っていた。 起床。登校。学業。就寝。……間に別の行動が混じっていることがあるものの、基本はだいたいそれであり変わったことは何もない。 明晰夢のない状態に当初は一日がやけに短いと感じることもあったが、それも言ったように慣れてきた。体調管理はもとから得意なだけに、今ではすっかり人並みらしい時間間隔に順応しつつある。 いや、これが本当の意味で〈普〉《 、》〈通〉《 、》というものなのだろう。邯鄲に入ることもなく、連続した夢を見るわけでもなし、眠れば当たり前に意識が落ちて明日がやってくるという生活。 未だあの結末に納得していないことを抜きにすれば、辿り着こうとした日々がこういうものであることは間違いない。 平凡で退屈だと口ずさむ日々はそれだけ余裕に満ちているのを証明している。なので今はその幸福を噛み締めつつ、何事もない一日へ素直に感謝を捧げるのだった。 休日であるために用事もなし。時間も早朝。さて、今日はどういう風に過ごすべきか…… 「ん?」 と、思っているところへ来訪者。 のみならず、なんだこれは。 「誰だ、近所迷惑な」 子供の悪戯だろうか、ゲームの連打じゃあるまいに。 「柊、走るわよ!」 急ぎ玄関を開ければ上がりこんできたのはある意味、非常に子供っぽい人物だった。しかもこう、一目で気合入っているジャージ姿で。 ぱっと見でテンション高いのはどういうことだろうか。というより、本当に何だこいつ。 そんな内心を知ってか知らず──まあ知っても気にしないのだろうが、いきなり今日の日程を決められたようだ。 もちろん、なぜそうなったのかはさっぱり皆目分からない。 「藪から棒に、いったいどうした」 「いいから、ほら。付き合いなさいよ。ていうかあんたの日課でしょ」 「この私が一緒に走ってあげるのよ。感謝しながらついて来なさい」 「はあ」 確かにランニング自体は日々欠かさずしているわけで、気分も落ち着くからそうなのだがどうにも釈然としないというか…… なんとなく上から下まで我堂の姿を眺めてみる。唐突に思い至ったようでもあるし、前々から考えていたようにも見えるから何を考えての行動かは、今一はっきりしなかった。 まあ、ともかくとして。 「朝からはしゃぎすぎると血管切れるぞ、我堂」 「私ゃ更年期の老人か!」 少なくともカルシウムは足りてなさそうであった。 「は、ふっ……」 そして、予想通りというか── 「ふっ、ふふふふ、おっそいわよ柊ィ。ちんたら、走ってんじゃないわ、よっ」 こうして薄々予想していた通りの展開になっていたわけで、明らかにやせ我慢して前を走っているこいつの背中を、呆れ交じりに後追いしていた。 本人的にはこれが自分の実力だ、どうだこのやろドン亀がー、とこっちを挑発しているつもりなのだろうが、まあそこはあれだ。突っ込まないのが花というか、見ていてどうかと思ってしまうほど息を切らしてぜいぜいしている。 さすがに不憫なのでナイス根性と褒めてやりたいところであるが、あれではすぐに燃料切れへと陥るだろう。俺より先にいることで〈脳内麻薬〉《エンドルフィン》でも出ているのかもしれない。 というか、これから往復すると分かっているのだろうか? 忘れているんだろうなたぶん。 「ペース配分を考えているだけだ」 「軟弱ね。男の、くせにっ」 「ほーらほら、悔しかったら、追いついてごらんなさい……よっ」 そしてまた、無謀にも速度を上げて俺を離しにかかろうとしている。自慢げな雰囲気が伝わるものの、間違いなく明日は全身筋肉痛のフルコースだな。 「へばるぞ」 「ふん、全然……こんなの、たいしたことないんだから」 「それに、普段のあんたなら、これぐらいの速度は出せてるはずだもの。そっちこそ、遅くなってるんじゃない?」 「うだうだしてんじゃないのよっ。あんたは、私にとって唯一勝ち甲斐のある男なんだから」 「しゃきっとした顔、取り戻しなさいっての!」 そう言いながら必死にピッチを維持する姿は個人的な意地だけではなく……おそらくこいつなりの気遣いであるというのも、よく分かるのだ。 ランニングを持ちかけたことから始まり、本気で走れとけしかけているのもまとめてつまり、こういうことだ。我堂流の発破であり思いやりということなんだろう。 確かに、俺は気落ちしていたように見えたのかもしれない。なぜならあの時、最後の最後で辿り着く羽目になったから。 第七層での死闘。 百合香さんに囚われていたこと。空亡戦に遅れて参戦したこと。そして栄光の生き様を見届けてやることさえできず…… 自分を責めてもあいつは戻ってこないどころか、その決意を穢すと分かっていたから口にしなかったことではあるし、混ぜっ返すこともしなかった。当然仲間に至っては俺を罵倒する者もなくそれぞれが悲しみを胸に抱えて。 その不甲斐なさを挽回するための機会さえ、邯鄲との接続が切れたことで失われてしまった。だから気に病んでいないか励まそうとしてくれているのはそういうことで、けれどこいつは素直じゃないものだから。 「……何よ、黙っちゃって。またぞろ、変なこと考えてるわけ?」 「いや、俺は友人に恵まれたと思ってな」 後姿から見えた耳が真っ赤になっているものだから、思わず苦笑してしまう。 やっぱりこいつは良い奴だ。 「すまんな、気を遣わせたみたいだ」 「おかげで元気が出たよ。むしろ、今までそう気落ちしていたように見えていたなら、こっちの方こそ悪かった」 「ひゃへッ!?」 息を切らせているせいか、荒い呼吸と重なって新種の鳥みたいな鳴き声になった。さらに耳が赤くなっていく。 「ち、違うんだから何勘違いしてんのよ、この馬鹿馬鹿馬鹿っ」 「そんなんじゃないんだから、違うんだから、思い上がってんじゃないのよ庶民のくせに、庶民のくせにぃーっ」 じたばたとフォームを崩しながらうろたえる我堂の背を微笑ましく眺める。ああ、本当に素直じゃない。 さて、気落ちしていたように見えたら悪かったので、発破をかけられたというならば俺もそろそろ気合を入れて走ってみよう。 身体も温まってきたところ、ウォーミングアップもここまでだ。 「そうか、じゃあ俺も普段のペースで行かせてもらうぞ……っ」 そしてダッシュ。 「ちょ、速──!」 我堂を追い抜き、さらに三割増しの速度で駆ける。あっという間に並びの順番は逆転して、余裕を維持したまま我堂はぐんぐん離されていくのが気配で分かった。 「あ、あんたさっきまで、どんだけ手を抜いて……って、待ちなさい!」 「こんの、どういう足、して……ふぅ、っく」 ほらほら、文句を言う暇があると思うか? こんなもんじゃないぞ俺の本気は。 「少しは、この……ちょっと手心ってものをねえ!」 「なんだ、手加減した俺と並んで嬉しいのか?」 「それにおまえなら、何があっても俺の傍まで来ると信じているさ」 「あの時もそうだったろ」 おまえが俺を戦場へと引き上げてくれたから…… あそこへ辿り着くことができたし、仇を取ることもできたんだ。そこについて大きな借りを作っているのは間違いなく、ゆえにとても感謝しているんだよ。 面と向かってそれを言うのは、まあ、あれだ。どうにも背中がむず痒くなって仕方ないわけなのだが……ともかく。 柊四四八が我堂鈴子に救われたのは確たる事実で、なら俺はそれに相応しいだけの強かさを見せないと駄目だろう。 大丈夫だ。傷はまだ痛くとも、こうして向き合うことができている。 「ふん、っ……そうね、さっきのは撤回するわ」 態度で語った言葉に対して我堂も感じてくれたらしい、それでこそだと。 「せいぜい、気ままに、走ってなさい。絶対に、逃がさないんだから!」 「やってみろ。そう簡単にはいかないけど、なっ」 そしてもちろん、さらにダッシュ。さあどうだ、追いついてみるがいい! 「んなっ──ええい、目覚めるのよ私の健脚! あいつに吠え面かかせるためにィィィッ」 ぎゃあぎゃあと女らしくない叫び声を背に受けながら、俺たちは海岸線を疾走しつづけた。 これからゆうに十数分。俺にとっては普段通りの、我堂にとっては地獄となる全力マラソンが開催されたのだった。 その結果、こうなった。 「ぜはぁ、ぜひぃ、げふっ、ごぼォァ」 「ひゅぅぅ……かひゅぅぅぅ……」 酸欠状態に陥りながら砂浜で大の字に寝転がる我堂、とても他人に見せられない表情を平気でさらしているあたり本気で余裕がないらしい。 汗を滝のように流しながら水面に顔出す鯉よろしく口をぱくぱくしている姿は、女性というものをかなぐり捨てているものだったが、それだけ全力だったということだろう。 実際、普段通り走る俺になんだかんだでついて来れたわけなのだし。 「ほれ、とりあえずこれを飲んで落ち着け」 そこに敢闘賞を送るのもやぶさかではなかったから、近くの自販機でスポーツドリンクを買って来た。今のこいつにはまさに命の水だろう。 「んぐっ、んぐっ、んぐっ──っぷはぁ、はぁ」 で、腰に手を当てての豪快な一気飲みだ。いやはや何とも男らしい。 「ああぁ、死ぬかと思ったわ。割とガチで。三途の川の向こうで父さんが〈日本刀〉《ぽんとう》構えて鬼斬ってたし」 「いや、おまえの親父さんまだ生きてるだろ」 「それより腹立つのはあんたよ、あんた。実は全身、超合金で出来てるんじゃないの?」 「つま先から頭まで、ちゃんと白と赤の筋繊維で構成されてるつもりだぞ」 理想的にはピンク色の筋肉になっていてほしいのだが、たぶん俺は赤筋が多いのだろうな。コツコツする方が性にもあっているから喜ばしいことなんだろう。 そんな具合に何気ないことを考えられるあたり、どうやらさっきの競争がいい意味での気分転換になったらしい。そう考えればまんまと我堂の思惑に乗ってしまった形になるものの、そこに対しては感謝しかなかった。 少なくとも今回に限っては一人で走るより有益だったから、面と向かって感謝の気持ちを伝える。 「ありがとな、おかげで少し気が晴れた」 「多少強引ではあったけど、こうして即座に行動へ移せる実行力を、俺は素直に尊敬してるよ」 「……なによ、突然」 「正直な気持ちを言っている。時たま空回りすることも含めて、これでもおまえのことは凄いと思っているんだぞ」 「俺のいない間あいつらが戦ってこられたのは、我堂が尽力したからだと思っているし」 「栄光のことは……あいつ自身が自分の意思で選んだことだ。誰が咎められるものでもない」 俺も──そして我堂、おまえもそうだよ。 臨時で皆を率いていたから同じように気に病んでいるんだろう? そっちもそっちで責任感が強いから。 「何もかもおまえが背負い込むべき責任じゃないんだ。いつまでも悩んでいる方が笑われてしまうと思うし、俺はそのぶん〈未来〉《まえ》を見て生きることにした」 「そうでなければ、律儀に世話を焼いてくれた誰かさんに悪いからな」 「…………」 生かしてくれたからこそ、報いて生きよう。 泣いている暇なんてないし、そんな姿を見せてみっともない真似を晒してしまうという方が、栄光の選択を台無しにしてしまう。 「そう、ね」 そう伝えたはずがどこか収まりが悪いように我堂は視線を逸らしていた。 「どうした?」 「……別に、なんでも」 こいつらしくもない。てっきり当たり前だ、ようやく分かったかと言われるぐらい予想していたのが変な肩透かしを食らってしまった。 歯切れの悪い姿には少々思うところがある。 「なら何だ、分かるように言ってくれ」 いや、というかこいつ、もしかして…… 「そもそもおまえにとって、今回俺の日課に付き添った本題はそっちの方なんじゃないか?」 何か自分で持て余してしまうものを抱えていて、それを何とか隠したがっているようにも見えた。案の定というべきか、苦虫を噛み潰したように歪んだ表情がその証。我堂は何かを気にしている。 それが分かったのはこいつがあの日の自分に似ていたからで、母さんがいなくなった直後、鏡に映っていた辛気臭い男と同じ表情をしていたからだ。 つまりそれだけ重く感じているのだろう。何を気に病んでいるかは分からないが、どうにも根が深い問題を感じたのだ。 そしてそれが分かったのなら今度は俺の番ということで。 「悩んでいることがあるのなら相談に乗らせてくれ。こういうのは誰かと話すのが一番だと経験上分かっているしな」 「もちろん、無理に聞き出そうとは思わないから決定権はそちらに任せるつもりだが」 「本当に、なんていうか……」 頼られたのならば全力で応じるさと伝えた俺に、我堂はどこか、しみじみと。 「あんたは、すごく〈ま〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》な男ね」 「……はあ?」 珍しく真っ直ぐな賞賛を送ってきた。 「おい、いきなりどうした。気味が悪いぞ。変なものでも食ったのか?」 「殴るわよこら……って、そうじゃなくて」 「別に突飛なことを言っているつもりはまったくないわ。これはたぶん、あんたを知る人間が感じる普遍的な評価のはずよ」 「だってそうじゃない。実際あんたがやってきたことは、どれも大したことだもの」 「恵理子さんの時も、大杉の時も、戦真館が焼け落ちた時もずっとそう。あんたは自分を持っていたし、どんな苦難にも譲らなかったわ」 「予想外の事態があってもすぐに心を立て直そうと切り替えられるし、状況に備えようという事前努力はまず欠かさない」 「一言で表すなら、漫然と生きていないということね。そういうところが真面目なんだと感じるけど」 「まあ、なんだ……そう在りたいと常々戒めてはいるつもりだが」 なんだこいつ、いよいよ様子がおかしいぞ。しおらしいというよりは、どこか壊れそうに脆く儚い。 いったい何だ? というよりは、先の言葉がどうにも俺にはひっかかる。 「それを言うならそっちもだろう」 常に努力を欠かそうとしないのは我堂だって同じことだ。だからこいつと張り合うのは楽しいし、そこについて共感する部分が多いはずなのだが。 「どうかしら……」 しかし当の本人がこんな様だ。普段の自信が欠片も見えない。 それから、少し逡巡して意を決したように。 「ねえ、柊。人が死ぬってどういうことだと思う?」 「少なくとも、あんたはそれをどう感じるの? 少し私に教えてよ」 縋るように問われたから面食らったが、こいつが真摯に言っているのは分かったので俺もそれに応えよう。ほんの少しだけ目を閉じて、考えをまとめてから口を開いた。 「それは無論、悲しいことだろう。相手が親しいかどうか以前に、人の死とは世界の一部が欠損するのと変わらない」 「母さんがいなければ俺という個人が生まれなかったように、人間は始まりの時点からまず他人を必要とする。成長も変化も、心を育むこともそうだ。必ず他者の影響を受けながら成長を遂げ、自分の個我を形作っていく」 「狼に育てられた少女は狼の心を持って育った、というのは有名な話だろう? 周囲の環境に、そこで通じる他者の心象、それはどうしてもある程度の影を受けて自らの一部になってしまう」 「そしてそれは、憎い敵でも同じことだ。どんなに不必要な存在だって、知ってしまえば自分自身を構成する一片として組み込まれる」 「たとえば鏡を見たら、自分の身体でも気に入らない部分とか結構あるだろ? 垂れ目に黒子に下っ腹……それは一見不要なものだけれど、それを得た経緯にはもちろんそれなりの意味があるっていうか」 病気や老化だってある日突然なってしまうものじゃない。要不要の差はあれどそこに至るまでの歴史が自分という存在を構成しているわけであって、思い出の発生源となった他人については言わずもがな。 「だからこそ人の死は痛いんだと思う。嫌いな部分とはいえ、身体の一部がざっくりなくなってしまうんだから。髪や爪を切る時みたいに痛みを零に近づけることは出来ても、決して違和感だけはなくならない」 「そして、大事な人の死となれば失うのは目や腕といった重要器官だよ。それは特に痛みを放つし、何より以降の人生が不便で仕方なくなってしまう。心に穴が空いてしまうから」 「それはきっと、大小の差はあれ誰にとっても同じことで……そう強く思うぶん、みんな死にたくないし死なせたくないと思うんじゃないかな?」 「自分のためにも、自分のことを大切だと思ってくれる誰かのためにも」 そして、人生の中で注いでくれた愛情や恩へ報いるために。次代へより良く繋げるために。 命は重く、ゆえに人の死は痛い。 「まあ、長くなったがだいたいこういうことだろうと俺は思う。あくまで個人的な意見だから、参考になったなら幸いだが」 伝えたことで砂浜に数秒の沈黙が下りる。 俺なりの拙い論説を噛み締めるように聞き届けてから、やがて感心したような、あるいは自嘲するような不思議な視線を向けられた。 「……やっぱり、あんたはまともだわ。いっそ清々しいくらい」 そうか、こっちはますます分からないんだが。 「我堂、これは新手の褒め殺しか? むず痒くて仕方がない」 「いい加減、おまえは何が聞きたいんだよ」 「そうね……えっと、これは例え話なんだけど」 「たとえば、心底憎い相手がいたとして、そいつを殺したとするじゃない?」 「それはあんた風に言えば、嫌いな身体の一部分を自分で削ぎ落としたことになるんだけど」 「その作業に、何も感じなかったらどうなの?」 「そいつは果たして、まともな人間だって言えるのかな、って」 「……鋼牙の時か?」 つっかえつっかえの口調で話した内容にピンときたのは直感だったが、間違ってはいないらしく我堂は静かに首肯した。 このたとえ話が自分自身のことを指しているのをあえてぼかし気味にしながらも、続きをおずおずと語り出す。まるで罪を告解するかのように。 意を決しながら、泣きそうな顔で、一言。 「なにも思わなかったのよ、私」 崩れ落ちそうに蒼白な顔でそれが許せないと口にした。 「あいつらを斬っても、特にこれといった感情がなかった。晶が辛そうな顔してるのを見て、初めて自分が……ああ、人を殺したんだなって。まるで他人事みたいな感想を恥知らずにも抱いたのよ」 「あんたも、あいつらも、相手の立場なり痛みなり、個々の人生を送ってきたと認めたうえで戦っていたわけでしょう? だから本気で立ち向かえたし、奪った命を今もしっかり背負ってるし……」 「けれど、私はこんなに空っぽ。今もそうなの、思い返しても何ともない。何も感じない自分自身に勝手に怯えているだけだわ」 「それは、ある意味仕方のないことじゃないか?」 「どうしても親しい奴と嫌いな相手じゃ対応に差も生まれるし、贔屓も当然してしまう。目や腕と髪の毛じゃ、切り捨てるにしても重さは絶対に違ってしまうものだろう」 「どちらかを自切しなければならない場合、俺だって当然要らない方を捨てる。憎い相手も同じ命だからって、それで殺されるのは御免だし」 「何より、予断を許さない状況だったのも事実じゃないか。仲間と敵を秤にかけるな、なんて偽善そのものの人権論は誰にも言えないし納得できない」 「命の価値は個人的な感覚が混ざったその時点で、どうしても命を等価にはしないから」 「違うのよ、そういうことじゃなくて……」 「それは私にとっても当然だわ。仲間より敵を選ぶなんてありえないし、どっちが大切かなんて分かりきったことじゃない」 「だから、そういうどっちの方が重たいとか、命の価値がどうこうっていう感情論の話じゃなくて……そうね。それならあんた、嫌いな奴の顔を頭の中に描いてみて」 「あの外道鬼畜の糞親父とか。で、次にこう思ってよ」 「こいつの心臓を素手で抉り出したらどうだろう」 「内臓に手を突っ込んで掻き回したとき、すっきりするだろうかってさ」 告げられて想像し……自然、眉間に皺が寄った。〈気〉《 、》〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈悪〉《 、》〈い〉《 、》。 「どう?」 「……いい気分には絶対なれないな」 それは相手が憎いかどうかとかじゃなく、もっと単純な問題だった。殺人行為に付き纏う内臓や血といったスプラッタな光景に対し、生理的な嫌悪感を抱いてしまう。 健全に育ってきた人間がいきなり魚を捌いたり、食用の牛や豚を解体したりするときに感じる不快感、それを何十倍にも大きくした時の感覚と似ているだろう。少なくとも俺はそうだ、そんなものを歓迎できないし避けれるようなら避けたいものだ。 マンガやゲームじゃないんだ。仇敵や魔王を殺してすっきり、などとはいくわけがない。血の匂いを嗅いだだけで気持ち悪くなるのが当たり前で、健全な感性を持っているならそこで何も感じないものがあってはならない。 柊聖十郎が脳や内臓を剥き出しにして死んだ場合、俺はおそらく素直に喜ぶことはできないだろう。どれだけ憎い相手でも同じ人間がぐちゃぐちゃになっている姿を見れば、きっと気分が悪くなり、幾らか同情してしまう。 それが普通。道徳や倫理といった教育以前に、人間ならば備えているべき本能からの判断基準。持っていて然るべきものを指して、しかし。 話の流れから見えてきた。つまり我堂、こいつはもしや…… 俺が気づいたのを悟ったらしく、自分を卑下するように儚く自嘲した。 「でしょう? 私には〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》がないの」 「仮に人間の解体現場に遭遇したり、人肉生産工場に連れて行かれたとしても、嫌悪感は一切湧きあがらないでしょうね」 ゆえに、それこそが悩みだった。 我堂鈴子が自ら認めた、自分自身の拭えない性。 「ねえ柊……牛や豚を何も考えずに解体して、食肉パックに詰められる? 虎や〈鰐〉《わに》の毛皮を剥いで、あくび交じりに肉や筋から剥ぎ取ることがあんたにできる?」 「私にはできるわ。慣れることなく、練習もせず。技術的な部分以外は完璧に」 「むせ返るような血の匂いを吸っても、何が気持ち悪いのか分からない。剥き出しのグロテスクな大怪我を覗き込んでも、痛そうだなって素面の顔で呟くだけ」 「何よそれ、気持ち悪い……大切な〈一部〉《だれか》を失うことは悲しいくせに、傷口自体に生理反応として訴えるものがないなんて、そんなの」 「つまり……」 「おまえは自分が、殺人無痛症であると言いたいのか?」 「ええ、先天性のね。ほら言うじゃない、万人殺せばなんとやらって」 「私はそれを何のストレスや葛藤もなく行える人種みたいよ。ふふ……ほんと、どうして戦国時代に生まれてこなかったのかしら」 英雄と呼ばれる人種はみな賞賛された殺人鬼……そんな言葉は、果たして誰が言っただろうか? 血や内臓を見ても感じるものがなく生理的に催すものが一切なければ、人を殺すことにおいては確かに得で、類まれな資質であり、同時に看過できない欠点だ。人の死という事象の重みを自然と軽くしてしまう。 なにせ胸が痛くならないのだから。痛覚のない人間にとって傷とは怖いものじゃなく、単に減った欠けたというだけで流れる血さえ他人事に近くなるのだろう。 苦しいのは倫理観があるゆえで、だから我堂はこうして自分に絶望している。拭い去れない生まれ持った無痛の性を心の底から恥じていた。 「だから、あんたが羨ましい」 その負い目から、尊敬の念すら俺に向かって送るのだ。 「当たり前のことを当たり前に感じながら、ちゃんと真っ直ぐに努力していけるあんたが眩しい」 「そして思うの、こんな私があんた達の仲間でいいのかって……!」 自分の身体を抱きしめながら怯えて、惑って、震えながら雨に打たれているかのように……我堂は今、己を信じられなくなっている。 「私は、いったいどうすればいいの?」 「教えてよ、柊……ほら、何か言ってちょうだいってば」 「こんな〈殺人鬼〉《えいゆう》の才能なんていらないのに、あんたやみんなと同じ、真っ直ぐな目線で生きていたいのに」 「どうしても、そう思うことだけは拭い去ることができなくて……」 「私は、私は……ッ」 今にも崩れ落ちそうな、その姿。 自分の本性ともいうべきものを自覚して、それを何度も考えて思い悩んでいる我堂に、俺は── 「強いな、おまえは」 「え?」 抱いたのは純粋な敬意だった。だってそうだろ。 「目を逸らしていれば楽なのに、そうやって自分と向き合えるところは強さじゃないか。俺の方こそおまえのことを眩しく思う」 「んなっ、な、な、なな……!」 「だからまず、俺の感じるところを聞いてくれ」 顔を真っ赤にしたこいつへ畳みかけるように言葉を重ねた。しっかりと相手の目を見返して何の心が必要なのかを考えながら、一つずつ形にしていく。 「才能それ自体が望ましいものじゃない、という我堂の葛藤はよく分かった。相手と価値観を共有できないのは苦しいことだし、それが倫理的に許されないことなら煩悶するのは当然だ」 「けれど歴史上、それはおまえだけが持って生まれた特徴じゃないのもまた事実だろう。西暦の中から拾ってきても、それこそ同属ともいうべき輩はごまんと生まれてきたと思う」 「そしてそれぞれ、争いのある時代に名を馳せた。戦争で活躍する傑物なんかも、何割かはそういう性を持っていたんじゃないかと思う」 無痛であることを勇敢だと賞賛され、戦場を蹂躙した歴史上の〈英雄〉《ヒーロー》たち。彼らが求められた時代と場所は争いが日常であった過去のものだが、問題なのはなぜそういう連中が台頭してきたのかということ。 おそらくそこに理由はない。遺伝子の悪戯か、環境の生んだ傑作か、はたまたあるいは……どれにしても才能が生じることそれ自体は、決して止められないことなんだろう。 「だからそういう資質自体はきっと、どうしてもランダムに一定数生まれてしまうものなんだ。たまたま生まれ持ったその特徴を否定することは出来ないし、本気で防ごうとするつもりなら人類そのものを消し去るしかない」 「それなら、私はやっぱり……」 「けれどっ」 だから言わせてもらおう。最低な業を有して生まれたから、以降もずっと最低である、なんて論は美しくない。 「その才能を使うか否か、活かすことを肯定するか厭うかは本人に任された最後の引き金なんじゃないか?」 「自分を強く律することで、社会の〈規範〉《ルール》を冒さないよう厳重に封じ込めておく。そういう正しく在ろうと努力すること、おまえにとっても得意技だろ」 「そして我堂にそれが出来たなら、似た奴らにも説得次第じゃそれが出来るようになるだろうし──」 「同じ苦しみを背負った奴に、道を示せるってことにもなる。それは、柊四四八だと決して出来ない類のことだ」 言葉や想像でしかその苦しさを感じ取れない以上、本当の想いは決して相手に伝わらない。必然、俺では何をどうしてもそういった人間たちを腹の底から分かってやることができないから。 逆に言いかえたのならば── 「それが出来るのは我堂だけだよ。おまえが辛いと思うぶんだけ、だからこそこれからやれることがあるんじゃないか?」 「たとえば、そうだな。そいつらが余計な才能を発揮せずに済む世界を、これから創ってみるとかさ」 「私が、創る」 「現に今まで、おまえは自分の特性に気づかないままこうして生きてこられただろ? 夢の中に入らなければ生涯それを自覚することもなかったはずだ」 「治安がしっかりした社会では、殺人現場とまず出会わすこともないからな。そうなれば後は、せいぜいホラー系の映画に耐性のある奴ってぐらいにしか思われないし、自覚しない」 「生きてから死ぬまで、ずっと、その性を自覚せずに生きられる」 「だから」 「だから」 「規範を持って、真っ当な価値観のまま最後まで生きられるように」 「そういう〈社会〉《みらい》を目指せばいいと、あんたは私に言いたいのね?」 「ああ。仁義八行に倣うなら、礼の心」 社会を健全に運営するためには必須となる道徳、倫理、敬意の精神。決められたルールと、隣を生きる他者へ一定の理解と配慮を持って生きようという誠実さ。 世の中を存続させてきたあらゆるものに礼節を保って接することこそ大切であり、それがあるから人は人らしい共同体を形成して、歴史を紡ぎ続けてきたんだ。 それはとても地味で、英雄の行う勝利や殺戮といった華々しさはないのかもしれない。けれどいつだって社会的な土台を支え続けてきたのは、そういう類の精神だろう。殴る蹴る、蹂躙する殺す奪う、あげく何も感じない……だなんてそんなものでは作られていない。 だからそこを目指すのはきっと誇らしく、素晴らしいもので。 おまえが追い続け、求めてきた理想の自分だと思うんだよ。 だから、そうだろ我堂。 「おまえにはそれが相応しい」 「うん」 頷いたこいつからもう暗い陰は感じられず。 「その時は、あんたも協力してくれる?」 「当たり前だ。むしろ呼ばなかったら押しかけるぞ」 殺人無痛症に生まれた奴が、その才能を自覚しない世界を創る……いいじゃないか、遣り甲斐がある素晴らしい夢だと思うし一口乗るのもやぶさかじゃない。 そういう未来は大歓迎だし、むしろこっちから協力させてもらいたいぐらいだった。何よりそれをやるのは我堂鈴子、やってやれないはずはないだろ。 なにせこいつは、俺と張り合える女なんだからな。この辺でビシッと自信を取り戻してもらわなければ調子が狂う。 「なに、おまえならきっと出来るさ。なぜなら俺はあの時の力強い手を覚えている」 「人をより良く導ける力と覚悟、生まれ持ったカリスマというのか……指導者としての素質は充分にあると思う」 「そ……そう、なのかしら? 真顔で言われると、その、なんか逆にあれっていうか」 「失礼な。嘘などつくか、これは前から思っていたことだ」 「自信を持てよ、大丈夫だ。ずっとおまえを見てきた俺が言っているんだぞ、間違いない」 「ほ、ほほう……そう、ずっと見てきたのね。ずっと」 「まあ、ライバルだからな。おまえ」 「へえぇぇ……」 「認めている分、胸を張ってほしいと思うし」 「ふんふん」 「多少はねっ返りの方が、俺としてもやる気が出るから」 「ははぁーん」 「それで、まあ、なんだその……」 「ほらほら、どうしたのよ柊くん」 「ねえ、続きは? 続きは? なんにも恥ずかしがらなくていいのよー」 「ほうら、その貧しい語彙を搾りに搾って、もっと私を褒め称えなさい」 「…………」 ……なるほど、立ち直りが早くて結構だよ。起き上がりこぼしのようなメンタルで、正直呆れるほどのタフネスじゃないか。羨ましいぞ。 なんかもう鼻高々にして調子に乗り出してきた感がやばいので、ああもういいだろ、サービスは終わりだ。ここらで何か一発かましてやらねばなるまい。 さあ、やるぞ柊四四八。かませよ見事なカウンター。今の我堂を一発で黙らせる台詞はこれだっ! 「ああそうだな、そんなおまえが大好きだよ」 「何度言い負かされてもへこたれず突っかかって来る姿なんか、とても可愛らしいと思っている」 「そんなおまえが、とても大事だ」 「対等に競い合える素晴らしい相手だと思っているよ」 「ふひゃッ!? あ、あああんた、いったい何を……ッ」 と、手を握りながら伝えた瞬間、一発で茹で上がりながら飛びのいた。やはりこの辺、素直な奴だよなこいつは。 あわあわと平静を装おうとした先から失敗し、愉快な百面相をしている姿に胸の内で大きく溜飲が下がった。馬鹿め、男を舐めるでないわ。にやけそうになる顔を隠しながら我堂の動揺をさらっと流す。 「ん? 何がだ? 俺は本当のことを言っただけだぞ」 「だからそれが、その……ぬぎぎぎぎっ」 まあこんなものだな、会話のペースを握ろうなど十年早い。ということで。 「よし、俺は言ったぞ。満足か。ならば今度はそっちの番だな」 「おまえ、俺のいいところを言ってみろ。そうだな、十個連続でどうだ」 「は? ちょっと、それって確か──」 「問答無用だ、ほれスタート」 「っ、ええっと……」 「嫌味眼鏡のイメージまんまで」 「おい」 「がり勉ぽいのに運動出来て」 「こら」 「全然私を敬わないし」 「ああ」 「ある分野だけ意外と鈍感」 「そんなことはない」 「そしてタラシ、しかも無自覚。タチ悪い」 「名誉棄損だな」 「かと思えば、たまに妙にドキッとさせるし」 「なんだそりゃ」 「もしかして実は狙ってる?」 「だんだん趣旨がズレてきてるぞ」 「後は、女装すると下手な女性より受けよさそうとか」 「そっち系の妄想が一部で捗るだろうなー、って私たちの間で盛り上がったことくらい? ちなみに和服着せたい派が多かったわね、私とか、水希とか」 「こう、帯引っ張ってあーれーってしたらいい声しそうっていうか」 「……おまえが俺をどう見ているのか、よーく分かったよ。感謝する」 どうやら我堂のみならず世良たちにも聞かねばならないことが出来たらしい。修学旅行の時然り、あいつらどうしてくれようか。 「それで……」 最後に、俺の目を真っ直ぐに。 ここだけは茶化すことも誤魔化すことも、慌てることもなく見つめながら。 「何が大事なことか、常に見極めようとしているところ」 「あんたがそういう奴だから、私にも道を示してくれたわけだから」 「本当に、ありがとう」 「お、おう」 思いがけずストレートに来るものだから、思わず気の抜けた返事しかできなかった。 まずい、顔が赤くなってはいないだろうか。我堂もなんか、言った後で自覚して照れくさそうな顔をするな。変な空気になってるだろうが。 「な、なによ、もっと喜びなさいよ……馬鹿」 「いや、なんだ……」 ほんと、何だこれ? まさかアレか? いやいや、ありえん。我堂だぞ、こいつ。 「……えっと」 「……その、ほら」 「分かるでしょう! ほら、このシチュならこう……」 「分からん、いったい何がだ。はっきり言え」 「ああ、もうッ、そこらが特定分野だってのよ! 今更カマトトぶっちゃってさァ、女から言わせようとか企んじゃってさァ」 「ていうか何よこれ、本当どういうことよこれ、期待してる私の方が痴女って言うわけ? 鈍感ぶって人様ヨゴレにしてんじゃないのよ、このヘタレ、むっつり、送り羊! 絶食男子か、EDか!」 「悔しかったらおっ勃ててみせろオラァァッ!」 ほう── そうか、不能と申したか。ああ許せん。 やはりこいつら、どうも男を舐めてる節があるな。いいぞ、腹をくくってやろうじゃないか。 「言ったな、上等だ」 「へ? ん、──むぐぅ!?」 ガツンと一発かますために、まずは正面から接吻をかます。 ほうら味わえ、甘酸っぱいかよこの残念女子が。レモンやイチゴの味などと初心なことは言わせてやらんぞ。 がっちり捕まえていた頭を離してそのまま額を打ち付けた。まだ混乱している我堂に向けてにやりと笑い、きっぱり決意表明をば。 「覚悟しろよ、男の本気を見せてやる」 言って、身体を抱き寄せた。肉食男児を舐めるんじゃない。 「ち、ちち、ちょっと……何雰囲気出してんのよ」 「雰囲気出してるのはおまえだろ。もとい、これで望み通りなんだろうが」 ふと周りを見渡せば、いつもは大勢いるサーファーたちがなぜかまったく見えないし、不思議なことだが好都合ではある。 「は、はぁぁぁ? あ、あんたが勝手にやらかしてるだけだしー? そりゃまあ、その、勃つとか勃たないとか言ったけど、その」 「だからここで、本気を見せてやると言っているんだよ」 頭に来た。こちらとしてはやるべきことをやる。こいつの意志がどの辺りにあるかは知らん。 ただお互いの雰囲気は悪くない。俺の一方的な考えかもしれないが。 「ふぅ……んっ……い、いいわよ。やってやろうじゃない」 「骨抜きにしてやるんだからっ、この──」 「なっ」 結構な大声を上げて、我堂が突然膝をつく。 しかもそのままの体勢でズボンを破るほどに引っ張り、静止するまもなく、手早い動きで俺自身を外に引っ張りだした。 「う、うわ、うわ、うわああぁ……」 「ちょ、ちょっと、やだ。なんで勃起してるのよ!」 そして、威勢がいいのは最初だけでテンパり始める。 こいつのこれはもはや様式美か。 「ま、まぁいいわ……そ、その、コイツを私が、たっぷり感じさせてやるんだから!」 よく分からん。とりあえず、このまま暴走したこいつに捻り切られるのもあれなので黙っておこう。 「え、えーっとぉ……触っていいのよね? 大丈夫よね? 折れたり加熱したりしないのよね?」 ただ、不安は著しく残るが…… 「ん、うわ……なんかこれ、いやらしい。うん、匂いが……その、鼻をくすぐっているんだけど」 「手触りからして、こんなだし……あ、意外とすべすべしててなんか生意気、っと」 おずおずと、それでいて興味津々に手を上下に動かし始める。 「むう……これ、でかいのかしら? 小さいってことは無さそうだけど、こんなの入るとは思えないし」 「とりあえず、うりゃ!」 「っ!?」 「おお、びくんってした……ふふ、なんだ気持ちいいんじゃないの」 「ええ、いいのよ! 気持ちいいならいいって口に出したって。私はなんとも思わないからねっ」 いやいや、いいわけなかろう。単に敏感な場所に爪が当たったのでびくついただけだ。どっちかといえば痛い。 「ふふん、強がっちゃって。いいわよ。ちゃーんと気持よくしてあげるわ」 「さぁ、こうやって扱いて――」 「……丁寧に優しくしてくれ。その、ひりひりする」 「うぇっ? わ、分かったわよ……こんな感じで、どう?」 この指の感触、手の動かし方なら充分気持よくなれそうだ。 ちょっと刺激としては物足りないが、仕方ないだろう。というより、遊び道具にされていると言った方が正しいか。子供の泥遊びを監督している気分になる。 「ふぅ、んっ……これ、結構疲れるのね。ずっと同じように動かしてるから、手首にくるっていうか」 「ね、ねえ気持ちいいの? どうなの? なんで黙ったままなのよ」 「悪くない」 「……本当に? よし、それならいいのよ。うん」 まあ悪くない、というのは及第点にギリギリ届いていないということなのだが。初めてなんだから加減が分からないのもがあるが、やる気が空回りしている。 ただ本人的には、気分が盛り上がっていくわけで。 汗ばんだ手が徐々に滑りをよくしていく。そしてスムーズになればなるほど、よりノってくるのがこいつだった。 「ん、慣れてくるとなかなかいい光景ね」 「この私に、柊が、一番の弱みを扱かれてるってのは見ものというか……見世物としていい感じだわ」 「どう? 感じてきた? ほら、なんとか言いなさい──って」 「う、うわ、なんかぬるぬるってこれ……ま、まさか!」 「ああ、あんた、幾ら気持ち良いからって勝手に出しちゃったんじゃないでしょうね!」 「違う。その前準備、みたいなものだ」 というか、おまえ……保健体育は履修済みのはずだろうが。先走りも分からんのか。 「えっ……あ、そうなんだ。びっくりした……」 「……ちょっと、変な顔しないでよね。ええ分かってたわよ充分に」 「明らかに反応がアレだったろうが」 「いいえー、ビビッてませんー、単に辱めてやろうと思っただけでございますー」 「でも、これも私の手コキが気持ちいいってことでしょう! ほうら、安心してイッていいのよ? 泣いて頼めばさすがの私も鬼じゃないから──」 「いいから、もうさっさと舐めろって」 なんか面倒臭くなって来たので、我堂の髪を掴んで、無理矢理口の中にペニスを押し込んだ。 「んぶふうぅぅぅっ!?」 「ちょ、こら、んっ……んんんんっ!」 「んぐうぅっ、ふ、ふむぅっ……ふううぅっ……うぶふうっ」 何か色々文句を言っているみたいだが、勝負という方向でなにやら合意したらしい。それなら、という感じで一丁前に反撃を試みようと口を動かし始めた。 「んふぅ、りゅぅっ、ちゅぅっ、んぐぅっ」 「はぁ……ふん。どうよ、ざっとこんなもんだわ。じゅるぅっ、はむぅ……」 「ちゅぅっ、ちゅぱっ、ちゅぱっ! じゅるぅっ……るろぉっ!」 なかなか悪くないェラチオだが、やはり初めてゆえか詰めが甘い。 お陰で達する可能性は現状ゼロだった。とりあえず咥えさせたまま好きにやらせてみよう。なにやら本人的には改心の出来らしいし。 「ふむぅ、じゅるぅっ、はむぅっ……るちゅぅっ! れろれろれろれろ……るちゅぅっ! ちゅっ! ちゅぴっ!」」 「はふぅ……れろれろ……ちゅぅっ! ちゅぅっ!」 一生懸命の口淫に俺も随分と感心し、気持よさを感じようとする。だんだんと申し訳なさというか、これほど頑張っている相手を見てしれっとした顔というのも悪いという気がしてきた。 「はむぅ……んぐぅっ! じゅるぅっ……ちゅぱっ! ちゅうぅっ……じゅるぅっ! ちゅっ! ちゅっ! ちゅううぅるぅっ!」 「ふう……ど、どう? これとか、中々気持いいと思うんだけど」 実際、こうして時折従順だ。ぬめる舌使いなど何処で知ったか、頬の内側での亀頭責めはなかなか楽しませてくれるようになるが。 「まあ、努力は買う」 「む、言ったわね……なら見てなさいよ。あむっ」 「ちゅっちゅっちゅぱっ! はぁ……んっ……れろれろれろ……りゅちゅ、るちゅっ、はむぅ……じゅるじゅるぅぅ、ちゅぱっ!」 こんな感じに、褒めるところっと態度が変わる。扱いづらいというか、いやこの場合は扱いやすいのか? 「んっ。まだ、んくっ、これなら──」 そう言って、俺のモノをガブっと根本まで咥え込む我堂。 触れ合う面積が増えたためにさっきよりずっと気持ちよくなったのだが、無理に行き過ぎの結果を求めて張り切る姿は……何かとても嫌な予感のするものだった。 だいたいこういう時、碌な結果にならないのが経験則で――そしてやはり。 「んんっ!」 「───、ッ!」 激しい痛みが亀頭の辺りに走る。やっぱりやりやがったな、こいつ! 「この戯け、噛み付く奴があるか!」 「しょ、しょうがないでしょ! こんなことするの初めてなんだから!」 「それに、なんかさっきから余裕だし……あんたもしかして非童貞? だったらむしろ私がリードして欲しいところなんだけど?」 「……俺は童貞だ」 「うわ嘘くさっ。だってここまでやってるじゃない!」 「嘘なものか、俺だって相手は選ぶ。無闇に女遊びをするつもりはない」 「あ、そう……」 「あれ? それって私、もしかして──」 「隙あり」 こいつに任せるのはあらゆる面でやぶさかじゃないと痛感した。 なので覚悟するがいい、今度は俺の番だ。童貞を舐めるなよ。 「あ、あの、分かってるわよね?」 「初めてなんだから、あまり乱暴なことは……」 などと、体勢の主導権を握られたせいか急にしおらしいことを口にしている。 確かにまあ、そういう態度なら俺も出来る限り紳士的にいこうと思っていたのだが。 「でも、童貞にがっつかないでっていうのも無理よね。うん」 「よし、脱がす」 もはや慈悲無し、容赦せん。一気にパンツを脱がしてやると、そこはしとどに濡れていた。 「ひゃあぁっ! んな、なななな、見ないで! こら、見ないでよぉっ!」 ……見なかったら入れにくいだろうに。そもそも未通女だったら尚更だ、痛がって泣かせるだけというほど鬼畜ではないつもりだぞ。 「うううううぅ……いつかやり返してやるぅ、復讐手帳に書いてやるぅ」 「あああ、んんっ……弄るな触るな広げるなぁッ」 可愛い声が漏れた。指が膣口に触れたからか。触れた途端、性器全体が痙攣したように蠢き、奥からとろりと大量の愛液がこぼれだした。 素直に気持ちいいのは確かなようだが、どうしてこいつはこんなにやかましいのか。 堂の尻を掴み、俺自身を愛液に馴染ませる。初めてはたぶんどっちも痛い、と小耳に挟んだのはいつだったか。 「はぁ……ああ、うわ、うわ、うわ」 「い、いま擦ってるのって柊のよね……なんか、すごいぬめっとしてるんだけど……んんっ……」 「ひゃぁうぅっ……ちょ、ちょっと痛い! ……え? これ、指よね? 指突っ込んでるわよねこれ絶対ッ」 「ああ無理、無理無理、絶対無理! これでも違和感凄いのに、あんたのあんな太いのが入るわけないでしょうが!」 「だからこっちも準備がいるんだよ、暴れるな。それに柔軟性があるから大丈夫だ」 たぶん。 「ほ、ほんとう?」 「ああ」 おそらく。 「なら……い、いいわよ、受けて立とうじゃないっ」 やっとおとなしくなってくれた。これだったらどうにかなるかもしれない。俺も気を遣うことが出来ると思う。 割れ目にペニスを擦る。陰茎の存在を感じたせいか、あるいは腹が据わったからか。愛液はさっき以上に溢れ出ている。 「じゃあ挿れるぞ。充分濡れてるし、こっちも準備は終わった」 「えーっと、その。やっぱりもっと良いタイミングを測ってとか――」 残念、もう遅い。我堂の尻を鷲掴みそ、そのまま開ききった膣口に亀頭を強く押し当てる。 ぬるんとした粘液と愛液と充血で滑らかになった粘膜が、俺のモノを受け入れていった。 「くっ、ひぃっ……ふああああああああああああぁっ!」 みしりという肉の裂けるような感触。 それが俺の陰険にも伝わる。痛いだろうが、ゆっくりやっていたらますます酷くなるだろうし、時間も掛かる。 可愛そうだな、とは思うがお互いのためだ。更に腰をぐっと押し込んだ。 「きゃあああああああぁっ! ああぁぁっ、い、痛っ!」 「あ、あああ……ぐぅっ……なんか、すごい圧迫感が……んんっ!」 ずぶりという感触を経て、俺のモノは完全に埋没した。絡みつく肉壷が俺の陽物を包み込む。 意外にも我堂は暴れない。暴れる余裕も無いのかもしれないが互いにとって幸運だろう。おかげで傷口を刺激することもない。 なので動かず、まずはこの体勢を維持しておく。痛いであろう女には悪いが、これでも男にとっては充分気持ちいい。 「ふぁ……ん、くぅっ……ねえ、柊。まさか、このまま何もしないつもり?」 「まさか私に気を使ってなら、はぁ……別に構わないわよ。こんなの全然、平気なんだから」 「無理に強がるなよ、こんな時ぐらい見栄を張らせろ」 「……ん」 渋々と、あるいはほっとしたようにそのままの体勢で固まることしばし。 そうなると、不思議なもので今度は逆にこの状態が恥ずかしくなっているというか。 こいつと密着していることをより確かな事実として感じてしまい、落ち着き難い感情が沸々と湧きあがってきた。それに耐えられなかったのは、我堂が先だ。 「ね、ねえっ、そろそろ動いても大丈夫なんじゃないかなっ」 「このままあんたに押さえつけられてるのも癪だしぃ? なんかこの体勢なのも疲れるしぃ? さっきから吐息とか体温感じてるとこう、落ち着かないっていうかなんていうか、ああもうさっさと動きなさいよォ!」 「そうか……じゃあ、少し我慢してもらうぞ」 「わきゃあああっ!」 声に混じっているのは痛みだけじゃなかった。これなら問題ないと思ったので、それなりに動きを早めていく。 なるべく互いに負担がかからないよう心がけながら、少しずつ、少しずつ。そして徐々に打ち付ける動きを滑らかに。 「ひぃっ、あっ……こんな、激しくしたら、こ、壊れちゃうっ」 「あっ……うああっっ! 中っ、中ぁっ」 「違うん、だから……こんなの、気持ちいいんじゃないってのぉっ……あああああああぁっ」 説得力ゼロの反応だ。面白いと思うと同時に興奮し、激しく腰を動かす。蕩けた愛液が後から後から溢れ出ている。この複雑な感触の中で快楽を貪る。 「ふ、ふわふわしてくるぅっ。な、何よこれぇっ……もぉっ……やだぁっ」 「きゃああっ! あああっ! ああああああっ! な、なんで、そ、そんな激しい……んんっ!」 「激しいも何も、こういうものだろうが」 「うそ、おっしゃい。あんたが好きだけじゃ、ないの……? こんな時ぐらい、少しは素直になりなさいっ」 「私は多少痛いけど、そこそこ……そ、そう、あくまでそこそこ、気持ちよくて……」 「わ、悪くない……わよっ?」 そう言ってきたこいつの顔が、不覚にも滾るものがあって。 俺は全力で打ち込んでいく。自分が気持ちいいように、感じるように、責める。膣内の粘膜の擦過がどんどん互いに高みに引き上げる。 その度に滑る愛液は量を増やし、粘着音がいやらしく響き渡る。そして、甘い匂いの汗も俺たちの間に立ち込めていく。 だが、俺の予期しないことが起こった。いきなり、身体がふるりと震え出したのだ。それに合わせて膣内もぎゅぅっと収縮する。 おいおい……これは―― 「あっ、ああっ、なにこれ、んひぃっ……」 「身体が、勝手にっ、止まらな──ぁ」 「や、やぁっ、い、イッちゃうぅっ! イッちゃうううぅっ!」 「おいおい」 イッてしまった……それも盛大に、俺がまだというのに。 男としての達成感と、不完全燃焼と、こいつ末恐ろしいなという感心が絶妙に交じり合うこの気持ち。なんなのだろうな、これ。 「こ、こりゃぁ……ひいらぎ、なんでいっしょにイかないのよぅ……」 「わらしだけ、イッちゃっうとか……ありえないぃ」 ……いや本当に末恐ろしくないか、これ? 初めてでこの蕩けぶりなら、ある程度経験を詰めば本気でどうなってしまうんだろうか。 なんとも如何としがたい戦慄を隠しながら、まあ、ともかく。 「……こういうこともある、と思うぞ。たぶん」 「おまえにしても頑張ったんじゃないか?」 俺としては不本意だが。 「んむぅ……それって勝ち逃げするつもり?」 「そんなつもりは毛頭ないが」 「なら、ちゃんとあんたも最後まで達しなさいよ……私だけがいいようにされたなんて、なんか悔しいじゃない」 「せめてイーブンには持ち込みたいっていうかさ」 「イーブン、って何がだ」 「いいから! か、身体を貸しなさいよ!」 まあ、それもいいか。こいつのやりたいことに付き合えば、こっちも面白いし。今度こそちゃんとした結果が得られるだろう。 俺を押し倒してその上に我堂は跨った。いわゆる騎乗位へと移行する。 しかもがっちりと押さえ込まれるように体重をかけている辺り、梃子でも逃さないという意思がひしひし感じられるのだが。 「こ、こら。そんなにジロジロ見ないでよ!」 「おまえが自分で押し倒したんだろうが」 勢いで行動しているせいか恥ずかしがるな、理不尽な要求をされてしまう。 「ふぅ……けど、これってまだ萎えないのね。骨が入っているみたい」 丁度の割れ目の間に俺のモノが置かれている。触れているせいか、さっきの絶頂で漏らした愛液が滾々と溢れてくるのが分かる。どうやら痙攣に合わせて吐き出されているらしい。 「な、何よぉ……なんでも分かってますみたいな顔して。そういう顔が憎たらしいんだから!」 「もっとこう、ケダモノみたいにぐへぐへしたり。あるいはこう、私の美貌に改めて見惚れてみたりとか……あるでしょっ」 「いいから始めろって。今度は俺の方がまな板の鯉なんだぞ」 「……くぅ、こんな状態でも主導権を握っているつもりなの?」 さっき一方的に絶頂させたのはこちらだったから、客観視すれば握っているのは俺だろうな。 「ムカつくわね……ふん、いいわよ。すぐにあんあん言わせてやるわ」 「ほら、入れてあげる……ん、ひぃっ!」 じゅぶりと、愛液が吹き出した。余裕ぶって最後で悲鳴を上げるところがこいつらしく、それが何か日常的で倒錯した感情を促した。 甘ったるい我堂の匂いが鼻腔をくすぐる。俺自身もそれに強く反応した。 「あはっ、ふ、ふぅん……なにかしら、これはぁ? 興奮したってことよねえ?」 「ああ、した。興奮するし、気持ちいい」 「ふえ? そ、そう……なら私としてはいいけどね。んふ」 押せば押し返し、引けば引き返すとはこのことだな。こういうところが、本当に操縦しやすい。 「うぐ、またその顔……ああもう、動くわよ」 「こっちからしないと、あんた、気持よくないもの……ねっ」 ……そうでもないのだが、このまま突き上げれば我堂の方がぶっ飛ぶのは目に見えている。だから黙ってこの強がりを受け入れよう。 「あ……くぅっ……まだ、ちょっと痛いけど、んんっ、ほんのり気持ちいいっていうか」 「あんたは……その、気持ちいい?」 「そうだな。それに、いい見応えだ。さっきじゃ分からなかったが……」 俺の視線を追い、次いで顔を真赤にする。だがこの結合部こそが快楽の源なんだからしょうがないだろう。 「み、見るな! ああぁぁぁ……変態変態、見るなってぇっ……」 「じゃあ、よがっている我堂の顔を見よう」 「こ、こっちも見ちゃやだって……んんっ、ふあぁっ!」 「くぅっ……ああああああっ! や、やだぁっ……恥ずかしいぃっ!」 恥ずかしがっている我堂の膣内がグチュグチュと蠢き、それも快楽を加速させるものになっている。 俺は腰を引き抜き、結合部を晒す。彼女の言葉通り、ぐっしょりと濡れそぼり、引きぬいた間には愛液の糸が幾筋も張り付いて広がっていた。 「あ……ああうぅ、だめぇ、見ちゃ……やだ……」 「こんなの、恥ずかしすぎて……」 その態度がまた、普段のこいつからかけ離れたギャップを掻きたてる。 「おまえって案外、魔性の女なのかもな」 「うぅ、何がよ……っ、ひうッ!」 我堂は俺の上で腰を振る。さっきに比べればずっとずっと楽に、気持ちよく腰が振られている。ぐちゃぐちゃといやらしい音が響いていた。 その感触を反芻するように、ゆっくりと長く腰を揺する。普通の体位だったら長いストロークを打ち込んでいくことになっただろうが、代わりに騎乗位では短いスパンで何度も何度も往復していく。 「はぁ……ああ、んんっ。上手く、呼吸できなくなってる、かも……凄い」 「なんだか、動悸が激しいし……私、おかしくなってるのかな……んんっ、ふあぁっ、ああああ……」 「やだ、エッチなのいっぱい出てきて。腰がずるずるって……凄い、熱いの、感じちゃうから……あ、あああっ!」 響き渡る水音。ぬめる膣内。俺自身は、騎乗位で翻弄されるように責め立てられるし、責め立てている。 びくつくたびに先走りが漏れ出て興奮していることを雄弁に語った。 「ダメ、これ……気持よすぎてっ。もう、満足に動けない……っ」 「休んでも別にいいんだぞ?」 「それは、もっとダメっ」 「私だって動くの……こうすれば、一緒に気持ちよくなれるし──じゃなくて、うぅ」 「あんたから、搾り取ってやるんだから……んあああぁっ」 そうか、ならその負けん気に敬意を評そう。 ということで、目の前で揺れ続けていた我堂の乳房をぎゅっと掴み、乳首を攻め立てた。 「ひゃあああああぁっ! い、いきなりどこ触って、んひぃっ」 「ああ、あああぁ、エッチしながらおっぱい、だめぇっ! おかしく、なっちゃう……」 「い、イジるなぁ、揉むなぁ、おかしなっちゃうぅっ……」 そういうなら激しくするのが必然。指でぎゅっと乳首を責めていく。 我堂の首がぐんと仰け反った。痙攣するように震え、言葉は出ない。それよりも雄弁に膣内が語る。俺のペニスを責め立てるようにうねり、締め上げ、圧迫する。 「はぁぁ、ぁあああ、あ……やだ、電流が全身に流れたみたいでおかしく……なるっ」 「あそこも別の生き物みたいに、びくびくして。こんな……柊に、童貞なんかに良いようにされるだなんてぇ」 さりげなく貶してきたが、まぁいい。戯言をいちいち聞いている余裕はないから、このまま突き上げていこう。 胸を、乳首を責めれば黙ってでも、腰が動くだろう。そうなれば、充分互いの快楽を高め合うことができると思う。 「くぅっっ……きゃうぅっ、んんんっ!」 「こんな、お腹の中、暴れてるみたいで……はぁっ、んんっ!」 「びちゃびちゃって……奥から、子宮から、いやらしいのいっぱい漏れ出てきちゃってる感じがするぅっ……」 充分俺の方も感じている。我堂の興奮と快楽。それがダイレクトに性器に現れている。チラチラと見える結合部も随分といやらしくなっている。 びちゃびちゃと溢れ出す愛液。そして、セックスの汗で湿る肌と荒い呼気。俺たちの快感を示すのは、体温と音と、感触。 性器の中が、ビクビクと震え始めた。 「もぉ、い、イッちゃうかも……すぐに、イケるかも……」 「だから、あんたも……今度こそ一緒に、んきゅぅっ」 「安心しろ、こっちも正直限界手前だ」 俺は我堂の反応に合わせて、腰を派手に動かし始める。リズミカルな粘着音。そして、膣内の反応。何もかも、高みに上るためのプロセス。 タイミングを合わせるためにもピッチを上げ、刺激をしていく。共に高まっていくのが分かる。 「ああああ、だめぇ、こんなに刺激されたら……もう、ッ!」 ここまで来ては聞く耳持たない。我慢してもらおう。それで互いの絶頂がずれるならずれるで仕方ない。 ピッチは最高潮になった。そして、同時に我堂の膣内も最高潮の反応を見せ、俺のモノを刺激しうる。 めちゃくちゃな痙攣。派手な律動。一気に快楽が叩き付けられた。 「ひぃっ、またイッちゃうぅっ! ひっ、ぁぁッ――」 「イクうううぅぅぅ────っ!」 今度は我堂の絶頂に合わせて俺も達する。 「ああ、あああああ、んぅ……はひゅ、ひぅ……」 「いっぱい、いっぱい……出て……るぅっ……んんっ!」 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……くぅん」 無意識だろうか、甘えるように身体の密着を深めようと火照った身体がすり寄ってくる。 互いの熱を感じながら放り出さないように配慮して、そのままゆっくり引き抜くと── どろりと俺の精液が溢れ出る。それを見て、今更だがえらいことをしてしまったという気分になるが。 「はぁ、ぁ……んんっ、はうぅ────はっ」 「ま、まあ……なかなかのお手前だったわね。褒めてあげるわ、感激しなさい」 「……ありがたき幸せ」 と、最後ぐらいは花を持たせてやることにして。 意地を張るように始まった俺たちの情事は、ひとまず幕を下ろしたのだった。 「……ねえ。 私たち、本当にこれでいいわけ?」 ふと、身体のほてりも消えた頃に我堂が俺を覗き込む。 「このまま今日を、明日を、普通に過ごして……それで本当に帰ってきたって言えるのかしら」 「〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。なぜか、そういう気がするのよ」 「おまえもか」 鼻先がくっつくほどの距離で見つめ合う視線には不安の影がよぎっていた。当たり前に時間が流れていくことが腑に落ちない、その感情は決してこいつだけのものじゃなかった。 帰り着いた? これで、朝に? 確かにそうだが、納得できるか。 全員で生き延びれたのならばこの顛末にも一応の納得はできただろう。だが栄光は死んだ、死んだんだ。それと引き換えに掴んだ未来が途中でレールを外されたようなものであっていいはずがない。 こんな中途半端なもののために俺たちは夢に挑んだわけじゃないんだ。確信がある、何も終わってなんかいないと。 「そうだな、不思議と俺も同じ気持ちだ」 「まだ何か、大切なことが残っている。それを探すために再び──」 「ええ。そうね、もう一度」 二人で拳の甲を軽く合わせながら共に願った、一心に。 そして今度こそ邯鄲の真実に達するべく── 続投を夢に描いた刹那、俺たちの意識は螺旋のように舞いながら別の場所へと落ちていった。  聖と魔、その違いはどう定義されるだろうか。  天に住まうか、地底に住まうか。光を放つか、闇に潜むか。  広義的には清濁の違いによって分類される属性であるが、身も蓋もなく言ってしまえばそれはある一つの結論に到達するだろう。  人類の役に立てば聖であり、害をもたらせば魔であるのだと。  それは〈八百万〉《とうよう》のみならず、〈善悪二元論〉《せいよう》でも変わらない。信仰という薄皮を剥ぎ取ってみれば、実に分かりやすい道具論へ落ち着きを見せ始める。  たとえば、〈一角獣〉《ユニコーン》などがいい例だろう。  あれが乙女の処女性を象徴しているのは、見初めた女に加護や祝福を与えるからであり、角が霊薬の材料ともなるからだ。そういう伝承が存在し、同時に信じられているからこそ初期の基督教がかの馬を象徴として扱った。  これは魔物ではない、聖なる獣。神の遣わした御使いであると。  宗教が動物を神格化するのはよくある傾向の一つだが、この幻獣に限っては納得できる理由づけが潜んでいるのは言うまでもない。  要するに出会えれば得をするからだ……外見が美しいから、縁起がいいから。ゆえ教義に組み込んだ上、聖獣として奉っているわけである。  暴論かもしれないが、それは厳然と潜んでいる確かな利得勘定から来たある種の打算だ。決して教えの絶対性に殉じているだけではなく、非常に〈現実的〉《シビア》な幸福の物差しが聖なるケモノと認定している。  では仮に、これがただ未通娘を好むだけの色に狂った畜生としよう。  出会えば見境なく逸物を突きこみ、祝福も守護も与えず、強引に処女を散らしていななくだけ。  角は毒の塊であり、無色の白は神罰で色彩を奪われた痴れ者の証である……となれば、後は言うまでもないだろう。  一角獣とは単なる害獣。どうしようもない駄馬であり、邪悪な魔獣に過ぎないと人々から語り継がれることになる。  聖性であるか、魔性であるかというのはそういうことだ。うまく繁栄に利用できるための手段が確立されており、かつ人智の及ばぬ有用な〈権能〉《エネルギー》を持っているか否か。  それによって人は己以外の存在を、光と闇へ区分する。  ある意味、英雄と殺人鬼の関係とまったく同じものだろう。常人の手に負えない存在は役に立てば聖者と化し、敵対すれば魔人となるのだ。  すなわち、神魔とはあくまで人類側の勝手な〈損得〉《レッテル》に左右されるということを示唆している。  獣も神も、とりわけ人外への対応にはそういう傾向が顕著だろう。神野や空亡とて、見る者によってはこの上なく秀麗な姿に感じるかもしれず、相対する者によって万華鏡の如く得られる評価が変わってしまう。  よって── 「アアアアアアアァァァ──」  これもまた、聖獣であり同時に魔獣。  おぞましくも美しい、人類から定義される〈外側〉《かいぶつ》だった。  聖堂に響く呻き声は清らかな三重奏。讃美歌を歌う幼子のように、三つの頭部がステンドグラスに哀の嘆きをこぼしている。  声帯が繋がっているような一糸乱れない叫びは外見通り、畸形の証だ。見るも無残な状態で、キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワは歌う。謳う。  私はいま幸せで、どうしようもなく悲しいの。  なぜなら私は、私たちは、一つになれて、自由じゃないから。  閉じ込められた檻を掻き毟りながら、擦過音を楽器のように鳴らして嘆く。小鳥のさえずりより美しい音色はしかし、籠められた怨嗟の毒で聞く者を発狂させる歪な音色へと変貌していた。  ここにいては正気が狂う。まともじゃない。気が触れてしまう。尾を結び付けられた人狼の〈歌声〉《とおぼえ》は脳を冒して錯乱させる。  聖か魔か……少なくとも〈只人〉《ただびと》からそう名付けられるほど逸脱した存在のみが、この場で自我を保てるのだろう。既に破綻している者以外はこの聖堂へは寄り付けない仕組みであった。 「で、役に立ちますかね。この子たち」 「その時はその時だ。試金石として役に立ってもらうとしよう」  ゆえに、彼らにとっては畸形の憎悪もそよ風である。  悪鬼外道、あるいは神魔か。人の領域を超越した盧生と悪魔は、囚えたキーラを値踏みするように眺めている。  これが自らにとって有用な〈聖獣〉《まじゅう》たり得るか……それぞれの喜悦を含ませ、勝手な評価を下していた。 「────甘粕ッ、甘粕ゥゥゥ」  胡乱な眼光で狂乱しながら殺意を振りまいているものの、キーラは〈主〉《 、》に逆らえない。依然として甘粕の夢に繋がれている身の上であり、そのせいで格が定まってしまったのだ。  こうなっては呻き声も敗者の弁にすぎず、そしてそれが盧生というもの。主従の型に嵌められたなら、この〈邯鄲〉《せかい》ではもう終わりである。  別の盧生に繋がる以外、その呪縛を振り切る術はない。  何より、空亡という大龍神に比べれば魔導の末裔も見劣りする。異形の怪物へと身を堕としたキーラは遥か強大になっているものの、甘粕は清々しいほど余裕だった。  噛みつかんとする獣を面白がるように一撫で。汚らわしいと言わんばかりに殺気を叩き付ける魔獣へ、喉の奥で笑いを返した。楽しそうな男の様子に神野は思わず呆れてしまう。 「それ、なーんか虚しくなりません、〈主〉《あるじ》」 「いいやまったく、これはこれで愉快だろう」  死ね、死ね、死ねと一心不乱に呪う三つ首。それを聖なるかなとは言わないものの、それなりの愛着を籠めて甘粕は愛玩していた。 「懐かない犬のようなものだ。女一人にあてがう番犬としては、これぐらいが丁度いい。そのために本領へ近づけてやったのだからな。  先の出し物に比べて、見劣りしては悪かろう?」 「龍の次は〈三頭狼〉《けるべろす》。怪獣大決戦ですね、分かります」  けらけらと、物好きだと揶揄するそこに悪意はない。むしろその真意を過不足なく受け取って主の“清廉さ”に感心している。  まだ苦難をもたらしたがるのか。煽ったのは自分だが、甘粕という主はまさしく〈神〉《アレ》とよく似ている。愛する者へ基本的に容赦が無い。  たとえば複腕、たとえば複眼、あるいは逆に欠損した四肢〈片端〉《かたわ》……それらは荘厳な見てくれを持つ常識外の怪物だ。視覚情報という非常に分かりやすい部分から、人間という生き物を逸脱している。  仰ぎ見られるか嫌悪されるかは解釈によって異なるものの、異形ゆえに通常ありえない特異な機能を発現させているのは間違いない。  理性は取り払われ、より本能に忠実な状態へと進化している。  増加した腕と頭は、三つの〈邯鄲〉《ユメ》を並列式に繋げていた。  喪失した下半身は、何の〈手枷〉《ハンデ》にもなっていない。  よって、今のキーラは強かった。冷静な判断は出来なくなっているものの、それがいったい何だというのか。総合的な戦闘能力は以前と比較にならないほど高まっている。  いや、そもそも甘粕の言葉通りこれが彼女の〈本〉《 、》〈領〉《 、》だ。  本質に近づいている、より純粋に。在るべき姿がこれである。  ならばこそ、懸念があるのなら戦真館の方だった。今の三頭獣と相対して無事に済むとは思えない。 「あのお嬢さん、ぱっくりやられちゃうんじゃありません?」  抵抗をする間もなくあっさりやれてしまうのでは。  そしてそれは、主にとって不本意な結末だから。  問いかけた神野に甘粕は瞳を細める。人間は敗北しない、自信に満ちた視線だった。 「勘違いするな、拘りがあるのはあちらの方だ。ならば是非、乗り越えさせてやろうではないか。  生まれ持った無痛に対し、想いと意地を見せねばならん。己の性を自覚したきっかけが鋼牙との一戦ならば、これが妥当な配置というものだ。  それに、いずれはどの〈層〉《じだい》かで激突すること。それが今であってはならない理由、そんなものがどこにある?」 「それに、〈魔王〉《おれ》だとて人だ。情や義理は持ち合わせているのだよ」 「あなたなりの?」 「そう、俺なりの」  真心と誠意がある。だから悩める若人には試練を課すし、素晴らしい成長を心の底から望んでいる。  ただその表現方法が他とは違っているだけだ。感性はあくまで〈人間〉《ヒト》……かつて交わした約束事も大事に思う。報いてやるのもやぶさかではない。 「キーラの父君とは友誼があった。奴の夢は拍子抜けするものだったが、あれが果たせなかった道の欠片を娘にくれてやるのもいいだろう。  そして、その過程で俺の〈楽園〉《ぱらいぞ》の役にも立つ。血に飢えた獣も英雄譚には必要だ。 人の愛を枯らさぬためには、悪魔が必要であるように」 「人の勇気を滅ぼさぬためには、魔獣も必要ときましたか。あなたの愛は底無しですね、〈主〉《しゅ》よ」  どうか壊れてくれるなと願いながら、降りかからせる困難は熾烈極まる難易度だった。そして、それを成すだけの力と権利を甘粕は邯鄲の中で持ち得ている。止められる者は現状いない。  よってキーラは、邯鄲の〈盧生〉《かみ》が使役する聖なる獣。彼の夢を叶えるために天から舞い降りた使徒である。  敵対する者にとっては最悪の魔獣だが、この聖堂と同じく神々とはそういうものだ。至上の愛を持つがゆえに徹底した裁きを下す。 「それで、獣が女の子と戯れている間に、あなたは男二人で優雅にお茶するつもりときた。こちらはまた、なんとも婦女子が騒ぎそうだ」 「情の混合というならばおまえの方こそ華ではないか。導いてやれよ、真実の愛を掴めるようにな。  その結果で何が起こり、どう終わろうとも俺が許す」 「仰せのままに」  誰を呼び込み、キーラを解き放ち、それぞれいったい何をするのか。  語るべくもなく主従は目標を定めた。 「では──前夜祭だ、お膳立てといこう。  このままでは終われないと感じているな。いいぞ、その願い叶えてやる」  夢を廻せ、第八層の先駆けだ。到達した邯鄲の夢は戦真館にとっては終わりを告げたが、それでは満足できんのだろう。  ああ、分かるぞ、その想い……友の勇気に、輝く誓いに、報いてみたいというのだな。素晴らしい、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈者〉《 、》〈を〉《 、》〈待〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。  役目があるから渋々従う、立たねば死ぬから嫌々挑む。そんな腑抜けたつまらぬ性根を俺は見たくもなければ、求めてもいない。  俺とは違う〈盧生〉《おまえ》が、そんな男でないことに甘粕正彦は感謝している。激しく、熱く、感動で滂沱の涙を流すほどに。  おまえに出会えて本当に良かった。  そう腹の底から信じるために、最後の一押し。〈七層〉《ハツォル》の続きを創造しよう。  空が歪む。大気が軋む。聖堂が見えない手で掻き混ぜられていくように、彼らを搭載した戦艦伊吹そのものが陽炎のように揺らめき始めた。  想像を絶する域で紡がれる甘粕の創法に、階層を超えて空間が繋がっていく。並行して発動した解法は障子紙のように世界を貫き、四四八らのいる場所へと道筋を創り上げた。  彼にとっては夢も現実も関係ない。邯鄲を制覇した盧生ゆえに、両界の境など当たり前のように突破する。  時代も、並行する別宇宙の事象にさえも。  盧生を極めるとはこういうことだと、見せ付けるように。教えるように。 「さあ、おまえの描く〈未来〉《ユメ》を見せろ」  その時に必ず、俺の〈夢〉《ユメ》も教えてやろうと──  〈楽園〉《ぱらいぞ》と〈混沌〉《べんぼう》の整えた舞台へ、役者は次々と誘われていく。  邯鄲の真実が暴かれるときは、近い。  そうして──  普段通り夢に入った瞬間、まず感じたのは〈懐〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈さ〉《 、》だった。  彼、鳴滝淳士はこの上も下もない空間を知っている。正確には場所そのものに対する記憶ではなく、そこに付随する感覚を知っていた。 「ここは……」  身体が思い通りに動く──在るがまま、描く通りに。  現実とは些か感触の異なる万能感は、まさしく邯鄲に入ったとき特有のものだった。実に数週間ぶりである夢界への接続に対しまずは驚き、見回し、何があったのかを思い出せず。  夢に入る以前、自分はどういう行動を取っていたのか。冷静になれと気を引き締めながら、記憶の糸を辿って行った。  そうすれば程なく思い出す。それは眠るまでの間、劇的な展開が起こっていたからというのではなくまるで逆の理由からだ。  すなわち普段通りの一日を送っていたからこそ、いま置かれている現状がよく分からない。  休日をそれなりに過ごし、バーでのバイトをしてから、帰宅して就寝した。言葉にすればたったそれだけ。邯鄲突入の試みをした覚えは微塵もない。  だから淳士は訝しみ、現在地すら不明な今を不可思議に思う。  これはいったいどういうことか? 自分が何も行っていないなら、別の外的要因が働いたのではと思ったときに── とある音が響き渡る。 「……野郎」  テレビの砂嵐を不快に捻じ曲げたような羽音。生理的嫌悪感を掻き立てる、一度聞けば忘れられない〈蝿声〉《さばえ》に一瞬で事の元凶に思い当たった。  満ちていくのは墨汁のような闇、生きた絨毯のごとく蠢く毒蟲の群れ、空間を白蟻のように美味しい美味しいと喰らい尽くして出現するその影は何なのか……淳士は、戦真館はよく知っている。  視界を埋め尽くす不快感の塊は、やがて邪悪そのものといった無貌の影を投影し始め。 「やあ」  どこまでも友好的に、旧知の友に向けるように笑顔を向けて語り掛けた。  無論、それがもたらすのは淳士にとって状況が最悪であるという認識だけだろう。優しく語りかけてくる悪魔ほど、不吉を予感させるものはないのだから。 「てめえ……」 「久しぶりだね。気分はどうだい? 君とはあまり絡んだことがなかったけれど、これもまた感動の再会っていうんじゃないかな。  元気なようでなによりだよ、鳴滝くん。今日も精悍で何よりだ。今もきっと、彼は君を羨んでるよ?」  こてりと小首を傾げながら、神野明影が立っている。  毒の滴る乱杭歯に数多の甘言を潜ませて、堕落させるべくやって来た。  対し──現状のまずさを悟りながら、静かに構えを取っていく。  この男は信用できない。破滅しか寄こさないし、絶望にしか導かない。相手の言葉通り接点は仲間の内でも群を抜いて低いのだが、先ほどから第六感が気を緩めるなと絶叫している。  上機嫌な笑みを崩さない神野は、そのような敵対の意志を前にして聖者のように優しかった。目的を問いかける視線に対し、おかしそうに喉を鳴らす。 「何の用だ、なんて無粋な問いはやめてくれよ。僕が来たというのなら、目的なんて一つだからさ」  つまり、台無しにするためにやってきたのだ。清らかなあらゆるものに泥と糞尿を塗りたくる、そんな下劣さを隠しもせず悪魔は自慢げに暴露した。 「そうかい」  ならば、語る言葉などあるはずもない。  破段、顕象。静謐に発動した夢を握りしめ、一足で相手に叩き込まんとしたその瞬間── 「辰宮百合香、幽雫宗冬」  飛びかかる寸前で、身体が縫われたように硬直した。  神野はそれを見て楽しそうに慈しんでいる。  皆まで言うな、分かっているよ。自分はおまえの理解者だと、その眼差しが語っていた。 「心残りなんだろう? だって彼らは〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  少なくとも君の基準じゃあ、まったくもって救えない。僕にとっては人間らしくてとても好みなんだがね」  その指摘を淳士は否定できない。違うと突っぱねることは出来たが、他人を唆すのが悪魔の本分。いわば〈十八番〉《おはこ》だ。苦も無く真意を見抜かれるなら、半端な否定は命とりである。  それに……そう、燻るものがあるのは本当だ。自分はどうも彼らの顛末に対して苛立つ何かを抱えている。  百合香と宗冬がどういう結論に達し、何を選んで、何を切り捨てるのか。どう好意的に解釈しても、碌な展開にならないのではと不安に思う。  いったいそれが何故なのか、淳士自身にもはっきりしないが本能的に好ましくないことだと確信していた。  放っておけない。この頃、そして今日もまた、寝る前に感じていたのはそこに対する焦燥だった。  睨む視線を心地よく受け止めながら、神野はその葛藤に共感を示す。よりによってこの男がだ。 「君も知っていると思うけれど、辰宮百合香は極度に内向的な人間だ。外界に対して理解を示す、その手の度量を持ち合わせていない。  得た情報を自らの〈裡〉《うち》で内々に処理してしまう、という悪癖を持っている。それも本人的には無自覚に。  君たちの時代風に言うのなら、高機能自閉症の一種だね。相手の言うことを大したことと思えない、きっと、おそらく、所詮こうに違いない……という風に。 まあ、自覚のないコミュ障と思ってもらって構わないよ。凝り固まっているという点では、まったくどうしようもないからね」 「そうなったのは、先天的かつ後天的な問題でもある。彼女はすべてを持って生まれてしまった。  尊い血筋に、巨万の富、そして傅く無辜の民、と。  微笑むだけでなんでも解決。辰宮万歳、万々歳。  ぶっちゃけると恵まれすぎていたからああなったわけだね。だから何も信じられない。努力せずに何でも手に入ってしまうものだから、傍にあるものがどれも無価値に思えてしまう。白けちゃうんだよ、そういうのが」 「欲しくもない花束を、目の前で山と積まれたらうんざりするだろう? あれと同じさ」  飼い猫が捉えてきた鼠をご主人様にプレゼントすることがある。猫にとっては最上級の愛情表現なのだろうが、飼い主の側から見ると後で処理する塵に過ぎないのと一緒。  あらゆる愛と信頼を向けられながら、百合香はそれを焼却炉へと投げ込んできた。家柄など関係ない、真に彼女を想っての花が紛れていたかもしれないのに、構うことなく一瞥すらせず燃やしていく。  結果として、出来上がったのは魔性の女だ。  すべての者を魅了しながら、しかし如何な想いにも応えない。とりわけ男からの愛情にはより厳しい審査を向ける。 「そして、どんな男も一刀両断。まあステキ、惚れたわ、抱いて! なーんて童貞の夢をズンバラばっさり切り捨ててね、今も現在進行中だよ。恋に恋する性分なのに、すべてが嘘に見えてしまう。  愛しています、大好きです、そんな言葉はうんざりなの……やめてやめて安っぽいわ、全然魅力的じゃない!  と、こじらせちゃってるから悪循環に陥った。ついでに箱入りなものだから、相手の想いを測る基準もダメダメなわけ。改善の余地もない」 「本気なのか、社交辞令か、まったく見抜けた試しがないのに本人だけが分からぬ始末。いいやそもそも、自発的に見抜こうしたこともない」  だって、全部与えられてきたから。何もせず、勝手に積み重なっていくものだから。  世の中とは押しなべてそういうものである以上、辰宮百合香は相手を知ろうとする必要が人生のどこにもなかった。秘めた想いは秘めたまま、慮ってやろうとすらしてくれない。 「だ・か・ら、彼女にはもっと分かりやすく伝えないとないとダメなのさ」  軽々と愛を囁かれても信じられない、ならば。 「〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈ま〉《 、》〈ず〉《 、》〈嫌〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》、〈他〉《 、》〈人〉《 、》〈を〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。自分なんて持っていないと見なしてしまう」  そうまでしてくれないと、彼女は何も分からない。まず好意的に見られてしまえば、他の有象無象と同一であると判断を下すのみ。  なんて馬鹿だ、と淳士は思い。  だから愉快だ、と神野は嗤った。 「ああ、素敵な殿方……まずわたくしをブッてちょうだい! もっと、もっともっとねえ激しくぅッ。蔑んだ目で見て、辛辣な態度がいいのォ!  そうじゃないと、わたくしあなたを信じられない。自立した一人の〈他人〉《にんげん》だって、どうしても思えないんだからァ──あはははははッ」  自分の身体を抱きしめて、腹を抱えながら神野は身をよじらせる。  彼は嘘を言っていない。騙す必要すらなく、ただそのまま話すだけで滑稽だから虚飾を混ぜることもなかった。  こんな悪魔に同意したくなどないが、この時ばかりは淳士もそう思わざるをえない。何とも言えない、聞くだけで情けない気持ちになってしまう。 「救えねえ」 「その通り、だから君に惹かれているんだよ。  まず嫌ってほしくて、対等の人間と信じさせてくれた上で、自分を愛して欲しがっている。頬をぶたれた後で優しくされたい、ヤクザの〈便所〉《カキタレ》みたいにね。  それこそまさしく真実の愛ってやつだと盲信している! いやあ、面倒くさいよねえ女って生き物は……本当に、本当に、なんて愛しい花畑だ」  そして、その恋への憧れというやつで彼女は神祇省と盟を切ったというのだろう。いよいよもって頭が痛い、どこまで身勝手なんだあの女は。 「そして、そうなるとかわいそうなのは幽雫くんさ。彼は心底、辰宮百合香に惚れている。  自分自身の何よりも、彼女のことを愛しているんだ。他のすべてが軽く想えてしまうほど」  だから紡いだ夢の形があれか、と淳士は思う。自分の視点から見れば、あの男にとって唯一の欠点を惜しく感じている。 「けれど、生まれから既に従者の血筋でね。仕える宿命を背負っているわけだから、それを理由に主は無論、男の愛を信じられない。  忠実な家令であればあるほど、ひどい深みに嵌まっているのさ。  おお、おお、なんて切ない悲劇だろう。主へ届かぬ我が恋情よ、報われぬ愛に今日も私は一人さびしくマス搔きます!  憐れで卑しいマゾの雄豚……分かる、分かるよその気持ち。癖になりそうなんだろう? 僕もそうだ、愛しの君はちっともこちらに振り向こうとはしてくれない。愛の奴隷はつらいねえッ!」 「は、てめえに共感されたらおしまいだな。あいつらも。  本当に、どいつもこいつもよう」  頭に来るし、腹が立つ。仲間のために逝った大杉、あいつの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい気分だった。  あれだけの脅威があってなお、あの二人は空回っているのだろう。その性根を叩き直してやりたくて心が熱く疼いている。それを。 「ふうん──言っちゃう? それ言っちゃうわけ、鳴滝くん」  爬虫類のように舌先を覗かせながら、不吉に囁く悪魔の影。 「みんながみんな、君みたいに背筋伸ばして生きられない。誰もが真っ直ぐ歩めたのなら、理想社会はもう出来ているよ。そもそも〈悪魔〉《ぼく》が生まれることもないだろう。  ていうか、ふ、ふふ──」  そして、堪え切れないというように嘲笑を噛み殺しながら瞳を細めた。  優しく優しく、細めたのだ。 「言えた義理じゃあないだろう? 君もそうだ、女を見る目が欠けている。  なあ、正直になろうじゃないか」 「──なんだと?」  この時、淳士は一瞬だけ警戒に穴が開いた。意味の分からないその言葉が、意識を束の間断絶する。  もう逃れられないと言うように、耳の奥から蠅が潜りこむような不快感に襲われた。 「苛々するよねえ、頭にくるよねえ。ああいう人種を見ているとどうにかしたくて堪らなくなる……  それだけかい? 本当に? そんなことを、いったいどうして?  強く格好いい鳴滝くんは、どうでもいい相手にまで手を伸ばしてあげるんだね。逞しくて優しいなあ、惚れちゃいそうだよ、濡れちゃうね」 「………………」  それは──いや、なぜだ?  確かに自分にはそんな義理などない。  あんな馬鹿ども、勝手に拗れて、勝手に妬いて、好きに自爆してやがれと思って仕方がないなずなのに。  これほど気に障るのはどうしてだろうか。自分があいつらをどうにかしてやらなければと、使命感めいたものさえ胸の中に生まれている。  淳士はいま、ほんの少しだけ混乱していた。感情の生まれる源泉がどうしても掴み切れずにいる。想いの起点が見つからない。  もしや水希の語った以前のループとやらか? それで何かがあったから、小さな棘を感じていて、それを回避したいと思っていて……  同時に、それだけではないような気もするから、確信を持てずにいる自分が分かる。  時間にして僅か数秒の迷い。  けれどその葛藤を、悪魔は決して見逃さなかった。 「さあ、どうするんだい? 二人の愛は、このままだと虚しくすれ違ったまま心中という形で幕を閉じる。  君はそれをどう思う? ねえ、ねえねえねえねえどうしたい?」 「知るか」  爛々と目を輝かせて悩みを抉ろうとする神野。実に嬉しそうなその態度に、皮肉にも心の整理がついた。 「てめえを殴り飛ばしてから考える。まずはそれでいかせてもらうぜ」  兎にも角にも、この異常な状況を制しなければ始まらない。  ここが魔的に創造された空間なら脱出は急務だった。  この場にいる限り、今も何かの干渉を受けている可能性が存在する。ならばそれを打ち払ってからでも判断は遅くない。  降参だと両手を上げた神野は叩き付ける戦意に応じて、身体を解けさせつつあった。  攻撃を加えたら即座に逃げると示しながら、肩をすくめて歩み寄る。 「んー、怖い怖い。そう邪険にしないでくれ。僕はそれを叶えるために来たんだから。  連れて行ってあげてもいいよ? もちろん、それなりの代償はもらうけど」  最初からそれが目的であったと語り、これみよがしに指を鳴らした。  途端、空間が裂けるように隙間を生じ……その向こう側にある場所を淳士の視界に見せつける。  異なる位相の先にあるのは見慣れた辰宮邸の姿だ。空亡の襲撃などなかったように無傷だが、それでもあれが本物だというのは仄かに漂ってくる百合香の香気が証明している。  そしてそれは、彼女と彼があそこにいるということで── 「悪魔の契約ってやつか」  にい、と薄汚い粘液のような掃き溜めの笑顔。肯定の意を返して、取引を持ち掛ける。 「……俺の何が欲しいんだよ」  その真意が分からない。何を思って、神野はそれを提案するのか。 「なあに、至極簡単さ」  彼にとっての得であり愉悦となる火種。それが何なのか、大仰に諸手を広げて謳いあげた。 「最高にすばらしい絶望を見せてくれ」 「君が二人の間に加わることで、きっと事態は素敵に苛烈に台無しになる。愛憎に満ちた三角関係、それが行き着く果てを僕はとても見てみたいのさッ」  どこまでも愚劣に劇的な破滅を演じてほしい。  報酬は人間がもがき苦しむ、その姿だけ。とてもとても悪魔らしく、どこまでも恥知らずに、〈混沌〉《べんぼう》は撒き散らされた。 「ふん」  ならば上等──己の腹もこれで決まる。 「面白え、乗ってやるよ。ただし、てめえの思う通りになるとは思うな。  俺がこの手で、あいつらに喝を入れてやる」 「契約成立だね」  悪魔の書類にサインを連ねた。暴利を巻き上げる破滅の署名、それと知りながら淳士は毅然と誘いに乗る。  事ここにおいて仲間を呼ぼうとは思わなかった。なぜなら、彼らはもうそれぞれの〈日常〉《あさ》に帰っている。蔑ろにしているのではなく、その安らぎを自分の個人的な拘りで破壊したくなかったのだ。  百合香への苛立ちや、宗冬に感じるもどかしさはすべて淳士だけの問題である。いわば私闘だ。ならば自分だけでケリを付けるのが筋だろう。  空間の裂け目がさらに拡張し、屋敷と完全に〈層〉《じだい》が繋がる。  相変わらず独りよがりな華の香気を感じながら、淳士は一歩踏み出した。 「待ってな、これで決着だ」  入り込んだ瞬間に再び空間の亀裂が閉じる。  雄々しく進んだその背中を、〈無貌〉《じゅすへる》は期待に満ちた目で見つめていた。  最後まで、さ迷う稚児を慈しんでいるかのように。  そうして、奸計は巡る。邯鄲の夢は終わらない。  すべては確たる終点に辿り着いていないから。  夢を回す登場人物が、この結末に何の納得も得ていないから。  だからまだ、〈柊四四八〉《おれ》は続行を望んでいる。帰ってきたこの朝を、安心しながら過ごせるものだと思えないから。  舞台から観客が一掃された後になっても、幕は半開きのまま放置されていると感じる。  何故かはまったく分からないが、それだけは今もひしひしと感じるのだ。 「そうだ──俺は、決着を着けないといけないから」  あの男と真に邂逅する瞬間のために──  いいや、そもそもすべてはそのために──  数多の試練は訪れたと、無意識に確信していた。 「そうだ──俺もおまえと語るべきことがある」  その意志を〈俺〉《 、》もまた歓迎しよう。  なあ、もう一人の〈盧生〉《イェホーシュア》。  おまえの夢が何なのか、共に知らねば終われないし、始めることさえ出来はしない。  前夜祭だ。続行しよう、そうでなければ真に目覚めることはなく── 「俺は単なる虜囚のままだ。 おまえは単なる虜囚のままだ」  圧倒的な意志力と、束の間に重なるのを感じた。  遥か彼方からもたらされた想いの〈同調〉《シンクロ》。  俺の夢に、誰かが強く割り込んでいく。  その意思が何者であるか、詳細は何も掴めない。ただ分かるのは、徹底して上位に位置する怪物とも言うべき存在であること。  鉄風雷火を煮詰めた地獄の〈情熱〉《ほのお》のようでもあり、同時に歯車よりも冷然とした〈絶対零度〉《こおり》のようにも感じられる。  そして恐るべきことにその二面性は決して矛盾していない。自らに語りかける謎の男は、驚異的な領域で完成した〈精神〉《ユメ》を宿していた。  心が昂ぶるのは恐怖か? 戦意か?  分からないが、しかしこの男は。  いいや、こいつこそが、まさか── 「資格を持つ担い手として何を夢から担ぎ出すか……見せてくれ、共にここまで誘ってやろう。  邯鄲において未練など残しておくな。想いと願いが赴くまま、あらゆる〈結末〉《はて》を掴むがいい。  〈俺〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》」  誘うがごとく響く声に眩暈がした。言葉の意味は分からないが、そんなことは重要じゃない。  壊れるな、砕けるな、そして来い──ここまで到達してみせろと。  常軌を逸する密度の鼓舞、押し付けられた何億の〈期待〉《ねん》が言霊と共に心の芯を揺るがせる。濁流に飲み込まれる木の葉のように、浴びせられた決定の意思が俺をそこまで運んでいく。  強制的な召喚は抗うことを許さないほど熾烈だが、いいだろう。  望むところだ。逃げるつもりなど欠片もない。俺たちが飲み込まれた業の渦を、これで解き明かしてみせればいい。  だが、その前に。 「貴様は、誰だ」  宣戦布告の代わりに改めて、ひび割れそうな頭痛の中で問いかけた。  待ち望んでいたように男は語る。 「大日本帝国特高警察、憲兵大尉──甘粕正彦。  〈廃神〉《タタリ》を世に放つ者、神野と空亡の主だよ」  最大の敵にして、すべての元凶だと告げて。  次の瞬間、軋む視界が解放感と共に開けていった。 そして── 視神経を焼く白光が治まった時、眼前にそびえていたのは鋼鉄の壁だった。 「────、っ」 息を呑み、倦怠感を振り切って立ち上がる。威風堂々とした鉄の戦艦を見つめながら、瞬時に警戒態勢を整えつつ思考することしばし。 漲る力はここが夢の中である証。戦真館の制服に、現実ではありえないほど鋭敏になった感覚が疑う余地なしと肯定している。 そして次に現在地を確認した。船がある以上、海に面している地形であるのは間違いない。ならばここは相模湾ということか? 「それにしても……」 不思議だがそれだけではないと分かるのだ。ここは正規の〈階層〉《じだい》から少々ずれた時間軸だと。 戦真館が焼け落ちた層とも、空亡が猛威を振るっていた層とも違っているとなぜか分かるのは、おそらく空間がもたらした作用だろう。ここは誰かが創りだした領域の中だった。 これもまた、理屈や根拠を抜きに分かる事実の一つだった。〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》が確信に近い。 まるで種明かしの答えを直接頭に叩き込まれている気分だが、それは〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》なりの招待状だ。奴は丁重に、あいつなりの流儀で俺たちを待ち構えている。 乗ってやると先ほど言った。いいだろう、待っていろ。 だから──まずその前に、背後にいるもう一人を起こすことにした。 「我堂。おい、起きろ」 あいつのお眼鏡にかなったか、あるいは俺と同時に意識を落としたからか。 こめかみを押さえながら我堂は身体を起こす。こいつもまた、奴がここまで導いた客の一人なんだろう。 「ん、つぅ……うっさいわね。何よこの強姦魔」 「──って、え?」 目覚めて、今の状況にうろたえた。かと思えば、すぐに何か納得がいったような表情になる。 「一応聞いておくけど。これってつまり、そういうことよね?」 「だろうな。随分と乱暴なご招待だが」 顔を見合わせてから、気をより強く引き締める。 他の仲間はいない。少しだけ、気のせいかどこか遠くで感じる気配があるものの……それもまた漠然として掴めない。 ただ、甘粕が俺と我堂だけを呼び寄せたことだけは間違いないと思っている。思惟を直接叩き込まれたせいか、奴の人となりにおいて確実に分かったことは一つある。 あれは真っ向から来る手合いだ。神野や狩摩のように悪辣な搦め手を用いてくるタイプじゃない。 「脱出も不可能か」 だからこそ、単純に奴の邯鄲は強固だった。この空間も、そして戦艦さえもあいつが創りだした力の産物。間違いなく今まで見てきた中でも最上級の〈創法〉《クリエイト》だ。 俺たちでは逆立ちしてもこの空間を〈破壊〉《キャンセル》できると思えない。仮にこの場に栄光がいて、さらに全力をかけたとしても干渉できる可能性は皆無と思える。ならば対抗策はないということに他ならなかった。 原則、〈創造世界〉《ユメ》から逃れるための手段は二つ。 卓越した解法を用いて撃ち破るか、術者を破壊するしかない。そして前者の手段が取れない以上、やれることはたった一つだ。 「──甘粕を、斃す」 口にしただけで鉛を飲んだようだった。言葉が熱を持っているようで、あまりの難易度に舌が焼けたと錯覚するが。 臆するな。そのために、俺は望んでここに来たんだ。流されるまま翻弄されたからじゃない。 並び立つ相棒と視線を合わせた。そこに迷いは見られず、澄んだ光が宿っている。ここに来る寸前まで煩悶していたが、それを受け止めた上で行動できる強さがあった。 ならば良し。無粋な心配はもうしない。 「行くぞ。遅れるなよ、我堂」 「そっちこそ、誰にもの言ってんのよ」 見据えるのは、この先に有る〈未来〉《あした》だけで充分だ。 たった二人の進軍だが、矜持を胸に敵の居城へと踏み入った。  まず、そこで感じたのは怒りを通り越しての“落胆”だった。  星を散りばめたような煌く意匠に、高貴で調和を見せる調度品。  入館者を出迎えて家の品位を示すその場は、依然変わらず非常に華美だ。天使の館を地上へそのまま切り抜いてきたかのように、大震災を受けたことなどなかったように栄光の美を備えている。  淳士の記憶とも、なんら違わぬ姿である。  いかなる相手でも受け入れると、母親みたいな慈愛を見せて来訪者を歓迎していた。  突然の訪問を受けても屋敷の気品は損なわれない。靴裏の汚れを落とさず土足で進む淳士のことさえ、忌避することなく歓迎している。  優美に、清純に、神聖に……下々の粗相と不遜を寛大に許しながら、再び厳かに塗り直されていく深紅の絨毯。白亜の廊下。  歩むたびに足跡が消えていき、ほんの数秒後には新品のような外観を取り戻していた。  この辰宮邸は、一人の少女の精神性を投影した領域である。  深層真理を如実に反映した建造物は、いわば彼女の皮膚や内臓だ。物理的なそれではなく、精神的な構造を隠すことなく映し出す。  だからこそ、淳士は生理的に受け付けない。この場の美しさに潜む棘を見抜いたから、無自覚な毒性を反吐が出るほど感じているのだ。 「今まで通り、いつも通りか」  〈足〉《 、》〈跡〉《 、》〈が〉《 、》〈残〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。汚れは消える。すべては無垢な赤子の肌みたいに……  つまり、あの女は以前と何も変わっていなかった。  影響を受けている屋敷にまるで変化が見当たらない。ゆえにその愚かさを痛感しつつ、歯噛みしながら失望している。  いや、それどころか現実はもっと悲惨だ。かつてない陰鬱さを含んだ香りがそこら中に満ち満ちていて、とてもじゃないが息が出来ない。  源泉たる彼女が自発的に力を放っているのだろうか。規模は四四八と繋がっていた時のほうが上であるものの、内に孕んでいる危うさはより一層顕著なものになっている。今の淳士は、防毒マスクもなしに麻薬で出来た煙の中を突き進んでいるようなものだった。  なぜ百合香は未だ不変なのか? 理由については、ついぞ分からず──  外見の荘厳さに惑わされては決してならない。ここは、紛れもなく夢界を構成する魔境の一つ。来賓を甘い香りで篭絡し、正気を奪う牢獄なのだ。 「しかし、こりゃどうなってやがる」  気力で逆らいながら歩くこと数十分。それでもまだ、不思議なことに目的地には到達できていなかった。  何度も通ったはずの道筋だ、迷っているわけなどないはずである。しかし廊下は今も続いているのだから、まったくワケが分からない。屋敷が見えない手で強引に引き伸ばされているようであり、進んでいるのに進めないという理解不能の事態を引き起こしている。  気が急いてしまうため、早足になる。進む、進む、まだ着かず。  辟易しながら黙々と歩んでいく。その時に──  変化は唐突に、そして劇的に訪れた。 「お初にお目にかかります、百合香お嬢様。  〈私〉《わたくし》、本日付けでお嬢様の執事となります幽雫宗冬というものです。これから何卒、どうかよろしくお願いいたします」  ──そう告げて、俺は恭しく少女へと〈頭〉《こうべ》を垂れた。  一切の感動も、一握の忠誠も、そして一抹の興味すらこの小さな主へ持たぬままに。  我ながら不敬であったと反芻するが、当時を鑑みてみればそれも仕方のないことだろう。  この時の俺は文字通りの生きた抜け殻。戦真館が崩壊し、死に物狂いであの地獄を生き延びた俺は、代償に健全な意気心胆を失っていた。  毎夜苛まされる怒涛の悪夢。指先が真紅に染まっていく幻覚。戦真館の崩壊と共に宗冬という男の心は致命傷を刻まれたのだ。狂気に汚染されていたとはいえ、同輩を〈悉〉《ことごと》く殺し尽くして生き延びたという現実は、有り余る咎と化し拭えぬ罪を押し付けた。  だから正直に言えば、年端も行かぬ少女一人に心を配る余裕など、微塵もなく……  安堵したのはまったく異なる理由から。責務という安定剤を得たことで、再起のきっかけを得たことになる。  貴族院辰宮に仕えるという〈御家〉《おいえ》に課せられた使命。それに没頭できる限り、ほんの少しだけ安心できる。何も考えずに済むだろう……という打算があったのは間違いない。  結果として、それは良い方向へと機能するのだが。  この時はただ、唯々諾々と人間の振りが出来ればそれでよかった。それほどまでに、精神が壊死しかけていたと自覚する。  無論、辰宮を憎んでいないといえば嘘になるだろう。あの惨劇を引き起こした元凶、もとを辿れば因果の先はこの血筋に他ならない。  実行犯たる物部黄泉が生きていたなら迷うことなく復讐鬼に転じていたのは想像に難くないほど、俺の抱えた恨みは重い。矛先を喪失したから無感になっているだけで、ひとたび方向性が定まれば阿修羅になるのは軽く予想のできることだが。  しかし──いや、だからこそ、その憎悪を胸へと秘める。なぜならまったく、この少女に罪はないから。  すべてはその血縁が敢行したことであり、一族郎党鏖殺せんと猛るほど外道へ落ちたつもりもない。それはあの場で死んだ同胞たちへの侮辱だと、痛いほどに自覚してしまう。  だから── 「いかなる万難悪意からも、この手で守り抜くと誓いましょう」  せめて、同じく運命に置き去られたこの子を守ろう。  戦真館の皆に恥じぬよう、その教えをせめて全うしてみたい。それは彼らへの手向けと同時に、こんな自分へ残された唯一の希望と思えたのだ。  畜生となり、屍の山を築き上げ、生き残らんがために殺戮へ手を染めた男にもまだ、守るべき仁と徳が残っていることの証左だと。  そして主へ捧げるべき忠義の情が、未だ残っていてくれたのだと。  思えたことこそが救いだった。ならばこれだけは、全霊を懸けて貫いてみせるとしよう。  そう、と少女は興味がないという風に無表情で呟いたが……それでいい。充分だ。こんな独りよがりを主君に押し付けずに済んだことへ感謝する。  いつか心の底から、百合香様に仕えることを誇りだと思える時まで。  傍に控える影として、その成長を見守ろう。  先月の誕生日から、わたくしに直属の家令ができた。話に聞く、戦真館の生き残りらしい。  辰宮を恨んでいるはずなのに、その嫡子に仕えなければならないという憐れな男。まるで絵に描いたような悲劇の演者は、その本心をおくびも出さずに形だけの忠誠を捧げている。  お役目だから。血筋だから。それがどれほど嫌で仕方がなくても、〈御家〉《おいえ》のためにと従うだけ。こんな小娘に平伏して、不平を一度も漏らさない。まるで身を捧げる兎のように辰宮の礎へと甘んじている。  ああ、なんて情けない殿方でしょうか。  本心を押し殺してばかり、男児たる気概が欠片も見えない。滅私奉公に勤しむ姿は、被虐愛好者のようにも思えて滑稽にしか映らなかった。  この人も同じ、皆同じ。所詮、わたくしのことを神輿としか見ていない。辰宮の威光を表す大粒の宝石だと捉えている。  誰も本当のわたくしを見てくれない、見ようともしてくれない。  空虚な忠節なんて、もう、うんざりなのだから── 「────、──」  垣間見た思念の残影、その愚かさに淳士は大きく舌打ちした。  あまりの不快感に身体から怒気が滲み出す。先ほど触れた思念が如何なるものか、誰のものか、理解できるからこそ腹が立つのだ。その愚かさとどうしようもない歪さに。  主を贖罪の象徴とした男に、世界とは無価値なのだと捉えた少女。  それがやがてどのような変遷を辿っていくか、前進するたびつまびらかになっていく。  次の光景はすぐに訪れた。  海面下で静かに進行する潜水艦のように、病は深度を増していく。  ある日、ふと俺は気づいた。この方は〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈持〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》と。  花のように麗しい微笑は総じて仮面、偽りだった。自らと触れ合うすべてに何の期待も抱いていない、吹けば飛ぶような埃であると断じている。  いや、きっとそれ以外に判断基準を持たぬのだろう。陽光を遮られたことがないからその価値が分からず、苦汁を舐めたことがないから賞賛を単なる張子と認識していた。結果としてモノの真贋を見抜けないし、それで不自由もしないのだ。  相手を理解することなく、鷹揚に頷くだけで万事するりと〈罷〉《まか》り通る。ならば簡単な処世術を身に着けるだけで事は済む。努力や成長を考慮する、それ以前の問題だろう。  巨万の富や栄達も、彼女の心を癒しはしない。この偽物ばかりに満ちた世界で、誰にも理解できない姫君の運命を嘆いている。  だから自分は…… 自分だけは、彼女のことを肯定しようと決めたのだ。  それが人としての徳に背いているものだとしても、俺だけは主の歪みを受け止めなければと思った。なぜならこんな心に至ったのは、百合香様のせいではないだろう。生家という逃れえぬ〈宿痾〉《しゅくあ》が、幼い心を鬱屈させたのは言うまでもない。  だからその時感じた想いは、きっと同情だったのだろう。  自らの惨めさを投射して、勝手に同属だと思い込んでいたからだが……それでもよかった。初めて俺は、俺個人からの願いとして彼女自身と出会えた気がした。  家柄など関係なく、辰宮百合香という諦観しか持たぬ少女のことを知れたと思った。ああ、だから。  この例えようもなく可憐で、悲しいほど憐れな少女に、いつか真の幸せが訪れてほしいと。  そう思う心だけは、間違いなく本物へと変わったのだ。  花が瑞々しさを増すように、わたくしの身体は芽吹いていく。  肉付きはふくよかに、肢体はよりしなやかに。第二次性徴を迎えて少女から女へと開花していく自分。けれど心は依然、反応を返さない閉じた蕾のままだった。  青い花弁は一向にほころぶ予兆を見せはしない。なのに賞賛はより加速する。見麗しい、綺麗だ綺麗だ、あなたの前では星空の海も霞むだろうと。  美辞麗句を口ずさむ殿方の目には、穢らわしい男の獣欲が垣間見えている。それは雄という生き物なら仕方のないことかもしれないが、相も変わらずわたくしのことが何も見えていないことを示していた。  煩わしい。ありきたりは生殖本能、つまらない。  無味乾燥とした〈木石〉《むねふゆ》の反応はそれと趣を異にしていたけど、これもまた目につきすぎて新鮮味を感じ取れない。  今日もまた、晩餐会のために優美なドレスを身にまとう。  飾り付けた蕾を見て、花のようだと褒め称える凡愚の群れ。見当違いの求愛に、もう侮蔑さえ感じなかった。  ──王子様は訪れない。  いつからだろう……気持ちに変化が訪れていく。彼女の一挙一動に胸を高鳴らせている自分がいた。  百合香様は依然、花園で踊る盲目的な少女のままだ。成長も変化もない。自分の世界を築いている。どうしようもない御方なのだと、分かっているのだ。それでも、しかし。  その憂いを帯びた横顔が、本当は諦観の仮面であっても。  聖母のような微笑の裏で、相手のことを侮蔑していたとしても。  自閉した心を見抜いていながら俺の想いは消えやしない。いつしか自分にとって、辰宮百合香という女性は唯一の人になっていた。  報われぬ愛を捧げる、たった一人の愛しい人に……  美しくなられました、と宗冬に言われた。知っている、知っている、そんなものは求めていない。  何を思い立ったのか、わざわざおまえまで〈煽〉《おだ》てなくても結構なのに。無自覚にわたくしを憂鬱にさせる、皮肉を言ったと思ってすらいないのだろう。  黙っているぶん、案山子の方がまだ有用なのかもしれない。  わたくしには何もないの。こんな夢は望んでいないの。どうして誰も、わたくしを変えてくれないの?  すべてを分かったその上で、裸の〈辰宮百合香〉《わたくし》を抱いてほしい……それはそこまで、大それた願いなの?  ──などと、そう思っているのでしょうね。分かります、あなたのことなら何であろうと。  どれほど言葉を尽くしてもその御心には届かない。どれほど忠を尽くしても、あなたはそれを信じてくれない。  理由も根拠も知っているのにそれでも諦められない自分を嗤う。立場と経緯が、背負わねばならぬ荷物がどうしても告白することを邪魔している。この関係を壊せない。  そんな風に、〈見〉《 、》〈せ〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈の〉《 、》〈理〉《 、》〈由〉《 、》〈を〉《 、》〈口〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  本当の問題はもっと別のところにあるというのに、俺は忠実に仕えることしか出来ていない。重量を増すあなたへの想い、他のすべてを軽く感じてしまうほどにあなたのことを……百合香様。  もう、諦めてもいいのだろう。他人の心とは、辰宮の威光に〈傅〉《かしず》く程度の重さしかないのだと。  彼らの抱く想いは軽く、大したものを持っていない。だからすぐに、わたくしという空っぽな女に貢ぐのだ。 あれもこれも、どうぞどうぞと、馬鹿みたい。  わたくしには何もないのに。そんな悲しい、憐れで卑小な小娘なのに。  見抜いて、道を正してやろうとする気概もないのね。愛らしいわあなた達、まるで役に立たない彼のよう。  頷くだけ、讃えるだけ、何も出来ないしてくれない。  そうだ、俺は彼女を否定しない。  なぜなら幽雫宗冬だけは、辰宮百合香を肯定すると決めたから。  だから、この世は総じて伽藍洞。  窒息しているわたくしに、誰か熱い口付けを。 この舌を噛み切るほどに強く、強く、どこまでも熱く── だから── ──だから 「あいつを眩しく思う」「あの人を眩しく思う」 羨ましくて仕方がない。 胸が震えるほど焦がれている。 邯鄲の中で邂逅しても、あいつは変わらず雄々しかった。 自信に満ちた眼差しは、常に未来を見据えている。  仲間のために、明日のために、成すべきことを自覚しながら立ち向かうという決意。それは何より重く、強い。  ゆえに、どうしても羨んでしまう。王道を外れてしまったこの俺には、決して彼女の目を晴らせはしない。そう気づかせるあいつのことが、誰より何より憎かった。  なんて素晴らしいのでしょう、あの人はわたくしのことを嫌っている。それはつまり、本当の想いを持っているということだから。  そう、辰宮百合香は矮小な女なのです。空虚なものしか持っていない、かわいそうな女なのです。だからどうか教えてください、わたくしの知らぬあらゆるものを。  そして愛して、抱きしめて──あなただけが、本当の自分を見てくれた。  愛して愛して、愛して愛して愛して愛して。  それを証明するために──  俺は、〈百合香〉《あなた》を〈愛〉《ころ》してみせましょう。  つまらない男が本気を伝えるためにはどうするべきか。それだけの意志が必要なのだとあいつの強さに教えられた。  この世は軽い。俺の愛と比べれば、万象すべてが羽毛の如く。  そのような愚かな夢しか持てぬなら、せめて貫くことで真実なのだと教えたい。ここに一人、真に心の底から魅了された男がいると、孤独な君に知らしめたいのだ。  ああ、だから── 「──ふざけんじゃねえぞ、馬鹿ども」  その想い、錯綜する愛憎に向けて淳士は憤怒を吐き捨てた。  思わず踏み抜いた足元は陥没したが、あまりの怒りにそれを認識していない。もはや競歩のような歩幅で終わりの見えない廊下を進む。  自分が彼らへ告げた言葉は何だったのだ。  どっちもどっちだ、これではあまりに救いが無い。  悪魔が続投を望むわけである、二人は共に歪んでいた。  それが苛立ち、頭に来て、腹の底からワケも分からず叫びだしそうな気分にさせる。何としてもその結末を止めなければならない。  なぜそう思うのか、彼らを放っておけないのかというそもそもの疑問は、淳士の中から消し飛んでいた。  今はただ、この荒れ狂う感情を処理することが最優先。辰宮に渦巻く決着を、この拳でつけてやる。  到着した目当ての扉を乱暴に蹴り飛ばす。  轟音を立てながら室内へと侵入し、そして── 「いい加減、目を覚ましやがれクソがァァッ──!」  百合香へと剣を向けている宗冬を目にしたことで、最後の理性が音を立ててブチ切れた。  剛拳と鋭剣が惹かれあうようにぶつかり、豪奢な部屋で火花を散らす。  激突する二人の男。彼らの決闘を前に、百合香は陶酔したように濡れた吐息を漏らしていた。  敵だ。敵か? 何かが来た。  餌だ。餌か? 肉があるかな、食べられるかも。  お腹がきゅるりと鳴っているから、飢えを早く満たさなければ。  なぜなら、わたし達は解き放たれた。邪魔な鎖も牢獄も、既にここには存在しない、何を殺しても構わないんだ。何を砕いても自由なんだ。  だからもう我慢はしない。獲物が近くに来ているならば。 「さあ、狩りを始めよう──」  三重に響いた宣誓と共に、〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》は意気揚々と動き出した。  鼻を鳴らして猟犬のように臭いを辿り、戦艦の中に迷い込んだ憐れな供物を六本の〈両腕〉《まえあし》で追跡している。  這うように突き進む場所はしかも、床に限定されてはいない。壁や天井へと螺旋の軌道で疾走する様はまるで多関節の蜘蛛だった。それでいて時に駆け、時に跳ねるその様は肉食獣をも連想させる。  端的に言って、異形の動き。とてもまともな生命体では、こんな動きは真似できない。  三つの〈翼〉《あたま》を回転させて死のプロペラが駆動している。自然界には生まれ得ない奇怪さは、この生き物が人造であることを示していた。  ゆえにこそ、これは破滅的に成功している。  彼女らは無理矢理に掛け合わされ、性能を強化された破壊の〈混合魔獣〉《キメラ》。あらゆる正気を削ぎ落とされ、涎を垂らしながら飢えを満たすために疾駆する。  憐れにも自らを繋いでいた男のことさえ、獣の〈本能〉《よく》に喰われてしまった。空腹と狩猟欲求を満たすことしかもう何も覚えていない。なぜ自由になったのかさえ、もはや些末事と化していたから。  食べたい食べたい食べさせて──残酷に弄び、手足から齧りたいの。  鋼の牙を、草食獣の血で濡らしたい。 「ねえねえ、どこかな、お姉ちゃん」 「向こうかな、あっちかなぁ」 「もう少しだよ、もう少し。あとちょっとだけ我慢してね」 「はーい」 「はーい」  仲睦まじく三姉妹は結合した姿で笑う。そこに悲観はどこにもなかった。半端に融合していることを肯定的に、いいや自然な状態だと認識している。  獣はとても正直だ、強さについては特にだろう。  家族と繋がり、さらに強固な一体と化したことは、彼女らにとって祝福である。何も嘆く要素はない。  癒着した脊髄から脳は物理的に直結している。喜怒哀楽を共に抱き、生涯を共有しながら、そして今── 「きゃは」  視界の端に獲物を捕らえた喜びをも、三匹はそれぞれ仲良く分かち合う。  殺戮への欲求で脳が埋まる。もう駄目だ、我慢できない。 「見ィィつけたァァァッ──!」  雄たけびを声高らかに上げながら、六つの〈脚〉《うで》で爆進する。  居場所と悪意を宣誓して自ら奇襲を捨てたのが、そこに後悔は微塵もない。なぜならこれぞ、狩りの喜び。怯え逃げ惑う小動物を引き裂くことで心も身体も満たされるから。  牙を剥き出してキーラは駆けた。 その時、ふいに悪寒が俺たちの歩みを止めた。 戦艦の通路を進んでいるだけだが、突如として嫌な感覚が肌に刺さる。嗅ぎなれた鉄火場の気配……修羅場が襲い掛かってくる予兆だ。 「殺気? これ、何か──」 「来るぞッ」 瞬間、視界の先で豆粒ほどの大きさだった存在が超高速で襲来した。 床から壁へ、天井へ。上下左右に、重力を無視した動きで跳ねまわりながら、極悪な殺気を撒き散らしてそれは一気に迫りかかる。 獣じみた雄たけびを轟かせ、そして僅か一瞬の間に── 「ああぁぁぁ……誰だったか、まあいいわ」 爆音を立てて降り立った影のことを、俺はいったいなんなのか一瞬理解が出来ずにいた。 「キーラ、なのか……?」 この顔、そして声は間違いなくそうだ。そのはずなのだ、なのに、いったい。 「こんな、どうなってるのよ……」 我堂も俺も、視線はキーラの下半身に向けられている。生理的な嫌悪感に自然と身体は後ずさりしかかっていた。それほどに、単なる視覚情報として大きな衝撃が俺たちを襲う。 まるで、子供の粘土遊びだ。人形の下半分をハンマーで叩き潰し、無邪気に三体を引っ付ければこんな姿になるのだろうか。それを人体で行っている結果を目にして、とても穏やかじゃいられない。 甘粕正彦……これがあの男の所業なら、まさに悪鬼外道の類だろう。 敵や味方という以前に、俺は同じ人間として目の前の怪物を許容できない。 三つ首の獣となったキーラは、そんな感想など露知らずと明け透けな笑みを浮かべている。友好的なものでは断じてない、それはこれから蹂躙するぞという肉食獣が見せるサインだ。 「お肉だぁ!」 「美味しそう……」 「さあみんな、食事の時間よ── 奴らを喰らうぞ、欠片も残すなァッ」 「オオオオオオオオォォォン!」 鉄の天井の向こう側、月を目指して咆哮する異形の魔獣。 スイッチが切り変わった、のみならず── 「ぐぅぅ、っ……!?」 「あぐっ、つぅ──」 ……〈攻〉《 、》〈撃〉《 、》〈は〉《 、》〈既〉《 、》〈に〉《 、》〈完〉《 、》〈了〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。遠隔から大打撃を与えられた三半規管、まともに立っていられないほど平衡感覚が麻痺してしまう。 くそ、呆けていた。予想して然るべきだったんだ。あれは既に見かけ通りの狂った〈鋼牙〉《けもの》で、ならば少女の姿であっても取るべき行動は相応の魔獣であると。 姿が消え、ぼやけた視界を爪の残像が舞う。このままだと、それを目で追うことさえ叶わなかった。 一撃で終わる──寸前に。 「柊──!」 「応ッ!」 間一髪……直前まで迫っていたキーラの爪を、二人がかりで受け止めた。 俺より一歩分、距離が開いていたおかげだろう。一瞬早く立ち直った我堂の呼びかけで、ギリギリだったがそれに対応することが出来ていた。 しかも、さらに嬉しい誤算があった。こいつの〈戟法〉《ちから》は脅威だが、それに今はこうして相対できている。 以前と変わらず桁外れた膂力だが、空亡と比較すれば警戒はしても絶望する程ではない。特に長丁場で抗戦していた我堂は、心身共に著しい成長を遂げていた。小さな暴君に対し、二人ならば正面からでも戦える。 「きゃははははッ」 ──その認識を甘いと砕いたのは、横殴りからの暴風だった。 苦悶の声さえ出せず、木っ端のように俺と我堂は吹き飛ばされる。信じられないことに先の一撃、無邪気なそれはキーラ本人を数倍上回る破壊力を宿していた。 キーラを中心とみなして右下、盲目の少女がけらけらと嗤っている。その頭を愛し気に撫でながら、鋼牙の首領は瞳に理知の侮蔑を宿していた。 「凡愚が、何を驚く。私たちは〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》だ」 「見通しが甘すぎる、貴様それでも奴と同じ盧生なのか?」 弾き飛ばした俺たちを睥睨しながら、負の感情を溜め込むように今度は逆側の〈少女〉《あし》が動く。 目いっぱい、大きく息を吸い込んで── 「アアアアアアアアアアアァァァ──ッ!!」 無差別に薙ぎ払う破壊の咆哮を吐き出した。 「かはッ、つぅ」 全方位に叩きこまれた叫び声は風圧と衝撃の〈鉄槌〉《ハンマー》だ。体表から浸透して内臓器官を揺さぶる原理は、震災と同一の理屈でこちらの身体を壊しにかかる。 伝わる揺れは防御を徹底して認めない。内臓が粥になるほど揺さぶられて、それでもあいつらに手を緩める気配はなかった。 開いた距離を詰めるべくキーラは高速で移動を始めた。その動きのなんておぞましいことだろうか……三次元的な軌道で縦横無尽に這いずりまわり、上下左右も関係なく、爆発したかのように跳躍と疾走を繰り返す。 まるで蜘蛛と肉食獣を掛け合わせたような挙動は、他に例を見た覚えがない。人工的に生み出された魔獣の動きは、この世にたった一匹の怪物として戦場に君臨している。 まるで死を孕んで旋回するプロペラだ。渦のようにあらゆるものを巻き込みながら引き裂き続ける、捉えきれない……! 「ねえ、レムはいったいどこが好き?」 「ワタシはあたま、特に〈右脳〉《みぎ》が美味しいの。ロムはどこ?」 「ワタシもあたま、でも好きなのは〈左脳〉《ひだり》かな。癖がなくてまろやかだもん」 「じゃあ半分こ!」 「いっしょに食べよ」 「それならわたしは心臓ねっ」 「うふふふふふふ、キャハハハハハハハッ」 狂った三姉妹の輪唱と共に、弾かれ、砕かれ、翻弄される。 何とか動きを捉えて、相討ちの要領で攻撃を叩き込めは出来るものの── 「あはははは──無駄だと言ったぞ、劣等がァァッ!」 そんなものは焼け石に水だ。奴の誇る超再生は、かつてのようにあらゆる損傷を打ち消してしまう。 しかも、今回はさらに輪をかけてまずかった。傷が治るのはキーラの身体だけではなく、他二体の少女にまでその効果が及んでいる。三頭の内どれを最初に削っても何ら差は生じていないらしい。 つまり、担当分けが出来ているのだ。こいつらは絵面通りの〈三位一体〉《トリニティ》、人体融合が生んだ奇跡のような悪夢だから。 その能力……強さのカラクリというものも、ようやく朧気ながら見えてきた。 キーラの左脚に位置する奴は〈戟法〉《アタック》特化。 常軌を逸した膂力を武器に、あらゆる障害を粉砕し── 右脚は対称的に〈咒法〉《マジック》特化。 距離を取ろうとした獲物を狙い、攪乱効果の付いた吼えを浴びせかけ── 超回復を持ち、高水準にまとまった力を持つキーラが中央に控えている。 遠近どちらもカバーした二種類の〈攻撃手段〉《ほこ》に、何度でも再生する無限の〈超回復〉《たて》。恐ろしいことに完璧だ、個体として群体を地でいってやがる。良い所取りの矛盾かよ。 キーラを頂点として機能する三つの意志は、奴らが公言する通り固い絆で結ばれている。三姉妹の間に仲違いなど起こるはずはなく、精神的な部分から切り崩すことも不可能だろう。 ああ、辟易する。眩暈がしそうだ。こいつもまた、龍と同じく人から外れた戦の真を持たない〈人獣〉《かいぶつ》。 総合力なら空亡に劣っているが、統率されているために指向性を携えている。それも奇怪な形で接合されているものだから、培ったはずの経験が軒並み役に立たないなんて…… さらに前代未聞なのは、その戦い方だけではない。 破綻した精神構造を露呈しながら、魔獣は俺たちを追い詰めていく。 「ほら、見てよお父様。キーラは強くなったでしょ? 狩りもこんなに上手くなったの、だからお願い。これ以上は繋げないで」 「どんな相手も嗅ぎつけるから、わたしはとっても役に立つわ。鋼の牙でどんな獲物も殺してあげる。夢を届ける狼なのよ」 「お姉さまはいい子だもん」 「強くて綺麗で優しいの」 「だから消えろ、消えろよ貴様ら。戦真館の小童ども」 「薄汚い人間風情が、下郎の分際で私の邪魔をするんじゃないッ──!」 「ねえ──そうでしょう、お父様!」 「がッ、支離滅裂な……!」 ワケが分からない、理解不能、完全に頭が逝っている。 こうして怒涛と攻め込みながら、ぶっ壊れた思考回路は俺たちをまるで見ていなかった。時折、ふいに理知的な言葉を見せるが、そんなものは見せかけだ。こいつは何も見ていない。 咆哮と爪牙に翻弄されながら、その事実に憤りを覚える。どいつもこいつもふざけるな……人じゃないのがどうしてそこまで誇らしいんだッ! 「行きなさい、柊! こいつは私が抑えてやるからッ」 勝たねばならないと、意気込んだ足が止まる。 傷つきながら薙刀を支えに立つ我堂は、そんな馬鹿げたことを口にした。 それが本気で、ああだから。くそっ、嫌な予感がしてきたぞ。 「寝言を言うな、奴を見ろ。あれはとびきりの人喰いだ、俺とおまえのどちらか一人で対処できる手合いじゃない」 「それでもよ。あいつは、私が斃さなければいけないんだわ」 「だって……分かってしまったもの、あれは私の鏡なんだって」 殺人に対して思うところがなく、人の道理を無視できる獣。社会に生きられない性を背負うという点で、キーラと自分は同じであると…… 苦汁を噛み締めながら語ったこいつの顔を、俺は直視できなかった。他ならぬこいつが認めた真実を、他人が否定していい権利はない。 「あんな奴が生まれない世の中を、これから作ろうって決めたじゃない。だからそのために、お願い、一人でやらせてほしいのよ」 「ていうか、変な心配しないでよね。躾けのなってないケダモノぐらい、軽くノしてやるんだから」 「しかし」 「ここから先は役割分担、そうすべきとも思うから」 これはもとからそういう配置なのだと……そうだな、そういう予感は確かにあったさ。 俺たちをここへ呼んだ男は、こういった割り切れない争いを求めている。その思惑に乗るのは本来なら下策だったが、奴の居城であるこの〈戦艦〉《ばしょ》にいる以上そのルールからは逃れられない。逆に言うなら、足を踏み入れた時点で誘いに合意しているんだ。 おそらく俺がどれだけ参戦しようと意気込んでも、協力してこいつを斃すという状況を〈成〉《 、》〈立〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》確信がある。 俺が甘粕、我堂はキーラ。そう求めているからこの配置に従う他ないと、深い部分で感じていた。 それでも……ちくしょう、こいつ少しは分かれよな。 俺も男なんだから、心配ぐらいはするんだよ。そう思って視線を寄こすが、返って来たのは自信と覚悟に満ちた笑みで。 「──大丈夫、私の“礼”を信じなさい」 ……言いきられたのなら、分かったとも。おまえのことを信じよう。 〈旋棍〉《トンファー》を消し、疾走する獣を見定めながら印を組む。迫る爪へ向け、渾身を戟法の迅へと傾けた。 「任せた」 言葉少なく信頼を告げ──臆すことなく、キーラの射程距離へと一気に飛び込む。 すべてを速さへと変換した俺に奴は追いつくことが出来ないが、野生の勘で捉えることは充分可能だ。脳天めがけて落下してくる鋭い爪、このまま当たれば柘榴のように脳と脊髄を引き裂かれるだろう。 そしてそれも、また織り込み済み。 被弾する寸前、我堂の薙刀が矢のように割り込んだ。飛翔する切っ先は肘から先を斬り飛ばし、人一人が通れる分の隙間を作り出して── 「さあ来なさい、この犬っころ! でかい首輪を付けてやるわッ」 新たに創った得物を手に、雄々しい啖呵で魔獣の興味を引き付けた。 負けるな、死ぬなよ。おまえとはこれからも、いい勝負をしたいんだからな。 遠ざかっていく戦闘の音を聞きながら、俺は全力で駆け抜ける。 あの魔獣より何十倍も恐ろしいだろう男のもとへ、決着をつけるために速度を上げた。  拳が唸り──剣が舞う。  火花が散り──血飛沫が飛ぶ。  彼らは踊る、戦っている。  夢と夢を競うように。男の矜持をぶつけるように。  それを眺めながら、百合香は自分の身体を抱きしめた。頬を染めて震えながら二人の死闘を見つめている。  今の彼らは、なんて眩しく美しいのだろうかと。まるで映画を鑑賞しているように、特等席で死の舞踏に心を奪われていたのだった。 「素敵──」  熱の籠もった呟きは最上級の礼賛だった。譲れないものを賭けて戦う男たちの挽歌、それは百合香の魂を魅了してやまない。  戦の心得がないために趨勢はまるで分からない。  攻防の機微も、放たれる攻撃がどれほどの暴力を孕んでいるのかさえ、何一つ知らないままだ。極論、どちらがいま優性なのかも見抜けずにいる。常人の範疇である動体視力は、流れるように激突する様を幻想的に映していた。  そして、理解できないからこそいいのだろう。百合香は今も、彼らが何を思っているのか切れ端すら知れずにいる。あの二人が自分のために戦っているなどと、めでたい思考は持っていない。  淳士は、自分のことが許せないのだ。  自分の精神を説き伏せたいから、ああして拳を振るっている。仁義八行、なんて眩しい。彼はそういうもののために夢を描ける殿方だから。  宗冬は……何なのだろうか。  きっと、自分を喜ばせようとしているのだろう。  主を満足させるために、家令として忠実に。そして自己満足のために。  あの時に本物を持っていると演じたから、愚直なほどに課した役目を演じていた。可愛らしいほど必死に、苛烈に、刃をかざして戦っている。  つまり、いま自分の眼前で繰り広げられている死闘と血潮は真実だ。  あの二人が辰宮百合香に恋しているとは思えない。ただこの戦いが発生した焦点、そもそもの原因が自分にあるのは間違いなかった。  憎んでいるのだろう、殺したいと思っているだろう。けれどそれが心から嬉しい。彼らの本気を引き出したのは、他ならぬ自分であるから。  第七層における空亡との決戦でよく分かった。彼らはきっと〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈変〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈人〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈う〉《 、》、と。 「ああ、わたくしはここにいます」  よって逃げもしないし、どのような結果でも受けとめよう。だからその手で勝ち取ってほしいのだ。  わたくしは受領される男の景品。彼らに組み伏せられる時を求めて、その激闘へと手を伸ばした。  衝撃の余波が暴力的に身体を撫でる。砕け飛んだ床の破片が頬の皮を小さく裂いた。その痛みと傷が心地いい、もっと深く刻んでほしい。  流れ星が二つ……小さな部屋の中で、互いに凌ぎを削っている。  自分の前で、こんなに激しく、真実を晒しているのね──素晴らしい。  法悦の吐息には超密度の傾城香が宿っていた。その喜びを、溢れんばかりの幸福を、男たちへと伝えて誘い── 「気色悪いんだよォッ」  包み込もうとする愛の花を、淳士は拳撃と共にぶち抜いた。  こんなもので滾る憤怒は静まらない、いったいなんだこいつらは。  百合香は頬を染めて喜んでいる。宗冬は何も語らない。  頭のおかしい領域で殺し合いを演じながら、それでもこの主従は終始こんな様なのだ。  知己と本気で切り結んでいる状況を共に二人は歓迎している。陶酔して観戦する女も女で、何かこじらせた男も男だ。致命的にすれ違ったまま、くだらない愛憎劇を演じているとは。 「目が見えねえのか、あんたはッ」  何をさっきから感動している。自分と従者の零す血がそれほどまでに美しいのか糞女が! 「てめえもだ! いつまでだんまりしてやがる……ッ」  そして何より、この男に対して自分は強く物申したい。  彼の敬意、秘めた葛藤、その内面を知ったからこそ宗冬を情けないと思っている。たった一人、真に主の歪みを更生できたのは、彼だったのだ。それを分かっていながらこんな結論へ至ったことが、同じ男として看過できない。虚しくなってくるだろうが。  睨みつけた視界には、冷徹な無表情が映っているのみ。  内心では激発しているくせにそれを微塵も表へ出さない。だからこんな運命になったのだろうと、自覚しながら、何だそれは。  幾つもの剣閃で肉を切り裂かれながら、思い知らせてやるという気概を糧に敵手の動きを追い続ける。  共に破段は発動していた。ならばこそより対称的に、戦闘は更なる加速を遂げていく。  淳士は重く鋭い拳を放ち──  宗冬は軽やかな動きを主に、舞い躱して剣を振るっていた。  戦いは若干後者が優性だったが、時に当たる一発が大きいため結果として戦果は等しく〈水平〉《イーブン》になる。何十の斬撃を受けたとしても、数度の剛腕がそれに追いつきひっくり返した。  重拳士と軽剣士。重化と軽化。正反対の彼らは、そのまま真逆の闘法で絶死の火花を散らして踊る。  ……肩を並べて戦った記憶ごと、破壊してやるというように。  衝突する本気の殺意、もはやどちらが勝利しても無事に終わるはずがない。 「──ふッ」  それでも、経験値の違いゆえか。このままなら宗冬に軍配が上がるだろう。  自ら先達と言っただけに鍛え抜いた時間が違う。先に生まれたという覆せない優性は、積んだ練度の差となって淳士の動きを翻弄していた。  雨だれが石を穿つように……着実に、少しずつ増えていく斬撃の裂傷。  どれだけ重く、堅くなろうとも当たれば当然消えるし減る。淳士はやはり人間なのだ。空亡のような不滅の大地でない以上、どうしても金属疲労のように身体へ澱みが蓄積する。  技量という面において、この秀麗な剣士は圧倒的に卓越していた。戦闘者として完成度を競うのならば、淳士は宗冬に勝てる理屈を持っていない。  だから曲がりなりにも喰らいつけている現状は、戦闘力の外にある二つの理屈が関係していた。  一つは、宗冬の〈邯鄲〉《ユメ》がかつてより若干衰えているということ。  彼もまた、盧生の資格を持たぬ者だ。四四八という〈根源〉《サーバー》から力を引き出しているため、接続の強さに出力は確かな影響を受ける。その繋がりが以前より緩くなっていた。  端的に言えば、それは戦真館側から見た、拭いがたい百合香への不信感が原因だろう。  花弁に囚われていたせいか、四四八は無意識に彼女を信用すべきではないと判断している。あとは連鎖的な評価として、従者の宗冬もまたその認識に引きずられていた。  彼の強さは本来、破段より〈一〉《 、》〈つ〉《 、》〈上〉《 、》〈の〉《 、》〈領〉《 、》〈域〉《 、》〈に〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。しかしある理由によってそれを現状出すことは叶わず、さらにこうして意図せぬ弱体化を強いられている有様だ。  覚醒してから日の浅い後輩を殺しきれずにいる理由の、まず大きな一つがそれだった。  そしてもう一つ、接戦を演じる意外な理由は淳士の急成長にあるだろう。  よくできたご都合主義であるかのように、彼は見違えるほど強くなっている。空亡との一戦を経たことで、信じられないことにかつてとは比較にならない域の能力者へと変貌していた。  これにも当然、カラクリがある。淳士本人は意識していない部分であるが、戦真館の面々は相互に深い繋がりを持っているのだ。四四八という盧生を軸に彼らは絆で結ばれているからこそ、邯鄲の練度にもある程度の共有化が働くという性質を備えている。  仁義八行、悌の心──それはこの場において明確に発動されているわけではなかったが、常態として何の効力も発揮していないかというとそれも否。  仲間が存命している場合、相互の強さに多少ながら上昇補正がかかるという裏がある。四四八の復活と龍との決戦、そして宗冬への対抗心など、あらゆる要因が絡んだことで淳士の夢は今も研ぎ澄まされつつあった。  自分があってこその友であり、それに恥じないための自分である。  その信念で描く〈破段〉《ユメ》が、盧生との〈特性〉《つながり》に対して抜群の相性を発揮しているのは言うまでもない。洗練されていく動きは戦闘開始時の姿とは別人のよう。  天井知らずに上がっていく剛拳の威力と精度。  一分毎に、一秒毎に、淳士は今も強くなる。 「いい加減に気づきやがれッ、てめえがやるべきことだったんだ!」  けれどそんなことはどうでもいい。仮に知っていたとしても彼自身は頼ろうとさえ思わないだろう。  拳に籠められているのは烈火のように激しい怒り。男の矜持を叩き込む、それだけを愚直なまでに求めながら死の鋭剣へと肉薄していた。  返しの二閃。脇腹と右鎖骨を斬り抉られるが、爆発し続ける感情は痛覚を遮断してなおも突撃に興じさせる。  宗冬の描く軌道を限定して徐々に追い詰めていく様は完全に本能の御業だろう。暴れ狂う野獣のように迫りながら、憤激というガソリンを自らの裡で燃焼しながら対峙する。  部屋の一角を一瞥すれば……そこには微笑む、百合の花。  まるで二人の男が流す血を今も吸っているかのように、沸き立つ妖気は眩暈がするほど濃密だった。  艶やかに、しとやかに、瑞々しくも幸せであると、破壊の嵐が巻き起こっている中で恍惚とその結末を待ち望んでいる姿──ふざけるな、ふざけるなよ、俺は絶対に認めない。 「見ろよ、あの馬鹿女を! 今も嬉しそうに笑ってやがる……ッ!  俺もあんたも何もかも……酔っぱらったお花畑の蜜蜂だ、あれでいいはずねえだろうが!」  攻撃と共に奥歯が大きく軋りを上げた。きっと百合香は、今も何一つ事の本質を分かってなどいないだろう。自分に甘露を与えるためにそれぞれ適当な理由で戦っている、とでも思っているのならいよいよもって救いがない。  あの女はもう手遅れだ。付き合いの浅い自分でも分かるというのに、この男は。 「どうして、殴ってやらなかった! どうして、道を示してやれなかった!」  すかした顔をしたこの美丈夫はなぜ惚れた女を放置したのか。歪みを正さず唯々諾々と、なんて馬鹿野郎だ。救いがない。  すれ違いや空回りもここまでいくと狂気だろう。だが静かに深く病んでいった宗冬の内面を知った今、その腑抜けた姿勢が許せなかった。 「てめえなら出来ただろ」  なぜなら、彼は自分と同じ概念を学んだはずの男だから。  時を超えた先達と後進、二人は共に戦真館の門下であったという共通の経歴を持っているのに。 「戦の真はどうしたんだ」  自分は未来を目指しながら、宗冬はまるで逆。彼は今も終わらない悪夢と〈妄執〉《アイ》に囚われている、こんな馬鹿げた話があるか。  四四八がよく口にしている言葉の中に志を受け継ぐというものがあるが、淳士もそこは同感だ。命はある日突然そこに生まれてくるものではなく、そこに至るまでの個人や歴史があったからこの世に形を成すものだろう。  過去から学び、現在を必死に生きることで、より良い未来へ繋げていく。  人生とは継承の連続であり断続しているものはない。自分はそういったサイクルの一部であり、同時に後へ続く世代たちへ恥じない背中を見せるという気概を持たなくてはならないのだ。  それが先に生まれた者の義務だろう。だというのに、淳士は何一つ宗冬のことを〈眩〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。こんなに虚しいことがあるか。 「先輩風吹かすくらいなら、こんな……  未来で生きる後輩に、説教されてんじゃねえぞォォッ!」  だから決して譲らないと、怒槌となった一撃がついに宗冬の刃を傷一つなく弾き返した。  それはつまり、自身の奉じる重さが相手の執念に匹敵したということを証明している。  これで対等。夢に懸けた重量はついに水平。勝負の程はここからだ。 「女の尻に敷かれっぱなしで、マゾかてめえは。このヘタレが。  いつまでそんな、独りよがりの忠義を抱いてやがる──!」 「──黙れ!」  しかし、均衡は再び打ち破られた。蓋を砕いて噴出した激情が難なく天秤を傾ける。淳士の喝破が心の奥を突いたのか、ここで初めて宗冬は秘めた怒りを露わにしたのだ。  驚くべきは隠していた激情の密度だろう。押さえていたものが滲み出している今、周辺の大気が禍々しく歪曲しているかのようだった。  それは決して本来の自分を捨てたわけでも、怒りで見失ったわけでもない。  複雑な内情に応じることで、時に獣性をも発揮できるのが幽雫宗冬。野蛮になったということは戦闘力が下がったことを意味していないし、この場においてはまったく逆。  嫉妬、怨嗟、諦観などなど、淳士を前にして抑圧されていた数々の鬱憤。それらが解放されたことから来る戦闘力の上昇は、子供にも分かる足し算だ。  ゆえに今、これがもっとも相応しい本気であるのに間違いはなく。  より苛烈な攻めが来るのを予感しながら、しかし上等。〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》。  全力を搾り出し、その上で勝たなければ意味がない。 「いいだろう、貴様の土俵に乗ってやる。  だが、後悔するなよ。格の違いを知るがいい」 「抜かせ、俺がてめえに負けるかよ」  その共通見解だけを一致させながら、二人は再び正面から激突した。  連撃、乱撃──斬、貫、薙。  共に全力、共に真っ向。愚直に、激しく、弄する策など一切なしに。  互いに一歩も引かぬまま、意地に任せて殴り合いと斬り合いを演じ合う。  滝と滝が左右からぶつかり合っているような光景は、絶大な衝撃波を生んで部屋の装飾を木端微塵に吹き飛ばした。連続して続く破壊の飛沫は無作為に周囲へ飛び散り、自動修復する屋敷に何度も爪跡を刻み込んでいく。  淳士と宗冬の視界にはもはや相手の姿しか映っていない。  他のものに意を傾ければ即死する。だから斃す、必ず討つ。  つまりその気概がある限り、二人はやはり真実である。  血を流す彼ら二人の姿は不謹慎だが美しかった。  前時代的だと罵られようとも消えない価値観がここにある。男と男の決闘はかくも熾烈で、荘厳な檜舞台なのだから。 「ああ、はぁ……」  だからそんな二人が愛おしく、百合香は恍惚の吐息を漏らした。流れ矢で死にそうな状況さえまるで彼女は意に介していない。 「淳士さん……宗冬……」  震える身体を抱きしめて男の決闘を観覧している姿は、なんて自分は幸せなのかと言わんばかりのものだった。  争いの景品として勝者の到来を待ち焦がれているヒロイズムの奴隷、それを一瞥すらせずに淳士は宗冬へ訴え続ける。あんなものがいいわけあるかと。 「目ぇ、覚ませ」  自分が百合香から好意を寄せられているのは間違いない。だが、それがどうした。  まさか自分がそれを受け取るとでも? 冗談じゃない。 「馬鹿な女の〈御守〉《おも》りなんざ、御免なんだよ俺は」  柄じゃないし、相応しいわけでもないことだ。そもそも、相手に対する義理がない。大切などと欠片も思っていない自分がどうして、わざわざ心血注いで屑を矯正しなければならないという?  そんな罰ゲームをやるべきなのは、ずっと隣にいた男だ。  そう、たとえば目の前にいる彼のような。  辰宮百合香に狂っている馬鹿野郎が、必死にそれを教えてやらねばならない。 「あんたが、あんなのに惚れた馬鹿な男というのなら。  てめえがきっかり、ケジメつけんのが筋だろうがッ──!」 「──馬鹿は貴様だ」  その時、絶対零度の視線が真っ向から見返してきた。  籠められているのは、まさか呆れか。今までとは正反対に、まるで痴愚を見つめているかの如き、その視線。  続けた言葉は侮蔑と嘲りに濡れていた。 「なぜそこまで怒る? 関係ないだろう、他人事ならな。  そもそも、前提から見落としているのはそっちだろう」 「答えろ……なぜ今も、おまえはお嬢様に惹かれていない?  過去最大の香気が渦巻くこの部屋で、どうして正気を保っているのだ? 粒だね揃いの戦真館で、いったい何故、おまえだけが」 「何を──」  言っているのかと尋ねかけ、はたと気づく。  いや待て──ならば〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》?  傾城反魂香、その呪縛が絶大であるのは語るに及ばず。文字通り死人さえも蘇らせて奴隷にしかねない魔の香気だ。それが証拠に、自身を除いた戦真館の面々は成す術なく嵌められたのを覚えている。  だが、果たして常に傍へ控えていたこの家令、幽雫宗冬はどうだったろう?  垣間見た過去が真実なら、こいつは邯鄲に入る以前から百合香を好いているようだった。  そして今、それを裏付けるように香気で頭をやられている気配はない。壇狩摩も口にしていたように現実の段階から愛情を抱える者は、すでに魅了されているから効かないわけだ。判定として、状態異常の二重掛けに陥るのだろう。  ならば仮に、百合香の香を無効化する手段がそれ一つというのなら。  裏を返してみれば、つまり。  つまり、鳴滝淳士もまた── 「俺を狂っていると言ったな。ああ、その通りだよ。ゆえに──」  脳裏によぎった〈不〉《 、》〈快〉《 、》〈な〉《 、》〈事〉《 、》〈実〉《 、》を真だと、嘲笑うように。 「おまえも同じ、狂人だろう。  いいや、ただの馬鹿だな」  同情にも似た、共感を含んだ揶揄が複雑そうに呟かれた。 「抜かしてんじゃねえぞォォォッ──!」  瞬間、すべての思考回路がマグマとなって噴火する。  先ほどとまったく同じ、激昂した宗冬が瞬間的に淳士の夢を上回ったのと同一の現象が、今度は役者を逆にして彼我の間で巻き起こった。  本人は気づいていないがその言葉は真芯を捉えていたと言っても過言でなく、ゆえに強大、覆せない。  連鎖的に大爆発を起こした念の重量は、鍔迫り合いの状況を一息で自らの側へ傾けた。  放たれた拳に宿る重力はゆうに数百倍。  加えて、速度と体捌きも完璧だった。  一瞬で激した心は、意図せぬ虚実を生み出した。本人さえ理解不能の咆哮を前に、相手が対応できるはずもなし。  見惚れるほどの鮮やかさで渾身の一撃が宗冬の中心点へと炸裂した。  想像する限りこれ以上はないという最高の、そして勝負を決する一撃が血肉を潰して轟音を鳴らす。直撃した箇所から内臓が風船のように次々弾けて抉れ、骨が粉微塵になって宗冬の全身を打ち砕いた。  もはや立ってすらいられないだろう。確実に通じたという手応えを感じながら、しかし。 「なるほど、これが当然の結末か……」 「──な、ッ」  信じられないことに宗冬は倒れない。  口端から内臓混じりの血を流しつつ、気力だけで立っている。  困惑する自分を憐れむように見下ろす視線が、分からないのはおまえだけだと語っていた。ここにきて両者の優劣が決定づけられる。 「驚くことはないだろう。愚者を屈服させられるのは、本当に頭のいい人間か。更に手の付けられない馬鹿しかいない。  おまえも馬鹿だが、現状俺の方が馬鹿なのだよ」  それを誇りだと言うように、宗冬は激痛を噛み締めながら苦笑した。  愚昧、俗物、いいや気の狂った憐れな男か。  自嘲しながらそれを自慢だという口ぶりが淳士には理解できない。  そしてそれこそ、二人を分かつ決定的な差なのだろう。  どちらがより大物で、英雄の気質を備えているというのならそれは無論、淳士のほう。しかしだからといって勝者がそうとは限らない。  世の中とは常に力を持っている小物の方が恐ろしく、かつ厄介なのは言うまでもなく、だからこそ──そう、だからこそ。  鳴滝淳士は〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈一〉《 、》〈点〉《 、》において劣っていると、いいや土俵にすら立っていないと語りつつ静謐に刃を構えた。 「また来るがいい、これは俺からの宿題だ。  再び出会うその時までに、おまえの〈狂気〉《こたえ》を見つけてみせろ」  そして、するりと針を通すように剣先が淳士の喉を貫いた。  そのまますかさず、引き抜きながら真横に奔る一文字。  斬首され、首が胴から泣き別れる。その刹那に。 「ああ、もう一つ助言もしておこうか──  認めたとしても楽ではないぞ。この想いはな。  実に、実に厄介だ」  共感と同情を乗せて、剣閃が意識を二つへ断ち切った。  真っ二つに分割された頭部が散り、淳士を夢中の夢へと誘っていく。目覚めることは二度とない。  これはある意味、当然の結末だろう。彼ら二人の戦いは常に〈重量〉《おもい》の多寡が勝敗を決するというものだった。  正反対の者同士、技量、環境、その他諸々。複雑な要素は極めて軽くなってしまい、どうしても意地の張り合いという単純な構図に移行してしまう。  ゆえに自覚の有無が焦点となったのもまた自明。一人は自分の歪みを痛感しており、一人はそれをついぞ認めることができなかった。正道を重んじたがゆえに己の真実とかけ離れたそれは戦の真と言えはせず、ここに泡沫の決着を晒すことになる。  すべてが真に決まるのは〈再〉《 、》〈戦〉《 、》の瞬間だけ。  それが訪れることになるか、否か……  見定めるために、宗冬は勝利を手に主の下へと振り向いた。 「ご満足いただけたでしょうか、お嬢様」 「ええ。大変満足いたしました」 「それはよかった」  花がほころぶように微笑む百合香に嘘はなく、それに対して彼は素直にささやかな充足を感じていた。  なんて皮肉なことだろう。叛逆を公言し、あまつさえ欲望のまま動いたことで彼は初めて主の心を慰撫できたのだ。  想い人を切り捨てられたというのに、少女の頬は林檎のように色付いている。それを壊れているなどと、野暮なことをどうして口にできようか。 「思えば、あなたに合格をいただいたのはこれが初めてのことですね」 「そうですね、ですがそれはここまでの経過でしょう。  及第点は超えたとしても、満点ではありません。画竜点睛を欠かさぬように、感動的な結末を見せてほしいと思います」  だから。 「さあ……」  その手で── 「わたくしを〈愛〉《ころ》しなさい」  劇的な結末を描いてほしいと、主は臣下へ懇願した。  彼は自分の言うことならば必ず聞く生き物だから。  そのためにこうして、素晴らしい劇を演じてくれたから。  〈悲劇の花〉《ヒロイン》として自分を今から完成させてくれる。  そう信じて疑わないのは、つまるところ決定的に読み間違えているからだ。最後の最後、そう呼ぶべき分水嶺をこうも軽々しく乗り越えてしまった。 「やはり、何も分かってはおられない」  それゆえ、苦笑しながら首を振る宗冬の内心など慮れるはずもなかった。  彼は主がやはり何も分かっておらず、自分の想いは伝わっていないことを納得し、同時に強く落胆する。  何はともあれ、彼女に残された蜘蛛の糸はこうして切れた。  宗冬、百合香、そして淳士。彼らは再び悲しみの涙を流すだろう。  誰一人傷つかないという幸福な結末は訪れない。けれど賽は投げられたから、彼にできるのはもう転げ落ちるというだけだった。  そしてもし仮に、彼女が真に更正する瞬間が訪れるというのなら……すなわちすべては、淳士の自覚に関わってくるのは間違いなかった。  宗冬は彼女を愛して憚らない。  淳士は彼女をどう思っているのか、気づくまで至らなかった。  青い蕾は二人の男から与えられた刺激によってようやく目覚め、芯まで衝撃を届かせる。どちらか一人が〈水〉《アイ》を絶やしても駄目なのだ。それは空亡との総力戦でも証明されていることだった。  ならばこそ── 「舞台がまだ甘いのでしょうね。所詮、ここは邯鄲の夢。すべては泡沫の幻に過ぎない。  即席では真実足りえないということ。拝領しました、ですから──」  そうして、微笑みながら自分の首元に剣を添えて。 「次は本気で、あなたのことを奪いましょう。  然らば、今日はこれまで」  淳士にしたのと同様に、そのまま横へと断ち斬った。  鮮血が吹き乱れる中、宙を舞った首が百合香の膝元に落下する。純白の布地を染めながら安息の死に顔を湛えた家令が、幼子のように目を閉じていた。  屋敷には静寂が訪れた。数分前まで鳴り響いていた破壊の合唱は、まるで嘘のように消えている。  ここには真実、たった一人しかない。  宗冬も淳士も男は揃って逝ってしまったものだから。 「…………」  はて、これはどういうことなのだろうと──辰宮百合香は思案する。  表層は変わりないが、彼女は今かつてないほど困惑していた。童女のように本質を理解していないのは普段通りだが、少々趣が違っているのは〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈不〉《 、》〈可〉《 、》〈解〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》ということにある。  まず宗冬、信じられないことに彼の考えがまるで分からない。  自分にとって彼はお役目を守るだけのつまらない男だった。要は自動機械、辰宮の威光に傅く備品。蝶よ花よと百合香のことを持ち上げる非常にありふれた人間であったはずなのに……  そう思っていたけれど違ったのか、どうなのでしょう? 思い悩むのではなく子供が首を傾げるように幼い仕草で困惑している。  愛している、本当に──その言葉は真実で?  ならばどうして、自分の求める結末を叶えてくれなかったのか、初志貫徹して強引に〈殺〉《おか》してくれなかったのか、それならあなたの花になってもよかったのに、などと見当違いのことを考えている。  その思考形態こそ淳士が厭い、宗冬が絶望した愚かさであると解さないまま。ああ、こんなことさえ知りはしない。  ただ、中々に劇的であったことだけは間違いなかったから。 「今のおまえは悪くなかったですよ」  そこには純粋な感謝をしている。彼ら二人、男の戦いに胸が震えるものがあったのは事実であり焦がれるほど〈陶酔〉《はつじょう》したのだ。  願わくばもう一度見たいというほどに。  そして今度こそ、その先にある真実が見られるなら、これに勝る喜びはないだろう。  淳士と宗冬がぶつかり合うことで、きっと自分だけの本物が手に入る。  そうに違いないと思うから、まずは勝者を労わなくてはならなかった。首となった宗冬と向き合ってその頬を優しく撫でる。 「褒美を授けましょう。次もどうか、わたくしを喜ばせてくださいね」  交わされたのは血濡れの口付け。  これにてひとまず愛憎劇は幕を閉じる。  妖艶な真紅に染まった口紅が、闇の中で退廃的に輝いていた。  そして、時同じく爆散する鋼鉄の通路。  頑丈な隔壁を獣の牙が紙のように引き裂き、吼える。  鞠のように吹き飛ばされながら、鈴子は甲板へと墜落した。 「つうううッ──!」  衝撃を受け流しただけで踏ん張る足から血が零れる。  全身は既に大小様々な傷で覆われており、まばらに赤く染まっていた。  自己回復が得意ではないために体勢の立て直しも追いつけない。四四八を先行させてから僅か数分……それだけの間で、自分はこうも成す術なく追い込まれている。  奮戦できていないわけではないし、当然強くもなっている。  そこは淳士と同じ理屈だ。盧生という〈太源〉《サーバー》との接続強化と第七層での一戦が、鈴子の力を大きく引き上げているのは言うまでもない。かつてない鋭さで彼女の夢は今も雄々しく駆動している。  だがそれでも、追い込まれている理屈は単純なこと。 「あははははははははッ!」  超高速で飛び出してきたこの魔獣は、より劇的に強化されている。  破壊を、狩猟を、蹂躙を求めて疾走する三つ首の〈餓狼〉《ケルベロス》。一度見定めた子兎は決して決して逃げられない。  レムスの豪腕が気軽に足元の鉄板を粉砕し、瓦礫を〈礫弾〉《れきだん》へと変える。それを躱したと思えば、そこをロムルスの咆哮が狙い撃った。身体が再び震動破壊の波に揉まれる。  なんとか距離を──取れるはずもなく迫り来るのはキーラの裂爪。  鯵の開きにするかのごとく、獣の暴虐さで大上段から死の裁断が振り落とされた。 「──こんのォッ!」  迎撃できたのは偶然に近く、腕を切り裂けたのは奇跡だろう。  肘から先を切断した瞬間、背後の床を爪の傷跡が蹂躙する。一歩遅れていたならば、自分は無残に解体されていた。  そしてさらに、迫る脅威は終わっていない。視界には〈再〉《 、》〈生〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈腕〉《 、》が映っており、勢いよく逆の軌道で振りかぶられているのだから。 「飛べ」  無慈悲な一撃が防御ごと鈴子を跳ね飛ばす。  薙刀で防いだことなど無駄な足掻きであるという、絶対的な暴力。火力。そして不死身の再生能力……それが肉食獣のような速さで襲い掛かるのだ。対応できるわけがない。  戦いの場所を通路から甲板へ移したとしても、魔獣の脅威は健在だった。確かに壁面と天井を足場として使えなくなってはいるが、代わりに〈最高速度〉《トップスピード》という面においては比較にならないほど跳ね上がっている。  獣は狩りの場面においてあらゆる要素を利用する。  自らの機能を有効活用する術が、本能に組み込まれたまま生まれているのだ。よってこれは、単にやり方を変更しただけである。  蜘蛛や〈守宮〉《やもり》の動きで障害物を機動力へと変えていたなら、開けた場所では獅子や豹に代わればいい。これはそれだけのことだった。  キーラたち三姉妹はその判断を無意識下で実行している。  考えることなどわざわざしないし、するまでもない。  獲物を喰らう行動に頭など使っていられるか。あらゆる反射と本能で、持ちえた能力を思うがまま撒き散らす。  まるで、彼女らも〈廃神〉《タタリ》の一柱であるかのように。  人性を捨て、理性を捨て、悪辣奔放な人喰いへと堕天していた。 「馬鹿馬鹿しい、何がそんなに嬉しいのよ」  その様が、どうしようもなく悲しいのだ。  攻撃は通じず、息絶え絶えによろめきながら足掻くだけ。それでも鈴子は、キーラのことを憐れんでいた。  敗亡の淵であるが、それがどうした。血の混じった唾を吐き、負けてなるものかと相手を睨む。  我も人、彼も人として。 「人間であることを簡単に放棄して、冗談じゃないわ。馬鹿じゃない。  良心を持たないのがそれほど自慢? 楽しく敵を殺せることがそんなに偉いの? 格好いいって?  違う。絶対に違う。こんな才能、単なる適応不全だもの」  人間で構成された世の中……すなわち社会というものを乱すことにだけ長けている。  環境に馴染めない不適合者。人の命という重さを無感で刈り取ってしまえる狂気の才能。そんなものは絶対に解き放ってはいけないだろう。  殺人を用意にこなせる怪物なんて、漫画や小説で充分なのだ。  だからこそ、人には礼が必要だと鈴子は信じる。  他者を尊び、対等な人間として敬意を払う知性。  規範という自然界には存在しない〈戒律〉《ルール》を深く重んじるからこそ、人と獣は違うと思う。  生まれてきたことは親にも祖にも否定はできない。ゆえにその分、拭えぬ性をしっかりと封じ込める必要がある。  だから── 「そこに改善の意思があるなら……」  先天的な異端性がある苦しさ。それに負けたから、この少女は怪物になってしまったというならば。 「私は、あんたを救いたい」  見捨てることはできないと、キーラへ手を差し伸べる。  認めがたいが、よく分かった。自分たちは同じく獣、殺人巧者。  毒性の〈才能〉《さが》を持って生まれた同属のため、自分だけは彼女を軽々に切り捨てたくはないと思う。 「…………」  そんな言葉をかけられたのは、きっと初めてなのだろう。  キーラは動かない。攻撃をしかけることさえ忘れて、白痴のように伸ばされた手を眺めている。 「その気があるなら、他の誰が何を言っても私はあんたを肯定するわ。社会復帰ができるよう全力で支援してあげる。  いえ、そうさせてほしいのよ。そんな人間も胸を張って生きられるようにしてみせるのが、我堂鈴子の夢だから」  権利を持つ者には、相応の責務を果たさなければならない。  自分は本当に恵まれていた。平和な時代の平和な国で、こんなろくでもない才能を自覚せずに生きてこられた。それは紛うことなき幸福であり、守ってきてくれた親や法律があったからだ。  だから自分もそうしたい。自らの本性を知った今、それを与える番が来たのだと思うから。  沈黙を経て、キーラは唇を開いた。  未知の言葉へ惑いつつ、鈴子の反応を探るような仕草を見せて。 「……何だ、それは?」  何一つ、おまえの言葉が分からないと口にした。 「皆目分からん。それはあれか。理解不能の囀りで、私たちを煙に巻くのが目的なのか? 笑わせる。  改善、救う、人間がどうこうと……つまりは貴様、阿呆なのだな?」 「変わってるなあ、ねえロム」 「へんなお肉だねえ、レム」  くすくすと内緒話のように嘲笑する獣の姉妹。邪気のない笑みは混じり気のない蔑視から来ている、鈴子のことを等価の命と見ていない。 「それともまさか、私たちを憐れむと?」 「こんなにも、ワタシたちは幸せなのに」 「こういう風に生まれたから、キレイなのに。強いのに」 「人間みたいに弱くないのに」 「お父様の役に立てるのに」 「そう望まれて誕生したのに、我らが〈栄誉〉《うまれ》をつまらぬ駄弁で穢すというか。許さない」  三者同様に犬歯を剥き出し、烈火の意思を圧力と共に放ち始める。  小動物を相手取っていたような嗜虐心が一気に消えた。爛と輝く瞳孔は、鈴子のことを完全な敵として視神経へと投射している。  それを見て、ようやく悟った。すべては手遅れだったのだと。 「あんたらは……!」  悲しさと悔しさ、そこに怒りを宿して激昂する魔獣へ切っ先を構える。  キーラという存在に対し、複雑な想いを感じずにはいられない。彼女を世に送り出した背景が垣間見えて、だから腹立たしくてたまらなかった。  望まれて生まれたとの言葉は……おそらくそういうことなのだろう。  誕生から獣であることを求められ、外敵を殺戮するのが彼女の生存意義である。キーラの誇りとはそういうもので、ならば更生の余地など端からどこにもなかったのだ。  なんという外道の所業か。許してはならない悪行であり、そしてだからこそ強く思う── 「斃すわ、絶対に」  こいつを世に解き放つことは、何万もの流血を許してしまうのと同義である。  自由を謳歌させてはならない。人としての礼節、社会規範を守ろうという気概がない。それは当然、罪なのだ。  生まれには同情するし救いがなかったのも本当のことだろう。だが手を取ろうとする意思すらないのは、もはや決定的に手遅れである。  ならば、下手な憐憫などもう抱かない。  同じ怪物の性を持つ者として、鋼牙を討ち取る──そのために。 「死ねよ、極東に棲む下賎の猿が。  我らは鋼牙、狼だ! 見下すことなど断じて許さんッ!」  襲撃する暴力を目にしながら、なおも不動で迎え撃つ。  迫り来る脅威さえ頭の中から弾き出し、思考回路を動かし始める。  考えろ、考えろ、考えろ掴み取れ──必要なのは何なのか。  恐るべき魔獣から自由を奪い取るためには、何が要る。どうすればいい?  鈴子は考える。考える。  深層心理の領域にまで踏み込みながら、なお深く、明確に。  自らが描く〈理想〉《ユメ》の形を、紡ぎ出すべき邯鄲の夢へ投影して。 「破段、顕象──」  ──脳裏に思い描いたのは刃の牢獄。  獣と人の住む〈領域〉《セカイ》は、強固に分かたれてなければならない。 「はああああああァァァッ──!」 「無駄だッ」  次の瞬間、再び苦もなくキーラに弾かれた。  身体全体をかけて大きく振りかぶったはずの薙ぎ払い。確かに詠段より遥か研ぎ澄まされたものになっていたが、それ以外はまったく同じだ。何の変容も遂げていない。  五指を切り飛ばしはしたが、それも瞬きの間に復元された。結果として戦果は零、さらに相手は二匹の〈妹〉《あし》を持っている。  爆音を引っさげて放たれた豪撃。薙刀を振りぬいた体勢の鈴子へ、遮るものなく激突し──  血の花が咲いた瞬間、初めて異常事態は訪れた。 「あぐうぅッ!?」  悲鳴を上げたのはレムス。突如として裂けた手を押さえて、苦痛に顔を歪めている。混乱の原因は理解不能であったからだ。  〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈は〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈触〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈さ〉《 、》〈え〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》、〈鈴子〉《えもの》を潰す寸前でいきなり腕に深い手傷を負っていた。  そして、それは一度に留まらない。  二度、三度と、互い切り結ぶたびにキーラへと刻まれる謎の裂傷。  振りかぶった腕が断たれる。  避けようとした目が潰される。  忌々しく感じながら鼠を追えば、今度は首が胴から離散した。  何が何だか分からない──理屈の一端も見抜けないまま、全身が無数の刃で傷つけられる。 「な、んだ、これはァァッ……!」  苛立ちのあまり、キーラは叫んだ。苦痛以外の異なる要素が彼女の心を逆撫でする。  攻撃、防御、牽制、回避──どの動作を取ろうとも、不可思議な斬撃がそれを感知して獣に襲い掛かってくる。まるで動くことを阻むように、末端から切断されてしまうのだ。  爪を振り上げれば爪が、妹が動けば妹が……どんな些細な挙動にも損傷が発生して付きまとう。  魔獣を襲う屈辱以上の〈鬱憤〉《フラストレーション》。  窮屈で仕方がない。これではまるで、刃に囲まれているようではないかと。  そう思ったのも当然のこと、なぜなら。 「ここから先を越えてはならない」  鈴子の描いた〈破段〉《ユメ》は、それを可能とする力だから。  魔獣の周囲を走り続け、円の軌道で旋回しながら何度も刃を振っていく。  おそらく、ここに一連の現象を俯瞰している者がいればそのカラクリに気づけただろう。キーラが攻撃を受けた座標には、ある共通点が隠れている。  それは、以前に〈薙〉《 、》〈刀〉《 、》〈が〉《 、》〈描〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈軌〉《 、》〈道〉《 、》であるということ。  激突する際に攻撃を放った軌跡、そこを通ろうとした際に魔獣は身体を見えない何かで斬られていく。  つまりは剣閃の残留──それこそがこの術の正体であった。  たとえ見えなくても、人には破ってはならない法がある。超えてはならない一線がある。  憲法、法律、倫理感に慣習、暗黙の了解や不文律だってそうだろう。定められた決まりを突破しようとする傲慢な輩には、刑罰が下されるのが世の定め。  力があれば何をしてもいいという弱肉強食。その概念を自然界は肯定するが、自分たちはそれでいいのか? ただ漫然と自由を謳歌することで法治社会を維持してきたのか? 違うだろう。  守るべき最低限の線を互いが共有し、尊重しあう礼の心。それがあったからこそ、人は畜生の性を押し殺すことができるのだし、分かり合うということを諦めずにここまでこれた。  別に、常時正しい事を選び続けろとか、欲を消して生物を超越せよ……などと無茶なことを言ってるわけではない。  自分が社会に生きる一員でありその自覚と意識を持つこと。その弛まぬ意思が肝要であり、未来を作るべきであると自分は夢に描きたいのだ。  だから鈴子は〈空〉《くう》へと見えない線を引く……何度も何度も、提示していく。  人はこちらで、獣はあちら。  生きる場が違うなら、それに応じて。相応しく。 「あんたは、人間に出会いたくもないんでしょう?」  ならば、こっちもそうさせてもらう。〈魔獣〉《おまえ》は〈人界〉《こちら》へ来るんじゃない。  野を駆けながら自由気ままに生きるがいい。自分はそれを祝福するし邪魔しようとも思わない。  けれどそれでも、なお厚かましく餌を求めて侵攻するなら。  人の世を我欲に任せて乱しにかかるというのなら、是非もなし。 「ここから先は通さない。獣を自称するのなら、森の奥ででも過ごしてなさい!」  人里へ寄り付くなと、吼えながら不可視の斬檻を創り上げていく。  戟法と創法の二重掛け。どちらも鈴子の得意技であり、よって精度は言わずもがな。  円の軌道で疾走する鈴子の動きはもはや小型の台風と化していた。見えない囲いを何重にも残留させ、キーラを牢獄へと閉じ込める。  目視できない境界線は気づかれることなく完成した。  見えないものの、もはや二人の間には深い断絶が存在している。ここを一歩でも踏み越えようと願うなら、相応の代償を払う羽目になるだろう。  この斬気は本人にさえ解除は出来ない。自分はこの向こう側に行ってはならないという戒めと、その差は絶対であるという畏敬が軽々しく消えることを許さないのだ。  それだけに効果は絶大。疑う余地のない夢は、断頭台の鎌のように世界を大きく二分する。 「邪魔だァァァッ!」  ……しかし、それでもキーラは魔獣だった。  狂乱しながら絶叫して突撃する。全身から噴水のように血を吹き出しているものの、それすら見えてはいないのか。  それは怪物ゆえの〈矜持〉《プライド》だろう。鈴子が人の性を拝したように、鋼牙の首領は獣の性を誇っている。  厳格な人の〈法理〉《ルール》? 互いの住処? 小賢しい。  好きなように獲物を喰らい、貪りつくして蹂躙する。その暴虐こそ魔獣のすべてだ、容易に繋ぎ止められるものではない。 「みくびるなよ子兎ィッ! この程度……草食獣が嗤わせるなァッ!」  攻撃を見抜こうとするのをやめたキーラは、実に合理的な手段で束縛の解除を試み始めた。  すなわち、単純な力押し。施錠された扉をこじ開けるかのように、自壊を厭わず突破にかかる。  四肢が断たれる、輪切りになる。  横一文字に一刀両断……あらゆるレパートリーで分割されていくキーラの姿は、まるで裁断機に投入された紙束だ。  一歩進むたびに肉片まで微塵切りにされながら、しかし気概は衰えない。痛覚が夢の彼方へぶっ飛んでしまうほど深く鈴子を憎悪しているのだろう。  死の苦痛を何度も味わい、身体で受け、知ったことかと踏破する。  〈虎鋏〉《とらばさみ》に抉られながら、意にも介さず走る猛獣。肉と骨を霧のように撒き散らし、力強く斬気の檻を食い破っていく。 「……くっ」  これもまた、現実ではよくある光景だ。強大な暴力は時に法の絶対性をいとも容易く踏み躙る。  武力を背景に強引な条約を締結する大国や、あるいは秩序を粉々にする軍部の暴走と同じこと。大魔獣の進撃は如何なる檻でも止められない。  自由を失うくらいなら自らの命を対価にしてでも、良質な餌場を求めて破壊をもたらす。  それこそが魔獣にとっての様式美、化生が拝する非礼の心というものだから。  よって猶予はあと僅かだ。斬檻は崩される。このままではあと幾許もなくキーラに突破されるだろう。ゆえに鈴子は歯噛みした。  覚醒した力が通じないとあれば今度こそ打つ手がなく、別の有効な技を編みだそうにもそれは無茶というものだ。余力もなければ発想もなく、そして体得した自分の〈破段〉《ユメ》が間違っているとも思えない。  だがそれでもこうして破られるというのなら、手をこまねいているわけにはもっといかず。  どうする? 時間はない。決壊は目前だ。  不利を承知で再び同じ技を使用しつつ持久戦に持ち込むべきか? 得物を握りしめながら必死に勝算を弾き出そうとしている、刹那── 「──っ、淳士?」  すとんと、驚くほど静かに心へ穴が開けられた。  それは本能的な第六感か、あるいは自分の知らない繋がりが同じ〈眷属〉《なかま》として存在しているからなのか、兎にも角にもこの瞬間、鈴子は遠く離れた場所で確かな喪失を感じ取った。  蛍のように消えた命の輝き。たった今、鳴滝淳士は死んだのだと確信する。 「あの馬鹿……!」  死の真相を知ろうとする前に襲ってきたのは耐えがたい悲しみだった。本当に、あいつはどうしてこう、一人で格好つけてばかりなのだろう。  あげく勝手にどこかで死んでしまうとか、つける薬もないじゃない。 「くふふふふふ、アハハハハハハハッ」  涙が頬を伝うのを止められず、その様を惰弱だとキーラが嗤う。 「この鉄火場で涙を流すか、他人の死がそれほどまでに悲しいか! やはり劣等、薄汚いわッ。  待っていろ、殺してやる。すぐに後を追わせてやろう」 「────そう」  兄弟姉妹、家族以外はどうでもいい。  なるほど、獣だ。人でなしにも程がある。  だから──今一度、問わなければならない。  これがまさしく、最後の審判。  もう少しで檻は完全に突破される。魔狼は自由になるだろう。  けれどそんなことに今さら動じることなく、どこか〈ふ〉《 、》〈っ〉《 、》〈切〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》心境を自覚しながら、鈴子はキーラに質問した。 「あんたは本当に、社会や他人はどうでもいいの?  野を馳せる〈魔獣〉《ケモノ》として、好きに生きるつもりなの?  ねえ、答えなさいよキーラ。  あんたは、〈人界〉《ここ》に住む気がないというのね!」 「当たり前だ!」 「……そう」  汝、非人なりや?  ──応とも、我は獣なり。  返答を聞き届けた瞬間、がっちりと胸の中で何かが深く噛み合った。提示した条件に対し、両者の見解は共に一致を見せたのだ。  双方無自覚でありながら、しかしルールはルール。〈罷〉《 、》〈り〉《 、》〈通〉《 、》〈る〉《 、》。 「なら潔く、人の世界から消えなさい──ッ!」  すなわち合意。今ここに、互いの夢を相乗させた協力強制が巻き起こる。 「あ、ぇ? ──あああああァァァッ!?」  次の瞬間、放たれた一閃が魔獣の〈右脚〉《ロムルス》を消し去った。  細胞の一欠片、血の一滴、毛髪の一本すら残さず……そう完璧に完全に。  超速再生を誇る三姉妹の一角を切除して邯鄲から消滅させた。傷の治癒は起こらない、なぜならそれを〈互〉《 、》〈い〉《 、》〈に〉《 、》〈合〉《 、》〈意〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「ロムルスッ!? 貴様、何を……!」「ロムッ!?」  狼狽するキーラに答えず、すかさず肉迫。そして返しの第二閃。 「ひッ……い、いやァァァッ!?」  絶殺、斬滅──あとには何も残らない。先ほどとまったく同じ現象が次は〈左脚〉《レムス》へ襲い掛かり、先の結果をそのままなぞる。  まるで薙刀の軌道に従い世界が漂白されたかのようだった。熱や衝撃という類ではなく、これは一方的な消去の技。無慈悲かつ圧倒的に、鈴子の刃が通った後は万象あらゆるものが喪失している。  これを喰らってたまらないのはキーラの方だ。たった二撃、それだけで、どうして何が起こったのかと混乱する。 「ありえん、何故だ。いったいこれはッ」 「今更、何を驚くのよ。望み通りの結果じゃない」  対し、これは当然の成り行きだろうと鈴子は語る。  先ほど自分たちは明確にしたはずだ。世界から人の居場所を捨てたことで、人の世界から消えていく……何もおかしいことではないし、キーラも自ら肯定しただろうに。  この〈邯鄲〉《ユメ》が何なのか、どういう意図を踏んだことで発動したのか、それについては鈴子自身も未だ分かっていないままである。  しかしそれでも、強烈に感じるのはこの技が持つ凶悪無比な必殺性だ。揮う自分でさえ今も恐ろしく感じている。嵌まったならば抜け出せない類のものだと、本能的に感じていた。  とりわけ、自分とキーラの間においてはそれが顕著なのだろう。二人の関係に限定されるが〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈夢〉《 、》〈は〉《 、》〈必〉《 、》〈ず〉《 、》〈嵌〉《 、》〈ま〉《 、》〈る〉《 、》。人を捨てた狼女に逃れる術は決してない。  脱出不可能。常時成立。しかもそれで描かれるのは、再生と防御を無視した完全消滅という断罪刃──誰が見ても詰んでいるのは語るに及ばず。  ゆえに勝負は決まっていた。  あと一撃、振り下ろすだけで終わるだろう。  そこに対して生理的な嫌悪感を今も感じていないことから、自分たちはやはり同属であると自覚できる。  殺人に付きまとう陰惨さが分からない。心の底から健常者の観点を持ち得ることは不可能だと観念して──そう、だからこそ。 「そして、よく分かったわ。私がしなきゃいけないことも」  それを飲み込んだ上で、払拭できない性に対して一つの答えを見出した。  自分やキーラといった風に、こういう殺人に適した才を持つ者はどうしても一定数、世の中に生まれてしまうもの。だからそれが目覚めずにすむ世界を四四八と共に作ろうと約束したし、そこに対して偽りないのは真実だが……  それでも、生まれ備わった能力が甘美ということも同時に理解できたのだ。  最初から得意な分野があって、備わっている特性を存分に活かせる場面と遭遇する。それは普通に考えて幸福であり、誰に貶されるものではないというのもよく分かった。  得手不得手それ自体に貴賤はなく、極論やれてしまうのだから仕方がないのだ。出来る手段を十全に行おうとするのはあらゆる生命に備わった本質でもある。よって、殺人巧者の才能を自ら望んで開花させる者もまた、同じように一定数は出てくるだろう。  それ自体はどうしようもない。いかに法整備しようとも、必ず先天性の社会不適合者が人類史に誕生してしまうのは議論するまでもないことだ。  生まれつき死を振りまくことに才能のある、はぐれ者。  人とは違う〈欠陥〉《せいのう》を、これ見よがしに振るう恥知らず。  彼らを放置していればろくでもないことになるのは甚だ自明。ならば当然、それに対抗する者が必要となるのは、間違いのないことだから。 「その時に引導を渡すのも、私に課せられた役目なんだわ」  拭えない性を持ちながら、その本性を封じ込めて社会の規範に礼を払う。  秘めておくべき業を自覚できた自分のような存在こそが、悲しさを理解できる同胞として彼らを裁くべきだと実感した。  これ以上、身勝手な暴力で誰も傷つかないように。  望まれない怪物が、誰も傷つけず済むように。  願ったから鈴子はもはや躊躇わなかった。 「さようなら。いつか、また会いましょう」  次も再び、キーラを仕留めるのは自分であるべきだ。  そういう不思議な予感を抱きながら、最後の一閃は放たれた。  人はこちらで、獣はあちら。  生きる場が違うなら、それに応じて。相応しく。  けれどそれを冒すというなら──もはや惑わず、是非もなし。  刃の檻は断罪の鎌へと姿を変えて、魔獣の身体を掻き消した。  魔王に繋がれた狼は、ようやく死という名の揺り籠で覚めない眠りについたのだった。 「はぁ……ふぅ、くッ──」  そうして、荒い息をつきながら、薙刀を支えにして甲板の上に膝をついた。身体を苛む苦痛と勝利の昂揚を噛み締めつつ、さらに見つけた自らの信念を反芻して空を見上げる。  今にも燃え落ちそうな魔天を睨みつけて、残った覇気をかき集めた。 「勝ったわよ、柊。だからあんたも、負けんじゃないわよ」  これ以上、仲間を失うなんて絶対に、認めない。  まして自分とこれから、長い勝負をしなければいけないことを、肝に銘じてと付け足して。 「一緒に朝に帰るんだから」  願うように告げながら、鈴子はふっと微笑んで意識を闇に落としたのだ。 ──そして、最たる混沌の渦中へと。 俺は一歩ずつ、想像を絶する圧力の中で、前進を続けていく。 気分はかつてないほど最悪だった。生存本能が先ほどから絶えず全神経を絶叫させ、肌が粟立ち呼吸もろくに覚束ないのは、覆しようのない格差を今も骨の髄まで感じているから。ただ純粋に恐ろしい。 強大。ひたすらに王道。神野や聖十郎といった凶に塗れた邪気瘴気ならいざしらず、この先に待ち構える男の発する念はそれと趣を異にするものだ。荒れ狂う天災のようでありながら徹底した整然さを同時に感じる。 これは、裁定者とでも言うべきか? 恐ろしいほど公平で、ゆえに容赦がないという二面性。自分が絞首台に上がる主人にでもなったかのようで、毅然とした態度で挑まなければ次の瞬間には叩き潰されているだろうと悟った。 おそらく敵わない──このまま行けば、〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》。 どう足掻いても勝機は絶無。逃げろ逃げろと、訴えかける判断は間違いなく正しいものだ。天地がひっくり返っても届かない力の差を、これほど離れているのに感じてしまう。 ねじ伏せて前を目指すだけでも一苦労で、けれど遁走することだけは絶対しない、してはならない。 相手が遥か格上であることは百も承知だ。踵を返して生き延びられるとも思えないし、そんな腑抜けた根性で勝てるも糞もあるものか。 覚悟はとうに済んでいる。意識すればするほどに、澄み渡っていく思考回路。 ああ、なぜなら── 「待っていたぞ。歓迎しよう、俺なりの流儀で」 「甘粕正彦……」 この瞬間を目指して、俺たちは夢へと足を踏み入れたのだから。 臆さず。退くな。瞬きとてしてはならない。 今これから、一つの大きな答えが出る。それを予感しながら対等の気概をもって奴の眼前へ辿り着いた。 「おまえがすべての元凶か」 「すべてと言うとどれを指しているかは分からんが、邯鄲の最高位にいるのは間違いなく俺だけだ」 「ようこそ、もう一人の〈盧生〉《イェホーシュア》。俺たちは同じく資格を持つ者だ。〈現実〉《うつつ》へと夢を持ち出すこと、ただ二人だけ可能としている。〈現〉《 、》〈状〉《 、》だがな」 含みを持たせた言葉を何気なく語るたび、それだけで膝が崩れそうになるのは素の状態でこの男が他と隔絶していることの証明だろう。力の総量は空亡と比べてどうなのかさえ今の俺には分からないが、兼ね備えた精神の〈方向性〉《ベクトル》がアレを上回る危険性を告げている。 なるほど、魔人だ。それだけに惜しいと思う。地獄を創るその感性が。 ゆえに負けてはならない。 「俺がおまえに聞きたいことは一つだ。いったい何をするつもりでいる」 「戦争が好きなのか? 争いを求めているのか? 敵味方で血を流すことを、どうして神聖視できるという」 「おまえの存在を引き金に、どれだけの命が散ったと思っているんだ」 母さん、栄光、敵味方を合わせればそれこそ、それこそ…… 数多くの人命が失われてなお、成したい夢があるというのか。そう問いかけた質問に甘粕は堂々と返した、否と。 「勘違いをするな。俺は戦争が好きなわけではない」 「差別、貧困、虐げられる弱者、様々な悲劇……一言でいえば不幸。それらを俺は憎んでいる。道端で子供が犬のように打ち殺される世の中が、どうして正しいなどと言えようか」 「なんだと?」 正気の返答は誰はばかることなき真っ当なもので、だからこそ分からなかった。ならばいったい、こいつは、なぜ? 「だが同時に、こうも思う。そうした理不尽があるからこそ、人は強く美しく在れる」 「友のため、家族のため、身を捨ててでも許せぬ悪に立ち向かう心。恐怖に屈さず立つ信念。つまり勇気だ、覚悟だよ」 「今、こうして、俺の前に立ったおまえのように。ああ、美しいぞ柊四四八。人とはそう在るべきだ。その輝きを甘粕正彦は愛している。無くしたくはない」 「ゆえに地獄の釜へと誘ったのだよ。簡単なことだ、要は腐らせたくなかったのさ。おまえのことも、連中も、等しく俺の〈楽園〉《ぱらいぞ》に住んでほしいと願っている」 「例えば……そうだな、近年世に生まれた概念だが、婦人参政権というものがある。おまえはこれをどう思う?」 「それは……」 大正……こいつの生きていた時代に生まれた女性への参政権。どの角度から考えても俺にとって答えは無論、肯定だった。 「素晴らしい試みだろう。文明開化と共に、女性にも人権が認められたのだから。否定する材料は何処にもない」 「同感だ、しかし俺が子供の時分にはなかったはずの言葉でもある。なぜなら女は、常に男と家の所有物。いわば人として格下であるという扱いを受けていたのだ。ゆえにこれは、素晴らしい変化なのだろう」 「女も同じく人間である。生きとし生ける権利がある。愛した男を己で選び、子を産み育てる自由はもちろん、男のように社会で戦う自由もある」 「参政権とはそれが公に認められた第一歩だ。憲法で保障されたことを皮切りに、やがて男尊女卑は過去のものへと変わっていくのが自明だろうが……」 「問おう。わざわざそんな〈法案〉《ことば》が生まれたのは、いったいどうしてだと思う?」 「単に女が強くなったからか? 国際化の流れを受けた? それだけの理由ではあるまい。根底には綺麗事で塗装された愉悦がある」 それが何か、言ってみろと視線が訴えかけていた。 分からないわけじゃない。あまり認めたくない概念だが、つまりこういうことだろう? 「……社会的弱者に手を伸ばすことを、高潔だと思うからか?」 「そうだ。弱き者へと愛を施す。それは端的にいって快感であり、だからこそ全世界で流行した概念だ。未開の土人に文化を〈授〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈る〉《 、》のと同じだよ。傲慢で、かつ癖になる」 「無論、それだけがすべての理由ではないだろうが……左巻きの思想が富裕層から生まれやすいのは、決して無関係ではあるまい? 世界全体が豊かになれば、先進国はこぞってそういう〈善意〉《あそび》に耽りはじめる傾向がある」 「よって、それは時と共に少しずつ加速していった。女に権利を、非人や穢多に賠償を……ならば次は、〈未成年〉《おさなご》や異民族に特権を、か? 聖者になるのがそれほどまでに恋しいかよ」 「分かるはずだ、おまえの時代ではより顕著な問題であるはずだからな」 「人権、訴訟。見当違いの愛護精神。百姓を襲う熊を尊重せよと〈囃〉《はや》す部外者、〈海豚〉《いるか》や〈鯨〉《くじら》をまるで人間と同等の価値があると見なす自称愛の戦士たち。まとめて阿呆よ、脳に蛆が湧いている」 「畜生を人と同列に扱い、悪党の裁きにさえ見当違いの不平不満が噴出してはいないだろうか。被害者に対して、加害者を許せと強制する〈偽善者〉《マゾヒスト》は声だけ大きくなっていないか?」 「心当たりがあるだろう、厚かましくなっていく人間の姿。そして、その醜さにだ」 「己は生きる権利がある。社会や法に守られている。高度文明化された庇護の中、覚悟なく糞を口から垂れ流す愚図の群れ。安全圏の中だけで威勢よく、考慮もせず、ただ図々しい形ばかりの講釈を垂れる人畜ども。認められるものではない」 「いいか、相手を扱き下ろすなと言っているわけではない。ただ他者を貶すというのなら、その人物と直接向き合い、その目を見ながら罵倒を浴びせるだけの覚悟……それを持てと言っている。名前すら書かれていない手紙や電報越しの言葉などに、何の力が宿るというのだ」 「目の前には異なる思考回路を備えた他者がいる。殴られるかもしれんし、社会的に制裁されるかもしれん。しかしそれを肝に銘じて行動するのが、相手に対する礼儀であろうが」 「我も人、彼も人。ゆえ対等、基本だろう」 静かに、だが熱を伴って語る甘粕の言葉が、聖堂を微かに揺らした。 そして驚くことに俺は心から、そう心の底からこいつの言葉に共感していた。過激な切り口ではあるものの偽りなく、こいつの言っていることをその通りだと感じているし、納得できる。それは当たり前で大切なことだ。 要は現代の人々に対する覚悟と責任の提唱だ。安全圏で吼える無責任な罵詈雑言や恥を知らない掌返し、〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈せ〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈起〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》と高を括っているがゆえの図々しさが許せないと言っている。自ら弱者を偽装して、愛のお題目を盾に甘い蜜を吸う輩もまた然り。 曰く匿名性、曰く権利、曰く自由平等と……事があるたび口にされるあらゆる保証と守りの数々。それは今や過剰であり、俺たちの時代を見れば過保護すぎると感じているから、そこに苦言を呈していた。 二十一世紀の人間として耳が痛いとさえ思う。確かにそれは、甘粕の生きる大正時代にはなかったはずの概念だ。間違ったことをすれば見知らぬ相手からだって当たり前に叱られるし、今より危険が多かったぶん、自己責任という面はそれこそ多岐に渡っていたはず。 安全がもたらす腐敗。それを時代の推移による劣化と呼ぶなら、否定することは出来ないし…… 逆説的に、見えてくるものがあった。そうか、こいつは。 「だからこそ分かるぞ。おまえは今、決死の覚悟で俺の前に立っている。その気概と勇気は素晴らしい」 俺たちのように、覚悟を抱いて、勇気を武器に、自分と相対する人間を愛おしいと感じているんだ。 甘粕の視線は尊いものを眺めるように、熱く雄々しく滾っていた。千信館の在り方を寿ぎながら、ならばこそ〈こ〉《 、》〈う〉《 、》続けずにはいられない。 「だが、その輝きを発揮できたのは邯鄲の夢があったからだ。不退転の決意と試練が、おまえや友を鍛え上げた。俺の眼前に至るまで、その美しさを練磨した」 「そして、逆にこうは思わんか。帰りたがっている日常とやら、安穏とした日々のいったい何処にその強さは生かされる?」 「たゆまぬ意思を、強さを決意を輝きを……充分に発揮できる機会はあるのか? いいや、否。なかったはず。なんと口惜しいことだろう」 「夢に入らなかった場合、おまえの光は死ぬまで眠ったままなのか。それを容認しろというのか。ああ、ああ、堪らん冗談ではないッ」 「だから──俺は魔王として君臨したい!」 「俺に抗い、立ち向かおうとする雄々しい者たち。その命が放つ輝きを未来永劫、愛していたい! 慈しんで、尊びたいのだ。守り抜きたいと切に願う」 「絶やしたくないのだよ。おまえや、おまえの仲間のような人間を」 「人間賛歌を謳わせてくれ、喉が枯れ果てるほどにッ」 「甘粕、おまえは……」 いよいよもって絶句する。こいつは人の命を蔑ろになどしてはいなかった、むしろ多大な期待をかけているんだ……それこそ常軌を逸するほどに。 甘粕正彦は地獄を望む男ではない。こいつが求めているのはあくまで人の世、現実だ。それこそ尊くあるべしなのだと願い焦がれ、焦がれて焦がれてのた打ち回り、至った果てにこうなった。 人類に〈破壊〉《しれん》をもたらす魔王へと、まさしく世に苦難を課す神であるかの如く。 「ゆえに、俺は盧生を大した物だと思っていない」 「確かに特別ではあるが、威張るものでもないだろう。生得的な素質なら、単に背の高い低いとそう変わらん。鼻にかけるつもりもなければ、稀少というほど珍しいとも見ていない」 万人の中に眠っている強さであり、人の輝きの一種。盧生も同じだと言うなら、つまり── 「少し考えれば分かることだ。俺とおまえ、同じ日本帝国で既に二人もいるのだぞ? 数万人から洗い出せばおそらく十は見つかるはず」 「──ならば、世界中ではいったいどうなる?」 「千か、万か……おそらく億には届かんだろうが、それだけいれば事は足りよう。並列して繋げれば、〈全〉《 、》〈員〉《 、》を邯鄲へと誘えるはずだ」 「な──」 その意図を読み取って、今度こそ眩暈を起こした。この男はなんていうことを考えるんだ!? 「馬鹿な、人類すべてを〈邯鄲〉《ユメ》へと叩き落とすつもりなのか!」 そうだと肯定した姿に揺るぎない気概を感じて、よろめきながら奴の顔を見返した。 こいつは本気だ、ゆえにどうしようもなく狂っている。そんなことを行えばいったいどうなるか、正気の沙汰とは思えないし想像なんてしたくない。世界征服の方がまだ可愛げがあるだろう。 なまじ理性的で話が通じるだけにどうしてもその本質に気圧される。こいつは邪悪でなければ屑でもないが、手の付けられない大馬鹿だ。甘粕は人間愛に狂っている。 「俺は人の勇気を死なせたくはない。そして想いを貫くためには、常に相応しい舞台が必要だ。試練、難敵、立ちふさがる壁、それを与えようというのだよ」 「肉体的な優劣も夢の中なら差は縮まる。重病人であったとしても、描いた決意と夢によっては誰もが等しく超人に成れる」 「それで君臨するもよし、俺に立ち向かうもよし、異なる道を選ぶもよしだ。第八層へと至らせて、世界中に神と魔王を誕生させる」 そして、千信館のように繋がる〈眷属〉《なかま》も含めればいったいどうなる? 国は、社会は、いいや極論、〈地〉《 、》〈球〉《 、》〈は〉《 、》〈滅〉《 、》〈ば〉《 、》〈ず〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》? 空亡のような祟神が、神野のような邪神が、眷属と共に盧生の手足となって際限なく夢から這いずり出して現実世界を闊歩し始める。そうなれば憲法や倫理という秩序は数年だって保つはずがない、既存文明は根こそぎ崩壊するだろう。 破滅の荒野が広がる中、残るのは心身ともに雄々しい者だけ。こいつの言う勇者とやらしか生存できないし、それにしたって安全保障は何処にも誰にも存在しない。そう、当の甘粕本人にさえも。 〈確〉《 、》〈実〉《 、》〈に〉《 、》〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈起〉《 、》〈こ〉《 、》〈り〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》なのだ。よって一切の緩みは許されなくなる。 全世界で超人乱神が入り乱れ、覇と覇を競う群雄割拠の世がすぐに到来するだろう。すなわち── 「それこそが、輝く者が相応しい光を掴み取れる新たな〈人界〉《せかい》。俺の求める〈楽園〉《ぱらいぞ》である!」 「だから、神野と空亡か」 「そう。精神と物理、その両方から揺さぶりをかけるために選出した〈廃神〉《タタリガミ》。つまるところ兵器だよ」 「ゆえに奴らは正しく不死身だ。人の思い描く〈象徴〉《イコン》のため、現実的に死が訪れん。どちらもいずれ無意識の海に帰るだけであり、消えもしなければ死にもしない」 「よって、いずれ〈本震〉《くうぼう》は再来するぞ。遠からず関東を破壊する大地震が発生する。奴はその化身であり、そしておまえが鎮めたのはあくまで前兆……前震だ。本気の何分の一に過ぎん」 そこで一度、ふっと思い返すように甘粕は表情を綻ばせて。 「だが、それを差し引いても〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈少〉《 、》〈年〉《 、》は見事だったよ」 「次に会ったら是非伝えてくれ──甘粕正彦は真におまえを尊敬すると」 心の底から、そんな馬鹿げた賞賛を口にしたのだ。 栄光が好きだ。あいつの勇気を尊く思う。永遠にしてやる、素晴らしいと謳いあげたい、俺におまえたちを愛させてくれと──おぞましいほど真っ直ぐに。 甘粕の滲ませた光り輝く魔王の情、戦慄するには充分だった。つまり奴が見たいのは、〈あ〉《 、》〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈光〉《 、》〈景〉《 、》に他ならないということで。 繰り返すというのか? あんなことを、何度も何度も何度も何度も、しかも全世界規模で果てしなく。 こいつが満足する瞬間まで、夢の中で巻き起こったようなことを繰り返すとでも? それをもって美しいからいいだろうと? 〈混沌〉《 べんぼう》、〈楽園〉《ぱらいぞ》、ふざけるな! 自然と拳が固く握りしめられた。ああ、今はっきりと理解したよ。 甘粕正彦──おまえは斃さなければならない男だ。 盧生としてでも使命感からでもない。 我も人、彼も人、同じ一人の人間として柊四四八はその悪夢を否定する。 「さあ、俺はすべてを明かしたぞ。覚悟をもって本懐をここに曝した」 「期待しているのだよ、同胞。おまえはいったい何になりたい?」 「どのような〈未来〉《ユメ》を持ち出し、この〈現世〉《うつしよ》へと描くのだ?」 「どうする、か……そういうことは考えていなかったな。帰ることだけを願っていたから」 だがそれもさっきまでだ。教えてくれと興味深そうにするならば、いいとも教えてやろう。俺はおまえに負けたくない。 「俺が言えるのは些細なことだ。仁義八行──人としての道理を胸に、誇りを持って生きていきたい」 「その輝きをなくしたくないと思うし、守りたいと感じるのは、ある意味おまえと一緒だよ」 ああ確かに、甘粕に対してある程度の共感はあった。権利だけを貪って、義務を果たさない人間の多さに辟易する感情は確かにあるし、喝を入れてやりたいと思ったことは何度もある。 人の強さ、勇気に覚悟。それを愛しているのもまったく同じ。 だが── 「けれど、おまえの手段は認められない」 それを踏まえた上で、甘粕の〈地獄〉《ぱらいぞ》は絶対に実現させてはならないものだ。 他人を殴りつけて勇気を出せと叫ぶなど、恥ずかしいとは思わないのか。 「俺がどういう夢を望むか、見つめ直せば簡単だったな。後世の子孫に続くような、尊敬される立派な道しるべになりたい」 「上の世代が格好良かったら、子供はみっともない真似ができないだろう。道に迷ってしまわないように、彼らが尊敬できる背中を見せて。歴史の一つを刻みたいんだ」 「あとはそのために、下の世代をちゃんと叱り付けられるようにもなりたいかな。俺には、ろくな親父がいないからさ」 我も人。彼も人。だから先人に敬意を払い、同時に後進へも対等の人間として接したいんだ。 言葉に対して、甘粕は僅かに苦笑しているようだった。俺の本心を分かった上でそこに別のものを感じている。 「なるほど、結構。しかしやたらと視点が低い」 「おまえのそれは家族間、知人間でしか通じぬ論だ。そんな言葉を訊いてはいないし、国家や世界に通用するものとも思えん」 「ああ、愚かだと乏しめているのではないぞ。方法論として稚拙であると言っているのだよ」 「それはそれで素晴らしい信念だとは思うが、見も知らぬ悪党がその説法で改心するのか? 一世紀先の歴史に対して、善き教訓を残せるとでも? 夢見がちだな、何とも浪漫のあることだ」 「絵空事、子供の夢想、具体的な案としては落第だよ。そんなことを答えろと俺はおまえに求めていない」 そして一転、底冷えするような視線を向けて。 「なあ、どうなのだ?」 短く詰問した瞬間、極寒の海へ叩き落とされた様に体感温度が零下へ落ちた。 眼光だけで息が止められ、心臓を鷲掴みされているような圧迫感が不整脈となって現れる。爛々と輝く目が半端な答えは許さないと告げていた。 俺は── 「甘く見るな。夢見がちなだけではない」 「俺は現実を見据えて、そのために成すべきことを成し遂げる」 「ふふふふふふふ、くははははははははははッ!」 返答した直後、甘粕は弾けたように腹を抱えて大笑した。 まったく愉快で仕方がないと、それはそうだと理解と納得を示しながらも空虚なその笑い声。 何故だろうか、嫌な予感が止まらないのは。 「何がおかしい」 「く、はは、は……いや、かつて友人とこういう論を交わしてな。それを思い出したのだよ」 「……それで?」 「やれ国家の繁栄だの、実につまらんことをぬかしたのでな」 くぐもった声を喉の奥で転がしながら、おどけるように肩をすくめて。 「殺したよ──こういう風に」 ──次の瞬間、俺の頭蓋が消し飛んだ。 ああ、何も、何も考えられない。暗転する視界が血の花で染まっていく中、感じるのは決定的に間違ったという手遅れな真実。 暗い闇の中で魔王は今も笑っている。滑稽に、彼自身が悲しい道化であるように。 「方法論など、この期に及んで小賢しい。そんな理屈で、男が何を成せるというのだ」 「はは、ふははははは、ハハハハハハハハハハハッ──!」 耳に残ったのは甘粕の笑い声。爆笑しているはずのそれは、どこか泣いてるような響きだった。 悪夢は、まだ覚める気配がない…… かつてと同じように、もう一人の盧生の手で俺は邯鄲の夢に散るのだった。 「届かせる。いや、届くさ」 「そのためにも、ここで俺はおまえを止める」 迷いなく、躊躇もなく、俺は信念を口にした。 理屈や方法論がどうこうと、そんな女々しいことを語ってどうする。こいつ自身も言ったこと、重要なのはまず覚悟だ。 道理を捻じ曲げようと何が何でもことを成し遂げようとする気概、あらゆる展望を論じる前にまずこれを押し通さなければ話にならないだろう。 「ふ、くく……」 それを感じ取ったからか、甘粕は楽しそうに笑みを噛み殺していた。こちらの正気を疑うように俺の本気を反芻して、味わいながら鑑賞している。 「はは、本気ときたか。これはまた、なんて青臭いことを、真剣に」 「真顔で言うことかよ、おまえ。〈魔王〉《おれ》を斃して世界史に残る英雄にでもなろうというのか? く、くく……」 「何にでもなってやるさ。だから俺は」 「激突するしかない、ということか。いいだろう」 俺たちがどちらも守りたいと思っているのは究極的には同じこと。人間の強さ、輝きとは勇気であるという点で同一の答えを出している。 しかしその上で方法論がズレているなら戦うしかないだけだ。こいつの求める世界を必ず阻止する、全人類を邯鄲に繋げるなどとそんな暴挙は起こさせない。 交渉は順当に、かつそれぞれが理解した上で決裂した。ならばあとは、雌雄を決する他になく。 けれど敗北は必至。俺はまだ、この男には敵わない。それを痛感していながら譲れないものを思い描き、意志を奮わせ夢を紡ぐ。 高まっていく緊張感の中、しかし── 「だが、それは今ではない」 甘粕はなぜか踵を返した。戦意を欠片も見せることなく、俺を置いてこの領域から去ろうとしている。 それは拍子抜けな反面、意図がまるで読めないものだった。まさか見逃すとでもいうのだろうか? 「……どこへ行く。いや、何故だ?」 「言っただろう、俺はおまえに期待しているのだよ」 指摘した勇気と決死の覚悟、今の俺はつまり奴の美感に沿っているからということなのか? ここで潰すにはあまりに惜しいと? 困惑する俺を愛でるように見下ろしながら、甘粕は加えて一つ付け足した。 「俺は既に邯鄲の全行程を修了している。ここまで到達するのに十年、何百もの未来と可能性をこの身にしかと刻み込んできた」 「対しておまえはいったい幾つだ? 二つか、三つか。二桁にさえおそらく達していないだろう。仲間の分を足したとしても、差は歴然という他ない」 「これでは密度が違いすぎる。誰が見ても公平には程遠い」 「おまえの勇気と主張を疑うわけでは断じてないが、今はまず七層の紡ぐ未来を見るといい」 「それに、本当は分かっているのだろう? 今のままでは決して勝てんよ、以前と同じ結果を順当に〈辿〉《なぞ》るだけだ。これほど不毛なこともあるまい」 「俺もあれは少々はしゃぎ過ぎた」 まるで子供が反省していると言わんばかりに奴は苦笑したのだが、当然それは何のことか分からない。 分からないが──同時に、俺の預かり知らない部分が返答してた。ああ、その通り。 俺たちはまだ対等ではない。 なぜならずっと、柊四四八はこの夢に── 「まずは匹敵するだけの密度を得ろ。その上で──」 俺が置かれた境遇、試練。それら諸々を考慮した上で魔王らしく言い放った。 「目指すものが同じなら、再び俺へ挑むがいい」 「おまえの強さを信じているぞ、柊四四八」 「いいだろう。その時、必ず俺はおまえを討つ」 確かにそうだ、ここで決着をつけるべきではない。 相応しい局面はいずれ必ず訪れる。 最難関、第七層は踏破した。待っていろ、〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈は〉《 、》〈近〉《 、》〈い〉《 、》〈ぞ〉《 、》。 「この夢を突破した時こそ、本当の勝負だ。甘粕正彦」 「ハハッ、ハハハハハ──ああ、待ち望むとしよう」 その瞬間、去っていく甘粕の影が三重の存在感を放っていた。 神野、空亡──第八等の〈廃神〉《タタリ》二柱。とびきりの夢界兵器は現実世界で動き出す〈大震災〉《ぱらいぞ》を、今か今かと待ち焦がれているようだった。 あれが解き放たれたならば関東は炎と死に染まるだろう。人々の思い描くあらゆる悪夢が形となり、魔震と共に世界を覆って塗り替えていく。 たった一人の男が望む楽園成就をするために。 去って行った背を見送り、それを止めなければならないと湧き上がる決意に気づいた。 そう、やっと俺はその感情を捉えることができたがために。 「そうか。そうだったんだな」 神祇省や辰宮との関係。盧生と眷属、そして俺が目指すもの。 それが一本に繋がって荒唐無稽な真実から、本当のカラクリを浮き彫りにしていく。 邯鄲の夢、最大の謎が今解けた。 だからこそ、俺はこの未来を生きなければならないんだ。あいつと一緒に。 「皆さんも周知の通り、いま世界では日夜壮大な〈経済戦争〉《マネーゲーム》が行われています」 「暴力を排除した結果のクリーンな競争形態と教科書に書かれています通り、確かに国家間で血を流すことは無くなりました。ですが同時に、それは資本主義という新たな宗教を生み出したとも言えるでしょう」 「つまり、紙幣とは神であるのだという考え方です。行き過ぎた経済戦争は今までの三大宗教を衰退させ、平等な競争の下、即物的にあらゆる権利を保障します」 「しかしそれは、裏を返せば貧しいものには何の発言権も与えられないということでしょう。財を持たぬ人々にとって正当な搾取が跋扈する世の中は、私たちとまったく異なる姿に見えているはずです」 「幸いにも、日本は比較的恵まれています。〈貧困街〉《スラム》や貧民の発生数も先進国の中で極めて少ない部類ですし、我々千信館の学生にいたっては言うまでもなく、富める側であるために軽んじられることもありません」 「ですが、ひとたび都会を離れればどうでしょうか」 「地方や田舎、さびれた寒村に一歩足を踏み入れればそこにどのような光景が広がっているのか……」 「路頭に迷う失業者や貧困にあえぐ老人子供が、寄り添いながら日々の糧食を得て細々と暮らしている景色があるはずです。同じ国家に所属しながらそこは既に貧しい国と変わらない」 「そして彼らには、自由に死ぬ権利もありません」 「そう、今も政府と人権団体の間で揉めている法律ですね。死亡税を払うことができなければ、政府の指定した医療機関でドナー登録をすることが国民には義務付けられています。これも当たり前のことですが、墓に入る権利さえも一昔前とは違い財力によって勝ち取らなければなりません」 「綺麗な死体を提供することで、経済大国日本の礎になるという最後のお役目は確かに倫理へもとるでしょう。もっとも、それもまだ世界から見ればマシなのが嘆かわしい現実ですが」 「臓器を求めて人が人を狩る国もあるぐらいです。そのような地域と比べれば私たちは紛れもなく、恵まれていると言えるでしょうね」 「しかし、私たちにとっても没落の足音は決して他人事ではありません。家の事業が失敗すれば、築いた財を無くしてしまえば……いいえ、国そのものが大きく傾いてしまったら」 「生死を決める権利さえこの世にはなくなってしまいます。それはこの瞬間にも、充分起こり得る現実なのです。人の価値を換金しながら世界は今も平穏に、そして格差を肯定しつつ回り続けている仕組みですから」 「そのような社会情勢を踏まえた上で、総代就任の暁に私が成したいことは簡単です。長い前置きになりましたが、それは課せられた義務と権利を正しく自覚できる校風にしたいということです」 「すなわち富める者に課せられた責務と、それを見つめるための機会。この点について積極的なカリキュラムを設けられるよう尽力したいと思っています」 「健やかに青春を謳歌している私たちには、いわばその未来へ多大な投資を受けているのです。その重さをしっかりと分かった上で、発言権や富裕層ゆえの権利を行使しようではありませんか」 「権限を持って生きられるのなら、その言葉でいったい何を提唱するのか。誰に何を、どのようにして伝えるのか」 「それを皆さんと一緒に考えていきたいと思うのは、私の単なる我侭でしょうか。そうではないと信じてくださる方々は、どうか清き一票をお願いします」 「かつての英国貴族と同じように、その想いを我々の〈尊い責務〉《ノブレスオブリージュ》としたいのです」 「人としての礼を、常に感じながら生きられるように」 「この世界に至るまで、命を懸けてくれた人々へ報いるために」 「在校生の皆さんが、一分一秒を真剣に生きられるような学園にしたいと……我堂鈴子はそう思います」 「ご静聴いただき、誠にありがとうございました」 演説を終え、壇上から舞台袖に去っていく我堂とすれ違う。 胸を張って堂々と、不敵な笑みを浮かべながら、さあどうだと言わんばかりに自信満々なその視線。まさに自分の勝利を疑っていないものだった。 敵ながらあっぱれ。総代選挙に出馬するライバルとして、賞賛するのもやぶさかではない。 「やるじゃないか」 「当然でしょう。さあ、次はあんたの番よ」 「もっとも、これで次期千信館の総代は決まったようなものでしょうけど。せいぜい足掻いてごらんなさい」 「抜かせ、この程度で俺に勝つなんて片腹痛いぞ」 「後は指を咥えて見ているんだな。すぐに会場の色を塗り替えてやるさ」 「あらそう? 期待しないで待ってるわ」 そう言いながら楽しんでいるのが丸わかりだぞ、おまえ。まあそれを言うなら俺もそうか。 不謹慎なのは分かっているが長い約束だったものな。激動の時間を潜り抜けたことでの今だ。同じ苦難を乗り越えた者としてこれから得票を競うことを、感慨深く感じてしまう。 夢を超えたことで再び邯鄲に至ることはできなくなった。俺たちは二度とあそこに入ることはないのだろう、これがそういう〈仕〉《 、》〈組〉《 、》〈み〉《 、》だと今なら分かるし、いまさらそこには言及しない。 帰還と同時に現実世界の辿った歴史も変じていた。先ほど我堂が論じたように熾烈極まる経済戦争、富の占有合戦が世界規模で行われている。 おかげで血を流さない争いが主流となっている反面、政界や経済界に至ってはまさに魔窟だ。知略謀略が所狭しと渦巻いて暗殺というピンポイントな暴力があらゆる場所で点在している。株価の変動で首を吊る人間の数は増加の一方、というところで。 殺人が縁遠くなる世を望んではいたが、こうして行き過ぎたという感は否めない。なら、俺たちにできるのは今からどう動くかに他ならなかった。 義務を守り、権利を正しく行使して、努力を惜しまず邁進しよう。 恵まれた立場を自覚して、社会の一員であることを肝に銘じながら生きていく。 だからまずはその一歩として総代選挙だ。さて我堂の演説を上回るにはどうするか……なにせ、負けたら召使いになってしまうかもしれないのだから腕が鳴るというものだよ。 「それと、約束忘れてないでしょうね。勝ったら相手の方をってやつ」 「当然だろう。そして俺は、おまえへの命令をもう決めている」 「どんな?」 どうって、決まっているだろう。 「俺が勝ったら……我堂、おまえは副会長になれ」 「皆で勝ち取った未来を、俺たちの手でより良いものにしていくんだ。生きている俺たちには、そのために命をくれたあいつらへ恥じる生き方をしてはならない」 「その責務を感謝と共にまっとうしたい」 「……奇遇ね、私もだいたいそんな感じ。ていうか先に言うんじゃないのよ」 「いい台詞はご主人様に譲りなさい。そこんところ下僕の心得も、きっちり叩き込んであげるわ。楽しみね」 男女としてよりは、あくまで競い合う好敵手として。 そういうノリが俺たちらしいと思うし、だからこそ作れる未来があるのだろう。 栄光、鳴滝……見ていてくれ。 そして、いつか再会するその時のために。 「生きていくぞ、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》で」 「ええ、胸を張ってね」 待ち受ける本番で、勝利を掴み取るために。 今はただ、ひとたび勝ち取った明日への可能性を、より素晴らしいものへと磨いていこう。 そう誓って、俺は我堂と入れ替わりにマイクを手にするのだった。  戦う前から、すでに勝負は見えている。  かつて私は、そんなふうに思っていた。  勇気、友情、愛、思いやり、使命感――そうした善性と呼ばれる光に彼が依って立つ限り、甘粕は絶対に斃せない。  なぜなら、アレは自身の〈本質〉《どろみず》を、〈生〉《き》のままに愛し、憎んでいるのだから。  そんな存在を討とうとするのなら、こちらもまた生のままな水でなくてはならないだろう。  大切なのは、きっと自然のままであるということ。  余計な感情が交じってはいけない。たとえ己に落ち度があろうと、その手がどれだけ血に塗れていようとも、僅かな疑問すら抱くことなくそのままで……  生まれ持った性や業を、良しと認めてすらやれない……そんな狭量では話にならない。邯鄲の覇者とは傲岸不遜に唯我独尊であるべきだろう。  歪んでしまった水など、もはや水ではない。  たとえそれが、素晴らしく魅力的で輝く変質であったとしても、人工的な清流よりは泥水のほうが力を持つのがこの〈夢〉《セカイ》の〈理〉《ことわり》なのだ。  元々弱かった者が無理に強くなったところで、それはきっと無意味なこと。  後付けされた勇気なんて、紙屑ほどの強度も持っていない。その不純な〈邯鄲〉《ユメ》は、つまりあるべき型に嵌っていないということだから。  最初からすべてを持ち得ている絶対の支配者に、どうして敵う理屈があるというのか。  よって、柊くんではあの男に勝つことができない──ずっと、私はそう思っていた。  目の前で戦っている仲間のことを信じてあげることができなかった。  なぜなら強さに懸ける男の人の想いは狂気で、柊くんもきっとそうだと思ったから、本当は無理をしているに違いないと決め付けていたのだ。  〈そ〉《、》〈う〉《、》〈し〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈と〉《、》〈戦〉《、》〈え〉《、》〈な〉《、》〈い〉《、》〈の〉《、》〈が〉《、》〈男〉《、》〈の〉《、》〈人〉《、》〈と〉《、》〈い〉《、》〈う〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》〈な〉《、》〈ん〉《、》〈だ〉《、》〈ろ〉《、》〈う〉《、》――と。  だからきっと、本当の柊くんも強い人なんかじゃない。  そう。まるで、信明みたいに。  ずっと一緒にいたから知っている。私の弟はそういう子なのだ。  毎日無理をして、気を張って……あるがままの自分でいられた時間など、果たしてどれくらいあったのだろう。  彼の魅力的な部分は、私が一番良く理解している。そして同時に言えるのは、それが〈濁〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》〈こ〉《、》〈と〉《、》〈の〉《、》〈証〉《、》〈左〉《、》だということ。  自己を向上させたいという彼の願いは、今にして思えば、自己を偽ろうとする心の動きにとても似ていた。  元々あった素質を捩じ曲げ、抑圧し……結果として生まれるのは、ただの良くできた加工物にすぎない。  ゆえに、〈あ〉《、》〈の〉《、》〈男〉《、》みたいな超越の存在にはどう挑もうと勝てるはずがないのだ。  純な強さ。純な愛。純な正義。甘粕正彦が持つそれは極端に振り切れてるけど、その状態がスタンダード。無理などしていない彼の素だと分かっていたから。  ジャンクが本物に歯が立たないのは、なんの意外性も持たないただの道理。言い換えるなら世の摂理。  つまり簡単に言ってしまうと、当時の私にとって人間とは、男性、女性、甘粕という三種類に分かれていたのだ。  〈甘粕〉《アレ》は一種の宇宙人。一人だけ違う何か遠い別のもの。なにせ人類初の盧生なのだ。その印象に疑問を抱くのは難しい。  無理して頑張って、強くなって……そういう次元の相手じゃないと、これまで私はずっとそう思っていた。けれど──  それは、なんのことはない勘違いだったと分かった。  男性、女性、甘粕と、人間を三種類に分けて考える浅はかさは、血液型信仰よりも馬鹿馬鹿しい考えで、加えて言うなら私にとっての男性とは基本的に信明だ。基準になっているのが彼しかいない。  柊くんは信明じゃなく、その逆もまた然り。そんなことすらよく分かっていなかったのだ。  わざわざ確認する必要すらもない、当たり前のこと……だけど、私はずっと弟という色眼鏡を掛けた視点で物事を眺めていたのだろう。  要するに、私は男の人というものを、勝手に分かった気になっていただけ。でも今は違う。  柊くんは、柊くん。そのことを私はもう知っている。  彼にしかない良いところを、たくさんたくさん見てきたから。彼が私に抱いている思いを感じることができたから。  過去には色々なことがあったけど、もう間違えない。  柊くんと一緒にいることを迷わない。  そう。男の人って、すごいんだから。  信明も柊くんも大杉くんも鳴滝くんも、幽雫さんや剛蔵さんも……まあ壇狩摩あたりはノーコメントにしたいけど、とにかくみんなそれぞれ違う意味でキュンキュンする。  すごい馬鹿だし。  すごい可愛いし。  すごいかっこいいんだよ。  ──大好き。  そんな柊くんは、絶対に負けない。  生まれたままの、何の不純物も混じっていない〈水〉《かれ》のままで──  甘粕にだって勝てると、今はそう信じてる。  だから、私は自分のやるべきことをやろう。  遅れを取ってなんていられないし、弱気になんてもうなれないから。  背中に預けられた信頼に応えられるように。笑ってまた、みんなと朝へと帰れるように──  ゼロ戦が深々と突き刺さった戦艦の甲板に、私は降り立って周囲を仰ぎ見る。  まるで大砲を撃ち込まれたかのように大穴が空き、周囲にはどこか桜吹雪を思わせる無数の火の粉が舞っていた。いたるところで赤々と燃える炎の熱が肌を嬲る。  これが私の最終決戦、すべての精算となるのは間違いない。  眼前にゆらり顕れた〈廃神〉《タタリ》の気配を感じて睨む。  己のユメを創形し、この手に固く握り込んだ。 「行くぞォッ、神野ォォ──────ッ!」  剣を構え、裂帛の気魄をその刀身に行き渡らせる。  無貌の悪魔はまるで出来の良い舞台でも見たかのような喜色をその血走った眼球に浮かべ、実に楽しそうに嗤っていた。  待ってて信明。そして信じて。  必ずお姉ちゃんがあなたを〈神野〉《そこ》から救ってあげる。  だからあなたも戦って。  私の弟が持ってる〈信〉《つよさ》は、悪魔なんかに負けたりしないと信じてる。  ゼロ戦による特攻の効果は甚大であり、艦のいたる箇所から黒煙が噴き上がっている。炎の舌は風に煽られ、喜々として夜闇の黒を舐めあげていた。  言ってしまえば、ここはもう崩壊状態にあるだろう。しかし、それすらも舞台装置であるかのように〈悪魔〉《じゅすへる》は嗤っていた。 「〈信〉《イノリ》、〈信〉《ネガイ》、〈信〉《チカイ》、信じる…… 君は僕にそれを説くのか」  人型を成す悪意の集合体。煙状に揺らぎ、闇に染まる無貌から察せる感情は喜悦のみ。それも腐り爛れた奈落の色に濡れているのが誰にも分かり、隠していない。  つまり、この〈廃神〉《タタリ》にとっての常態だ。呪詛そのものの禍々しさをもって、己が内を謳い上げている。無限の夢で追い求めてきた眼前の少女を、今まさに地獄の底へ引き摺り込まんとするかように。 「言われずとも無論、信じているよ。君がこの混沌べんぼうに堕ちる瞬間をね。 すまない。許して。僕は駄目だ。弱かった── 彼の絶望が今も胸にあるんだよォォ。  ああ、甘い。最高だ。君の弟は実に素晴らしい闇で僕を喚んでくれた。今さら返すはずがないだろう」  世良信明――悪魔にとっては生贄で、水希にとっては弟である存在をこれより賭ける。最高の舞台だと神野は謳いあげながら宣言した。 「さあ始めようか水希。彼が見ている。  君は永遠に逃がさない」  そして── 「な、ッ……」  無数の虫の集合体であり、闇を纏っていたその姿が変現していく。  ざわざわと、きちゃきちゃと。耳障りな音を立てて歪み、潰れて腐臭をばら撒きながら膨満をし始めた。この場に立っているだけで眩暈を引き起こされる眼前の光景は、まさに呪詛と呼ぶに相応しい。  質量を伴った暗黒が、微細な振動を繰り返しながらその姿を禍々しく変容させている。視認すらもままならない極小の羽虫や節足動物が神野明影という存在自体を組み替える。  もともと身体などないも同然だったものの、一応の態で存在していた四肢すらも虫に呑まれた。新たに顕れる〈ソ〉《、》〈レ〉《、》が人間の形を成していないのは、一目にして瞭然だろう。  飛び散った汚汁が甲板に水溜まりを作る。その上で、今や変態を遂げつつある神野が魔的な笑みを浮かべて醜く蠢いた。 「さっきの意気はどうしたんだい水希ィ、早く掛かってくるといい。  さもないと、こっちから行くよおォォ──」 「──────」  夜闇を照らす炎の朱に晒け出された本性は、この世のどんな法則にも収まることのない異形。  まるで複数の虫が汚泥を糧に、そのまま融合してしまったかのような……生物として語るにはあまりに歪であり、廃神と呼ぶにも醜悪すぎる。  機能美など微塵もない単純な合接は、神野が夢の具現であるということを鑑みても有り得ない。こんなモノを思い描くほど人間は腐っているのだと叩きつけてくる光景は、生きとし生けるすべてに対する冒涜だ。  身体の至る所からは蛆が湧き出ていて、腐汁が絶え間なく滴っている。酸鼻を極める姿であり、どんな者にも許容は不可能── ただ怖気のみを喚起する、特級の災禍だった。 「やあ、そんなにじろじろ見ないでくれよ。照れるじゃないか。  それとも、目が放せないくらい僕に興味を持ってもらえたかい? それなら嬉しいねえ。  この姿を晒した甲斐も、あったというものさ」  声を発するのすら躊躇われる。この〈廃神〉《タタリ》と僅かでも交わりを持つのが人間として耐えられない。  もはや理屈どころか本能さえ超えた域で、水希は神野の魔性を忌避していた。 「どうした水希ィ、悪魔が珍しいのかい? でも、今さら驚くほどのことでもない。 だって、これまで僕はずっと君の傍にいたんだし、これからだって片時も離れずにいるのだから── なあそうだろう? 水希ィィィィ」 「ふざけた、ことをッ……!」  何かが焦げるような、硫黄にも似た腐臭が鼻を衝く。神野の全身から滴っている膿汁が、その狂熱をもって噎せ返るような空気を周囲一帯に充満させているのだ。  それでも、しかし水希は退かない。己の〈剣〉《ユメ》を構え直し、ともすれば怯みそうになる心を奮い立たせて相対する。  ここまで辿り着いた彼女の思いは、災厄振り撒く穢れの権化と表すべき蝿声を前にしても、胸の奥で〈明々〉《あかあか》と燃えているから。 「そう易々と悪魔の奸計に堕ちてあげるほど、今の私は柔くないの。  絶対に負けない──私のすべてを懸けて、貴方を打ち斃す」  裂帛の気概を顕わし、叩き付けるように告げてみせる。  しかしその宣戦布告と同時、神野は乱杭歯を剥き出してさも可笑しそうに嘲り嗤った。  少女の宣誓に対しての愚弄だろうか。神野明影は徹頭徹尾そういう存在で、人を誘惑し、堕落を煽り、絶望の淵に沈んでいく様を見ては喝采を贈る地獄の道化師に他ならない。  だが、今の哄笑は違う。まるで何か、〈決〉《、》〈定〉《、》〈的〉《、》〈な〉《、》〈珠〉《、》〈傷〉《、》〈を〉《、》〈見〉《、》〈付〉《、》〈け〉《、》〈た〉《、》〈よ〉《、》〈う〉《、》〈な〉《、》── 「き、ひひッ……いや失礼。少し驚いただけさ、悪かったね水希。  不退転のその決意、実に立派だよ。もともと臆病な君だけど、その女戦士然とした振る舞いも悪くない。  でも──〈そ〉《、》〈の〉《、》〈ザ〉《、》〈マ〉《、》〈で〉《、》、〈何〉《、》〈か〉《、》〈出〉《、》〈来〉《、》〈る〉《、》〈つ〉《、》〈も〉《、》〈り〉《、》〈な〉《、》〈の〉《、》〈か〉《、》〈い〉《、》?」  唆す言葉に乗るな、どんな腐れた策かもしれないと水希は自らに言い聞かせる。ああ、それは骨の随まで分かっているのだ。  しかし、そういう心持ちだから君は可愛いと神野が指差し――  瞬間、水希は我が身の異変に気付いてしまった。 「──────」  目に飛び込んできたのは、きちきちと醜悪に蠢く魔虫の脚。  〈己〉《、》〈の〉《、》〈脇〉《、》〈腹〉《、》〈か〉《、》〈ら〉《、》、〈気〉《、》〈付〉《、》〈か〉《、》〈ぬ〉《、》〈間〉《、》〈に〉《、》〈そ〉《、》〈れ〉《、》〈は〉《、》〈生〉《、》〈え〉《、》〈て〉《、》〈い〉《、》〈た〉《、》。  まるで眼前の悪魔と同じような、理の埒外にある羽虫の脚。如何なる道理かなど知る由もなく、それが水希の身体に寄生している。  理性は一瞬にして焼き切れ、有らん限りの声をもって水希は叫んでいた。 「ウ、ああァッ…………アアアアアアアアァァァアアァァッ!」 「ぶはっ! ひッ、ひはッ、あーっはっはっはっはっはっはっは!」  心底からの笑い声を神野は甲板に響き渡らせる。  さながら硝子に爪を立てるかのような、聴く者の精神を削り取る甲高い声。  蠕動する体節を軋ませながら、悪魔は最上級の洒落を目撃したと言わんばかりに糞の山で転げまわった。 「はっ、はははっ! いいね水希、その反応。最高に不格好でたまらないよッ!  どうしたんだい、もっとしっかり見ろよ。目を逸らしたりなんかしないでさぁ」 「可愛いよ、その脚。いやあ、そんなに喜んで貰えるとは、準備した甲斐があったというものだ。  君にすごく似合ってると思うよ、〈女〉《、》〈王〉《、》〈蜂〉《、》。  百足やゴキブリの脚でも良かったんだけど、僕なりにそう見繕ってみたんだ。どうだい、気に入ってくれたよね?」  そんな煽りも、今ばかりは水希の耳に入らない。なんの前触れもなく我が身に降り掛かった〈悪夢〉《げんじつ》に頭がおかしくなりそうだった。  なんで、どうして? 微かに残された理性で懸命に事の因果を手繰ってみるも、真相の一切は闇に覆われて分からない。  胴と脚との接合部から黄色の体液が滴り落ちる。糞便を掻き回したような悪臭は、今や自分からも発生していた。 「く、ッ──────」  怯む心をどうにか奮い立たせ、水希は異形の脚を引き抜くように掴む。もう僅かたりとて、このような穢れが己に寄生しているなど我慢がならない。  しかし、伝わってきたのは鋭い痛覚。すなわち── 「あ、ああぁっ………… げぶッ! ごほ、ごぼォっ! が、あぅ…………」  もはや堪えきれずに嘔吐する。吐瀉物が自らに生息している蜂の脚に掛かり、それは歓喜するかのごとくギチギチと蠢いた。  よって否応なく悟らざるを得ない──このおぞましいモノは、今や紛れもなく自分自身の身体なのだと。 「君は本当によく吐くねえ。あーあ、これはひどい。自分にかかっちゃってるじゃん。  まあでも、早いうちに慣れちゃった方がいいよ? これからずっと、その姿でいるわけなんだし」  〈悪魔〉《じゅすへる》が告げるのは、いつだって水希を絶望に堕とす事実。  そして、親切にも似た態で腐毒に満ちた言葉を続ける。 「なぜ、どうして……そんな顔だね水希。  君の心境はさしずめこんなところかい? ああ、憎き神野さんに嵌められちゃったわ。私、何かしくじったのかしら……?  いいや、気にすることは何もない。罠も奸計もありはしないし、そもそもの話として説明する裏も存在しない。  君らのいう廃神ってのは、つまるところ〈夢〉《、》〈そ〉《、》〈の〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》なんだって聞いてないのかい? だから僕にとってはこれがあるがままの姿で、さっきまでの人型もまた同じ」  神野の囁きに思い当たるのは百鬼空亡の存在だ。龍の〈姿〉《ユメ》を有しており、そして同時に魔震そのものでもある。あれもすべてが等しく神という存在で、そこに理屈は存在しない。  人間ではないのだから人間の理屈が通らないのだ。  つまり、その意味するところは一つだけ。 「君ら人間は破だの急だのやって必死に夢を使おうとしてるけど、僕らにそんな必要はないんだよ。空亡だってそうだったろう。  〈す〉《、》〈べ〉《、》〈て〉《、》〈が〉《、》〈自〉《、》〈由〉《、》〈自〉《、》〈在〉《、》〈な〉《、》〈の〉《、》〈さ〉《、》。こうして本当の姿をお披露目するのも、君の身体に蜂の脚を植え付けてあげるのも。  そのどれもが、僕が無限に持っている〈悪意〉《ユメ》の一つにすぎない」  甘粕正彦という盧生が存在する限り、その兵器たる魔神、廃神、邪神らは、思う様この世に自らの〈悪意〉《ユメ》をばら撒けるのだ。  なぜなら、彼らは人が生んだ物語なのだから。現界を果たした時点で、あらゆる協力強制の条件を成立させている。枷がない。 「コレは、今は亡き僕の親友であるセージのユメをちょっと真似てみたんだけど、どっかな。喜んで貰えたかい水希」  腐臭の漂う息を吐き掛けながら告げる神野に呼応して、脚は勝手に水希の身体を這いずり回った。まるで人を憑り代としてまんまと現界せしめたことを喜んでいるかのように。  深まる嫌悪と絶望に、理性が捩れ、壊れていく。顔、喉元、腋、胸、下腹部、そして更に下へ下へと……衣服の外も内もなく身体中を無作為ににまさぐられて今にも意識が飛びそうだ。 「はっは! おいおい、僕の悪意から生まれた虫ケラの分際で、さり気なく水希の全身を這い回ってるんじゃないよ。それは君の領分じゃないだろう。  可愛がるときはゆっくりと、それが〈悪魔〉《しんし》の嗜みだろうに。でないと女性に嫌われる。  あ、でも今は君自身の脚なんだから、いくら楽しもうとそれは自慰ということになるのかね? ヒははっ、よく分からなくなってきたァ」  耐え難い侮辱を浴びせられ、睨み返した拍子に腐汁を顔面にぶち撒けられた。  虫の脚には自分の意志が一切効かない。この世に顕現したことを祝うかのように水希の肢体を蠢き回る。  駄目だ、このままでは〈堕〉《、》〈と〉《、》〈さ〉《、》〈れ〉《、》〈る〉《、》── 「僕を憎めば憎むほど、君はその悪意に相応しい〈悪魔〉《ムシ》となっていく── 加えて、負の感情が大きいほどその進行が早くなるって仕組みさ。どうだい? 君らに合わせて、ユメの条件付けとかどうでもいいものを考えてみたんだけど」 「ほら、攻略の手引きをしてあげてるんだ。打破してみなよ水希。これまで幾多の困難を乗り越えてきたみたいにさァァ!  簡単なことだろう? 愛してくれればいいんだよ。そう、僕が君にしているようにねえええええ!」  下卑た嗤い声が夜闇に響いた。この悪魔は本気で戦うつもりなどなく、悶え苦しむ水希を見てただ遊んでいる。それが更なる怒りを喚起し、抜けることなどもはや不可能。  そもそも、神野に対して憎悪を持たずにいることなど絶対無理な相談だ。そのような真似はどう足掻いても出来ないし、未来永劫有り得ないと言っていい。  こいつは弟を、信明を、今このときも穢し続けている張本人なのだから。 「あッ、が……ああああああああああァァァッ!」  その瞬間、今度は背中を突き破って油じみた虫羽が生えてきた。羽脈をびくびくと震わせながら毒花のように開いていく感覚が、おぞましい震動となって水希の内部にも伝わってくる。 「ぶははっ! 言ったそばからそれかよ、君は徹底的につれないよねぇ」 「そもそもコレは君たちに言われてやってるのにさあ、そういう態度ってあんまりじゃないかな? 悪魔だって、少しは感謝されても良さそうなものなのにさァ」  神野は不気味に浮き出た眼球を三日月型に歪めて告げる。  〈悪魔〉《じゅすへる》の口から紐解かれるのは、その始まりの話── 「だって君たち姉弟の絶望を贄に、僕は現界したんだぜ?  毎日願っていただろう? 世を恨み、呪っていただろう。その強い思いが、一途な感情が、僕を顕現せしめた。  感謝しているよ。そして僕は恩知らずでもない。だから誓ったんだ、召喚してくれた者の希望を、何にも先んじて叶えてあげないといけないって。  それが、悪魔のルールってやつさ」  黙れ、喋るな。水希の感情は激しているも、その身は自由に動かない。  私の思いを、信明を。おまえのくだらない呪いで穢すな── 「つまるところ、僕のすべての行動は〈信〉《、》〈明〉《、》〈く〉《、》〈ん〉《、》〈の〉《、》〈望〉《、》〈み〉《、》ってわけ。君は根拠のない理不尽のように思ってるみたいだけど、そんなことはないんだぜ。  僕に深く刻まれた使命、それは君に絶望を与えること……ははっ、酷い弟さんだね」 「だ、まれ……」 「どれだけ酷いことをしたら、こんなに恨まれることができるんだろうね? 君は性情が激しいところがあるし、無意識のうちに弟さんを傷付けていたんだろうねェ。  今も消せない後悔とか、あるんじゃない?」 「黙れェェェッ!」  激情に任せて闇雲に剣を振るう。醜悪な大蝿に刀身はめり込むも、相手は無貌であり手応えなどない。  無数の虫と化して周囲に四散し、激しい羽音を〈犇〉《ひし》めき合わせて再び集まりだす。これでは以前とまったく同じだ。どれだけ切り刻もうと意味が無い。  自分の身体に生えた〈虫〉《あくい》が邪魔をして、心技体の合一が微塵も取れなくなっていた。トラウマを克服する以前よりもちぐはぐで、どうしようもない弱体化の状況に水希は追い込まれている。  神野明影は虫の王――ゆえに、半ば虫化した身で対抗できるはずもない。 「僕は〈甘粕〉《あるじ》が目指してる〈楽園〉《ぱらいぞ》とか、実のところはどうだっていいんだよ。  セージに与える絶望とか、戦真館の連中とかさ。その他神祇省、鋼牙、辰宮──彼らに構うあれやこれやなんてのは全部二の次三の次だ。  気紛れ、暇潰し、いいところそんなものなんだ。重きなんて微塵も置いていないしどうでもいい。僕が重んじるのはただ一つ。  僕の行動のすべては、君を〈混沌〉《べんぼう》に堕とすためにあるんだ。  これが契約者に対する悪魔の誠実なルール、君への愛の証なんだよ」  だからこれまで、この廃神は舞台裏で遊ぶだけに留まっていた。  そして、にも関わらず、曰く片手間で闇に呑まれた人間はいったいどれほどいるのだろう。  柊聖十郎と柊恵理子には、もっと真っ当な結末があったのではないか?  辰宮百合香と幽雫宗冬は、本当にああならなければ理解し合うことがなかったのか?  契機で、あるいは発端で、ねじ込んだ悪意が彼らの人生を歪めてしまった。  聖十郎は剛蔵によって救われていたかもしれないし、百合香を四層に誘わなければまた違った展開があったかもしれない。  そして初代戦神館の崩壊も。あの際繋がった未完成の邯鄲は、神野の〈領域〉《べんぼう》と非常に近い。あれがなければそもそも宗冬は病まなかった。  だというのに、それら悉く二の次以下だと言い捨てる。  誰がどうなろうとたいした興味を持っておらず、水希だけに固執する。  信明を贄にしてくれてありがとう。そのお礼に望みを最高のかたちで叶えてやると、祝福するように汚辱を振り撒き、垂れ流すのだ。  それが許せず、怒りは消えるどころか跳ね上がって―― 「ヅッ――、ギ、あああアァッ」  再び蠢いた虫の脚が目鼻と耳に突き込まれた。遠慮など知らない無秩序な動きに脳を抉られているような感覚が襲い来る。  すべてが未体験の狂騒と激痛で、廃人に堕ちてしまったとしてもなんら不思議はないだろう。 「ああ、無理しちゃ駄目だよ水希。生えてきたばかりの脚が驚いてるじゃないか。 大事にしなよ、自分の身体なんだから。あ、ほらまた生えた」  黒色の憎悪は止まることを知らず、ゆえに醜悪なモノは次々に増殖していく。  水希の身体はもはや人の態を成していない。耳から突き込まれたままの脚は力任せに鼻腔の奧で暴れ、鼓膜が鈍い破裂音を立てて破れた。 「どうしたんだい、さっきまでの威勢は。僕と戦う前とかさぁ、何か悟ったような風だったよねぇ」 「そう。男の人って、すごいんだから──だったっけ?  すごい馬鹿だし。  すごい可愛いし。  すごいかっこいい。  ──大好き」 「ってなんなんだよそれぇ! 自分の足で立ち上がったかと思ったら、頼るのはまた男とか心底ふざけてるゥゥ」  絶望を乗せた耳障りな哄笑が、辺り一帯へと響き渡る。 「水希、君は本当に浮気性なんだね。その淫売にも似た気質、僕はある意味感心すらするよ。  僕を裏切るなよ、いただけないな。他の男なんて見るんじゃない──それが信明の〈呪い〉《ネガイ》だぜ。  可愛い弟を悲しませるのは、君も本意じゃないだろう?」  言うな、言うなッ! それ以上──  憎悪を込めて睨み付けるも、この〈廃神〉《タタリ》にはそのようなもの涼風に過ぎない。禍々しい笑みを一層深めて呪にまみれた言葉を垂れ流す。 「分かってくれたかなあ。僕は真面目な、至って品行方正な悪魔なんだよ。己が役目にどこまでも忠実なのさ。  さあ、信じてくれ。目を閉じて、その身を〈信明〉《ボク》に委ねてくれよ水希ィィィ」 「神、野ォォッ……!」  もはや力など残っていない身体を奮い立たせて剣を揮うも、それは先ほどまでの繰り返しにすぎず手応えはまったくない。  ただいたずらに虫の大群を斬っているだけであり、黒い霧が水希を煽るように羽音を立てて纏わり付いてくる。  柊くんなら──  柊くんなら、こんな状況でも切り抜けたんだと思う。  彼が相対したという柊聖十郎……その夢は、いま目の前にいる神野と同じ発動条件なのだから。  すなわち、憎めば奪われる。  常人なら、誰であれあの逆十字には負の感情を持つだろう。血縁という繋がりがあるだけに、柊くんが抱いた怒りと絶望は凄まじいはずで、それは弟を穢された自分にもよく分かる。  でも彼は、絶対許せないはずの父としっかり向き合い、乗り越えた。  自分にとって、そんな柊くんは光であり希望そのもの。  だけど――自分に彼のような真似は出来ない。神野が許せないし滅したい。  その感情を覚えると同時、脇の下から新たな脚が生えてきて、粘液まみれの剛毛を震わせながら横腹を貫いた。 「ギッ、あ――」  激痛、そして一向に慣れないおぞましさを前に、意識が遠退いていく。  打つ手がない絶望の中、水希の心は原初の感情へと戻っていった──  つまり、〈ど〉《、》〈う〉《、》〈し〉《、》〈て〉《、》という思い。  悪魔を喚んでしまうほど、信明が自分に向けてくれた愛。それはどこから来たのだろうと。  こんなこと、本当は考えるべきじゃないのかもしれない。  だけど、どうしたって分からないのだ。  ねえ、こんな私の、いったいどこがいいっていうの?  こんなに醜くて情けないお姉ちゃんの、いったいどこが…… 「君は誰よりも〈愚か〉《キレイ》だからさ」 「姉さんは、誰よりも自分を責める人だから――」 「のぶ、あき……」  突如として眼前に現われた弟の顔に、思わず口を開いてしまう水希。  それは悪魔の手並みとして常道だったかもしれない。だが今の彼女にそのような判断力は無くなっていたし、何よりもその声と姿が懐かしい。  信明――優しい彼はあの頃のまま、真摯な色を目に浮かべて言う。 「姉さんは、もう精いっぱいやったんだ。悔いることなんて何もない。  いつだって出来る限りを頑張ってるのに、自分を上手く褒めてあげられない……そんな姉さんに、だけどそんなことないよって言いたかったんだ」 「自らに厳しいっていうことは、痛みを知っているということ。その分だけ、他人に優しくなれるはずだから。  大切にできるはずだから―― 身体が弱くて、いつもみんなの足手纏いだった僕を、常に気遣ってくれたようにね」  思い起こされる記憶……共に過ごし、後悔も喜びも数え切れないほどあった。  そんな風に思ってくれたなら、どれだけ幸せであることだろう。 「――なんて嘘ぉ!」  水を浴びせられたように現実に引き戻されて、水希の中の何かが砕け散る。  哄笑を響かせる悪魔は、その行動によっていとも容易く人間の理想というものを手折るのだ。 「君の妄想は、ちょっと自分に都合が良すぎると思わないかい? こんな身内がいたら、それは信明くんも不満を持つようになるよ。  ひょっとしてさ、君は誰かに親切にしたら、それはすべて喜んでもらえるとか思ってない?  こういう確言があったのは、確か君らの国じゃなかったっけ。小さな親切、大きなお世話ってね――」  ばらばらになり始める意識の中、信明に対する謝罪の念に縋りつくことで、どうにか水希は自我を保ち続けていた。  ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――そう詫び続けるしかもはや出来ない。 「でも僕は、そんな君を愛しているよ。  好意とお節介の区別も付かない、哀れで愚かな君がねえ」  自分の何一つとして通用しないまま、もうどのくらいの時を嬲られ続けているのだろう。  このまま屈したくないけど、いったいあと何が残っているというのか。  仲間にいつも囲まれて、甘やかされて。いざ一人になってみると、こんな悪魔一人追い返せない自分が。  弟との思い出を、これほど酷く汚されているのに…… 「苦しいよ、姉さん」  するとその時、〈水〉《、》〈希〉《、》〈の〉《、》〈身〉《、》〈体〉《、》〈に〉《、》〈信〉《、》〈明〉《、》〈の〉《、》〈貌〉《、》〈が〉《、》〈形〉《、》〈成〉《、》〈さ〉《、》〈れ〉《、》〈た〉《、》。突然のことに混乱へと陥る中、醜悪に浮き上がったソレが口を開く。 「その気持ちが辛いんだ。押し付けられた重荷が辛い。日頃の独善的な振る舞いも辛い…… 昔からそうだったのに、どうして気付いてくれないの?  いつだって独りよがりで、僕のことなんか考えてもいないィィィィ!」 「う、あァッ、うわああぁぁぁァァッ!」  もはや相手が誰かを考える思考すら奪われ、咄嗟に刃を己が身体に突き立ててしてしまう。  灼けるような痛みは走るがそれどころではなかった。このままでは壊されてしまうから。何よりも心の弱い部分を好きに弄られて耐えられない。  そして、刹那の後に襲い来るのは身を潰すような後悔の念。  〈あ〉《、》〈れ〉《、》が紛い物であったかなど何の意味も持たない。  自分は、この手で信明を―― 「ああぁ……ああああぁァァッ――――」  ここはどこで、いつなのか。胸の奥に仕舞っていた信明を無理矢理に引き摺り出されて、もはやそれすらも分からない。  神野と信明の相は不規則に変わりながら水希に愉悦の視線を向けている。その光景こそ、まさに悪夢と呼ぶに相応しい。 「ははははっ! 酷いなあ、実の弟を迷いなく攻撃するなんて。  君の心根は確かに醜悪だけど、家族に対する愛だけはあると思ってたのに。ああァ、まったく嘆かわしい。  そう思わないかい、信明?」  やめて、話し掛けないで。人の思い出に入って来ないで。 「実のところ、君もちょっとだけ姉さんに苛付いてたりしたんだろう? うんうん、その気持ち分かるよォ。  だって仕方ないさ。血を分けた家族に、平気でこんなことしてくる女なんだもんねえェェェェッ!  なら、僕たちも見せなきゃいけない。強くなったってところをさあ」 「あの時とは違うんだよォッ! ほら、こんな――」 「こんな――」 「こんなになっちゃったよォォォォ! はははははははァッ――――!」  あのときとは違う……確かにそうだ。もう何年も経っている。  姿も心も変わることなく留まれるはずがない。そんなものは記憶の中だけだから。  目の前に現われた信明は昔の彼じゃなく、自分が覚えているものと齟齬があるのは仕方ない。  執拗に汚され、嬲られながらも水希は思う。対して己自身はどうなんだということを。  これまでの出会い。そして戦い。  辛さも喜びも数え切れないほど重ねてきた。いろいろな事があったし、数々の思いにも触れてきた。  それらを仲間たちと一緒に経てきた、今の自分は…… 「だいたいさあ、君はこんな時でも僕がどうだの、信明がどうだの言ってるよねえ。  他人を思いやるといえば聞こえはいいけどさ、君は自分で自分を肯定することがどうしてちゃんと出来ないわけ?  いつもいつも後悔ばかり……己を肯定しようっていう心が圧倒的に欠けているんだ。マゾなんだよ。  そんな女に何を説かれたって正直のところ有り難迷惑だ。信明もそう思っていたに違いない」  神野が突くのは水希の本質であり、その言葉には反論もままならない。  伊達に取り憑いていたわけではなく、彼女を実に正しく見透かしている。 「柊くんにちょっと諭されて目が覚めたって言ってもさ、本質的に君が自分を大事にできないっていう部分は変わってないじゃないか。  この期に及んでも、まだ昔のことをぐちゃぐちゃとやっている――要するにそれは、未来を生きるという気概が足りないってことじゃないのかい?  人間として至極当たり前であるモノが、徹底して欠けているんだよ君にはね。  僕の親友、セージをちょっとは見習えよ。あいつは熱い奴だったぜ?  生きる、生きるんだ。俺は最強! 諦めなければいつかきっと夢は叶う――はははははは、凄い前向きさだっただろ。あれこそヒーローっていうんだよ、対して君はどうなんだって思わないのか?」  確かに、自分にはそういうところがある。  だって、今もこんなにぐらついているし。  すごく小さい奴だし。器が足りない人間で……  だけど、未来だけは諦めたくない。  生きること、そしてこれからもずっと生きていくことに誰より真摯な友達なら、私だって一人知ってるから。  ねえ、晶。あなたならどう思うかな?  こんなちっぽけな、私のことを―― 「――どうもこうもねえッ!  立て、水希!」  薄らいでいく意識の中、微かに聞こえるその声は幻聴か?  そう思ったが、しかし―― 「あ、きら……」  脚が震える。力はとうに入らなくなっている。だが立ち上がる。  先に行使された悌心の残滓が、奇跡を起こしてくれたのかもしれない。幻聴かも、空耳かもしれない。  どっちでもいい。確かにそれは聞こえたのだから。 「今も後悔してることがあるって、そんなのは当たり前だろう。どんな奴だって、忘れられない昔のやらかしくらい一つや二つあるだろうさ。  だけど、おまえはそれを超えたんだろ? なら、心配することなんて何もねえ。 だいたい〈神野〉《そいつ》変態だしな、真面目に話聞くとかねえわ。  もし、おまえが過去にしか目が行かなくなって愚痴ばっか零すようになったら、あたしが引っ叩いてでも目ぇ覚ましてやるから心配すんなよな」  そんな、あまりに彼女らしい激を聞いて、思わず水希は頬が緩んだ。  この状況にも関わらず、笑うことが出来たのだ。 「うん、お願い」  だから、ただ前を見据える。  蜂の脚はもはや身体を覆い尽くさんばかりに生えており、勝機は相変わらず毛ほども見えない。だが水希の目には光が戻った。再び勇気が燃え始める。  それを目にして、神野は実につまらなさそうにその身体を蠢かせた。 「うん、お願い。  君はそんな風に格好付けてるけどさ、どうせまたすゥぐ凹むんだろう? 私は駄目だ、もう許して―― どれだけ意志薄弱で臆病なのか、僕はよく知ってるさ。信明だって気付いていなかったはずがない」 「要するに恐がりなんだよねえ。絶望に対する耐性ってやつがそもそも足りてない。そんなのでよく戦場に出て来られるよ、ある意味感心すら覚える。  水希は自分が理解できないほど強い奴と出会ったら、どうせすぐに怯えちゃうんだろう?  おうち帰りたくなっちゃうのかな? 実際に何年も引き籠もってたしねぇ。ああ情けない。嘆かわしい。  なんでもすぐにやり直したいとか思っちゃうくらいだし、人としての根本が甘いんだよ君は」  本当に呆れるほどの的確さで言い当ててくるなと、こちらもある意味感心しながら水希は思った。そして同時に考える。  それは栄光のこと。彼は自分が知る中で、もっとも勇気のある人だから。  どんなに怖くても、怖いのを認めた上で一歩たりとも退かない人だ。  足が竦んでも、それでも走り抜けて。  ねえ、大杉くん。あなたはどうして、あんなすごいことが出来たの? 「いや、悪い。オレだって分かんねえよ。そういうの。  でもさ、オレが下手こいたせいでみんなに何かあったら、たまんねえじゃん? オレそれが一番怖いから、二番目以下の怖いことなんてどうでもいいんだよね。  水希だって、そうじゃねえの?」  言われ、どうだろうと考える。だけど、彼が自分をそんな風に見てくれているというのは掛け値なしに嬉しかった。 「そうかな。そうだったらいいね。ありがとう」 「――ああ何。今度は独り言かい。  鬱陶しいね。そもそもにして、君は救いようのない馬鹿なのにさ」 「あれだけたくさんのヒントに触れてた人間のくせに、色々気付くのは一番最後。年下の仲間にまで劣ってる始末。  なんでそんなに頭弱いの? 水希ちゃん可愛い可愛いなんて、いつまでも言ってもらえるとでも思ってるのかなァ?  そんな物好きは僕くらいだよ。君、本当に分かってる?」  そんなの言われなくても分かってるわよ、と水希は少し腹を立てた。  でも私には、ちゃんと頭のいい友達がいるからそれでいいの。どんな時でも、真実を見逃さない人。  ね、歩美。 「いやあ、そこ言われると、わたしも恥ずかしい記憶が出てきてつらいんだけどー。 やっぱみっちゃん筆頭に、みんな抜けてるからなあ。わたしと四四八くんしかそういうの出来るのっていないし。  まあ義務ってやつですよ、ふふん」  そんな歩美の言いように、水希は怒った振りをしながら笑う。それはまるで、いつもの教室でしているように。 「もう、偉そうね。  でも、頼りにしてるわ。歩美」  一方、神野はその裡を急速に冷え込ませているのが伝わってきた。  どこか不快を漂わせているのは明らかで、その芋虫に似た腹部が醜く蛆をすり潰しながら伸縮している。  しかし、水希にはもう届かない。 「さっきから聞いてると呆れるね。君自身の問題を悉く仲間に丸投げとは反吐が出る。  お姫さま気取りもいい加減にしなよ水希。君はいつまでも可憐な少女のつもりだろうけど、そんなんじゃ周りもいずれ愛想を尽かしちゃうぜ? 信明のように―― 君には自分自身の拘りとか、そういう信念みたいなものはないんだね。あまりに魂が軽い、ぺらっぺらの人間じゃないか。  そんな君だからこそ、今こんなことになってるんじゃないの?」  ええ、確かに私は軽いかもしれない。  迷い、遠回りをしてここまで来た。もっとスムーズに道中を行くことだってできたかもしれない。  でも、重石があれば大丈夫。  たとえ自分が軽かろうと、もう翻弄されて立ち位置を見失ったりしない。  ね、鳴滝君。 「あんまそんな風に頼られてもなあ。  つーかそういうのは柊に頼めよ。俺ぁおまえの保護者じゃねえぞ」 「柊くんだって保護者じゃないもん」  いつも通りぶっきらぼうな、だけど少し照れたような口調にまた笑った。  ああ、彼の不機嫌な顔が目に見えるみたい。  そして、そんな態度でも、彼の本音がとても優しいものであることを知っている。 「じゃあ、ちゃんと自分の荷物は自分で持ちな。おまえがそれくらいできるってこと、俺だって知ってるからよ。そこのクソに好き勝手言わせてんじゃねえよ」 「うん、でもせっかくだから、みんなのことを自慢したいの」  そう、なぜならこれが自分の誇りだから。以前の自分ではないのだと知らしめてやりたいから。 「――なあ、だからさあ。これって僕と君の一騎打ちじゃないの?」 「なのに二言目にはすぐに仲間、友達ってさあ。何大勢連れてきてるんだよ。正義の犬士がそれって、ちょっと卑怯なんじゃないかなあ。  それって君は許せるの? 一人で立ちはだかる〈悪魔〉《ぼく》を多勢に無勢で袋叩きにしてさ。  正義の味方気取りなんだろう? 水希ィィ」  それに対して自分が何か言うより早く、新たな声が割り込んできた。気の短い彼女ならでは、切り口上で言い返す。 「分かってないわね。それで悪役気取ってるなんて、見てて恥ずかしいからやめなさい。  戦隊ヒーローは悪の怪人を全員でフルボッコにするっていうのが決まりなのよ。これはもうね、〈様式美〉《ルール》なの」  確かに、それはそうだと水希は思う。だから頷く。 「そうだよね。うん、分かってるよ鈴子」 「つまり、おまえが世良に勝てる要素なんか無いんだよ神野」  そして彼も、こんな自分の勝利を絶対のものだと断言してくれるから。 「どんな卑劣な手を使おうが、こいつはそれに屈したりはしないんだ」 「これまでに道を見失ったこともあるだろう。だけど、世良は歩きだした。立ち上がったんだ、自分の力で。  俺は、いいや俺達は、みんなそれを信じてる。だから――」  続く言葉は、待つまでもなく分かっていた。 「おまえの〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》を見せてやれ!」  うん、分かったよ。  晴々と、今こそ腐臭を吹き飛ばす〈希望〉《あさ》の風――  それは刹那の奇跡だったかもしれないし、幻に等しいものだったのかもしれない。  だけど確かに得たものがある。取り戻した力が総身に行き渡る。  対する悪魔は黙して語らない。  口を開かず、ただ静かに……ふつふつと煮立つ前の水面にも似た危うい均衡を見せている。  今は〈廃神〉《タタリ》の身体を構成する羽虫も騒ぐことなく、あたかも制止した時の中で…… 「ふひ、ひひひ、ひひひひひひ…… いいなあ、それ。羨ましいなあ──」  語っているのは神野か、それとも信明なのか。ここからでは窺えない。  静寂の中で胎動する邪気。それは周囲の空気を微細に揺らし…… 「僕も仲間にいれてほしかったなあ。  〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》っていうやつを、みんなと一緒に語りたかったよ。  ねえ、信明ぃぃ……」  無貌と評された神野明影。しかし今、その目は強い感情の色に塗れている。  それは嚇怒。そして、世界を絶望に染め上げる〈怨念〉《ユメ》──  刹那、凶気の圧が一気に膨れ上がった。 「れれにめーれすかあれす、どーうめ、てぶたのすたら、てにぽろんとのすたら、ろーろーにきりびてそうな、すべか、てーすのーす」  紡ぎ出される〈羽音〉《ことば》はまったく理解できない。来歴としてはきっと相応の意味があり、もしかしたら神聖なものなのかもしれなかったが、極大の負へと属性が傾いているため誰にも分からないものへと変質していた。 「でうす、のーす、てれす、きりやれんず、きりすてれんず、あおでのーべす、じゃおでのーべす、まいてろ、でじなし、でうす、みじりでのーべす、ひりうられん」 「ゆるりひつつきひきだーす、ゆるりひつつきひきだーす、ゆるりひつつきひきだーす、うらうらのーべす――でうす、でうす、でぇぇぇぇうす!」  そして同時に、視界をありとあらゆる虫の群れが覆い尽くした。  まず何よりも目立つのは蝿。キンバエ、ギンバエ、クロバエ、ショウジョウバエ、フンバエ、ニクバエ、ツェツェバエ――そして無論それだけではない。  蚋、虻、蚊、毒蛾、百足、毒蜂、蜻蛉、死出虫、糞虫、塵虫、芥虫、他にも他にも他にも他にも――  幾千億──いや、無限にも届く虫が神野の中で一斉に羽音を立てる。それによって吹き荒れる暴威の波動は甲板を蹂躙していき、周囲は狂乱の様相を呈していた。  そこに感じられるのは紛れもない本気であり、神野明影というモノが初めて露わにした生々しい感情だった。  すなわち怒り、恨み、激している。混沌の渦の中心に位置していた魔王という貌が表出しようとしているのだ。  なぜなら本来、悪魔とはどれだけ道化のように振舞っていても、芯の部分では激怒している存在を指す。  如何なるときでも、何があっても、宇宙規模の邪悪なエネルギーを一秒たりとも休まずに内で沸騰させ続けているのが蝿の王という〈夢〉《キャラ》であり、そこを指して地獄と言うのだ。  よって、これこそが廃神たる神野そのもの。  今も暴風の中心には、昏い闇があるばかり。  それは甲板のみならず艦体のすべてを揺らし、吸い込んで粉々に破壊する。  まるで、奈落の底へと繋がる穴のように。 「あんめいぞォォッ、ぐろおおおォォりあああァァアす!」  凝縮する虫たちによって生み出されたのは、破壊の権化であり極地でもある〈黒穴〉《ブラックホール》にしか見えなかった。ここに展開する光景は、どこか宇宙の終焉にも似ている。  そしてその印象は、まったく正しいものだった。  穴は爆発的な勢いをもって周囲のすべてを吸い込み、消滅させ始めている。先ほどまで確かに存在していた物も今では跡形すら残っていない。塵も残さず無に帰してしまう。  この男が初めて見せるその狂乱は、これまでの精神攻撃など軽々凌駕する代物だった。破壊の中心にある黒穴に吸い込まれたが最後、行く先は紛れもなく地獄でしかない。それほどの深淵を目の前の闇は見せていた。  なぜなら〈神〉《ヒカリ》ですら堕ちてしまえば逃げられない。これはそういうものなのだから。  戦艦そのものが吸い込まれていく。  水希を支える足場の面積は徐々に減り、奈落が口を開けている。  破滅を前に輪唱する蝿声の〈夢〉《オラショ》は止まらない。  それは偽りなく極大の災禍であり、あの〈魔震〉《くうぼう》にすら匹敵するかもしれなかった。  同じ第八等指定の廃神――ならばその強度においても本来対等以上なのは自明の理なのか。  もはや水希は絶体絶命。どうにもならないはずだろう。  だが―― 「似合わないわね、神野」  水希は凛として、恐れることなくそう言い切っていた。 「こんなやり方、全然あなたらしくない」  そう。確かに彼女が言う通り、今の神野は明らかにこれまでとはノリが異なる。脅威の質や軽重、現状の危険さを無視して言えば、水希の指摘は的を射ていた。 「圧倒的な力を見せ付けて、絶望した相手を闇に呑み込む? そんな本気の勝負みたいなこと、どうして急にやろうとしたの?」  神野の本領というのは何か。それは下劣な性情に裏付けされた悪意の跳梁に他ならない。人間を誘惑し堕落させて、世界に絶望させるのが仕事だろう。  本人は、あくまで勝ち負けなどには興味のない存在で、そのような教義を自分自身に課しているはずだった。  にも関わらず、ここでそれを打ち棄てたということ。  その意味するところはただ一つしか有り得ない。 「弱いわね、自分の〈真〉《マコト》すら貫けない。その情けなさは流石に悪魔だと言ってあげる」  信明ではなく――そう胸の中で、水希は強く思っているのだ。  先の四四八たちとのやり取り……それは確かに弟が何よりも欲していて、かつ最期まで叶わなかったものだろう。  焦がれた光を見せびらかすように披露して、信明の逆鱗に触れてしまったとでも言いたいのか。馬鹿にするな。 「怒っているのは〈神野〉《あなた》。羨ましがっているのも〈悪魔〉《あなた》。一緒にしないで、私の弟は断じてそんなに弱くない!」  憤怒。傲慢。嫉妬。暴食。怠惰。肉欲。強欲その他――心の暗黒面は確かに誰もが持つものだけど、人は〈闇〉《それ》だけで完結しない。  〈闇〉《それ》だけで動いているのは悪魔のみだ。ゆえに度重なる光を前にして怒気が臨界を超えただけ。至極単純な話であり、くだらない悪役よろしく最後に〈夢〉《キャラ》がぶれたという落ちに決まっているんだ。  なぜなら、そうだ何度だって言ってやろう。 「私は信明を信じてる」  水希の〈真〉《マコト》はそこにあるから。  悪魔の〈表層〉《メッキ》を剥がした光がどれほどで、その事態を起こすのがどんなレベルの奇跡かなんて一切頓着していない。  だって当たり前のことなんだもの。  自分には出来るし仲間にも出来るし信明にも出来る。  そこに意外なことなんか何一つとしてない。 「だから私は、あなたに勝てる!」 「ほざけよ、〈悪魔〉《ぼくら》の〈生贄〉《エサ》風情がァッ!!」  激昂する魔の咆哮が奈落から迸って相模湾を激震させるが、今こそ水希は機を見出していた。  ここしかない。もう誤魔化さない。本当の自分を引き出す勇気は、みんながくれたものだから。 「あなたが傷つくと私は泣く。あなたが私の家族だから。〈心〉《シン》の通った言ノ葉をこそ伝えたい」  永きに渡る混沌の因縁、そのすべてを清算しよう! 「急段・顕象─── 〈犬飼現八〉《いぬかいげんぱち》、〈信道〉《のぶみち》ッ!」  炸裂する信の奔流が螺旋となり、ここに彼らを発端の瞬間へと誘うべく逆巻き始める。  好きな男の人のタイプは強い人――  あのとき、どうして私はあんな馬鹿げたことを言ったのだろう。  後悔を重ねたし、一歩も動けない夜もあった。  それは縛であり、呪いであり、だからこそ今、乗り越えようと希う。  その〈祈り〉《ユメ》こそが世良水希の急段顕象。  発動のために課せられた条件は、両者が共に戻りたい時間座標が存在すること。そしてそれが、どちらも完全に一致していること。  水希の後悔、そして信明の悔恨。両者が今ここに合一するのだ。  この条件は、まともに考えれば成立不可能な難易度となる。まず前提として相応の因縁を共有した者同士でなければならないし、それを戦闘中に喚起させるのは並大抵のことではないだろう。  なぜなら戦いの場において、一方の好機は一方の危機となる。よって願う座標が同じになるなど、普通は絶対に起こり得ない。  だからこそ嵌ったときは超絶無比、限定空間における時間の巻き戻しという奇跡の業が可能となるのだ。  戦真館の仲間たちはもちろんのこと、甘粕正彦やその他六凶までも含めて、水希の急段は最高の難易度であり、ゆえに最強の効果が顕われる。  委細の条件については水希本人も認識しておらず、ゆえに起こせたとも言っていい。  水希は信明を守りたかった。それはつまり、とても頼りない弟だと内心では思っていたからに他ならない。  無論傷付ける意図などそこにはなく、自らの心に誠実であったつもりだろうが事実が想いに反することなど幾らでもある。  だからこそ、告白されたときも直言を避けてしまった。強くなったら──その曖昧な言葉で逃げたのだ。  彼の強さを信じていなかったからであり、それこそが絶望の連鎖を生んでしまった。  あのとき水希がやるべきことは、ちゃんと向き合うことだったのだ。  我も人、彼も人。信明の強さと、自分の胸にある想いを同時に信じて伝えること。それに耐えられない信明ではないのだから、水希も耐えられるようにならねばならない。 「だって、私はお姉ちゃんだし…… あなたは、私の弟だから」  よくある一般的な倫理観の問題として、過去のやり直しなどするものではないという見方がある。  それは後ろ向きな考えであり、当時の自分やその関係者に対する裏切りだからやってはならぬという論調は、なるほど正しいのかもしれない。  だけど、正論だけで救えるのか?  あからさまな間違いを、取り返しのつかない絶望を、払うことが出来るというのか?  今このとき、地獄で焼かれている愛する人を正論で救えるならそれでいい。  だけど無理だ。不可能なのだ。なぜなら信明は死んだのだから。  その魂を解き放つには、連鎖が始まったときまで因果の糸を解さねばならない。そしてそれが、一方だけの思い込みではないからこそこの現象が成立している。  正しいのか間違っているのか。世間一般的にどうなのか。そんなことは関係ないし興味もない。  これは当事者である世良姉弟の夢で願いだ。ならば外野が口を挟むことこそ無粋で、一般的に恥を知らないと言われる類だろう。  水希がそうであるように、いま信明も戦っている。悪魔に囚われた地獄の中から、一心不乱に祈っている。  神野は逆巻くこの渦の先、己に致命的な〈過去〉《みらい》が訪れることを否応なく予感していた。  山羊の心臓。処女の子宮。赤子の脳髄。  己を現界させた贄をなかったことにされてしまえば、すなわち存在を維持できなくなると分かっているから妨害するし、今も抵抗を諦めない。  廃神たる蝿声厭魅――曰くベルゼブブ。曰く悪五郎日影。曰く這い寄る混沌。曰く曰く曰く…… それらは過去への逆行など欠片も認めていないわけで、すなわち信明の魂が水希のために戦っている証明だろう。 「堕ちないぞ、僕は堕ちない――堕ちて堪るかああァァッ!」  悪魔という夢であるため、神野は天国から墜落した日の屈辱を知っている。今はそれとまったく同じ状況だ。  あらん限りの憤怒を、憎悪を、絶望を、煽り立てて浴び続けられるこの〈人界〉《げんじつ》は、まさに彼の〈楽園〉《ぱらいぞ》と言えるだろう。  そこから排斥されようとしている。  再び無意識の海に追われようとしている。  認められるものではない。許して堪るか。だから贄を贄を贄を寄越せ! 「女ごときが〈悪魔〉《ぼく》に逆らうな、苛つくんだよおおォォッ!」 「いかにもモテない奴が言いそうなことねッ!」  走る剣風。狂乱する虫の嵐。ぶつかり合う光と闇は、時間逆行の中で凄絶な鬩ぎ合いを展開しながら、しかし天秤は光のほうへと傾き始めていた。  ブラックホールにも似た地獄への穴が消滅して。  水希の身体に生息していた醜い虫の数々も霧散していく。  当たり前だ、時が巻き戻っているのだから。  未だ始まりの瞬間には届かない。  だがもう少しだ。あと少しで愛する弟を救い出せる。 「信明……!」  搾り出す叫びは宣誓であり激励。自分は負けないという誓いであり、あなたも負けないでというエールそのもの。  もはや無自覚に信明を下に見ていた水希はいない。  彼は男で、弟で、大事な家族なのだから共に立って協力するのだ。 「私は色々駄目なお姉ちゃんだったけど……」  あなたを追い詰め、苦しめて、命まで喪わせてしまったけれど。 「あなたは自慢の弟よ。信明の強さを、私は世界の誰より知っている!」 「黙れええええェェッ!」  神野の巨大な羽が閃いて、水希の胴を引き裂いた。  剣山のような剛毛に覆われた脚で殴られ、顔面の皮膚が持っていかれる。  撒き散らされる瘴気と腐汁は蝿の溶解液さながらで、浴びた部分が骨まで溶かされていくけどそれがどうした。  今、押しているのは紛れもなくこちらの方。  水希の攻撃もまた同様に神野の〈身体〉《ユメ》を抉っているし、時は逆巻き続けている。  頑張れ、頑張れ、負けるな、勝てよ――背に届く仲間たちの声だって聴こえているのだ。膝なんかついている場合じゃない。 「はああああァァッ!」  さらに、ひとたび発動したこの〈創界〉《くうかん》において、水希は時間の〈軛〉《くびき》から外れている。過去に遡っているのだから負傷は片端から無かったことにされていくし、同様の理由で疲れも知らない。  加えて言えば、神野が逆行に抗っているという部分も戦闘面では極めて有利に働いていた。  それは彼が負傷帳消しの恩恵を十全に受けられなくなることも当然あるが、特筆すべきは水希の方が早く巻き戻るという事実だろう。  神野が抵抗をしているぶん、水希は一歩先んじて過去へと近づく。その様を客観的に見た印象は、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈が〉《 、》〈未〉《 、》〈来〉《 、》〈へ〉《 、》〈跳〉《 、》〈躍〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈形〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  言わば歩美の急段を連続展開し続けているのと変わらない。神野の意識と反応を超えて叩き込まれる剣撃は、時を超越しているゆえに回避不可能。悪魔であろうと防げるようなものではない。  かといって、水希と同じ速度で巻き戻れば神野にとって破滅の瞬間が近づくだけだ。よって有効な対策は絶無。  あるとすれば信明を再び闇落ちさせて条件成立を壊すことだが、しかし文字通り時間が足りない。  先ほどからやっているのに、まったく彼が折れないのだ。  憎め。姉と世界を恨み怨じろ。  誰もがおまえを嘲り指差し嗤っているんだ。  己の弱さを恥じて狂えよ。おまえは弱い弱い弱い弱い――  と囁き続け、煽り続け、地獄の汚泥で穢しているのに信の〈明〉《ヒカリ》が曇らない。  逆にこちらの〈闇〉《カゲリ》が喰われていく。 「戦真館にも入れなかった落伍者が、無駄な色気を出すなよ信明ィィ!  おまえの努力や根性なんて、何の役にも立たないことは知ってるだろォ!」 「そう思ってるのは――」  刹那、懐に飛び込んだ水希の剣が振り抜かれる。  この一閃に万感の想いを込めて―― 「あなただけよッ!」  同時に頂点へと昇りつめる〈信光〉《かがやき》の螺旋。  神野が眩しい光芒に包まれて、その身体を腐臭と共に覆っていた無限数の〈悪意〉《ムシ》たちが溶けていく。  纏った影ごと失われていくその様は、まさに浄化と呼ぶべきものだろう。  ここに巻き戻り果たした時は姉弟の心象を具現して、周囲から場所の概念が消えていく── 「姉さん……」  そして今、水希の前に信明が現われた。  過日のまま、記憶にあるままの姿で。  文字通り夢にまで見た。魘された夜もあった。  けど、世界で一番愛している弟なのだ。  向けられているその視線も懐かしい。そうだ、自分たちはこの瞬間にこそ戻りたかった。  すべての始まり……彼にとって一世一代だったろう告白の日。  それを曖昧にしてしまってから、いったいどれほどの時が流れたのだろう。  今こそあの過ちを清算する。  そう決意と同時に、信明が口を開いた。紡がれる言葉は、もはや一つしか有り得ない。 「好きだよ、世界中の何よりも。  僕は、あなたのことを愛している」  それは真摯で、少し儚く悲しげで、彼の内面を窺い知るには充分すぎる告白だった。  ああ、本当に、とても分かりやすいじゃないか。このときちゃんと注意して向き合えていれば、彼が何を望んでいたかは容易く分かったはずだろうに。  そう悔やむ想いが今も胸にあるからこそ、水希は今度こそ間違えずに答えることが出来ていた。 「私もだよ。ありがとう、信明。  弟として、世界で一番愛してるわ」  与えた〈救い〉《こたえ》に、胸が痛まなかったと言えば嘘になる。  だけどこれが自分の本音で、信じているからこそ嘘はつけないしついてもいけない。 「うん──知ってたよ。  弟か。そうだよね、姉弟だもんね」  応じた信明は、とても朗らかに微笑んでいた。その笑みはどきりとするほど男性的で、思わず惜しいかなと考えてしまった自分が水希は可笑しかった。 「ふふ、そうよ。当たり前じゃない」 「あなたも、そろそろシスコンは卒業しなさい」  その言葉に信明は目を丸くするも、やがて優しく頷いて。 「本当に、ありがとう。  ああ。僕はきっと、姉さんのその言葉が聞きたかったんだ──」  光となって信明の身体は消えていく。そこには確かな充足が感じられた。  そのまま天に昇っていく弟を水希は見送る。知らず涙が溢れてくる。  そうだとも、分かっていたのだ。これは始まりの出来事であり、彼との永遠の別離なのだと。  だからこそ、いま水希はただ純粋に思うのだ──  ここで告げられる言葉は、たった一つだけだろう。  姉として、そして彼を振った女として── 「さようなら、信明」  返事はなかった。何かを言っていたのかもしれないが、もう聞こえない。信明は光と化して空へと消えていったのだから。  彼の存在は水希の枷であり、そして同時にもっとも大切なものだった。  たくさん泣いたし戸惑った。しかし、そのどれもがきっと無駄ではないだろう。時間は掛かったけど、ようやくここまで来れたのだ。 「──────」  涙を振り切り、決然と顔をあげて水希は新たな一歩を踏み出していく。  そうしないと、悪魔は何度でも戻ってくると分かっていたから。  そもそも神野に本当の消滅など存在しない。〈混沌〉《べんぼう》にその類の分かり易い結末は用意されてなどいないのだ。  彼はただ普遍無意識の海へと帰っただけ。だからここで、自分がうじうじしているとまたもとの木阿弥だ。  今もどこかで、この様子を窺っているかもしれないのだし―─  胸を張れ世良水希。悪魔などに、もう自分たちの絆を穢させてはいけない。  信明に恥じないように。前を向いて生きなきゃ駄目だ。それがきっと、自分に出来る最善のことなんだろう。 「そうだよね、柊くん」  呟いて、水希は笑みを浮かべるのだった。  消えゆく弟を目の当たりにして、それを惜しまない姉などいるはずもなく。 「信明──」  最後に触れてやりたくて、水希は弟の名を呼び手を伸ばした。  半ば光の粒子と化していた信明は、そこで嬉しそうに振り返り──  そして、可笑しそうに相好を崩した。 「姉さん──まだ、僕を求めてくれるのかい?」 「本当に、あなたは優しい。他人を思い遣るその心は素敵で、眩しくて── そして間抜けだ。  どうしてそんなに頭が悪いんだよォ、姉さァァん」  刹那、湧き上がったのは黒い影。  いや違う、これはよく知っている。視界を覆い尽くす虫の大群であり、その声はあいつのもの。  神野明影は、げらげらと爆笑しながら水希を闇の中で抱きしめた。 「──ああ、可笑しいねえ。どこまで君は愚かなんだい水希ィィ。  君は何をしにここまで来たんだい? 自分が満足する、ただそれだけのためだったとでも?  だとしたら、流石の自己愛とでも言うべきなのかな。まあいいさ。  これからも、今までと何も変わらない。ずっと僕と一緒にいればいいんだからさ。 そう、永遠に永遠に……永遠にねえ」  聞かされながら悟ったのは、これからも絶望は続くということ。  悪魔を打倒するなんて、しょせんは夢物語に過ぎないことだったのだ。 そして―― 俺は今、仲間たちのすべてを胸に受け止めながら歩いている。 目の前にある光景はかつてと同じ、この道を進んだ先に甘粕正彦が待ち受けていると分かっていた。 そこに恐怖はなく、迷いもない。奴が積み重ねてきた歴史の密度と、思い描く夢がどれだけ強固なものかは知っているが、俺とて負けてはいないと自信を持って思えるからだ。 この伊吹に特攻する際、皆が言っていたことを思い出し、改めて同意できる。 そうだよ甘粕、おまえの理屈は性悪説で、誰も信じられないことの裏返しにすぎないんだ。 人の愛や勇気に魅せられ激賞するのは、それが有り得ない夢だと本音じゃ思っているからだろう。 「流石は柊四四八だ、いいところを衝く。確かに甘粕はそういう部分を持っているし、否定できない歪みだろう」 「これから彼と雌雄を決する君としては、そこが攻略の糸口になるという目算かな?」 アラヤか、さてな。正直何も具体的なことは考えていない。あとは野となれ山となれだ。 「破れかぶれになってるわけじゃあ断じてないぞ。ここまできたら、策だのなんだのいう次元をとうに超えているっていうだけだ」 「小細工抜きの真っ向勝負。物語の終わりってのは、概してそういうものだろう。おまえなら知ってるはずだ」 「そうだね、〈人間〉《きみら》はそういうものがとても好きだ。ゆえに二人の盧生もそこは考えが一致している」 「ちょうど〈甘粕〉《あちら》も、君と同じように思っているよ」 客の到来を待ち受けるなか、俺は高鳴る胸の動悸を抑えられない。逸る心は今すぐ力の限り絶叫し、奴を抱きしめに行きたいと猛っていた。 柊四四八。第二の盧生。おまえはなんと素晴らしい漢だろう。まるで俺が夢に描いた勇者そのもののようではないか。 だがしかし、あえて難癖をつけるとするなら一つだけ、定番であるだけにつまらない欠点をおまえは持っている。 俺が性悪説の奴隷なら、おまえは性善説の奴隷だよ。人を安易に信じすぎだ。 それは言い換えれば、無責任とも表現できる。おまえは確かに強く優れた男だが、誰もがおまえのようではないのだぞ? 己が背中をもって道を示す。それは結構なことだろうが、おまえが歩けた道を他者が歩けるとは限らない。保証がない理想論だし幼稚だろう。上手くいかなかった場合はどうするのだ? そんなものはただ単に、とにかく頑張るんだと言っているだけにすぎまいが。普段は理知的なはずのおまえが、こういうときだけ子供のようになってしまうのが微笑ましいよ。 定番すぎるがゆえに〈魔王〉《おれ》はそれをお約束のように受け止め、愛してやれるが、大衆がどう取るかはさて、疑問が残るところではないかな? まあ、理屈は分かっていても頷けぬのが勇者の辛さというところか。 「然り。流石は甘粕正彦。おまえの言う通り、彼はそういう不自由さを有している。いわゆる理想論を信じることしか許されぬ身だ」 「勇者たる者に自由はない。光を負って立つ限り、その思想と行動には多大な枷が掛かるのだよ。主人公はこんなことをやってはいけない――というように」 なんだ、アラヤか。また随分といきなりに現れる。これは俺たちの激突がおまえにとっても興味深いということかな。 「であれば特等席で見ていろよ。必ず楽しませると確約しよう」 「ああ、とにかく小細工抜きでやりたいのだよ俺は」 「つまり殴り合い、勝ったほうが正しいという流れかね」 「事ここに到ればそれしかあるまい。人は未だ幼く青いと、おまえが言っていた通りだろう」 「だからこそ、私は君に期待している。永遠に涅槃へは辿り着けないのかもしれないが、それは永遠に涅槃へ近づき続けられるという意味でもあるから」 「これも一歩。理想に向かう旅の始まりということなんだな」 「おまえの夢は極端にすぎ、まず誰もが全面肯定はしないだろう。だが同時に、極端だからこそ完全論破が難しいという面がある」 「よって真理へ近づくための命題の一つとしては誂え向きということだな」 「そんな甘粕の主義に染まる者が多ければ君は勝てない。それが人の意志なのだと私が決定してしまう」 「つまり支持者の奪い合いだな。民主主義で公正かつ、我の性質にもそぐうものだが、さて気付いているか甘粕よ」 「それはあの男が唾棄する理屈と地続きだ。いわゆる善意で敷き詰められた地獄への道というやつだよ」 「人権。平等。愛護精神に匿名性。そこから生まれる無自覚。無理解。覚悟もないくせに声は大きく、いざとなれば恥を知らずに掌を返すだろう輩たちに、この局面で裁決を握られるという気分は如何かね」 「つまり君が勇者のルールに縛られているのと同じように、甘粕もまた魔王のルールに縛られている」 「最後に自己矛盾が襲ってくるという、おまえ流に言えばお約束だ。愉快だろう? 〈楽園〉《ぱらいぞ》を実現するには、その間逆に位置する工程を要求される。試練だな」 「面白い」 であれば、なおのこと世界の行く先は度し難い。叩き直さねばならんだろう。 「アラヤよ、おまえは俺に何を望む」 「我はおまえだ。ゆえにおまえの望みが我の望みだ」 「アラヤよ、おまえが夢見る人の涅槃とやらを俺に教えろ」 「それは君が歩を進めながら構築していく道の先だ。なぜなら私は君なのだからね」 「つまり――」 「存分に奮えよ我らが盧生。いつもその夢を見守っている」 「ゆえに協力は惜しまない」 眼前の扉を押し開けて、俺はついにその場所へと両の足を踏み入れた。 祭壇の下で待ち受けているのは甘粕正彦。歓喜に溢れているその顔からは、こいつがこの瞬間を長年焦がれていたという事実が伝わってくる。 そしてそのまま俺たちは、どちらからともなく互いに向かって歩き始めた。 距離など十数メートルにしかすぎない。よって容易く二人の間で空間は狭まっていく。 共に無言。だが気持ちは天井知らずに高まっていた。もとより今さら語り合うような余地などなし。ゆえに行動をもって決すると決めている。 こいつは絶対に自分の主義を変えないし、それは俺も同じことだ。 総計万年を優に超える密度の歴史を体験し、等しく普遍の〈無意識〉《アラヤ》に触れた者同士。未来に対して憂う心も、人を愛する心も持っているが、しかし絶対に相容れない。 ああ、確かに俺の考えは甘っちょろいさ。無責任とさえ言われる類なんだろう。 だがな甘粕。今を生きている俺たちも、さらに百年前の人から見れば堕落していると言われるんじゃないか? そして百年後の人間たちも、二百年後の奴らを見ればきっと同じようなことを言うだろう。 つまりおまえが抱いている憤りや危機感は、下手すりゃ単なるジェネレーションギャップ。ずれた年寄りの我が侭にすぎない側面があるんだよ。 おまえの根幹になっている性悪説は、典型的な老害よろしく若い世代の瑞々しさを認めていない。 彼らの価値観、発想、文化、すべて――確かに俺たちから見れば呆れ返るようなものもあったが、等しく素晴らしいものもあったはずだ。 おまえの〈楽園〉《ぱらいぞ》は進化を止める。誕生も成長も見込めなくなる。魔王の自己矛盾というやつだ、理解しろ。 ゆえに俺は認めない。守りたい美風があるなら、その生き様を歴史に刻んでやればいい。 俺の考えは家族間レベルのもので、視野も視点も甘いとおまえは言ったが、何事も始まりはそこからだろう。まずはしっかりバトンを渡すことに注力すべきだ。 子供がそれを落としたからと、己を恥じずに子を殴り飛ばす親がどこにいる! 「―――――」 そうして俺たちは向き合い、そのまますれ違って―― 次の瞬間、火蓋は切って落とされていた。 「不思議だな。おまえの考えていることが分かる。まったく、老害扱いとは耳が痛いよ」 「これでも未だ、青いと言われている身なんだがね」 振り向き様に抜き放った俺と甘粕の旋棍と軍刀が、宙でぶつかり合い火花を散らした。 「きっとアラヤを共有している影響だろう。俺にもおまえの考えが伝わってくる。相変わらずだな」 「それはそれは、お褒めに預かり〈恐懼感激〉《きょうくかんげき》の極みなり」 「だが一つ言わせてもらおう。俺は子を見込んでいるからこそ殴るのだ。そして殴るのが好きなわけでは決してない」 「血も戦争も好かんと答えたはずだがな。それをもって自罰している。ゆえ文句はあるまい」 「大有りだッ!」 しかし議論に意味がないのはご覧の通りだ。先のやり取りは互いの挨拶代わりでしかない。 この鍔競り合いとてその範疇。ここより、これから、夢の撃ち合いが開始されるのは分かっていた。 来るぞ――目を逸らすな気合いを入れろ! 「たとえば、このような未来は何としてでも防がねばならん」 「そこは同意を得られると思うのだがなあ、皆殺しの〈救世主〉《イェホーシュア》よ」 「――――――ッ」 そのとき、甘粕の背後に出現した物を見て、俺は全身が総毛だった。 こいつ、よりによっていきなりなんて物を〈創形〉《だ》しやがる! 「リトルボォォォイ」 それは第二回目の世界大戦において生まれ、使用された悪魔の兵器。我が国に消えない傷を刻み込んだ広島の炎だった。 「うッ、おおおおおおおおぉぉぉォォォ!」 よって即座に対抗手段を組み上げる。本来この〈大正〉《じだい》に存在しない核兵器という夢を甘粕が生んだのと同様に、俺もそれを封じるための知識を歴史の中から得ているんだ。 極低温下における超伝導体及びそこから生まれる電磁石。臨界プラズマ条件。リチウム、トリチウム、デューテリウム――核融合反応による超々高熱を瞬間的に閉じ込める原子炉の創形までコンマ一秒かからなかったが、しかしそれでも僅かに遅れた。 九割がた威力を減じることに成功はしたものの、残る一割だけで破滅的な事態となるのは〈原爆〉《アレ》を知る者にとって常識すぎる話だろう。礼拝堂は跡形もなく消し飛ばされ、俺もまた戦艦の外へと放り出される。 「ちィッ――」 甘粕、いよいよイカレた男だ。あの至近距離で核爆弾など炸裂させたら奴とて無事ではすまないだろうに、それを世間話のようなノリで実行した理屈がアラヤを通して伝わってくる。 「そう、君なら当然のように防げるだろうと思っていたのさ。甘粕正彦は柊四四八の力量を世界の何より信頼している」 二人の盧生――まるで兄弟を愛するように。その共有感覚がどんどん強くなっているのだ。 「なら君も見せてやろう。臆する必要はない。〈負〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈よ〉《 、》」 「――当たり前だッ!」 先の攻防で一つ分かった。甘粕は形の創法に長けている。 そこから推察される奴の基本戦術は、すなわち未来兵器の釣瓶撃ちだ。己が辿った歴史の数々、その愚かしさ、見せて俺と語りたいのだ。おまえはいったいどう思う、と。 戦争嫌いを公言しながら、兵器に依るとは笑わせる。 周囲を乱れ飛ぶ陽子や電子、中性子の奔流は幾何学的な星屑のごとく、可視化すら出来る放射線の渦だった。それを一気に潜り抜けて俺は甘粕へ肉迫する。 そして結印。おまえが未来で悪魔的な兵器ばかり見てきたと言うのなら、俺が見てきたのはこういうものだ。 「来い鳴滝ッ――力を貸せェ!」 振り抜いた旋棍に三千倍は超える重力を乗せて叩き込む。発生した超重力の加算を受けて防御がまったく意味を失い、今度は甘粕が吹き飛んだ。 すべては悌の心にある。俺が俺の眷属たちとの間で成立させる夢の〈共有〉《シェア》。この身に兄弟がいるとするなら、それはあいつらであっておまえじゃない。 俺が見てきて、感じ、育んだ未来はそういうもので、すなわち武器もまた然りだ。仲間の頼もしさに比べたら、陳腐な破壊兵器の連発などまったく脅威にならないんだよ。 「そうか、ならばこれはどうだ?」 ゆえに、次いで甘粕が創形した悪夢にも俺は即座に対応できていた。 「ツァーリ・ボンバァァ」 リトルボーイに続く核爆弾の二連発。それをもって芸がないとは流石に言えないものがあった。 なぜならあれこそ〈爆弾皇帝〉《ツァーリボンバ》。俺が知る限りの未来において史上最大の水爆に他ならず、また甘粕にとってもそうだろう。 その総威力はリトルボーイの数千倍を上回る。あれを封じ込める規模と精度の原子炉など、刹那で創形することは不可能に近い。 「飛ばせ、歩美ィィッ!」 だからこそ、封じるのではなく飛ばすのだ。いま放たれた爆弾の皇帝も、言ってしまえば弾丸の一種。そうした型に嵌っている。 ならば可能なはずだろう。 瞬時にして大気圏外まで空間跳躍させるテレポートは、言うまでもなく歩美の破段そのものだった。超高空で生じた核爆発の大音響が轟き渡り、空一面を黙示録さながらの光で染め上げる。 だが五十メガトン級の爆発は、如何に宇宙まで飛ばしたといっても完全に無効化できるものじゃない。瞬間的に目が眩んで耳が痺れ、衝撃波の嵐に翻弄されつつ己の前後左右を見失った。 「がァッ――」 よって常識と言うべきだろう。その隙に踏み込んできた甘粕の軍刀を俺はまともに受けてしまった。〈我〉《 、》〈堂〉《 、》と同質のパラメーターとなっている今のこちらは楯法性能が著しく低下しており、紛れもない深手を負ってしまう。 そう、常識だというのは分かってたんだよ。だから転んでもただでは起きない。 「ぐッ、ぬゥ―――!?」 俺に一撃入れると同時に、甘粕もまた無防備でカウンターを食らっていた。こいつにとっては、いきなり透明人間に殴られたような感覚だろう。 〈爆弾皇帝〉《ツァーリボンバ》をテレポートさせた瞬間に、俺は我堂の夢へと切り替えていたのだ。こちらが前後不覚となった隙を甘粕は逃さないと分かっていたから、そこに罠として線を引いている。 我堂の破段は、攻撃が不可視のまま宙に残るという代物だ。そしてもちろん、俺が引いておいた線は先の一発分だけじゃない。 今や甘粕は、打撃の檻に囲まれた状態となっていた。最初の一撃で飛ばされた先には次の攻撃が張られており、そしてその先には第三、第四と張られた罠が連続する。 「くっ、ふは、はははは―――」 しかし、それでも流石と言うべきなのか。まともに食らったのは最初の一発だけであり、以降は防御し、そして弾き、都合十一発にも及ぶ罠の連携はほとんどたいした効果をあげられていない。 見えない攻撃の数々を即座に見抜いたのは勘か、それとも配置の法則性を読んだのか、あるいは透の解法による超視力か。 何にせよ、半端な技量じゃないことだけは確かだろう。 「それを言うなら、あの瞬間にこれだけの網を張ったおまえこそ流石だよ」 「いいぞ、勇者はそうでなくてはならない。おまえとおまえの仲間たちは素晴らしい」 「俺の〈楽園〉《ぱらいぞ》を彩る初の住人として、実に申し分無い輝きだ」 「最近の魔王は褒め殺しが趣味なのか――気持ち悪いんだよッ」 だが、こいつが心底そう思っているのは分かっていた。やはりアラヤの共有がそれを可能たらしめている。ある意味、自画自賛と言えるのかもしれない。 我も人、彼も人。俺はおまえでおまえは俺――これは実際、諸刃の剣になるだろう。全にして一の海に繋がっている者同士、互いの思考が一切のタイムラグもなくまる分かりとなっているんだ。 結果として、裏や隙を衝くのが非常に困難。アラヤとのリンクを切れば夢そのものが使えなくなるので選択として論外だが、真っ当に戦り合うだけでは千日手となってしまう。 アラヤは無意識なのだから、たとえ思考を飛ばした反射の域で戦おうとも同じことだ。必ず〈無意識〉《それ》を拾われる。 戦闘が激烈化すればするほどに夢への繋がりは強化され、互いに読みやすくなり続けるという袋小路になりかねないんだ。 「よって、その閉塞を破るとすればこうだろうな。相手の精神状態を狂わせて、アラヤの声が聞こえているようが雑音にしか思えぬようにしてしまう」 「もしくは……」 すでに全壊同然、沈没し始めている伊吹の主砲に立つ甘粕の姿は、かつてこいつに敗北した一周目の記憶を想起させた。 ゆえにもう分かっている。アラヤなど関係なく、何がくるかは明白すぎることだろう。 「読まれていようが関係ない。そんな一撃を叩き込むこと」 〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈俺〉《 、》〈を〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈業〉《 、》〈だ〉《 、》。甘粕との再戦にあたり、最初に越えなければならない壁がそこにある。 「テレポートなどさせはせんよ。先とは速度の桁が違う」 「ああ、俺もこれだけは気に入っているのだ。裁きのようで、悪くない」 「名も、実にそれらしくあるだろう?」 鳴動する大気が雲に穴を空け、まるで突きつけられた銃口のような光景を天空に描き始めた。俺の目には、そこに何万通りもの物理方程式が組み上げられていくのが見えている。 惑星の自転・公転。月と太陽の周回軌道にGPSナビゲーションと重力加速エネルギー。 すなわちKinetic energy penetrator――その究極系に他ならない。 俺たちが見てきた未来においても、それは理論上でしか存在していなかったもの。 人間が生み出す兵器としては、紛れもなく既知最強の鉄槌だった。 「ロッズ・フロム・ゴォォォッド!」 衛星軌道上から音速の十倍で地上に放たれた神の杖は、純粋な運動エネルギーの塊であるだけに理屈で対処できる代物じゃない。また先ほど甘粕が言った通り、テレポートさせることも不可能だった。 なぜなら歩美の破段を使うには、歩美と同質のパラメーターにならなければいけないんだ。そしてあいつの資質では、この超音速で迫る弾丸をたとえ感覚野の話だろうと掴み取れない。戟法性能が低すぎる。 もとより自分で放った弾ではないのだから、その手の無理を実現させる余地がなくなるのは自明の理だろう。 だから――これを防ぐとなれば一つしかない。 「行くぞ栄光ゥゥッ!」 俺は天に両手を掲げ、落ちてくる神の杖を真っ向から迎え撃った。戟法性能の低さは栄光も一緒だが、狙いが俺なのだから見えなくても待っていれば必ず当たる。 そして、命中を許した状態から起死回生を成せる奴は栄光以外に存在しない。あとはそれを実現するため、選択を誤らなければいいだけだ。 「ぐッ、あ、ああああああァァッ!」 すなわち、何を対価に捧げるか。選べば文字通り消滅するため、あとで治せばいいなんて楽観は期待できないし、その手の甘えを持っていれば失敗する。 眼前の脅威に見合った自らの重要物。その見極めと勇気こそが〈栄光〉《あいつ》の〈破段〉《ユメ》を描くのだから―― 「腎臓一つだ、持っていけェッ!」 ここに選択し、差し出した供物によって等価交換が成立した。俺の腎臓一つを永久に失うことと引き換えに、神の杖は消滅する。 「ぐッ、ぅ……がはっ……」 全身を襲う倦怠感と喪失感は言うまでもなく凄まじかったが、しかし取引としては間違いなく破格の部類だ。なぜなら〈一周目〉《いぜん》の俺は、五感すべてを捧げてもあれを防ぐことができなかった。 なのに今、たかが腎臓一つで神の杖を消し去れたのは、それだけ俺が強くなったという証だろう。感じる脅威度が前より軽いものになっていたから、捧げる対価も相対的に安く上がる。 そして甘粕――いま俺が何を考えているか分かっているよな? 「おまえは言ったな。読まれていようと関係ない技を使えばいい」 いや、この場合、正しくは〈抗〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈衝〉《 、》〈動〉《 、》か? 俺は畳み掛けるように、新たな印を結んでいた。 「〈犬飼現八〉《いぬかいげんぱち》、〈信道〉《のぶみち》ッ!」 同時に発動する世良の急段――その成立条件は常識的に有り得ない難易度だが、甘粕正彦という常識はずれな思考形態を持つ男にはその限りじゃない。 〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈栄〉《 、》〈光〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈特〉《 、》〈に〉《 、》〈好〉《 、》〈き〉《 、》〈だ〉《 、》。それは七層で交わした会話からも察せられる通り、魔王は弱者の健気な勇気にひたすら弱い。 だから恍惚しながら忘我の域で思ったはずだ。〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈素〉《 、》〈晴〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈瞬〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》―― よって、時は神の杖が発射される前へと巻き戻る。必然、捧げた腎臓も復活し、射爆寸前のトランス状態に戻った甘粕は完全無防備。逃す手はない。 この仕切り直しを望んだのは両者ともだが、まったく同じことを繰り返してやるなんて俺は一言もいってないだろ。そこまでおまえの趣味に付き合ってやる義理は欠片もない。 ゆえに機と見て踏み込み、放った俺の一撃は見事甘粕の懐で炸裂する。 神の杖を放つ形の術式ごとこいつのアバラを粉砕してやった手応えが旋棍越しに伝わった。読みつ読まれつの攻防を制した実感に、総身を武者震いが駆け抜ける。 仮に最初からこうやって、撃たれる前に崩すという戦法を採っていたら、おそらくやられていたのはこちらのほうだったに違いない。なぜならそれは当たり前の戦術であり、読まれていて、如何様にも対策されたに違いないから。 まずあえて受け、栄光を魅せ、それにどうしても釣られてしまう甘粕という構図を成すことこそが肝になるんだ。読まれていようが何だろうが、抗えない人間性という隙を衝くこと。 古今魔王は、その大抵が自滅好きだという〈物語〉《セオリー》通り。だからこそ必ず嵌る。 「そして、今こそ確信したよ。俺の破段は、やはりこのためにあったんだ」 総合値という部分だけを守っていれば、自らの資質を好きなように変動させられるという俺固有の夢。ある意味オリジナリティの否定になるが、それでいい。間違っていない。 俺たちが目指した未来は皆で紡いでいく朝なんだから。 「〈眷属〉《なかま》の力を借りるため、〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》へ到るための〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》だ!」 どだい俺はバランスがいいだけの器用貧乏。ならば悌の心を核にして、スペシャリストたちの助力を得るのが王道なんだよ。 「もう以前とは違う。さあどうする甘粕正彦!」 「ふはっ―――」 「はは、はははははは……」 俺が放った喝破を前に、甘粕は肩を震わせ笑っていた。受けた負傷もろくに癒さず、そんなものは二の次以下だと溢れる感激の念を隠さない。 「いやまったく、その通り。俺には紡げない〈夢〉《みらい》だよ。曰く誰も信じていない男だからな」 「ともあれ、これで過去と未来のすり合わせは終わったわけだ。おまえは以前より進化して、俺とは違う先を見ている。それが証明されれば、これ以上試し合う必要はない」 つまり、小手調べはこれで終わり。ここから先は、まさに未知の領域が待っている。俺もそれは自覚していた。 ならばこそ―― 「〈犬川荘助〉《いぬかわそうすけ》――〈義任〉《よしとう》ォ!」 まずはその先触れとして、晶の急段を発動させた。拡散する義の波動はこの相模湾のみらず関東全域に効果を及ぼし、ここまでの戦闘及び魔震で受けた物的被害と荒廃した人心に癒しを与える。 そうだ、過去と未来を論じて試す段階が終わったのなら、これより意味を持つのはまさしく〈現在〉《いま》に他ならない。 だからこそ、この現実を生きている〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈全〉《 、》〈員〉《 、》〈が〉《 、》〈当〉《 、》〈事〉《 、》〈者〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》。 これは他人事じゃあないんだよ。ゆえに力を貸してくれ。先にアラヤが言っていたのはそういうことだ。 『甘粕の主義に染まる者が多ければ君は勝てない。それが人の意志なのだと私が決定してしまう』 「これより先は、まさしく比喩ではない神話の具現だ」 「俺もおまえも、“ソレ”をアラヤから引きずり出してぶつけ合う」 「そして、それを見ている人たちは何を思うかが勝敗を分ける」 天秤の左右が決するのはまさにそこ。破滅的な〈神話〉《ユメ》の激突を目撃し、人々の〈無意識〉《アラヤ》がどう動くかに懸っている。 加えて一つ特筆すべきは、その天秤が希望と絶望なんていう分かりやすいプラスマイナスではないということ。 俺と甘粕、共に〈夢〉《ちから》の根源にしている〈概念〉《もの》は希望であり、勇気であり、気概であり、仁である。 〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈ど〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈心〉《 、》〈の〉《 、》〈動〉《 、》〈き〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈喚〉《 、》〈起〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈問〉《 、》〈題〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 人知を超えた夢と夢、終末さながらの光景を前に彼らを如何にして鼓舞できるか。絶望を払拭させる覚悟の根源は何になるのか。 「憧憬、〈標〉《しるべ》、つまり進むべき正道への希求ならば俺に傾き」 「恐怖、忌避感、総じて追い立てられた結果ならば俺に傾く」 有り体に言えば、格好いい様を見せて促すか、尻を蹴り上げてやらせるかの二つに一つだ。 そのまま俺と甘粕の未来に対する方法論であり、ゆえにお互い、結果に対して言い訳が出来ない。 フェアと言えば、これほどフェアな勝負もないだろう。 「では始めようか」 無言で頷き、対峙する今の密度を深めていく。 同時に膨れ上がっていく夢の波動―― 「急段・顕象――!」 この現在、〈す〉《 、》〈で〉《 、》〈に〉《 、》〈ど〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈支〉《 、》〈持〉《 、》〈者〉《 、》〈も〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ぼ〉《 、》〈等〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。よって条件成立はもう成されている。 あとはこれの奪い合いかつ、まだ悪や絶望に囚われているその他大勢の取り込み合いだ。 自分が人間賛歌の指標として相応しい傑物だとは思わない。だからそれぞれの基準でいい。 ただ、殴られたくないから頑張るなんて情けないことだけは言わないでくれ。 「〈犬江親兵衛〉《いぬえしんべえ》――〈仁〉《まさァァし》ッ!」 「〈斯く在れかし〉《あんめいぞォォ》――〈聖四文字〉《いまデェェウス》!」 天の裁きが、地獄の責め苦が怖いから善良でいようなんて心は強さじゃない。 それは人を思いやり、正義を胸に、規範を重んじながらも視野を狭めず、属する世界のため献身を捧げ、他者にも己にも嘘をつかない。目上を敬い仲間を大事にし続けることから生まれるもの。 仁義八行―― 共にその光を目指して駆け上がろう。これから生じるすべての〈夢〉《みらい》は、〈現在〉《いま》ここにいる全員で描いていくんだ。  共に顕象させた〈主義〉《ユメ》の象徴がその属性を発揮して、己が〈無意識〉《アラヤ》に支持者を取り込むための拡大を開始する。  最初の刹那で展開された効果範囲は、両者共に関東一円。これから徐々に勢力圏を広げていくが、それでも事象の核となるのはこの都市区域になるだろう。なぜなら、魔震というお膳立てによってもっとも混乱を極めているのが〈関東〉《そこ》だからに他ならない。  空亡は確かに戦真館の英雄的奮闘によって鎮められたが、その爪痕を完全に消し去れるほど龍の神威は甘くないのだ。裏返った勾陳としての魔性を帯びた破壊を防げたというだけで、“ただの地震”としての被害は拭えていないし、余震も未だに続いている。  空亡からすれば眠る前の安らかな吐息にすぎないものだろうが、それでも常人にとっては充分すぎる脅威と言えよう。ゆえに人心の乱れはそう容易く治まらない。  だからこそ、甘粕正彦は彼らに向けて語るのだ。  屈するな、立ち上がれ。絶望に呑まれたまま〈頭〉《こうべ》を垂れるな。勇気と覚悟を振り絞るがいい。  そもそもこの混乱を生じさせた張本人が口にすることではないだろう。しかし、それこそが甘粕という男の本質なのだ。  彼は人の勇気を愛している。何よりそれに魅せられている。だから見たくて見たくて堪らない。  安穏としたどうということもない平和の中では、〈勇気〉《それ》が真価を発揮することなど有り得ないと思っているのだ。いや、歪み変質して堕落するとさえ断じている。  たとえば、妻を娶り子を設けた夫なら誰であれ言うだろう。  おまえたちを命懸けで守る。そのことこそが我が人生。  なるほど素晴らしい。良い覚悟で良い勇気だ。しかし、それを実現する日は本当に来るのか?  守ると雄々しい口を利くが、何からどうやって守るのだ? 戦もなく天災もなく、病も片端から駆逐され、貧富の格差もさほどではない文明的な先進国で、ごく一般的に生きる限り劇的なことなどまず起こり得ない。  例外的に不幸な偶然の直撃を受ける者もいるだろうが、全体として統計的に見れば誤差の範囲だ。  何も起こらんし何もせん。そしてそのままでも生きていける。  人生の荒波?  笑止、細波にもなっておらんわ。 少なくとも中世やそれ以前に比べれば、現在の我々が生きるこの〈大正〉《じだい》でさえ夢のような楽園だろう。さらに百年後の世に到っては、揺り籠から棺桶まで日向で眠りこけていると表現しても過言ではあるまい。  そう、床擦れで身体が膿み腐っていくような楽園なのだ。やがては手足の動かし方すら忘れてしまうし、手足を動かしただけで偉業を成したと誇るような抜作どもが生まれていくのを邯鄲で体験した。  何も起こらんし何もせん。そしてそのままでも生きていけると、おまえたちは本音のところで知っているのだから。  そこにどんな覚悟があろうか? なんの勇気を示せるというのか?  妻子のために勤労し、糧を運び続けるのが守るという行為であり勇気だとでも? 阿呆が。そんなものは猛獣と真実命懸けの狩猟競争を行ってきた石器時代の男たちにしか言えはせん。  なぜなら、その守られている立場とやらの妻子たちでさえ〈夫〉《おまえ》に感謝などしておるまい。それを当然のこととすら思っている。  そして保障された権利というものに胡坐をかき、図々しくも囀るのだ。他者を攻撃すれば殴られるという当たり前の因果すらも解さぬままに。  どちらも醜悪であり愚かしい。そして甚だしく嘆かわしい。  見てはおれんのだ。愛する〈人間〉《おまえたち》の輝きが、日の目を見ずに内で腐っていく様など断じて我は許さない。  よって勇気を呼び起こそう。愛する誰かを真実守れる機会を与えよう。  普遍的、かつ平等に。  たとえ力及ばず倒れようとも、立ち向かったという誇りは残る。父祖や子孫に胸を張れる。  手足を動かしただけで偉業を成したと言うような、寂しい満足感に耽るしかない牢獄など与えはしない。  そこからおまえたちを解放する光こそが我なのだ。 「――このようになァッ!」  瞬間、薙ぎ払った軍刀の一閃が海を断ち割りながら進撃し、数十キロ先にある横浜の市街地を壊滅させた。  同時に膨れ上がる人々の恐怖と絶望。そしてそれに立ち向かおうという覚悟と勇気で、甘粕の夢もまた膨れ上がる。  それこそが彼の急段。脅威的な災禍に直面することで奮い起こされる人の強さが顕在化すればするほどに、甘粕は天井知らずに強大化していく。  〈聖四文字〉《いまデウス》――いわゆる基督教の唯一神であり、ここでは隠れ切支丹の教義が基礎になっているものの、その本質はあまりにも有名だろう。  裁きの神。試しの神。愛する子羊たちに試練を課し、その正道を問うためならば大殺戮すら歯牙にもかけない虐殺の絶対正義だ。  己へ祈らせるためだけに、ソレはあらゆる天変地異を巻き起こす。  まさに甘粕正彦を象徴する〈物語〉《キャラクター》と言ってよいだろう。  両者の繋がりは凄まじすぎるほどにシンクロしている。  甘粕は決して切支丹などではない。むしろ神など、人の発明品としか見ていない。  そしてだからこそ、道具を使うのは当然だと思っている。彼にとって使いやすく、気性に沿った兵器が〈四文字〉《デウス》であり〈蝿声〉《じゅすへる》であり〈黄龍〉《くうぼう》というだけなのだ。  破滅の試練を成す大暴威と、堕落の試練を成す大悪意。  この両輪は彼が存在する限りなくならない。一度斃され、また鎮められた神野や空亡を再び〈無意識〉《アラヤ》から喚ぶのは確かに相応以上の手間が掛かる。彼らはこの現代における人々の〈無意識〉《ゆうき》に負けたのだから、間を置かずに顕在化させるのは難しかろう。  だが、〈似〉《 、》〈た〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈モ〉《 、》〈ノ〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈他〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》〈ら〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  デウスも然り。裁きの神など、人類史には百柱以上存在している。  アラヤに渦巻く廃神、戦神、魔神、悪夢、皆々すべて――無限に引きずり出せるのが盧生の特権。  それこそが、戟・楯・咒・解・創の枠を超えた第六法に他ならない。  邯鄲の最終位階たる〈終〉《つい》の段。  〈急段〉《けつまつ》を越える〈終段〉《しゅうまつ》の物語。  今よりそれを成していく。よって、この現状もそこへ到るための途上にすぎない。  前座とまでは言わないが、楽園への階段を組み上げるための作業である。  ゆえにもっと、さらなる勇気と信仰を示して捧げろ。 「俺におまえたちを愛させてくれェッ!」  再び、今度は鎌倉方面に向けて放たれた軍刀の一閃が海を割った。しかし、山脈すら消し飛ばそうかというその脅威を前に、立ち塞がった者がいる。 「俺もスパルタなのは認めるが――」  柊四四八。彼は迫るデウスの審判に真っ向から吼え返した。 「自立を促さない奴が偉そうに抜かすなァッ!」  そして自らの〈理想〉《ユメ》を揮った。ここに激突した力と力は鬩ぎ合い、拮抗するが、しかし僅かに四四八が押され始めた。甘粕の夢に跪く者のほうが現状多いという証明だろう。 「ぐッ、があああァッ……!」  それでも四四八は屈さない。ここで恐怖を抱いてしまえば一気に呑み込まれると分かっていたし、そもそも彼はその手の思考を持つ男ではないのだ。  単純な意味での恐怖なら、とうに仲間たちと越えている。そして、己の夢が未来に届かないのではないかという恐れ、すなわち今の自分を見守っている人々に対する不信感は、魂懸けて持ち合わせない。  なぜなら彼は仁義八行――わけても仁の漢だからだ。  人を思いやり、慈しんで、ゆえに最後は誰でも自分で立てると信じている。  曰く同じスパルタでも、鞭しか振るわぬ甘粕とは違う。 「一番絶望しているのはおまえで、一番勇気がないのもおまえだ……!  分かり易く目に見えなければ、無いも同じで価値も無いだと? 笑わせるなよ、顔を洗って出直して来いッ!」  そして、ついに相殺した。同時に四四八の夢も天井知らずで膨れ上がる。彼の急段も、要は甘粕と同じ性質を持っているからに他ならない。  その気概にその背中、柊四四八の仁を目にして人々の勇気が奮い立つ。 「思えば、夢で見た未来の中でもおまえみたいな奴らは存在したよ。  何も出来ない自分の日常がつまらないから、都合よく壊れてくれないかと抜かすような腰抜けたちがな」 「ああ、いたな。だが彼らが負け犬と見られるのは、実際に何も起こらんからだ。そして壊す努力すらせんからだ。  俺は努力したし、今もしている。無論、当然これからも……」  ここに極限まで二人の急段は高まり始めた。すでに双方、あらゆる夢が開戦当初の数千倍にまで達している。  神話への階段。それが今、完成を見ようとしているのだ。 「しかし、先の口ぶりからするとつまりあれだな? おまえは俺に、勇気のなんたるかを教えてくれるというわけか?  倒し、力ずくで叩き伏せ、尻を蹴り上げつつ分からせるのではなく、その生き様と背中で〈標〉《しるべ》なるものを魅せてくれると?」 「期待していろ。これでも教えるのはいつものことだし、得意技だ」 「ふふ、ふふふふふふ……」  清々としたその発言に、甘粕は感に堪えぬと破顔した。すでに充分以上彼は四四八を認めているのに、まだ思いもよらぬ先があると言われたのだ。これが期待せずにおられようか。 「いいだろう。ならばそのとき、俺は敗北を認めてやる。  己が弱者だと知って散るのも一興だろうさ。おまえの父親のようにな」 「――――――」  その言葉は、甘粕流のちょっとした軽口であり、また亡き友人に対する弔意でもあった。  ああ、柊聖十郎。やはりおまえの息子は面白い。おまえは紛れもなく俺の親友だったのだと、過去の蜜月を回想しながら言い切った。 「そんな未来が、もし訪れるのなら見てみたい」 「見せてやるよ!」  神話への階段が組み上がったのを自覚する。  両者とも、まったく同時に、最終局面へ到る一線を飛び越えた。 「〈終段〉《ついだん》・顕象――!」  今こそ盧生の真骨頂――夢の第六法が発動する。 「世良、おい世良――しっかりしろ馬鹿、目ェ覚ませ!  真奈瀬、大杉と伊藤の様子はどうなった?」  酩酊の海にぼんやり浮かんでいるような心地の中、頬にばしばしと容赦なく張られる痛みによって私は意識を取り戻した。  ああ、ちょっと、なんですか教官殿。びんたマジ痛い。手加減して。 「こっちはまあ、大丈夫っす。とりあえず身体的な意味じゃあ問題ないみたいだし……て、ああ起きましたっ」 「あ、つぅぅ……なんかやべえ、頭ぐわんぐわんする」 「私も……どうしたんでしょうか……いまいち記憶がはっきりしなくて」  そうか、二人もここにいるんだ。無事だろうとは思っていたけど、やはりこうして確認できればほっとする。  だけど、彼らが失ったものを考えると胸が痛い。それを止める方法は無かったのかという考えが、また後悔という私の悪い癖を呼び起こしそうだ。 「んん、まあ、おまえらに言いたいことは色々あっけど、とりあえず一つだけにしとくわ。この馬鹿野郎ども」 「ちょ、いて、なんだよ晶――いきなり殴ってくんじゃねえよ」 「ほんとです。意味が分かりません」 「そこについては、あんたら黙って呑み込みなさい。ワケ分かんないでしょうけど、しょうがないのよ。私もあとで一発入れるからね」 「なんだそりゃ……」 「理不尽です……」 「そんなことより、世良はまだ起きねえのか?」 「みっちゃーん、ねえみっちゃ~~ん。朝ですよー、起きようよー」  いや、目は覚めちゃいるんだけどね。ただ色々、身体の感覚とか追いつかなくて……もうちょっと、もうちょっとな感じなんだけども。 「まあ、いいです。私は長瀬くんたちの避難活動を手伝いに行きますから」 「え、ちょ――のっちゃん大丈夫なの?」 「ええ。それになんだかここにいたら、また謂れもなく殴られそうな気がするので。 〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈方〉《 、》〈が〉《 、》〈誰〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈は〉《 、》〈知〉《 、》〈り〉《 、》〈ま〉《 、》〈せ〉《 、》〈ん〉《 、》〈が〉《 、》、鉄拳ならそっちにお願いしますね。 では……」 「あ、おい――」 「行っちまったな……」 「……たく、なんだよあの子。なんでオレがあの子の代わりに殴られなきゃいけねえの?」 「それは……ああもう! とにかく全部あんたが馬鹿だから悪いのよ!」 「痛ぇ――だから痛ぇって! 勘弁してくれよワケ分かんねえっつーの!」 「ていうかとにかく世良だよ! コラおい、起きろ! 私の命令が聞けねえのかおまえは!」  びんたびんたびんた。びんたびんたびんた。 「うわ、すご。なんかおたふく風邪みたいになってきたよ」 「ぷすっと刺したら、弾けて飛んでいきそうな感じよね」 「うおおおおお、世良ああああ! 私の声に耳を澄ますんだ、三途の川を渡るんじゃねえええ!」  びんたびんたびんた。びんたびんたびんたびんたびんたびんたびんた。 「あのぉ、教官殿? 介抱ならあたしが代わりましょうか?」 「……やめとけ真奈瀬。いま割って入ったらとばっちり受けるぞ」 「なあ、だからなんでオレが殴られなきゃいけねえんだよ」 「死ぬな、死ぬんじゃない! そんな命令は下してないぞ、貴様教官の言うことが聞けんというのかああああっ!」  びんたびんたびんた。びんたびんたびんたびんたびんたびんたびんたびんたびんたびんたびんたびんたびんたびんた。 「立て、立つんだ世良ああああっ!」  びんたびんた――てああもう! いい加減真剣に痛いんですよっ! 殺す気ですかっ! 「うがああああああっ!」  叫んで、私は半ば以上無理矢理に飛び起きた。  うわ、ちょっとなにこれ。ほっぺたすごい熱いんだけど。鼻血出たりしてない? 「お、おう。よっしゃ目が覚めたな。私が誰か分かるか、おい」 「それは、えっと……ああああやめてやめて、しゃっきりしてるからもう殴らないでいいですっ!」  再び平手を振りかぶった教官から大慌てで後退りしつつ、とにかく大丈夫だから放っておいてくれとアピールした。そんな私の様子を見て、他のみんなもほっとしたように苦笑している。 「元気があるようで安心したよ。そんで水希、やったなおまえ」 「うん。みっちゃんカッコよかったよ」 「それは……ええ、ありがとう」  私は私にとって最大の敵と後悔を無事に越えた。そのこと自体、みんなの力があってこそのものだと分かっているので、そんな風に言われると面映い気持ちになる。 「みんなもカッコよかったよ」 「そう? ま、ありがとう」 「今んところ約束どおり、全員無事なことだけは確かだしな」 「ああ、そりゃそうではあるんだけどよ……」  そこで言葉を濁し、表情を曇らせる大杉くん。彼が何を言いたいのかは、当然みんな分かっていた。 「四四八はまだ……」  この全員で生き残り、朝に帰るぞと誓いを立てたリーダーだけがまだいない。柊くんは、依然として戦っているんだ。 「水希、あんた状況は分かってる?」 「もちろん。ここからでも感じるよ。きっと、今が一番大変なとき」 「ああ、間違いねえな。どっちも本気になりやがった。柊の野郎も、甘粕も」 「わたしたちにできることは、もう見てるだけなんだね……」  盧生同士。邯鄲の夢を制覇した者同士による最終決戦。それは確かに、私たちの理解を遥かに超えたものとなるだろう。  でも―― 「違うよ歩美。だって柊くんは、今も私たちに呼びかけてる。  挫けるな。一緒に勝つぞ。俺たちは必ず朝に帰るんだって」  そして、それを信じることが柊くんの力になる。だから何もできないわけじゃない。 「だな。ここまで来たら四の五の言ってもしょうがねえよ。それにあたしは、全然心配なんかしてねえし。  四四八が負けるはずなんかない。絶対勝つんだ」 「そうね。私も信じてる」 「うん。ごめんねみっちゃん。そうだった」  そうして全員、自然と海の向こうに目を向けていた。そこに見えるのは、まるで世界の終わりでもあるかのような現実離れした光景だ。  空と海の狭間に渦巻いて、極彩色に煌く大穴。きっともうすぐ、あそこから人の夢が生んだすべてのモノが飛び出してくるんだろう。  身体を走り抜ける悪寒はそれに対する根源的な恐怖で、人間なら誰でも知っている神や悪魔がこの現実に姿を現す。  神野のような。空亡のような。そしてそれを遥か超えるような存在たちが、続々と。際限なく。  正直、怖い。怖くないなんてとても言えない。  だけど、怖いから頑張ろうなんて思っては駄目なんだ。私たちは、絶対その気持ちに呑み込まれてはならない。  だから笑おう。明るく、それこそ朝のように。 「勝ってね」  信じてる。  柊くんの仁と勇気は誰にも負けないって、みんなが知ってるし分かってるんだよ。 「――行くぞおおォォッ!」 終段顕象――それと同時に喚んだのは他でもない、俺がもっとも憧れ信じる夢たちだ。 この勝負の先陣を切るに当たり、他の選択は有り得ない。 「仁義八行、如是畜生発菩提心ッ!」 同時に俺の背後から、アラヤを通して八つの宝玉が顕れる。光り輝きながら高速の旋回を始めるそれから感じる霊力、意志力、そして神気の密度と強さは文字通り桁が違った。 これまで俺たちの破段や急段で引き出していた夢の数々は、彼らのほんの一端でしかない。その全力を炸裂させればどうなるか――もはやこちらとて予想のつかない域にある。 「仁義礼智忠信考悌――親兵衛、荘介、大角、毛野、道節、現八、信乃、小文吾!」 「力を貸せッ、奴を見逃せん気持ちは分かるだろう!」 返答は聞くまでもない。彼らは俺で俺は彼らだ。終段で引き出せる神霊の数々は、その盧生に極めて相似する意志を帯びた夢でなくてはならない。 よって召喚が成功したあとに逆らわれる可能性などまず有り得ないと言えるだろう。もとより自分自身に反逆されるような体たらくでは、未来への指標がどうだのと偉そうなことを言う資格はない。 だから畳むぞ。人間を裁くしか能のない神威など、俺やおまえたちには甚だ理解不能な代物だからな。 晶たちを筆頭にした俺の〈支持者〉《けんぞく》が持つ心を核に受肉を果たした八犬士が、いま鬨の声と共に甘粕へと打ち掛かった。 「いいな、実に輝かしい。俺も〈八犬士〉《そいつら》には憧れているよ」 「ならばこういうのはどうかな」 八犬士の刃が届くまでの一刹那で、甘粕は己の術式を超高速で編み上げる。同時に中空へ走った文字列の連続は内容が複雑すぎて、俺でもこの短時間では読み解くことが出来なかった。 しかし、それでも確実なことは幾つかある。まず当たり前だが、日本語じゃないということ。 そして膨れ上がる悪夢の気配は、これが魔神の類であり、加えて死と暴力の塊であること。 甘粕は災禍や審判という概念の神威と異常なほど相性がいい。すなわち予想として、言わば空亡の同類だと結論付けた。 そしてそれは嫌味なほどに的中する。 「英雄ならば魔性退治と洒落込めよ。古今、それがおまえたちの武勇伝というものだろう」 言うと、まるで障子でも切り破るように、甘粕は剣指で空間を縦に裂いた。 「〈海原に住まう者〉《フォーモリア》――〈血塗れの三日月〉《クロウ・クルワッハ》」 同時に天空から墜ちてきたのは、黒い龍の〈顎〉《アギト》だった。まさに月をも呑み込む暴食の太陽さながら、信じられない域の巨体をもって甘粕を守る盾となる。 次に轟いたのは、空亡の魔震とはまた異なる意味で破滅的な龍の咆哮。 「…………ッッ」 なんだこれは。別段物理的に何かされたわけではないというのに、〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈か〉《 、》〈猛〉《 、》〈烈〉《 、》〈に〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》。生きていても意味がないような気になってくる。 津波のように内側から膨れ上がるマイナス感情の嵐に翻弄されて、今すぐ自分自身を八つ裂きにすればどれだけ清々するだろうかと馬鹿なことを―― 考えて―― まずいぞ、まさに術中だ! 先の咆哮で、俺の内部が攪拌されているのだと理解した。これは大地じゃなく魂を揺り動かして粉砕してしまう龍の〈震〉《シン》。 俺でさえ危うく本当に死に掛けたし、まだ完全には拭えていない。それを如何に距離があるとはいえ浴びせられた他の奴らが無事ですむはずもないだろう。このままではより甘粕が強大になっていく。 しかもおそらく、これだけで終わりなんかじゃない。いいや、むしろ―― 「察しがいいな、その通りだよ」 召喚した黒龍をまったく無視して、甘粕は遥か天に片手を掲げている。まるでそこから、何かを掴み降ろそうとするかのように。 その黒龍自体は、すでに八犬士が討伐を開始していた。戦局をそこだけを見ればこちらが勝てると踏んでいるが、如何せん巨大すぎるので即座にというわけにはいかない。 そして、それではきっと手遅れだ。甘粕が何を喚んだのかは未だに理解していないが、俺に囁くアラヤの声があれは“軍団”だと言っている。 すなわち、黒龍はその一柱にすぎず、先の龍震も大元から流れた副産物。本当の脅威は、あんなちょっと死にたくなる程度のものじゃない。 そのとき甘粕が手を掲げた天空の向こうから、何かとてつもなく魔的なものが這い出してきた。 「目だと……いや、それよりも……」 いつかの空亡を思わせる光景だったが、それは閉じられたままになっており、幾つもの異形が取り付いて〈瞼〉《まぶた》を開こうとしているのが分かった。 理屈抜きで瞬時に悟る。あれを開かせてはいけない。 空亡の凶眼も相当なものだったが、あれは根本から質が異なる。 「フォーモリア――バロールの魔眼だよ。あの瞳に見つめられれば神でも死ぬ。無論、〈盧生〉《きみ》とて例外じゃない」 「阻止したいなら協力するが、どうする〈四四八〉《わたし》よ?」 「愚問を言うなッ!」 吼えて、すかさず〈無意識〉《アラヤ》に検索。結果、ヒットした情報を即座に掴み、〈召喚〉《ダウンロード》――― 「アッサル、タスラム、ブリューナク……諸説あり過ぎてどれが正しいのか分からない。ゆえに甘粕の〈無意識〉《わたし》を読みたまえ。彼がどの説を基準にしているかで結果は変わる」 「言うまでもないと思うが、外せば無効だ。死んでしまうぞ、君も私も」 「だったらそれらしく少しは真剣に喋ろッ!」 まったく切迫した様子のないアラヤの口調は腹立たしかったが、同時に奇妙な可笑しみも覚えていた。 そうだよな、確かにこいつからしたら死ぬの生きるのはさして問題にならないことだ。俺までそんな〈涅槃〉《きょうち》に行くわけにはいかないが、多少近づいてみるのもいいだろう。 それは永遠に辿り着けないが、永遠に近づき続けられる場所。だからこそ俺の進む先を支持するとこいつは確かに言ったのだから。 「食、らッえェェェッ――――!」 全身が灼熱するような神威召喚によるフィードバックを、絶叫で無理矢理抑え込みながら光神との合一を成功させた。 そして投げ放った〈貫くもの〉《ブリューナク》は狙い過たず飛んで行き、見事バロールの魔眼とやらを刺し貫く。 タイミングとしては、かなり一髪千鈞のものだったらしい。すでに半ば以上開いていた魔眼は貫かれた衝撃で裏返り、逆に自分の〈軍勢〉《フォーモリア》を皆殺しにしてしまう。 「まあ順当だ。神話の通りだよ」 どうやらそういうことのようだが、生憎俺は現実の人間だ。神々の物語とやらに登場するキャラクターになる気はない。 「どうして甘粕のバロールに効くのがブリューナクだと断定した?」 「別に。それが一番メジャーみたいだったから選んだだけだ。甘粕はそういうところで捻るような奴じゃないだろ」 「なるほど。確かにそのようだ。彼の〈無意識〉《わたし》も同意している」 なにはともあれ、かなり命を削った今の攻防も終段における場としては序の口にすぎない。 戦いはまだ始まったばかり。 ――だが、同時にここがチャンスだというのも分かっていた。 「この機を逃すな、一気に決めるぞォ!」 空を震わす大音声を張り上げて、俺もまた直接甘粕へと肉迫する。そしてそれに続く仁義八行の犬士たち。 そう、現状は九対一になっているんだ。馬鹿でも分かる数の優勢、これを活用しない手はないだろう。 〈魔神軍勢〉《フォーモリア》を滅ぼされ、単騎となった甘粕に次の神話を喚ばせはしない。神の召喚は心身に多大な負荷をかけると実体験で学んでいるから、ここで一気呵成に攻め続ければ奴の次手を封殺できる。 そして無論、俺は甘粕という男を舐めてはいない。多少の苦境は、むしろ奴にとって起爆剤だ。ゆえに嵌めるなら、徹底的に何重もの枷を掛けなければならないだろう。 根性で打破できるような状況をまずは消す。そのためには―― 「抜けば玉散る氷の刃――」 甘粕と極めて相性がいい神威とのラインを断つこと。 魔神、廃神、邪神、そして破壊神――その手の存在と高レベルで同調するこいつの精神性に訴えてやる。よって有効なのは破魔の利刀。 「断ち切れ信乃―――村雨丸ッ!」 これが見事に決まるかどうかが一種の分水嶺だと分かっていた。際を分ける瞬間にフェント無しの大技をぶち込むのは紙一重すぎる諸刃だが、あまり戦術論に拘りすぎてもいけない。 なぜならそれは、見方を変えれば小賢しいと言われる部類だからだ。この戦闘はそんなものが入り込める域をとうの昔に超えている。 「なるほど――いいぞ面白い!」 零か百か、これから先に求められるのは悉くそういうものだ。百に届かない十や二十を何万回繰り返しても、戦果と呼べるものは得られないと俺たちは理解している。 「ぬッ、がああああァァッ!」 よって、甘粕も小手先の業に頼らず、真っ向から村雨丸を迎撃した。その気概にその覚悟――ああ、確かにこれも勇気の発露と言って間違いない。こいつはそういう〈漢〉《バカ》であると、俺も信頼しているんだろう。 だが、神格の攻撃を直接受け止めようなんてのは、いくらなんでも傲慢すぎる自負だぞ甘粕。 「俺の〈憧れ〉《ユメ》を舐めるなよォッ!」 信乃と鍔競り合う甘粕に、俺と残る七犬士が波状攻撃を繰り出した。たとえどれほどの魔王であろうと、これを凌げるわけがない。 結果、相乗された九連撃がまともに甘粕を貫いていた。その中で中核を成したのは言うまでもない、信乃による宝刀村雨丸の一閃だ。 「ぐッ――、は、ははは……」 「実に、実に奇妙な心地だ。しかしおい、まさかこんなもので俺に勇気の何たるかを教えたなどと言わんだろうな」 「当たり前だ」 今の攻撃を生身で受け、まだ生きているというだけでも驚嘆に値する。しかし、言ったように真実の狙いはそこじゃない。 「それはそのまま、丸裸の状態で噛み締めろ」 そして再び、俺たちは怒涛の攻勢へと移っていた。 怪力無双、犬田小文吾の拳がその野望ごと打ち砕かんと甘粕に叩き込まれる。 火遁の達人、犬山道節が起こす炎は地獄の業火になど負けはしない。 化け猫退治の犬村大角、魔性に対する特化性能を持っている部分は我堂の〈根源〉《オリジン》とも言えるだろう。 八犬士最高の知能、犬坂毛野はどんなときでも眼前の戦況を見誤らない。 現八、荘助も言うに及ばず、それぞれが有する特性を遺憾なく発揮して甘粕を追い詰めていく。 そして何より、俺ともっとも同調しているのは仁の犬士、犬江親兵衛仁―― あらゆる分野のオールラウンダーにして、彼にしか使えぬ神の霊薬を有している。 その効果は、原典にある死者蘇生だけに留まらない。 「民の怨みと鬼神の怒り、虎と成りて悪を討て――」 「終段顕象――〈霊虎童子〉《れいこどぉぉじ》ッッ!」 親兵衛の分身とも見られる霊虎の化身。それは彼が有する神薬と同じ、悪党を許さないという概念を帯びている。 すなわち、仲間である犬士たちへの癒し及び能力上昇効果はもちろんのこと、悪神の類は徹底して排斥するのだ。それは村雨丸に続く破魔の重ね掛けとして機能する。 加えて言えば、人の善性を選別して加護を与える神薬は、そのままこの戦いを見守る人々への仁の喚起に直結する。 甘粕の得手を封じ、同時にこちらの力を一挙に増す両得だ。このまま枷を掛け続け、奴に何もやらせはしない。 今、俺たちは間違いなく、完全な優勢を獲得していた。もとより里見八犬伝は、日本人にとって非常に著名だという利点もある。 キリスト教やその他外国にありがちな魔神の類より親しみやすく、ゆえに支持者を集めやすいのは自明の理だろう。 「これで最後だ……終われ甘粕ゥゥッ!」 ゆえに再び、俺は八犬士を終結させ、九人の全霊を乗せた一撃を叩き込んだ。唸りを上げる英雄たちの力は一つに結集した矢と化して、見事甘粕の心臓を刺し貫く。 かに見えたが、しかし――― 「くく、くくく、ふはははは……」 こいつはそれを、またしても真っ向から受け止めていた。もちろん無効化など出来てはいないし、今このときも全身から血の霧を噴きながら、魂ごと砕かれそうな痛みの中だというのを証明している。 だというのに、なぜ未だに笑っているのか。 いいやそもそも、たとえ一瞬といえども耐えられるはずがないというのに。 「おまえの手札、存分に見せてもらった。ああ、実際に追い詰められたよ。かつてないほどに死を感じた」 「今もまた、な。地力でこれは撥ね返せん……」 そうだ、現状の甘粕は完全に単騎。村雨丸と霊虎童子で魔性の神格にアクセスするラインを断ち切られ、得意分野を封じられている状態のはずだろう。 にも関わらず、なぜ抵抗が出来ている? いくら死を待つばかりのギリギリとはいえ、有り得なさすぎる話だろう。 「が、諦めん。諦めんぞ見るがいい、俺の辞書にそんな言葉は存在せん!」 「なぜなら誰でも、諦めなければ夢は必ず叶うと信じているのだァッ!」 「そのとおり――」 爆轟する気炎と同時に、そこで俺の脳裏に響いたのはアラヤの声。 奴は告げる。この不条理を謎解く馬鹿馬鹿しすぎる真実を。 「理屈は単純。甘粕個人の意志力が、八犬士のそれに拮抗し始めているだけのこと」 「ゆえに破られるぞ。そもそも八犬士は神じゃない、英雄だ」 「今、彼の勇気は〈英雄〉《そ》の域に達しつつある」 「――――――ッ」 この勝負をもって、勇気のなんたるかを教授する。 自然と取り決められたその〈約束〉《ルール》……皮肉にも見せ付けられたのは俺のほうだと言いたいのか。 「づッ、ぐううううおおおおおおおおおおおォォォォォオオ!」 次の瞬間、七孔噴血をものともせずに轟き渡った甘粕の咆哮が、八犬士によって断たれていたラインを無理矢理再結合するのを感じ取った。 「馬鹿な……」 甘粕正彦――― 俺は状況も忘れてその光景に魅入られる。 こいつは本当に、いったいなんという漢なのかと。 「生ける英雄、伝説の誕生だ。混沌の属性ではあるけれど、その点だけはもはや疑いようもない」 「よってどうする? 君が見せ返すべき勇気は何だ?」 俺の勇気、俺の信念、今このときもそこに疑いは欠片もないが、しかし甘粕が見せ付けた密度にはたして対抗できるのか? 人が夢見て、育み祈った物語に一歩も引かず、己もまた神話にならんとする自負、気迫。 〈野望〉《ぱらいぞ》成就に掛ける凄まじすぎるその執念。 いや、あるいは、この瞬間こそがこいつにとっての――― 「〈唵〉《オン》・〈摩訶迦羅耶娑婆訶〉《マカキャラヤ・ソワカ》――終段顕象!」 しかし、答えを考えている暇などはまったく与えられなかった。強引に繋ぎ直したラインは言うまでもなく滅茶苦茶であり、アクセスに掛かる負荷は尋常じゃなく跳ね上がっているはずだというのに甘粕は怯まない。 加え、こいつが今〈召喚〉《ダウンロード》しようとしているモノは、これまでを遥か凌駕する桁外れの神威だと分かってしまった。 「ふざけるなよ、貴様……!」 よりによってそんなモノを喚ぶというのか。舐めるな断じて認められん! 覆された戦況も、奴に一瞬敬服しかかったという事実さえも、残らずまとめてどうでもいい。 ただ、絶対に許してはならないという気概だけで、再び覚悟を奮い立たせる。 なぜならあれは、破壊神という括りにおいておそらく最上位に近い〈存在〉《モノ》だ。 世界を新生させるため、文字通り平らにする極大の〈破壊〉《カタストロフ》に他ならない。 「――〈大黒天摩訶迦羅〉《マハーカーラ》ァァァ!」 だから俺は、ここで負けるわけにはいかないんだ。 たとえどれほど甘粕が全身全霊を振り絞ろうと、奴が人を超え英雄を超え、神話となってその先にまで達しようと…… 俺が見せ付けるべき勇気の形というものがきっとある。 それを奴に分からせるんだ。勝機は唯一、そこにしかない。 「へえ……」  ここに甘粕と合一して顕在化した神威を前に、アラヤは己が四四八であるということも一瞬忘れて、感嘆の声を漏らしていた。 「恐れ入ったよ、〈恐怖すべき者〉《バイラヴァ》とはね。実に彼らしい夢だけど、ただ感心してもいられない。いよいよこれは旗色が悪くなってきた」  普遍無意識の集合体。あまねく〈神〉《ユメ》の根源としては俗に過ぎる反応だったが、以前も指摘された通り今の彼は四四八の精神をベースにした窓口のようなものだ。ゆえにすべてを見通せるわけではないし、時には人間臭い面も見せる。  だから今も、先の態度はやや不謹慎であったと自嘲しながら言葉を継ぐのだ。 「別に君や君の〈憧れ〉《ユメ》である八犬士が脆弱だと言っているわけじゃないよ。これは単に気質の問題――と言うより立場かな。  すなわち勇者と魔王、その役割としての差が出ている。前者と後者、基本的にどちらのほうが“強い者”と設定されているかは明白すぎる話だろう」 「〈人間〉《きみら》は弱い者がなんとかして強い者を斃す物語が大好きだからね。現実にそういうことは皆無に近いくらい起こり得ないから夢を見る。  ああしかし、そういう理屈なら君が有利になるはずなんだが、いけないな。人間、半端に賢くなるとニヒリズムが横行しだす。王道を馬鹿にするようになるんだよ。  これも甘粕に言わせると、魂の劣化なのかもしれないね。ともかく現状、そうした次第で君は不利だ。  この非常時にべらべら鬱陶しいと思っているのは分かるけど、何かのヒントになるかもしれないから我慢して聞いてくれたまえ。決めるのはあくまで君。私は情報を伝えることしか出来ないので、これが私流の戦いなんだよ」 「君も気づいている通り、甘粕はその思想上、審判の夢と相性がいい。これがどういう意味か分かるかな。つまり人間以上の絶対者と繋がりやすい気質なんだよ。裁く側が上目線なのは当然のことだからね。  そのため、各宗教や神話における至高神クラスと軒並み繋がることができる。デウス然り、バイラヴァ然りだ。空亡だってそれに近い。  対して、君はどうなのか。甘粕に視点が低いと言われたことを覚えているかい? これは君の美点でもあるから責められるべきことではないのだけど、ここではそれが問題だ。  柊四四八は絶対者のような視点で物事を語らないし判断しない。だから必然、常人にも親しみやすい夢と繋がる」 「たとえばこの八犬士。彼らは紛れもないヒーローだけど、身も蓋もない言い方をしてしまえば〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈優〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》。分類化すれば英雄の夢で、元が人間な以上は裁かれる側になる」  先ほど、同じく人を超えた人として、甘粕が八犬士の夢と伍したように。  〈八犬士〉《かれら》はそういう枠にある存在なのだ。ゆえに同格となった〈術者〉《あまかす》の妨害は容易くないし、〈甘粕〉《かれ》が喚ぶ真の神威に太刀打ちするのも非常に困難。 「つまり纏めれば、甘粕の得意技は高位神格との合一で、君の得意技は英雄との合一になる。よって厳しい。存在格が初めから違うし、そのように信仰されて生まれた夢だから覆せない」 「もちろん君に神格との合一が出来ないわけではないけれど、気質が合うものとなれば相当に限られるだろう。たとえば武神……八幡などがあるんだが、あれは空亡より下だからね。ここではさほどの役に立たない。  かといって同じ武神でも、〈希臘〉《ギリシャ》の〈熒惑〉《けいこく》などはむしろ甘粕の十八番だろう。今にも使ってくるかもしれないし、……ああ、いや、しかしそれ以前にこれはもう――」  そんな長広舌を〈操〉《く》る間にも無論のこと戦闘は続行しており、〈大黒天摩訶迦羅〉《マハーカーラ》の火矢が飛んだ。  その〈威力〉《ユメ》がどれほどのものか当然知悉しているアラヤとしては四四八の死を直感したが、あにはからんや彼は未だ健在で…… 「……驚いた、頑張るな君は。あれの〈三叉戟〉《トリシューラ》を耐え切るとは思わなかったよ。金銀鉄の三都市を滅ぼした神火なんだよ、今のは」  今度は自分の〈四四八〉《むいしき》に感嘆の念を禁じ得なくなる。八犬士の半分ほどが吹き飛ばされたが、それでも先ほど語った力関係を覆す偉業と言っていい。  そこにいったい、どんな力が働いたのだろう。無論、四四八の奮闘に感化された人心が力を与えているというのもあるにはあるが、その条件は甘粕も同じである。そして、そこを四四八が圧倒的に上回っているとも思えない。  ゆえにもしや、先の甘粕と同じく四四八流の勇気が発露し始めているということだろうか。  可能性としてはそれしかないが、しかしアラヤには断定できない。  〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈だ〉《 、》。彼の〈四四八〉《むいしき》がどのような選択を採ったのか、あるいは採ろうとしているのかが、なぜか薄ぼんやりとして分からない。  このような不可思議は、通常起こり得ないはずなのだが……と首を傾げる間にも、確かなことが一つある。  それは甘粕が受けたであろう衝撃の規模。アラヤでさえよく分からないことが起こっているのだ。彼にとってはそれどころの話じゃないだろう。 「ほら、〈甘粕〉《むこう》も喜んでいる。あれで彼も相当の無理をしているはずなんだがな。まったくもって折れないね、なるほど勇気か」  だからアラヤは気を切り替えて、ともかく分かっていることに注意を向けようと考えた。情報を並べ、分析して伝えるのが彼の戦いなのだから。 「君も体感している通り、神格を喚ぶのはそれだけで凄まじい精神力を毟り取られる。並の人間なら小妖一つに振れただけでも脳が沸騰してしまうだろう。常人に終段は出来ないという前提はともかくね、それくらいの無茶だということさ。 ゆえに、たとえ盧生であろうとこの短時間であれほどの夢を連続させれば心身が保つはずもない。うん、どうやら希望が見えてきたかもしれないよ。耐えて自滅を待つという手が通じそうだ。  なぜなら君に言わせれば、魔王は自滅が好きなものなんだろう?」  そんなちょっとした揶揄を挟みつつも、徹頭徹尾アラヤは冷静。分かっていることに関する取りこぼしはその性質上有り得ない。  依然、四四八の奮迅は原因不明のままだったが、そういうことが出来るというならそれを前提に作戦を立てるのみだ。甘粕の自滅を待つ戦法は、極めて有効だと算出している。  そこは当然、向こう〈無意識〉《じぶん》も承知していることだろうが、どうやら甘粕は聞き入れる気がないらしい。  その猪突具合、狭い視野に大局を見ない享楽思考。彼らしいと言えばまさにそうで、相変わらず青い奴めと苦笑しながら見守るだけだ。  テュポーン、フンババ、テスカトリポカ、〈蚩尤〉《しゆう》、ロキ、そして〈須佐之男〉《スサノオ》――矢継ぎ早に連続させる甘粕の終段はもはや異常な速度と神威の格で、自滅は秒読みとなっている。  対して四四八の方はというと、ついに今しがた最後の親兵衛が消し飛んでいた。これによって彼は丸腰となってしまい、霊薬の効果も切れたのだから次は流石に耐えられまい。  よって、ここが真なる勝負の際。互いにあと一柱ずつ出し合って、その結果が明暗を分ける。  双方のアラヤはそのように分析し、自らの盧生に激を送ろうとした。  が、そのとき――― 「ぬ……おい、なんだこれは少し待て」  もし彼に身体があり、表情を作れたら、驚愕の相を浮かべていたに違いない。それだけこれは不可思議な事態。  その原因を究明するべく自己の内海に意識を潜らせ……瞬間、アラヤはさらにらしからぬこと――すなわち戦慄の声を上げていた。 「馬鹿な――」 「信じられない……向こうの〈無意識〉《わたし》も驚いている。有り得ないだろう、まさかこんなことがいくら盧生といえども出来るわけがない」  そして、いま切迫した声をあげる彼は、それに四四八が反応しないということにも気付いていない。  いや、仮に四四八が事態の真相を問うていたとしても、すぐに返答は無駄だと断じただろう。そのようなことをしている時間はないのだ。  ゆえに継いだ言葉は単純明快。彼をしても無機質にすぎる声で短く伝えるだけに留めた。 「――逃げろ。あれは駄目だ、どうにもならない」 「幸いにも完成まで時間のかかる類だし、猶予はある。君だけならばアレの勢力圏内から逃れられるかもしれない。  では発動までに妨害すればいいだろうなんて考えは捨てるんだ。〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈発〉《 、》〈動〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。ゆえに止められない。  要は噴火と同じだよ。すでに引き金は引かれているんだ。あとは火口からマグマが出てくるまでのラグがあるだけ、カウントダウンはもう始まっている」  そう、すでに“大戦争”は始まっているのだ。  これまで甘粕が無秩序に連発していたと思しき終段は、言わば呼び水だったのだろう。〈両〉《 、》〈の〉《 、》〈ア〉《 、》〈ラ〉《 、》〈ヤ〉《 、》〈は〉《 、》〈意〉《 、》〈図〉《 、》〈を〉《 、》〈完〉《 、》〈全〉《 、》〈に〉《 、》〈読〉《 、》〈み〉《 、》〈違〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》。  あらゆる神威とその血を生贄代わりにして、今や膨れ上がり続ける神格の数は十や二十どころではない。  数百数千、それ以上…… 「狼が槍を飲み込んだ。蛇と雷神が相打った。魔犬と戦神、巨人と光、女神が黒に焼き尽くされる。来るぞ来るぞ来るぞ来るぞ――あとにはもう」  よりによって甘粕正彦……彼はこの局面で〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  四四八の邯鄲一周目において、興が乗ったから“つい”やりすぎてしまったように。  今再び、“つい”ですべてをご破算にしようとしている。  その真実とは何か―― 「甘粕は、いま数千以上の〈神〉《ユメ》を同時に殺し合わせている」  たとえたった一柱だけであっても凄まじい負荷が術者を襲う神の召喚……それをこれだけの数、同時に行うというのは異常どころの話ではない。  加えて、大元の設定すら完全に無視しているのだ。この大戦争に巻き込まれている神話はこれまで連発してきたキリスト、イスラム、ヒンドゥー、ギリシャ、マヤ、エジプトその他、ほぼ世界中――  あらゆる地域のあらゆる神々を――しかも主神級ばかり混ぜ合わせた形容不可能な〈混沌〉《べんぼう》だった。本来、敵対関係どころか何の繋がりもない者同士を甘粕はその驚異的な意志で無理矢理に従え、争わせている。  こんなものが導く先は、たった一つしか有り得ない。 「そこから生じる力場に呑まれ、誰も残らない黄昏となるだけ」  それを、北欧神話ではこう呼んでいた。 「おまえの愛を俺に見せろォ――――〈神々の黄昏〉《ラグナロォォォク》ッッ!」  今ここに顕象した神の最終戦争は、原典の規格を完全に逸脱している。  登場〈神〉《キャラ》もその関連性もデタラメ極まりない代物で、それだけにどうしようも出来はしない。  先ほど四四八に逃げろと言ったが、まるで意味のない忠告だった。  何せ登場している〈神〉《キャラ》のルーツが全世界に散らばっているのだから、この黄昏は人々の無意識に引かれる形で拡大を続け、必ず全世界を嘗め尽くすだろう。 「まったく……」  そのため、二人の盧生に付いた二つのアラヤは、互いに呆れ返っていた。  まったく何ということだ甘粕正彦。おまえは本当にどこまでも青く未熟な子供そのもの以下であり、だからこそすべての桁が違っている。  愛も、勇気も、傲慢さも我がまま具合も――  ここまで突き抜けた馬鹿者を前にしては、否応なく脱帽せざるを得ないだろう。何せ長年の宿願であった〈楽園〉《ぱらいぞ》の完成さえも、その場の衝動で投げ捨てたのだから。  甘粕は人類の根絶など望んでいなかったし、そもそも人類を根絶させたら彼の大好きなものは永遠に見られなくなる。  それくらいの損得、一桁の足し算より分かり易い理屈がこの男には通じないのだ。  もはや馬鹿という言葉すら、馬鹿に対する冒涜と言える域の馬鹿だろう。 「認めよう甘粕正彦。君の勇気と強さに敬意を表す」 「なぜなら、おまえのような真似が出来る男など人類史に存在しない」  これほどまでに愚かしい決断を成す男について、勇気以外のどんな言葉を使えというのか。そう、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈は〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  バイラヴァ召喚に先んじて彼の勇気は英雄の格に達したが、そこから続く一連でさらに神話すら超えたのだ。  ゆえにアラヤたちは甘粕正彦をこそ勝者と認め、偽りなく讃えていた。 「しかし――」 「このまま行かれては実際困る」  彼らは甘粕を勝者としたが、それですべて受け入れるとは言っていない。  甘粕を認めることと、人類が根絶される未来を認めるのはまったく別の話である。 「つまるところ、君は個人で〈阿頼耶識〉《われわれ》に匹敵する男だったというだけだろう」 「そのこと自体には敬服している。だがそれは、おまえが〈我々〉《アラヤ》ではないことを意味している」  普遍無意識の理解を超え、その枠から飛び出したような男は有り体に言ってもはや異物だ。誰もが共有する心の海、その一滴であることが人の定義なのだから、そうでないモノは外敵にすぎない。  事実、甘粕は結果的にすべてを滅そうとしているのだから。 「柊四四八――」 「おまえに命じる」  よってここに、人類の総意が一人の男を選出した。世界の滅びを避けるため、あの異物を排除せよと告げている。  それを成すための力をやろうと。 「甘粕は〈無意識〉《われわれ》から相当量の〈神〉《ユメ》を毟っていったが、手持ちの中に対抗策がないわけではない」 「それは本来、おまえの気質で使えるようなものではないが、この場に限り〈無意識〉《われわれ》が接続してやる。ゆえに心配しなくていい」 「まあよくて廃人、普通に考えて死ぬだろうが、否応もないだろう」 「そうしなければどのみち死ぬ。おまえも、おまえの仲間もすべて」 「さあ――」 「さあ――」  選べ、と四四八の脳に〈神〉《ユメ》の奔流が無数に雪崩れ込んできた。  それは確かに強大無比なものばかりで、なるほど上手くすれば甘粕を打倒できるかもしれない希望だったが、この局面において冷徹に人を駒にしようとしているアラヤたちには情というものがまったく見えない。  どこまでもシステム。人類の意志という機関。  もしかしたら、古より神の使徒として選ばれた人間たちは、皆このような経験をしたのかもしれない。  そして今、四四八は〈救世主〉《イェホーシュア》となることを命ぜられている。  その結果は―― 「どれにする?」 「お断りだ」 「なに――――?」  差し出された〈夢〉《カミ》をわざわざ掴んでから投げ捨てた四四八の暴挙に、再びアラヤたちは驚愕し、そして次には仰天した。  なぜなら彼の行動は、単なるそれだけではすまなかったのだから。 「まさか……!」 「有り得ん、なんだおまえはッ!」  この人間、どういう馬鹿だ?  まったくもって信じられんし理解が出来ない。  ああ、甘粕正彦……もしかして我々は間違えたのかもしれない。  なぜ柊四四八の思考が途中から読みにくくなったのか、その答えが判明したのだ。  たった一人で人類すべての意志に拮抗できるほどの〈勇者〉《バカ》となり、アラヤの理解を超えた甘粕。  それとはまったく異なる手法で、やはりアラヤの理解を超えた〈勇者〉《バカ》がここにいる。  二人の勇者。馬鹿と馬鹿。  そのどちらに軍配があがるかといえば、おそらく好みの問題で……  相手の決断に憧れてしまった側の負けとなる。 猛り狂い、極大規模の爆発を起こすべく高まり続ける神威の奔流。 万象を混沌の黄昏に変えんとするその嵐に真正面から身を投じながら、しかし不思議と俺の心は凪いでいた。 「まったく、馬鹿だ馬鹿だとやかましい」 これでも理知的な優等生として通ってきたんだ。面と向かって馬鹿扱いされたことなど数えるほどしか人生になく、それにしたって基本はほぼ軽口の類。呆れ返ってマジ気たっぷりに言われたことなど皆無だろうと自負している。 しかし、客観的に俺の行動を振り返れば、なるほど確かに馬鹿なのかもしれんと思える面は存在した。 「一応、計算はしてるんだ」 「正答はこれしかないと考えたんだ」 論理的かつ冷静に。極めて筋道立った思考をベースに導き出した方程式。 だから馬鹿と言われるのは心外だが、同時に実体験として分かっていることも存在する。それは現実を動かすものが必ずしも理屈じゃないという事実。 すなわち正しいとか分かっているとか、そういう背景があるといっても、行動に移せるかどうかは別なんだ。 今の凪いだ心境、この境地に達するまで、相当に手間取ったことがその証。おそらくアラヤに言わせれば、大洋の先にある新大陸を最初に見つけた奴が云々という話だろう。 「甘粕、おまえは前人未踏の邯鄲を制覇した」 そして人類初の盧生となり、その枠からも飛び越えた。 なるほど狩摩が危惧した通り、後追いである俺たち戦真館はおまえに比べてだいぶ甘い。いかに記憶を無くしていようと、鋼牙や辰宮、聖十郎などが夢で争っている状況がある以上、この先にゴールがあると確信するには充分だろう。 だから最初に、単独で、絵空事としか思えない夢に命を懸けたおまえの勇気は凄いものだ。その一点で、ずっと俺は精神的な遅れを取っていたと認めよう。 この差はどうしようが覆せない。だったら俺は、違うアプローチをするしかないんだよ。 すなわち―― 「おまえに勇気を見せ付けるには、おまえが絶対やれないこと……!」 「かつ、おまえと同じく史上初の道を踏破すること」 神威の嵐で肉が爆ぜる。骨が砕ける。魂が粉微塵に崩れていく。 ああ、それはそうだろう。なぜなら俺は、今正真正銘偽りなく―― 「夢に頼っている限り、おまえの勇気は超えられないッ!」 アラヤとのリンクを断ち切って、まさに生身のまま特攻をしているのだから! 「―――――――」 それを察知し、驚愕する甘粕の気配が神威に伝わる。それは確かに驚くだろう。自分で言うのも嫌になるが、おまえ以上の馬鹿野郎がここにいるんだ。 盧生の権限は大きく分けて以下の二つ。夢を現実に持ち出すことと、夢を夢のまま封じること。 そのうち後者は眷属の選別にしか使われておらず、当の盧生が夢を持ち出さないという選択をしたことは真に皆無だ。 当然だろう。なぜならそれは大前提の否定。そもそもの目的を引っ繰り返すことになる。 甘粕は〈楽園〉《ぱらいぞ》の成就を目指して夢の力を求めたのだし、俺はそんなこいつに対抗するためやはり同じく夢を求めた。 〈生〉《 、》〈身〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈間〉《 、》〈に〉《 、》〈盧〉《 、》〈生〉《 、》〈の〉《 、》〈打〉《 、》〈倒〉《 、》〈は〉《 、》〈不〉《 、》〈可〉《 、》〈能〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》―― 〈同〉《 、》〈じ〉《 、》〈く〉《 、》〈盧〉《 、》〈生〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ね〉《 、》〈ば〉《 、》〈勝〉《 、》〈負〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。 それは正しい。絶対の真理だ。そしてだからこそ、盧生は夢を捨てられない。眷属が自ら権利放棄を口にするのとは訳が違う。 万年単位の歴史統合。 階層ごとに発生する死の試練。 かつ、ループ回数分それが襲い来るという難易度の高さ。 そして何より、その果てに得られるアラヤという超越との接触、理解、同調の恩恵。 「自画自賛じみてくるが、生半可な覚悟と気概で成せることじゃないんだよ」 だからこそ、それら努力の結晶を捨てることなど普通は出来ない。俺自身、努力家を自称する人間だからそのあたりはよく分かる。 「初めから放り捨てること前提で得られるものなんか何もないんだ」 「たとえ、何かの間違いで巻き込まれたのが始まりだったのだとしても」 記憶を無くした俺たちが、現実だと思っていた夢の二十一世紀。あそこでの状況は巻き込まれたに等しかったし、ゆえに最初は夢の現実獲得なんかどうでもいいと思っていた。 しかし違う。俺たち全員が甘粕打倒の使命感だけは忘れなかったように、邯鄲を制覇するには夢を持ち帰るという決意が絶対不可欠。 たとえどんな盧生がどういう事情で邯鄲に入ろうとも、そこだけは不変のものだと断言できる。 「だから、これこそが前人未踏だ」 一歩、また一歩、俺は甘粕に近づいていく。距離は十メートルもありはしない。 しかしこれこそ、大洋の横断など及びもつかない未踏の航路だ。生身で神威を突っ切ることも、その間アラヤと再び繋がりたいという誘惑に耐えることも。 この選択が正答だと確信し、極めて筋道立った思考をベースに導き出した方程式ではあるものの…… 「実際やらかせば、おまえでもびびるだろ甘粕ゥゥッ!」 そこで俺は、ついに全力で駆け始めた。 「盧生は夢を体験し、かつその果てに悟る者――」 「彼が得たものは人生の無常、真理、そしてそれに立ち向かう勇気――」 「すなわち無形の輝きであり、その誇りこそが強さッ!」 目に見える地位、財物などそんなもの、盧生はたった一欠片だって持ち帰ってはいない。 「理解しろ甘粕――現実にない〈宝〉《ユメ》を持ち帰らなければ大儀を成せないと思っていた時点でおまえは弱い!」 たとえこいつが、たった一人で夢の〈神格〉《ざいほう》に匹敵するほど強い意志を得ていても。 ならば不要と悟れなかった。自分の強さを信じられなかったことが弱さでなくて何だと言う――! 「世の行く末を憂うなら、自分の力でどうにかしてみろォォッ!」 ここに踏み込んだ最後の一歩。同時に揮った一撃が、真なる前人未踏を成していた。 「ああ―――」  懐深く踏み込まれ、揮われた一撃をまともに受けつつ、俺は静かな感激に包まれていた。  なぜ生身の人間が神威の渦を踏破できたか、アラヤそのものですらあるいは砕き散らせる密度の嵐は、無論のこと刹那であろうと常人が耐えられるものではない。  本来ならば、夢を手放した時点で柊四四八は粉微塵と化していたはず。にも関わらず彼がここまで達せた理由は二つあり、どちらも至極簡単なことだ。  一つ、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈せ〉《 、》〈ん〉《 、》〈夢〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈彼〉《 、》〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈が〉《 、》〈見〉《 、》〈切〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。  他ならぬ盧生がそう断じているのだ。その境地に達する葛藤、決断、克服すべき恐怖のほど、同じ盧生である俺だからこそよく分かる。余人に理解できるものではないし、余人がやっても同じ効果は得られない。  人の夢、意志と歴史。その化身たるアラヤに触れた身でありながら、夢は夢にすぎぬと言ってのけることには計り知れない意味があるのだ。  事実、彼もその境地へ一足飛びでは達していない。バイラヴァの〈三叉戟〉《トリシューラ》を防ぎ切ったときがおそらく初で、以降は徐々に覚悟の密度を高めていった。  俺にはそれが分かっていた。  ゆえに二つ目、〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈柊〉《 、》〈四〉《 、》〈四〉《 、》〈八〉《 、》〈に〉《 、》〈憧〉《 、》〈れ〉《 、》〈の〉《 、》〈念〉《 、》〈を〉《 、》〈禁〉《 、》〈じ〉《 、》〈得〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。ああ、即座に考えていることは分かったよ。だから葛藤したね、切実に。  そんなことが出来るはずもないと断ずる反面、出来るのなら見せてくれと焦がれるように希った。その心情は結果として夢に顕れ、十全ではあったが十全以上の神威は練れなかった。俺は真の勇気を見たんだよ。  加減したわけでは誓ってない。しかし憧れを粉砕するために全霊以上を搾り出すのは不可能だ。  そんなものは大前提の否定。そもそもの目的を引っ繰り返すことに繋がる。  そうさ、そのことが分かったからこそ、俺は彼と同じ境地に立とうと思い、〈野望〉《ユメ》の完成すらをも放り投げて…… 「だが、それすらまだ甘かったのだな……」  真の勇気を俺は見た。その完成が迫ろうとしている。  見せてくれ。教えてくれ。救いを与えてくれ〈救世主〉《イェホーシュア》、と…… 「おまえの存在こそが俺の〈楽園〉《ぱらいぞ》。そう確信した瞬間に、もはや決着はついていたのだ。  おまえならば、たとえどのような黄昏だろうと踏破する。何よりそう信じたがっているのは俺なのだからな」  誰も信じていない男。もっとも絶望し、もっとも勇気がない男……  この戦が始まって以来、叩きつけられたそれらの指摘が耳に痛い。  しかし、ならばこそおまえの勇気だけは信じさせてほしいものだ。おそらく俺が、生涯唯一の〈真〉《マコト》と認めたその強さこそ。 「夢ではない。そうなのだろう、柊四四八。  大儀を成すのは現実の意志……夢から持ち帰るのが許されるのは、そのための誇りだけ。  俺の理解に、間違いはないのだな……?」 「ああ……ようやく理解したか劣等生。  おまえほど理解の悪い奴が、今後は現れないことを祈ってるよ」  頷く勇者の辟易とした言い草に俺は可笑し味を禁じ得ず、万感を込めて兜を脱いだ。 「ならばよし。悔いもなし!  認めよう、俺の負けだ!」  辛気臭く死を迎える趣味は持たん。人は泣きながら生まれる以上、死は豪笑をもって閉じるべきだと決めている。  もとより、これは祝福だろう。俺が何より愛したものが、この天下に存在すると証明されたわけなのだから。 「俺の宝と、未来をどうか守ってくれ。  おまえにならすべてを託せる。万歳、万歳、おおおぉぉォッ、万歳ァィ!」 そうして―― 自ら放った神威を内へ取り込むように、甘粕正彦は黄昏の中へ消えていった。 同時に、俺も意識を失う。 海面へと落下していく光景をほんの刹那だけ認識したが、それは現実の相模湾か、それとも…… 「なんだ……やっぱりおまえかよ」 リンクを断ち切ったはずなのに、しつこいことこの上ない。もしかしたら俺の行動に立腹し、文句を言いにきたのかもしれないなと思って苦笑が漏れた。 「いいや、そのような意図はないよ。ただの祝辞だ」 「おめでとう柊四四八。君には真実脱帽した」 それはどうもありがとうと返しながらも、俺は引いた一線を忘れない。こいつらがどういう存在であるのかは、あの土壇場で痛感したのだからなおさらだ。 しかしアラヤは、そんなこちらの気持ちを察したうえで普段どおりの態度を崩さない。 「ゆえに惜しいという気持ちが強くある。私としては、君のような男をみすみす手放したくないんだよ。これからも、その行く先を見ていたい」 「まるで興味深い実験動物にでも対するような口振りだな」 「否定はしないよ。実際その通りに近いのだからね」 「君とて不安はあるだろう。今後この国は未曾有の国難に襲われる。すでに欧州では大戦の火種が生まれているし、満州事情もまた然りだ。いざというとき、本当にそのままで乗り切れるのかな? どうにかする力がありながら、それを封じるのは怠慢じゃあないのかな?」 「救えるはずの人々を見殺すのは、君の〈仁〉《ユメ》じゃあないだろう。それでは災禍をもって是とする甘粕と変わらない」 「…………」 「と私は思うが、まあ答えは急がないよ。今回の選択はあくまで甘粕という盧生に対するものだった。そのように割り切ったところで誰も文句は言わないと思うけどね。何せ事情が事情で、時代が時代だ」 「今後も私は君を見守る。繋げたくなったらいつでも言ってくれたまえ」 それはある種、悪魔の囁きめいて聞こえた。いや実際、こいつの一部が神野であることを鑑みれば、的外れでもないのだろう。 「ではひとまずさらばだ。朝へお帰り柊四四八。君の愛する人が待っている」 「百年後のあの未来へ、無事辿り着ければいいと願っているよ」 そのまま、アラヤは薄れていく。俺もそれを見送るまま、特に引きとめはしなかった。 「まったく……最後にタチの悪い」 だが、奴の言う通りではあるんだろう。俺が体験した歴史の記憶に倣うなら、二次大戦の始まりまで約十五年。その前哨戦に到っては、おそらく十年そこらの猶予もない。 あとそれだけで、破滅的なあの戦争を回避できる立場に俺は駆け上がることができるだろうか。現状、ただの軍学生でしかないこの俺が…… しかしかといって、再びアラヤと繋がるのは躊躇われる。先の覚悟を否定しかねいからというのも当然あるが、何よりも危険なのは邯鄲法の秘密が外部に流出してしまうこと。 かつて甘粕は言った。盧生の器などたいして希少なものではないと。 この時代、同じ日本の関東だけでも俺と甘粕の二人が存在していたくらいなんだ。他にも探せば適合者は多数いるし、そして時は動乱の世…… どんな国でも邯鄲を攻略しようとするだろうし、すでに始めているかもしれない。事実、キーラがそうだったように。 そして新たな盧生が生まれたとき、そいつに甘粕と同じ手が通じる保障はどこにもない。 「ああ、くそ」 つまり、まだ何も終わっていないわけだ。これから先も、様々なことが俺たちの未来には待っている。 それは分かった。分かったからこそ…… 「まずは、この今を噛み締めよう」 紛れもなく成した今回の成果。その尊さをしっかり俺たちが受け止めなければ、この先どんなことにも立ち向かえない。 だからひとまず、今後の諸々は棚に上げると言えば語弊になるが、目前のことからやっていくということで。 今、もっとも逢いたい奴のことを頭に思い浮かべながら、俺はアラヤの海から浮上していった。 「四四八、おい四四八――起きろって、お願いだから」 「無視すんなよ、答えろよ。どんなときでも目ぇ覚ましてるのがおまえの特技じゃないのかよ!」 「なんで、頼むよ……おまえがこのまま起きなかったら、あたし……」 そんな、心の底から望んだ声と温もりに抱かれたことで、俺は無事にアラヤの海からの帰還を果たす。 胸の上に覆い被さって泣いてる晶の頭を、俺はそっと撫でてやった。 「ぁ……」 「……悪いな晶、寝坊した」 「それで……今、何時だっけ?」 「う、ぅぅ、ううぅぅ……」 なんだか恥ずかしかったので意図的に少しとぼけてみたのだが、あまり意味はなかったらしい。晶は目にいっぱい涙を浮かべ、再び俺の胸に飛び込んできた。 「四四八ああああ、この馬鹿ああ、心配させんじゃねえよもおおおおおっ!」 「ああ、うん……悪かった」 言って、また頭を撫でてやりつつ、晶が落ち着くまでしばらくそのままにしておいた。こっちの意識も段々と正常に戻ってきたので、周囲の状況が確認できるようになってきている。 どうやら、夜はもう明けるらしい。俺たちは約束どおり、無事朝に帰ったんだ。 そのことを確認し、俺はゆっくりと上体を起こす。頬を撫でる海風の爽気が心地よかった。 「で、晶、もういいか?」 「うん、へへ……お帰り四四八」 「ああ、ただいま」 それで、その、最初のうちはまだ朦朧としてたから頭が回ってなかったけど、ここにいるのが晶だけってことはないわけで、なるべく視界に入れないようにしているが当然他の奴らも勢ぞろいしてる。 だから結構恥ずかしかったが、この際そういうのは気にしないでいこう。俺は努めてなんでもないように立ち上がって、他の奴らにも向き合った。 「四四八くん、ねえ四四八くん――起きようよ、お願いだから」 「ねえ、無視しないでよ。聞こえてるよね? いつも目が覚めてるのが四四八くんでしょ。ね、そうだよね?」 「でないとこんなの……四四八くんがこのまま起きなかったら、わたし……」 そんな、心の底から望んだ声と温もりに抱かれたことで、俺は無事にアラヤの海からの帰還を果たす。 胸の上に覆い被さって泣いてる歩美の頭を、俺はそっと撫でてやった。 「ぁ……」 「……悪いな歩美、寝坊した」 「それで……今、何時だっけ?」 「う、ぅぅ、ううぅぅ……」 なんだか恥ずかしかったので意図的に少しとぼけてみたのだが、あまり意味はなかったらしい。歩美は目にいっぱい涙を浮かべ、再び俺の胸に飛び込んできた。 「うわあああああん、四四八くうううん、よかったよおおおおっ! ほんとに心配したんだからねえええ!」 「ああ、うん……悪かった」 言って、また頭を撫でてやりつつ、歩美が落ち着くまでしばらくそのままにしておいた。こっちの意識も段々と正常に戻ってきたので、周囲の状況が確認できるようになってきている。 どうやら、夜はもう明けるらしい。俺たちは約束どおり、無事朝に帰ったんだ。 そのことを確認し、俺はゆっくりと上体を起こす。頬を撫でる海風の爽気が心地よかった。 「で、歩美、もういいか?」 「うん、えへへ……お帰り四四八くん」 「ああ、ただいま」 それで、その、最初のうちはまだ朦朧としてたから頭が回ってなかったけど、ここにいるのが歩美だけってことはないわけで、なるべく視界に入れないようにしているが当然他の奴らも勢ぞろいしてる。 だから結構恥ずかしかったが、この際そういうのは気にしないでいこう。俺は努めてなんでもないように立ち上がって、他の奴らにも向き合った。 「柊、ねえ柊ったら――起きなさいよ、聞いてるの?」 「無視すんじゃないわよ、答えなさい。どんなときでも目を覚ましてるのがあんたの特技じゃなかったの!」 「なのに、どうして……いやよこんなの。あんたがこのまま起きなかったら、私……」 そんな、心の底から望んだ声と温もりに抱かれたことで、俺は無事にアラヤの海からの帰還を果たす。 胸の上に覆い被さって泣いてる我堂の頭を、俺はそっと撫でてやった。 「ぁ……」 「……悪いな我堂、寝坊した」 「それで……今、何時だっけ?」 「う、ぅぅ、ううぅぅ……」 なんだか恥ずかしかったので意図的に少しとぼけてみたのだが、あまり意味はなかったらしい。晶は目にいっぱい涙を浮かべ、再び俺の胸に飛び込んできた。 「この馬鹿あああ、余裕こいてんじゃないわよアホおおおおお!」 「ああ、うん……悪かった」 言って、また頭を撫でてやりつつ、我堂が落ち着くまでしばらくそのままにしておいた。こっちの意識も段々と正常に戻ってきたので、周囲の状況が確認できるようになってきている。 どうやら、夜はもう明けるらしい。俺たちは約束どおり、無事朝に帰ったんだ。 そのことを確認し、俺はゆっくりと上体を起こす。頬を撫でる海風の爽気が心地よかった。 「で、我堂、もういいか?」 「ええ、うん……お帰りなさい柊」 「ああ、ただいま」 それで、その、最初のうちはまだ朦朧としてたから頭が回ってなかったけど、ここにいるのが我堂だけってことはないわけで、なるべく視界に入れないようにしているが当然他の奴らも勢ぞろいしてる。 だから結構恥ずかしかったが、この際そういうのは気にしないでいこう。俺は努めてなんでもないように立ち上がって、他の奴らにも向き合った。 「柊くん、ねえ柊くんったら――起きてよ、お願いだから」 「答えて、聞こえてる? 私ここにいるよ? 柊くんが頑張ってくれたお陰で、私はここにいるんだよ?」 「なのに、どうして……柊くんがこのまま起きなかったら、私……」 そんな、心の底から望んだ声と温もりに抱かれたことで、俺は無事にアラヤの海からの帰還を果たす。 胸の上に覆い被さって泣いてる世良の頭を、俺はそっと撫でてやった。 「ぁ……」 「……悪いな世良、寝坊した」 「それで……今、何時だっけ?」 「う、ぅぅ、ううぅぅ……」 なんだか恥ずかしかったので意図的に少しとぼけてみたのだが、あまり意味はなかったらしい。世良は目にいっぱい涙を浮かべ、再び俺の胸に飛び込んできた。 「もおおおおお、起きてるんなら起きてるって早く言ってよ、ほんとに心配したんだからああああっ!」 「ああ、うん……悪かった」 言って、また頭を撫でてやりつつ、世良が落ち着くまでしばらくそのままにしておいた。こっちの意識も段々と正常に戻ってきたので、周囲の状況が確認できるようになってきている。 どうやら、夜はもう明けるらしい。俺たちは約束どおり、無事朝に帰ったんだ。 そのことを確認し、俺はゆっくりと上体を起こす。頬を撫でる海風の爽気が心地よかった。 「で、世良、もういいか?」 「うん、ふふ……お帰り柊くん」 「ああ、ただいま」 それで、その、最初のうちはまだ朦朧としてたから頭が回ってなかったけど、ここにいるのが世良だけってことはないわけで、なるべく視界に入れないようにしているが当然他の奴らも勢ぞろいしてる。 だから結構恥ずかしかったが、この際そういうのは気にしないでいこう。俺は努めてなんでもないように立ち上がって、他の奴らにも向き合った。 「おまえたちにも心配かけたな。とにもかくにも、全員無事でここにいる」 「それが今はただ嬉しい。だから言わせてくれ、ありがとう」 言って、俺が頭を下げると、間を置かずに元気な笑い声が返ってきた。 「ばーか、そりゃこっちの台詞だよ」 「ほんと、殊勲のおまえがいきなり畏まんなよな。そんなんされたら、オレらどうすりゃいいっていうんだよ」 「でも、ほんと四四八くんらしいよね」 「ま、別にいいんじゃない? ここで逆に、どうだ俺様のお陰だぞ感謝しろ――とかってふんぞり返られたら腹立っちゃうし」 「あははっ、けどそれも結構やりそうな感じするよね」 「ぶは、だよな言えてっかも」 「おまえらな……」 さすがにそこまで偉そうな奴じゃないと思ってはいるんだが、こいつらの中で俺はどういうイメージになってるんだよ。本当に今さらながらだがそのへん問い詰めたくなってきた。 「つーか鈴子、それよりさあ、あたし的にはおまえがこのタイミングで顔芸カマしたらどうしようって不安のほうがデカかったぜ。なんかいかにもやらかして、色々ぶち壊しにしてくれそうな感じすんじゃん」 「してないわよ」 「いや、それしてっから」 「ベッタベタだな、おい……」 「りんちゃんは期待を裏切れない子なんだよ」 「しかもあんまり応えたくないほうの期待にばっかりね」 などとまあ、どいつもこいつも疲れ知らずで元気がいい。 俺がアラヤとの接続を切ってしまい、結果としてこいつらも全員夢を使えなくなってしまったことは当然分かっているんだろうが、それをおくびに出さないのは野暮な話だと皆が思っているからだろう。 実際、この先どうなっていくか分からないが、今はただ勝ち取った朝をこいつらと共に祝おう。 そして、未来に真摯でいよう。再びあの百年後に辿りつけるように。 戦真館から千信館へ、そうだよな。またこの全員で集まれるように。 そう思ったから、俺は再び――いいや三たびか、ここで誓いを立てることにした。 「おっ、いまあたし、四四八の考えてること分かっちゃった」 「わたしもー、びびっときたもんねー」 「もはやテレパシーなんか要らねえ域で通じ合ってんよな、オレら」 「いや私、あんたの考えてることだけは分かりたくないんだけど」 「減らず口たたいてんなよ、鈴子」 「ほら柊くん、あれやるんでしょ? 音頭とって」 「まったく、おまえらは本当に……」 阿吽の呼吸が何人そろってるんだと苦笑して、俺は昇っていく朝日を透かすようにしながら右手を掲げた。 そして、皆がそこに拳を合わせる。 「なんていうか、色んな気持ちが溢れてきて上手く言葉がまとまらないが、確かなことは一つだけだ。俺はおまえたちに会えてよかった」 「なぜなら比喩も誇張も抜きにして、これほどの時間と密度を共有した関係は他に絶対有り得ないから」 「もう、少々どころの腐れ縁じゃないんだよ俺たちは。そのへん、勘弁してくれって奴はいるか?」 「うんにゃ、全然」 「私はまだまったく飽きてないし」 「むしろようやくおまえらに慣れ始めたくらいだわ」 「オレのエイコーな物語もまだ終わんねえよ」 「むしろまだ始まってもいないし」 「つまり、これからは未来?」 「そういうことだ」 今、俺たちは朝に帰り、これからは進んでいく。 未来へ、幾つもの歴史を越えてきた者としての誇りを持って。 「百年後の千信館に、見事未来が繋がるように――」 「今度はそこを、皆で目指そう。戦真館から千信館へ」 「これが俺たちの―――」 偽り無く胸にある〈真〉《マコト》の誓い。 だから全員で乗り越えよう。どんな激動の世の中も。 「トラスト&トゥルース!」 唱和する声と共に、あの未来と同じ朝日が俺たちを包んでいた。 「なあ四四八、おまえ本当にその格好でよかったのか?」 本日、何回目になるのか分からない同じ質問にいい加減辟易しつつも、まあこいつの言いたいことも理解は出来るので俺は律儀に返答する。 「結局、俺たちにとっての正装って言えばどうしてもこれだからな。お互い洒落っ気があるクチでもないし、これでいいんだよ」 「そっかぁ、でもなあ……おまえはともかく、やっぱ女のほうはもうちょっとこう、常識的にも華やかにさあ」 「うるせえなあ、おまえは。柊たちがいいって言ってんだからいいじゃねえかよ。〈他人事〉《ひとごと》にあんまり首を突っ込むな」 「そりゃそうだけどよぉ……でも鳴滝さあ、おまえみたいな大馬鹿野郎に四四八も言われたくないんじゃねえの?」 「あん、なんだそりゃ?」 「なんだっておまえ、百合香さんだよ。百合香さん」 「なんであんな美人、逃がしたんだよおまえ。もう一歩でも踏み込めば何かが変わったのかもしれねえじゃん。マジに正気を疑うわ。野枝さんだって呆れてたぜ」 「はあ? それを言うならてめえのほうこそ――」 「やめろ、鳴滝」 うっかり突っ込みを入れかけたのは俺も同じだが、すんでのところで静止できた。今の栄光に対し、その先を言ってはいけない。 震災を鎮めるためにこいつが何を犠牲にしたのか知ったときは皆が呆れ、ぶん殴ってやろうかと思ったものだが、腹立たしいことに気持ちは分かるので結局何も言うことが出来なかった。 栄光と野枝はお互いのことを綺麗さっぱり忘れていた。その後に改めて知り合うという形を俺たちが設け、実際今もそこそこに仲はいいようだけど、そこから何かが進展することはきっとない。 二人の間に存在した恋愛感情。そしておそらく、そういう未来に到る因子までも根こそぎにして、こいつらは空亡に捧げたのだ。結果として、野枝と栄光が結ばれるという展開だけは訪れそうにない。 龍神鎮めという奇跡。本来なら関東が灰燼に帰していただろう大震災を防いで対価だ。冷徹に客観的な見方をした場合、もしもは絶対に起こらないと断言できてしまう。 しかしだからこそ、こいつらの未来を代償に得た今を受け止めるためにも、俺たちはそれぞれの幸せを真摯に掴むべきなんだと考える。そういう意味では、鳴滝に文句をつける栄光の気持ちも分からんではない。 俺の考えていることを目で察したのか、バツ悪げにしている鳴滝に問いを投げた。 「で、おまえは結局、そのへんのところどうなんだ?」 「……別に。俺にも色々、あるんだよ。くそ」 「おまえらの言いたいことは分かってるけど、単にガキみたいな意地張ってるわけじゃねえ。これは俺なりの筋って言うか……」 「幽雫さんか?」 「……ああ。あいつがあそこまで拘ったことだ。酌んでやりてえし、見極めなきゃいけねえことも多いだろ」 「少なくとも、あいつが死んだからはいそれじゃあって……そんなの、あの馬鹿女だって望んでなんかいないだろうぜ」 「確かにな」 そう言われれば、そうかもしれない。 「ふーん。なんかよく分かんねえけど、面倒くさいことやってんだなあ。好いた惚れたとか、もっとすぱっと単純なもんでいいと思うぜ」 「だからてめえにだけは言われたくねえって――」 「おーっす。どうだ、そっちは準備、終わったか?」 「みっちゃんとかもう、すっごい綺麗な感じだよー」 「いやでも、見た目的には普段どおり変わんねえだろ」 「雰囲気っていうのがあるのよ、馬鹿。女は化けるの。あんたも覚えておくのね、大杉」 そんなこんなしている間に、どうやら時間が近いらしい。俺は立ち上がって、今日集まってくれたこいつらに頭を下げた。 「聞いてくれおまえたち。そういうわけで俺は今日から、世良と一緒に歩いていく。今まで本当に世話になったし、これからもなるだろう。だから、ああ、なんていうかな……」 改めて口にすると、凄まじく恥ずかしいな。しかも、告げる相手が相手だ。 「さすがの四四八も、ちょっとバツが悪いってか?」 「まあ、しょうがねえわな。おまえこれ、実際何回目の結婚だよ」 そこを言われると、まったく何も言い返せない。これではまるで、俺がどうしようもない女たらしみたいではないか。 恐る恐る目を向けると、晶たちはにやにや笑っていやがるし。 「いやあ、もう、一周回って笑っちゃうっていうか、もはや母ちゃんの境地だよあたしは」 「ほんとにねえ。別に気なんか遣わなくていいのにさ」 「水希も似たような態度取ってたから、ばしっと言ってやったわよ。いい加減に鬱陶しいからやめなさいよね」 そして、皆を代表するように晶が続ける。 「四四八、おまえと一回も結ばれてないのは水希だけだ。だから今度は、しっかりあいつを幸せにしてやれ」 「あたしらは、それで充分満足だよ。思い出なら、もう一杯貰ったからな」 「ちゅうわけでぇぇ、ほら行くぜぇぇっ!」 「ちょ、ま――押すな馬鹿っ」 この結婚式を始めるべく、俺は世良を迎えに行ったのだ。 「う、うぅ……なんかごめん。お腹痛いよ」 「心配するな。俺も貧血を起こしそうだ」 本当に、どうしてこんなに緊張しているんだろう。世良はともかく、俺は言ったようにこれが初めての式ではないというのに。 神前に二人並んで、何か祝詞的なあれこれを言われているのは分かるんだが、まったく耳に入ってこない。 ちくしょう、俺はここまで三枚目みたいな奴だったか? 「後ろで大杉くんたちが笑い噛み殺してるよ……」 「本当にな。なぜかそんなことだけは分かってしまう。あとでシメよう、腹立ってきた」 「私も手伝う」 「そう考えると、動きやすい格好にしといてよかったな」 「うん。それだけは正解だったよ」 この場において、俺たちは結婚式らしい紋付袴でも白無垢でもなく、戦真館の制服姿を選んでいた。 すでに卒業している身なので色々奇異に見られはするのだろうけど、新しい門出を迎えるならやはりこの格好がしっくりくる。 なぜなら式場も、戦真館の集会場を借りているのだ。ゆえに栄光たちも付き合って、制服姿のまま参列している。 それらすべては、世良信明への慰霊と鎮魂……戦真館に入りたかったという彼のため、俺たちの結婚式と並行して、入学式の態も取っているのだ。偽善的ではあるのだろうけど、その気持ちを出会えなかった同期生の霊前に捧げたい。 特に説明はしなかったが、世良も分かって、喜んでくれているはずだと思う。 「ねえ、ところでさ……ひとついいかな?」 「うん?」 そんなことを考えているとき、傍らの世良が小声で言ってきたので、俺は耳を傾けた。 「今日から私たちは、その、夫婦なんだし……そろそろ世良って呼び方はどうかと思う」 「ああ、そりゃまあ……」 確かにそうだ。 「けど、それを言うならおまえも柊くんって言うのはやめろよ」 「そこを言われると……そりゃ分かってるけど、なんか今さら恥ずかしくて、だからその」 「一緒に言うか?」 「うん」 相変わらず、式の内容自体はまったく耳に入ってこない。だからこっちはこっちで勝手にしよう。 無作法どころの話じゃないが、あくまで今日の主役は俺たちなんだし、それくらいは調子に乗っても許してくれよということで―― 「水希」 「四四八」 俺たちは互いにそう呼び、見詰め合って。 「好きだよ」 「私も」 このすべての発端となった戦真館で、〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》を育んでいこうと、そう思う。 「そのようにして我々の先達は誇りを抱き、この今に続く〈真〉《マコト》を遺してくれました」 「それは皆さんにとって、ただの昔話かもしれません。無論わたくしにしましても、百年近く以前のことを、当事者であった方々と同じ密度で感じられてはいないでしょう。見てもいないものを分かった気になって口にするのは、傲慢であると弁えているつもりです」 「ただ、少しばかり偉そうに言わせて貰えば、わたくしは母校の歴史をこの血の中に感じています。辰宮の家に生まれた者として、それは義務だと考えているからに他なりません」 「そしてそのことは、きっと何も特別ではないのでしょう。皆さんの中にもわたくしと同じく、それぞれのご両親や両祖父母、さらにその遥か先から続く想いが、脈々と受け継がれているはずです」 「ゆえにどうか、そのことを常に忘れないでいてください。我々はある日突然、たった一人で生まれたのではないということ。父祖から様々なバトンを受け継ぎ、今ここにいるのですから」 「そしてもちろん、次の世代に渡すものもしっかり育んでいきましょう。何も難しいことではありません。ただ、日々の諸々に真摯であること。肝心なのは、それだけです」 「よく学び、よく遊び、よく笑い、よく泣きましょう。それをこの皆で共有し、我々が紡ぐ歴史としましょう」 「格好が良い悪い。イケているイケてない。それくらいの感性でいいのです」 「今、自分は恥ずかしいことをしていないか? 胸を張って自分自身を誇ることが出来ているか? そう自問する心を失わなければ、きっと誰も道を誤ったりしない」 「大事な人の気持ちを信じることが出来なかったり、自分に価値はないと諦めてしまったり……そんな馬鹿げた、悲しいことはないのですから」 「とても格好が良かった先達の示す道が見える。光り輝き、子弟が迷わぬように照らしてくれる。それはときにプレッシャーではありますけれど、この我々だって負けてはいない」 「リレーの走者が代わる度に、足が遅くなるのではつまらないから。前にも後にも、認められる世代でありたいと強くわたくしは思っています」 「なぜなら、それこそが継ぐということ。〈戦〉《イクサ》の〈真〉《マコト》は〈千〉《アマタ》の〈信〉《イノリ》に顕現する」 「戦真館から千信館へ。受け継がれたバトンを誇りとして、どうか穢すことなどないように」 「本日より同じ学び舎に席を置くことになる仲間として、皆さんはきっと分かってくださるでしょう」 「これをもって、新入生への歓迎の挨拶とさせていただきます」 「第八十二代目筆頭、生徒総代――辰宮百合香」 「この学園の創始者である曾祖母の名を継いだ者として、最後に一つ言わせてください」 「皆さん、入学おめでとう。千信館へようこそ」 そうして、鳴り響く万来の拍手と共に、俺たちの入学式は幕を閉じた。 いや、その言い方は何かおかしいのかもしれないな。だって幕は、まさにこれから上がるのだから。 「しゃあっ――やっと実感してきたぜ。これでオレらも千信館の学生だ。もう勉強しなくていい!」 「気持ちは分かるが、おまえあんま調子こいてると速攻留年しちまうぞ」 「その通りだな。むしろこれからが本番なんだと思っとけよ。俺も毎度毎度は助けんからな」 「てなんだよおまえら、人がテンション上げてるときに水ぶっかけるようなこと言うなよなあ」 「おまえはすぐそうやって浮かれたあとにポカるんだからしょうがねえだろ」 「ねー、だって栄光くんが入学できたのなんて、ほとんど奇跡の領域だし」 「そのへんについては、あんたらも似たようなものでしょう。まったく、ほんとにそろいもそろって、手間かけさせてくれたわよ」 「でもみんなこうやって、無事入学できてよかったよね。実際まあ、受験前の勉強大会は凄いものがあったし」 「四四八はほんと、おまえスパルタすぎんだよっ! オレなんか四徹強制されたんだぞ。死ぬわ普通」 「そこまでされなきゃやばくなる自分の学力の無さを呪え馬鹿者」 などと鼻であしらいつつも、世良の言う通りこうして全員が入学できたことを嬉しく思う。 俺たち、全員が幼なじみ。聞くところによると曽祖父の代から続く筋金入りの腐れ縁で、今さら離れ離れになることなんかちょっと想像もできなかったから、自然と皆が〈千信館〉《ここ》の入学を目指したんだ。 なぜなら件の曽祖父さんたちもこの学園で出会ったらしいし、なら俺たちもという気持ちは当たり前に持っていた。それは先ほど、入学式で生徒総代の人が言っていたこととも合致する。 辰宮百合香……彼女の曾祖母とやらも、俺たちのご先祖様と何か繋がりがあったりするんだろうか。もし仮にそうだったら、面白いと思う。 「でまあ、ともかくこれから色々始まるのは確かなわけだし、区切りって言うのか? 大杉じゃねえが、ぱーっといくなら確かにこのタイミングになるんじゃねえの」 「明日っからは、これまでとは違う毎日になるわけだしな。逆に言やあ、これまで通りでいけるのは今日が最後って見方もある」 「おー、鳴滝、なんか珍しくノリがいいじゃん。でも言われてみると、その通りなのかもしんないな」 「よーっし、じゃあこれからみんなで、あっちゃんの家にお蕎麦を食べに行こー!」 「それ、めっちゃいつも通りじゃない」 「いっそのこと、水希んち行ってノブと遊んでるほうがまだ建設的だわ」 「私は正直、あまり大杉くんみたいなのとあの子を関わらせたくないんだけど」 「ちょ、おま、水希っ――そりゃいったいどういうことだよ!」 「言葉通りの意味だろ、馬鹿」 「とにかく」 「なんでもいいから移動するぞ。入学早々、こんなところでごちゃごちゃやってて、学校に迷惑をかけるわけにもいかない」 「分かったな?」 「ういーっす」 と言って皆を促し、校門を出ようとしていた寸前のこと。 「ん――?」 くい、と微かに袖を引かれて、俺は振り返った。 そこには…… 「えっと、まあなんだその……改めて入学、おめでとう」 「おまえもな」 なんだか歯切れ悪い感じでもごもご言ってる晶がいた。 その顔が妙に赤く染まって見えるのは、舞い散る桜吹雪のせいなのだろうか。 「どうした、俺に何か話か?」 「うん。その……話っていうか、そりゃ確かに、話なんだけども」 すでに栄光たちは校門の外まで出て行っている。だから置いていかれるかたちで二人残された俺と晶は、なんだか妙な感じになっていた。 「さっきほら、鳴滝が言ってたじゃん? 今日から新しい日が始まるわけで、それ逆に言うと、これまでの日は今日で最後なわけで」 「区切りっちゅうか、ケジメみたいな? あたしもそういうの、ちょっと意識しちゃったわけなんだよ。分かるだろ?」 「…………」 すまん晶。さっぱり分からん。 とでも言えば、なるほどこれまで通りの日々が続くのかもしれない。 だけど今日は新しい門出の日で、未来を祝う特別な日だ。 そんなときにこの俺が、新たな変化を恐れるわけがないだろう。 ましてこの千信館で、曽祖父さんたちが過ごし、戦ったという学び舎に見下ろされ、自分に嘘をつくことなどまったく無理な相談でしかない。 だから俺も、区切りと言うかケジメをつけるよ。 「なあ晶、聞いてくれ」 「今まで言ってなかったけど、うちの家には一つ家訓があるんだよ」 「え……?」 「好きな女が出来たときは、そいつに対して言葉を惜しむな」 言わなくても分かるだろうなんて、男気を勘違いしたような主義は要らない。 俺たちの世代からしたら結構当たり前の価値観なのかもしれないけど、百年くらい前からそんなことを言っていたらしい曽祖父さんは、もしかしたら結構なプレイボーイだったんじゃないだろうか。 そう思ってちょっと可笑しくなりながらも、舞う桜の中で誰かにそっと、優しく背中を押されたような気がして、自然に…… 「俺はおまえが―――」 常に愛する人を思いやれ。 仁の家訓に違わぬよう、俺はその気持ちを告げていた。 「えっと、あのね四四八くん……改めて入学、おめでとう」 「おまえもな」 なんだか歯切れ悪い感じでもごもご言ってる歩美がいた。 その顔が妙に赤く染まって見えるのは、舞い散る桜吹雪のせいなのだろうか。 「どうした、俺に何か話か?」 「うん。その……話っていうか、まあ実際、そうなんだけども」 すでに栄光たちは校門の外まで出て行っている。だから置いていかれるかたちで二人残された俺と歩美は、なんだか妙な感じになっていた。 「あのさ、わたし結構、頑張ったよね?」 「全然自慢になんないけど、勉強やばいのはわたしと栄光くんがツートップだったわけで、四四八くんやりんちゃんやみっちゃんに凄い迷惑かけたけど、でもちゃんとやりきったよね?」 「まあ、それはな」 そこらへんは言われるまでもなく、俺だって認めている。こいつと栄光は確かにかなりの危険域にあったので容赦なくスパルタしたが、それでも最終的にやるかやらないかは本人の器量だ。 そういう意味で、歩美は確かに頑張っただろう。誇っていいし、褒めることに抵抗もない。 「だから四四八くん、ご褒美ちょうだい」 「これからもずっと、わたしが四四八くんと一緒にいられるように」 「頑張れるパワーください。お願いしますっ」 「…………」 またこいつ、随分とこりゃ直球だな。 けど、こんな風に度胸があるところはこいつらしいし、加えて言えば、俺の気持ちを分かってなければ先の台詞は出てこないだろう。 まったく、なんだかんだでよく見てる奴だよ。あるいは単に、俺が分かり易いだけなのか? 「さっき鳴滝が、結構いいこと言ってたよな。今日は区切りになる日だって」 あるいはケジメか。何にしろちょうどいい日と言えるだろう。 死ぬにはいい日だ――とはどうやらならなさそうなので、安心と言えば安心だし。 いやもちろん、仮に死ぬ羽目になるとしてもここまできたら言うけどな。 「分かったよ。今まで言ってなかったけど、うちにはこういうときの家訓もあるし」 「家訓……? なにそれ?」 「好きな女が出来たときは、そいつに対して言葉を惜しむな」 言わなくても分かるだろうなんて、男気を勘違いしたような主義は要らない。 俺たちの世代からしたら結構当たり前の価値観なのかもしれないけど、百年くらい前からそんなことを言っていたらしい曽祖父さんは、もしかしたら結構なプレイボーイだったんじゃないだろうか。 そう思ってちょっと可笑しくなりながらも、舞う桜の中で誰かにそっと、優しく背中を押されたような気がして、自然に…… 「俺はおまえが―――」 常に愛する人を思いやれ。 仁の家訓に違わぬよう、俺はその気持ちを告げていた。 「えっと、まあほら、あれよ……改めて入学、おめでとう」 「おまえもな」 なんだか歯切れ悪い感じでもごもご言ってる我堂がいた。 その顔が妙に赤く染まって見えるのは、舞い散る桜吹雪のせいなのだろうか。 「どうした、俺に何か話か?」 「うん。その……話っていうか、あんた忘れてんじゃないでしょうね」 すでに栄光たちは校門の外まで出て行っている。だから置いていかれるかたちで二人残された俺と我堂は、なんだか妙な感じになっていた。 「受験で、どっちが主席取れるかって勝負することになったじゃないの。覚えてるでしょ?」 「ああ。例によって俺の勝ちだったな」 「そうよ。だからムカつくけどあんたの言うことを聞いてやるわ。そういう約束の勝負だったし」 「ほら、早く、さっさとしてよね。何言ってくるか知らないけど、晶たちに見られたら鬱陶しいんだから、今のうちに」 そんな風に、妙なところで公正なこいつが、そわそわしながら急かしてくる様が面白かった。 「分かったよ。じゃあ命令一つだ。次の質問には素直に答えろ」 「我堂、おまえ好きな男いるか?」 「へあっ?」 「ここで顔芸しなかったことは褒めてやる。だが質問には答えろ。三秒以内だ。二・一……」 「ちょ、ちょ、ちょま――なんであんたいきなりそんなこと」 「ぜーーーーーーーーー」 「あばばばばばばばばばばばばばばばば」 こら、粘るなよ。俺の肺活量が限界に近いだろ。 「い、いいい、いるわよ。いるったら! それどうしたっていうのよ、このすっとこどっこい!」 「凄いな、おまえ。すっとこどっこいなんてリアルで言った奴初めて見たぞ」 「う、うるさいわね。あんたはどうなの?」 「なぜ勝負に勝った俺が答えなければいけないんだ」 「はあああっ、ほんとあんたって奴はムッカつくわねえ!」 とかまあ、弄るのはこれくらいにしておこう。 正直言うと、今回の勝負は負けてもよかったんだけど、こいつは例によって詰めが甘いところを遺憾なく発揮してくれたからこんなことになっている。 もちろん俺は手抜きなんかしていないが、そろそろ勝ってほしいところだ。でないとこっちもタイミングってやつが掴めない。 だから、もはや焦れてしまったのは俺なわけで。 そういう意味じゃあ、こっちの負けと言えなくもないのかな。 「じゃあ我堂、一ついいことを教えてやるよ。うちの家訓だ」 「家訓……?」 「好きな女が出来たときは、そいつに対して言葉を惜しむな」 よって今、焦れてしまった俺は降参の意味も込めてそれを実行しようと思う。 言わなくても分かるだろうなんて、男気を勘違いしたような主義は要らない。 俺たちの世代からしたら結構当たり前の価値観なのかもしれないけど、百年くらい前からそんなことを言っていたらしい曽祖父さんは、もしかしたら結構なプレイボーイだったんじゃないだろうか。 そう思ってちょっと可笑しくなりながらも、舞う桜の中で誰かにそっと、優しく背中を押されたような気がして、自然に…… 「俺はおまえが―――」 常に愛する人を思いやれ。 仁の家訓に違わぬよう、俺はその気持ちを告げていた。 「えっと、なんていうか柊くん……改めて入学、おめでとう」 「おまえもな」 なんだか歯切れ悪い感じでもごもご言ってる世良がいた。 その顔が妙に赤く染まって見えるのは、舞い散る桜吹雪のせいなのだろうか。 「どうした、俺に何か話か?」 「うん。その……話っていうか、ちょっと相談なんだけど」 すでに栄光たちは校門の外まで出て行っている。だから置いていかれるかたちで二人残された俺と世良は、なんだか妙な感じになっていた。 「私の弟、いるじゃない? なんかあの子、最近好きな子が出来たみたいで、色気づいてきちゃった感じなのよ」 「へえ……」 それはまた、めでたいと言うか面白そうな話だった。 しかし、そんな晴天の霹靂みたいに言うことだろうか。別にまったくおかしなことではないだろうに。 「ねえ、聞いてるの柊くん」 「ああ、そりゃ聞いてるけど。なんだよ世良、お姉ちゃん的には寂しくなったっていうことか?」 「それは確かに、少しはあるけど……なんか焦るって言うか、分かるでしょ」 「はあ?」 「だ、か、らあ、私の威厳の問題なのっ! だってあの子ったら、最近私のこと見て鼻で笑ったりするんだよ? ふん、おまえはまだその程度か、みたいな」 「ほんともう、全然可愛くないんだよおおおっ!」 このブラコンが、とは言わず胸のうちにしまっておく。 そもそも、そんなことを俺に相談してどうしろと言うんだよ。 まったくこっちの与り知らない怒りに燃えて、地団駄踏みながらムキーとやってる世良が痛々しすぎるから、俺はぼんやり空を眺めて世の成り立ちについてなどを考えていた。 「そういうわけで、ちょっと柊くん協力してよ」 「今から私たち、彼氏と彼女ってことにするからよろしく」 「は、なにっ?」 「だって柊くん、私のこと好きだよね?」 こいつは何を言ってるんだ。 「私も好きだし。うん、問題ないじゃん」 「さっき鳴滝くんが言ってたように、今日は区切りとしてちょうどいいもん。いい加減に白黒はっきりさせたいとも本音のところ思ってたし」 「要はこれまで、そういう形式を取ってなかったっていうだけの話でさ、私たちはとっくの昔に、奴の遥か先をいってるのよ。お姉ちゃん舐めんなっていうねっ」 「いや、いやいや待てこらおまえ、何か凄く間違ってるっ」 もしくは、俺が間違ってるというか間違ったのか? マジにもう色々と一瞬でぶっ壊されてしまった気がするぞ。 だが慌てふためく俺をよそに、世良はぐいぐいこっちの腕を引っ張ってくる。 「今度うちの家に呼ぶからさ、そのときばしっと親とか奴の前で決めてやろうね柊くん。ああもちろん、私も恵理子さんたちに挨拶するから」 「よーっし、これから新しい毎日が始まるぞー!」 なあ、頼むからちょっと待てよ。 「おまえ、ノリで言ってんじゃないだろうな?」 「え? 何言ってるの、本気だよ。嫌だな」 「いくらなんでもこんなこと、冗談で言うわけないじゃない」 「…………」 「信じられない? 私たち、今日から千信館の学生なんだから分かるでしょ」 「いや、それは、まあ……」 ちくしょう。そういう風に来るかよここで。 〈信じる〉《トラスト》……なるほどね。くそったれ。 「ほらー、そんな苦虫十匹くらい食べちゃったような顔しないでー。このままみんなに報告とかもしちゃおうよ」 「ねー、晶ぁー!」 「――おおおぉい、おまえちょっとさすがに待てぇっ!」 そういえば、誰かが言っていたような気がするな。 今は女が強い時代。 とかそういうことを、この馬鹿野郎。 「……分かった、負けだ。もう好きにしてくれよ」 舞い散る桜の色に染まった千信館の校舎からも、なんだか俺は笑われているような気がしてしまった。